[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月24日 01時59分42秒 ) | パスワード |
<レス6>より
>入手した資料については、当時の歴史とすり合わせて分析を進めております。
>天正20年(1592)から昭和3年に至るまでの棟札計16枚、プラス津島神社の御札、
>合計17枚が残っていて、
>今からおよそ30年前の自治会長がそれを文章化し、一応の調査もしていたことは、ラッキーでありました。
>また、明治3年のこの村の宗門人別帳もあり、現代語に直してあったことは、二重にラッキーでありました。
立派な自治会長さんの存在に感謝ですね。
レス<8>より
>「神主」・「大工」・「刀鍛冶」には、「藤原朝臣」を名乗る人が多いということで
>本当に藤原氏の出身なのかどうか、どうも違和感を感じているのですが──
わたくしからのレスは「分かりません」のヒトコト。
申し訳ない。
しかし例として
横山加賀介藤原朝臣祐永
和泉大掾藤原朝臣国輝
尾崎長門守藤原朝臣助隆
勢州桑名郡益田庄藤原朝臣村正
などがいらっしゃいますね。
「藤原朝臣」という呼び名は変質して「名誉号」だったのでしょうか?
質問に質問で答えて ド〜する?(恥)
ということで
レス<11>
日本刀の歴史
http://www7b.biglobe.ne.jp/~osaru/index.htm
http://www7b.biglobe.ne.jp/~osaru/heianjidai.htm
これを読んでいると「刀の作者が藤原朝臣なんてアリエナイ」と感じます。
それで刀鍛冶が藤原朝臣を名乗るようになったのは江戸時代に入ってからではないのか?と思いました。
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月24日 02時28分44秒 ) | パスワード |
レス<14>
>こちらのビレッジ(タウンか)の五苗について調べ直していますが、
>やはり根は南朝にあるような気がいたします。
>永井(長田)、服部、鈴木、松島(南朝系)、
>加藤は異種(秀次事件忌避)のようでありますが
>『富士隠れ南朝史』(加茂喜三著)をもう一度読み直しております──
レス<17>
津島神社のお札があったということは
最低で 南朝方・井伊家 がらみでしょうね。
ということは あの当時 南朝方の子孫が長上郡にいた ということかなと。
南朝方で井伊家がらみ津島神社がらみ大橋家がらみはまだ長上郡に居らっしゃるでしょうから。
レス<20>
>下柘植で宗清の菩提寺と思われる西光寺を訪れました。
>そしてそこでびっくりしたのが、松島氏と藤沢氏の墓が並んでいくつか建てられていたことであります。
>何で南信の彼らの墓が伊賀にあるのか、まったく見当もつきませんでした。
> @松島氏は藤沢氏から出ている一門である。
> A藤沢氏は頼朝のブレーンであった。
>頼朝は池大納言頼盛や宗清に命を助けてもらった感謝とお礼をしたかった。
>頼盛には平家没官領を与えたが、宗清は柘植に隠棲してしまった。
>藤沢氏と松島氏は、頼朝より命を受けて、宗清のいる下柘植を訪れ、そこで土着してしまったのではないか
レス<21>
大永年間、将軍義稙は、仁木兵部少輔をして伊賀守護とした。
このとき、柘植一族は仁木氏に従わず、しばしば合戦におよび宗家は兵部少輔を射て、仁木軍を敗走させている。
その後、兵部少輔の子某が更めて柘植党と戦ったが、宗家と子の宗能はふたたび仁木軍を討ち破っている。
宗家と宗能を兄弟とするものもあるが、年代的にみて父子とする方が妥当と思われる。
その後、宗家は遠江国に至って死んだと伝えられる。
なぜ「遠江」に行って亡くなっているのでしょう?
家康の伊賀越えに力を貸した柘植氏は徳川氏旗本として世に出ることになった。
庶流として数家の柘植氏があった。
家紋はいずれも、「左三つ巴」「丸に二つ引両」を用いた。
レス<28>
>松島氏は、諏訪神党、諏訪神家(みわけ)で間違いないと思います。
>藤沢氏も同様であります。
>根拠となる本もございます。
レス<30>
>松島氏については、いろいろな史料にあたっておりますが、南信濃より当地へ至っていることはほぼ間違いありません。
>ただ、出自において小笠原系だったのか、藤沢系であったのかについては両方の可能性があり、混沌としております。
>藤沢系も小笠原系と交わっているので、この際両方正解ということにしておきます。
>つまり、松島氏は大元は諏訪神家(ミワケ)で、その後小笠原源氏系の血が混じったという血脈であります──
レス<35>
>JIJI会の三役の一人の祖先が、
>服部半蔵が浜松で領していた小池(町)開発主であることがわかり、びっくりです。
>つまり、服部半蔵の在地領主格であったということ。
>たいへんしっかりした人です──
レス<37>
>善地の村社には棟札が残されていて、
>その最初のものは、天正十年(1592)に再興された時のものであります。
>再興ということで、何らかの原因で壊れたものか、または焼失していたものと思われます。
>この時の「願主」、即ちパトロンは「藤原 左近尉 忠吉」となっております。
>この忠吉は、羽鳥の「松島 源右衛門 忠吉」に比定されます。
>この「松島源右衛門家」へは、「松島右衛門家」の「忠兵衛源宗吉(幼名 対助)」が一度養子に入っておりますが、
>義父の後妻に跡継ぎが生まれたので、土地を半分もらい(市野惣太夫の仲介で)、自分本来の「右衛門家」の分家として「忠兵衛家」を起こしております。
>松島家に御三家があるといいますが、これら「右衛門家」「源右衛門家」「忠兵衛家」なのか、忠兵衛家の代わりに他の松島家が入るのか、今は定かではありません。
>では、なぜ「羽鳥」あるいは隣接する「中善地」の松島家が、4キロ程北にある「善地」のパトロンであったのかの問題ですが、正保年間(1645前後)までは、善地は南北に長く存在しており、正保の時代になって、上善地、中善地、末島の三村を分村しております。
>忠吉は1541年生まれでありますので、分村する前の時代に生きた方ということになります。
>いずれにしましても、
>諏訪・藤沢・小笠原系>>の武士・松島氏は、家康の下で在地領主的な存在となり、
>そこそこ広大な領地を支配していた、
>あるいは帰農して名主(みょうしゅ)、その後大庄屋になっていたと思われます。
>善地の村社の祭神ですが、棟札には「大明神」となっており、この地域(天竜川下流平野)から推測すれば「諏訪大明神」で間違いないと思われます。
>松島氏が元々は諏訪神族であることを考えれば、それは当然の帰結でもあります。
レス<40>
第2の棟札について
>第一の棟札に書かれていた願主は「藤原左近尉忠吉」、神主は、「禰宜 藤原藤太夫国次」と「禰宜藤原次郎太夫久吉」、大工は「藤原左近太夫次秀」でありました。
>第二の棟札は1636年(寛永13年)に作られておりまして、
>願主は「松島左近尉忠重・忠沢」、つまり松島氏であります。
>これは第一の棟札に遡って類推され、「藤原左近尉忠吉」は松島氏であろうことがわかります。
>なぜ松島氏が「藤原」を名乗ったのかは、母系の名乗りなのか、家格の誇張なのか、神主の名乗りなのか、はっきりはしません。
>神主は「禰宜 藤太夫家次」、大工は「藤原朝臣左近太夫次秀」であります。
>目的はやはり「再興 大明神宮」で、何らかの要因で神社が壊れたものだと推察されます。
>その頃の地震を探ってみますと、1604年に「慶長地震」という東海・東南海・南海の連動地震があり、M8.7、大津波が発生、現静岡県での死者はおよそ1,000〜2,000人と推定されております。
レス<42>
>羽鳥七郷がほぼわかりました。
>『遠江国岩田海袖之浦由来記』という本の中に書かれておりました。
>それによると、
>羽鳥は、(南から)白鳥・常光・末島・中善地・羽鳥、下善地、上善地までを云うと書かれていました。
>中世の羽鳥庄はもっと大きいもので、長上郡と豊田郡を股にかけていたと思われます。
>天竜川の洪水によって土地の形状・位置がしばしば変わったので、近代に堤防ができるまでは、地形は常に流動的であり、変動した。
>また、紙面に描かれた記録等も、ほとんどは水浸しになったり流されたりで消失したと思われます。
>一つ不明なのは、神社の所在地が「豊田郡羽鳥庄懸山郷」となっていたことであります。
>この懸山郷という地名は今探してもどこにも載っておらず、たぶん羽鳥七郷の一つなのかも知れませんが、それまでは存在し、
>正保年間(1644〜1647)に善地から三村を分村した時に消滅したのではないかと想像しています。
レス<44>
>戦国(室町)時代から江戸時代にかけて、巨大地震が4回襲っています。
> @明応地震(1498年 M8.3前後)・津波
> A慶長地震(1604年 M8.7前後)・津波
> B宝永地震(1707年 M8.4前後)・津波
>C安政東海地震(18547年 M8.4前後)・津波
> D安政南海地震(18547年 M8.4前後)・津波
>具体的な被害については省きますが、@の明応地震の時に舞阪と新居の間にある浜名川(浜名湖から遠州灘へ注ぐ)一帯は津波に飲み込まれ、大きく今切口となって開き、そこから海水が満ち潮の時に流入するようになり、浜名湖は汽水湖となったようです──
レス<46>
>「自治会三役」というもの、江戸時代における村「村方三役」と同じようなものかも知れません。
>もちろん、内容は全然違いますが、村のまとめという意味では似ていると思います。
>これらの三役を比較してみますと、自治会会長=庄屋(名主)、自治会副会長=組頭、自治会会計主任=百姓代に匹敵するような感触であります。
>私の立場は、さながら組頭ということになります。
>おもしろいことに、今回の三役、その祖先をたどってみますと、
>会長が清和源氏・新羅三郎義光を祖とする佐竹氏の分流であります。
>会計主任は、村上源氏・赤松氏の分流であり、小池村の領主・服部半蔵正成の時代にその地の開拓主の一人。
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月24日 02時54分11秒 ) | パスワード |
レス<48>
永井氏について
>江戸時代以前よりこの村(当時の世帯数はおそらく40戸前後)で共してきた永井氏の出自。
>永井氏はおよそ、次の三つの系統に分けられます。
> @永井直勝系 大江・大橋・長田・宗良親王のミックスチャー?
> A利仁流美濃斎藤永井(長井)系 藤原・斎藤永井のミックスチャー?
> B大江流永井(長井)宗家系 大江氏の本流?
>@とAは、永井(長井)を称したBの大江時廣の流れと交わって永井氏となっております。>つまり、近からず遠からずの関係でつながっております。
>また、ついでながら永田氏も永井氏・長田氏の分流に見られます。
>遠江における永井氏の集団としては、わが村が一番で、
>二番は磐田市の南西(昔は長上郡だったかも知れない)の村です。
>現在、我が村の墓に見られる永井氏の家紋は、
>「永井梨の切り口」と「丸に三つ柏」が半数ずつそれぞれ約15基、
>最も古い永井氏の墓には、「一文字三つ星」がかすかに残っているものがあります。
>磐田の方は、皆「永井梨の切り口」で約20基くらい。
>この磐田の寺は宝珠寺であり、大浜の永井氏の本拠寺と同じ名前なのは気になりますが・・・。
レス<53>
>当村の村社の棟札には、次のような事実が見られます。
> @1592年 願主藤原左近尉忠吉 禰宜藤原藤太夫国次・同藤原次郎太夫久吉
> A1636年 願主松嶋左近尉忠重・忠次 禰宜藤太夫家次
> B1658年 願主松嶋久兵衛 神主藤太夫家次
> C1675年 願主藤原左近尉忠吉 禰宜藤太夫秀次
> D1685年 神主藤太夫秀重
> E1718年 神主永井藤太夫秀次
庄屋として、永井藤右衛門、永井藤兵衛
>その後の棟札も12札ありますが、
>これらからわかることを総合して、永井家は当初よりこの村の神主であったことがわかります。
>神主ということは、この当時では武士であり、またこの村の支配層(小領主、あるいは庄屋)であったということがうかがえます。
>もっともその上の領主格には松嶋氏がいたことも、同時にうかがいとることができます。
>1579年に信康事件が起こり、翌年に永井直勝は徳川家康の小姓として、浜松城に移ってくるのですが、
>その時に一族郎党が浜松に移動したと考えると、我が村の永井氏はすでに在住していたので、
>別の永井氏、あるいは先行して入って来た長田氏(後の永井氏)がいたということか、
>あるいは別の系統の永井氏ということになります。
この部分レス<56>で以下のように改訂
「我が村社の棟札の最初のものは、1592年なので
直勝とその一族郎党が1580年に浜松に来ていれば、
1592年までに12年あまりあるので、
一族の一部が当村に腰を据えて居住していたとしても矛盾はない。
直勝は30貫の領地をもらっているのだが、それがどこなのかはわかっていない。」
レス<54>
>神主つながりからすれば、永井直勝も祖父・父についで大浜の神主であったという(『永井直勝』鈴木成元著)。
>そして祖父の広正は、およそ1540年代に、大浜から遠江国山名郡新貝村(磐田市)に移り住んでいます(『中泉代官』)。
>そうすると、直勝が浜松に移転した時には、長田(永田)氏はすでに来ており、その後永井氏に名を変えたとすれば、
>時系列的には矛盾しなくなります。
レス<58>
>長田直勝は1563年(永禄6年)大浜生れ。
>父親は長田重元。
>1580年(天正8年)、15歳で家康に召し出され、小姓となり、30貫の地をいただく。
>この時、家康の命令で、長田という汚れた姓を改め、大江氏となり、屋号を永井と名乗らせられた。
>父重元は大江永井(長井)系、祖父の広正は大橋系で後醍醐天皇の血筋を引いている。
曾祖父は政広。
>高祖父広常は平氏の「長田親致」の後裔。
>高祖母は、那波・大江系で長田親致の系統。
>親致の弟「長田忠致」とその息子「景致」が、兄親致の反対にもかかわらず、それを無視。
>源義朝を謀殺したということで、後に頼朝により成敗。長田家全体は名を汚すことになり、のちのちまでも蔑視される身の上となる。
>かてて加えて、平家であり、南朝方でもあったので、二重三重に肩身の狭い思いをし、零落はまぬがれなかった。
>大橋系で天皇家の血の入った広正の長田家入りは、正に長田家の立て直しの試みの始めであった。
>このへんの背景は、南朝臣であったこと、そして家康の父広忠との関係も影響したものと思われる。
>長田家は古くから水運、そして開拓にからんできたので、想像以上にその歴史は深く広い。
>従って、永井直勝という小姓、単なる薄っぺらい存在ではなかった。
>1貫を2石〜2.5石とすれば、30貫はおよそ70石。
>これは幕末における当村の石高に匹敵する。
>ちなみに、家数66軒、住民320人であった。
>直勝の父重元は1592年に亡くなっていますが、
>その時1200石の知行があったということですので、直勝への支援があったものと思われます──
レス<61>
>「大河内氏」
>加茂喜三氏の『富士"隠れ南朝"史』の中に、大河内氏についての核心部分が書かれていたことであります。
>南朝関係、特に後南朝関係は簡単には説明できないという困難さがあります。
>それは、やはり"隠れ"であるからであります。
>"隠す"ということは、単に物理的に"身を隠したり、名前を変えたりする"のみにあらず、
>"心を隠し"て敵方に紛れ込む・溶け込むということも行われていた。
>いわゆる忍術と変わりません。
>そして、色々な人間関係の複雑な綾──背後関係、前後関係、表裏関係が渦巻いております。
>忍術というものが「勝つ」ための戦術なら、戦いのあるところに常に忍術はあるわけであります。
>特に源平の時代から鎌倉、南北朝、後南朝・室町へと忍術は進化して行き、そして戦国時代には百花繚乱となっています。
>この源平から戦国時代までを「忍術の時代」と名付けてもいいのかも知れません。
>忍術は「インテリジェンス」なのだと言っても過言ではないと思います。
>さて、加茂喜三氏はその本の中でこう書いています(少し長くなります)──
>「大河内氏は清和源氏の頼政から出たと伝えるが、複雑ですっきりしていない。
頼政の子・兼綱の三男・大河内源太顕綱の末裔という。
治承4年(1180)、頼政は以仁王を奉じて挙兵するも、
高倉の宮の謀反で頼政は兼綱と共に討ち死した。
兼綱の子・源太顕綱は年わずか二歳、母がむつき(ふんどし)の中に隠して尾張国中島庄に落ちて来た。
のち三河国額田郡大河内邑に移り、成人して大河内源太と名乗り臥蝶に住んだという。
さて、『浪合記』では
「桃井大膳亮満昌は、三州吉良の大河内に住す。三州の桃井というはこの裔なり。大河内の祖。」
と述べている。
これがいわゆる「菊の一揆」大河内氏の正真正銘の出祖らしい。
つまり、南朝遺臣の桃井満昌は隠した身を立てるために名門の大河内氏に婿入りして、その大樹の陰に隠れたわけである。
即ち、桃井満昌は大河内村に来て、源三位頼政の後裔・大河内政顕の娘と婚し、大河内氏を名乗って北朝の眼をくらましたということになるのである。」
>永井直勝はやはり南朝系の妻を娶ったことになります。
>当村には、長田(おさだ)家が一軒だけあるのですが、その名をはばからなかったということは、永井家より時代が後にやって来たということか・・・。
レス<64>
>永井直勝は「長田氏」を再興する宿命の人であり、
>平氏の家貞・貞能、大橋氏、大江氏、そして宗良親王の血脈ベクトル(どちらかと言えば、平氏よりも南朝ベクトル)も加わっていたというのが真実ではなかったのだろうか。
>単なる永井氏ではない。
>そこが重要なところだと思うのですが、はたしてそこにどんな構想がひろがっていたのだろうか・・・。
>直勝はわずかではあるが、皇室の血が入っている──ということは、皇胤でもあるということ。
>家康は直勝に対し、どんな考えを抱いていたのだろうか──
[4] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年05月24日 10時51分03秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
さすがあを様、びっくりです。完璧にまとめてくださっています。
長田氏については謎の部分が多く、正しいと思われる史料も、事実がカムフ
ラージュされたものであったりしているということであります。
大橋家から長田家に入った広正(廣政)、その子の重元、そしてその子の直勝。
そもそも大橋家の正体とは「何」なのでしょぅか?ーー
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月24日 17時49分13秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>そもそも大橋家の正体とは「何」なのでしょぅか?
尾張大橋家は桓武平氏の子孫である平家貞の子=平貞能が筑後守・肥後守に任じられ、
その子 左衛門尉が肥後国山本郡大橋に下向し
大橋城主となって大橋姓を称したのが始まり。
なので服部家長や平田家継の甥の家です。
父の家貞と子の貞能は平家の頭領である清盛の家令でした。
清盛の死後、重盛が継いだので家令は維盛の乳父の藤原忠清になり
貞能は重盛の次男資盛の家令となりました。
貞能の母は宇都宮氏の娘だったので
従兄弟である宇都宮朝綱を東国に帰し頼朝に仕えさせました。
それで貞能は平家が滅亡した後に宇都宮朝綱を頼って落ちていき
頼朝は貞能を許しました。
貞能は頼朝から隠居地として尾張国海東郡内に所領を得、
その地がのちに尾張大橋氏の拠点となり、
南北朝の内乱期に吉野朝忠臣津島15党のリーダーになりました。
なので大橋家の正体は
本姓平氏 桓武平氏の子孫で東国に下向
坂東平氏だったのが寛弘3年=1006年に伊勢伊賀に下向して伊勢伊賀平氏となり、
平家の政治と武門の中心の家であり
平宗清と同じく頼朝から許され、肥後守時代にちなむ大橋を姓にし
後に後醍醐天皇のお召しで南朝方に付いた。
宗良親王の孫の家でもある。(宗良親王の妻が井伊道政の娘で お子さまの尹良親王の妻が大橋の娘で 生まれたのが良王君)
戦国時代に大橋家は尾張国津島の川向こうの美濃国高須に城を築き
織田家と戦って負け(大橋の乱) 織田信秀の娘(くらの方)を娶って 織田の家来に。
この時服部家ホンヤは現在の弥富に移り、信秀信長父子と敵対し続けた。
津島の服部家から小平太が出た。今川義元に一番槍をつけた人物。
わたしの疑問は大橋家と大河内家の関係で
大橋家は分家が三河の大河内の近くに大橋村を作っていたこと。
大河内氏は 平家方だった源頼政が平家に叛旗を翻して負け 子の兼綱と共に死に
孫の顕綱が母に抱かれて尾張国中島へ逃げ さらに三河に逃げて その土地の名を名字にした。
大橋家と大河内家の関係
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/ohkohchi.htm
から勝手に引用:
貞綱・成綱兄弟の長兄にあげる寺津城主但馬守満成が大河内左衛門佐元綱の父であり、
元綱の長子が尾張津島の大橋太郎入道禅休(和泉守定安のこと)の養子となった源左衛門重一、
その弟が美濃の牧村氏を滅ぼして牧村を名乗った源次郎政忠である。
大河内元綱は寺津城主で、家康の生母・伝通院於大の母である於富(華陽院〔ケヨウイン〕、源応尼)の養父として知られる。
華陽院の美貌は当時有名で、その多くの夫のなかに家康の祖父・松平清康がおり、
また夫の一人であった川口帯刀宗定(系図Dでは又助盛秋〔盛祐が正しい〕)は大橋和泉守定安の実弟であった。
この川口氏は平熱に過去ご光臨なさっています
中世の尾張津島の有力者大橋氏は、支族が三河の額田郡で大河内の近くに大橋村を開拓しており、本来尾張古族の末流とみられる。
両者の氏族系統は異なるとみられるが、
大河内氏の初期段階から通婚などで大橋氏と密接な関係があったものと推される。
また、『寛政譜』などには、元綱の父を大河内兵庫頭満澄(一説に光綱弟におく)とするが、年代等から考えて但馬守満成と同人であろう。
*************************
全く関係がありませんが このブログに出て来る
>引間占領の協力者である巨海新左衛門尉の実名が成綱と系図Dから知られる。
の「巨海」氏ですが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E6%B5%B7%E9%81%93%E7%B6%B1
巨海氏は大河内氏の支流で三河国幡豆郡巨海[西尾市巨海町]を本貫地とする。
本貫地は「こみ」と読み「古海」「古見」とする文書も存在することから、「こみ」が正しいと思われる。
実は父方の伯母が巨海に土地を持ってて(ま、登記上のオーナーは伯母の夫でしょうが)
わたしはずっと知多半島の野間(源義朝が長田父子に暗殺された所)の近くだと思って来ました
ホンの数分前まで
西尾だとは知らなかったです。
今川氏の出身地は西尾で 西尾市役所のある辺りの今川町です。ここから東征して駿府まで行ったのです。
そして巨海氏の元が大河内氏だったとは!
