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 投稿番号:101952 投稿日:2023年07月02日 07時00分38秒  パスワード
 お名前:丸に三柏服部さんの代理
纏め:『富士”隠れ南朝”史』(加茂喜三著)

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101930_83.html

レス[82]丸に三柏服部さんからのコメント(2023年07月01日 18時19分13秒 )より


『富士”隠れ南朝”史』(加茂喜三著)

一 今川氏の南朝潰し
     宗良親王 井伊谷城へ入る 229
     三度敗れた今川範国 232
     今川氏、南朝潰しに命運賭ける 233
     井伊谷城に危機迫る 236
     ”騙し戦術”に乗せられた今川泰範 240
     今川泰範、またも負けて遁走 243
     富士見城と井出氏 245

二 富士”隠れ南朝”の壊滅
     十万余騎、富士谷に攻め込む 250
     尹良親王、寺尾城を発って帰らず 253
     良王の三河遠征 256
     第二の”隠れ大本営”建設の夢 258
     良王は津島神社の神主となる 262

三 皇胤、地に潜む
     ”隠れ南朝”の巣となった津島 266
     平井加賀守広利の探索 268
     ”隠れ南朝”第三ファミリー 271
     津島神社の祭礼と舟の縁起 273
     ”隠れ南朝”の富士三十六党 275
     良王は七十八歳で生涯を終る 277
     尹良親王の二人の王妃とその子 278
     良王の孫が信長の妹を娶る 279
     蜂須賀氏も皇胤だった 282
     大江氏は皇胤を擁して長州へ 284

四 今川義忠の横死
     今川範忠、天下の副将軍となる 290
     ”隠れ南朝”に狙撃された義忠 293
     横地四郎兵衛の最後 297
     二俣弾正、義忠を討ち取る 299
     勝間田氏も井伊一族 300

五 ”隠れ南朝”の天皇
     尊良親王即位して東山天皇を称す 303
     守永親王が正統二代天皇となる 306
     遠江で活動した小松天皇 307
     神増原御用邸の御陵 309
     「京丸」を御所とした松良天皇 313
     ”悲恋”伝説を残した京丸 316
     京丸で誕生した大宝天皇 318

六 梟雄北条早雲の出現
     勝間田氏、氏親をなぶる 321
     朝比奈備中守泰煕の築城 323
     ”隠れ南朝”を放浪した早雲 327
     北条早雲、小倉山に築城す 330
     富士浅間に捧げた”怪”願文 331
     富士の三王と二心なき南朝遺臣 333
     ”隠れ天皇”となった皇正四代 335
     ”三種神器”どこへ消えた? 339
     元良親王と松竹梅三親王の末路 341

七 ”菊の一揆”(上)
     三遠地方に変乱あいつぐ 343
     二俣城に起った奇怪な出来ごと 349
     われ将に西遠に事あらんとす 349
     総大将は大河内備前守貞綱 352
     氏親、自ら兵を率いて遠江へ 355
     今度は斯波義達が押し入る 357
     氏親、笠井に本陣を置いて戦う 359

八 ”菊の一揆”(下)
    “隠れ南朝”曳馬城を奪還 363
     織田広信ら曳馬城を攻める 366
     義達、薙髪して尾州へ帰る 370
     余燼なお三・遠の野に燻る 372
     ”菊の一揆”甲斐にも飛火 375
     北遠に巣食った”隠れ南朝”の暗躍 377
     なお続く”隠れ南朝”のゲリラ戦 379

九 桶狭間の奇襲
     北遠の被官や百姓が逃げ出す 383
     井伊直満、直義兄弟の自刃 385
     井伊直親、十二年の隠忍 388
     今川義元、上洛を志す 391
     信長の背後に”隠れ南朝”がいた 393
     テキストは”塩買坂の一撃”だった 396
     服部小平太は伊賀守の子孫 400
     毛利新助は熱田大宮司家の出 402
     桶狭間の変は”隠れ南朝”の怨念 403

