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 投稿番号:101744 投稿日:2021年02月07日 06時21分18秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族CXLU:142:甲賀服部氏とは2
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族CXLT:141:甲賀服部氏とは?
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101742_96.html
の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


『歴史読本』の『伊賀・甲賀 忍びの謎』より
甲賀の名前の由来は
「日本書紀敏達天皇13年に、百済から鹿深臣が渡来して、
弥勒石象一体を安置した」
とあり、これが甲賀の由来とされる。

また「甲伊一国」について
「伊賀と甲賀との境界線が引かれたのは奈良時代の頃とされるが、
峠を越えて、風習や婚姻、物流、小競り合いなど、
二つの国が深く関わり合い、
伊賀の湯船では近年まで県境を意識することはなかったという。
そのため、伊賀と甲賀は 【甲伊一国】と表される」


甲賀郡は近江国の南部に位置し
 @「甲賀」の南西隣の「甲南」という所に「服部城」があります。
 A「服部城」の1q西に「望月城」があります。
 B伊賀の「柘植」より北西4qの所に「和田城」(ほぼ油日)があります。
 C「服部城」より「和田城」までは東南方向7qであります。
 D「服部城」と「柘植」までは11qであります。
 こうしてみますと、これらの城は歩いて2時間位の中に収まります。

服部城の服部氏は平知忠よりの服部氏(もちろん伊賀からの転入)。
柘植は平宗清よりの服部氏(中保次等)が出ている。
服部正尚は甲賀と関係するという。
服部中保次は甲賀和田城の和田惟政に仕える。

明智と甲賀とをつなぐものは、足利義昭との関係である。
   義昭は和田惟政が救出・支援した。
   その和田氏に服部中保次が仕える(義輝→信長→家康)
   明智光秀の妻に服部保章の娘がいる。服部保章は正尚の従弟。


横山高治氏の『信長と伊勢・伊賀』より

戦国時代、伊勢の北部には大小の土豪がひしめき、
それぞれ父祖伝来の城砦を固め、兵を養い、その数48家に上り、
「北勢四十八家」または「北方諸家」「北方諸侍」と呼ばれ
南北朝時代を乗り越え、天下の形勢、
特に北畠氏、関氏、長野氏の北勢進出に備えてきたと言う。

『伊勢軍記』によると、それらの諸氏は──
 @三重郡ー千種、宇野部、後藤、赤堀、楠
 A庵芸群ー稲生
 B朝明郡ー南部、加用、梅津、富田、浜田
 C員弁郡ー上木、白瀬、高松
 D桑名郡ー持福、木股
以上諸侍48家あり、各々足利氏の侍たり。一味同心の者なり。
とあると言う。

これらの中で、ずば抜けて力を持っていたのは、赤堀氏と千種氏、木俣氏で、
いずれも50騎から100騎の兵を蓄え、外敵の侵入に備え、
また隣同士でしのぎを削った。


「北勢四十八家や長島門徒とともに、
伊賀では伊賀衆六十六人の"連邦共和国"が組織されていた。
平清盛が築いた平楽寺跡の館に仁木氏の一族の仁木友梅入道を国守としてまつりあげていた。

そして、
「伊勢平氏・平家長の裔・服部大隅守(服部城)、
平宗清流の福地伊予守(柘植城)、
平信兼流の河合兵蔵(河合城)、
大江氏の血を引く安保弾正左衛門(阿保城)という
「伊賀四人衆」(「伊賀四大将」ともいう)が支配した」


伊賀東湯舟中北に「服部氏城」があり、
この服部氏城の北西7qの所に甲賀「服部城」がある。
つまり、服部氏族は藤林長門守を中心に伊賀と甲賀にまたがって根を下ろしていた。

[1]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月07日 08時14分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッド、ありがとうございます。いつもながら、凝縮しまとめると
いうことは、相当な知見と解析力と集中力が要りますので、あを様を尊崇して
おります。

 昨日、A.AKECHI様のこのスレッドへの登壇がありましたが、本日は大河ドラ
マ「麒麟がくる」の最終回となり、これで終わりかと思うと、何か寂しい気が
いたします。光秀に関する書籍は何十冊も所持しておりますが、本能寺の変や
明智光秀、そしてさらに言えば子孫等について、結論から言えば明智憲三郎氏
の次の三冊を読めば、ほとんどすべてわかると思います。もっとも完成度につ
いては百パーセントということではありませんので、欠けている部分もありま
すし、間違っていることもあろうかと思っております。それでも、憲三郎氏は
徹底した歴史捜査をしらみつぶしに行っております。その努力には頭が下がり
ます。しかもフローチャート的な論理的手法を駆使して行っております。それ
も収集した膨大なデータを対象にしております。
 @『本能寺の変四二七年目の真実』
 A『光秀からの遺言』
 B『明智家の末裔たち』

 ドラマはエンターテイメント的要素が強いので、感情移入せずに参考程度に
見ておりますが、最終回はなんと言っても本能寺の変で、ツボでありますので、
一応しっかり見ておきたいと思います。服部のはしくれとしても光秀に対し、
今回は感情移入してみたいと思います。ある意味で戦国の世の最後の修羅場と
も言えるこの本能寺の変を、ドラマではありますが、しっかりと見届けます── 
 
[2]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月07日 08時24分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスが前後交差しました。前のスレッドの最後のレスを読解いたします──
[3]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月07日 23時14分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 "大河"が終わりました。「麒麟がくる」というモチーフですべてがフェイド
アウトした感じの終わり方でした。明智光秀も生きていたという夢を残す無難
なエンディングでした。大河ドラマとしては、大衆受けの最大公約数路線を取
るということで、いたしかたないと思いました。
 それにしても、信長の死は秤にかけていささか軽く感じました。ひょっとし
たら逃げたという可能性も残すためにおぼろげにしたのかもしれません。
 菊丸が「服部平太夫正尚」に相当するように思われますが、これもおぼろげ
なフェイドアウトでありました。
 いずれにしても、新型コロナ禍により、最後は軽くなってしまいました。ま
あ私的には、これでいいと思いました──


[4]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月08日 11時42分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 家康に本能寺り変の一報をもたらしたのが、服部平太夫正尚であったのか、
それとも茶屋四郎次郎であったのか……。『改正 三河後風土記』では、茶
屋を使者としているけれど、『寛政重修諸家譜』や『柳営婦女伝』では、正
尚を使者としている。どちらも正解と言ってもいいのではないか。両方から
それぞれ情報がもたらされた、あるいは両者が共同してもたらしたでもいい
のかも知れない。茶屋の邸宅は本能寺の近くにあったという。正尚は京都で
忍びとそのネットワークを使っただろう。問題は、京都から堺まで、どの
ような経路でまた交通手段で、変より何時間後に伝えたのだろうかというこ
とであり、このことに触れた書物は今の所知らない。電話や無線がない時代、
相手の居場所(移動も含めて)がどこかをリアルタイムに近い状態で把握して
いなければならなかったという点では、忍び軍団のネットワークの方が、情
報の伝達において優っていたのは間違いない。
 しかしながら、この伊賀越え関連の話が創作(程度問題もある)であったと
いう可能性もあるかも知れない。そして、その疑問はまだ残ってはいる──
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月08日 15時32分01秒 ) パスワード

三つ柏さん

当時の伝達手段に「のろし」というのがあります。
しかし
あの時は「烽火」の方だったろうと想像します。

    明け方  まだ暗い時分?
    だから「煙」ではなく  「火」  で伝達したのではないか?と。


江戸時代の米相場では「旗」で伝達してた記憶です。



「麒麟がくる」の意外な部分は
秀吉が知ったのが細川藤孝からの情報だった
です。


細川藤孝が光秀を裏切った?!
とビックリしました。
これは予想外でした。
しかし藤孝には信長と光秀を裏切る理由があるから  ヲヲッ  なるほど!  
でした。

      わたしはコレ迄の定説で
      秀吉が備中にいて信長の死を知って大返しをしたのは
      光秀から毛利への密書を持った使いが間違って秀吉の陣に迷い込んだから
      と読んでたから
      今回の展開では「光秀から打ち明けられた細川藤孝がすぐに秀吉に知らせた」ということで驚きましたが
      なるほど  それで  秀吉の大返しがうまく行ったのか  でした。


             黒田官兵衛  ぜんぜん  軍師なんかじゃなかったですね
             ま、ムカシの大河の「軍師官兵衛」で栗山善助役をやった濱田岳が使って貰えた
             という  ギリ  出演でしたね。



玉と忠興の不仲について  わたしは
     光秀の謀反後に細川父子が与力を断ったから
と思っていたけど

根はずっと深かったのか

光秀からの与力の依頼を断ったからじゃなくて
     実は細川藤孝が秀吉に通じてたから
だったのかと  

やっと 納得いきました。


玉さんが関ケ原の戦いの時に細川邸で細川家の家老の小笠原少斎に刺し殺させたのは
実は
細川家に対する意趣返しもあったのか
と。

      玉さんの葛藤とかも  物凄いものがあったのだな  と。


結局  今回の大河は歴史物じゃなくて時代物だったな  (ガッカリ) でした。
ヨケイなハナシが多過ぎた  どーでも良い架空の人物に尺を使い過ぎた
と思います。


藤田伝五や左馬之助をもっと描いて欲しかったし斎藤利三についてももっと描いて欲しかったです。


結局光秀は「古い人間」だったなと。

将軍だから義昭の暗殺は出来なかったけど自分の主人の信長については弑した。
下剋上の失敗だし。暗殺でしかなかったな、と。クーデターとしても中途半端だったし。


結局トクしたのは秀吉だったのかと。

それに協力したのが細川藤孝だった   というところに  細川藤孝としては兄の三淵を死なせた信長光秀ラインに大いなる恨みがあったワケか、と。


要するに  細川藤孝が光秀を使って信長を処分させ  秀吉を使って光秀を処分して  自分は頬っかぶり   ってコトか、と。
ウマい!
カシコイ!
自分は絶対に後ろ指差されずに済むものね。


あの時代に生きるってワタシにはムリだ。
自分のせいで一族を凄惨な目に遭わせ家来達にもひどい目に遭わせ
それでも生き続けた?



服部保章は明智軍が敗れた後  一命は許されたものの  ホームレスとなり人々から罵られみじめな老後を送ったと読んだけど

光秀は天海上人となった?


荒木村重もそうだけど  あの時代の人間って  すっごくシタタカなんだなあ。
そうでもなきゃ  あの時代には生きられなかった  ということなのかな。


わたしは細川藤孝の生き様のハナシが読みたくなりました。

藤孝は  恐らく  自分には天下を取って支配者になろう・天下の支配者になれるような器ではない  というのが分かってたんだろう  と思う。


最終回で細川藤孝が  すっごく  ちゃんと  描かれてたのが面白かった。
わたしがあの時代に生きてたら  細川藤孝のような   無難な  生き方を選んだのかな  と思った。


「麒麟がくる」で  光秀についてはヤッパリ描いてない  と思った。
光秀の人生の前と後  描いてない!
描いたのは将軍義昭以降だな。

だけど他の武将達は生き生きしてたと思う。
細川藤孝については  生き生き  じゃなくて   蛇みたいな陰湿さを描いたな  うまいな  と思った。
ここに感動した。笑
[6]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月08日 18時35分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日エアーメール届きました。きれいな字での解説、ありがとうございます。
とても爽やかな気分になりました。
 あを様はバイリンガルだと思いますが、頭の中は英語脳となっているのでし
ょうか、それとも日本語脳が残っているのでしょぅか? 
 日本語を書いたり話たりする場合、英語で考えて日本語に訳しているのでし
ょぅか。長い間アメリカにいると、すっかり英語脳になってしまのではないか
と想像するのですが……。

 明智光秀の大河ドラマは終わってしまいました。でも、ドラマは終わっても
歴史の謎が完全に解けた訳ではなく、あくまでひとつの例示にすぎません。
 今後も光秀関係の探求は続けて行きたいと思っています。
 細川藤孝(幽斎)という人間、何か謎めいていて気にかかります。彼の真実の
姿・考え方を知りたいです──
[7]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月09日 11時52分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 光秀の妻の一人の服部氏についてでおりますが、各種史料によれば、名張
城主の「服部出羽守保章」か、「喜多村出羽守」、あるいは柘植氏分流であ
る北村(喜多村)保光の娘となっております。
 この中で注目されるキーワードは──
 @出羽守
 A名張城主
 B喜多村(北村)
であります。
 このキーワードから出てくる「匂い」について分析・推理してみたいと思
います。

 その前に、ちょっと用事にて中断いたします──
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月09日 16時15分34秒 ) パスワード

三つ柏さん

面白いサイトを見つけました:

肥後細川藩拾遺
http://shinshindoh.com/akechi.html

ブログ主さん
勝手にコピペ
ごめんなさい。


たぶんコピペで壊れると思うのでURLに行ってください。
一応読み易いように編集してみますね




喜多村家傳   明智家譜 及び 明智系圖

    一、明智姓ハ源氏   神武五十六世 清和第六王子 貞純親王嫡男 経基号六孫王

            明智は源氏で   清和天皇の第6皇子の嫡男の経基の子孫

      其長田多田満仲 正四位下 鎮守将軍 攝津守 五世 孫 
      土岐光信出羽守   始 領知  濃州土岐郡従 其称 土岐氏 
      光信八世 明智頼重民部少輔 幼名 彦九郎 是 明智之元祖也
                 
               源光信 (1093〜1156)  から土岐を称したってこと?
               さらにココから8世の子孫の頼重が土岐郡の明智郷から屋号に明智を称した?



   
      領地 土岐郡之内 明智郷以所為家号也 
      于茲頼重十一代之正統  明智光秀十兵衛尉  後  号惟任日向守

      于時 享禄元歳(1528年3月10日生まれでいいのかな?)戌子三月十日  於于濃州多羅城誕生   


              この場所の参考になるのは
              後世の高木氏の多羅陣屋かな?http://castle.jpn.org/mino/tara/
              関ヶ原南方の牧田川西岸の台地に築かれた城
              現在の大垣市上石津町(旧養老郡 上石津町)あたり???

                  ここが平田靱負事件の背景だったとは尾張人としてショック
                  ホンヤさんから「あの工事の件はもっと北だよ」と聞かされた時から28年後の本日この場所を知りました


             
  
      母 武田信虎女也  信玄姉也  幼名 彦太郎   次男号彦次郎  三男謂彦三郎

             はぁ?光秀のママは武田信虎の娘で!!!???信玄のお姉さんになる人?


             光秀の幼名は  長男だから彦太郎  とおっしゃったのですね


             光秀の弟が彦次郎で後の筒井順慶で
  
             光秀の末弟が後の左馬之助(三宅姓)

                     あれ?光秀の娘の岸さんの後夫君は左馬之助じゃなかった?叔父姪で結婚?


    一、于時天文十歳(1541年に事件が起きた?)辛丑於父光隆  敵一人忍入  二男彦次郎 十一歳 捕人質 又従外敵 一人抜刀懸入 
兄 彦太郎 十四歳 見 之追而懸入討止敵一人   
一人敵欲突彦次郎 彦次郎 其 白刃 握手 雖 掌繰不放給 

                  げ〜  彦次郎さんは敵の刀を手で握って離さなかった?

      其敵 共二人 彦太郎 討取也  

                  彦太郎どの=光秀=  大手柄  敵2人を討ち取った

      彦次郎 掌 疵跡 老歳迄(旧字)

                  彦次郎さんはこの時の刀傷がずっと老人になるまで残ってた

      有之従是俗 彦太郎呼鬼太郎也 彦次郎云鬼次郎也


                   それで彦太郎を鬼太郎
                   彦次郎を鬼次郎
                   と俗に言うようになった


    一、于時天文十一歳致同十二歳乙巳土岐一族敗乱之節父玄蕃頭戦死也 

                   1542年と1543年の戦いで土岐氏が負けてパパが戦死した


       光秀幼而 漂泊 

                   それで若い光秀が放浪することになった

       北越給仕斯波武衛 

                   越前の斯波に仕えた?


       二男悪次郎 南都 筒井坊為養子 後 号筒井大和守号順慶 
               
                   次男は筒井に養子に入って筒井順慶となった?
                   ヲイヲイ


       三男彦三郎改弥平次三宅光録為養子婿号三宅弥平次改左馬助 

                   三男は三宅に養子に行って左馬之助になった?

       二男悪次郎者従幼稚依有武勇譽甚 南都筒井坊奉望之為養子也
        
                   次男の彦次郎は若くして武勇に優れていたから筒井が養子に望んだのだ。筒井順慶に。



       此時 ?営 越前北庄 斯波武衛也 

                   この時 越前の北ノ庄に室町幕府の有力者だった斯波氏の一族の武衛家があって?
                   室町幕府の副将軍の斯波義寛のハナシかな?


      朝倉義景襲柳営已号朝倉柳営居住北庄

                   朝倉義景が襲って来て乗っ取ったから



      自是光秀退  北国入  鯰江城鯰江左近帯刀父光秀以為重縁謂故也

                   光秀はここを出て近江の?鯰江帯刀宅に厄介になった?


    一、永禄七歳(1564年)甲子織田信長攻亡齋藤龍興山城守道三孫義辰子自是光秀信長為臣共亡義辰 道三者土岐之為重敵之故也

                   信長が斎藤道三の孫で義龍の子の龍興を滅ぼした
                   光秀は信長の家臣となった
                   義龍と道三は土岐の敵だから信長と一緒になって滅ぼしたのだ

                   
    一、同十歳丁卯南都一乗院門主覚慶  光源院殿義輝殿弟也

                   覚慶は義輝の弟


      義輝為三好義継修理大輔被弑
      
                   三好に暗殺された

      覚慶聞討門主密落南都  若狭  行 姉婿雖  頼 武田義統大膳大夫

                   覚慶は兄が討たれたから奈良に落ちて
                   若狭の武田義統が覚慶の姉の婿さんだったからココに落ちていったけど


                       武田義統は覚慶の義兄であり筒井順慶の義兄にもなり  つまり  光秀の義兄にもなる?

                              ムカシの婚姻・姻族関係はヤヤこし過ぎ

                       

      不頼義統経三歳給  江州佐々木祥禎  頼不憑  是三好威勢恐也 

                   3年いて?  近江の六角承禎は三好の威勢を恐れて頼りにはならなかった?



      其後 越尾州 以明智光秀 為養者給 信長 頼 明智光秀

                  その後覚慶は明智光秀に連れられて尾張に来て
                  信長に庇護されて

      筒井信教順慶以為兄弟也 

                  覚慶は筒井信教・順慶と義兄弟となった?

                      松永久秀が怒ってた事件のこと?
 
