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 投稿番号:101749 投稿日:2021年04月06日 01時14分27秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族CXLW:144:長上郡の服部氏とは
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101747_50.html
長上郡の服部氏族CXLV:143:甲賀服部氏とは3
の続きです。

     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


今春から自治会のお仕事を任された三つ柏さん。
貴重な情報にアクセスできることになり
ご先祖さまの情報も手に入るようになりました。

>我が一門筋は幕末に名主(庄屋)、
>明治になって戸長をやっておりました。
>永井家は江戸時代を通じて庄屋と神主を
>松嶋家は江戸初期の村の天満宮の願主となっておりました。

ということは「地域の有力者」だった。
では、その前にはどんな歴史があったのでしょう?

ますます謎が深まりましたね。

[1]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年04月06日 09時39分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 分家筋が庄屋になることは、事情によりあり得るし、事実その事例はいくつ
も見られます。
 また、幕末になって急に庄屋として浮上したということ、それまでどういう
経緯があったのか、そこを調べなければならないと思います。

 ひとつ不思議なことがあり、村の天満宮の棟札が時代によって15種類ある
のですが、その一つに津島の服部乙若太夫の「日本惣社天王御祈祷御札村中安
全」というものがありました。服部乙若太夫は4家7名字11党の1家、津島
神社の神官(神楽担当)であると思います。この棟札にどのような経緯があった
のか、そこも調べたいと思っております──
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月06日 12時41分59秒 ) パスワード

三つ柏さん

>服部乙若太夫

御師さんらしいですね。



ということで参考までに拾って来ました:

下はブログ主さんに無断で津島神社(その1)より

https://ameblo.jp/sho6yu9aya12/entry-12357681056.html?frm=theme
画像:回廊(県重要文化財)
1825年(文政8年)御師服部乙若太夫の三河・遠江・駿河の檀家より寄進再建されたもの。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


https://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/shoseki/kensitei/0702.html
津島神社文書(つしまじんじゃもんじょ)

本文書は、津島神社の社家29家・社僧10坊のうちの神主氷室家と村主勾当太夫家のものを主体とし、
服部乙若太夫家・氷室光太夫家のものの一部と
昭和6年に名古屋税務監督局倉庫から発見されたものなど
神社に寄贈収蔵されたものから成る。

全体の概要は以下の通りである。

表装分(掛軸装・額装)、縁起由緒編 162件(192点)、神事祭礼編 428件(507点)、崇敬編 387件(407点)、社領社費編 432件(681点)、遷宮編 380件(419点)、殿舎造営編 274件(286点)、祠官編 898件(1121点)、境内図編 64件(64点)、神道編 58件(58点)、殿内秘事編24件(24点)、神宮寺編66件(88点)、雑編126件(128点)、未装整理袋入り分21件(21点)、付真野時綱・同豊綱著述 24点。


本文書は、津島神社史の史料にとどまるものでなく、尾張の中世以降織豊期から江戸時代前期の貴重な史料であり、正文の保存状況はよく、封式まで原形を復元できるものが残っている。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

この津島神社文書  津島神社ならコピーを手に入れられるでしょうか?買えるでしょうか?

御師服部乙若太夫は三河・遠江・駿河を回ってた?


     なんか服部乙若太夫という人物?屋号?が命を得たように感じます。
     この人の家紋は何だったんでしょうね?



庄屋というか名主というか  田んぼ10枚だったか  つまり1町分?  持っていれば名主になれる  というハナシも聞いたことがあります。

一町(ちょう)=1ヘクタール。一辺が100mの正方形と同じ広さであり、面積にして100m×100m=10,000uになります。

               3000坪、で良いのかな?


一反(たん)は、畳六〇〇畳分です。一辺が約31.5mの正方形と同じ広さであり、面積にして31.5m×31.5m=約992uすなわち1,000uくらいになります。学校の体育館くらいの広さです。

一反の土地からは、江戸時代一石強の米が取れました。
米一石は重さにして150kgです。

現在は品種改良や機械が発達したので、土地の良しあしもありますが一反から500kgくらいのお米は取れます。

         すごいね
         へぇ〜
         コレは知らなかった
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月06日 12時51分15秒 ) パスワード

服部乙若太夫家・氷室光太夫家

何者でしょう?

グループ名なのか個人名なのか?
屋号なのか?


これは津島神社に訊かないと分からないですね。


ということで「太夫」の意味を調べて来ました:


たゆう〔タイフ〕【▽大▽夫/▽太▽夫】 の解説

1 ⇒たいふ(大夫)1

2 神主・禰宜 (ねぎ) などの神職の称。たいふ。

3 御師 (おし) の称。

4 芸能をもって神事に奉仕する者の称号。

5 猿楽座の座長。江戸時代以降は、観世・金春 (こんぱる) ・宝生・金剛の四座の家元をさして、観世太夫などという。古くは能のシテ役をさした。

6 説経節および義太夫節などの浄瑠璃系統の音曲の語り手。また、義太夫など、名前としても使う。

7 歌舞伎で、立女形 (たておやま) の敬称。

8 近世後期、大道芸・門付け芸などの芸人の称号。万歳の太夫など。

9 官許の遊女のうち最上位。松の位。
[4]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年04月08日 00時05分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

服部乙若太夫の「日本惣社天王御祈祷御札 村中安全」について、その写真
があったので確かめたところ、これは「おふだ(御札)」でありました。たぶん
風水害(や疫病)に遭わないように津島神社へ行って祈願してもらったか、ある
いは御師に祈願してもらったか購入したかだと推察いたします。
 服部乙若太夫というのは、神楽禰宜(神官の一種)で、乙若太夫は屋号のよう
なもので、代々使用されたようです。『津島叢書 張州雑志抄』という津島神
社の社務所が発行した本に津島神職系譜というものがあり、そこに服部氏が結
構載っていますので、次の機会に記してみます──
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月08日 00時56分24秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございます。

津島神社には宗良親王のお子さまの尹良親王
   (我が家では  いずよし親王。母上は井伊道政の娘の重子さま)
のお社がある(あった?)と思います。


氷室さん、というのは名古屋では聞いたことが無かったように思うのですが
津島神社の神官の家というのは知っていました。


   尹良親王のお子様が  氷室良新( 津島神社社家氷室家の祖)  だそうです。


で、蜂須賀家が南朝方で・・・という話も知っていました。
   途中で南朝方に化けた(笑)  元は清和源氏の斯波氏の流れで津島神社と繋がったのでしょうね。

蜂須賀小六の継祖母?になる人が大橋の出身で小六には身分違いのお祖母さまになるんだと聞いたような。

   尹良親王の姫君が小六のお祖父さんの蜂須賀正秋の妻のようです。
   つまり蜂須賀家は何重にも南朝方の御縁だった、ということで纏めます。汗


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E6%AD%A3%E5%88%A9
        小和田哲男は『豊臣秀吉』で、
        豊臣秀吉の父木下弥右衛門は正利に仕えたとし、
        その縁で秀吉は少年時代に正利の子である正勝に仕えたという。

        「太閤記」の「小六おじさん」というのは正勝ではなくて正利の方らしいです。


                 ま、ハナシがいろいろ作られますね

                 秀吉の生父?胤父?が足軽をしてたハナシは蜂須賀家での足軽、だった?これは初耳




>『津島叢書 張州雑志抄』という津島神社の社務所が発行した本に津島神職系譜というものがあり、
>そこに服部氏が結構載っています

この服部氏の家紋が分かると良いですね。


服部家ホンヤさんも津島神社の神官で天王祭には裃姿で参加なさいます。


今川義元を討った服部小平太は「津島の服部さん」です。裏切者め。
ホンヤさんは今川方ですから。
[6]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年04月09日 08時59分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 怒濤の一週間が過ぎ、落ち着きを取り戻しました。

 入手した資料については、当時の歴史とすり合わせて分析を進めております。
天正20年(1592)から昭和3年に至るまでの棟札計16枚、プラス津島神社の
御札、合計17枚が残っていて、今からおよそ30年前の自治会長がそれを文
章化し、一応の調査もしていたことは、ラッキーでありました。
 また、明治3年のこの村の宗門人別帳もあり、現代語に直してあったことは、
二重にラッキーでありました。
 ただ、それらは資料的な内容の保存にとどまっており、表面的な調査しかさ
れておりませんでした。松島氏や永井氏、その他の氏族の系譜や関係・経緯に
までは多少はあるものの深くは及んでおりません。この点を掘り下げて調べる
ということが、今の私に課せられた使命のように感じております。たまたま、
松島氏の本筋系とも交友関係もあり、調査も進めてまいりましたし、永井氏に
ついても、加藤氏についても、鈴木氏についても、そして当然服部氏について
も、あを様の寛容で天啓に満ちたご教導の下、調査を続けることができました。
そしてさらにその課程で他の皆様から得られた貴重な情報もあり、総じて幅広
い知識をえることができたのではないかと感じております。
 今後、この地域の住民の菩提寺─定明寺、芳永寺、源長院等の関係資料をさ
らに入手し、合わせて解明を進めて行くつもりでおります──
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月09日 09時58分38秒 ) パスワード

三つ柏さん

>今からおよそ30年前の自治会長が文章化し、一応の調査もしていた

やはり  ちゃんと調べてみた人物がいらっしゃったのですねぇ。
気になさっていらっしゃったのでしょうね。

当時はネットがありませんから  情報が限定的でしたから  個人で大変な作業をなさったのですねぇ。


>明治3年のこの村の宗門人別帳もあり、現代語に直してあったことは、二重にラッキーでありました。

本当にラッキーでした!


「宗門人別帳」なんて言葉としては知ってましたが実際に見たことは有りません。

名古屋の場合だけか  そこは知りませんが  <宗派によっては>非人?部落民?は拒否され  日蓮宗は受け入れてくれた  とか  あります。
  
    <宗派によっては>という部分  いかにも  XXX宗だなと  (耳が痛い)


>ただ、それらは資料的な内容の保存にとどまっており、表面的な調査しかされておりませんでした。

30年ほど前の自治会長さん、  きっと  お悩みになったのでしょうね
    いろいろお考えになって  事実のみ  残そう  とか
    後世のどなたかが  自分の意思を理解してくれて  継いでくれるだろう  とか
お考えになったのでしょうね。

    自分は自分で出来る限りのことはやって置こう

       そんな心の声が聞こえた気がします。


>掘り下げて調べるということが、今の私に課せられた使命のように感じております。

はい。
そうですね。

時間的制限・体力的制限・金銭的制限  いろいろ限られている中で「しておくべきこと」はやっておいてくださったのでしょう。


いかがですか
お名刺に「遠江國長上郡郷土史改定編纂室」とでも肩書をお付けになっては。
ふふふ

それで  協力を求め易くなるかも、です。
「掘り起こしているんです」のヒトコトで求めているトコロを理解して頂ける、かも。


まだまだ始まったばかりです。
レースは長いのです。
良質な情報を得るために  それなりの  肩書は必要と思います。


「遠江國現代風土記」
出来るかも、ですよ。
内山真龍先生も頑張りましたから  三つ柏さんも  地元のために何か残せることをライフワークになさったら良いと思います。
[8]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年04月10日 12時28分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。今は「浜松郷土歴史研究会」会長を名乗りだしており
ます。会員一人(自分)から出発です。

 さて、あを様に調べていただきたいことがあります。なかなかいい答がみつか
らないのです。それは何かと申しますと、「神主」・「大工」・「刀鍛冶」には、
「藤原朝臣」を名乗る人が多いということで、本当に藤原氏の出身なのかどうか、
どうも違和感を感じているのですが──
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月10日 17時17分37秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「神主」・「大工」・「刀鍛冶」には、「藤原朝臣」を名乗る人が多いということで、本当に藤原氏の出身なのかどうか


とりあえず:結論は分かりません   
      でも  実際は「藤原氏」なんかより  ずっとずっと  古い家々だったと思います。



氏姓制度はせっかく天武天皇が八色の姓制度を作ったものの
崩れに崩れていったので
わたしにはサッパリ分かりません。

      アレだね
      組織は必ず腐敗する
      制度は必ず崩壊する
      というのですね


        日本の制度って原則は続かずスグに崩れに崩れるじゃありませんか
        例:公地公民 とか 口分田  とか


朝臣にも「名乗り朝臣」というのもありますね。

   3位までは  藤原朝臣XX  と名乗ったけれど
   4位5位は  藤原XX朝臣  と名乗るので
          一応これで身分の差・どっちが上か下かがハッキリ分かるのですが


我々現代人は 「八色の姓」の順位  真人>朝臣>宿禰>忌寸>道師>臣>連>稲置  に捉われて

朝臣は皇族の皆さん(真人)の次の身分かぁ  すごい! 天皇への忠誠度が皇族の次に高い「氏」かぁ〜   と思うけど
奈良時代には殆どの「氏」が朝臣の「姓」を持つようになり
結局は「朝臣」の姓は価値が暴落していったと思います。


      結局  わたしには  氏姓制度の崩壊の過程 もワケ分かりません。
  
       
某神職さんのお話では  大きな神社の宮司さんは「藤原姓」だ  と聞いています。
      熱田神宮もそうだし。源義朝の奥さんは熱田神宮の藤原季範の娘です。

          ココで藤原季範についてコピペ:
          父が目代として赴任していた尾張国に生まれる。
          出生時、父・季兼は当時としては高齢の47歳であり、
          季範が12歳のとき死去した。

          季範の母の実家である尾張氏は代々熱田神宮の大宮司職を務めていたが、
          員職の代に至り、霊夢の託宣と称して永久2年(1114年)外孫の季範に同職を譲る。
          これ以降、熱田大宮司は季範の子孫の藤原南家藤原氏・千秋家による世襲となり、
          尾張氏はその副官である権宮司に退いている。


              尾張家は最近まで細々と続いてたと父が言ってました。
              千秋季光は「麒麟がくる」に織田信秀方として出てました。

                     *逸話を1つ下の方にコピペしますね*

              
織田信長のご先祖は剣神社の神主で  藤原朝臣とか平朝臣とか   蔭では忌部宿祢だとか言われるけど
わたし的には  3つとも  あり得ると思っています。


要するに神主が藤原姓なのは  
大化の改新で鎌足が力を持って  子孫が資産のある神社の跡取りに入ったから  じゃないのかな  と思っています。     


      天皇家より名家の上賀茂神社さんは 「賀茂県主」 を名乗ってらっしゃるのよね。

      「県主」の姓は  古墳時代初期から(3世紀とか4世紀とか)だから
       国造や伴造よりも古くからある身分の高い姓。

それで  上賀茂神社は成り上がりの鎌足の子孫になんか   という矜持で
今でも古い古いヤマト朝廷時代からの「県主」姓を死守して来たのかな?と。


       出雲大社の宮司さんの千家さんは  出雲国造  だから  上賀茂神社の方がずっと名家になるのかな?

       とにかく上賀茂神社については  桓武天皇も一目置いてた  と聞いています。


       上賀茂神社や出雲神社にすれば  「藤原朝臣?  なに、それ?  成り上がり?」  でしょうね。



*千秋季光の逸話*
季光はかつて悪七兵衛景清が所持していたという「あざ丸」という脇差を所持しており、戦死した際も佩いていた。この刀はその後、斎藤方の武将陰山掃部助の手に渡ったが、同年冬に斎藤軍が大垣城を攻めた際、掃部助は戦闘で両眼を失う重傷を得た。次いで所持した丹羽長秀も眼病を得たため、刀は熱田社へ返されて奉納されている。

「あざ丸」の「あざ」は、景清がこの刀に映った自身の顔を見た際、顔のあざが見えた事に由来するという。

1980年2月12日に愛知県指定文化財に指定され、2019年時点でも熱田神宮に所蔵されている。


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刀鍛冶がなぜ「藤原朝臣」を名乗るのは分かりませんが  
ムカシの工業では刀鍛冶は特殊だったから刀鍛冶の名人には「藤原朝臣」の名乗りが許されてたのかしら?謎

こんな感じですね:
横山加賀介藤原朝臣祐永
和泉大掾藤原朝臣国輝
尾崎長門守藤原朝臣助隆
勢州桑名郡益田庄藤原朝臣村正   新井白石の「村正は御当代不吉の例少なからず、御扶持を蒙るもの暫時も村正を帯ぶる可からず」で不吉な刀になったのよね


わたしが某税事務所で腰掛けてた時の徴税係  (徴収係って言ってたかな?)  の男の子が刀鍛冶の子孫で
刀匠を検索してたら  なんと!  信長の鍛冶師の子孫でした。
ヲイヲイ


その上  刀鍛冶を検索してた時  

大阪府寝屋川市秦町は後鳥羽上皇の御番鍛冶がいた場所で
菊の花を愛した後鳥羽上皇の趣味の1つが刀鍛冶だったのを記憶しています。
     この部分は我が家に伝わるハナシ

わたしの母方は後鳥羽上皇に仕えた西面の武士(北面でなくて西面の方ね。後鳥羽上皇直属の親衛隊ってこと)
で、寝屋川に親戚があって  寝屋川に<秦町>なんてあったの?  です。

そして!

河内国茨田郡に楠木正成の子孫という出口正重という刀工がいて、   
     河内ですよ!河内のおっちゃんがらみですよ!  
この人の弟が楠木正理と楠木正威で、南朝方として討死していて

さらに  子孫が

織田信長・信雄父子に乗っ取られた伊勢国司の北畠具教(=後醍醐天皇の右腕だった北畠親房の子孫)の家臣の楠木正具なんですって。


なんか  今夜は眠れそうにないな。
すごい繋がりを感じてしまった。

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大工も  「金剛組」さんのことを考えたら  その地位が分かりますよね。

敏達天皇7年=578年創業の日本最古の建設会社。笑

金剛さんは四天王寺建立のために聖徳太子により百済から招聘された宮大工の1人。

     信長が焼いたけどね  (1576年)

     大坂城も造ってる。

今でも神社仏閣建築の設計・施工、城郭や文化財建造物の復元や修理等を主に手がけている。



「藤原朝臣」という呼び名は変質して「名誉号」だったかもね。
でもホントのところは分かりません。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月11日 00時02分02秒 ) パスワード

金剛組について
投稿日:2005年12月15日
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100844_7.html
に書いてましたね。


http://www.kongogumi.co.jp/
金剛組のHPです。

創業   飛鳥時代第30代敏達天皇7年(西暦578年)
敏達天皇は大和第30代の天皇 (在位 572〜585)

以下コピペ
聖徳太子の命を受けて、
海のかなた百済の国から三人の工匠が日本に招かれました。

このうちのひとりが、金剛組初代の金剛重光です。

工匠たちは、日本最初の官寺である四天王寺の建立に携わりました。
重光は、四天王寺が一応の完成をみた後もこの地に留まり、寺を護りつづけます。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月11日 01時06分35秒 ) パスワード

刀鍛冶の称した「藤原朝臣」については全く分かりませんが
江戸時代になって世の中が落ち着いてから
刀鍛冶が「藤原朝臣」を名乗ったのではないかと思っています。
それも江戸時代の後期あたり?


