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 投稿番号:101800 投稿日:2022年01月13日 02時26分13秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを
「北越雪譜」by 鈴木牧之

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

「北越雪譜」
大昔に知りました。


越後山脈の存在で、魚沼には一冬で雪が6mも積り  8mにもなる年もあったり
5月まで雪は溶けず
やっと1970年代半ばに冬でも交通が可能になって
子供達は学校に行くのに町で下宿しなくて済むようになったとか。


『北越雪譜』(ほくえつせっぷ)

江戸後期における越後魚沼の雪国の生活を活写した書籍。
初編3巻、二編4巻の計2編7巻。
著者は現在の新潟県南魚沼市塩沢で縮仲買商・質屋を営んだ鈴木牧之(京山人百樹(山東京山)増修、京水百鶴(岩瀬京水)画)。

雪の結晶のスケッチ(『雪華図説』からの引用)から雪国の風俗・暮らし・方言・産業・奇譚まで雪国の諸相が、豊富な挿絵も交えて多角的かつ詳細に記されており、雪国百科事典ともいうべき資料的価値を持つ。
1837年(天保8年)に江戸で出版されると当時のベストセラーとなった。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2022年01月13日 02時56分32秒 ) パスワード

昨年からオカルトパワーが来てて
やっと昨夜いろいろな「点」が「線」になって、近々、「面」になろうとしています。


それまでの経緯:

東京に住む遠い親戚の子が「うちは魚沼産のお米しか食べない」とマウントして来た意味が分かった  かも。

    わたしは弟の学校の関係で「ササニシキ」が好きで「コシヒカリ」は好きじゃなかった
    たぶん「コシヒカリ」のミネラル分が味覚に合わなかったのだと昨夜気が付いた


わたしの先祖が元寇の恩賞で魚沼郡に土地を拝領して子が赴任した。わたしの先祖ではない。
その後
この先祖と新田一族が魚沼郡で出会って、共に南朝方
さらに
上杉と協力関係が出来

わたしの幼稚園以来の親友の家が上杉に仕え
    彼女の家は木曽義仲の侍大将の家で
    手塚治虫のご先祖とご近所さんでした

そして

上杉が転府した時に堀家に嫌がらせをし彼女の家は魚沼に残り
結局
勝てず、上杉領には行かず、元の出身地の信濃国に戻った。


「魚沼」から弟の家の親戚関係・弟の子の親戚関係、その上に姉の親戚関係が繋がった。


そして昨夜!
魚沼に平家の落人の里があった事を知りました。

その直前まで彦熱で「若者の貧困」
http://www.hikoshima.com/bbs/hikoshima_slink/104243_6.html
をグダグダ書いてて

そこに「教師になると奨学金がチャラにされる」ハナシを書いていたのですが
ヲイヲイ!
その「教師になって奨学金をチャラにしたがっていた」クラスメート
    え?平家の落人の子孫だった?
とビックリ仰天し

今  ココ
なんか、どうしても、スレッドを立てておかなきゃ、と思ったのでした。

昨夜は9時半に寝て朝3時半までグッスリ6時間眠った。

目が覚めたのは  
    バスの中で夫と座ってたら
    田中エドゥワルドが仕事が終わって乗って来て
    挨拶したもののワタシのボロ姿に気付いて貰えなくて
            ¡Hola!  オラァ!
    と言ったら気付いてくれて
わたしは目が覚めたのでした。

昨日は「歴史探偵  黄金の国ジパングを探せ!」を見てて
阿部アナがスペイン語を喋ってたからだと思う。



タナカさんとは父方・母方で繋がってるからね。


ホント!不思議。
かつてはオカルトパワー全開で次々に不思議体験をしてたけど
ここ暫くあんまり来てなかったから
突然去年あたりから色々小出しに来るようになって
昨夜が久し振りでした。

それで記念に書き込み。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2022年01月13日 03時47分58秒 ) パスワード

最近来たオカルトチックな経験は
「東海道中膝栗毛」の中で弥次さん喜多さんが住吉大社の近くのお店でドタバタするシーンがあって
この「お店」がまさに  わたしの  母方に関係しているのでした。


