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 投稿番号:101884 投稿日:2022年12月21日 09時36分13秒  パスワード
 お名前:丸に三柏服部
服部カフェ
キーワード:服部、羽鳥、服織、ハットリ、ハトリ
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

「古代より現代に至る─服部」についての自由で総合的な考察の場─カフェ。
コーヒーでも飲みながら、語り合いませんか?

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2022年12月22日 00時25分17秒 ) パスワード

三つ柏さんは自治会長さんをなさって、その間に、思わぬ交流も広がったと思いますが
「はっとり」さんは
表に現れた「はっとり」さんだけでなく実は「母方で」「養子になる前に」など
隠れた「はっとり」さんに出会ったりもなさいましたか?


眼科医の服部匡志先生は大阪の人だそうで
高校は四条畷高校=ココって楠木正成ゆかりの四条畷ですね=ということで
非常に親近感を持ちました。

服部匡志先生についてはベトナムで白内障手術をして目に光を与えているということで逆輸入で知りましたが

「ヒトは動く」 と思っていましたが  まさか  「はっとりさんがベトナムまで動いてた」とは想像もしていませんでした。




「ヒトは動く」
九州から北海道までは  なんとなく  アレが原因で移動したんだな  というのは想像がつきます。


では、自分の家の想像はどうなんだ?と問われると

我が家のは   
1007年寛弘4年? 1015年前に東国坂東から移住して  御当地の有力者・秦氏系服部さんのお名前をパクった
で、良いのかな?

1007年間  この名で  出ています。



四条畷という地名が心象風景にあって  しょっちゅう  思い出しては気になるのです。

    母方と父方で親戚になる家が東大阪にあって  そこに至る道路の標識に  「四条畷」 と書かれていて
    それ以来ずっと「四条畷」という地名が気になって
    ココに今やっと書けて気持ちが落ち着きました。



          まるで心療内科的治療法ですね。
          笑

服部匡志先生
もともとはどこの御出身なのかな?
[2]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2022年12月22日 21時52分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 武田光弘氏の『服部一族』によれば、湊川神社を中心として楠木同族会という
ものがあり、楠正成の子正儀の子の某の子孫が、この会に多数名を列ねていると
書いております。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2022年12月23日 01時17分20秒 ) パスワード

三つ柏さん

武田光弘氏の『服部一族』
すっかり失念しておりました。
ありがとうございました。


検索しましたら
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101288.html
「服部家の歴史」
がヒットしました。
大恥

          こんなに記憶力が無くなってたなんてワタシも終わってる


また読み返してみました。
10年前のスレッドです。




来年の「どうする家康」で

三河が大揺れに揺れた事件
    今川義元が桶狭間で敗れて今川氏真の代になって
        まだ家康が元康の時代
    家康は岡崎を奪還しようと今川勢に反抗。

ここで今川方の三河の服部氏が討ち死にしました。



レス<7>のさなえさんの書き込みで
>「愛知県の(東三河・旧南設楽郡)新城市鳳来町大野に、服部郷があるから、(西三河)一色町の服部と関係あるかもと・・・(思われるむね)」


     今川氏はもともとが西尾市役所のある今川町の出身。
     もとは吉良氏。


     実は大昔に  吉良一色の江戸幕府高家の某御方から  足利流の礼法を教えて貰いました。
     覚えているのは3つか4つあたりですが。



つまり三河の服部家は今川家と共に没落し
遠江の服部家が家康つながりで力を持って行ったのだな、と。
しみじみ


尾張の服部家は信長憎しで今川義元と組んで信長を〆る予定がアッチが早々と退場したから
うちも一緒に風前の灯に。


ところが光秀さまのお蔭で信長が退場し  ワケあって  家康の時代へ。
ウチは尾張藩の財政担当ということで   信長との和解後からの立場を守って   現代に至る。
で良いのかな?



三河服部氏を思うと複雑な心境です。
泣けて来る。



来年のご挨拶に  三河の(当時の=今川方時代の)お仲間に 「どうする家康」 の話題を送ったところです。


久し振りに般若心経を唱えなくては。
[4]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2022年12月23日 08時41分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 武田光弘氏の「服部一族」、今読み直しておりますが、内容的には信頼に値す
るものと感じております。歴史の点と線は押さえています。余分な肉付けはなく
極めてシンプルな構成で、服部氏の研究には羅針盤となってくれそうです。
 もっとも、この本、総論が10ページ、秦氏関係が181ページ、そして最後
に服部一族78ページの構成となっております。
 秦氏と服部氏の関係は判然としませんが、「日本に昔からあった服織を業とす
る氏族の系譜と、秦氏系の服部氏の系譜とが混然としてしまった例も、全国に少
なくない。」とも記しております。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2022年12月23日 10時48分07秒 ) パスワード

三つ柏さん

わたしも「服部一族」を出して来て   読んでいますが(いましたが)  アタマ  爆発しそう。


・職業系のハットリさん
・秦氏系のハットリさん
・神職系のハットリさん   上記「服部家の歴史」のスレ主さんが神服部さんだったような記憶です
・桓武平氏系の服部さん   うちですね
・源氏系の服部さんもいるし
・その他


楠正遠の娘が服部一族の上島元就の妻となって  観世  世阿弥  に続く
というのですね。



大昔にNHK大河で楠木正成のシスター(姉?妹?)が服部氏と結婚して
    観世を生み世阿弥に繋がる
というのを見ました。


    わたしは「和田」という姓が好きなんですが
    和田さんは楠正成の一族ですしね
    ひょっとすると和田義盛繋がりがあるのかも。
    楠正成の先祖が御家人だったなら  和田義盛  と繋がるような気がします


       「鎌倉殿の13人」では三浦義村は小ずるいオトコ  和田義盛は脳筋で描かれてましたね
        和田義盛は三浦義村から「バカ」と言われてましたね
        それでも和田義盛は  いいオトコだ


最近の「鎌倉殿の13人」関連で
楠正成の先祖はもともと静岡の御家人で
   本貫地が駿河国入江荘楠木(現在の静岡県静岡市清水区楠)で 
   河内に来た
というのを聞きましたが、

   これも嘘っぽいとかで  

別の説では  福島県の石川郡太子町大字山田小字楠木の出身説もあって

   

人間は動くから

   「アチコチに足跡を残しているよ」

でしょう。



楠木正成の先祖が河内に来たのは
霜月騒動で安達が平頼綱(八重さんが面倒を見た孤児の鶴丸=平盛綱の孫)に殺されたから
安達の旧所領の地頭になって河内に来た。


    後にわたしの母方の35代前の先祖が平頼綱成敗に参加している

         さらに

    「服部一族」の系図を見ていると世阿弥の子が母方一族に繋がる。


         母の話では南北朝の戦いの時に「菊水の旗」を使っていた時があるそうで


つまり  ワタクシは父方でも母方でも楠木一族と繋がってしまいます。

     日本ですね。



結局は  服部匡志先生とワタクシは  血で父方・母方と  地で大阪でも  繋がってしまうのかも。

     最初に  服部匡志先生のお名前を聞いた時に  どこかで聞いたような名前だな  と思いました。


日本人は数代遡ればみんな繋がってしまう
蓋し名言!
[6]相良四郎さんからのコメント(2022年12月24日 19時39分56秒 ) パスワード

服部ではないですが
妻木は珍しいでしょうか?
電話帳にはありません。
[7]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2022年12月25日 09時33分25秒 ) パスワード

昨夜は、久しぶりに「きよしこの夜」をギターを弾きながら歌いました。至高
の歌ですね。身も心も清くなった感じがいたします。

 さて、最近は戸主が墓を守って行くことができず、やむを得ず墓じまいをする
ケースがどんどん増えております。少子化と核家族化のせいであります。

 では、父母、祖父祖母・・・祖先の遺骨の納められた墓、人は何故この墓にこ
だわるのでしょぅか?

 それは祖先を愛おしみお祀りするということ、人にとって祖霊は神様に通じる
ものであること。そして墓は人のアイデンティティーの根っこであるということ。

 墓じまいのやり方によっては、戸主筋はしょうがないにしても、兄弟分家筋は
根っこをこがれるということで根無し草になってしまい、迷い草になってしまい
ます。せめて永代供養(金はかかるけれど)をしてもらい、小さくても根っこのはしくれでもいいので残してほしいものです。

 祖先の霊と自分の霊はつながっている。墓はその両者の依り代であるのではな
いでしょぅか。墓がなくても気持ちの持ちようだとの考えもあるかとは思います。
だけどやはり物がないと確証がないような気がして落ち着かないのではないかと
も思います。

 いずれにしましても、祖先の霊をお祀りする、供養するという方法は他にもあ
ると思いますので、人それぞれが取り組む問題かとは思います。

 困ったときの神頼みは、人間の致し方ないさがであります。
 ちなみに私は、家から2q南の服織(ハトリ)神社に行き、「ハトリの神よ、ハ
トリの神よ、ご先祖様におつなぎ下さい。ご先祖様、ご先祖様、われわれ子孫を
お守り下さい」とおがみます。
 また、月に一度は、先祖供養はしております。
 これらは皆自己満足のためといってしまえばそれまでですが、それでいいのだ
と自分に言い聞かせています!
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2022年12月26日 06時24分11秒 ) パスワード

三つ柏さん


>月に一度は、先祖供養はしております。

立派ですね。


三つ柏さんのお宅はきっと遠江に永くお住まいのお家なんでしょうね。
ブレてないのが良いですね。

「家」がしっかりしてないと   こういうのは   可能ではないですから。羨ましい限りです。



わたしは父に既に   どこにお骨を納めて欲しい?  と訊いています。バチ当たりの娘です。
答えは  信濃の善光寺さん。
この信濃の善光寺さんって物凄く古いお寺なんですってね。
だから宗派とか関係無い    宗派以前

    って  ブラタモリ  で聞いたような?



わたくしとしましては
築地のお寺が姉家族や弟家族にとって  場所的に  都合が良いんじゃないかと
    交通費と宿泊代がかからないから
勝手に思っているのですが。


    父は第7子の末子ですから  家督関係については どーでもいい子で育ったので
    どこでも構わないようです。


三つ柏さんがお書きの
    >兄弟分家筋は根っこをこがれるということで根無し草になってしまい、迷い草になってしまいます
まさに  コレ  を始めようとしています。




母の方はアチコチに   東北地方から九州まで  ゆかりのお寺とかお墓があって

観光スポットになってたり
教育委員会が面倒見てくれてたり
鎌倉時代から続いているお寺さん達が今も立派に続いてたり

    以上の場所には  一応  顔は繋いで置きましたが

直接の5代前が明治維新で失業して国に戻って
    ・・・ そこは400年続くお寺さんが江戸時代はやってくれてたのに・・・ 
バブルがはじけて   借金のカタに  今のお寺さんは  派遣されて来た人なので   

顔を繋いでないです。入れ替わる直前に行ったので。


一応そこの、明治維新後から昭和の初めまでの先祖の墓は、いくつか残っているのを確認してあります。



幕末まで住んでた大阪に戻った親戚は  古代からお付き合いのある  住吉大社系のお寺さんに(笑)お願いしている
と言ってました。    
困った時は住吉大社に助けてもらえ、が家訓なので。


竹原にもお墓があるし。
ここも観光スポットだから  きれいに  手入れがしてありました。



夫と  東北地方から九州までの  父方母方先祖ゆかりのお寺やお墓は一応見て回ったけれど

わたしは散骨希望で

既にハワイ大学医学部に散骨をお願いしてあります。
デブにならない・伝染病で死なない
など条件はクリアしないといけませんが。



たぶん  それだけ  日本が豊かではなくなった   ということなのではないでしょうか?
豊かな時代には、お葬式やお墓にお金をかけたと思うのです。

今は  お布施さえ  払えないのではないかと思います。
お寺さんも廃寺になっていくんじゃないかなと。無住寺が増えていくんじゃないかなと。


     立身出世を遂げて故郷を去るか  食い詰めて故郷を捨てるか


子孫がお墓を守ることが出来るというのは   
余裕があるということ
つまり先祖が守り先祖が子孫を守っているから  
と思うのです。


先祖を大切にしていれば先祖は守ってくれると思うのです。
  
    日本人は知らないだけでいろいろな日本人と繋がっているから
    赤の他人の前でも知人友人身内のように接していたら

きっと  その他人の  ご先祖さまも守ってくれるんじゃないかな? 


承久の変で西国が負けて3000箇所の土地が東国の御家人達に分け与えられて
この時代からも日本人は今の日本人になって行ったんだろうな
と思うのです。



三つ柏さんは幸せだって思いますよ。
ご自分のご先祖さまに語り掛けることがお出来になって。
[9]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2022年12月26日 16時40分43秒 ) パスワード

"Today I received your wonderful Christmas Card and Letter!"

 楽しいクリスマスもあっという間に過ぎ、夢見気分もこの寒さで現実に戻りまし
た。昨日は、友達がミュージシャンなので、クリスマスソングをいくつか聴かせて
もらいました。
 最近は『ホワイトクリスマス』は町中でとんと聞けなくなり、山下達郎の『クリ
スマス・イブ』とかワムの『Last Christmas』がはやりです(これも古いかな)。
 恋をしている若者達には、時は永遠に止まりますのでうらやましいです。もう一度、青春時代に戻りたいとは思うのですが、今は歴史の底を覗くばかり・・・。
 来年も何とか頑張ろうという気持ちはありますので、まだまだ行けそうです。

 ここ3ヶ月くらいは、出雲についてずっと調べておりました── 
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2022年12月27日 15時53分52秒 ) パスワード

三つ柏さん

ご連絡
ありがとうございました。



山下達郎の『クリスマス・イブ』    CMの牧瀬里穂が可愛かったですね
ワムの『Last Christmas』
稲垣潤一「クリスマスキャロルの頃には」


毎年クリスマス時には過去の名曲が聴きたくなるのがいいですね。
色褪せないですね。



>ここ3ヶ月くらいは、出雲についてずっと調べておりました

出雲大社の御本殿
不思議ですね
昔の人にあのような高層建築物が可能だったんでしょうかねぇ。

    でも清水寺もすごい建物ですから
    可能だったんでしょうね。


人間ってすごいなって思います。
本田宗一郎の  「成功は99%の失敗に支えられた1%だ」  を思い出します。
失敗を重ねて、あのような高層建築物を建てられるようになったのかな、と。



神代の時代はワケ分からなくなっていきます。

大国主命  須佐之男命の子孫?
天照大神 高天原はどこにあった?   須佐之男命のお姉さん?
神武天皇 日向の生まれ。お兄さんは新羅王の祖って?


迷路にはまるので止めておきます。結局ワケ分からなくなります。



出雲についてお考えが纏まりましたら書き込んでください。
[11]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2022年12月29日 01時11分43秒 ) パスワード

古代の服部(羽鳥・服織等含む)の所在地のまとめ


「服部」「羽鳥」「服織」等の地名の所在地
(主として『和名抄』による)

1. 畿内 大和 山辺郡に服部?
摂津 島上郡に服部?

2. 山陰道 因幡 法見郡に服部?

3. 山陽道 備前 邑久郡に服部?
備中 賀夜郡に服部?
〃 下道郡に服部?
備後 品治郡に服織?

4. 北陸道 越前 今立郡に服部?

5. 東山道 近江 野洲郡に服部?
美濃 安八郡に服織?
陸奥 標葉郡に羽鳥?
〃 会津郡に羽鳥?

6. 東海道 伊勢 奄芸郡に服部?
伊賀 阿拝郡に服部?
三河 八名郡に服部?
遠江 長上郡に羽鳥?(羽鳥庄)
駿河 安倍郡に服織庄
武蔵 久良郡服田?
下総 埴生郡に羽鳥?
常陸 真壁郡に羽鳥?

 「ハ」とか「ハトリ」という渡来系の言葉がそもそもあり、それに「服」とい
う漢字を当てはめて「服(ハトリ)」となったのではないだろうか?
 ハトリは「養蚕・絹織、やがて服飾」を行う場所、そして人、をそう呼ぶよう
になったのではないだろうか?
 もともと養蚕と絹織はずっと前からあった。盛んになったのは秦氏が大集団で
渡来してから、即ち応神天皇の時、西暦390年代に弓月の君が127県の民を
引き連れて渡来。仁徳天皇の時、西暦410年代に127県の秦の民を諸郡に分
置させ養蚕・絹織の生産の向上を図った。
 「服」に「部」がついたのは部民の制度が出来た時か。4世紀か5世紀か?
 服部連の姓は、允恭天皇の時というから5世紀の前半のことである。

ではないか。
[12]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2022年12月29日 01時20分50秒 ) パスワード

 前レスで、服部?と書いたのですが、何故か「?」という字が「?」に化けて
しまいました。エクセルで作った文章からコピーしたせいだろうか?
 それらの「?」は「?」に変換してとらえて下さい。
[13]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2022年12月29日 01時23分12秒 ) パスワード

やはりおかしい。「ごう」という字が「?」になる。ごうひろみのごうであります。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2022年12月29日 05時31分55秒 ) パスワード

三つ柏さん

おかしいですね
どうしてでしょうね?


詳しく  はとり郷を紹介してくださって  ありがとうございました。
日本のアチコチに  はとり  という地名があるんですねぇ。


織物の神様というと日本ではヤッパリ天照大神でしょうね。
人類の産業の初歩でしょうね。


もともと人類は猿が人間になっていく過程で「体毛」が減っていって
身体を守るために覆う物が必要になって

毛皮をまとってたのから   動物繊維や植物繊維を   利用するようになって行って

    日本では植物繊維からの織物に発展していったんでしょうね。




だから  日本人が集団で生活したところに  はとりエリア   が出来
そして  アニミズム  にも結び付いて
               村社会を形成し  政治が生まれ
               争いがあって
               国へと  発展?


だから  日本ではアマテラスが重要な存在になったのかなと。


  
     まず最初の繊維は  麻  でしょうね。
     ということは  巫女さんの  大麻が  神降ろしに利用されて
     呪術  宗教
     へと発展。


           「鎌倉殿の13人」で
           「麻の毒」が出て来ましたね

           「麻」を利用して忍者が鍛錬して人間は高度になっていったんでしょうか?
            笑



織物=精神のよりどころ=宗教   の関係で  神様や神社が関係してくるのかなと。
宗教は   モロ   政治  に関係しますしね。



やっぱり神代を考えていると果てしなく想像が膨らんでいってしまいます。




酒飲みの友人がいて
朝から飲みたい人で

言ってやりましたよ


日本の農耕の神様がアマテラスで良かったね
新嘗祭の新酒がちょっとだけの献上で済んで良かったね

高知あたりの男の神様だったら  高知の男神さまは自分1人で全部  お酒を飲みたがって
人間はおこぼれのお酒なんか貰えないんだよ。

宴会なんか出来ないんだよ
高知の神様だったら「人間はそこらの川の水でも飲んでおけ」と言うからね。
[16]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2022年12月29日 12時13分31秒 ) パスワード

 土佐は酒の飲み方が超豪快である! 酒はどのくらい飲めますかと聞くと「しょ
うしょう」と言う。ところがこの「しょうしょう」は「升升」で「2升」。女性も
酒豪が多くて、底なし。宴会で飲み比べをしてみたが、とてもかなわない。「酔鯨」
という土佐の酒があるけれど、まさに言い得ている、あなおそろしや。
「司牡丹」という酒もあるけれど、酒もおいしく、つまみの魚もとてもおいしいの
で、飲まざるを得ないのかも知れません。
 人ごとではありますが、みんな胃・肝臓・膵臓には気をつけてほしいものである。
[17]酔石亭主さんからのコメント(2022年12月29日 13時12分56秒 ) パスワード

三つ柏服部さん、青海のあをさん

大変ご無沙汰しております。三つ柏さんの復帰で「平熱」が低熱状態となっている現状に活力を与えられるのではないかと期待します。

三つ柏さんにとっての服部氏に関する未解決部分に、なぜ丸に三つ柏紋なのかと言う問題があると思われます。三つ柏紋の根源には、既に平熱でご議論されたと思いますが、日御碕神社の神紋がありそうです。

素盞嗚尊が根の国にわたり熊成の峰に登ると「吾の神魂はこの柏葉の止る所に住まん」と言い、柏の葉を投げると、葉は日御碕の現社地背後の「隠ヶ丘」に止まったと言うものですね。日御碕神社の神紋はこの話が元になっているはずです。

柏葉の意味に関しては既に立派な論考もあり省きますが、注目したいのは「柏」の文字そのものです。柏を偏とつくりに分解すれば「白」、「木」で白木=新羅になります。素戔嗚尊は新羅からの渡来民とされるので、素戔嗚尊と新羅(=白木=柏)となって、そうした遠い記憶も踏まえ素戔嗚尊に関連して三つ柏紋が成立したのではないでしょうか?

北九州には白木神社が多くあり、祭神は素戔嗚尊の子とされる五十猛命ですが、出雲と北九州では地域が異なります。白木神社の五十猛命を別の新羅系と設定すれば白木神社の神紋が三つ柏紋ではなく三巴などになるのも理解されるし、また新羅神社や白髭神社なども同様に三つ柏紋ではありません。

京都祇園の八坂神社の主祭神は素戔嗚尊ですが、神紋は木瓜紋となります、こちらの素戔嗚尊は牛頭天王の別名もあるように疫神としての神格があり、それに伴って胡瓜に似た木瓜紋が採用されたと見られ、時代はかなり下ります。

ここで服部連の本拠である神服神社を見ると、祭神に素戔嗚尊が入っています。同社の神紋が丸に三つ柏紋であるのは、新羅系ともされる秦氏の存在と素戔嗚尊が影響し服部連傘下で機織りを生業とする服部氏の一部が丸に三つ柏紋を採用、現在の三つ柏服部さんの家紋に繋がっていったのではないかなどと推測します。

その間の事情としては、以前平熱に書いた秦川勝の息子の貴平が蘇我入鹿の乱を避け、聖徳太子の皇子三人を連れて浜松に来た際、服部氏も同行した話と繋がっていくのではとも思います。

もう一つ気になるのは、これも以前平熱で書いた富家伝承に関連する神門家の家紋が丸に三つ柏紋である点と、浜松にはなぜか神門姓が多い点です。ここから三つ柏さんの祖先が神門家と関係があった可能性も浮上してきそうな気が…。島根県において神門姓が多いのは日御碕神社を取り囲むように、出雲市、簸川郡斐川町、松江市に集中しており、これも傍証の一つになりそうです。いずれにしても、三つ柏さんの家紋はもっとも古い時代を反映している可能性が強そうです。

まあ、上記はどれも思い付きの域を出てはいませんし大雑把なので、肉付けしていただければ筋としては面白いかなと…。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2022年12月29日 13時50分42秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ビックリ!

昨日  何かのテレビ番組を見てたのですが
その登場人物に  神門氏  が出てて

    へぇ〜
    ワタシの回りにはいない名字だな

と思っていたら  今日  酔石亭主さんの書き込みで  神門姓が書かれていて
驚いています。

なんたるシンクロニシティ!
「意味のある偶然の一致」?


それが  何の番組を見てた時なのか  全く!  思い出せないのです。


神門さんの多い地域 TOP5

都道府県 人数
島根県 およそ590人
大阪府 およそ150人
静岡県 およそ100人
鹿児島県およそ90人
東京都 およそ90人


市区町村 人数
島根県出雲市 およそ190人
島根県松江市 およそ180人
鹿児島県枕崎市 およそ70人
静岡県浜松市北区およそ50人    では三つ柏さんのお知り合いにいらっしゃったりします?
島根県大田市 およそ40人


へぇ〜
[19]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2022年12月29日 15時20分18秒 ) パスワード

酔石亭主様

 お久しぶりです。また素晴らしい推論をいただけるということ、幸せ至極の一
言であります。

 柏葉の由来をさかのぼってみますと、やはり酔石亭主様のご指摘どおり出雲に
ルーツがさかのぼるようです。日御崎神社のスサノオ、伊那の守屋神社、徳島の
倭大國魂神社(大国主)等、出雲に関係しております。高槻の神服神社も地域的に
出雲との関係もありそうな気がします。高槻については深く調べてみたいと思っ
ております。

 柏自体に隠された意味、もちろん新羅という暗号が隠されているということ、
それ以外にも何かありそうな気がして、これについても深く調べてみたいと思っ
ております。

 いずれにしても、すべては秦氏(広義の)にすべて関係してくるのかなと推察し
ております。
[20]酔石亭主さんからのコメント(2022年12月29日 20時13分07秒 ) パスワード

三つ柏服部さん、青海のあをさん

神門姓に関しては北区都田町に集中しており、少なくとも8軒あります。他には浜北区2軒、中区2軒、西区1軒、南区1軒となっていました。(注:必要であれば住所と電話番号もわかります)

都田町は本当かどうか怪しいのですが、桓武天皇が遷都する際の候補地の一つだったそうで、最終的には選ばれなかったものの、京田郷(みやこだごう)の地名や、当地に伝わる九重(宮中を意味する)の里の名前などが(かなり薄い)根拠として挙げられています。京田郷については浜松市城山遺跡出土木簡に「京田□□×」との表記がみえるとのことで、仮に平城京の終盤頃の時代のものとすれば年代的には整合しそうです。

実はちょっと前に細江神社や周辺地域を見て回りました。主な目的は楠の巨木探訪です。その際都田町の神門さんを訪問したいと思いましたが、山の神様も同行しており勝手な行動は非難されること必定なので諦めました。ちょっと残念。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2022年12月30日 06時11分06秒 ) パスワード

酔石亭主さん
三つ柏さん


三つ柏さん、良かったですね。
かなり絞り込んで頂いて。



どの番組で「神門」姓を見たのか
捜すのに  録画してあった番組を捜したけれど
見つかりませんでした。


その代わり   浜松の都田さん  という姓の女性を見ました。


     わたしにとって「都田」は「都田川」しかなくて
     井伊直親が朝比奈によって暗殺された場所というイメージで

     ところが「都田」って場所が浜北の西にあるのか。。。

         方向音痴なので   これ以上書くのを止めます

     井伊直親が殺された場所って   掛川?

         やっぱり方向音痴  丸出し。




アマテラス=高天原=高   は   ウリジナルによると「半島の高氏の子孫」

半島で食い詰めた高氏一族が日本へ移民し
だから日本の天皇家は経済難民の子孫。


こうやってマウント取って劣等感を優越感に摩り替えてる?


     ま、ウリジナルによると  漢字も半島人の発明だそうです
          言論の自由ということで。



神武天皇の兄上の  稲飯命 いないのみこと は新羅王の祖  とか言われるとかで

これも
   言論の自由
   神話の自由
ということで。



天皇家からして
ご先祖様達のお墓の調査に積極的じゃないから  
触れられたくないのだろう。


マッカーサーでも仁徳天皇陵から持ち出した数々を公表してない?とかで  アメリカとしても触れたくないのだろう。


       マッカーサーの方は
          聖櫃?
          マナの壺?
       ひょっとするとユダヤの民の宝を持ち出した?



世の中には公にして良いことと秘密は秘密のベールに包んで置く方が良いことの2つあるのかも。



エジプトのピラミッドには外付けの階段は無い?石段をエッチラオッチラ1段ずつ昇る?

メキシコのアステカ神殿のピラミッドの階段は45度?

出雲の出雲大社の御本殿の階段もかなり急ですよね?30度ぐらい?
45度?  だから  ものすごく長い階段にした?  何百メートル?


という感じで神代の時代を考えていると   ワケ分からなくなります。
[22]酔石亭主さんからのコメント(2022年12月30日 18時10分30秒 ) パスワード

三つ柏服部さん、青海のあをさん

井伊直親のお墓は浜松市北区細江町中川1862(都田川のすぐ北)にあり、殺害された場所は掛川市下俣228の東光寺脇だそうで、今はそこに平将門と家臣たちの首塚があります。グーグル地図で十九首塚史跡公園にて検索すれば出てきますよ。

驚いたことに、掛川の地名は藤原秀郷が将門や一門の首級を持ち京へ向かう途中、京から派遣された検視の勅使がお寺の南の血洗い川で首を洗い橋に架けたことに由来するとのこと。さらに驚くのは十九首がそのまま地名になっていることです。以前、美濃の御首神社に行ったことがありますが、こちらも将門の首絡みでした。

一方掛川の地名由来はWikiによれば、
中心部を流れる逆川の流れが、切り立った崖のように見える点から「缺けた川」と呼ばれ、次第に略されて「懸川」となり、「掛川」と改名された。ただ諸説ある。とのことです。

まあ、地名由来もいろいろな説がありはっきりしませんね。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2022年12月31日 00時26分20秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ありがとうございました。


>グーグル地図で十九首塚史跡公園にて検索すれば出てきますよ。

早速見に行って来ました。


天竜川を渡って  掛川に着いて  井伊直親は殺されたのですねぇ。
この街道って
ムカシの東海道だったのでしょうね。
新幹線の線路に近いですね。


井伊直親は普通に遠江から駿府に行こうとしてたんですね。



と、続きを長々と書いていたら   うっかり  平熱のスレッドを消してしまいました。
これは平将門の祟りかも?