       どうして「藤原朝臣」なんでしょうね?
       どんな経緯で名乗るようになったんでしょうかねぇ?

だから厳密な「氏姓制度」からでは  刀鍛冶職人が   藤原朝臣  なんて  アリエナイ  でしょ?
       氏=藤原   この流れというのは有り得ますよね
       姓=朝臣   え?3位以上?
       ∴ ウッソォ〜   のヒトコトです。



ウイキよりコピペ:全文はURLへ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B0%8F%E9%95%B7%E8%80%85

藤氏長者は、藤原氏の代表者として、氏の政治・財務・宗教など全般に関わる。

藤氏長者の職掌を大きく分けると、
   政治的な藤原氏の存立基盤整備、
   氏領としての荘園や動産の管理、
   氏寺興福寺や氏社春日社・大原野社などの管理。

藤氏長者は五摂家のなかでも執柄(しっぺい:摂関の唐名)にある家が継承するが、
だからといってこの家が氏人を保護する職掌を得ていたのではない。

藤氏長者の役割は宗教的な色彩を強めていくとともに
興福寺や春日社などに分散することになる。

藤氏長者は明治維新の際に九条道孝を最後としてその役割を終えた。

*******************************

日本刀の歴史について素晴らしいサイトのご紹介:

日本刀の歴史
http://www7b.biglobe.ne.jp/~osaru/index.htm
http://www7b.biglobe.ne.jp/~osaru/heianjidai.htm


これを読んでいると「刀の作者が藤原朝臣なんてアリエナイ」と感じます。
それで刀鍛冶が藤原朝臣を名乗るようになったのは江戸時代に入ってからではないのか?と。
しかし  経緯  には達していません。
[12]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年04月12日 14時47分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろお調べいただき、ありがとうございます。「藤原」というブランド、
「表のプラスイメージ」と「裏のマイナスイメージ」があるような気がします。
 藤原氏の出自・経緯というものを、一度振り返って見てみたいと思っていま
す──

 
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月13日 16時26分21秒 ) パスワード

三つ柏さん

本日、さる情報を航空便にて郵送いたしました。
恐らく2週間ほど掛かるのではないかと思います。


さる情報から分かることは   我々は時代から取り残された  ということです。

      つまり   
      最近のアメリカの人気7都市についての特集があったのですが
      若者達が働くために引っ越している先、ということです。

           生産活動を終えた者はフロリダかハワイに転出またはアジアあたりで優雅に暮らす。



この情報を読んでカリフォルニアでの人気引っ越し先がベーカースフィールドというのには腰が抜けそうに驚きました。

1960年代や70年代には  
「ベーカースフィールド?  Nothing but dirt.  何にも無いところだぜ。あるのは砂埃りだけだ」
などと語られるド田舎でした。


当時の産業としては  農業と石油掘り。
   石油を掘るのはキリンの形をした機械ですが
   農業についてはアメリカで4番目の農業大国で、
         作っているのは人参とかオレンジとかアーモンドとか。


         有名なカリフォルニア米は州都のサクラメントあたりで作られています。
         サンフランシスコの東です。


      アメリカは農業大国なので農業指導者の資格のある人は簡単にビザが取得できます。
      何の技術も無い単純農業労働希望者はただちに強制送還ですが。笑


ベーカースフィールドはロサンゼルスとサンフランシスコの中継地点という感じで休憩所の1つ。
Bakersfield lies around 110 mi (180 km) north of Los Angeles (about a 2-hour drive on I-5 and State Route 99) and about 275 mi (443 km) southeast of the state capital, Sacramento (about a 4-hour drive on State Route 99).

ロサンゼルスの北180qで高速道路を使って2時間の距離
カリフォルニアの州都であるサクラメントの東南443qで高速道路を使って約4時間。
フツー  高速は  時速120qあたりで運転すると思う。


だから若い人は家の安いベーカースフィールドに住んでロサンゼルスへ仕事に通うのだそうです。


ということで
Between 1970 and 2010, Bakersfield grew 400% (from 70,000 to 347,483), making it one of the fastest-growing cities in California.

1970年から2010年の間に人口が7万人から35万人に400%も増えた=つまり5倍になった。
これはカリフォルニア州の中では最も人口増加のあった市の1つだ。


現在は10年経ってるから  もっと  人口が増えてるんでしょうね。  
去年10年毎に行われる国勢調査があったので間もなく現在の人口が分かるかもですね。


ベーカースフィールドのサイト:
https://en.wikipedia.org/wiki/Bakersfield,_California
気温もココに出てます。



現代人気7都市の特集を見て、世の中がすっかり変っていたのを知りました。
   とっくに過去の人になってたのは自覚がありましたが
   今は  博物館に展示されそうな  大昔の人間になってました。
   

今の若者は男女問わずボヤボヤしてると貧困層まっしぐらというのが実感となりました。
バブルが終わった時には既に「専業主婦」なんて生き方は女子には閉ざされてたそうですしね。
とっくに文系卒では食べていけないのは知ってましたがSTEM系卒でやっと中流に引っ掛かっていられる時代なのかなと。


我々世代は小学生の孫ちゃんに
「プログラミングの出来ない年寄りはアッチ行ってて」
と追い払われる立場かもですよ。
[14]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年04月14日 00時42分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろありがとうございます。

 こちらのビりッジ(タウンか)の五苗について調べ直していますが、やはり根
は南朝にあるような気がいたします。永井(長田)、服部、鈴木、松島(南朝系)、
加藤は異種(秀次事件忌避)のようであります『富士隠れ南朝史』(加茂喜三著)
をもう一度読み直しております──
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月14日 09時52分08秒 ) パスワード

三つ柏さん

最近大好きな俳優に民放では間抜け役が評判でNHKでは超真面目役な人がいて
この子は絶対に南朝方
と思って数年経ったのですが

つい昨日の番組で  その子の父親でしょ  と思うほどそっくりな中年男性を見て
この2人の出身地を地図で見たら
すぐ近くでした。


県名は異なるのですが  すぐ  隣同士ですから
やっぱり血で繋がってるんだな
と思います。

地理的にも「南朝方」以外は考えられません。


永井氏 ← 服部氏 → 鈴木氏  は  平家がらみかも知れないですしね。
上記3氏と松島氏とは  諏訪大社がらみなのかな?
浜松の加藤さんのことは分かりませんが  我が家は尾張の加藤氏とは親戚で加藤高明が有名どころです。


>『富士隠れ南朝史』

浅間神社の神職の服部氏が分かると良いのですが。

それから島田の商家だった服部氏。この家は大井川の近くですからアヤシイ人が出入りしてたでしょうね。


>「浜松郷土歴史研究会」会長

のお名刺は使えますよ。
ふふふ
[16]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年04月15日 23時28分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様
 
 4月16日より8年目に突入いたします。あと約30分後であります──
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月16日 07時24分12秒 ) パスワード

三つ柏さん

過ぎた時間は早いですね。
もう8年目ですか?
まだ2−3年しか経ってないような?
いけませんね、歳ですね。


今朝、歩きながら考えたのですが
津島神社のお札があったということは
最低で  南朝方・井伊家  がらみでしょうね。
ということは  あの当時  南朝方の子孫が長上郡にいた  ということかなと。

実に楽しい空想です。

南朝方で井伊家がらみ津島神社がらみ大橋家がらみはまだ居るでしょうから。
井伊家の皆さんは殆どが彦根に行ってしまったんでしょうけど。
[18]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年04月16日 14時09分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 8年ということで……「八」という字には特別な意味があるようです。祭り
の法被(ハッピ)に八の字を描いている所もあります。お稚児さんの眉に八の字
を描いている所もあります─確か京都の祇園祭……。

 八年目ということで、いい年にしたいと思います。

 ただ今、松島家と永井家を中心に見直しをしております。うっすらと全体像
が見えてきました──
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月16日 14時24分25秒 ) パスワード

三つ柏さん

8についてウイキで見て来ました。
面白かったです。


>八年目ということで、いい年にしたいと思います。

ですね。


>ただ今、松島家と永井家を中心に見直しをしております。

早く教えてください。
楽しみです。
[20]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年04月17日 18時43分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 4〜5年前に伊賀に行き、柘植の福地氏城跡を見た後、平宗清の隠棲地の下
柘植に行ったことがありました。下柘植では地域的には宗清の菩提寺と思われ
る西光寺を訪れました。そしてそこでびっくりしたのが、松島氏と藤沢氏の墓
が並んでいくつか建てられていたことであります。何で南信の彼らの墓が伊賀
にあるのか、まったく見当もつきませんでした。
 本日、じっくり松島氏と藤沢氏について見直すと──
 @松島氏は藤沢氏から出ている一門である。
 A藤沢氏は頼朝のブレーンであった。
 そして、頼朝は池大納言頼盛や宗清に命を助けてもらった感謝とお礼をした
かった。頼盛には平家没官領を与えたが、宗清は柘植に隠棲してしまった。
 藤沢氏と松島氏は、頼朝より命を受けて、宗清のいる下柘植を訪れ、そこで
なんらかの理由があり、土着してしまったのではないか、と思いましたのです
が、いかがでしょぅか──
 
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月18日 02時03分44秒 ) パスワード

三つ柏さん

わたし的には  藤沢氏=諏訪氏の一族  です。信濃国伊那郡藤沢が起源の諏訪神党。

不思議ですね。
でも  それが日本の名字なんですよね
松嶋氏も諏訪神党だろう、と思うけど
そうじゃない、というのが日本の名字のフクザツなところ。


最近驚いたのが  多賀大社の神紋が  三つ巴紋の他に  三つ柏紋?虫くい折れ柏紋    と呼ぶらしいです。
http://www.tagataisya.or.jp/



ということで柘植宗清をネットから拾って来ました:

柘植氏
左三つ巴/丸に二つ引両
(桓武平氏高棟流/貞盛流?)


伊賀国阿拝郡柘植郷より起こった。
『江戸系図』また『柘植系図』には、平高棟の後裔宗清が伊賀国に赴き、柘植の地名をもって名字となしたとある。
『尊卑分脈』をみれば、宗清は平信実の子で右京大夫に任じられ、その子に宗俊の名はみえない。また、年代的にも少し無理があるようである。

また、『尊卑分脈』の貞盛流の裔に宗清の名がみえる。
右兵衛尉に任じられ、平家の家人であった。
こちらの方が、柘植氏の祖として年代的、状況的にうなずけるところが多いのではないか。



『古代氏族系譜集成』に収められた服部連系図のところに、柘植氏の系図がある。
これには、平貞盛の後裔で右兵衛季宗の子で、平頼盛の家人であった宗清が、祖にあたるとみえる。

そして、宗清には宗俊・清春・俊忠の三子があり、
宗俊が宗家となり、
清春は福地を、
俊忠は北村を名乗り、
それぞれその祖となったとある。



しかし、前記『尊卑分脈』にみえる宗清の子は、家清だけである。
これは、宗清が世を隠れてからもうけた子がさきの三人ということなのだろうか。


いずれにしても、平家落人の一人として伊賀の山中に潜んだものが、柘植氏の先祖になるものであろう。


宗清にからんで、以下のような言い伝えが『寛政重修諸家譜』に記されている。

伊賀に隠れ住む宗清のもとへ、源頼朝から誘いの手がのびて、養老の地としてそこも与えようという。
そこで「宗清戯れに柘植の一枝を新地にさし、もしこの枝葉繁茂せば草庵をこの地にかまうべしといえり。翌年、柘植の一枝大いに繁茂して花開けり。宗清奇なりとし、これより柘植をもって家号とす」と。



戦乱の時代を生きる

大永年間、将軍義稙は、仁木兵部少輔をして伊賀守護とした。
このとき、柘植一族は仁木氏に従わず、しばしば合戦におよび宗家は兵部少輔を射て、仁木軍を敗走させている。
その後、兵部少輔の子某が更めて柘植党と戦ったが、宗家と子の宗能はふたたび仁木軍を討ち破っている。
宗家と宗能を兄弟とするものもあるが、年代的にみて父子とする方が妥当と思われる。
その後、宗家は遠江国に至って死んだと伝えられる。



              あらららら・・・
              なんで遠江国?
              ココで再び引っ繰り返った〜


天正七年九月、織田信長による第一次伊賀征伐のとき、信長の三男信雄の軍勢が阿波口・鬼瘤口・伊勢地口の三道から伊賀に攻め込んだ。

この戦いは織田軍の敗北で終わるのだが、鬼瘤口の大将として柘植三郎左衛門の名がみえている。
三郎左衛門は伊賀出身ながら北畠氏に仕えていたもので、北畠没落後信雄に仕えて伊賀征伐には信雄に属して出陣したようだ。
しかし鬼瘤口も敗北し、三郎左衛門も討死した。

この敗戦に怒った信長は、天正九年九月四万四千の大軍をもって再び伊賀に攻め込んだ。このとき、上柘植の福地伊予をはじめ、柘植近在の郷士が案内人となっている。

この征伐によって、伊賀国はまったく独立性を失い、また多くの郷士が討死した。
この合戦における柘植氏の動向はさきの案内人をつとめたこと以外に、どのように行動したのかは詳らかではない。


天正十年(1582)六月、織田信長が明智光秀の謀叛によって京都の本能寺で世を去った。
このとき、信長に招かれて上方にあった徳川家康は、身をもって三河へ逃れることになる。
その逃避行の道にあたったのが伊賀の山中であった。
その案内役を柘植清広がつとめた。
これが機縁となって徳川氏に仕え、のち関ヶ原の戦いにも参加。
柘植氏は徳川氏旗本として世にでることになった。


庶流として数家の柘植氏があった。
家紋はいずれも、「左三つ巴」「丸に二つ引両」を用いた。
[22]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年04月19日 09時33分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 怒濤のような引き継ぎのまずは二十日間が終わりました。本日もこれから用事
がある訳ですが、それが終われば書き出せると思います──
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月19日 16時26分19秒 ) パスワード

三つ柏さん

まだ3週間です。
この先、怒涛の「雑用」の日々が待ってます(たぶん)。笑   いや、失礼をば。


明日月曜日なので「時代が変った!」第2弾を投函します。
大学編です。

要するにアメリカの大学の学費が在米日本人家庭には払えないので
子供達を日本の大学に行かせる
というハナシです。

    子供が優秀だったら大学の方から給付の奨学金を出すから是非来てくれとお誘いがあるけど
    貸与型だと  それは  =イコール=  借金だから
    アメリカの大学には「やれない」というハナシです。


わたしの周りは「早稲田」に行く子供達が多いです。
4年で500万円で済むからと聞いています。

親が医者でも子供を早稲田に行かせていて、驚きました。
「安いから」と言ってました。
    日本、大学、安いね〜
    アメリカに比べたら  ただ同然だね〜
    と言ってました。


慶応大学に行かせたい親は子供を慶応ニューヨーク校に行かせてエスカレーターで慶応大学に行かせています。


アメリカは、貸与型奨学金が簡単に貰えるから、借りまくって4年で総額30万ドル。

卒業と同時にお支払い計画の手紙が来て
「月々2500ドル返済するコースと月々1500ドル返済するコースがあるけど、どっちにする?」
の内容にビックリ仰天した女の子がいました。


この話を聞いてビックリしたのはコッチですよ。
「奨学金」の意味が分かって無い人間、多過ぎ。
給付型と貸与型の違いが分かってない。
   わたしも日本語最近こんがらがってるから大きいクチは叩けないんだけど。


我々世代だと
・フツー脳保持者は親が学費を払った(親に大学卒業証書を買って貰った)  わたしだ
・優秀脳は奨学金   ただし「成績を維持しないといけないから」と遊んでくれなかったな〜
・優秀でも地方出身者は苦学生となって自分で稼いで大学に行った 
    授業料が月1000円  大学院は1500円で  寮費もそれぐらいだった記憶
    何十年前だ? 
・フツー脳で親に支払い能力が無いと高卒で就職して夜間に行って頑張って優秀な勤め人になった
・優秀脳でも高卒だと就職先から国立大学に行かせて貰えた
こんな辺りだったかなと思う。



去年コロナが始まる前まで毎日何度も奨学金回収詐欺の電話がかかりまくって
アタマに来たわたしは
「うちの親は金持ちだから親のお金で大学に行ったから奨学金なんて借りる必要なかったよ」
と言ってやったら電話が来なくなった。


   今はアマゾンを名乗る詐欺電話がスゴイ。

   気分が乗ったら相手してやろうと思ってる:
   用意してるセリフは
   「お金が無くて銀行口座が無いので、そもそもカードなんて作れないんで、あなたが電話する相手はわたしじゃないと思うよ」


わたしみたいな昭和の人間には今の日本の大学のことが信じられない事態になってました。
三つ柏さんもたぶん今の日本の大学の姿に驚かれると思いますよ。
それもアメリカから見た日本の大学の姿なので、ヨケイに驚かれると思います。
乞う  ご期待。
あはは
[25]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年04月20日 01時37分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 30万ドルといえばざら3000万円、とても返せるお金ではないですね。アメリ
カンドリームは、命がけで非情な真剣勝負ですね。強い人間でないととても生
きていけない。歴史と風土の違いでもありますね──
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月20日 04時13分08秒 ) パスワード

三つ柏さん

30万ドルという額は私学へ4年間行った費用に相当です。


で、「30万ドル」という奨学金は
2008年のリーマンショック前の金融界では
30万ドルの奨学金を得てハーバードなどでMBAを取得するのに必要不可欠の資金でした。

    Master of Business Administrationの略。
    日本では経営学修士と呼ばれ、
    経営学の大学院修士課程を修了すると授与される学位であり、
    資格とは異なる。

で、30万ドルの奨学金を借りても
金融業界に就職すれば  初年俸が30万ドル以上でした。

だから  借りる意味がありました。


    金融業界に働いてれば  おばさん社員でもボーナスが100万ドルもらえたりしてました。

       日本のバブル時の狂想曲に似てました。


ところがリーマンショックで・・・

30万ドル借りてMBAを取得した若者には就職先が消えてました。
残ったのは  30万ドルの借金だけ。

       日本のバブル崩壊に似てましたね。


それで怒れる若者達は「1%の人間が富を独占してる」と騒ぎました。
それは自分が1%に入り損なったから。


      今でも日本の友人が「1%が富を独占して」云々を言うんで
      この人って  こんなにアホだった?  とビックリします。
  
          いつのハナシだ?
          あれからどれだけの時間が経った?


