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 投稿番号:101734 投稿日:2020年10月05日 08時27分16秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族CXXX\:139:いよいよ核心に‐7
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101729_74.html
長上郡の服部氏族CXXX[:138:いよいよ核心に‐6
の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。



「富士山浅間宮大宮司家」
加茂喜三氏の『富士"隠れ南朝史"』
伊集院卿著『富士王朝の謎と宮下文書』
について
酔石亭主さんより貴重な情報を頂きました(感謝)ので
レス<68>よりコピペ:

宮下文書に関しては、これを元にして書かれた「神皇紀」のデジタル版があるので、是非お読みください。
文章は平易とは言え、かなりの大作なので、
コマ番号196大山守皇子の宮下姓改名辺りからでいいのではと思います。
コマ217には三浦氏の関係、
コマ274には宇津氏に関して書かれ、
コマ279から秦徐福になります。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965674


富士山麓の南朝は「神皇紀」の著者である三輪義熈が「長慶天皇紀略」で書いており以下のデジタル版で見られます。
加茂氏の元ネタはこちらかもしれませんね。
富士山麓の南朝は三河南朝とも関係するはずなので、別途検討されたら面白いかもしれません。
(西尾市岩瀬文庫に「三河吉野朝の研究」、他に「長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣」という書籍があります)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019673


本当に助かります。
改めて酔石亭主さんには感謝申し上げます。

[1]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月05日 09時38分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッド、ありがとうございます。今し方、旧スレッドにレスを送っ
たばかりでした。
 南朝がわかれば、服部氏もわかるというのが私の考えでもあります。
 南朝というフィールドを駆け抜けて来た、関連支族の皆さま、そしてご先祖
様達に、隠し隠され掻き消された真実を蘇らせ明かにし、そして最後には安寧
への供養の祈りをあを様と共に捧げたいと考えております――
[2]酔石亭主さんからのコメント(2020年10月05日 19時02分11秒 ) パスワード

空の青海のあをさん、三つ柏服部さん

つい先日所用で岐阜方面に出かけ、帰りがけに足助に行って足助八幡宮や足助神社を参拝してきました。足助もまた南朝の拠点で、後醍醐天皇の第3皇子(?)平勝親王が足助に来て足助氏に決起を促し、7代目の足助重範が決起したとされています。足助神社はこの重範を祀っており、足助八幡宮には徳阿弥と称した松平親氏の筆とされる大般若経があります。また足助の平勝寺は後醍醐天皇が都に戻れるようにと、親王が祈願した寺だそうです。私にとって後醍醐天皇は(どうでもいい話ですが)愛石家の源流のような人物であります。天皇が戦の最中も離さず愛玩した名石「夢の浮橋」は秀吉、家康、尾張徳川家を経て現在徳川美術館に収蔵されています。ところで、平勝親王って実在の人物なんでしょうか?よくわからない。
もっとわからないのが…。

>蜂須賀小六の父上の正妻さんは大橋定広の娘。
大橋といえば  平貞能の子孫。  つまり  津島神社。  つまり  宗良親王のお子様の尹良親王の妻の実家。

の尹良親王で、この人物は実在しているのでしょうか?彼について書かれた(偽書ともされる)デジタル版「浪合記」や「信濃宮伝」を読むと、有名な関係者がぞろぞろ出てきますので、仮に架空の人物だとしたら影響が大きすぎるようにも思われます。これらが偽書であったとしても、当時の全体像がある程度見えてくるかもしれず、ご研究されたら面白いのではと思います。私にとっては、南朝関係は守備範囲ではないので、お二人の議論を楽しませていただくようなスタンスになってしまいますが…。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926864
「浪合記」、「信濃宮伝」その他
http://muromachi.movie.coocan.jp/n_index.html
「浪合記」現代語訳

[3]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月06日 00時44分57秒 ) パスワード

消えた!

酔石亭主さんに平勝親王の情報を感謝し

足助の服部家のこと  〜  服部家が武家の出陣式の割烹の家だったこと  〜  お節料理の原型の話  など  ツラツラ書いてたら瞬殺された。


これは  書くな  ってこと?


服部家に伝わる話なども書いてた。

例えば  尹良親王の読みは服部家ホンヤさん宅では「イズヨシ」親王で
お子さまの良王君は「よしたかのきみ」であることなども。良王君は服部家で亡くなったこととか。


書くな!
ってパワーが来たのかな?
[4]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月06日 11時12分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 何が真実かの問題は、客観的な根拠をどれだけ示せるかによりますが、現実
的には難しいケースが多い。特に南朝関係の真実については、敗軍的立場とな
りいわゆる地下活動となったので、正式な資料があまり存在しない。そこで、
いわゆる伝説(伝承)という形が多くなっている。それらを集めてを筋にして文
書化をするということは当然誤謬もある。筋上の想像もある。許される範囲と
いうものもある。身勝手で極端に飛躍した付会や創作がある可能性もある。そ
れらを通じて偽書かどうかの二元論で判断するよりも、内容の一つ一つの信憑
性を判断することが肝心だと私は思っています。ましてや素人の人間としては、
何でも来いの精神で受け入れてそれを嗅ぎ分けるしかないと思っています。

 井伊谷→富士谷→伊那谷→津島へ向かう南朝の戦いと逃避行の「流れ」があ
り、その途上、南信・浪合での出来事を綴った浪合記については、それなりに
自然の「流れ」の中にあるものと思っています。また各地に伝説が残っている
ということは、それなりに事実が「無かった」のではなく、そのようなものが
「有った」のだという肯定的なスタンスでものごとを進めております。もちろ
ん素人の私にはそうするより手はありません。モチベーションをつなげて行く
ためにも……です。

 今回、酔石亭主様のご指摘により、改めて『南朝秘史 足助一族と大塚掃部
助 上巻・下巻』(岡野錦彌 鈴木茂夫共著)を調べてみました。
 平勝親王については次のように書かれております――
「元弘元年(1331)五月、後醍醐天皇笠置に行幸の時、第三皇子・平勝親王は、
関白二条良基を供に足助郷に来ており、中之御所に居住、都へ早く帰ることを
願っていた。一夜、鳳凰を夢見て、平勝寺の観音様を知り、平勝寺に七日間こ
もって、観音様に戦勝祈願したところ、数日後に天皇が都へ還幸の知らせがあ
った。親王も喜んで都へ帰り、天皇から勅額一面、太刀一振、菊桐の御紋章な
どを賜った。それ以後、それまでの檀独山大悲密院を改めて、鳳凰山平勝寺と
号するようになった。これは、綾渡平勝寺の縁起書「後醍醐天皇勅願寺、鳳凰
山平勝寺略縁起」の中に伝えるもので、元和二年(1330)に足助香積寺九世明峰
和尚が記述したものである。なお、この勅額は、先に述べた藤原行尹の筆にな
る元徳二年(1330)のものであろうとされ、現在、刀も一振、同寺には保存され
ている。」
ということであります。

 尹良親王に関しては、一つは伝説として――
「中之御所の浄土宗の宝珠院の東約100mの観音堂の地に、尹良親王の御所
があったといい、「中之御所」という地名が生まれたともいう。宝珠院の下、
西方200mの所に「馬場の井戸」という古井戸があるが、親王が馬を飼うた
めに用いたものという。
 今朝平の八幡神社境内に、「袈裟掛石」と呼ぶ石があるが、尹良親王参拝の
時、袈裟を掛けた石と伝えている。「今朝平」の「けさ」もこれに基づくとい
う。」

 もう一つは『浪合記』について――
「『浪合記』によると、尹良親王は宗良親王の第二皇子で、母は遠州井伊谷城
主井1370)伊介道政の女であり、井伊谷城中において誕生し、正平(1346〜1370)
の頃、駿河国富士谷の宇津城にいたので、宇津峯宮といったという。そして、
上野国新田荘寺尾城・信州諏訪の島崎城と移り、応永31年(1424)、三河に赴
かんとして、杖突峠を超え、伊那谷を南下した。下伊那郡の浪合村にさしかか
ったところ、8月15日、飯田太郎・駒場小次郎等の土族に襲われ、ついに無
念の生害をとげたというものである。 
 『浪合記』は偽書ともいわれるが、尹良親王説話は、長野県南信地方、愛知
県三河・尾張西部、岐阜県美濃東部、静岡県遠江北部、群馬県上野西部などの
各地に広く流布しているものである。」
と書かれております。

 もっとも、浪合には、宮内庁の管轄下の尹良親王の墓があり、それが信憑性
の最大の源泉となっております―― 
 
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月06日 12時21分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございました。


わたしは  平勝親王  については100%知らなかったのですが
後醍醐天皇はお子さまが何十人もいらっしゃって
だからその他にも名前の知られていないお子様もたくさんいらっしゃるのだろうと思っています。


足助の服部家のことはずっと知りたかったのですが
ちょっと手掛かりが出来て嬉しいです。
知ってたのは服部半三保長の立ち寄り先の1つ、あたりでした。



浪合記が偽書と言われるのには

明治政府の徳川幕府への否定の力が働いているでしょうし

明治天皇ご自身が正統は南朝とおっしゃってるし
実は明治天皇は田布施とかいう長門の秘密の場所で保護されてた方という説があり
浪合記を否定しないことには明治天皇の立場がマズイから

と思っています。



今日はちょっと北朝方の天皇について勉強したのですが
ワタシ的には  正統は南朝  になりました。
北朝方は足利義満の傀儡ということで。

     ま、足利義満という人物は日本人には数少ない珍しい政治的知恵の働く人だった、と。
           日本人は政治的に戦略的な人物は好まない傾向がありますね。
           源の頼朝 > 義経
           足利義満 > 南朝方
           徳川家康 > 秀頼
[6]酔石亭主さんからのコメント(2020年10月06日 19時59分23秒 ) パスワード

三つ柏服部さん、空の青海のあをさん

尹良親王と平勝親王に関する詳細情報ありがとうございました。両者とも実在としてよさそうな一定の根拠はありそうですね。

私もあれこれ考えてみましたが、聖徳太子信仰が漂泊の民でもある木地師によって広められたように、尹良親王伝説も同じようなパターンで広まった可能性もありそうです。ずっと以前に以下のような内容をブログで書いています。

『聖徳太子のブレーンとして有名な秦川勝はもうご存知ですね。彼は大和猿楽の創始者でもあり、芸能の祖神として各層から幅広い崇敬を集めました。また能楽の祖である観阿弥、世阿弥も秦氏の系統です。四天王寺の伎楽奏者もその多くは秦氏です。このように秦氏は芸能関係の中に流れ込みます。次が、遊行者や呪術、陰陽道の流れです。秦川勝の子孫に著名な秦道満がいますね。彼は安倍晴明と並ぶ陰陽師です。陰陽道を代表する呪術図形セーマン・ドーマンは、晴明と道満に由来しています。しかも、秦道満または秦勝道の子とされるのが有名な八百比丘尼で、八百歳まで生きたこの尼の伝説は漂泊の巫女によって受け継がれてきました。

秦川勝から秦勝道、秦道満へと続く秦氏の系譜は、八百比丘尼からいわゆる七道者へと引き継がれます。彼らは漂泊遊行の陰陽師。七道者とは猿楽、アルキ白拍子、アルキ御子、金タタキ、本タタキ、アルキ横行、猿飼を指しているのです。平安期以降の秦氏は、下級陰陽師や芸能の徒、漂泊遊行の徒、山岳修験者として、どちらかといえば下層の民になり、最後は非人扱いとなってしまいました。古代における秦氏は、陰で日本の権力者を支え、時代が下るにつれて民衆や民間信仰の中に埋没し潜行していったのです。』

南朝の背後には修験者をはじめとする上記のような漂泊遊行の民のネットワークがあったのではないかと推察しています。尹良親王が各地を訪れたのもこれらのネットワーク・情報網を活用したのではないでしょうか?逆にこれら南朝にシンパシーを抱く人々が尹良親王と言う架空の人物を創成したのかもしれません。Wikiでチェックしたところ以下のようになっていました。

柳田(國男)は「東国古道記」の中で、およそ次のように述べている。「かつて中部山岳地帯と海岸を結び付ける道は秋葉街道だけであったが、やがて浪合を通り飯田・根羽に連なる三州街道(飯田街道)が開けてきて、その段階で津島神社の御師たちが入り込み、土着的な山路の神『ユキヨシ様』を旅人の道中安全を守る守護神(一種の道祖神)へと変化させて山間に広く分布していった。これに加えて、浪合で戦死した南朝某宮に対する御霊信仰の要素が結合して尹良親王なるものが出現し、さらに津島神社や三河武士・徳川氏の起源伝承として存在意義が認められ、地元の口碑がその欲求に合うように内容まで多様に変型させられたのではなかろうか」。

まあ、真相究明は不可能なのでこの問題は歴史ロマンとするしかなさそうです。南朝関連は守備範囲ではないものの、秦氏の影がちらついていそうなので、惹かれる部分があることは否めません。

あをさんは足助の服部氏に関心があるように書かれていますが、現在では足助町久井戸98と足助町石橋15-1の2軒しか服部姓はありません。もう少し具体的な内容を教えていただければ、私の最寄りの図書館で(足助町史の蔵書でもあれば)調べてみます。
[7]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月07日 12時19分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 台風十四号の進路が週末にかけて気になっています。明日からは雨……。

 さて、秦氏は南北朝においてどのような動きをしたのか、秦氏といっても
姿そこにあらずの存在……名前を変えたり、地下に潜ったりの存在、でも巨
大なスケールとフィールドの存在であったはずであります。政治的権力より
も、神道から仏教、修験道等の宗教的な攻め口から浸透して行ったと思いま
す。

 南朝と宗教の関係について書かれた書籍はあまりないように思いますが、
時宗一遍と新田義貞、天台宗座主と後醍醐天皇の皇子・宗良親王、醍醐寺座
主の文観と後醍醐天皇との関係等々、結構宗教が南朝の本質にからんでいる
ように考えられます。
 山中に潜む、山中を駆け回る等も、修験道のネットワークの協力というも
のが必ずやあったものと推察されます。

 テーマが大きいので、なかなかその解明は程遠いですが、少しでも解明し
て行きたいと考えます――
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月08日 09時08分21秒 ) パスワード

酔石亭主さん 三つ柏さん


服部一族について読んでいたのですが  アタマ爆発しそう。
全然脳細胞には入って行かないです。


[9]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月08日 13時17分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 南朝現象はただ単に一時的な現象でなく、その奥には深い歴史の糸(いやもっ
と太い帯)があったような気配がいたします。
 その謎解きの第一のキーワードは、「武内(武内)氏」、つまり武内宿祢の系
統だと思います。
 第二のキーワードは、「秦・賀茂(三輪)氏」、つまり秦氏と賀茂(鴨、加茂)
氏だと思います。
 いずれも古代からの歴史の帯であり、探求には大変な労力がかかりますので、
こことは別に考察して行きたいと思っております――
[10]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月10日 09時40分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 台風十四号も本土直撃とはならず、近海通過のコースを取る予測となり、ホ
ッとしております。台風は紀州沖にありますが、すでに雨は昨日からしとしと
降り続け、これから風を伴ってひどくなってきそうです。
 
 偶然なのか必然なのかという判断について……歴史を紐解いてみると、偶然
であると思っていた今の出会いや出来事が、過去に於いて関係があったが故の
確率の高い事象である、つまり確率の高い偶然 = 必然である……そういうこと
は大いにあり得ると思っています。
 それは中安定安の一族の末裔とみられる義兄(一昨日没)、松下之綱の一族の
末裔とみられる義兄(数年前没)、そして服部××の末裔の私、三者それぞれの
祖先達は、ここ遠州という南朝フィールドの上で、かつてはベクトルを一つに
して関係しあった仲であるのかも知れない……義兄の死に際して、そんな思い
を抱いたところであります。
 理解してくれる古老が鬼籍に入るということは、わたしにとっては大きな損
失であり、くやしく、残念でなりません――

 
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月10日 13時09分38秒 ) パスワード

三つ柏さん

お義兄さまが亡くなられましたか。
奥様を支えてあげてください。



本当に  知らなかっただけで  実は     かも、ですね。

>中安家、松下家、そして服部家、三者それぞれの祖先達は、ここ遠州という南朝フィールドの上で、かつてはベクトルを一つにして関係しあった仲であるのかも知れない
>理解してくれる古老が鬼籍に入るということは、わたしにとっては大きな損
失であり、くやしく、残念でなりません

はい
でも必ずどなたかが先祖のことを知らせたくてたまらないのですよ。

それは今になっては三つ柏さんかも。


中安家のお義兄さまに般若心経を詠んであげたら松下家のお義兄さまも喜んでくださるかも。
良いご供養になります。



コロナにはくれぐれもお気を付けください。
[12]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月11日 11時51分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 コロナについては、若い人との接近遭遇を極力避けるようにしております。
息子もそこを気にしているようで、マスクなしではほとんどしゃべりません。
 先日は対肺炎球菌の予防接種をし、近々対インフルの予防接種をいたしま
す。風邪も引かないよう、十分に注意を払うように心がけ、また「健康は足
から」ということで、平均一日4qのウォーキングをしております。
 また、免疫力を高めるサプリメントなども摂取するようにしております。
 ただ、精神面は意外と弱いものであるので、落ち込み等しないよう、スト
レス発散・解消の手段も考えながら毎日を過ごしています。

 さて、「修験道」というもの、それはそれなりの存在理由があった、という
よりも、体制から追い出され締め出された者たちのベクトルとマグマの中心と
なったものと思われます。後醍醐天皇の皇位継承闘争が、討幕運動に結びつき、
そこに反体制のまつろわぬ人々のベクトルが集まったということか。後醍醐天
皇でなくても、南朝現象は歴史の流れにおけるある意味「必然」であったかも
知れません。
 
 関裕二氏の『もうひとつの日本史 闇の修験道』は関氏の本の中でも最高峰
の本であると評価できます。あるいは氏の歴史観の集大成でもあるような気が
します。つまり、古代から中世に続く表の政権と裏のまつろわぬ勢力の攻防、
その真実を明らかにしております。
 しかしながら、それにしても南朝臣の忠誠心、その精神性――南朝美学はど
こから来ているのでしょうか? そこを知りたいと思っています――
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月11日 14時20分27秒 ) パスワード

三つ柏さん

>南朝臣の忠誠心、その精神性――南朝美学はどこから来ているのでしょうか? 