十 家康は”隠れ南朝”の傀儡
     三浦義鎮に篭絡された氏真 406
     氏真は逃げて掛川城に走る 409
     運命に翻弄されて長じた家康 411
     「三忠譜代」はすべて”隠れ南朝” 414
     ”隠れ南朝”競って駿府に集まる 416
     豹変! 北朝になりすます家康 420
     松本坊説歳法印、激怒して出奔    422

この本の内容は濃密で情報量がものすごく多いので、
なかなか簡単にはまとめられませんが、
一つずつ解釈して行きたいと思っております。

「京丸」についても、南朝の隠れ里として何回も出てまいります。
なぜ京丸なのか、
何か由縁や地形的要素があると思われます。
そこを調べたいとは思います。


また、「富士谷」という場所、独特の呼び名となっておりますが、
これについても由縁、地形的要素等調べたいと思っております。


「富士谷」について:

レス[83]酔石亭主さんからのコメント(2023年07月02日 06時42分08秒 )

富士谷は富士吉田市大明見にあり、富士高天原王朝があったとされる場所です。
徐福の伝説地にも近く、富士山麓の秦氏シリーズを書く際訪問しました。
以下を参照いただければ、大雑把ですが南朝関係地もある程度纏めて書いています。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-731.html

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2023年07月04日 08時13分14秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101930_86.html
レス<85>から転載:全文はURLへ

以下コピペ

『富士”隠れ南朝”史』(加茂喜三著)で戦国時代の流れが南朝フィルターを通してよくわかる。
しかし、これらは表の歴史には何故か表現されません。
歴史の真実は一つなのですが・・・。


「今川憎し」は点と線でズッとつながっていたはずで、
今川の血を担ぐことは、南朝臣としては受け入れられないものだったはず。
それは、今川が、ズッと南朝の残党狩り、殲滅を厳しく行ってきたからであります。

私たちの遠江、特に笠井あたりは南朝臣の巣窟であったようで、
その南朝フィルターを通して、郷土史を解釈してみたいと思っています。



さて、
富士谷ですが、かつては南朝の大本営、南朝臣の巣窟だったようですが、
1707年の宝永の大噴火(その1ケ月前に宝永大地震あり)によって、ポンペイと化したはずであります。

南朝関係の史料・遺物はほとんど消失してしまったと推察いたしますのですが・・・。


富士谷の宮下家になぜ残ったのか、大噴火を避けてどこかへ書物も携えて移動していたとしか考えられません・・・。
ここが不思議な点であります。
 


富士谷(富士北麓)に南朝臣が集まったのはなぜか・・・

まずは南朝と修験道との関係(修験の道利用)が第一に思い浮かびます。
もう一つは、秦氏(羽田氏)。

修験道と秦氏はからみ、それに加茂氏がからみ、さらに中臣氏(藤原氏)もからむ。


ということは、富士王朝は、南朝でよみがえり、徳川家康で再結実したということか・・・?! 
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2023年07月07日 01時01分21秒 ) パスワード

三つ柏さん


京丸山へのお出掛けはお1人では危ないかも知れません。
この時期は梅雨ですから。


2018年7月21日の朝日新聞の記事で秋葉街道の紹介があり
早太郎(=悉平太郎)霊犬伝説を追って山道を行く
という実験記事です。


結局JAF?に助けて貰ったという顛末。
レッカー車は飯田から来てくれたんですって。

    (笑)って、書いて良いのかな?


秋葉街道でこんな目に遭うのですから京丸山行きなんてどんな災害に巻き込まれるか!



この記事は我が家の東の山脈を形成する堆積岩の中にありました。
5年!
なんか  この山脈が気になって  片付けなきゃ  と永年思ってきたのですが
この記事を見つけたかったのでしょうね。


    送ってくれた人は幼稚園以来の親友で
    木曾義仲さまの侍大将だった人の末裔です。


秋葉街道は高遠へ行く道なのか。
この町、桜も美しいし住人の人柄も皆さん美しく滅びの美学的にも美しく
好きです。

幼稚園児の子供たちが道で往き会う人に1人1人挨拶してて
夫が驚いていました。

他にも高遠は武田家がらみで泣ける場所ですしね
江島生島事件の江島の流された所ですし。


わたしの親友はもっと東の身延山に木曾義仲の侍大将の父親(=源義賢の侍大将)への先祖の供養に通ってました。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2023年07月10日 03時14分05秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101930_89.html
レス[88]丸に三柏服部さんからのコメント(2023年07月10日 00時22分33秒 )



