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 投稿番号:101747 投稿日:2021年03月08日 17時07分04秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族CXLV:143:甲賀服部氏とは3
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族CXLU:142:甲賀服部氏とは2
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101744_66.html
の続きです。



     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


三つ柏さんの疑問


家康に本能寺の変の一報をもたらしたのが、服部平太夫正尚であったのか、それとも茶屋四郎次郎であったのか……。

『改正 三河後風土記』では、茶屋を使者としているけれど、
『寛政重修諸家譜』や『柳営婦女伝』では、正尚を使者としている。


光秀の妻の一人の服部氏について、各種史料によれば、
名張城主の「服部出羽守保章」か、「喜多村出羽守」、
あるいは柘植氏分流である北村(喜多村)保光の娘となっております。


出羽守と言えば義家、義家と言えば出羽守。
前九年、後三年の役で活躍し、源氏の東国での基礎を作った人。
父は「源頼義」、母は「平直方」の娘。

義家の弟の「義綱」一家に、大悲劇があった。

甥義忠殺しの嫌疑をかけられ、「甲賀山」に立てこもり、
結局の所、ほとんど一家滅亡となる。

義綱の孫である「盛宗」の後裔より、「服部氏」が出ている。


義家の出羽守、義綱と甲賀とのつながり、その後裔の服部氏、何か意味深であります。


服部保章が出羽守を名乗ったのは、
源氏元祖の匂い、妻系の平氏の匂い、
そして後裔の服部氏の匂いを匂わせているのかも知れない……?。

6 
「出羽守」で有名なのは、光秀の先祖・土岐氏も大いにそうである。
出羽守を名乗ったのは、
光圀、光信、光行、傍系で光保、光助、信保と数多く名乗っている。


つまり、服部出羽守は、
土岐・明智氏のシンパであることをほのめかせているのかも知れない……?

[1]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月08日 18時50分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 歴史に「謎」がなくなるということはない。掘れば掘るほど新しい謎が見つ
かり、そしてそれは無限に切れることはない──
 そういう意味で、今まで7年間、歴史の謎の探求をし続けることができまし
た。それは、あを様という素晴らしい師に恵まれたおかげであります。
 来月、4月16日からは8年目に入ります。原点回帰のテーマが多くなると
思います(例えば、服部保長・半蔵父子)が、半蔵正成は、この浜松に一時期領
地をいただいておりましたので、なんとしてもこの半蔵像を浮かび上がらせた
いというのが私の強い願望であります。どうぞよろしくお願い申し上げます。

 さて、敏満寺という謎めいた寺院、この寺のことをもっと知りたいと思うの
ですが、1562年に浅井長政、1572年に織田信長に焼き討ちされたせい
か、これといった史料がない。多賀町教育委員会が出している『敏満寺は中世
都市か』という本を手に入れたい、あるいは閲覧したいと思っております。
 この敏満寺、「近江猿楽」の発祥地でありました。近江猿楽には道阿弥とい
う役者がいます。幽玄こそこの近江猿楽の特色で、世阿弥が注目し交流もして
おります。
 猿楽と忍者、共通するものは情報であります。観阿弥(服部氏)は名張で、服
部正尚は丹波で、世阿弥(服部氏)は大和で、道阿弥(犬王)は近江でということ、
猿楽のネットワークというものも、ひょっとして修験道ネットワークと共通す
るところがあるかも知れない──
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2021年03月09日 09時36分06秒 ) パスワード

三つ柏さん

もう7年ですか。
これからもよろしくご指導ください。

日々惰性で過ごす傾向がありますから  脳を使ってみよう  と立ち止まる良い機会になっています。
脳の劣化防止の一助になっているかもです。感謝


     最近久し振りに  氏姓  うじかばね  出自と身分ですね について勉強してみました。
     もうソロソロ再びグチャグチャになりそうです。
     平熱にメモ替わりの書き込みをしておいたら結構脳に定着したのかなと反省しています。


面白いサイトを見つけました:

http://www.ict.ne.jp/~hi--no/uhssi/isiker/ukozihci.html
伊賀の服部一族


以下コピペ:



伊賀で服部といえば 忍者!と早とちりしてはいけない。
家康に仕えた「槍の服部半蔵正成」が伊賀者を束ねていたのは事実だ。
その父 保長が伊賀出身と言うのも事実だろう。
しかしただそれだけ である。


服部一族は諸所に分散し 分家、諸家多くある。
住み着いた地名を冠している。
予野の千賀地谷(ちがちだに)に住み着いた者は千賀地服部と称した。
保長は千賀地服部の出身と言われている。
(宗家ではなく 下の服部とよばれ百姓侍の末であったといわれている。)


上野市服部に小宮神社がある。
延喜式伊賀二十五座に列せられ 伊賀二ノ宮と称せられている。 
服部氏の祖神「酒の君」をお祭している。
応神天皇の時代(270年〜310年)に呉国と漢国より絹を織ったり綿糸を紡ぐ女性たちが渡ってきた。
呉国から来た人を呉服(くれは) 漢国より来た人を漢服(あやは)と呼んだ。
この渡来人が所属した部署を部(とり)と 言った。
ゆえに 呉服部、漢服部と書く。
この部とは衣服をつかさどる者に名付けられ
この先祖が酒の君で この酒の君が伊賀で領した場所を服部という。


服部氏に三流ありという

漢服部は平内左衛門相続し平氏          紋は 丸に横二つ切り竹矢筈
呉服部は服部六郎時定相続し源氏          紋は 左ひとつ巴
敢国服部は一ノ宮の神事を勤める一族で源氏    紋は八つ矢車



また一説に「伊賀一円服部名字七流にて候」(応仁元年 1599年 米良文書)ともいう。

A
伊賀平内左衛門尉家長
平知盛の家臣。
壇ノ浦では冑を二領着て知盛とともに入水している。
服部村に住んだので服部を称す。
五人の子供がおり 竹野屋(荒木に住す) 宮田(丸柱に住す) 高畠(高畠に住す) 杉本(湯舟に住す) 小泉(依那具に住す)という。


B
服部六郎源時定(みなもとのときさだ)
頼朝の従士 
服部の産。


C
敢国服部
伊賀一ノ宮と称せられる敢国神社(あえくに 又は あいくに))の古祭「くろうとう」を勤める一族は服部氏のみという古法が有る。
この一族を敢国服部と呼ぶ。


D
藤堂采女元則
伊賀上野城代職の藤堂采女は予野の産である。
由緒書きには 
  源姓 保田氏 実は安田 家紋追州流 今は三角文字
  元則 幼名左十郎 また 佐助と称す 緯は吉次のち元則 
  実は千賀地半蔵則直の子 
  とある。



系図
紀州保田長宗に3人の男子あり   →  知宗 + 繁宗(栄西) + 吉宗(半蔵則直)で  吉宗が千賀地を継いだ


この吉宗に男子が5人いて

                       江戸の保田家の祖  則宗
                       予野の森中嶋家を継いだ繁則
                       浅宇田の森中嶋家を継いだ繁直
                       泰晴 宗勝 法名閑西
                       藤堂采女家の祖  元則(吉次)



この系図は郷土史家の久保文雄著 伊賀史叢考より  作成。
久保先生も 紀州保田家と予野千賀地の関係は不明とされている。
群書類従系図部には 
    則宗 
    伊州名張郡四濃野城主 豊臣秀吉公に仕える 慶長十四年十二月京都に於いて卒 歳四十六 号元亨院雪貞利白居士とある。
  
        名張郡四濃城主とあるが伊賀郡予野城主が正しい。


采女家は予野では千賀地姓を名乗っているが 
明治になり保田姓に復姓している。
実質的に予野の千賀地宗家は則直で終わったことになる。
 
以上コピペ
[3]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月10日 12時05分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 地図上で確認したこと──

1.笠置山・笠置寺が山城(京都府)に所在し、柳生の里が大和(奈良県)に所在す
るのを、地図をよく見て確認いたしました。但し、甲伊一体のようなもので、
笠置山の北麓と南麓というようにつながっています。今までは、笠置山は奈良
県というイメージで捉えておりました。

2.金峰山寺のある吉野山ですが、金峰山や大峯山との関係を地図上で調べまし
たところ、吉野山から南東に「金峯山(山系)」が約15q続き、「大峯山寺」
(標高1719m)に至ります。そして、大峰山寺より南西に「大峰山(山系)」
が約10qにわた って続きます。
 つまり、「吉野山」(標高およそ500m)を入り口として、「金峰山系」が徐
々に高くせり上がって行き、「大峯山寺(山上ヶ岳)」に至る。続いて向きを変
えながら「大峰山系」に入り、更にせり上がって行き、「八経ヶ岳(八剣山)」
(標高1915m)に至ります。ここからは遠く富士山が見えるそうであります。
 
  ──吉野山と金峰山と大峯山は、一つの線上でつながっておりました。

  

 
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2021年03月11日 10時21分39秒 ) パスワード

三つ柏さん

笠置と柳生と伊賀。
まさに  隣同士の感覚ですよね。
笠置寺と柳生は南と北だし。伊賀は隣の国だし。


昨日「新日本風土記」の再放送で伊賀を取り上げてました。
島ヶ原かな?の  お祭りを取り上げてました。
東大寺の荘園だったのかな?
仏教と土着の信仰が合体したお祭りでした。


その後で伊賀の駅が忍者市駅に改名したハナシとか忍者ショーを取り上げてて
くの一の女性の家は伊賀上野のうどん屋さんで
家紋は  亀甲の中に並び矢で  番組の中では「矢羽」と呼んでました。
強そうでカッコいいから、と忍者が愛用とか。

    いえいえ  武家だったら使うでしょ  公家は使わないだろうけど。


で「亀甲」の中に、というのが不思議でした。
亀甲と言ったら  出雲系じゃないのか  と。

近江浅井氏が何故亀甲の中に花菱紋なのか?  
もとは  京極(佐々木系)の家来だったのが下剋上で出世した家で  出自がイマイチ分からない。
京極は元々、出雲・隠岐・飛騨・北近江の守護だったので  浅井は出雲国からついて来た家?


日本の名字も家紋もフクザツ過ぎて分からないです。
何かを記念しているとかで、何かを語っている、と思うのですけどね。
[5]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月11日 13時02分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊賀・甲賀を結ぶもの──それは忍術であることは間違いないでしょうが、
その根底には「修験道」が流れています。修験道は神仏混淆、元来の磐座信仰
も含んでおります。つまり、藤原氏の中臣神道に疎外されたものが中核となっ
ていると推察いたします。その中には物部氏や蘇我氏の宗教性の残滓も残って
いるはずであります。伊賀はまさにそのものの地ではないであろうか。甲賀も
それに近いはずであります。

 「修験道」と「忍術」の関係を調べておりますが、「修験道」自体、なかな
かの難題テーマで、まだ整理できておりません──
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2021年03月11日 14時58分35秒 ) パスワード

三つ柏さん

求めるところを単純にすると
   仏教は精神性の追求
   修験道は肉体の鍛錬
この差じゃないかなと。


   とはいえ仏教は平城京や平安京と結びついて  政治  に深く関わり
   修験道は肉体を鍛えて人知を超えた力を求め  それが忍術に化けて行き  戦争の実践力   として使われるようになったのでは?と。


忍者の身体能力は確かにスゴイと思いますが
能楽師を見てると  姿勢が良いな  良い声を出しているな  などインナーマッスルを鍛えてるんだろうな  と思ってしまいます。
ま、どっちも<鍛えている>という意味では同じなんでしょうけど。


三つ柏さんの家紋の「柏」がどこから来ているのか実に不思議です。神道系?高槻の神服神社系?

山内一豊の三つ柏紋と共通?
この人の先祖は尾張の岩倉織田家の家来だったことからはハッキリしているけれど
その前は謎。
掛川に5万石でいたでしょ。
[7]酔石亭主さんからのコメント(2021年03月11日 18時27分29秒 ) パスワード

空の青梅のあをさん 三つ柏服部さん

こんばんは。コロナ禍にもめげず熱い議論を続けられているお二人には感服します。以下の点に関して少し私見を書かせていただきますね。

>三つ柏さんの家紋の「柏」がどこから来ているのか実に不思議です。神道系?高槻の神服神社系?