ズバリ!
敗者復活戦
でしょうね。


そして
足利義満のアタマの方が良かった
ということ。
義満は脳味噌は使うもの
ということを知ってたヒト
ってコトでしょう。


南朝方は公家が身分に胡坐をかいてた
これが良くなかった
身分で戦おうなんて今でこそアホかと思うけど
当時は公家にとって武士は自分たちのために動くもの
でしかなかったんじゃないかな


     平家はおんな子供を連れて最終決戦をしてしまった
     南朝方は公家の束縛から逃れられなかった

           戦略が無かったね〜


哀し過ぎる南朝方武士に一般日本人の同情が集まるんじゃないでしょうか?
[14]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月13日 10時53分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 南朝忠臣へのシンパシィは、日本人の「忠義」に対する尊崇・哀憐の共感で
あると思います。これは日本人だけの特性とは限らず、人間性の問題であると
は思います。但し、単に忠義といっても、そこに「正義」、「無碍」、「愛」
といったものが存在して初めて全面的な共感が生ずるのであって、それらがな
い忠義による悲哀はただ単に「かわいそうに」で終わってしまうでしょう。
 南朝の正義は、つまるところ天皇の正当性を示す「三種の神器」にあったの
ではないかと思いますがいかがでしょうか。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月13日 13時31分15秒 ) パスワード

三つ柏さん

この「三種の神器」を渡してしまうのですから
やっぱり義満の方が脳細胞1つ南朝方よりカシコかったな。


   この件についてはワタシの直の先祖も関わるので遠慮しておきます。


とにかく歴史には天才が現れるもので
義満しかり信長しかり
悔しいけれど「負け」を認めます。
[16]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月14日 10時39分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 歴史上の評価はさまざまでありますが、南朝関係については資料が少なく、
本当のところの評価は確定できておりません。後醍醐天皇についてもさまざま
であります。南北朝の動乱は全国的であり、その地域に送られた皇子達それぞ
れに独自の展開があります。

 中でも、「宗良親王」は別格の存在で、また別格の展開となっております。
遠江を中心とした東海の地で、子孫・臣下達は、ある意味「隠れ南朝」として
潜行し、そのパワーを戦国時代において一気に吐き出したものと思われます。

 次回より、宗良親王について、考察をしてみたいと思います――
 
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月15日 02時01分53秒 ) パスワード

三つ柏さん

わたし的には九州に行った  懐良親王  がなんとなく好きです。
この人のせいで  日明貿易をやりたがってた義満は明から拒否されて  エンエンと待たされることになり  

         ザマァ〜

だけど南朝方より脳細胞1個多い義満はアタマ使って日本国王として認められ無事明との貿易を始めることが出来た。

         やっぱり負け


懐良親王には父方母方一族も従い   とはいえ  南朝方は武運拙く  歴史の絨毯の下に掃き入れられて  赤の他人となってしまった。

         この板のお蔭で  今では  700年前に別れた  父方母方一族と交流を持てたりもしている。

         とはいえ  元寇襲来で  その時には絆は出来てたけど。



こうして歴史のロマンを語るのは楽しいけれど歴史の現実は厳しく封印してしまう。


結婚って  今は  背景の分からない人同士になって来ていて  過去の記憶がどんどん薄められているように思う。
100年後には移民の子孫が 「うちは徳川将軍家の子孫」とか「神武天皇の子孫」なんて言ってるんだろうな  と思う。
それはそれで  それが歴史の流れなんだろう  と納得もしている。


だけど、そうはさせまいと先祖達が自分の家のことを今の内にしっかり確認して残しておけと呼び掛けているのだろうな。


奥州の南朝方のことは  ちょっとだけ  思うところがあるけれど  イマイチ  繋がっていない。
結構、手はお互いに差し伸べ合ってるんですけどね  1997年以来。
やっと向こうが気付き始めたばかり。このコロナのお蔭で。笑
[18]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月16日 11時16分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『皇子たちの南北朝』(森 茂暁著)の中で、『本朝皇胤紹運録』には後醍
醐天皇の皇子・皇女について、前者が十七人、後者が十五人、合計三十二人。
その母親となった女性は二十人であったと記されております。子女の数は、
祖父の亀山上皇の二十九人(母親十八人)を超え、遠祖の醍醐天皇の三十九人
(母親十四人)に次ぐという。そして、子女の中には事蹟不明、母の実名不明
の者も少なくないということであります。

 明らかな后妃と皇子女を列挙してみますと――

 @二条為子(最初の正妃):「尊(たか)良親王」、「宗良親王」

 A遊義門院一条局:「世(よ)良親王」

 ➂民部卿三位:「護(もり)良親王」

 C西園寺禧子(二番目の正妃):皇子なし

 D二条藤子:「懐(かね)良親王」

 E阿野廉子:「恒(つね)良親王」、「成(なり)良親王」、「義(のり)良親王」

 F?子内親王(三番目の正妃):皇子なし

 G二条栄子:なし

 「良」の通字は「よし・なが」で「よし」と多く読まれるが、地域によっ
 ては「なが」と読まれる(遠江では「なが」)。

 護良親王の母は、通説では北畠師親の娘・源親子と言われているというこ
とですが、森茂暁氏は「日野経光の娘・経子」とみるのが最も妥当であると
言う。

 二条家からは三人の后妃が入内しています。後醍醐天皇と二条家との関係
がいかに強かったかということがわかります。では、それは一体何故だった
のでしょうか――
[19]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月16日 11時18分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:皇子女→皇子
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月16日 14時19分48秒 ) パスワード

三つ柏さん


二条家についてお書きになりますか。
大変な作業になりますねぇ。
お歌の家の二条家 vs 政治の家の摂政関白の二条家がありますから。

おそらく三つ柏さんは「お歌」の二条家についてお書きになるんでしょうが。
宗良親王  が代表者ですね。


      政治の摂政関白二条家も南と北に分かれてグチャグチャになって行きますねぇ。


摂政関白の二条道平は後醍醐天皇と討幕を計画して・・・バレて・・・断絶になり・・・その後鎌倉幕府が倒れて  ラッキーとばかりに  娘の栄子Gは後醍醐天皇の女御となり息子の良基は従2位となって  ・・・  その後 道平が亡くなって・・・ 尊氏が後醍醐天皇を吉野に追い出し  ・・・  ここから政治の二条家は南朝方北朝方に分裂して・・・良基は北朝方について  ・・・  そして良基は足利3代将軍義満の良き理解者に。だから義満が日本人には難易度の高い平行思考が出来たのは二条良基の理解と指導の賜物でしょうね。


      政治の世界はワケ分からない魑魅魍魎の跋扈する闇。


@とDは  同じ筋の(つまり  お歌の家の)二条家の出で、オバメイ関係ですね。


@は後醍醐天皇の皇太子時代からの「お歌」を通じた相思相愛関係の夫婦ですね。でも夫が天皇になる前に儚くなってしまいましたね。


Dは父を幼くして失くし、政治系の二条家である摂政関白の二条道平に仕えて

そこから後醍醐天皇の中宮(西園寺禧子)に仕え・・・よくある・・・天皇のお手がついて側室になって懐良親王を生み、

明の国史では日本の「国母」となる女性ですね。

理由は
懐良親王が九州にいたので明の洪武帝が日本と交易をするのに最高権力者は誰かと問い合わせた時に懐良親王が自分だと答えたことから
明は懐良親王としか交易をしない。

明にとっての交易相手となる日本国王は懐良親王であった。

それで日明貿易を望んだ足利義満は明から「日本国王」と認められるまで長々とチャンスを待たなければならなかった。


後醍醐天皇にとっての真の支えは Eの阿野廉子  でしたね。なかなか気丈で頼もしい女性。日本史上の悪女の1人とされていますが。
[22]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月17日 10時57分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:?子内親王→?子内親王 (「?」の文字変換が「?」となっていた)

 歴史の真実は、掘って掘って最後に遺物にぶつかる……でも、その解釈が
幾通りにもなって、にじんでしまいます。結局のところ、数学的な手法、つま
り統計的AI的手法で行くのが一番確率が高いということではないか、藪の中
の真実の探求は、無限に続いて行き、確率は高くなっていき、けれど終わりは
ない。

 藤原貴族についての探求はまだ手付かずの状況でありますので(現在の弱点)、
今後深掘りして知見を深めたいとは思っています。

 それにしても、後醍醐天皇と二条為子が結ばれたのは、「和歌」の力でもあ
ったということ……「和歌」というもの、一度深掘りする必要があります。

 用事で――

 
[23]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月17日 17時53分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 数年前に井伊谷宮社務所にて、宗良(むねなが)親王の和歌集『李花集』を購入
しました。が、和歌もなかなか難しいものであり、また総合的な理解力もなかっ
たので、そのままになっておりました。

 今回、改めてこの『李花集』を通読してみました。武人ではなく、歌人として
の宗良親王を想像しますが、地方を転戦する合間に次々と和歌に気持ちを託すそ
の能力は、驚異的であります。転戦ということでありますので、ある意味武人、
武将でもあったはずであり、実際の様子を知りたいところでもあります。

 『李花集』の李花は杏子(あんず)の花であり、長野県の松代の近くに「あんず
の里」というところがありますが、李花集の李花はひょっとして信濃にちなんだ
ものかも知れません。「李下に冠を正さず」のことわざにちなんだものとは違う
ような気はします。

 この『花集』には、宗良親王の歌912首が収められております。私的には、
「みよし野」という言葉が何とも心に響くので、この「みよし野」にちなんだ
歌に非常に興味を持ちます。調べると14首の歌を見つけ出すことができまし
た。それらを列挙してみますと――

 @春たつといふはかりにはかすめともなほ雪深しみよし野の山
 Aみよし野の谷のふるすも出てにけり君か春しる鶯の聲
 ➂みよし野やこれより奥の嶺つつきありともみえすかすむ空哉
 Cはなならて何とかみむみよし野のあをねか嶺にかゝる白雲
 ➄ふる郷は戀しくともみよし野の花の盛りをいかゝ見すてむ
 Eたつねみる人のためにや残りけむ同しかさしのみよし野の花
 F尋ねても今はた誰かみよし野の花のむかしを我にかたらむ
 Gみよし野の山の秋かせ更くる夜に古郷かけてすめる月かな
 H思ひきやつかへなからにみよし野のおくより奥を尋ぬへしとは
 Iみよし野のふる郷人も君すめはまたにきはふる時にあふらし
 Jおほつかないかなる山そみよし野の奥たに人のつてはありしを
 Kたらちねの守をそふるみよし野の山をはいつち立ちはなるらむ
 Lおくれしと思ひし道もかひなきは此の世の他のみよし野の山
 M萬代とよはふる聲はみよし野の吉野の山の神のつけかも

 宗良親王の母は二条為子、父は後醍醐天皇。為子は藤原定家の直系筋で、
定家から数えて6代孫にあたる。二条家は歌壇の最高峰を誇る。
 後醍醐天皇も優れた歌人。
 その両親の血を引き、また歌の権威としての二条家の伝統を身に着けた宗良
が、いともたやすく歌を詠えるのも当然のことかも知れない。
 「みよし野」―吉野には桜の季節に一度行ったことがありますが、「みよし
野」という言葉に、はるかに吉野宮を偲ぶ思いが込められているように感じる
ようになったのは、百人一首等の和歌を通じてであります――
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月18日 02時21分14秒 ) パスワード

三つ柏さん

<21>は恥ずかし過ぎるので消しました。
あはは


随分前に宗良親王の直筆?の和歌集?が  神戸の旧家で見つかった記事がありました。
わたしがどこに住んでた時か  ロス時代かな?そうすると20世紀の時かな? それも記憶に定かではありません。
南朝方ゆかりの旧家なら納得です。



宗良親王は転戦してますから   
わたしが読んだミステリー小説で
宗良親王の御座所は10畳の広さだったか10坪の広さの御所だったか
そのミステリーは御在所が大河原にいた時の設定です。



このブログは是非お読みください。余りにも詳しくて   リタイアしました。情けない

https://blog.goo.ne.jp/magohati35/17

ということで  古文書に赤線が引っ張ってある箇所に  高岡にも宗良親王創建のお寺があるそうです。
越中宮極楽寺

     越中と言えば平家方ですから南朝方武士の中に平家の遺臣がいたのは明瞭。


近くの敦賀の金ケ崎で宗良親王の兄上が自害してますね。
後醍醐天皇と二条為子の間に生まれた一宮である尊良親王。
新田義貞の嫡男の義顕から自害の仕方を習って。

       この辺りは泣けて来るので  書けない。

       この時、母親が阿野廉子である恒良親王は捕らえられて足利方に拘禁され(暗殺された?)

          暗殺された方が恒良親王なのか恒良親王のお子さまなのか疑問ですが
          阿野廉子の子なら自害したんじゃないかと思うけど一応天皇を称した人だから自害はしなかったのか?