   

    一、同十一歳戌寅九月十二日以義昭覚慶還俗為征夷大将軍信長以大軍佐々木祥禎領地攻落箕作和田城此時光秀有軍功也

                       義昭が将軍になって
                       信長が大軍で六角承禎を攻めて
                       光秀が手柄を挙げた

 


    一、同十二歳巳巳信長於京都三好退治時光秀為先鋒也

                       信長が京都で三好を討った時  光秀が先鋒を勤めた


      同六月二十八日江州姉川合戦也與朝倉義景信長大戦浅井久秀下野守信長妹婿也 忘親族好與朝倉為一味信長戦失浅井朝倉利敗軍也 三萬兵于坂本引退也 此時明智光秀姉川邊於谷川越前國住人■野某組討捕首級貫太刀先光秀掲大音声越前鬼■野首明智光秀為捕之喚於山中時味方同音掲声讃之此時信長之有感状也


                       姉川の戦いで朝倉浅井を負かしたことですね

                       光秀が大活躍した件を信長が褒めた

        
         鬼神ト人ニ云レシ■野殿川中ニシテ討ハ光秀

                       鬼神と言われたX野殿を討ったのは光秀だ

         其比 此歌節附而世人吟諷


                       当時 人々がこれを歌にして歌って光秀を誉めそやした


    一、元亀二歳辛未九月十二日信長焼亡比叡山此時光秀有大軍功因茲江州志賀郡光秀居住坂本城


                       比叡山焼き討ち

    一、天正元癸酉二月義昭信長不和 


                       義昭と信長の決裂


     義昭 石山堅田構両城 勢田 山岡光浄院  山中磯貝新右衛門渡邊黨入置
     伊賀甲賀輩信長怒而柴田勝家修理大夫丹羽長秀五郎左衛門蜂屋兵庫頭明智光秀十兵衛馳向責戦
      同二十九日石山落城

      室町殿降参

                      義昭が負けた

      明智十兵衛  堅田城之于海手軍船 拵 數十艘  急攻之 
      南口丹羽 蜂屋 責而  終落城  三百余人討取
      献首級岐阜光秀感状有之
      同七月  義昭  敵再 信長楯籠   宇治真木嶋 
      與信長合戦

      義昭敗北  乞被宥死罪   信長憐之

      令 守護  佐久間信盛右衛門大夫   木下秀吉藤吉郎  明智光秀十兵衛
      令送河内國若江城

                     ここが義昭を裸足で京から追放したハナシ?



   一、同月二十六日信長 發向 高嶋 表為其余黨  歸岐阜
     其時光秀 依為先鋒賜   木戸田中両城   領地之差置     城代



   一、同八月發向信長越前攻  亡朝倉義景   
     明智光秀 丹羽長秀 羽柴秀吉  其外  稲葉伊豫守   佐久間右衛門
     滝川左近将監   蜂屋兵庫   永田大炊助   氏家左京
     山岡父子   永原筑前   蒲生右兵衛父子    進藤山城守
     前田又左衛門    下方左近   佐々内蔵助    戸田半左衛門
     福冨平左衛門   其外之諸士  圍城  没収

     同十八日義景於于一乗谷自害   首級  稲葉彦六伊豫守 討取
     彦六家子 稲葉土佐  請取献信長

     同廿八日信長反兵  于 江州取巻
     虎御前山城  浅井久秀下野守  居之
     浅井長政備前守久秀子自小谷城


     木造宮内出物見受  信長命  而出先光秀物見於昆明途中行合
     木造宮内両人  合鑓討 光秀 宮内 献 首級
     信長預御感状

     同三歳乙亥五月廿一日於参州長篠小松瀬城主奥平信昌九八郎 武田勝頼攻之有 信長信昌加勢
     十二大将而拒之 信長息信忠  羽林 徳川家康 丹羽長秀 前田利家
     福冨平左衛門  野々村三十郎 佐々成政内蔵助
     羽柴秀吉 明智光秀 瀧川一益左近将監 佐久間延盛右衛門尉
     已上 惣人數 十萬余也

     勝頼敗軍 退 甲州
     信長得大利也 

     甲州方 討死 一萬三千余人記 
     其日  光秀 圍持口 而 敵勢 多
     以鉄炮討殺其中  自身 馬場氏勝美濃守 打殺也
     氏勝六十三歳 

     首級信長陪臣塙九郎右衛門家来河井三十郎討取

     其外 武田軍 将 物頭等 多以鉄炮光秀打殺之 

     此時三宅弥平次  其外 光秀家臣共首級多討捕之


                               ココで疲れた
                               もう読みたくない
                               喜多村保之に飛びます


      同五歳丁丑松永久秀弾正子息久通父子為謀反河内國楯籠志貴城近邊令放火 信長嫡男信忠羽
       林城之助明智光秀十兵衛細川藤孝兵部大輔息忠興與一郎同忠元頓五郎尽軍功 松永父子焼城退散
      其外余黨討果 與一郎頓五郎自身相働信長賜感状 此時明智光秀忠興兄弟感働其後受信長命光
      秀女為忠興妻定契約也 此時光秀有戦功

      同六歳戊寅(本書ニ甲)四月十日摂州荒木一黨為退治称丹羽長秀惟任称明智光秀惟任 九州御
      手入次第両将可下置御約諾也
      同歳光秀丹波國亀山城主波多野某討亡八上赤井籾井其外余類討退 丹波江州之内高合五十
      壹萬五千余石石山城成共領之

      同辛巳九歳八月十一日信長賜御感状其詞云
         其方近年打續描軍功於所之智謀高名依諸将超数度之合戦得勝利感悦不斜候
         西国手入次第數箇國可宛行候條無退屈可励軍忠候仍細川兵部大輔専守忠義
         文武兼■候同氏與市郎事秀器量志勝抜群候以後者可為武門之棟梁候云隣國
         云剛勇尤之縁組幸之仕合候也
              八月十一日              信長 御書判
                                              惟任日向守殿

    一、同十歳壬午家康公信長有不和之儀其所謂家康公有逆心由柴田勝家依■(言偏に免・讒)言巳
      及一大事光秀聞之斎藤内蔵助為使者問實否家康公大驚無別心赴以神文御断也 其神文信長
      差上光秀之内蔵助口上之趣申上所謀計之神文古今不珍由宣重而光秀諫云家康公深被信佛神
      極々律儀之仁躰候不可有毫髪謀計家康公文武兼■無雙之為名将間於被封國郡者可為一廉之
      御■(門構に鬼=みかた)旨頻依致諫言品々被届聞召家康公兼而競望駿州一國被宛行也

      同歳五月十五日家康公右為御禮穴山梅雪相伴至江州安土入御直光秀館先般柴田勝家因讒言
      可及滅亡所光秀以深諫被宥御忿剰駿州右帳儘被下置外實偏光秀厚思至子々孫々不可忘置候 
      仍義弘郷之刀薬研藤四郎吉光小脇差鞍置馬三疋賜光秀関東絹百疋唐織十巻黄金百両賜光秀
      室此時齋藤内蔵助利定被召出汝近曽(コロ)為使者遠境罷下我等口上委■届神文請取光秀相
      渡無別心赴具令演説其意趣光秀被達上聞本懐旨御直被仰聞相州貞宗之脇差御手自被下御盃致頂戴御馬一疋拝領之

    一、光秀長臣三宅長閑 同左馬助 木村伊勢 諏訪飛騨 月田帯刀 並河掃部 海田寺與三左衛門 三宅
      源内 三沢庄兵衛 御牧三左衛門 津田平十郎 右之者御馬一疋宛従家康公被下置

    一、同六月二日光秀弑信長發向江州観音城責佐々木義郷観音城之旗頭引率軍兵自津田入江乗舩越湖水攻坂本城彼城代明智長閑始諸軍兵雖相戦依為微勢即月落城長閑并光秀子供討死同月観音寺城落城世人是云江州入替合戦




                ここから光秀の後室=保章の孫娘=息子の保光は若死にしてるので  孫娘を自分の娘とした=ハナシですね


    一、光秀北室者伊賀國柘植城主喜多村出羽守保光女也此腹天正十年壬午元日午刻男子誕生号明智内治麻呂於園城寺鎮守新羅社有氏■(参)儀式氏先祖新羅三郎義光社■(参)任古例神楽催
       烏楽等叮嚀執行之



    一、坂本落城之節内治麻呂當城也母室乳母侍女共迷煙中佐々木義郷旗頭鯰江左近嫡同帯刀入城
      中節桔梗箭車之両紋以紅染入着諫単衣有女性桔梗明智箭車喜多村紋 帯刀兼而辨知故考可為
      光秀北室虜躰而圍出城外相副警固士欲送伊賀時於于水口邊出羽守長臣服部蛇鬼破行合請取之    此時  光秀室   内麻呂  乳母侍女共致出羽守館
  
               光秀の北の方を服部蛇鬼破?が救出したハナシをどこかで読みました


    一、出羽守嫡子喜多村伊賀守早世二男遂出家号傳廓大僧正江州敏満寺住職并兼■多賀別當此節

                        多賀?多賀神社との関係?



      敏満寺領貮萬石多賀社領五萬石都而七萬石為傳廓大僧正領知於于敏満寺構城郭衆徒有八百
      八坊武士數輩抱之於于諸方雖有戦功太畧也


    一、右之外  出羽守  無男子  家督  為相續以  内治麻呂  為養子故号喜多村源馬成長後改喜多村弥平兵衛保之
  
                    内治麻呂源馬さまが養子となって喜多村保之を名乗ったハナシですね


             明智正統系圖并當家傳来之舊譜者去天正壬午季夏于江州
             志賀城因焚失吾累葉析木不知華實栄枯熈也于茲予適雖生
             弓馬家捨家業■(人偏に次-よろこぶ)出離居住洛陽妙心寺
             塔頭視親彼形勢寔以當氏之家鑑於此時永絶事有悲猶餘自
             往古傳来系圖之寫舊書有數巻予其中粗選之述畧編二巻其
             所謂者慈父光秀尊霊五十廻忌為追福修善乃至類孫譲與之
             者也

              于時寛永八辛未六月十有三日
                                妙心寺塔頭六十五歳
                                       玄琳
                 喜多村弥平兵衛殿
        

                      光秀の50回忌=1631年=に家系図を渡したハナシですね   
                      回忌と周忌は1年異なることはご存じですよね?



        清和源氏明智系圖  家之紋以水色桔梗華

   貞純親王―――――――●経基王―――――●満仲――――――●頼光――――――――+
    清和天皇第六王子    上総介号     摂津守      摂津守      |
    上総常陸太守四品    八孫王      多田新發意    多田蔵人     |
    中務卿号■薗親王    賜源氏姓     右馬頭      民部大輔武畧達人 |
                                           |
    +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
    |
    +―●頼國―――――●國房―――――●光國――――――●光信―――――――――+
        出羽守     伊豆信濃守   出羽守師時    此人初称土岐氏   |
        左衛門尉                     出羽守 左衛門尉  |
                                           |
    +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
    |
    +―●光基―――――●光衝―――――●光行―――――●光定――――――――――+
        左衛門尉    美濃守     左衛門尉    為之土岐惣領     |
        伊賀守     左衛門尉    出羽守     隠岐守        |
        伊豆守                     号隠岐五郎      |
                                           |
      +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
    |
    +―●頼貞―――――――+―●頼基―――――――――+―●頼重――――――――+
    |   伯耆守     |   伯耆守号土岐九郎  |   民部少輔      |
    |   為土岐之嫡職  |             |            |
    |   假名孫四郎   +――光賢         +――頼高        |
    |           |   太郎三郎      |   下野守      |
    +――頼重       |             |            |
        左近将監    +――頼忠          +――頼助        |
        号隠岐守        左近将監          美濃守      |
                                           |
    +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
    |
    +―●頼篤――――●國篤―――――●頼秋―――――●頼秀――――●頼弘――――+
        十郎     刑部少輔    式部少輔    十郎     左京大夫 |
                                           |
    +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
    |
    +―●頼定――――●頼尚――――――+―●頼典――――――――――――――――+
        兵部少輔   上総介    |    兵部少輔             |
               自是土岐也  |                    |
                      +――頼明―――――――――――――――+|
                          彦九郎後上野介頼高次男事父而孝 ||
                          ■攻受其領為家嫡        ||
                      +―――――――――――――――――――+|
                      |                    |
                      +――定明                 |
                                           |
    +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
    |
    +―●光隆――――――――――――――――――――――――――――――――――+
        明智玄蕃幼名彦三郎妻武田義統妹天文十一歳到同十四歳乙巳土岐一族敗北節 |
        討死                                 |
                                           |
    +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
      |
      +―●光秀――――――――――――――――――――――――――――――――――+
    |    明智十兵衛後号惟任日向守童名彦太郎後有謂世人呼鬼太郎享禄元歳戌子三月 |
    |   十日于濃州多羅城誕生母武田義統妹彦太郎幼稚時齋藤山城入道道三見之可為 |
    |    萬人将称有人相世人共云■成長後不達常学文道得射御剱術以鑓薙刀之達之也 |
    |    雖多文戦之誉畧之                           |
    |                                      |
    +――延教                                  |
    |   童名号彦次郎後有謂世人呼悪次郎南都筒井坊成養子号筒井大和守後改順慶  |
    |                                      |
    +――康秀                                  |
        童名彦三郎三宅長閑婿遺跡号三宅弥平次後改左馬助妻長閑女雖有武辺甚畧之 |
                                           |
      +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
      |
       +――女子
      |     菅沼新八郎定盈妻改織部正實三宅大膳入道長閑女
       |
       +――女子
       |     櫻井監物家次妻監物者家康公再従弟實長閑女
       |
       +――女子
       |     織田七兵衛信澄妻
       |
       +――女子
      |     細川與一郎忠興妻
      |
      +――女子
      |     筒井順慶嫡筒井伊賀守定次妻
      |
      +――女子
      |     川勝丹波守妻
      |
      +――僧
       |     玄琳洛陽妙心寺住塔頭
       |
       +――安古丸
       |     天正十年六月十三日于山崎合戦討死
       |
      +――僧
       |     不立嵯峨天龍寺閑居於洛東山音羽川邊横死實光秀女(婿)筒井伊賀守定次養子
       |     後改左馬助
       |
      +――女子
      |     井戸三十郎妻
       |
       +――十内
       |     於坂本城自害
       |
       +――自然
      |     於同所死
       |
       +――内治麻呂
            母伊賀國柘植城主喜多村出羽守保光女天正十年壬午正月朔日於于江州坂本城誕生
            明智内治麿(ママ)於園城寺鎮守新羅社有氏参儀式當氏先祖新羅三郎義光任社参古
            例神楽催馬楽等叮嚀行之

                                   了
[9]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月09日 22時01分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 光秀の妻の一人の服部氏についてでおりますが、各種史料によれば、名張
城主の「服部出羽守保章」か、「喜多村出羽守」、あるいは柘植氏分流であ
る北村(喜多村)保光の娘となっております。

 この中で注目されるキーワードは──
 @出羽守
 A名張城主
 B喜多村(北村)
であります。
 このキーワードから出てくる「匂い」について分析・推理してみたいと思
います。

まず「出羽守」という国司名についてでありますが、調べますと、この国司
名は、源「義家」のトレードマーク、あるいは代名詞でありました。出羽守と
言えば義家、義家と言えば出羽守ということです。前九年、後三年の役で活躍
し、源氏の東国での基礎を作った人。父は「源頼義」、母は「平直方」の娘。

 また、義家の弟の「義綱」一家に、大悲劇があった。甥義忠殺しの嫌疑をか
けられ、「甲賀山」に立てこもり、結局の所、ほとんど一家滅亡となる。義綱
の孫である「盛宗」の後裔より、「服部氏」が出ている。
 義家の出羽守、義綱と甲賀とのつながり、その後裔の服部氏、何か意味深で
あります。
 服部保章が出羽守を名乗ったのは、源氏元祖の匂い、妻系の平氏の匂い、そ
して後裔の服部氏の匂いを匂わせているのかも知れない……?。

 「出羽守」で有名なのは、光秀の先祖・土岐氏も大いにそうである。出羽守
を名乗ったのは、光圀、光信、光行、傍系で光保、光助、信保と数多く名乗っ
ている。
 つまり、服部出羽守は、土岐・明智氏のシンパであることをほのめかせてい
るのかも知れない……?

 ここで休憩──
 

 
[10]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月09日 22時07分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスが前後しました。読解いたします──
[11]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月10日 11時20分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 主要部分について、解読いたしました。

 これは僧・玄琳が喜多村弥平兵衛に送った手紙というか家譜・系図の調査書
であります。
 どこまで信憑性があるかはわかりませんが、でもかなりの真実は含んでいる、
あるいは謎解きのヒントになるものがあると確信いたします。

 そのポイントなるもののいくつかについて書き出してみますと──

 @光秀が生まれたのは、1528年、大垣の多羅城である。

 A母は、武田信虎の娘、武田信玄の姉である。

 B父は、明智光隆である。

 C弟(次男)は、筒井家に養子に入り、後の筒井順慶となる。

 D弟(三男)は、三宅家に養子に入り、三宅弥平次、後の左馬助となる。

 E養父として、鯰江帯刀がなっている。

 F姉婿は、若狭の武田義統である。

 G光秀の北室は、伊賀国柘植城主喜多村出羽守保光である。

 H1582年の正月(本能寺の変はその6月)に、北室は内治麻呂を生む。

 I本能寺の変後、坂本城落城の時、北室、乳母、侍女、内治麻呂共、脱出し、
  甲賀の水口あたりで、出羽守の譜代の家臣・服部蛇鬼破が迎え、受け取る。

 J出羽守保光の長男は早世している。次男は、多賀・佐目の敏満寺の住職で、
  多賀大社の別当も兼ねていた。

 K出羽守は光秀の子・内治麻呂を養子にし、これが後の喜多村弥平兵衛保之
 である。

ということであります。これらの分析については、次回にいたしますが、特に
多賀大社と佐目に絡んできたこと、なによりも驚きであります──
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月10日 15時10分28秒 ) パスワード

三つ柏さん

漢字多過ぎて   アタマ爆発しそうで  ワケ分からなくなって・・・


でも
坂本落城之節               
                       坂本城が落城した時に
内治麻呂當城也   母室 乳母 侍女共 迷 煙中 
                       内治麻呂さまが坂本城にいて  母上や乳母や侍女たち皆が煙の中をさまよっているのを  

佐々木義郷 旗頭 鯰江左近嫡 同帯刀入城       
                       佐々木=六角=義郷の家来の鯰江帯刀が来て

                            六角義郷は将軍義昭の猶子だった人で 信長の兄の娘が母親で、妻も織田の出身

中節 桔梗箭車之両紋以紅染入着諫単衣有女性桔梗明智箭車喜多村紋 帯刀兼而辨知故考可為
                        真っ赤な単衣(夏だからね)に桔梗の紋と矢車紋がついてたから
                        鯰江帯刀はスグに明智家の桔梗紋と喜多村家の矢車紋と分かったから  
                        光秀の北の方だと気付いて燃え盛る城から脱出させた
                    
光秀北室虜躰而圍出城外相副警固士欲送伊賀時於于水口邊出羽守長臣服部蛇鬼破行合請取之 此時  光秀室   内麻呂  乳母侍女共致出羽守館


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でも左馬之助が光秀の娘の岸さんと結婚したハナシは
もしかすると  左馬之助は養子か猶子で   明智家の3男に収まってたのかも。
もともとは明智一族かも知れないし。


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という事で  いろいろ調べてたら

平清盛の叔父の忠正の孫で(忠正一族が処刑された時に)伊賀に逃げた服部氏の子孫が   服部南郭  だそうです。 

南郭は京都の裕福な町人の服部元矩(もとちか)の次男。
父元矩は北村季吟(ヲイヲイ!)に師事したこともあり、
南郭は和歌や連歌など文雅の教養豊かな家庭で育ち、
歌や絵の手ほどき以外にも「四書」や「三体詩」などを教えられる。

養子の元雄(服部白賁)は、南郭が家族に対しても自らの履歴を隠し誕生日さえ伝えてこなかったと墓誌銘に寄せている。

    門弟は
           鵜殿士寧    鵜殿長照の関係者?今川義元の子の氏真と従兄弟です
           望月鹿門    なんかアヤシイ
           松下烏石    なんかアヤシイ
           熊本華山
           湯浅常山    モロ平家で南朝方だな    
           片山兼山
           秋山玉山
           広津藍渓
           服部仲英 - 養子