ということで  簡単に  以下を記します:



十九首塚史跡公園のサイト
http://blog.livedoor.jp/shizuokak-izu/archives/4025599.html
2021年02月24日21:00
平将門の首塚伝説 斬首された井伊直親 十九首塚史跡公園  (静岡県掛川市大池1488-2他)


<十九首塚の伝説>および<戦国時代の掛川城下>
全文はURLへ


永禄5年(1562年)、今川氏真(いまがわ うじざね)家臣の遠江国井伊谷(浜松市北区引佐町井伊谷)領主 井伊直親(いい なおちか)は、小野道好の「直親は三河の松平元康(後の徳川家康)に内通している」という讒言(ざんげん)により、謀反の疑いをかけられました。

井伊直親が疑いをはらす為に駿府(静岡市)へ向かう途中、掛川城下で氏真の命を受けた朝比奈泰朝(あさひな やすとも)の襲撃を受けて斬首されました。

井伊直親が討たれた場所は、十九首周辺だと伝えられています。

そのため、平将門一門の首塚だという伝説が生まれたのかもしれません。

地元では十九首様と呼ばれており、毎年8月15日(変更になる場合あり)には例祭が行われます。



ありがとうございました。
[24]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2022年12月31日 15時45分22秒 ) パスワード

「どうする家康」キャスト

   (役)  (俳優)  (役)  (俳優)
徳川家康 松本 潤 徳川信康 細田佳央太
織田信長 岡田准一 お市 北川景子
瀬名/築山殿 有村架純 織田信秀 藤岡 弘
豊臣秀吉 ムロツヨシ 柴田勝家 吉原光夫
今川義元 野村萬斎 山県(飯富)昌景 橋本さとし
武田信玄 阿部 寛 水野信元 寺島 進
酒井忠次 大森南朋 久松長家 リリー・フランキー
本多忠勝 山田裕貴 松平昌久 角田晃広
榊原康政 杉野遙亮 今川氏真 溝端淳平
井伊直政 板垣李光人 糸     志田未来
鳥居元忠 音尾琢真 関口氏純 渡部篤郎
大久保忠世 小手伸也 巴 真矢ミキ
平岩親吉 岡部 大 たね 豊嶋 花
鳥居忠吉 イッセー尾形 お田鶴     関水 渚
於愛の方 広瀬アリス 鵜殿長照 野間口 徹
服部半蔵正成 山田孝之 於大 松嶋菜々子
石川数正 松重 豊 登誉上人 里美浩太朗
本多正信 松山ケンイチ 明智光秀 酒向 芳
夏目広次 甲本雅裕 佐久間信盛 立川 談春
本多忠真 波岡一喜 浅井長政 大貫勇輔
渡辺守綱 木村 昴 穴山梅雪 田辺誠一
登代 猫背 椿 空誓上人 市川右團次
大鼠 千葉哲也 千代 古川琴音
女大鼠     松本まりか 茶屋四郎次郎 中村勘九郎

この登場人物を見ると、だいたいのストーリーはわかってきます!

 本日は大晦日、夜は地元の天満宮で氏子総代と共に初詣客のお迎えです。
 良いお年を!
[25]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2022年12月31日 15時48分38秒 ) パスワード

エクセルの原稿をコピペしたら見にくくなってしまいました! お許しを!
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2022年12月31日 17時17分31秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございます。



ちょうど岡田准一の「FABLE」(殺さない殺し屋)を見終わったところでした。
岡田准一の名前を思い出せなくて
宮崎あおいの御主人・・・誰だっけ?
と思い出そうとして思い出せなかったところです。
歳ですねぇ。

          高岡蒼佑の名前は憶えていたのに。
          宮崎あおいの前夫さんです。



細田佳央太
誰だっけ?

と思ったら「ドラゴン桜  II」の  原健太役の男の子ですね。アスペルガーの男の子。




だいたいワタクシの好みの俳優が揃い踏みなので嬉しいです。


本多忠真もちゃんと描いてもらえるのですね。



名前を見てると  多くの人が命を落として  今の日本を作ったのだなと思います。
自分が  今  こうして幸せなのは   こういう人達のお蔭なんだな、と感謝するばかりです。
[27]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年01月01日 21時45分01秒 ) パスワード

 明けましてございますございます。本年がいい年でありますようお祈り申し上
げます。

 大晦日は、当所の天満宮にて初詣客を迎え、本日の朝は天満宮にて元旦祭。
 その後、秋葉山へ家族で参拝に出かけ、午後は羽鳥の服織神社に参拝に行きま
した。

 日本の神様への信仰の寛容性の原点は、古代の渡来人の多民族性にあるのでは
ないかと思います。なかんずく統制者(広義の秦氏)の融合政策的なコントロール
があったのだと思いますがいかがでしょうか?
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月02日 03時03分58秒 ) パスワード

三つ柏さん

明けましておめでとうございます。
19時間差です。


こちらの朝焼けはオレンジ色で   柿色かな?  初日の出の絵にピッタリの色です。


>日本の神様への信仰の寛容性の原点は、古代の渡来人の多民族性にあるのでは
ないかと思います。
>なかんずく統制者(広義の秦氏)の融合政策的なコントロールがあったのだと思いますがいかがでしょうか?


大昔の日本は  何でも  受け入れたのでしょうね。
  人口が少なかったから    可能だった?
  珍しいから受け入れた?   今のエンタメみたいなものだった?
  文化の質に負けてたから?  高度な技術とか斬新な発想に虜になった?
自分達の生活の質が良くなるのを期待して。



      戦後の日本のような時代だったのでしょうか?
      アメリカに負けた日本はアメリカ式をどんどん取り入れた。
           アホな部分もそっくり。笑
           現在進行形なのが  どうしようもない。



物部守屋の丁未の乱

物部守屋が本心では何を思っていたのかは想像しか出来ないのですが
上級国民達が尊仏だ廃仏だと争ってても
下級国民は  何でも  有難かったのかなと。


毎年、雑誌の新年号記念で  各種の占いが特集で掲載されますよね。
日本人の心をやっぱり掴みますよね。


何となく期待してることや懼れていることを活字で明文化して目の前に出されると心を掴まれてしまう。



秦氏は鉱山技術、鍛冶技術、養蚕、機織、酒造などの最先端技術を日本に伝播させたから
日本中の人々の心を鷲掴みして今に至る
なんでしょうね。


自分達の暮らしを守ってくれてると思えれば続くんでしょうね。

新しい年が明けたら近くの氏神さまにご挨拶に行き
人気の大神社にはもっとご加護があるような気になれるからワザワザ出掛けたいし。



こういう感覚が今でも根付いてるという所に秦氏の偉大な影響力を感じます。
もう日本人のDNAに刷り込まれているんでしょうね。
あれだけ日本がボロ負けしてアメリカ式を歓迎しても
ヤッパリ不安解消に頼りたい相手は神さまですものね。




丁未の乱(ていびのらん)
飛鳥時代に起きた内乱。
仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされた。
これ以後、物部氏は衰退した。
[29]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年01月02日 07時14分56秒 ) パスワード

 昨年の暮れ近くになって読んだ本で、古代についての謎が画期的にわかる本を
ご紹介したいと思います。
 ユダヤというとゼレンスキーが有名になってしまいましたが、アメリカにはユ
ダヤ人、ユダヤ系多国籍企業が多いので、ユダヤ国家がユダヤ人を助けるという
ことは必然のことだと思うのですが、どうでしょうか?
 日本にも広義のユダヤ系秦氏のDNAが入っておりますので、ユダヤ人にはシン
パシィを感じるはずではないかとも思います。
 ロシアにもユダヤ人が沢山いるので、なんでウクライナを攻めるのかと疑問を
持ちます。
 もっともユダヤ問題はそんなに単純ではない。ユダヤの身内においても勢力争
いはあったはずで、またこの日本の古代においてもユダヤ系渡来人の間の闘争が
あった・・・国譲り神話もその顕れであるのかなと推察します。

 さて、その本は同志社大卒の異色の歴史探究者─石川雅晟(まさあきら)氏で、
著書は次の5部作(第1部は世に出回っていないので、実際は4部作)であります。
 @ (『古事記』の中のユダヤ 平安京に隠された「ダビデの星)
 A隠された「ダビデの星」 東寺曼荼羅と平城京外京
 B魏志倭人伝の中のヤダヤ 出雲大社に隠された「ダビデの星」
 Cユダヤ系秦氏が語る邪馬台国 出雲神話、日向神話および魏は倭志倭人伝な
  どの相互関係。
 Dユダヤ系多氏が語る装飾古墳 描かれた△○の意味

 氏はDの前書きでこう言っています──
 「ユダヤ系秦氏を活写した古代史が書かれなくてはならないのだが、歴史学者
 には、精密な学問的裏付けがないものを書くことは許されないだろう。この一
 点に、歴史には素人ではあっても、騎馬民族渡来説やユダヤ的視点などとも合
 わせて、複合的に歴史を見ようとする著者の、存在意義がある。」

 純血的日本人・文化・歴史観では古代史・日本の歴史は解読できない。歴史の
進歩(解明)を拒んでいるのは、実は歴史学者であるという逆説が成り立ってしま
います。 (この問題もそう簡単なものではない。国体維持には歴史の確たる岩盤
が必要、それは崩せないのだと推察いたします。)

 しかしながら、考古学による発掘により、数多くの物証が出てきていますので、
いずれは真実の歴史は語られるのだろうと淡い期待は抱いております。

 石川氏の論述についてのポイントを、今後まとめてお伝えしようと思っていま
す。それと合わせて、富士林雅樹氏の『出雲王国とヤマト政権』の中に書かれて
いることも、やはりユダヤ関係がからんでおりますので、ポイントを書き出して
行きたいと思っております──


 
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月02日 10時27分39秒 ) パスワード

三つ柏さん

是非是非!
楽しみにしています。



日本の天皇はガド族の子孫ってハナシがありますね。    
    mikado  = ミ・ガド =  ガド族出身



神武天皇がエフライム族の系統であるのに対し、
祟神天皇はガド族の系統と推定される
とか何とか。

https://ameblo.jp/ohdoh/entry-10164282781.html
(日本人は失われた十部族) 祟神天皇からガド族に交替

面白いですよ。
[31]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年01月06日 20時56分47秒 ) パスワード

あを様
   今度の火曜日(10日)に、石川雅晟著『ユダヤ系秦氏が語る邪馬台国』を
  送ります(by air)。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月07日 02時20分15秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございます。
首を長くして待ってます。
感謝です。
[33]酔石亭主さんからのコメント(2023年01月07日 10時20分04秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 青海のあをさん


石川雅晟著『ユダヤ系秦氏が語る邪馬台国』はネット(幻冬舎ゴールドライフオンライン)でほぼ十分すぎるほどの内容(抜粋と再編集)が出ています。私は読み切れないので途中で投げ出しましたが…。リンクできているかわかりませんが、以下を参照ください。

https://life.gentosha-go.com/articles/-/595

石川氏は東三河の出身のようで、身近には感じられるものの、内容をざっと見た限りではちょっとどうかなと思います。なお『ユダヤ系多氏が語る装飾古墳』も同様に出ていますのでご興味があれば参照ください。

ところで、今年の大河ドラマの主役は家康になり、神君伊賀越えで家康は伊勢湾のどこから誰の舟に乗り、知多半島のどこに着いたのかに地元的な興味があったので、あれこれ調べいずれブログにアップしようと思っています。(注:この辺は少しあをさんとやりとりしましたね)

もう一点家康に関して興味が出てきたのが、彼はささら者だったとの説です。案外可能性は高いようにも感じられ、あれこれ調べてみたいとは思っています。三つ柏さんは確か自治会か何かで家康に関して講義されていたはずですが、この説に関してご意見があれば是非ご教示ください。ネットで少し見た限りでは、かなり詳しい論考をされた方は否定的な意見をお持ちのようです。



[34]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月07日 14時22分04秒 ) パスワード

酔石亭主さん


情報をありがとうございます。



神君家康公伊賀越えの件で  今は  甲賀ルート説もあるそうで
伊賀越えよりは甲賀通過の方が家康一行には安全だったろう、と。
なるほどね。


わたしは伊勢湾を越えた後  知多半島のどこに到着したのか?  今は羽豆岬だったのかな
と勝手な空想をしています。



家康には「ささら者」説もあるのですか?
私は子供の時に「家康は双子だった」というのを聞いたことがあります。



家康の「ささら者」説と秀吉の「山窩」説
だいたいの所の想像はしています。


    家康の先祖は徳阿弥という時宗の乞食僧だとか聞いたことがあるし

    秀吉の母は御器所の人=平清盛が相続した尾張国の土地出身だから元は伊勢伊賀の山猿
  

なるほど。
[35]酔石亭主さんからのコメント(2023年01月07日 19時03分50秒 ) パスワード

青海のあをさん

>家康の先祖は徳阿弥という時宗の乞食僧だとか聞いたことがあるし

その徳阿弥が世良田親氏で松平氏に婿入りして松平家・徳川家の家祖(初代松平親氏)になったとされているのですが、時宗(時衆)の乞食僧つまりは遊行僧(お札を配り踊念仏を行う僧)だった訳で、遊行僧とささら者は同じと見做せます。

ところが松平親氏は実在が疑問視されています。家康が世良田氏の系譜と松平・徳川の系譜を繋いだのでしょうが、これは繋がらない両者は無関係との論証が既に出されています。ではなぜ家康は世良田氏と繋げてしまったのか。それは家康自身がささら者の子だったから…。

松平氏の子孫の松平元康(後の家康)は実在していたが、彼はある時点で死にささら者の子に入れ替わってしまった。つまり家康は二人いたことになり、ここで徳川家康影武者説が登場し何人かの小説家が題材にしています。

この説の大元には村岡素一郎氏の「史疑:徳川家康事跡」があり、デジタル化されているので全文を読むことができます。(163ページもあるのでとても全部を読みとおす気にはなれませんが)村岡氏によれば於大の方もささら者となってしまいます。詳細は以下を参照ください。

https://dl.ndl.go.jp/pid/992561/1/1

まあ上記の説にも色々弱点があるし、詳しく検討するとなると膨大な量の史料に当たる必要があり、気力の衰えを実感する昨今、とても手に負えそうにはありません。ただ家康は、実在しない可能性のある親氏に自分を投影し系図を作成したのではないかとも思えてきます。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月08日 04時35分49秒 ) パスワード

酔石亭主さん

情報をありがとうございました。
国立国会図書館のデジタルコレクション   便利ですね   でも圧倒されて撤収して来ました。

読み続けたら  アタマ  爆発しちゃうもの。


頂いた  村岡素一郎氏の「史疑:徳川家康事跡」  
新しくスレッドを立てさせて頂きました。
ありがとうございました。

ま、ゆっくりじっくりボチボチと。



先祖を世良田氏にしたのは  

碧海郡の酒井がらみ?幡豆郡の坂井がらみ?

    幡豆の坂井がらみだったら  旧南朝方というか  わたしの親戚か!
    
    
ついでに酒井氏が清和源氏義家流に繋がるから?


それで清和源氏の中の  全然  有名でも何でもない誰も知らないような世良田を引っ張って来て  先祖にした?


 
本心は河内源氏の嫡流子孫にしたかったけど  ヤッパリ図々し過ぎるか?ってことで  
遠慮して  新田の傍流子孫にした?


などと勝手に妄想空想連想しています。


    入力しながら先祖との縁を思って涙が出て来ます
       赤川・坂井・真野・平野・鳥居・佐久間・川田・小栗・原田
    こんな辺りが私の先祖の刎頸の家だったんだなと。



ということで  私の父方の先祖が家康のお蔭で現代に至る結構裕福な一族でいられるから  感謝しかない。

その上に時宗だったら  わたしの母方の一族に繋がるし


ああ、こうして  ワタシ  という1人の人間が存在するのか  と感慨深い。
[37]酔石亭主さんからのコメント(2023年01月08日 13時19分18秒 ) パスワード

青海のあをさん

以下Wikiより丸写し。前半が世良田氏に関して。後半が影武者世良田二郎三郎元信に関して。

南朝方として[編集]
『浪合記』(江戸期天野信景の著書とされる)によると、満義の嫡子の政義は信濃国で南朝方を率いた宗良親王(後醍醐天皇の皇子)に仕えて世良田郷を離れる。しかし至徳2年(1385年)に、庶長子の親季とともに信濃国浪合村(長野県下伊那郡阿智村)で戦死してしまったという(浪合の合戦)。
政親には男子がなく、世良田郷領主の世良田氏嫡流はここに断絶した(政義には庶子の政満(義秋[注釈 6])もおり、ともに浪合の合戦[注釈 7]で散ったという)。
清水昇『消された一族』によれば、政親の娘の子・脇屋義則(新田義宗を父とする)が世良田の名跡を継いだという。義則の討死ののち、子・新田祐義は下野国真船村に住み、子孫は武田氏などに仕えたが、徳川家康の台頭に伴い真船氏を称した。真船氏の一部は戦国時代に陸奥国会津郡に移って瀬良田氏を称したとされる。
支族の江田氏は、新田宗家の命により丹波に派遣されていたが、細川氏のちには波多野氏に従うようになり丹波綾部の豪族として安土桃山時代まで命脈を伝えた。
三河松平氏が世良田氏後裔を称した経緯[編集]
三河国の戦国大名松平氏は、松平清康のとき清和源氏世良田氏の後裔と称するようになった。
清康は三河の支配層である守護足利系吉良氏への対立軸として、自身を新田源氏の名門に繋げるために、三河松平郷で没した政親(政義の子、親季の弟)の存在に着目したという[要出典]。さらに政親の祖先である世良田頼氏は三河守、三河の支配者の先祖として、着眼した清康は自身の安祥松平家の世襲の通称「次郎三郎」を用い、「世良田次郎三郎清康」と称したという。
清康の孫の松平家康は初め清康からの流れとして世良田氏を称していたが、1566年、三河統一のため三河守任官を望んだ際、「世良田氏に三河守叙任の前例はない」と拒否された。そこで家康は近衛前久に相談した。近衛前久は松平氏の祖とされる世良田義季が得川氏を名乗った文献があること、また新田系得川氏が藤原姓を名乗ったことがあることなどを突き止め[要出典]、家康個人のみが「徳川」に「復姓」(事実上の改姓)するという特例措置を得、従五位下三河守に叙任された。
豊臣秀吉政権の傘下に入ったころから、再び新田源氏に復姓していたようである。その頃安房の里見氏(新田一族)に送った書状では、徳川氏と里見氏が新田一族の同族関係にあることを主張している。1590年に関東へ移封された前後には、新田一族に繋がる岩松氏の末裔を召し出して新田氏の系譜を尋ねている事項が記録にある。
この過程で家康が整理させた徳川氏の系譜では、松平氏の祖は、親季(政親の兄)の遺児とする有親(長阿弥)ということにされている。
その伝承によると、親季の戦死後、その子の有親も南朝方として戦った(信濃で戦死したとも言う[3])。有親の子世良田親氏は北朝方の追捕を逃れて時宗の僧となって徳阿弥と称し、流浪した。やがて三河国に流れつき、加茂郡松平郷の領主 松平信重(左衛門少尉)の娘婿になり、還俗して松平氏の名跡を継ぎ松平親氏(松平太郎左衛門親氏)と名乗ったとする。

影武者・世良田二郎三郎元信[編集]
村岡素一郎は元康と入れ替わった人物を「浄慶」、後に「世良田二郎三郎元信」と名乗った願人であると推定している。彼の母親は、ささら者(賤民)の娘である於大、父親は新田氏嫡流(新田氏支流江田氏)で下野国都賀郡小野寺村出身の「江田松本坊」という祈祷僧としている。天文11年12月26日(1543年1月31日)、駿府の宮の前町で生まれた子は「国松」と名付けられたが、松本坊は彼が生まれた直後にどこへともなく出奔したとしている。
母子のみでは養育する事が出来なくなった於大は、有度郡石田村の富士見馬場にある久松土佐の家に再嫁する。異父弟の三郎太郎康元が生まれると、於大の生母で祖母にあたる源応尼に国松の養育を頼んだという。その後、国松は東照山円光院の住職・智短上人の門に入って「浄慶」と改名したとしている。しかし今川家の菩提寺で殺生禁断の地とされた増善寺山内で小鳥を捕らえたため、師から破門されたという。その後、浄慶は駿府を放浪していたが、又右衛門という男に攫われて、子供を欲しがっていた願人の「酒井常光坊」に銭五貫で売られたという。村岡は、願人を妻帯肉食の修験者と説明している[3]。
こうして少年時代を過ごした浄慶は、1560年(永禄3年)に「世良田二郎三郎元信」と名乗る。実父の松本坊が新田氏の末裔と称していたため、世良田姓を名乗ったという。そして同年4月の桶狭間の戦い直前、元信は元康の嫡男で駿府に人質としてあった竹千代(のちの松平信康)を誘拐して遠州掛塚に逃走したという。これが原因で、源応尼は同年5月6日に処刑されたとされる。
そして桶狭間で今川義元が織田信長に討たれて今川氏が混乱すると、「世良田二郎三郎元信」は同志を集めて浜松城を落とし、さらに勢いに乗じて三河を攻略しようとしたが、松平元康に敗れて尾張に逃れる。信長と水野信元を使い、元康に今川から離反するよう説得する。しかし元康が断ったため、怒った信長は、信元に命じて元康を攻撃する。しかし、元信が期待したような本格的な侵攻にならず、孤立した元信は元康に降伏し、信康の身柄を元康に返還することを条件に罪を許され、その家臣になったという。
これら、「世良田二郎三郎元信」の経歴やその父江田松本坊なる人物は徳川氏に伝わる始祖松平親氏の伝説と類似している。親氏は新田源氏の一族、世良田有親の子として生まれ、時宗の遊行僧として三河に漂着、酒井氏の入り婿になった後、松平氏の婿となったと伝えられている。しかし、この伝説には疑問も多く、松平氏の先祖を粉飾するための伝説とされている。
「元信」の入れ替わり[編集]
村岡素一郎の主張では、元康は1560年(永禄3年)12月4日、織田信長と戦うべく尾張に向けて侵攻を開始したが、その途上である尾張守山において12月5日、元康が阿部正豊(弥七郎)に暗殺されたという。
これは家康の祖父松平清康が家臣の阿部正豊(弥七郎)に暗殺された、守山崩れと酷似している。村岡はこの守山崩れの伝承は、元康の死をカモフラージュするために清康の死として語られたのだと主張している。
そして元康の死を秘匿し、その身代わりとして立てられたのが、世良田二郎三郎元信であるとする。当時の松平氏の三河は、信長と今川氏という両大名によって挟まれていた。信康はまだ3歳の幼児である。そのような幼児が信長や今川氏と渡り合えるはずがないと考えた家臣団は、信康が成長するまでは、替え玉である世良田二郎三郎元信に松平氏の家督を代行させたというのである。
1562年(永禄5年)、元康に成りすました元信は、清洲城に出向いて信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。翌年、元信は松平家康と改名し、「二人の家康」から「一人の家康」となったという。
信康切腹事件[編集]
1579年(天正7年)に松平信康が切腹するという事件が起こる。この事件は信康とその生母・築山殿が信長の宿敵である武田勝頼と内通していたことが、信康の正室で信長の娘である徳姫によって露見し、激怒した信長が家康に信康と築山殿の処分を求めたという事件である。家康はこの条件を呑み、同年8月29日に築山殿、9月15日に信康を殺害したとされる。
詳細は「松平信康」を参照
村岡は「すでに元信(家康)には結城秀康(於義丸)と徳川秀忠(長松・竹千代)という実子が生まれていた。父親の愛情としては、血のつながらない信康より、実の子に家督を継がせたいはずである。だから元信は、信長の処断要求が来るや、これを好機として二人を抹殺してしまった。」と主張している。また、清瀧寺にある信康の墓所が質素で、後に改葬もされていないとして、実子でない根拠としている。

長〜い引用は以上です。問題は家康のおじいさんの清康で、彼は世良田次郎三郎と名乗っていました。家康が松平氏と世良田氏を接続させたとしたら、清康も世良田を名乗っている点と不整合になります。ただ清康にはおかしな点が幾つかあります。清康はその前後の松平氏に比較すると資料がほとんどなく、発給文書について原文書とされるものは一点もないので謎めいた人物ともされているようです。そして確認できる名称は「清孝」名義のみ。この矛盾をどうすれば整合させられるか考えてみます。

家康は松平親氏を松平家・徳川家の家祖として世良田氏に接続させました。それ以降の代は世良田氏の名前を抜いて自分自身の代で再び世良田氏を前面に出し徳川に改姓しようと思ったはずですが、間を全部抜かせば唐突過ぎると考えたのか、間に世良田氏を名乗る人物を一人入れれば、信憑性が高めたまると思ったのかは不明ですが、大活躍の清孝に清康の別名を捏造して世良田氏に繋げる工作をしたと推定されます。

こうした操作のため清康の名前が発給文書に出てこなくなったと考えれば筋は通りそうです。また家康は1566年24歳で朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け徳川に改姓していますので、本来の家康(元康)が亡くなったのは1560年の桶狭間の戦いから1566年の間ではないかと思われます。

ただ1563年に元康から家康に改名しているので、1560年から1563年の間とも言い得るかもしれません。いずれにしてこれらの経緯により、家康は新田氏系統の清和源氏であると目出度く朝廷の公認を得たことになります。そして後世、家康の操作に基づき「三河物語」などの信憑性に疑いがあるとされる史書が作成されたのでしょう。

説明としてはやや苦しいし、まだ弱点もありそうですが、思い付くのはこんなところしかありません。ご了承のほど。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月09日 04時48分49秒 ) パスワード

酔石亭主さん

要点のコピペをありがとうございました。
大変な作業でしたね。
感謝です。


幼心に聞いてたハナシの詳細が見えたように思います。
例えば
「家康は双子だった」
というハナシの   入れ替わった説。

   ああ、そういう経緯のハナシだったのか、と。
   ま、子供だったから  細かい所は全く記憶に無かったです。



碧海の酒井氏との関係も分かり易かったです。



前レスで出てた  お大さまの「ささら者説」  では
わたしは  お大さまより  華陽院さまの出自の方が  アヤシイ  と思っています。

     男性より女性の方が  出自ロンダリングが簡単だったんじゃないかな、と。
     華陽院さまは一体どういう出自だったのか。
     

ま、華陽院さまのことは世間にバレてるから   三河の人間なら誰でも知ってるから  
それで  お大さまの出自を   お大の出自も卑しかった  とわざわざ貶めたのかな、と。     
 
          華陽院さまの晩年  穏やかな日々だったらいいな  と願っています。
          気の毒過ぎるから。



村岡素一郎という人物については全く知らないわけで
どういう経緯で家康の出自をアヤシイとしたのか  入れ替わったとしたのか

     政治的意図?
     明治政府にオモねた?


孫の榛葉英治は すぐに  元は静岡の出身だな  と分かるわけで

     掛川の人なのよね
     つい先日  掛川が出て来て  なんか  パワー来てる??南朝方がらみ?と思ってた所!