ま、とにかく虚実入り乱れてワケ分からないです。


宗良親王も実際の足取りはどうだったのでしょうね?
[25]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月19日 08時47分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 吉野という所、土地勘というか地図勘がないのでどの辺かよく把握できてお
りませんが、奈良の奥という感じでしょうか。
 地図をみますと、吉野は奈良の南約40qの所にある「五條市」の東約20
qに位置し、反対に西役20qの所に高野山があります。
 吉野から奈良の東側の山地を迂回して北へ行くと、室生、黒田庄、そして「
名張」に至ります。
 名張を中心として、半径約20qの円を描くと、南東に北畠氏の「美杉」が
あり、北東には「伊賀上野」、北西には「笠置山」があります。
 つまり、奈良の東、伊勢の西の領域に南朝勢力の拠点があったとみることが
できます――
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月19日 14時23分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


吉野って  奈良のど真ん中  って感じがしませんか?
吉野ってものすごく広大な土地です。1つの県に相当するほどの広さ。


後醍醐天皇は何故吉野に逃げたのか?
それは  吉野が特別なバショだから。今で言う  パワースポット。
吉野は霊力の満ちた特殊な場所と考えられていて持統天皇なども何度も吉野への行幸を行いその霊力の恩恵に授かろうとした。


http://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/fukabori/detail11/
11  後醍醐天皇と吉野

応神天皇以降  吉野が離宮だったんですって   その上に  吉野は中央で居場所を失った人が再起を図る場所だったんですって
                              ガーン!
                              ただの山深い僻地じゃなかったんですねぇ
                              オットを連れて吉野に行きましたよ、すっごい山の中でした。
                              まだ奥に行くの?って感じの場所でした。


    敗者復活戦の場:   

    乙巳の変で天智天皇の腹違いの兄上・古人大兄皇子は自分を天皇にしようとしたイトコの蘇我入鹿を殺されて吉野に逃げ、天智天皇に殺された

    壬申の乱では天武天皇は兄上の天智天皇の死が近くになって陰謀を感じとり後継者争いで我が命が危ないと悟り妻や子を連れて吉野に逃げた

    義経は頼朝に追われて吉野に逃げた
   
                              こんな感じ



下記は天武天皇8年(679年)に天武天皇が妻や子達を連れて吉野に行った時に詠んだ句だそうです:万葉集 巻一(二十七)

        よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見

        意味:
        昔の立派な人が、よき所としてよく見て「よし(の)」と名付けたこの吉野。
        立派な人であるお前達もこの吉野をよく見るがいい。
        昔の立派な人もよく見たことだよ


吉野って天皇家にとって特別な場所なんですね。
だから天武天皇は「みんな  仲良く  協力し合えよ」と教え諭したんでしょうね。

        その割には天武天皇が亡くなると後継者争いから大津皇子さんは謀反の罪を着せられて自害することになりましたけど。



わたしは父方母方ともに南朝方で、
わたしの他にも父方母方が南朝方という人がいるわけで、
中には(勝手に書いてはいけないけど)後南朝の天皇の血筋の方もいらっしゃって、
さらに  「八咫烏」グループ  のこともご存じの方がいます。
この方はまさに藤原氏系平家の血筋です。



うちは伊勢にいて後醍醐天皇のお召しで宗良親王にお仕えし転戦し尾張南西部に定住。
村上源氏の北畠家は伊勢の国司になられて信長に乗っ取られ殺された。


後醍醐天皇としては良い場所に御所を置いたつもりだったんでしょうけど。


                        自分の先祖が直接関係する件って書き難いですね、スゴイ家の方がいらっしゃる事を知っているばかりに。
[27]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月19日 19時26分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 やっぱり奈良県の詳しい地図がほしい。歴史がつまっていますので。
 以前、吉野へ行ったとき、そのあとは十津川沿いに南下して川湯温泉へ泊り
ました。今、改めて歴史探求の旅ということで、吉野とその周辺を回ってみた
くなりました。
 
 後鳥羽天皇と後醍醐天皇とは反幕運動をしたということで、似ています。そ
して後鳥羽天皇と藤原定家の関係と、後醍醐天皇と藤原定家の玄孫の二条為子
の関係が、同じ御子左家流という共通の歌道でつながっています。このへんの
流れもよく理解したいと思います――
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月20日 01時29分59秒 ) パスワード

三つ柏さん

>十津川

まさに  母方先祖がいた場所です。
その東の北山とか川上とかにも。

後南朝が瓦解して  十津川〜紀州にかけて  我が家は戦国時代に至るまでウロウロ雌伏してた、って表現かな。
この辺りの女性の顔は母にそっくりです。


奈良の西になると別の南朝方グループのエリアで  紀州の北部や河内なんか
  ああ、お仲間だな、と思います。こちらにも母方の一族がいました。


最近の若い俳優に  この人の先祖は南朝方だ  とシミジミします。

名前を出したいけど  ドラマの中の演技中の表情より  バラエティで素を出している時の瞳のキラキラさにヤラれていて 
     アンタは  オトコの好みのストライクゾーン  広すぎるね  
と言われるから  名前は出さないでおく。


      でもホント!  
      映像を見てるだけで  この人の先祖とわたしの先祖は吉野の山奥を駆け回って戦ってたんだな  とシミジミします。

      ホント!最初に一目見ただけで先祖の繋がりが分かります。
      そして!その親友役の共演者も母方の一族で!ヲイヲイ!でしたよ。

           きっと  その2人は全くお互いのことを知らないでしょうけど   
            いつか時間が経ってから  気づくかも。もう知ってるのかな?



ところで「光明真言」というお経を御存じでしょうか?
これは真言宗のお経で  108回唱えると浮遊霊を成仏させるとか。

      わたしは暗記力は17歳までに使い果たしたので今はムリ。
      吉野にいらっしゃったら是非唱えてあげてください。
      吉野に漂う南朝方の人々の思いが浄化され成仏出来るように。

https://www.kongohin.or.jp/recite.html
おん あぼきゃ べいろしゃのう
まかぼだら まにはんどま
じんばら はらばりたや うん

音源も出てます。



最近  食べた事さえ  忘れてたりして  心の中で大騒ぎをしています。
若い時は  寝食忘れて頑張った  のに。    
[30]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月20日 08時50分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私の宗教修行は「空海」・「真言宗」から始まっていますので、弘法大師関係
のお経や真言陀羅尼、虚空蔵求聞持法等は、いの一番に覚えております。
 歴史探求的には、空海からは離れておりましたので、一度空海の歴史における
立場、その後の影響というものを総括してみたいと思っています。
 真言宗の東密の流れ、天台宗の台密の流れ、それ以外の雑蜜の流れ、これらが
本当の「三蜜」なのですが、新型コロナ対策用語に使われてしまい、変な気持ち
になっています――
[31]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月20日 10時29分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大久保氏の探求について、ずっと大回りしておりますが、藤原定家の子であ
る為家は、宇都宮頼綱(大久保氏の祖の朝綱の子)の娘を娶っております。頼綱
は宇都宮歌壇を築き、定家の京都歌壇にも並ぶ存在となりました。
 大久保忠員が三条西公条の娘を娶ったのは、九条家・二条家、三条家・三條
西家、そして宇都宮家の歌道による「糸」でつながっていたのかも知れません
……。

 不思議に思うのは、「歌道」というもの、政治と同じレベルの重要性を秘め
ているように思えること。しかしながら、所詮は宮廷サロンの知的遊び・自己
満足に過ぎないと思うのですが、その真相・本質はいかなるものなのでしょう
か。そこには藤原氏という大きな存在があり、それなしでは考えられないので
すが……。

 『古今和歌集』(醍醐天皇)から『新古今和歌集』(後鳥羽院)まで300年の
年月を経ております。選者の一員としては前者が「紀貫之」、後者が「藤原定
家」であります。これら勅撰和歌集は、900年代の初頭から1200年代の
初頭にかけて8冊が編纂されています。

 これら歌道も含めて、宮廷文学というものの台頭した背景を調べてみたいと
思います――
[32]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月21日 09時46分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 日本語の形成過程については、山口謡司氏の『日本人が忘れてしまった日本
語の謎』にかなり解説されています。その中には、村上天皇も藤原定家も空海
も出てまいります。
 それらについて、要約して次回にお伝えしたいと思います。

 邪魔が入りましたので――

[33]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月21日 13時20分04秒 ) パスワード

三つ柏さん


宇都宮氏も南北朝時代は大変だったんでしょうね。
後に結城合戦があったりして   松島家譜にちらっと  かすめますね。


     日本ですね
     グチャグチャに絡んでるので何が何やらでワケ分からなくなりますね。


さらに下って戦国時代には春日局は三条西公条の玄孫でもある。


このあたりになると  日本中が親戚関係で  心情的には助けたくても助けられない。
武家は本能寺の変の後の明智方の処刑をどんな目で見てたんでしょうね。


     今は皆さん自分の先祖が分からなくなってるからキレイさっぱり他人の関係でスッキリしてるのかもですね。
     家系の自浄作用?



今回の「麒麟がくる」で   光秀役の長谷川博己の姿勢の美しさ  に気付きました。
姿勢が美しいと人間性も美しく見えますね。


わたしは鶴太郎演じる摂津晴門が出て来てワクワクしています。両人とも「名優」ですからね。どんな悪役像か楽しみです。


不満は  望月東庵とかお駒さんとか伊呂波太夫とか  架空の人物のシーンが多過ぎること。
主役のシーンが少なすぎる。やっと先週から明智光秀の活躍なのかなと。



「日本語の謎」
教えてください。
楽しみにしています。
[34]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月22日 10時50分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 藤原氏の台頭は、奈良時代、不比等の娘・宮子が第42代天皇文武の皇后に
なり、生まれた首皇子が、724年に第45代天皇聖武になってより、「藤原」
の姓の母を持つ天皇が、鎌倉時代の第87代天皇四条まで、必ずしも連続して
ではないが、ほぼ500年にわたり続いた。これは即ち、天皇家における藤原
氏の血の濃さと存在性が不動のものとなったということであります。歯に衣を
着せずに言えば、藤原氏による摂関政治も含めて、藤原家は事実上の天皇家に
なったとも言える。もっとも、藤原氏から派生した氏族も皇后として存在して
いるので、実際は500年よりももっと長い期間にわたって影響力が続いてい
たということになります。

 日本語(漢字〜万葉仮名〜平仮名、そして和歌)についてのまとめは次回――

 
[35]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月23日 13時42分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 語として成立するまでの過程を推理すると、まずは口で意味を持った声を発
し、それを耳で聞いて理解するという始原的な状況があった。
 それは語彙となり、やがてそれを目で見て読んで理解し、また記録するとこ
とができるように、文字化、文章化が進んだと思われる。
 そういった意味において、日本語としての成立の分水嶺は、万葉集において
「万葉仮名」を成立させたことだと思います。
 従って、日本語の起源というものを考える時、万葉集以前と万葉集以後の二
つに分けて考えたほうがわかり易い。というか、万葉集以前は渾沌としていて
一筋縄ではいかない、簡単にはいかないという事情があります。百済やポリネ
シア、ヘブライ、アイヌ等々……ちょっと時間がかかりますので、こちらは凍
結しておきます。
 まずは、万葉集以後のことについて、記したいと思います――
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月23日 14時39分45秒 ) パスワード

三つ柏さん

>日本語の起源というものを考える時、
>万葉集以前と万葉集以後の二つに分けて考えたほうがわかり易い。

へぇ〜
考えたこと  無かった
(新鮮)
[37]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月26日 13時45分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日〜一昨日と、一泊二日にて、仙台と福島へ車を飛ばして行ってきました。
片道650q、往復1300qの旅でありました。

 仙台では「多賀城跡」を見学、夜は福島の「飯坂温泉」に宿泊いたしました。
 万葉集とは関係のない旅でしたが、多賀城は万葉の時代にできていますので、
そういった意味では関係するとは言えます。
 飯坂温泉も万葉集とは関係はありませんが、東北を代表する温泉で、松尾芭
蕉と曽良がこの温泉に入り、宿泊した場所でもあります。また正岡子規や与謝
野晶子も泊まっており、文化・伝統のある場所であります。

 松尾芭蕉の入ったと言われる「鯖湖湯」に浸かってまいりました。芭蕉の旅
の疲れはこの熱い温泉でとれたことでしょう。そんなことを想像しながら、芭
蕉になり切ってお風呂に浸かっておりました。

 東北高速道路で東京から北へまっしぐらという旅、東北という所の土地勘とい
うものが、少し感得できました。宇都宮やら那須高原やら白河の関やらの位置が
体感できましたこと、これは歴史を探求する上では大きいと思っています。

 まだ疲れが残っています。もう少し経てば正常に戻ると思います――
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月27日 01時22分07秒 ) パスワード

三つ柏さん

お疲れさまでした。


「飯坂」というのは伊達家を考える上で重要な地名の1つだった記憶です。
でも内容は   


1.
飯坂氏は一応伊達家の血筋だけど・・・

2.
飯坂局が政宗の側室に上がって後の宇和島藩主・伊達秀宗を生む   
だから  大変な伊達家内のゴタゴタがあった

3.
戦国史上ド派手な「人取り橋の戦い」があって

   二本松の畠山義継が伊達政宗の父親・輝宗を拉致して
   2人が一緒に死んだ(=殺された・つまり父親も殺しちゃった)後に起きた
   佐竹+蘆名+その他南奥州有力大名家連合軍 vs 伊達政宗の戦いが起きた

        それでどうなった?
        というワケ分からない結末
        ま、政宗の勝利、で良いのでしょう

             理解が出来なくなったのは
             伊達成実(政宗のイトコでありマタイトコでもある)を三浦友和が演じたのだけど
             この人  ヅラが全く似合わなくって  お笑いだったので
             そっちが気になって  NHK「独眼竜政宗」 ではこの戦いをどう描いたのか記憶に無い


その後、日本史上のいろいろがあって、
飯坂局の生んだ男子が…伊達家の跡取りだと思われてたのに   
政宗と正室の愛姫の間に男子が生まれてしまって育ってしまって
結局は飯坂局が生んだ男子は宇和島藩の藩主に納まった
というお話。


      ロス時代の旧華族のおばさま達のサロンの中心人物だった伊達の孫姫は佐竹の姫君でもありました

      これを知った当初   (え?伊達と佐竹って  仲  悪かったんじゃないの?)  と思った(笑)


東北っていうか奥州というか  遠過ぎてこんがらがっててワケ分からないけど

蘆名家が非常に気になっています。今だに蘆名家が滅びていった経緯がよく分からない。
佐竹から養子を迎えたりしたけど結局嗣子無しで断絶になって  後に家名再興  というのがあったらしいけど。


    蘆名は桓武平氏三浦家の子孫で  木曽義仲を討って近江の石田を貰って    子孫が  石田三成で
    三成の隠し子が   上杉家で育つんだけど  育ての親が前田慶次郎利益=前田利家の甥。 



ということで奥州は物理的にも心情的にも遠く  ロマンに満ちている。
[39]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月27日 08時16分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今回の車での走破距離は往復で1300qでしたが、芭蕉の「奥の細道」に
おいては、徒歩にて2400qですので、もう一回分くらい足らないというこ
とになります。車での距離感から言いますと、それでもものすごい距離を走っ
た感じがしますので、芭蕉の旅は、歩いて歩いて歩いての誠にしんどい旅、く
たくた、よれよれになった旅だったと思われます。それでも、やり遂げたあか
つきには、ホッとした安堵感と満足感が湧いてきたのではないでしょうか。で
もとても徒歩ではまねできません。いかに健脚であったか!ということ……。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月27日 13時20分51秒 ) パスワード

三つ柏さん

>いかに健脚であったか!

現代人は1日に8000歩〜1万歩少なくとも歩きなさいと言われますが
ムカシの人は1日に  3万〜4万歩  歩いていたんですってよ。


ということは芭蕉はもっと歩いていたんでしょうね。


わたくしは毎朝  2時間  外出していますが
途中で釣り師をからかったりして2時間ずっと歩き続けているわけではありません。

でも  エンドルフィンが出るのは実感しています。  
2時間も歩くと気分が良いです。
      1時間では足りない感じです。


ムカシの人は歩き回って精神衛生にも良く肉体的にもよかったでしょうね、筋肉を保ち脂肪をおとしたでしょうから。



>今回の車での走破距離は往復で1300qでしたが、
>芭蕉の「奥の細道」においては、徒歩にて2400q

クルマの場合は高速とか舗装とかがあって整備された快適な最短な道ですが
芭蕉の歩きはムカシの街道を使用したのでしょうけど川や沼にさしかかって遠回りしたり山道もあったり草深い獣道の場所もあったりの難渋な道ですから
芭蕉の方が  数字にすると  大きかったのかな?

わたしは新幹線を利用したりの方がいいな。
[41]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月28日 12時08分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「万葉仮名」――即ち大和主流の「表音言葉」(A)を表記するため、大陸伝来
の「漢字」(B)を「表記文字」として、「当て字」し、万葉仮名文(C)を生み出
した。
 万葉仮名は進化していき、平仮名、片仮名を生み出し、「日本語」(D)として
磨きを掛けられて行く。
 和歌は、この日本語の磨きと統制のために活性化されたと推察いたします。

 古代のこととて、真実を確定するのはとてつもなく労力が必要なので、突っ込
んで検討することは避けたいと思います。
 
 その後、和歌は公家の教養と文化遊びのための方向性が強まっりサロン化した
と推察いたします。それに武士が追随した。

 でも、それが文化・言語水準を高め、日本のためになった――
 
[42]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月29日 21時19分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 1300年代の「後醍醐天皇」が目指した政治形態は、その約400年前、
900年代の第60代「醍醐天皇」と第62代「村上天皇」父子の天皇親政
でありました。
 後醍醐天皇も次代を「後村上天皇」と称させたこと、親政への並々ならぬ
意気込みがあったと思われます。

 さて、醍醐天皇は、『古今和歌集』の編纂を「紀貫之」等に命じておりま
す。また後村上天皇は、『後撰和歌集』の編纂を命じております。勅撰和歌
集というものの始まりであり、その後1200年代の第82代後鳥羽天皇が
院になって、第8番目の勅撰和歌集『新古今和歌集』の編纂を「藤原定家」
等に命じるまで続いております。その間およそ300年。
 また、定家の歌道師範家筋「御子左(みこひだり)家」を通じて、後鳥羽天
皇と後醍醐天皇はつながっております。

 山口謠司氏は『日本人が忘れてしまった日本語の謎』の中でこう言ってお
ります――
「平安時代、天皇は勅撰和歌集をほぼ30年か40年余りのスパンで作って
いた。当時の日本語は未熟な段階であった。漢詩、漢文を日本語に置き換え
る作業として『和漢朗詠集』(1013年頃)などが作られていく。また、歌合な
どで漢語を日本語化していき、日本語の語彙をどんどん増やしていく。それ
をしなさいと天皇は命を下すわけだから、天皇家は和歌の歴史をずっと心得
ているわけである。これだけは普通の人々には絶対にできないことだったの
である。
 このことから、天皇は日本語の歴史をすべて引き受けていると言っても過
言ではない。それは当然尊敬されてしかるべき天皇の功績なりである。
 天皇はそのため子供の頃から言葉を学び、特別な教育を受けた。室町時代
の後奈良天皇は、自分の趣味でもあったが、全国から謎々を集めて「謎々の
本」を作っている。
 今上天皇にしても、言葉に非常に興味がおありだが、好き嫌いにかかわら
ず、天皇は和歌をつくらなければならないのである。
 和歌に関しては藤原家の功績も大きいが、あくまで第一人者は天皇であり、
藤原家はサポート役にのである。このような和歌の作り方はしないほうがい
いのではないかとか、進言はできるが、歌会を招集したり、指揮をとること
など誰にもできない。天皇にしかできなかったのである。
 国歌は言葉であるということからすれば、言葉は天皇であるとも言える。」
ということであります――
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月30日 01時38分09秒 ) パスワード

三つ柏さん

>和歌に関しては藤原家の功績も大きいが、
>あくまで第一人者は天皇であり、 藤原家はサポート役である。

>歌会を招集したり、指揮をとることなど誰にもできない。天皇にしかできなかったのである。

>国歌は言葉であるということからすれば、言葉は天皇であるとも言える。


すごい!