              クリントンの金融立国政策
              中国を世界の工場に

          政治経済はひたすら睡眠学習だったワタシでも
          クリントンの金融工学がインチキだったとはとっくに気付いてるのに
          某有名大学経済学部を卒業したオトコが令和になっても寝言を言ってる(嗤)



30万ドルの借金って
日本だったら家を買うローンに匹敵よね

月々の返済額を軽減するためにどれだけ頭金を用意するか
そこで皆さん悩み苦しむ額なのに。


でもアメリカにいるとワケ分からなくなるんでしょうね

上記の女子は
「周りのアメリカ人の学生は借りては必死に返済してた」
「自分は学生のうちに日々返済に頑張るなんて全く考えもしなかった」
って。


アメリカにいるとワケ分からなくなるもう1つの日本人女子学生のハナシにこんなのがあります。

日本の親戚が癌になったから  C B D  を痛みが和らぎますように
とお見舞いに贈ってあげたんだって。

そしたら税関で引っ掛かって

親が「アンタ、何を送ったか分かってるの?」と言って来たんだって。

この彼女にしてみれば  T H C  じゃないからいいでしょ  だったんだって。


彼女の親にしてみれば「うちの娘はアメリカで何を勉強してるんだぁ〜?」ですよね。



わたくしの過去のお仕事からすると   業務上知り得た件ね  
彼女は当然  アメリカと日本のそれぞれの財務省のブラックリストに載せられたね。
大変だ〜


     アメリカは  <州>は許可してても<国>は許してないからね。
     コレがどういう意味なのか  彼女には想像もつかないんだろうな  と思います。

 
         日本に帰国したら
         フライトが着陸した時には
         財務省管轄の税関職員とそれから麻取が待機してるんだろうなぁ〜


         アメリカに戻ったら NTL  =  上陸禁止 =  強制送還対象  で捕まって  
         犯罪者認定で  二度とアメリカに入国できないよ。

             ビザを取得してから来てください
             と言われるけど  
             弁護士はこんな彼女にビザを取ってくれるかな?


             せっかく英語をマスターしててもアメリカには簡単に来れないし
                 今はオンラインの時代だからヨソの国とも繋がってるって
             彼女は理解してるんだろうか?

                 この意味  彼女には分からないだろうな〜


             そして
                日本で有罪になるということは即アメリカでも有罪で即 他の国でも有罪  ということです。

             この意味も分からないだろうな〜

             アメリカに来て何を勉強したんだか?
             せいぜい  T H C はヤバイけど C B D はオーケー 
             と勘違いしちゃったんだね。


日本人がバブルの時に大挙してアメリカに遊学に来て
その結果
日本人もワルになった
と言われて久しいですが

バブル崩壊から30年
日本人留学生の実態のほんの1例2例を書いてみました。


世の中  本当に変りました。
30年前に日本の若者の実態を知って驚いたけど
今はそんなレベルじゃない。

日本は大学自体もこんなに変ってますぜ
ということで2週後に驚いてください。
[27]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年04月20日 11時59分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 アメリカンドリームとは、単純に言えば、大金持ちになる夢のことだと思う
のですが、それはアメリカのフロンティア精神(自己実現、自己責任)と、考え
方としての功利主義の延長線上にあるような気がしますのですか……。アメリ
カ人は、概して人間の本能(欲)に対して正直であると感じます。そんなところ
は、逆に無邪気でかわいらしいところではあります。儲けたら寄付をするとい
うところも、宗教心からきているにせよ、あいらしいところであります。だか
らこの国は極端な国でありますが、嫌いな国ではありません。シンパシィを感
じる国であります。間違っていたらご指摘下さい──
[28]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年04月20日 14時35分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松島氏は、あを様ご指摘のように、諏訪神党、諏訪神家(みわけ)で間違いな
いと思います。藤沢氏も同様であります。根拠となる本もございます
 いずれにしても、数多くの「点」の情報を「線」でつなげて「文章化」しな
ければなりませんので、時間がかかっております──
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月20日 16時48分41秒 ) パスワード

三つ柏さん

アメリカン・ドリームとは
そもそもは自分の国からの脱出先です。

    拷問されない自由・表現の自由・宗教の自由・虐殺されない自由・政治や思想の自由・
    言論の自由・子供を持つ自由・移動の自由・幸福の追求その他各種の自由
        いろいろな自由を求めて人々はアメリカにやって来ました。

なので今でもアメリカ政府は自由を求めて生まれ育った国を去った者には滞在権と保護を与えています。
          自分の国に送還されたら迫害され命を奪われる場合に、という意味ですが。



               この部分
               現在の在米日本人には理解出来ないですね

               現在の在米日本人は
                  ただのように安い日本の治療費
                  ただのように安い日本の介護費
               これらを求めて日本に老後は戻ろう
               という人が多いですよ

               明治政府によって棄民されたハワイや南米やカリブ海諸国に移民した人々は
               日本に戻っても飢えしか待ってないから戻らない覚悟があったけど。


                  少し前の特集では  
                     老後は日本でラクしよう
                  ってのがありましたよ(笑)


                       最近世代と明治元年者とは同じ日本人なのに
                       これだけ意識が異なる

                       わたしは  中間  ですね。



その後、産業革命を経て、資本主義ですね
ここで「お金持ちになるのが成功であり幸せ」という資本主義的アメリカン・ドリームというのが出て来ますね。

そして成功したら社会に還元する。
これもアメリカン・ドリームですね。


夫の親戚で石油の富豪は社会への還元の1つに孤児院をやってましたよ。


今  の時代のアメリカはわたしが知ってたアメリカとは全く異質になっている。
例えば
自分達の州が行き過ぎた民主党=左=の州になったのが嫌だから  共和党=右=の州に引っ越して
民主党の州の政策に変えようとする、とかね。(例 取り敢えずマリファナの解禁)

     だったらカリフォルニアに戻れ!って思う
     ま、これがアメリカ人の  現代フロンティア精神か?(笑)


まさに去年の大統領選挙がコレでした。
選挙が郵便投票になったと聞いた時「ヲイヲイ  民主党はインチキやる気マンマンだな」と思いましたよ
民主党にはラッキーでしたね  コロナが流行ってくれて大義名分が出来た。

    あ、わたしはリバタリアン支持者ですので勘違いの無いように願います。



ご近所の人で日本では学生運動をしてて  「アメリカは出て行け!」   なんて叫んでたのに
アメリカに住んでいる。国籍もアメリカ。

で、
民主党のサンダース議員が「授業料が高過ぎるから州立大学を無料にする」と叫んで
このご近所さんは大賛成。

でもね
州立大学を無料にするとしたら  財源は?
その為には学部を減らすとか教官を減らすとかになる。

そこの子供さんは州立大学で教えているのですよ。コレが自慢。


     だから言ってやった
     「馘首ってアメリカではどういう人が対象になるか知ってて賛成なの?
      まず  上と下を切ることだよ。
      高給の教授や新米の教官を  最初に首にするんだよ。
      ということはお宅のお子さん、最初に首になるんだね」


わたしは学生運動世代じゃないから  あの世代のメンタリティって  分からないのです。

     ただの流れだったのか?
     アメリカの学生の真似だったのか?
     学生運動の出発がUCバークレー校ですからね、超優秀大学ですから
     ゲバ棒持ってヘルメット被って顎のところに手拭いをハメるというのがファッションだったのか?



名古屋大学の前を通るたびに立て看があってスローガンが勇ましく書かれてあって
そういうシュプレヒコールをやってた人が住んでる国がアメリカ?そして国籍はアメリカ?

要するに 生活保護を受けるのにアメリカ国籍が都合が良いから  アメリカ国籍を取得した?

この家庭は奥様が自分1人の話として
生活保護受給で自分の収入は目いっぱい個人年金に加入して月に4500ドル収入があって
家賃は生活保護で500ドルで済んでたのが800ドルに値上げになったと怒ってました。
ご主人の分は知らないです。



わたしはリバタリアン支持だけど
  「課税は窃盗だ」「アメリカは外国から手を引け」  
というのが党是なんだけど
   (ムリ  あるな)と分かっています。
だから  党員  ではない。


それで  わたしにオルグに来ます。笑


その場合の答えはちゃんと用意してありますよ、用意周到なセイカクなんで。
「生活保護でのんびりマッタリ生きていきたくなったら民主党に入るね。その時はよろしくっ!」


わたしには民主党というのは全く理解出来ない。


オバマ時代、中国は「ハワイを寄越せ」と言ったのですよ。
    実はその前にヒラリーにも言ってたんだそうです。

G2だっけ?あの頃。
世界を中国とアメリカで支配しようって密約があったでしょ?
    ハワイ以東をアメリカが支配し  ハワイの西側を中国が支配する
    ってヤツ。

    だから中国は西沙諸島とか南沙諸島あたりに基地を作り始めてもオバマは何も言わなかった。

        この時のフィリピンが面白かった  (戦うベトナムとは全く態度が違ってたね)
        さんざんアメリカに「フィリピンから出て行け」と言って実際に追い出しておきながら
        中国が基地を作り始めたら「アメリカ!戻って来て〜!助けて〜!」


だからバイデンが対中国をどうするのか?
バイデンはハワイを借金のカタに中国に引き渡すのか?

        この部分  覚えてます?
        アメリカ国債をしっかり買ってたのが中国で
        それで中国は「ハワイを寄越せ」と詰め寄ったのですよ。

        そう言いながら中国は影でアメリカ国債を売りまくってた。
              これはバレてた。
              だからハワイは中国に割譲とはならなかった。

中国のしたたかさをアメリカは分からなかったのよね  日本並みにチョロイ  と踏んでたから
まさか中国が「ハワイを寄越せ」と言って来るとは思ってなかった。


ま、アメリカってお人好しと思いますよ。

技術をソ連に与えて脅威に育て     ま  自滅してくれたけど
?小平以後、技術を中国に与えて脅威に育て   今  ココ    ジタバタやってるところ。


日本の首相はコロナ対策ワクチンをアメリカに買いに行って  いくらお支払いするんでしょう?
対価はちゃんと払わされるんでしょ?


そして北の黒電話も何やら動き始めたらしい。


アメリカの強みは外国から優秀な人材を招聘するところ。  つまり自国のアホはアテにしていない。
外国人にもちゃんと優遇もするし。
だからアメリカン・ドリームは続いている。


ただし日本の80−50みたいに
落ちこぼれ。。。じゃなかった  その他大勢の  フツーのアメリカ人は困窮していくんだろうなと思う。

1970年代  カーター大統領の時代の高金利政策で  フツーのアメリカ人の第一次凋落が始まってました。
それ以前は  義務教育の高校を出ていれば  フツーのアメリカ人夫婦はプール付きの家が買え、大型の車を3台は持てたのに。


1980年には夫婦共稼ぎどころか  ご主人はMOONLIGHTING=副業=とか呼ばれる夜のお仕事にも行ってダブルワークで家計を支えてました。


アメリカン・ドリームを果たした親のもとに育った子世代はどんどん貧困層に落ちていき
生活保護頼り。

それで今回の菅首相のお買い物代金はこの貧困層に回されるのかなと思っています。
ファイザーは確か1回分が20ドルだったような?
ということは  20億ドル?  約2000億円あたり?

調べて来ました:
https://observer.com/2020/11/covid19-vaccine-price-pfizer-moderna-astrazeneca-oxford/
Pfizer: $20 per dose.
Moderna: $10 to $50 per dose.
AstraZeneca: under $4 per dose. 安いね〜。だから安かろう悪かろう、か。


日本の80−50問題
日本の親は優しいね。

アメリカの親は子供の金銭的世話をする余裕はありません。

だからアメリカは外国から優秀な人を入れないと国が回らないんでしょうね。
アメリカからアメリカン・ドリームが無くなったらアメリカの終焉ってコトでしょうね。


アメリカン・ドリームを果たした親世代は子を日本の大学に行かせ
自分は老後を日本に「おんぶにだっこ  よろしくねっ」ということか。
[30]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年04月23日 12時06分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 毎日雑用・苦情処理があり、歴史への集中が出来ない状況でありますが、頭
が解放されるひとときもありますので、何とか前に進めたいと思います。

 松島氏については、いろいろな史料にあたっておりますが、南信濃より当地
へ至っていることはほぼ間違いありません。ただ、出自において小笠原系だっ
たのか、藤沢系であったのかについては両方の可能性があり、混沌としており
ます。藤沢系も小笠原系と交わっているので、この際両方正解ということにし
ておきます。

 つまり、松島氏は大元は諏訪神家(ミワケ)で、その後小笠原源氏系の血が混
じったという血脈であります──
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月23日 14時41分26秒 ) パスワード

三つ柏さん

日本の名字は細分化し過ぎてワケ分からないですよね。
   氏姓制度でハッキリしてれば分り易いのですが
   地名から出た苗字は  もう分からない
   その上に屋号だったら もっと分からない。
   漢字も変えるし。


      名字と出身地で   想像は出来るけど  当たっているかどうかは別の話。    


中国人と朝鮮人は名字を大切に守る   と思ってたけど

中国人でも  曹 という(立派過ぎる?  野蛮過ぎる?)名字が嫌で   違う名字に変えたという話を知って
ビックリ仰天しました。
儒教の民なのに   先祖に対する物凄い裏切り行為じゃん  と驚きました。
    女に生まれるより恥ずかしい事じゃないのか?と。


中国人や朝鮮人に比べたら  日本人は  簡単に名字を変えて来たな、と。
それも自分の出自が分からなくなる状態にまで。


兄弟は他人の始まり
そして
コトに当たって  
血は水より濃くなる。


これが日本人なんだと思います。


小室圭氏も   藤沢の名家の小室家から遡ると  
   木曽義仲に従った小室氏  vs  頼朝に従った小室氏
結局は   頼朝に従った御家人の小室氏の末裔なのかな?と。



>毎日雑用・苦情処理があり、歴史への集中が出来ない状況でありますが、
>頭が解放されるひとときもあります

コロナを拾わないように  本当にお気をつけください。

最近は  アマゾンで大流行したマナウス型=複合型変異株が日本でも流行するんじゃないかと

アメリカは現在世界の80%の国々との行き来を禁止だそうです。日本は大丈夫ですが。
      


わたしは4月16日(金)に2回目のファイザー・ワクチンを接種しました。

    1回目は2日目に打ったところが筋肉痛になっただけでしたが

    2回目は噂通り  副反応がありました。
  
       わたしの場合はベッドの中で皮膚がひりひりピリピリして眠れず
       寝てないのでアタマがボ〜ッとしてたので外出を止めた方が良いなと思い  家の中にいることにしましたが

       24時間後には接種した事さえすっかり忘れ去っていました。
       でも念の為に外出は止めて家の中にいました。

       接種24時間後以降は  100%ワクチンを打ったことを記憶してないぐらい  フツーの状態  でした。


副反応は個人差があって
   アタマがボ〜っとしただけの人
   翌日は病欠した人
実にさまざまだったそうです。


今年の役員さんはコロナワクチンの接種の雑用もさせられそうですね。
日光消毒でウイルスは8分の1まで弱まるとか?
影が自分の身長より短ければUVを受けて体内でビタミンDが作られるそうです。
しっかり出歩いてください。
骨だけでなく癌対策にもビタミンDは有効だそうですから。
北緯37度以南の  時間帯は   午前10時〜午後3時  が該当ですね。


若造はこき使われるけど  爺さん連中と話していたら  何か天啓が閃くかも。
アタマの中を整理するには雑用の時間は必要かもです。
ふふふ
[32]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年04月25日 08時36分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 エアーメール届きました。ありがとうございました。

 さて、引き続き集中できなんい精神状況が続きますが、少しでも歩を進めた
いと思います。

 松島氏については、各論においてはいろいろな情報の不整合・乖離がありま
すが、大きな流れの仲論で捉えれば、ある程度その姿が見えてまいります。

 歴史にとって一番大事なのは、「いつ(When)」であります。松島氏がいつこ
の地にやってきたのかということですが、現実味のある家譜としては、市野氏
との関係、市野惣太夫の妹・そのを松島対助が娶ったということであります。
市野氏は1600年、たぶん9月の関ヶ原の戦いの後だと推察いたしますが、
浜名十郷の代官となっております。徳川家康からかなりの信頼を受けていたと
いうことになります。その市野氏に松島氏は仕えていたとみなすのはごく自然
のことだと思います。どんな形で仕えていたのか、どんな経緯で仕えていたの
かの史料は今の所ありませんが、たぶん武家出身で信濃の松島城主一族として
の評価により、この地に土地を与えられまた開発し、名主あるいは領主として
羽鳥周辺をある意味支配していたものと思われます。

 JIJI会の用事でまた──
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月26日 12時18分28秒 ) パスワード

三つ柏さん

菊蔵さんのブログ

全文はURLへ:
https://ameblo.jp/blogbears/entry-11784558724.html
2014年03月01日(土) 16時00分00秒
遠江国説話集番外編〜市野氏と万松山宗安寺(浜松東区市野町)

        数年前にも参考にさせて頂いたと思いますが
        再度コピペ(菊蔵さん  ごめんなさい)


江戸時代初期、この市野には代官がおり、地名から「市野氏」を名乗ります。
『寛政重修諸家譜』によると、元は近江の「浅井氏」の出となっており、
浅井一族の一人がこの地に土着し、
鷹狩りに来た徳川家康から「地名をもっと姓とせよ」と声をかけられたことが始まりだとされます。


この市野氏代々のお墓があるお寺が
万松山 宗安寺
曹洞宗寺院で、永禄元年(1558)に創建され、創建には市野氏も関わっていたようです。


平成十一年、檀家である鈴木六郎氏が寄贈したもので、塔内には聖観世音菩薩が祀られています。

             この鈴木さんのお名前を記憶しております。


参考文献
『町名の由来』(飯塚伝太郎 川崎文昭 神谷昌志 辻真澄 静岡新聞社 昭和五十四年)
『浜松歴史散歩』(神谷昌志 静岡新聞社 昭和六十年)


ということで  もしお忘れでしたら再度参考にさせてもらってください。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月26日 12時58分17秒 ) パスワード

録画してあった番組を見ていたら

弟というか父にそっくりな人が出てて
   でも このご時世  マスクをしているので
   目から上しか映ってないのですが
実に驚きました。


   平野紫耀にもソックリでした。
   目から上の眉やおでこや生え際や髪質などもソックリ。


その番組のその箇所は  伊勢神宮の神事の何たらの紹介で  
カッタルイ内容だったので  最速で飛ばして見ていたので
気力が湧いたら  見直すかな   と思いますが  
もともと興味が無い内容なので削除するかも。


    でも  ひょっとすると  忍者の子孫かも   と思い始めました



この録画の男性ですが名字は服部じゃありません。
    母方の伯母の嫁ぎ先と同じ名字ですが  
    住んでる場所は市の名前は違いますがスグ近所同士の市です
         全くの赤の他人と思います。
でも  この人物の顔は父の顔です。



驚きました!
顏  ソックリ!
名字は違うけど 
 
そこの藩は家老が服部氏で
服部一族がかなりの力を持っているエリアです。

だけど  その家老の服部家は半蔵さんの流れだから
ウチとは関係無い服部さん   のハズ。  


ロス時代の同僚のアルゼンチン人が父にソックリでビックリしたのを思い出します!

彼の父親は鈴鹿の出身で (だから父に似てる?)   
彼の母親は愛媛の出身で (だから母とも似てたりする?)

         つまりワタシと似てる?