まさか  村岡素一郎  が出て来るとは思わなかったな。



夫の主治医の1人がDr榛葉なんですよ。
     名前から  ああ、仁徳天皇の兄上の子孫か、  とスグに分かった。
     元は静岡の人か、と。

     でも、Dr榛葉は信濃経由で大阪に行って阪大出てアメリカの超有名大学で学んで医者やってる。

        今年になって榛葉先生の同僚に足利先生というのがいるのを知って驚いてたところです。笑

     ヲイヲイ
     新年早々ご先祖さまから  パワーが来てる? 何を伝えたいんだろう? 
     と驚いているところです。



ではレス≪37≫  読み返します。
ありがとうございました。
[39]酔石亭主さんからのコメント(2023年01月09日 18時33分53秒 ) パスワード

青海のあをさん

家康二人説の最大の難関は朝廷からの叙任と徳川への改姓が1566年(25歳)である点です。桶狭間の戦いが1560年(19歳)ですから、19歳から25歳の間の時点で一人目の家康が死去し、二人目の家康が系図の調整をすることになり、20代の前半の人目に付きやすい時代に入れ替わりが成立するか大きな疑問が湧いてきます。そんな若い時代に影武者か一人目の家康に似た人物を探すのも、或いはすでに影武者がいることもなかなか難しそうです。仮に20代前半で入れ替わってしまったら、桶狭間の戦いから始まった「どうする家康」があっという間に「どうしようもない家康」で終わってしまいますしね。

小説・「影武者徳川家康」では関ヶ原の戦い(1600年、59歳)で西軍に暗殺され入れ替わるとなっており、年齢や立場の点では筋が通りそうに思えるものの、上記の点を踏まえれば有り得ない話になってしまいます。そうは言っても、二人の家康はわたくし的には魅力的な説なので、かなりの難路ではありますが一度じっくり二人の家康が成立し得るかどうか検討してみます。きっと breakthroughできる狭き道があるはず…。

>孫の榛葉英治は すぐに  元は静岡の出身だな  と分かるわけで掛川の人なのよね

確かに榛葉姓は掛川に多いのですが、「榛」は木偏に秦ですから、ひょっとしたら秦氏絡みの姓かもしれません。静岡県榛原郡、現在の島田市初倉には秦氏が居住しており、谷口原にある敬満神社は、秦氏の租神である功満王を祀っているとされます。静岡の大井川の名前は秦氏が治水のため京都桂川に大きな堰を造った大堰川(おおいがわ。大井川)にちなんでいます。

全くの妄想ですが、榛葉さん一族は元々は島田市周辺にいて何らかの事情で一族挙げて掛川に移住したのではないでしょうか?そこでふっと思い付いて名字由来ネットでチェックしたところ、

関連姓は榛原。現静岡県である遠江国榛原郡榛原郷がルーツといわれる。静岡県掛川市や神奈川県、東京都などにみられる。

とのことで、榛葉さんは島田市にもおられることから、秦氏は別としても基本部分は当たりだったようです。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月10日 09時49分29秒 ) パスワード

酔石亭主さん


>桶狭間の戦いが1560年(19歳)ですから、
>19歳から25歳の間の時点で一人目の家康が死去し、
>二人目の家康が系図の調整をすることになり、
>20代の前半の人目に付きやすい時代に入れ替わりが成立するか大きな疑問が湧いてきます。
>そんな若い時代に影武者か一人目の家康に似た人物を探すのも、或いはすでに影武者がいることもなかなか難しそうです。


家康双子説なら簡単ですね。

   他人には姿形も似てるでしょうし
   家臣にとっては  どっちの家康も「殿」である資格はあるし





>小説・「影武者徳川家康」では関ヶ原の戦い(1600年、59歳)で西軍に暗殺され入れ替わる

暗殺事件でなくても
その後の大坂夏の陣で真田幸村が家康の本陣を攪乱したハナシから
     家康が切腹を覚悟したとか家康が討ち取られた伝説とか
ありましたよね。



わたくしなんて、何度も死にかかってます。

1度は  矢作川を横断中  死神に持って行かれそうになったことがあって
その死神が日本的な黒子スタイルではなくて西洋の黒ずくめの鎌を持った姿だったので

     なんで?

と非常に不思議でした。


取り敢えず  一応  五体満足で生きてます。非常に不思議なのですけどね。
だから家康も危機一髪の経験を何度もして (ウソだろ?ホントにまだ生きてる?) と噂になったのかなと。



それより今朝は驚いた!

テレビを点けたら  
藤井vs羽生 @ 掛川   掛川城は家康が氏真から奪還した  
とか言ってた。

ヲイヲイ
掛川?

次回は高槻??
高槻と言ったら  神服神社  ですからね。
服部連さんがらみですから。



掛川城=朝比奈氏というイメージなんですけどね  わたくし的には。
近所の人が朝比奈一族で  (朝比奈の殿様は歯医者やってた  と聞いたことがあります)
近所の人は掛川の南東の御前崎出身です。
御前崎のかなりの家だったんだなと最近分かりました。


それで    「静岡県人の誇りの家康は大嫌いだ」  と。
ま、気持ちは分かる。


わたしも  尾張人の誇りの信長は我が家とは犬猿の仲  ですからね。
     うちは織田彦五郎さん方。信長の弟の信行方。2人とも信長に暗殺されている。
だから彼女の気持ちが良く分かる。



20年ほど前、同業他社の女の子がわたしに挨拶に来て、出身は掛川だと言ってました。
掛川のいいとこのお嬢さん、いいとこのお嬢さん以上、という感じの女性でした。

わたしに挨拶に来たということは  わたしのコトを知ってた?  と謎です。

    
彼女の会社は日本を代表する大会社で  彼女の会社の人は同業他社に対して  完全無視。
彼女の会社の爺さん達は同業他社の爺さん達と仲が良いけど若い世代は互いに無視。
     どっちか書くと  バチバチ火花が飛び交う感じ。 思わず「火鉢」って書こうとしちゃった。
     「火鉢」が飛び交ったら  大変だろぉ〜がぁ〜。


彼女を知ってからは  わたしも  同業他社の同年代には
自分から挨拶に行くようにして  いいとこのお嬢さん  ぶって   ブリッ子してました。

     たぶん  平家方で南朝方  だったんじゃないかな?彼女の名字からすると。
     ま、母方でわたしと同じ名字だったのかも。
[41]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年01月11日 14時00分55秒 ) パスワード

「はとり」・「は」についての考察

 「はっとり」はもともと「はとり」が語源だと思います。
 根拠としては、古語辞典を調べてみますと──
 「あかはとり」(明衣)・「あかは」(明衣)という言葉があります。

 「あかはとり」と「あかは」同じ意味を表します。
 どういう意味かといいますと──
  @神事にあずかる者が着る浄衣。
  A天皇の「御湯殿」に奉仕する蔵人(くろうど)などが着るかたびら。
ということ、つまり「ころも、ふく」であります。

 これらのことばから「あか」を取ると、「はとり」と「は」になります。
 つまり、「はとり」・「は」を、漢字で当て字すれば、この場合は「衣」
であります。
また「服」を当て字にすれば、まさに「服」(はとり)・「服」(は)となり、
「はとり」(服)の基本的な概念(衣服)を表すことになります。

さらに、「織」を当て字にすれば「織」(はとり)・「織」(は)となります。

さらに、「はとり」は「服織」、あるいは「羽鳥」と当て字されますが、
それぞれに字面からくみ取れる概念を込めてのことであるように思われます。
 「服織」は「は」を織るの意味、「羽鳥」は「鳥」をトーテムとする」部族
の意味なのではないかと推察されます(秦氏系)。

 シュメールではトーテムを部族名としたという。セム族は自族の「神」を部
族の名に冠したといいます(川崎真治著『姓氏・地名の起源』) 。
 そこから類推すると、シュメール的に、「はとり」の部族は、「衣服」をト
ーテムとした部族というイメージが湧いて来ますが、トーテムは動物であるこ
とを考えれば、この場合の「は」(衣服)は、羽(羽根=鳥)ではないかという考
えに至ります。つまりは、この種族は、鳥をトーテムとし、「は」を織った種
族ということになりそうです。 

 では、「はとり」の「とり」は何か別の概念を表すのでしょぅか?
「はとり」のついた別の言葉を探すと──
 @呉織(くれはとり)
A穴織(あなはとり)
 B漢織(あやはとり)
C縑(かとり)
D倭文織(しとり)
等があります。
「とり」を「部族」の意と解釈すると整合性が取れなくなります。

 結局は、古代(4〜5世紀を中心)の多国籍の渡来人の言葉を理解しなければ、
この問題は解けないものと思います。
 東巌夫氏の『騎馬民族がもたらした日本のことば』という労作があります。
 即ち、日本への渡来民は主として陸のシルクロードを通ってやって来ている。
ということは、いろんな言葉があるけれど、バイカル湖付近のテュルク語(突厥
語)が参考になるのではなかろうかと紐解いてみますと、「tut」という動詞が
見いだされました。日本語に訳すと「とる」という広い意味になります。
 広い意味と申しましたのは、「手に入れる」「「占有する」「交わる」「設置
する」「掌握する」「実行する」等々の意味を有するということであります。
 つまりは、「はとり」は「衣服を占有して織る」ということになります。
「とり」は「占有して作る」、「専門につくる」とか言う意味で、ひいてはその
部族を指すと言っても間違いないことになります。

 とりあえずはここまで──
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月11日 18時00分38秒 ) パスワード

三つ柏さん

壮大な説明をありがとうございました。
間違わないように調べ調べての書き込み、お時間がかかって大変でしたね。
そして壮大なロマンにも満ちてますね。


シルクロード
紀元前2世紀あたりから。

テュルク=突厥=トルコ系=ユーラシア大陸のド真ん中でペルシャや隋や唐とも関わる


セム族
ノアの箱舟のノアの息子の1人の子孫で
中東〜西アフリカ〜アラビアの人々



ユーラシア大陸の人々が「物」を携えて縦横無尽に動き回って遂に日本に辿り着いた。


>結局は、古代(4〜5世紀を中心)の多国籍の渡来人の言葉を理解しなければ、
この問題は解けないものと思います。

まさに!


>「あかはとり」(明衣)・「あかは」(明衣)

「あか」というのは現代人の我々には「赤」を連想するのですが
古代人にとっての色は「白」なんでしょうね。


        明白
        って、言いますからね



【明衣】

@ 神に奉仕したり物忌のとき、沐浴後に着る白布の浄衣。また、神事や祭事に着る白布または白絹の狩衣。あかはとり。
※令集解(718)学「釈云。唐称二明衣一者。是沐浴衣也」 〔論語‐郷党〕

A 平安時代以来、宮中の御湯殿で奉仕する蔵人が着用した白色の生絹(すずし)の衣服。
※建武年中行事(1334‐38頃)六月「頭もしは五位蔵人の中、これも山かげの末、御ゆ殿にまゐる。うへのきぬぬぎてうへに明衣をきたり」




>シュメールではトーテムを部族名としたという。
>セム族は自族の「神」を部族の名に冠したといいます(川崎真治著『姓氏・地名の起源』) 。
>そこから類推すると、
>シュメール的に、「はとり」の部族は、「衣服」をトーテムとした部族というイメージが湧いて来ますが、
>トーテムは動物であることを考えれば、この場合の「は」(衣服)は、羽(羽根=鳥)ではないかという考えに至ります。
>つまりは、この種族は、鳥をトーテムとし、「は」を織った種族ということになりそうです。 


実に面白いです!

前にも書きましたが
うちのカナダの親戚のトーテムは「カラス」なんですよ。
で、カナダの親戚の顔はアジア人そのものです。

     カラスが太陽をクチに咥えている  そういうトーテムです。

まるで  神武天皇一派が日本まで来た後に  更にカナダに渡った  という感じです。


なんだか  カナダの親戚の日本名は「羽鳥」にしてやりたい気になります。


服部匡志先生のドラマ上の名字は「羽鳥」でしたよね。
[43]酔石亭主さんからのコメント(2023年01月12日 08時58分27秒 ) パスワード

三つ柏さん 青海のあをさん

シュメール⇒スメル山=須弥山(世界の中心の聖山)、須弥壇。シュメールは至高、頂上と言った意味を持つ。
日本においては:首長、朱(水銀で死と再生を象徴)、主(主上で天皇)、珠、酒、崇やスサノオ(朱沙の王=水銀の王、スーサの王)、スメラミコト。
英語圏においては:super、summit、supreme、supra、sutraなど同様に至高、頂上の意味を持つ。シュメールが世界の中心で東西に伝播。

イスラエル⇒ヤハウェ神:邪馬台国、大和、八幡⇒ヤ(神、蛇)、幡(秦氏)。以下はヤハウェ神に関する私の旧ブログからの引用。

【大地である神はヤハウェ神(Yahaweh)です。そこで酔石亭主は辞書を使ってヤの文字を調べてみました。案の定、ヤ(也)は蛇の形を示す象形文字でした。神は、エデンの園において蛇に姿を変え、アダムとイブをそそのかし林檎を食べさせたのです。

日本でもヤは蛇であり神です。例えばヤマタノオロチですね。九州地方では、蛇のことをヤアタ・ロという。また、イエス・キリストのことを耶蘇(やそ)という。耶=神であり、蘇=よみがえる、だからイエスは正しく蘇った神となります。

日本の『古事記』においても、神は蛇であり、また矢として描かれています。例えば三輪山の神大物主は、蛇であり丹塗矢でもあります。同様に、イスラエルの神ヤハウェはヤ(蛇)であり矢なのです。

神は蛇であり、また大地でもあります。大地の(地)とは、角川の字源辞典によれば、字形が意味を表す(土)と、音を表す(也)とからなる形声文字でした。そこで(地)の字義は、蛇のようにうねうねしている大地の意です。これらから、神は大地であり、蛇であると断定できるでしょう。つまりこの三者は、三位一体と考えられます。

創世記によれば、土に神が息を吹き込んでヒトが創造されました。人類の発祥は大地の発する気によるものでした。今までの説明から、神の息とは大地の発する気を意味しているとすんなりご理解いただけますね。ここで人類進化の謎と『旧約聖書』創世記が完全にリンクしました。

大地すなわち神の発する気により、ヒトは共通祖先から分かれました。こうしてヒトは、大地溝帯の大地に発祥しました。『旧約聖書』創世記エデンの園の物語は、人類発祥の真相を、象徴的にではありますが、極めて正確に描写していたのです。】

(ヤハウェ神を奉じる)秦氏が機織りを持ち込んだから機(はた)織り⇒波登里(同系統:波土里、波登利、八土利)⇒羽鳥⇒服織。機織りをする部族が服織部⇒服部。

服部天神宮 由緒
その昔、朝鮮から機織の技術を我が国に伝えた人々に「秦氏」の姓氏を与えて、これらの子孫の多くがこの地に住まいました。「服部」の地名は秦氏の人々の住むところとして「機織部」から成りたったものと思われますが、第十九代允恭天皇の御代に、織部司に任ぜられ、諸国の織部を総領した「服部連」の本拠地がこの服部であります。

機織り巫女⇒卑弥呼⇒機織りの杼(ひ)でホトを突いて死去⇒古墳に鏡と共に葬られる⇒古墳から取り出した鏡が天照大神(死と再生)⇒死と再生の象徴⇒蚕⇒秦氏の蚕ノ社(木嶋坐天照御魂神社)⇒秦氏とアマテラスが心的に結合。
秦氏の摩多羅神⇒天照大神と同体。アマテラスからアとスを除くとマテラ⇒摩多羅。
参考:麻氐良布神社(まてらふのかみのやしろ)祭神の一つに天照大神が入る。阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)祭神:天日神命(あめのひのみたまのみこと)は天照大神とは異なる系統の、対馬での信仰に由来する太陽神とされる。

熯之速日神は「新撰姓氏録」で摂津国神別の服部連:「熯之速日命十二世孫麻羅宿禰之後也」、河内国神別の服連:「熯之速日命之後也」。熯を音から杼と読めば服部連に繋がる。

まあほとんど思い付きのレベルですが、全てが密に絡んでいるように思われます。参考まで。

[44]酔石亭主さんからのコメント(2023年01月12日 11時15分25秒 ) パスワード

三つ柏さん 青海のあをさん

すみません。以下は語句が不十分でした。

シュメール⇒スメル山=須弥山(世界の中心の聖山)、須弥壇。シュメールは至高、頂上と言った意味を持つ。

意図する内容は以下です。

シュメールに由来する「ス」、「シュ」は至高、頂上と言った意味を持つ。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月12日 14時57分51秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ありがとうございました。
面白いですね。


>ヤ(也)は蛇の形を示す象形文字でした。

驚きました。


精読して来ます。
ありがとうございました。
[46]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年01月14日 21時58分59秒 ) パスワード

 新年早々に服織神社に初詣に行った折、拝殿の垂れ幕に神紋があるのを見つけ
ておりました。今まで全くわからなかったので、ある意味びっくりもし、嬉しい
気持にもなりました。が、その紋は「鶴紋」であり、今までの想定にはないもの
でした。
 これが、創成時からの神紋かどうかはわかりません。色々な変遷があったはず
です。羽鳥?が新熊野神社に寄進された時期もありましたし・・・。
 でも、全く情報がないよりも良かった、今後の手がかりとして考えて行きたい
と思います。
 
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月14日 23時42分29秒 ) パスワード

三つ柏さん

鶴紋ですか。
ちょっと調べて来ました。


    鶴は千年の寿命と言われてめでたいシンボルだが

上古から鳥類の多くは太陽神の使いとされており
鶴を神紋とする神社は

    物部神社、高麗神社、天照神社ほか

少なくない。



甲斐源氏南部氏の家紋として有名。



ここでビックリ!
まだ18歳の4月(大学1年の  入ったばかりの時に  向こうは4年で)
なんだか「結婚?」コースになって行った人がいて
いろいろ誤解が生じて自然消滅。


    女子校出身でオトコとは小学校3年までしか遊んでなかったので(汗)
    突然オトコのいる世界に放り込まれて(えぇ〜?オトコもご飯食べるの?と知った!)恥ッズ

    オトコの中には織田信長の家臣の中でも超有名人の子孫とスグに分かるのとか
    うちの親戚で新選組から御陵衛士になって新選組に粛清された人物の家の子とか
    うちの一族で当然反信長で今川方家来で潰れた三河の親戚の男の子とか
    盛りだくさんのオトコに囲まれて


    その他にも馬の骨のオトコ!男!おとこ!オトコ!に囲まれまくって目が回りそうな日々だった
    

すごい家の人で   わたしなんか  全く有り得ない家格の人だったから自然消滅でラッキー!  でした。


ところが!
昨年の暮れ!

その人の家は  実は  反信長で  我が家に与力してくれてた家だったのが分かりました。

全く知らなかった。
大名家だったから、我が家には関係無いと思ってました。
反信長だったから、信長や秀吉が退場して家康の登場で彼の家は大名家として復活に成功したんでしょうね。



そして!

三つ柏さんがお書きになった「鶴紋」を調べていたら
その人の家が「鶴紋」使用で載っていました。



ちょっと!ちょっと!ちょっと!
何かパワーが来てるな   とは思ってたけど   コレだった?
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月15日 03時14分22秒 ) パスワード

早速レスを頂きました:
以下コピペ


ちょっと方向が違うかもしれませんが、ね。



私どもの美作地域では「鶴の紋」と「葵の紋」は馴染み過ぎてご当地のプライドの一つですよ。



https://asamoyosi.wordpress.com/
2022年7月の項目で7月18日に出て居ます。

津山森藩の家紋です。
そして越前松平・結城家の葵の紋です。


今でも津山を中心に鶴丸はあちこちで存在して居ます。
また我が地の「熊野神社」も「鶴丸」を神紋として居ます。
紀州熊野神社の直接分祀の神社です。

勿論「八咫烏」も使用して居ます。



http://www.tsuyamakan.jp/tourismtips/2019/03/tsuyamagojyouin/
コレクター心をくすぐる「津山城御城印」が登場!
津山市公式サイトです。



下記が我が地の熊野神社本宮です。
現在は本宮の氏子は少なくは約三百軒程です。

拝殿の扉に○に鶴の紋がおぼろげながらに見えます。
https://www.okayama-jinjacho.or.jp/search/19220/
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月15日 03時25分27秒 ) パスワード

ということで
奈文研・藤原宮跡資料室 館外展示編
2022年7月18日より無断コピペ
全文はURLへ
https://asamoyosi.wordpress.com/2022/07/


津山藩初代藩主は森蘭丸の弟・森忠政。
慶長8年に美作国に入封、翌9年に鶴山を津山と改め築城に着手。


津山は元は鶴山だったのか
           

元和2年に完成するまで13年の歳月を要したとか・・・(津山市HPより)


森家4代の後、統治したのが結城秀康所縁の松平家。
松平家は幕末まで続くことになります。

城内で目にする鶴の丸の家紋、鶴山にちなんだものかと思っていたのですが、森家の家紋だったのですね。
何気なく見ていた鶴の丸の家紋ですが、納得しました。
ちょっと一手間かけて確認するのって、本当に大切なことですね。



森家の次に津山藩を統治した松平家。
言わずと知れた葵の御紋です。

津山藩は森家と松平家の統治でしたので、この二つの紋をよく目にするわけです。


津山の人にとっては両家共に由緒ある家柄、誇りに思っていらっしゃるのではないでしょうか。

この二つの紋所を見ていて気がついたことは、高野山・奥の院に津山藩・松平家の墓所はあったかしらということ。
森家の墓所は知っているのですが、今度調べてみることにします。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月15日 12時37分06秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございました。

本日1月14日(土)
「ユダヤ系秦氏が語る邪馬台国」
を頂きました。


1月10日の消印
ちゃんと見られました。
早かったですね。



ちらちらと見ましたが

p4の「ユダヤの星の使用は近世になってから」と言われているというハナシ

     
関ケ原の戦いの絵に「六芒星」の紋を付けた人達が描かれていますから
面白いですね。


では読ませて頂きます。
本当にありがとうございました。



やっぱり紙の本は読み易いですね。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月16日 14時17分35秒 ) パスワード

三つ柏さん

頂いた「ユダヤ系秦氏が語る邪馬台国」。
まるでパズルを解くように読んでいます。
つまり衰えたわたくしのアタマには  難解  ということです。


     太安万侶 ユダヤ人認定説には驚きました


一応、旧約聖書は習ってるし
失われたイスラエルの民がどこかに消えた話も知ってるし
玄関先に貼っておく「蘇民将来子孫なり」は「パスオーバー」の話だなと分かるし
家の入口3か所に棕櫚の葉っぱを飾るのも日本のお正月飾りと同じだなと知ってるし


    日向国が秦氏が転住させられてた所?
    驚
    まだ  ちゃんと読んでいないです


出雲国伝説・日向国伝説・その他
分かったような気になって  ああ  やっぱり分かってない
と堂々巡りに陥ってます。



稗田阿礼と太安万侶
この人達がユダヤ人だったなら
なるほど纏めるのは楽勝の話だったのか
です。



とにかく  登場人物のお名前が脳に定着しないです。
 
やっぱりゴチャゴチャしてこんがらがって   
ムカシの同僚で  爺さんに  本を貸すと全く戻って来ないから  「読んでる?」  と訊くと
「3ページ読んで4ページ元に戻って読み直して、の繰り返し」
と言ってましたが   まさに  今のワタクシであります。


「誰のことだっけ?」
です。
[52]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年01月17日 15時38分41秒 ) パスワード

 古代の物事・歴史は「当たらずとも遠からず」でいいのだと考えています。
「流れ」に沿った解釈が出来れば、60点以上の「可」であります。
 所詮、100点の正解は無理なのですから・・・。
 点と線をつなぐミステリーとして、楽しんだらいいと思っています。

 「勾玉についての考察」

 7年程前に、熱田神宮へ行き、「出雲名宝展」を見てきました。
 そこに展示されていた宝物の中で、一番魅了されたのが「勾玉」でした。
 「勾玉」といっても、「あを(青緑)色の澄んだ硬玉」で、大きさは3.3pあ
るということでした。出雲大社の境内から見つかった物ということであります。
 光に当たったて光るそのあを色の勾玉は、私の目を釘付けにしましたが、観客
の列に押されて離れざるを得ず、残念な気持ちが残っております。

 最近の出来事として、山に捨てられた猫、この猫は目が青く輝き、こちらのす
べてが見通されているようで、恥ずかしくなるほどでした。やはりその猫に釘付
けとなってしまいました。その後、その猫のために毎日食事を運んでやりました。

 「勾玉」の形の解釈として、ヘブライ語の「❜」(ヨッド)、つまり「ヤハウェ」
「ヤー」を意味するという有望な説があります。これはこれで「可」、むしろ「秀」、さらには「優」と考えます。勾玉の形状から言うと、他の解釈が見つか
らない、つまりそれしかないのではと思われるからです。
 神社の太鼓などに描かれている「三つ巴」のヨッドマークも、同源で三位一体
を表すとの説も「可」であります。

 いずれにしても、古代においては、呪術性、シャーマニズム、トーテミズム
とは切り離せない世界観であったように思われます。
 勾玉の持つ呪性というものは、その形状と材質、色にあると思います。翡翠
色の勾玉、翡翠とは、もともと「カワセミ」(とり)のことであるということです。
曲がった形状は「目」の形なのかも知れません。目は「メ」であり「マ」でも
あり、「ミル」「モル」つまり見守るという概念を表します。神の守りというこ
とにもなります。

 また、「目」は古事記にも出てきますが、左目からは天照大御神、右目からは
月読命・・・とあり、これは古代エジプトのラー神の両眼、日神と月神につなが
っていきます。古代エジプトといえば、ユダヤの捕らわれていた時代があり、結
局はヤハウェにつながってきます。

このへんでやめておきます。ミステリーはミステリーで残しておいたほうがい
いと考えます──
 
 
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月18日 01時48分06秒 ) パスワード

三つ柏さん

>ミステリーはミステリーで残しておいたほうがいい


日本の勾玉。

ナザールボンジュウ
    目玉をモチーフにしたトルコのお守り。
    悪い視線をはね除けるという意味。


トルコ土産に目玉のお守りを貰った時は当惑しました。


なるほど  日本の勾玉みたいな物  と思えば  頂いたことに感謝せねばと思います。
 
      しっかし!
      TOO LATE!
      何処にあるか  今では思い出せません。
      事情があって汚屋敷状態になってるので  見当もつきません。


          去年の4月初めに上の階からの漏水に悩まされ昨日やっと工事が終了  たぶん(祈)

          ということで・・・
          他人が何人も出入りするから見張ってなきゃいけないし

             とんでもないことをやってくれますから
             ウォッシュレットの上に大のオトコが乗って天井にペンキを塗ろうとしたりとか


昨日終わったということで??  やっと  昨年3月の状態に戻せそうな段階になりました。


で、今朝はどういうわけか
パソコンを立ち上げたものの  マイクロソフトの旗は出てるけど  他が全部消えてて
    ヲイヲイ  何なの?  何の罰なの?
でした。汗



その前に
頂いた「伊賀市史」のDVDをPCに取り込んで   縦の日本文をPC上で読むのって勝手が違って  アタマに残らない
     本当は歳のせい
     横に変換すれば良いけど  どうやってやるんだっけぇ〜?(叫)

それで
紙に印刷しようとして  

あれ?DVDはどうやって取り込んだのだったっけ、とか
どうやって印刷するんだっけ、とか
全く忘れてしまって

日々が経ち


今朝はPCが(勝手に初期化されちゃった?  ヲイヲイ!)でした。
初期化から、いろいろどうやるのか、もう忘れちゃってるもの。
去年の3月あたりにウッカリ初期化した時はちゃんと出来たのですが。


いやぁ、何のパワーが来てるんでしょう?
心の中で「どうする家康」を採点すると「鎌倉殿の13人」を100点とすると   80点かなぁ
と毒づいてる罰でしょうか?