自分なりに「和歌」について考えてみたけれど、これだけの事には思い至りませんでした。
ありがとうございました。


ムカシも今も  歌は世界共通  カラオケも世界的に大人気です。

でも国家元首が中心になって今でも
というのは日本だけでしょうね。


そして天皇が「こっちの方が良い」と判定なさったり
「お歌会」は、まさに、天皇主催の日本文化ですね。


     わたしは  汗水の伴わない労働をしない  貴族文化   と思ってましたが
     そんなレベルじゃなかったんですねぇ。


              ありがとうございました。
[44]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月30日 11時27分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「言語の統一」= 「国家の統一」と考えれば、朝廷の長たる天皇にとって、
その治世のためには言語の統一は必須の事項であったと考えられます。その
言語の統一に関して、藤原氏の果たした役割は大きい。
 もう一つは、「歴史」の記述……様々な支族の持っている歴史を統一する
必要があったと思われます。
 そして、歴史の統一=改竄は、藤原氏が主体になり『日本書紀』という形で
結実した。
 藤原氏は「言語」と「歴史」を我が物にし、天皇家もほぼ乗っ取り、つい
には日本の支配者となったということになります。
 その裏には、隠蔽されたもの、改竄されたものもあったはずで、それは蘇
我氏と秦氏の勢力ではないか、そんな気がいたします――
 
[45]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月31日 12時13分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いずれにしても、古代に入ると証明のできない渾沌となりますので、この辺
で止めておきますが、藤原氏の天下も武士集団の興隆によって衰退していき、
南北朝の争乱時に、かつて虐げられていた敗者グループが蘇ってきたような感
じがいたします。
 日本の歴史のすべての真実を語る本が出現してほしいものです!
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月31日 14時24分22秒 ) パスワード

三つ柏さん

>日本の歴史のすべての真実を語る本が出現してほしいものです!

はい
真実が知りたいですね。
ムリだとは分かっていますが。


     もう100年もしたら天皇制は吹き飛んでいるでしょうから
     真実なんて、日本の過去の歴史なんて、
     必要無いんだろうなと思います。


どんな国になっているんでしょうね
オソロシイ
外国の数ほどの悪の組織が日本中に出来てて
平成時代に警察がヤクザを潰したのを残念に思っているかも。


>藤原氏の天下も武士集団の興隆によって衰退していき

藤原氏の天下が武士集団の興隆によって衰退したように
100年後には日本人は少数民族となり根室や網走・トカラ列島あたりに追いやられ
日本中がいろいろな国の悪の組織同士の戦いに明け暮れているかも。


       そういうのが「歴史」かも。


東京じゃスゴイことになっていると聞いています。
名古屋でも日本人ヤクザの親分なんてとっくのムカシに追い出されて久しいとか。


このレスを読んだ100年後のヒトが「へぇ〜、今の世の中を100年前に予想してた人がいたんだね」な〜んて感心してくれてるのかも。


蘇我氏も秦氏も   まさか自分達が日本の歴史から掃き出されるなんて  予想してなかったでしょうね。


           それが  「歴史」  ということ。


ホノルルにビショップ博物館というのがあってハワイの歴史がその建物に収められているのですが
日本の歴史も「日本歴史民族博物館」たった1つに収められてしまう日がいずれ来るんだなぁと思ってしまいます。

           それが「門戸開放」ということ。


日本人が子供を2人しか  または  1人しか生まないということは人口が確実に減るということで
多産系の民族が取って替わるということです。


日本の絶頂期を見ました。今は日本の衰亡期。いずれ<日本>の歴史が止まるんだなと。
その時はどんな国名になっているんでしょうね。
「むかしムカシ大昔、太平洋の西の端に日本という名の島国があって其処の住民は日本民族と呼ばれていました」っておとぎ話が語られるのかな?



なぜこんな事を書いたのかと申しますと
11月3日のアメリカ大統領の選挙に投票出来ない人がいるから
というニュースを見たからです。

      毎年  コレで騒いでいます。


つまり自分の名前がちゃんと正しく登録されていないから起きているのです。

      どうして自分の名前を確認しないの?
      と戸籍謄本制度のある日本人のわたしは思いました。

           とはいえワタクシの祖父の名前は某市の戸籍では漢字が間違っています。
           祖父は大阪人であり四国人であり名古屋人でもあったので戸籍を辿ったら四国の活字入力の名前の漢字が間違ってました。笑


アメリカの場合は「戸籍謄本」は無くて別の形での登録で=A=日常的には州の発行する運転免許証が州の住人=B=の2つが基本になります。


このAとBの名前が   違うと  別人と見做されて選挙の投票が出来なくなります。

           毎回選挙の時にこの問題が起きて騒いでいる人達がいます。

                 だったら何で確認を怠ったの?
                 とワタクシには理解出来ない。
                 何故変更を申し立てなかったの?前回からでも4年もあったのに!


日本人は過去いろいろあって自分の出自が分からなくなってる人が結構いる。
なぜちゃんと伝えておかなかったの?
なぜちゃんと訊いておかなかったの?
なぜ文書で記録しておかなかったの?


こうして「存在してなかった」となるのだろうな、と。


わたくしが知っている唯一の秦氏系服部さん   
もう名乗る人はいなくなったのかな?
[47]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年11月01日 11時02分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いずれにしても、古代史は相対的な推論によって描かれており、つまり立場
によって解釈・推論が違ってくるものであるということ。これはある意味どう
しようもないということ。最後は考古学的資料に頼っていくしか検証方法がな
いというか、それは結局のところ無理ということになる。従って、自分がこれ
が正しいと思うことを正しいと信じて前へ進むしかないというあきらめ・ある
いは悟りに達しました。
 私的には、ヘブライとの関係をどうしても解明したいという気持が大変強い
のですが、現実的には日本の歴史の過程でヘブライ隠しというものが行われ、
現代ではわからなくなっているのだと思っています。それでも、高句麗・百済
・新羅・伽耶の本質がわかれば、日本の本質がわかってくるのかなと思ってお
ります。

 日本国の言語の統一は、900年代、第60代醍醐天皇の頃、即ち「古今和
歌集」の頃にはほぼ完成していたと思われます。そのおよそ400年後にあた
る1300年代、第96代後醍醐天皇の御代になります。
 この「醍醐」というのは「チーズ」のようなものを指すと言われております
が、なぜこのような名前を付けたのでしょうか。現代では「醍醐味」という言
葉では使われております。醍醐天皇と後醍醐天皇に、何か特別な属性があった
のかどうか興味のあるところであります。

 大久保家の先祖の宇都宮家もなかなかのものであったということ。大久保家
の先祖筋が、後醍醐天皇方に付いたということは絆上の必然であったというこ
と。同じく、吉野十一党というもの、南朝方に付いた必然性があったのかどう
か、深堀りしたいと考えます――

 
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月01日 16時44分37秒 ) パスワード

三つ柏さん

>吉野十一党というもの、南朝方に付いた必然性があったのか

これは簡単です。

「後醍醐天皇のお召しにより」南朝方に付きました。

      ワタクシとしては大義が後醍醐天皇にあったから。

それで「吉野忠臣」と呼ばれました。


確か 15家 「4名家7名字4名姓」  だった記憶です。


       4名姓については非常に不思議な体験をして
       突然  この4名姓が現れて
       その後  どんなに探しても  4つの姓の家を見いだせないです。

              記憶では  藤原・長野・赤堀  もう1つが思い出せない。この4家は伊勢の人達だと思います。


              藤原は伊藤さんのこと   藤原忠清の子孫だと思う
              長野は戦国時代には北畠の一族として信長に滅ぼされてる
              

https://blog.goo.ne.jp/magohati35/e/f6346d29e1b7d9b250d3a116d83968ac
勝手にコピペ
ブログ主さん  ごめんなさい

途中からです

吉野ヨリ供奉武士
大橋修理大夫定元       岡本左近将監高家
山川民部少輔重祐[或ハ朝祐] 恒川左京大夫信規
此四人ヲ新田家ノ四家ト云

            大橋がなんで新田?

吉野ヨリ供奉公家庶流
堀田尾張守正重   平野主水正業忠
服部伊賀守宗純   鈴木右京亮重政
真野式部少輔道資  光賀大膳亮為長
河村相模守秀清
此七人ヲ七名字ト号ス

是十一家ヲ吉野十一党ト宮方ノ武士申ス也
二心ナク尹良君ヲ守護シ奉ル

飯谷井伊介秋葉天野民部少輔遠■
其外
西遠江ノ兵共御旅行ヲ守テ

先駿河国冨士谷宇津野ニ移シ
田貫カ館ニ入レせ奉ル
此田貫次郎ト申者ハ元ハ冨士浅間ノ神主ナリ

神職ヲ嫡子左京亮ニ譲リ宇津野ニ閑居ス
次郎カ娘ハ新田義助ノ妾ナリシカハ
其好ニヨリ
宮ヲ受取奉ル井伊介ハ親王ヲ宇津野ニ入レ奉リテ兵共ヲハ残シ
其身ハ国に返リケル

冨士十二郷ノ者ハ新田義助厚恩ノ者共ナリ
其中ニ
鈴木越後守正茂同左京亮正武
井手弾正正弼正房下方三郎宇津越中守ヲ始
我ヲトラシト尹良ヲ饗応シ奉ル

同五年ノ春宇津野ヲ出御アリテ上野国ニ赴キ給フ所ニ鎌倉ノ兵共宮ヲ襲奉ル

十二郷ノ兵  柏坂ニテ防戦フ
尹良ハ越後守カ館丸山ニ入給フ

桃井和泉守四家七党守護シ奉ル

敵数日館ヲ取巻テ攻ケレ共宮方四方ヨリ起リテ鈴木ニ加勢ノ兵多カリシ
和泉守丸山ヲ出テ鎌倉ノ大将上杉三郎重方嶋崎大炊助カ陳ニ懸テ主従百五騎上杉カ備タルマン中ヘ切テ掛ル上杉カ兵五千余騎桃井ニ追立ラル上杉カ郎等長野安房守モ討レ兵共戦疲レテ引退ク和泉守追討テ往ヲ嶋崎ハ桃井カ追往其跡ヲ取切ント備ヲ右ニナス桃井是ヲ見テ我勢ヲ二手ニナシ一手ヲ嶋崎カ三百騎ニ指向ケ残ル勢ヲ以テ上杉ヲ追

大橋岡本堀田平野天野等都合二百余騎
嶋崎ニ向テ戦ケル
嶋崎モ前後ヲ取巻レテハ
悪カリナントヤ思ケン

勢ヲ段々ニ引テ


             ここで脱落

一騎モ討レス山浪マテ引ニケル上杉ハ二百余騎討レ其夜ハ上一色ニ陣ス桃井モ勢引テ皈ル井手弾正少弼越後守ニ語曰新田ノ一族ノ御働珍シカラス候ヘトモ今日ノ御合戦某ヲ始十二郷ノ兵共目ヲ驚シ候ト云フ鈴木云フ老テハ何事ヲ申スモ御赦免ヲ蒙リ申スニテ候フ大事ノ前ノ小事ニテ候フ君ノ御供ニテ候ヘハ必ス道スカラ御合戦ニ危キ御働御無用ト云フ貞識曰鈴木殿の仰肝ニ入候君ノ御供中ハ合戦ハ無益ニテ候ヘトモ鎌倉ノ者共桃井カ供奉ニテ候ニ何ノ沙汰ナシト存ル所モ無念ニ存シ其上ニクルカ面白サニ追候ヒシト笑ゝ語リケル鈴木モ路次警固ノタメニ宇津越中守下方三郎鈴木左京高橋太郎此四人に二百八十騎ヲサシ添ヘテ送リ奉リケル尹良ハ丸山ヨリ甲斐国ヘ入リ玉フ武田右馬助信長我館ニ入レ奉テ数日御滞留アリ八月十三日上野国寺尾ノ城ニ移ラセマシマス新田世良田其外ノ一族寺尾ノ城ニ馳集ル同十九年四月二十日上杉入道憲定兵ヲ上野国寺尾ニ発シ世良田太郎左衛門尉政親ヲ攻ム政親ハ戦数回ノし後疵ヲ蒙リ今ハイカニモ叶マシト覚ヘケレハ長楽寺ニ入テ自害ス法名俊山ト号ス二郎三郎親氏勇つ力ヲハケマシ敵陣ヲ切リヌケ新田ニ赴ク同六月七日木賀彦六左衛門尉入道秀澄カ兵二十五騎ヲ農人ニ出立セ新田相模守義則底倉ニ蟄居セシヲ夜ニマキレ彦六カ兵新田カ家ヲ取巻キ時ノ声ヲ上ク義則進ミ出戦疲レテ終ニ討死セリ

同二十三年八月十五日名月ニ事寄セテ上杉入道禅秀鎌倉ノ新御堂満隆ヘ行キ謀叛ヲ勧メ廻文ヲ以テ武蔵上野下野ニ触ニケル新田世良田千葉岩松小田等ノ一族時ヲ待ケル兵共思ゝニ旗ヲ揚ル桃井宗綱禅秀ニ加テ鎌倉ヲ攻テ江戸近江守ヲ国清寺ニテ討取リヌ宗綱ヤカテ近江守カ首ヲ武蔵国■郡矢口村ノ川端ニ梟シ高札ヲ立ツ
 今度攻相州鎌倉於国清寺討捕江戸近江守
 奉為 新田義興主☆如件
  応永二十三年丙申十月十日
          桃井右京亮源宗綱
トソ書ニケリ近江守ハ義興ヲ矢口ノ渡リニテ船ノノミヲ抜テ河水ニ溺ラシ殺シケル江戸遠江守カ子ナリ


               矢口の渡しで竹沢右京亮が義興を謀殺した話は
               ロス時代に古本屋で見つけて読んだ
               享年  28歳だったかな?

