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 投稿番号:101916 投稿日:2023年03月08日 13時43分48秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを
戦う教団:一向宗な何故中部地方で力を持ったのか

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

本郷和人先生のお話です


https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E6%9C%AC%E9%83%B7%E5%92%8C%E4%BA%BA-%E3%81%AA%E3%81%9C%E4%B8%80%E5%90%91%E5%AE%97%E3%81%AF-%E4%B8%AD%E9%83%A8%E5%9C%B0%E6%96%B9-%E3%81%A7%E4%B8%80%E5%A4%A7%E5%8B%A2%E5%8A%9B%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E3%82%BF%E3%83%86-%E3%81%AB%E7%B5%90%E3%81%B3%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%9F%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E3%81%A8-%E3%83%A8%E3%82%B3-%E3%81%AB%E7%B5%90%E3%81%B3%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%9F%E8%8D%98%E5%9C%92%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E3%81%AE%E6%BF%80%E7%AA%81%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6-%E3%81%A9%E3%81%86%E3%81%99%E3%82%8B%E5%AE%B6%E5%BA%B7/ar-AA18iURD?rc=1&ocid=winp1taskbar&cvid=c616b2b086e7455bbf644a0c8023317f&ei=6

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2023年03月08日 13時45分14秒 ) パスワード

なぜ一向宗は「中部地方」で一大勢力になったのか?
「タテ」に結びついた武家と「ヨコ」に結びついた荘園武士の激突について
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2023年03月08日 13時47分59秒 ) パスワード

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なぜ中部地方で一向宗は一大勢力になったのか


高野山の荘園に住む武士たちは、高野山に集結し、強大な軍事権力を構築した。
このとき、「仏の前での平等」という概念は、それぞれの荘園の武士たちを「ヨコ」に結びつける接着剤となる。

彼らは主従性に基づいた「タテ」の関係で結ばれた武家勢力と戦い、敗北していった。



紀伊国では高野山、根来寺、粉河寺など、真言宗寺院が強力だったので、これらが「小規模な武士たち」の結集の場となった。



だが、一向宗の力が強かった地域もあった。
数多くの「小規模な武士たち」が村落を代表するリーダーとなるためには、生産力の高い地域である必要がある。
それは具体的には中部地方である。


畿内は伝統的な寺院の力が色濃く残存しているので、一向一揆が結ばれにくい。
関東は生産力が低いので、数少ない「中規模の武士」が戦国大名の家臣になっていく。



これに対して中部地方は、「小規模で多数の武士たち」が「阿弥陀の前での平等」の概念をかかげてヨコに連携し、一大勢力となった。
そして彼らは織田信長と長い期間、死闘を展開したわけです。


信長の軍勢と一向一揆とは、在地に勢力を有する(というか、在地性を捨て去れない)武士たちが中軸となる軍事組織なのだが、かたや「タテ」、かたや「ヨコ」と異なる方向性を有していたために、適当なところで妥協することができず、有名な信長による”虐殺”という悲劇が生じることになってしまった――
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