その上に 父方の親戚で 新選組に入ったものの伊東甲子太郎先生の薫陶を受けて御陵衛士になり 油小路で暗殺事件に遭い 会津藩邸で切腹させられたのがいて
この人が養子に行った先が伯母の夫の家・・・
この人の甥が養子に行って加藤姓になったのが加藤高明。
つまり!大河内氏はわたしにも絡んで来るわけでした。
今夜は眠れないぞ。
で、眠れないついでに書いてしまいますが
本日の「青天を衝け!」の折田要藏ですが 紀行の部分で 湊川神社の初代宮司と紹介してましたよね。
折田=織田です。
ここから楠木正成を祀ることになったということは
要するに
南朝方の大将だった懐良親王に従って九州に行った元々は越前の剣神社系=平資盛子孫を称する織田信長の一族=の子孫なのだろうと
「紀行」を見乍ら思いました。
ま、福井の、越前国一ノ宮の気比神宮関係者かも知れないですが。コッチは越前の南朝方の拠点です。
後醍醐天皇の北国大将は恒良親王と尊良親王で新田義貞に率いられ越前国金ヶ崎城にいましたが
延元2年/建武4年3月6日(1337年4月7日)
武運拙く新田義貞の嫡男(享年20歳の)義顕は城に火を放ち、尊良親王及び300余人の兵と共に自害しました。
泣けるな
なお『太平記』によると、恒良親王は捕らえられて足利直義によって幽閉され、翌年に没した(毒殺説あり)
また『筑後佐田新田系図』によると、新田義顕は義和(義一、よしかず)という子がおり、
子孫を残したと記されているが、真偽の程は不詳。
また、安芸国の天野氏に養子に入り、後に「天野顕政」と名乗った子が居たとされる。
天野氏がここに出て来ました。
天野信景は良王君に従った子孫で「浪合記」の著者とされる尾張藩士です。
三国屋という屋号も 三国=福井県北部 ということだと思います。
折田要蔵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%98%E7%94%B0%E8%A6%81%E8%94%B5
幕末の薩摩藩士。砲術家。湊川神社初代宮司。名は年秀。
生誕 文政8年7月7日(1825年8月20日)
死没 明治30年(1897年)11月5日
島津久光に建言して楠木正成ら南朝の忠臣らの顕彰のため、湊川の戦いの跡地に英霊を祀ることを上奏させている。
明治3年(1870年)官を辞し、三国屋要七と名乗って京都で武器商人に転身した。
明治6年(1873年)かねてより建立を建言していた湊川神社の初代宮司に任じられる。
明治10年(1877年)廣田神社宮司に転任を命じられたものの、これを辞退し引き続き湊川神社宮司を務めた。
明治30年(1897年)湊川菊水文庫の官舎で没。
ね?状況証拠 山盛りでしょ?
どうして 湊川神社に拘った?楠正成などの南朝方忠臣に拘った?
昨日、長田氏と大河内氏と大橋氏についてスッゴク書きたかったのに 何かが止めたのです。
それで今朝はこのスレッドを立てて時間を潰し
いつか長田氏・大河内氏・大橋氏について書こう
と思って延ばしていて「青天を衝け!」を見て
ヲイヲイ! となった次第でした。
やっぱりオカルトかかってるな、平熱って。
自分の謎が解けちゃった?
[6] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年05月25日 13時12分39秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
ありがとうございます。今回はじっくり、深く読解させていただきます。
私が今思うのは、祖先からの代々の思い=集団的遺志=内面的ベクトルという
ものは、心象世界の中にずっと存在し続けるのではないかということであります。
例えば、「平家再興」。例えば、「南朝再興」。これらは重層的に重なりつな
がって、戦国時代まで生き続けたのではないかと推察しています。
大きくは、板東八平氏の流れと言ってもいいのかなとも思いますのですが(?)、
この仮説に立って推理してみたいと思っていますーー
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月26日 10時26分54秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>祖先からの代々の思いは、心象世界の中にずっと存在し続けるのではないか
ご理解、ありがとうございます。
わたしの方向音痴のひどさは 先祖達の思いが整理されなくて
皆が我先に自己主張して
それでワタシは方向が分からなくなるのだろう と思います。
でも 初めて出会った人とは 顏に何か非常に感じるものがあります。
名前を聞いて 明治の初めの出身地を聞いて やっと納得します、
あぁ、アソコのアイツ か、と。
つい最近は 石原良純の顔を見て 目から上が日本の父にソックリだなと思いました。(目と眉とおでこと前髪限定ですが)
石原慎太郎のちょっと若い時は父にソックリです。
但し 石原裕次郎や石原伸晃には似てない
月曜に「鶴瓶の家族に乾杯」で千葉県夷隅について紹介してました。
夷隅
覚えていらっしゃいますか?
服部家ホンヤさんの一族になる服部政信の3男の政久(信利)と4男の信成が夷隅で代官をしていました。
3男の政久(信利)が2790石を拝領し
4男の信成が上総国夷隅郡岩熊に1500石を兄から分与されています。
(兄の家は嗣子無く家は絶えたので弟が継ぎました)
信成の妻は川口久助の娘です。
川口久助の家は大橋家の分家です。
川口盛祐は家康の祖母=華陽院=大河内左衛門佐元綱の養女であり大河内但馬守満成の娘であり家康の祖父の松平清康の妻=の最後の夫?
地図
https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E140.20.41.123N35.19.14.616/zoom/6/
大原駅と 九十九里浜のある一宮町役場の 丁度 中間の西です。夷隅市岬町岩熊です。
6月7日に後編があります。
後編では さだまさしが 葛飾北斎にインスピレーションを与えたと言われる 「波の伊八」の欄間を見に行く回です。
北斎の代表作の「神奈川沖浪裏」は三角波で
縦波と横波がぶつかって三角波が起き
そこを江戸に魚を特急便で運ぶ舟が 波に立ち向かう → 波を突っ切る → 波を乗り越えた
という様子が時系列で 描かれているんだそうです。
つまり描かれているのは3艘の舟ではなく 1艘の舟の動き なんだそうです。
北斎は二次元の世界でアニメーションをやった最初の画家でしょうね。
伊八の波は「横波」なので だから 3次元の波を描いた北斎は伊八を超えた画家 と言われるんだそうです。
で、またまたハナシが政信に戻りますが 政信は今切の奉行でした。
そして政信の妻は加藤喜左衛門正次の娘です。
政信の子供達の母は加藤正次の娘です。
ここで え? となりませんか?
政信は今切奉行。
妻は加藤正次の娘。
ということで加藤正次を調べて来ました:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%AD%A3%E6%AC%A1_ (%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%AD%A6%E5%B0%86)
加藤 正次
戦国時代から安土桃山時代の武将。
竹本正次とも。
生誕 天文18年(1549年)
死没 慶長18年8月17日(1613年10月1日)
改名 竹本氏、加藤氏
別名 喜助、喜左衛門、竹本正次
戒名 善阿
最初は竹本氏を称して織田信長に仕えたが、
永禄11年(1568年)伯父加藤利正が徳川家康に仕えていた事からその縁を頼って転仕し、
苗字も加藤氏と改める。
元亀元年(1570年)姉川の戦いでは、天野康景と共に味方に紛れた敵兵を倒す武功があった。
天野さんの亡霊 出て来た!
元亀3年(1573年)従兄の加藤正信が三方ヶ原の戦いで戦死すると、
その妹を妻に迎えて家督を継承する。
以後は長篠の戦い、小牧・長久手の戦い、小田原征伐に従軍。
天正18年(1590年)武蔵比企郡・上総望陀郡に2000石を与えられた。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは使番を務める。
戦後は京都所司代奥平信昌属下として京都を警固するが、翌年免職・蟄居となった。
このあたりで?奥平信昌は京都潜伏中の安国寺恵瓊を捕縛した。
恵瓊が所持していたという短刀・庖丁正宗は、信昌が家康に献じたものだが、改めて信昌に下されている。
一方で太秦に潜伏していた宇喜多秀家には逃げられている。
つまり、この事件で加藤正次は叱られたのかな?
慶長8年(1603年)までには赦免され、同年の家康上洛に供奉している。
出典
「寛政重修諸家譜」巻第777
主君 織田信長、徳川家康
父母 養父:加藤正任
妻 加藤利正の娘
子 正重、高林吉次室、服部政信室
ということなので 長上郡の加藤さんは ひょっとすると この加藤家と関係があるかもですね?
で、つくづく思うのですが
この服部政信一家は家族仲が良いですね。
1.
政信は3500石を知行して その内 1000石を弟の杢助政重に分け与えています そして 今切奉行となって500石加増になり
その後 敷智郡に新墾の田を貰って 全部で4290石になりました。
弟の家は杢之助政勝の時に断絶。
2.
政信の3男は2790石を賜っていたのを弟の信成に1500石分け
采地を夷隅郡に移されて 嗣子無くして家が絶えた。
で、8月に弟の信成が後を継いだ。
弟信成の家は代々夷隅郡の代官で、最後の人物は寛政10年(1798年)8月に相続して、17歳だったから采地は1200石だった。
この記録(寛政重修諸家家譜)が幕府の諸家の家譜の最後ですね。
わたしは方向音痴だから 夷隅郡は埼玉県あたり と思ってました。
この勘違いを こう 解釈しています
つまり
政信の父の政光(政孝)が文禄元年に武蔵国太田庄に3000石を貰ってたから。
(その後 近江国長浜で1000石もらって 計4000石になっています)
この人の妻は高力河内守清長の娘です。
政信と政重兄弟は同母です。
だから兄弟仲が良いのでしょうね。
武蔵国太田 → 上総国夷隅 が わたしの頭の中で 太田 → 夷隅に転居か
こうやって方向音痴になっていきます。
太田庄って新田義貞の生まれた所なので
弟と婿は南朝方繋がりで ご縁が出来たのは当たり前だったのか、と。
ホントに何重にも先祖がらみでご縁は続くのだな、と。
これが日本ということでしょうね。
武士の世界はホントに小さいから。
[8] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年05月26日 14時32分10秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
マグマとベクトルという考えで歴史の裏側をとらえてみますと、出雲、伊賀
平氏、南朝などのいわば"落ち武者"のその内に秘めたマグマパワーが、一つの
ベクトルとなって幕府政権=最終的には今川氏を滅ぼしたとみることができる
かも知れません。
弾圧=落ち武者狩りがどんなであったか、「平家の落人狩り」「南朝狩り」
「源氏(北条氏)狩り」等、その真相を正しく知っておかなければ、真の歴史を
語るわけにはいかないと思います。負けても必死で生き延びてパワーを蓄積し、
最後には敵を打ち負かすことがそれら氏族のベクトルというものではないか?
この地方の「南朝狩り」、「後南朝狩り」は熾烈を極めたようです。三河・
遠州・南信濃(いわゆる三遠南信)は、その「るつぼ」であった。アウトサイダ
ー側の歴史が混沌としているのは、いわゆる地下に潜行した世界であったこと
よりいたしかたないことでありましょう。
この遠州地方も、出雲や平家(重盛)や南朝(宗良親王・井伊氏)の色濃い地域
でありましたーー
[9] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年05月26日 14時33分44秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
レスが交差しました。じっくり読んでみますーー
[10] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年05月31日 10時36分41秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
雑用・雑念・コロナで、ついつい歴史への集中心が途切れ、遅れます。
さて、「大橋」氏は仮冒のようなもので、「平忠能そのものの流れ」であ
りました。 つまり、平家の家人ではありますが、平家と分類していいと思
います。伊勢平氏の祖といわれる平維衡から出ていることは、正盛や忠盛・
清盛と共通しています。
そして、平貞能と極めて近い一族に「平宗清」がおり、「服部氏」につな
がります。
これら「貞能」も「宗清」も、平家の中では、スタンスが違っていて、主
流派からは乖離・離脱しています。つまり、頼朝とのパイプがあったという
ことです。
問題は、これらの貞能や宗清の一族が最終的には後醍醐天皇の皇子をかつ
いだのでしょぅかーー
(また、邪魔がはいりましたので、中断します。)
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月31日 17時44分07秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
大雨だったりワクチン接種狂想曲があったり自治会の雑用(笑 いや、失礼をば)があって
その上にいろいろ(何でこんな事まで?怒 のような)野暮用に振り回されて大変な日々でしょうが
ストレスを抱えながらも、アタマを使うことに追われるのですから、生き生きなさっているコトと思います。
ワタシはここ暫く驚くような展開が数度あって(巨海がらみの関係ですが)非常にオカルトかかっている日々です。
そして「高須氏」ですが あの美容整形外科で有名な三河の出身の高須さんの名字ですが
桓武平氏の子孫で愛知県に多く
どうやら秀吉の妻の「おねねさん」の実家=杉原氏=関係の ようです。謎
まだハッキリはしてないのですが。
美濃国の高須家は幕末に兄弟で尾張藩主・会津藩主・桑名藩主・その他の藩主2人と一橋家当主を出していて
服部家ホンヤさんと高須藩との関係や 先代のホンヤさんと克弥さんは似てるし
それで、 そーゆー関係なのかな? などと空想中です。
最近はまたまた方向音痴をやらかしてて
以下を読むと アホか のヒトコトでしょう わたしも そう思ってます
でも地理の授業は大好きだったんですよ 成績は常に平均点に及ばなかったけれど
わたしにとって東北地方は北の先っぽが青森で
その南に 日本海ー出羽県ー山形県ー宮城県ー太平洋 があるのです。
で、出羽県の旧国名が羽前と羽後で(笑) 羽後の中心地が酒田で そこの名家が本間家・・・姉の夫の出身に関係するから
絶対羽後の酒田の本間家は忘れない 日本海を支配してた!と。
これは母方が維新後に海運業をやってた関係からか?
という時代錯誤と方向音痴でグチャグチャをやっていました。
どうしても「山形県に港がある」というのが納得いかず 山形県=山形市=旧最上領で 伊達家と抗争 で終了してしまうのです。
どうして こういう 思い込みがあるのか 実に不思議です。
福島県もグチャグチャだし
やっぱり群馬と埼玉と栃木がワケ分からないし。
でも渡良瀬川を挟んで西が群馬の太田(=新田)で東が栃木の足利さらに東に佐野(藤原秀郷)の関係は忘れない。
宇都宮はもっと東なのよね
平貞能が宇都宮朝綱を頼って落ちて行って(頼朝に許された)
さらに平家次が宇都宮に落ちて行ったけれど家次は宇都宮朝綱に断られ
しょうがなく更に奥の湯西川に落ちて行った (日光よねぇ)
で、そこには日光東照宮がある訳で、なんで日光東照宮?
風水的に日光が家康廟に良いってコトなんだろうけど なんで 日光?
以上 バカ話の一端です。
こんがらがってる人間がこんがらがったバカ話を書いたので読む方は アタマ おかしくなりそうでしょう。ごめんなさい
>貞能や宗清の一族が最終的には後醍醐天皇の皇子をかついだのでしょぅかーー
当時の伊賀国の服部氏についてウイキよりコピペ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%8C%81%E6%B3%95
服部 持法(はっとり じほう、生没年不明)
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した伊賀国の武士、悪党。
通称は右衛門太郎。諱は不明。持法は入道号。また道秀とも号する。高畠右衛門太郎入道道秀。
服部氏は伊賀国阿拝郡服部郷(現三重県伊賀市)を拠点とする有力御家人であり、
阿拝郡・山田郡など北伊賀を支配下に置いていた。
御家人ってことは宗清の子孫って印象ですね
阿拝郡は服部家長の、山田郡は平田家継の支配下だったのを継承した?
14世紀初頭より、同国名張郡の東大寺領黒田荘で悪党が蜂起するが、
東大寺の依頼を受けた六波羅探題が鎮圧にあたるも果たせなかった。
六波羅探題は嘉暦2年(1327年)伊賀守護代平常茂と服部持法に覚舜・道願ら悪党の捕縛を命ずる「厳密之沙汰」を下した。
しかし悪党から賄賂を受けていた両人は手勢も連れず荘内に入り、むしろ悪党らに饗応されただけで退去し、六波羅へは悪党はすでに逐電済みであると報告しただけに終わった。
六波羅探題はこの結果に納得せず、同年7月再び両人に悪党の住居破壊および捕縛を命ずる。
しかし、持法らは病と称して命令を聞かず、8月になって黒田荘に出向くが、再び逐電済みと報告した。
業を煮やした六波羅探題は伊賀国の地頭・御家人を同道させるべしと命令し、ようやく持法らは従ったという。
鎌倉幕府滅亡後、南北朝の動乱が始まると、服部郷高畠村の地から高畠右衛門太郎入道道秀と名乗る。
この頃からは完全に悪党に転じ、
北伊賀の東大寺領荘園(玉滝荘など)を浸食し、
「当国名誉大悪党張本」と称された。
同国内の国人衆と一揆を結び、南朝・北朝双方の間にあって、寝返りを繰り返しながら、守護の支配を退けていった。
室町幕府は守護に仁木義直を任じて支配強化を図ったが、持法は一方で守護支配に抵抗する国人と結びつつ、裏では義直と結託していたという。
幕府は守護を桃井直常に交代させたが、やはり国人一揆を鎮圧することはできなかった。
貞和2年(1346年)将軍足利尊氏・副将軍足利直義兄弟が
夢窓疎石の勧めにより、
全国に安国寺利生塔の建立を命じた際には、
伊賀国に対し幕府は服部持法と柘植新左衛門に寺領保護と造営成否の注進を命じている。
その後も伊賀は惣国一揆と守護仁木氏が共存する状態が室町時代を通じて維持された。
参考文献
『国史大辞典』(吉川弘文館)「服部持法」(執筆:小泉宜右)
*************************************
伊賀の国内は壇の浦で平家が負けた後も鎌倉幕府にゲリラ戦をやって グチャグチャのまま 戦国時代に雪崩れ込んだ という印象です。
それこそ 忍者的対応 の前哨戦の練習の場?