               江戸某が義興の亡霊に悩まされて狂死して
               村人が義興の霊を鎮めるのに神として祀り
               後に新田大明神=新田神社が建てられたとか


                  江戸氏ってわたしの母方の先祖の生母系の家なのよね
                  フクザツ


以下もなかなか興味深い
石黒越中守って富山の石黒家のご先祖だろうな、とか
大河原で亡くなったのは尹良親王だったのか     (宗良親王とこんがらがってた)


同二十四年正月十日満隆持仲ノ親族上杉禅秀カ家頼百七十人戦敗レテ悉ク自害ス同五月十三日岩松治部太輔武州入間川ニテ中村弥五郎時貞ニ生捕レテ誅セラル桃井宗綱ハ薙髪シテ下野入道宗徹トソ名乗ケル同三十年小栗孫次郎満重鎌倉ヲ背キ下総ニ下テ結城ニ楯籠ル下野入道并ニ宇津宮左衛門尉持綱真壁新七郎義成佐々木隠岐入道等小栗ニ一味シテ合戦ス桃井ハ八月十三日ニ下野落合ニ皈ヘリケル同三十一年新田小三郎義一世良田大炊助政義同修理亮親季同万徳丸政親桃井入道宗徹大江田安房守羽河安芸守景庸同安房守景国宇津宮ノ一類大岡次郎重宗宇津越中守道次大庭雅楽助景平熊谷小三郎直郷児玉庄左衛門尉定政酒井与四郎忠則鈴木三郎兵衛政長天野民部少輔遠■同対馬守遠貞十田弾正忠宗忠大草三郎左衛門尉信長布施孫三郎重政千村対馬守家通石黒越中守上野主水正山内太郎左衛門土肥助次郎小山五郎左衛門尉并ニ四家七党以下ノ兵共尹良ヲ供奉シ上野国ヲ出御有テ同四月七日ニ信濃国諏訪千野六郎頼憲カ嶋崎ノ城ニ入御マシマス同国住人小笠原七郎正季木曽カ郎従千久四郎祐矯並ニ高坂滋谷カ一族等千野カ城ニ参リテ尹良君ヲ慰メ奉リ旅行ノ御脛ヲ休メケル世良田桃井其外十一党ノ者重テ相談アリテ尹良ノ御子良王君ヲ一先嶋崎ヨリ下野国落合ノ城ニ皈皈シ奉ル四家七名字并ニ桃井貞綱世良田政親熊谷弥次郎同弥三郎桃井左京亮宇佐美左衛門尉開田上野天野土肥上田小山等御供ニテ七月十八日ニ落合ニ皈城アリニケル尹良ハ千野カ城ヲ八月十日ニ御立有テ三河國ヘ移ラセ給ヒケル時
 サスラヘノ身ニシアリナハ住果ントマリ定メヌウキ旅ノ空
ト書セマシマシテ千野伊豆守ニ賜リケル後ノ世マテ千野カ家ノ重宝ニソナル尹良ハ参河國ヘ渡御有テ吉良ノ西郷弾正左衛門尉正庸其外桃井義繁カ厚恩ノ者共多カリシカハ是者共ヲ御頼アリテ上野下野ニ時ヲ待ツ新田世良田ノ一族ヲ催シ再ヒ旗ヲ揚ケ落合ニマシマス良王ト牒シ合セ宮方ノ残兵ヲ集テ合戦可然ト相談一決シテ嶋崎ノ城ヲ御出アリ参河國ヘ赴ムキ玉フ参河ヨリ御迎トシテ久世土屋等多ク参リケリ十三日飯田ヲ越ヘサセ玉フ所ニ杖ツキ峠ニテ賊卒道ヲ塞テ財宝ニ心ヲカケ奪取ント馳集リ此ノ山彼ノ谷ヨリ矢ヲ放ツ小笠原千久カ兵防戦テ賊ヲ征ス同十五日飯田ヨリ三河ニ向フ大野村ヨリ雨夥ク降テ道路大河ノ如シ未尅ヨリ風雨猶烈シク十方暗夜ニ等シ野武士又俄ニ起ツテ駒場小次郎飯田太郎ト名乗テ尹良君ヲ襲奉ル下野入道宗徹世良田次郎義秋羽河安芸守景庸同安房守景国一宮伊予守酒井七郎貞忠同六郎貞信熊谷弥三郎直近大庭治部太輔景郷本多武蔵守忠弘以下防戦フ賊ヲ討テトモ切トモ賊ハ案内ハヨク知タリ彼ニ集■ヨリ駆出テ水陸ヲ走リ畦岸ニ聚テ散々ニ矢ヲ放ツ味方天難逃カタク襄運是ニ極テ尹良君免レサセ給フ事カタク大井田一井賊ノ為ニ討ル下野入道并ニ政満ハ小山ノ麓ノ在家ニ主君尹良ノ御輿ヲ舁入サセ御自害ヲ勧奉ル宮ハ残ル人々ヲ召レ年コロ日此ノ忠義後ノ世マテ御忘アルヘカラストテ甲斐ゝシク御生害有リケレハ入道ヲ初主従二十五人思ゝニ自殺シ家ニ火ヲ懸悉☆爛セシコソ悲ケレ政満ハ御遺言ヲ守リ此難中ヲ免レテ上野国ニソ皈ヘリケル時ハ応永三十一年八月十五日信濃国大河原ニテ尹良親王御生害ナリ宮ノ御腹ナサレシ処トテ世話ニ宮ノ原ト云ナリ討死ノ死骸ヲ埋テ一堆塚トス是ヲ千人塚ト云也石塔ハ信濃国並合ノ聖光寺ニ有リトナン 応永三十一年八月十五日合戦討死法名
大龍寺殿一品尹良親王尊儀[後醍醐天皇皇孫]
大円院長■宗徹大居士[桃井入道宗綱]
智真院浄誉義視大居士[羽河安芸守景庸]
依正院義傳道伴大居士[世良田義秋]
良王君伝
御父ハ兵部卿尹良親王母ハ世良田右馬介(※イ大炊助)政義女也上野国寺尾ノ城ニテ誕生


            良王君の母上は大橋の娘だったと記憶しているけど
            身分ロンダリングで世良田の養女になったのかな?


正長元年■月ニ寺尾ヨリ下野国三河村落合ノ城ニ入ラセ玉フ永享五年上野国ヲ出テ信濃国ニ赴キ給フ笛吹峠ニテ上杉カ兵馳セ来テ戦フ良王君木戸河内守カ城ニ入リ給ヘリ同五月十二日木戸カ城ヲ去テ木曽カ■領金子ノ館ニ居ス千久五郎金子ヨリ我カ館ヘ迎ヘ奉ル同年ノ冬世良田政義桃井伊豆守貞綱等良王ヲ尾張国海部郡津嶋ヘ入レ奉リ然ルヘシトテ四家七名字其外ノ兵士一決シテ同七月■十二月朔日三河国ヲ打越ントテ並合ニ至リ給フ然ル所ニ先年一宮伊予守ニ討レシ飯田太郎カ一類宗綱ニ討レシ駒場小次郎カ弟其外彼等カ親属トモ宮方ハ親兄弟ノ敵ナレハ此所ヲハ通スマシ討取テ孝養ニセヨヤト大勢馳セ聚リ良王ヲ取巻キケリ桃井貞綱世良田政親児玉貞廣以下並合ノ森ノ陰ヨリ討テカカリ賊徒百三十余人討捕ル同二日酉ノ尅ヨリ亥ノ時マテ防戦フ其間ニ良王ヲハ十一党宇津宮宇佐美天野上田久世土屋佐浪等合ノ山マテ退ケ奉ル貞綱貞廣ヲ始メ野田彦次郎加治監物以下二十一騎討死セリ同三日桃井満昌合ノ山ニテ稚子ニ問フハ汝等ハ何ノ里ノ者ソ昨日並合ノ合戦ノ終ハ不聞☆ト稚子七八人ノ内一人答曰某ハ並合近村ノ者ニテ候昨日並合ノ町口ノ家ニ武士大勢込入腹切テ候大将モ御腹召レ候由承候ト云満昌其腹切タル者共ノ死骸ハ如何ト問稚子曰武士共切腹ノ後家ニ火ヲ懸テ候ヒシカ風烈吹テ並合ノ町中皆焼失候也今暁何者トハ知ラス一文字ノ笠印一番笠印竪木瓜ノ紋付タル兵共焼跡ヲサカシ鎧太刀ノ焼金ヲ拾ヒ申スヲ見テ通候ヒシ哀ナル事共也ト語ル満昌是ヲ聞テ良王君ニ告申セハ頓テ大橋修理太夫定元ヲ召テ満昌ニ添ヘラレ平谷ヨリ並合ニ遣シ討死ノ者共ヲ吊ハシム一文字ノ笠印ハ世良田殿一番ハ山川木瓜ハ堀田ナリ何モ満昌定元ニ会テ共ニ涙ヲ流シケル政親辞世 倭歌ヲ或家ノ蔀ニ書ヲカレシ定元討死ノ死骸ヲ取集並合ノ西ニ寺アリケレハ此僧ヲ頼テ葬ケル同日ノ暮ニ定元ハ平谷ノ陣所ニ皈ル満昌ハ野武士等カ首を梟良王君政義ノ残シヲカレシ歌ヲ聞シメシテ御袖ヲ濡ラサレケル其歌ニ
 思ヒキヤ幾世ノ淀ヲシノキ来テ此浪合ニ沈ヘキトハ
御供ノ士卒此ニ跼シ彼ニ蹐テ天地モ寛カラス同五日三河国鳴瀬村(※今成瀬村)ニ到ル里人是ノ人々ヲ疑テ入レサリシカハ満昌祖父ノ所領坂井郷ニ行テ正行寺ヲ頼ム[或説曰作手ノ正行寺村ヘ入御ト云々然レハ坂井郷ニ非サル歟]正行寺ハ満昌カ親戚下妻カ知人ナリ良王此所ニ四五日御滞留有リテ尾州津嶋大橋定省カ奴野城ヘ入リ給フ

           尾張藩の付け家老になった成瀬家のことかな?


              ここから お正月の料理や服部家ホンヤさんのことですね
               ↓
      

永享七年十二月二十九日良王君尾州津嶋入
御四家七名字宇佐美開田野々村宇津宮十五人御供ナリ時に粮米ヲ絶
一会村(※今市江村)ヨリ米五十石余ヲ献ス

是米ヲ十五人ノ者ニ領給フ

翌年正月二日ヨリ飯粮ナカリシニ日置村ヨリ米二十五石ヲ進ス又此ヲ御家人ニ賜フ

其レヨリ十五家毎歳正月二日ニハ必ス米ヲ撞コトハ是ヨリ始マル

                     ↑
                 ココに15家になってますね


津嶋年始ノ嘉例ナリ
良王尾州ニ隠レ給フ後
宮方ノ武士諸国ニ蟄居ス

其大概如左
桃井大膳亮満昌
 三州吉良ノ大河内ニ住ス参州桃井ト云是裔ナリ大河内坂本ノ祖
大庭雅楽助景平
 三州深溝ニ住ス稲吉祖        ←  この家  知ってる  同じ職場にいた
熊谷小三郎直郷
 三州高力ニ住ス参州熊谷此裔也高力ノ祖
児玉庄左衛門定政
 三州奥平ニ住ス奥平祖
酒井与四郎忠則
 三州鳴瀬ニ住ス後大浜ノ下宮に蟄居成瀬七郎忠房太郎左衛門忠親ハ正行寺ニ居ス
 此三人者兄弟ナリ新田ノ一族大館ノ裔大館太郎兵衛親氏子ナリ
大岡忠次郎重宗
 三州大草ニ住ス大江田ノ裔ナリ
鈴木三郎兵衛政長
 三州矢矧ニ住
大草三郎左衛門信長[※後称豊後守]子也
 遠江国有王ノ高林善八郎政頼カ弟
天野民部少輔遠
 遠江国秋葉ノ城ニ居住ス対馬守遠定父也遠■永享七年十二月兎ヲ秋葉山ニテ狩リシ
 富樫ノ林介(※加賀林氏➡富樫は一族)ニ附テ三州ノ政親[※政親ハ富樫政親]ニ贈リシ也
塩尻云永享十一年十二月天野民部少輔遠■己領内遠州秋葉ニ於テ兎ヲ狩得テ
 信州ノ林藤介光政トイフ者ニ依テ徳川殿ニ献ズ
布施孫三郎重政
 小笠原カ郎等也信州ヨリ良王ヲ供奉シ三州ニ赴キ野呂ニ居住ス
宇津十郎忠照
 三州前木ニ住ス桐山和田ノ大久保祖也元トハ駿河国富士郡住人宇津越中守二男也

              ここですね  大久保さんと宇津さん  

宇津宮甚四郎忠成
 同国大久保ニ住ス
熊谷越中守直房
 近江国伊吹山ノ麓塩津ニ住ス雨森カ一族トナル江州熊谷是也
土肥助次郎氏平
 土肥三郎左衛門尉友平子也尾張国愛智郡北一色ニ居ス

長谷川大炊助重行【※越中木船城城主石黒重行】       石黒さん  再登場!
 越中国名子ノ貴船山城主石黒越中重之カ子尾州春日部郡如意ニ居ス  
(※「名古ノ」とは石黒氏の本拠地赤丸浅井城の事か?)

≪≪▼【「木舟城」は「赤丸浅井城」の出城】浅井城の石黒光景は木舟城石黒光弘の父親で、「赤丸浅井城」の前には木舟城脇に通じる「阿光ヶ淵」と言う小矢部川の淵が拡がっていた。木舟城の脇を通る庄川支流の河川は赤丸浅井城に通じており、「阿光ヶ淵」≪浅井城、浅井神社創建の聖武天皇の弟の石川朝臣広成について元正天皇が「吾子アコ」と呼ばれた。≫と言う淵に流れ込んでいた。≫≫