我が家は奄芸郡出身だから   鈴鹿も含まれるから
だけどウチが奄芸郡を出たのは14世紀だものね。



前から人の顔を見ると
(あれ?繋がってるな)とか(わたしには関係の無い人だな)とか  思って来ました。

それで興味を持った場合は  身辺調査をしたくなります。
「どこの出?」とか「お母さんの旧姓は?」とか。
名字と出身地でだいたい想像がつきますからね。

    かなりアヤシイ人だな、ワタシ。


    東京の人の場合は  田舎出身と言いたくないようで  なかなか口を割らないな
    江戸にいつから住んできたの?とコッチは訊きたいわけ。
       過去形ね。東京の過去形。笑
          知り合いが長嶋選手と同じ学校出身で  
          長嶋さんは英語の授業で過去形で「東京」を言う時は
          「江戸」って言うんだって
    昨日今日東京に住んで   出身地を隠したがる人は  わたしはそれだけで興味が無くなる
    知りたいのは  江戸に来る前に住んでた場所  なんで。


というワケで録画に出てた男性にショックを受けて  未だに  立ち直れないです。
[35]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年04月26日 13時17分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 JIJI会の三役の一人の祖先が、調べたら服部半蔵が浜松で領していた小池(町)
開発主であることがわかり、びっくりです。つまり、服部半蔵の在地領主格であ
ったということ。たいへんしっかりした人です──

[36]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月26日 13時25分29秒 ) パスワード

三つ柏さん


さすが浜松!
思わぬ所で思わぬ人物と出会えましたね!

雑用係の若造扱いされても愉しくなりましたね。

人生は楽しい事がなくっちゃね。
[37]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年04月27日 12時20分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 善地の村社には棟札が残されていて、その最初のものは、天正十年(1592)に 
再興された時のものであります。再興ということで、何らかの原因で壊れたも
のか、または焼失していたものと思われます。
 この時の「願主」、即ちパトロンは「藤原 左近尉 忠吉」となっております。
 この忠吉は、羽鳥の「松島 源右衛門 忠吉」に比定されます。この「松島源
右衛門家」へは、「松島右衛門家」の「忠兵衛源宗吉(幼名 対助)」が一度養
子に入っておりますが、義父の後妻に跡継ぎが生まれたので、土地を半分もら
い(市野惣太夫の仲介で)、自分本来の「右衛門家」の分家として「忠兵衛家」
を起こしております。松島家に御三家があるといいますが、これら「右衛門家」
「源右衛門家」「忠兵衛家」なのか、忠兵衛家の代わりに他の松島家が入るの
か、今は定かではありません。
 では、なぜ「羽鳥」あるいは隣接する「中善地」の松島家が、4キロ程北に
ある「善地」のパトロンであったのかの問題ですが、正保年間(1645前後)まで
は、善地は南北に長く存在しており、正保の時代になって、上善地、中善地、
末島の三村を分村しております。忠吉は1541年生まれでありますので、分村す
る前の時代に生きた方ということになります。
 いずれにしましても、諏訪・藤沢・小笠原系の武士・松島氏は、家康の下で
在地領主的な存在となり、そこそこ広大な領地を支配していた、あるいは帰農
して名主(みょうしゅ)、その後大庄屋になっていたと思われます。
 善地の村社の祭神ですが、棟札には「大明神」となっており、この地域(天竜
川下流平野)から推測すれば「諏訪大明神」で間違いないと思われます。松島氏
が元々は諏訪神族であることを考えれば、それは当然の帰結でもあります。

 次の代の棟札については、次回に──

[38]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月27日 13時54分18秒 ) パスワード

三つ柏さん

天正十年   は  1582年  と記憶しています。
信長が暗殺された年です。


>忠兵衛源宗吉(幼名 対助)

対助さん
懐かしいですね。

>忠兵衛 源  宗吉(幼名 対助)
この名乗りからすると  「源氏」「源姓」なんでしょうかねぇ?

そうすると  小笠原氏の出身  という意味なのか?
または    小笠原氏から拝領したのか?
はたまた   どなたか別の源氏系の家から頂いたのか?


さすが日本!
氏姓がぐちゃぐちゃ。

ホンヤさんは「うちは源氏」とおっしゃってましたしね。
    後醍醐天皇崩御の前に頂いているから

母方も「源氏」と言います
    後鳥羽源氏です。


どーでも良いんですけどね
「日本」ですから「骨抜き」にするのが得意な民族なんで。

[39]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月28日 05時06分38秒 ) パスワード

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%B0%8F

ウイキで小笠原氏について読んで来ました。


松嶋家家譜に出てた「高天神城落城」とか「里見家」の書き込み  を思い出しました。
どういう意味で書き加えたのか?
家譜には書かれていませんが  そういうのは  一子相伝などで代々語り継がれる部分なのかな  と思います。




爺会の皆さんが鬼籍に入られた頃には三つ柏さんは「現代遠江国長上郡風土記」を完成させていらっしゃると思います。

是非国会図書館に寄贈なさってください。
それから静岡県歴史編纂課とか浜松市歴史編纂課とか県立図書館とか市立図書館
それから桑名ですね。


知り合いが行政系だったと記憶していますが
やはり国会図書館とか国立大学に寄贈してましたよ。

     中には拒否して送り返して来た某国立大学もあったそうですが。
     内容が行政系でしたから。


松嶋家の方から何が伝えられて来たのか教えて頂けると良いですね。

     高天神城の戦いなんて武田と徳川で取って取られてまた取って取られてのヤヤコシイ局地戦ですけど
     勝頼が信玄より優れていた  なんて信頼を得た戦いでもあったのですから
     松嶋家にとって  ご当家に関わる  意味のある戦いだったのかも。
[40]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年04月29日 12時44分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 前レスでの激励、ありがとうございます。歴史探究丸7年経過して「松島氏」
の6割くらいの全貌が見えてきました。

 第一の棟札に書かれていた願主は「藤原左近尉忠吉」、神主は、「禰宜 藤
原藤太夫国次」と「禰宜藤原次郎太夫久吉」、大工は「藤原左近太夫次秀」で
ありました。

 第二の棟札は1636年(寛永13年)に作られておりまして、願主は「松島
左近尉忠重・忠沢」、つまり松島氏であります。これは第一の棟札に遡って類
推され、「藤原左近尉忠吉」は松島氏であろうことがわかります。なぜ松島氏
が「藤原」を名乗ったのかは、母系の名乗りなのか、家格の誇張なのか、神主
の名乗りなのか、はっきりはしません。

 神主は「禰宜 藤太夫家次」、大工は「藤原朝臣左近太夫次秀」であります。
 目的はやはり「再興 大明神宮」で、何らかの要因で神社が壊れたものだと
推察されます。
 その頃の地震を探ってみますと、1604年に「慶長地震」という東海・東
南海・南海の連動地震があり、M8.7、大津波が発生、現静岡県での死者はおよ
そ1,000〜2,000人と推定されております。

 一つ不明なのは、神社の所在地が「豊田郡羽鳥庄懸山郷」となっていたこと
であります。この懸山郷という地名は今探してもどこにも載っておらず、たぶ
ん羽鳥七郷の一つなのかも知れませんが、それまでは存在し、正保年間(1644〜1647)に善地から三村を分村した時に消滅したのではないかと想像しています。

 第三の棟札については次回に──
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月29日 14時30分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


>なぜ松島氏が「藤原」を名乗ったのかは、母系の名乗りなのか、家格の誇張なのか、神主の名乗りなのか、はっきりはしません。

皆さんが「藤原」「藤原」と称しているのは
元々の土地の所有者が藤原氏だったからかも知れません。

だから松島氏が藤原「姓」でもおかしくないのかも。


日本の名字は  やっぱり  ワケ分からないです。
我々が現代の時代に考えている名字とか姓とか氏とかとは感覚が違うのかも。





豊田郡羽鳥庄懸山郷を検索していたら興味深いサイトに行きました: 全文はURLへ

コピペが非常に厄介で  以下のコピペでは誤りになっているかも、ですからURLに行ってください。  


荘園の発生と大規模荘園の成立
〜県内の事例からみる荘園の成立〜

https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/50/1/ssr1-14.pdf

1 県内に出現した荘園
 743(天平てんぴょう15)年に墾田永年私財法が発布され、開墾した田地の永久私有が認められることとなった。この法令を契機として、中央の貴族や寺院は地方豪族とむすんで大規模な開発を行うとともに、買得による私有地も広げ大土地所有が始まっていった。このようにして成立した8〜9世紀の荘園を初期荘園とよんでいる。

 それでは、いつごろ史料上に静岡県内の荘園があらわれるのであろうか。『日本三代実録』864(貞観6)年3月4日庚寅条によれば、内蔵寮の所領であった遠江国 長
上郡の田地 164町が 貞観寺に施入(寺社に寄進すること)されている。次いで『日本三代実録』865年9月14日壬辰条によれば、遠江国 長下郡の水田12町も貞観寺に施入されている。貞観寺は、藤原良房と僧真雅により建立された嘉祥寺の西院が、862年に独立して貞観寺と称した寺院であり、現在の京都市伏見区内にあったがその後廃絶した。

 〈史料1〉の872年に作成された『貞観寺田地目録帳』は貞観寺領の田地を詳細に記録したものであり、諸国にわたる貞観寺の寺領を知る上で貴重な史料である。この史料では、長上郡の所領を市野庄(荘)といい、遠江国長下郡の所領を高家庄(荘)といった。市野荘はその約4割が未開発地であり、高家荘は荒田となり、もと清原池貞の一身田であったことがわかる。市野荘は浜松市東区市野町付近に比定されており、中世の史料には「市野郷」の名がみえる。高家荘の所在は不明であるが、磐田市の天竜川河口付近とする説もあり、天竜川の洪水のため荒れ地となっていたことが考えられる。

 初期荘園では、荘園領主は律令国家の地方支配機構を利用して国司や郡司に経営をまかせ、班田農民の小作である賃租による労働に依存していた。そこで国郡制の変質とともに、初期荘園の多くは10世紀までに衰退していったといわれる。市野荘も高家荘もその後の史料にはみえない。


2 県内における領域型荘園の成立

     努力を放棄して、そのままコピペします

 また一方では、開発領主が所領を中央の権力者である貴族や寺社に寄進することによって寄進地系荘園が成立し、11世紀半ばには各地に広がった。この時期になると静岡県にも多数の荘園が生まれ、なかでも遠江国には、荘園を設立する際の手続きである立りっ券けんによる四し至し牓ぼう示じにより、広大な地域を囲い込んだ領域型荘園がいくつも成立することが特徴である。その代表例が池いけ田だの荘しょうであり当時の豊とよ田だ郡内にあった。

 池田荘の成立は長ちょう承しょう年間(1132 〜 1135)あるいはそれ以前にさかのぼり、白しら河かわ・鳥と羽ば院政と密接な関連をもっていた。その後池田荘は、1170(嘉か応おう2)年に池田荘の領主であった太たい皇こう太たい后ごう宮ぐう権
ごんの大たい夫ふ藤ふじ原わらの俊とし盛もりから、松まつの尾お社しゃへ寄進されることとなった。俊盛は、後ご白しら河かわ上皇の近臣であり、遠江国の知ち行ぎょう国こく主しゅともなり子息季すえ能よしを遠江守かみとしていた。松尾社とは京都市西京区に鎮座する松まつの尾お大たい社しゃのことである。この地方を開拓した秦
はた氏うじによって祭られた古社であり、平安遷都後には王城鎮護の神として重要視された。その神領は平安時代に拡大の一途をたどり、全国各地に荘園をもった。

 ところが池田荘の四至の牓示を打ち立券しようとしたところ、南西に接する川かわ
匂わの荘しょうとの間で境界をめぐる相論となった。この相論は太だい政じょう官かんに提訴されると高たか倉くら天皇の宣せん旨じが下され、池田荘の主張どおりに境界が決定された。続いて1171年2月19日に宣旨に従い、現地で池田荘と川匂荘の境界が確認され、立券作業が終了して立券文が作成された。

〈史料2〉(『遠江国池田荘立券状』)はこの立券文案であり、松尾大社所蔵文書として伝えられたものである。史料に残る地名と現在の地名とを比べて推定すると、池田荘は南北に長い台形状で、天竜川下流域一帯の磐田市から浜松市にまたがる、約20kuもの広大な領域をもった荘園であった。この立券文案は、立券当時の荘園の構造がよくわかる貴重な史料である。

〈参考文献〉
『静岡県史』通史編1原始・古代 第3編第2章第4節 他
『浜松市史』一 古代編 第5章第3節
谷岡武雄「天龍川下流域における松尾神社領池田荘の歴史地理学的研究」(『史林』49巻2号)



脱力


URLでご確認を。
窓8のwifiが繋がらず窓10のPCを使用しているので  使い勝手が悪くて  編集できないです。
[42]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年05月01日 10時52分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 エアーメール第二弾届きました。ありがとうございました。

 さて、羽鳥七郷がほぼわかりました。『遠江国岩田海袖之浦由来記』という本
の中に書かれておりました。それによると、羽鳥は、(南から)白鳥・常光・末島
・中善地・羽鳥、下善地、上善地までを云うと書かれていました。
 中世の羽鳥庄はもっと大きいもので、長上郡と豊田郡を股にかけていたと思わ
れます。天竜川の洪水によって土地の形状・位置がしばしば変わったので、近代
に堤防ができるまでは、地形は常に流動的であり、変動した。また、紙面に描か
れた記録等も、ほとんどは水浸しになったり流されたりで消失したと思われます。

 ちょっと用事にて──

 
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月01日 14時43分24秒 ) パスワード

三つ柏さん

天竜川の氾濫によって地図は何度も書き直されたのでしょうね。
日本中で同じことが起きていたし
一番有名なところではナイル川の氾濫ですね。だから測量技術が発達した。


豊田郡羽鳥庄懸山郷の場合、懸山郷は政治的に消えたのか行政的に消えたのか物理的に消えたのか、
何故消滅したのでしょうね?

天変地異で消えたのだったら住民も一緒に消えた?だったら気の毒でした。
でもお経を詠んであげたらちょっとは慰められるかも。

こうして先人達を思い出してあげることはとても良いことだと思います。
[44]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年05月02日 15時46分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 戦国(室町)時代から江戸時代にかけて、巨大地震が4回襲っています。これは、
今のような科学的な耐震基準のない時代のことゆえ、建築物については想像を絶
するような被害があったことと想像いたします。それは地震によるものと、津波
によるものであります。
 @明応地震(1498年 M8.3前後)・津波
 A慶長地震(1604年 M8.7前後)・津波
 B宝永地震(1707年 M8.4前後)・津波
C安政東海地震(18547年 M8.4前後)・津波
 D安政南海地震(18547年 M8.4前後)・津波
 具体的な被害については省きますが、@の明応地震の時に舞阪と新居の間にあ
る浜名川(浜名湖から遠州灘へ注ぐ)一帯は津波に飲み込まれ、大きく今切口とな
って開き、そこから海水が満ち潮の時に流入するようになり、浜名湖は汽水湖と
なったようです──
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月03日 16時36分55秒 ) パスワード

三つ柏さん

>浜名湖は汽水湖

ではボラが繁殖し過ぎているでしょうね。
うちのスグの汽水エリアでは虫取りタモでも1掬いで10匹〜20匹は確保できるかも。



冗談はさておき
安政東海地震  1854年   嘉永7年11月4日(1854年12月23日)
安政南海地震  1854年   嘉永7年11月5日(1854年12月24日)
この天変地異や前年の黒船来航を期に改元で安政と改められ、
歴史年表上では安政元年であることから安政を冠して呼ばれる
でしたね。

>明応地震の時に舞阪と新居の間にある浜名川(浜名湖から遠州灘へ注ぐ)一帯は津波に飲み込まれ、
>大きく今切口となって開き、そこから海水が満ち潮の時に流入するようになり、浜名湖は汽水湖となったようです

そうでしたね天竜川だけじゃなかったですね
フォッサマグナを忘れていました。

糸魚川静岡構造線と中央構造線が通ってましたね
巨大地震とその後の津波を忘れていました。




村社は何度も建て直されたんでしょうね。


一向一揆のご本の中で読んだ三河のお寺さん。

近所に住んでた時は  古くてぼっこちぃ  なんて思ってましたが
今は村の人達がお金を出し合って再建したんだろうな
と思います。

壊されたり焼かれたりして再建するにも  まず  解体が大変な作業だったんだろうなと。
宮大工も雇うのは大変だったろうし。


三つ柏さんは  今は大変な責任を頂いて  村を守る  ということをなさっているんだなと
改めて思いました。


若造はお年寄りの子守りに大変ですけど
村の歴史などを教えて頂く機会だということで
頑張ってください。

三つ柏さんが後世に伝えていく役ですから。


皆さん  どんどん鬼籍に入って行かれるのですから  三つ柏さんの世代が最後の機会でしょうね。
[46]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年05月04日 07時31分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 毎日雑用があり、集中力を欠いております。

 さて、「自治会三役」というもの、江戸時代における村「村方三役」と同じ
ようなものかも知れません。もちろん、内容は全然違いますが、村のまとめと
いう意味では似ていると思います。
 これらの三役を比較してみますと、自治会会長=庄屋(名主)、自治会副会長
=組頭、自治会会計主任=百姓代に匹敵するような感触であります。私の立場
は、さながら組頭ということになります。
 おもしろいことに、今回の三役、その祖先をたどってみますと、会長が清和
源氏・新羅三郎義光を祖とする佐竹氏の分流であります。会計主任は、村上源
氏・赤松氏の分流であり、小池村の領主・服部半蔵正成の時代にその地の開拓
主の一人となっておりました。
 私は、彼らの顔を見ながら、歴史の奥の向こうにある、彼らの祖先の顔や姿
を想像し、ほくそ笑んでおります──
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月04日 14時19分23秒 ) パスワード

三つ柏さん

>彼らの顔を見ながら、歴史の奥の向こうにある、彼らの祖先の顔や姿を想像し、ほくそ笑んでおります

醍醐味ですね。

名字を聞いて、出身地を聞いて、
そうしたら見えて来ますものね
自分の先祖との関係が。


ヒトと知り合うって、ホント、愉しいですよね。
レベルの似たような学生時代の友人でもなく、利害の伴う仕事関係でもなく、
全く新しい人間関係を築いて行くのは厄介ですけど楽しみがあります。

三つ柏さんは爺会では洟垂れ小僧扱いされましょうけど  ハナシを聞いてやってたら  全く予想してなかったような事を知ることが出来ますよ。


わたくしも最近実家の村社が戦争中「ここにお参りすると生きて帰れる」ということで人気だった事を知りました。
そう言えばご近所では戦死した人のことを聞いたことが無かったなと思い出しました。
本当に霊験あらたかだったのかなと。

