鳥飼潟塩屋松の下の合戦 いつも蒙古襲来絵詞の絵を見て最近、一つの調査結果と仮説を立ててみました。 @鳥飼氏および鳥飼城 鳥飼氏は古事記、日本書記に出て来る鳥飼部の祖である天湯河桁命で、その子孫は筑前早良郡に住し,神功皇后が三韓を親政して凱旋した折に早良郡平山の鳥飼黒主の館に立ち寄った。。 そして鳥飼氏の人々は神功皇后に夕食を餐伴奉っている。 その後後裔が、その地に社を建てた(現鳥飼八幡宮)である。 やがて鳥飼氏は神職となるが、干戈(戦さ)に明け暮れ武士団を形成する。 南北朝か室町時代初期に早良郡村中に陣屋(城)を)を築き、戦国時代に高橋紹運に攻められ落城した。その際城主鳥飼宮内小輔氏勝と嫡男は戦死した。 三男もしくは四男は当時2歳で早良郡石釜に逃れ、後年鳥飼源左門尉康秀、のち入道して萬休と名乗り明光寺を開基した。 萬休(康秀)の家系は長男2世萬休(住職系鳥飼氏)と次男善次(庄屋系鳥飼氏)の2系統となり現在も続いている。 A蒙古襲来絵詞 有名な蒙古襲来絵詞は鎌倉後期のもので作者不明。 肥前の御家人竹崎季長が元寇における自分の活躍を描かせたと言われている。 最初の部分では、モンゴル軍が槍や弓矢を仕掛け、馬上の竹崎季長は血を流し負傷している。その後ろに松が描かれており、これが鳥飼潟塩屋の松と考えている。 またこの松の木が枯れた時に、近くにある埴安神社に社額として奉納されているとも聞いています。 更に絵を調べていると、石垣のある絵がある。 馬に乗った武将と従者が描かれていて歩いているのは鳥飼潟(干潟)と考えており石垣(護岸の上には松の木があり侍が多数いる。 描かれていないが、その後ろに鳥飼城(現在の区役所水防倉庫)があったと推察している。 周辺の地名とし鳥飼は別として塩屋の地名は残っていませんが、「塩屋橋」として橋に名が残り、周辺では今でも干潮になれば干潟が見れます。 別投稿記事より引っ越してきました。 この投稿は、どうか皆様の目に留まりますように。意見を聞かせてください。