既にご存じのように、三つ柏紋は素戔嗚尊の終焉の地とされる出雲の日御碕・隠ヶ丘がルーツだとされています。柏を分解すると白木(=新羅)となり、素戔嗚尊は子のイソタケルを率い新羅の曾尸茂梨に降りたし、国引き神話も新羅から土地を引き寄せています。従って素戔嗚尊や事代主神を祀る神社(出雲と関係する神社)は柏紋が多いと思われます。例えば、事代主神を祀る飛鳥坐神社。少彦名命や健御名方命を祀る宿那彦神像石神社。静岡県だと那閉神社。各地の恵比寿神社(恵比寿=少彦名命)。などですね。他にも調べれば数多くあるはずです。

さてそこで、以前お二人とのやり取りの中で遠江国は出雲の影響が強い点を様々な観点から書いています。一方服部氏の家紋は矢車や矢筈で、柏紋ではありません。ではなぜ三つ柏服部さんは丸に三つ柏紋になってしまったのか?

もとは服部氏だった神服部氏が遠江国に来てから三輪氏(神氏)と合体、神服部氏を名乗ったように、どこか知りませんが別の地域から移住してきた(矢車か矢筈などを神紋とした)服部さんのご先祖も遠江国は出雲の影響が強いと知り、丸に三つ柏紋に変えた、と言うのが唯一考えられるシナリオです。この筋から逆照射し探索したら面白いのでは…。

太田亮氏の「長上郡に服職神社、榛原郡に服織田神社あり。共に古代服部の奉齋せし神社なるべし。而して、長上郡に服部氏の名族あり」はひょっとしたら神服部氏のことを勘違いされて、服織神社のある長上郡にしてしまったのではないかと推測します。伊勢神宮と深い関係のある神服部氏なら名族と称される資格を有しているのではないでしょうか?
[8]酔石亭主さんからのコメント(2021年03月12日 08時53分34秒 ) パスワード

空の青梅のあをさん 三つ柏服部さん

もう一つの大きな可能性(シナリオ)を見過ごしていました。三つ柏さんは実質的には服部氏ではなく西出雲王家・神門臣家の流れを汲んでいるというシナリオです。以前に浜松市には神門姓が多く(最も多いのは出雲市)、これも出雲の影響の一つだと書いたと思いますが、ご記憶にありますでしょうか?この神門家の家紋が丸に三つ柏となっています。 従って、浜松に来た神門家の一つが何らかの事情で服部に改姓した。或いは、神門家から服部家に婿入りした。誇り高い神門臣の末裔ですから、姓は変えるものの家紋の丸に三つ柏だけは使わせてほしいと要請し両家の間で合意された、と言った可能性が考えられます。「住所でポン」で検索すると神門姓は北区都田町に集中しています。「住所でポン」の場合住所とtelまで調べられますので、ここは突撃取材するしかないと思いますが……。(他に中区、南区で各2人、西区1人となっています)
[9]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月13日 00時22分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様
酔石亭主様

 いろいろありがとうございます。
 修験道について関裕二氏の『もうひとつの日本史 闇の修験道』を読んでお
りました。酔石亭主様のレスに出雲が出てきましたが、関氏は修験道は出雲・
葛城に根源があるということで、何というタイミングでしょうか、出雲がみご
とにオーバーラップいたしました……。
 今の段階ではまだ頭の中で考えが熟成しておりませんので、もうしばらくの
お時間を頂戴したいと存じます──
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2021年03月13日 03時10分54秒 ) パスワード

酔石亭主さん
三つ柏さん


わたしも整理出来てないクチです。


浜松というか三ケ日というか浜名湖あたりで  原人の骨が?  見つかってますよね。
その場所が  タダキ  とかいう地名だったのかな?

    知り合いのご先祖が仙台藩の家老で明治政府に忖度して明治になってから斬首されて
    それで関連して記憶しているんだけど


遠江はわたしにとって出雲勢力の東の限界っていう位置づけです。
それから
15代目天皇?『日本書紀』での名は譽田天皇らしい
応神天皇の皇子さんの大山守皇子のお子さん達が遠江国の東端のヒジカタに落ちて来て住み着いた
というイメージ。

    昨日テレビで綾瀬はるかと池松壮亮のドラマを見てて  
    池松壮亮の声って風間俊介の声に似てるけど池松壮亮の声の方が耳障りがいいな
    そう言えば風間俊介って夫の主治医に似てて夫の主治医の先祖は大山守皇子さんだろうな
    と連想して  ドラマは   途中から飛んだ。


大井川の向こうに島田があって  ココに服部氏の有力者が商売してて
大井川のこちら側には掛川があって山内一豊がいたな、とか
連想は果てしなく広がってしまう。


4年前の「おんな城主  直虎」の浜松の宣伝で  
何かの番組で服織神社が取り上げられてて
その時の紹介では  古代から  ずっと万世一系のごとく   続いているようなハナシだったけど


       羽鳥庄(豊町)は京都新熊野(いまくまの)神社の荘園で
       神社の名前が服織神社なのは、「天穂日尊」が出雲時代にゴザの織物に秀でてたから?
       源頼政が失脚した陰陽師だっけ?誰やら?をここの担当者にしてあげた

というのを平熱に書いた記憶があります。

       アチコチからパクって来たのを繋ぎ合わせただけなので確かな固有名詞は記憶に無い。


数十年前に氏子さんの鈴木さん達が服織神社に尽力なさったのを覚えています。
       浜松で石を投げればスズキに当たるって言われてるらしいから
       服部家は尽力してないってコトか?と思ったりした。
       あはは

    
ま、大山守皇子さんの弟の仁徳天皇が4世紀末から5世紀前半に実在したらしいハナシなので
21世紀初めの今に至るまで   1600年間か

人間は足があるから動きまくって  固有名詞も変えまくって   家紋はもっと変えまくったのだろうな  と。


秦氏出身の服部さんは   笹の葉紋だと  お嬢さんから聞いた記憶。その時、え?鎌倉幕府と同じ?と一瞬思いました。
この御家も長い長い歴史が終わろうとしています。とっくに終わらせてるのかも。
存続させる気持ちは無いような感触でした。
コロナで物理的にアリエナイし
お祭りだけでも大変な経済的負担でしょうしね。


半蔵さんの家は允恭天皇の御世に姓=かばね=身分=は連で
でも帰化人じゃないよ
と言ってるし。

              だけど家紋は  
              初期はうちのホンヤさんと同じクルマの中に横に寝た矢2つ?切り竹?  
              ださい感じ。その後デザインが洗練された。

半蔵さんの家の歴史は都合に合わせて  テを加えているな  って。
でも  ホント  かも知れないし。


まだまだいろいろ読んでアチコチ行って朋と知り合うのが求められているのでしょうね。
[11]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月13日 11時05分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様
酔石亭主様

 神門(かんど)家についての話、初めて遭遇しまして、いろいろ調べ出しました
が、いずれにしても、日本のそもそもの開闢の根源に「出雲」があり、それは以
後すべての歴史の底に流れ、何らかの影響・痕跡・匂い・色……を与えていると
解釈します。つまり、極端に言えば、出雲が分かれば、日本の歴史を正しく読み
取ることができるということになります。
 出雲も、さらに遡っていくと、素戔嗚(スサノオ)に行き着き、柏の葉(三つ柏)
に象徴され、それは白木と分解され新羅を表すと解釈されるということ。それは
新羅においてどんな歴史の経緯を表すのか……古代史には終りがないので、ここ
までで一端とどめておきます──
 
[12]酔石亭主さんからのコメント(2021年03月13日 18時06分52秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青梅のあをさん 

出雲に関しては、解明できた国譲りの部分を除いて、私も整理できていません。ネット上には西出雲王家・神門臣家と東出雲王家・富家(向家)に関する情報がかなり詳しく出ているものの、書籍の記述をそのまま引き写しただけの内容が多く、全体像を俯瞰するのは難しそうです。そこで、参考図書を購入するなど滅多にないことではありますが、大元出版の「出雲と蘇我大国」、「出雲王国とヤマト政権」の2冊を取り寄せました。ざっと見たところぶっ飛んだ部分、根拠がある部分が混在しており、年代的にもかなりずれがあります。ただ、年代を補正すればある程度現実に落とし込める可能性がありそうなので、今後の課題としてやってみたいと思っています。三つ柏さんが将来的に検討されるなら、上記の2冊だけで十分だと思います。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2021年03月13日 18時34分35秒 ) パスワード

わたしは   古代 〜 神代の時代は  サッパリ  分からない。

分からない理由の1番のところは
「記紀」って
天武天皇からの我々日本人への贈り物(というか洗脳)であり
対唐対策外交文書と思ってるから。


    天武天皇からの呪縛に今でも縛られているし、わたし自身が。
        他人のことはどーでも構わないけどワタシは縛られてると自分で思ってる。

    もちろん「記紀」の、特に古事記のハナシは日本民族の叙事詩として世界に誇るものだと思っています。

          イギリスだってベオウルフがあるしね
          でも  恐らく  イギリス人は勇者ベオウルフの物語はファンタジーに過ぎない、とバッサリ思っているんじゃないかな?

          アーサー王伝説は  ケルトvsサクソンのハナシなんだから  
          ヲイヲイ  アンタはUK国民として  どっちを応援してるんだい?  
          と思ってしまう。
          因みにエクスカリバーは草薙の剣に相当するのかな?とか

          ランスロットとグィネヴィア王妃(フランス語読みのジェヌヴィエールの方が好き)の不義密通事件 
          アーサー王は知らぬフリをしてたのかな?とか。若いヨメに棄てられたくないから?笑

ということで古事記の神話はわたしには  よー分からん  のヒトコト。



だから「記紀」を作らせた天武天皇はスゴイ!と思う。
    名プロデューサーであり名脚本家であり名編集長だ。
    日本書紀なんてモノスゴイ年月をかけて完成したんでしょ。

    天武天皇ご自身は兄上がボロ負けした唐に対して日本を侮るなかれという負け惜しみから「正史」が要るんだと遺言したんだろう。


       命ぜられた人達は唐に侮られぬよう  返り討ちにされないよう(笑)  大変な思いをして編纂したんだろう。



ときおさんから教えて頂いた  出雲 → 高千穂  に舞台が移って  そして日本の正史が始まる  という流れで

わたしなんか  人皇7代孝霊天皇第3の御子の孫の小千命より84代目  だもんね。

       つまり  ヲイヲイ  神武天皇の94代目の子孫かい?    ヱ?  となる。
           そこまでは我が家の家書はハッキリ図々しく書いてない。謙虚な家だ。

我が家の家書を最初に書いた人は日本書紀と首っぴきで汗ふきふきパクったんだろうな、と。




大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に いほりせるかも    by 柿本人麻呂

大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通        詠み人知らず
おほきみは 神にしませば 水鳥(みづとり)の、すだく水沼(みぬま)を、都と成しつ 


この「おおきみ」というのは天武天皇のことで「神」と称えて古事記の神々に匹敵すると言ってるんだろう。


古事記からの洗脳で  日本人にとって  現人神  って科学的にはアホか  ですけど  心情的には  アリ  よね?


西行法師の伊勢神宮にて詠まるる歌
何事の おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる


これが日本人の「心情」だと思う。

「御神体」については先日見た「虹色カルテ」の洞穴の石っころみたいに  アホか  ですが。
         このドラマは素晴らしいと思います。


わたしは  秋篠宮殿下と徳川家の御曹司に会った時に  自分は日本人だ  って思いました。
「名前」と「家」を知らなかったら  ただの若い男の子達  でしたけどね。


        秋篠宮殿下はそれこそジャニーズの若い男の子(例 長瀬簾)みたいな華奢な体形で
        徳川家の御曹司は  カラダ  作ってた‼‼‼  ダンベルで(笑) 旅のお供はダンベルだし(きゃはは)


わたしの知り合いで  わたしの事を大嫌いだった人の家ですが  実は代々  奴婢 → 小作  でした。

他にもわたしの事を大嫌いな人がいて   何故なら  わたしが服部党だから。


この事を知った時、なるほど  そーゆー事があるのか  と思いました。
我が家とは違って  日本の歴史の反対側で   長々と生きて来た家もあったのかと。

弱者の家の人には   天皇なんて許せない存在だし  わたしの事も許せないわけだ。
わたしが最初に佐々木を嫌いだと認識したのは漫画の中に佐々木という名の人物がいて意味も知らずにキライでした。笑



イギリスは階級社会だから  貴族・ミドルクラス・ワーキングクラス  とあって
大学の教授でもワーキングクラス出身ならワーキングクラスだし
医者でもワーキングクラス出身だったらワーキングクラスでしかない。

アメリカは下剋上の世界だから  富豪になったら勝ち組

日本は  日本一の名家として天皇家があって  この家には手を出さないというのが一応  不文律で来た  と過去形で書くべきか?