で、北村季吟ですが

近江国野洲郡北村出身。祖父の宗龍、父の宗円を継いで医学を修めた。

           この「宗円」というのをどこかで見た気がする
           祖父の宗龍の妻は長束正家の娘。長束正家は近江国水口岡山城主で甲賀衆を使ってた人。

           秀吉の有能な部下だった長束正家の奥さんは本多忠勝の妹の栄子さんで
           https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%9D%9F%E6%AD%A3%E5%AE%B6
           「関ケ原」の欄をお読みください。とてもワタシにはコピペできない。

           栄子さんは出産直後だったようです。

           _________________________


はじめ俳人安原貞室に、ついで松永貞徳について俳諧を学び、『山之井』の刊行で貞門派俳諧の新鋭といわれた。
飛鳥井雅章・清水谷実業に和歌、歌学を学んだことで、
『土佐日記抄』、『伊勢物語拾穂抄』、『源氏物語湖月抄』などの注釈書をあらわし、
元禄2年(1689年)には歌学方として500石にて子息湖春と共に幕府に仕えた。
以後、北村家が幕府歌学方を世襲した。


          この北村季吟もアヤシイかもね。


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で、蒲生郡御所内村の服部氏ですが  
この服部氏の家紋は「角立て四ツ目」だそうで
これは佐々木の定紋だから

甲賀衆が六角氏から拝領したんじゃないか

だそうです。

____________________________

わたしの母の従姉妹のダンナさんの家は  やっぱり  藤林の一族が甲賀に引っ越した系なんだろうなと  確信になります。家紋が丸に並び矢だから。


で藤林家の家紋ですが
https://plaza.rakuten.co.jp/masterless/diary/201908060000/

冨治林家之墓に刻まれている家紋
源氏車に並び矢

                      でも変形源氏車ですね。
                      コレは初めて見ました。


お寺の名前が「西念寺」というのが半蔵さんと同じで  へぇ〜  っと思います。


藤林長門守は三代藩主藤堂高久公の時代に藤堂長門という代官がおられたので、藤林の姓を遠慮して、冨治林と改めたと伝わります。
     


西念寺

『伊水温故(いすいうんご)』には、本尊は天正伊賀の乱の混迷に紛れるようにして、
佐那具の西方寺へ移されたといわれています。

この西方寺が当寺の発祥といわれ、
長伝という僧侶が現在地に移し、
その後西念寺に改められた、
とされます。

当町の北に位置する徳居町の通称「墓の谷」は、廣禅寺の墓地であるように思われていますが、
元来は西方寺の墓所であった、
と『伊水温故』は伝えています。

もっとも、これには、異説もあり、いずれが真偽であるか定かではありません。

境内には、伊賀流忍術・藤林(ふじばやし)三武次保武(やすたけ)の墓が現存し、
墓石に「光岳院歓誉道喜居士」、「享保元年」(1716)死亡という銘があります。

保武は忍術書「万川集海(ばんせんしゅうかい)」の著述者とされ、百地三太夫、服部半蔵とともに、伊賀流忍術の三傑に数えられています。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月11日 01時50分06秒 ) パスワード

近江国鯰江

鯰江氏(なまずえし)
日本の氏族のひとつ。藤原姓三井家流、のち宇多源氏佐々木六角氏流。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%B0%E6%B1%9F%E6%B0%8F

荘園時代には興福寺の荘官であったという。室町年間、六角満綱の子高久が三井乗定の養子となり、近江愛知郡鯰江荘に鯰江城を築き鯰江を称して以降、代々近江守護六角氏に仕え、諸豪と婚姻を重ね勢力を蓄えた。永禄11年(1568年)に鯰江貞景・定春が観音寺城を追われた六角義賢父子を居城に迎えたことから織田信長の攻撃を受けて天正元年(1573年)9月に鯰江城は落城、以後一族は各地に分散した。一部は同郡内の森に移住して森を姓とし、後に改姓し毛利氏となった。

なお定春は豊臣秀吉に仕えて大坂に所領を与えられ、同地は定春の苗字を取って鯰江と地名がついたという地名起源があり、旧鯰江町(現・大阪市城東区今福西)の鯰江小学校などに名を今日に残している。

このほか豊臣秀次の側室に鯰江権佐の娘が上がっていたという。

また、出羽の鮭延氏は鯰江氏の一族と称していた。高久(高昌)の曾孫にあたる佐々木新太郎綱村が出羽に下向し、出羽北部の小野寺氏に仕えたという。後に山形城主の最上氏に降ってその重臣となった。



https://www.hb.pei.jp/shiro/oumi/namazue-jyo/
近江 鯰江城

築城年代は定かではないが鯰江氏によって築かれた。 鯰江氏は三井乗定の養子となった六角高久が鯰江氏を名乗ったのが始まりで戦国時代には観音寺城の佐々木六角氏に仕えた。

六角氏が織田信長によって滅ぼされると六角義治父子を迎えて織田信長に抵抗したが天正元年(1573年)落城した。


鯰江城は愛知川による河岸段丘の南端に築かれていた。現在の鯰江町の集落がほぼ城域であり、ほぼ宅地化されていて遺構は土塁や堀跡がわずかに確認できる程度である。

県道沿いから鯰江集落に登る道の脇に石碑や古い案内板があるが、新しい案内板は専修院の北にある鯰江町自治会館の所にある。簡単に確認できる遺構は専修院の北側、公園と境目で、ここが内堀跡となり、南側に土塁が残っている。



地図 滋賀県東近江市鯰江町
https://map.yahoo.co.jp/address?ac=25213&az=MTI1&lat=35.11130&lon=136.24100&zoom=14&maptype=basic

ヲイヲイですよ
多賀と野洲を結ぶ中間って感じ
多賀からどんどん南下したら  甲賀  ですよ
安土の東南でいいのかな?

__________________________________


レス<8>の
朝倉義景が越前の斯波氏を襲って乗っ取ったハナシの次の

   自是光秀退  北国入  鯰江城鯰江左近帯刀父光秀以為重縁謂故也

この部分
   
   鯰江城の鯰江左近は帯刀の父で     光秀にとっては  重なるご縁のある家だったから世話になった

という意味ではないのか?

                      重なるご縁というのは  光秀の父またはそれ以前の源氏方というか鎌倉幕府の御家人以来? and/or 室町幕府以来?の
                      近江佐々木氏と美濃土岐氏以来の御縁という意味か?


ここで朝倉義景についての復習:

弘治元年(1555年)、父・朝倉孝景(宗淳孝景)が死去したため、義景は自ら政務を執るようになる。

永禄2年(1559年)11月9日には、従四位下に叙位された。
永禄6年(1563年)8月、若狭国の粟屋勝久を攻めた。
この頃の若狭守護である武田義統は守護として家臣を統率する力を失っており、粟屋勝久や逸見昌経らは丹波国の松永長頼と通じて謀反を起こしていた。
このため朝倉軍は永禄6年以降、主に秋に粟屋氏攻撃のために若狭出兵を繰り返している(『国吉城籠城記』)。
永禄7年(1564年)9月1日、朝倉景鏡と朝倉景隆を大将とした朝倉軍が加賀国に出兵。
9月12日には義景も出陣して本折・小松を落としたのを皮切りとして、9月18日には御幸塚、9月19日には湊川に放火して大聖寺まで進出した後の9月25日に一乗谷に帰陣している。



この事件の年に信長が美濃の斎藤龍興を滅ぼしている。

だから光秀が覚慶(義昭)を連れて美濃に来たのは  もう少し後のハナシだね。


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レス<8>の
 筒井信教順慶以為兄弟也 

                  覚慶は筒井信教・順慶と義兄弟となった?
                  と書きましたが
                  この「信教」は順慶のことですね

                      松永久秀が怒った事件
                         将軍義昭と筒井順慶が親戚になったハナシ
                         この時の席次とかで松永久秀が怒りまくった件




系図に
   延教                                  |
        童名 号 彦次郎 後 有謂世人呼悪次郎 南都 筒井坊成養子 号 筒井大和守 後 改 順慶
とあります。


なので    筒井信教順慶以為兄弟也   は  

将軍義昭と
筒井信教=延教=順慶=彦次郎さん=悪次郎=ガキの頃からの武勇の士だったから筒井氏の養子になった順慶=が  
義兄弟になった  

という意味ですね?


名前がコロコロ変わるからワケ分からない。
なんだ同一人物だったのかでした。

やっぱりアタマをスッキリさせないとムカシの文章は読めないですね?
だいたいワタシは古文は読めないし   と居直っておく。恥
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月11日 02時14分05秒 ) パスワード

こうして考えていると
明智家というか光秀というか  は

そもそも
近江の多賀神社とか
近江佐々木氏系六角家と関係があり
六角は甲賀侍を雇っていたから
光秀も知っていたでしょう。


またレス<8>の

一、
出羽守嫡子喜多村伊賀守早世       
                       嫡男の保光は若死にした

二男 遂 出家 号 傳廓大僧正

                       次男は出家してた

江州敏満寺住職并兼■多賀別當
                 
                       この次男さんは滋賀県の敏満寺の住職であり多賀神社の別当も兼ねていた


                        
此節  敏満寺領 貮萬石 多賀社領五萬石都 而 七萬石為


                       計7万石!

傳廓大僧正 領知 於 于敏満寺 構 城郭衆徒有八百八坊

                       その上にこの次男さんは  敏満寺に宿坊を808も構えて

武士 數輩抱之於于諸方雖有戦功太畧也
 
                       武士をたくさん抱えて戦功たるや夥しいものがあった

                             だってお寺や神社って僧兵をたくさん抱えてたものね


+++++++++++++++++++++++++++++++


鯰江氏  復習:

室町年間、六角満綱の子高久が三井乗定の養子となり、
近江愛知郡鯰江荘に鯰江城を築き鯰江を称して以降、
代々近江守護六角氏に仕え、諸豪と婚姻を重ね勢力を蓄えた。

永禄11年(1568年)に鯰江貞景・定春が観音寺城を追われた六角義賢父子を居城に迎えたことから織田信長の攻撃を受けて天正元年(1573年)9月に鯰江城は落城、
以後一族は各地に分散した。

一部は同郡内の森に移住して森を姓とし、後に改姓し毛利氏となった。


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ヲイヲイ!ですよ〜

敏満寺

TEL0749-48-0335. FAX 0749-48-2679 〒522-0342 滋賀県犬上郡多賀町敏満寺178. Email:seiryozanhudoin@yahoo.co.jp


https://kojodan.jp/castle/666/
攻城団
敏満寺城 制覇
別名 敏満寺遺跡

地図 [近江] 滋賀県多賀町


紹介文

敏満寺城は天台宗寺院が城塞化した城郭寺院です。

城址は全国的にも珍しい高速道路のサービスエリア内にあります。

1562年(永禄5年)、浅井長政に攻められ
40余りあったといわれる坊舎のほとんどが焼失しました。

さらに1571年(元亀2年)には織田信長の命に応じなかったことから、
残りの坊舎も焼かれ寺領も取り上げられてしまいました。

江戸時代には彦根城築城のために城址に残った礎石も運び去られたため、遺構はほとんどありませんが、
多賀SAのレストラン東側にある公園で土塁や櫓台を、高速道路の近くにある胡宮神社境内で土塁を確認できます。


主な城主    久徳氏   
              久徳さんって大昔に姉のかかりつけ医だった記憶



なるほど  明智光秀が服部保章の孫娘を後妻に迎えたわけだ。
やっとココで納得できた!
[15]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月11日 13時08分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 鯰江氏についてはあを様の解釈が正しいです。漢文は読みづらく解釈が難し
いです。

 喜多村(服部)出羽守の次男が、多賀の敏満寺住職でかつ多賀大社の別当であ
ったということ。光秀多賀佐目説とも大いにつながり、ここはキモかと思いま
すので、深掘りしたいと思います。

 服部蛇鬼破については、以前出てきたと思いましてしらべたところ、A.AKECHI
様より、長上郡の服部氏族CU(課題確認45)102にて、あを様のお調べになった
肥後細川藩拾遺「喜多村家伝 明智家譜及び明智系図」が紹介されておりまし
た。
 いずれにしても、名前がおどろおどろしい、まるで忍者の呼び名のようであ
ります。

 柘植か名張か、保光か保章かの問題も、いずれにしても両方共服部氏は土着
していたことは間違いないことだと思います。
「名張の保章の子が柘植の保光。保光には娘がおり、保光が早くに亡くなった
ので、娘は祖父保章の子となり光秀とに嫁に入った。保光には弟が二人いて、
次男は敏満寺と多賀大社の長となった」と解釈すると、光秀は、名張、柘植…
即ち大きく言えば伊賀甲賀と、多賀の修験(山伏)とのネットワークを築いたと
いうことになる。それにより、家康─服部党ラインと一つの線でつながること
になったという可能性大であります──
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月12日 01時20分12秒 ) パスワード

三つ柏さん

散歩後に改めて書きます。


ちょっとご報告です
https://news.yahoo.co.jp/articles/b873f76c4650a6672eeee240db58607e58c4b8eb
本能寺の変後に明智光秀に味方した名門・若狭武田家と後瀬山城【麒麟がくる 満喫リポート】
文/西島伸彦(福井県小浜市教育委員会学芸員)
2/11(木) 17:05配信


すぐに消えると思うので  コピペしておきます:

『麒麟がくる』で描かれる時代は、全国的に戦国下剋上の時代だった。名門若狭武田氏が本拠とした後瀬山城も例外ではなかった。風雲急を告げる情勢の中で若狭武田家はどのような戦略をとったのか。福井県小浜市教育委員会の西島伸彦氏がリポートする。


若狭守護職は初代信栄(のぶひで)以降、信賢(のぶかた)、国信(くにのぶ)、元信(もとのぶ)、元光(もとみつ)、信豊(のぶとよ)、義統(よしむね)、元明(もとあき)と続き(呼び方・家督相続者に諸説あり)、約130年にわたり若狭を統治しました。

若狭武田氏歴代でも信賢は、応仁・文明の乱に際して東軍(細川勝元(かつもと)側)の副将を勤めるなど活躍し、国信も応仁・文明の乱で将として活躍しました。元信は朝廷や幕府と密接に繋がり従三位まで昇進しました。この頃が若狭武田氏の絶頂期であったと考えられます。

元光・信豊・義統・元明の治世では、国内外での戦乱に対処する間に次第に若狭武田氏の勢力は衰え、永禄11年(1568)朝倉義景(よしかげ)の軍勢が若狭へ侵攻した際後瀬山城を攻撃し、元明を越前へ連れ去りました。

この頃にはすでに織田信長の勢力が若狭に及んでおり、国内の武田家の家臣や幕府奉公衆の中には意を通じた者も多く、元亀元年(1570)の越前攻略には若狭衆として先陣を勤めていることがわかっています。

守護武田家の広大な守護所跡

若狭衆は、この年朝倉攻めのため若狭へ入る織田勢を熊川まで迎えに出ており、明智光秀は織田信長が熊川に到着して越前に向かう前に熊川を訪れたとされています。

年不詳の信長奉行人連署奉書では、元明に結集して忠節を尽くすよう武田旧臣に求めており、羽柴秀吉・丹羽(にわ)長秀(ながひで)・中川重(しげ)政(まさ)・明智光秀の署名が見られます。天正元年(1573)には丹羽長秀が若狭を領することとなり、国人衆の多くは長秀に従っています。


初代武田信栄以来若狭を支配した若狭武田氏の滅亡
もはや元明に若狭守護の威光はなく、朝倉氏滅亡の前後頃に若狭へ帰ったものと思われ、天正9年(1581)信長から高浜逸見(へんみ)氏の旧領の内3000石を宛がわれて辛うじてその名望を保ちました。

しかし、天正10年(1582)、京都の本能寺で明智光秀に織田信長が討たれるという本能寺の変が起こり、まもなく山崎の合戦に勝利した羽柴秀吉によって光秀が滅ぼされると、元明は光秀に同心したということで近江海津の法憧院に呼び出され、天正10年7月丹羽長秀によって生害させられました。これによって初代武田信栄以来若狭を支配した若狭武田氏は滅亡しました。

若狭武田氏は守護としての使命から幕府への忠勤に励んだ結果衰退したともいえますが、その反面、多くの貴族・文人と関わりを持ち、武田家伝の故実継承だけでなく文芸面でも華々しい成果を残し、現在まで受け継がれる若狭の文化の基礎を築いたと言えます。

後瀬山は、万葉集に詠まれた大伴家持(おおとものやかもち)と大伴坂上大嬢(おおとものさかのうえおおいらつめ)の贈答歌などで名高い名山です。坂上大嬢は「かにかくに人は言ふとも若狭路の後瀬の山の後も逢はむ君」という歌を贈り、大伴家持は「後瀬山後も逢はむと思へこそ死ぬべきものを今日までも生けれ」という歌を返したとして恋の歌の舞台としても知られています。

後瀬山城跡は若狭最大級の山城で、若狭守護として5代目となる元光が大永2年(1522)小浜市街地の南に聳える後瀬山の山上に城郭を築き始め、北側山麓にあった日蓮宗長源寺を向島に移して居館を建設しました。この山城と守護居館は、合わせて後瀬山城跡として国史跡に指定されています。後瀬山城跡は若狭を東西に通過する丹後街道を足下におき、小浜湊を眼下に見下ろせる場所に築かれています。

若狭最大級の山城、後瀬山城
このような経済的にも軍事的にも適した場所に設置することにより、長年争っている丹後一色氏の残党が小浜に入ってくるのを防ぐとともに、日本海交易の主要港となっていた小浜湊の経済力を掌握する意図があったものと思われます。

この後瀬山の稜線に沿って城郭北西部に畝状竪堀(うねじょうたてぼり)や大規模な竪掘を配し、西側への防御を密にした遺構配置を行っており、これは武田氏が若狭守護に任命されて以来度々確執を招く丹後一色氏を意識していることが見受けられます。

東稜線上と北西稜線上に配置される連郭群は切岸(きりぎし)により区画されており、主要な部分において堀切(ほりきり)を用いています。またこの連郭群は谷の横道(よこみち)と形容される連続した連絡道路により連結されています。主郭には愛宕神社が鎮座し、社殿は京極(きょうごく)氏によって創建されました。主郭外郭の石積みはいわゆる穴太(あのう)積みと考えられ、これは築城当初のものではなく、天正10年(1582)丹羽の命により補強された可能性が考えられます。


昭和63年小浜市教育委員会により主郭北西部の曲輪(くるわ)において確認調査が実施され、土塁、礎石建物跡、築山等が確認されています。その結果、礎石建物や土塁は2時期にわたって造成されたことが遺構の切り合いからわかっており、出土遺物の検討から天正年中に再築がなされたと考えられます。また、庭園の築山に見立てている遺構は、他に浜松市の鳥羽山城跡、姫路市の置塩城跡等で確認されています。

守護居館は、文献や古絵図等の検討から旧小浜小学校跡地に存在することが以前より指摘されていました。平成18年度から平成25年度まで継続的に内容確認調査を実施したところ、館跡の西側と北側で堀跡が検出され、東側については不明ながら館を画す堀跡が確認されています。館跡内からは礎石建物跡、掘立柱建物跡、土蔵状遺構等が確認されています。これらの調査により、若狭武田氏館跡は西側と北側に堀を巡らせた台形状を呈するプランを持つことがわかりました。

また、真偽不明ながら、明智光秀の母は武田義統妹という説や、若州小浜鍛冶冬廣(ふゆひろ)次男という説があります。また、市内には若狭武田氏最後の当主である武田元明の正室京極竜子(たつこ)着用として伝わる具足が伝わっています。

____________________________________


光秀

母上
いったい何人  いるんだ?