だから  誰かが  地元の事をちゃんと後世に遺しておかないとね。
[48]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年05月10日 13時20分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 しばらく雑用・雑念で集中力を欠いておりました。
 それと同時に、以前からの解決の糸口のはっきりしない判断事項に向き合っ
ておりました。
 それは、江戸時代以前よりこの村(当時の世帯数はおそらく40戸前後)で共
生してきた永井氏の出自であります。
 永井氏はおよそ、次の三つの系統に分けられます。
 @永井直勝系
 A利仁流美濃斎藤永井(長井)系
 B大江流永井(長井)宗家系
 といってもこれは方便のようなところがあり、@は大江・大橋・長田・宗良
親王のミックスチャーであり、Aは藤原・斎藤永井のミックスチャーであり、
Bが大江氏の本流であります。@とAは、永井(長井)を称したBの大江時廣の
流れと交わって永井氏となっております。つまり、近からず遠からずの関係で
つながっております。また、ついでながら永田氏も永井氏・長田氏の分流に見
られます。
 遠江における永井氏の集団としては、わが村が一番で、二番は磐田市の南西
部(昔は長上郡だったかも知れない)の村です。
 現在、我が村の墓に見られる永井氏の家紋は、「永井梨の切り口」と「丸に
三つ柏」が半数ずつそれぞれ約15基、最も古い永井氏の墓には、「一文字三
つ星」がかすかに残っているものがあります。
 磐田の方は、皆「永井梨の切り口」で約20基くらい。この磐田の寺は宝珠
寺であり、大浜の永井氏の本拠寺と同じ名前なのは気になりますが・・・。

 ここで一休み──

 
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月12日 00時46分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


https://myoji-yurai.net/

【名字】永井                 わたしの名古屋の知り合いはコレ。
【読み】ながい,なかい
【全国順位】 135位
【全国人数】 およそ145,000人
【名字の由来解説】
@江戸時代の大名家のひとつ永井氏は桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)。
A他に菅原氏、現秋田県の羽後国秋田郡大平村の豪族である大江氏(土師の族で相撲の元祖の野見宿禰の子孫。平城天皇の子孫ともいわれる)、
B中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。
C藤原利仁流。
などにもみられる。


【名字】長井                わたしの岐阜のクラスメートはコレ。いかにも美濃の名家出身者
【読み】ながい,ちょうい
【全国順位】 549位
【全国人数】 およそ36,000人
@現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵の中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)利仁流。
A現神奈川県である相模の桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)。
B現山形県の広域である羽前の大江氏(土師の族で相撲の元祖の野見宿禰の子孫。C平城天皇の子孫)。
など大族が多くみられる。



【名字】大江
【読み】おおえ,おおみ,おうえ
【全国順位】 613位
【全国人数】 およそ32,300人
@現京都南部である山城国乙訓郡大枝郷が起源(ルーツ)である、平城帝子孫大江朝臣の子孫。
Aほか源、平氏の異流などにもみられる。



いわゆる大名の永井さん

永井氏
本姓 桓武平氏長田氏流 大江氏
家祖 永井直勝
種別 武家 華族(子爵)
出身地 三河国碧海郡大浜郷棚尾     碧南の永田さんの一族が出世して家康より永井姓を拝領した  ってのですね。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E6%B0%8F

家紋

一文字三星

丸に梨の切り口(加納藩主永井家ほか)
宝暦6年(1756年)、陸奥磐城平藩へ移された信成に代わって武蔵岩槻藩主・永井直陳が3万2000石で入る

永井鉄線(高槻藩主永井家)   『永井鉄線』は3代将軍徳川家光より拝領
慶安2年(1649年)以降、藩主が短期間で相次いで変わり、藩主家の交替が相次いだ。
慶安2年(1649年)7月4日、山城長岡藩より永井直清が3万6000石で入った。




長田氏の家紋がもともとはhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%94%B0%E6%B0%8F
〇に三つ柏紋のようです。

尾張平氏。


本姓 桓武平氏良兼流   同良正流[1]
家祖 平致頼
種別 武家
主な根拠地 尾張国知多郡野間庄 (尾張国)[2]長田 長田屋敷[3]
伊勢国 ほか

長田氏
平安時代にかけてあった武家。
本姓は桓武平氏の一流である良兼流あるいは良正流[1]を汲む氏族。(〔1〕『尊卑分脈』より)

概要
良兼の孫致頼の代に長田を称して、尾張国に勢力を張り、尾張平氏とも呼ばれた。
平治の乱において敗れた主君の源義朝を暗殺し、平清盛に寝返った長田忠致がいた。

歳月は流れて、義朝の子頼朝が関東で勢力を拡大すると、亡父の仇を討つべく討伐の将を派遣した。

しかし、忠致は頼朝に恭順の意向を示したが、頼朝は許さずに忠致は子の景致とともに粛清され、長田氏嫡流はここで途絶えた。


野間村(野間町)、美浜町大字野間
美浜町大字野間字新松下 長田屋敷跡
碧南市長田町(三河国碧海郡大浜郷(大浜氏))
長田親致(忠致の兄)の後裔と称した徳川氏譜代家臣の家門。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月12日 01時19分27秒 ) パスワード

永井家の家格上の本家は櫛羅藩の永井家で家紋は一文字三星。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++


永井 直勝(ながい なおかつ)  旧姓 長田さん

生誕 永禄6年(1563年)
死没 寛永2年12月29日(1626年1月27日)


戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本、大名。
上野小幡藩主、常陸笠間藩主、下総古河藩初代藩主。
永井家宗家初代。


生涯
永禄6年(1563年)、三河国の武将・長田重元の次男として三河国碧海郡大浜郷(現在の碧南市音羽町)に生まれる[1]
(東浦町緒川の説もある[2])。


天正4年(1576年)、はじめ徳川家康の嫡男・信康に仕えたが、天正7年(1579年)に信康が自刃すると、徳川氏を去って隠棲した。

天正8年(1580年)、家康に召し出されて再び家臣となる。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは池田恒興を討ち取る大功を挙げたため、家康や織田信雄らから賞賛された。

                          池田恒興は信長の乳兄弟
                  

文禄3年(1594年)、恒興の次男・池田輝政が家康の次女の督姫を娶った際、輝政の求めに応じて、長久手の戦いで恒興を討ち取った際の事を語った。

このとき、直勝の知行が5000石と知った輝政は、父を討ち取った功績の価値が5000石しかないのかと嘆息したという。


文禄5年(1596年)2月7日、豊臣秀吉から豊臣姓を下賜されている[3]。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に近江国に2000石を加増され、7000石を領する。

大坂の陣にも参戦して戦功を上げ、元和2年に(1616年)上野小幡藩1万7000石に加増。

翌元和3年(1617年)には常陸笠間藩3万2000石を与えられ、後に2万石を加増される。

元和8年(1622年)、笠間を浅野長重に譲って、代わりに下総古河において7万2000石を与えられた。

寛永2年12月29日(1626年1月27日)、63歳で死去した。
跡を長男の尚政が継いだ。


子孫

子孫に作家の永井荷風や三島由紀夫、狂言師の野村萬斎などがいる。

すなわち、直勝と大河内秀綱次女の由利姫との間に生まれた正直が荷風の12代前の祖先(鳴尾永井家)であり、

                 大河内と聞いたら連想するのは家康の祖母の華陽院さまであり南朝方だね


直勝と阿部正勝の娘との間に生まれた尚政が三島の11代前の祖先にあたる[4]。


碧南市音羽町にある宝珠寺には、永井直勝生誕の地の碑が建てられている。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月12日 02時02分22秒 ) パスワード

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E6%B0%8F

長井氏(ながいし)は日本の氏族のひとつ。著名なものとして、以下の3氏族がある。


藤原北家利仁流斎藤氏族長井氏


桓武平氏良文流三浦氏族長井氏


大江朝臣長井氏          大江長井氏の家紋が一文字に三つ星

                 最初南朝方だったのが呆れて北朝方に転向


                    コレですね
                      ↓

                 近世大名の永井氏は家康の命で従来の名字を改め
                 武門の名家である大江氏流長井氏の系譜を継承する形で永井家を称した。
                 この時、家紋も従来のものから大江氏の一文字に三つ星に改められる。


                        ↑
                      コレでしたね


                 美濃長井氏
                  鎌倉時代、長井時広は美濃国茜部荘(旧厚見荘)の地頭でもあり代々これを相続したが、
                  南北朝時代に後醍醐天皇が茜部荘を没収し東大寺に寄進されている[8]。

                  その後、美濃長井氏には長井秀弘が美濃斎藤氏の斎藤妙純の重臣として現れ、
                  明応4年4月(1495年)の船田合戦において厚見郡の加納城の守将として活躍した。


                  なお、美濃長井氏は、守護代の斎藤利永の子利隆を初代とする史料もある[9]。
                  美濃長井氏の当主長井長弘は宗家の斎藤家の没落に乗じて、
                  その配下の西村勘九郎長利(斎藤道三の父)が「長井新左衛門尉」と称して、主命で美濃の権力を握った。

                  しかしその後1530 〜 1533年のわずかな期間に、長井氏(長井利安・長井長弘・長井利隆)らの謎の急死が相次ぎ、
                  新左衛門尉も死去したため、
                  長井家は新左衛門尉の子が継ぐ事になり、
                  その子は「長井規秀」を名乗った。

                  その後、規秀は「斎藤利政」(のちに道三)へと改称して、守護代斎藤家を継いだ。

                  一族のその後

                  長井道利は、斎藤義龍に「道三の子の暗殺」を提言、道三の息子二人は義龍の暗殺により死亡している。
                  斎藤氏滅亡後は足利氏に仕え戦うが1571年摂津で戦死。


                  長井道勝は、長良川の合戦では斎藤義龍側につき道三と戦った。
                  道三を生け捕りにしようとしたが、横槍が入り果たせなかったという。

                  のちに姓を井上に改め豊臣秀吉に仕えた。



大江姓永井氏の出自は  家康による  出自隠蔽  でしか無かった?
平氏でも源氏でもない別の出自を模索してヒットしたのがタマタマ大江氏ってコト?


平氏とか源氏とかだったら天皇家の出身ということで天下の政治を担当出来るけど大江じゃムリだ。
直勝にしたら男子の本懐からはかけ離れた出自を名乗れとなって悔しいだろうけど先祖がやらかした悪逆非道は消せないし
家康さまからの改名命令には逆らえないし。

               中国ほどじゃないだろうけど
               日本でも  出自とか名字を変えろ  とかって  え゛?  だねぇ?
               自分で変える分には構わないだろうけど。

               身分ロンダリングで源氏に変えろって家康から言われたら名誉だろうけど
               源氏でもなく  平氏を止めて  大江氏になれって  なんだよ?大江?  だよねぇ?


だから家紋だって  え?大江の一文字に三つ星に替えろって?  だよねぇ。



ということで大浜の永田さんが永井じゃなくて永田姓に変えたとか
大江の一文字に三つ星じゃイヤだから(?)他の紋に替えたというの
なんとなく分かりました。


「アイデンティティ」の問題。
そこに拘る心情。


母方も大坂の役で落人になって
名字を変え家紋を替えて
幕末に名字は戻せたけど家紋は許されなかった
その気持ちって
わたしは分かるけど  わたしの姪達の世代以降は   分からないだろうな
と思います。


長上郡の永井さん達のアイデンティティは家紋に出てるんだろうなと。


今時の結婚式で  レンタル着物でテキトーな家紋で  写真に収まってるのを見ると
     アイデンティティの無い家はヘーキなんだな
と思う。

わたしは当然母方の女紋で着物を作りました。
後鳥羽上皇から寵愛を受けた証です。

もし姪達が  どこか馬の骨の家紋のついた着物で結婚式に出席したのを知ったら  わたしは憤死だな。
ま、わたしはその頃にはこの世にはいないだろうから  いいかっ。


だからアイデンティティというのは家譜とか系図とかにちゃんと文字で(心情も)記しておかないとね。

今が最後の機会だと思います。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月12日 14時35分48秒 ) パスワード

三つ柏さん

レス<48>へのレス。


全然分かりません


大江(長井) 時廣   について:

長井 時広(ながい ときひろ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E6%99%82%E5%BA%83

鎌倉時代前期の朝臣、武将。
鎌倉幕府の御家人。

鎌倉幕府初代政所別当大江広元の次男。


            大江広元の4男(毛利季光)の子孫が毛利元就で家紋は一文字三星紋


兄大江親広が承久の乱で後鳥羽上皇方について失脚し祖父のいた寒河江に逃げたので
時広は大江氏の惣領となり幕府中枢で活躍した。

出羽国置賜郡長井荘を所領としたため、在地名を取って長井氏を称し家祖となった。

         嫡男長井泰秀が出羽長井荘を、
         次男長井泰重が備後守護を継承した。



≪疑問≫
何故家康は永井直勝に  大江姓永井氏にし  家紋を一文字三つ星にさせたのか?
まったく想像も出来ない。



直勝の父について
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%94%B0%E9%87%8D%E5%85%83

長田 重元(おさだ しげもと)
戦国時代の武将。松平氏・徳川氏の家臣。
古河藩主永井直勝の父。


平治の乱の際に源義朝を殺した長田忠致の兄親致の後裔という。
父広正(白次)は尾張国奴野城主大橋氏の子で、長田氏の養子となった。

         ぬのや城はまさに平家子孫の南朝方の城ですね
         https://aitisironisiowari.jimdofree.com/%E8%A5%BF%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E5%9C%B0%E5%8C%BA%E3%81%AE%E5%9F%8E/%E6%B4%A5%E5%B3%B6%E5%B8%82/%E5%A5%B4%E9%87%8E%E5%9F%8E/


以下コピペ

◆歴史

本格的な城館としては大橋三河守定高が正慶元年(1332年)に築いた事が始まりだが、鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝は、大橋肥後入道貞能の隠居地として海部郡門真庄を子孫の代まで安堵する書状を発しており、文治年間に貞能は息子の貞経に本拠地の肥後を譲り渡して津島へと移り住んでいる事から、建久年間(1190〜1198年)にはある程度の規模を持った屋敷が構えられていたと思われる。



貞経の息子の貞康は仁治2年(1241年)に三河国額田郡に青木城を築き大橋村を開いたとされ、大橋家は尾張・三河にかけてある程度の勢力を持っていたと思われる。



津島四家七苗字の代表的な地位となった大橋家は永享7年(1435年)大橋定省の代に、室町幕府に敵対していた後醍醐天皇の孫にあたる尹良親王に従い、世良田政義、桃井貞綱、津島四家七名字ら80余騎と共に、尹良親王が隠遁していた地である諏訪から三河足助に向けて進軍するが、阿智郡浪合(現在の長野県下伊那郡阿智村)に差し掛かった所で戦闘となり、尹良親王、世良田政義などが討ち死にを遂げる。



尹良親王の息子の良王君は津島四家七名字に付き添われて奴野城へと入城するが、頼朝の発した安堵状があるため、足利幕府は手出しできず黙認の形を取ったと言われている。



戦国時代になり、大橋重良は織田信秀の娘で信長の姉にあたるくらの方を正室に迎え、織田の連枝衆として信秀・信長父子を支えたが、奴野城は津島四家七苗字の中の一家である平野氏が治めていた。奴野城主として名前が残る平野賢長の孫は、豊臣秀吉に仕えて賤ヶ岳七本槍の一人として勇名を馳せた平野長泰である。


三河国の松平広忠、徳川家康の2代に仕える。尾張国の織田信秀に対抗するため、海路を守る大浜の砦の守将に任じられた。天正4年(1576年)大浜に羽城が築城され、その城を守備。天正10年(1582年)家康の伊賀越えの際、白子に到着した家康一行へ船を出して迎え、岡崎城からの迎えが来るまで大浜で饗応した。文禄2年(1593年)大浜で死去。

次子直勝は天正8年(1580年)に永井氏を名乗り、子孫はみな永井氏を名乗った。

なお長田氏の家名は重元の弟の重吉の家系が称した。


            なんかシミジミした



だけど  やっぱり  何故家康は直勝に大江姓永井氏を名乗らせ家紋が一文字三つ星なのか分からない。

叔父さんは長田のままだものね。


直勝の父親が長田に養子に行く前は大橋だから   ま、大橋は平家であり南朝方だから  一応  家康の家が南朝方というハナシには繋がる。

家康の祖母の華陽院さまは出自が
   江州佐々木氏流の尾張・青木加賀守弌宗の娘
   尾張・宮の善七の娘(『尾張志』では宮野善七郎とあり)
   三河寺津の城主・大河内左衛門佐元綱の養女、または実の娘(政局は甥と伝わる)
   川口家々譜によれば大河内但馬守満成の娘
いろいろあって

         尾張の青木さんというとわたしの周りではお金持ちで豪商の家
         宮野善七郎については全く知らない
         大河内さんは南朝方
         川口さんは  ご子孫が平熱に来ていらっしゃいましたっけ  大橋の出だった記憶


更に    アッチのオトコ  コッチのオトコに  譲り渡されて
途中で家康の祖父の松平清康に譲られて

という  美しく生まれたばかりに   なんか  沢尻エリカ様みたいに  幸せじゃあなかった人生なのかな?と。


ということで  家康が直勝を信頼したのは南朝方繋がりと大橋繋がり  なのかな?と。

でも  やっぱり  何故  大江姓永井氏で一文字三つ星紋なのかは  分からない。


長上郡の
永井氏が丸に三つ柏紋を使用するのは  もともと長田氏の家紋だから理解する。
永井氏が一文字三つ星紋は  直勝にあやかった?  直勝の一族だから?
永井氏が永井梨切口(丸に梨の切り口)を用いるのは江戸中期からで新しい?