出雲の神々の噺  特に大国主命のハナシは  出雲大社の御師さん達の宣伝じゃないのか?
御師さん達が来ることになって  過去に遡って  その土地土地で出雲伝説が出来た?

素戔嗚の柏紋は  後付け  じゃないのか?

   隋書に日本じゃ柏の葉に食べ物を盛るって書かれてた記憶

       有間皇子さんは  家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛ったけど

    
日本の天皇家の菊の紋は  後鳥羽上皇が菊の花を愛したから  というのが我が家に伝わるハナシです。
うちは後鳥羽上皇方だったので。
     後鳥羽上皇に関わる更なる自慢話は遠慮しておきます
     ヨソんチの自慢話なんて他家には面白くも何ともないものね


勿論自分なりに素戔嗚と柏の葉っぱを結び付ける話は空想しているけど
柏の木も葉っぱも日本人に身近だったのが家紋に採用されていったんだろうな
というのが  遠慮深い  わたくしの定説であります。

錦の御旗の日月も  あれは  いつから?   新政府軍が・・・というハナシは聞いてる。


日本って  虚実混じってる   だけどそれが日本人には肌感覚で納得出来てしまう。
天武天皇にはすっかりやられてる。
      なんか  今  天武天皇がニヤッと笑った気がした。


三つ柏さんのご先祖さまが  いつ  どういう経緯で  丸に三つ柏紋を使うようになったか  分かるといいね  と思っています。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2021年03月14日 02時23分33秒 ) パスワード

PCが勝手にIEからエッジに替わって以来
今朝は最悪の事態になってて

かと言って  テクニシャンに来てもらうのはコロナの今  避けるべきだし避けてあげたいし
買った所に持って行くには遠すぎて  こっちの方がコロナを拾う可能性が莫大

ということで騙しダマシこれを書いてます。

アップできるかな?


あ、天武天皇からの?出雲の神さん達からの?逆襲を受けてるのかな?バラしたな、と。

出雲大社の御師さん達が  
「自分達の記憶違いで  いろんな名前を作っちゃって  混乱させて   ごめんね  と謝ってくれた感じ   「そーだよ、行けたのは  遠江が東の限界だよ」
きゃはは
[15]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月14日 13時16分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「遠江が東の限界」であるのは、「銅鐸」の出土については正に遠江が東の
限界であります。西はと言えば、出雲であります。出雲は潜在的には出土数が
一番多いのかも知れません(兵庫が少し上回っておりますが)。つまり、出雲が
銅鐸の発祥地・製作地という可能性があり、それが東へ東へと進んで遠江まで
届いたということ。つまり昔の民族移動というのは、江戸時代の藩替えまで含
めて、本当によく大移動をしたものだと思います。昔の時代の感覚では、遠江
と出雲の間も近かったのかも知れません。今の感覚とはずいぶん違っていたの
だと思います。昔の時間感覚は、今よりずいぶんゆっくりと流れていたのだと
思います──
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2021年03月15日 03時06分20秒 ) パスワード

三つ柏さん

中国人の作った日本の歴史地図です。
漢字が読めない(簡略体じゃなくて繁体文字を使って欲しかった)けど。
https://www.youtube.com/watch?v=6Z0avSjgtHo
なかなか面白い地図です。

銅鐸はこんな具合に伝わり広まったのかな、
出雲伝説と共に?
などと空想するのに楽しいです。


大山守皇子さんのお子さん達が遠江に落ちて来た図なんて  
涙が ほろっ、です。
まさに遠江が東の果てですからね。

________________________


最近ウクライナのネット犯罪組織に手入れが入ったことで
   その寸前、この平熱にもモノスゴイ数の人の身売り買いやらヤク物の販売やら売る春物件が来てましたが、気付いてました?
   日本人にはロシア語  読める人は  限られてるよ  バ〜カ! と消しまくってやってましたが

今はフツーのネット犯罪組織がご活躍のようです。(わたしにはイギリスからは一切来てないけど)

   
友人のPCも不調になったそうで
下記は友人への返信です:お役に立てるかも知れないのでココにもコピペ:

   あ、ビタミンD3の件ですが  1000IU国際単位 =25mcg だそうです。


以下コピペ:
最近メールをしようと思っていたところです
目に良い食べ物ということで。


1オレンジジュース   カロチノイドが良い働きをする。
            糖尿病にも良い。
2赤いベルペッパー   日本語忘れた。子供がキライな緑の野菜、の赤が良い
                 今 検索したら  ピーマン  のことでした ごめん
            (パプリカだったら赤だね)
            ビタミンCが豊富だから。
            これは白内障に良い
3かぼちゃの種     亜鉛が多いから。
            黄斑変性に良い
            男の人は前立腺対策に良いと中国人は言う
4いわし        DHAとかオメガ3が網膜の健康に良い
5薩摩芋         ビタミンAつまりβカロチンがドライアイや夜間視力対策に良い
            鳥目対策=夜間運転する人だね

                フツー夜間視力にはビルベリーとかブルーベリーを薦めるのにね



去年の暮れに眼医者に行った時
「ラッキーなタイプの白内障だ」
と言われました。

つまり  
目の周りから白内障が始まっているから
時間がかかるタイプ
つまり進行が遅い
と言われました。


午前10時までの太陽なら白内障は大丈夫だよ
とも言われました。


そして緑内障については
身内に緑内障が発症してないなら大丈夫だよ
緑内障は遺伝だから
と言われました。


緑内障は日本人の場合は40歳以上で20%始まるんだったかな?
NHKの番組から  そんな  記憶です。

身内に緑内障の人がいたら40歳になったら目薬を処方してもらって
進行を遅らせないとね。


と、こんなメールを送りたかった、と返信しました。

___________________

このメールの相手の人の家紋は「揚羽蝶」です。
なんで?と不思議です。
[17]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月15日 14時27分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 富士林雅樹氏の『出雲王国とヤマト政権』が本日届きました。歴史論文とい
うよりも、歴史の伝承をまとめたもので、民俗学に近い本であります。字も大
きく、語り口もやさしいので読みやすいです。超古代からの流れを理解するに
はもってこいかなとも思います。とりあえず通読してみます──
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2021年03月16日 03時13分10秒 ) パスワード

三つ柏さん

>富士林雅樹氏の『出雲王国とヤマト政権』

面白そうですね。

纏めをお願いします。

神話とか伝説とかは  何らかの事実があって  神のハナシ=神話化した・英雄譚=伝説となった  と思っているので

一応そういうハナシは血沸き肉躍るので好きです。


徐福のハナシでも  香港人の爺さん(この家が三国志のゴタゴタの発端)が  言ってましたよ、「日本へ行った」、って。
   へぇ〜
   中国人も知ってたのか、と  ソッチに驚きました。
   笑


朝鮮人の友人は「高天原なんて朝鮮の食い詰めた高氏が日本へ難民となって行って原始人を支配したハナシだ」で終了。
これにも笑った。


アメリカ人にとって日本なんて   
中国の東の端の 海を隔てた遠い遠いところに在るちっこい幾つかの島の土人たちが
中国からの支配も受けられず  細々と住んで来て
そんなチッコイ島で原住民たちは1000年もの間エンエンと殺し合いをやってた
だもんね。


「北朝鮮はならず者国家の1つで  だから、なんたら」と仕事上でブリーフィングがあった時
アメリカ人の若者が「北朝鮮って?」と不思議そうな顔で言ってました。

   我々の返事:「喰ったこと無いな」「行ったこと無いから 知らん」「どっかの国名だろ」


そうなのです
日本なんてそんな位置づけなのです。



わたしの友人がポルトガルに留学した時  
エラッそうに
「ポルトガル人は日本をXXXX年に発見した」
と言われたそうです。

きゃはは


これが世界に於ける日本の立ち位置です。


アメリカだって  1492年にどこかのヤツがどっかの国に雇われて発見したことになってるけど
いえいえ
スカンジナビア人のエリクソンがもっと前に発見してるよね〜
だし
いえいえ
もっと、ずっと前に、発見されてんだよ〜
だし。


うちのカナダの親戚なんて  部族のトーテムが ← これって神社の鳥居の原型? 太陽を咥えたカラス  だもんね。
今でも  お祭り  やってるよ  寒いからワタシは不参加だけど。


こんな感じで「伝承」って、知るって、楽しい。
ワクワクする。
あはは


1543年  ポルトガル人が種子島に漂着
1549年  イエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着
1550年  ポルトガル船が初めて平戸に到着(南蛮貿易の始まり)


西洋人にとって日本って「伝承の国」「幻の国」が長々と続いて   ← マルコポーロの幻の国ジパングZipangu;Zipangri
1543年に「やっと見つけた〜!」「見つかったぜ〜」だものね。

1543年にデビューです。
ここから日本は確かに世界で存在する国と相成りました。
国として478歳です。


わたしはポルトガル人ってキライなんだよね
スペインのパシリのくせに!

棄民された日本の移民=元年者=をポルトガル人は農場監督者として鞭打ってこき使ったからね。
虎の威を借るキツネじゃん!


だから  いろいろな人がいろいろな事を言うって  興味深い。
そういう情報って  たくさん  集めた方が  自分の厚みになるかなと。
[19]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月17日 07時35分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 出雲、丹波、伊賀……私は、感覚として、何か同じ暗いトーンを感じます。
それは何か……を追求してみたいと思っております──
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2021年03月17日 10時13分33秒 ) パスワード

三つ柏さん

>出雲、丹波、伊賀……私は、感覚として、何か同じ暗いトーンを感じます。

伊賀については賛同です。


延喜式によれば下国に分類される国は9か国。
このうち4か国は島国、2か国は半島国。

和泉国   ココが下国というのは納得いかないです。「国」とも呼べないほど小さい国だから「下国」なのかな?

伊賀国   ココは納得。別名「隠し国」と呼ばれてた記憶。あんな所に「国なんかあるのか?」扱い?

志摩国(半島国)なんとなく海産物が豊かで人民は食べ物的には幸せみたいだけど

伊豆国(半島国)遠いもんね。勝手にやってろ、かな?

飛騨国      山奥過ぎるから?

隠岐国(島国)  出雲国への玄関口って感じなんですけどね

淡路国(島国)  近いのにね。
         それに日本で最初に出来た土地でしょ?
         「記紀」の『国産み神話』によれば。
         
             「記紀」なんかやっぱりウソッパチってことなんだろーなー

壱岐国(島国)  大陸に近くて重要な感じはするけど

対馬国(島国)  大陸に近くて重要な感じはするけど


___________________________________

丹波国は日本海から奈良や京都への通り道ということで重要拠点という気がしますけどね。
但馬・丹後・丹波の3国って京都には重要拠点なんでしょうけど  パッとしないですね。


_____________________________________

出雲国は  宗教国家  という感じで   
      やっぱり  日本の国の中では  日本古来からの人たちより1歩  文明?文化?が進んでいたんでしょうね。
      出雲のは   大陸  and/or 半島  からの影響からだったのかな?

      だけどヤマト政権に抑え込まれたというのが実に不思議です。

           「国譲り」なんてキレイ事で、後付けだろ?って思う。


      だったら  ヤマト政権って何?  とワケ分からなくなる。


          出雲国を作った連中より  ずっと後に、  
          より高度な  文化文明を持った連中が  大陸 and/or 半島  から来て
          出雲勢力を駆逐した?

           
          で、日本に元々いた人たちは出雲もヤマトも関係無く受け入れた?
          この日本の古来からの住人たちは  日本に来るいろいろな出身地の人間と融合して縄文人であり弥生人だった?


          だから日本人は自然崇拝も出雲宗教も仏教も道教も全て受け入れることに違和感が無い?


なんとなく一番早くから日本の土地に住み着いた人達って  素直な人達で  日本人古来の性質なのかな、と。

それが  出雲からの人間が来たことによって  押し付けるタイプに影響されるようになり

ヤマト政権が来たことによって  他を支配する人間性を帯びるようになったのかな?

