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 投稿番号:101735 投稿日:2020年10月08日 12時50分43秒  パスワード
 お名前:中村 光成
美作菅家の偽系図事件!!

コメントの種類 :書籍・文献
本人によりコメントは削除されました。 2020年10月08日 12時51分13秒
[1]中村 さんからのコメント(2021年08月08日 12時23分37秒 ) パスワード

菅原道真の子孫と歪曲・捏造する美作菅家

●事の発端は「元禄年間(1684年頃)に森忠政(清和源氏森蘭丸の弟)が津山藩主となって津山に赴任した時、美作の古事を書き上げ、提出の要請を機に、美作管家京都で公家として続く(高辻・五条・唐橋)の元を訪ねて系図の照合と美作管家一族の系図が間違いない事確認している。この時一族14人にカンパを働き、銀400目と言う多額の土産を持参している。
Web-有元氏参照
この時作成された美作菅家の系図は以下の系図です。

三穂満佐の子
 忠勝 筑後の守  號有本 奈岐山城主弘安十丁亥年二月卒六十歳
 佐友 廣戸豊前守 廣戸村矢櫃城主
 周長 福光伊賀守 前田氏
 公興 植月豊後守 植月庄宮山城主
 忠門 原田日向守 原田稲荷山城主
 佐利 鷹取長門守 領江見庄
資豊 江見丹後守 領江見庄
「国会図書館アーカイブス」(新訂作陽誌 有元氏)157コマ

上記美作菅氏系図について専門家は、

※「管原氏系図」道真の末裔三穂満佐の子忠門が、美作国久米郡原田郷(岡山県美咲町原田)を領して原田氏呼称はいささか信憑性が乏しい。
「日本家系・系図大辞典」奥野敬之著鞄結桴o版P824

※菅原氏から出た菅家党の諸系図を照合してみると。異説が多く混沌として収拾できない 。                           「系図研究の基礎知識」近藤安太郎著

◆東西の歴史学者が記述した「原田氏」の記述。

◎『西幸との境界に稲荷山城跡あり、初名は狐山で、原田氏が代々居城したという(作陽誌)
『原田氏は平忠常の子忠高が肥前原田に住し、原田氏を称した。保安四年忠高曾孫興方が美作に流され、翌年許されて狐山に築城。以来元和七年に死去した同書』原田の北西に大谷城跡があり、これも原田氏の分城という(久米郡誌)。三河の守貞佐は備前福岡(現邑久郡長船町)の戦いで左足に傷を受け、無足の三河といわれた。その子行佐は宇喜多に属した。行佐の子忠佐は朝鮮出兵に従うが騒動を起こして豊臣秀吉の怒りに触れ帰国した。その子は父の遺命で出家し、誕生寺住持となり、忠佐まで十七
   代四百七十年間美作に勢威を振るった。
平凡社『岡山の地名』P238

更に家紋について、菅家の捏造。次のように述べています。

★美作菅氏—Wikipedia 「加賀藩の前田氏は美作菅家原田氏の家系を自認し、家紋は菅家の梅鉢紋を称している」

★前田氏—Wikipedia 「利家の系統が菅原姓を称するのは。系図上その出自が美作菅氏の支流原田氏だからである」
[2]中村 光成さんからのコメント(2021年08月08日 12時28分46秒 ) パスワード

菅原道真の子孫と歪曲・捏造する美作菅家

●事の発端は「元禄年間(1684年頃)に森忠政(清和源氏森蘭丸の弟)が津山藩主となって津山に赴任した時、美作の古事を書き上げ、提出の要請を機に、美作管家京都で公家として続く(高辻・五条・唐橋)の元を訪ねて系図の照合と美作管家一族の系図が間違いない事確認している。この時一族14人にカンパを働き、銀400目と言う多額の土産を持参している。
Web-有元氏参照
この時作成された美作菅家の系図は以下の系図です。

三穂満佐の子
 忠勝 筑後の守  號有本 奈岐山城主弘安十丁亥年二月卒六十歳
 佐友 廣戸豊前守 廣戸村矢櫃城主
 周長 福光伊賀守 前田氏
 公興 植月豊後守 植月庄宮山城主
 忠門 原田日向守 原田稲荷山城主
 佐利 鷹取長門守 領江見庄
資豊 江見丹後守 領江見庄
「国会図書館アーカイブス」(新訂作陽誌 有元氏)157コマ

上記美作菅氏系図について専門家は、

※「管原氏系図」道真の末裔三穂満佐の子忠門が、美作国久米郡原田郷(岡山県美咲町原田)を領して原田氏呼称はいささか信憑性が乏しい。
「日本家系・系図大辞典」奥野敬之著鞄結桴o版P824

※菅原氏から出た菅家党の諸系図を照合してみると。異説が多く混沌として収拾できない 。                           「系図研究の基礎知識」近藤安太郎著

◆東西の歴史学者が記述した「原田氏」の記述。

◎『西幸との境界に稲荷山城跡あり、初名は狐山で、原田氏が代々居城したという(作陽誌)
『原田氏は平忠常の子忠高が肥前原田に住し、原田氏を称した。保安四年忠高曾孫興方が美作に流され、翌年許されて狐山に築城。以来元和七年に死去した同書』原田の北西に大谷城跡があり、これも原田氏の分城という(久米郡誌)。三河の守貞佐は備前福岡(現邑久郡長船町)の戦いで左足に傷を受け、無足の三河といわれた。その子行佐は宇喜多に属した。行佐の子忠佐は朝鮮出兵に従うが騒動を起こして豊臣秀吉の怒りに触れ帰国した。その子は父の遺命で出家し、誕生寺住持となり、忠佐まで十七
   代四百七十年間美作に勢威を振るった。
平凡社『岡山の地名』P238

更に家紋について、菅家の捏造。次のように述べています。

★美作菅氏—Wikipedia 「加賀藩の前田氏は美作菅家原田氏の家系を自認し、家紋は菅家の梅鉢紋を称している」

★前田氏—Wikipedia 「利家の系統が菅原姓を称するのは。系図上その出自が美作菅氏の支流原田氏だからである」

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