     時々  絵図に  母方の家紋系が描かれていたりして
                洛中洛外図とかね(こっちは落人になって替えた家紋の絵)
     弥次さん喜多さんの絵の中では本来の家紋系を見つけて

         我が家は住吉っさんとは古くからの付き合いだから
         命に関わることになったら=落人になったら
         住吉っさんに庇護をお願いする
         というのがある

このあたりは
     へぇ〜
で終わってたけど

昨夜はビックリの連続だった。


     わたし=84代目=の先祖である50代目が元寇で頂いた恩賞の地を子の通貞(51代目)が相続したのは
     現在で言うと正確には南魚沼・小栗山かな?
     その後
     上田荘の坂戸城に新田一族がいた  


今  失神寸前  です

というのは
魚沼郡に松代城(まつだいーじょう)というのがあって


松代城(まつだいじょう)
越後国頚城郡松代、現在の新潟県十日町市松代字城ノ腰に存在した日本の城(山城)。
       十日町市は大半が魚沼郡だが、松代は頚城郡に属す
       長野県長野市の松代城(まつしろじょう)とは異なる
城跡は十日町市指定地域文化財(記念物)に指定されている。

城郭構造    山城
築城主     風間九郎左衛門尉定勝(南北朝時代に南朝方として直峰城にて活躍した風間信昭の一族と考えられる)
築城年     南北朝時代
主な城主     風間氏、長尾氏、上杉氏
廃城年        不明
遺構     曲輪、堀切
指定文化財 十日町市指定地域文化財
再建造物     城郭風展望台


風間氏

日本の氏族の一つ。
979年(天元2年)に信濃国水内郡の式内社である風間神社に派遣された諏訪一族が風間姓を名乗ったのが発祥とされ、
神家党の一つとされている。

わたしは  何となく  「風間」って名字が好きなんだけど

なるほどね〜
信濃の諏訪って言ったら  ま  南朝方でしょ
のレベル(笑)


それに  だいたい  越後って言ったら  平家方じゃん   という偏見がある


で、

      ダメだ   
      もう涙で一杯になりそう

で、津南町大赤沢が平家の落人村で
現在は16世帯になっている。

          特定すると  城さんの一族とか?


南魚沼郡塩沢の巻機山(まきはたやま)を本尊として
魚沼には今でも「里山伏」がいらっしゃって
村人のメンタルを支えている存在。


    皇室を中心として近代化を進める明治政府は仏教や山伏だの祈祷だのを禁じて
    魚沼と高知には残ったけど
    他の所では密告によって「里山伏」は消えたそうです。

    頭に付けているのは  頭襟(とうきん)と言って宝冠のことだそうです。
      


六日町の雪晒しで越後上布を柔らかな布地にしているけれど
これも継ぐ人が殆どいなくなって近い将来には幻の布になっていくんでしょうね。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2022年01月13日 10時45分34秒 ) パスワード

しつこく風間信昭を検索したら  ホント!  失神しそうです。

風間姓が好きなワケだ。
これまでは(いい名字だな〜)レベルだったのに  
好きなワケだ。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E9%96%93%E4%BF%A1%E6%98%AD
以下コピペ:

風間 信昭(かざま のぶあき、生年不詳 - 正平9年/文和3年(1354年)頃)
鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、南朝方として活動した越後国の武将。
通称、信濃守また越後守とも。
同国頸城くびき郡(現在の新潟県上越市)の直峰城主。
越後風間氏の当主。


並列する元号表記は(南朝元号/北朝元号)、また月日は特に断り書きのない場合は旧暦である。


生涯
信濃国上水内郡(現在の長野市)出身といい、また同郡風間の式内社である風間神社庄の庄司家を出自と伝えられる[1]。

風間氏の築城とされる村岡城やその城主館の発掘調査による検証や、信昭が風間氏の菩提寺として徳治2年(1307年)に相模国名瀬(現在の神奈川県横浜市戸塚区名瀬)に開基したと伝える日蓮宗法王山妙法寺[2]をさらに元亨3年(1323年)に至ってこの寺を同国村田(新潟県三島郡和島村大字村田(現在の長岡市))に移転した伝承などから、鎌倉時代末期のこの頃までに信昭とその一族は信濃国から越後国に入ったと推定される[3]。