などと妄想しまくります。


            特に宗教に対して本来の日本人は何でも受け入れたんじゃないかな?

                 物部氏 vs 蘇我氏の戦いあたりから  頑固な日本人の宗教観が生まれていったのかな?と。

                 この日本人の寛容な 何でも受け入れる宗教観は  戦国時代に一神教と出会って  大いに変質することになったのかな?と。


本日の大ニュースです!
アメリカのイエズス会が1838年の奴隷売買の犠牲者272人の子孫5000人に総額$100ミリオンを集めて謝罪するんだそうですよ。
American Jesuits pledge $100 million for descendants of slaves they owned, sold


戦国時代、日本人も南蛮に50万人が売り飛ばされたってハナシですね。
          当時の犠牲者は日本人だけじゃないけど。


ということで  イエズス会の悪行についてコピペしておきます:

1580年に大村純忠が長崎の統治権をイエズス会に託したことは長崎をイエズス会専用の港にすることで南蛮船がもたらす貿易利益を独占しようとした大村純忠と、

とにかくキリスト教に改宗しない領民(奴隷として海外に連れ去られた者の数は数千人とも数万人とも言われている)を奴隷として輸出する港を探していたイエズス会の両者の利害の一致によるものであったが、

豊臣秀吉による九州平定後、住民の強制的なキリスト教への改宗や神社仏閣の破壊といった神道・仏教への迫害(「住吉大明神破却」「彦山焼き討ち」「万寿寺炎上」など)、

さらにポルトガル人が日本人を奴隷として売買するなどといったことが九州において行われていたことが発覚し、

秀吉はイエズス会準管区長でもあったガスパール・コエリョを呼び出し問い詰めた上で、これらの行為をスペイン・ポルトガルによる日本征服の第一歩ではないかと考えた秀吉は、

博多においてバテレン追放令を発布し、1587年に長崎を直轄領とした。


最終的に江戸幕府による禁教令によって、宣教師と協力者たちは処刑・追放となり、
正保元年(1644年)マンショ小西の殉教を最後に日本人司祭も存在しなくなり、
江戸時代にイエズス会は日本での活動を終えた。


註:中には戦国時代の終焉で失業した武士が傭兵となってオランダに雇われて東南アジアで武力を働いたり
  スペインやポルトガルには「ハポン」という名字の日本人の子孫がいるそうです。
[21]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月18日 14時50分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 富士林雅樹氏の『出雲王国とヤマト政権』はとてつもない本で、古代の歴史
の真実らしきものが一杯詰まっております。但し、歴史論文とするには、「い
つ」「どこで」「だれが」「なにを」「どうした」というような具象性とその
客観的裏付けがなければ使えません。民俗学でもそうですが、伝承というのは
真実を含んでいる可能性大なのに、論証性については低く、結局、歴史考証の
上の参考史料、ヒント程度ということになってしまいます。
 この点についてはまこと残念だと思いますが、大きな流れをつかむという点
においては、"ものすごい本"だとは思います。
 そこに書かれていることをフローチャート(プロット)として整理し、今後論
考して行きたいと考えます。

 でも、とりあえず、この話にはびっくりです──
「イズモ兵は忍者の祖でもあった──

(用事にてちょっと中断します)
[22]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月18日 23時42分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 では再開──

 「イズモ兵は忍者の祖でもあった。出雲王国が滅亡した3世紀以降に各地に
 散った兵士は、「出雲散家(さんか)」や「出雲忍者」と呼ばれた。出雲では
 出雲散家のことを、「山家(やまが)」や「山の人」ち呼ぶことがあった。
  彼らは「散自(さんより)出雲」という秘密組織を作って、お互いに協力し
 あった。出雲王国が滅亡したあと、富家はその秘密組織を指揮して各地の大
 事件の真相を探らせていた。それは、まるで出雲王国時代の報告者組織が、
 再び復活したような組織であった。その結果、日本史の真実の情報は富家に
 集まり、代々伝えられることになった。それで、富家は出雲では「日本史の
 家」と呼ばれた。」
  
 「出雲散家の子孫は、明治時代ころまで各地で忍者として活躍していた。丹
 後国は、出雲忍者の集団移住地であった。綾部市のJR山家(やまが)駅の近
 くには、アヤタチという大親分の広い屋敷があった。出雲忍者の子供は年頃
 になると、そこに言って忍術を練習する習慣があった。その練習とは、初め
 は幅のある小川を勢いをつけて、なるべく遠くへ跳び越え逃げる練習だった。
 そのほか崖をよじ登ったり、樹木にすばやくのぼって隠れたり、屋根の上を
 走り回る練習もあった。身近な小物を使って攻撃し、相手がひるんだ隙に逃
 げる練習もあった。」

 そして──

 「サルタ彦大神を崇拝した出雲忍者の出身者には、能・狂言の観阿弥・世阿
 弥たちや、歌舞伎の出雲阿国がいて、芸能文化の発展にも大いに貢献した。」

 「有名な伊賀や甲賀の忍者も,出雲散家から分かれた人々であった。南北朝
 時代の楠正成や戦国時代の豊臣秀吉も、もとは出雲忍者の出身者として活躍
 した人物であった。
  出雲忍者は、先祖代々の強い規律と団結心を持っていたので、戦国武将に
 重宝された。例えば、戦国大名の真田氏は出雲忍者を活用したので、真田氏
 の領地(長野県上田市)には山家神社が建てられた。」

ということであります。忍者の発生は出雲からということは、ウメガイという
武具が出雲で発生したということを考えると、確かにそうなのかも知れない。
 また、猿楽も出雲と関係しているということ、詳しいことは今後の課題とし
たいと思いますが、いずれにしても出雲の封印……ということでフタがされた
ということになります──
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2021年03月19日 03時05分06秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございます。

サンカ(や家舟の民)は昭和のオリンピック以降の経済成長過程ですっかり消えたんでしょうね。


      サンカのことは直接には知らないけれど(山は身を隠すには適した場所と思う)
      家舟の民については母方が大坂の海運業者をやってたし父方が木曽からの材木を運ぶのに必要だったろうから
      家舟の民については  なんとなく  記憶があります。


          世界的に有名なところでは中国の華南エリアの蛋民(たんみん、蜑民、疍民)=水上生活者
          は今でも健在なのかな?

              今では観光アトラクションかもね。



サンカは現代社会ではすっかり表向き消えているけどムカシは当たり前のように日本中に棲んでいたわけです。


サンカが出雲王国滅亡で山の中に逃げていたというのは諏訪大社のことから納得します。
     わたしの場合は  諏訪大社まで行かなくても  伊吹山  で充分理解しています。

     ワタシ的には近江・伊賀甲賀・美濃・尾張・越前・若狭あたりですが
     信濃や河内・紀伊・ヤマト・そして山城国だったら鞍馬などにも当然及ぶわけですね。
           山は繋がってるから。


                で、薬草研究とか毒薬開発とか麻薬使用とか  してたワケだ。

                   伊吹山産だけじゃなくて御嶽山産とかの有名な薬があるよね。


     なるほど!  出雲国の残党は  そこで  ヤマト朝廷とのゲリラ戦に   備えてたわけだ。


サンカのウメガイという武器?道具?については知らないけれど
ザルとかミノとかの編み物に優れていた記憶です。

      ザルとかミノなんかの道具を売りに来て米とかに替えたとか聞いてる。

          若い娘がついて行っちゃった、とかね。
              男女のことはどっちが悪いとか騙されたとか誘拐されたとかは  無い  よね。


新令和日本史編纂所
https://blog.goo.ne.jp/reiwanihonshi/e/ba5b7b94fcd0fa4913a7abbd6ec2c110
サンカ生活体験記 第一章

これを読んで  へぇ〜  と驚きました。



だいたい山の中にいれば足腰始めカラダは鍛えられるし
そこへ道教思想が入って来て修験者も出現して
後世の忍者というのに成長したんだろうな。


猿楽とか傀儡とかのエンターテイメントも洗練されていったろうし
諜報にも利用されたろうし。


孫子とか孫子の兵法とか    勝利を得るにはどうしたら良いか  
    彼は紀元前5世紀?4世紀?の人?
ということは   
出雲国ではヤマト政権が来る前には孫子の兵法を知ってたかもね。


すごいね
出雲王国の残党が15世紀16世紀の日本各地で密かに大活躍してたって。

いえいえ太平洋戦争でも甲賀忍者が特殊な学校で教えてたって聞いてるしね。


ロマンですね。
やっぱり中国人って凄いな、と思っちゃった。
[24]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月19日 08時30分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:丹後国は、出雲忍者の集団移住者であった。→ 丹波国は、──。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2021年03月19日 11時16分45秒 ) パスワード

三つ柏さん

新令和日本史編纂所
https://blog.goo.ne.jp/reiwanihonshi/e/ba5b7b94fcd0fa4913a7abbd6ec2c110
サンカ生活体験記 第一章

に出て来る「コシヤマイン蜂起」は  まさに  先日  某テレビ番組でやらかしたアイヌ蔑視発言の元が出来た事件でしょうね。

アイヌの人々が「我々はずっと  あんな風に  差別され、嘲られて来た」と言ってた話。

     コシャマインの戦い
     1457年に発生したアイヌと和人との戦い。
     応仁の乱の10年前に北海道の函館でアイヌが和人に殺されて
     コシャマインを頭にアイヌが蜂起した事件



このサンカのサイトの中に出て来る  愛知や三重の「八」  という隠語の意味は分かりません。

このサイトは  サンカについて  ちょっと理解は深まります。
セブリ(アメリカのインディアンのTPテントやモンゴルのゲル=包=パオに似た)移動式居住家屋とか
自分達のことは一切口外しないとか
聞いています。
[26]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月21日 14時09分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 富士林雅樹氏の『出雲王国とヤマト政権』は、約350頁の本でありますが、
ヤマト政権以前の古代の歴史の真実(に近いか?)が凝縮されて書かれておりま
す。概念的には分かりやすいのですが、時間軸がおおまかな感じなので、頭の
なかでフローチャートがなかなか描けません。しっかりと読み込み理解する必
要があります。古代の歴史の再構築であると言っても過言でないと思います。
なかなかの本であります。

 煎じ詰めれば、「イズモ族」と「徐福集団」の二軸が古代の歴史のレールと
なって展開して行きます。ハタ氏もモノノベ氏もアマベ氏も含まれます。目か
らウロコの新事実ばかりであります。
 この本を完全理解するには1日や2日ではむりでありますので、ボチボチや
って行きたいと思っています。

 いずれにしても、イズモは絶対に無視できない日本史の源流であります。

 出雲を源流として、丹波、伊賀へと、流れはやはりつながっていました(出
雲忍者の流れ。出雲流民の流れ)。
 甲賀も諏訪から逆流して出雲とつながっています(甲賀53家の望月出雲守)。

 人の遠距離移動を徒歩でと考えると、とてもそれは無理なように感じことが
多いですが、これはやはり船を利用したということ、想像以上に水運が発達し
ていたのではないかということ、それを確認して行く必要があります──
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2021年03月21日 16時12分29秒 ) パスワード

三つ柏さん

本日「ダーウィンが来た!怪獣上陸!オオウナギ」を見ました。
脇谷量子郎東京大学大気海洋研究所生物海洋学者の番組です。


日本ではいつ放送した分かは分かりませんが  
ネス湖のネッシーの正体は@ネス湖に閉じ込められた海亀説A大鰻説の2つあるそうで

この「オオウナギ」は体長2mなんだそうです。


この番組を見てて
ヤマタノオロチの正体って実はオオウナギだった?と思いました。
2mもあれば子供なんか飲み込んでしまうかも。
ワタシなんか呑まれてしまう?

    では物語の若い娘が食べられてしまうハナシはオオウナギ伝承かも。


このオオウナギは海底深くで孵化して川に戻り子供の時は大人のオオウナギに食べられてしまうから
川を遡って山の上の方まで登るんだそうです。


皮膚呼吸が出来るから皮膚さえ湿ってれば陸地も移動できるんだそうです。
時間的には30分ほど。


ということで  やっぱり神話とか伝説とか伝承とか民話というのは  何かちょっとした真実とか事実とか からハナシが盛られたんじゃないかなと。 


この絶滅危惧種のオオウナギは奄美大島などの南方にいるそうです。


そうすると出雲神話は南方のハナシも結構含んでいる?