下記に興味深い話があります。
以下コピペ

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tk_nagai.html
『長倉追罰記』に「永井と那波は三つ星と一文字(本当は一文字に三つ星)」ともみえるように、室町中期には、永井氏がすでに一文字に三つ星紋を用いていたことが知られる。


そして、永井氏は一文字に三つ星紋の他に、唐梨(からなし=木の下に示とも表記する)と、鉄線紋も用いていた。


唐梨は四弁の花のように見えるが、梨の実の切り口で、丁寧には「永井梨切口」という。鉄線は朝顔に類似した植物で、その蔓が鉄のように丈夫なことから鉄線と呼ばれるようになった。

そして、宗支によって、家紋の意匠を違えている。
三つ星の場合、一文字の書体に変化をつけ、
唐梨は加納永井家の場合、「石持地抜き唐梨」であった。
さらにいえば、鉄線は高槻永井氏が用いていた。

いずれにしろ、唐梨紋は永井氏の独占紋ともいえる、珍しい紋であろう。



やっぱり  分かりません。
[53]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年05月13日 15時07分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろお調べいただき、ありがとうございます。

 当村の村社の棟札には、次のような事実が見られます。
 @1592年 願主藤原左近尉忠吉    禰宜藤原藤太夫国次・同藤原次郎太夫久吉
 A1636年 願主松嶋左近尉忠重・忠次  禰宜藤太夫家次
 B1658年 願主松嶋久兵衛      神主藤太夫家次
 C1675年 願主藤原左近尉忠吉    禰宜藤太夫秀次
 D1685年              神主藤太夫秀重
 E1718年            神主永井藤太夫秀次 
                   庄屋として、永井藤右衛門、永井藤兵衛
 その後の棟札も12札ありますが、これらからわかることを総合して、永井
家は当初よりこの村の神主であったことがわかります。
 神主ということは、この当時では武士であり、またこの村の支配層(小領主、
あるいは庄屋)であったということがうかがえます。
 もっともその上の領主格には松嶋氏がいたことも、同時にうかがいとること
ができます。
 1579年に信康事件が起こり、翌年に永井直勝は徳川家康の小姓として、浜松
城に移ってくるのですが、その時に一族郎党が浜松に移動したと考えると、我
が村の永井氏はすでに在住していたので、別の永井氏、あるいは先行して入っ
て来た長田氏(後の永井氏)がいたということか、あるいは別の系統の永井氏と
いうことになります。

 一旦ここで休憩──
[54]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年05月13日 23時46分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 神主つながりからすれば、永井直勝も祖父・父についで大浜の神主であった
という(『永井直勝』鈴木成元著)。そして祖父の広正は、およそ1540年代に、
大浜から遠江国山名郡新貝村(磐田市)に移り住んでいます(『中泉代官』)。
 そうすると、直勝が浜松に移転した時には、長田(永田)氏はすでに来ており、
その後永井氏に名を変えたとすれば、時系列的には矛盾しなくなります。

 ここで休憩──
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月14日 01時56分55秒 ) パスワード

三つ柏さん

面白いサイトをご紹介:

内山真竜の「遠江国風土記伝」の話題の時に
出て来た  貼り薬のトクホンの  スピンオフということで
記憶の更新をします。


https://www.wikiwand.com/ja/%E6%B0%B8%E7%94%B0%E5%BE%B3%E6%9C%AC

以下コピペ:


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

画像:十九方対証通覧(永田徳本著、稲葉克、和久田寅校『徳本翁十九方』文化元年より)




永田 徳本(ながた とくほん、1513年(永正10年) - 1630年3月27日(寛永7年2月14日

               え?享年118?
               天海上人よりスゴイことに・・・



戦国時代後期から江戸時代初期にかけての医師。

「甲斐の徳本」などとも呼ばれ、また「十六文先生」や「医聖」とも称された。
号は知足斎、乾室など。

諸国を巡り、安価で医療活動を行ったといわれる放浪の医者である。



略歴

戦国時代中期の1513年、三河大浜で生まれたという(甲斐国谷村など、異説もある)。

その後、陸奥国で仏門に入り、出羽(鹿島ともいう)で修験道を学び、
また田代三喜、玉鼎らより李朱医学(当時の明からもたらされた漢方医学、当流医学とも)を修め、
信濃・甲斐に移り住み、
国主であった戦国大名武田信虎・信玄父子二代の侍医となったと言われる[注釈 1]。


武田信虎の領国追放後は信濃国諏訪に住み、
武田家滅亡後は東海・関東諸国を巡り、
貧しい人々に無料で薬を与えたり、安価で診療を行ったとされる。


伝承に拠れば彼は首から薬袋を提げ、牛の背に横になって諸国を巡り、
どんな治療を行っても報酬として16文(18文ともいう)以上の金額を受け取らなかったと伝わり、
「十六文先生」とも称されたらしい。


本草学にも通じ、
103歳の頃に甲斐における葡萄栽培法の改良(ぶどうの棚架け法)も行ったとする伝説もある(参考「甲州」)。


江戸時代に入ったのち、将軍徳川秀忠の病を治癒し、その際も報酬を受けずに立ち去ったと言われるなど、
その人生は謎と伝説に包まれている。

                          だね・・・



1630年に死亡。
享年118で、記録が正確ならば、驚異的な長寿である。


晩年は現在の長野県岡谷市に居住したと伝えられ、同地に墓碑が存在する。


著書に『梅花無尽蔵』、『徳本翁十九方』などがある。



関連する逸話
現代の日本の製薬会社「トクホン」の社名(当初の社名は「鈴木日本堂」であり、
トクホンはその消炎鎮痛剤や湿布薬のブランドネームであった)は、
この徳本にちなんで命名されたものである
(直接の所縁はない)。


                      あ、そうなの?ガッカリ


道路やトンネルが整備される以前の上高地への主要アクセスである「徳本峠(読みは"とくごう"峠)」は徳本にちなむ命名とされる。


岡谷市に残る墓碑は「いぼ取りの神様」と呼ばれ、小石で墓石を叩くといぼ取りに効果があるとされた。
故に墓碑は凹凸の損傷著しく、現在ボコボコになっている。


一時、友人の林信時の子である若き日の林羅山を弟子としていたが、
羅山の非凡な才能を視て他の職に進むように勧めたとされる。



                   林 羅山
                   天正11年(1583年) - 明暦3年1月23日(1657年3月7日)
                   江戸時代初期の朱子学派儒学者。 林家の祖。


三河出生説に拠れば源義朝を討ちとった長田親政の子孫である長田広正の子で、
長田重元の弟といわれる。

                   長田重元
                   生誕 永正元年(1504年)
                   死没 文禄2年1月27日(1593年2月28日)


徳川秀忠重病時の秀忠側近(書院番)であった永井直勝(重元の息子。改姓)の叔父にあたる。


脚注
注釈
^ 『醫教正意』の著者である草刈三越に医術を学んでいる[1]。
出典
^ 富士川游『醫史叢談』書物展望社、1942年、267頁。


参考文献
矢部一郎 「永田徳本」 『国史大辞典』 第10巻 吉川弘文館、1989年。
宗田一 「永田徳本」 『日本史大事典』 第1巻 平凡社、1992年。ISBN 4582131018。
「永田徳本」 『戦国人名事典』 新人物往来社、1987年。ISBN 4404014120。


以上コピペでした。
[56]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年05月14日 13時08分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 論理訂正


「1579年に信康事件が起こり、翌年に永井直勝は徳川家康の小姓として、浜松
城に移ってくるのですが、その時に一族郎党が浜松に移動したと考えると、我
が村の永井氏はすでに在住していたので、別の永井氏、あるいは先行して入っ
ことになります。」
           ↓

「我が村社の棟札の最初のものは、1592年なので、直勝とその一族郎党が1580
年に浜松に来ていれば、1592年までに12年あまりあるので、一族の一部が当村
に腰を据えて居住していたとしても矛盾はない。直勝は30貫の領地をもらっ
ているのだが、それがどこなのかはわかっていない。」
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月14日 15時31分34秒 ) パスワード

三つ柏さん

>直勝とその一族郎党が1580年に浜松に来ていれば

直勝と<その一族郎党が>1580年に浜松に来ていれば

え?
全く分かりません。


分かるのは  1563年生まれの直勝は1580年に  まだ  数えで18歳の年。

松平信康は1559年生まれで1579年に死去。数えで21歳。
家来だった永井直勝は、当時、数えで17歳。信康の死に  ショックで  父親のいる大浜に戻って  (やっぱり子供だったんだね)

翌年  数えで 18歳で家康の元に戻って  永井姓と一文字三つ星紋を拝領。


                     心機一転
                     直勝よ!
                     オマエも人生  やり直せ

                     ということで永井姓と一文字三つ星紋になったんじゃないかな?



そして!!!直勝と<その一族郎党が>1580年に浜松に来た?
まさか!

コレ
アリエナイと思っています。


18歳の若造が30貫を年俸として貰ってた?
それも<領地で>貰ってた?
まさか!

領地というより現物支給だったんじゃない?
コッチの方が断然  トク  ですもの。


30貫=明治時代には1貫が3.75s x 30貫 =112.5s

銭1000文が1貫。30貫とは3万文。


      時代劇で屋台の蕎麦が16文  (だいたい江戸時代は16文としたもんだそうです。  二八蕎麦  なんて屋台に書かれてますよね)
           なんとかの改革で14文になって  二七蕎麦 になったそうで    後に  16文に戻したそうですよ。


      現代  蕎麦一杯はいくらでしょう?  500円ぐらいの感覚?  ワン・コインとして。

30000文は蕎麦何杯分?   1875杯分?  500円換算で  937500円?   年収100万円弱?

ま、18歳の若造だったら年収100万円の小姓の身分で雇われて当たり前じゃないですか?


      1970年代の初め  大卒の月給が3万円とか?
      だから年収100万弱だった永井直勝は 結構 高給取りだった?


米に換算してみます。

3.75s x 30貫 =112.5s
米1s  いくらですか?
ということで検索したら  2020年の相場は、全国平均価格  5キロで2,100〜2,200円だそうです。

1s400円ちょい?  メンドウだから  450円にしておきます。


450円 x 112.5s = 50625円   ウッソォ〜   年収5万円?

だけど小姓だったら  こんなもんかな?
小遣いレベル。
だって  見習い  だもの。



もし領地を貰ってて  それで30貫だったら   百姓の取り分は70%だから  永井直勝は一体どれだけの税収があったでしょう?


    すっげぇ  ボンビー!   
    ってコトは  大浜のオヤジさんから小遣い貰わなきゃ  生活出来ない??

            これで  <<<直勝とその一族郎党が1580年に浜松に来ていれば>>>   みんな飢え死にじゃない?
            北の黒電話の国民と同じく   ただ  死を待つ?




とにかく領地で貰ってたら  領主が得る分は石高の30%としたもんです。   

まさか30貫全部直勝が取り上げてた?
         では  米作ってる百姓は  水でも呑んどけ?
         そこら辺の草でも食べておけ?埼玉県民じゃあるまいし。



https://kourajimusyo.com/rekiken4.pdf
コピペ出来ないです。

ここでは戦国時代  1貫=12万円  と書かれています。




信長が今川義元を討った時
一番槍をつけた服部小平太は信長から褒美に5000貫を拝領したそうです。

ま、槍働きに報いてますよね。

      この槍はホンヤさん宅の鴨居に架けてありました。
      と言っても  真っ黒で  (へぇ〜)  でした。



と、グチャグチャ書き連ねて申し訳ありません。

もしかすると計算間違いをしているかも。
最近、計算するのが面倒で、電卓を使うと余計に間違います。
掛け算もアヤシイし。


     ムカシはお金の計算は得意中の得意でしたけど。

ということなので  ≪30貫≫  がどんなものか  三つ柏さんご自身でチェックなさってください。


1970年あたりの大卒が初任給3万円あたりで
石油ショック後が初任給5万円あたり
と聞いたような記憶です。グロスなのかネットなのか  確かめなかったです。

わたしの初任給はネットで10万円切れてました。8マン+あたりでした。
[58]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年05月15日 07時49分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 長田直勝は1563年(永禄6年)大浜生れ。父親は長田重元。1580年(天
正8年)、15歳で家康に召し出され、小姓となり、30貫の地をいただく。
 この時、家康の命令で、長田という汚れた姓を改め、大江氏となり、屋号を
永井と名乗らせられた。

 父重元は大江永井(長井)系、祖父の広正は大橋系で後醍醐天皇の血筋を引い
ている。
 曾祖父は政広。
 高祖父広常は平氏の「長田親致」の後裔。
 高祖母は、那波・大江系で長田親致の系統。
 親致の弟「長田忠致」とその息子「景致」が、兄親致の反対にもかかわらず、
それを無視。源義朝を謀殺したということで、後に頼朝により成敗。長田家全
体は名を汚すことになり、のちのちまでも蔑視される身の上となる。
 かてて加えて、平家であり、南朝方でもあったので、二重三重に肩身の狭い
思いをし、零落はまぬがれなかった。

 大橋系で天皇家の血の入った広正の長田家入りは、正に長田家の立て直しの
試みの始めであった。このへんの背景は、南朝臣であったこと、そして家康の
父広忠との関係も影響したものと思われる。長田家は古くから水運、そして開
拓にからんできたので、想像以上にその歴史は深く広い。従って、永井直勝と
いう小姓、単なる薄っぺらい存在ではなかった。

 1貫を2石〜2.5石とすれば、30貫はおよそ70石。これは幕末における
当村の石高に匹敵する。ちなみに、家数66軒、住民320人であった。

 直勝の父重元は1592年に亡くなっていますが、その時1200石の知行
があったということですので、直勝への支援があったものと思われます──

[59]空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月15日 15時26分35秒 ) パスワード

三つ柏さん

興味深い書き込み   感謝です。ぺこり


>1貫を2石〜2.5石とすれば、30貫はおよそ70石。   
    
          豊作だったら70石あたり穫れたかも?

>これは幕末における当村の石高に匹敵する。

          1つの村で30貫?

>ちなみに、家数66軒、住民320人であった。

          ビックリです。


幕末の日本の貧しさ   なるほど  歴然ですね。
     諸大名でも(数家の大名を除いて)破産状態で   だから  版籍奉還がスンナリ行われる事ができた。 

     現代の破産手続きみたいなもんですからね
     天文学的借金をチャラにして貰う為に新政府というか天皇に土地と人民をお返しした。喜んで、だったろうね。


幕末の一般日本人の個人所得はアメリカの19分の1だったそうですから、豪商を除いて、日本全体が破産状態。
幕府が倒れたのは当然だったわけだ。


もう1度考えてみます。

     >石高30貫で家数66軒、住民320人


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98
石高制

太閤検地以後江戸時代を通じて、田畑や屋敷などの土地の価値に至るまで、面積に石盛という一定の係数をかけて米の生産力に換算して石単位で表示するようになった。

このような制度を石高制と言い、

米以外の農作物や海産物の生産量も、米の生産量に換算されて表された。


大名をはじめとする武士の所領からの収入や俸禄を表す場合も石高を用いた。
特に領民の場合には「百姓高所持(ひゃくしょうだかしょじ)」、
武士(特に大名)の場合には「石高知行制(こくだかちぎょうせい)」と称されることがある。
明治時代の地租改正まで続いた。



一石は大人一人が一年に食べる米の量に相当することから、
これを兵士たちに与える報酬とみなせば、石高×年貢率と同じだけの兵士を養えることになる。

つまり石高は戦国大名の財力だけではなく兵力をも意味していた。


江戸時代の軍役令によると、大名は幕府の命に応じて表高1万石あたり概ね2百人程度の軍勢(非戦闘員を含む)を動員する義務を課せられていた。


ただし石高は一般に玄米の体積を元に算出するのが常であり、
実際には成人男性であれば1日玄米5合、年間玄米約1.8石が標準的な扶持米として支給されていた。

             白米だったら1合で茶碗2膳分ですね

             ということは成人男子は
             <日給>が玄米5合=白米にして約10膳分あたり
             <年収>で  ざっと、2石  = 1貫あたり

                      ふぅ〜ん


            スーパーで売ってるレンジで温めるレトルトご飯って1食分?1膳分?
            あれって  1食で100円あたり?

            ということは当時の≪日給≫は  1000円あたりに相当?
            そうすると、≪年収≫で  36万円あたり?


               現在のベトナムの農村の年収が30万円あたりだそうです。
                   だから日本へ出稼ぎに  いや  研修生か  借金してでも来るわけだ。

            ま、1970年代初めの大卒の年収とトントンですね。

                   


なお、農民に対する年貢徴収は原則としては石高を元にしているものの、初期の検地が年貢の徴収よりも領主の領知高及びそれに基づく公儀への諸役負担を確定させることを目的としていたことや村請制のもとで重視されたのは村単位の石高(村高)であったことから、個々の農民に対する年貢徴収基準として石高が用いられるようになったのは17世紀後期以後とされている。

実際に江戸時代の土地証文に石高の記載が登場するのは寛文・延宝年間が上限とされ、それ以前の農民生活において石高は身近な概念ではなかったとみられている[1]。



ということは   <石高30貫で家数66軒、住民320人> って  
物凄く貧しい?


江戸時代の日本人が物凄く貧しかったのは
   (世界中  みんな  当時は ボンビーしてた。
    特にアイルランドの貧しさなんて  飢餓!飢餓!飢餓! の歴史です。
    今の豊かなアイルランドからは雲泥の差    また転落したかな?このコロナ禍で)
わたしには想像もつかない。
ハナシには読んでるけど。
飢饉の時には  隣の家に「脚を1本  分けてください。  その内に  お返しに参りますから」  だったそうです。
意味  分かります?


     だから  ワタシは潜在意識に   百姓はイヤ!農家なんかイヤ!  ってのがあるのかな?

 
石高  30貫  =  60石〜75石として  不作の年は60石なんてもんじゃなかったでしょうね


住民320人として  米作りの出来る大人が1世帯に3人いたとして   3石食べる
              子供は2人あたり?    で1石食べるとする

          1軒で1年に4石食べる    として  66軒だから  264石  =  132貫は必要?  
   


あのぉ〜
わたしの計算だと  平常で  100貫  不足なんですけど。
百姓の分だけで。

年貢なんて払えないよ。
領主なんて養なえないよ。


           なのに  苛斂誅求の領主になると4割課税したりしたもんね。
           ホント  こんな領主の下の農民なんて  
           泥水啜って  という表現が実際だったかもね  松の木の皮を齧ったり。



あ〜あ、計算が大幅に合わない。


逆に石高が30貫として  税収が30%として   70%が百姓の取り分として  
種籾は確保しておかないといけないしね  2−3年分はね  天変地異に備えて。 


いったいドーユー暮らしだったんだろう?

時代劇を見てるとムカシの人って着た切り雀よね?
着物なんか買えないから自分で織らないとね。
ま、麻はそこらへんに生えてるから    麻の着物は自分で織ってたんだろうね
バッタンバッタン  疲れ対策に  麻  吸いながら(笑)


だから   日本はあの着物  なのかな?  
着物って   1サイズ  フィッツ  オール  だもんね。日本語だと 「フリーサイズ」だ。
デブになっても骸骨になっても  和装は  対処できるものね。
洋服はデブッたら最後  着られなくなるのに。



これじゃ浜名湖にボラ捕りに行かないと  生活  が出来ないよね?当時のボラは臭くないか。
これじゃ亀だって何だって食べるよね?