建武2年(1335年)、足利尊氏が建武政権に背くと信昭は舎弟・村岡三郎とともに新田義貞軍に属して、同11月南朝方の越後勢に加わり各地に転戦、色部高長等の北朝勢に抗戦したが旗色は振るわず、延元2年/建武4年(1337年)に信濃府中、延元3年/暦応元年(1338年)には北陸道にも出陣したが、総大将の新田義貞が越前国藤島(福井市新田塚)における戦いに討死したのを機に信昭等は越後に帰国した。


その後、正平7年/文和元年(1352年)には南朝方の宗良親王に従って同閏2月(新暦4月)に出陣、
しかし武蔵野合戦にまたも敗北して再び帰国。

           宗良親王のお名前が出て来るとは!
           やっぱり  お仲間じゃん!
           それも宗良親王がらみでも。


それ以降は越後国内で北朝勢諸氏と戦っている。

正平7年/文和元年8月5日(1352年9月13日)に蔵王堂(長岡市)や大面荘(新潟県南蒲原郡)での戦いで出された軍忠状に信昭と思われる「風間越後守」の名が信昭の嫡子とされる「同右京亮長頼」の名と共に見えるが、これを最後に信昭の名は史料上に現れなくなる。

その一方で正平10年/文和4年(1355年)3月に嫡子・長頼が上杉憲将勢を顕法寺城・柿崎城に攻めて陥落させている。
しかしまた、長頼のこの戦いを示す軍忠状には北朝年号が記されていることから、長頼は北朝側に帰属していたと考えられている。


このため南朝に忠実であった信昭はこの頃までには死去していたのではないかと推定されている。

                          そうかっ


墳墓
新潟県長岡市大字村田の治暦寺に石塔(宝篋印塔)がある。



なんか  すっごく  胸にコタエル。

特に今年は大雪だから。
わたしの母方先祖の一族が琵琶湖の北で大雪で身動きが取れなくなった事件を思い出すから。
小氷河期で、あの年は特に記録的な大雪だったから。


風間信昭公がやたらと主張して来るから検索した  そしたら  予想外の収穫だった。


やっぱり日本であり日本人であり  みんな  繋がるんだな。血と地と涙で。
知らないだけで。

そうか
これからは「魚沼産コシヒカリ」を受け入れよう。
そして先祖の想いを噛み締めよう。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2022年01月14日 14時58分40秒 ) パスワード

「風間」姓がなんとなく好きだった理由が  わたしのDNAに「南朝方の仲間」として記憶されているからだったのか、と。


わたしが嫌悪する名字は長い間「佐々木」姓でした。
回りにはいなかったです。

でも子供の時から、初めて活字で「佐々木」を目にした時から嫌悪感でいっぱいでした。
子供の時に漫画に出てた「佐々木」という登場人物の名字に拒否反応を抱いたのです。

    「巨人の星」?
     この漫画の中で「佐々木」という人物が出てたのかな?

ずぅ〜ぅっと嫌いで
1994年以降の(第2次)空港での仕事の時に乗客でステキなビジネスマンがいらっしゃって
仕事にかこつけて(赤面)
入国審査の紙を見たら「佐々木某」という殿さまのようなお名前で
それ以来  偏見から抜けられました。


1991年夏までの(第1次)空港業務の時までは「佐々木姓」は大嫌いでした。
理由はたぶん
上記に書いた  わたしの母方先祖の仲間が琵琶湖の北で迷子になって一行350騎が
佐々木高氏道誉の軍に捕まって惨殺されてるから。

     その前の時代は源平戦の時で  佐々木盛綱が嫌い。佐々木4兄弟の1人です。
     この人物の時代は父方です。

     藤戸の戦いで平行盛さまの軍を破っているし 
          (この部分はわたしのオカルトパワー全開のハナシに直結) 
     謡曲「藤戸」のハナシはどこまで本当か知らないけど  
     盛綱の性格の嫌らしさは  子の信実同様  父子揃って  恥を知れ!  と思う。  
                 工藤祐経  かわいそう  と  同情が倍増。
     