ワタシ的には出雲王国は朝鮮半島系かなと 
ヤマト朝廷は大陸かな?華南エリアかな?福建かな?というと徐福が福建経由で来た?

    だけど徐福だと時代が古過ぎるしなぁ紀元前ですからね始皇帝の命令で日本に来たとかってハナシだから


結論
やっぱりワタシには古代以前はワケ分からなくなる。
余りにもハナシが飛ぶから。

    整合性が欲しい!
    司馬遷だって始皇帝の時代から数代後の前漢の人だものね。


うちの近所にオシャベリなおばあさんがいて
ハナシに整合性が無くて
かぁ〜なりバアサンの好きな方向に話を盛りまくるので
わたしはツイツイ  例えば
        それはオーストラリア首相の奥さんのハナシじゃなくて息子の嫁のことでしょ  
と訂正してしまいます。

        でもワタシもいずれ彼女の側の老人世界の住人になるんだから
        自分の将来の姿なんだろうなと思うと最近は舌鋒丸く穏やかな人間像にしています

     

だから神代とか古代の話は   かもね   と余裕をもたせてワタシ自身が逃げています。



「記紀」は天武天皇の側の   ヤマト朝廷の子孫側の言い分であって
「出雲風土記」は「記紀」に対抗した出雲側の言い分だと思っています、反論  って言うのかな?

国引き神話では   
  
八雲立つ出雲の国は小さくて若いから 大きな国にしようと    たくぶすましらぎのミサキを引っ張って来た

なんてデッカイ話を書いているけど   自分達出雲を大きく見せようと虚勢を張ってる?


って、この「しらぎ」って「新羅」のことだと比定するハナシもあって  笑

         国際紛争には関わりたくないのでココで止めます
               そーめーなワタシ


>甲賀も諏訪から逆流して出雲とつながっています(甲賀53家の望月出雲守)。

望月氏が出雲守を名乗ってたのは先祖が出雲出身だからでしょうね



「望月」と言ったら 今は 「天国と地獄」の望月彩子ですね。それで片方は  日高陽斗なのか。で15分違いのお兄さんが東朔也。
お兄さんは15分違いだけで生まれて「朔」って気の毒。真っ暗な感じ。つまりみじめな側の人だね名前からしても。

人間はちょっとした手違いで  アッチ側とコッチ側に分かれてしまうんでしょうね。
古代日本で逃散した農民は山に逃げ込んで時の支配層に従いたくないサンカの仲間に入れてもらって命を繋いだのかも。


来たる水曜日が最終回です。
八巻が「望月さんは・・・」と予告で言ってましたが、八巻は何を話すんでしょうね。
「まってろよ、日高ぁ〜!」と望月さんが叫んで走ってたから無実は証明されたようで安心しました。


「光と影」
まさに我々が 今 ア〜だコ〜だと書き合ってる人間達のコトでもありますね。


高橋一生は「おんな城主  直虎」で自己犠牲した小野鶴丸但馬守政次の人柄を彷彿とさせてマタマタはまり役でした。
[28]酔石亭主さんからのコメント(2021年03月24日 08時11分07秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青梅のあをさん 

>概念的には分かりやすいのですが、時間軸がおおまかな感じなので、頭の
なかでフローチャートがなかなか描けません。

『出雲と蘇我王国』は比較的簡略にほぼ時系列に沿って書かれているのでこちらの方が理解しやすくなっています。なので、今は同書を中心に読んでいるのですが、年代観にはやはり誤りがあるようです。8代の八千矛と事代主の枯れ死事件と分家の大和移住は徐福も絡めて書いているので、富家伝承では紀元前3世紀の話になります。ところが巻末の系図で見ると、18代が野見宿祢(文章では17代)ですから、一代15年(徳川幕府でも一代約18年)と見て遡ると、8代は250年前後となってしまいます。

次に富家伝承では東西両王家の消滅は3世紀と書かれ、その戦いの中に東出雲王家の田和山神殿が攻略され破壊されたとあります。そこで田和山遺跡をWikiで検索してみると、

丘陵尾根に掘られた弥生時代前期末〜中期後半の三重の環濠が検出された。弥生時代の環濠集落は、通常、環濠内部に住居跡などが配置されるが、田和山遺跡の狭小な環濠内部は建物跡が2棟検出されたのみで、それ以外の建物跡は環濠の周辺から検出された。そのため、なぜこれだけ膨大な労働力を投下して環濠を掘削したのか、環濠内部には何があったのかが謎とされ、遺跡の性格・位置付けが問題とされた。
環濠内からは、つぶて石や石鏃が出土しており、弥生時代の戦争を物語る山城ではないかという説、祭祀の拠点であったという説、環濠内部に銅鐸などの青銅祭器が保管してあったのではといった想像も提唱された。そのほか、弥生時代の遺跡では極めて珍しく硯の出土も認められている(他例は福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で知られる)。とのことでした。

遺跡には三重の環濠があり、山頂は柵で囲まれ、つぶて石が3000個、石鏃は180個あり、物見櫓もあって、環濠外の住居で焼けていたものがあるなど、明らかに砦のような機能があります。また5本柱遺構(弥生時代前期末〜中期初頭)と9本柱遺構と柱穴列(弥生時代中期後半)があり、祭祀施設が推定されます。

つまり、この遺跡は本来祭祀施設だったものが、外敵の侵入により砦に改変され、戦闘が実際にあったと考えられます。だとすれば、富家伝承の内容と全く同じ話になり、この点では大変驚かされましたが、同遺跡の廃絶はAD50年頃とされています。伝承では3世紀末の話が実際にはAD50年前後のですから、年代観は大きな差があります。

荒神谷遺跡の銅剣埋納時期もAD50年頃との推定がなされており、この時期の出雲では外部勢力の侵入による青銅器祭祀の終焉、四隅突出型墳丘墓の築造とその祭祀が始まった画期になると理解されます。そして実際の出雲東西王家の消滅は250年頃となり、この時期に四隅突出型墳丘墓やそれを含む遺跡が突如として終焉を迎えており、これがもう一つの画期となります。

私の理解では250年頃は台与が大和に東遷した時期に当たり、出雲と北九州勢力は関係があったので、北九州勢力の誘いがあった、或いは強制があり出雲勢力も移住したのではないかと想像しています。強制だった場合、この時点で天穂日命と息子の建比良鳥命が出雲に来て8代の八千矛と事代主を幽閉したのかもしれません。その場合、この時点で両王家は消滅するはずなのに、系図上では17代まで両王家が継続する形になり、辻褄が合わなくなってしまいますが…。

出雲は弥生時代に(両王家の時代)北九州をも凌ぐような勢力があり様々な遺跡があるのに、古墳時代に入ると一転して地方勢力(富家、神門臣家、出雲臣の時代)に変わってしまうのは、上記のような事情によるものと思われます。出雲勢力の大和移住は御師が神札を売っていただけの話と以前に書きましたが、出雲人が葛城山麓に入り鴨氏を名乗ったのは、出雲では神を「かも」と読み、神魂神社(かもすじんじゃ)の名にその名残があり、鴨都波遺跡の1号墳は方墳(四隅突出型墳丘墓に続く出雲での代表的な古墳が方墳)である点などから事実とみなすべきではないかと思い始めました。

まだまだ不整合な面もありますが、現段階では出雲を上記のようなイメージで見ており、その中に富家伝承を組み込めればと考えています。浜松の神門さんがいつ浜松に来たのか、その家紋が三つ柏さんと同じなら両者に関係があるのではないかなども、実に興味深いので是非お調べいただければと思います。

[29]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月24日 14時22分39秒 ) パスワード

酔石亭主様
空の青海のあを様

 ありがとうございます。これから読解いたします──
 (ただ今、自治会の引き継ぎ関係が膨大にあり、オーバーヒート気味……)
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2021年03月25日 04時51分14秒 ) パスワード

業務連絡です。

わたしの窓8のパソコンが不調になりました。テクニシャンに来てもらわないといけないレベルですがなんとか送ります。
もう1つの窓10の方はウイルスチェックが期限切れなのでこっちも直さないといけないです。

ということでお知らせでした。
[31]酔石亭主さんからのコメント(2021年03月25日 09時04分39秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 

>ただ今、自治会の引き継ぎ関係が膨大にあり、オーバーヒート気味……

私も去年3月まで町内会長をやらされていました。町内活動など今まで全く未経験なのでできるはずがないと固辞し続けましたが、色々な事情が重なって引き受けざるを得ない羽目に……。最初の会議など色々な(知らない)方たちが机の上にどんどん書類や資料を載せていき、これらをどうすればいいのかわからないし、答えようのない質問もされるしで、ほとんどパニック状態だったのを思い出しました。それ以降は落ち着いてやればなんとかなりましたけど……。オーバーヒートは最初だけで、知らないことは周囲に聞きまくり、助けてもらうように持っていけば、すぐに慣れるので大丈夫ですよ。

空の青梅のあをさん 

パソコンが不調になると本当にストレス度が高くなりますね。携帯なども含めこんな不安定で色々なリスクもある機械に人々が依存していると考えるとゾッとします。まあ、何かと便利なので使い続けるしかありませんが……。
[32]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月26日 09時20分18秒 ) パスワード

酔石亭主様
空の青海のあを様

 酔石亭主様のおかげで、古代出雲の真実への扉を開けたのは、日本の歴史を
探究する上で、暗雲に閉ざされた視界が一気に開け、雪化粧の大山が見えて来
たような感じであります。
 また、出雲と諏訪が確かに結ばれていることを考えると、その二点間を結ん
だルートが、日本海ルートか天竜ルートかどちらかであるはずであります。私
の直感ですが、信濃の景色は北信濃と南信濃で違うような感じがしますので、
そのへんも調べてみたいと思っています。
 いずれにしても、どちらも「信仰」というものが大きな行動原理の基ではな
かったのか、単に経済や権力のためだけで歴史は動いていたのではないと考え
ます──

[33]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月27日 07時15分32秒 ) パスワード

酔石亭主様
空の青海のあを様

 田和山遺跡(松江市乃白町 ちょっと東に神魂神社)を調べてみますと、それ
はいわば「古代出雲のパルテノン神殿」であったようだということであります。
 さらにインターネットで調べてみると、「田和山遺跡に類似した中世山城に
ついて」という紫竜氏の論文に出会いました。
 それによりますと、田和山遺跡は弥生時代中期後半(おおよそAD五十年前後
か)に破壊され、その後に長野県諏訪で田和山遺跡に似た「上の城」という構
築物(遺跡)が作られていて、出雲から諏訪に民族・文化が移動した形跡が見ら
れるということであります。そしてそれは、北陸〜新潟、つまり日本海ルート
で移動し伝わったということであります──
[35]ときおさんからのコメント(2021年03月27日 11時43分06秒 ) パスワード


あを様のPCがやばそうですね。直接お邪魔します。
あどれすはダミーですがHNのときおです。

富家伝承はすごいですね。納得です。

下諏訪「上の城」
http://osirozuki.blog.fc2.com/blog-entry-147.html  
下諏訪町の「上の城(かみのじょう)」
まさしく田和山方式ですね。三重の環濠と主郭です。
ただし、改変が見られます。堀から次の平地(曲輪)につなぐ
様にしています。中世の尾根を切断する堀切を通路として斜面の武者走り通路
を施して上の曲輪や郭につなげる通路ですね人一人が歩ける通路方式です。
そして尾根筋の土橋状通路はまさしく中世山城の防御施設ですね。


3年前に紹介した様に思います。

下記の二つは付け足しです。
https://www.asahi.com/articles/ASN225KK6N22PLZU001.html
紀元前後、国内最古の字? 田和山遺跡の石製品に黒い線2020の記事です。

http://tawayama.net/?page_id=583  
田和山遺跡について | 田和山遺跡 Tawayama ruins 

実際に踏査しますと、中世の毛利系統の山城を歩いている錯覚をしてしまいましたよ。
尾根を三重堀切で防御するのは毛利系の特徴ですからね。ただ環状にぐるりと回っていますからね。
山城なんてもんでは無くて、ものすごい労力と日数を要した事を実感しました。
まさしく神殿跡にふさわしいと思います。
ただ弥生中期の高地性集落時期に相当します。実際に戦闘が在った模様ですから、弥生時代の山城ですね。