泥水も木の皮も壁土も
生きて行くのに必要な食い物だった
という江戸時代の百姓の困窮ぶりが迫って来ました。


長田のオヤジさんが1200石ということは600貫として12万円で掛けると  年収7200万円か。

     名古屋で長田さんというと超お金持ちでアタマが良くて美形ってイメージですよ。
     だから名古屋では長田さんの先祖の悪口を言わない。



余談ですが名古屋では「加藤鬼頭は太閤様以来の名家」と言いますが
     加藤は清正のことで  鬼頭は福島正則のことね(元の名字は  尾藤です)
で、名古屋で鬼頭さんというと10万石の農家になってましたよ。武士を止めて帰農したそうです。
うちの近所でも鬼頭さんというと金持ち。アタマいい。でも美形はいなかった記憶。ゴメン  書いちゃった。


結論
永井直勝が1580年=18歳の年=に家康の元に戻って30貫を拝領したということは
       扶持米で?領地で?
という謎がありますが     差が大き過ぎ

1580年というのは信長暗殺の2年前ですから家康もたいした身上ではなかったと思います。

その後  1584年  数えで22歳  小牧長久手の戦いで秀吉方の池田恒興を討った褒美で5000石の地行になった。
2500貫 x 12万円   年収3億ですか。  ネットで年収9000万円。
ここからトントン拍子に出世ですね。


年収というか実収入9000万円だったら   どのぐらいの人数を抱えた規模のオーナーでしょう?
このあたりなら一族郎党を抱えられますよね。

    一族郎党も兼業武士だろうし。


1590年に北条氏を滅ぼした秀吉は家康を関東に追っ払った。
だから直勝も江戸の町造りに行ってたでしょうね。

    これって2重生活になるから  生活は結構大変ですよね。


その上に  三河や遠江や駿府や甲斐にも屋敷を構えて一族の者を置かなきゃいけないし  自分は江戸だし。
あ、忘れてた!
秀吉のいる大坂は勿論京都にも屋敷を構えてたかもですね。


ひょっとすると年商3億で年収9000万でも  ひょっとすると  カツカツ  だったかも。
武家同士の付き合いとか見栄もあるし。

そうか・・・大変だったのか。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月16日 07時53分14秒 ) パスワード

三つ柏さん

散歩に出て  歩き乍らいろいろ考えてたら  
何故長上郡の貴村に永井氏の3つの紋があるのか  
ちょっと分かった気がしました。


つまり  永井直勝が出世して  出世と共に  各地に屋敷=出張所=が必要だった
       それも三河・遠江・駿河・甲斐はもとより大坂・京都にとどまらず。

       屋敷=出張所=は経費削減のために一族の者が担っていたであろう。

とはいえ別宅を持つのは維持費と人件費がかかり過ぎるから
その駐在員は出張所を維持するのに   兼業で  平時は田んぼを作り乍ら  連絡係などの業務をしてただろう。

     地産地消
     独立採算

                 このあたりしか言葉が浮かばないな

レス<48>より

>>>我が村の墓に見られる永井氏の家紋は、
>>>「永井梨の切り口」と「丸に三つ柏」と「一文字三つ星」



まず
永井氏で三つ柏紋は  碧南の大浜の長田本家系だろうから直勝の叔父さんや従兄弟一族が来てた?

永井氏で一文字三つ星紋は永井直勝系であろうから  
     直勝の結構身近な人々?庶子とか姉妹とか正妻=阿部正勝の娘=の一族とか?
     家康にも近い人々が一文字三つ星紋を使用したのかも。

永井氏で梨切り口は加納藩系永井氏使用だから18世紀中期から使用の紋?
     岐阜から江戸とか駿府とかに行く時の世話をした駐在員?
 
           (宝暦6年(1756年)5月21日、武蔵岩槻藩から美濃加納藩に移封された
            その前は宝永8年(1711年)2月11日に武蔵岩槻藩に移封された)


           *「永井鉄線紋」使用の高槻藩永井氏は直勝次男の直清だから長上郡に出張所は必要無かったのかもね
            直清のママも阿部正勝の娘だし。


           *直勝の長男の尚政は1587年駿河生まれなんですってね
           *次男の直清は1591年相模の生まれ
           *三男の直貞は1598年生まれだから江戸生まれか大坂生まれ?謎
           *四男の直重は1604年生まれだから江戸生まれ?謎


永井直勝の側室って大河内秀綱の次女の由利姫ですって。
出ました!
大河内さん。

大河内さんと言ったら  南朝方で  三河の豪族で

さらに驚いたのは
はじめ吉良義昭に仕え、三河一向一揆における東条城の戦い(永禄7年(1564年))などで戦功をあげる[2]。
吉良義昭の没落後、徳川家康に仕え[3]、
三河、遠江の租税に関わる事務に携わり、   ←  遠江だって
遠江稗原(静岡県磐田市)を領する。     ←  磐田が出て来ました


家康の関東移封に従い、武蔵国高麗郡で700石余を領し、代官として活躍[4]。
晩年は剃髪し「休心」と号した。

元和4年(1618年)9月13日没。享年73。法名は金剛院殿雄岳宗英大居士。
墓は愛知県西尾市寺津町金剛院及び埼玉県新座市の平林寺にある。

            寺津って碧南の東ですよ〜  (で、碧南の西に知多半島=尾張=がある)
            ヲイヲイ
            寺津と大浜ってスグ近くですよ〜


ということは  みんな友達の輪  っだね。
平家でくっついてたり  南朝方でくっついてたり  三河でくっついてたり  もう少し東に遠江国があるわけで。


        地図見てたら  スギ薬局がそこら中にあってビックリした。杉浦さんなんて神谷さん同様  「三河の金持ち」って感じで
        三河の神谷さんは「うちの家紋は揚羽蝶だ」と言ってたのを思い出しました
        「うちの近所でムカシ  戦いがあったよ」。


やっぱり「日本ですね」。根っこで繋がってますね。
大河内秀綱が実務の出来るカシコイのを連れて遠江に来たんでしょうし。
家康だって大河内なら安心だし。
[61]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年05月17日 10時09分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 歴史探偵あを様の本領発揮と見ました。「大河内氏」に言及されているのを
読んで、私もピンと心に反応するものがありました。それは加茂喜三氏の『富士"隠れ南朝"史』の中に、大河内氏についての核心部分が書かれていたことで
あります。南朝関係、特に後南朝関係は簡単には説明できないという困難さが
あります。それは、やはり"隠れ"であるからであります。"隠す"ということは、
単に物理的に"身を隠したり、名前を変えたりする"のみにあらず、"心を隠し"
て敵方に紛れ込む・溶け込むということも行われていた。いわゆる忍術と変わ
りません。そして、色々な人間関係の複雑な綾──背後関係、前後関係、表裏
関係が渦巻いております。

 忍術というものが「勝つ」ための戦術なら、戦いのあるところに常に忍術は
あるわけであります。特に源平の時代から鎌倉、南北朝、後南朝・室町へと忍
術は進化して行き、そして戦国時代には百花繚乱となっています。この源平か
ら戦国時代までを「忍術の時代」と名付けてもいいのかも知れません。忍術は
「インテリジェンス」なのだと言っても過言ではないと思います。

 さて、加茂喜三氏はその本の中でこう書いています(少し長くなります)──

 「大河内氏は清和源氏の頼政から出たと伝えるが、複雑ですっきりしていな
い。頼政の子・兼綱の三男・大河内源太顕綱の末裔という。治承4年(1180)、
頼政は以仁王を奉じて挙兵するも、高倉の宮の謀反で頼政は兼綱と共に討ち死
した。兼綱の子・源太顕綱は年わずか二歳、母がむつき(ふんどし)の中に隠し
て尾張国中島庄に落ちて来た。のち三河国額田郡大河内邑に移り、成人して大
河内源太と名乗り臥蝶に住んだという。
 さて、『浪合記』では「桃井大膳亮満昌は、三州吉良の大河内に住す。三州
の桃井というはこの裔なり。大河内の祖。」と述べている。これがいわゆる「
菊の一揆」大河内氏の正真正銘の出祖らしい。つまり、南朝遺臣の桃井満昌は
隠した身を立てるために名門の大河内氏に婿入りして、その大樹の陰に隠れた
わけである。即ち、桃井満昌は大河内村に来て、源三位頼政の後裔・大河内政
顕の娘と婚し、大河内氏を名乗って北朝の眼をくらましたということになるの
である。」

 永井直勝はやはり南朝系の妻を娶ったことになります。
 当村には、長田(おさだ)家が一軒だけあるのですが、その名をはばからなか
ったということは、永井家より時代が後にやって来たということか・・・。
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月17日 13時59分53秒 ) パスワード

三つ柏さん

大河内氏について  ありがとうございました。

南北朝 〜 戦国時代の  武家の家の中とか  武家同士の関係とか  グチャグチャで分かり難いですね。

****************************


江戸幕府の重鎮「知恵伊豆」と言ったら  本名が  「大河内松平伊豆守信綱」です。

        大河内姓では代官どまりだから幕府の中枢に関われないから
        叔父の松平右衛門大夫正綱に「養子にしてくれ」と頼んだそうです。

              数えで6歳の時ですよ!


幕藩体制を完成させた人です。
島原の乱の幕府方の総大将。
柳生宗矩、春日局と共に家光を支えた「鼎の脚」の1人。
信綱とは知恵で競うな、アイツは人間じゃない、と言われたほどの頭脳の持ち主だったそうです。

             今時の5歳の幼稚園児が「首相になる!」と決意し
             それにはどうすれば良いのかを考えついた
             ということですね。


                  わたしの姉は5歳の時、
                  3歳になったばかりのわたしを連れて産婆さんを呼びに行って
                  弟を産んで母は身体を壊し(この時から腎臓が1つ機能してない)
                  それで姉は弟のおむつの世話をし
                  わたしの世話もしてたのを記憶しています。

                     わたしの3歳の時の記憶です。
                     


*********************************


源頼政は遠江の神社に関係しますね。

頼政は「鵺退治」で有名な人物で、
鵺を退治した恩賞として、遠江国堀之内六ヶ村を賜った。
浜松市天竜区春野町堀之内?
浜北ICから北へ40分?
すっごい山の中?


犬居城は南北朝時代  天野氏  のお城だったそうです。他にも秋葉山城とか久頭郷城とか。

それぞれの天野氏も一族が南北に分かれて  紆余曲折  アッチ付いたりコッチ付いたり  
結局  
戦国時代にも今川に付いて負け  武田に付いて滅び
最終的に家康に付いたのかな?   間を取り持ったのが井伊家の一門の奥山家と思います。




子孫の天野信景(尾張藩士)が「浪合記」を書きました。

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https://cmeg.jp/w/castles/4120

【犬居城の歴史】

築城時期は定かではないが、南北朝時代に天野氏によって築かれたとされる。

天野氏は承久の乱後に山香荘地頭として入部し、国人領主として成長。遠江の有力国人となり、戦国時代には今川義元の有力被官として犬居城を本城として勢力を誇った。

永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで義元が敗れると、一時は徳川家康に与するも、北遠江の<奥山氏>とともに武田信玄の支配下に入った。


                      奥山氏のこと  覚えていらっしゃいますか?
                      

元亀3年(1572)の信玄による遠江侵攻では、天野藤秀は武田軍の先導役となっている。武田配下にあった元亀年間(1570〜1573)頃には、対家康戦に備えて犬居城の大規模な改修が行われた。

天正2年(1574)に家康に犬居城を攻められた際は撃退したが、天正4年(1576)に再び侵攻され敗走。天野氏は家臣団とともに、武田勝頼を頼って甲斐に逃れた。鎌倉時代から続く名門・天野氏の滅亡とともに、犬居城も廃城となったとみられている。



おまけ

奥山氏についてウイキの「おんな城主 直虎」から奥山氏についてコピペ:


井伊家一門衆・奥山家

奥山朝利(おくやま ともとし)
演:でんでん

井伊家重臣。井伊家の親族である一門衆。
政直の進言により朝利の娘が政次と縁組することで小野を井伊の親族として迎え、間に生まれた子を井伊家の後継者にするという算段になっていたが、亀之丞の帰還により沙汰止みとなり、娘のなつは小野玄蕃、しのは井伊直親の妻となる。

桶狭間の戦いで負傷しながらも帰還し、病床の身となる。病床で聞く戦後の井伊谷の状況から「直盛の死に乗じて牛耳っている」と小野家の政次への不信感が増し、玄蕃を亡くした娘のなつが家に戻ってくることを求めたが、なつ自身の希望で小野家から帰ってこないことを政次の企みであると邪推したあげくに彼を呼びつけて斬りかかり、傷を負わせるが返り討ちにあって死亡した。




奥山孫一郎(おくやま まごいちろう)
演:平山祐介

井伊家家臣。朝利の子。義元の織田攻めに加わるが、織田の奇襲に遭い敗走。他の兵とも分断されて直盛と2人だけになるが、敗走の途上で直盛から最後の言葉を託され戦場を脱出する。

今川から松平内通疑惑の弁明のため駿府に呼び出された直親に同行するが、今川が差し向けた刺客との戦闘で共に横死する。

                      直親は三浦春馬が演じましたね

                      暗殺された場所は都田川でしたっけ?



奥山六左衛門(おくやま ろくざえもん)    この人のことは全く記憶に無い
演:田中美央

井伊家家臣。朝利の子。孫一郎の弟、しの・なつの兄。諱は朝忠[17]。孫一郎の横死を受けて井伊家の家政に加わり、事務や雑務を行っている。直虎はじめ井伊の人々に、場や人を和ませる人柄と評されている。
大柄な見かけに反して押しが弱く、武芸が苦手で父にも軽く扱われていた。直虎の後見当初は自身も家政についてのことが判らない上に、直虎の根回し無しの奇策に驚き反発していたが、直虎が井伊のために懸命に考え動く姿をみて感じ入ってからは真摯に仕えるようになる。
もともと正直な性向をしているが、政次が今川の目付けとしての立場を全面に押し出して理詰めで問い質してくると逆らえず、彼に対しては隠し事ができない面がある。
井伊家取り潰しののち、氏真から命までも要求された虎松の秘密の逃亡にあたり、直虎に付き添いに指名され発奮する。その後、虎松が松下家の養子となると守り役として付き従い松下家の家臣となる。虎松が万千代として徳川家に仕えた後に、自らの希望で井伊谷に戻り近藤に召し抱えられる。当初は武士らしくないとして近藤からの覚えは良くなかったが、武功を立ててみたいという望みのために耐えていたところ、徳川から近藤に命ぜられた軍用物資としての材木徴用に過去に経験のある腕を奮い、さらに出兵した長篠の戦いの現場でも欠乏した材木の調達を成したことから、直之共々、信長から直接褒美として天目茶碗を賜るほどに働きを認められる。なお、この天目茶碗がのちに直虎が自然の命を救うための方便に利用され、役立つことになる。
終盤では徳川の希望と直虎からの頼みで、万千代の配下となり井伊谷を離れる。


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奥山氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/i_okuyam.html

奥山氏は、藤原北家井伊氏の一族で、遠江国引佐郡奥山郷から発祥した。
すなわち、井伊盛直の子俊直は赤佐氏を称し、その曾孫朝清が初めて奥山を称して奥山氏の祖となった。

南北朝期、奥山六郎次郎朝藤は奥山城に拠って南朝方に味方した。
そして、建武三年(1336)奥山城に宗良親王を迎え、
至徳元年(1384)には後醍醐天皇の皇子円明大師を招いて奥山方広寺を開基した。

朝藤の二男が定則で、井伊氏とともに南朝方に尽くし、延元三年、久頭郷城を築き、尹良親王に供奉した。



乱世を生きる

定則の孫能登守定之には四人の男子があり、

嫡男の貞益は今川氏に属して久頭郷城主を継いだが、永禄十二年(1569)信濃遠山氏に攻められ落城し討死した。

二男の定茂は水巻城主、

三男定吉は大洞若子城主、

四男定友は小川城主であった。


しかし、兄弟仲が悪く、互いに功防戦を繰り返した。


元亀三年(1572)十月、甲斐の武田信玄の大軍は、信濃と遠江の国境を越し、越えたすぐのところが奥山氏の勢力圏であった。

武田氏は犬居城の天野氏を道案内として遠江に侵攻してきたが、
奥山氏はこの天野氏と密接な関係にあったことから、
<三男定吉=大洞若子城主>定吉の子吉兼と弟の有定兄弟は武田氏に属するようになった。


そして、信玄より感状をもらい、奥山一党の本領を安堵され、吉兼には新領地として、現在の袋井市域と浜北市域を宛行われた。

                     あらあらあら
                     浜北が出て来ました


もっとも、元亀三年の時点では、まだ遠江が武田領に組み込まれていたわけではなく、ある意味では約束手形のようなものであった。


とはいえ、この結果奥山氏がかなり広大な土地を支配するようになったことはうかがえる。

そして、奥山吉兼は遠江における有力な在地領主であったことも間違いない。

もっとも、奥山吉兼の勢力は長くは続かなかった。
信玄が死に、今川氏の勢力が衰え、それに代わって次第に力を伸ばしてきた家康の勢力が拡大するにつれ、
武田氏の支援を得ていた奥山氏の領国支配は貫徹するのが困難になってきたのであった。
 


その後、奥山氏は徳川氏に仕えるようになり、有定の孫重定は、相月村に住み大阪の陣に参加し、のちに奥山代官となった宮崎氏の後見人となり、子孫は代々名主を務めた。


<4男>小川城主定友の子友久は小川城主を継ぎ、
永禄十二年(1569)、徳川家康より本領安堵され、子孫は井伊氏に仕えた。
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月21日 09時52分46秒 ) パスワード

わたしの日本語力は画像の法廷通訳のレベルよりひどいと思うので  こんな感じ  ということでアップ。


https://www.azfamily.com/video/mom-accused-of-killing-kids-in-tempe-appears-in-court/video_a45b4976-6ffe-56a2-8a12-d0e783722e20.html

中国生まれでアメリカに来る前に日本にいたという  いのうえ・ゆい  という40歳の女性。
子供2人を殺害したということで21日と25日に裁判があるそうで


その罪状認否の?保釈審査の?法廷の様子です。
    なんとなく  リモートでやってる?


日本語通訳のレベルが  ウソだろぉ〜  というレベル。


この通訳さん、勝手にハナシを作ってる。
で  イノウエさんが  違います  と否定して  ジャッジから叱られてる。

        わたしの理解では
        イノウエさんはこの場・この場合では、自己弁護しなくて良い段階だと思う。

        ま、日本人だったら  素直だから  ノー  って言いたくなるだろうな  と思う。


        まだ弁護士がついてないんだから  ノーもイエスも答える段階じゃないと思う。



多分  この通訳  日本人だろうけど  日本語を久しく話してないワタシみたいな存在で
和訳が全然出て来ないんで
自分の日本語能力に見合うよう勝手にハナシを作ってる。


        コレ、うちのご近所の日本人のおば(あ)さま達と同じです。
        自分の都合で勝手にハナシを盛ったり捩じったりするんで、ちょっと若い世代のワタシは閉口する。


例えば
   前夜にダンナさんと夫婦喧嘩して挟みでダンナを脅した(だけ?)