ミステリーはミステリーで残しておいたほうがいいですね。
[54]酔石亭主さんからのコメント(2023年01月18日 08時36分42秒 ) パスワード

三つ柏さん 青海のあをさん

翡翠ですか…、水石や貴石類は私の得意分野ですよ。私もずっと以前(学生時代)に博物館で翡翠の勾玉を見て心が震え、何度か小滝川に足を運び、禁止区域外で翡翠らしき石を採取しています。また小滝川へ行く途中の民家の土間に翡翠が見えたのでお伺いしたところ、何個かの翡翠の中に巨大な翡翠塊が鎮座していました。ヤフオクなどで見られる翡翠などとはレベルが全く異る緑の輝きに、我を忘れ呆然と凝視していた記憶があります。

出雲大社の翡翠は寛文5年(1665年)に同社の造営の際、命主社【正式な名称は神魂伊能知奴志神社(かみむすびいのちぬしのかみのやしろ)】の裏の大石(古代の磐座と思われます)の下から銅戈と硬玉の勾玉が出土しており、三つ柏さんが見られたのは多分この勾玉でしょう。

碧玉の勾玉であれば原石は出雲にて産出しますが、硬玉翡翠は糸魚川支流の小滝川が原産地(海岸でも採取されます)となり、弥生時代に出雲勢力が翡翠を求め高志(新潟県)に遠征したと理解されます。それが「出雲国風土記」に見られる大穴持命の「越の八口」征伐譚や、「古事記」の八千矛神による翡翠の女王沼河比売求婚譚として表現されたのでしょう。つまり、出雲大社から翡翠の勾玉が出土したことは「出雲国風土記」や「古事記」の記述内容の裏付けとなる訳です。

勾玉の形がヤハウェ神の「ヤ」かどうかは知識がないので何とも言えません。ただ三つ柏さんの説にさらに寄り添えるような見方もできます。「魏志倭人伝」には台与の時代になって白珠五千孔・青大句珠(くしゅ)二枚などを貢進した、との記事が見られ、「青大句珠」は硬玉翡翠の勾玉と一般的には考えられています。

「句」は句読点の「句」で、この文字が勾玉の形(カンマ)をも意味するので、ヘブライ語の「❜」(ヨッド)、つまり「ヤハウェ」「ヤー」を意味するという説を補強できそうにも思えます。

ただ私は、勾玉は月を象徴する存在と見ています。例えば徳島県の西照神社では、ご祭神「月読命」さまを体現しているといわれる三種の神器の一つである勾玉を授与しております。とのこと。出雲勢力が高志に向かうには船が必要であり、水先案内したのは安曇族の前身となる海人系の人々だったと思われます。

彼らは月を読んで航海をしたので、高志で産出された翡翠を月の形にして航海のお守りにしたのではないかなどとロマンな想像・解釈をしています。糸魚川をさらに遡ると安曇族の安曇野で穂高神社が鎮座し、その先には諏訪大社があり、祭神の建御名方神は大国主神と沼河姫の子供になるので、全部がうまく繋がっているように思えませんか。

また陰陽に関して、陰を象徴する存在は太陰で月となり、陽を象徴するのは太陽となります。そこで陰陽勾玉巴紋は、白い部分を太陽に、黒い部分を月と見做せるので、ここからも勾玉は月を象徴する存在と考えることができそうです。

まあこれらの話に正解を出すのは困難なので、あれこれ考察すること自体が頭の体操にもなって楽しく、ロマンだなと勝手に思っています。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月18日 09時38分02秒 ) パスワード

<動画>
https://www.youtube.com/watch?v=lMC_UYPWS48
皇室のタブー!天皇の歴史にはありえない事実が!昭和天皇を悩ませた南朝の末裔に驚愕!

1時間ものです。
     

        最後のエピソードが意外でした。

        え?秘密結社の八咫烏って吉備真備がらみ?
        なるほど熊野大社がらみだし。

            これは「ときおさん」が詳しいね


        太陽の象徴の中国の三足鳥  と  日本の神の使いの八咫烏が混同されて3本足のカラスになったとか

        迦波羅=カバラ=ユダヤ教の神秘主義思想も入ってて
        など



「ミステリーはミステリーで」
「ロマンとして楽しむ」
ですね。



酔石亭主さん

>碧玉の勾玉であれば原石は出雲にて産出しますが、
>硬玉翡翠は糸魚川支流の小滝川が原産地   
 
                    コレは有名ですね「ブラタモリ」で(笑)


>弥生時代に出雲勢力が翡翠を求め高志(新潟県)に遠征したと理解されます。
>それが「出雲国風土記」に見られる大穴持命の「越の八口」征伐譚や、
>「古事記」の八千矛神による翡翠の女王沼河比売求婚譚として表現されたのでしょう。

>つまり、出雲大社から翡翠の勾玉が出土したことは「出雲国風土記」や「古事記」の記述内容の裏付けとなる訳です。



碧玉の勾玉
硬玉翡翠
       この区別
       知らなかったです。



碧玉の勾玉って  メノウ?瑪瑙 AGATE
天眼石「最強の魔除け」。
目玉のような白黒の模様で災いをにらみ返し、持ち主を災難から守るといわれている。
トルコの目玉のお守りの「ナザールボンジュウ」と発想は同じなんでしょうかねぇ?


翡翠  JADE
中国人の好きな宝石ですね。
濃いほど高価だとか。
素肌に着けてると  だんだん  色が濃くなる  とか聞きました。



あ、わたしは  アクアマリーンが好きです。
同じ「青」でも  トパーズの「青」は安っぽい感じで好きじゃないです。
瑠璃色のラピスラズリは色が濃過ぎます。わたしが負けるからイヤ!


     メンド臭い女だな、ワタシ
     誰も「買ってやる」なんて言ってないのにね
     爆笑
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月18日 11時15分00秒 ) パスワード

https://www.youtube.com/watch?v=0psh-dUa1E0
仁徳天皇陵の地下に眠る真実…絶対に公開出来ない「三種の神器」の正体


実はイスラエルにもあったから公開出来ないんだ
という動画。


上のレスの動画では  鏡の裏にユダヤ文字が書かれている  と紹介されてます。
秩父宮殿下がらみで、なんちゃら、と。
[57]酔石亭主さんからのコメント(2023年01月18日 20時05分24秒 ) パスワード

三つ柏さん 青海のあをさん

>碧玉の勾玉って  メノウ?瑪瑙 AGATE
>天眼石「最強の魔除け」。

碧玉(ジャスパー)は簡単に言えば不純物の多い瑪瑙です。私も持っていますが、特に素晴らしいのは太古に木が埋もれ土中で珪酸分が染み込んでジャスパー化或いはメノウ化した土岐石と言う石です。緑、黄、赤などの色を基調として虫食いの痕や年輪などが見られるものがいいですね。これは見つけるのが実に難しく、探石で得られたのは珪化木だけです。

天眼石ってほとんどが単なるメノウを着色して丸く削っただけのもので、さほど価値があるとは思えません。さも効果がありそうな命名と評判の流布によって最強の魔除けにまで変身してしまうのでしょう。水晶なども精神安定の効果があるとされますが、我が家に先祖から伝わる大きな黒水晶があっても特に安定するような効果は感じられず、まあ信心のない私などにはそんな結果となるのでは…。

ただ既に書いたように、素晴らしい翡翠を見たり、きれいな水晶や形のいい水石を採取できたりすれば天にも昇る心地となりますので、その意味では効果があると断定できます。

>翡翠  JADE 中国人の好きな宝石ですね。

中国人が大好きな石はホータンの玉でもの凄い値がついています。以前中国に何度も出張していましたので、その時買っておけばよかったなと思います。ただ、ホータンの玉は軟玉(ネフライト)ですから硬玉翡翠の方が硬質で本来は価値が高いと思われます。ホータンはかつては巨丹と書き秦氏はこの特異な地を経由して渡来したなどと以前に書いています。

>あ、わたしは  アクアマリーンが好きです。

アクアマリーンはさわやかな色調ですね。私は、誰かからいただいたものですが、黒色の原石を持っています。

>瑠璃色のラピスラズリは色が濃過ぎます。わたしが負けるからイヤ!

いえいえあをさんが負けるなど有り得ません。中国ドラマに登場する宝玉をちりばめた皇后の宝冠なら負けるかもしれませんけど…。

今までに、水石、水晶、メノウ、翡翠、琥珀、ガーネット、碧玉、古生代やジュラ紀の化石などを各地の山や川を巡りながら採取してきました。よくよく考えてみれば、川や山野を駆け巡り世界に一つだけの水石や美石を探し求め、運が良ければ素晴らしいものが手に入るのですから、その意味では実に精神衛生とっていいことだと思えてきます。これこそが石が持つスピリチュアルパワーなのかもしれませんね。

つい長々と書いてしまいました。申し訳ありません。
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月19日 10時41分15秒 ) パスワード

酔石亭主さん

>碧玉(ジャスパー)は簡単に言えば不純物の多い瑪瑙

碧玉ってブルーアゲートかと勝手に思ってました。   

    興味があるのは  せいぜい    瑪瑙と翡翠の値段の差    あたり。
         現金なワタシ  


>天眼石ってほとんどが単なるメノウを着色して丸く削っただけのもので、さほど価値があるとは思えません。
>さも効果がありそうな命名と評判の流布によって最強の魔除けにまで変身してしまうのでしょう。

販促名人がいたのですか。
カシコイ!
ムカシっから「付加価値」感覚の発達した営業のうまい人っていたのですねぇ。



>中国人が大好きな石はホータンの玉でもの凄い値がついています。

ホータンの玉?
玉は玉でも軟玉の方ですか。

次回から中国人が翡翠を付けてたら  ビルマの翡翠かホータンの翡翠か訊いてみます。

      イヤな女だな、わたし


でもロマンですね。
ホータンとかカシュガルとかまさに西域。

玄奘とかシルクロードとかゾロアスターとかガンダーラとか
「夢は荒れ野を駆け巡る」

ロマンですねぇ。


カシュガルの王族の子孫が(1979年以前のハナシ)イランのシャーのお使いで夫の実家に来てました。



>ホータンはかつては巨丹と書き秦氏はこの特異な地を経由して渡来したなどと以前に書いています。

巨丹から  牛頭天王と蘇民将来之子孫也の説話の   弟の古單=古端=巨端將來を連想します。
そして    スサノオ   秦氏  と結びつきますね。
はぁ〜
なるほどね。



>石が持つスピリチュアルパワー

全く考えたことが無かったです。


ペリドットが古くからパワーストーンとして大切にされて来たという話を某宝石商から聞いて

    (そんな安物  興味無いよ)


と聞き流していたのですが  やっぱり  わたしにとってのパワーストーンはペリドットでした。

それで翡翠とか勾玉とかギョクとかは  ペリドットの代用品で  身代わりに過ぎない  と思ってました。


   この延長で  壺を買わされたり石を買わされて  「騙された!」  と騒ぐ人の方がアホに見えます。



酔石亭主さんはお仕事で中国に何度も渡航なさってたのですか。
趣味と仕事を兼ねて   良い渡航だったんですねぇ。


中国には憧れがあります。
故郷みたいな郷愁を持っています。

    コワイけど。



我が家にも結構  石  各種の石  あります。
宝石から化石まで。

どこかに在ります。

汚屋敷の中   石の採掘   楽しみに捜してみます。
[59]酔石亭主さんからのコメント(2023年01月19日 18時44分17秒 ) パスワード

三つ柏さん 青海のあをさん

>巨丹から  牛頭天王と蘇民将来之子孫也の説話の   弟の古單=古端=巨端將來を連想します。そして    スサノオ   秦氏  と結びつきますね。

ご指摘の通りで、しかも巨丹って瓢箪を意味しています。そこで旧ブログに大略以下のような内容を書きました。(幾つかから寄せ集めていますので、繋がりが悪い点はご了承ください)

蘇民将来譚でスサノオは巨丹将来に宿を乞うて断られました。これはスサノオ族が巨丹から――多分疫病のせいで――追われた事実を投影していると思われます。疫病で巨丹から追い出されたスサノオ族、つまり河童はだから瓢箪が嫌いなのです。(注:スサノオが疫神としての神格を持っているのは多分このせいかと…)

河童はひょうすべとも言うのですが、ひょうすべは兵主神に由来しています。河童は何と相撲を好み、胡瓜が大好きです。胡瓜の原産は西域ですが、牛頭天王とされるスサノオも胡瓜に関係が深く、河童とスサノオのいずれも川に流される伝承の関係から同族と見做されます。また河童は、日本の伝承では西域のヤルカンドから渡来した一族とされています。

瓢箪の瓢は匏(ひさご)とも書きます。匏の字音はホウです。とすれば、瓢箪はホウタン=巨丹となります。次に伏羲と女媧は崑崙に住んでいたとされ、かつ伏羲は葫盧で瓢箪を意味しています。崑崙は黄河の源流で、そこに産出する不老不死の玉が崑崙の玉。崑崙の玉の産地は正しく巨丹です。

これで巨丹=崑崙となります。しかも、崑崙と葫盧は、ころんとまるい、という基本義を共通にした同系の語で、瓢箪を意味します。

以上から、瓢箪=葫盧=崑崙=巨丹という式が成り立ちます。うまく巨丹と瓢箪が接続されました。単に発音だけでなく、瓢箪とは巨丹を意味しており、瓢箪=巨丹となるのです。

瓢箪にはもっと深い思想的な意味があります。瓢箪はこの世とあの世の境界にあるものを象徴しており、瓢箪に入った人間は死の世界に入るのですが、そこから出てくるときには再生したことになります。洪水で人類が滅亡した際、瓢箪の中に入って助かり、出てきた(再生した)伏羲と女媧はこのいい例でしょう。

『旧約聖書』のノアの方舟も、神によって死滅させられた生き物が、方舟から出て再生することを意味しており、伏羲と女媧の話と同一バージョンになります。しかも、方舟と巨丹の文字を比較してみると、方はホウとも読めるし、舟は丹とほとんど同じ漢字です。さらに、イスラエルの民と神との契約の証しである『契約の聖櫃』はアークであり、方舟もアークでした。

つまり……聖櫃と方舟は同じであり、方舟は巨丹であり、巨丹は瓢箪。瓢箪はホウ……。ホウは豊であり、豊は秦氏であり、それらは全部死と再生の象徴となります。ノアの方舟と、伏羲と女媧が瓢箪に入って洪水から逃れた話はまるっきり同じ。しかも、瓢箪はオノコロ(ころ=葫盧=瓢箪)島であり、オノコロ島は日本であり、イスラエルがそのまま日本に接続していくのです。

引用は以上ですが、何とか秦氏がイスラエルから巨丹を経由して日本に来た一族であることを証明したいと思い、悪戦苦闘して上記のような記事をひねり出した次第です。

>酔石亭主さんはお仕事で中国に何度も渡航なさってたのですか。
趣味と仕事を兼ねて   良い渡航だったんですねぇ。羨

いや、辛いことや大変なことも多々あり決して良いとは言い切れませんよ。ただ、例えば杭州に行ったときはかの有名な西湖のほとりに宿を取り朝は散歩、夕食は有名中華料理店やフレンチの店で様々な料理を堪能できました。

東南アジアでは何年か過ごしましたし、欧州にはかなり頻繁に出張し、ついでに美術館や博物館を巡っています。ドレスデンの美術館で見たラファエロの「システィ―ナのマドンナ」は本当に素晴らしく、しばし絵の前から動けなかった記憶があります。日本で同じくらい感動した絵画は京都相国寺の展示会場で見た伊藤若冲の作品群ですね。

まあ、人生色々あっても記憶は適当に改変できますので、辛い思い出は消し去って楽しかったことだけを脳内に留めるようにはしています。極楽、極楽…。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月20日 03時36分05秒 ) パスワード

酔石亭主さん

大変な作業をダイジェストに纏めてくださって、ありがとうございました。
しばし呆然・・・


瓢箪のことは全く知らなかったです。

    瓢箪のおかげで河童の嫁にならなくて済んだ、
    瓢箪のおかげで人柱にされず命拾いした、
    とかあたり。



>瓢箪はオノコロ(ころ=葫盧=瓢箪)島であり、オノコロ島は日本であり、イスラエルがそのまま日本に接続していくのです。

ここで   瓢箪とイスラエルの民  が結びつくとは思ってもいませんでした。


瓢箪山古墳の名の由来にも行きつきそうですね。
ここから飛躍すると   前方後円墳の原形だったのかな?  とか。



津島神社が津島牛頭天王社という名なのがちょっと分かった気になりました。
災厄と疫病除けの守り神というのも分かった気がします。

我が家との関係も分かった気がします。

   ウチは桓武平氏系で服部姓を名乗っただけのパクリ名で伊賀の秦氏に申し訳なく思ってましたが
元々は  そうだったのか?!
です。

   桓武天皇の母上の件どころか   ずっとずっと  ムカシっから秦氏にからんでた
   で良いのか、と。


       あ、うちのホンヤさんは源姓です。
       後醍醐天皇がらみだと思います。

       わたしは馬の骨なので平氏・平家で充分です。



三つ柏さんから頂いた「ユダヤ系秦氏が語る邪馬台国」を元気に読める気になれました。
ありがとうございました>ご両者   
[61]酔石亭主さんからのコメント(2023年01月20日 18時42分44秒 ) パスワード

三つ柏さん 青海のあをさん

>津島神社が津島牛頭天王社という名なのがちょっと分かった気になりました。
災厄と疫病除けの守り神というのも分かった気がします。

この部分をもう少し詳しく書きますが、旧ブログからの引用に多少付け加えた程度なので労力はほとんどかかっていません。

スサノオを祀る京都八坂神社境内には疫神社があり、スサノオが疫神であることを物語っています。そして祇園祭の最中や、祭り以後は胡瓜を食べない、また祭りの以前には食べないといった地方によって異なる習慣があります。しかも初なりの胡瓜あるいは瓜には毒があるとされ、天王の祭には川へ流して疫病を避ける習俗が広く行われていました。

スサノオを祀る愛知県の津島神社では、御葦(みよし=神葭)放流神事という極秘の神事があります。これは神主家でさえタッチできない秘事であり、服部勾当太夫ただ独りが執行しました。

(注:名前に「服部」と「勾」があるのが注目されます。尾張名所図会には服部家が天王祭を担った由緒ある家柄であることが記されているとのこと。現在で14代を数えています。「勾」は禍々しいの「禍」に通じるものがあり、「示」偏は「神にいけにえを捧げる台」を意味し神を象徴しています。「咼」は「肉を削り取り頭部を備えた人の骨の象形と口の象形」とされているので、「禍」は神が下す罰や災いを意味しています。そして御葦放流神事は神の災いを回避する神事となります)

この神事は疫神である牛頭天王(とその眷属たち)を葦に仮託して川に流すものでした。神事は六月十一日の『御葦刈り』から始まり、『御葦放し』で終わるのですが、津島では、この御葦流し以前は、白瓜を食べてはならないとの禁忌がありました。八坂神社のスサノオと胡瓜とも共通する内容です。

そして『御葦放し』の最中は、津島の民家は全て灯火を消し静まり返りました。もし灯火をつけている家があれば白瓜を投げ込むのですが、その家は必ず凶事があると人々は恐れました。息の詰まるような静寂と緊張の中、所定の場所で御葦船に葦を積み込みます。

船は川を下流に下り、ある地点に到達すると太夫は御葦を川中に放流し、後を一切振り返らずに急いで漕ぎ戻ります。二十二日までは燈明を掲げず謹慎し、翌二十三日段階で御葦が津島域内に流れ着いた場合、着岸祭を行うそうです。さもなければ、御葦が着岸した地域は疫病が発生すると言われていたからです。

以上がこの神事の概要で、御葦放流神事は疫神を送却する神事でした。そこでこの恐ろしい神事と河童との関連を見ていきます。

河童に関して、人形化生説という説があります。左甚五郎や飛騨の匠といった大工の棟梁が、神社仏閣、城郭などを建立する際、人手が足りないので呪術を駆使し、藁人形に魂を入れて手伝わせました。工事が済めば藁人形は不要となり、川に捨てた。捨てられた人形は河童と化し、人畜に悪さをして、人間の尻子玉を取るようになったとされます。

津島神社のスサノオは川に流し、どこかに着岸すれば害をなします。大工が川に流した人形は河童に化けて害をなします。川に流す点と、流された側が害を及ぼすという、核になる部分がぴったり一致しました。とすれば、スサノオと河童は同族だと理解されます。

また白瓜(胡瓜)には、秦氏の謎とも連結する重大な意味がありました。津島神社におけるシュメール系スサノオの禁忌は白瓜です。そして、秦氏も同様の禁忌を持っていました。

秦氏の創建になる有名な神社が、京都の伏見稲荷大社です。伏見稲荷大社といえば、お稲荷さん。そしてお稲荷さんといえば、誰でも知っているように、狐です。白狐が秦氏の係わる禁忌となるのです。では白狐から獣偏を外してみましょう。すると白瓜に戻ってしまいます。瓜と狐。そしてスサノオ族と秦氏。この二つの部族が持つ禁忌は、なぜ類似しており、またどのような意味があるのでしょう? 

想定されるのは、秦氏とスサノオ族が協力関係にあるということです。とすれば、日本に謎を封印したメンバーにスサノオ族も一枚噛んでいる可能性があります。

『記紀』には両者の関係を証するような記述が見られます。『古事記』の仁徳天皇の段には、秦人に茨田堤(寝屋川市付近)また茨田三宅を作り、云々とあるのですが、『日本書紀』の仁徳天皇11年の記述においては、冬十月、茨田堤を築くのが困難で、神のお告げにより強頸(こわくび)・衫子(ころものこ)の二人を河伯(かわのかみ)に捧げることになった。強頸は川に入り死んだが、衫子は、河神の祟りをしずめるために匏(ひさご)を川に投げ入れ、匏が沈まないなら偽りの神であると言った。匏は瓢風(つむじかぜ)にも沈まなかったので、衫子は死ぬこともなく堤が完成した、とあります。(つむじかぜを瓢風、つまり瓢箪の風と書いてあるのが面白いところですね)

河伯が河童を意味し、瓠は瓢箪のことです。河童の瓢箪嫌いはここからも窺えます。秦氏とスサノオ族の絡む場面が『記紀』に見られるのも、彼らの前身がイスラエルの民であり、シュメールの民であるとすれば当然ですね。

以上、河童とスサノオが同族であることから、スサノオ=河童=兵主=蚩尤=神農と全てが連結してしまいました。(河童は「ひょうすべ」で「ひょうすべ」=兵主。兵主神は蚩尤と同一視されている。蚩尤は神農の子孫)

シュメール人は巨丹からメソポタミアの地に入り最古の文明を創ったと推定されますが、日本のスサノオと河童の足跡を辿っていくうちに、秦氏との関係が浮き彫りになり、巨丹へ行き着きそうな気配が強くなっています。(注:「シュメール人は巨丹からメソポタミアの地に入り」の部分は、シュメールの民は巨丹からメソポタミア地方に渡来し、最古のシュメール文明を花開かせ、ある時点で東に向かい巨丹に入り、中国、朝鮮半島を経て日本に渡来したとの仮説に基づく)

引用は以上です。上記は山本ひろ子氏著の大作「異神 下」(ちくま学芸文庫)に書かれた内容をベースに、私見に引き寄せつつ書いたものです。ただこの本は非常に専門的なもので、一般受けするような面白さはありません。
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月21日 01時57分57秒 ) パスワード

酔石亭主さん

天王祭の詳しい説明をありがとうございました。


ホンヤさんが神事をやってるのはホンヤさんから聞いてました。
     (あのクソ暑い時に裃かぁ)
と気の毒に思いました。



わたしの書いたホンヤさんは   尾張徳川家に堀田から養子に入った方の数年後に鬼籍に入ったホンヤさんで
今のホンヤさんも神事をなさっているかは知らないです。
ま、なさっているでしょうね。


    この時にホンヤさんから   尾張徳川家は1代おきに養子を迎えることになってる  と聞きました。
    


天王祭の北朝方の武士   Kさんだっけ?  を捕まえたお祭りには  信長や秀吉も見に来た  とホンヤさんから頂いた史料に書いてあった記憶です。

これを見て、  ああ、信長の家も秀吉の家も平家がらみの南朝方だ  と確信しました。



津島神社のお祭りがパスオーバーに関係してたなんて考えてもいなかったです。
ありがとうございました。


「胡瓜」「白瓜」「白狐」
先祖の思いが  ちゃんと  ヒント  は隠されてたのですねぇ。


ちょっと・・・呆然です・・・

本当にありがとうございました。
[63]酔石亭主さんからのコメント(2023年01月21日 20時27分06秒 ) パスワード

三つ柏さん 青海のあをさん

拙文がお二人の探求の一助になったなら幸いです。

話は変わりますが、二人の家康説は手強いと言うか、うまく筋道を立てられません。ネット情報では知っておくべき基本情報が欠けているので、図書館で何冊か本を借りました。取り敢えずじっくり読んで考えてみたいと思っていますが、結論に辿り着けるかどうか…。なので、平熱からはこの辺でしばし退出させていただきます。

また機会があれば横レスしますので、その際はよろしく。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月21日 23時49分52秒 ) パスワード

酔石亭主さん


「家康2人説」
よろしくお願いします。


またのお越しをお待ちしていますね。
[65]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年01月22日 21時47分42秒 ) パスワード

「ハトリのハについての考察」

 「ハトリ・はとり」という言葉=言霊(ことだま)に、いつも心の中で神性を感
じるのは私だけであろうか? ハトリの中でも特に「ハ」の音に強く感じます。
 これは感性で響きを脳裏で感じること、音楽を感じるのと同じなのかも知れない。
 
 ハワイ、ハート、ハッピネス、ハロー、ハウス、はっぱ、はは・・・アロハも
ハがついております! ちなみにアロハという言葉は、「息、命」を表すとあり
ました。

 つまり、「ハ、服、羽」の基本的概念は、「あたたかく包む=命を育む・守る」
という意味があるのではないかと思いますがいかがでしょうか?
 人を守る「衣・食・住」は、さながら「ハ・ハ・ハ」となります。
 
 
[66]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年01月22日 22時40分35秒 ) パスワード

追記

 よく考えてみましたら、「ハレルヤ」も「ハ」で始まっています。これは何語
になるのか、ヘブライ語かシュメール語か・・・。「ヤー」は神様を表している
というのはわかります。

 ヘブライ語のルーツはシュメール語、つまり文明・文化も過去から後世へバト
ンされていく。
 人類は、過去からの文化を後世に伝えるのに、言葉をもってする。つまり言葉
がメッセンジャーなのだということになります。
 もう一つは、宗教=信仰=信念で、これも文化の伝達に強力な後押しとなります。

 つまり、文明をつなぎ、発展させてきたのは、「言葉」と「宗教」だったとい
うことができそうです!

 古代シュメールや古代ユダヤの文明の底流が、今の日本にとうとうと流れてい
るのは、やはり、「言葉」と「宗教」、さらにしいて言えばDNAであると言えそ
うです。

 いずれにしても、比較言語学と比較宗教学を極めれば、文明の相関性の謎が解
けそうです! 
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月23日 08時49分56秒 ) パスワード

三つ柏さん

>ハトリの中でも特に「ハ」の音に強く感じます。

考えたことも無かったので  へぇ〜  っと驚きました。



古代日本語には「は」の音は無くて
P → F ( ɸ ファ行の子音) → H
と変遷した記憶です。


それで古代「母」は「パパ」だった。後に「パパ から ふぁふぁ」になり「ふぁふぁ から はは」になった
という話を聞いた記憶です。



>「ハ、服、羽」の基本的概念は、「あたたかく包む=命を育む・守る」

これは良い着眼点ですね。
      「あたたかく包む=命を育む・守る」
いいですね。



寒い時に「はァ〜」っと手に息を吹きかけますものね。
まさか「い〜」とか「へ〜」「ほぉ〜」とか言って息を吹きかけませんものね。

やっぱり「は〜」と息を出しますね。もっと温かくしたいときは「はあああ」と「は」の音を強調しますね。




「ハレルヤ」Hallelujah

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AC%E3%83%AB%E3%83%A4

ハレルヤ(ヘブライ語: הללויה, הַלְּלוּיָהּ, הַלְּלוּ יָהּ‎‎、ギリシア語: Αλληλούια、ラテン語: Alleluia, Alleluja、英語: Hallelujah、ロシア語: Аллилуйя、ドイツ語: Halleluja, Alleluja、フランス語: Alléluia)

ヘブライ語由来の言葉で、「𐤉𐤄𐤅𐤄(ヤハウェ)をほめたたえよ」の意 (ヘブライ語で
旧約聖書「詩篇」をテヒリームと呼び、テヒラーという名詞の複数形。

この単語は「讃える、賛美する」を意味する動詞ヒッレールからの派生名詞で、「賛美」を意味する。

この動詞の複数命令形ハレルーに神の名ヤハウェを短縮したヤーを付した形がハレルヤ。
「ヤ(ヤハウェ)」を「ハレル(ほめたたえよ)」)。

ユダヤ教の讃美の言葉に由来し、アーメン、ホサナ(オザンナ、ホザンナ)など共に、キリスト教に残る代表的なヘブライ語の祈りの一つでもある。

へ〜
        「ほざんな」もヘブライ語だったのか。
        知らなかった〜


ラテン語などでは、ハレルヤの語頭のhを発音せずにアレルヤという。

日本のカトリック教会では典礼において「アレルヤ」を使用している。
正教会(日本正教会)では中世以降のギリシャ語・教会スラヴ語を反映して「アリルイヤ」と発音される。

へぇ〜




>つまり、文明をつなぎ、発展させてきたのは、「言葉」と「宗教」だったとい
うことができそうです!