[36]酔石亭主さんからのコメント(2021年03月27日 18時44分46秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青梅のあをさん 

上の城に関して原文を読みました。諏訪と出雲との関係は明らかですから、その証明に田和山遺跡とあまりにも時代がかけ離れている上の城を取り上げる必要はなさそうな気がします。この点は別としても北陸〜新潟、つまり日本海ルートで出雲族が諏訪に入ったのはほぼ間違いないでしょうね。

それは『出雲国風土記』に大穴持命が越の八口を平定したとの記事があることや、翡翠の女王・沼河比売との婚姻譚、二人の子が建御名方神で、姫川をさかのぼって諏訪に入ったことになっている点からも確認できます。天竜川ルートは仮にあったとしても多分もっと後の時代の話になりそうです。

富家伝承の重要部分をもう少しビジュアル的にわかりやすく書き直したいと思っているのですが、このところパソコンを見ているとすぐに目が疲れてきて、そうなると頭の働きも鈍くなり、いつ書けることやら……。
[37]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月28日 08時20分32秒 ) パスワード

酔石亭主様
ときお様
空の青海のあを様

 ありがとうございます。ときお様や酔石亭主様のご見識には尊崇の念を抱き
ます。田和山遺跡や上の城遺跡において、どんな信仰・祭祀がおこなわれてい
たのかについて、非常に興味を抱いております。宗教や哲学、あるいは民俗学
の分野になると思いますが、歴史学の世界ではその神の概念・精神性を論じる
のはなかなかむずかしいのではないかと思われます。

 さて、天竜川ルートと言いましたが、これには陸運ルートと水運ルートがあ
り、これも時代が違ってきます。
 おととし、天竜二俣の光明山遺跡の調査発掘があり、調査員の話を聞く機会
がありました。県下最大の前方後円墳で、ここに祀られたのはこの地方の開発
者で首長であった。時代は5世紀半ば(450年前後)で、この時代、古墳は内
海の湊のすぐ上に造られた。当時、半島より「馬」が大量にもたらされており、
時代的には馬を使った陸運が発展しだしたということであります。従って、こ
の二俣より信州街道(秋葉街道)を北上し、伊那谷を通って「諏訪」に至る陸上
ルートが栄え始めたということであります。
 もっとも二俣から天竜川を遡れば、諏訪湖に着くので、天竜川ルートと大ま
かに言っても間違いではなさそうです。戦国時代や江戸初期には、信州から木
材が運ばれたり、流されたりしました。高いところからは川を使って「流す」
、低いところからは足を使って「登る」ということは物理的な道理ではあり、
このようにして、文化・文明が発展したことは間違いないと思います。

 さて、出雲と遠江の関係、不思議なことは、出雲には「稲佐の浜」と「弁天
島」がセットであり、遠江(西遠地方)にも「引佐」と「弁天島」がセットであ
るということです。西遠地方が銅鐸の伝播の東南端であり、出雲文化圏であっ
たということと併せて考えると、その関係の濃さに驚かされます。一体何で出
雲が遠江にまで影響を及ぼしたのか、ちっとやそっとの勢力ではない。かなり
の主導権を持つ勢力・人員がこの地にやってきて、統治したと考えるべきだと
思うのですが、いかがでしょぅか──
 
 
[38]酔石亭主さんからのコメント(2021年03月28日 14時55分10秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青梅のあをさん ときおさん

田和山での祭祀は研究者の論文では農耕祭祀とのことですが、富家伝承では9本柱の神殿が建てられ、その後山陰各地で同様の神殿が建てられたそうです。出雲大社も古図面では三本束の柱が九つ、田の字になっていたと思います。田和山の毎年の大祭では各地の代表が集まり、重要な出来事を報告し、それを記録するのが向家(富家)の役割だったそうです。その記録は一部分が昭和まで残っていて、インダス文字らしい字で書かれていたが、東大教授を名乗る人物が解読するので貸してくれと頼みに来て貸し出し、そのまま失われてしまったとのこと。あまりにも勿体ない話です。

田和山遺跡で出土した弥生時代中期後半(紀元前後)の石製品にある文様が漢字の可能性が高いとの研究成果が出ていますが、これとの関係はどうなるのかちょっと興味深いですね。ただ富家伝承によれば、由布岳で取れた木の甘皮を紙にして墨汁で書いたそうです。2000年近く前のものが今に残るはずがないので、筆写したものでしょうけど、そうだとしても本当だろうかと思ってしまいました。

田和山大祭は何となく神在月の原型のような気もしますが……。出雲と遠江の関係は難しいので、今日はここまでと言うことで−
[39]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月29日 06時52分25秒 ) パスワード

酔石亭主様
空の青海のあを様

 大きく捉えて、銅鐸の伝播の流れと、前方後円墳の伝播の流れというものが
あったことは明白であります。時代的には紀元前後(弥生時代)と、紀元4〜6
世紀頃(古墳時代)でしょぅか。言い換えれば、ヤマト政権前とヤマト後という
ことでしょぅか。
 出雲系民族の東へ流れの中には、出雲王族、出雲神族、出雲臣、あるいは、
出雲流民というくくり、というように解釈上のいろいろなグループがあり、そ
の中で、美和氏や三輪氏は出雲神族ということになるのでしょぅか。
 いずれにしても、出雲については興味がつきないテーマでありまして、今後
も継続して探求して行きたいと思っています。古代出雲でありますので、銅鐸
にしても、あるいは古墳にしても、最新の情報を入手して行きたいと考えます。

 摂津高槻の服部連の出自でありますが、ヒノハヤヒということで、これは民
族的にはいかなるものかとずっと考えてきましたが、出雲にはヒハヤヒコ神社
というものがあることが「出雲国風土記」でわかりました。つまり服部連は出
雲系かとも思ったりしております。そうすると、高槻の神服神社の神紋が「丸
に三柏」であることの疑問が解けてまいります──
[40]酔石亭主さんからのコメント(2021年03月29日 10時26分14秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青梅のあをさん

>出雲系民族の東へ流れの中には、出雲王族、出雲神族、出雲臣、あるいは、出雲流民というくくり、というように解釈上のいろいろなグループがあり、その中で、美和氏や三輪氏は出雲神族ということになるのでしょぅか。

正にご指摘の通りで出雲と遠江の関係を探るには、上記に大和朝廷も含めそれぞれを考察する必要がありそうです。また前にも書きましたがダイダラボッチも出雲と遠江のセットの一つになっています。三輪氏は出雲神族の中心的なメンバーですが、出雲神族と言う括り方が適切なのか釈然としない部分もあり、単に三輪氏(美和氏、大神氏、神氏)とすればいいのではないでしょうか?で、浜松における出雲系を以下にグループ分けしてみます。

1国造:遠江国造に関して『古事記』には天菩比命の子・建比良鳥命が祖とありますし、素賀国も同系統の流れです。この二つは出雲臣系ですね。遠江国造に関しては国造制が終わった際、自分のアイデンティティーを確保するため出雲国造家から系図を買ったのではないかと推測しています。従ってこれらは700年代初頭頃の話になります。なおWikiによれば、古社を奉斎する社家はもともと国造氏族であることが多い、とのことです。

2神社:遠江国一之宮 小国神社、於呂神社、大歳神社など。磐田市に淡海國玉神社があり主要神社の祭神は大己貴命(大国主命)。お隣の東三河では一之宮 砥鹿神社(創建701年〜704年)、御津神社(創建不詳だが天武天皇4年には存在していた)、石巻神社(創建不詳)があり、大己貴命が国見をした国見岩まであります。創建年はそれぞれ違うものの、実際の創建は大化以降と思われます。これらの主要神社は出雲系ですが、いずれも大和朝廷の影響を考慮する必要があるかもしれません。服織神社の祭神は天穂日命(出雲臣の祖)と建御名方命(富家伝承では事代主の子)になっています。服織神社の創建も708年ですから国造制の終了とほぼ同じ時期で、収入減に直面した出雲臣が祭神を変え収入増を図ったと推測しています。

3富家:浜松の冨塚町には登美首人(とみのおびと)が被葬者の妙法塚古墳があります。一般的には登美は物部氏ですが富家伝承では富家としています。富田姓や富永姓は富家の流れとされ、浜松にも多いですが、一般的な姓すぎて富家関連と言える確証はありません。

4神門臣家:特に気になるのが浜松における神門姓の存在で、市単位で見れば島根県の3市と鹿児島県枕崎市に次ぐ5番目の人数になっています。ここを調べれば、例えばいつ頃遠江に来たのか、その目的は何なのかなどが見えてくるのではと期待して是非お調べされたらと書いていた訳です。加えて神門姓は丸に三つ柏紋ですから、三つ柏さんに接続するかもしれない淡い期待もあります。

5三輪氏:浜名湖周辺で確かな存在感を持つのは以前にも詳しく書いた三輪氏(神氏)で、神社だけでなく窯業も持ち込んでいます。また浜松市における三輪姓もその存在感同様に多くなっています。

こうして分解していくと、それぞれのグループがそれぞれの時代に遠江に来るか、或いは直接・間接的に何らかの影響を与えたと解釈され、主導権を持つ勢力・人員がこの地にやってきて、統治した可能性はそれほど高くないと現段階では考えています。(まだまだ調査不足で、考えも十分練られていないので、いずれ総合的な検討が必要です)

私にとっても出雲はどう理解していいか全くわからなかった地域でしたので、実に興味深くて面白く、今後さらに深堀していく予定です。富家伝承は内容に誤りもありますが、弥生時代以降の全体の枠組みを構築する上で非常に有益なので、後で纏めて書いてみます。書いた枠組みを参考にしていただいて、その中に出雲の遺跡や墳墓群を組み込んでいくと視界が一気に開けてくるはずです。ここでの出雲に関する議論は、何か月先になるかわかりませんし、支離滅裂になる恐れもありますが、新たに開設したブログで記事にしたいと思っています。

>出雲にはヒハヤヒコ神社というものが

樋速夜比古神社は斐伊神社に合殿で祀られていますが、熯速日命は蜂前神社(羽鳥大明神)の祭神でもあり、「遠江織物史稿」には、脇宮四柱の大神勧請は、人皇十九代允恭天皇御宇(推定439〜460)、熯速日(ひのはやひ)命十二世の孫・麿(麻羅)の宿祢、諸国の織部を惣領し、服部の連と云うと『姓氏録』に見える。此の宿祢、此の里に巡回し来たって、養蚕織工等の事業を郷党に教授して大いに此の郷を賑給した。服部の連麻羅の宿祢が指導して開いた織物生産の地域は、蜂前神社氏子の地域で、相当広く又多数の集団であったであろうと察せられる。などとありましたね。ですから、神服神社と蜂前神社は関係があり、神服神社の神紋が蜂前神社の氏子である服部氏に配布され家紋になったとの筋道は描けるので、出雲を介在させる必要はなさそうですが…、蜂前神社の神紋をまず調べる必要がありそうですね。

一方、蜂前神社(大己貴命・少彦名命も合祀されている)鎮座地は神門姓の地域・都田町にうんと近いですよ。出雲市は神門姓の中心地で神門家の家紋は丸に三つ柏紋。彼らが遠江に来て服部氏に入り婿し、結果本来矢に関係する家紋の服部氏の家紋(三つ柏さんの家紋)だけが丸に三つ柏紋に変わったと考えるのがよりダイレクトな筋道になるような気もします…。こう考える根本には三つ柏さんの家紋が服部氏の本来の家紋と全く異なる点にあります。



[41]空の青海のあをさんからのコメント(2021年03月29日 13時58分16秒 ) パスワード

三つ柏さん
酔石亭主さん
ときおさん


ときおさんから頂いたURLに出てた「古刀」とは何なのか?
興味あるところです。
出雲からの刀だったら面白いなと思っています。



わたしには古代やその前の神代の時代はさっぱり理解出来ないので
ロム専です。


蜂前神社の神紋について検索してたら   結局  名称も分からないのですが
https://blog.goo.ne.jp/ryuzojiryuzoji/e/e6238cefdc652863ed445caaa9baf1df
面白かったです。



乳於母命神社ちおもみことじんじゃを見てたら
http://hachisakijinja.or.jp/
に蜂前神社の  神紋?  の画像が出てますけど
何でしょう?