矢田彦七之泰
 堀田ノ一類尾州春日部郡矢田ニ居ス
此外諸氏処々ニ潜居セシ者猶多シ■クハ記スニ不■
永享七年十二月二日合戦討死法名
 定綱院義功鉄柱居士[桃井貞綱]
 天光院真誉紅月居士[世良田政義]
是ハ良王津嶋奴野ノ城御座ノ時先年戦死ノ武士等カ夢後ヲ吊ハセ給ヒシ時ノ法名トカヤ
良王ノ供奉ノ僧
蓮台寺某阿
 相模国藤沢ノ遊行ノ弟子良王ノ御供ニテ尾州津嶋ニ居住セリ依之蓮台寺建立ス
吉野ヨリ尹良親王ニ供奉セシ僧ニハ明星院実相院宝寿院観音院ハ良王ノ祈願所ナリ依テ上野国ヨリ尾張国津嶋マテ供奉ス依之津嶋ニ観音院ノ一寺建立也天王ノ社僧トナル四筒寺也
一品征夷大将軍尹良親王
 応永三十一年八月十五日信濃国大河原二於テ薨ス大龍寺殿ト号ス尾張国海部郡門
 真庄津嶋天王社ノ境内若宮是也永享八年六月十五日十一党ノ者ノ社ヲ建テ祭ル同郷大龍寺ハ親王ノ御菩提所也
良王君
 明応元年三月五日逝去御歳七十八瑞泉寺殿ト号ス同三年三月五日天王ノ境内ニ社ヲ建テ御前大明神ト称シ奉リ始テ祭ル
永享七年十二月二十九日良王津嶋天王ノ神主カ家ニ渡御七名字ノ者共神楽ヲ奏ス此吉例末代マテ用ヘシト也同八年正月元旦雑煮ヲ良王ニ上ル魚ナシ伊勢蛤ヲ■トス御飯ハ半白米也汁物ハ尾張大根ノ輪切■ハ小鰯ノ干タルニ大根ノ削ヲ入レテ上ル此年ヨリ御流労ナシ
永享八年二月十一日京都ヨリ平井加賀守廣利公方家ノ命ヲ奉シ三千ノ兵ヲ率シ参河遠江ニ下向シ新田ノ余族ヲ捜リ求ム故右京亮政義ノ二男万徳丸政親此時蔵人ト称シテ三州松平ニ隠居給ヒシヲトカクシテ生捕テ梅原肥前守ニ預ク又桃井満昌ヲハ正行寺ニテ捉ヘ江州志賀澤田八郎ニ預ク児玉貞政ヲハ奥平ニテ欺キ捕ヘテ布施因幡守ニソ預ケル此三人ヲ以テ京都ニ皈リ室町ノ獄舎ニ入ル五月三日三條河原ニテ三人ヲ失フヘキニ定マリケル平井情アル者ニテ頃日遊行上人在京ノ時ナレハ道場ニ行キテアハレ三人ノ命ヲタスケマシマセカシト申ケレハ上人ケニモトテ翌日弥阿弥[※弥ノ字誤カ]ヲ以テ将軍義教ニ言上シテ曰ク三河ノ罪人近日御刑罪ノ由其レニツキ古例ニ同氏ノ朝敵ノ首ハ朱塗ニシテ梟シ候トカヤ其昔頼朝卿ノ弟其外同志ノ者ノ首ヲ藤澤ニ梟セラレシ時モ朱塗トコソ伝ヘ承リ候然ルヘクハ古例ノ如クセサセ給ヘト申サル将軍聞メシテ尤也其上朱ニテ塗テハ首ノ肉モ早クハ■(※壊ノ字爛ノ字成ヘシ)マシトテ廣利ニ命シテ三人カ首ヲ切テ朱塗ニシテ獄門ニ懸クヘシトソ仰ケル廣利畏マリ頓テ三人ヲヒソカニ獄中ヨリ出シ己カ宿所ヘ迎ヘ賀茂静原梅谷修理亮ガ家ニ潜シ居キ年ノホド似タル罪人三人ヲ殺シ首ヲ朱ニ染メ獄門ニゾ懸ケル其後政親并ニ桃井児玉ヒソカニ遊行上人ノ弟子トナリテ剃髪シテ時家ニ交リ四国ニソ出ニケル義教将軍赤松満祐カ為ニ弑セラレ給ヒシ後世廣クナリテ満昌ハ三州ニ皈リ大河内式部少輔ト改称ス貞政モ再ヒ三州ニ来リ作手ニ住シ奥平監物トソ称シケル政親ハ政阿弥陀佛トテ上野国万徳寺ニ行ヒスマシテ御座ケルカ文正元年十月ニ寂シ給ヒケリトカヤ
永享十一年洞院大納言実熈三河国ニ流サレ大河内ニ在ス嘉吉三年皈落有リテ内大臣二任ス皈落ノ時松平太郎左衛門尉泰親当家ノ者ニテ金銀ヲ借シ奉リテ供奉ス泰親女ハ実熈ノ妾ナリ此妾ニ男子一人有リ富永五郎実興ト称ス三河国富永ノ御所ト云ハ実興殿ノ事ナリ三州山本ノ祖也又尾崎山崎等モ此子孫也
 実熈ハ東山左府ト称ス従一位康正三年ニ出家法名元鏡博学多才ノ人也 尾州津嶋其法式船十一艘ヲ飾リ十一党ノ者ノ家ノ紋ヲ引ク此祭始ル事同国佐屋村ニ台尻大隅守ト云剛ノ者アリ良王ニ讐敵ナリ此台尻ヲ可討計策ナリ天王神祇アリ大隅一族ヲ催シ船ヲ飾リ津嶋ニ推シ来ル十一党ノ船十一艘ハ津嶋ニアリ大橋カ船一艘ハ一会村ヨリ推シ出ス相図ヲ定テ大橋カ船推ス渡ルヲ十一艘ノ船相待大隅守此計ヲ不知一族ヲ船一艘ニ乗セ祭ヲ見ル相図ヨキト大橋カ船推出シ津嶋ニ来ルヲ見テ十艘ノ船モ推ス前後ヨリ台尻カ船ヲ取巻テ時ノ声ヲ揚テ大隅守カ船ヲ討沈ム其一類不残討レ水ニ溺レテ死スル者多シ宇佐美宇津宮開田野々村ハ陸ニ居テ水ヲヲヨキ上ル者共ヲ討捕ル是ニ依テ祭ノ船ヲ出サス大矢部主税助ハ台尻カ一味ノ者ナリシカ良王ニ内通シ台尻カ船ノ幕ヲ取テ船中見エルヤウニソ支度シケリ其後大矢部ハ命ヲタスケ賞ヲ賜テ天王拝殿ノ番ニソ加ヘケル後世ニ至ルマテダンシリ討ト囃子ヘシト良王ノ命ニ依テ毎年囃子カハル事ナシ台尻ヲ討シハ十四日ノ夜ナリ十一党ノ乗タル船ヲハ一類一党ノ者ノ外堅ク禁シテ不乗或ハ他家ヲ乗スル時ハ四家七名字ノ者ノ装束ヲ免シテ乗スルナリ是ヲハ主達家ト名ツク良王自ラ神主ノ家ヲ継テ天王ノ境内ニ居マシマス四家ハ奴野ノ城ヲ守リ宮中ノ守護也七名字ハ社家供僧往古ヨリ執行シ来ル神事祭☆毎ニ☆宮中ニ出仕シテ酒掃以下ノ怠慢ノ下知人也宇佐美今津宮開田野々村ハ津嶋五ヶ村ノ町人百姓其外他国ヨリ参詣ノ武士☆ノ役人也
 尾張國海部郡門真庄津嶋社
牛頭天王ハ欽明天王ノ御宇海部郡中嶋ニ光ヲ現ス是ヲ見レハ柳竹ニ白幣アリ神詫ニ我レハ素盞烏尊也此所ニマシマシテ日本ノ惣鎮守トナルヘシト依之社ヲ建テ崇メ奉ル始テ柳竹ニ現シテ鎮座シ玉フヨリ柳竹ヲ居守トハ号スルナルヘシ 素盞烏尊ハ天照大神ノ御弟ニテ武塔大神トモ申シ奉ル 村上天皇ノ天暦二年戌申勅使有リテ社ヲ建テ給フ 或説曰中嶋郡玉ノ村ノ大神神社御同躰ト云々 今ノ柏森ノ地ナリ後村上院建徳元年正月二十五日正一位ヲ授ケ日本惣社ト号ス 牛頭天王八王子一王子是津嶋三所ト云フ 後亀山院弘和元年ノ冬勅命ヲ奉テ大橋三河守定省造営ス今ノ宮地也
 左太彦宮 今弥五郎殿是ナリ
武内大臣ト平定経ト二座也 定経ハ地主ノ神ナリ 後村上院正平元年七月十三日夢相アリテ堀田弥五郎正泰 後叙従五位下任左衛門佐 崇奉ル時ノ人願主ノ名ニヨリテ世ニ唱テ弥五郎殿ト云フ
 奴野城
大橋三河守定高正慶元年ニ始テ築ク其前ハ城ナシ右大将頼朝卿ヨリ大橋ノ先祖肥後ノ入道貞能ニ隠退ノ領トシテ尾張國海部郡門真庄ヲ永代下シ賜フ是故ニ足利家天下ヲ知リ玉フト雖トモ大橋氏領知頼朝下文ノ如クナリ定省カ時良王ヲ津嶋ニ隠シ申セ共京都ヨリ何ノ子細ナカリシトソ
肥後守貞能文治ノ此ヨリ津嶋ニ居ス其子貞経肥後國ニ住セリ貞経カ子大橋貞康参河國額田郡ニ往テ居ス其所ヲ大橋ト号ス大河内中根大橋此三ヶ村ハ隣郷ナリ
尹良親王ノ女櫻姫ト申ス姫君大橋定省嫁シテ男子数多生ス 修理亮貞元三河守信吉等ナリ
 大橋家傅
其先祖ハ九州ノ守護大橋肥後守平貞能末葉ナリ肥後守平家滅亡ノ後ハ肥後國大橋ト云所ニ蟄居ス其後宇津宮ヘ仕テ常州ニ赴キ出家ス三河國ニ移リテ住ス其所ヲ大橋ト云フ然テ尾張國熱田ニ潜居セリ時ニ農家ノ女二人ヲ妾トシテ各ニ女ヲ生スカクテ頼朝貞能ヲ尋シム尾張國原ノ太夫高春カ扶助スル由キコヘシカハ梶原源太景季ニ仰セテ原カ城ヲ攻メシム貞能ヲ☆ニシテ鎌倉ニ下ル即比企谷ノ土ノ篭ニ入ル貞能カ妻肥後國ニテ生セシ男子一妙丸[後称貞経]父カ生死ヲ尋子鎌倉ニ下ル鶴岡ノ八幡宮ニ毎日毎夜詣テ法華経ヲ高声ニ読誦シ父ノ事ヲ祈ル事数月也容色直人ニアラス世ノ人奇異ノ思ヲナス此事頼朝卿ノ御台所聞召サレ御尋アリ頼朝卿ニカクト告給フ頼朝卿即コレヲ召テ意趣ヲ問シム一妙丸泣テ父カ事ヲ詳ニ上達ス是レニ依テ憐愍ヲ加ヘラレ貞能カ命ヲタスケ安堵ノ下文ヲ賜リ九州ニ皈ヘサル此大友ノ元祖ナリ
此一妙丸貞能カ家ヲ継給フナリ貞能ヲ尾張ニテ扶持セシ原ノ太夫高春ハ千葉上総介広常カ外甥ナリ薩摩守平忠度ノ外舅也云々
貞能カ子大橋太郎貞経後裔代々尾張三河ニ居住ス貞能尾張ニテ生セシ四女子[二人ノ妾同月同日ニ二子ヲ生ス]後ニ頼朝卿鎌倉ニ召テ一人ヲハ三浦佐原太郎平景連ニ下サル真野五郎胤連カ母也一人ヲハ佐々木三郎兵衛西念ニ下サル小三郎盛季カ母ナリ一人ヲハ安芸國羽山介宗頼ニ下サル一人ヲハ大友四郎大夫経家ニ下サル豊前守能直カ母也彼四女子生レタル里ヲ末代マテノ験ト其村ヲ四女子ト名ツク其後四女子ノ母ヲ神ニ祭レシメ給フ社アリ後ニ是レヲ取タカヘテ頼朝ノ宮ト号ストナン
 長享二年戌申九月十八日         
 天文二年癸巳三月五日写之了不可及他見者也
 正徳三年癸巳九月中旬写之者也 

『※金沢市立玉川図書館 加賀藩資料』 
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月02日 02時00分23秒 ) パスワード

もう1度読み返したり挫折したり
   そうなのよね
   日本のお節の始まりは南朝方武士がお正月の食事を用意したこと、と読んだことがあった
   そして服部家が武士の出陣式の割烹の家だった、とか
   思い出す。


そして三河にほんの少し住んでた時に知り合った人々
尾張者のわたしは全く知らずにいたけど
南朝方の三河の人はわたしを懐かしいヒトとして見てたのかとか

父が「成瀬んとこが」なんて言い方をするのを
「一応尾張藩の付け家老の家だし幕末には城持ちになってるんだから【成瀬んとこ】って言い方はマズいんじゃない?」
と言ってたけど
14世紀には  ソーユー仲  だったのかな?と。


日本ですね


でも   21世紀になって  令和になって  南北朝時代のお仲間の名前を見つけて   「歴史」をすっかり過去の経緯にしてた  と反省する。

もう「家」とか「家名」とか「血」とか「系図」なんて時代じゃないものね。

どんどん関係が希薄になって忘れ去って  ただの赤の他人になって   だけど男女の場合はフリンとか略奪愛とか  知らずにやるんだろうな、と思う。   
コッチが拘って追いかけ回して気持ちを抑えられないでいるのに対して
アッチが拘って追いかけ回すとストーカー判定して警察に告発する
           コーユー事  あるんだろうな。


上記の長々と引用した文の中にわたしが拘ってた地名が1つあって驚いた。

平家時代から  いや  桓武平姓拝領後、地方に出されてからの経緯から  拘ってたのかと今頃納得した。

           XXの○○さん
           ココ暫くお見掛けしないあなたとわたしは南北朝時代にもお仲間だったんですね〜
           です。 
           (だろうな)とは思ってたけど確信にはなってなかった。


こうして「わたし」は「歴史の流れの中に≪今現在≫存在している」と確信した。



明治政府によって徳川家を全否定しようと「浪合記」は抹殺されて来たけど
これを書いた江戸時代の天野さんは

           やっぱり三河の天野さんはワタシと繋がってたんだね〜

矢口の渡しで若くして謀殺された新田義興の悔しい思いを記録しようとしたんだね。
だって生母は天野氏だから。

           泣けてくるぞ



偽書、だとか言われても
大橋が新田系?と書かれていても

ムカシを辿れば  大橋が新田系  とされる件は納得がいく
だって  平貞能は九州から戻って(肥後だっけ?)  宇都宮氏を頼って落ちて行ったものね
ここで源氏とも繋がったであろうし
後醍醐天皇崩御寸前に源姓を賜ったのもそういう過去があったからだろうし

天野さんが江戸時代に記したものを尾張の大橋さんなんかがコピーして来たのは当たり前だろうし


ヨソモノに偽書と呼ばれて  上等!  。
ヨソモノには関係無い我々南朝方の記録なんだから。

     とはいえ地名や人名や事件がゴチャゴチャしててワタシもついてけない。


ヨソモノには価値が無い「浪合記」。
外国人には価値が無い日本の歴史・天皇家・姓氏・系図。

100年したら「浪合記」は偽書だなんだじゃなくて「漢字多過ぎ」でしかないんだろうね。



日本にやたらと細分化した名字
これってホント「意味ある」と納得。


わたしが大好きな平家方の武士の大庭さん。
三河に子孫がいたのか。
知らなかったな〜

学生に入学早々わたしを大嫌いだった○X君。
南北朝方同士だったんだね
お互い知ってたら一緒に卒業できたのにね。
3回生の時に「浪合記」関係の人を挟んで結構一緒につるんでたけど
      名前を出せないのが残念
彼は車に夢中になって学校に出て来なくなった。

      今  思うと  車=馬  好きでの放浪癖  は  やっぱり信濃まで転戦し続けた先祖の血だったのかなと納得する。


久し振りに「浪合記」を斜め読みして  今の自分の過去に繋がって  非常に面白かった。
日本の歴史と言ってオーバーなら  わたしのDNAのアイデンティティ  で良いでしょうか。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月02日 06時48分26秒 ) パスワード

https://www.yomiuri.co.jp/culture/20201101-OYT1T50059/
信長切腹「夢にも思わなかった」…本能寺の変、明智軍武士が述懐

2020/11/01 18:15

本能寺の変で明智軍に従軍した武士が残した記録「本城惣右衛門覚書」=天理大付属天理図書館提供本能寺の変で明智軍に従軍した武士が残した記録「本城惣右衛門覚書」=天理大付属天理図書館提供

 NHK大河ドラマ「麒麟きりんがくる」の主人公、明智光秀が主君の織田信長を討った本能寺の変(1582年)で、明智軍の武士が残した記録が、天理大付属天理参考館(奈良県天理市)で開催中の特別展「大航海時代へ―マルコ・ポーロが開いた世界」(読売新聞社など後援)で公開されている。明智側が残した従軍記録としては唯一の資料。専門家は「本能寺の変に関わった武士の生の声を感じられる貴重な記録」と評価している。(土谷武嗣)


 記録は「本城惣右衛門覚書」と呼ばれ、戦国時代から江戸時代初期、丹波国(京都府中央部と兵庫県東部)を拠点としていたとみられる武士・本城惣右衛門が、晩年の1640年、若い頃の戦功を書き残したもの。天理大付属天理図書館が所有している。

 「あけちむほんいたし(明智謀反いたし)」から始まり、本能寺の変について、「信長様を切腹させようとは夢にも思わなかった」と述懐。また、当時の本能寺の様子について、「門は開いていて、ねずみさえもいない」「蚊帳がつってあるばかりで、人はいない」と記している。また、首を二つ取った褒美として、槍をもらったと書いている。

 この資料は、昭和に収集家が存在を公表する以前の出所が不明だったことや、若い頃の記憶を高齢になってから思い出して書いたことなどから、信憑しんぴょう性が疑われていた。

 しかし、近年、研究者の間で再評価する動きが出てきた。

 備中(岡山県西部)の羽柴秀吉への援軍に向かおうとしていた明智が京都へ方向を変更したことについて、これまで、惣右衛門が「上洛していた徳川家康を討つ」と理解していたと解釈されていた。明智が徳川を討つ理由がないため、記録に疑いを投げかける一因となってきた。

 しかし、改めて記録を検討すると、文脈的に京都へ向かう理由について、惣右衛門が「上洛中の家康への援軍に変更された」と理解していたのが正しいとわかった。

 天野忠幸・天理大准教授(中世史)は、筒井順慶も京へ進軍している記録が残されていることから、「織田側の武将が京へ集結してから中国地方へ向かおうとしていた動きからみても、惣右衛門の解釈は理解できる」と指摘。「これまで本能寺の変の研究では重要視されてこなかったが、貴重な明智側の従軍記録であり、改めて意義のある史料として扱われるだろう」と話している。

     ◇

 特別展は12月14日まで。火曜休館(11月3日開館、翌日休館)。問い合わせは天理参考館(0743・63・8414)。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月04日 15時06分32秒 ) パスワード

後醍醐天皇

世間では後醍醐天皇の建武の新政で天皇による親政は毀誉褒貶多過ぎ。
だけど我が家で批判なんかしたらオバ達に首絞められるな。

我が家は武家だから武家は天皇に命を懸けて尽くすが本分。
あ、武士の本懐、ってのか。


日本人にしては後醍醐天皇崩御の後も50年?60年?足利政権に嫌がらせをよくも続けたなと感心する。


そして結局室町幕府を信長が倒した。
    一応信長は平資盛子孫を称している。
    それに越前出身だし。


そしてそして幕末の討幕  明治維新は王政復古だった。
あろうことか
明治天皇は「南朝こそ正統」なんて言い出して元勲達を慌てさせた。


      明治天皇は大室寅之助説があるもんね
      


結局天皇親政は1947年5月3日の日本国憲法施行で終わったけど
後醍醐天皇は亡霊となってさんざん室町幕府を喉に刺さった魚の骨のようにいやがらせをし
日本男子を皆兵にし天皇のために命を捨てさせ


日本のお騒がせ人間ナンバーONEだなと思う。





肖像画のてっぺんの赤い玉って  あれ  太陽なんですってね。
中国人は赤が好きだから  中国の影響だと思ってた。
中国の天子の冠にはてっぺんに赤い玉がついてるんだと思ってた。


いえいえ日本の天皇さまですから  太陽  だったんですね。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月05日 07時58分59秒 ) パスワード

後醍醐天皇の画像
壊れてしまいましたね。


後醍醐天皇は  日本式の冠に  ビラビラのついた中国の冠  =ベンカン=に  太陽を被ってる   3つも???  
「屋上屋を架す」って表現は知ってたけど「冠上冠を架し更に太陽を架す」で良いのかな?