「京丸」考


 京丸は、遠江春野の深山幽谷にあり、私がその地名を初めて知ったのは、今は亡き友達がアウトドア派で「京丸ボタン」を見に行ったことがあるという話を聞いた時だから、かれこれ30年前になる。その時は特に大きな興味を抱かなかったし、ローカルな話なので知らない人の方が多いだろうと思っていた。だが、今改めて調べてみると、実際は全く違っていて、江戸時代より世に広く知れ渡っていたという事実がわかった。


 それは、平成22年に発行された早石正人氏の『新・京丸考』の中に詳細に書かれていた。氏は医学博士で作家。氏はこの本をまとめるにあたって、柳田国男氏(1875〜1962)の書かれた『京丸考』というものを読み興味を引かれたという。また、SF作家の光瀬龍氏(1928〜1999)が『野生時代』に書かれた京丸のルポルタージュを読み、訪れてみたいと思うようになったと言う。


 つまり、柳田国男氏や光瀬龍氏は、京丸についてはとっくの昔に知っていたということになる。


 では次に、早石氏の書かれた京丸についての情報の流布について、簡潔にまとめてみたいと思います――
[4]丸に三柏服部さんからのコメント(2023年07月28日 21時50分47秒 ) パスワード

あを様

Kyomaru , just a very remote mountainuas place , but is so widely famous in Japan, why? (京丸は、深山幽谷にあるのに、こんなにも日本で有名なのは、なぜ?)

 京丸は、江戸後期になると有名になったということであります。その要因としては、17世紀後半から国内での庶民の社寺参詣旅行(伊勢神宮、秋葉山等)が盛ん
になったことと、江戸などの都市の人口密集地で火事が頻発し、火坊の神(秋葉信仰)への期待高まったことであります。
 秋葉山に登る途上の峠に、京丸山が遠くに望める所があるという。私もかつて下社から登ったことがありますが、その時には京丸に対してそんなに興味を抱いていなかったし、調査もしておらず、ただ登ることに一生懸命でありました。秋葉寺(昔は神仏習合で神道と仏が合体した寺だった)まで2時間ぐらい要したと思います。
 さて、江戸時代だけでも京丸に関する主な記述が次のようにあるという――
@煙霞奇談(えんかきだん) 1773 西村白鳥
A東海道名所図絵 1779 秋里籬島
B遠江風土記伝 1789 内山真龍
C遠山奇談 1798 浄林坊弁恵
D遠江古跡図絵 1803 兵藤庄衛門 1803
E遠淡海地史 1834 山中勘左衛門豊平
F雲萍雑志 1844 柳里 恭
 さらに、明治以降には、次のように多様に存在します――
@坪井正五郎 1887  入山
A松下発三郎    移住
B折口信夫  1920 入山
C藤原さく 明治から大正まで京丸住
D塚本誠一 昭和初期に記述
E深田久弥 1968 入山
F柳田国男 入山
G鳥居純子 1968〜1970まで3回入山
H光瀬 龍(SF作家) 1976 入山
というようにキリがないほどであり、京丸の何がそんなに人を惹きつけるのであろうか?
 私的には、南朝(後南朝も含む)の特に宗良親王以下の親王・家臣の涙ぐましい戦いの日々に何とか共感したいと思うばかりであります。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2023年07月29日 03時23分18秒 ) パスワード

三つ柏さん

意外でした。
人名の中に知ってるお名前がいくつもありますから
知る人ぞ知る秘境だったのですねぇ。


>秋葉山に登る途上の峠に、京丸山が遠くに望める所があるという。

これは驚きでした。
確かに  東西関係にありますから  古くから落人の隠れ場所として認識されていたのでしょうね。


>京丸の何がそんなに人を惹きつけるのであろうか?

秋葉山信仰 + 大鹿村大河原の南朝方址 +  信康伝説 + その他

日本人のメンタルに突き刺さる場所のようですね。
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