http://hachisakijinja.or.jp/about/
神社名 蜂前神社(はちさきじんじゃ)
鎮座地 〒431-1304   浜松市北区細江町中川6915
御祭神 熯速日命  甕速日命   武甕槌命
御祭典 例祭日   10月中旬の日曜日



由緒
応神天皇十一年三月八日(西暦二八十年   この年代 ホント?下に記す)
八田毛止恵という人が勅命によって遠江国へ下向して、
  八田(祝田村の古名)四十五町
  広田(刑部村の古名)七十町
  岩瀬(瀬戸村の古名)の八町三反
合計百二十三町歩余りを開墾して本社を八ケ前(さき)の地に勧請して蜂前神社と斎き奉り子孫代々祝部として奉仕しました。

脇宮二社は十九代允恭天皇の御代(いつの人?5世紀前半?)に勧請され、その頃から社号は鳥飼明神、羽鳥大明神と称えられ延長五年(西暦九百二十七年)蜂前神社と改め古名に復しました。

延喜式神名帳に記載されている式内社であり旧社格は郷社であります。


_____________________________________
応神天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
実在したとすれば4世紀後半。   上記と100年違う・・・

足仲彦天皇(仲哀天皇)の第四皇子。
母は気長足姫尊(神功皇后)

仲哀天皇9年(若井敏明によると西暦367年)に生まれたとされるが、これは足仲彦天皇が崩御して十月十日後である。

胎中天皇とされ、異母兄たちはこれに抵抗して叛乱を起こしたが気長足姫尊によって鎮圧され排除された。

神功皇后摂政3年に立太子。


実は?噂では?武内宿禰の胤というハナシですよね。

武内宿禰
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣である。
紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる。



仁徳天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
4世紀末から5世紀前半に実在したと見られる天皇。


ということは父親の応神天皇は4世紀中頃の人?



允恭天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%81%E6%81%AD%E5%A4%A9%E7%9A%87
5世紀前半に実在したと見られる天皇。
大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の第四皇子。


仁徳天皇陵が今では「大仙陵古墳」とか「大山古墳」とか呼ばれるのは
日本書紀などに伝えられる仁徳・履中の在位順とは逆に、
第一皇子の履中天皇陵古墳よりも後で築造されたことが分っているから
なんですって。


__________________________________

結論
やっぱりワタシには古代とか神代とかは分からない。



+++++++++++++++++++++++++++++

ジャニーズの美少年系に「金指」という子がいて
金指姓は静岡に多いらしい。

金刺姓も静岡に多いらしい。


わたし的に  「かなざし」姓だったら   
信州諏訪神社の一族の「金刺」姓だなと。

科野国造後裔で上社大祝家は「諏訪」、下社大祝家は「金刺」。
          こんな認識。

以下コピペ:
信濃国の一宮である諏訪神社には、下社と上社がある。

上社の祭神は建御名方富命、この神は大国主神の子で一般に建御名方神といい、
出雲の国譲り神話に、高天原からの使者建御雷之男神に抵抗し、
敗れて科野国の州羽海まで逃げ、ついに降伏したと伝える。

下社は妃神の八坂刀売命を祭る。

建御名方は武水潟で諏訪湖畔の水の神、八坂刀売は下社背後の和田峠守護の神と考えられる。



その後、両家ともに武士化して諏訪vs金刺の争いがエンエンとあって
結局両者とも没落
          こんな認識。
          で、我が家的+井伊家的には諏訪家方で良いのかな?
          あたり。


中世あたりから  源平戦あたりからならば  理解が増す。
古代や  その前の神代の時代については  ハナシとしては面白いです。
[42]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月30日 13時03分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 パソコン関係は無事(?)のようで何よりです。

 さて──
 @応神天皇十一年三月八日(西暦二八十年 この年代 ホント?下に記す)
 A実在したとすれば4世紀後半。
 B上記と100年違う・・・

 @は日本書紀の誤解釈伝統アカデミカル年代設定(神話的国体護持のために
 は必要か)。
 A、Bは正しい(古代天皇の在世年代は、民間レベルでは正しく翻訳すべき)。

 間違った天皇在世年代で歴史を語れば、間違った歴史が横行することになり
ます(現にそうなっています)ので、これは民間レベルでは正しく翻訳して行く
べきだと思います。私は、昨今、石澤一由式算定方式の年代に従っています。

 さて、金刺氏といえば、諏訪社の大祝家でありますが、科野(しなの)国造家
の出身(科野氏)でありました。太田亮氏によれば、引佐郡気賀の金指氏も金刺
氏の一族ということであります。

 出雲、諏訪……歴史のいわば源泉であり、今もつながっているということは
間違いないことだと思います。本当の姿は見えにくくなっていますが、不純物
を濾過していけば、真実に到達できるものと考えます。

 出雲や諏訪と一端離れ、「服部半蔵」についてでありますが、いまから30
年前に発行された『歴史読本 臨時増刊 忍者のすべて』の中で、武光誠氏は
こう書いております──
 「服部半蔵の実名を正成という。彼の父の守佐(もりすけ)は一の宮(敢国神
 社)の祭祀にあたった服部氏の傍流の出で、岡崎城主の松平氏に召しかかえ
 られた。伊賀には十分な領地がなく、浪人に近い立場でしかるべき主君を探
 しまわっていたのである。正成は松平家に仕えた一家臣の跡継ぎであった。」
  ただ、正成が槍の名手で多くの手柄をたてたため、伝説化・偶像化したと
 ころが大であると氏は推測しております。

 保長について、正種説は認識しておりましたが、守佐となっているのは初耳
でありました。この守佐について、あを様、何か情報をお持ちでしたら教えて
下さい──


 
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2021年03月31日 02時35分12秒 ) パスワード

三つ柏さん

>守佐

全く  知らなかったです。
想像も予測も不可能です。

     検索してたら
     服部中保次が伊勢国奄芸郡出身ということで
         ヲイヲイ
         ホンヤさんに近い服部じゃん = 服部伊賀守宗純や戦国期の友貞系?
     というのが<<本日>>分かりました。


>父の守佐(もりすけ)は一の宮(敢国神社)の祭祀にあたった服部氏の傍流の出

黒装束で敢国神社の黒党祭りに参加すればみんな服部一族になれると聞いたことがある   ような記憶  ?


         服部に在る小宮<おみや>神社は伊賀国二の宮で
         服部氏の祖、呉服比賣命を主神

         だから呉服明神の神官だった服部貞信はコッチ系というのが確か  なのでしょうね


今は三つ柏さんから頂いた「伊勢神宮」の本を、また、読み返しているところです。
結局は
      天武天皇が現人神に
      持統天皇がアマテラスに
                     なった
ということだろうな  それが今に至る  なんだろうな   と思っています。


テクニシャンに来て貰って窓8と6年前に買ったままだった窓10を使える状態にし
あと3年  窓8を使いながら窓10に慣れようと  今は  毎日窓10と戦っています。

昨夜は窓10に戦い敗れて7時に寝ました。で、3時に昏睡から復活。


テクニシャンが来るまでにHPのPCを買おうとアチコチ<近所のお店に>行ったのですが
置いてあるのは1000ドルまでの安物ばかりで 
「買ったらアンチウイルスとか入れてくれる?」と訊いたら「自分でやれ」と言われて泣きながら
巨大ショッピングセンターのマイクロソフトのお店に行ったら  このお店が見つからなくて   
       お向かいのアップルはあった
     
案内板をエンエンと見てたら「コロナに負けて撤退したよ」とセグウエーに乗ったセキュリティのお兄さんに言われて
「え?マイクロソフトだよ。あのマイクロソフトがこの世界で2番目に大きいショッピングセンターから撤収?」

ウッソォ〜

とスゴスゴ家に戻ったら同じ階の若い男の子が
「マイクロソフトはアップルに負けたんだよ」だとさ「ウインドウズなんて使い勝手  ワル過ぎだからさ」

そうなの?
わたしはY2Kを乗り越えた時点でバスに乗り遅れて20年だから   この事態を知らなかった。


その後    真剣にワクチン接種を考え始め
        ハワイでもイギリス型コロナウイルスが入って来ていると知って
希望は    ジョンソン&ジョンソン  >  ファイザー  >  モデルナ  ということで

J&JはCVS系の薬局でしか打てないという情報を本土から手に入れ  ハワイでは5月あたりかな?
CVS系の薬局に尋ねて回り  2ヵ所  可能な支店を見つけたものの

    アプリで予約を入れて  当日  そのアプリ持参で来い  と言われ

スマホ  3年前に解約して今に至るだから  「アプリ」なんて・・・

    ワクチンの為だけにスマホを契約するべきか????と悩み
           だって  使うのに慣れるのに  どれだけ時間が必要なんだぁ〜?

「あ〜あ、長生きし過ぎた」と世の中を恨んで先週を過ごしました。
あはは


で、PCのテクニシャンですが  ご本人は知らないでしょうけど  平家系繋がりだな  と思います。

6年前に買った窓10 「全然使ってないね」  と言うから  「繋がるかどうか確かめるのに3回オンにしたことがあるレベル」  と言いました。


今は窓10にいろいろ設定しているところで  ホットメールのメアドを持っていたらしいことを発見しました。全く記憶に無かった。

オンにしてもネットに繋がらなかったりしてオタオタやってます。
3年後には窓10が使えるように  まずキイボードに慣れないと  というレベルです。
[44]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年04月01日 00時17分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろお疲れ様です。私も自治会の役の引き継ぎ等で、すでに疲れ気味で
す。ついでに草刈りも久しぶりに入れたので、体はガタガタです。

 守佐について、最近(2020年10月)のWikiの「服部正成」には記載されて
いました。しかしながら、それ以前のもの(プリントアウトしてあった'19と'16
のもの)にはありませんでした。
 できれば出典を記載してほしかったとは思います──

 
 
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月01日 02時51分08秒 ) パスワード

三つ柏さん


>守佐について、最近(2020年10月)のWikiの「服部正成」には記載されていました。
>できれば出典を記載してほしかった


つまり  出典は  ↓  でしょうね

>『歴史読本 臨時増刊 忍者のすべて』 by 武光誠氏
>「服部半蔵の実名を正成という。彼の父の守佐(もりすけ)」


わたしは半蔵正成は6男と聞いてたので  ウイキの記載通り6男で合ってました。
弟がいたことは知らなかったです。


改めてウイキを読んで
半蔵正成の子孫の名前が兄弟達の名前や漢字に通じるのが  ああ、これが一族ということか  と納得しました。


うちの三河の親戚とも  カスっています。
こっちは反信長で親今川です。まさに我が家とというかホンヤさんの一族だと改めて思いました。

     これ以上書くと  「お前にだけは書かれたくない!」と血の雨が降りそう。


町内会の役員のお仕事は面倒ですが  違う世界の人達と出会えますから  それだけ世間が広くなります。

世間話のついでに いろいろ聞くことが出来て  知らなかった事を知る事が出来ます。
案外三つ柏さんのお家のことを御存じの人がいたりするかも?