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%95%E5%86%A0
ベンカン
冕冠(べんかん)は、東アジアの漢字文化圏諸国で皇帝、天皇、国王などが着用した冠。
もと中国に由来する冠の一種で、中国では皇帝から卿大夫以上が着用した。日本では古代から天皇の冠として用いられてきたが、その起源の詳細は不明である。この他ベトナムや朝鮮半島の君主も冕冠べんかんを使用していた。

日本では礼冠の一種で天皇礼冠ともいい、かつては即位や朝賀の儀などに、袞衣(天皇礼服)とともに用いられた。『古事談』に、「大嘗会の時の冕(べん)は、応神の物也」とあり、応神天皇の冕冠が平安・鎌倉時代まで大嘗祭で使用されていたとの記述があるが、現在は伝わっていない。

後醍醐天皇の肖像画には、冠上部に日章の飾りがついた冕冠が描かれている。

  

https://www.google.com/search?sxsrf=ALeKk00WIxLBuFI2w6n1VZp2T1wDVc6jEw%3A1604530114976&ei=wi-jX5uUO4vi-gTIrK3QAg&q=%E3%80%80%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E7%94%BB%E5%83%8F&oq=%E3%80%80%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E7%94%BB%E5%83%8F&gs_lcp=CgZwc3ktYWIQDDIGCAAQBxAeOgQIABBHUJpHWJpHYNZWaABwAngAgAGTAYgBkwGSAQMwLjGYAQCgAQKgAQGqAQdnd3Mtd2l6yAEIwAEB&sclient=psy-ab&ved=0ahUKEwib_aK8_OnsAhULsZ4KHUhWCyoQ4dUDCAw#spf=1604530119611
[53]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年11月06日 11時25分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 このところ、アメリカ大統領選に気を奪われ続けておりましたが、結末的に
は興ざめしてしまいました。

 さて、南朝側に付いた人について、どういう人であったのか、あるサイト(ji
moren.my.coocan.jp 「南北朝時代の人物 吊前順の一覧」)の中から、純粋に
南朝のみに尽くした人(武士)のみを、これから抽出してみます――

 
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月06日 15時04分37秒 ) パスワード

三つ柏さん


後醍醐天皇方の武士の中には
足利尊氏が負けて九州に逃げた時に
いっしょにくっついて行ってしまった武士がかなりいて
ヲイヲイ

これを見た楠木正成は
優柔不断の足利尊氏ではあるけれど、そういう所が、逆に武士には信頼されているのを見て
     新田義貞よりはマシな武将として
後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言

大反対に遭い

結局  兵庫で  (新田軍と共に)迎え撃って   楠正成一族は600騎でしたっけ?  湊川の戦いで壊滅。
     新田軍はこの当時2万を割っていた。



とにかく南北朝の戦いは   ありゃ 何だ?  です。

家の中が2つに割れ
その上、あっちに付いたり  こっちに付いたり  裏切りだらけ。

それは建武の新政がメチャメチャだったから

  武士は 自分の土地を奪われたりしたから  かな?

で、後醍醐天皇の政治はあっという間に崩壊。
武士には後醍醐天皇とその取り巻きへの失望から足利尊氏の方がマシに思えたのかな?



ま、戦いというのは勝たなきゃいけない。
最終的に勝てば良い。


今回の大統領選挙で12月中旬まで引っ張ることが出来れば下院選挙でトランプが26対24で勝つことは誰もが分かっている。

わたしもバイデンよりはトランプの方がマシだと思ってる。
だから12月中旬まで引っ張れ!と思ってる。

          
【今回の大統領選挙は郵便投票で】という発表があった時  民主党はゲームの途中でルールを変えて  インチキする気  マンマンだなと思った。


9月にはマリファナ大好きアメリカ人に「マリファナ解禁してやるよ」という餌をバイデン側は投げた。

    例え上院でも通ったとしてもトランプは絶対にVETOを乱発してマリファナ解禁は阻止したと思う。


今回の選挙で4つの州がマリファナ解禁に決まりました。

そして  

もっと驚くことは  オレゴン州では コカイン・ヘロイン・LSDの少量所持については罪に問わない  ということになりました。
 
         LSDだって!
         こんなのも所持OKなんだって
         呆れた!を通りこして笑ってしまった。


つまり間もなくアメリカの14の州もコカイン・ヘロイン・LSDの所持が罪に問われなくなるってコトです。   
当然  ハワイも  です。

         げ〜


カリフォルニア・オレゴン・ワシントン州は アメリカから分断して欲しい。
「分断」という言葉は最近のハヤリで  以前は「独立」って言葉を使ってました。

       さっさと独立したら?
       と願ってます。


今回マリファナ解禁に踏み切った元からいるアリゾナ州の人々は困惑していると思う。

もともとアリゾナ州は共和党世界だったのに
カリフォルニア・オレゴン・ワシントン州の行き過ぎた民主党政治にうんざりしたカリフォルニア・オレゴン・ワシントンの人々が
平和で快適なアリゾナに引っ越して来て
アリゾナを民主党の世界にしてしまいました。

       だから今回アリゾナはマリファナ解禁を決めた。
       カリフォルニアやオレゴンやワシントン州の人達が引っ越して来なきゃ今回マリファナが解禁になることはなかったと思う。


          でも  80歳以下のアメリカ人は  マリファナ大好きが多いんだろうな  とは知ってるけどね


バイデンの息子はコカインの使用がバレているし
副大統領候補のカマラ・ハリス女史は子供の時からマリファナをやってて
彼女は今年の大統領選挙の「餌」の「マリファナ解禁法案」に大賛成の署名をしたヒトです。

           下院で通っても共和党が多数の上院では通らないとわたしは信じてた

           

本当に民主党政権はアメリカをマリファナ合法の国にしちゃうのかな?

マリファナが合法になれば  あっという間に 他の麻薬も合法になります。今回オレゴンが先鞭をつけたから。


オレゴンはアメリカの中でも民主党色が一番濃くて激しい州です。

民主党の「理想」は分かるけど   それは  逆効果にしかなってない
だから人々は静かな暮らしを求めてアリゾナやテキサスに逃げ出している。
で、アリゾナやテキサスを民主党化しよう、と。

今回アリゾナを民主党化したのに成功したのが分かったってこと。


まだ35の州はマリファナを合法化してないけど
バイデンとハリスがホワイトハウスを奪還したらお礼に全米をマリファナ自由化にするのかな。
イヤだな。


ちなみにわたしが支持してるリバタリアン党は他のいくつかの泡沫政党と一緒に合計で1%か2%を死守しているようです。

リバタリアン党の党是は「課税は窃盗である」「アメリカは国連から脱退せよ」「外国の内政に関与するな」です。
うふふ
[55]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年11月07日 07時55分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 アメリカでは、あくまで「個人ファースト」で、日本の場合は「集団」の中
の「個人」という感じで、アメリカでは堂々と個人が自己主張するのに対し、
日本では全体の中の自分、そして全体の秩序というものを意識してしまう。
 「自由と権利」vs.「全体の秩序」というバランスの問題、余りにも前者が強
すぎてしまうと、いかに自己責任といえども行き過ぎた危ない世の中になって
しまうのではないか。「健全性」とは何か、アメリカの抱えている処処の問題
は、重く、かつ苦しく感じます。
 あを様におかれましては、アメリカの良さと悪さ、日本の良さと悪さ、これ
らのすべてがおわかりになっておられると思います。キリスト教と仏教の違い
も土壌としてあるのかも知れませんね――

 
 
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月08日 08時09分52秒 ) パスワード

日本到着者のウイルス状況のサイトです: https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_14698.html

アメリカ大陸の強烈ウイルス
日本でどうなりますか。


ハワイはマスク無しは5000ドルまでの罰金ですが
来週からマンション内でのマスク無し狩りが始まります。

3回目は警察に引き渡されます。
マンション内での罰金は250ドル プラス  警察では5000ドルまでの罰金だぞ
とポスターに書かれてました。


某男性は  味覚・嗅覚障害、鼻閉、胸部違和感  の自覚アリで
つまり  この人は  アメリカの医療機関で治すには高額過ぎて払えないから
日本で治療を受けよう  と帰国したのでしょうか?


アメリカで  保険無しで入院、な〜んてなったら
数日で何百万円もの支払いになるし

今夏、ある人がコロナで入院して  ミリオン超えた  とニュースになってましたね。
ミリオンって  日本円換算ですと「億」です。


だから  慌てて?  ただ同然の医療費の日本に戻った?
コロナは日本の公的サービスに治して貰おう、って?


ウーハンで  武漢か?  今年の初めにコロナが流行った頃、日本に中国人がやって来たというニュースがありましたよね。
日本で治してもらおうツアー客。


日本は心優しい国です。
[57]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年11月08日 10時23分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 文明論は難しいですが、アメリカが健全性を取り戻し、調和・共存・共生の
世界になる日が来ることを望みます。特に抜本的な国民皆医療保険制度ができ
ることを祈ります。金持ち(自助努力した人?)いくらでも金を払えるけれど、
大半の国民は払えず、病死してしまう……これでは本当にかわいそうです。
 
 南北朝に足を突っ込むと厄介なことになります……色々なものが渾沌として、
わけがわからなくなります。評価する価値があるのかもわからなくなってしま
います。
 その中にあって、吉野十五党等については、その「精神性」について評価し
たいと考えておる訳ですが、やはりそこには「勤王」の精神と「反幕」の精神
――つまり、「三種の神器」を携え「神の天皇」を守るという「正義」感がそ
こにあったものと推察いたします。もちろん、その他にもいろいろな要因・立
場はあったとは思いますが……。
 親王達の戦いも、ある種の同情を掻き立てます。その歌や恋もある種のロマ
ン的感情を起こさせます。

 実際の所、後醍醐天皇の頃には、「天皇の存在」というものはどのように捉
えられていたのでしょうか。天皇の権威、人々の崇拝といったものは「日本書
紀」の次代とはかなり衰退していたのでしょぅか。その挽回ということが南北
朝の戦いということになり、さらには戦国時代に突入して行くということにな
ったのではないかと思います。

 南北朝の時代全体では、約300の大小の戦いが各地で繰り広げられていま
す。それらを全部解析してみてもあまり意味がないように思います。やはり、
吉野十五党等のからむ「東海地方」の南朝現象に的をしぼって考えたいと思い
ます――
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月08日 12時35分48秒 ) パスワード

三つ柏さん


アメリカは  ヒトコトでは纏められない国です。
ものスゴク細分化してて  どこをどう  三つ柏さんに書けば良いか分かりません

がっ!


>大半の国民は払えず

全然違いますよ
一体どこから  どーゆー情報?

三つ柏さんに  そんな情報を流した人  アホか
と思いましたよ。
アメリカの事  全く分かってないジャン!


大半どころか  85%のアメリカ人は  保険を持ってますよ。それも素晴らしい保険を。

掛け金にしても  100%払ってもらって自己負担ゼロの人から  50%払って貰ってる人まで。

そういう人がアメリカでは85%いるのですよ。

       ひょっとすると日本の保険より良いかも、ですよ
       

       わたしの昔の同僚は  心臓手術を3回して  窓口料金10ドルで  あとの支払いはゼロだったそうです。


       なので  日本の保険よりずっと安いと思いますよ。


       わたしのオットもカリフォルニア時代は入院したり手術をしたりしましたが
       最初の窓口料金を払っただけで  あとは  保険が払ってくれましたよ。

         それで病院から「おたくは無料で済んだから、ちょっと、うちの病院に寄付してくれないか」と依頼されて 一回分 病院に寄付しましたよ



残りの15%が  いわゆる  自分で   保険会社を捜して保険に加入しなくてはいけない人々で
こういう人は自営業だったり   仕事をしてない人だったり  保険に加入したくない人だったりします。


この部分については  物凄く  複雑なので  説明が難しく  わたしも困惑します。


我が家もラスベガスに引っ越して15%に入り  カリフォルニアの保険が使えないと知って大騒ぎ。ベガスの教会の人が加入を手伝ってくれて助かりました。

さらにハワイに引っ越して  ラスベガスの保険は自分で事務処理をしなくてはいけなくて  
だからハワイの医者はこんな患者を拒否するし
それで  夫は暫く  自己払いで  低所得者用の病院にしか行けなかったです。  



    低所得者には  それなりの低所得者用の医療保険があります。
    低辺所得者は  無料で医療を受けられますよ
    こういう人には  専用の医療機関もあるし。

    そういう医療機関に  夫は  満額払って診て貰ってました  低所得者じゃないから  満額払いました。


解決法は有りました。
わたしがスーパーのパートででも働けば済んだんです。
だけど  このクソ蒸し暑いハワイで毎日仕事に出る?冗談じゃないわよ  激怒! プンプン!  
そこまでお金に困ってなかったから働かなかった。


で、オバマの医療改革に期待したのですが、これがとんでもない改悪でした。

どんどん掛け金が上がるし薬代はすごいことになったし   だから  加入しない選択とか  収入を最低に抑えるとかする人が逆に増えたのです。

そこへコロナで仕事が消えた・・・
掛け金払えない。
   保険は無くても病院は診察を拒否しない。
だけど低所得者用の医療保険に加入をするには条件を満たさない。
    家ある  クルマある  貯金も2000ドル以上ある
    低所得者用医療保険加入申込用紙  何十枚  書かないといけない?
    こころ  折れる・・・
  

                わたしの骨密度を上げる薬はラスベガス時代は保険を使って83ドルちょっとでしたが
                オバマ改悪で保険を使って450ドルになりました。

                ジェネリックで、保険を使って、250ドルでした。
                (わたしが  このワタシが  ジェネリックを薦められた?)と泣きそうでした。だけど月に450ドル払うのも泣けた。


アメリカ人というのは  「それでも」  医療保険になんか入らない入りたくない  と抵抗する人がいるんです。



オバマケア以前の話だと思いますが
 
松尾諭さんという俳優さんがいらっしゃいますが
兄上がアメリカにいて  いわゆる低所得者層で  脳梗塞になって
          医療費が当然払えないから
          松尾諭さんが病院から呼ばれて
          アメリカに兄上を迎えに行って
          結局医療費は高額過ぎて松尾諭さんには払えず払わず済ませた話がネットに出てますよ。

兄上のお友達や日本領事館の方がいろいろやって下さったそうです。


ラスベガスにいた時にNYの日本人留学生から聞いた彼の経験話です:

          例えばNYの場合は  口座に2000ドル未満のお金しか記帳されていないと  医療費=入院費=が無料になります。
          でも2000ドル以上の額が記帳されたりしたら  無料じゃなくなります。

          こういう裏技を聞かされました。


今  困っているNYのブロードウエイの俳優さん達   この人達は収入をわざと低く抑えて お金が無いことにしている話を聞きました。
ブロードウエイは来年9月一杯まで公演がキャンセルされてるとか。


よくあるのは、
若い人は自分は病気になんかならないからと  掛け金を払うのがイヤで  全く  保険に加入してなくて  それで今  困ってるわけ。

         自業自得って言葉があります
         NYなんてコロナの死者が3万人超えです


だから、まともな自営業の人は   奥さんがスーパーなどで  最低賃金で働いて  スーパー提供の保険に加入するんですよ。

投資家でお金持ちでも スクールバスの運転手として毎日数時間働いて  良い内容の医療保険を確保している人がいますよ。
学校が休みのたびにヨーロッパに遊びに行ってます。


あの表に出てる20代の男性は職業が書かれていませんが
もし会社勤めなら   会社の保険で 殆ど無料で医療が受けられるはずです。
もし学生なら   大学提供の格安保険があります。 
それでなくても  15%の人達には  オバマの医療保険制度があるのに。

あの20代の男性はやっぱり保険に加入してないんでしょうかね?  


この20代の男性  なんで症状があるのに  日本に頑張って帰って来たんでしょうね、この時期に。
日本に着いたら 2週間の自主隔離をしなきゃいけないのに。


日本に帰れば日本政府紹介の医療施設に行ける、って考えたんでしょうかね?
日本は住民票を入れれば医療保険に簡単に加入できるって話ですし。

アメリカは6か月待たないと保険が使えません。
だから日本に帰ったのかな?
[59]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年11月08日 21時28分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 アメリカ人の85%の人は、保険に入っていて、治療が受けられるということ
――安心しました。問題はあとの15%……その人達は無保険者で、4700万
人ほどいるということ。ここらへんが問題の部分か。そういう人は新型コロナに
かかっても基本的には自分の免疫力のみが頼りということ。それでコロナの死者
が多いという訳か。こんな大雑把な解釈でよろしいでしょぅか?