はい。


聖書を習った時に  天地創造のシーンで

神が天地を創造していくときに   最初に「光あれ」  という言葉を発した。
つまり、この世界と神との関わりの最初に「ことば」があった。
神が絶対。神こそが絶対。


「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」
「In the beginning was the Word(はじめに言葉ありき)」


興味深いです。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月27日 10時26分00秒 ) パスワード

またウッカリ消してしまった。
グダグダ書いてたのをササっと簡単に書きます。



昨日「鶴瓶の家族に乾杯」の松潤編(前後2編)をまとめて見ました。


     松潤が東海オンエアに負けてた。

       東海オンエアのリーダーの「てつや」の奥さんは峯岸みなみ?!


松潤と鶴瓶が家康の16神将の1人である蜂屋貞次の17代目子孫  蜂屋清水(きよみ)さん宅に突撃訪問して
神将の絵を見せてもらって


その帰り道も凄かった。いかにも武家屋敷の門構えの家々の通りだった。


蜂屋さんのお隣さんが  服部さん   だった。


そのお隣さんもすごい門構えの家で
    元名古屋大学や三重大学や中部大学の教授だったお魚博士の宗宮そうみや先生の嫁さんのご実家で
宗宮先生がお孫さんとチャンバラやってるところを突撃訪問。


______________________________

更に

松應寺(家康の父の松平広忠の菩提寺)に行って  驚いた!
ここのご住職は  服部善樹(よしき)さんでした。



つまり  この近辺の服部さんは  伊賀系の服部さんなのだろう。
だから  お屋敷の門構えも立派だったし。

服部半蔵の父は家康の父の広忠に仕えてた、ってハナシだから
その関係の服部軍団の子孫なんだろう。




わたしは岡崎城から菅生川の南に出没してたので  能見町とか伊賀町とか大樹寺の方は知らない。

同僚に車に乗せてもらって通ったレベル。



     だいたいウチは600年以上昔は伊勢系だしね。
     今川方だったし。
     だから  岡崎の服部さんには   御縁は  無かった。
     これまた不思議だよね。



萬珍軒は懐かしかったな。
ここには仕事で連れて来て貰った。

松潤が「フカヒレが食べたいけど昼ごはんに1万円は〜」とぼやいてた。
休業日だから食べられなかったけど。



わたしは天津飯とか芙蓉蟹(フウヨウハイ)が好き。蟹玉丼。

     安物のカニタマで充分幸せな安いオンナです。
     さすがに今は塩分を気にしてカニタマは10年以上食べてない。
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月27日 10時42分09秒 ) パスワード

一昨日?先一昨日?は長野の大鹿村(ムカシの大河原村)の番組を見ました。

宗良親王が30年ここにいらっしゃった、という信濃の奥深い山の中の村です。
行在所は6畳だったとか読みました。

今はリニアで揺れてる大鹿村です。



大鹿村は人口1000人ほどで
20%がヨソから移住して来た人だそうです。

人間が基本的な生き方・生活するには良い場所だそうです。



絶滅危惧種のミゾゴイが東南アジアから子を育てるために渡って来て秋になると東南アジアに戻っていくそうで

現在2500羽しかいない貴重な鳥で


リニアが通ることになったらミゾゴイは絶滅するかも。



昨年見た大鹿村の番組では  リニアの為にトンネルを掘ったりするのには  危険じゃないか 
と言ってました。
[70]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年01月27日 17時44分15秒 ) パスワード

 あと2ヶ月の任期ではありますが、うるさ方の1人の人間への対処に平穏が乱
されております。
 この1年間の職務上の戦いの日々で、今まで頭の中に点在していた歴史に関す
る学習記憶の刷り込みが薄らいできており、いまから取り戻そうとしている矢先
だったのに、何と言う災難か…であります。
 一昨日には、大寒波が襲い、この地域でも−3℃を記録しました。週末も再び
寒くなる予想で、私はヒーター付きのチョッキで対策しております。

 昨日の新聞、ニュースで、奈良市にある日本最大の円墳・富雄丸山古墳(古墳
時代前期、4世紀後半、直径109m)大きな盾型銅鏡と長さ2.3mの蛇行剣が見
つかったとの報道があり、興味しんしんであります。
 古墳は奈良と大阪を結ぶ交通の要所にあり、大和政権を支えた有力者の墓とさ
れるという。長髄彦あたりの墓かも知れないし、やはりこういう遺物が発見され
、刻印あるいは象眼文字なども発見されると、歴史の解明に大きくつながります。
 これまでで最長の蛇行剣は、宇陀市の北原古墳の85pということであります
ので、今回の剣の長さは異様なものであります。日本史の古代史の解明に、大き
な証拠となるのは間違いないように思われます。

 本当の古代史を早く知りたい、この科学の発達した時代に、またAIの発達して
きたこの時代にあっても、歴史は化石のままであります。

 さて、日本に多大な影響を与えた古代の渡来人、あるいは渡来文化ですが、
大きく捉えてヘブライ系を主張するものと、シュメール系を主張するものの流れ
があります。
 秦氏については、応神天皇の時代の弓月の民=秦氏と、その秦氏以前の秦氏が
あるという主張があります。
 これらのそれぞれの2つの流れを1つのものとして統合できれば、日本の古代
史の解明が大きく進んで来ると思います。
 いわば海のシルクロードと陸のシルクロードがこの2つの流れを形成している
のか…、徐福はどちらかと言えば陸系の1つか…。

 アカデミズムが結論に至るのは、今後何世紀後になるのか、それまでは待って
おられません。素人ながら推論としてまとめていきたいと思います。
 両シルクロードの2つの原点が同じで、海はシュメール色が濃く、陸はヘブライ
色が濃い。天皇系についても、海系と陸系があるようだ。骨格はこのようなもの
で、あとは肉付けをしていくということになります──

[71]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月28日 02時55分02秒 ) パスワード

三つ柏さん


本当に大変な時に会長さんになってしまいましたね。
天まで   見放した?
泣けちゃいますね。


マイナス3度って
遠江でマイナス3度は記録的ですね。


    ムカシ役所で働いてた時に月曜の朝すっごく寒くて
    建物の中に入ったらちょっとはマシかな
    と思って  ホッとして中に入ったら  外より寒くて  土曜日曜の2日間にしっかり冷え込んでました。
    建物の中なのに零下でした。
    笑
    建物の中だから風が吹かないからラッキーでしたが風が吹いたら  体感気温  すごかったでしょうね。



富雄丸山古墳から蛇⾏剣・鼉⿓⽂盾形銅鏡が出⼟のニュースをありがとうございました。

鼉⿓って
古代中国の地理書『山海経』などに記述される、川や湖にいる伝説の怪獣?

          神話や伝説や説話になった想像上の生き物?


字源
形声。「黽(大きなカエル)」+音符「單」。

部首
黽 黾(べんあし・かえる)

意義
ワニ、特にヨウスコウワニ。
黿鼉




【鼉竜鏡】

古墳時代の仿製(ぼうせい)鏡の一種。

内区の主要図像として,4ヵ所の乳(にゆう)(突起)にからむように長大な体軀をもつ怪獣像が配され,
この像が古代中国の,ワニに似るという空想上の動物〈鼉竜〉を連想させることからこの名がつけられた。

しかしこの怪獣像は,中国製の画文帯環状乳神獣鏡を手本とし,そこにある神仙を背にのせた竜虎のたぐいの像を見て,

古墳時代の鏡工人がさらに想像をはせて独自の怪異な像に作りかえたものである。


                    へぇ〜
                    ということは  日本独自❓
                    へぇ〜



蛇⾏剣
刃の部分が  蛇行?
え?
実用じゃないですよね。
神事用としか思えない   ような?



>この1年間の職務上の戦いの日々で、
>今まで頭の中に点在していた歴史に関する学習記憶の刷り込みが薄らいできており、
>いまから取り戻そうとしている

アタマを休めたということで  新たな脳の使い方が出来るかもです。




>両シルクロードの2つの原点が同じで、
>海はシュメール色が濃く、
>陸はヘブライ色が濃い。
>天皇系についても、海系と陸系があるようだ。

はい


シルクロードについて「陸の道」「海の道」というのを思い出しました。



>秦氏については、応神天皇の時代の弓月の民=秦氏と、その秦氏以前の秦氏が
あるという主張があります。

秦氏も  いろいろ  なのかもですね。


ハワイの日系人もいろいろですからね。
・沖縄系
・日本系(広島系・会津系・和歌山系・北海道系・新潟系  その他)



貴重な情報をありがとうございました。
もう2か月!頑張ってください。
[72]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年01月29日 00時59分45秒 ) パスワード

 ありがとうございます。今、うるさ型への答弁書を、資料6まで添付して書いて
います。
[73]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年01月30日 09時01分37秒 ) パスワード

続「勾玉考」

 勾玉については、古代エジプト的な「目」のようだと直感しましたが、ヒエロ
グリフの中に「目」があり、その意味は、「太陽神」「月神」を表しているとい
うことであります(『方舟に乗った日本人』川崎真治著)。さらに、そのルーツは
シュメールにあるということで、やはり根源はシュメールで、ヘブライか(あるい
はエジプト)シュメールかの問題は、文明の根源的ルーツのシュメールにありとい
うことになるのではないかと推察いたします。

 勾玉は天皇家の三種の神器にもなっています。朝鮮半島でも見つかっていると
いう情報もあります。誰が何時、どこで、何のために作り出したのかのテーマは、
古代日本史を解くカギになると思います。
 古代の人は、見る物聞く物すべてに「呪力」を感じたと推察します(実証はで
きませんが)。たぶんそれは、人間の本来性=DNAに組み込まれた感性・習性なの
だと思います。
 色の三原色として、赤・青・緑があります。正に勾玉にそれを見ることができ
るのは、本源的な感性の表れなのではないかと思われます。
 そう考えると、古代文明を解くカギは、人間の本来的に持つ感性を素直に読み
解くことにあるかも知れません。

 
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2023年01月31日 02時30分48秒 ) パスワード

三つ柏さん

>色の三原色として、赤・青・緑があります。
>正に勾玉にそれを見ることができるのは、本源的な感性の表れなのではないかと思われます。


色の3原色・光の3原色
こんなのに古代人は気づいていたのか
と驚きました。

大昔にすごい人達がいたんですね。
人間ってホント不思議です。



>そう考えると、古代文明を解くカギは、
>人間の本来的に持つ感性を素直に読み解くことにあるかも知れません。

はい
人間の本来的に持つ感性!

感性を備えたヒトの出現。
ここがネアンデルタールとの違いだったのか
ですね。



>根源はシュメール

シュメール!
一体どういう人達だったんでしょうね。

ウル・ナンム法典やもっと後の時代のハンムラビ法典。
こういう事を考える力もあった  と考えると  人間って凄い!

    なのに  なんで  ワタシじゃないんだぁ〜?
    日本国憲法  難し過ぎ!  日本語で書かれているらしいのに  どうやって解釈すれば良いのだぁ〜?



高い文明があまねく地球上に広がっていき  それを  理解する人々≪も≫いた。
人間ってホント素晴らしいですね。



去年ある研究者が「ノアの洪水伝説」を身近に見られるところがアメリカ本土にもあると言ってました。

      グランドキャニオンです

あそこに行くとノアの洪水で地球上が水に覆われ  堆積したものが層を成しているのが見られる。


      まさかアメリカでノアの洪水伝説の証明を聞くとは思ってなかったです。



>文明の根源的ルーツのシュメールにありということになるのではないかと推察いたします。

はい
ですね。
[75]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年02月01日 05時03分46秒 ) パスワード

 うるさがたとの関係は、3時間の会談を経て、おかげさまで無事終了しました。
最後は意気投合して励まされて帰ってきました! これも、歴史探求によって培
われた論理手法の成果であったと実感しております。あを様に感謝です!

 さて、私にとって「謎」が一番の「ごちそう」であります。「謎」は探せばいく
つも出てきますので、つきることはありません。

「続勾玉考」
 勾玉についても、作られたのは翡翠を産出する「越」の国でありますが、そも
そも勾玉自体の概念・発想は、玉造という地名が出雲にあるように、出雲発信の
概念ではないか? 玉=珠=魂、つまりは勾玉は神の依り代で、宇宙・自然・生
き物への畏怖の中でのシャーマニズム(呪術性)にもとづくいわば磐座信仰に近い
ものだったのではないか?と推察するのですが……。
 勾玉についての研究書があれば是非読んでみたいです。
 また、勾玉には色々な形状があり、「子持ち勾玉」という虫がいくつかの子を
抱いたような、足が生えたような、あるいは背にヒレを携えたような形状(私に
は全体的には蚕に見えますが)のものがあります。一説には、太陽の位置を計る
計測器ではなかっただろうかとも言われております。つまりは春分点、夏至点、
中日点を知るための、であります。これは三輪山の周りで多く発掘されているこ
とからもそう推察されているわけであります。
 いずれにしても、勾玉についての謎の探求は、これからも続けていきたいと
思っています。
 昔へ遡れば遡る程、今の「機械文明」ではなく「超自然文明」が栄えていた
ことを知らされます。
 シュメール自体も文明の伝播の1つの窓口だったと思いますが、それもまた
超古代からの文明の通過駅の1つであったのだと推察します。
 類人猿から毛がなくなったホモサピエンス、もっとも毛深い人もいます。相撲
取りの「高安」なんかはそうです。裸の人間をほおっておけば、自然発生的に「
超自然文明」を築くようになるのか、そうは思われないような気がしますのです
が……。
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2023年02月01日 05時57分17秒 ) パスワード

三つ柏さん

良かったですね。
でも3時間も?

     お相手が納得するのに3時間ですか・・・
         オトコとオンナの痴話喧嘩じゃあるまいし(溜息)
         あ、そうか、力と力での納得的解決じゃないからか。

男性の場合は   納得できれば  サバサバ  で仲良くなれますからいいですね。
女性の場合は   納得できずに  ネチネチ  見えない所で恨みが募っていきます。笑



>勾玉自体の概念・発想は、玉造という地名が出雲にあるように、出雲発信の概念ではないか? 

ですね
最初に出雲に勾玉信仰が生まれて  勾玉が  それも良質の硬玉が発見されて  発展していったのでしょうね。


わたしは  C型勾玉って  胎児かな?  と思ってました。
流産した物?の中に  C型の物を見つけて  古代人は驚いたのだろうなと思ってました。

でも  いろいろな形があるんですよね。

[子持ち勾玉]
何を象徴しているんでしょうね?

      わたしは魚かなと思ったのですけどね
      鬼おこぜみたいな魚。

      それか揚子江鰐とかの日本人が見たことない生物で  伝説の元になった生物。


解明できると良いですね。
いろいろ空想してロマンの世界を楽しんでいます。


わたしは毛深いのは嫌いで、
うちのオットはすね毛が全く無くて
理由は「ジーンズを穿いてるから擦り切れて毛が無いんだ」と言ってました。笑


わたしは相撲取りは稽古でぶつかったり、おっつけで毛が擦り切れてツルツルになるのかと思ってましたが
甘かったですね。


     朝潮とか大受とか100%?日本人でも毛深いのがいましたね。


だから「高安」って  わたしはトンガかサモアあたりとのハーフかと思ってました。
お母さんがフィリピーナだそうです。
へぇ〜

    速水もこみちはお母さんがフィリピンとのハーフで、もこみちはクォーターだそうで
    母親は🐧ペンギンサイズ🐧だと言ってたけど

高安も速水もこみちもフィリピンが入ってるのに背が高いですね。
(大谷翔平はもっと背が高いんですよね)
[77]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年02月02日 21時52分33秒 ) パスワード

あを様、ビックリです。
バーレーンは、シュメールの時代、ディルムンと呼ばれ、海洋王国であった。
バーレーンには、古墳が七万五千基もあり(日本の半分くらい)、その中にビッ
クリですが、「子持ち古墳」というものがありました。「子持ち勾玉」に不思議
を抱いていた矢先だったので、本当に「驚き」です。何か、結びつくものがある
のかも知れません!
[78]空の青海のあをさんからのコメント(2023年02月03日 02時13分54秒 ) パスワード

三つ柏さん

>バーレーンは、シュメールの時代、ディルムンと呼ばれ、海洋王国であった。
>バーレーンには、古墳が七万五千基もあり(日本の半分くらい)、
>その中にビックリですが、「子持ち古墳」というものがありました。


驚きのニュースです。
ありがとうございました。


古墳はバーレーン由来のようですか。


    バーレーン  ?  え?  どこ?
        地図で検索
    クエートとカタールの間か・・・   知らなかった  ・・・


ということで関係情報を検索して来ました:
https://www.isan-no-sekai.jp/report/2040

バハレーンに栄えた古代文明ディルムンの考古学
by 安倍 雅史 / Masashi ABE
公開日:2017年4月26日


5年も前の記事でしたか。
いろいろ捜して読んでみます。



「真珠」の単語が出てましたが
クレオパトラと真珠のエピソードで「本物の真珠」の話は知ってましたが

1979年のイラン革命の後に亡命して来たユダヤ系ファルシ=ペルシャ人=の女性が
「御木本の真珠?そんなまがい物!フンッ」

と「本物」の真珠の話をしてくれたのを懐かしく思い出しました。



確かに  日本の養殖物の真珠の質の低さ  については納得しました。

     日本の某有名陶芸家の一族のおばさまが日本の某超有名な真珠のお店の品をプレゼントしてくれて

     真珠だし      要するにダイアモンドのような硬さが無い
     高価な物だし    身に付けるには恐れ多い
     
     ところが  数十年後  やっぱり養殖物だね  ということを知ってしまいました。


上記のサイトに  ちらっと「真珠」という単語が出て来て、それで中東世界の本物の真珠について、思い出したところです。



貝の中に真珠が眠っているのを知った古代人の感動!
女性の流産の中に見る胎児の姿!

なんか連想が止まりません。


いろいろなサイトに行って来ます!
[79]空の青海のあをさんからのコメント(2023年02月03日 08時15分28秒 ) パスワード

https://www.youtube.com/watch?v=mzlShRQ4o0M
世界の墳丘から387
「高井田山古墳〜世紀の大発見!百済王族の墓か?〜」
大阪府柏原市


ときおさんからメールで頂きました:
      このYouTubeの右にいろいろ古墳の動画サイトが出てて見続けてしまいます。


では頂いたメール文もコピペします:

韓国ドラマ(ソドンヨ)と日本童謡を思い出しました。

世界の墳丘から387「高井田山古墳〜世紀の大発見!百済王族の墓か?〜」大阪府柏原市
7,174 回視聴2021/10/23
https://www.youtube.com/watch?v=mzlShRQ4o0M



限りなく 「昆支王」に成りますね。
百済の昆支王は日本へ送られた人質。

竪穴式石室の作りなのに横穴式石室の古墳。

昆支王(こにきし・きし)です。
後の百済25代「武寧王」となった者の両親と思われる古墳です。
岸氏の先祖とも言われていますね。


「武寧王」は筑紫国の各羅嶋(加唐島)「からしま」で生まれた記録が残されています。



韓国ドラマ 薯童謠(ソドンヨ)の主人公でしたね。
七枝刀も出て居ましたね。

ほとんどが創作のドラマですが当時の雰囲気が味わえる程度ですかね。
日本の時代考証の役割や機能は無いみたいですからね。



中国の古代での皇帝の呼び方

皇帝陛下ハンジェ・ピンシャ     韓国 ホンジェ・ペーハー
皇太子殿下ホンテーツ・デ(ト)ンシャ 韓国 ホンターツー・テンハー



日本童謡の「トンピンシャン抜けたらドンドコドンショ・俵の鼠が・・・・」の
トンは殿下の殿でピンシャはズバリ陛下となり中国語に通じた詳しい儒学者の様な人物の作品では無いかとも言われて居ますね。
[80]空の青海のあをさんからのコメント(2023年02月03日 08時30分45秒 ) パスワード

世界遺産  バーレーン
https://worldheritagesite.xyz/middle-east/bahrain/


真珠採り、島の経済を物語るもの

バーレーンの真珠採取業は、一説には紀元前2000年頃にまで遡るとも言われるバーレーン古来の基幹的地場産業でした。石油発見以前のペルシア湾一帯は天然真珠の一大産地となっており、わけてもバーレーン近海の真珠は高品質と評価されていました。

しかし、日本の真珠養殖業の発展や世界恐慌の影響によって壊滅的な打撃を受け、1930年代以降、急速に衰退しています。バーレーンのムハッラク島には往時を偲ばせる建造物群が並ぶ「バーレーン真珠採取の道」が残されており、それらの建造物の一部と関連する漁場などが、「バーレーン要塞 – ディルムンの古代の港と首都」に続く同国2件目の世界遺産となりました。

かつての繁栄を偲ばせるムハッラク島の建造物群や周辺の漁場は、2012年に真珠採り、島の経済を物語るものという名で世界遺産に登録されました。


ディルムンの墳墓群
2019年アゼルバイジャンの首都バクーで開催された第43回世界遺産委員会において、バーレーンの「ディルムンの墳墓群 」が世界文化遺産として登録されました。

「ディルムンの墳墓群 」 は3700年以上前に造られた墳墓で、バーレンにとって3件目の世界遺産です。




動画)
https://www.youtube.com/watch?v=sYufI8mN0v8
バハレーンに栄えたディルムンの考古学
ーディルムンをめぐる最新研究動向ー
(講師:東京文化財研究所 安倍雅史)

王の名前:ヤグリイル=日本語で「現人神」の意味
デンマークの考古学者によって王の名前が分かりました。


ハンムラビの名前も出て来ました。
[81]空の青海のあをさんからのコメント(2023年02月03日 08時33分10秒 ) パスワード

動画
https://www.youtube.com/watch?v=PWWHx51XOXs
シュメール人は、どこから来て、どこへ行ってしまったのか? 
シュメール人と日本人の共通点


すごい!
[82]空の青海のあをさんからのコメント(2023年02月03日 09時00分16秒 ) パスワード

忘れてしまう前に書いておきます。


大洲城で1泊110万円(2名)で城主気分で泊まれるそうです。
年間30組限定。


再建工事費用13億円のうち5億円は寄付。



テレビで見た時の紋は  「蛇の目」でした。  

          秀吉のハトコの加藤清正の家紋も「蛇の目」なのよね。

加藤光泰系
蛇の目紋、上り藤紋

加藤光泰は美濃生まれで豊臣秀吉に仕え、甲斐24万石を領した。
光泰の子の加藤貞泰は伊予大洲藩の初代藩主となった。




蛇の目紋について:結論は「あとづけ」  だから  意味無し



「弦巻」から「蛇の目」に変化

この文様の歴史は古く、四世紀頃には既に使用され、多くの古墳の石室に描かれています。
一般的に蛇の目文様と呼ばれますが、この呼称は江戸時代に定着したものといわれています。


元来、この文様は何らかの動物の目を模ったものだといわれています。
どの動物かはわかりかねますが、この文様に似た模様が一部の昆虫の外骨格にあったり、
現在も鳥よけに使用されていたりすることから、
人間を含む動物全般が本能的に恐れを感じる文様なのかもしれません。


「蛇の目」の呼称については、古来より民間の間で信仰されてきた蛇信仰がその根底にあると考えられます。

蛇は四肢をもたない長い体や毒をもつこと、脱皮をすることから、死と再生の象徴とされてきました。
そのため、蛇信仰とこの文様が合わさった結果、死者の安らかな眠りや再生を祈願する呪術的要素の意義をもって「蛇の目」の呼称が定着したと思われます。




家紋としては、戦場で武士が弓に張る弦の予備を巻いておく「弦巻(つるまき)」を基にして生まれた紋章で、元来は「弦巻紋」と呼ばれていました。

しかし、その形状から次第に「蛇の目」と呼ばれ、現在もその呼称が定着しています。

またその通称から「死と再生」の呪術的イメージが後付けされた珍しい家紋でもあります。



蛇の目紋使用諸家
吐田 堀江 飯富 加藤 細川 戸田 松平 石川 京極 平松 花房 林田 etc

主な有名人
佐久間信盛(1528年−1582年)【蛇の目九曜紋】
加藤清正(1562年−1611年)【蛇の目紋】
[83]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年02月05日 21時27分53秒 ) パスワード

あを様、英語教えて下さい!

 「Don't it make my brown eyes blue.」の「it」は必要でしょぅか、なくて
もいいように思うのですが…。
[84]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年02月05日 22時03分32秒 ) パスワード

日本の古代史を解く方程式

 岩田明氏の『消えたシュメール王朝と古代日本の謎』の中には、日本の古代史
を解くいわば方程式が書かれています。
 それは─
「結論から言えば、日本民族はシュメールを含む3つの部族、即ち3部族による
統合・混血によって成立したものであると考えている。
 その3部族とは、毛族(もうぞく)、海人族(あまぞく)、銅鐸部族の3つだ。」

次回、もう少し詳しく掘り下げてみます─
[85]空の青海のあをさんからのコメント(2023年02月06日 03時40分24秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「Don't it make my brown eyes blue.」の「it」は必要でしょぅか、なくてもいいように思うのですが…。



                  「泣かせないでよ」ってハナシですね


「無し」の場合は単純な命令形ですね。   
わたしを悲しませるなよ、このドあほうがぁ〜!怒
って感じ、かな?


「アリ」の場合は  「主語付き」ということで 
そんなことして、私を悲しませたりしないでよ、お願いだから
    って感じで  
私が泣いているのを知って欲しいの(涙)
って、感じかな?


答え:
言葉遊び 

      何重にも  言葉遊び  をしているから  ややこしい。



解釈:
世間には茶色の目の人もいるし、青い目の人もいる。

「Don't it make my brown eyes blue.」は "Doesn't it change the color of my eyes from brown to blue?"

だからってわたしの目の色を青に変えられるって言うの? ⇔ 変えられないわよ!怒 = わたしは悲しいんだよっ!涙でいっぱいなんだよっ!