   なのに  通訳さんは  「ダンナを刺した・殺傷した」  と   言ってた記憶。

            ま、日本語で言ってるから聞いてください。


あまりにもお粗末な法廷通訳のレベルなので
この通訳がどんなレベルか知って欲しくて書き込みました。



だけど私も日本に行って駅の窓口で切符を買おうとすると
この通訳みたいな  しどろもどろ  の日本語になります。

だからワタシの日本語
この通訳レベルだよ
ということで  暇だったら  見てね。



そー言えば  日本の首相で  ア〜  ウ〜  と言うことで良く知られた人がいましたっけね。
日本にいても  ア〜  ウ〜  なら  わたしは恥じること  無いわけか。


だけど  この通訳が後の法廷でも通訳するとしたら  やってもいない事で罪状が増えるんじゃない?
ということで
アリゾナの日本人達がマリコパの裁判所に嘆願を出すと言ってました。


通訳のレベル  実に  幅広いから。
あのURLの通訳でも  法廷用語  使ってないしね。
フツーの   市井の人  レベルの  日本語をヲタヲタ  話してる   よね?
[64]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年05月21日 17時23分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 JIJI会の資料作りに集中しておりまして、精神ベクトルの切り替えができま
せんでした。

 さて、永井直勝は「長田氏」を再興する宿命の人であり、平氏の家貞・貞能、
大橋氏、大江氏、そして宗良親王の血脈ベクトル(どちらかと言えば、平氏より
も南朝ベクトル)も加わっていたというのが真実ではなかったのだろうか。単な
る永井氏ではない。そこが重要なところだと思うのですが、はたしてそこにどん
な構想がひろがっていたのだろうか・・・。直勝はわずかではあるが、皇室の血
が入っている──ということは、皇胤でもあるということ。家康は直勝に対し、
どんな考えを抱いていたのだろうか──
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月22日 02時28分09秒 ) パスワード

三つ柏さん

>直勝はわずかではあるが、皇室の血が入っている

長田氏はもともとが桓武平氏の子孫ですから
    尾張平氏ね
その部分をとっても  桓武天皇の子孫であり  征夷大将軍になれるし  日本の政治に関わる資格がありますから

なかなか軽くは扱えない身分のある子孫です。


そして尾張には

    長田氏の一族に尾張水野氏=平氏=がいて

    家康の母方の水野氏=こっちは源氏=
    コッチの水野という屋号は元から居た「平姓長田系水野」からパクったということで


更に両家は同じ尾張国内のご近所ということで  
当然関係があった   可能性としても  通婚があったであろう  ことは明らか
だし


家康としても長田家はないがしろに出来ないわけです。


そして現在も尾張に多い水野さんは  尾張藩士の水野さんで  平姓長田系の水野さんです。


家康の母方の水野さんは大名になってアッチコッチ赴任するから  
元は尾張出身でも源氏系水野さんは「家康ご生母であるお大さまのご実家の」水野系だろう。


           だから  同じ水野姓でも  どこに住んでいるかで  系統が分かる  と思っています。 



直勝にとって  先祖が義朝を暗殺したばっかりに、
家康が「長田を止めて  永井にしろ」と言ってくれたのは
渡りに舟   だったかもですね。


    これで先祖の贖罪が出来たわけだし
    家康のお声掛かりでの改名なら  後付けで  いろいろハナシを盛れるし
    直勝の一族には  ラッキー!  だったと思います。


つまり直勝の一族は
   尾張の水野さん
   永井さん
   大浜の長田さん  and/or 大浜さん  and/or  永田さん
なんかがいらっしゃるんでしょうね。
[66]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年05月22日 11時48分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 とりあえず、ありがとうございます。さすがあを様、感服いたしました!
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月22日 14時37分00秒 ) パスワード

三つ柏さん


家康の母の実家の水野家が  水野の屋号をパクった  と書いた話の裏がちょっと見つかったのでコピペします。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E6%B0%8F
家康の母の実家の水野姓について:


以下コピペ

水野氏の出自は『寛政重脩諸家家譜』では清和源氏八島氏流と称している。
鎮守府将軍源満政を祖として、
満政の7世孫の浦野重房の代に至って尾張知多郡阿久比郷小河に住して小河氏(小川氏)と称して、

                      緒川とも書く
                      


その子重清は春日井郡水野郷に一時期住して、
水野とも称するようになったという。


                          ↑              
                        ココですね
                          ↓



苗字の地とされる同春日井郡水野郷(瀬戸市水野)には古代から続く桓武平氏良兼流長田氏流水野氏があり、

源姓小河氏流水野氏と婚姻関係が生じていた可能性がある。


                          ↑
                        コレですね


その一方、
水野氏のもう一つの苗字の故地として京都嵯峨水野の里があるとする説が『寛政譜』には記されている。

すなわち、右大臣近衛道経の子経村は山城国西嵯峨野(葛野郡)水野邑に住して水野家と称していたが、
これが同族の水野清房(勧修寺清房?)の養子となったことに因むという。

この伝承は後世に水野氏が藤原北家近衛家と称する根拠の一つなったと考えられる。

その後、経村の子雅経は阿久比郷小河の地頭職に任じられ主として小河姓を称するようになった。

以後は正房の代まで知多郡小河にて御家人・地頭職を務めたという。



                そして   ココからが  更に  面白いんですよ!

                つまり  お大さまのご実家の水野家が南朝方だったハナシです


室町時代

南北朝時代に小河正房は土岐直氏の攻撃をうけ、
子の信業と共に戦死し(小河合戦)、
孫の信安は先祖の故地・春日井郡水野郷へ移り再び水野を称した。


その後、曾孫水野忠義は知多郡小河に戻り潜在し勢力を蓄え土岐氏に備えた。
水野忠義は貞守の父である。

戦国期において水野氏が勢力を伸ばすのは、
    15世紀中頃水野貞守が尾張国知多郡小河(現在の知多郡東浦町緒川)に緒川城と、
    尾張国と狭い入り江(現在の境川及び逢妻川)を挟んで隣接する三河国碧海郡に刈谷城の
    二つの拠点を置いたのに始まる。



               お大さまは刈谷城から岡崎に輿入れした時
               境川まで水野の家来によって運ばれて行き
               境川のところで
               迎えに来ていた松平の家来に輿を運ばれて岡崎に行った



その後、
水野氏は
知多郡大野の佐治氏、   ← 信長の妹の嫁入先であり  秀忠の妻のお江の最初の嫁ぎ先
渥美郡の戸田氏と争いながら勢力を広げ、 ← 戸田が幼い家康を織田に売った説がありますね
大高城、常滑城、亀崎城、宮津城、鷲塚城などを有した。


水野宗家は水野忠政の時には貞守以来の緒川城と刈谷城を領有したうえ知多半島を南下、佐治氏、戸田氏を圧迫し、三河においては西尾城の吉良氏を圧迫した。

水野氏は当初、今川氏やその傘下にあり近郷に割拠する松平氏との関係が深く、特に松平氏とは頻繁に通婚していた。

この時期において水野氏は松平氏と同等の勢力であり、
徳川家康の母・伝通院(水野忠政の娘=お大さま)の入輿もこの流れによるものであった。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月23日 03時02分19秒 ) パスワード

三つ柏さん

日本人は回り回って  みんな親戚  説ですが
まさに!  というのを1つ書いてみます。

    武家の世界は狭く小さいから  みんな  親戚回り  になってしまいます。

例として
知多半島の阿久比町の久松さん。家康のママの再婚先で  後に久松松平さん と言います。


        この家も結局は永井直勝の家(尾張の水野家) ← 尾張春日井で婚姻してるだろう → 刈谷の水野家(お大さまのご実家) ↔ 阿久比の久松家(お大さま再婚先)



以下コピペ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%9D%BE%E6%B0%8F#:~:text=%E4%B9%85%E6%9D%BE%E6%B0%8F

戦国時代以前

近世大名の久松松平家は源義家の末裔を称したが、これは松平姓を称することにより、松平・徳川氏の公称する清和源氏新田氏流を冒したことによるものと考えられる。


系譜類では、久松氏は本姓菅原氏とされ、遠祖は菅原道真と伝える。
それによれば、道真が大宰府に左遷されたとき、長孫の久松麿(後の雅規)は、尾張国知多郡阿久居(現在の愛知県知多郡阿久比町)へ配流され、
この地の人は彼を久松殿と呼んだ。


のちの南北朝時代に京都から雅規の後裔が阿久居に下向し、この地の領主となった。
そして、室町期に雅規14世孫の道定が足利将軍家に仕えて阿古居の地7,000貫を所領として認められ、
先祖久松麿にちなみ久松氏を称したという。


伊勢国飯高郡阿波曽村(現在の松阪市)へ移り、100年ほど当地にいた。

           ヲイヲイですよ!
           こんなん  我が服部家の伊勢国残留組と親戚回りになってしまうでしょ!


久松氏は尾張守護斯波家に配されたとされ、室町期の同氏は代々斯波氏に属する知多郡の国人領主であった。


戦国時代

斯波氏の没落とともに久松氏は織田氏に従い、織田信秀に属したとされる。
佐渡守俊勝のとき、刈谷城の水野氏から、松平広忠の元室で、広忠の嫡子・竹千代(後の徳川家康)を生んだ於大の方(水野忠政の娘)を妻に迎え、
水野氏と敵対する同じ知多郡の国人領主佐治氏と争ったが、最終的に水野氏・佐治氏とともに信秀の子の信長に属した。


桶狭間の戦いの際、松平元康(後の徳川家康)は今川方として出陣したが、密かに織田方の阿久居に赴いて、母於大の方と、俊勝と於大の間に生まれた異父弟にあたる3男子と対面を果たした。


この時、元康は自らの異父弟である3人の男子に松平氏と葵紋を授け、松平家一門に准じたと伝える。
これを久松松平家(ひさまつまつだいらけ)と呼ぶ。


桶狭間の戦いの後、俊勝は家康に組してその三河統一に参加し、
三河国宝飯郡西郡の上ノ郷城(現在の愛知県蒲郡市神ノ郷町)を与えられた。

俊勝は妻と3人の息子を連れて三河に移り、阿久居は庶長子信俊に譲られた。


信俊は信長の重臣佐久間信盛の指揮下に入ったが、
1577年に信盛の讒言を受けて非業の死を遂げ、
遺領阿久居も信盛に攻め取られたため、
阿久居久松氏は断絶した。


なお、信俊の後裔はのちに久松松平家に仕え、伊予松山藩士となっている。

            
          この辺り石原慎太郎とか裕次郎とかの実家(本来の姓は  服部)
          と関係があるのかな?
          元は武田の残党で松山に流れた。
          石原慎太郎の家紋は7つ矢車紋。


江戸時代
家康異父弟の松平康元、勝俊、定勝の3人は、松平姓を与えられるとともに、家康の異父弟であるという縁からそれぞれに累進し、江戸時代にはいずれの家系も大名に列した。

もっとも嫡統である康元の家系は当初城主であったものの断絶を重ねて旗本に家格を落とし、
勝俊の家系は無城大名止まりであったのに対し、
末弟・定勝の家系のみ3家が城主大名として幕末まで続いた。


久松松平家の各家は家康の男系ではないため、大名の区分としては譜代大名に属する。

ただし、江戸時代後期に御三卿の田安宗武の子を養嗣子としたことから、伊予松山藩主と伊勢桑名藩主の両家は親藩となっている。


大名および旗本として数多くの家に分かれたが、明治以降、明治天皇の勅命により大名家の家系は桑名藩主家以外は姓を「久松」に戻している。



久松松平家
各種系統がある。

康元系
久松松平家の嫡流ともいうべき俊勝の嫡長子・康元は、三河国上ノ郷城主を継ぎ、1590年の徳川氏の関東移封にあたって下総国関宿城に2万石を与えられた(関宿藩。のち4万石に加増)。

康元の子孫は美濃大垣藩5万石を経て、信濃小諸藩5万石となったが、無嗣廃絶。
その後、下野那須藩1万石を与えられて無城大名として家名再興した。
この家は後に伊勢長島藩1万石へ移され、城主格に栄進したが、藩主・忠充が乱心して刃傷事件を起こし改易された。
その後、五男・康郷に旗本として下総国飯笹6,000石が与えられて再び家名の再興が許され、幕末まで続いた。

この家系からは、5,000石の旗本1家が分家として出た。



康俊系
勝俊(康俊)は、8,000石の旗本として下総国多胡に領地を与えられたが、
この家系はやがて加増され諸侯(多胡藩1万2,000石・無城大名)となった。

この家系からは、500石の旗本2家が分家として出た。



定勝系
俊勝の三男・定勝の家系は、久松松平家3系の中では最も隆盛した。
定勝は兄弟中もっとも長命で、小南3,000石を振り出しに遠江掛川藩3万石、伏見城代5万石、伊勢桑名藩11万7,000石と栄進している。

定勝には6人の男子がいた。
長男・定吉は早世、次男・定行は定勝のあとを継承して伊予松山藩15万石の祖となった。この家系から1,000石の旗本1家が分家として出た。


三男・定綱は、美濃大垣藩6万石から伊勢桑名藩11万石の祖。
子孫は一時、越後高田藩・陸奥白河藩に移されたこともあるが、
幕末には桑名藩主であった。

なお、松平定信は田安徳川家からこの家系に養子に入った。



四男・定実の家系は旗本2,000石で、またこの家系からは、定実の三男定寛を祖とする松平源太夫家(下野国安蘇郡内1,000石)が分家として出た。


五男・定房は長島城主7,000石から伊予今治藩3万石の祖。


六男・定政は三河刈谷藩2万石を与えられたが、のち出家して幕政批判をしたために廃絶、
子孫は旗本として家名再興を許された(知行500石・俸禄1,500俵)。

この他、『南紀徳川史・第4冊』によると桜井松平家の松平忠頼の三男・忠勝が定勝の養子となった久松松平家が紀州藩高家になっており、この家より徳川家茂の生母である実成院が出ている。


NHKのアナウンサーの松平定知は
伊予松山藩久松松平家の分家旗本の子孫で
外交評論家で元NHK記者の磯村尚徳は従兄。


ま、みんな繋がって、
運不運で左右され
名を残すか  ただの人で終わるか
先祖が頑張ったかどうかの差ですね。


だからムカシの人は野心というか大望というかを持って細い細い糸とか血とかを頼って一緒に波に乗れたかどうか
乗っちゃったもん勝ちですね。


やっぱり子女はたくさん持つべきなんですねぇ。
こうやって考えると結婚しないとか子を持たないとかいうのは先祖に対する裏切りなんだな。

家も絶えるけど国も滅ぶんだなぁ。
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月24日 03時23分06秒 ) パスワード

昨日見てた番組で  1953年の日本の平均国民所得は  34万円  と言ってました。
これは1970年代初めの大卒平均年収とほぼ同額でした。


友人の父親が戦後公立高校の教師をしてて  初月給が3000円  と言ってました。
わたしの父は当時月給が6000円近かったそうで   それで  母は給料の良い父を選んだ(?)


20年ほど前に経済学者の森永さんが「その内に年収300万円のビンボー時代が来る」と言ってましたが
とっくに300万円を割っているのかも。


世帯平均所得は552万円…世帯あたりの平均所得をさぐる(2020年公開版)
https://news.yahoo.co.jp/byline/fuwaraizo/20200813-00191952/


これによると世帯平均所得は552万円。
平均所得以下の世帯は61.1%。

「世帯」ですから2馬力で550万円あたり。
年金世帯は312万6000円。


20年前に森永さんが「ビンボー時代が来る」と警鐘を鳴らしていたのが
この先
もっと悲惨な「コロナ後」が待ってるのかも
ですね。


最近アメリカのお金に纏わる人生相談に嵌っているのですが
アメリカも日本もお金については   みんな大変!  のようです。

ただしアメリカには  「80−50問題」 は非常に少ないようです。
子供が高校を終えたら家から出す社会ですから。
「コドモを家に置いてる余裕は無いよ」というのがアメリカ女性のスタンスですから。
日本じゃ「子供部屋おじさん」という表現が今じゃあるそうですけど。

    日本は親が甘いんでしょうね。

と、書きながら   自分も反省。
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月24日 03時24分39秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101754_3.html
「長上郡の服部氏族CXLX:145:長上郡の松嶋氏永井氏」
をご用意致しました。

切りの良いところでどうぞ。
[71]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年05月24日 09時10分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「80ー50問題」について、三日前に民生委員と話をしたところでした。
 いずれにしても、結婚しない、結婚できないという社会は異常。それは政治
の指揮を取る者達に、明るい未来を創る意欲とビジョンがないからであります。
政治の怠慢と無能化、行政の肥大化と特権化と不作為・・・こんなはずではな
かった、こんな国に誰がしたと、つくづく感じる今日この頃でありますーー
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月24日 11時46分38秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「80ー50問題」について、三日前に民生委員と話をしたところでした。

良いお仕事をなさっていらっしゃるではありませんか。


>結婚しない、結婚できないという社会は異常

はい
まさに!

地元で若い人達の出会いの場を作ってあげると良いと思います。

      ネットで出会いを求めるなんてオソロシ過ぎ。



>こんなはずではなかった、こんな国に誰がしたと、つくづく感じる今日この頃であります


ここ20年  森永先生ご指摘の通り  日本は  凋落の一途。

バブルの崩壊後  21世紀になれば良くなって行くと期待したものの  抜け出せないまま。



小泉・竹中路線から日本がズレて行ったと思います。
日本人には  アメリカ型「構造改革」は  酷  だったと思います。


クリントンの金融立国政策=中国を世界の工場に=に巻き込まれて
日本国内からも産業が逃げ出した。

    とはいえ  ハードに強くてもソフトには弱い日本   と言われたまま  今の日本に至った。
    中国の躍進ぶりには目を見張るばかりです。


             *********************

インチキ金融工学の破綻でリーマンショックが起き  日本の大学も巨額損失を出したのを御記憶ですか?

駒澤大学が154億円のデリバティブ運用損、有価証券評価損65億円で  計220億円の運用損失を計上。

これで驚いてたら

慶應大学は08年度、約170億円という巨額の有価証券評価損を計上、消費収支差額が07年度の赤字85億円から08年度は269億円の赤字に悪化。そして08年度末時点で有価証券含み損約329億円、デリバティブ評価損約36億円で・・・

     (竹中平蔵先生じゃ国が救えるワケ無かったよね)
          なんてね。


国も大学も  そして  家庭もお金が無い。有る所は有るけど格差は広がるばかり。

親の年金をアテにして親の家から出て行けない子供の末路は?

その上に2馬力で働かないとマシな暮らしを維持できない子世帯は  子が生まれたら親を子守り要員に。
そして子の教育費もたかり  不動産取得にもたかる。
その挙句、親が死んだら 遺産争族に成り果てる。


子供世代がなかなか結婚せず  晩婚で子が出来たら   ますます生活が破綻する。
フツーの庶民が40歳あたりで子供を持ったら  老後資金など確保できない。


なんか  物凄くオソロシイ日本の姿が浮かんでしまいます。

バブル崩壊でデフレになって  働けば働くほど赤字になって  結局  より貧しい世界からの労働者を安い賃金で働かせ

あぶれた日本の若者は親を頼りに子供部屋から出て行け(か)ない。
老後資金を作れなかった親は年金で細々子供と暮らし  死ぬに死ねない  と後悔するのかな?

とんでもないループに陥ってますね。


時々言い争うムカシの全共闘のバアサンは「人間は平等でなきゃいかん」が口癖。

わたくしの反論:
あのねぇ、そもそも、人間が平等、なんてワタシは2つしか思いつかないよ:死と時間
だけど  死と時間だって  質は平等じゃないよ。
だから全ての人間が平等に、なんてアリエナイよ。
せいぜい夢を見ることは平等だね。
人間が  地球上の全ての人間が平等に生きるなら  猿の時代まで戻らないと平等にはならないのかもね。


最近の日本 ワクチンを巡って「平等」という言葉が飛び交ってて
先週  東京都の救急隊員1万4000人の20%がワクチンを終えた  と聞きました。

コレを聞いて  
ウソだろぉ〜〜〜!  救急隊員はエッセンシャルじゃないのか?ワクチン優先者じゃないのか!  
と驚きました。


    救急隊員は奴隷なのか?使い捨てなのか?と泣きそうになりました。


このコロナ禍が日本人を変える機会になって欲しいです。
[73]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年05月25日 12時52分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。おっしゃられるとおりです!
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