だけど  斯波氏には憎しみとかは全く無いのです。

    たぶん   理由の1つは   父方先祖が尾張国の守護・斯波家に仕えてたから。

    もう1つの理由は  佐々木道誉が足利(斯波)高経を失脚させ高経を越前杣山城にて失意の中 病死させてるから。

           反応箇所は「杣山城」です。


         この越前杣山城って  もともとは南朝方の拠点
         その前は  後鳥羽上皇のご生母・七条院の所領地

         わたし的には  DNA的に  杣山城=血沸き肉躍る気分になる

         だけど杣山城の瓜生一族は・・・当然、後鳥羽上皇方で・・・
         南北朝時代は  なかなか  ややこしい過程を経て  一族が分裂していって
         わたくし的にはツライものがあります。  


そして第2次空港業務の時  この佐々木某氏と前後して思わぬ人にも遭遇しています。
その人は  斯波さんで
斯波さんの先祖は鎌倉時代に足利泰氏の長男の家氏が陸奥国斯波郡(しわぐん・岩手県盛岡市の一部および紫波郡)を所領として分家した家で
この人のことも印象深く心に残っています。


         佐々木氏と斯波氏
         まさか  同時期に出会うとは。


ヒトと出会った瞬間  あれ?  と思い
業務上の立場を使って名前をチェックし
ヲイヲイ!
ということがオットと結婚して以来ずっと続いてました。  


「自分は厳島神社の前の海の蟹だった」と寝言を言うオットと結婚しなかったら父方先祖のことなんか100%興味を持たなかったです。
母方先祖のことで充分でした。

オットと結婚したから  母方先祖が平維盛さまの目代の横暴さに腹を立てた結果  頼朝に馳せ参じた  と知りました。

母方が「うちは源氏」と言うのを  アホのわたしは  「源氏方と言ってよ」と言ってましたが
なんと!「後鳥羽源氏」ということでした。

    父方のホンヤさんが「うちは源氏」とおっしゃった(後醍醐源氏)のように。


不勉強故に  いろいろ  アホなことを一族の者に押し付けたりして  ホント恥ずかしい。
こういうワタシのような中途半端な者が系図に註を入れるから後世の者が迷惑するんだと反省。


舘ひろしの舘氏は  さちこさんから平家だ  とは聞いてたけど  平貞盛の子孫
越後の城氏は  平貞盛の弟の子孫
こんな違いも知る事になりました。

    わたしの小学生時代にはまわりに「城さん」がいました。
    でも「舘さん」はいませんでした。

        どっちにしろ  平家時代 + 南朝方時代 + 反信長  の一族一党だな、と。

わたしの場合はこういうのが基礎になってて  知らないヒトと出会った瞬間に  敵か味方か好きか嫌いか  って反応するんだろうな。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2022年01月15日 08時45分12秒 ) パスワード

面白かったのでコピペ:


人間、平等でも、同じでもないですよね。
親ガチャも、どれを引くか
サイコーのを引く人もいればサイテーのを引く人もいる。


優秀な方々が悪いわけでもないし、
優秀な方々の創り出したものに大変お世話になっているし、
人生、どうなるわけでもないのは分かっているんですけどね。



ずいぶん前に、当時10歳くらいだった息子が、学校で古代文明を勉強していて、
社会の構造は、王が一人いて、貴族がいて....その下に宗教リーダーや知識層がいて....
人口の大部分が小作人やそれ以下。

どの地域の文明を勉強してもそのパターン。


息子が「ぼくは小作人以外がいい!できれば王家に生まれたい」とか、まだ現実をしらない無垢を発揮して言ってるのを聞いて、
あー、人間は太古の昔から、ほんの一握りの権力者・成功者が(生まれつき、または、飛び抜けた才能で)その他大勢を支配する、
そして、その他大勢は、上を恐れたり敬ったり羨んだりしながら生きていくことを繰り返してきた生き物なのねー
と思いました。