この歌詞の「青」は「あなたに捨てられて悲しい = SAD」の意味で使われている。

    
     Don't it make my brown eyes blue.「わたしの目から涙を出させないでよ」。


ということで Doesn't it make me sad?  アンタ、私が悲しんでいるなんて思ってないよね? ⇔ 私は悲しいんだよぉ〜




クリスタル・ゲイルの「瞳のささやき」
(Don't It Make My Brown Eyes Blue)

I don't know when I've been so blue
Don't know what's come over you
You've found someone new
And don't it make my brown eyes blue
I'll be fine when you're gone
I'll just cry all night long
Say it isn't true
And don't it make my brown eyes blue
Tell me no secrets, tell me some lies
Give me no reasons, give me alibis
Tell me you love me and don't let me cry
Say anything but don't say goodbye
I didn't mean to treat you bad
Didn't know just what I had
But honey now I do
And don't it make my brown eyes
Don't it make my brown eyes
Don't it make my brown eyes blue
Tell me no secrets, tell me some lies
Give me no reasons, give me alibis
Tell me you love me and don't let me cry
Say anything but don't say goodbye
I didn't mean to treat you bad
Didn't know just what I had
But honey now I do
And don't it make my brown eyes
Don't it make my brown eyes
Don't it make my brown eyes blue.
[86]空の青海のあをさんからのコメント(2023年02月06日 03時51分23秒 ) パスワード

三つ柏さん


                ↑

             彼氏さんに戻って来て欲しいけど
             戻ってなんか来るわけないよね
             茶色のわたしの目を青色に変えられないように


考えれば考えるほど迷路に嵌る年代になりました。ウソ800です。

他の人はどう解釈するんでしょうね。

日本語の文法は苦手で古文の解釈なんて(勝手にやってろ!)でした。
和歌なんて注釈が無いとさっぱり意味が分からない。あれが日本語か?です。恥



ということで

>日本民族はシュメールを含む3つの部族、即ち3部族による統合・混血によって成立したものであると考えている。
>その3部族とは、毛族(もうぞく)、海人族(あまぞく)、銅鐸部族の3つだ。」


>次回、もう少し詳しく掘り下げてみます─

よろしくお願い致します。

考えると考えるほど藪に入って行ってしまいますから。
情けない

【ジンム】って誰?
     と思っちゃったレベルです・・・

[87]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年02月06日 05時50分50秒 ) パスワード

 あを様、ありがとうございました。英語の言い回し、言葉の意味、総じてニュ
アンス…日本人には理解しずらいものが多々あります。頭で習うより耳と目で(
感覚で、フィーリングで)理解しなさい、つまりヘレン・ケラーの言語理解力の
獲得過程と同じかも知れませんね。ありがとうございました。だいたいはわかり
ました。「It」っていうたった1つの言葉や使い回しにも、奥の深いものがある
ことがわかりました。
[88]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年02月06日 06時34分37秒 ) パスワード

「日本民族の古代の3つの流れ考」
 岩田明氏によれば──
 「日本列島は、今からおよそ10,000年(つまり1,000年が10回くり返す長さ)前、
氷河期が終わって、海面水位が160メートルから200メートル上昇したこと(これ
ほんまかいなと思うくらいの高さ。当然ムー大陸は存在していた可能性大)によ
って、ほぼ現在の形ができあがった。
 当時、この日本列島には、島々に取り残された原日本人ともいうべき「部族」
が住んでいた(私が思うに、波状的な渡来があったと思う)。これが「毛族」と
いわれる第1の部族である。彼らは、現在の沖縄から本州各地の山地、そして北
海道まで広く分布し、狩猟や野生の植物を採取していた(実際は、水上交通、文
化度も高かった)。その記録は、『古事記』や『日本書紀』、その他の古文書な
どに「毛人(えみし)」として出てくる。いわゆる「縄文人」と考えてもいい。
 第2は、シュメールに端を発し、南インド、東南アジアという海洋ルートを
経て、日本に渡来した部族で、一般に弥生人と称される「海人族(あまぞく)」。
 そして第3が、同じくシュメールを祖とはするが、アーリア人(アイラ族)と
同化、陸路でユーラシア大陸を東へと移動し、中国、朝鮮を経て日本に渡来し
た「銅鐸部族」である。
 これら3部族が、永い歴史の中で、ときには手を結び、ときには激しく争い
ながら、現在の日本民族を形成していったのである。」

 上記文章の中には、弓月の民・秦氏等の渡来については触れられていない。
また、徐福などについても触れられていない。たぶん大きな流れ(広義)として
3つに大きく、ザクッと述べたものでありましょう。
 でも、この中で、いきなりの「銅鐸部族」という表現には、ビックリしまし
た。銅鐸部族って日本にくる前からの概念なのか、それとも日本に来てからの
概念なのか、シュメールの時代には銅はすでに使われていました。銅鐸という
形になったのは、日本に来てからのことなのか、その辺を調べる必要がありま
す。銅鐸は、祭祀に使われ、後には音で呼び寄せる目的に使われたと解釈され
ていますが、一説には、銅鐸の4つの穴は、春分点・夏至点・秋分点・冬至点
を知るための覗きホールであったという科学的な解釈もあります。あの形自体、
確かに何か特殊性を秘めている感じがしますし、何故四隅に穴があいているか
にも単純ではない疑問を感じるものであります。

 とりあえずはこの辺で──
[89]空の青海のあをさんからのコメント(2023年02月06日 09時28分21秒 ) パスワード

三つ柏さん

纏めてくださってありがとうございます。
お蔭で「サマリー」を念頭に置いて   石川雅晟氏の「ユダヤ系秦氏が語る邪馬台国」が読み解け易くなる   かも   です。

          この人の展開
          なかなかついて行けないです



第1の部族「毛族」=「縄文人」がなかなか賢い人々であったことに驚きます。
    農業をやってたこと       (稲作ではない。稲作をやった人々=弥生人=第2の部族)
    道具を作ってたこと

第2の部族の稲作の件
    ムカシは半島経由で稲作が伝わったとしてたけど
    今は遺伝子研究で
    中国大陸の南の方から日本に伝わった
    に変わっている


        稲作=共同作業=富と権力と支配
        時には戦争に至ったでしょうね

以上は納得いきます。



第3の部族が「銅鐸部族」ですか。

    わたくし的には  銅鐸=稲作=弥生人  ですが。

    つまり  「宗教」が力を持ってきた  ということなのかしら?



________________________________

英語は間口が広いから  うっかり誤解するんですよね  「外国語の中で1番簡単」  って。

英語って 簡単な  それも中学あたりで習うような単語で  慣用句が作られるから  ここでも誤解してしまう。 
  

うちのマザーが「子供の頃、大雪の日には学校へ行く途中、みんなで足の引っ張り合いをしたもんだ」と言ったので私はビックリしたのですが

pull one’s leg  は 「からかう」「ふざける」「だます」「悪ふざけをする」のことで
日本語の「足を引っ張る」とは似ても似つかない。

最近も cup of tea で  
    Rock music is my cup of tea. ロックはオレのお気に入り。  
    It's not my cup of tea. ロックは私の好みじゃないわ。
cup of tea  って  好みの話です。


「最近XXさんとこに赤ちゃんが生まれてさ」「へぇ〜、それで、どっちだったの?」
It's a boy.  男の子だよ。


     日本人だったら  BOY  男の子  って分かってるんだから  He is a boy. って言いたいですよね。笑
     それが  It's a boy.    IT を使うんですよ。

     日本人の英語感覚で  「IT」は「それ」って訳すから  「それは男の子です」という奇妙な和訳になってしまう。

     この場合の「IT」は 「どっちだったの?」と訊かれたことに対して
     「男の子だよ」と軽く返す返事だから  主語を「 IT 」にしただけ。



結婚したばかりの時に「ベッドルームの💡が切れた」に「OUT」を使ってハナシをしてた時に
夫が「The moon is OUT.」と言ったので  わたしは(月が切れた?え?)と思ってしまいました。
夫は「月が出た」と言ったのに。


数日前に時計をひょいと見たら  10:14 でした。
フツー  10時14分  と思いますよね。

わたしは  「ああ、  てん ふぉぁてぃーん  か」と心の中で思い
日本語で  「10月14日」  と言ってしまいました。
恐ろしい〜


完全に  平野紫耀  やってますね。この子は  営業用の天然でしょうか?
わたしは  ボケ?  認知症?  オソロシイ!




________________________________

上記レス<85>の
Don't it make my brown eyes blue.
「わたしの目から涙を出させないでよ」。

この下手クソな和訳。
自分で自分の和訳に笑い転げてしまいました。

せめて
    「わたしの目を涙で溢れさせたりしないで」ぐらい思いつけよ > 自分
でした。
キャハハ

国語力の無さ
洞察力の無さ
表現力の無さ

英語の前に日本語がヤバイ
[90]空の青海のあをさんからのコメント(2023年02月07日 03時15分47秒 ) パスワード

三つ柏さん

下記の動画では
「縄文人」「弥生人」「古墳人」
になってました。


      「宗教」が力を持って来たってコトかしら?

https://www.youtube.com/watch?v=8A7VMeOBqIo
日本を統治したのは誰か?
なぜ男系子孫にこだわるのか?
日本人は征服されたのか?
日本人とは何者なのか?
YAP遺伝子とは何なのか?
[91]空の青海のあをさんからのコメント(2023年02月11日 03時42分28秒 ) パスワード

三つ柏さん

この動画、面白かったですよ。
気づいてなかったことが かなり ハッキリしました。

https://www.youtube.com/watch?v=1BOrsEeJUVU
忍者とはほど遠い忠義の荒武者 服部半蔵の生涯   子孫のその後



===============================

この中で
半蔵2代目の半蔵さんと保次が出て来ます。


半蔵さんの方は岡崎で

        半蔵さんは信康の切腹に関わって
        そりゃ、信康の首は落とせなかったでしょうね

           駿府に人質になってた時の思いだってあるし。
           この人質救出作戦で失敗したエピソードが前回の「どうする家康」で描かれてましたね

        前回の「どうする家康」で半蔵さんが信康の介錯が出来なかった心情、涙が止まりませんでした
        まだ、だいぶ先なのに。




保次の方は(尾張服部系出身者)遠江で

と出て来ます。



保次は  つまり  服部中保次ですね。(宗次・要介・小平太・中)

尾張服部系ですから
平宗清系で
頼朝から伊賀国阿拝郡と山田郡の32村を拝領し
阿拝郡服部に居住。
伊賀守宗純子孫。

足利義輝将軍に仕えて
信長に仕えて
桶狭間の戦いで今川義元に一番槍をつけた。

5年後に家康に召されて  
翌年足軽同心50人を家康から預けられた。

     
天正5年
遠江国引佐郡と三河国額田郡岡村で120貫文の采地を給ふ。

天正15年遠江国刑部村に葬る。
法名  湖雲
享年  62。



この人の子が保正で上総国夷隅郡で1550石を頂いて
         上総国なら桓武天皇子孫ゆかりの地ですから嬉しかったでしょうね
         わたしも夷隅にすごくこだわりがあるし
         私自身の心象風景は反対側の市原だけど   市原にいた記憶があるような


孫が保俊で1550石のうち   500石を弟の保久に分け与えて
その後  500石を加増されて

慶長19年荒井の関所番(新居の関所ですね)となって
服部杢助政次と一緒に働いて

慶長20年6月6日には   計3050石  になった。



=================================

岡崎の服部氏は伊賀系で
遠江の服部氏は尾張系かと。

その後   

家康が浜松に居住して  伊賀系と尾張系が混在するんでしょうね

その後は駿府や江戸でゴチャゴチャしてグチャグチャに。




2代目半さんの死因はいろいろ言われるそうで
一説には信康の仇として秀忠に暗殺されたってハナシは秀忠の生母の継父が服部一族なのに?(つまり従兄弟か再従兄弟関係)
と思うけど  
戦国時代にそんな忖度は無いでしょうね。




こういう人間関係で生きてた時代があって
今は平和で
わたしは幸せなんだな、と。
[92]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年02月13日 07時38分17秒 ) パスワード

「服部中についての考察」

 服部党についての記述、ありがとうございます。

 服部中の「中」はどういう意味の「中」なのか?
 地理的方位的な「上(かみ)」「中(なか)」「下(しも)」なのか?
 上下関係の「上(じょう)」「中(ちゅう)」「下(げ)」なのか?
 勢力的な「中心」という意味の「中」なのか?
 宗家であり正統の中枢・中心・中央・中核という意味の「中」なのか?
 それとも「中」は「旗」が語源らしいので、南朝軍の旗印(中核)であったと
いう意味なのか?
 
 ちなみに、服部中家の陣家やお屋敷は、浜松市の西部で浜名湖の東に位置す
る大久保という所に明治初頭まで存在し、同じく飛び地(領地)の長上郡上石田
にも代官屋敷があり、地代官馬淵氏を置いていたという事実があります。
 服部中の家格が名族にあたるなら、明治生まれの太田亮氏が遠江の調査をし
た時に、服部氏という名族が上石田にいたということを知って、「而して遠江
に服部氏の名族あり」と書いた可能性は非常に高いと思っています。
 

 
[93]空の青海のあをさんからのコメント(2023年02月13日 09時53分10秒 ) パスワード

三つ柏さん

あと30分ほどで「どうする家康」の放送があります。
きっと泣けるな。

    三河のうちの一族(要するに  反信長で今川方だった  我が一族)とその親戚が討ち死にする展開ですから。




>「而して遠江に服部氏の名族あり」

これは  どの「服部さん」を言ってるんでしょうね?

    服織神社系なのか?

    服部中保次なのか?   だって  3050石といったら  大身旗本の殿様の家ですよ

    服部正尚一族のことか?  2代将軍徳川秀忠の一族ですからね
    
                 ⇅  ここは千賀地系の一族ですね

    服部半蔵の一族なのか?



服部一族を「上」「中」「下」と区別するのは何度もあって

服部宗純の11代前が  下服部保長。  この人は半蔵さんの先祖じゃありません
よ。時代が数百年違うし。


半蔵さんの方は  
中服部保遠の子孫で千賀地系の人。
この系統が半蔵の家であり正尚の家。さらには明智光秀の後妻の実家の名張の服部保章の家。




江戸時代に  桑名藩で上服部家・中服部家・下服部家の3つがありました。


半蔵さんの息子3代目半蔵の正就がドジって
     正就の妻は桑名藩主松平定綱の姉だったから
4代目服部半蔵正重は大変だったけど、子供達が桑名藩の家老になって(大服部家)
服部正辰(正重の甥)らも桑名藩に仕えて
         血統から藩主一族の扱いを受け、
服部半蔵家以上に優遇されて(小服部家)。



なので服部中保次の<中>って  どういう意味なんでしょうか?
なかなか由来にヒットしません。


ではテレビの前に移動しますね。ティッシュ1箱抱えて。
[94]空の青海のあをさんからのコメント(2023年02月13日 11時29分41秒 ) パスワード

三つ柏さん

長上郡の名族・服部氏とは
たぶん  服部中保次  の家のことでしょうね。


>服部中家の陣家やお屋敷は、浜松市の西部で浜名湖の東に位置する大久保という所に明治初頭まで存在し、
>同じく飛び地(領地)の長上郡上石田にも代官屋敷があり、
>地代官馬淵氏を置いていたという事実があります。

>服部中の家格が名族にあたるなら、
>明治生まれの太田亮氏が遠江の調査をした時に、
>服部氏という名族が上石田にいたということを知って、
>「而して遠江に服部氏の名族あり」と書いた可能性は非常に高いと思っています


>>服部中の家格が名族にあたるなら

3050石ですから  大身旗本の殿様の家ですから  名族にあたりますね。
それに「長上郡」って書いてありましたよね。



長上郡の石田って  幕府領の旗本領ということで  服部中の家の領地みたいですね。




服部半蔵さんの家は  小池でしたっけ?  
東区の小池?
だとすると幕府領?

       半蔵さんの一族関係でしょうかねぇ?

       小池の東に市野があるのですねぇ。懐かしい。


南区の小池?
こちらは浜松藩領ですか。



こういう事の確定情報が手に入ると良いですね。
あと2か月 しっかり  お友達の輪を作ってくださいね。
[95]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年02月13日 21時50分12秒 ) パスワード

「出雲考」
 伊賀を考えると、出雲ー丹波ー高槻・伊賀・近江ー…遠江…伊豆というように、
何か文化・政治・信仰、心情的な「線」でつながっているような感じがします。
特に、出雲、丹波、伊賀甲賀には、忍者的な暗さ・闇を感じます。これは、私の
感覚・直感なので、これを証明していかなければなりません。
 それは戦国時代の忍者に始まったことでなく、日本の古代の歴史の原点からつ
ながっているように推察いたします。今はまだ私の頭の中は、霞がかかった状態
なので、クリアにするにはもう少し余裕と時間がほしいところであります。

 さて、岩田明氏のいう「銅鐸族」というくくりは、一体どういう意味・氏族、
あるいは民族を言うのかということについて、銅鐸の秘密を知れば何かわかるの
ではないかと、藤芳義男氏の『銅鐸の謎 古代青銅器の解明』を読んでみました。
 この本からまずわかったのは、著者は理科系の人間であり、科学的な分析を
銅鐸に対して行い、銅鐸は「中日(夏至と冬至の間)」を決める道具としての機能
を持つということでありました。単なる祭祀用の道具ではなかったということが、ある意味衝撃的でありました。
 つまり、銅鐸族は、米の種まきの一番いい一定のタイミングを知るために、
つまり米の生産性を上げ、国を栄えさせるため、銅鐸を作った。銅鐸のある一定
の位置に設けられたいくつかの「穴」で太陽の方向と位置を知り、中日を割り出
し、計算して種まきをしたということであります。
 それは、古代における科学技術になると思いますが、一体どこからそんな知識
を得ていたのであろうか……?
 今日はこんなところにしておきますーー
[96]空の青海のあをさんからのコメント(2023年02月14日 03時19分17秒 ) パスワード

三つ柏さん

>出雲、丹波、伊賀甲賀には、忍者的な暗さ・闇を感じます。

はい。
 
しかし出雲には「神話の国」のイメージから「神秘性」や「高貴さ」を感じます。
そこから逆に「出雲の闇」=「出雲の謎」を感じます。

         レベルはおとぎ話に留まってます(恥)



>日本の古代の歴史の原点からつながっているように推察いたします。

陸続きですからね
    ヒトには足があるから  移動しますから  行き来してたのは確かで
求めていたのは、
    まず、「勾玉」の材料ですかね?
    それから採掘用の人材と知識ですかね?

後の時代には「砂鉄」ですかね?

もっと後の時代、出雲の人々が迫害されて遠い縁を頼って逃げた落ちた先だったかも。




>銅鐸は「中日(夏至と冬至の間)」を決める道具としての機能を持つ
>祭祀用の道具ではなかった

ピラミッドの土木技術の優れた話で
     記憶が不確かですが  ピラミッドの底辺の <?> が  誤差20pだった
という話をピラミッド学者が言ってたような。

       20pしかズレない?
       わたしが部屋の模様替えで家具を動かすだけでも20pはズレるのに!


つい最近、ある星を基準に測量する話を聞いたばかりで  
誤差がほとんど無い   すごいだろ  
と言われて  

すごい!
と頷いたけど
     何のハナシだったか記憶に無い(方向音痴だから)


           メソポタミアの古代人にも方向音痴はいたのだろうか?



>一体どこからそんな知識を得ていたのであろうか……?

やっぱりメソポタミア発でしょうか?
海の道・陸の道で日本に来る途中いろいろ変化したんでしょうか?




我が家が600年ほど住んで来たエリアは木曾3川があって
年に2回は氾濫して (梅雨と台風ね)  そのたびに  木曽川と長良川から肥沃な土壌が流れて来て
更に!
0m地帯ですからね  <平坦に>  土壌改良が自然の力で行われるから
稲作には都合が良かったので   
測量技術なんて  別に  必要無かったのですよ

     この<別に>発言はエリカ様風に発言。キリッ


要するに  土地争いが無かった   というのが背景にありますね。
こういうエリアでは測量も土木工事も必要無いし  方向音痴度も熟成されるでしょうね。
     で、わたしのような方向音痴が生まれた?


           命より大事なお仏壇は天井裏に吊るし上げたり家の敷地に高台を設けて、小屋に避難させた
           なんせ  戦う教団の一向宗バリバリ一味のエリアですからね



と考えると  メソポタミアって  土地争いが激しかったのかな?


久し振りに笑ったぁ〜
[97]空の青海のあをさんからのコメント(2023年02月14日 03時44分42秒 ) パスワード

銅鐸の使い方(簡易天文観測装置)について、ときおさんから頂きました。
以下コピペ




以前にも、お知らせしたことが一度あります。
「はやし浩司」氏の動画です。


豪州英語なまりです。
岐阜県生まれで現在は浜松在住ですね。
How to use “Do-taku” or “Bronze Bells”, or a portable astronomical observation Device

銅鐸の使い方(簡易天文観測装置)
https://www.youtube.com/watch?v=CVstdzUxF4c



銅鐸の秘密
銅鐸とは何か
by はやし浩司

https://www.youtube.com/watch?v=fTg_nHWHzwY 2:17:57

HP は  http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page022.html   です。


経歴

はやし浩司 
1947年(昭和22年)
美濃市生まれ
金沢大学法文学部法学科卒
第2回日韓UNESCO交換学生
日豪経済委員会給費留学生
(正田英三郎氏・人物交流委員長)としてオーストラリア・メルボルン大学ロースクール研究生  
(ブレナン副学部長に師事)
三井物産大阪支店・ニット部輸出課勤務
幼稚園講師(7年間)
BW子どもクラブ主宰(研究・実践教室)
現在、幼児教育評論家
教育評論家
子育てアドバイザー
[98]空の青海のあをさんからのコメント(2023年03月12日 05時27分14秒 ) パスワード

5月5日の浜松まつりに殿潤が来てくれて騎馬武者行列をするらしい。


去年の11月の岐阜の信長祭りのキムタクの時みたいに大騒ぎになるんでしょうか?
浜松の自治会役員は役得ということで優先的に見物できる?



     退任後だったら役得無し?
     ガーン!
     残念でした。


で、静岡も「来て欲しい」と言ってるそうで
岡崎は出遅れた?

     安城は不貞腐れてる気がする。
     笑


今朝は前回の「どうする家康」の3回目の放送があって(再々放送)
水野信元が「お前らバカ正直にもほどがある」と言ったシーン。
笑った

   (だって三河人だよ。バカ正直者ばっかだよ。本多正信みたいなのが珍しいんだよ)
    と画面に突っ込んだ。


この本多正信は
ずる賢さに三河衆から嫌われてたというの
   (地頭が良いからね。他の三河衆には本多正信は許せないわね)
よく描かれてました。

    この回も何度見ても興味深い。


        ま、わたしは泣いてたけど。
        後の伊勢長嶋の一向一揆にオーバーラップするから。


        甲本雅裕(夏目さん)の演技には心を揺さぶられるが
        今朝も揺さぶられて泣いた。



「厭離穢土 欣求浄土」の旗印
あれは  榊原康政が書いた  ってことだったんでしょうね。
教養が深くて字がうまかったとかって話だから。
でも番組の中では  まだハッキリとは  言ってないですよね。


2週ぐらい前の放送で  榊原康政が参戦する時に  自分の名前を蓆に書いてた?
あの字も康政の字って設定だったんでしょうね。


    なんか杉野遥亮って
    浮いてるというか場違いというか
    育ちの良いお坊ちゃまが汚れ役をやってる感が強くて
    御曹司とか公達とかのお育ちの良いオトコは好みなんだけど
    杉野遥亮の演技には  わたし<<が>>  落ち着かない。



本多正信が帰参を許された理由がこの回にあった、と納得出来た。
本多正信  アタマいいもんね〜

「寺を元通りにする」 ⇔  「寺が建てられる前は野っ原だった。だから野っ原に戻すだけ」


本多正信は  水平思考ラテラル・シンキングの出来る人物だったのだなと感心する。


       こちとら100%日本人なんで垂直思考ヴァーティカル・シンキングに捉われるんだよね。


          だからブレイン・ストーミングも許容できないし。
          あはは


          日本人の限界で〜す!
          と開き直っておく。



バブルがバーストして
【日本人は「蛙湯」と世界から揶揄されてる】って聞かされた時に
この水平思考と垂直思考のことを仕事場の会議で言われた。

          恥かいた。
          なんだ?それ!


あれから何十年?

今や日本の情報解析リテラシーは世界で11位に落ちてるとかで
イタリアやスペインの後塵まで拝しているんだとか。
ホント  日本  終わったね。

わたしに【日本人は「蛙湯」と世界から揶揄されてるぞ】と言った人の国が世界一になってて、  さすが!でした。
     イギリスが2位でアメリカが3位だったかな?10位がスペインだったかな?


      だけど
      EV化で欧米は日本の自動車産業を叩き潰したつもりが
         プーチンのお蔭で
      EV化にブレーキがかかるみたいで
  
      またもや日本人の真面目思考が世界に認められそうで
         日本人は良くも悪くもこんなもんだ。

      日本人をヒトコトで表現すると「自家薬籠中」が得意。
いずれ日本が真のEV化のリードをゲットすると思う。



家康は本多正信の思考法に度肝を抜かれて、戻って来てもらう機会を狙ってたんだろうなと思う。

三河の武力系家臣達には正信はとうてい許容出来なかったんだろうな
     大坂方で石田三成が武力系に嫌われたように
と改めて思った。

      でも正信の息子は父ほどの脳がなくて残念だね。


            自分の無能ぶりを思い出す。 
[99]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年03月17日 16時23分04秒 ) パスワード

あを様
 明日が「総会」で、ほぼ95%くらいの肩の荷が降ります。心のベクトルは再び歴史
へと向かうと思いますが・・・1年のブランクで、気力と記憶力が衰えつつあるのが気がかりではあります。
[100]空の青海のあをさんからのコメント(2023年03月18日 04時00分48秒 ) パスワード

三つ柏さん

やっと、やっと、やっと肩の荷が下せますね。
お疲れさまでございました。
精力を使い果たした状態でしょうね。


大変でしたね

いろいろなヒトを束ねて1年
アタマの中が疲弊しココロも擦り減ってしまっているでしょうね。

ホント  お疲れになったでしょうね。
大変な日々でした。

でも、お蔭で得た人脈や情報もあったのですから
「良かった!良い思い出が出来た」
と思ってくださいね。




「どうする家康」
これから三河から東進して今川領へ。

日本史上の激戦に参加する拠点が浜松城になりますね。
毎回楽しみでしょうね。
ご当地なだけに。
知ってる場所ですものね。


だけど  岡崎に残った者  vs  浜松について行った者 の心中  ・  敵対心
これが信康と築山殿の処分という結果になって
     信康 永禄2年3月6日(1559年4月13日) 〜  天正7年9月15日(1579年10月5日)
視聴者としてもツライものがありますね。


大役終了でこれからはジックリ視聴できますね。
そしたら浜松が舞台の「どうする家康」の情報をお願いしますね。
楽しみです。



>気力と記憶力が衰えつつある

わたしは2月に確定申告が終わって州税局からの還付金の振込を待ってるところです。
     これを確認しない限り納税案件は終了とはならないので


納税とハワイ州立大学医学部への献体希望書の送付を終わって
現在 同じく <気力と記憶力がゼロ>   になっています。
集中力  まったく  無し  です。
そろそろ床に置きっ放しになってる雑誌や新聞を処分しなくては。
[101]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年03月18日 09時02分38秒 ) パスワード

 激励、ありがとうございます! 頑張る意欲が出てまいりました。ドーパミン
が出てまいりました!
 人間は徐々に枯れて行くのですが、記憶がフェイドアウトして行くのは、死の
苦しみを和らげてくれる神の思し召しではありますが、もう10年はそうなって
ほしくないと思っております。

 歴史はいろんな説・解釈があり、また語られていない歴史もあります。
 私にとって、日本の歴史の謎の半分は「出雲」にありと思っていますので、で
きるだけ「出雲」を解きたいと思っています。出雲を解くカギは、1つは「銅鐸」
であると感じています。
 発掘された銅鐸の最新の正確な地域・数の資料がなかなか見つからないので、
困っています。伊賀でもいくつか発掘されています。出雲・丹波・伊賀・三河・
遠江は銅鐸でつながっている―つまりは、民族的・政治的・文化的・宗教的な
つながりがあるのではないかという仮説に基づき、探求したいと思っています。
[102]空の青海のあをさんからのコメント(2023年03月18日 14時32分08秒 ) パスワード

三つ柏さん


出雲の加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡の青銅器文化。
どうして埋めたのでしょうね。

   一説によると「国譲り」ということで
   考えてみました:
        征服者に無条件降伏を示すため
        自分達の文化の象徴を地中に埋めた?



先日、安来の番組を見ました。
こちらは砂鉄を利用した「鉄」です。「たたら製鉄」。


    わたし的には
    鉄>>>>> はるかに強靭な力 >>>>>青銅
    ということで
    出雲国の雲南市加茂岩倉や出雲市斐川町神庭が
    新興勢力の安来市に「国譲り」をした?
    という印象を受けました。

         さらに  

         この製鉄技術が山を越えて岡山県に降りて行ったのでは?と。



で、更に迷路に嵌ります。

なぜ「鏡」なのか?

    太陽は鉄の剣よりも強し?
    オトコよりもオンナの方が強い?
    それで鏡がアマテラスの象徴?