父上も何人いるんだ?  って感じなのに。

どーゆー  生まれなんだ?
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月12日 01時46分23秒 ) パスワード

これもチャッチャッとコピペ
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20210211-00221973/

【「麒麟がくる」コラム】明智光秀が頼った細川藤孝・忠興親子は、なぜ味方にならなかったのか
by
渡邊大門
2/11(木) 12:00



大河ドラマ「麒麟がくる」では、細川藤孝・忠興親子が重要な役割を果たし、最終回でも強い存在感を示していた。明智光秀が決起した際、もっとも頼りにしたのが藤孝・忠興親子だったが、結局は味方にならなかった。その理由を考えることにしよう。


■明智光秀が頼りにしていた人々

まず、明智光秀が味方の1人にと考えていたのは、親しい間柄にあった大和の筒井順慶である。天正10年(1582)6月4日、順慶は光秀のために京都に援軍を派遣したが、その態度は実にあいまいだった。

その後、順慶は光秀に援軍を派遣したり、呼び戻したりしていたが、ついに大和の与力衆から血判の起請文を取り、羽柴(豊臣)秀吉に誓書を送った(『多聞院日記』)。光秀の味方にならなかったのだ。

いかに順慶が光秀と仲が良かったとはいえ、自らの命がかかっている。冷静に情勢を判断した結果、順慶は光秀ではなく、秀吉に与することを決意したのである。

ただし、これは順慶の独断ではなかった。

当時、順慶と大和の与力衆は信長によって規定されていた。大和の与力衆は、あくまで信長の命令によって順慶に属したに過ぎない。そのような事情から、信長が亡くなった以上、順慶は改めて大和の与力衆に意向を問わなくてはならなかった。

順慶が大和の与力衆と話し合って出した結論は、秀吉に与することだった。ゆえに、順慶は代表して秀吉に誓書を送ったと指摘されている。従来の順慶が優柔不断とされた「洞ヶ峠の日和見」については、再考の余地があろう。



■細川藤孝・忠興父子への期待

ほかに光秀が味方にと期待したのは、細川藤孝・忠興父子である。藤孝の嫡男・忠興は、光秀の娘・お玉(細川ガラシャ)を妻として迎えていた。

婚姻関係は、互いの同盟を誓ったものである。こうした関係から、光秀は藤孝・忠興父子が間違いなく味方してくれると思ったに違いない。

同年6月9日、光秀は3ヵ条から成る覚書を送った(「細川家文書」)。内容を確認しておこう。

(1)藤孝・忠興父子が髷を切ったことに対して、光秀は最初腹を立てていたが、改めて重臣を派遣するので、親しく交わって欲しい。

(2)藤孝・忠興父子には内々に摂津国を与えようと考えて、上洛を待っていた。ただし、若狭を希望するならば、同じように扱う。遠慮なくすぐに申し出て欲しい。

(3)私(光秀)が不慮の儀を行ったのは(本能寺の変における信長謀殺)、忠興を取り立てるためで、それ以外に理由はない。50日100日の内には、近国の支配をしっかりと固め、それ以後は明智光慶と忠興にあとのことを託し、自分(光秀)は政治に関与しない。

すでに指摘されているように、文章は藤孝・忠興父子に味方になるよう再考を求めるもので、ほとんど哀願に近いものである。

一方で、この書状から光秀は藤孝にクーデター計画を事前に伝えており、クーデター直後の混乱を終息させた後には、子や娘婿に政権運営を託して隠居する予定だった、との説がある。しかし、光秀が変の前に決行の計画を藤孝に知らせた史料はなく、(3)は本心を伝えたとは思えない。


■話をすり替えた光秀

(3)の冒頭の「不慮の儀」が示すのは、本能寺の変は計画的なものではなく、光秀のとっさの行動であったことを裏付けている。

 光秀は「こうなってしまった以上は仕方がない」と考え、一連の行動は娘婿の忠興のためであったと話をすりかえ、畿内を平定のうえは政治から退き、明智光慶と忠興にあとのことを任せると言い訳をしているにすぎない。

追い込まれた光秀は、何が何でも藤孝・忠興父子を味方に引き入れなくてはならなかった。やはり、光秀には政権構想や政策もなく、変後にあたふたとしている様子がうかがえる。そんな状況を見た藤孝・忠興父子は、光秀の味方になろうと思わなかったに違いない。


結局、光秀がもっとも頼りにしていた人々が、誰も味方にならなかった。

ほかの大名たちの対応については史料が残っていないが、だいたい想像がつくことであろう。

光秀が準備周到ならば、ここまで悲惨な結果に至らなかったはずである。したがって、光秀は本能寺の変を起こし、信長を討伐することに成功したものの、具体的なその後の構想はなかったと考えられる。

藤孝・忠興父子は光秀の準備不足を見抜き、味方にはならなかった。先見の明があったといえるのかもしれない。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月12日 01時55分32秒 ) パスワード

これも

https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20210211-00221970/

by
渡邊大門
2/11(木) 6:00

【「麒麟がくる」コラム】明智光秀は徳川家康を討つ予定だったのか。『本城惣右衛門覚書』に書かれたこと


今回も大河ドラマ「麒麟がくる」の補足をしよう。一説によると、明智光秀は本能寺で織田信長でなく、徳川家康を討つ予定だったという。この説は、正しいといえるのであろうか。検証することにしよう。


■本城惣右衛門とは

明智軍に従軍した将兵たちは、本当に明智光秀が織田信長を討伐しようとした計画を知らなかったのであろうか。明智軍に従った本城惣右衛門(?〜1640以降没)が晩年に書き残した『本城惣右衛門覚書』には、この間の経緯について詳しく述べられている。


本城惣右衛門は丹波出身の土豪で、もともとは丹波赤井氏に仕えていた。

しかし、天正7年(1579)に赤井氏が滅亡したので、明智光秀の配下に加わった。天正10年(1582)に明智光秀が討たれたると、以後は羽柴(豊臣)秀吉に従ったのである。

『本城惣右衛門覚書』によると、惣右衛門は秀吉の配下になって以降、天正13年(1585)の紀州征伐、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦、慶長20年(1615)の大坂の陣などに出陣した。生没年は不詳である。


■『本城惣右衛門覚書』とは

まず、『本城惣右衛門覚書』について述べておこう。

『本城惣右衛門覚書』は本城惣右衛門の覚書で、寛永17年(1640)に成立した。本能寺の変前後の状況をリアルに再現していることで、注目を浴びている史料である。


全文は『ビブリア』57号に紹介されているが、本能寺の変の部分については、『真説 本能寺の変』(集英社)にも翻刻されている。近年になって、白峰旬著『現代語訳 本城惣右衛門覚書』(歴史と文化の研究所)が刊行された。

『本城惣右衛門覚書』は変後約60年余を経て書かれたので、著者の記憶違いや何らかの意図がなかったのかなど、検証すべき点は多い。



なお、惣右衛門が本能寺を急襲したとき、門が開いて広間は静かだったこと、捕らえた女性から信長が白い着物を着ていたことを聞いたことも書かれており、かなり細かい情報を載せている。


■徳川家康を討つ

『本城惣右衛門覚書』が注目される理由は、一兵卒の当時の気持ちが率直に綴られていることだろう。本能寺の変の当日、亀山城を出発した行軍中の惣右衛門は、老の坂(京都府亀岡市・京都市西京区)から山崎(京都府大山崎町)方面に行くと思っていたが、行き先が京都であると知らされ、当時上洛していた徳川家康を襲撃すると思ったという。


惣右衛門は信長を討つと、まったく思っていなかった。

それどころか惣右衛門は、本能寺のことも知らないうえに、単に斎藤利三の息子のあとをついて行っただけであると証言をしている。

この史料を根拠にして、光秀が本当に討つ予定だったのは信長ではなく、家康だったという説がある。


しかし、近年では文脈をつぶさに検討し、惣右衛門は家康を討つと思ったのではなく、家康の援軍に行くと思ったと解するのが正しいとも指摘されている。


いずれにしても、『本城惣右衛門覚書』の記述を全面的に信用するわけにはいかないだろう。それは惣右衛門自身が思っていたことにすぎず、明智軍のほかの将兵がすべてそう思っていたのか断言できないからでもある。



■覚書という史料の性格

一般的に、覚書は子孫のために自身の経歴や軍功を書き残したもので、晩年に至って執筆することが多い。一種の回想録である。したがって、記憶の誤りや単純な間違い、あるいは自らの軍功を顕示するための誇張などが含まれていることもある。

最初、惣右衛門は備中高松城(岡山市北区)の秀吉のもとに出陣すると聞かされていたので、急に進路変更になったことを疑問に思ったのだろう。

その際、まさか主君の信長を討つとは考えがおよばず、家康を討つのではないかと思ったのだろうか。なぜ家康なのかは、根拠が不詳である。ただ少なくとも、信長が家康を敵視する理由が見つからない。


■信長と家康の関係
 
近年の研究によると、もともと信長は将軍・足利義昭の要請に基づき、家康に出陣を依頼していた。つまり、信長は家康と領土協定を結ぶだけの対等な関係にあったという。

 
しかし、天正3年(1573)の長篠の戦い以降、家康は信長の配下となり、軍事動員されるようになった。同時に家康は、信長が領土拡大戦争を行ううえで、貴重な戦力だった。信長が家康を討つ理由などなく、かえってデメリットのほうが大きいのである。

 
いずれにしても、光秀に従った多くの兵卒は惣右衛門と同じく、いったい何のために京都に向かうのかわからなかったかもしれない。

 
ましてや、信長が本能寺に滞在していることなどは、上層部の家臣しか知らなかったことだろう。ただ言えることは、最終的に信長を討つという光秀の命令には、従わざるを得なかったということである。
[19]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月12日 12時34分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様、重要な情報ありがとうございます。情報量が多いので一度解析いた
します。

 歴史は一筋縄にはいかないということ、喜多村(北村)や柘植と言えば、天正
一次・二次の伊賀の乱に至るまで(信長の伊勢侵攻より)の、甲賀・伊賀・伊勢
の諸氏の動向を把握し、光秀の分析に加味ておかなければなりませんでした。
 
 柘植の喜多村氏(北村氏)は柘植氏(服部氏)でもありました。
 柘植氏といえば、北畠氏に仕え、裏切った柘植三郎左衛門、また一族で第二
次天正伊賀の乱で道案内した福地氏等がおりました──
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月12日 17時28分21秒 ) パスワード

三つ柏さん

「歴史」の<記録>って  
   どこまでがホントのハナシか虚構か筆の誤りかウッカリミスなのか善意の編集のせいか  
分からないですよね。


現代社会で言うと
無能とされて「社史編纂室」送りになって  
やりたくもない仕事をテキトーにやったせいで  
誤った「社史」を発行してしまう
ってアリかも。

       でも誰もそのミスに気付かない(笑)

逆に

文系社員の場合は「社史編纂室」で頑張って   
いろいろ  調べて  本人的には  削除したり加筆したりして  
出来上がった社史が   事実かどうかは   さて  どうなんでしょう? 


こういうことが歴史の記録にも有り得たかも。


中国文って  時制がメチャメチャですよね  現在形なのか過去形なのか  ハッキリしてくれ!です。

ま 「了」という字が書いてあれば  (過去形) って分かりますが。

中国人には  発音が大切  なのかもね。だから時制は曖昧な表現で構わないのかな?


日本人が漢文調で文章を書くと  読む人は   レ点とか一とか二とかで補いますが
やっぱり  ムニャムニャ   (アンタが読解力が無いだけだ)  と言われますですはい

だから!

日本文には助詞がありますが  (日本語の助詞の使い分けには曖昧さという問題があるが)  
漢文調で書いた文章にも意味をハッキリさせるために助詞をつけておいてくれないと   ヨメナイ!!!
_____________________________________

筒井順慶は1歳(数えで2歳)の年に父親が28歳という若さで亡くなっているそうです。
この人の人生は過酷だったかもですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E9%A0%86%E6%85%B6
【織田信長に臣従】
天正3年(1575年)2月27日、信長の娘か妹を妻に迎える。

           え?将軍義昭の妹との結婚のハナシはどうなったの?

           ところが

           信長の娘が順慶の13歳(数えで14歳)の息子の嫁になっています
           
           ということでウイキの情報は間違っているのでは?と思います。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
             
           【信長の娘】
           秀子、または藤、のちに上野御方(日栄) - 筒井定次室。
           鶴姫(鷺の方)(中川秀政室)と同一人物であるとも考えられる。
           https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E5%AE%9A%E6%AC%A1
           筒井定次について
            正室:織田秀子(織田信長の娘)[1]でどころは上記と同じ渡辺江美子さんの説
           
         

筒井順慶は天正4年(1576年)5月、信長により大和国支配を任される。同時期に明智光秀の与力となる。

     

【本能寺の変の後】
天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が信長を討ち取った本能寺の変が起こった。

順慶は福住順弘・布施左京進・慈明寺順国・箸尾高春・島清興(左近)・松倉重信ら一族、重臣を召集して評定を行った。

光秀は順慶が与力で信長の傘下に入る際の仲介者で<<<縁戚関係>>>にもあり、
武辺の多い織田軍団としては数少ない教養人同士として友人関係にもあった。
そのため、光秀からは変の後に味方になるよう誘われた。

                    光秀と順慶は  <<<縁戚関係>>> ?
                    つまりレス<8>の彦太郎と彦次郎の関係の背景のハナシ?

                    それとも
                    光秀の妹が妻木殿という名で信長の側室になっていたこと
                    信長の娘を息子の嫁に貰っていたこと
                    この2つのことから光秀と順慶は信長を挟んで<<<縁戚>>>という意味?

__________________________________

古文書は読むのが本当に厄介です。


レス<8>の   自是光秀退北国入鯰江城   鯰江左近帯刀父光秀以為重縁謂故也

朝倉義景が若狭や加賀を攻め  光秀は  だから越前を出て  鯰江城に行った
それは
鯰江城の鯰江左近=鯰江帯刀の父=が  光秀とは  かねてより重ね重ね御縁があったことからだった


この部分
【鯰江左近帯刀父】

たぶん   鯰江左近 = 鯰江帯刀の父  という意味で合ってると思います。
2人分の名前で合ってると思います。

まさか  名字=鯰江 で 名前=左近帯刀  という1人の人間じゃないと思います。


こーゆーのって  考えてる内にグチャグチャになっていきますよね。


たぶん  この2人は  鯰江城主だった鯰江定秀(貞景)と  その子・定春の事だと思います。



光秀の後妻と遺児とお付きの女達を火の手の上がった落城中の坂本城から
織田方の陪臣になった鯰江の帯刀が探し出して   というシーン

   坂本落城之節 内治麻呂當城也 母室・乳母・侍女 共 迷 煙中  
   佐々木義郷旗頭 鯰江左近嫡同帯刀入城

ここも  鯰江左近  <と>  嫡男の鯰江帯刀    の2人のことなのか
それとも 鯰江左近の嫡男の鯰江帯刀  1人が  捜しに来たのか?
わたしには  読むたびに迷います   煙の中だし(笑)  
   五里霧中じゃなくて五里煙中のハナシだから(笑)

_______________________________________

歴史家は1つの文献を読んで   我々と同じように思っても  別の歴史家から批判されないように  
他の古文書も調べて
  
同じ事件について  別の書体とか  別の人物の記録から  
正しい?情報を見つけるのだと思います。

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書いた物って  当事者がきちんと自分でウソ偽り無く 文書に残しているわけじゃないですからね。

社史編纂室みたいに  落ちこぼれ部署の無能な部下が  テキトーに編集した内容では
いろいろ抜けてたり
逆に
有能な社員だったら  ヨケイな事を  勝手に付け加えたりして

後世の我々は翻弄させられる。


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鯰江さん  どんな思いで坂本城に入って来たんでしょうね?
早く光秀の後妻さんを見つけないと  佐々木義郷の他の部下たちから凌辱されて殺されるでしょうから焦ったでしょうね。


    関ケ原の時は長束正家の妻(本多忠勝の妹)の栄子さんが凌辱されて死んでますから
    こーゆーのが落城方のフツーの運命なんでしょうね


鯰江さんの一族の娘が秀次の側室に上がって
    於古保(おこほ)の前 - 鯰江才助/鯰江城主権之介の娘
たぶん彼女も秀次が失脚して秀吉に処刑された39人の内の1人だと思います。

この39人の内にワタシのムカシのクラスメートの一族の女性達(複数ってこと)もいます。


わたしは昭和の幸せな時代に生まれて本当に幸せです。
[21]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月13日 10時54分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「歴史における諸事象は、時代の流れの中に於ける必然性の顕れ」と考える
と、おおよそすべてのものの理解ができます。つまりは、みんな「時代の子」
であると言うことができると思います。

 さて、鯰江氏は三井氏と佐々木氏の血脈そのものであるということでありま
す。佐々木という名が取れて佐々木色が消え、三井鯰江氏となり、それがやが
て三井氏と鯰江氏に分かれたということ。いずれにしても、その後の三井氏は
鯰江氏でもあり、鯰江氏は三井氏でもあるということであります。

 藤堂家にも三井家より血脈が入っている。高虎の父・虎高は、三井出羽守乗
綱の次男であり、藤堂家の虎女(八人娘の長女)の婿養子に入ったということ。
三井鯰江氏は、三井出羽守乗定家に佐々木満綱の次男が養子に入ったという
こと。
 従って、三井、佐々木、鯰江、藤堂は親戚ということになるります。

 また、藤堂家には、多賀家より二人の男子の養子が入っております。つまり
高虎の叔父達に当たります。
 藤堂高虎という人間、明智光秀とどういう関係があったのか、解明しておく
必要があります──

 
 
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月13日 12時09分44秒 ) パスワード

三つ柏さん

藤堂家に「大事な人」を忘れていますよ。


http://green.plwk.jp/tsutsui/tsutsui2/chap3/02-01tsutsuitodo.html
コピペ:
全文はURLへ。


藤堂家の冶政は『宋国史(藤堂藩の正史)』に詳記されている。

一、無足人「足す事なし」…と呼び、無給ではあるが家柄によって武士の特権を認め、国の守りに備えると共に、村の支配や年貢の取立てに当らせている。

二、他家の名ある浪人を大量に採用して戦力を充実させ、常に幕府の先峰となってその「特恩」に奉じることを第一と定め、それに逆らう者はすべて斬れ、と説いている

三、上忍の千賀地の出身で家康に仕えていた服部半蔵正成の長兄・保元の孫である保田妥女を貰い受け、藤堂の名を許し、やがて城代家老として忍者郡を組織して、情網活動に努めさせている。

そして伊賀の忍者と家康の関係は、天正九年(一五七三)の伊賀の乱以来の縁であり、高虎が妥女を召抱えたのは四国の領主だった頃からだ。
家康は早くから筒井の代りに高虎を入れて大坂城攻略の付城とするつもりだったのは明らかである。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++