まれに下から上を突き上げたり、戦いを挑んだり(そして敗れるパターンが多い)、そして、本当に、かなりまれな確率で、上にのし上がっていく小作人もいる。


息子よ、残念ながら、お前は小作人カテゴリーなんだよ
とは言えませんでしたが。


そのごくまれに、何十万人・何百万人に一人の確率で上にのし上がっていける小作人を目指せ!とは思いますけど、
我が身を振り返ると...息子に期待できませんね。


何千年も昔から続いていて、
この先何千年も続いていくパターンの中で、

自分は「小作人」グループに割り当てられただけ、
と壮大な歴史ロマンの一部と思えば、気が楽に?
なりませんね? 
すみません。笑。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2022年01月23日 08時39分03秒 ) パスワード

レス<6>の書き直し。
筒井道隆のことを書いてたつもりなのに  作家さんの名前を<6>に書いてた。
なんで?



母方先祖が雪の琵琶湖の北=木の芽峠のあたり=ピンポイントの場所名は忘れた=で迷子になり
佐々木軍と斯波軍に捕まって惨殺されたハナシをココに書いたせいか


昨夜は「雪山登攀」での集団ヒステリーのことを思い出して  怖くて  眠られなかった。

そのハナシ:

   雪山登攀の時に  某グループの前方に3人のグループが登攀してて  その後を足跡頼りに便利に都合良く登攀してたら
             この部分は雪山登攀経験者しか分からないハナシ
   突然目の前のグループの1人が消えて(滑落した?)
   略
   取り敢えず  山小屋に着いたら  前方にいたグループが山小屋に来てなかった。 
        なんで?なんで?
   と思ってたら  登攀のリーダーが「見たことを忘れろ」と言ったそうで

   こういう不思議なことが雪山ではいろいろな形で起きるそうで
   ホワイトアウトの世界は異次元への入口だと思い出して   
   先祖の一族が道に迷ったことを思い出して眠れなかった。


で、今朝、朝ごはんを食べてた時に昨日書き込みしたハナシを思い出して  ヤッパリ来てるなオカルトパワー  と思った。


「風間」と「工藤祐経」の件です

           工藤祐経って今で言う  発達障害だった?


わたしは水曜日に「ミステリと言う勿れ」の第1話を見たのだけど
筒井道隆の加齢ぶりに  アホのワタシは驚いた。
「この子、去年の【華麗なる一族】ではちょっと歳喰ってたけど 未だ 若かったのに」と。

    みごとにボンクラ頭やってました

       【華麗なる一族】の男の子は   工藤阿須加でした。30歳
       「ミステリと言う勿れ」の彼は  筒井道隆で50歳でした。そりゃ  歳 喰ってるわな。


で!

わたしにとってこの2人は  きっと良い家庭で幸せに育ったのだろうな  ということで大好きで  それ故にこんがらがったらしい。


この2人の年齢を検索してて驚いた:

筒井道隆の父親は名古屋の人でキックボクシングの東洋ミドル級チャンピオンだったリング名が風間健。

        風間だって!

筒井道隆の名は父親の僧名だそうで
四国八十八箇所の道隆寺(香川県多度津町少林寺拳法本部の近隣)に由来するそうで
この辺りってワタシの母方の祖母の先祖が高畑姓で丸亀とか多度津とか善通寺とかにいて  高畑淳子と関係する。北川景子も。

母方の祖母が高畑淳子にそっくりの顔をしてて  それで  丸亀とか多度津とか善通寺とかを知った。

      ここでも空海=弘法大師=に通じるし
      母方の祖父の家にも空海ゆかりの逸話がある   (石手寺がらみで)


で、ハタ!と思い出したのです  工藤阿須加  のことを。

父親の工藤公康って名古屋の人じゃん!

     わたしの回りには工藤姓っていなかったから工藤阿須加が名古屋に関わるとは考えたこともなかった
     野球も別に興味無かったし(スポーツでルールをちょっと知ってるのは野球だけ)
     同級生がドラゴンズの選手と結婚した話を聞いたことがあるぐらい


周りに  伊東とか土肥とか   は、いた(笑)