六波羅探題がここに出て来て胸が潰れそうになりました。
わたしの恋しい北条仲時さまが六波羅探題北方探題職でした。滂沱の涙
と言っても 1330−1333年の3年間ですが。
「わたし」は当時鎌倉にいて仲時さまの死を知ってわたしも自害した ような。
この少し後、新田義貞に攻められて鎌倉幕府は終焉を迎えました。
仲時さまは佐々木道誉に裏切られたのです。
やっぱりわたしの不倶戴天の敵は「佐々木」だ。
人と初めて知り合う時に(敵か味方か?)を知りたいのは佐々木が敵だから。
でもロスの空港で仕事で会った佐々木氏は上品な男性で
(殿さまみたい)と思いましたよ。敵意は全然持てなかった。
わたしの母がいつも「待て 暫し」と言うのですが
仲時さまの父上の基時さまが息子の死を知って自害した時の辞世の句が
「待て暫し 死出の山辺の旅の道 同じく越えて 浮世語らん」
です。
仲時さまが自害したのは元弘3年5月9日 (1333年6月23日)場所は米原の番場で、です。
基時さまが自害したのは元弘3年5月22日(1333年7月4日)2週後ですね。
仲時さまの子供の友時さまは後に捕まって竜の口で処刑されました。
極楽寺や竜の口には行きました。
やっぱり今でも泣ける。
[12] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年06月01日 16時16分15秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>貞能や宗清の一族が最終的には後醍醐天皇の皇子をかついだのでしょうかーー
貞能の一族と宗清の一族は 同じ土俵では語れませんね。
貞能の方は
津島神社(大橋家 旧伊勢平氏)を中心に
伊勢や尾張南西部の17家が後醍醐天皇の皇子さんの宗良親王を大将にして遠江〜信濃まで転戦しましたが
宗清の方は
上記レスに書いたように (ホントはコピペだけど) かなり捩じれてますね。
服部半蔵の家も南朝方だったとは宣言してないし。
半蔵の家は
ホノハヤヒの子孫だとか允恭天皇の御世に服部連だったとか桓武天皇の皇子さんの葛原親王の子孫だとか家長の子孫だとかは言ってるけど。
宗清の子孫は壇の浦の後に宗清の叔父の家貞や従兄弟の貞能・服部家長・平田家継の土地を支配することになってラッキーだったものの
それは頼朝のお蔭だから
鎌倉幕府には表立っては逆らえないけど 幕府の中で身分や立場が有るわけじゃないし どっちか言うと鎌倉の御家人衆からはバカにされてたろうし
面従腹背 の忸怩たる思い をずっと持ってたんじゃないかな?
だから伊賀の 宗清に腹を立ててた側の旧平家の武士は
伊勢国奄芸郡の服部宗純が後醍醐天皇のお召しで蜂起したことを知って
宗純に合流したと思います。
この部分は他の旧平家方の武門の家々も同じような傾向があったと思います。
特に ときおさんのお家はそうじゃないかな?
ときおさんのご先祖も頼朝への恩義から南朝方としては蜂起できず
ときおさんのお家の分家筋などは堂々と後醍醐天皇方に付いた
とわたしは解釈しています。
わたしの母方先祖は源平時代 1180年 平維盛の目代=代官=が横暴だったので之を殺し 頼朝の挙兵に参加し
正妻が北条時政の娘で政子の妹だったから 御家人として鎌倉にいて
1311年の先祖の親の薨去の時 遺言状を開けてビックリ!
家督は北条の姫=正妻=から生まれた1番下の弟に譲られたのに腹を立てて
鎌倉からとっとと帰郷してしまい (我が家の先祖の生母は江戸重長の娘)
この20年後に鎌倉幕府が倒れて うちの先祖は後醍醐天皇方についた
ただし 当時のわたしは 我が家の屋敷が材木座に在ったので
鎌倉にずっと居て 北条仲時さまの帰着を待ってた そして自害した
母方は1311年の相続問題以降 内訌が続きに続き 戦国時代末期まで続いて戦国大名から没落した。
その間に南北朝時代は
1内訌で南北に分かれて戦い
2わたしの母方の直接の先祖は吉野で後醍醐天皇に仕え
3越後の一族は元寇の役の恩賞で頂いた魚沼郡で新田方と共に
4もう一族は楠正成と共に湊川の戦いへ
(この時 ウッカリ北朝方の舟の乗ってしまった 家紋が同じだからね ま、行先は同じだけど 笑)
5そしてもう一族は金ケ崎へ新田義貞軍に合流しようとして佐々木・斯波軍に負けた
(太平記の「北国下向勢凍死の事」に書かれている)
6もう一族は細川を相手に戦っていた
こんな感じで母方はワタシが知ってるだけで6つに分かれて没落して行きました。
それで伊賀の宗清の子孫達も南北朝の頃は「各自」で「一<所>懸命」で戦っていたのではないかな?四分五裂になってたのでは?と思います。
こんな表現を御存じですか?
Q「世界最強の軍隊は?」
A「アメリカ人の将軍、ドイツ人の将校、日本人の下士官、ロシア人の兵」
Q「世界最弱の軍隊は?」
A「日本人の将軍、ロシア人の将校、ドイツ人の下士官、アメリカ人の兵」
ホントにアメリカに住んでアメリカ人を見てると
なんで日本がコイツらなんかに負けたんだ?
と思いますよ。
世界的視野からすると 日本人の将軍が何故ダメと言われるか と言うと
「天祐で」とか「神風頼り」とか「食糧は現地調達で」とか 「38銃」とか 明治かよ? 笑うぜ
ビジョンが無い 戦略が無い 精神論で兵に戦わせたから。
泣けるな。
「奇襲で」一時的に勝利を得ても 最終的に負けてりゃ アホか。
でも
コレが日本人的感覚なのよね。日本人 戦術 が好きだものね。
ところがアメリカ人というのは「最終的に勝てば良い」です。
後醍醐天皇には人望がそもそも無いから 集まったのは 敗者復活戦に賭ける武士ばっかし。
寄せ集めの大坂夏の陣の豊臣方ですな。
新田義貞はただただ足利尊氏への家格に対する劣等感で一杯だったし。 近親憎悪ってのだね。
河内のおっちゃん(楠正成)には地頭力(ゲリラ戦)はあったけど身分が決定的に無かった。
だいたい後醍醐天皇のお取り巻きの公家が作戦に口出しするし。
でも「一般日本人武家」にすれば「身分の差」は歴然だから 「有り難がる」しか無かったのかな?
現実を見る目があった者は足利尊氏に寝返る方がトクって計算出来たんでしょうね。
[13] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年06月02日 11時40分11秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
いろいろ貴重なご意見、ありがとうございます。「敗者復活戦」という表現、
かなりの部分言い当てているのではないか・・・と思いました。
また用事ができましたので、改めてーー
[14] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年06月03日 11時10分55秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
確かに敗者復活戦ではあると思いますが、平家(貴族化した)の流れとしては、
天皇親政、また三種の神器に象徴される正統性、いわゆる大義のための戦いに
南朝側に加担することは、自然の成り行きだったのかも知れませんーー
[16] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年06月04日 14時47分50秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
書き直し
本日 三つ柏さんへの原始メールを投函しました。
10日ほどで届くでしょうか?
>確かに敗者復活戦ではあると思います
簡単に表現すると、ですね。
そもそも 南北朝の戦いは 元凶が後醍醐天皇で 彼の「敗者復活戦」であった ということ。
「敗者復活戦」という表現が不適切なら 上品に「あんしゃん れじーむ」Ancien Régime という事で。
「王政復古」ですね。
高校生並みの学力をヒケラカシテしまった。恥
そもそもの始まりが
後鳥羽上皇とその一派が鎌倉幕府に抵抗して負けた承久の変。1221年(承久3年)。
日本はこれで完全に北条政権下に置かれ武家の時代になりました。
そこで天皇親政に戻そうと後醍醐天皇が・・・
ここで
Q「世界最弱の軍隊は?」
A「日本人の将軍、ロシア人の将校、ドイツ人の下士官、アメリカ人の兵」
をもじって
日本史上最弱の蜂起:
後醍醐天皇 が大将軍
将校が 千種や北畠などの公家系
下士官が 後醍醐天皇の皇子さん達
北陸方面に尊良親王や恒良親王を 新田がお仕え
懐良親王を征西将軍に任じて九州へ 服部家の一部や折田要藏さんのご先祖とかも参加
宗良親王を東国へ 伊勢・尾張・三河・遠江・信濃・上野の武士がお仕え
義良親王を奥州へ 北畠親房の息子の顕家
吉野では義良親王が後村上天皇に即位 母方がエンエン後南朝終焉までお仕えした
我が母方と一心同体の住吉大社も後村上天皇方
わたしが落魄したら住吉大社はわたしを保護してくれるだろうか?
キャハハ
哀しい実戦班が
新田や楠や井伊や諏訪なんかの地方武家をリーダーとして率いられた一族郎党は
まさに玉砕への道を進んだ。
要するに南朝方の公家や貴族には
実戦班というのは自分達の為に命を惜しまず働く番犬でしかなかったんだろうな
と、こんな感じかな?
三木一草
後醍醐天皇の建武政権下で重用された4人の寵臣。
結城親光・名和長年・楠木正成・千種忠顕の総称。
「ユウキ」、(名和は伯耆守であったことから)「ホウキ」、「クスノキ」、「チクサ」と4人の姓や官職の読みにちなむ。
結城親光は4人の中で最初に亡くなった人ですね。病死らしい。
息子の結城親朝は北畠親房とその子の顕信に嫌気がさして北朝方に寝返った。
犬も飼い主が可愛がってくれなきゃ 主人の手を噛むわな。
うちの吉野にいた母方は赤松の遺臣に裏切られ
神璽を奪われ
尊秀王(=後鳥羽上皇の末裔でもある=北山宮=自天王)と、弟の河野宮(忠義禅定)が死んで
此処に後南朝が終わりました。
長禄元年12月2日(1457年12月18日)のことでした。
すごいね
すごい精神力
うちの母の精神力の強さは
軍国少女時代に培われたものじゃなくて DNAレベルだったということか
北山宮と河野宮はまさにわたくしの母方先祖がらみであり
北山宮の一族子孫の方とは父方でも繋がり
北山宮の一族の方は高貴な立場の方でいらっしゃいます。
「青天を衝け」の前回の海軍指南で砲術家の薩摩の折田要藏さん。
>天皇親政、また三種の神器に象徴される正統性、いわゆる大義のための戦いに南朝側に加担することは、自然の成り行き
折田要藏さん、明治維新で明治天皇に「南朝こそ正統」と言って貰えて 嬉しかったでしょうね。
長州方元勲達が慌てふためいたそうですが
ヲイヲイ あんたは北朝方の天皇という設定なんだよ と。
わたしは長州から「南朝方忠臣の顕彰」のハナシが出たと思ってました。
明治天皇=南朝方子孫の大室寅之祐のなりすまし説=長州の数々の陰謀あり。
特に伊藤博文。
折田要藏 =平資盛子孫の越前の織田氏=折田氏=にとって
かねてより進言していた湊川神社の初代宮司に任じられて
明治6年(1873年)折田一族の「南北朝の戦い」がやっと終わったんでしょうね。
わたしは、最初、徳井優演じる折田要藏に(こーゆー人物 いるよね)と見てたけど
徳井優が憎めない演技だし
渋澤栄一に大事な(普通だったらマル秘扱いの)資料をドン!と手渡してくれたし
だけど「湊川神社の初代宮司」と聞いて すぐに オリタって織田のことか!
元は越前か! 平家で南朝方じゃん!
懐良親王に従って九州に行って薩摩に落ち着いた一族か!
と分かりました。
>天皇親政、また三種の神器に象徴される正統性、いわゆる大義のための戦いに南朝側に加担することは、自然の成り行き
この部分
まさに「折田要藏」の戦いでした。
泣
完遂したね、と思います。
[17] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年06月06日 10時21分51秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
平家や南朝の話になると、膨大な話になり、焦点がぼけてしまいますので、
また「長田」=「永井」に戻って、フォーカスし直したいと思いますーー
[18] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年06月07日 15時34分55秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
本日の「青天を衝け」の 旗本・永井尚志(大目付)
家紋は梨の切り口でしたね。 (一文字三つ星紋じゃなかったですね)
三島由紀夫の高祖父だとか。
この人はもともとは大給おぎゅう松平家の生まれだけど
父親が亡くなる2年前あたりに生まれたので
既に養子さんが大給松平家の跡を継いでたから
25歳あたりで旗本の永井尚徳の家に養子に行った
そうですね。
大給松平はもともと本家の松平家に仕える家で
だから小大名ですね。
岡崎に大給町があったのは記憶しています。
永井直勝の家は4代目の永井尚長の時
延宝8年(1680年)5月に4代将軍家綱薨去の後の法要の奉行になったものの
6月26日、芝の増上寺での法要の最中、
志摩鳥羽藩主で方丈口勤番を務めていた内藤忠勝に刺殺され、お家改易。享年27。
その後 弟が1万石で大和新庄藩主として大名・永井宗家を再興するのを許された。
今回の「青天を衝け」で驚いたのは
井上馨役の福士誠治の英語の発音が 帰国子女並み だったこと。
最初 福士誠治とは気付かなかったから (こんな帰国子女の俳優って いたっけ?誰?) と思いました。
仮面ライダー「フォーゼ」や「あまちゃん」に出てた福士蒼汰は英語が得意というのは知ってました。
ジャニーズの「嵐」の二宮主演の
「弱くても勝てます 〜青志先生とへっぽこ高校球児の野望〜」
で、英語の会話をドラマ中にやってましたが
会話相手の子の方が上手だと思いましたが(たぶん 帰国子女?)
福士誠治は ホントに 上手でしたよ。
英語指導の塩屋孔章が教えるのが上手なんでしょうけど
伊藤博文役の山崎育三郎は ただの日本人英語 でした。
歌手って上手としたものだと思って来ましたが
意外なほど下手クソでビックリしました。
姉の娘は絶対音感があるので「R」の音がスンナリ出来て
(これが絶対音感ってのか)と驚いたけど
山崎育三郎って あれ わざと 下手クソ発音だったのか?
俳優ってホント!すごい能力があります。
吉沢亮
演技 相変わらず 一本調子だね
ま、顔が可愛いから それで良いけど。
わたしは仮面ライダー「フォーゼ」のメテオ 役で ナニ?この子!暗〜ぁい! と
それ以来仮面ライダー「フォーゼ」は見なくなったんだけど
朝ドラの「なつぞら」の天陽君役の 明るさ にクラクラしてしまった。
でも天陽君のお兄さんの陽平君役だった犬飼貴丈の方が好き。
「青天を衝け」では 福地源一郎=福地桜痴役で出るので楽しみ。
仮面ライダー「ビルド」の時の清らかな青年は4年後の現在まだ26歳なのに穢れちまったという感じ。
最近は3枚目役が似合い過ぎているので福地桜痴役の知的なジャーナリストで魅了されたい。
面白いサイトのご紹介:
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121位 服部家(本地 伊賀) 当主名 服部仲 表高3,050石 村数6 実高4,277.34730石ラッキー! 領地遠江
141 松下家(遠江) 松下加兵衛 3,000 10 3,960.60651 伊豆上総
172 川口家(尾張) 川口久助 2,700 15 3,411.77038 上総下総安房 下野
179 川勝家(丹波) 川勝丹波守 2,573 8 3,335.32950 丹波 近江守
[19] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年06月08日 10時17分40秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
できるだけ間口を広げないよう、焦点を絞って行きたいと考えますので、悪
しからずよろしくお願い申し上げます。
善地の五苗という五氏を宗教的(神社・祭神等)にとらえればーー
@松島氏・・・諏訪大社
A永井氏・・・熊野大社または天満宮
B鈴木氏・・・熊野大社
C服部氏・・・服部(はとり)神
D加藤氏・・・不明
と考えられます(詳しい説明は省きますが)。
正保年間(1644〜1647)に善地は四村に分村します。それまでは、(大)善地は
諏訪大社の祭神を祀っておりました。これは松島氏が大名主的存在で、ルーツ
が諏訪神人であったためと考えられます。
分村してからの(小)善地は、その約30年後に天満宮の祭神を祀るようにな
ります。これは、名主的立場が、松島氏から永井氏に移ったためと考えられま
す。つまり、天満宮がこの村の氏神様となったわけであります。
永井直勝や長男の尚政と天満宮との関係は希薄ですが、次男の直清は、1649
年に高槻城主になってからは、天満宮をことのほか庇護したようです。
高槻近辺には、服部天満宮があり、また神服神社もあり、野見神社もあり、
永井神社もあり、永井と服部の近さを、不思議な程感じざるを得ません。
また、長上郡はその昔、長田郡であり、永井氏(長田氏)のルーツと重なりま
す。そしてそこに存在する服織神社の祭神は天穂日命。それは土師氏(大江氏)
としての永井氏の祖神でもあります。
長田郷と羽鳥郷は、この天竜川の下流にあり、また駿府の阿部川の下流にも
同じように存在します。古代において、服部族と長田族が協調して村作りをし
ていたことを匂わせます。
もっとも、古代の長田族と平氏の長田族は、そもそも違った存在であるのか
も知れませんが、歴史の層(レイヤー)としてオーバーラップする部分もあるも
のと考えますーー
[20] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年06月08日 16時53分45秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
(結論)
分かりません。
調べてて、分かっちゃったのはジャニーズのKis-My-Ft2の千賀君のご先祖だった。
名古屋のいいとこのお坊ちゃま君というのは知ってたけど
なんと!わたしの母方先祖で繋がり、当然、南朝方で繋がって、
吉野の義良親王(後村上天皇)、宗良親王、新田義貞の弟の脇屋義助にも<ご縁>が繋がってた。
先週調べてた時はKis-My-Ft2の二階堂君とも私は繋がることを発見して驚いてたのに。
>善地の五苗という五氏を宗教的(神社・祭神等)にとらえればーー
@松島氏・・・諏訪大社 これはそうだと思う
A永井氏・・・熊野大社または天満宮 1番最後にコピペしました
B鈴木氏・・・熊野大社 これはそうだと思う
C服部氏・・・服部(はとり)神 ?
D加藤氏・・・不明
分からない事を憶測で書けないので(本当か? 赤面)分かったハナシを広げます:ごめん
秋篠宮妃殿下の紀子さまの母方お祖母さまが服部姓というのは平熱で何度も書いたし
静岡県民なら当然誰でもご存じのこと
そのハナシです:
藤枝の鈴木氏の娘
⇅−−−−−−−−−−−−−−−−−−→ 杉本氏(紀子さま祖父で満鉄勤務)
静岡の杉本氏の息子
⇅−−−−−−→ 紀子さまご母堂杉村和代
旅館業の服部氏の息子(満鉄勤務)
⇅−−−−−−−−−−−−−−−−−−→ 服部栄子(紀子さま母方お祖母さま)
(満鉄勤務の)平野氏の娘
これ見てビックリ!杉本氏というのは日本中に在る名字だからハッキリしないけど
あと3つの名字 鈴木+服部+平野なんて 南朝方だし
紀子さまの父上の川嶋家は和歌山で南朝方だし 平維盛の子孫だし(だから紀子さまの正当性をアチコチから聞いた)
ということは 杉本氏も 南朝方系なのかな?