などと安来の番組を見た後でグルグル  あーでもない・こーでもない  と考えてしまいました。


学者だって
そもそも銅鐸が何なのかさっぱり分からないとか
何故銅剣が埋められたのか分からないとか


「分からない」ハナシを
「安来」の番組を見て  青銅より鉄が強い  ということなのか?
と思いました。


ま、アレコレ思うのは楽しいですね。
学者じゃないので吊るし上げられる心配も無いですし。
[103]空の青海のあをさんからのコメント(2023年03月19日 16時07分08秒 ) パスワード

今朝は何か泣けてしまって涙が止まらなくて  何?  何が起きてる?  と思い
そろそろ寝る準備に入る前に
    1184年3月18日に何が起きたんだっけ?
    1185年の3月のせいで泣ける?
と考えることにした。


1184年3月18日は「三草山の戦い」でした。

源義経軍と平資盛軍による戦い。
一ノ谷の戦いの前哨戦。
義経の夜討ちで平家の重盛のお子様達が(資盛・有盛・忠房)屋島に渡ることになった戦い。


1185年3月24日は壇ノ浦。


なるほど  この1184年〜1185年の1年間は私の中の少女が悲しい筈だった。
一番悲しいのは 寿永3年/元暦元年12月7日(1185年1月10日)の藤戸の戦いだけど。



今朝テレビを点けたら  ♪吉良の仁吉♪が歌われてて   吉良→西尾→今川→浜松  と連想し
明日の「どうする家康」で  浜松(曳馬だね)のお田鶴さんが死ぬのかな?  と連想。


「どうする家康」が放送されるようになってから  オーバーラップがひどすぎる。
    ヨソの土地のヒトにはただの戦さのシーンに過ぎないのだろうけど私には身につまされる。

1991年の大河「太平記」の時もオーバーラップがひどかった。

   母方の直接の先祖の方じゃなくて鎌倉にいた女の子の最期を見てた


       ちょうど日本人がハリウッド映画で
       ドイツ軍vsアメリカ軍の戦争映画を見てる時の心境か日本軍vsアメリカ軍の戦争シーンを見てる時の心境か
       そんな差


2004年の「新選組!」も油小路の惨殺は見ていられなかった。
父方の親戚が御陵衛士の1人だったから。
       


と、ツラツラ書いてたら気持ちが収まった。
これで今夜はグッスリ眠れそう。
[104]相良四郎さんからのコメント(2023年03月19日 18時49分21秒 ) パスワード


私も普通ではありたいので久々に来ましたが
その前に服部氏のスレッドをあれだけ沢山有難うございます。
やっとちらほら様々な形がフルネームで頭に入りつつあります。

興醒めな事は未だ未だ起きます。
しかし鳥でも李下で冠を正すはやりそうなものですが。屁理屈の私には無関係(?)
沈丁花の時期が終わる頃にまた。(生きてればの話ですが)
[105]相良四郎さんからのコメント(2023年03月19日 18時54分12秒 ) パスワード


李下で冠を正さず


負けんず嫌い説のおかげで180度逆に考えることがしばしばあります。

[106]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年03月20日 16時43分33秒 ) パスワード

あを様

 昨日は、総会後で気分一新をということで、浜松市内に行ってきました。
 大河ドラマ館は一杯で入ることをあきらめました。
 行きつけの古本屋にて4冊ほど本を買って帰ってきました。
 梅原猛氏の『葬られた王朝 古代出雲の謎を解く』、石野博信の『邪馬台国
時代の王国郡と纏向王宮』その他であります。
 少し時間がかかりますが、出雲族とは何なのか、何とかまとめてみたいと思
っております。

 この日は、お田鶴さんが討ち死にする日でありました。ドラマの展開が早く、
薄くでてダイジェスト版のようで、物足りないです! 浜松が舞台ですので、
今後の展開に期待したいと思っています。
 信康の検使役(切腹を説得させる役)が何故服部半蔵と天方通綱なのかも、考
えてみたいと思っています!
[107]相良四郎さんからのコメント(2023年03月24日 13時41分02秒 ) パスワード


ネット上で こちらは既出かもしれませんが
喜多村市之進覚書で確か当人についてと思いましたが16,000石という記述がありました。
見たままと言われればそれまでですが蜂須賀藩でどのような位置付けにいたのでしょうか。

[109]空の青海のあをさんからのコメント(2023年03月29日 07時59分38秒 ) パスワード

三つ柏さん

書き直しです


選挙が始まって、またまたお忙しいでしょうね。
やっと肩の荷が下りたところなのに。

忙しくしている方が精神衛生には良いらしいですよ
いろいろな人に会えますから。

   1日に13人?以上の顔を見るのが良いそうです



ここの所、忙しくてバタバタしまくってます。
    確定申告の還付金の入金が確認できて1つだけ解消。


忙しかったのは「どうする家康」で泣いてたこととWBCと毎度の野暮用で。


WBCは
同じタワマンの友人たちが大谷選手の大ファンなことと中にはフロリダまで観戦に行ったのがいて
ハナシを聞いてやらなきゃいけないこと。

    何でチェンジアップって分かる?
    何でスライダーって分かる?

    速過ぎて追えないよ!



1つ感動したことがあります。
投手の佐々木選手。

わたしの大昔の記憶に   漫画で「佐々木投手」   というのがいて
以来「佐々木」は大嫌いな名字になって漫画で描かれた塩顔も大嫌いになりました。

    その原因が  オットと結婚してから  父方の敵将・母方の敵将の名字だったことを知り

ところが仕事で、
或る「佐々木氏」を、わたしから声を掛けて名前を知って、勝手な嫌悪だったと知って反省し
今に至る

ですが・・・

WBCで佐々木投手を見て、わたしが漫画で見てた「佐々木投手」とそっくりだったのです。
    ギョッ!


    わたしの回りに「佐々木」さんはいなかったので
    本物の人間と名字の「佐々木さん」はLAXで会った上記の人のみ

    
わたしが漫画で見てたと思ってた「佐々木投手」って  まぼろし  だった?
    グーグル検索しても見つからず  心当たりの漫画には存在してない  らしい。



わたしが塩顔俳優が嫌いなのは  その野球漫画の佐々木投手  のせいなのです。
名字も顔も大っ嫌い!
例えば  佐々木蔵之介なんて  大っ嫌い。理由は名字と塩顔のせい。  バカですね

    それで塩顔俳優は大っ嫌い
    坂口健太郎とか杉野遥亮とか。
    最近は  坂口健太郎の笑窪にやられ  杉野遥亮の上品さにやられ  思い込みを払拭しました

       ほんと  バカ


幼心に刻まれた  「佐々木憎し」  の感情
これが氷解したのがメキシコ戦。
とまどってます。


存在してない漫画のキャラクターに憎しみと嫌悪を芽生えさせられ
    本物の人間の「佐々木投手」の出現に
    何十年もの後に(先週月曜日ですね)  え?  何!これ?
予知夢みたいなものだった?デジャブの逆バージョン?



「どうする家康」は
今年1月から、もう初回から、泣いてばかりの日々。

昨朝もご近所の朝比奈さんの一族子孫にメッセージをドアの隙間から放り込んで来ました。

今朝もメッセージを放り込んで来ます。顔を合わせないようにして。

    彼女は肝臓の数値が悪いとPCP(主治医)から言われてたけど
    ワタシが教えたサプリで平均値にさせて医者を驚かせた
    なんて2月に言ってましたが

朝から「いいお酒が手に入ったから飲まない?」と誘う彼女はオソロシイ。
    悲しい酒は飲んじゃダメ!
    泣きながらお酒を飲んだらダメ!
    2人で一緒に泣きながら  酒を飲もう?
冗談じゃないよ!

    わたしは岡崎城の花見でビールを飲んで  ほろ酔い加減で帰宅したら
    電車がお向かいの息子さんとずっと同じだったことを玄関の戸を開けてた時に知って
    以来  絶対にお酒は何があっても飲まない   と決意してるんだから

          恥ずかしいじゃんね
          ほろ酔い加減で帰宅するオンナなんて


今朝彼女宅に持って行くメッセージは氏真の幻の辞世の句:
「なかなかに  世をも人をも恨むまじ  時に合はぬを  身の咎にして」

メッセージの内容は
「氏真って教養高い人だったんだね。生まれた時代が合わなかったんだね。気の毒だよね」
です。 


思っていた以上に氏真に心を掴まれました。 


          「甲陽軍鑑」に無能と書かれたせいで定着してしまった不運
           実際は「どうする家康」に描かれた氏真よりもっと高尚な人物だったろう
           


掛川城の戦いで最後まで徳川軍と戦ってたのは彼女のご先祖さま達だろうから
彼女と顔を合わせたらハグして泣きそう。
やっぱり  まだ  暫くは彼女とは顔を合わせない方が良いと思う。
こうして書いていても涙が止まらない。


だけど次は武田方にいた一族の件で涙が止まらない。

ヒバリさんのご先祖の服部さん(今は宮下姓だったかな?)
依田信蕃に仕えた服部家。
さらに
川越で商人になった服部家。
家康の「仕官させてやる」を信じたのに取り立ててもらえなかった武田の武士達。

    この中には土方歳三の先祖一族も入るわね。

などなど  泣く予定がギッシリ詰まってるなワタシ。


それより   早く我が家のリビングの床の山脈を崩せ  って叱咤しなきゃ。

もうすぐイースターなんですが(復活祭の前に春の大掃除がキリスト教系のお約束です)  
その前にペサハ=過越祭ですね
         4月5日(水曜日)〜  4月13日 (木曜日)

コロナ前は友達の香港爺さんが椰子の葉っぱを持って来てくれてたけど今年もどうなのかな?

玄関に「蘇民将来の子孫の家なり」って書いて貼っておくか?


まだまだコロナに感染する人がいるようです。
お気をつけください。
[110]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年03月29日 22時12分54秒 ) パスワード

あを様

 いろいろハートフルなお心遣いありがとうございます。次期会長の面倒もみて
おりますので、この3月末までは新年度の資料作りで精一杯で余裕がありません。
4月からはこんどは氏子総代の役を務めることになりますが、自治会長と違って
間口は狭いので、心身とも余裕ができると思います。5月には仁徳天皇陵他への
旅行もあり、楽しみにしております。選挙は投票日の立ち会いをすることになっ
ております。桜も満開で、春です!
[111]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年04月01日 23時35分08秒 ) パスワード

 本日4月1日は、精神的に解放され楽になりました。ただし、3日までは、残務も
あり、もう少しの我慢であります。
[112]空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月02日 00時49分07秒 ) パスワード

三つ柏さん


もう少しの忍耐ですか。
早く解放されたいですね。



ちょうど昨夜「出雲」のこと=三つ柏さんのこと=を考えながら寝たところでした。

_______________________________

春風亭昇太は本名が「田ノ下」姓だそうで
この田ノ下姓は激レア姓で
静岡に多く、奈良の吉野郡下北山!、あとは山梨とか。


春風亭昇太が歴史好き・お城好きの理由が分かった気がしました。


下北山というか  吉野郡は  
まさに後醍醐天皇の南朝方の本拠地で
さらに「北山」はそれこそ後醍醐天皇のお血筋の南朝方だった所以上の場所で

    この件については  後醍醐天皇ゆかりでも  わたしには書く資格が <ちょっと>  ちょっとだけね 無いので  ちょっとだけだよ
        本物のご子孫がここをご覧になっていらっしゃるから
    私なんかが、ということで。

先月先々月あたりテレビで大鹿村のドキュメンタリーを見て
宗良親王のことを思ってて
    この番組ではリニアは来ない方が良い
って思いました。

そして

今年の「静岡の祭り」に春風亭昇太は  義元公が来てくれたら、と願ってるんだろうな
と思ってたら「氏真公」だったそうで
春風亭昇太が喜んでいる姿が思い浮かびます。


春風亭昇太のDNAの歴史が分かった感じ。

__________________________________

一昨日は
    「どうする家康」で岡部以外  「みんな  武田に寝返った。朝比奈も」のセリフについて
うちのご近所の朝比奈さんの一族子孫に

「あの『朝比奈』のセリフは駿河朝比奈氏のことだから、視聴者に誤解を招くよね。
遠江朝比奈氏のことじゃないってハッキリさせる為に
「駿河朝比奈が武田に寝返った」って言ってくれてたら良かったのにね」
とメッセージをドアの隙間から入れて逃げました。


遠江朝比奈泰朝は15年分の武器弾薬を用意して家康に対する準備が出来てたから
4か月も家康に負けなかったわけだから
それに「いとさん」のパパからも援助があったし


一般の部外者には  駿河の場面とか遠江の場面とか  ワケ  分からないものね


遠州忩劇(えんしゅうそうげき)で   (井伊直親が殺されて)

結果家康vs朝比奈泰朝+氏真の戦いで堀江城の大沢さんが・・・


ここから三つ柏さんに関係するのでコピペ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B2%A2%E5%9F%BA%E8%83%A4


永禄11年末(1568年)、徳川家康が遠江へ侵攻するが、基相の居城・堀江城への攻撃は後回しにされていた。しかし、曳馬城を攻め落とし、引き続き掛川城を攻めたてる家康は軍の一部を割いて、永禄12年3月12日(1569年4月8日)、基胤の属将が守る堀川城を一日で攻め落とす。同25日(4月21日)には井伊谷衆(近藤康用と秀用親子、鈴木重時、菅沼忠久)に命じて引き続き、基胤の堀江城を攻撃させた。渡辺高綱、菅沼定盈を正、副の目付けとした堀江城攻撃軍に対し、


      基胤は中安兵部・権田織部泰長らを率いて、


数度に渡り徳川勢に逆襲をかけるなど頑強な抵抗を示し続けた。そのため、攻城軍は鈴木重時を始めとする多大な犠牲を払いながら、陥落させられずにいた。


全文はURLへ。



ホント
我々日本人はみんな繋がってしまいますね。
それも何重にも。
知らないだけで。

  「なかなかに  世をも人をも恨むまじ  時に合はぬを  身の咎にして」

まさに  役に立たなかった氏真の辞世の句  が思い返されます。


ということで三つ柏さん
人脈は広げてください。

思わぬ人から思わぬ情報を得られますよ
そう願っています。



オットのPCなので使い難くて  誤字脱字変換ミス意味不明箇所
お詫びします。

[113]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年04月06日 12時33分03秒 ) パスワード

あを様

 本日は4月6日の10時30分あたり、ようやく頭脳が解放されて、さて何か
ら手をつけようかと思いきや、頭の中では情報として蓄積された点と線が希薄に
なってしまっている・・・そこで、過去にメモした15冊のA4ノートを見直してい
ます。
 今一番モチベーションを感じるものを、とりあえず選択しようと思います。

 私が、ここ3年来通っている森の奥の三倉の服部さん、ここは家康の天野攻め
で三倉の戦いがあったところです。今は「戦国夢街道」と命名されており、厳し
い戦いであったのにもかかわらず、戦国へのロマンを感じさせるものとなってお
ります。三倉のトンネルを越えると春野、天野氏の支配下であり、三倉側は天方
氏の支配地。今川・武田・徳川のベクトルの交差する三角点。こんな山の中に、
何故服部家があるのかということで、3年前に訪ねたことが始まりで、それ以来
親戚のように気が合い、相通じています。お茶の製造販売をしていて、全国の品
評会で三位になったこともある。明治の頃は雑貨商店、今で言うコンビニを営み、
馬車が荷物を運んできたということであります。
 私は、この服部家は伊賀と関係するのではないかと考えている。詳細について
は別の機会にするとして、今回は森の城主の天方氏についてフォーカスして考察
してみたいと思います――
 
 
[114]空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月06日 17時48分16秒 ) パスワード

三つ柏さん

15冊ですか・・・
膨大過ぎて  チェックするの  大変ですね。



三倉の服部さん
ものすごい山の中ですから
アヤシイですね。

>今川・武田・徳川のベクトルの交差する三角点。         

隠密活動にはピッタリですね。


三倉の服部さんは  服織系の服部氏なのか  伊賀系なのか 
続きが楽しみです。



天方氏は元は古い名家のようですね。

通綱は信康事件で出奔して   
青山氏に嫁いだ娘が生んだ子が継いだのですか。
やっぱり子供はたくさんいる方がいいですね。




戦国時代は残酷ですね。
江戸時代の前はグチャグチャですね。

わたしは今でも「おんな城主 直虎」のあの時代背景が理解出来ないです。

     なんで  そうなるの?

今でも  笛が得意な直親が(直虎がいるのに)信濃で子供を作っていたことが納得できない・許せない
(笑)

今でも  高橋一生が演じた小野但馬守政次の磔刑が信じられない
(泣)
     辞世の句の「白黒を つけむと君を ひとり待つ 天伝ふ日ぞ 楽しからずや」

         「鶴丸」は「おとわ」の為に死んで逝ったんだな、と
          天国で2人は「碁」を楽しんでいるのかな?  と  「亀之丞」抜きで  (笑)



あの時代に生まれなくてラッキーでした。
わたしは  最初に犬死  だと思います。



今日は  朝比奈さんの一族子孫の家に行って3時間ダべって来ました。
明治政府だか渋沢栄一(の関係者?)だかが建ててくれたという碑の写真などを見せて貰いました。

    彼女の家の紋は「鷹の羽のぶっ違い」でした。


朝比奈の発音が「あさいな」って彼女の一族は言う、と聞きました。          



相良や比木や地頭方にも親戚がいて
わたしが調べたところ  室町時代の今川氏が遠江に侵攻した時は  たぶん  小山  の有力者だったようです。

    この件は明日知らせに行きます。



彼女のメディカルレポートを見てびっくり!

好中球が84でリンパ球が6!
   ウッソォ〜!
   危ないじゃないか!
   この数値!
と言ったら

   イギリスとアメリカで研究してた慶応の医者が  理想は65:35  と言ってたので  84:6?  と仰天したのです

彼女は処方薬を持って来て「納得いかないから服用してない」とLevothyroxine リボチロキシンを持って来たのでビックリ!

甲状腺のお薬でした。
ま、女性は甲状腺の病気が多いから、そんなものでしょう。
60歳を過ぎた女性は海藻の大食いは甲状腺癌の可能性が起きるそうだと言ったら「海藻は大好きだ」と言うので
実はワタシも大好きなので・・・ヤバイかも・・・と2人で笑って来ました。

Levothyroxineは服用条件が面倒なので
(カルシウムのサプリとは4時間空けなきゃいけない、大豆を食べる時は3時間空けなきゃいけないとかね)
「確かに服用したくないよね」と。


逆流性胃炎とか大腸系の疾患を持っている彼女なので甲状腺も?
でした。
彼女自身は「膵臓癌が心配」だそうですが。

大酒飲みの知り合いの男性達は60代で亡くなっているのが多いので
「取り敢えずリンパ球数を上げることじゃない?」
と棄て台詞を吐いて逃げて来ました。


明日は8ページに及ぶレポートを持って行きます。
[115]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年04月07日 17時22分24秒 ) パスワード

「天方氏考」
 天方氏の一族の末裔に、浜松で天方産業という会社を経営している天方氏がい
ます。日立の代理店をやっていてなかなか立派な会社であります。
 遠州森町に天方城跡があり、天方一族はここを拠点としていたと言えます。
 天方通綱は、信康の検使役として服部半蔵と共に二俣城を訪れ、半蔵が介錯で
きず、通綱が代わって介錯し、後に高野山へ出奔したと言われる。
 せいぜいこれくらいの知識しか持たなかった私でありますが、この天方氏、な
かなかのものでありました。
 詳しく説明すると長くなりますので、簡単に記しますと、ルーツは「藤原氏」。
藤原秀郷から6代目が「公清」で、「佐藤」を名乗る。その子{助清}は「首藤」
を名乗り、そこから数えて3代目の{義通}が「山内」を名乗る。これらの流れ
から、一般的には「首藤山内氏」と分別される。
 首藤助清の庶流に源為義・義朝に仕え、乳母を出した鎌田通清・正清親子がい
る。
 助清から6代目が「経俊」で、「伊勢・伊賀守護」となる。源氏と関係の深い
山内氏であるが、この経俊の時、多くの相模国の武士―大庭氏、俣野氏、河村氏、
渋谷氏、曾我氏、熊谷氏らと同様に「平家の被官」であった。
 山内経俊は1185年から9年間所持してきた伊勢伊賀両国の守護職を失う。
 山内氏には「伊賀」と関係が深かったという事実がある訳であります。
 つまり、天方氏の祖先はなかなかのものであった。家格としては服部半蔵より
高かったと思われます。
 ここで一端切ります。

 今晩は義理の姉が慰労会を開いてくれますので、これから出かけます――
 
[116]空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月08日 04時00分34秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「天方氏考」

詳しいレスをありがとうございました。



>ルーツは「藤原氏」。
>藤原秀郷から6代目が「公清」で、「佐藤」を名乗る。

この人から  伊勢の藤原氏=平家一門  が出るのを大昔に読みました。


>首藤助清の庶流に源為義・義朝に仕え、乳母を出した鎌田通清・正清親子がいる。

へぇ〜
「鎌田」はココからでしたか。
これは全く知らなかったです。
ありがとうございました。


とにかく  藤原秀郷流は大族過ぎてワケ分からないです。
人間は足があるから移動するし  移動先の地名を屋号として名乗るし  そこから 又 移動して移動先の地名を名乗るし。



今  天方と三倉の距離をネットで調べたら  6,368 km  なんて出てしまって
一瞬  え? 6.368q?  と思って  ちゃんと見たら  我が家から天方神社の距離でした。

     朝からバカやってました。


で、バカついでに  
我が家と三倉との距離を出したら  6,366 km  だから

天方と三倉の距離は  (2qとはいかないのでしょうけど)  数キロなんでしょうね。
それもスグのご近所さん同士。
たぶん6kmほど(笑)離れているだけ?
まさに!隣ですね。


     方向音痴はこういう計算をして満足する・・・バカ過ぎ


数キロの距離なんて  スグ  近所じゃないですかぁ〜


     隣!  お隣り!

     三倉の服部さんがいよいよアヤシクなりました。
     

天方城の向こうに三倉があって  さらに向こうに大河内という地名がある。

         大河内氏だったら南朝方で家康の祖母の華陽院さまの実家(養家)というのを連想します

三河の大河内さんは有名です。(西尾市寺津)源三位頼政の孫さん  平家に敗れて  三河へ。
ここから後に知恵伊豆として有名な松平伊豆守信綱が出る。


武士の世間は狭いから 昨日の敵は今日の友、昨日の友は今日の敵  で  付いたり離反したり
天方通綱と服部半蔵が信康の検死役なんて   よく出来た組み合わせだな、と
改めて思いました。



天方氏。絶滅危惧姓ですね。
出自が瞬間に分かるというのは   アイデンティティ がハッキリしてて
日本史の1コマを確かに生きて来たから「馬の骨じゃないから」誇りですね。
[117]空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月10日 03時51分25秒 ) パスワード

三つ柏さん

驚きですよ!

瀬戸方久のご子孫、現在も浜松市に在住していて
お名前は中村洋一氏。

ですって。


https://gendai.media/articles/108595
2023.04.09
徳川家康の大ピンチを救った「大金持ち」、その一族がたどった「意外なその後」


以下コピペ

2017年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』。徳川家康の四天王・井伊直政を育てた女領主、井伊直虎(柴咲コウ)の奮闘を描いているが、劇中でひときわ個性を放っているのが、井伊家に出入りする豪商、瀬戸方久だ。

ムロツヨシ演じる方久は、自らを「銭の犬」と言い放ち、いち早く目をつけた木綿の原料となる綿栽培を提案したり、当時の最新技術である種子島銃を井伊領内に持ち込んだりする。


そんな方久の子孫が、現在も浜松市に在住している中村洋一氏だ。


「大河ドラマでの瀬戸方久は、見るからに目端の利いた商人のキャラクターですが、実際の方久は、新田喜斎という武将でした。喜斎は一時期、副業として商人をしていた時期があり、その時に瀬戸方久と名乗っていたと言われています。



井伊次郎法師(直虎)から瀬戸村の地を分け与えられて管理し、政商として塩の販売を行ったり、運河を作り、供養の三重塔を建てたりもしていました。

その後、紆余曲折を経て隠棲していた喜斎は、江戸幕府が開かれて間もない慶長11(1606)年、凶作で困窮した農民たちのために年貢を軽減してほしいと代官に直訴状を書き、処刑されてしまうんです。当初は幕府を恐れ、どこの寺も葬儀を行うことを躊躇っていましたが、法要を執り行ってくれたのが、ドラマにも出てくる龍潭寺でした。


その後、一族によって喜斎を祀る小さな神社が建てられました。我が家は喜斎の長女・房が嫁いだ中村平三郎の子孫で、地元で先祖代々農業を営んでいます。10月15日になると神社の前で、中村家一門で喜斎の慰霊祭を行っており、これは現在も連綿と続いています」

ドラマに出てくる瀬戸方久を見て、自分がイメージしていた先祖と大きくかけ離れている、と驚いたという中村さん。あくまでも物語だと納得しつつ、家族中で見ていたという。

以下URLへ
[118]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年04月11日 16時58分52秒 ) パスワード

あを様
 いつも新田方休に言及していただいてありがとうございます。「ほうきゅう」
には、新田法休と瀬戸方久の二人があり、混同されています。

 新田法休喜斎(過去一時名倉姓 伊茂 友作)は元堀川城主で、血筋としては、
れっきとした清和源氏の頼光系、頼信系双方の血を引いております。喜斎には
側室に男3人、女3人の子がいて、その三人の娘を中村源左衛門の一統と思わ
れる中村平三郎が守り、その内の一人を娶ったという。
 詳しくは長くなりますので止めておきますが、いずれにしても南北朝の時代
とは、点と線でつながっております。
 喜斎の首をはねたのは、石川数正の子の石川半三郎だという。いろいろな人
物が入り乱れて出てきます。

 家康の遠江侵攻は、南朝(新田系)が北朝(足利系)を攻める関係といってもい
いのではないかとも思われます。もっとも、松平氏と新田氏の関係は不明な点
はありますが・・・。
[119]空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月11日 23時53分14秒 ) パスワード

三つ柏さん

ご指摘をありがとうございました。


方久と法休
商人と城主


               結論:「商人」が「城主」はアリエナイだろう
                      ですね
                    


>喜斎の首をはねたのは、石川数正の子の石川半三郎だという。

堀川城攻めで籠城してた村人達・男女子供を「撫で切り」した話を思い出します。



>いろいろな人物が入り乱れて出てきます。

はい
だからハナシがゴチャゴチャになって部外者はこんがらがります。

服部中の件も。



昔むかしのオオムカシに、上司で「さいとうさん」というのがいて
この人のご先祖のことがやっと解けました。


    結論:堀川城関係者でした。

わたしに  しきりに  吉良上野介義央(よしひさ?)への理解を求める人で
わたしに  しきりに  赤穂事件の世間の誤解やら吉良氏・今川氏への理解を求める人でした。

    

最近すっごく「さいとうさん」のことが思い出されて  なんで?なんで?  と思ってたら  解けました。

今川方で堀川城にいた人の子孫だったのか、
でした。



今年の「どうする家康」で今川方で討ち死にしていった西三河の親戚達を思い出して泣いてたけど
「さいとうさん」もお仲間だったのか。


わたしは父方のことは結婚するまで全く知らなかったから
結婚前に働いてた三河のことは興味無かった。

だから今朝あらためて遠江の名称の堀江・堀川・気賀・刑部・都田川などを思い出して
実は「さいとうさん」とも涙で繋がってたのか、でした。


      「さいとうさん」は宴会芸の「鶯の何ちゃら」というのが得意な人で
          (勝手にやってろ!)
           と思ってました。


「さいとうさん」のご先祖、堀川城の籠城でお疲れの皆さんに「鶯の何ちゃら」を披露してたのかな?
と思ったら「うん、うん」と返事をしてくれた気がしました。
バカですね



知らないだけで、日本人は何重にも敵や味方になって、今に至るなんでしょうね。



>喜斎の首をはねた

新田喜斎に生きていて貰っては徳川家に後々厄介だろうから殺したのかも。
家康の出自上、本物の新田さんが存在してては、喜斎の方が正統性があるから、目の上のたんこぶですからね。


政治ですね。


家康が政治力学を学んでいく姿が見えてきます。




「どうする家康」
これから益々悲劇が続いて  次は  武田方で大泣きして  その次は  明智光秀一族で泣くなぁ
です。
[120]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年04月14日 01時27分18秒 ) パスワード

あを様
 本物の新田がいては都合が悪い――同感です。

 天方氏の祖先は、源義家の妻を出し、源為義・義朝の二代にわたって乳母も出
しているという源氏本流の側近であった。
 その天方通綱に、家康は吉良義安の娘を養女として嫁がせ、生まれた子の通兼
は、吉良義冬(義央の父)の次男としての養子になっている。
 もともと家康の祖父清康の妹が吉良義安の妻となっており、松平家と吉良家は
南朝でつながっているように思われます。
 天方氏を取り込んだのは、対武田戦略の一環としての要素が強いとは思う。

 さて、天方氏が岡崎三郎信康の検使役に指名されたのは何故だろうか?
 また、同じく、服部半蔵正成が指名されたのは何故だろう?
 