     工藤祐経の妻は伊東祐親の娘で  工藤祐経は伊東祐親に土地を奪われ妻を祐親に離縁された上に元妻は土肥遠平に嫁がされた

     さらに工藤祐経は佐々木盛綱の息子の信実に恥をかかされ更に盛綱にも恥をかかされ
     挙句が  富士の巻狩りで   伊東祐親の孫の曽我兄弟に討たれて



ここからもビックリで   母方のハナシに繋がるのです。
以下コピペ

工藤祐経は曽我兄弟(曾我祐成・時致兄弟)の父・河津祐泰の仇として討たれた。
祐経が仲介して御家人となっていた備前国吉備津彦神社の神官・王藤内も一緒に討たれた。
           
         備前国吉備津彦神社って母方先祖がらみの神社です
         こっちは重要文化財
 
         鳴釜神事で有名な吉備津神社は国宝


騒動の後、詮議を行った頼朝は時致の助命を考えたが、工藤祐経の子の犬房丸が泣いて訴えたため、時致の身柄は引き渡され、梟首された。

犬房丸は後に伊東祐時を名乗り、伊東氏を継承する。
祐時の子孫は日向国へ下向して戦国大名の日向伊東氏(飫肥藩藩主)となった。
これは島津氏に圧倒されてたから秀吉の九州統一でスグに秀吉に臣従したから存続できた。


         母方先祖が戦国時代に内訌で本家が岳父にあたる毛利家に吸収されて
         それを良しとしない一部が飫肥の伊東家を「昔のよしみで」頼って行って
         断られた・・・

         それは我が家が秀吉に反抗してたから。

            わたしの直接の先祖は秀吉から2郡を拝領してたんだけど
            いろいろあって
            反信長だったしね。


ということで  アレやコレや  を思い出した。


伊東さんは盛田さん=ソニー=並みの超大金持ちで   
     (トヨタの豊田さんも入れて、この3人は8高つながりで  この3人の恩師が私の恩師でもある  笑)


土肥さんは  わたしのことをアホだから嫌ってて私は目も合せなかった  私のことを出会ってスグに罵倒したから

だけど  実は  平家方の伊東祐親が大好きなワタシを  源氏方の土肥さんは嫌ってたのだろうと  今は思う


で、伊東さんと土肥さんは  親しくなかった記憶。話している所を見たことがない。

    伊東さんと伊藤さんは結構仲が良かったことをオカルトパワー全開の頃に聞いて知った。1997年の国際電話で。
    それまで  全く  知らなかった。わたしのいない所で仲が良かったとは。驚

         伊東祐親と平(藤原=伊藤)忠清は   平家方だものね  当たり前だ
         とはいえ 伊藤家の系図で  工藤  って名前があったのを記憶しているような気がする?

         伊豆にいた時に伊東も伊藤も工藤も仲良し一族をやっていたのだろう  藤原秀郷の子孫だからね。


もうビックリです。
風間って良い名字だ  と思ったことから  筒井道隆と工藤阿須加を混同してたことに気付き  
ここから  工藤祐経を連想し  伊東祐親を思い出し  自分の先祖が飫肥の伊東を頼って拒否されたコトを思い出し

父方・母方  入り乱れて  日本史を辿っています。


本年旧暦5月は母方おじじ様の800周年忌です。 1222年失意の内に69歳で没。
去年の800回忌も今年の800周年忌もコロナだから、日本中の一族、誰も行かないのかも。


で、今朝のニュースで  菊と刀を愛した後鳥羽上皇のことを見ました。
イギリス人が日本の刀剣保護でクラウドファンディングをやってるとか。

    今や世界は日本刀ブームで中国製の4万円とかで買える刀が人気なんだとか。
       日本製だったら  ゼロは2つはつくだろうに。
       中国製のなんちゃって日本刀の刃文に  品が無かった〜

       刀工は以前は400人いたのに今は170人しかいないってハナシだったかな?


なんか本当に  来てる!  オカルトパワー来てる! 


以上コピペ


<6>に筒井道隆を康隆と誤って書いてたから書き直した。
   なんで?
   筒井康隆の方は名前をずっと知ってた。
  
   なんか  筒井姓にわだかまりを感じてる。
   たぶん  筒井順慶と  わたしの先祖との繋がりか?


   読み直したら  ここでは  工藤祐経の妻が伊東祐親の娘で土肥遠平と再婚したとちゃんと書いてた。
   
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