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2213005100/2213005100100010/ht003680/?Word=%E5%BB%B6%E5%96%9C%E5%BC%8F
浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
浜松市史 一 古代編
第四章 奈良時代の政治と社会
第二節 地方政治と国司
遠江の国勢と国司
253 〜 254 / 706ページ
管郡と浜松市域 長田郡の分割
国の管轄する郡については、平安時代の『延喜式』や『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』以前にはこれを列挙した史料はないけれども、元来は浜名(はまな)・敷智(ふち)・引佐(いなさ)・麁玉(あらたま)・長田(ながた)・磐田(いわた)・周智(すち)・佐益(さや)・城飼(きこう)・蓁原(はりはら)の十郡であったとしてまちがいがないと思われる。
このうち、浜松市の現在の地域は、敷智・長田・麁玉・引佐の諸郡にまたがるものであろう。そして市の中心部はもともと敷智郡の地であって、これが浜名郡に含まれたのは明治二十九年(一八九六)の郡区改正による結果であり、それまでは浜名郡は浜名湖西方の地に限られていた。これらの郡界は、地方によっては古来それほどの変化はみせていないが、遠江国の場合は、天竜川の河流変遷や氾濫などの事情もあって、相当に変動があったようである。
また、長田郡は和銅二年(七〇九)二月、地域広大で民家も分散し、連絡に不便であるとの理由で二つに分けられ、長上(ながのかみ)・長下(ながのしも)の二郡となった。
ただし、この分置の理由は『続紀』に記すところであるが、この地はさして広大でもなく、また民家に乏しい地であったとも思われないから、おそらくこの理由は国司が分置を申請した時の作文で、実際には民戸繁栄などの理由から分置を有利としたためであろうというのが、『静岡県史』の推測である。
永井直勝の先祖の長田氏は 他田おさだ氏が後世に桓武平氏を称することになった とも聞いてます。
他田氏とは、神武天皇の皇子神八井耳命を祖とする多氏に属する古代氏族で
他田部氏は、6世紀後半頃の敏達天皇の宮であった訳語
「他田幸玉宮(おさたのさきたまのみや)」
にちなむ部民である他田部に由来するとされ
敏達天皇は他田の宮にあって他田天皇とも称せられた。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/nagai1.htm
非常に面白いブログです。
全文はURLへ。
以下コピペ:
直勝の父・長田平右衛門重元の兄の甚助白重及び弟の喜八郎重吉は、大浜下宮の神主をつとめ、喜八郎重吉の子孫は代々、下宮こと熊野権現神主をつとめたというから、こうした神職の家柄は古族末裔と考えたほうがよさそうである。
URL上記の「長田系図」では、室町前期頃の宮内少輔政継が大浜下宮神主になったといい、その長子の和泉守政俊も同神主であって、文明五年(1473)八月に死去している。
大浜下宮はいま大浜熊野大神社といい、碧南市宮町に鎮座するが、長田白正なる者が紀州熊野権現より勧請したと伝える。碧南市にあるもう一つの熊野社、すなわち「上の宮」と呼ばれる大浜上町の熊野神社が北側にあって、南側の「下の宮」は上の宮から西南に三キロ余の地点に位置する。
大浜の地は、平安中期の『和名抄』では幡豆郡大浜郷と見え、後に碧海郡に属したが、こうした地域で天孫系の熊野権現の神主として続いたということから考えると、物部氏族から出た三河国造の族裔とみるのが穏当なところか。
熊野神社は安城市では藤井町・尾崎町にあり、岡崎市では羽栗町などに十社を超える数の同名社がある。延喜式内社の糟目犬頭神社(岡崎市宮地町)でも熊野三所権現を合祭する。
やはり三河国造末裔が奉斎したとみられる知立神社の両神主の一に永井氏があり、宝飯郡の名族にも永井氏があった、と『姓氏家系大辞典』ナガヰ第13項に見える。
これを考えると、長田・永井はもともと同族の苗字としてあったのではなかろうか。
つまり、源氏の仇だとして長田を忌んだという伝承は疑問となってくる。
大江広元の後裔の名族として「長井」氏があったことで、
これに因んで大江姓とも名乗ったものであろう。
これら三河の永井氏と尾張の永井氏との関係は不明であるが、
知多郡緒川村(知多半島の愛知県知多郡東浦町大字緒川)の永井氏がもと長田氏というから、
これは水野氏と同族で
長田忠致の族裔であった可能性がある。
なお、『姓氏家系大辞典』オサタ条に見える第12項の大江氏流には、「宗元の五代目の重光が長田平衛門を称して三州大浜庄宮にあり、その子が永井直時」と記載があるが、これは重光が重元の誤記で、永井直時が永井直勝の誤記であることは、その譜註からも分かる。
こうした誤記は往々にして系図に見られることにも留意しておきたい。
_____________________________________
つまり家康は直勝に
「長田って名字じゃ 源頼朝の父君を暗殺したヤツの子孫だということで
同僚の武家達からイジメに遭うだろうから
ワシの母上の実家の水野の遠縁になる永井の名を使えば良い」
とでも言われたのかな?
「永井なら長井に通ずるし 大江姓永井氏に改名すれば 箔も付くってもんだ」
と?
でも 包装紙は替えても 中身は変わらないんだから
やっぱり陰では悪口を言われていたんじゃないかな?
長田忠致がどのように虐殺されたか みんな 知ってるし。
>長上郡はその昔、長田郡であり、永井氏(長田氏)のルーツと重なります。
「永井氏(長田氏)のルーツと重なる」という部分
これは分かりません。
長田郡が2つに分けられたのは上記にコピペしましたが
長田氏はどこにいたのでしょう?遠江にいたのですか?
平安時代、先祖の備中掾・平致頼は京都にいて平貞盛の子の維衡と喧嘩して隠岐に流されたりしてるのはハッキリしているけど
その後の100年150年 どこにいた?
尾張平氏と呼ばれた長田氏だから尾張の知多(野間とか内海 今の美浜町)にいたのは確かと思いますが
知多半島から三河に進出して更に遠江にも荘園を持っていたのかもですね。
分かったような気がして結局は分からなくなります。
[21] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年06月10日 08時59分21秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
分かってないハナシを書きます:
でも 「神社」って 庶民には「御利益」の対象 御利益をくださる存在 と思います。
権力者には抵抗勢力を潰した怨霊閉じの箱だろうけど。
だから神社って庶民には
現代の富士フェスとか歌舞伎座みたいな庶民が喜ぶ場所だったんじゃないかと思います。
御師さん達がお札を売ってファンド・レイジングしたみたいに
薪能とかお祭りとかの場所で庶民は喜んだ場所みたいに
今時のミーちゃんハーちゃんがジャニーズのグッズを買って喜んでジャニーズの会社が大儲けするように
人気のある神社=庶民に喜びを齎す神社は大儲けして、お金も作れて、立派なお社を建てることが出来たと思います。
御利益が無い神社は庶民から見放されて衰退して消えただろうと思う
権力者にとっては戦勝祈願が果たされたら前にも増して立派なお社を寄進したと思う
そういう場所には日本全国から御師さんが来てお札を売ってお金を作ったろうし
もし御利益が無かったらその神社はお金儲けは出来ずお社は衰退したと思う。
そういう背景を考え
遠江の服織神社は平家の時代には衰退してて
(伊勢神宮の力が衰えてたのかな?だから服織神社も衰えてた?
当時は熊野大社が大!大!大人気!を博していた)
平家方だった源頼政は知り合いの陰陽師が陰陽道争いに負けて落魄してたのを
自分の領地の遠江の服織神社に行くように勧め
「お前、陰陽師なんだから、村人に占いをやってあげたら喜んでくれて、
当たれば、客が増えて、生活出来るようになるぜ」
と取り計らってくれたわけだ。
当時の遠江じゃ、その陰陽師に力が無いことは、まだ、知られていなかっただろう
で、そのお陰陽師の占いに御利益があったかどうかは知らない
源頼政は平家を裏切って滅びたから、服織神社がどうなったかも知らない
ま、村人が喜んでくれたのなら立派な神社に成長したと思う。
明治になって、神道が国家宗教になって、伊勢神宮が栄えて、一緒に服織神社も景気が良くなったでしょう
戦後のGHQ政策で また 廃れた?
でも、お伊勢さんって今は人気があるから、服織神社も人気がある?
>善地の五苗という五氏を宗教的(神社・祭神等)にとらえればーー
@松島氏・・・諏訪大社 これは当然そうだと思うから問題無し
A永井氏・・・ 大浜の長田領には天王町があるから
尾張の津島神社系の力があったのでは?
例えば 津島神社 と 大橋家
大浜の長田領には厳島神社もあるから
平家の力も依然としてあった?
熊野大社は平家+南朝方だから旧平家+南朝方のエリアには在るだろうね
とはいえ、熊野も源vs平に分かれ 南vs北に分かれ ガタガタやってたけどね
後鳥羽上皇なんて1198年以降熊野に28回も行ってる人気スポット
後白河は34回だっけ?
だから日本全国に熊野神社は在るでしょ。鈴木さんも日本全国に繁殖でしょ
天満宮 いつから?江戸時代?直勝子孫関係で?
天満宮関係で永井直勝の先祖のいた碧南に面白い神社があるのでご紹介:
※新川神社は碧南市千福町の羽久手公園内に鎮座。
すぐ近くには秋葉神社がある。秋葉神社って言ったら 浜松の天竜区だよね?
碧南市・新川神社例祭に宮司参列
岩津天満宮中興の祖・服部長七翁が御祭神の一柱としてお祀りされている、碧南市千福町鎮座新川神社の例祭が執り行われ、服部宮司が遺族として参列いたします。
この人には是非お会いして欲しいです
どういう 服部氏 なんでしょう?
三つ柏さんにとって どういう存在でしょう?
新川神社は、旧碧海郡新川町から日清日露・大東亜の戦役に散華された御英霊404柱と共に、
明治用水の計画から土木事業の完成まで農業発展に貢献した岡本兵松翁、
商業開発や自治に貢献した角谷安兵衛翁、
そして人造石発明者にして全国の港湾護岸河川築堤工事など多くの功績を残した服部長七翁
の三柱を併せ祀る神社です。
服部長七 すごい人物だからURLを載せます:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E9%95%B7%E4%B8%83
是非お読みください。
やっぱりワタシは服部姓を名乗る資格が無いと実感。
B鈴木氏・・・熊野大社 これは確実にそうだよね
C服部氏・・・服部(はとり)神 ?
上記の服部宮司さんが三つ柏さんの疑問にちょっとはお答えくださるかも
ですよ
D加藤氏・・・不明
ということで いろいろ 紆余曲折 ウロウロやってます。
こうやって迷子になってると何かに出会うかも。
最近夏至が近づいて物凄く暑いようですね。
体調をお崩しになりませんように。
老人の話は聞いてあげてください。そしてご自分の謎解きの協力者に引き上げてください。
笑
早くワクチン競走曲が終わりますように!
[22] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年06月12日 13時43分07秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
岩津天満宮の今の宮司は、服部長七の後裔ということがわかり、今までの謎が
解消されました。
コロナワクチンの接種で亡くなられた方が日本でも5月21日時点で81名い
るということですが、詳しい情報は表に出てこない。副反応がどういうものかも
写真等で表に出てこない。どうやらこの国の政府には隠蔽体質(臭い物には蓋をす
る)があるようです。そこに人間として情や正義のひとかけらもありません。
隠蔽するものと公開するものとの区別・判断ができない政府には、いつもながら
がっかりです。なんとかならないものか・・・?
さて、少なくとも江戸時代の前までは、神主は武士でもありました。
永井直勝もその家系から推察すると神主であっただろうと思われます。父
にあたる重元、祖父にあたる広正(廣政)が熊野大社系の神主でもあったから
であります。
重元や広正にはわからないことが一杯あり、それは祖先からの問題ーー長田
氏であること、南朝臣であること、徳川(松平)家との諸関係ーーをカムフラー
ジュせねばならなかったせいのようです。
祖父の広正は、磐田市発行の『中泉代官』によるとーー
「長田喜八郎広正は、初め三河国大浜に住んでいたが、のちに遠江国山名
郡(磐田市)新貝村に移り、長田を永田と改めた」とあります。
この新貝には今はヤマハの工場が建っておりますが、その南にはあの鎌田
(御厨)があります。長田氏と鎌田氏の関係を彷彿とさせます。というか、長
田氏がいろいろな所に領地を持っていたという背景が見えてくる気がします。
最近、暑くなったせいか、すぐ眠くなってしまい、読書も思考もパソコン
打ちも、長く続きませんーー
[23] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年06月13日 16時19分22秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
平熱ってオカルトかかってるけど (わたしにだけか?) ホントに最近「来てる!」のです。
最近わたしは千葉県夷隅市に引っ掛かってて
え?夷隅って埼玉じゃなかったの?埼玉じゃなかったら茨城じゃなかったの?
千葉?なんで千葉?千葉だけはないだろ?怒
とパニックになるほど夷隅市が千葉県と知って気が動転してるんですが
その続編です!
↓
千葉県茂原市の服部農園あじさい屋敷を御存じですか?
知るワケ無いじゃんね?
ま、千葉って言ったら いすみ鉄道で
いすみ鉄道って言ったら 🌸 だらけの世界(撮り鉄のメッカ)というのは知ってました。
この「いすみ」が「夷隅」とはツユ思いもしなかったバカです
とにかく千葉って 🌸 だらけの世界みたい。
そこに茂原の服部農園あじさい屋敷!
実は名古屋の我が家の畑も 山紫陽花 がそれはそれは美しい世界を見せてくれてました
茂原って 夷隅のチョイ北 正確には 北北西? です。
この服部って どういう服部? 服部さんと関係アリ?
服部政信関係者?
浜松の養鰻の服部倉治郎さんは元は江東区出身者なんですってね。
「浜名湖!いいじゃん!養鰻にぴったりじゃん!」
ってコトで東京から転居したとか?
この服部さんは どーゆー 服部さんでしょう?元は夷隅あたりの出?
+++++++++++++++++++++++++++++++++
最近このコロナ禍で各種エンターテインメントが制限されてて
しょうがないけど
だから神社のことをすっごく考えました。何故神社が必要だったのか?何故神社は必要とされたのか?って。
神社は 日本人の 物質的に精神的に どんな意味があったのかなと。
三ケ日原人(只木)
旧石器時代、8200〜1万1000年前の縄文時代?
この人達がいて
その後
出雲から物語を語るのがうまい人々がやって来た
つまり
日本最初のエンターテインメントの出現だね。
三ケ日原人達はそりゃあ感動しただろうな
日本初の叙事詩
それに相応しい建物を作ってあげよう
とでも考えたかな?
だけど秦氏の到来まで待たないとまともな神殿は出来なかったろうね
服部長七翁は あの土木技術力を考えると 秦氏出身者?
以下 三ケ日原人を取り巻いたであろう原始日本の物語を無断コピペ
語り口がエンターテインメント性高いので分かり易いです
https://www.matchy.net/archives/1406
その昔、葦原中国、つまり現在の日本のことですが、そこを統治していたオオクニヌシ (大国主) という神様がいました。
しかし葦原中国はもっと由緒ある高天原の神様が統治すべきといって、高天原から使者がやってきます。
しかしオオクニヌシはよっぽどの大物、傑物だったようで、
使者は次々とオオクニヌシさんと仲良くなって高天原へ戻らなくなってしまいます。
で、最後の使者として腕っぷしの強いタケミカヅチ (武御雷) という神様がやってきて、
オオクニヌシに凄みます「おめーんとこの国よこせや」。
オオクニヌシさんはこれこそが大物っぷりなのかビビったのかよく分かりませんが、
「まあ あたしゃ いいんですけどね、ウチの息子がなんていうかね。ちょっとウチの長男にきいてみてよ」
と言ったそうな。
それでタケミカヅチは、魚釣りに出掛けていたオオクニヌシのご長男、コトシロヌシ (事代主) に、
「この国はオレんとこのボスが治めるべきなんだよ。あんたもそう思うだろう?」とスゴみますと、
コトシロヌシさんは「そそそそっすね」といって、乗っていた船をひっくり返してその下に隠れてしまったそうな。
どんだけびびってんのよ。
で、「あんたんとこの坊っちゃん 承知したってさ」とオオクニヌシにいうと、
「あー、まあ、ならいいんだけどさ、ウチ、次男もいるからさ。アイツにもきいてみてよ」
と、のらりくらりと引き伸ばします。
ホントに大物なのかこの人?
で、そこに次男のタケミナカタ (建御名方) がやってきて、
「このやろう、コソコソ変なことしやがって!オレと相撲で勝負しろ、コラ」
とふっかけるわけですな。
ところがタケミカヅチは最後の使者としてやってきただけあって、メタクソ強いわけです。
氷の剣などの凶器まで持ちだしての暴れっぷり。
哀れタケミナカタは腕を引きちぎられ重傷を負いまして、
ほうほうのていで信濃の諏訪まで逃げてくるわけです。
で、「すんまそん、もうここから出ないから勘弁してください」。
そんなわけで、オオクニヌシは
「あー、じゃあ、いいよ。ウチのクニあげちゃう。でもさあ、オレも神様だしさあ、
オレサマ用にでっかい宮殿作ってよ。そしたら文句ないから」
と取引をするわけです。
どうなのよ このとーちゃん。
それが現在の出雲大社なんだそうですけどね。
というわけで、
アマテラス (天照) を頂点とした高天原の神様達と、
オオクニヌシを頂点とした出雲大社系の神様達というのは、
流派が違うんですな。
で、2014年に高円宮家の次女典子様 (皇族はアマテラス系) が出雲大社権宮司の千家国麿さんにお嫁入りされたというのは、実はこういう神話レベルでの歴史的できごとだったりしたわけです。
さてさて、そんなわけで諏訪の神様はそのタケミカヅチにやられてしまったタケミナカタという神様なんですけども、
見ようによっては
もともと平和に暮らしていたところ、突然他の国のひとに侵略され、屈してしまったように見えなくもありません。
ていうか、まあそういうことだよね。
ところが、諏訪大社の縁起はこれだけではなく、甲賀三郎の物語というものもあります。
信州一宮の諏訪神社の神を説く物語(縁起)として、
また近江国水口の大岡寺観音堂縁起として、
中世以降伝えられてきた語り物の主人公。
内容は、近江甲賀郡の地頭の3人兄弟の末っ子の三郎の、貴種流離譚。
地底の国に迷いこみ彷徨い、後に地上に戻るも蛇体(または龍)となり諏訪の神になった。
むかしむかし、とても美しい奥様を娶った甲賀三郎、名前からして三男なのかもしれませんが、兄弟からたいそう嫉妬されまして、奥様をさらわれてしまいます。
三郎はほうぼう奥様を探し回りまして、ついに信州蓼科山の人穴で奥様を発見。救出します。
ところが兄弟達の策略にはまり、三郎はその人穴から出られなくなってしまいます。
しかたなく穴の奥底に進んでいきますと、維縵国 (ゆいまこく) という地底国に行きつきまして、そこの国王に気に入られて維縵国の姫と結婚します。
重婚ですな(ォィ)。
三郎さんは維縵国で13年暮らすのですが、やはり前妻を忘れられぬと。
で、まあ、国王も「まあ、そりゃそうか 仕方ないな」ということで、
三郎に協力してあげまして、
なんとか三郎は浅間山の上に生還します。
しかしそこで、自分の体がヒトならぬ龍の姿になっていることに気がつきます。
フランツ・カフカもびっくりですな。
しかしそこで老僧に導かれ、池の水を飲み、呪文を唱えるとヒトの姿に戻った、と。
その後は前妻と再会し、身についた神通力で諏訪の神様になったらしいです。
そういえばオオクニヌシというひとも、芦原中国の神様になる前、因幡の白兎のおはなしの後では
80人の兄弟たちにいじめられていたし
ひどい
その後これも地底世界である根の国というところで、高天原から追放されていたアマテラスの弟スサノオ (須佐之男) の美人の娘を妻に娶りますし、
別のおはなしのようで似ているおはなしだったりします。
じゃあ、おんなじなにかが別の物語として成立したのかなーと思うと、ちょっと引っかかるところがあります。
甲賀三郎さんは龍の力を持っている神様なのですな。
諏訪大社のまた別の縁起書「諏方大明神画詞」というものによると、
もともと諏訪にはモリヤ (洩矢) という神様がいたのに、
そこにある日タケミナカタがやってきて、戦争の末に諏訪の地を奪われたという物語が描かれているのだそうです。
なんだ、タケミナカタも侵略者なのか、まさに乱世乱世でござるなというカンジですけど。
ところで、そのモリヤという神様は、
日本全国でこういう現在の神道の神様より前に祀られてたといわれる古い神様、ミシャグジ
という種類の神様の1柱であろうといわれていて、これはヘビ、または龍の神様らしいというんですな。
以上コピペでした。
三ケ日原人 いろいろなハナシを興奮しながら 楽しんだのだろうな と思います。
少なくとも3つの世界のお話=出雲と高天原と諏訪のお話=を聞いたんだろうな。
時代が下るにつれて、力を持つようになり、食を求めて戦うようになり、
強い神様の御利益をお願いするようになって神社を建てたりしたんだろうな、とかね。
更に時代が下がって秦氏が来て美しい神殿を建てるようになったんだろうな、とかね。
日本全国に熊野神社があるのは平安時代、貴族や天皇に愛された観光スポットだから
熊野神社に行けない地方の人は、地元の熊野社に行って「行ったような気分」を味わったんだろうな、と。
お札とかのグッズを手に入れたろうし。喜んだでしょうね。
熊野大社って 神武東征記念 でしょうかね?
わたしは 島根の出雲大社 宮崎の高天原 長野の諏訪大社 和歌山の熊野大社 がこんがらがる。
神社というのは 仏教が来るまで、定着するまで 日本人には大切な場所だったんだろうなと思います。
_______________________________
コロナ対策ワクチンの雑用で大変な毎日だと思います。お身体を壊さないようになさってください。
沖縄にはアメリカ軍基地があるから実はコロナはスゴイことになってるんじゃないかなと思います。
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/685703
日本人従業員のワクチン接種は見送りへ 防衛省、米側に伝達
2020年12月29日
在日米軍基地での新型コロナウイルス感染症のワクチン接種に関し、防衛省は28日までに、基地内で働く日本人従業員へ接種しないよう米側に伝えた。
(ひどい!)
新型コロナのワクチンが国内未承認であることを踏まえ、安全性を考慮した。
(おためごかし よね?)
防衛省関係者によると、国内で承認されるまでは日本人従業員への接種は見送られる見通し。
(阻止の結果が今の沖縄の現状じゃないのか? 怒)
県知事は県民の健康や幸福や安全や財産や利益を守るのが仕事だろ〜がぁ〜と思います。
なんで玉城デニーは沖縄県人の側に立たなかったんだろう。
ムカシ 30年ほど前だったかな?