人間って  どこでどう   繋がっているか  意外な発見があると思います。
愉しいですよ。

世間は広く  人間の種類も多く

まだまだ30年は我々には余命があるんですから。
ふふふ
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月03日 07時18分00秒 ) パスワード

本日はGood Fridayで  つまり Passion の日であります。
日曜日が復活祭でイースター。   子供達には🐇ウサギの日。玉子の日。
     このあたりの記憶しか無い。


今は宗教行事は公的に宣伝しない方向だから  過ぎ越しの祭りっていつだけ?復活祭の前だったような?  あたりで   分からないです。

     過ぎ越しの祭りの葉っぱが欲しいので  
     過ぎ越しの祭りに友人が教会に行ったのか気になる。
     行けば  持って来てくれるけど  教会は今はお休み中のはず。

     コロナが怖いので連絡を取りたくないし。
     来られるのがイヤ
     葉っぱを置いて帰って欲しい。

        門松のようにドアに葉っぱを飾るのです。
        香港爺さん宅はドアの3か所に葉っぱを飾ってる。魔除け願ってるのが良く分かる。
        我が家のは恐らく3〜4年前から飾ったままのものです。

            マンションの規約違反です。
            「国」とか「宗教」とか  他人に分かる物を玄関に飾ってはいけないのです。

   去年は宗教儀式は州の命令で禁止だったし今年も同じく禁止だろうし
   4月1日のハワイの新聞の大ニュースはマウイ島でクラスターが起きた事件で
   この現場は教会だったのです。

     過ぎ越しの祭りのミサやってクラスターが起きたのかな?
     みんなコロナウイルス除けに葉っぱが欲しいから出席したんだと思うけどね。


        あ、日系の教会は去年の3月から閉まったままです。
        韓国系の教会は開いてた。韓国では教会でクラスターが頻発してたのに、と呆れたものです。
        


キリスト教会が復活祭のミサを出来ないのは  さすがにヤバイんじゃない?  と思う。
だってキリスト教がキリスト教である所以という売りの1つは「復活」だろ〜がぁ〜と思うので。


こんな感じに宗教はイマイチ分からない不届き者なので
日本人にとって   宗教って?  と考えたりする。


日本の場合は神社のことを宗教に位置付けたのは随分後の世だろうと思う。


日本人の根底にあるのは自然崇拝だろうと思う。
わたしでも  山や岩に  川や滝に  不思議な感じを持つ。


そういう原始人の日本人に出雲の御師さん達は  いろいろ  文明開化  ブランド物  を持って来て度肝を抜いたと思う。

だから日本人にとって異質な人々というのは自分達に利益をもたらす存在という刷り込みが出来たと思う。


まさに出雲の宗教は  「御利益」  だったと思う。

御師さん達はアチコチ歩いて  アチコチの薬草やら土木工事技術を得て  別の場所の原始人に教え与えて歩いたんじゃないかな?


今に至る形の残った物としての銅鐸・銅剣なんかに原始人はビックリしたんじゃないかな?
有り難かったと思う。


それでなくても  薬草とか  田んぼの手入れの仕方とか用水路の作り方とか  出雲の御師さん達は原始人に「御利益」を齎す存在だったんじゃないかな?

ネズミの害を防ぐために床を高くした方がいいよ、とか
ネズミ返しを付けて改良した方がいいよ、とか。


後に鉄も齎したんだろうけど  残念ながら  鉄はね  悲しいね  鉄は錆びるからね  まず  後世に残らないんだよね。


ずっとずっと後世の僧・行基だって  人々の暮らしが良くなるように  アチコチ歩き回ったんだものね。

行基の時代の仏教は特権階級のものであって  人民に勝手に布教するな  の時代ですから  人民を救済する=人民に御利益を齎す行基は弾圧の対象。

     結局は聖武天皇の時代にやっと認められるという  アホな時代が日本にはあったわけで
     人民にとっては御利益をくれる宗教集団を受け入れたんだろうな。


日本人には目に見えるとか役に立つとかの宗教がありがたいんだと思います。
あの世で幸せになるより  死んでいつか復活するより  ひもじい毎日の今の暮らしが少しでも立つ方が  日本人は受け入れ易いって思います。


うちの近くのアメリカ系のカトリック教会は神父さんが何をしてたかと言うと
信者さん達に家を買うことを勧めていて
かなりのバックアップをしていました。

1960年代の終わり頃の事です。
貧しい日本が  やっと満足に食べることが出来るようになり  これから日本経済が大発展していこう  という時代です。


まさに  「食」の次は「住」の充実  という考えの神父さんでした。
あの信者さん達というのは  職を求めて名古屋の工場地帯に移って来た人達でした。

     600年住んで来たワタシにはヨソモノ達です。
     その人達の暮らしを少しでも良くしてあげようという神父さんでした。


カトリックも実に色々でした。
   イタリア系
   ドイツ系
   ポルトガル系
   スペイン系
   アメリカ系


貧しい人々を少しでも豊かに暮らさせてあげたい  としたアメリカ人神父
ホント
目からウロコでしたよ


搾取するだけのカトリックというイメージで  今でも貧しいままのカトリック信者の多い某エリア(複数だけど)を知ってるだけに

救いたいのは心だけじゃない  という御師さん達や神父さん達がいて
また  それにちゃんと応える日本人=原始人だったり戦後の貧民がいて   
あぁ、コレなんだろうな  って思うのです。


ま、伊勢神宮は伊勢神宮で  日本人の「心」の支えなんだから  それはそれで良い。
とはいえ
利用されて戦地に送られた英霊達に涙する。


天武天皇と持統天皇には  ヤラレタな  と思う。日本最強の夫婦だ。
今の日本人が求めている「御利益」って何なんだろう?と思う。
[47]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年04月03日 14時47分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今、怒濤の一週間の真っ最中でありまして、生活リズムが狂っております。
 ただ、地元の歴史に密接に関わり合う立場になり、戦国時代や江戸時代の
初期、地域の信仰は、神社が中心であったのか、寺が中心であったのか、大
黒様や恵比寿様や秋葉様、庚申様、たくさんの神様がいるなあと、改めて知
らないことが多いと再認識しております──
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月03日 16時49分24秒 ) パスワード

三つ柏さん

大変な毎日とお察し致しております。

当分大変ですよね。
でもアタマの中を違う方向で整理し直すって  
ナカナカ重要な効果をもたらしてくれますよ    
忙しい時にメンド臭い厄介事を押し付けられたりね。  

そういう緊張感  脳の錆びを落としてくれるかも。あはは


>地元の歴史に密接に関わり合う立場になり

良かったじゃないですか
貴重な情報にアクセスできるかも知れないですし
思わぬ人と出会えるかも知れないですし。


>秋葉様

浜松の秋葉神社は超有名ですね。


>戦国時代や江戸時代の初期、地域の信仰は、神社が中心であったのか、寺が中心であったのか

日本人は  神仏習合  ですね。
    神様に現世の御利益をお願いし   仏様に心の救済を求める。
    子供達の成長は神様にお願いし   世を去る覚悟には仏様にすがる。


日本人  ホント  どうなってるの?一神教の民族には日本人は理解出来ないでしょうね。

    早いハナシが  神社は土着・地域民としての根っこ   仏教は舶来・ブランド・教養

日本人はいろいろ同時に受け入れることが出来るんでしょうね。
だからキリスト教が禁教になって寺に属さないといけなくなるとスンナリどこかの寺の檀家になる。

    西郷隆盛の家は神道だと聞いたことがありますが。    


今年の3.11の10周年法要のズームに参加しました。

ビックリしましたね  お題目が南無妙法蓮華経だったので  え?は?何?  とパニクりました。  法華経?  恥   正解は日蓮宗でした。汗

わたしのアタマの中には「何枚だー」とか「なんまんだぶっ」しか無かったので  急襲されてワケ分からなかったです。


で、日本側は曹洞宗の古いお寺のお坊さんでした。


わたしは両者の谷間に落ちてて   ポッカァ〜ン   でした。


わたしみたいなのが平均的日本人の宗教観かなと思います。
このテイタラク。

わたくしの例で語れば
神社に行くと言ったら  どの神社でも構わないし  観光気分  コレですね
お寺さんの場合は「宗門帳」に結構今でも縛られてるわけで。

    父は遺骨は善光寺さんへ  と遺言してましたが  
    私はやっぱり築地の本願寺さんが<交通の便が>良いのでは?と弟には言ってます。
    弟はノーコメントでワタシを無視してました。
    まさか名古屋の郊外のド田舎の   どこにあるか知らないお寺やお墓に持って行くとは思えない。

           父も母もまだピンシャンしてます。
           
そして結婚式は教会でウエディング。
こんなところが現代日本人の宗教観じゃないでしょうか?

そして永く「宗門改め」に縛られて来たものの  解放された現在は  墓  をどうするか?


ひょっとすると戦国時代や江戸時代初期の  フツーの庶民は  現代人と同じような感覚だったんじゃないでしょうか?

神社については<<<大黒様や恵比寿様や秋葉様、庚申様、たくさんの神様>>>を受け入れ
お寺は地域密着型で  手近な日蓮宗だったり浄土宗だったり曹洞宗だったり浄土真宗だったり。



最近宗教の勧誘電話がかかって来るようになり   こーゆーのも  迷惑です。
「ものみの塔」からだったら「あ、輸血してるんで」で向こうがガチャ切りしてくれるけど。


日本人にとって宗教って?
わたしにとっては興味本位の範囲です。なので1つに固定限定しない。
一応  死んだらハワイ大学医学部に献体の後  火葬して  太平洋に散骨  の予定です。
ハワイ大学との文書化および弁護士による法的処理をしてあります。

    ただし100s超えてたり伝染病に感染してたり交通事故でグチャグチャになってたら拒否されます。困まる
[49]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年04月04日 08時34分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。神社は土着、仏教は舶来……ここにDNA的日本人の
本質がありますね。
 ハワイ大学に献体・火葬・太平洋に散骨……「空の青」から「海のあを」へ
を表すマーベラスな決断でありますね。最後は自分の体を断捨離するというこ
と、私には未練が残っていて、南極のアイスツームに埋葬してほしいなどと妄
想しております。
 
 これからまたJIJI会の用事が二件ありますので、また──
[50]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年04月05日 19時20分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 地元の歴史の資料が見つかり、わからなかったことがわかって、点と線がつ
ながり、理解が二歩も三歩も進みました。やはり我が一門筋は幕末に名主(庄屋)、
明治になって戸長をやっておりました。永井家は江戸時代を通じて庄屋と神主を
やっておりました。松島家は江戸初期の村の天満宮の願主となっておりました。
 詳細はまたまとめて行きたいと思います──
 
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月06日 01時16分50秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101749.html
長上郡の服部氏族CXLW:144:長上郡の服部氏とは
を立てました。

切りの良いところで、どうぞ。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月06日 01時30分07秒 ) パスワード

三つ柏さん


>我が一門筋は幕末に名主(庄屋)、明治になって戸長をやっておりました

書式によるご先祖さまの情報!
まさに客観的情報ですね。


では現場での責任者をしてたということで
上司はどなただったのでしょうね?

    伊賀出身の中保次系だったのか?政信系だったのか?だけど家紋的にかすらない
    はたまた
    旧今川方だったのか?だったら家紋が伊賀伊勢系でなくてもアリエル
    それか
    服織神社関係?家紋が三つ柏紋というのが神社傾向でアリエル


ということで  今後に大いに期待出来ますね。
また永井氏松嶋氏との関係にも納得ですね。

良かったですねJIJI会にお誘いされて。
ご本心は(いやだな、爺会なんて、まだ入りたくないのに)だったでしょうけど。
ふふふ
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2021年04月06日 03時09分34秒 ) パスワード

三つ柏さん

名主、ということは
その土地の有力者で

苗字帯刀を許された家
ということですから


かなりの力を持った家だった。


だから  それは  どの時代からなのか?
これが分かると良いですね。


かなり近づいてる感じはありますね。


つくづく思います
高槻の神服神社の神官さん
ホント誠実な人物でしたね
テキトーな回答で濁さなかった。

   人間って「良く見せたい」「実力以上の虚勢を張りたい」とかのバイアスがかかるけど
   やっぱり「誠実」というのは基本だなと改めて思います。


最近コロナ禍で  ちょっとしたことから  ご近所さんで橋本明さん関係の人が分かってしまいました。
                             上皇さまのご学友の橋本明さんです。
ホントにちょっとした切っ掛けからです。コロナが無かったら  全く  挨拶しかしない間柄でした  

この切っ掛けで「あら?じゃ、橋本明さんと奥様の馴れ初めに関係してたのですか?」とワタクシが橋本さんのお名前を出したので

ここから   エエェ〜?  エ〜?  という展開になり

「ドイツに行けたのは橋本明さんのお蔭だったんです」とおっしゃったので
実は・・・そのドイツ、と 弟のドイツ時代のバカ話になり  (電車でベルリンに行ったら自動小銃を持った東ドイツ兵がァ〜・・・)

いえいえ実はワタクシも・・・
という展開になり


     昨日から  急にコワクなって  それ以上  どうしたものか  思案中です。  

            過去のワタクシの悪行がバレたり?  \゜゜ (遠い目)


日本人はホントにちょっとした切っ掛けで思わぬ関係で繋がっていたというのが分かったりします。
ただ、そのちょっとした切っ掛けというのがナカナカ。


なので三つ柏さんが爺会  いえいえ  自治会に引きずり込まれたのは新たなライフワークへの道が拓けたということでラッキーでした。
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