藤堂采女
https://www.ninja-museum.com/ninja-database/?p=662


『寛政重修諸家譜』によると藤堂采女元則は服部半蔵正成とは同族の予野生まれ。

その後紀州土豪保田氏の保護を受け、藤堂高虎が今治に居た時代より高虎に仕え、慶安4年(1640)に上野の城代家老を世襲する藤堂采女家を興し七千石を与えられている。

采女家が城代職になり藤堂姓を許されたのは伊賀地侍の名族服部家の出自故、伊賀地侍達の懐柔の目的であったと云われる。

『伊賀付差出帳』には、元則、元住は伊賀全土の郷士を調べ登録し、鉄砲組や忍び衆等の組を作った。

藤堂采女故郷碑は服部半蔵故郷碑、伊賀乱供養碑と共に予野の千賀地城址にある。


他にもいろいろ出ています。
[23]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月15日 13時40分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 藤堂家を調べてみて、再認識したのは、藤堂家の出身地犬上郡藤堂村とは、
正に同じ犬上郡多賀村の「多賀大社」南西約3qのあたりということで、ほ
とんど一体とみていいかと感じました。また、多賀大社の神官の多賀氏とは
もともと身内であり、しかも藤堂虎高(高虎の父 三井家より婿入り)の後に、
多賀家の二人の男子が藤堂家に婿入りしている。

 もう一度振り返ってみると、三井家には佐々木六角氏より婿養子が入り、
三井家から藤堂家に婿養子が入った。同じく、藤堂家に多賀家より婿養子が
入っている。
 婚姻は、他家との関係強化の策でもあるので、六角・三井(鯰江)・
多賀、藤堂の各氏は協力関係にあったとみていい。
 藤堂高虎には、そういったバックグランドがあるのでありますが、それを
生かしたとか・利用したという話はいもの所見ていない。
 
 関ヶ原の戦い前後から高虎の話題は浮上してくる。そして、1608年に
伊賀上野に移封され、藤堂(服部)采女家の設立、 そして伊賀衆の無足人登録
ということ、やっと服部家との関係が顕在化する。
 
 藤堂家と服部家と明智家、関係ないようで底通しているのではないかと思い
ます。それは、やはり、「多賀・甲賀・伊賀のライン」に根源があるような気
がいたします。さらに探求していきたいと思います──

[24]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月15日 13時43分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:いもの所→今の所
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月15日 14時15分00秒 ) パスワード

レス<22>の訂正

    散歩に出る直前に書き逃げしたので読み返してなかったのでそのままコピペしてしまいました。
    ごめんなさい


>伊賀の忍者と家康の関係は、天正X年(一五XX)の伊賀の乱以来の縁

この部分  天正9年は1581年ですね   伊賀の乱は天正6年に始まって・・・  ですね。

天正伊賀の乱は  
天正6年(1578年)から天正7年(1579年)の第一次伊賀の乱、
天正9年(1581年)のは第二次伊賀の乱ですね。


1573年の出来事というと

1月25日(元亀3年12月22日) - 三方ヶ原の戦い。武田信玄による西上作戦の一環で、遠江国において徳川家康を破る。

8月25日(元亀4年7月26日) - 15代将軍足利義昭が宇治槇島城を明け渡して降伏し織田信長に追放される、室町幕府の事実上の滅亡

8月27日(天正元年7月28日) - 改元して天正元年

こんな感じ。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月15日 17時07分56秒 ) パスワード

書き直し:


三つ柏さん

藤堂高虎と滝川一益は甲賀の人ということで知られてますね。


そして  家光の誕生日が 慶長9年7月17日(1604年8月12日) で
明智光秀の腹心の斎藤利三の娘の春日局は慶長9年(1604年)家光の乳母に任命されている


そして光秀=天海僧正説。

天海僧正は光秀本人とか光秀の息子とかの説もありますね。
本人よりか息子説の方が死んだ年を考えると息子説の信憑性の方が1ポイント上回りますね。


そして藤堂采女家。
なんで伊賀の服部家の人間が藤堂姓に?

まだ甲賀衆の望月さんとか多羅尾さんとかの甲賀系の方が良かったのでは?と思うけど。
ま、そこが藤堂高虎の<家康を意識した政治感覚>だったのじゃないかな?

それに伊賀を治めるに相応しい伊賀の名家はやっぱり平家長の子孫だ、ということだったのかな?
 
                 ↓

服部半蔵正成の長兄の保俊は家康に仕えて桶狭間の戦いのあった永禄3年三河国の高橋の合戦で討死。享年24歳
           三河国高橋合戦は桶狭間の戦いの「局地戦」だったのかな?
保俊の家(と弟の保正の家)は16葉菊紋も使用してて
これが保田家の家紋と同じらしいです。
でも16葉菊紋というと思い出すのは  青山家  ですね。
正尚の弟が母の実家の青山家に養子に行きました。


半蔵の次兄の保正は三方が原の戦いで討死。家康は武田信玄にボロ負けしました。
その子・保成=半蔵の次兄の子の保成は小牧長久手の戦いの尾張蟹江城攻めで討死。享年35歳。
小牧長久手の戦いは天正12年(1584年)3月から11月にかけて秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦いで、徳川方の圧勝。
負けた秀吉は母を人質に出し妹を離縁させて家康の正室にして何とか家康の上に立とうとしました。

そして保正の家も長兄の保俊の家同様16葉菊紋も使用しています。


つまりココで  保田家 ↔ 服部家 ↔ 青山家  が見えてきます。


服部保長系の家紋:矢筈車・轡十文字・16葉菊・向ひ蝶・矢車・平蝶 ← これは平家の揚羽蝶紋のことかな?


ちなみに徳川家康の出陣の行列の時、先頭に 
「黒地に白く伍文字を染めたる四半(しはん)=幅と長さを2対3の割合にした幟(のぼり)=半幟=を奉る」
                       文字通り「立て」まつるだね  笑

のは、半蔵正成の隊が 天正18年の小田原の役から特別に許された  だったような?
この「5」の意味は忘れた。  5は「4=死」を越える  だったかな?

                       この表現、太平洋戦争では5銭玉を縫い付けて「死線=4銭=を越える」に転用されたのかな?
______________________________________

青山家はもともとは
https://www.projectdesign.jp/201803/creativeaoyama/004633.php
「青山」のルーツは南北朝時代の群馬 第27代当主が語る

バリバリの南朝方。

以下コピペ
青山家の歴史は、
14世紀の南北朝時代に遡る。初代師重(もろしげ)は、後醍醐天皇の孫である尹良親王に仕え、上野国青山郷(現在の群馬県吾妻郡中之条町青山)に居を構えていた。
その地名を取って「青山蔵人佐」と名乗っており、これが青山姓のルーツと考えられる。
師重の兄、青山師賢(もろかた)は、鎌倉時代末期に京都の朝廷に仕え、後醍醐天皇の信任も厚く、機密事項についても相談を受けていた。
後醍醐天皇は鎌倉征伐を密かに計画していたが、その相談も受けていたという。

____________________________________

保田家が紀州ということで(保田は一説には源氏系とされているけど  もう1つ別の「湯浅系」の保田家だろうということで)
モロ  平家方に南朝方じゃん!  だから  伊賀の服部家と仲が良いのは当たり前じゃん!  となります。


保田氏 < 湯浅氏

湯浅氏は中世紀伊国の武士団。
本領の湯浅荘に拠る惣領家を中心に,得田,糸我(いとが),石垣,保田,阿氐河(あてがわ)氏などの庶子家,および婚姻関係で結ばれた〈他門〉の諸氏からなっている。

湯浅氏の確実な祖は権守(ごんのかみ)を称した藤原宗重で,
彼は平治の乱(1159)に際し,
熊野詣での途上にあった平清盛を助けて帰洛を促し,
平家の勝利に重要な役割を果たした。

それ以降,平家の有力な家人となり,しばしば上洛して貴族や上皇と交渉をもち,僧兵の鎮圧などに活躍した。

_________________________________

つまり  家康の馬前で=主君の目の前で討死することは武士の最高の死に方だから=
          半蔵の2人の兄と甥の3名が家康のために討ち死にしているから  
藤堂高虎は保田家に養子に行ってた采女に藤堂姓を与えて伊賀を任せたのは
「家康に」自分の忠誠をアピールした、という事なのじゃないかな?


以上  「晴天を衝け」 を見終わってからダラダラ  書いてしまいました。
あはっ
[28]A.AKECHIさんからのコメント(2021年02月16日 09時56分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

>なんで伊賀の服部家の人間が藤堂姓に?

>藤堂高虎は保田家に養子に行ってた采女に藤堂姓を与えて伊賀を任せたのは
「家康に」自分の忠誠をアピールした、という事なのじゃないかな?

 の件ですが、藤堂采女元則の正室の実家・佐伯家の方が管理人の「藤堂高虎とその家臣」サイト https://sasakigengo.wixsite.com/takatora/blank-26  
 によれば、采女に藤堂姓を与えたのは、高虎ではなく家康だそうです。

[29]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月16日 12時16分27秒 ) パスワード

A.AKECHI様

 藤堂采女元則の正室の実家・佐伯家の方が管理人の「藤堂高虎とその家臣」
サイトのご紹介、ありがとうございます。さっそく、読解いたします。

 私の方でございますが、以前伊賀上野城の受付で購入しました『藤堂高虎
文書集』を改めて読み直しておりますが、その中に新たな発見がありました。
 それは、藤堂高虎の母・とらの出自でありますが、びっくりです──多賀
新助良氏の娘でありました。つまり、藤堂忠高家には、三井家より虎高、多
賀家より"とら"(これら二人の養子入り、婚姻の順序は今のところわかりませ
ん)が入り、高虎を生みました。

 忠高家には、他に多賀家から娘婿として良政と良直の二人が養子に入って
おります(婿養子なのか、娘婿で独立しているのか、系図上では本当のところ
がわかりませんが、現代の登記制度ではないので、藤堂を名乗っているという
ことは、藤堂一家に入ったということだと思います)。

 つまり、藤堂高虎の母も多賀氏、叔父二人も多賀氏、父は三井氏(佐々木
六角氏の血が入っている)ということになり、いずれにしても「多賀氏」の
血が脈々と受け継がれているということになります。
 それは即ち、多賀大社の山伏系情報網と甲賀・伊賀系のいわゆる忍者系情
報網を、つぶさに活用できたということになります。風見鶏という異名は、
情報を秘密裏にしかも早く知り得て先を読み、そして躊躇せずに行動に移っ
た結果に起因するのではないかと思います。

 光秀の子・僧玄琳の手紙(調査書)に書かれている喜多村出羽守の次男が、
敏満寺の住職兼多賀別当であるということ──多賀大社の神職多賀家を通じ
て藤堂家と服部家、そして明智家はつながっている可能性大であります(時
系列でのチェックは要しますが)。
 なお、藤堂高虎が15年間仕えた羽柴秀長という人物、どういう人間であ
ったかも深掘りしてみる必要もありそうです。──

 続きは次回── 
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月16日 15時16分50秒 ) パスワード

A.AKECHIさん
三つ柏さん

https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken2/detail.asp?record=334

侍から足軽まで100人超―津藩伊賀城代・藤堂采女家の家臣団構造

by 県史編さんグループ 藤谷 彰氏
問い合わせ先:三重県環境生活部文化振興課県史編さん班
〒514-0004 三重県津市栄町1丁目954 三重県栄町庁舎2階/電話:059-224-2057/ファックス:059-224-2059


以下コピペ:

津藩の成立は、1608(慶長13)年の藤堂高虎の伊賀・伊勢国入封による。その際、伊賀領国を支配するにあたり、藤堂出雲など重臣を伊賀上野城へ配置した。

そして、二代高次時代の1640(寛永17)年になり、伊賀国の土豪出身の藤堂采女元則を伊賀城代家老に取り立て、伊賀国の采配を任せた。


         家康
         生誕 天文11年12月26日(ユリウス暦1543年1月31日、遡及グレゴリオ暦1543年2月10日)
         死没 元和2年4月17日(グレゴリオ暦1616年6月1日)
  

         藤堂高虎
         生誕 弘治2年1月6日(1556年2月16日)
         死没 寛永7年10月5日(1630年11月9日)


伊賀城代家老藤堂采女家の家臣団構造について:

近世大名家の藩政を支える上級家臣は、藩主から多くの知行を宛行(あてが)われ、家来(直臣)を召し抱えている場合が多かった。それは、上級家臣がもともと土豪・小領主として譜代の家来を召し抱えていたからであり、自身が大名家の家臣に組み込まれることで、譜代の家来がそのまま陪臣として大名に召し抱えられることになったのである。

そして、武家には知行を与えられる代わりに軍役(ぐんやく)が課せられたが、采女家は、藩の規定により、騎上7騎・鉄炮15挺・弓2張・鎗18本、その他若党、道具持ちなどの供廻り31人が課せられた。これらの軍役は家臣によって果たされたわけであるが、一般的に家臣団は侍(知行取)・徒士(かち)・足軽等武家奉公人などの階層に分かれた。

藤堂采女家の場合、1657(明暦3)年の「切米帳」で見ると、侍層として佐脇小左衛門の200石を筆頭にして、50石の渡部与左衛門までの家来19名が記されている。例えば、200石の佐脇少左衛門の場合、その内訳は100石が所知行、残り100石のうち、35石が蔵米として伊賀で渡された。所知行とは、直接に年貢徴収することのできる村落(知行地)を宛行われることであり、おそらくは采女家が知行していた伊賀・伊勢国の村落の一部を宛行われたのであろう。当時、所知行からの収入は、年貢率が「四つ物成(40%)」となっていたから40石ぐらいで、蔵米との合計では75石ほどとなる。ただ、蔵米として渡される分は人によって異なり、50石取りの渡部与左衛門の場合は蔵米だけの支給で、15石であった。

なお、采女家は知行高7000石で、40%に当たる2800石の実収入があったが、こうした侍層の俸禄合計が664石で、約4分の1が侍層の俸禄として使われたのである。


ところで、これら侍層の由緒については、藤堂采女元則の隠居前年の1650(慶安3)年と思われる藤堂監物・四郎右衛門宛ての書状の中で「知行取は19人おり、4人は大坂にて手をもふさぎ申もの」、残り15人が「私取たてのもの」であったという。前者は大坂の陣まで敵方であった者が後に家来となったものと推測されるが、詳細はわからない。また、この書状からは「長門(元則息子)に「一人もちらし申さざるようにかたく申し聞かせたく候」と、代替わりに際して、家来を解雇するのではなく、継続して取り立てられるよう配慮したい旨が述べられている。
 
次に、徒士層と考えられる階層について見ると、禄高は一部を除き10石前後で、その人数は37人ほどであった。これらの階層は、主人の身辺警護や侍層に供奉(ぐぶ)したと考えられる。そのほか、合力米を給された馬医・外科医・坊主など、十数人も抱えられていた。

それに、足軽等の武家奉公人がいた。徒士層以上と足軽層と間に大きな格差があった。武家奉公人は、一年切りでの採用が多く、支配農村(伊勢国では今徳・草生・高座原村など、伊賀国は予野・南・比土村など)からの取立が多かったと言われている。禄高は2〜6石で、道具持ち・草履取り・馬の世話・門番・人足などで軍事の補助や采女家の日常生活に関する職務を担っていた。伊勢国で25人、伊賀国で26人が雇われている。

以上のように、采女家一家に仕える家臣は100人を優に超えていた。こうした多くの陪臣を抱えた上級家臣はほかにもあり、津藩全体となれば相当数の家来がいたことになる。
以上コピペ



采女の前の伊賀城代は【藤堂高清】で高虎の異母弟。元和五年、禄七千石を給されて伊賀上野城々代となる。寛永十七年=1640年=八月十五日、死去。室は仙石権兵衛久秀の女。
          


https://sasakigengo.wixsite.com/takatora/blank-26
【藤堂元則】

[保田氏](左十郎、左助、采女、号・可休)。
父は服部半蔵則直。伊賀国予野庄の領主で、千賀地谷に居を構えていたので千賀地半蔵とも称した。
兄は幕臣・保田甚兵衛則宗。

元則は伯父・保田栄西に養われたので保田氏を称し、伯父・兄と共に郡山城主・増田長盛に仕えた。

                 (増田長盛は関ケ原の戦いでは西軍でも生き延びて
                  結局、大坂夏の陣で豊臣方に寝返って
                  結局、自害させられてますね)

慶長五年の関ケ原の戦いで増田家は没落。

翌六年、板島に於いて高虎に謁し、千五百石を給された。
同十年四月、二百五十石加増され都合千七百五十石となる。
同十一年三月十一日、二百五十石加増され二千石となる。
同年、兄と共に家康に謁し、家康より保田を改姓して藤堂にせよとの命があったので藤堂姓を称した。

              ココですね  家康より保田を藤堂姓に変えたのは


同十四年、丹波篠山城縄張普請、翌十五年、丹波亀山天守普請を勤める。
大坂冬陣には旗本士大将となり鉄砲足軽、大小姓組を率いた。
帰陣後、五百石加増され三千五百石。翌元和元年の夏陣にも旗本士大将を務め隊士三十二騎を率いた。
帰陣後、戦功により千五百石加増、五千石となる。元和六年十二月八日、二千石加増され七千石となり、高一万三千石の隊士六十人を預かり、隊士共で二万石。

寛永七年十一月二十八日、藩主・高次の襲封の際、江戸城に於いて他の老臣と共に将軍・家光に拝謁し御礼の品を献じた。
同十七年七月、生駒家騒動による幕府公裁の席に派遣される。
また同年、津城代となったが、八月に死去した【出雲高清】の後任として伊賀上野城代を命じられ、

                                  ココで伊賀上野城代

九月、領国に下り津丸ノ内の屋敷と久留島町の中屋敷を引き払い、十月に着任。

慶安三年十月二十七日、保田外記を使者として致仕を願い許された。
翌四年一月末日、国務を子・長門に譲り、致仕。
茶料として米千俵を与えられた。
万治三年五月二十四日、死去。

室は佐伯権之助惟定の女。子孫は明治期まで概ね伊賀上野城代職を務めた。

       奥さんが佐伯権之助惟定の娘ということは元々は豊後佐伯氏ですね
       初めは厳島神社の安芸佐伯氏同様に平家方だったけど・・・
       
       弟の子孫が 緒方洪庵  だそうです。  



三つ柏さん

豊臣秀長は秀吉の異父弟で
この人が長生きしてたら秀吉は暴走しなかったろう
と言われていた温厚で実務の出来る人物でした。

1981年の「おんな太閤記」では中村雅俊が演じました。西田敏行が秀吉役でした。
2人ともワタシの夫の大好きな日本の俳優です。

   でもあれから40年
   今日見た「ウチの娘は、彼氏ができない‼」で  40年という時代の経過の残酷さにビックリ仰天しました。70歳だものね。
[31]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月17日 12時55分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 藤堂高虎が、いわゆる伊賀忍者を統括して行く立場になったのは、慶長13
年に伊賀、伊勢安濃津・一志郡、伊予越智郡に転封を命じられてからでありま
す。
 それまでの行動の中で、高虎と忍者の関係の話はあまり伝わってこないのが、
逆につながりが大いにあったことの裏返しと私は推察いたしております。
 今、できる限りの情報を収集しておりますが、やはり多賀大社を詳しく調べ
てみたいと考えています──
 
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月17日 14時46分30秒 ) パスワード

三つ柏さん


>高虎と忍者の関係の話はあまり伝わってこないのが、逆につながりが大いにあったことの裏返しと私は推察いたしております。

藤堂高虎は伊賀忍者に命じ、58カ国、148城を密かに忍ばせ、要害図を盗写させ、
伊賀上野城を家康の大坂攻めの基地として
慶長16年(1611)から大改修をスタートさせたという伝承が残っているそうです。