フィリピンで?日本人が麻薬で捕まって
外務省の役人がフィリピンに行って「あんな日本人には厳罰を」と言った話を聞いたことがあります。
たとえ犯罪者として捕まっても日本の外務省の役人はこの日本人の保護の方向で接するべきなのに。
1978年の映画の「ミッドナイト・エクスプレス」(深夜特急とは脱獄の意味)
トルコ旅行中に麻薬不法所持の罪で禁固4年の実刑をくらい
現地の刑務所に投獄されたアメリカ人の青年の話の映画化。
この中でアメリカ政府の外交官はこの青年の側に立った交渉をトルコ側としている。
だから日本政府って相変わらずヒドイなと思っていて(ま、あの外交官は無能なだけだったかも)
もし沖縄の基地労働者がワクチンの副反応で重篤な事態になればアメリカ軍基地の病院が手当てしてくれるんだから
日本政府はアメリカ軍(政府)に沖縄人へのワクチン接種を感謝すべきだったと思うのですけどね。
それでいてアメリカのワクチンが欲しいんだって。笑った
そしてアストラゼネカのは要らないから台湾にゴミの処理のように124万回分をプレゼント。
イギリスやEUはアストラゼネカのワクチンなのにね。
日本政府の台湾へのこの偽善的な態度!
我が家の隣のそのまたお隣さんが台湾人の若い外科医なんだけど
なるべく出会わないように気を付けてます。
「謝謝」なんて言われたら、穴があったら入りたいよ。
日本ってココまで堕ちたのか?
「貧すれば鈍す」ってこういう事か?とガッカリしました。
恥ずかし過ぎる。
東日本大震災の時の多額の寄付金のお返しが要らないアストラゼネカなんてね。
[24] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年06月15日 02時06分20秒 ) | パスワード |
昨日の「青天を衝け」
非常に興味深く見ました。
ここ数週間の 栄一を取り巻く人間像に ヲヲッと感動しています。
西郷隆盛に「久光公に徳はありますか?」と訊いた栄一。
訊く相手が まさに (久光に徳なんか有るわけ ネーだろ!怒) だよね。
西郷隆盛が(久光に徳があるかって?アホッ!ナニ 訊いてんだよっ!)のヒトコトって
訊く前に知らなかったの? そっちに (驚) でした。
ま、武州深谷の田舎にいたら西の果ての島津藩内で何が政治的に起きてたかなんて知らないわね
久光と西郷さん なんて 犬猿の仲なのにね。
大久保だったら「アルよ」と心を隠してでも即答したろうけどさ。
西郷って名字ってコトは南朝方ってコトだろうね
菊池の一族だし
西郷さんも奄美に流されてた時「菊池姓」を名乗ってたし。
幕末明治の会津藩主の命を助けるために会津の家老が
同じ西郷姓ってことで
会津容保の助命を西郷さんにお願いするんだし
家康の最愛の側室の西郷お愛さまとは先祖が九州で一族だったんだろうね
そして慶喜の命乞いと江戸城無血開城と江戸を混乱にさせない嘆願を栄一も西郷さんにお願いしたんだろうね。
そして五代友厚さま
おディーンさまですね。
「あさが来た」でも五代友厚を演じてましたね。
この五代って姓は「後醍醐天皇」から来てるそうで
ということは懐良将軍に従って九州に行き 鹿児島に定着した って家かも
ですね。
それに五代さまのご出身は鹿児島の「長田町」だそうですよ。
島津の家老だった小松さんは まさに 清盛の子孫
そして 西郷さんとも五代さんは親しかった。
五代さんは鹿児島の経済人ですからね 江戸の経済人の栄一とは双璧ですね
そうそう先週あたりに書いた我が家の父方母方で繋がる後南朝の自天皇=尊秀親王=の一族子孫の方は
島津の小松家に関わるヒトでもあります。
このことは随分前のNHKの大河の紀行部分で取り上げられてました
そして先週の折田要藏。
この人のお蔭で栄一は造船やら築港の知識を得た。
この人もバリバリの南朝方。
今回の備中の阪谷朗廬先生。
奥さまも出てたしお子様も出てましたね。
もう背筋がゾッとするほど感動しました。
このお子様が将来栄一の娘と結婚する後の東京市長や大蔵大臣になる人物ですね。
そして曾孫さんが橋本龍太郎の奥様ですね。
橋本龍太郎と言えば 明治天皇に化けた大室寅之祐の一族にも繋がってますね。
場所的に岡山と言ったら平家の武門を勤めた一族の土地だし
南朝方だし
橋本龍太郎が総理大臣になっていった経緯が想像出来ます。
それに一族の亡き橋本明さんは上皇さまのご学友で イロイロやらかしてますね。
ご近所に橋本明さんにお世話になった人物がいて
いろいろ 橋本明さんご家族のことで 盛り上がります。
今回の「青天を衝け」は 南朝方末裔の敗者復活戦だなぁ と見ています。
もう書きたいことはたくさん有り過ぎて困るほどですが
人間万巻の書を読み千里の道を往き朋と親しく交わるってコトの大切さを
この「青天を衝け」を見ているとつくづく思います。
家業で経営について学び
尾高惇忠から学問を学び
平岡円四郎と知り合って更に人間関係を広げ知識を博め
だけど江戸時代から太平洋戦争にかけて貴重な人材を日本は無駄にしたんだなと思います。
富士通の池田敏雄やソニーの盛田昭夫なんか
よくぞ無駄死にしないでくれた
って思います。
平和ボケのままコロナ禍を迎えた日本
政治的にも行政的にも全然「有事」に対応できない日本人。
低レベルのマスコミ。
「青天を衝け」を見ていると身分制度の愚かしさ
「有事」に人材を輩出した日本
人間像のさまざま Variety of Men に感動します。
この表現 恩師から 教えられて 今でも大事なわたしの表現です。
それにしても「どこの国でも代官ってヤツは」と言った栄一の言葉。
わたしの母方先祖も平維盛さまの目代=代官=がまともだったら反平家にならなかったのに。
まともじゃなかったからワタシが存在してるわけだけど
組織ってホントに腐るんだよね。
[25] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年06月15日 12時17分31秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
エアーメール届きました。いつもながら感謝申し上げます。
南朝の潜流(地下水脈)は、とうとうと流れているという訳ですね。
本当の深い所では、秦氏と賀茂氏がかかわっている気がします。もちろん
天皇家抜きには考えられませんが。つまり八咫烏ということか・・・?
最近、自治会の参加する行事として、地域の忠霊奉賛会の主導する慰霊祭と
いうものがあることを知りました。準備の草刈りなどもある訳ですが、この忠
霊塔は、太平洋戦争で亡くなった兵士達の霊が祀られているのかと思いきや、
なんと西南戦争以来の数々の戦争で亡くなった英霊・忠魂を祀っているとのこ
と。何で西南戦争から?
西南戦争と言えば西郷隆盛、逆臣であった・・・。西郷隆盛はその後名誉回
復されましたが、ひょっとしたら西郷も祀られている英霊の一魂かも知れませ
ん。
ただ、西南戦争は、我が国初めての徴兵制度によって出兵がなされた国家の
戦争ということで、それ以後の国のために亡くなった多くの英霊をまつってい
るものと思われます。
世の中、知っているようで知らないことが多いですーー
[26] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年06月16日 15時35分49秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ご連絡を感謝致します。
やはり10日ほどかかりましたね。
今は飛行機があんまり飛んでませんから。
>本当の深い所では、秦氏と賀茂氏がかかわっている気がします。
>もちろん
>天皇家抜きには考えられませんが。
>つまり八咫烏ということか・・・?
この部分 拝見して背筋がゾクッとしました。
時々奥歯に物が挟まったような書き方をして紹介するワタクシの母方父方で繋がり
島津家と繋がり小松家で繋がり
さらに なかなか高貴なお方は
まさに 賀茂神社 八咫烏 関係者 です。
個人情報に繋がることは勝手に書けないのですが
御見通し でしたか。
GHQが北朝天皇系を廃止して南朝方天皇の子孫から新たな天皇を選ぼうとして20人弱の子孫を調べたけど
やっぱり昭和天皇の続投で
ということにしたそうです。
理由は何だったんでしょうね?
昭和天皇自身がモトモト南朝方天皇の子孫じゃん!
と分かったから?笑
このレスは来週には削除しようと思います。
ヒトのことを勝手に書いてはいけませんから。
[27] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年06月16日 16時53分27秒 ) | パスワード |
>忠霊奉賛会
このお仕事も増えましたか。
一体どこまで増えるのでしょう?
でも いろいろなヒトと知り合えるのですから 楽しみに参加なさってください。
お名刺は忘れず!
そして
「地域のことを知りたいので何年かかっても構わないので手記を書いてくださいませんか?」
とお願いなさってください。
絶対 本心は知らせたくてウズウズしているヒト っていますから。
「ライフワークで纏めて 小冊子にして 国会図書館なんかにも寄付したりもしたい」
などもお忘れになりませんように。
地域の若者達に伝えること 育てること 先輩として何か遺してあげたいですよね。
忠霊奉賛会関係で岩津天満宮の服部宮司と接点があるかも知れないですね。
あ、愛知県と静岡県では接点は無い、か。残念
靖国神社まで行けたら良いですね。
西郷隆盛は恐らく徳川慶喜の恩人でしょうから静岡では慰霊してあげたいですね。
服部長七翁が天満宮の中興の祖なのは
ひょっとすると 菅原道真のお子様が碧南にも来てたのかしら? と思いました。
この服部さんの家紋は何なんでしょうね?
わたしも知りたぁ〜い!
そうそう!服部氏系服部家の家紋の1つに〇に十字紋というのがあるそうですよ。
平岡円四郎は源氏系で〇に十字紋。
〇に十字というと秦氏系島津一族がいろいろな名字で使っていることで有名ですけど。
だけど平氏で〇に十字紋使用家は見ませんでした。
今は神回連続の「青天を衝け」に嵌っていて、いろいろ思いを巡らしています。
栄一が「どこの国も代官ってヤツは」と呆れていましたが
代官にしてみれば 農兵として次男三男を200人も300人も出しては 村を守る「手」が減るわけで
栄一だって自分達が藍の採り入れで大変な時に深谷の代官から道普請を命じられて迷惑してたのに
と笑いました。
だけど おかやまはじめ が演じた備中のテキトーな稲垣練造お代官さまが協力してくれなかったお蔭で
栄一は阪谷朗盧先生と知り合って 貿易が富を生むという大切さを知ったのですから
困難は道を開く という大発見をしました。
この稲垣という備中の代官のことは知りませんが
尾張藩の稲垣という代官は確か木曽の代官をしてて
ホンヤさんは今も?木曽に山を持っているはず
そして この稲垣さんは数学者でもあります。
ご子孫がIBMに就職しました。さすが数学者の一族!と思いました。
このヒトにボストンのNASA職員の夫婦の家にホームステイ出来るようにしてあげました。
この夫婦の周りがMITやハーバードやボストン大学の教授達なので
良い紹介が出来たことはワタクシの自慢でもあります。
このレスも後ほど削除対象だな
ホントに人間関係って一筋縄では理解出来ませんね。
何が幸いするか、不幸のどん底にいる時は見当もつきません。
でも打開出来たら、新たな展望が開けます。
せっかくの「青天を衝け」ですが わたしには TOO LATE のヒトコトです。
この歳になって 頑張るなんて ヤだ!
ヒトと知り合うのも面倒だ!
でも三つ柏さんは新たな人脈の開拓に参考になさってください。
野暮用や雑用が どこかで 役に立つ日が来る ・・・ カモ ・・・ ですから。
[28] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年06月20日 16時24分27秒 ) | パスワード |
ここ暫くウロウロしてて やっぱり 日本のことが分かってないな、と。
1
出雲大社が日本最古の神社というのは上記レスに書いた通り。
禊って (わたしはキリスト教の「洗礼」のような事を連想してました)
水で清めてから海藻を持って帰って社頭?拝殿前?に引っ掛けて捧げる ?
(気が付かなかった)
これを 厳藻いずも掛け と言って 「出雲」の語源らしい?
2
出雲大社は 二拝四拍手一拝で 5月14日の例大祭では 二拝八拍手一拝 ということで
なんで?と思い検索してみたら https://jpnculture.net/shihakushu/
いろいろ有るんだなと もう ついて行けません。
とにかく出雲大社の4拍手にはビックリした。気付かなかった。
3
出雲大社の宝物殿に『心御柱(しんのみはしら)』などが展示されていて
拝観料が大人は300円で高校生と大学生は200円小学生と中学生は100円だそうで
年間600万人が入館するそうですから ファンドレイジングの力 すごいな、と。
やっぱり御師さん達の集金力ってすごかったんだろうな、と。
4
浜松の日本初・日本一のサイト
https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/miryoku/nihonhatsu.html
市町村別銅鐸出土地数で浜松が日本一だそうで これにも驚いた。
縄文式土器は青森まで? 遮光器土偶の胴体の模様は縄を細く撚った縄目模様だから
銅鐸は遠江まで?
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2213005100/2213005100100010/ht002630
以下部分コピペ
浜松市は、銅鐸文化圏の東のはずれに位置するということになるのである。
遠江地方出土の銅鐸の多くは、愛知県下の三河地方出土の銅鐸の中にも類例が多いので、「三遠式銅鐸」と呼ばれている。
これに対して、三ヶ日町猪久保銅鐸のような型式の銅鐸は、滋賀県から和歌山県を含む近畿地方に類例が多いので、「近畿式銅鐸」と呼ぶ。
三遠式も近畿式も、年代的にはもっとも新しい型式であるから、遠江地方は、弥生時代も終わりに近いころになって、銅鐸文化圏の仲間入りをしたというわけである。
したがって、浜松地方は直接的には愛知県下とつながりを保ちつつ、間接的には近畿地方に連絡をもってきた地域であった。
銅鐸と稲作伝播について考えていたけど
東北地方には銅鐸は伝わらず稲作が伝わったのか?などとゴチャゴチャ
そうすると東北の稲作には銅鐸の働きは無益だったのか?などと
5
これは物理学者だった義父も知ってました(コピペします)
↓
浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)助教授の高柳健次郎は、ラジオ放送も始まっていないころ、「東京の歌舞伎を浜松の家庭で見ることができる技術を開発したい」との思いからテレビジョンの開発を手掛けました。
そして、1926年(大正15年)12月25日に、世界で初めてブラウン管映像の実験に成功しました。
最初に映し出された文字はイロハの「イ」の字でした。
高柳健次郎はその後も研究を続け、機械方式が主流の中、開発が難しいとされていた電子方式のテレビジョンの開発に成功したほか、テレビ放送の開始や2ヘッド式のビデオテープレコーダーの開発にも貢献しました。
以上 三ケ日原人も含めて あ〜だこ〜だ とグチャグチャと空想してました。
[29] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年06月22日 13時36分36秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨日の静岡新聞に、偶然にも銅鐸に関する記事が出ていて、不思議なコーイン
シデンスだなと思いました。
その記事は、磐田市出身、筑波大学大学院芸術研究科卒の日本画家・森谷明子
さん(名前も一致)のいわゆるエッセイでしたーー
「鐸(さなぎ)とは、大型の鈴、いわゆる銅鐸である。銅鐸は、近畿地方や出雲地
方をはじめ、全国で約500個も出土している。一方で、古事記、日本書紀とい
った大和朝廷の正史には決して記されることはない、弥生時代の謎多き遺物なの
だ。金色に輝く銅製で、打てば甲高い音が響く。人々は巨大な鈴の輝きと音色に
神聖さを感じていたのだろう。また、、農作業をする人やトンボやイノシシ、鹿
なども刻まれた図柄は、弥生時代の美術品といっても過言ではない。
しかし、「鐸」は、「鏡」を祭る中央政権の勢力に追われ、消滅したというの
が一般的な説である。オセロゲームのように、日本列島の上から次々とその駒が
消滅する中で、最後まで鐸を祭っていた地域の一つが現在の浜松市である。天竜
浜名湖鉄道沿線では、こうした鐸が点々と出土している。
佐鳴湖の「さなる」の語源が「さなぎ」であることは想像に難くない。穏やか
な浜名湖の周辺に、中央政権に反する人々が蟠踞していたと考えるのは興味深
い。」
銅鐸の破壊や土中への隠蔽は何故起こったのか、いずれかの機会に深掘りして
みたいテーマでありますーー
[30] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年06月22日 17時45分49秒 ) | パスワード |
*書いてて最後に思い出した!私は方向音痴と時代錯誤の天才だった。
削除しようと思ったけれど折角たらたら書き続けたのでアップしておきます
三つ柏さん
興味深い書き込みをありがとうございました。
わたくしの書き込みへのかなりの参考になりました。感謝
>銅鐸の破壊や土中への隠蔽は何故起こったのか、いずれかの機会に深掘りしてみたいテーマであります
はい
謎に満ちていてワクワクしますね。
どのような経緯があったのでしょうね?
大国主の国譲りの件に関わるのでしょうか?
神代や古代は結局はワケが分からなくなります。
どこの民族でも神話や伝説は好きでしょう
「ポケモン」を見ていると現代に生まれた壮大な叙事詩だな、と感心します
そして世界中で「ポケモン」を見て、人々はワクワクしているわけです。
ま、特に男子でしょうけど。
Boys will be boys.男子は、古今東西、英雄譚が好きなのだと思います。
わたしの夫は「ポケモンは残酷だからキライ」と言いますが。
わたしは 神話+伝説 vs 歴史+事実 に翻弄されています。
つまり切り離せない、です。
それは日本人のアイデンティティが外国人によって蹂躙されてないからだし
現代に至る皇室への畏怖と尊敬に<わたしが縛られている>から。
出雲という地方の幽玄な自然はさまざまな神話の舞台になり
出雲人達は偉大なストーリー・テラーに育ち
御師さん達は日本全国へ出雲神話のドサ回りを続けた。
その東限が遠江ということか?
*高千穂神話
これがアマテラス
これを考えると 邪馬台国は九州なのかなぁ、と。
その後継者が神武で 畿内へ、 橿原神宮
そして神武東征の協力を記念して 熊野大社 で良いのかな?
天武天皇から持統天皇へと時代が移って ← つくづくこの夫婦はスゴイなと感心する
天皇中心の律令国家を作り
祭祀制度を確立させよ
これは出雲神の封じ込め? つまり 出雲勢力の復活阻止?
それには大国主を出雲大社に閉じ込めた逆張りで
伊勢神宮で自分達夫婦の国を守らせようと?
大国主って天照の弟の子孫でしょ
近親憎悪? and/or キョウダイは他人の始まりだから?
出雲には復権させたくない?
アマテラスの力で大国主の子孫を封じ込めたい?
大君=天武天皇=は 神にしませば
その神の妻であるワラワはアマテラスの生まれ変わり とでも?
日本の神話は神様達の関係が複雑過ぎて でも 伊弉諾伊邪那美の子孫でくくれるわけで
これを歴史的に解読しようとすると 笑 他人の関係? それも外国から来た人々?
高千穂のアマテラスが弟の子孫の大国主が治めていた出雲を欲しくなって・・・
日本の国は高千穂から始まって 出雲はその後だったのか?