 天方家は通興の娘が青山忠成の妻となり、青山家と親戚になっている。
 服部家は服部正尚の弟が青山家に養子に入り、青山家と親戚になっている。
 つまり、天方家と服部家は、青山家を通して親戚となっている。
 この流れを誰が作ったのか、家康がからんでいるか、服部家独自であったか?
 家格は天方家の方が上だが、側近度・貢献度は服部家の方が上。
 秀忠が生まれ、跡取りともなれば、服部家の家格は一気に逆転する。
 いずれにしても、服部家の方が立場的には天方家より上だったと思われます。

 信康事件の背後(武田・徳川・信長の戦略)には、そもそも情報戦=忍者が
暗躍していたことを考えると、この事件はお家の機密事項であった。
 機密戦略に服部半蔵正成がからむのは当然の成り行きと思われる。
 半蔵が、天方通綱を従えたのは、親戚としてつながり、子分格であったから
と推理するが、実態はどうであったか?
 半蔵がどう考えていたか、また家康の意図がどう働いていたか、正にここが
この事件のキモであります。

 次回につづきます――
 
[121]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年04月14日 13時26分15秒 ) パスワード

あを様

 青山忠成は、天方通興の娘を妻にしているが、忠成の父は青山忠門、忠門の父
は青山忠世、その弟に忠教(平大夫)がいる。一説によると、忠教の娘が服部半蔵
正成の従兄弟の服部正信(兵蔵)の妻になり、息子服部平大夫正尚を生んだとする。
正尚の弟の成重が青家家に養子に入ったのも、その縁があってのことだと推察さ
れます。
 
 服部正信の弟・名張城主の保章(正尚の叔父)の娘(孫)の伏見姫は、明智光秀の
妻になり、内治麻呂を生んでいる。
 服部正尚の娘は徳川家康の妻となり、秀忠を生んでいる。

 これらの人脈は政治的戦略の一環だと考えると、服部党のベクトルが見えて来
ます。光秀か家康で天下を取る。もっとも光秀筋から家光、家康筋から秀忠が続
き、事実上服部党の企みは成功したと言える。

 こういう背景や流れの中で信康事件を考えると、信康事件は服部党にとっては
秀忠を世継ぎとさせる絶好のチャンスであったと思う――

 次に続く―― 
[122]空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月14日 16時35分31秒 ) パスワード

三つ柏さん


続編を待っていたところ
           
     >光秀か家康で天下を取る

ですか!


衝撃の驚きでした。



戦国時代は   世の中を俯瞰して観る  が大事な時代で
    最小の動きで最大の成果を挙げる
    それには情報収集に徹す
    そしてフェイクニュースで攪乱する(笑)

だから

三倉の服部家の場所は良い拠点だったろうな、と。 信濃に近いから
    足助の服部家も良い場所だったと思います。美濃に近いから(明智のスグ近く)




今日は  築山殿のいた「築山」って  ひょっとして岡崎市三ツ木の築山?
わたしが大昔にウロついてた場所?

    すっごいド田舎で
    場所的には岡崎の南端で西尾に近く矢作川を挟んで安城にも近い。

    当然  旧今川方国衆のエリアですからね。
    吉良にも近いし。

と、考えると
築山殿が岡崎市三ツ木の築山にいたとすると「築山殿事件」の真相が見えた気がしました。



>信康事件は服部党にとっては秀忠を世継ぎとさせる絶好のチャンスであったと思う

そうなりますね
ゾッとしました。



余談ですが
30年ほど前だったか愛知県が大変な旱魃で水不足になり
      9人家族の友人宅では、朝、お米の磨ぎ汁で顔を洗ったり
      他の友人宅はホテル住まいをしたりして水不足に耐えてました
この時、吉川博が「家康のお墨付き」を持ち出して取水既得権を主張したことが新聞記事になってました

          参議院農林水産委員長とか農林水産政務次官だった人で地元では「お水の神様」と呼ばれてました

          ホンヤさんの家来、って言ってイイかな〜

          この強権発動のせいで?政敵の海部俊樹に負けたと思います

             海部俊樹はうちの親戚の江崎真澄の政敵でもありました(笑)

             だけど海部俊樹はわたくしの父にソックリです
                でも江崎真澄には全く似ていません
             石原慎太郎にも父はソックリです。元々は服部姓。(似るのは裕次郎の方が良かったけど)
             岡田克也の兄上=ジャスコの岡田元也氏にも父はソックリです。



我が服部一族は今に至るも家康の亡霊に守られているのを感じます。
[123]酔石亭主さんからのコメント(2023年04月14日 20時32分28秒 ) パスワード


あおさん


>築山殿が岡崎市三ツ木の築山にいたとすると「築山殿事件」の真相が見えた気がしました。

築山殿がいたのは岡崎城に近い現在の岡崎市籠田町辺り(岡崎城籠田総門付近)で、すぐ東には文化財になっている旧岡崎銀行本店の立派な建物があり、南西には本多忠勝の供養塔がある西岸寺があります。

その場所には築山殿所縁の総持尼寺がありましたが、大正時代頃に中町に移転しています。以下のPDFをご覧いただき、グーグル地図を参照すれば位置関係はほぼわかると思います。

https://www.city.okazaki.lg.jp/1300/1304/1332/p011779_d/fil/ka757.pdf
[124]空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月15日 02時35分05秒 ) パスワード

酔石亭主さん

間違いの訂正の上、地図まで載せてくださいまして有難うございます。
ぺこり


「築山」殿の「築山」って
三河の家の庭に(説明がメンド臭いので  こう  書いて置きます)  まさに「築山」があって
(築山殿は岡崎城の  庭に築山があって  そこに屋敷を構えてたから  築山殿?)
と思ってたバカなので

三ツ木の築山を知って   ヲヲッ ここ?  と思って喜んでました。


    この「築山」は岡崎城からかなり遠いから「事件」が生まれた「現場」なのかな?と。
    アホですね



あ〜
良かった
バカの上塗りになっていかなくって
冷や汗



これからもご指摘+ご指導をよろしくお願い致します。 
[125]酔石亭主さんからのコメント(2023年04月15日 07時37分42秒 ) パスワード

あをさん 三つ柏さん

築山殿の境遇は何となく於大の方の境遇に似ているように感じられます。於大の方は兄の信元が松平氏の主君であった今川と絶縁したことにより、(或いは水野氏と松平氏の関係の変化により)広忠から離縁され、刈谷城外の高台である椎の木屋敷(刈谷城に近い)に住むことになったとされています。

となると、自分の母の境遇を知っている家康が瀬名を同じように扱ったか、或いは於大の方が私だってつらい思いをしたのだから、瀬名など岡崎城に入れてはならぬと主張したのかわかりませんが、そうした事情が影響しているのかもしれませんね。いずれにしても、この二つの場面は築山殿と於大の方が二重写しに見えて仕方ない。

ここ最近は三河ばかりに橋を運んでいます。けれども、なぜ三河は(遠江もそうですが)南朝系が多いのでしょうね?足助氏などもそうですし、杉の巨木が見事な平勝寺は後醍醐天皇の第3皇子平勝親王の名にちなんでいます。海岸寄りでは三河吉野朝説まである位ですから。松平氏の先祖が新田氏流とされるのも、そういった全体状況の反映なのかも…。

まあ、最近はあまり考えもせず、三河各地の風光を楽しんでいるのが実態ですし、近世史は複雑すぎて手が出せません。でも、三つ柏さんの服部党の企みのお話など全く知らなかったのでびっくりしました。これからも服部カフェでのお二人のやりとりを楽しみにしています。
[126]酔石亭主さんからのコメント(2023年04月15日 07時42分44秒 ) パスワード

あをさん 三つ柏さん


すみません。


>ここ最近は三河ばかりに橋を運んでいます。

は、ここ最近は三河ばかりに足を運んでいます。に訂正ください。ワードに原稿を書かないでコメント欄に書き込んだのでミスしてしまいました。(下手な言い訳)(-_-;)
[127]空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月16日 09時39分32秒 ) パスワード

酔石亭主さん

誤字脱字漢字変換は  ホント  不思議ですよね。

画面を見て入力している時は大丈夫だったハズなのに  アップした途端に思わぬ文字に化けてて   え?  と驚きますよね。

     なんで?
     自分が悪いのは絶対認めないワタクシ(汗)


でも  ヤッパリ  気づくと恥ずかしいですよね
     なんで?ワタクシともあろう者が・・・恥ッズ・・・赤面



それより  わたしの場合は   自分で書いた文章が自分にも意味不明だったりして  こっちの方が恥ずかしいです
     あはは



>なぜ三河は(遠江もそうですが)南朝系が多いのでしょうね?

遠江の場合は宗良親王が陸奥の国府に行くつもりが舟が漂着して井伊行直の家に厄介になったから、と。

    伊勢にいた我が家も後醍醐天皇のお召しで遠江や信濃に転戦してますから
    ここで服部家が遠江や信濃に広がったのかなと。

       しかし武田勝頼に繋がる諏訪大社系の服部家の場合は
       もっとずっと前の時代に伊勢から信濃に入り込んでいたようですが


三河の服部家の場合は  
     清盛さまの7男の平知度が 治承3年(1179年)11月任の三河守  ということで 
清盛さまの第一の家来ですから三河には結構な数の服部一族が来てたのでしょう。

     平家なら当然南朝方ですし。


だから足助の服部家も平家時代からかな?と。
この家は半蔵正成の父親と行き来があった話を読んだことがあります。


三倉の服部家は三つ柏さんの感触では伊賀系らしい。



後醍醐天皇の皇子さん皇女さん達は  ある事典には50数人  お名前が書かれてました。
実際に分かっているのは8皇子8皇女の計16人なのかな、と。



足助の成瀬さんは結局は尾張藩の家老になって(陪臣ですからね、面白くなかったと思います)
家康の祖父の代には仕えてたし家康の父を岡崎城に戻しているのだから、
城持ち大名になりたかったでしょうね。

     なれたのは幕末ですから報われない家だな、とつくづく思います。
     なんせ足助の成瀬さんというと
     ご先祖が後醍醐天皇の倒幕で共謀者の土岐頼員に裏切られて戦死
     その子の足助重範は大活躍したものの笠置山の陥落後に捕まって処刑された



足助の成瀬さんは関白二条良基の息子の基久の末裔だそうで
この関白二条良基という人物はかなりの曲者で  つまり  政治屋ですね
     シスターは後醍醐天皇の女御
ところが自分は摂政関白太政大臣で足利義満まで仕えたとか。
シスターの栄子さんには後醍醐天皇との間に子供がいなかったからかな?



美濃の守護・土岐頼兼は一族の頼員(舟木頼春)、多治見国長、足助氏の当主の足助貞親(加茂重成)らと後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒計画に参加。


     美濃も揺れてたんですね。
     

兄弟は他人の始まり
昨日の友は今日の敵
昨日の敵は今日の友


17世紀の初めに血で血を洗う争いに終止符を打った日本って改めてスゴイ国ですね。
[128]酔石亭主さんからのコメント(2023年04月16日 19時16分31秒 ) パスワード

あをさん

>誤字脱字漢字変換は  ホント  不思議ですよね。
画面を見て入力している時は大丈夫だったハズなのに  アップした途端に思わぬ文字に化けてて   え?  と驚きますよね。

本当にそう実感しますよね。「橋」と「足」は音は非常に近いですが、キーボードでの入力は橋は最初がHで足はAで二つの文字間のキーは離れており、Hに打ち間違えるはずがない。これは明らかに私の脳内で足を橋に無意識に変換してキーを打っていたためと思われます。最近はパソコンの画面を見ているとすぐに目が痛くなるし、文章もうまく練ることが難しく、能力の低下が顕著になっているような気がします。

それはさて置き、少し前の話題で、商人の瀬戸方久は新田喜斎という武将だったかどうかの問題について…。

瀬戸方休って直虎のドラマの時面白そうな人物と思い、だけど実像がよくわからないとの印象があり、私も混乱(混同)があるかもしれませんがちょっと整理してみました。

三つ柏さんがご指摘のように新田法休喜斎は、元堀川城主・新田友作であり、元清水城主の名倉伊茂であり、墓所である気賀の龍雲寺では新田四郎義一が出家して喜斎であり、これらとは別に龍潭寺の記録では新田友作/新田義一の戒名に「方久」の名が添えられた文面があるそうで、瀬戸方久かもしれず、全得寺の解説板によれば新田喜斉(方久)とあり、井伊家の家臣として、また気賀の領民に尽力した武将(商)でもあった。とされ、瀬戸方久を彷彿とさせるような書きぶりになっています。

一方瀬戸方久はWikiによると、
遠江国引佐郡瀬戸村の郷士で、もと名主を務めていた松井平兵衛が地名から瀬戸を名乗り、一帯の領主・井伊氏の庇護を受けて豪商に成長したと見られている。
永禄9年(1566年)井伊直虎が渋川村の福満寺に梵鐘を建立しているが、方久は鋳造の資金を担い、瀬戸四郎右衛門の名で願主として名を連ねている。とのこと。

大河ドラマの龍雲丸は龍雲寺から取った名前と考えればモデルは新田友作で、瀬戸方久はWikiが書く瀬戸方久となるし、両者の出自は異なっていると思われるので、やはり別人とすべきなのでしょうね。

まあ、新田友作は開発小領主の何でも屋さんだから場面に応じて幾つもの名前を使い分け、当然瀬戸方久とも商の部分で深い繋がりがあると推定され、そうした関係からどこかで混同が生じてしまったと考えるのが妥当なところなのかも…。

遠江の南朝方に関するアドバイスありがとうございます。宗良親王に味方した南朝方の武士たちは修験者の山中ルートを利用して親王を助けたようですね。
[129]空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月17日 04時12分20秒 ) パスワード

酔石亭主さん

>明らかに私の脳内で足を橋に無意識に変換してキーを打っていたためと思われます

素直ですね。

    わたしなんて、何処ぞの上級国民のように「構造上のミスのせいだ」と  絶対に  譲らないです(恥)


>最近はパソコンの画面を見ているとすぐに目が痛くなる

ブルーライトのせいでしょうか?

それで夜間モードにするのですが、黄色が強くて暫く目が慣れません。時間がかかります。
    だから  目の運動をYouTubeで捜して  夜  やってます。
    この方が夜間モードに切り替えるより目には楽のように思います。
    謎



>商人の瀬戸方久 vs 新田喜斎という武将

ホント
同一人物なのか別人なのか
謎ですね。

調べれば調べるほど迷宮入りしますね。



しかし遠江で「新田姓」を名乗るということは 
 
    南朝方バリバリの地元にしたら偽称は「地元の人達から」許されないですから  
    「あんなのは新田の出なんかじゃない!」 と  罵詈雑言記録されるので

新田姓は本当だと思います。

    

それに全得寺って宗良親王の妻だった井伊重子が葬られてたんじゃなかったかな?
そして
処刑された新田喜斎を 唯一 弔ったのが龍潭寺さんだったら
結論  
新田喜斎は  南朝方の井伊家と新田義貞がらみの「新田姓」ということで「正統性」がかなり確実。少なくとも徳川家よりは「確実」!
(笑)


     正統新田氏が存在してては徳川家の出自にとって邪魔な存在として消された
     村人達にも一罰百戒として新田喜斎の存在を忘れるようにと利用された



ちなみに宗良親王と井伊重子のお子さまが尹良親王(うちでは  いずよし  とお呼びします)

尹良親王と津島神社の大橋の娘の間に生まれたのが  良王君(うちでは  よしたかのきみ)


良王君はホンヤ宅で亡くなりました。
     今の屋敷は信長に許された後に建てたので1574年以前の「ホンヤ宅で」ということです。


ということで戦後の「熊沢天皇事件」はホンヤには(なんじゃ?あれ!)だと思います。
ま、男子はお行儀が悪いから、アチコチに胤が落ちてても  不思議じゃない  です。

でも詐称はバレますよね
[130]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年04月17日 21時59分24秒 ) パスワード

「瀬戸方休」考

1.「おんな城主 直虎」
ムロツヨシが演じた「瀬戸方久(ほうきゅう)」、そして、柳楽優弥が演じた
「龍雲丸」…この二人には、それぞれそのモデルとなる人物がおりました。

「瀬戸方久」…文字どおり、瀬戸方久と呼ばれた人物が存在していました。
「龍雲丸」…その名前は、都田川が浜名湖に注ぐ東岸・伊目にある「龍雲寺」
にちなんでおります。そこには「新田喜斎(にったきさい)」という人物の墓が
建てられており、龍雲丸はこの新田喜斎をモデルとしたと思われます。
  
 ただ、ややこしいことに、この新田喜斎も、瀬戸方久と同じく「方久」を
名乗ったということと、喜斎も瀬戸方久同様、瀬戸に住んだこともあり、従っ
て、瀬戸方久と言えば一人の人物に捉えられてしまう傾向がありました。龍潭
寺の前住職・武藤氏もそう捉えておりました。

 ただ、昨年の五月(大河ドラマ「おんな城主 直虎」が終わった翌年)、気賀
の全得寺の小野前住職が、『新田喜斎物語』という冊子を出版され、その中で
色々の資料の分析に基づき、「新田方久喜斎」と「瀬戸方久」が別人であることを明確にされました。

 これで「方久」についての混迷は一応解決された形になりますが、大河ド
ラマに於ける瀬戸方久(商人)と竜雲丸(武人)のキャラクターは、実在した本物
二人がそれぞれに共通して持つ実際の属性でありました。
ドラマでは、「商人」的属性の瀬戸方久、「武人」的属性の龍雲丸にとして分
離集約しておりますが、それはそれで視聴者にとっては分かり易い人物構成
になったのかと思います。

 実はここで重要なことは、「方久」うんぬんではなく、この新田喜斎の名前
(姓)が「名倉」でもあったということであります。 

2.「名倉という所」
 井伊谷から、国道257号線を約60q程北上しますと、稲武(いなぶ)とい
う所に出ます。ここは山間に於ける交通の要所でありますが、ここから約6
〜7q戻った所に、道の駅「アグリステーションなぐら」があります。ここ
の地名は「西納庫」(にしなぐら)といいます。「東納庫」という所もあります。
この辺が、昔でいう「名倉」の地域であります。名倉という文字は、名倉川、
名倉小学校、名倉郵便局、名倉CCに見られます。
 名倉という地名は、時代によってさまざまに書かれてきました。最初は「菜
倉」、「菜久楽」、「名蔵」、「那蔵」とも書かれました。いわゆる当て字であり
ます。いつ「名倉」の文字が使われるようになったかはわかりませんが、鎌
倉時代には、既に「加茂郡名倉郷」という呼称・表示があったということで
あります。

3.「奥三河足助庄」
 名倉という所は南北朝の時代では、足助庄の中に含まれていたものと推察
されます。足助自体は街道筋の町ですが、足助庄は大雑把に言って、東西二
十〜三十q位の広大な地域を占めておりました。そして、足助荘は後醍醐天
皇の領地(旧八条院領)であったものと推察されます。
 ついでながら、遠江の気賀庄も、井伊谷を含んだ形で後醍醐天皇の領地で
あったものと推察されます。 
 従って、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒に立ち上がった時、足助の足助氏も、
 井伊谷の井伊氏も、後醍醐天皇側につき、天皇と共に南朝臣として戦いまし
た。特に、井伊谷には井伊谷宮があるとおり、後醍醐天皇の皇子である宗良(む
ねなが)親王が拠点とされておりましたので、井伊谷を表玄関として、その奥
の奥三河・美濃・南信州は南朝色の非常に濃いところでありました。宗良親
王は、南朝軍の征夷大将軍でもあり、新田氏一族とも共に戦いました。

4.「名倉にやって来た新田氏」
 「新田氏」といえば、「新田義貞(よしさだ)」のいわば代名詞であります。
鎌倉幕府(北条氏)を倒し、後醍醐天皇の南朝方に親子三代にわたり尽した一族
であります。徳川家康の祖先もそのルーツは重なります。つまり、新田氏の始
祖は「新田義重」で、その子供に「義兼」(兄)、「義季」(弟)がおり、兄の方の
子孫が「新田義貞」、弟の方の子孫が「徳川家康」であります。

 新田義貞は、上野(かみつけ 群馬県)の新田郷(太田市)の出身ですが、1333
年に鎌倉幕府打倒の兵を挙げ、鎌倉幕府(北条氏)を倒します。その後も故郷へ
帰ることなく、各地を転戦しました。約五年間でありましたが、不運にも越前
の藤島城攻めで、灯明寺畷(なわて)にて戦死してしまいます。
 その長男の「義顕(よしあき)」は、父と一緒に戦ったものの、父よりも先に
越前金ケ崎城にて戦死してしまいました。その時の義顕の年齢は二十歳前後
でありましたが、一人の息子(後の新田四郎義一)が産声を上げておりました。
 
 さて、ここからは推測的に話となります。というのは、断片的な情報はある
ものの、なかなか整合性がとれないためであります。それは、新田一族が、
一カ所に留まることなく各地を転戦しており、またその多くの人々が戦いで
命を落としてしまったり、また、「勝てば官軍、負ければ賊軍」で、負けた側
には、幕府側の残党狩りや一族の粛清があったりで、新田氏族や郎党は、つ
てを頼って落ちて行ったり、あるいは名を変えて隠棲したりしたものと思わ
れます。こうした情況の下、記録は残せなかった。記録があったとしても、戦
火の中で焼かれてしまったと推察されます。

 戦地で生まれた新田四郎義一も、生まれながらにそんな境遇にあったはずで
あります。従って、敗軍・新田の子として生きて行くのは難しく、同族で北朝・
足利氏寄りの岩松家の温情で、その子として育てられたのではないかと推察い
たします。
 ただし、その義一がやがて奥三河に来るわけでありますが、いつ、誰と、ど
のようにしてやってきたのかは定かではありません。『浪合記』という本には、
1424年に新田義一ほかが、尹良親王を護衛して信濃(岡谷)へやって来たと
あります。その後、「浪合合戦」がありました。たぶんそのあたりの戦乱を経
て、新田氏族は奥三河に流れて来たのではないかと推察されます。たぶん状
況から言って、南朝方の足助庄あたりを目指して、あるいは井伊氏とも連絡
を取り合っていたという可能性は大であります。
 南朝勢力の強い、いわば南朝方のアジトや隠れ家のような奥三河に、新田
氏が落ちてきたのは、当然といえば当然の帰結だったと思われます。落ちて
来たのは、新田氏だけでなく、その家臣達も同時に、あるいはその後を追い
かけるようにしてやって来ております。

 では、新田義一のその後はどうなったのでしょぅか。

5.「名倉氏となった新田氏」
 さて、この名倉に「清水」という所があり、そこには清水城がありました。
今では、城の跡かたもありませんが、土塁とか掘が一部残っております。私
も大河ドラマの始まった頃、調べに行ったことがあります。車は道の駅に置
き、方角的には北東の山の方へ向かいました。行けば案内看板が出ていると
思い、おおよその見当で行ったわけでありますが、ところが全く手がかりが
ありません。地元の人に訊いても知らないという。グルグル何回も回ったあ
げく、ある農家の軒先にて年老いたご主人に訊いたところ、ほぼ場所がわか
り、やっとのことでたどり着けたわけであります。昔の山城は、所在が分か
りにくいものが実に多いというのが実感です。
 清水城跡のすぐ下には、清水城主の墓というものが数基程並んで建てられ
ておりました。

 新田義一が婿養子に入ったのは、この清水城主の名倉(菜倉)家であります。
この名倉家は、系統としては、新田氏と同じ清和源氏であり、頼光・頼政系
の大河内氏の家系であったようであります。三河の西尾市にも名倉氏の末裔
がいますが、その「名倉姓由緒」には、次のように書かれています。

@新田義一の系統
・源満仲―頼信………………(十代略)………………義貞―義顕―義一

A新田義一の妻方(名倉氏)の系統
・源満仲―頼光…(三代略)…兼綱―顕網―兼時―兼重―伊兼―伊武―娘

 新田義一の妻の父親・伊武は、大河内系の最初の清水城主であり、また、
名倉(菜倉)と名乗った最初の人でもあります。名倉家は、その後代々清水城主
を務めます。
  義一は結婚後「兼氏」と名乗りますが、その兼氏から数えて五代目(玄孫 や
しゃご) の伊茂(これしげ)が「新田喜斎」であります。喜斎は法名(仏門名)で
あり、通称は「友作」でありました。

6.新田喜斎(伊茂 友作)のその後」 
   清水城主の系統は、伊武―兼氏(義一)―兼伊―伊信―伊義―伊茂(友作) と
続きますが、1554年に武田信玄が下伊那から奥三河に攻め込んで来ます。
下伊那を領していた下条氏は、既に武田の軍門に下り、そしてやむなくその
先頭に立たされて奥三河に攻めて来ます。
 清水城主の伊義は、攻められる寸前で清水城を明け渡し、気賀に落ちて行
きました。気賀には、既に(10年前くらいに)やって来ていた息子の新田方久
喜斎(伊茂 友作)がおり、「堀川城主」となっていました。

 気賀での新田喜斎の活躍については、長くなりますので簡単にまとめます
と、1568年に徳川家康が遠江に攻めてくるわけですが、喜斎は今川より
も徳川に付くことを主張します。しかしながら、家臣達は今まで通り今川方
であることを強く主張したため、喜斎は堀川城から出て行きます。その後に
あの悲惨な堀川城の戦いが起こります。
 喜斎は気賀の呉石(くれいし)に隠棲後、井伊氏と協力して気賀地域の発展に
尽くしました。具体的には、農地を開拓したり、市場を設けたり、運河を開
いたり、浜名湖・都田川の水運による物流を盛んにしたり、また政商として
活躍もしたり、子供達に読み書きを教えたりしました。
 1606年、喜斎82歳の時に、塩の訴訟事に関係し、不幸にも刑死させ
られてしまいます。
 子供は側室に男子3人と女子3人がいたそうであります。
・長男の伊重……大阪夏の陣に従軍(東軍 家康側)。
・次男の伊友……三河「名倉」氏の祖となる(西尾市貝吹が中心)。
・三男の為高……遠江「名倉」氏の祖となる(気賀が中心)。
・娘の一人……中村家に嫁ぐ(伊目が中心)。

 これで、新田喜斎の話は終わりにしたいと思いますが、改めて、新田喜斎
の祖先はあの新田義貞であり、また源頼光・頼政の血も引き、徳川家康とも
ルーツ的に重なり、家康とは心が通い合う間柄であったと推察しています。現
に三男為高は、家康の遠江侵攻の案内をしたりして協力しております。
家康との関係が本当の所どのような具合であったかの詳細は、実のところよ
くわかっておりません。

 
 ―これらの文章は大河ドラマが終わってから書いたものを転写したものですが、
それ以後、下記のような資料を入手していまして、かなりのことがわかっておりますので、参考までに記しておきます。
 @『新田(法久)喜斎物語』 (気賀堀川城主・新田喜斎公菩提寺・全得寺前ご住職
   小野沢要道著)
 A『清和源氏の源流を訪ねて ―三河遠江名倉氏の系譜―』 (川島長次郎著) 
 B『祖 新田喜斉を尋ねて』 (中村哲雄著)
C『ルーツを辿ると清和源氏』 (細田安治著)

ABCの著者は、一族末裔の方々であります。
















[131]空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月17日 23時05分31秒 ) パスワード

三つ柏さん


纏めてくださってありがとうございました。

只今午前4時ちょっと過ぎです。
帰宅後、新しいスレッドを立てて独立させますね。
埋もれてはもったいないので。
[132]酔石亭主さんからのコメント(2023年04月18日 06時49分40秒 ) パスワード

三つ柏さん あをさん

昨日ネットを見ていたら、2019年の三つ柏さんの論考を発見しました。
もうこれ以上はないだろうと思うほどの素晴らしさ。
と思いつつ、今朝〔130〕の纏めを拝見しました。さすがですね。

逆に私がちょっと書いたものはレベルが低くすぎて恥ずかしい。
やはり中世史から近世史は私の手には負えなさそうです。
[133]空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月18日 08時56分13秒 ) パスワード

レス<130>を埋もれさせるのが惜しく新たにスレッドを立てました。

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101929.html
「商人・瀬戸方久と武将・新田喜斎」




ご愛顧により、このスレッドが長くなりましたので
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101930.html
「服部カフェ   2号店」
を始めました。

引き続きご来店をお待ちしております。
[134]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年04月20日 09時13分16秒 ) パスワード

あを様
酔石亭主様

 いろいろお世話になり、またご教示いただきありがとうございます。

 あとはモチベーションと集中力をいかに取り戻すかということ、JIJI会から
ようやく解放され時間ができましたが、ややもすると何も論考をしないで無駄
に時間を過ごしてしまう傾向、つまり楽をしてしまう傾向があります。

 自分のモチベーションは、信康事件の裏、服部氏の解明、秦氏の解明、出雲
の解明、スサノオは誰だったか等・・・歴史の闇、また底流に流れるものの解
明に対して高まりますので、今一度ハイヨーシルバー!、ピシッ!とこの尻に
ムチをくれたいと思います。
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