ということで  保田采女元則が  この盗写に関わっていたのでしょうね。
それで家康が保田采女元則を伊賀の守りとするために藤堂姓を与えたのでしょう。



伊賀上野はもともとド田舎だったのですが
筒井順慶の息子の定次が大坂を守るために最適な地として城を築いた場所です。

        秀吉が大和国を弟の秀長に守らせたかったので
大和国の代わりに筒井定次は伊賀をもらったのでした。


        その後  事件が起きて定次に愛想の尽きた島左近が石田三成の元に去ったり
        この事件の元となった人物が家康と裏取引をして定次を陥れ定次は改易され

伊賀上野を大坂攻めの拠点としたい家康が信任厚い藤堂高虎に任せたのでした。


        筒井定次は父・順慶の   秀吉 vs 明智光秀  の関係から大坂方ですし
        伊賀上野に城を築いたのは大坂を守るためだったし
        つまり定次は家康からは好まれていなかったのでしょうね。


というようなことから  保田采女則元   が何故藤堂姓を与えられ伊賀上野城の城代になったか   ちょっとは繋がりましたか?
[33]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月17日 23時57分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。高虎と光秀をつなげようとしていろいろ調べてみま
したが、1570年の姉川の戦いで、光秀、信長、秀吉、家康、高虎は戦場で
出会っているはずであります。その時、それぞれの年齢は──
 光秀:55歳(明智憲三郎氏の説に基づく)
 信長:37歳
 秀吉:34歳
 家康:29歳
   VS.
 高虎:15歳(信長の敵方、浅井の家臣)
でありました。
 1582年の本能寺の変の12年前のことであります。この年齢を考えると、
明智光秀と藤堂高虎とは40歳も違うし、両者の接点がその後あったとはあま
り考えられないけれど、強いて言えば、多賀大社・多賀氏を経由して、情報は
つながっていたという可能性はあります。
 それよりも、家康と高虎のその後の接点はいくつかあり、両者の息はそのた
びに益々ピッタリと合って行くのであります。ここにこそ、多賀─甲賀・伊賀
の山伏・忍者の情報ルートが、この両者を底通させていたと推論するの根拠め
いたものがあります。
 表の世界では見られない裏の世界・闇の世界──そこを知りたい……。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月18日 02時49分55秒 ) パスワード

三つ柏さん

>表の世界では見られない裏の世界・闇の世界──そこを知りたい……。

これは楽しい世界ですよね。


高虎は  世の中が大きく動いて   自分は縛られない そして  自分の力を試してみたい
そういう大きな「夢」を持つ若者には飛び出していく機会でした。
もしかすると犬死にするかも知れないけど
だけど  やるべき機会だ  と思えた者は  自分の才覚1つを頼りに  大きな世界に飛び出して行ったわけです。


    ま、秀吉が日本史に於けるトップでしょうね。

最初は多賀神社あたりにウロウロして   神社や寺では限界が小さ過ぎる!と気付いて
次に
近江国では浅井長政か!と気付いて浅井家の家中で自分が仕えるべき人を捜して

そして信長が浅井を斃し
秀吉に共感し憧れ

藤堂高虎という人は  小さな村出身でも天下を取れる  というのが分かって
だったらどうしたら良いのか
一生懸命智慧を絞り出した人だと思います。


だけど秀吉が病弱になって  次は誰が天下を動かすんだろう  と考えた時に
武将達からはバカにされてるけど官僚石田三成のように頭脳で勝負すれば良いのか
ということで  自分は多賀神社の山伏や甲賀や伊賀の人間を使えば良いのか
って気付いていったんでしょうね。

    こういう時に島左近とか  石田三成とか大谷刑部とか  の生き方も反面教師になったかもね。
    自分は  感情には支配されない  たとえ他の武将からバカにされても、と。


もし藤堂高虎が現代に生きてたら  ベソスとかイーロン・マスクとか  ああいう人間になっていたのかも。

日本だったら機を見るに敏だった三木谷みたいにアメリカの真似を日本で成功させた人物にはなったのかな?
   

などと  わたしはソッチ方向に空想が行ってしまいます。
こーゆー  どーでも良い連想が好きです。


三河の一向一揆の本は
全く先に進めない

いたんですよ  あそこに出て来る地名の場所とかお寺さんの近くとか英雄達の家の近所に。

だけど  (あの古っるぅ〜いボッコちいお寺?)  などと思い出して先にすすめない。
三河の親戚も  まさに  出て来る地名のほんのX隣を支配してたりしました。


で、逆に心象風景が生まれないのです。まだ情報収集の段階。
英雄達の心境に入り込めない。

     やっぱりわたしは尾張人なのかなと思います。


まだ高虎の心境の方が身近です。
なんでかな?
尾張南西部のわたしにすると近江の方が心理的に共感するのかな?


同じ近江の滝川一益は嫌いですね。

服部友貞が永禄11年正月北畠に挨拶に行った時  滝川一益の謀略で伊勢の米野山陰涼庵にて自害し
その奥方は7月に亡くなって

下神戸城主は家長の16世孫の服部主膳宗重で・・・

その後  伊賀が高虎の国になって  伊賀衆は上野城下に一括して居住せしめられ

     この藤堂高虎の家来の服部家の皆さんの家紋は
     関市で「丸に切り竹」
     松阪で「源氏車に並び切り竹」
     菰野藩では「丸に剣菱」
              と書かれていて

伊賀の服部源左衛門家透は京都醍醐寺の坊官飯田純盛に仕えて飯田の氏号を許され

などとハナシが飛んで行くので   高虎がどんどん他人になって行きます。


でもやっぱり  伊賀上野城代の采女は服部家の出だと思うと
大昔の知り合いの藤堂家の家老の子孫の男の子とワタシは高虎が結んだ宿命の関係だったんだな
と思います。


平将門事件以来  10世紀ですよ  それ以来  彼の父方母方で  わたしは宿命を共にしている。

江戸時代に木曽3川で阻まれて  昭和の時代には100%知らない関係だったのに  
ひょんなことから出会って   何重にも血を共にしてたのを知る。  
高虎のお蔭だね。  


日本
すごいぜ!
これが日本人なんだね。


わたしは高虎を風見鶏とは思いたくないのよね、機を見るに敏な武将、です。
清正とか正則のような豪傑じゃないし
三成のような能吏でもない

高虎は三つ柏さんがお書きのような「裏の世界・闇の世界」を支配する人物だったのかもね。
その実行部隊の隊長が  服部保田采女元則だった  ということかな?
[35]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月18日 11時50分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 藤堂氏も三井氏も多賀氏も、実はルーツははっきりしていないのが本当の
ところのようです。ただ、犬神郡藤堂村は平安時代には甲良莊で、秦氏が勢
力を誇っていたので、秦氏と関係する可能性は高いと思われます。
 秦氏は鉱山開発、土木事業は得意、そしていわゆる"忍術のルーツ"的存在
でもあった。高虎も生野銀山開発、築城、そして伊賀忍者の統括……と、秦
氏のような活躍をしている。というか、高虎の下に秦氏系の人々がついてい
たと解釈できるのではないかと思います。秦氏系を中心とした渡来系といっ
た方がいいのかも知れません──

 
 

 
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月19日 11時35分46秒 ) パスワード

三つ柏さん

秦氏はどこに消えたのでしょうね?
     

奈良に大仏を作って
その時の鉱毒で  当時の知識では呪いとか怨霊とかで  平安京を作って引っ越して
京都の神社仏閣に足跡を残して
日本史から忽然と消えた。


ワタシが考えられるのは
藤原一族が日本各地を支配して
その時に一緒について行って日本中に分散したものの
地方藤原氏の使用人として吸収されたのかな?


実際には日本じゃ米作りの方が必要だったろうから
鉱山で働かされるのは奴隷レベルだったのかな?機会があれば逃散だろうし。


これが戦国時代になると鉱山開発が活発化して有力者が鉱山技術者を求めて
彼らの居場所が出来るようんいなったのかな?


取り敢えず  
   米
   米のための土地収奪合戦
   その為の武器製造のための鉱山開発
こんな流れなのかな?


古代日本の鉱物の歴史というと大仏関係と奥州の金あたりしか浮かばない。
結局貨幣だって中国から貰ってたんだし。


秦氏が消えたというのは  鉱脈の枯渇で  必要とされなくなったから?


いろいろゴチャゴチャ空想してみたけど   秦氏が消えた理由とどこに消えたかは  謎  のヒトコトです。


ここは静岡県知事にお訊ねするのが一番かと。
[37]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月20日 15時24分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 秦氏の話題となると、急に焦点がおぼろげなるものに化けてしまいます。
 近江に秦氏が多かったという一つの証拠としては、多賀や甲良の隣に秦荘が
あり、その名の通り秦氏が住んでいたことは間違いありません。
 土木技術が得意であれば、必ず秦氏である─とは必ずしも言えませんが、い
ずれにしても近江には渡来系の民、そして各種の技術者がいたことは確かであ
ります。
 
 明智光秀、藤堂高虎とも築城、土木工事が得意であったということは何を表
すのか、それは渡来系の人々を使うことができたということであります。
  西近江比叡山の麓の坂本には穴太衆がおり、光秀は1571年より坂本城
の築城を開始した訳ですが、この穴太衆を使って城の石垣を築いたということ
であります。
 藤堂高虎は、信長・光秀が亡くなってからの時代に城を築いております。
 1585年の和歌山城をかわきりに、全部で13の城の築城に関わっており
ます。もちろん城の石垣の構築は、穴太衆の流れであったと推察いたします。

 穴太衆についての情報はあまりないので、今後も調べて行きたいとは思って
おります。

 秦荘町というのは、以前、名神高速道路を通ると看板でわかりましたが、今、
地図を探してみても載っておりません。今から15年前に隣の愛知川町と合併
して、愛莊町となったということであります。
 地名も歴史を表す"かけら"でありますが、こうして歴史の"かけら"達は、合
理化というかけ声の下、無情にも吹き飛ばされ消えて行きます──
 
[38]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月21日 22時25分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 藤堂高虎も多賀氏も深い謎が秘められていると思うのですが、なかなかそ
の秘密を探り当てることができません。たぶんもっと深いところに謎は潜ん
でいるのでしょう。それはどこかと言えば、多分、多賀大社別当寺の「不動
院」がその中心ではないかと推察しております。

 光秀の子・僧玄琳の喜多村弥平兵衛にあてた手紙の中に、喜多村出羽守の
次男は敏満寺の住職で、多賀別当を兼ねると書いてあります。この多賀別当
とは、多賀大社を支配する者─即ち不動院でありその長であるということで
はないでしょぅか。
 つまり、この喜多村出羽守の次男は、修験道と甲賀・伊賀の両方の情報の
中心にいて、それを司っていたということになります。
 この次男は、光秀の妻と兄妹となりますので、光秀にはいろいろな情報が、
ほぼリアルタイム(その時代としては)で入っていたかも知れません。
 この不動院を詳しく知ることができれば、新たな展開が広がって来ると思
うのですが、なかなか奥底の情報は手に入らない……。

 喜多村出羽守については、徳川家康が手紙を出していると明智憲三郎氏の
『光秀からの遺言』には書かれておりますので、実在の人間であると思われ
ます。ならば、どこかの史料に書かれていてもいいはず……。
 いよいよ近江へ行って探してみなくてはいけないか──
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月22日 02時25分57秒 ) パスワード

三つ柏さん

まだヨソの県にお邪魔しに行ってはいけませんよぉ〜

ウズウズして落ち着かないでしょうけど。


ワタクシが思う  秦氏  は
よく分かりませんが  飛鳥から奈良時代にかけては  僧・行基  が最高の人物です。

この人の伝説って日本各地にあって土木系工事をやったって言われていて
この行基集団が  古代百済系秦氏  の末裔なんじゃないかなと。


石工集団の穴太衆は戦国時代に活躍しますが

その前の時代の城は  まさに  土から成る  のが城なわけで
法隆寺とか東大寺とか  その後  比叡山とか高野山など お寺建設から 少しずつ  石を使った技術が発展していって
戦国時代の末期に石垣のしっかりした城に発展して行ったのだろうと


やっぱり  畿内から  秦氏が  と始まりについては思い
そして
戦国時代に穴太衆が出て来るまで  秦氏は  長い長い雌伏の世紀を送ってたのかなと。


ハワイの土木工事のお粗末さを見ていると  1000年は下積みしろ  って思います。
とはいえ
大林組さえ今では土木技術が途切れた  って最近ニュースで見ました。
戦国時代の城づくりが最高水準の情けない国になっている?


    平安時代とか鎌倉時代の土木技術は  庭つくり  に精を出してましたよね
    日本の土木技術  紆余曲折してるんだな  って思います。


        日本のタワマンのお粗末さを知るにつけて
        うちもタワマンなので  オソロシイ  です。

        なんせ建設実行部隊員はハワイの兄ちゃん達だし
        施主と施工主は  ○人とX人で   コレ  知ってたら  こんなタワマン  買わなかったな〜  です。

             ゴジラ
             来ないで欲しい。
             シッポでぶっ飛ばされたくないよぉ〜
[40]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月22日 14時25分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 喜多村出羽守が実在したということはフェイクではないと思われる。そして
光秀の妻の一人として喜多村出羽守の娘が入ったということも事実であると思
われます。
 本能寺の変のおよそ200年後に作成された『柳営婦女伝』と『寛政重修諸
家譜』に、このことは初めて書かれている。
 これは、光秀と服部氏の関係が表に出ても、世の中がひっくり返ることはな
い安定した時代になったということで、家康と光秀が服部氏を通じて関係して
いたことを、あえて世に出した。つまり、明智光秀と徳川家康のリンクを世の
中に公言した(光秀の名誉回復)のだと推察いたします──
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月23日 07時54分19秒 ) パスワード

三つ柏さん

https://rekishi-haken.com/saitoutoshimitsu/
斎藤利三は明智光秀の家臣で

     親戚関係?!


一部コピペ
全文はURLへ

     ブログ主さん  無断コピペ  ごめんなさい



斎藤利三の出自ははっきりしていませんが、1534年頃、美濃斎藤氏の一族に生まれます。
父親は斎藤利賢であり、母親はその正妻で室町幕府政所執事代の蜷川親順の娘だと言われていますが、
明智光秀の妹の子ではないかという説もあります。

                        ココですね


                        *蜷川親順って蜷川新右衛門さんの子孫かしらね
                         プロレスラーの武蔵がご子孫とかの
                         蜷川新右衛門さんって  「一休さん」に出て来る人物


実兄・石谷頼辰は室町幕府の奉公衆であり、
若き日の斎藤利三も兄と同じく奉公衆として幕府に出仕していました。

後の主君・明智光秀も奉公衆出身であるので、この頃から2人には面識があったと考えられています。


                       だと思う

都では三好氏の家臣であった松山新介に仕えますが、その後故郷美濃に戻り、稲葉山城主・斎藤義龍に仕えます。

斎藤義龍が1561年に病死して後をその子・斎藤龍興が継ぐと、1567年に斉藤道三の頃からの重臣で西美濃三人衆にも数えられる稲葉一鉄が織田信長の下へと離反します。
そして、稲葉一鉄の娘を後妻に迎えており縁戚関係にあった斎藤利三も、これに従います。
稲葉一鉄は織田信長の家臣となったため、斎藤利三もそれに順じて織田信長の配下に入りました。


1570年、浅井長政の裏切りに会った織田信長が金ヶ崎の戦いで退却すると、斎藤利三はその警護を務めています。
しかし、元々斎藤利三は稲葉家では冷遇されていたようで、その後間も無く稲葉一鉄と仲違いし、彼の元を逃げ出してしまいます。


明智光秀の家臣となる

主君を失った斎藤利三は、明智光秀を頼ります。
斎藤利三の父の後妻は、明智光秀の叔母であり、縁戚関係にありました。

                      だと思う

また前途したように、斎藤利三の母は明智光秀の妹であるとも言われており、どちらにせよ血の繋がりがあったために彼を頼ったのだと思われます。

                      だと思う


ここでは大いに重用され、明智秀満と並んで筆頭家老となります。
史料には明確な記録が残っていませんが、明智光秀に従って、石山本願寺との戦いや、雑賀攻め、丹波攻略のための黒井城の戦いなど、主要な戦のほとんどに参加していたと考えられます。

明智光秀が1580年に丹波平定を成し遂げると、斎藤利三も1万石を与えられた上、黒井城主となり丹波国氷上郡の統治を命じられました。

                       ココで春日局が生まれるわけだ




わたしは光秀と利三は遠縁だろうと思っています。

光秀は土岐の一族で
利三は美濃の名家の斎藤家の出だし。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月23日 08時26分52秒 ) パスワード

三つ柏さん

いまだに  丸に三つ柏紋の旗本の服部家  が特定出来ていません。
なんで丸に三つ柏紋なんだ?

      何年も前に医家の服部家はありましたよね
      でも家紋は柏に蔓がついてましたよね
      だから  ちょっと  違う。



ということで
岸本良信公式ホームページ
藩士と幕臣の名簿 幕府(幕臣・旗本・御家人)

『徳川幕府大名旗本役職武鑑』全4巻 渡辺一郎編 柏書房 1967年 『改訂増補 大武鑑』全3巻
橋本博編 名著刊行会 1965年
昭和10年(1935)刊行の大洽社版全5巻は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能。

                見られると良いですね


ということで

幕府(幕臣・旗本・御家人)
https://www.kishimotoyoshinobu.com/%E5%B9%95%E5%BA%9C%EF%BC%88%E5%B9%95%E8%87%A3%E3%83%BB%E6%97%97%E6%9C%AC%E3%83%BB%E5%BE%A1%E5%AE%B6%E4%BA%BA%EF%BC%89/

服部(清和源氏) 服部(源氏) 服部(平) 服部(藤原) 服部(服部) 服部 

各種取り揃ってる・・・・汗  いや  各氏 取り揃ってる  と書くべきか


______________________________________


北村家の家紋より

https://folklore2017.com/kamon/kamon2/0223.htm


B 北村さん家紋各種@滋賀県野洲市野洲町北/清和源氏義重流大館氏族、藤原氏族、宇多源氏佐々木氏族:
「片喰」「丸に剣片喰」「八重片喰」「丸に二つ剣片喰」「丸に隅立て井筒」「丸に隅立て四つ目」「丸に違い鷹の羽」「丸に梅鉢」「左三つ巴」「丸に五三桐」「丸に立ち沢瀉」「丸に三つ柏」「丸に折れ柏」「丸に抱き茗荷」「蔦」「三つ桧扇」



C 北村さん家紋各種@三重県伊賀市中柘植/桓武平氏貞季流柘植氏族: 
「丸に二つ引」「隅切り角に二つ引」「右三つ巴」「左三つ巴」「七曜」「丸に釘貫」「笹入り釘貫」

※ 後白河院の北面の武士の柘植宗清の三男の俊忠が北村氏を称した。


ということで

服部季宗  −− 柘植宗清  −−  日置家清(反頼朝) −−子供が3人いて  

柘植家俊と
福地清春と
北村俊忠で  


長男の柘植家俊の家に予野の千賀地の服部家から養子の宗保(=清正)が来て孫が5人:

山川宗政
柘植宗成   で  室町時代に観阿弥・世阿弥を出す
西川正俊
松尾宗広   で  福地姓から松尾姓になった子孫で有名人が  芭蕉
北川清俊


こんな感じ。

http://kisetsumimiyori.com/matsuo/
からコピペ:

松尾芭蕉は名前と同じ「芭蕉紋」を使用していました。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月23日 08時40分48秒 ) パスワード

光秀が天海大僧正だったというハナシ

わたしは光秀本人というより一族の誰かだろうな
と思っているけど

ひょっとすると伏屋姫の叔父になる江州敏満寺住職であり多賀別當でもある傳廓大僧正かな?と。         

       家康を納得させるだけの知識と教養を身につけた人
       ということで。

       家康は今川家の軍師だった太原雪斎和尚のような人物を欲しがっていただろうから。


それで井伊直政が彦根城主になっていったんじゃないかなと。


なんか  すっごく  空想が空想を呼んで   夢は青空を駆け巡る  って感じです。
あはっ

                    
[44]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月23日 13時54分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 戦国時代にとって必要不可欠なのは、金と鉄と情報。なかんずく、情報は活
かしようによっては、金や鉄よりも役に立つ一番手である。

 ということで、戦国時代を俯瞰してみると、すべてが情報(諜報)の"流れ"で
あることがわかる。
 @修験の流れ
 A猿楽の流れ
 B忍術の流れ
 C連歌の流れ
 D茶の流れ

 さらに言えば、戦国後は、剣の指南・新陰流の流れが主流となる。

 いずれにしても、情報を秘密裏に的確に早く入手することが一番。
 逆に偽情報により、混乱させたり陽動したりすること。
 これこそが勝つための戦術。
 戦術は、武から智へと進化して行く──

 
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月23日 15時51分09秒 ) パスワード

三つ柏さん

>戦術は、武から智へと進化して行く

はい
戦術は、武から智へと進化して行き、戦略と成す
かな?