*この部分が方向音痴で時代錯誤のわたしはこんがらがる。
【高千穂】
日本神話にみえる神話上の地名。
記紀神話で瓊瓊杵(ににぎ)尊(ホノニニギノミコト)が天降(あまくだ)ったという峰。 また高く秀でた山,あるいは豊かな稲穂の山の意の普通名詞でもある。
秀麗な山容誇る霊山
https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/shinwa_densho/074.html
by 甲斐亮典氏
霧島山群の中に、ひときわそびえ立つ高千穂峰(1,574メートル)は、周辺のどこから眺めても秀麗な山容を見せ、霊山の印象を与える。
この山の姿があってこそ、天孫降臨の神話が生まれたのではないかと思われる。
昭和9(1934)年、わが国最初の国立公園に指定された。
古事記も日本書紀も、葦原中国(あしはらのなかつくに)が平定された後に、ニニギノミコトが、3種の神器を授けられ、神々を率いて降臨したと書いている。
しかし、降臨の場所についての記述は一定ではない。
古事記では、「筑紫の日向の高千穂のくじふるたけ」とするが、
日本書紀では、本文のほかに4通りの記述がある。
本文が「日向の襲の高千穂の峰」、
1書第1が「日向の高千穂くじふるの峰」、
1書第2が「日向のくじひの高千穂の峰」、
1書第4が「日向の襲の高千穂くじひ二上峰」、
そして1書第6が「日向の襲の高千穂そほりの山峰」である。
神話の物語が語られていくとき、その時代設定は、明らかに稲作が展開する弥生時代を意識している。
高天原でのスサノオの乱暴な行動に、田のあぜを踏み壊したり、田に水を引く溝を埋めたりすることが出てくるのもそうだ。
ニニギの名は、アマツヒコホノニニギノミコトという。
アマツヒコは天津神の子の意味であるが、ホノニニギは稲穂が豊かに実ったことを意味している。
高千穂に降臨する神話は、豊かに実った稲を高く積んだところに、穀霊を象徴する神が降臨することを意味しているという。
また日本書紀の1書第2には、降臨に当たって、天照大神が「高天原にある斎庭(ゆにわ)の穂(稲穂)を与えよ」と言われたことが出てくる。
天照大神は、機屋(はたや)で神衣を織らせ、神田に稲をつくり、大嘗祭(秋に実った新穀を神々にそなえる神事)を行う神とされている。
神話の中のニニギは、高千穂に降臨した後、
不毛のやせた土地から、平地が開け、太陽の輝く土地に出たことになっている。
そして、オオヤマズミの娘コノハナサクヤに出会う。
ニニギとコノハナの出会いの神話を伝えているのは木花神社(宮崎市)と都萬神社(西都市)である。
どちらも付近から高千穂峰を遠望することができる。
神話は自然の景観と一体になって語られている。
以上コピペ
なんだかココ暫く三ケ日原人と出雲の御師さん達と諏訪大社と神武東征の続編が非常に気になります。
そして持統天皇の遠江国行幸(三河行幸の途中、遠江を行幸)
大宝2年(702年)10月10日、持統女帝は三河を中心とした東海地方への46日間にわたる長旅に出発し
11月25日に帰京、それから約1ヵ月後の大宝2年12月22日(703年1月13日)に58歳で崩御。
持統天皇の東限が遠江だったというのが非常に暗示的です。
[31] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年06月23日 08時56分50秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
あを様のレス、いろいろ触発されます。やはり、歴史探究にはモチベーション
をかき立てるものが必要です。今、私は「永井氏」を探求中なのですが、永井氏
(大江氏)のルーツは土師氏、土師氏のルーツは天穂日、即ち出雲に通じるという
ことになります。もちろん、出雲といっても単純ではありません。幾重にも糸が
からまっていて、それを解きほぐさなければ真実は見えてきません。
そういう訳で、酔石亭主様よりご紹介のあった富士林雅樹氏の『出雲王国とヤ
マト政権』をもう一度本腰を入れて読もうと思います。歴史のフローチャートを
書かないと、複雑すぎて頭に残りませんので、今回はそのように整理したいと考
えます。この本の中には、銅鐸についていろいろな情報が書かれていますので、
それもまとめてみたいと思います。
いずれにしても、本日、細江町にある銅鐸博物館(正式には歴史民俗博物館)へ
行ってまいりますーー
[32] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年06月23日 09時53分12秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
そうそう、来月から高齢者の「いきいきサロン」(20名程)にて、毎月30
分程度、歴史の話をすることになりました。名付けて「歴史の玉手箱」。
あを様との7年余りの勉強の成果の花を咲かせて行きますーー
[33] | 酔石亭主さんからのコメント(2021年06月23日 10時01分42秒 ) | パスワード |
三つ柏服部さん、空の青海のあをさん
ご無沙汰しております。
ご無沙汰していた間に立ち上げた新たなブログで、あをさんがレス30にて提起されていた疑問や問題のほぼ全ての検討を終え、一定の結論を得ています。魏志倭人伝の謎、記紀で天孫に関係する神代の謎、出雲神話と富家伝承に関連する謎、出雲大社と富家伝承に関連する謎は何とか解明できたと思います。出雲関連は当初とても歯が立たないと思っていましたが、富家伝承を参照しつつ現実と比較対照する中で、伝承の年代観などを補正したところ、正しい(と思われる)歴史にある程度迫れたのではと勝手に考えています。
出雲関連は長くなるのでここには書きませんが、わかりやすく記事にしたつもりなので、以下を参照してください。終盤できちんとフローチャート化もしていますよ。
https://酔石亭主.fc2.net/blog-entry-40.html
もちろん、理解不足な部分や生煮えのまま書いた部分もありますので、ご批評は歓迎です。以前あおさんに出雲の御師が大和に行って神札を売りまくったなどと書きましたが、それは江戸時代の話で、実際には多くの出雲人が250年頃に大和に移住し、その痕跡は多くあるとの結論に達しました。考えずに書くと間違えてしまういい例ですね。
三つ柏さんにご紹介した本では『出雲と蘇我王国』の方がわかりやすく書かれているので、ぜひこちらも一読ください。なお富家伝承によれば、土師氏の祖である野見宿禰は東出雲王家の人物となります。
[34] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年06月23日 12時56分15秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>「歴史の玉手箱」
いいですね。
老人達に話していたら 老人達もいろいろ思い出しますよ。
思い出したことをメモして読ませてください、とおっしゃったら
「青天を衝け」がいよいよ大政奉還→鳥羽伏見の戦い→駿府への転封になります。
ということは旧幕府系の人々の現在の暮らしに繋がります。
特にお茶栽培なんて筆頭でしょうね。
遠江にいて江戸に行って維新で遠江に戻った人の子孫もいらっしゃるかも。
そういう人達の子孫の方達の声を拾うというのも地元ならではの民俗的研究になります。
「青天を衝け」を見るのも 当事者と他者には 大きな差 溝 があるでしょうし。
1992年にロス暴動が起きました。
サンタモニカのオットの会社からロス方向を見たら真っ黒い煙が上がってました。
この時 わたしは 高祖父の心境にトリップしました。
当時、高祖父は大坂城にいて、鳥羽伏見方向に上がる煙を見た と思いました。
負けようのない戦いに幕府方が負けて(薩摩方5000人 vs 幕府方1万5000人)
高祖父一家が混乱に動揺する心境と重なりました。
駿府や遠江に移った人々はどんな話を子孫に残したんでしょうね?
こういう過去の話を集める最後の機会だと思います。
二条城での大政奉還あたりのシーンには梨の切り口紋の永井氏が何度も映ると思います。
感慨深いものがあると思いますよ。
[35] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年06月23日 13時26分04秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
ありがとうございます。
出雲神話と富家伝承の謎を解 その1 と その2 を読み終えたところです。
え
>富家伝承では素戔嗚尊は徐福の和名にされており、これは<ちょっと>納得できません
わたしの場合は<ぜんぜん>納得できません。
笑
素戔嗚尊 = 徐福 だったら 400年 〜 500年の時代差があるんじゃないの?と。
わたし的には 製鉄は吉備地方から という思い込みがあるので
え?出雲の素戔嗚尊の方が先だったの?
と 修正をせねば。
でも歳なので 先入観を払拭するって TOO LATE って感じです。
では、楽しみに続きを拝読させて頂きますね。
ありがとうございました。
[36] | 酔石亭主さんからのコメント(2021年06月23日 18時28分28秒 ) | パスワード |
空の青海のあをさん、三つ柏服部さん
早速読み始めていただきありがとうございます。
「その11」までは遺跡や墳墓の年代特定が主であまり面白くはないかもしれませんが、これを土台にして富家伝承の内容を重ね合わせ実際はどうだったのか検証していく形となっていますので、しばし我慢して読み進めてくださいね。富家伝承には素戔嗚尊=徐福以外にも多くの間違いがあり、いくつかは記事の中で指摘しています。けれども、これなしに出雲の謎解きは不可能だったのもまた事実です。
富家伝承のハイライトは天穂日命の息子・武夷鳥による大国主と事代主の幽閉・枯死事件です。これはトンデモ説のようにも見えますが、出雲大社や摂社の神事・由緒などを深く分析すると、事件は実際に起きていたと断定して差し支えないように思えます。その論証は次の「出雲大社と富家伝承の謎を解く」シリーズにて詳しく書きました。書き進めるにつれ、出雲大社宮司家にとって隠しておきたい不都合な真実が幾つも出てくるので驚いています。歴史は勝者によって書き換えられる、の一例を見た気分とでも言いましょうか。
[37] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年06月24日 02時10分42秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
「出雲神話と富家伝承の謎を解く」
https://酔石亭主.fc2.net/blog-entry-40.htmlを<自己都合>で
勝手にhttp://www.hikoshima.com/bbs/heike/101756.html に立てました。
これで「お気に入り」が行方不明になっても平熱の目次でスグに見つけられます。
>富家伝承のハイライトは天穂日命の息子・武夷鳥による大国主と事代主の幽閉・枯死事件
楽しみに読み進めますね。
ありがとうございました。
[38] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年06月28日 13時10分51秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
捨て猫ピッピ(シャムのミックス)との9ヶ月にわたる山での餌やりの毎日も、
ほぼ終わりとなりました。それは、ピッピが動物愛護協会のトラップにまんま
とひっかかってしまったらしいからです。もっとも引っかかってしまったのを
見たわけではありませんので、100パーセントという訳ではありません。ト
ラップがしかけられ、係員が待機しているのを見たということであります。た
だそれを機会に、この一週間はずっと会っていません。つまり、どこかへ消え
たということになります。
ピッピは眼がブルーで、私はその目で見つめられると、身がゾクゾクッとし
てしまい、我を忘れてしまいます。というか、すべてを見透されているようで、
何やら恥ずかしい気持ちになってしまいます。そんな不思議な存在のピッピで
ありました・・・さみしい!
[39] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年06月28日 15時50分22秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
楽しみが1つ減ってしまいましたね。
でもご自宅でペットを飼うのは猫は20年は生きますから世話が大変なので
諦めた方が良いのでお薦めしません。家の中をしっかり破壊するし。
今はいろいろ便利な良いペット用品がありますが 世話は大変 のヒトコトです。
我が家は今はペット無しで
ビーチの生き物(鳥や熱帯魚や海亀や河豚や撞木鮫なんか)を見るぐらいにしています。
手もお金もかからなくてラッキー!
さてさて本日の「青天を衝け」で渋澤栄一と喜作の家紋が裃でハッキリ見えましたね。
どうして柏紋なんでしょうね?猪飼勝三郎さんの三つ柏紋に合わせた?
猪飼って名字は伊勢・尾張・近江あたりに多い名字ですから
近江なら宇田源氏系、伊勢なら桓武平氏系か?
それか古代に猪を飼ってた職業姓?
栄一が、借金を返した、というハナシは
一橋家に仕えるまでに京都でブラブラしてて25両借金が溜まってたのを
猪飼さんがお金を貸してくれたから返済出来た、
その時の、猪飼さんから借りたお金を一橋家で働いたから返済出来た、って話?
あの須永伝蔵という栄一の家来は、栄一の父の妹の息子だけど
7歳の時に父親が亡くなってしまって栄一の家で育った人物で
伝蔵の弟の市郎が栄一の妹の「ていさん」と結婚して中の家渋澤になるんだそうです。
「ていさん」の好きな尾高平九郎はパリに行った栄一の「見たて養子」になって
渋澤家に入って
平九郎は幕臣の弟として慶応4年の飯能戦争で死んでしまうものね。
「青天を衝け」は渋澤一族が総出って感じで(たぶん尾高家と渋澤家はもともと親戚でしょうね)
東の家=渋澤家のホンヤさん=平泉 成さん
栄一の父はゑいさんの渋澤家に養子に入って=中の家=小林 薫さん
喜作の家は栄一の父の兄の家(だから栄一の父の実家)=新屋敷
その他にも 西の家 前の家 などがあって
当時、全部で17軒渋澤姓があったんだそうです。
栄一は「違い柏紋」でしたね。
喜作のは「抱き柏紋」。
今回は「後醍醐天皇が何たらで王政復古」なんてハナシが出ましたね。
なんだか脚本家の大森美香か 誰かNHKの関係者が 南朝方の残党なのかな?と思いました。
慶喜が自分が将軍家を継ぐ条件を老中達に約束させてましたね。
大政奉還を、もう、決めてたのかな?
長州を討てという孝明天皇には暗殺の噂があるけど、やっぱり暗殺されたのかな?と思いました。
家茂を演じた磯村勇斗。
『仮面ライダーゴースト』のアランさま 『ひよっこ』の秀ちゃん 『今日から俺は!!』の相良 『きのう何食べた?』のジルベール 『ういらぶ。』『春待つぼくら』
他にもいろいろ見たけど 全部 イメージが違う。
1番若く見えたのが家茂将軍役。20歳で薨去する役を完璧演じてた。上品だったしね。
俳優ってスゴイ。
今夜また「柏紋」使用者をチェックしたら「平氏」の項目に服部氏 出てました。
この「柏紋使用の平氏で服部氏」 まだ 見つかっていません。
たぶん 蔓のついた三つ柏紋で医家の服部さん なんでしょうけど。
わたしの好きな「Kis-My-Ft2」の横尾渉さん。
平氏で横尾氏も柏紋使用でした。
横尾というのは信濃国小県郡横尾村がルーツの名字だそうで
小県と言ったら、まず、真田一族を連想するけど (元は滋野氏で自称清和源氏)
横尾渉さんは 家紋から遡ると 平氏の横尾さんということで
つまり小県の中で真田と喧嘩してたのかも、ですね。
信濃だから 南朝方だったのかな?
それでわたしのお気に入りなのかな?
Kis-My-Ft2を初めて見た時から横尾さんが好きという理由がハッキリしました。謎
[40] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年06月29日 13時29分40秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
「丸に三つ柏紋の服部さん」 を見つけた、 かも。
一昨日の土曜日に ハワイで無料で見ることが出来た KIKU というテレビ局の
最後の放送の「鬼平犯科帳」(下段の剣)を検索したら
中村吉右衛門が「忠臣蔵 風の巻・雲の巻(1991年 フジテレビ)で 服部市郎右衛門役をしてて
誰?この人!
ということで 「服部市郎右衛門」を検索したら
https://www.kusuya.net/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%B8%82%E9%83%8E%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80
絵の吉右衛門さんの紋が丸に三つ柏紋 らしい です。
大目付らしい。
以下コピペ
>赤穂浪士が泉岳寺行こうとしたときに両国橋のたもとで通せんぼした人。
>「アイヤそのほう異形の姿をなし、いづこへまかり越す。この橋をなんと心得る。ご城内表玄関正面に相当たる両国橋なるぞっ!」
>しかし事情を聞くと
>「深川から永代橋をわたって芝高輪に行くコースをおすすめいたす」
>あとから追加された仮名手本の11段目引き上げの場(12段目?とにかく原作にはないキャラなので埒外にすべしという評論家さんもいる。)に出てくる服部逸郎(鳥取一郎ということもある)がモデル。でも、仮名手本ではこの役を桃井若狭助がやることもある。
「忠臣蔵(大映)」では多門伝八郎がこの役をやっている。
以上コピペ
ということで 真偽のほどは分かりませんが いたのかも です。
だけど大目付とか長崎奉行とかで服部さんって フツー 車に並び矢紋 しか知らない。
他に
https://www.arc.ritsumei.ac.jp/lib/vm/akochushingura/2020/11/a6-8.html
A6-08 忠臣義士四十七騎 両国橋引揚之図
絵師:豊国〈3〉
出版:弘化4年(1847)〜嘉永3年(1850)
判型:大判錦絵3枚続
所蔵:赤穂市立歴史博物館
作品番号:AkoRH-R0353-01〜03
本懐を遂げ、両国橋を渡って引き揚げる義士の一行を、旗本の服部市郎右衛門が見とがめて押し止める。由良之助が話した事の次第に感服した服部は、法を犯した者たちとはいえ忠義の心に免じて温情を示す場面。
前景の人物は役者の似顔で描かれており、右から次のとおりとなっている。
(右)大高伝吾=松本幸四郎Y、千崎弥五郎=尾上新七V、寺岡平右ェ門=市川九蔵U
(中)大星力弥=岩井粂三郎V、原郷右ェ門=市川男女蔵U、大星由良之助=澤村長十郎X
(左)若徒[右]=市川広五郎、服部市郎右衛門=坂東三津五郎W、若徒[左]=澤村宇十郎U、奴=中村翫右衛門
他にも
https://ja.ukiyo-e.org/image/metro/N054-042
絵師:歌川国貞
作品名:「服部市郎右衛門」
日付:1847
詳細:詳細情報...
情報源:東京都立図書館
浮世絵(全 13,513 件)を表示...
画題等:役者絵、忠臣蔵
この画像はダウンロードできるそうですが家紋はハッキリとは見られません。
いやぁ〜
不思議!
Kis-My-Ft2の横尾さんのご先祖さまが導いてくれたとしか思えない。
あ、そうだ!
渋澤栄一が藍コンテストをやって
その番付の左欄の真ん中あたりに 正田 という名前が2人出てたのを御記憶ですか?
埼玉の深谷って 群馬にも近いし
ということは血洗島の正田さんって
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%AD%A3%E7%94%B0
群馬県太田市=旧上野国新田郡徳川郷の有名氏族の正田さんが南朝方で敗れて
血洗島に逃げた子孫かも。
【正田姓の名字の由来解説】
@現群馬県太田市である上野国新田郡徳川郷の有名氏族。
A中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。
B忍藩。
C現岡山県南東部である備前。
D現兵庫県南西部である播磨。
E現大阪府北部と兵庫県の一部である摂津。
F現滋賀県の一部である上田上にみられる。
正田さんの多い地域 TOP5
都道府県 人数
埼玉県 およそ1,700人
群馬県 およそ1,400人
東京都 およそ1,400人
大阪府 およそ940人
広島県 およそ770人
市区町村 人数
埼玉県深谷市 およそ810人
群馬県太田市 およそ700人
群馬県伊勢崎市 およそ210人
栃木県足利市 およそ190人
東京都足立区 およそ150人
正田さんの比率が多い地域 TOP5
都道府県 比率
群馬県 0.07255%
広島県 0.02769%
埼玉県 0.02326%
栃木県 0.02295%
山口県 0.02001%
市区町村 比率
北海道枝幸郡中頓別町 0.773%
埼玉県深谷市 0.575%
沖縄県島尻郡南大東村 0.55%
京都府船井郡京丹波町 0.48%
鹿児島県大島郡徳之島町 0.393%
渋澤栄一の先祖は甲斐から逃げて来たんでしたっけ?忘れた。関係無いと思ってちゃんと聞いてなかった。
やっぱり平熱ってオカルトかかってるわぁ〜
驚
[41] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年06月29日 15時15分12秒 ) | パスワード |
ということで「寛政重修諸家譜」のコピーを読み直したら
(今日は大掃除をしたので 疲れてて集中できず 呉服明神の神主だった貞信の家のみ読んだ)
この家は出世してて 綱吉に仕えてたし お屋敷は世田谷の赤堤だったし 奉行職をやってるし
そうそう部屋住みだったのが永井氏に仕えてるのもいましたっけ。
驚いたのは 上総国夷隅でもちょっとの間だけお仕事してたのがいた
家紋はいわゆる伊賀の服部系の家紋で 卍紋 も使用しているけど 丸に三つ柏紋は書かれてなかった。
気力が戻ったら読み直してみます。
23日に散歩に行った帰りに前を歩いてたヨボヨボの老人が顏から倒れたので
93歳らしい 自分の名前も言えない 住所も言えない老人
45分ほど 救急車と介護人が来るまで 一緒にいてあげて 血を拭いてあげたりして
帰宅してから 靴からTシャツから両手まで 爺さんの血がついててビックリしたものの放置
その後だんだん怖くなって
土曜の朝、散歩に出る前の6時に 主治医にメールで
「肝炎とかの血液検査を受ける方が良い?Imagination is growing.」
だんだん不安が大きくなって来た、と問い合わせて
本日、月曜、上記レスをアップしてから主治医(?の秘書?)から返信が来た
「記録ではA型肝炎のワクチン受けてないね。早いとこ打った方がいいね」
スグに 主治医のクリニックに電話したら電話の受付係が
明日あたり? 数日後? 主治医の秘書が連絡くれるらしい?
いつになるか分からないから「明朝 そちらに行くわ」と言ったら 断られた!怒
こういう世界です
A型肝炎は心配してないけど 可能性アリの世界なの?
B型肝炎は性交系だろうし 予防注射の針の使い回しで年寄りの日本人結構B型肝炎持ちよね
ハワイだったら結核とC型肝炎を心配すべきだろぉ〜がぁ〜 怒 ( ← ハワイの風土病 笑)
ということで セッカチのわたしはノンビリ屋さんの世界で ちょっとイラついてる。
この主治医 今年の健診でLIPID コレステロール は調べてくれなかった。
去年の総コレステロール値が156だったから 今年は必要無い ということで。
激怒プンプン
ということで明日から数日間、いつかかって来るか分からない電話を待つ日々です。笑
[42] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年06月30日 09時12分30秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
いろいろな情報ありがとうございます。
こちらは、毎日いろいろな悩み事(課題)に悩まされていて、集中できておりま
せん。
一番大切なのは、心の平安(禅の世界か)ですね!
その内、集中力が戻ると思います!
[43] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年07月05日 11時16分38秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
大雨は止みましたか?
2日間で 例年7月の1か月に降る量 (降る予想?実際に降った?)
