[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月19日 08時31分51秒 ) | パスワード |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
近代以前の日本の人口統計
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月19日 08時32分46秒 ) | パスワード |
概要
日本初の戸口調査は紀元前の崇神天皇時代に行われたとされる。
7世紀には全国戸籍「庚午年籍」や「庚寅年籍」が作成され、平安時代初期まで続いた。
江戸時代に入ると宗門人別改帳制度が成立した。
しかし本格的な全国人口調査が始まったのは18世紀の徳川吉宗時代である。
現代の歴史人口学研究者の推定では、日本の人口は8世紀には450〜650万人。
1000万人を越えたのは中世後期、早くとも15世紀以降と考えられている。
江戸時代前半の17世紀に急増し、18世紀から19世紀は3000万人前後で安定化した。
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月19日 08時36分05秒 ) | パスワード |
古文書に記載された人口
大まかな古代日本の人口は、『魏志倭人伝』に始まり、様々な書物に記載されている。
『魏志倭人伝』には、奴国が約2万戸など国ごとに大まかな戸数が記されており、邪馬台国など7国の合計が15万9000戸余とある。
日本で最初の戸口調査は『日本書紀』によると、崇神天皇12年(紀元前86年)に行われたとされる。
また天智天皇9年(西暦670年)に全国戸籍「庚午年籍」が作成されたとするが、木簡の研究からは戸数の把握に留まっていたとみられる。
持統天皇4年(690年)に「庚寅年籍」が作成されると、以降6年毎に戸籍を作り直す「六年一造」が始まった。
しかしながら作成された戸籍は30年で破棄する措置が取られたため、現在では戸籍の断片や一部地域の人口集計が伝わっているのみである。
現存する最古の戸籍は正倉院の紙背文書として保存された大宝二年籍で、
大宝2年(702年)の美濃国加毛郡半布里、美濃国蜂間郡春部里、筑紫国嶋郡川辺里、豊前国仲津郡丁里の戸籍、養老5年(721年)の下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍など、飛鳥時代・奈良時代・平安時代の戸籍・計帳計48点が残っており、家族・奴婢の構成などが記載されている[1]。
平安時代初期まで改籍が実施されたが、律令制の後退と有力貴族による荘園制の成立により、全国単位での戸籍自体の作成が行われなくなった。
現存する最後の古代籍帳は寛弘元年(1004年)に作成された讃岐国大内郡入野郷の戸籍である。
鎌倉時代、室町時代を通じ、国領や荘園内部で戸籍類似のものが作られていたことは、御成敗式目における戸籍上の規定の存在から類推できるものの、史料が全く残っていない。
戦国時代になると一部の戦国大名は農兵動員や銭賦課把握の目的から領内の人口調査を実施するようになり、例えば後北条氏の「分国中人改」などが知られている。豊臣秀吉は天正19年(1591年)あるいは文禄元年(1592年)に人掃令を出し、朝鮮出兵のための動員数把握の目的で全国規模の人口調査を命じた。
この時の戸口調査がどの程度まで実施されたかは不明であるが、徳島藩で実施された「棟付改」、細川藩領(小倉藩・熊本藩)で実施された「人畜改」などは、秀吉の命を受けて実施された戸口調査が続いたものと考えられている。
江戸時代前期にはキリシタン取締りの目的などにより寺請制度と「宗門人別改」が成立し、享保6年(1721年)以降、徳川吉宗による諸国人数調査が実施されることとなる。
古代より中世の人口は、いくつかの年代の総人口が仏閣関係者の書物に記載されているが、
調査方法が戸籍からの推定か直接調査かは不明であり、女性が男性の2倍、
男女の合計が総人口を超えるなど信頼性に疑問が残る。
このような数字に関して横山由清は、男女比は、課丁逃れのために男を女と偽って報告したことに起因すると考えた[2]。
また澤田吾一は、頻繁に言及される49や800万という数字は仏典に関連のある数字であり、戸籍などから起こした実数ではないと指摘している[3]。
蝦夷など朝廷に帰順していない異民族や、国内に在留する外国人に関しては調査例が少なく不明な点が多い。
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月19日 08時37分25秒 ) | パスワード |
以下URLへ。
かなり興味深いです。
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月20日 07時55分41秒 ) | パスワード |
2500年前
崇神天皇の時代
疫病で日本の人口の3分の2が死亡。
「手水」
日本で最初に大きな疫病が流行った時、
第十代崇神天皇(3世紀中頃〜4世紀前半・古墳時代)は神社に手水舎をつくり、
手洗いや口をゆすぐことを推奨しました。
これは『古事記』、『日本書紀』の時代から行われていた日本の習慣です。
第十代崇神天皇の時代に疫病のため、人口の半分以上が命を落としたことが『日本書紀』に記されています。
ということで
https://kyosuzume.or.jp/blog/%E6%89%8B%E6%B4%97%E3%81%84%E3%80%81%E3%81%86%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AF2500%E5%B9%B4%E7%B6%9A%E3%81%8F/#:~:text=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A7%E6%9C%80%E5%88%9D%E3%81%AB%E5%A4%A7%E3%81%8D%E3%81%AA,%E3%81%AB%E8%A8%98%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
日本人が うがいや手洗いをするのは こんな過去があるから。
【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る 】 |
|
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇ DB-BBS-system V1.25 Rapah. |