       最終的に  大局で勝たないと  意味が無いですからね。

       例えば
       日本で超有名な戦術家は  義経  
       しかし  日本で超有名な戦略家は  頼朝
           だから日本人は頼朝がキライ
           笑
           
               このアホ丸出しの日本人の感覚が太平洋戦争の敗因でもあるわけだ
               奇襲で初戦に勝っても  その後  ボロ負けの連続じゃあなぁ


                    日本のバブルとバーストも同じ轍だった
                    バブルに沸いてた日本は結局はBIS規制の勝手解釈で世界中から嫌われ叩き出された
                        アメリカで残れたのは三菱と静岡とどこやらと日本政策投資銀行あたりだったのを見てた
                        住友も最低価格で身売りして出て行った

                    大和銀行ニューヨーク支店巨額損失事件も大蔵省のスンバラスィご指導もあり(嗤)
                    アメリカを怒らせ叩き出された
                    民主党政権なんて ただでさえ  日本が大嫌いなのに


               小手先の勝ちなんて意味無いというのが日本(政府)は分からない


                    バカ話を1つ書いてしまう
                    北海道拓殖銀行がヤバイってハナシを拓銀のエライ人の奥様がロスに来た時に
                    「撤退の片付け、大変ね」と言ってチョー激怒されたから
                    「え?拓銀の始末に来たんでしょ?」 (笑)

                         同業他行なんだから相身互いなのにサ 
                         ウチだって聞いたことも無いド田舎の零細金融機関に身売りしてるんだからサ  

                         あの奥様にしてみれば 拓銀は TOO BIG TO FAIL のつもりだったんでしょうね               


バブルがはじけて 茹で蛙と呼ばれてた日本は  30年後の今  どうなったんでしょうね  喰い散らかされた姿?

アメリカはリーマンショック後  STEM教育という戦略で  立ち戻ろうとしています。STEAM教育  とも言います。
Sサイエンス+Tテクノロジー+Eエンジニアリング+Aアート+Mマテマティックスが中心の教育のことです。

                      こんな戦略  今頃気付いて  遅過ぎ?
                      中米IT戦争の行方はどうなるんでしょう?                           
                 
天海僧正って  傳廓大僧正  をもっと易しい発音と漢字表現にした名なのかな?  と思います。


家康は頼朝を研究し尽くしたでしょうね。
その研究成果が大久保長安家への粛清でしょうか?
「一罰百戒」というのですね  大久保長安の子供達への始末を見て諸大名は縮み上がったでしょうね。


生まれ変わったら  次は大局を見据えた戦略家になろうと思っています。
今から人生をやり直すのはメンドクサイから。
あはは
[46]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月24日 10時42分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 興味深いお話、ありがとうございます。
 最近つくづく感じるのは、一時期日本がライジングサンのごとく褒めそやさ
れた時期がありましたが、それも幻想になってしまった。特に原発事故の発生
や、外交(特にC)・経済・科学・教育・医療(特にC)等、我が国の欠陥・暗愚部
分を、いやという程見せつけられている。
 それにはいろいろな理由と原因かあるとは思いますが、でもこれからは正に
政治家一人一人が、そして国民一人一人が、国家的危機管理意識を持ち、より
良い未来に向けて考え、行動して行くことが必要と再認識いております。愚弄
政治、そして衆愚からの脱却であります……。

 戦国時代において天下を取るということ、信長、秀吉、家康は天下奪取の目
的とその後のビジョンをどんな風に描いていたのでしょぅか……まずは、戦乱
のない安寧の世の中を求めていたことは間違いないことでありましょぅ。それ
がとりあえずの最終点、それからのことはそれからということだったかも知れ
ません。家康の場合は、天下を掌握し、矢継ぎ早に政策を構じて250年以上
にわたって日本を治めたということ、国家を治める機構に対するビジョンは持
っていた。良かったか悪かったかは別として、いずれこのことについては分析
してみたいと思います──
 
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月24日 15時52分57秒 ) パスワード

三つ柏さん

「青天を衝け」の第2話は見ててツライものがありました。
血洗い村は6月の一番の忙しい時期に岡部藩の殿様のお乗り出しに労役と御用金を課せられ

    ま、命令したお代官さまは中間管理職で彼は彼なりに難しい立場なんでしょうけど
    高圧的態度で命令してましたね。農民にはすごい負担ですよね。

    どんな組織も、腐る、ってのでしょうか?


あれを見てて
「日本じゃ  革命は起きないな」
と思いました。

    あのシーン、アメリカじゃ(独立戦争、今は)暴動だしフランスだったら革命事案ですよ。 

中世があった日本、封建制度のあった日本、近世になっても鎖国をやってるからアレで通ったんだろうな、と。
日本のシモジモ悲し過ぎる
と、とても見てはいられませんでした。

お上には逆らえない  逆らったら命を失う  じゃ、どうするか?  従うより他に選択肢は無い。

国の成り立ちが違うなぁ
と見てました。

アメリカじゃ18世紀末に「代表無くして課税無し」No Taxation Without Representation だけど
日本は「苛斂誅求にノーと言えないシモジモ」だものね。


それでつくづく日本ってシモジモは置き去りだなと。

神社仏閣石垣のお城は立派なのに庶民はどんな家に住んでた?

傳廓大僧正が計7万石を支配してたことを考えると   (西尾や岡崎で6万石)  すごい力を持った人だったんだなと。
この人は父親より力を持っていたのかもですね。
敏満寺と多賀神社で、どんな城砦化した住まいだったんでしょうね。


一般日本人がどんな民家に住んでたかと思うと
永きに亘って  掘立柱建物で  
江戸の町人達がやっと  近世後期に  礎石柱建物だから
シモジモの暮らしはどんなに貧しかったか。


            住居のハナシになるとどこやらの国では穴に住んでると言い放った日本の政治家がいましたが
            日本人もたいした家に住んでなんか来てないじゃないか


支配層とシモジモの差が余りにも乖離してやしませんか?


大河ドラマについて
やっぱり戦国時代というのは安心して見ていられる(今の暮らしから余りにも遠い時代だから)
でも
幕末とか明治時代って  太平洋戦争での大敗北があって後に我々が生まれたから  逆に嫌悪感を持って見てしまう。ひどい時代だな、と。


戦国時代とかだと正妻と側室がたくさんいても疑問にも思わず見ていられるのに
渋沢栄一の場合は妻妾同居は無かった演出なのかな? 


「麒麟がくる」と「青天を衝け」の時代が余りにも違うので   とまどっています。

でも「麒麟がくる」の「麒麟」と琉球の「白澤=ハクタク」を比べると
琉球のハクタクの話の方が良いと思います。

ハクタクは病気や災いをもたらすマジムを退治する神の使いで誰も見たことの無い幻の動物。

牛の体に人の顔  顎鬚があって  目が3つで  カラダにも目が6つあって
額に2本  カラダに4本の角が生えてて
その絵を描いて持っていると来てくれて国を救ってくれるということで
某王様がその絵を描いて欲しいけど誰も見たことが無いから画けない。

それでその王様はハクタクが来て国を救ってくれるようにと善政を敷くのです。


こんなハナシだったような記憶。


なので「麒麟がくる」の最終回は余りにも中途半端でヲイヲイでした。不完全燃焼でした。
琉球の「ハクタク」のハナシの王様の方がよっぽどか優れてるじゃないか、と。

「麒麟がくる」の最終回の  細川藤孝が裏切ってたどんでん返し  が一番面白かったかも。この部分のみが今でもハッキリ記憶に残ってるから。
[48]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月25日 10時06分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 戦国時代の近畿地方の地図が欲しいものであります。地名・道が分かれば、
人の動きがビビットに想像できるからであります。もちろん今の地図でも、何
とか想像はできます。

 例えば、伊賀上野から柳生までは、笠木経由で約20q、予野・千賀地から
柳生までは月ヶ瀬経由で約15qであります。
 15q(山道)というのは、私でも4時間、昔の人の健脚なら3時間、走れば
2時間、鍛えられた忍者なら1時間で走り切ってしまうでしょう。
 つまり、柳生と伊賀─特に予野千賀地とは、隣村くらいの感覚、例えば、北
伊賀と甲賀のように近かった─という認識に修正した方がいいと思います。

 柳生は笠置(山)の南およそ2〜3qに位置します。南北朝時代の笠置山での
幕開けから、柳生家は後醍醐天皇・楠木氏側に加勢しているけれど、地勢(笠置
山)から言って、加勢というより中枢・首謀勢力に近かったのではないか、そん
な気がします。
 そして、伊賀からは、おおよそ1000人のいわゆる伊賀衆(忍者含む)が、
楠木氏側に加勢して来る。楠氏と服部氏の縁・関係というものが以前より培わ
れていた。そして伊賀平氏と柳生菅原氏と散所・山の民の敗者復活への絶好機
だったのかも知れない。

 敗者復活戦の構図は、日本の歴史の停留にあり、時代によって幾度も繰り返
される。そのルーツは、古代の出雲帝国にあるのかも知れない──
[49]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月25日 10時56分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:停留→底流
    出雲帝国→出雲王国
[50]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月25日 13時57分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 忍術の流れは、武から智へ変遷していきます。
 それは──
 服部半蔵 → 藤堂高虎(その下に藤堂采女) → 柳生宗矩
の流れでもあります。
 服部と柳生、明智と柳生の具体的なエピソードはありませんが、関係してい
ることは間違いないと推察いたします。

 天海─春日局─家光─柳生宗矩─沢庵和尚─土岐?行……このライン、どう
も「明智」の糸でつながっているように思われます! 土岐?行は明智定政と
鳥居元忠の娘との間にできた土岐定義の子であります。宗矩は柳生一族の流れ
にあります。沢庵は、宗矩との関係が深い。また紫衣事件での天海の擁護があ
ったということ。その配流先が土岐?行の出羽上山藩であったのは、何か出来
過ぎのような感じもする(ここへは先年、旅行に行ってきました)──
[51]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月25日 14時02分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 前レスで「土岐頼行」と書いたつもりが、「頼(より)」が「?」になって
おりました。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月25日 14時33分13秒 ) パスワード

三つ柏さん

旧日本国の各地の地図は、当然、各行政が持っているから
旧藩に相当する各県立とか市立図書館にはあるでしょうね。

ただネットで公開してるかどうかは
ムリかも。


国立図書館なら持っていそうですよね。
こういう時、東京に住んでる人ってラッキーだなと思います。


>古代の出雲<帝国>

良いネーミングと思います。



わたしは方向音痴だから   山火事のニュースで  「栃木県足利市の山が燃えてる」  という話が  (あれ?)  でした。

そうか、新田さんの太田は群馬か、と。で、群馬と栃木  どっちが右?  レベルです。

        渡良瀬川を挟んで隣同士で  水争いしてた   という記憶はあるけど。


土地勘が無いと距離感が分からないですね。

わたしは  信楽と伊賀が近いこと  柳生の里と伊賀が近いこと  こういうことを結婚してから知りました。


三つ柏さんはライフワークが出来てラッキーですね  でも  コロナで遠出できないのが残念っ!
早くアチコチ行けると良いですね!
[53]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月26日 14時22分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 歴史探究は金工堀りのようなもの。見込んだら根気強く掘削しつづけること。
鉱脈は無限に存在する。必ずや、その内、金脈に到達するであろうと、楽観的
に捉えて根気強く続けること!
 時々、方向性を失って立ち止まってしまいますが、かならずやまた前に進む
ことができます。
 ──これが最近の私の感慨です。

 明智光秀にこだわるようですが、やはり服部家と明智家をつなぐ底流が流れ
ているように感じています。
 服部保長が足利義晴に仕えていたということ。あるいは、服部中保次が義輝
に仕えていたということ。この足利氏との関係により、同じく足利氏の奉公衆
であった明智家との関係もできたと推察しています。
 詳しくは、また──
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月26日 15時33分58秒 ) パスワード

三つ柏さん

わたしも光秀と服部氏は足利幕府時代に(光秀の父親の代から)知り合ってたと思います。

    
信長とか秀吉とか家康とかは  足利幕府?何だ、それ  だったんじゃないかな?
そもそも北朝方と関係無いし   足利幕府の中での地位は無かったし。

でも信長や秀吉は   家康より古いな  と思います。
理由は  京都=天皇=に近い所で日本を支配しようとしたから。


家康は頼朝に習って  京都=天皇+朝廷  からは物理的に離れている方が良いな
と学習したのではないかな?


        天皇や上皇や法皇に近いと
        彼らが政治を執りたがるから
        
        特に白河や鳥羽や崇徳や後白河が政治をやりたがった結果
        保元の乱や平治の乱が起き さらには  治承・寿永の乱も起き
        後白河に抱き込まれた義経は頼朝に滅ぼされた

        だから頼朝は後白河上皇の院政に巻き込まれないように鎌倉に幕府を開いて距離をとった

        

        家康が更に学習したことは
        足利幕府が京都で花の御所やってたのを  やっぱり  京都に近いのはマズイな
        と。
        京都と関わるとろくでもない最期を迎えるな、と。

        
決定的だったのは光秀が足利義昭を将軍に戻したかったこと。
家康には光秀の「反動」には  アホか コイツ、古いな と思ったのじゃないかな?


家康は  先達のしくじり をじっくり研究したんじゃないかな?


__________________________________

コロナでお金がかかってしょうがない現実。

バイデンは早速シリアの親イラン反米集団エリアに爆撃を開始   とか?
就任1か月で?
ハッヤァ〜
[55]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月28日 00時19分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今年は花粉症が去年よりひどく、鼻水が「五月雨」状態で、つい明智光秀を
思い出してしまいます。

 明智光秀と朽木谷との関係、つまり朽木氏との関係、朽木氏は稲葉氏や春日
局とつながってくるので興味深い。

 以前、朽木君という男性を会社で採用したこともあり、何か得体の知れない
雰囲気をこの名前に感じています。

 朽木谷の朽木氏のもとに、足利義晴がかくまわれていたりするので、服部保
長も訪れた可能性があります。

 いずれにしても、応仁の乱とその後のことを今勉強し直しております──
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月28日 01時54分36秒 ) パスワード

三つ柏さん

今週は毎日大風で天気予報は雨で  降水確率79%とか44%とか   フツーだったら  降る  と思いますが
パラッと来て虹が出て  それでおしまいで
濡れずに帰宅出来て非常にラッキーだったのですが

今朝は4時あたりに大雨で

朝、目が醒めた時から耳詰まり。丁度飛行機に乗っててなる飛行性中耳炎状態。
それで耳抜きをしたら   鼻水が・・・  洟垂れ小僧状態・・・

早速 「コロナ 初期症状 耳詰まり」 で検索したところ 
Coronavirus (COVID-19) symptoms   Less common symptoms 欄にも載って無かったので  安心!

恐らく  気圧の関係でしょう   と理系墜落寸前のわたくしの診断であります。



朽木氏は確かに佐々木系ですから!!!光秀とおおいに引っ張り合いがあったと思います。

「麒麟がくる」では全く取り上げていませんでしたが
ときおさんから教えて頂いた情報で  光秀は田中城で世話になって医薬の勉強をした  というのが   あった記憶(おぼろげになってる  ごめん  ときおさん)

「麒麟がくる」では光秀のこの部分は100%無視されてましたが


朽木氏を検索したところ
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kutuki.html?vm=r

(平家の残党が殺した佐佐木)秀義の嫡男は定綱で、
その子信綱は所領を四子に分割、
   長男重綱は坂田郡大原庄を、
   次男高信は高島郡田中郷を、
   三男泰綱が愛智川以南の近江六郡を与えられて佐々木氏の嫡流として六角氏
   四男氏信は、江北の愛智・犬上・坂田・伊香・浅井・高島の六郡を相続し、京都の館が京極高辻にあったことから京極氏。


信綱の次男高信は高島氏を名乗り、泰信・頼綱・胤信らの男子があった。

嫡男の泰信は高島氏を継ぎ、その三男師綱は平井村に住して平井氏を称した。
高信次男の頼綱の長子頼信は横山に住して横山氏、次男の氏頼は田中に住して田中氏、
そして三男の義綱は朽木に住して朽木氏を称した。
高信の三男胤信は永田城を築いて永田氏を称した。     ← 永田氏もフクザツなんですね。長田の出というワケじゃないのか
このように高信の子孫は湖西の高島郡に割拠し、世に「高島七頭」と呼ばれた。



ということで  光秀が厄介になってた「田中城」とは  佐々木源氏バリバリだから  土岐氏とも濃厚接触  じゃない  深い繋がりが元々あったでしょうね。


わたしは喜多村出羽守も光秀とは光秀の父親の代からの知り合いだったんじゃないかなと思っています。


光秀にとって喜多村出羽守の次男の傳廓大僧正は単なる宗教人ではなく  武将の位置づけだったと思っています。

     本来  日本の神社や寺は武装して  神社や寺同士で抗争し  天皇や上皇にも圧力をかける武装勢力でしたからね

     傳廓大僧正は7万石を支配する実力者ですから光秀は頼りにしていたと思います。


光秀が田中城で医薬を学んだハナシが  「麒麟がくる」の中で  玉さんがお駒さんの所で薬草作りを手伝うエピソードに繋がってたら良かったのに
そしたら  玉さんが何故お駒さん宅に入り浸ってたのか  の裏付けになったのに。


「麒麟がくる」は  尻すぼみで  なぁ〜んか  中途半端だったな  と後味が悪いです。
最後の〆が大団円で終わるとか予定調和通りになるとかだったら良かったのに  はぁ?  でした。アホらし
主人公が光秀では  あの大河ドラマは歴史物には成れなかったな  時代劇で終わったな  と思います。
そんなの民放の正月ドラマにでも作らせろ   でした。だったら高評価になったのに。
[57]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月03日 13時39分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 戦国時代も、信長・秀吉・家康で歴史を輪切り(点)で捉えるのでなく、少な
くとも「応仁・文明の乱」以降の連続した歴史の流れ(線)で捉えるということ
が、より深く理解する上で必要であると考えています。

 このところ、いわゆる応仁の乱や、歴代の足利将軍たち、そしてその中に於
ける佐々木家(六角、京極、松下)、明智家、服部家、朽木家、そして多賀大社
・敏満寺、甲賀・伊賀等について再度調査・考察をしておりました。

 これから筋立てして少しずつ論述して行きたいと思っております──
 
[58]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月05日 09時19分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 歴代の権力者の政権の持続した期間の長さに注目すると── 
 
 北条氏─ 130年 ( 1203 時政執権就任    〜 1333 高時滅亡)
 足利氏─ 235年 ( 1338 尊氏征夷大将軍就任 〜 1573 義昭追放)
 徳川氏─ 265年 ( 1603 家康征夷大将軍就任 〜 1868 明治維新)

であり、安定政権を築いた徳川氏が一番であります。

 比較対象(規模・難度)は違いますが、長さの点においては「佐々木一族」の
近江守護であった期間は──
 約400年─1100年代の終り・頼朝の時代〜1500年代の終り・信長前期まで
でありまして、これは特筆に値する"長さ"であります。

 近江は戦国の中心地域、また陸・水交通の要衝でもありましたので、それだ
けの長さで守護として君臨したということは、歴史上に根深い影響力を残して
いるということになります──
  
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2021年03月05日 15時26分42秒 ) パスワード

三つ柏さん

>足利氏─ 235年 ( 1338 尊氏征夷大将軍就任 〜 1573 義昭追放)

この部分ですが
足利幕府の実態は  足利義政までですね

          生誕 永享8年1月2日(1436年1月20日)
          死没 延徳2年1月7日(1490年1月27日)

1467年の応仁の乱からが戦国時代ですから。


         朝廷も幕府も形骸化してて  お互い惰性で続いてただけ  というのでしょうね。
          

がっ!