とニュースで聞きました。
コロナで、大雨で、雑用で、その上にわがまま爺さん達の子守りなんて、
冗談 ポイ よ! (← 旧水戸出身の知り合いの口癖)
ですね。
さて「青天を衝け」に 民部公子徳川(清水)昭武のお供でパリへついて行く水戸藩士の1人に 服部潤次郎 が出てましたね。
服部潤次郎は パリ博は見たいけど、その後の留学なんて嫌だ ということで
翌年、年明け早々、仮病を使って帰国してしまった水戸藩士の1人だそうです。
でも、どの役者か分かりませんでした。家紋も見られませんでした。
栄一にしてみればお金のかかる留学に水戸藩士が4人もいなくなって(助かった!)だったでしょうね。
家紋で服部氏らしい人物は小石川の牢屋に案内した人の家紋が10本矢車みたいでしたね。
(旧姓服部の)石原慎太郎裕次郎兄弟の家紋は7本矢車ですが。
福地源一郎桜痴の家紋は見えなかった。
演じた俳優は犬飼貴丈で わたしの大好きな 仮面ライダー ビルドです!
ビルド役の時は清潔な色白の若者でしたが年齢と共にオッサン化してて
吉沢亮より4か月も歳下で学年は1個下なのに絶対オッサンに見える。
まだ27になったばかりなのに。
10歳は老けて見える。泣 つまり美形ってコトでしょうね。
福地源一郎桜痴は幕臣ですから
以下 わたくしの勘違い:
福地さんなら桓武平氏の伊賀国の柘植弥兵衛平宗清の子孫でしょ
福地から松尾に名字を変えたのもいましたよね 笑
と、思いましたが
違ってました。恥
実際は長門国の福地氏が幕臣になったのだそうです。
ウイキによると
長府藩士福知(「知」?)苟庵は福知家の末子に生まれ、長崎の医師福地嘉昌の継嗣となる。
その子が福地源一郎桜痴。18歳で長崎を出て幕臣となった。
なぁ〜んだ、ガッカリ
[44] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年07月05日 12時23分09秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は蒸し暑くて大変です。山猫の餌やりの日課がなくなって、その分時間
が浮くようになりましたが、暇ができると余分なことをし出すので、これまた
集中ができません。
今は、JIJI会のBABAさん20名ほどの「いきいきサロン」での「歴史の玉手
箱」の史料をまとめているところです(毎月30分程の歴史話をする)。過去7
年間ほどの間にたまった資料を見直しております。今までは毎日駆け足で走っ
てきましたので、今回それらの資料をじっくり見直すのは、また新たなる発見
に結びつくのではないかと期待しております。
第1回目(今月)は、家康と浜松について話をするべくまとめております。
永井氏については、この地の永井氏達とじっくり腰を据えて調査していくつ
もりです。もちろん、加藤氏、松島氏、鈴木氏、それに長谷川氏とも情報を深
めていく予定でありますーー
[45] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年07月05日 16時05分45秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ピッピがいなくなって その分 時間が出来て
でも逆に時間が出来るとダレてしまうってありますよね
特に蒸し暑いと。
乗り切ってください。
我が家の「ピッピ」は スタックは同じですがフロアは多分1つか2つ下で飼われている小鳥です。
すっごく可愛い鳴き声で 朝3時あたりに 鳴きます。日本では聞いたコトの無い鳴き声です。
鳴き声が聞こえるのは短い時間ですから「起きろ〜 メシ〜」と叫んでいるのかも。笑
ピッピの鳴き声が聞こえるのは早朝だけです。ご飯を食べたら満足して鳴かないのかも。
そうそう永井信濃守尚政=直勝の嫡男=に仕えたのは
伊賀の呉服明神の神官だった服部貞信の孫の清右衛門貞良です。
次男だったので家督を継げなかったから永井家に仕えたのでしょう。
永井尚政:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E5%B0%9A%E6%94%BF
新宿区信濃町の名前の由来は尚政が信濃守になった時に下屋敷があったことから。
大久保忠隣と本多正信の不仲から?大久保長安事件があって!
青山家と服部家も巻き添えを喰った:
服部平蔵正信の次男が老中・青山成重で大久保長安の子の成国を養子にしていた
4代目服部半蔵正重は大久保長安の娘婿
そして元和8年(1622年)宇都宮城釣天井事件で本多正純が改易された後、永井尚政は老中に選ばれた
ということなので
ここらへんで 服部家の者が永井家=長田家のもともと=の家紋の三つ柏紋を使うことになったのかもですね。
永井家の家紋:一文字三星
「青天を衝け」の幕臣・永井尚志(ながい なおゆき)は三河国奥殿藩5代藩主・松平乗尹の晩年の子で
25歳で永井能登守尚徳の養子になった。子孫は三島由紀夫。家紋が丸に梨の切り口
もう1度本日の「青天を衝け」を見直して (気になったら眠れないからね)
福地源一郎桜痴の家紋をじっくり調べたら
なんと! 「花菱紋」で 源氏系福知さん使用 で載ってました。「福知」です。
ということは家紋については父の生家の福知家の家紋に替えたのでしょうね。
名字も家紋もフクザツ過ぎ!
三つ柏さんも何故「丸に三つ柏紋」使用か、早く分かると良いですね。
今日は独立記念日なので外は爆竹やら花火の音で結構うるさく
その上
お気に入りの仮面ライダー達がオッサン化してて今夜は眠れそうにない。
仮面ライダー エグゼイドの飯島寛騎も去年のドラマで23歳にしてオッサン顏になってたし。
美男美女って若くても老けて見える。
美女に生まれなくて! ラッキー 号泣
[46] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年07月07日 06時33分50秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
いろいろご推察、ありがとうございます。永井家について、少し調査をした
ところ、いわゆる「じるい」(地類より氏類の方が意味的にふさわしい。一門。
一統)は三つか四つあるようであります。江戸時代の265年プラス永井直勝
の家康に仕えた1580年までの23年間を加えると、288年間。その間に
永井一門にどのような変遷があったのか、直勝には白元という弟もおりました
し、一門・一統と言っても、別家的な枝分かれについては正確にはわかりませ
ん。多分、本家筋と分家筋はやがて「じるい」としてのまとまりを分離独立さ
せたかも知れません。相撲でいう「何々部屋」「何々部屋一門」と同じような
ものだったかも知れません。
それも今は時代の趨勢で、身内同士としての付き合い関係も消え薄れそうに
なって来ております。
もう20年早く調査をしていれば、もっとわかったはずなのにと残念な気持
もなきにしもあらずです。でもまだ始めたばかり、勇気と根気をもって取り組
んで行きたいと思っていますーー
[47] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年07月12日 10時53分51秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
いろいろ試行錯誤・・・いえいえ・・・思考錯誤の方をやっています。
本日の「青天を衝け」の薩摩藩家老の岩下佐治右衛門。
家紋が「亀甲に並び矢」でしたね。
ウヲ〜〜〜!
薩摩で岩下って言ったら モロ! 平家の残党ですね。
「岩下さん」が20年ほど前に平熱に来てくださいました
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100375.html
それで記憶していました。
スレッド名:「小宝島の岩下家」
>私の亡き祖父は「岩下」という姓で、小宝島出身。祖先はやはり平家の落人だそうです。
わたくしからのレス:
岩下さん
初めまして!
ロマンがありますね!
トカラ列島の南の果ての小宝島!
でももっと南に徳之島とか沖永良部島とか結構大きな島があり
トカラ列島=平家が日宋貿易をするのに、この島々伝いに大陸に行きました。
そして!
沖永良部島=西郷さんが久光の怒りを買って1862年8月から1864年2月までの1年6ヵ月あまり流されていた島ですね。
takahiroさんからのコメントには
>私の有している資料の中に、岩下様の御先祖が平家の落人を称されている伝承に関連のあるものを見つけましたので、以下、記します。
『硫黄島大権現旧記録』より
>屋島壇ノ浦で破れた平家の総大将平知盛は周防八島に於て戦闘員と非戦闘員に分けた。
>戦闘意識の強い若手連中は源氏と一挙に雌雄を決せんと知盛自ら是を師いて長門の壇ノ浦に向った。
>一方幼帝及公達を護った平家直系の小松資盛は郎従千三百余名を七十余艘の小舟に分乗させ蜑の釣舟に艤装させ伊予高島より日向灘を南下した。
>途中風浪にさいなまれ乍ら漸く寿永四年五月一日早朝硫黄島の御手洗浦に着いた。
>その後を略記すると、
>出航時千三百余名であった一行は、硫黄島到着時には三百余名となっていた。
>しかし食料事情等から硫黄島一島で全員を受入れる事は不可能で、他の諸島また鹿児島内地へ潜行した。
>そして、内地に潜行した落人で、現鹿児島県垂水市に潜行した落人たちは、当地に以下のような「平家落人伝承」を伝えている。
以下は『垂水市史』よりの抜粋。
>垂水市新城浦内川は、平家落人部落で、ここには平家落人に信仰されてきた「岩下観音像」が伝わっている。
>「岩下観音像」:岩下家の菩提寺で、安産の仏として広く村びとの信仰されてきた。
>平家の落人たちの創造とも伝えられる木造で、今、岩下家で保存されている。
>小宝島を含む、硫黄島周辺の諸島から、鹿児島内地に移った平家落人の一部が、上記浦川内へ潜行し、その際、「岩下姓」を持ち込んだのであると、思われます。
>浦川内の「岩下観音像」を蔵する平家落人岩下家と、小宝島の平家落人伝承を有する岩下姓の方々は、祖でつながっているという推測は、無理なものではないと思えます。
わたくしからのレス
http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100303_6.html
「南海諸島にある平家落人伝説」
にて川口さまがトカラ諸島には全島に平家の落人伝説があるとお書きです。
布袋竹さんからのコメント
>小宝島を眺めて「2度寄港したのですが、下船は宝島に」
>小さな島ながら、温泉も2ヶ所あるとか・
>数十軒の家があり、ほとんど岩下姓・
kaorinさんのコメント
>私は鹿児島生まれですが父方の祖母が宝島生まれです。旧姓は岩下です
>今も小宝島にはいとこと、叔母(祖母の姉97くらい)と親戚がおります。
>自分でも2回ほど行ったことがあります。
>みんな岩下ですね。
>確かに平家の隠れ子孫という話はよくきいてました。
>その下にある宝島にも、平田姓が多く、やはり同じような話は聞いています。
平田姓!
平田なんて平家の家長の兄上の俗姓じゃないですか。平田家継。
布袋竹さんのコメント
日本の最後の秘境と呼ぶに相応しいトカラ列島・
昔のジュットウソン・十島村「今の三島村・十島・としまむら村」の島々は全部の島に平家落人伝説が残っていますからね。
俊寛の流された喜界島「硫黄島」のある三島村村史には
「平田姓は重盛の子惟盛・その子資宗・その子宗衝が平田の祖として名乗ったもの。(宝島で一番平田姓が多い)
代々宝島の郡司となり、島津の琉球使節の海路案内役なども勤めた。 ココ!驚
資宗の次男宗行は、七島落ちの折りに立ち寄った坊津に移り住んだ。
宝島の平田氏直系も殿地と呼ばれていた。」の記載があります。
殿地とは、偉い人の住居場所だけが「とんち」と呼ばれて、その格式を表したものではないかと。
ちなみに、口之島は<肥後家が殿地で>−行盛の子・政盛の子孫
平島の日高家と中之島日高家も殿地−有盛の子孫と言われる場所も殿地と呼ばれて、
直系子孫はそれぞれ島の役職を担っていたそうです。
以上コピペでした。
つまり 薩摩の家老の岩下佐治衛門は平家の子孫かもね。
前回から ナニ? この人! なんで亀甲に並び矢紋? と思ってました。
丸に並び矢紋じゃないのは どうして? と。
ま、車に並び矢紋だと 伊賀系徳川家臣 になってしまうから 亀甲にしたのかな?
服部潤次郎さんは今回も特定できませんでした。
仮病を使って日本に帰る回で特定できるのかな?
潤次郎さん、先祖の出身地は伊勢伊賀尾張三河遠江駿府あたりの服部さんの子孫でしょうか?
岩下氏なんていう平家の亡霊が出て来て面白かったです。
そして琉球も絡んで。
つくづく思います
有事に実力の発揮できる人は地頭力の優れた人だな、と。
450万両でしたっけ?借款。
薩摩とイギリスとモンブランとシーボルトの長男に潰された?
息子のシーボルトはこの時の功績で
明治政府に通訳として40年間雇用されることになったのか?
あの時代の幕臣には国際政治の裏なんて読めなかったでしょうね。
なんで琉球が?なんで薩摩が?なんで五代が?と疑問符で一杯だったでしょうね。
五代友厚 vs 渋澤栄一
面白くなりましたね。
わたしは おディーンさまと高橋一生の顔の違いがイマイチ出来ないけど
犬飼貴丈が「モンブランには気を付けろ!」と囁いたシーンが回想に使われてて嬉しかった。
吉沢亮が次回から断髪で やっと イケメンで出て来るから 嬉しい!
[48] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年07月13日 02時44分15秒 ) | パスワード |
わたしのお仲間の友人のお話の無断コピペ:
「青天を衝け」
パリの街並みとか、あれ全部CGですよね。ほとんど違和感なし。
なんか観ていて「獅子の時代」でも見たような光景が(^^;
薩摩に翻弄される幕府使節団。
しかし メンバーを見ると
仮面ライダーはいるわ、
戦隊ヒーローはいるわ、
ウルトラマンの防衛チーム隊員はいるわ、
ディケイド版アギトはいるわ、
眼魔はいるわ・・・
玉石混交とはまさにこのこと???(ぉぃぉぃぉぃ)
以上
わたしにとって今回の「青天を衝け」は 平家と南朝方の敗者復活戦だな です。
上記に書いた「岩下氏」も
南北朝の戦いの時には懐良親王に従ったのだろうし。
平家嫡流重盛=小松家=の家が島津の家老の小松だし
小松帯刀ですね(天璋院篤姫はこの人と結婚したかったんだろうし)
島津方には
菊池の流れの西郷さんも出て来るし
湊川神社の宮司さんも平資盛の子孫の折田だし
福岡の服部知事って?小倉出身?
先祖は何者かな?
戦国時代に竜造寺に滅ぼされて消えた西郷氏の侍大将だった服部氏で当然南朝方だと想像する
「青天を衝け」で面白いのは
薩摩と長州の仲の悪さの天敵関係。
ま、坂本龍馬がスゴイ人物だったというのは分かる。
そして「青天を衝け」では徹底的に長州の存在を無視してハナシをスッキリ纏めているところ。
長州が絡むとハナシがゴチャゴチャになって収拾がつかなくなるからね。
長州も平家にとっては非常に大事な生命線だったんだけどね。
わたしの視点はコッチだな。
わたしは母方も長州には御縁が何重にもシッカリあって
先祖は小早川隆景に繋がり
大坂の役時代には「長門守」を名乗ってたし。
というわけで 日本の歴史って ゲームだな と見ている。
「碁」とか「将棋」とか「オセロ」とか
最後にどうなるのか?
途中不利でも最終的に引っ繰り返るし
最後に勝てば良いわけで。
志尊淳が演じる杉浦愛藏。渋澤栄一と終生の友だったとか。
元は三河の杉浦さん? 三河じゃ杉浦とか神谷とか目立たないけど名家がある。
三河の杉浦さんだったら最近マスコミに叩かれてたスギ薬局関係者の先祖?
杉浦さんは元は桓武平氏系の三浦氏で、俗姓杉本さんが近江で杉浦に改名、とか。
だから家紋が 「丸に三」 なんだね。
なんでかな?と不思議だった。
家紋で笑ったのは
島津家家老の岩下佐治衛門の家紋が 染めに間に合わなかったのか
「シール」で代用してるところ。
楽天の通販で買ったのかな?
特注だと 3850円で送料が250円だって。笑
あの家紋、浮いてるものね
他の皆さんの紋付は過去の大河ドラマの使い回しで間に合わせてるから「染め」って分かるけど
岩下さんのと高松凌雲の家紋は珍しいから「シール」感が モロ 出てる。
こんな部分を見て1人でキャハキャハ笑い転げています。
「お帰りモネ」に出てるキンプリの長瀬廉が
(朝ドラのスタジオと大河のスタジオが隣同士だから)
先日、志尊淳にばったり会って
淳とは友達だから
「袴がすっごくカッコ良かった。淳とは時間が出来たら、遊びたい」
と言ってたけど
その内に長瀬廉も大河ドラマでヅラつけて出て来るんだろうな。
面長の人はヅラが似合うけど
吉沢亮は面長じゃないから「青天を衝け」の初めの頃の
一橋慶喜の馬に走り寄るシーンの辺りは
オデコの上に百姓風の鬘が全然似合ってなくて
イケメンが台無しだった
今は総髪だから結構見られる。
来週からのイケメン吉沢亮にココロときめかせています。
あはは
こんなにゲタゲタ笑いながら大河を見たのは三谷幸喜作品以来だな。
[49] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年07月15日 14時01分15秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
いつも素晴らしい情報ありがとうございます。それに応えるだけのベクトル
を今持っておりませんので申し訳なく思います。
昨日、ワクチンの1回目の接種を終えました。ファイザー社製であります。
先日(7/10 11:00)、NHK(ETV)で「世界を変える大発見はこうして生まれた」
というワクチン開発の立役者カリコ博士(ハンガリー出身の女性)とiPS細胞の
開発者山中教授とのリモート対談があり、このmRNAワクチンの詳細について知
ることができました。それにより、今までの不安が払拭されました。
政府はもっと早くこういう情報を流すべきなのに、政府の対応の遅さやちぐ
はぐさには怒りが鬱積していくばかりです(今、また窓口を広げすぎてワクチ
ンの供給不足を招いている)。いずれにしても、危機管理という概念不足の日
本であります。一度リノベーションした方がいいように思われますーー
[50] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年07月16日 02時59分58秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>昨日、ワクチンの1回目の接種を終えました。
えェえェえ〜?
驚
今頃?
三つ柏さんのように地域の為に尽している人達は「エッセンシャルワーカー枠」でとっくに接種終了と思ってました。
エッセンシャルワーカーは接種を完了してから地域住民の為に動くもの、です。
その後に90歳まで、80歳まで、70歳までと区切って若い層へ接種していくものです。
日本の接種順位ってメチャメチャとは思ってました:
救急隊員が今頃やってるとか知って ウッソォ〜! と
あれは 救急隊員は若いから接種は後で ということなの?と
わたしは怒り狂ってました
救急隊員は自らの命を危険に曝しながら 救助せよ、と?
日本って戦後76年経っても危機管理が出来ない国だと分かります。
平時というか安全安心平和な社会を維持するのは得意なんでしょうけど。
情けないですよね
コロナ禍が政治屋達のスタンドプレイの場になっている。
勝手な事をほざいてる。
経産大臣でしたっけ?
溺れる犬に石を投げるどころか
瀕死の人の息の根を止めるような経済政策!
もうあきれ果てました。
こんなレベルの大臣達が日本の経済政策を握って来たのかと思うと
そりゃバブルから30年経っても日本経済は回復しないわな、と。
とはいえ 選挙民のレベルが問題・・・ なんでしょうね。
経済を救うのは学歴じゃない 人気じゃない 家柄じゃない 名誉職じゃない
まさに「青天を衝け」はそのドラマです。
同じくフランスに行っても 何も得ずに帰国した幕臣の数の方が多かったんでしょうね。
その1人が服部潤次郎か・・・
フランスに行っても日本に何が必要なのか何を改革しなきゃいけないのか考えなかったんでしょうね。
それは 自分の脳で考える必要の無い身分があったから か?
渋澤栄一が代官所で簡単に「百姓は金を用立てろ!」と恫喝されて
こんなんオカシイ 変だ! と気付いた時から
じゃ どうしたら良いのか?
その答えがフランスにあったわけです。
先日「エアガール」という広瀬すずのドラマを見ました。
JALの松木静男 vs 白洲次郎が描かれていて
白洲次郎は吉田茂の右腕ですからアメリカ=番犬の力で日本を動かそうとする
だけどGHQのエライ人が退任して帰国する時に「松木は日本で唯一の真の男だ」というようなことを白洲に言います。
それで白洲はアメリカの航空会社の子会社を作る計画を諦め松木のJALは救われます。
アメリカってホントにトップに立つ人ってスゴイです
除:認知症との噂の高い現大統領
日本はトップもその次も 名誉職 なんだろうね
実働部隊に丸投げ で この実働部隊が右往左往させられている
さらに
その皺寄せが微弱な人々に行ってる。とっくに息の根、止められてるのにね。
今回のコロナオリンピック
ぼったくり男爵 "Baron von Ripper Off" が日本人のことをチャイニーズピーポー と言ったんだって?
通訳は原稿を見ながら訳しているから
気付いたのか?気付かずなのか?機転を利かして?
チャイニーズピーポー は言わなかった。
これを喜んだのは習近平だね
インド人だったらデモに発展するよねぇ
日本のJOCの人々はぼったくり男爵にイヤミの1つでも返したんでしょうかね?
ま、そんな度胸があるとは思えないな。
ぼったくりオヤジが広島長崎に行くとかってハナシ
当の広島長崎の人々はどう行動するのかな?
最近、骨のあるオトコということで熱海災害対応の副知事の活躍を聞きました。
口先だけの首相の慰めなんて要らない。
今回の「国難」
どうやって乗り切ることが出来るんでしょうね。
[51] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年07月17日 23時12分47秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
こんな日本にしたのは……戦後76年間の平和と経済成長という幻想、つまり
日本人は幻想の中に安住して来たということ。戦争といっても経済戦争しか頭に
浮かばない日本人。平和はアメリカ頼み。国民の多くは、政治に無関心。
目覚めろ日本人。日本を変えられるのは、自分たちしかないのだ。それすらで
きないなら、さらに奈落に落ちて行くしかない……。
このところ、「いきいきサロン」での歴史セミナーの資料作りをずっとしてお
ります。それは、あを様と続けてきた歴史探偵的なヒラメキ探究のやり方と違い、
テーマごとに体系的に確実にまとめるという作業であります。
やってみると、細かな詰めと全体との見比べいうものが必要であるということ
を感じています。
1年分のセミナーの資料を作るつもりであります。そのテーマの中で、あを様
に披露できるものを見い出すよう心がけます。今現在は、徳川家康中心で取り組
んでおりますーー
[53] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年07月19日 12時50分05秒 ) | パスワード |
書き直し:
三つ柏さん
「いきいきサロン」のお話の準備は 膨大な時間がかかると思います。
大変な作業になりますが 年上のお姉さま方から可愛がって頂けますよ ふふふ
頑張ってください。
どっちか言うと 若いお嬢さん方相手の方が 愉しいでしょうけど。あはは
三つ柏さん
いました!たぶん
服部潤次郎さん!たぶん
丸に三つ柏紋でしたね!たぶん
「青天を衝け」第23話
見終わって書き込みに来ました。
パリの渋澤達の前に家庭教師役のビレット陸軍中佐が現れて
チョン髷を落とせ
と言うシーンの前あたりにご注目
なさいました?
まさかね。見落としたでしょ?ふふふ
こちらでは放送の前に天気予報と浅田真央ちゃんの日本酒「澪」のCMがあったりするので
日本ではどのあたりの時間のシーンになるか分かりませんが 27分から28分ほどの所かな?
ビレットが登場して軍人っぽい自己紹介の挨拶をして
そこでは幕臣達が 机の所や ソファや 床に 座ってて
服部潤次郎さんは 1番 皆さんの右端にいて
(こちらから見ると1番左端に 床に膝つけているのかな?)
その前のコーヒーテーブルには急須?ティポット?コーヒーポット?が置かれています。
再放送で このシーンを確認なさってください。
たぶん あの人が服部潤次郎さんで 家紋は丸に三つ柏紋 と思います。
違ってたら ごめんなさい です。
この「青天を衝け」では西郷さんがワルなんですね。
フツーは 一蔵だろ〜に。 大久保利通のことね。
この「青天を衝け」では 大久保は 結構 無能そうな感じで描かれてますね。
演じる俳優が優男の石丸幹二だから?悪役顏じゃないですものね。
悪役・西郷像に
へぇ〜
っと驚いています。
二条城に集まった皆さんの中に 亀甲に並び矢紋の人がいたり 誰? 薩摩の家老の岩下佐次右衛門?
原市之進さんの暗殺者の1人が 丸に10本矢車紋だったり 誰? 本圀寺からの使いとか
この原さんは徳川慶喜の側近で藤田東湖の従弟なんですって
慶応3年8月14日(1867年9月11日)、同僚の鈴木豊次郎・依田雄太郎ら刺客により
結髪中に背後から襲われ首をもがれて暗殺された。享年38
だそうです。 (演じた俳優は尾上 寛之ですが36歳。すっごく老けて見えますね)
だから慶喜の嘆きの深さが分かりますね
水戸っぽってホントめんど臭い!
ムカシの上司が水戸っぽだった。なるほどね〜 そーゆーことか
10本矢車の紋を見たのは
尾高長七郎が人を殺して小石川の牢屋に入れられてて
栄一と喜作が会いに行った時の役人が付けてた家紋ですが
今日見たのは 暗殺シーンに映ったのは 丸に10本矢車紋 でした。
鈴木か依田のどちらかの家紋 なのかな?それか原市之進の部下か?
あ、尾高家と渋澤家は渋澤出身のおばさんを介した親戚なんだそうです。
尾高長七郎(演:満島真之介)と渋澤栄一は2歳違いの従兄弟になるんだそうです。
喜作と栄一も2歳違いらしいですよ。栄一が若い方。
やっぱり みんな親戚回りですね。
須永伝蔵も従兄弟だし。
おていさんは結局は伝蔵の弟と結婚するんだし。
栄一が藍の生産量を増やすために村人達に競争させるために「藍玉生産者番付」を発表しましたが
行事が 渋澤宗XXXX 渋澤榮一郎 渋澤喜作 って書かれていて
左の欄に 前頭として正田姓の人物の名前が2つ載ってて
このことは過去のレスに書きましたが
本日の出演者のキャスト・シーンから
渋澤家の本家の(血洗島名主の)渋沢宗助(演:平泉成)が行事筆頭者だったのかなと思いました。
ということで本日の「青天を衝け」の視聴報告でした。
ヤッバァ〜
今、もう少しで、自己瞬殺するところだった
渋沢 宗助
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E5%AE%97%E5%8A%A9
江戸時代後期の武蔵国榛沢郡血洗島村の名主、養蚕家。誠室と号した。
渋沢栄一の伯父であり、フランス文学者の澁澤龍彦の高祖父にあたる。
渋沢氏は血洗島村の名主の家柄で、村内の4分の1を占める大姓だった。17家あるんでしたっけ?
織田完之によれば甲斐源氏の末裔で、
室町時代には関東管領上杉氏に仕え、
天正年間より同地に住んだ一族という。
宗助の家は「東の家 ひがしんち」と呼ばれる分家筋にあたり、 アラアラ分家だったの?
渋沢宗助政徳の長男として生まれた。
なお、本家筋の「中の家 なかんち」に男子がなかったため、
次弟の元助が入婿して渋澤市郎右衛門美雅と称しており、
その子が渋沢栄一である。
また長弟の文左衛門の子が渋沢喜作成一郎。
姉妹の子に
尾高惇忠・長七郎・(渋沢)平九郎兄弟、
須永伝蔵(於菟之輔)・渋沢市郎(2代目)兄弟などがいる。
中の家は当時家運衰退しており、経済的には東の家が渋沢一族で最も裕福だった。
後年、中の家は弟・市郎右衛門の尽力により復興したが、
それでも東の家が随一だったという。 へぇ〜
書を中村仏庵に学び、柳公権・顔真卿を能くしたという。
上野国・信濃国などの養蚕地から技術を学んで養蚕技術の改良を考案し、安政2年(1855年)「養蚕手引抄」を出版した。
また寺子屋や剣術道場の練武館を作って子弟の教育にも尽力した。
尾高家でも10歳年上の惇忠が「尾高塾」をやってましたね。
維新後は市郎右衛門・栄一親子と協力して横浜に商店を開き、
また古河市兵衛に接近して蚕卵紙の輸出に携わった。
甥の渋沢栄一は当初栄治郎と称していたが、宗助によって栄一と名を改めている。
後に栄一が士分に列すると名乗りを武士風(篤太夫、篤太郎)に改めているが
栄一の名は実名(源栄一、みなもと の ひでかず)として引き続き使用し、
維新後も本名とした。
源姓なんだね。甲斐源氏出身説はホントだったのかもね。
栄一は談話として、宗助から書を習ったことを回想している。
栄一は美しい字を書きますよね
妻は熱心な信仰家だったらしく、加持祈祷に傾倒していた時期があった。
姪が病気になった際、遠加美講という修験者を呼び寄せて加持祈祷をさせようとしたが
姪の弟の渋沢栄一が修験者を論破してしまったため、以後は加持祈祷に執心しなくなったという。
これは「青天を衝け」でも描かれてましたね
兄弟
(宗助本人)、文左衛門、市郎右衛門、男子、
新島氏妻、やゑ(尾高勝五郎の妻)、こま(福田彦四郎の妻)、高橋氏妻、須永惣次郎妻
渋澤喜作の妻の「よしさん」は福田立志の二女だそうで
つまり 喜作とよしさんも親戚まわり?従兄妹関係? かも ですね。
なかなか面白い情報だったのでコピペしました。全文はURLへ。
[54] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年07月19日 13時18分37秒 ) | パスワード |
https://www.city.matsudo.chiba.jp/tojo/tojo_event/tenji-event_h31/tenji_h31/2019kikaku.html
服部潤次郎さんのお写真 発見!
なかなかイケメンじゃァありませんか。
俳優の青木崇高に似てる、と思いました。
無断引用:ごめんなさい
維新後、それぞれの生き方:
帰国後、幕臣たちは静岡藩主となった徳川宗家に、水戸藩士たちは水戸藩に引き続き仕えました。
しかし、廃藩置県後の生き方はさまざまです。
旧幕臣として再び仕官せず市井に生きた向山、
民間で能力を発揮した渋沢・高松がいる一方、
山高・田邉たちのように明治政府の官僚となった人物も少なくありません。
水戸藩士だった服部・菊池達は、華族となった水戸徳川家の職員として仕えました。
高松凌雲は、主治医として昭武と家族を見守り、山内勝明(文次郎)は、昭武とフランスの交流をその語学力で支えました。
渋沢栄一は、慶喜も交えての交流がありました。また、渋沢は、渡仏時、昭武の代理としてヴィレット将軍に面会、30年ぶりの再会を果たしています。
昭武は病気で入院した際、自身の病気が山高信離の命を奪った病気と同じではないかと不安がっていました。昭武の主治医・高松凌雲は、医師になっていた山高の息子に病状を説明させ、昭武を勇気づけています。1867年に始まった交流は、世代を超えて続いたのです。
高松凌雲の兄上の話:たぶん ビックリ ですよ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E4%BD%90%E4%B9%85%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
古屋佐久左衛門(ふるや さくざえもん)
江戸時代末期(幕末)の幕臣、兵学者。
旧名は高松勝次、諱は智珍。
実弟に高松凌雲がいる。
天保4年(1833年)、筑後国御原郡古飯村(現・福岡県小郡市)の庄屋の次男として生まれる。
百姓を嫌い嘉永4年(1851年)19歳の時に医学を志して長崎大阪に向かうが、自分が医者に適さないと知り
江戸に出て洋学や剣術を学んだ。
外国奉行・旗本川勝広道に刻苦勉励を認められ、 川勝 ですって! ヲイヲイ
安政4年4月、27歳で御家人の古屋久左衛門の婿養子となり、
古屋佐久左衛門と名乗る。
以下略
川勝氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%8B%9D%E6%B0%8F
川勝氏は日本の氏族のひとつ。秦河勝の後裔と伝えられるが、その系譜は必ずしも明確ではない。
分家も少なくないが、江戸幕府の幕臣川勝氏がよく知られている。
家紋は、桐に鳳凰、釘抜、五七桐、五三桐など。
通し字は、それぞれ「広」、「隆」、「氏」(家紋、通し字とも幕臣川勝氏)。
戦国時代、丹波国桑田郡下田の国人領主であった下田 美作守 広氏[注釈 2]の嫡男、広継(光照)のとき川勝を称したのが始まりだという。家伝によれば、下田美作守広氏は秦河勝(広隆)より32代目の嫡流とされる。川勝氏(下田氏)は桑田郡・船井郡内を知行し、室町幕府に仕えてきた。先の応仁の乱では、幕府の管領を務めた細川勝元に従って、他の国人衆とともに合戦に参加した。川勝広継は12代将軍足利義晴、13代将軍足利義輝に仕え、北桑田郡美山町静原の島城を本城とし、八木の守護代内藤氏、京北の宇津氏、篠山の波多野氏など、丹波の戦国武将と対峙した。
広継の嫡男川勝継氏は織田信長に従い、天正元年(1573年)、信長の命を受けた細川藤孝に従って、山城国の淀城攻め(第二次淀古城の戦い)に参加した。また、天正4年(1576年)からの明智光秀の丹波攻略には与力となって協力した。継氏の嫡男の川勝秀氏は豊臣秀吉に仕え、秀吉の馬廻を務めて、天正10年(1582年)、丹波国何鹿郡内に3,535石を与えられた。また、文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、肥前名護屋城に在陣した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、嫡男の川勝広綱とともに西軍に与して丹後田辺城攻撃(田辺城の戦い)に参加した。しかし、秀氏父子は徳川家康に赦されて、改易を免れることができた[注釈 3]。慶長6年(1601年)、室町期以来の丹波の旧族、細川三斎の推挙により召し出され、秀氏は旗本家を興した。
慶長12年(1607年)、広綱が父秀氏の家督を継いだ。知行は丹波内3,570石余。江戸時代には、秀氏・広綱に始まる旗本の川勝家(本家)の他に、広継の嫡男の川勝継氏の系統からは3家の旗本家が出ている(後述系譜1)。また、広継の二男の川勝知氏の系統からも川勝隆尚流など4家の旗本家が出ている(後述系譜2)[注釈 4]。これら旗本家は、若年寄、大目付、勘定奉行、外国奉行、外国事務副総裁、開成所総奉行などを務めた幕臣を、主に幕末に輩出した。明治元年(1868年)の江戸開城に際して、川勝広運は同年正月23日より若年寄を務め開城交渉に関わった。また、外国奉行であった川勝広道は同年2月6日、外国事務総裁山口直毅のもとで外国事務副総裁となった。
幕臣以外にも、八戸藩、棚倉藩、郡上藩そして忍藩などの藩士に川勝家があった。それぞれの藩において、川勝家は家老などの要職を務めた。また、江戸時代には船井郡八木町に豪農の川勝家があった。現在でも南丹市八木町(旧・船井郡八木町)の屋賀・青戸および亀岡市旭町(旧・南桑田郡旭村)の美濃田・杉に川勝姓が集中しており[注釈 5]、その周辺の京都府南部、大阪府北部、兵庫県東部に川勝姓の人の多数が住んでいる(京都府だけで全国の4割以上)。もちろん、幕臣川勝氏の子孫の人たちのほか、東京都にもまとまった数の川勝姓の人が住んでいる。
でも 静岡県知事さんは 平太 ですものね。
平太=平氏の家の太郎 って意味ですから アレ? ですね。謎
[55] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年07月21日 13時34分39秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
一昨日、いきいきサロンで第1回目の歴史講話をいたしました。人前で歴史の
話をするということは、間違ったことは言えませんので、事前チェックを細心に
しなければなりません。これは理論の補強にもなり、自身よかったと思っており
ます。雑学も混ぜながら、おもしろおかしく話をいたしましたところ、皆さんか
らの反応も良く、こちらも楽しくやみつきになりそうです。話の内容としては、
徳川家康が遠州に攻めてくるいわゆる「遠州忩劇」あたりをやりまして、この地
域には高薗城(館)があって、今川方の浅原氏が守備しており、なかなかの手ごわ
い相手で、徳川方は退散したというところを話しました。
生き生きサロンって、知的刺激も大事だと考えますーー
[56] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年07月22日 02時33分11秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
講話
無事に終了して良かったですね。
お疲れになったことでしょう。
膨大な準備時間を掛けて でも 講話時間はアッという間
次回も大変な時間を掛けて準備ですね。
でも三つ柏さんのアタマを整理するのに役立つので
頑張って続けてください。
さて服部潤次郎さんですが
いろいろ想像することがあります。
何故三つ柏なのか?
これは水戸徳川家に仕えるのにデザインの似た三つ柏紋に替えた?
服部潤次郎さんのお宅もアチコチに領地があって
遠江にも 存在した?
その管理に 浜松の長上郡の丸に三つ柏紋さんの一族が現地管理者として駐在してた?
ま、いろいろ浮かびます。
で、水戸市の初代市長は服部正義という人物だったこと
この人は 恐らく 服部潤次郎さんの一族?親戚?ご本人?
ということで服部正義さんについて調べて来ました:
調べてたらだんだん弟の嫁の家に近づくな
やっぱり平家のオカルトパワーが関わってるのかな?
だってワタシは夷隅のことを埼玉か茨城あたりと思ってたけど的外れで
今や服部潤次郎さんに行き着いてしまいましたからね。
謎
服部正義
1839−1915 明治時代の政治家。
ということは渋澤栄一より1歳上か・・・
じゃ、フランスに行った人物?本人か血族的に近い人?
天保(てんぽう)10年9月20日生まれ。
もと常陸(ひたち)水戸藩士の3男。
天狗党に所属してたけど赦免されたのだそうです。
茨城県の那珂(なか)郡長,下市(しもいち)戸長などを歴任し,
明治22年初代水戸市長。
下市代耕銀行頭取,市会議長もつとめた。
大正4年9月12日死去。
77歳。
本姓は雨宮。
雨宮さん?
あれ?
雨宮家から服部家に養子に入った?
水戸の歴史 水戸市の誕生
https://www.city.mito.lg.jp/001373/001400/p001447.html
最終更新日:2007年4月25日
1867年(慶応3年)に9代藩主斉昭の七男である15代将軍徳川慶喜によって大政奉還となりましたが、
水戸藩では、藩内抗争が終息しないうちに明治維新を迎えることになりました。
こーゆーところが尾張人とは違うような?
「水戸っぽ」たる所以?
今でも心情的に解消してない?
1871年(明治4年)、廃藩置県により水戸藩は水戸県になり弘道館に県庁が置かれました。
さらに同年、県の統合により茨城県ができ、水戸は県庁所在地になりました。
1888年(明治21年)の「市制町村制」の公布に基づき周辺の村の一部を編入し、
1889年(明治22年)4月1日全国で最初に市制が施行された31市のうちのひとつとして水戸市が誕生しました。
初代市長は服部正義
世帯数5052世帯、人口 25591人でした。
水戸市役所 柵町旧中御殿跡に新築
臨時の役所のあった鉄砲町旧上市戸長役場から移転 何度も引っ越した?
歴史文化財課
電話番号:029-306-8132 /ファクス:029-297-6187
〒310-8610 茨城県水戸市中央1-4-1
業務時間:午前8時30分から午後5時15分まで /休業日:土・日曜日、祝日
水戸市役所
〒310-8610 茨城県水戸市中央1丁目4番1号
JR水戸駅南口より徒歩約10分
関東鉄道・茨城交通水戸市役所(平日のみ乗り入れ)
数十年前に史料をお願いしたことがありましたっけ
5代前のじいちゃんが大坂で将軍さまに置いてけぼりくわされた関係から(笑)
徳川慶喜公のお墓は谷中霊園だそうです。
渋澤栄一が葬儀委員長で
慶喜公は神道式の埋葬を希望していたため寛永寺墓地内ではないのだという。
水戸の歴史のブログ 服部正義の写真あり
http://www.magokoro.ed.jp/manage/contents/upload/5c89fc137015a.pdf
水戸は2つに分かれて
保守派(諸生党) vs 改革派(天狗党)福井の敦賀で352人が処刑された。
この後、いろいろ書いたというかコピペしたけど、自己瞬殺したみたい
ということで 水戸市役所にでも服部潤次郎 服部正義の資料を頂いてはいかがでしょう?
なんかパソコンがフリーズしてしまった(謎)
コロナ明けにでも 水戸や夷隅にいらっしゃってはいかがでしょう?
何か見えて来るものがあるかも、です。
水戸は丸に三つ柏紋について
夷隅は服部政信関係で
[57] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年07月23日 07時53分13秒 ) | パスワード |
名古屋城の研究センターのエライ人が服部H雄さんでした。
一瞬 うちの父親に 似てないけど似てた。
血は争えないな、と思った。
[58] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年07月26日 08時17分25秒 ) | パスワード |
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101761.html に
長上郡の服部氏族CXLY:146:自治会での御用繁多中
を立てました。
お暇な時にどうぞ。
[59] | 空の青海のあをさんからのコメント(2021年07月26日 08時37分48秒 ) | パスワード |
このスレッドを改めて読み直しました。
三つ柏さんの歴史探訪
三ケ日原人の時代から出雲・諏訪そして銅鐸文化から南朝方から現代へとエンエンと続いていますね。
長田と鎌田の繋がり。単なる婚姻に限らず実はもっと奥深い歴史があったのではないか?
服部長七翁。
この人物も謎めいて来ました。
三つ柏さんが先輩達のお世話の中で長上郡の歴史を御存じの人達と出会えますように!
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