実は6代将軍義教の時に足利幕府は既に「終わりの始まり」になってた。

  「悪将軍」とか「籤引き将軍」とか「還俗将軍」とか「万人恐怖」とか呼ばれた将軍です。
   気に入らないと些細なことで斬首したりという苛烈政治をやった人です。

          生誕 応永元年6月13日(1394年7月11日)
          暗殺により死没 嘉吉元年6月24日(1441年7月12日)
          享年48

          室町幕府第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。
          第3代将軍・足利義満の子


   この足利将軍家というのはゴタゴタゴタゴタやってますね。
      将軍家の中で将軍の座をめぐって争ったり殺し合ったり
      将軍といえど暗殺されてますからね。  向井理だけでなくて。笑

          日本史の中で  ワケ分からない時代を作った将軍家ですね。

   世阿弥が1434年に佐渡国に流されたのも この将軍のせいでしたね。


この義教将軍は自分の「教」の字を押し付けるのが好きで
母方の家も押し付けられて
将軍が暗殺された後に元の名前に戻しています。


足利幕府という「看板」は揚げられ続けたけど・・・・

    この将軍が暗殺されたことで足利幕府は重篤な病に冒され
    子の義政で瀕死になり応仁の乱が始まって戦国時代に至った

ただ朝廷にも力が無かったからズルズルズルズル結論が付かず足利幕府の幕が閉じられることが無かった

    そーゆー時代だったんですねぇ。


足利幕府とは  足利尊氏・義満  この2人の力で1573年の義昭追放まで命が続いた   かな?


    なんかイタリアとかギリシャとかエジプトみたい。
        実力は全く無いのに
        過去の遺産(歴史と文化)で現代にも人気の国であり続けている


    こんな感じだったのかな?
    腐っても足利将軍家

        夫の従兄の次男(京大を出た子)が
        1953年のポルシェをうちのサンタモニカの家のガレージに置いたまま日本に留学して
        日本から戻った時に日本の女の子達が遊びに来た時に見栄を張るのに
        「腐っても鯛。腐っててもポルシェ」
        と言って自分でVWのエンジンを入れて運転して出て行ってくれましたっけ。

        この話を思い出しました。
        日本人には腐っててもポルシェなんだよね〜

        そうなんだよね
        日本人にはそういうメンタリティがあるんだぁ〜
        なるほどね



信長が義昭を殺さなかったと  いうのは  スゴイな  と思います。
これも日本史の謎の1つかも。
イヤイヤ
信長には義昭など「殺すにも値しない」ってコトだったのかな?


あ、義昭ですが

ウイキよりhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD
足利 義昭
1537年12月15日〈天文6年旧11月13日〉‐ 1597年10月9日〈慶長2年旧8月28日〉
室町幕府第15代(最後の)将軍(在職:1568年〈永禄11年〉- 1588年〈天正16年〉

美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。
やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。
一時は信長を追いつめもしたが、
やがて京都から追われ備後国に下向し、
一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。

信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、
豊臣政権確立後はこれを辞し、
豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、
前将軍だった貴人として遇され余生を送った。
へぇ〜

なんだか 秀吉の「どうだ?!人格者のオレさまを見てくれ。エッヘン」という声が聞こえたような。
空耳アワー
[60]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月06日 08時32分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 足利氏が何をもたらしたのか、佐々木氏が何をもたらしたのか、総括は難し
いですが、いずれにしても、大きな流れの変わり目にさしかかり、秩序の破壊、
下剋上といった時代の裂け目へ下り落ちる過程に生きたということであります。

 用事が入り、中断します──
 
 
[61]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月07日 00時48分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 比叡山という所、延暦寺も含めて京都府に所在しているとばかり今まで思っ
ておりましたが、地図で調べると、滋賀県との県境が比叡山を南北に二分して
おり、延暦寺は滋賀県側、即ち大津市坂本町の所在でありました。
 これは、即ち、延暦寺は近江国守護の管轄下にあったということでしょぅか
……これについては、今後調べて行きたいと思っております。
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2021年03月07日 02時36分16秒 ) パスワード

三つ柏さん

>延暦寺は近江国守護の管轄下にあったということでしょぅか

ヲイヲイ、って感じ。
日本の宗教団体はものスゴイ力を持ってたことをお忘れですか?

天皇だって上皇だって逆らえなかったのですよ。


          それに平安時代の初めに「不輸不入権」とかあったじゃないですか
          

東大寺とか比叡山とかは  まさに  天皇家を守る寺という立ち位置ですから
     比叡山側にしたら  「佐々木?  はぁ?」
     ですよ。


とはいえ  中学生レベルの知識しか無いので(汗)  ちょっと  調べて来ました(大汗):

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E4%B9%85%E4%BA%8C%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%BC%B7%E8%A8%B4

建久二年の強訴
建久2年4月26日(1191年5月20日)、延暦寺の大衆が近江国守護・佐々木定綱の処罰を求めて起こした強訴。

           この1文で延暦寺と佐々木の力関係が一目で分かりますよね


以下コピペ

事件の経過は、『玉葉』『吾妻鏡』『百錬抄』による。

近江国守護・佐々木氏の地盤である佐々木荘は、同国内で強大な勢力を誇る延暦寺の千僧供荘だった。
                      佐々木の非運

佐々木氏は延暦寺に千僧供料を貢納する義務を負っていたが、

                      佐々木の非運

建久2年(1191年)は前年の水害による不作で未進が生じており、
3月下旬に延暦寺の傘下にある日吉社の宮仕数十人が、未進催促のため神鏡を奉じて荘園に押し寄せた。

                      あはは
                      コレですよね
                      寺の力は  巨大  なのです


定綱は在京して不在だったが、
宮仕は定綱邸に乱入して家中の男女に暴行を加え放火に及んだ[1]。


これに怒った定綱の次男・定重は郎従に命じて宮仕を切りつけるが、この際に誤って神鏡を破損させてしまった。

                      佐々木の非運
                          ばーか、って感じ


神宝の破壊は極刑に値する重罪であり、
事件は佐々木氏と延暦寺の抗争から朝廷・幕府を巻き込む大事に発展した。


                      佐々木の非運
                          ざまぁ〜

                          わたしにとって佐々木は父方母方の敵だから


4月2日、京都守護・一条能保から事件の経過と大衆の不穏な動きを聞いた摂政・九条兼実は、腹心の蔵人頭・葉室宗頼を派遣して天台座主・顕真に大衆の制止を命じるが、顕真は山上飢饉のため禁制を加えても誰も従う者はいないだろうと悲観的な見方を示した。

4月6日、延暦寺所司が上洛して定綱父子の身柄引き渡しを要求するが、

                       佐々木の非運
                       けってぇ〜


対応した兼実は後白河法皇が不在のため法皇還御の後に裁断を下すと告げ、ひとまず結論を先送りにした。

                       さすが公家
                       玉虫色的対応


鎌倉には4月5日に、能保と大江広元から事件の一報が届いた。

定綱逐電の情報や延暦寺の使者が鎌倉に下向するという風聞もあり、
事態を憂慮した源頼朝は梶原景時と後藤基清を相次いで上洛させた。


頼朝は定綱の斬罪を回避するため、定綱所領の半分を延暦寺に寄進するという条件で交渉をまとめるように景時に言い含めていたと伝わる。

                      笑ったぁ〜

その後は19日に延暦寺側にて日吉祭が行われるなど平穏な情勢だったが、

26日になって延暦寺の大衆は日吉・祇園・北野の神輿を奉じ、
定綱の死罪を求めて強訴を起こした。

                      ふっふっふっ

慈円から大衆が下山したという急報を受けた兼実は慌てて閑院内裏に参入するが、

                      公家だねぇ〜
                      自分には何の力も無い


その場にいたのは能保と宗頼のみであった。

                      無能なオトコ達の文字通りの鳩首会談だな

兼実は検非違使別当でもある能保に官人(検非違使)と武士を召集して防御するよう指示を下すが、
官人は「志府生僅かに両三人」のみで
院御所から大夫尉・大江広元が駆けつけたものの、
実働部隊の廷尉は集まらなかった。

                      あはは
                      形骸化した朝廷だね
                      誰が朝廷の言うことなんか聞くか


また武士も、
北条時定・佐々木高綱・小野成綱が率いる兵は合わせても「五六十騎」に及ばず、
これに安田義定(本人は関東に下向して不在)の郎従「十騎許り」が加わったが
その兵力は極めて少なかった。


配備の段階になってもさらに時定の所在が分からなくなるなど

                      逃げたな

態勢が整わない中、
手薄だった防衛線は突破され
閑院内裏の南庭に大衆数千人がなだれ込んだ。

                      キョーフに取り囲まれた朝廷


兼実と顕真が定綱の処遇について折衝を行っている最中に、大衆は神輿を放置して逃散した。

                      すごいね 
                      すごい嫌がらせ(笑)
                      「お手並み  拝見〜! 嗤」と言って逃散だね



28日、強訴防御に失敗した能保は後鳥羽天皇の院御所・六条殿への行幸を提案するが、
兼実は安元の強訴の例が不快であるとして反対した。


後白河法皇は大衆の定綱死罪の要求を退け、定綱父子を流罪、下手人を禁獄とする院宣を下し、神輿を引き上げるよう顕真に命じた。


29日の罪名宣下で、定綱は薩摩、その子息広綱は隠岐、定重は対馬、定高は土佐に流罪、下手人5人は禁獄となり、
5月1日に大衆は神輿を撤収して帰山した。

                      比叡山  大勝利!
                      佐々木  ハッズゥ〜


その頃鎌倉では、延暦寺所司と頼朝の間で定綱の身柄引き渡しについて折衝が行われ、
頼朝は饗応と贈り物で宥めようとしていたが、

                      どこかの国の常套手段ですね〜
                      令和3年になってもコレだもんね

5月2日に広元と能保から強訴の発生、安田義定から能保の命令で手出しを控えていたところ郎従が大衆により殺傷されたという報告が入った。



頼朝は3日、定綱の流罪は当然のこととしながらも、
警護の武士を殺傷した大衆の責任も問われなければならないと院奏するが、
延暦寺側に処罰が下ることはなく、
抗争は佐々木氏側の敗北となった。

                      あはは
                      嗤


5月20日、定重は配流の途上で景時により斬首された。

                      よくあるハナシ

                      だって対馬まで流しに行くってタイヘンな事だもん
                      お金も時間もかかるし
                      下手すると自分達も(が)遭難するかも知れないしね、舟でチンタラ行くってさ  
                      復路だって無事に本土に辿り着けるか分からないしさ

                      季節的に梅雨?五月雨時?       
                      

延暦寺の不満を宥めるための頼朝の苦渋の決断と見られる。

                      頼朝の力なんてこんなもん
                      頼朝もよく分かったんじゃない?


この強訴からしばらくして、一条能保は検非違使別当、大江広元は明法博士を辞任した[2]。

                      そりゃそーだろ
                      ホントは罷免だぜ

なお、定綱は建久4年(1193年)3月に召還され、近江守護に復帰している。

                      各所への接待攻勢が功を奏した?


脚注
^ 延暦寺側の主張によれば放火は佐々木側のしたことで、橋を外して宮仕の退路を塞ぎ殺傷に及んだという。

^ 建久2年(1191年)3月22日の建久新制により頼朝の諸国守護権が公式に認められたが、
 能保が検非違使別当に、広元が検非違使庁の法曹部門を担当する明法博士に就任したのはこの前後であり、
 頼朝が在京武力掌握のために検非違使庁を幕府の管理下に置く構想を抱いていたとする見解がある
 (佐伯智広「一条能保と鎌倉初期公武関係」『古代文化』564、2006年)。
[63]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月07日 12時25分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。

 「建久二年の強訴」(1191年、延暦寺の大衆が近江国守護・佐々木定綱の処罰
を求めて起こした強訴)の1文により、正に当時の朝廷、貴族、守護 vs.大寺院
のパワーバランスがどうであったかが、手に取るように分かりました。

 ここでいう「大衆」(あるいは「衆徒」)というのは、「僧兵」に値するもの
だと思うのですが、富力・権力・武力・独立性を得た比叡山(抵抗勢力)に対し、
約400年後の信長による「延暦寺の焼き討ち」が引き起こされたものと思い
ます。

 比叡山や東大寺や興福寺は別格の存在であったということ……。ただし、悪
党(大寺院に対する抵抗勢力)や武士階級の興隆により、その寺領(荘園)は浸食
され徐々に没落して行くということ……。

 比叡山と同様、抵抗勢力(浅井、織田への)になって焼き討ちされた大寺院に
「敏満寺」があります。
 この敏満寺、歴史上、謎の寺とみなされておりますが、実は二つの大きな要
素が秘められておりました。
 それは──
 @修験道の拠点
 A猿楽の発祥拠点
であります。

 詳しいことは、次回に──
[64]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月08日 14時20分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 後醍醐天皇が1331年に「元弘の乱」を起こした「笠置山」、私はここは
単なる「山」と思っていましたが、柳生の里のすぐ北に位置していて、ずっと
気になっていました。ここも地理的な要所であり、吉野まで南に約55q、奈
良まで南西に約15q、京都まで北西に約40q、伊賀上野まで東へ約17q、
そして甲賀信楽まで北西へ約20qであります。

 ここからは修験の道の香りを感じておりましたので少し調べてみましたら、
まずは笠置山には「笠置寺」というものがあって、これは修験のメッカであり
ました。南の吉野には「金峰山」、もちろんそこから更に南東に行けば「大峰
山」そして更には「熊野三山」。

 近江信楽には「?道山」、ここも修験のメッカであり、さらに北上すれば、
近江多賀に「敏満寺・不動院」、「多賀大社」、そして琵琶湖西岸に南から、
「園城寺(三井寺)」、そして比叡山「延暦寺」へ至ります。

 敏満寺・不動院が修験道のメッカであること、比叡山の後にやはり焼き討ち
されているということ、たぶん比叡山延暦寺の天台系「本山派」に属していた
のではないかと推察しております。

 比叡山─敏満寺─?道山─笠置寺─金峰山─吉野─熊野のライン、一本でつ
ながります──
[65]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年03月08日 14時24分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 修正:?道山 → 飯道山
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2021年03月08日 16時49分13秒 ) パスワード

三つ柏さん

エンエンと自分の方向音痴自慢を書いてましたが余りにもバカっぽいので消しました。
空間把握も  ゼロ  です。


笠置山は山城国なのにワタシ的には河内国なんですよ。
理由は  楠正成=河内のおっちゃん=に引っ張られるから。

    三つ柏さんなら 
    「え? あをちゃん的には  笠置山は伊賀国じゃないの?」
    と連想なさるところですよね?


              全くその通りでございますですはい。

              平安京に遷都成る前の
              大和国と河内国と伊賀国は
              ワタクシ的には同じ空間でございます。


最近若い俳優に(楠正成の生まれ変わりよね)と思う人物を見つけて
(少なくとも楠一族のDNAは受け継いでるよね?)と画面の彼に問い掛けてます。
     はい  バカです
     母方先祖が吉野にいて後南朝として戦ってた時に
     彼のご先祖と親しかった心象風景が
     4年前初めてテレビで彼を見た時から常に付きまとうのです。


     彼は近い将来大河ドラマに出演すると思うので
     南朝方の武士の役をやって欲しいです。
     河内のおっちゃん役で。

わたし的には   役行者  が大和国・河内国(後に伊賀国にも波及?)あたりにいたのかな?と。

        道教
        修験者
        呪術

を齎し   楠正成も役行者のDNAを受け継いでいるのかな?と。


        贔屓の引き倒しだね。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2021年03月08日 17時19分08秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101747.html
長上郡の服部氏族CXLV:143:甲賀服部氏とは3
を立てました。

切りの良いところで、どうぞ。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2021年03月08日 18時10分28秒 ) パスワード

告白


新しいスレッドを立てて
「日本人は8代遡るとみんな繋がる」
という京大の先生のお話を思い出しました。

     直接に聞いたのは夫の従兄の次男ですが

ホント!みんな繋がるのよね。


自分のレスの<66>に河内国への熱い思いを書きましたが   繋がっちゃう  のよね。

          河内源氏=清和源氏経基流の河内源氏は源頼朝の先祖

頼朝と相婿だったわたくしの先祖のおじじさまは
頼朝の先祖の頼義の子孫というハナシもあります。


母方では「うちは源氏」と言います。
ま、確かに  いろいろな意味で  源氏  でもあります。

頼義は伊予守でしたし  別名  伊予入道。ココです。
義経も伊予守で  おじじさまの弟の烏帽子親になってますしね。

母方は清和天皇がらみの源氏の他に  もっと後の世の  後鳥羽上皇がらみでの源氏でもありますし。


わたし自身が心象風景的に河内国に非常に引っ張られるし。
それはレス<66>で語りました。

         結局  母方父方  両方で河内国に引っ張られる  ってコトですね。


三つ柏さんがおっしゃってる<甲賀に立て籠もった話>と<源氏系服部氏>は
源頼義の次男の義綱の四男の源義仲の孫という源盛俊が石橋氏・服部氏の祖。

         わたしは石橋氏から服部氏が出た、と聞いてたような記憶です。


それにしても源氏ってホント兄弟仲が悪いわねぇ。

頼義の長男vs次男の争い  これが後に義綱一族皆殺しになって  実は真犯人は三男の義光だった!
木曽義仲のパパも叔父甥関係で殺されてるし
義仲は従兄弟に殺されたし
頼朝vs義経の争い   そして  範頼も処罰されてるし
頼朝の息子は孫に殺されてるし(甥が叔父を暗殺した)
時代が下って最大の喧嘩は足利尊氏vs新田義貞だものね。
尊氏も凄かったしね。弟を毒殺してるし。
書き出したらキリが無い。
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