 バイデンの演説には感動しました。ただ民主党の政策というものがよくわから
ないので、単純に感動ばかりしてはいられないのかも。
 トランプにもいいところはあったはず。バイデンとトランプを足して2で割っ
たらどうか、トランプの顔が見られないのは寂しい気もしています――
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月09日 02時02分32秒 ) パスワード

三つ柏さん

アメリカの医療保険制度の複雑さは日本人には想像を超えていると思います。


>15%……その人達は無保険者

15%=無保険者
という表現も  
当たってない  です。


15%の人達は<組織に入って無い=組織提供の保険に加入していない>という意味で
この人達は  確かに大きく分類して 自営業者や無職や保険に入りたくない人達  です。


殆どの自営業の人はちゃんと自分で自分に合った「良い」保険会社を捜します。
手っ取り早いのは  奥さんがスーパーなどの<組織>に働きに出て  一家の保険を確保することです。
だいたいお金持ちの自営業者は奥さんが保険目当てに働きに出ていますよ。
奥さんはスーパーという<組織>が提供する医療保険に加入して一家の保険を確保します。

         だからアメリカでは専業主婦なんてアホかと思われるのです
         自分の小銭稼ぎよりも一家の医療保険確保が重要とされるのです。
         大黒柱のご主人はいつ何時レイオフされるか分かったもんじゃないですから。




ところがオバマによって  15%は  自分達で助け合う  保険制度にされてしまい
良い保険会社が  かなり  撤退してしまいました。


だからオバマによって  残った保険会社はやりたい放題  値上げ放題  
薬も値上げ放題=特にヒラリーのお友達のエピペンの会社はあっという間に値段を6倍に上げて社会から糾弾されました。

    エピペンはアナフィラキシー・ショック対策のアレルギー持ちの人の命を救う薬ですから
    いくつもアチコチに(家庭や学校や職場やカバンの中や車の中に)確保しておかないといけないのに
    どんどん値上がりしていったのですよ


当然医療費も値上がったし。


良い保険会社は州が変わると使えない   というのを  ラスベガスに引っ越した時に知り  ハワイに引っ越した時に再び知り

あんまり良くない保険は  事務処理を自分でやることになる=病院との値段の交渉の事  も自分でやらなきゃいけない   とかね。

           この意味  全く  分からないでしょ?

それで15%に入る自営業者は保険を1社だけでなく2社に入ったりします。
わたしも2社に入ってました。1社は素晴らしい保険でハワイに引っ越して切られました。

もう1社が  自分で事務処理をせよ  でした。



この「事務処理は自分でせよ」について書きます。

アメリカの医療保険は ホントにややこしくて

例えば今年の2月にわたしが血液検査を受けるのに  担当医が本土に行ってしまったので検査のオーダーが無効にされてて(そんな事、コッチは知らん)

しょうがないから救急で受けたのです。
普通だったら  自己負担は15ドルあたりで済みます。


病院からのお知らせでは  総額3000ドル+

このお知らせを受け取った時  病院がどれだけ負けてくれて  保険会社がいくら払ってくれるか  自己負担はいくらになるか   全く分からない不安。

       担当医がハワイにいたら  わたしの自己負担は15ドルで済んだところですが
       担当医が本土に行ってしまって  わたしの立場は保険があるのに  保険が使えない状態で  総額3000ドル越え(笑うより他なし)

     
            「だから  女が働くというのは無責任でダメだ」というのを実感しました
      
 

最近保険会社から2月の血液検査代のお知らせがやっと来ました。  2月のだよ(笑)最近来たんだよ(激笑)

3000ドルのうち   保険会社が  ○○○ドル払ってくれて
わたしには150ドルほどの請求が病院から来ました。

つまり  2○XXドル  は病院が諦めてくれた金額です。  
      あんまり良くない保険しか持ってないと  この交渉を  自分が直接病院とするわけです。
      良い保険を持っていると保険会社が病院と交渉してくれるのです。
      それで  わたしの負担は150ドルで済みました。

          2000ドルちょっとを病院が負けてくれたのです。
          アハハ

          だからラスベガスからハワイに引っ越して夫もわたしも良い保険を失って  あんまり頼りにならない保険しかなかったので
          プロでさえ半年もかかる交渉を  わたしがするなんてムリだったから
          我が家は全額自己負担で払ってました。


          でも夫が手術とか入院になれば額の桁が違うから  その為にラスベガスで手にいれた頼りにならない保険は維持してました。


ということで  ロスにいた時に  病院が「お宅は自己負担がゼロだったから ちょっと  寄付してくれないか」  という話が来たわけです。


病院は保険を持っている患者には大幅値引きを保険会社から迫られるから
損をするわけです。
それで「寄付してくれ」のお手紙が来ます。

      夫がサンタモニカの会社を閉めた時  そりゃあもう  いろいろな処から寄付してくれ攻撃が来ました:
      サンタモニカ・市立カレッジからは学生のための駐車場建設費600万ドルを出してくれ  など。


だから病院も入院費や治療費をバカ高くするわけです。
オバマのせいで  組織に入って無い15%の人には  とんでもない医療制度時代になりました。


民主党の思想は立派ですよ
でも現実は逆効果しか齎さない。


わたしは保険は最大限にかけるタイプで  普通の人より  月々200ドルは余分に払っています。


大きな組織の医療保険に入ってる人は  月々の掛け金ゼロ  窓口料金ゼロ  医療費すべてゼロ  です。薬代もゼロです。


アメリカはいろいろです。ヒトコトでは語れないです。

ある人がこんなスレッドを立ててます:
「日本人妻が思わず逃げ帰った…「今のアメリカ」の凄まじい生きづらさ」
https://news.yahoo.co.jp/articles/00badaf380ee2a636b7b7568a1247258b8139604

ものすごく盛ってる。呆れるほどハナシを盛ってる。
ま、確かに  「あるある」  ですが  客観性  ゼロ。


わたしには  コメント欄が面白いです。12あたりまで読んだところです。
なかには  (この人  カシコイ!お友達になりたい!)というコメントがあったり  アホかいな  と思うコメントもあります。

https://news.yahoo.co.jp/articles/00badaf380ee2a636b7b7568a1247258b8139604/comments



わたしはラスベガス時代に医療保険を2つ持ってるのに
どういうわけか  良くない方しか受け取ってくれなくて
乳癌検査に保険を使って自己負担450ドルの請求が来て  
150ドルに負けてもらったことがあります。

    これは秦姓服部さんから教えてもらって実行しました。
    乳癌検査は保険を持っていればホントは無料で受けられるハズなんですが
    モノはハナシのタネにと
    「交渉」なるものをやってみました。

    だからアメリカの医療制度の実態ということで自分の経験を書くことが出来ます。


       無料に持って行くには  当時ハワイへの引っ越しを計画してた時だったのでメンドウ臭くて  
       150ドルなら喜んで払ってやるか  という諦めからでした。
[61]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年11月09日 08時03分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 アメリカの生情報、ありがとうございました。知らなすぎる現状、おかげ様
である程度理解できました。いずれにしても、自己責任、自助努力で生きて行
くということが基本、ということは勇気と強い意志力が必要であると再認識し、
これを自分にも言い聞かせて努力して行きたいと考えています。

 さて、昨日のことでありますが、私は来年4月から、町の自治会の副会長に
就くことが決定しました。予想していたことでありますので、びっくりもあわ
てもしませんでした。

 それにより、今後は歴史研究の方針も変えて行くかも知れません。特に郷土
の歴史をまとめる必要性がありますので――
 
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月09日 09時11分35秒 ) パスワード

三つ柏さん

来年からの町内副会長職
頑張ってください。

副会長さんは実務=雑務=で忙しいのかもですね。
でもお勤め経験がお有りですから、世話役  合っているかも、です。


そして副会長さんでしたら町の人達と直接私的な懇談が出来ますから
郷土の歴史を纏める良い機会を与えられたのかも
ですよ。

まさにグッドタイミング  なのかも。

町の人のいろいろな考えや情報を聞ける機会が与えられたことであります。
怪しまれず(笑)堂々と訊けます。


わたしは今年から日系人や日本人と接点を持って余生を送ろうとしたのに
2月まではいろいろな人に会えた後
3月から   今年一杯  全て閉会になっています。
教会さえ3月から閉まってます。中にはオンライン礼拝をやってる所もありますが。


とにかく人と会って
友達の輪を広げて

違う方向から、もう1度、郷土の歴史を考え直す良い機会です。
皆さん  先輩達は   どんどん鬼籍に入ってしまうでしょうから
今のうちに聞き出しておけると良いですね。

_________________________________


わたしは尾張南西部の伊勢長嶋一揆=一向一揆=については当事者子孫として知っていましたが

日本海側の一向一揆についてはぼんやりとしか知りませんでした。


地元の人から前田利家夫妻がバカだとかいろいろ悪口言われるのが  どうして?  と分からなかったのが
昨日見た短い歴史ニュースでの金沢や越前での一向一揆弾圧への激しさでやっと納得したところです。


前田利家が日蓮宗だったというのは今日知ったところでした。


先入観から金沢では前田利家は神様のような存在かと思っていたので
地元の人が前田利家夫妻を蛇蝎のごとく嫌って悪口三昧なのがさっぱり分かりませんでした。


何年も地元の人から悪口をたくさん聞かされて来てても理解出来なかったです。
それがほんの5分ほどの紹介ニュースでストンと得心しました。


不思議ですが  こういう事って  あります。
来年4月から始まる新しい人間関係  楽しみにお勤めなさってください。
[63]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年11月09日 10時53分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 スレッド「長上郡の服部氏族LXXT(16年の課題確認14)」の最後のとこ
ろで、青山氏の御子孫様からコメントをいただき、私は次のようなコメントを
返しました。

 青山家と服部家、そして天方家(さらに言えば大久保家)の間には、シンパシ
ィが通うということで――

「 @青山家の初代を「師重」とすると、七代目が「忠世」(兄)、「忠教」(弟)。

 A青山忠世の子に「忠門」と「忠重」等あり。
  青山忠教の子に「娘」あり。

 ➂青山忠門の子に「忠成」あり、「天方通興」の「娘」(弟は「天方通綱」)を
  室とする。
  青山忠教の娘は「服部正信(服部半蔵正成のいとこ)」の室となり、「服部
  正尚」と「七右衛門」を生む。

 ➃青山忠成の子に「忠俊」、「幸成」等あり。
  青山忠俊は「大久保忠佐」の娘を室とする。
   服部正尚の娘(妻の連れ子としている)は、徳川家康の側室となり、「秀忠」
  を生む。
  服部七右衛門は正尚の子となって、青山忠重の養子となり、名を成重とし、
  秀忠に仕える。

 ➄青山忠俊の子「宗俊」は、その子「忠雄」、同じく「忠重」と浜松城主を
  三代にわたり務める。
  幸成は老中となる。 
 
 つまり、青山家と服部家、それにブラス山内天方家にはこれらの関係があり、
徳川家康の「築山御前・信康事件」は、このような関係下(特に@〜➃)で発生
しており、その時の二俣城主は「大久保忠世」でありました。服部半蔵と天方
通綱は検視役であったとしており、事件の真相については、謎が多く、それに
ついては今後記していくところであります。 」

と書きました。

 青山、天方、服部、大久保……どういう色彩の関係であるか?

 

 服部氏はというと、吉野十一党の1人服部宗純は、尹良親王に供奉したバリ
バリの南朝臣である。

 大久保氏については、その祖先は宇都宮氏の支流・南朝臣の武茂泰藤である
ということが分かった。

 青山氏はというと、これは正に南信州の浪合に浪合神社という小さな祠があ
り、「青山師重」を祀っている。つまり、師重は後醍醐天皇の皇子・宗良親王
の子・尹良親王に供奉し、殉死したバリバリの南朝臣であった。

 天方氏は青山氏に吸収されていった一族である。

 ここでちょっと休憩――

 
 
  

[64]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月09日 13時00分33秒 ) パスワード

三つ柏さん


>青山氏はというと、これは正に南信州の浪合に浪合神社という小さな祠があ
り、「青山師重」を祀っている

これは知らなかったです。

今でも祠があるというのが嬉しいですね。



浪合神社  
https://www.omiyasan.com/south/achi/post-213.php



画像集
https://www.google.com/search?sxsrf=ALeKk03Rt6KL0H5gwckzl1bexiz-BBm4xw:1604893984036&source=univ&tbm=isch&q=%E5%8D%97%E4%BF%A1%E5%B7%9E++%E6%B5%AA%E5%90%88%E7%A5%9E%E7%A4%BE+%E3%81%AF&sa=X&ved=2ahUKEwjN6cf-x_TsAhXGl54KHdDRBDUQ7Al6BAgKEB4&biw=1097&bih=515



青山師重について面白いサイトを見つけました:
https://www.baisouin.or.jp/history/03.html
by 真山剛氏

以下勝手に一部コピペ:


青山家のルーツは近江の国です。
平安時代にその権勢をふるった藤原家の血筋です。

近江の国の師重という人が青山と名乗る初代で、師重は藤原四家の一つ花山院家です。

この師重が尹良親王に従い群馬県新田荘に下ったことから青山姓の歴史が始まります。

当時の新田荘は相当広かったのですが、師重が移り住んだのは花山院の故領で、 今の吾妻郡中之条町です。
町は吾妻川を望む高台にあります。
青山は中之条中心部の隣に位置し、 師重はこの青山郷に住んだのです。


青山の地名から師重は青山姓を名乗ることになります。
ちなみに師重がこの青山に移ったのは南北朝時代の元中元年、1384年のことですから、 青山姓の歴史は六百年を超えることになります。

やがて師重は三河に移り住み、そして青山家は徳川家の最古参の譜代となり、青山忠成の時、 家康の命に従い現在の地に居を移しました。
そして関東入国の準備を整え、 その子忠俊が家光の守役に抜擢された。


http://www2.harimaya.com/sengoku/html/aoyama.html
青山氏
無字銭/葉菊
(藤原北家花山院流)


青山氏は、寛政重修諸家譜に「花山院堀川師賢(後醍醐天皇の忠臣)の子 信賢、その子 師資、其の嗣 師重、初めて青山と称す」とある。

その後裔忠門のとき、近江国から三河国へ移り三河国額田郡百々村の城主となった。

          どうどには友人の実家があります。
          元気かな?


その忠門が松平広忠・徳川家に仕え、その子忠成は秀忠の守役を務めて徳川氏の創業に貢献した。

青山家は「葉菊」を定紋とした。
南北朝時代、祖先が南朝に与して功があり、日月、菊紋の錦の御旗を賜ったという。
そのとき、楠木家の旗紋もまた菊花であったことから、これと区別するために両葉を加えた。
以後代々、家紋としたとされている。

とはいえ、南北朝を扱った『太平記』や『梅松論』などに、日月の錦旗は活躍しても、菊紋の錦旗というのはみえない。

青山氏の葉菊紋のいわれも、そのままには受け取れないところが少なからずあるようだ。

        この部分は青山家のことだから他人がアレコレ言うのは控えたいと思います。
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月10日 01時02分54秒 ) パスワード

昨日の「麒麟がくる」の放送最後のところの紀行の案内で

     国吉城で3日過ごした信長が
     敦賀に行って
     手筒山を落として金ケ崎に行って
         京に逃げ帰るわけだけど

後に織田信長が焼けた八幡神社に奉納した太刀に揚羽蝶がついてましたね。


やっぱり織田家が平資盛の子孫というのはホントだったのかな?

場所的に
越前(当然国守は平資盛さま)とか越中(国守は平盛俊さま等)とか若狭(国守は清盛の甥の平経俊さま)とかあたりは
もともと平家の支配下だったから
つまり当然心情的に南朝方エリアだし。


         この辺りの平家の公達のお名前を見ると泣けて来る


その後  織田家は管領斯波氏に仕えたりして  
だから信長の家がどっちだったか  というハッキリしたハナシは聞いてないけど  
尾張に斯波氏と一緒に来て   後に  我が家と激突していくわけで

うちが「南朝方」とハッキリ心の拠り所にしてるのを  信長は  アホか  とバカにしてたのかな?と空想する。


でも津島神社のお祭りの  北朝方武士を捕まえた神事は  信長(も秀吉も)楽しんだ  と聞いているから  やっぱり南朝方だったんだろうな


と、昨日の「麒麟がくる」で思った。



今回お駒さんの顔がものすごく浮腫んでたのは  酒の飲み過ぎ?  自粛太り?  これもすごく気になった。

女優は顔が命じゃないのか?と画面に突っ込んだ。
声は確かに門脇麦だったけど顔は別人だった。  
[66]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年11月11日 06時39分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、久しぶりの芝刈りで、気分転換をしてきました。

 レス[63]で、うっかりして一か所記述違いをしてしまいましたので、次の通
り訂正させていただきます――
 「浪合神社」 →「 青山神社」

 この青山神社は浪合神社のすぐ近くの森の中にある小さな祠であります。こ
こに「青山師重」が祀られております。
 浪合神社一帯は『浪合記『にあるような戦闘が行われたようで、青山師重、
桃井宗綱、桃井貞綱と世良田政義、世良田義秋、羽河景庸等の墓が点在してお
ります――
[67]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年11月11日 10時48分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:『浪合記『 →『浪合記』
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月11日 15時54分37秒 ) パスワード

三つ柏さん

今日は芝刈日でしたか。
外気たっぷりでコロナの心配が無くて
世間では第3波が来てると騒いでいるのを横目に
結構なお遊び日でしたね。



「青山神社」というのがあるのも知らなかったです。
小さな祠じゃなくて江戸時代に先祖を顕彰して立派な神社を建ててあげたら良かったのにねぇ。

    
http://www.digistats.net/castle.php?page=136
ここで家康の家系図を見ていたら 
「鵜殿」の康孝は家康の祖父の兄弟になってました。
つまり家康の「おおおじさん」の家ということで


    でも他の情報ではそういうのは見つかりませんでした
    とはいえムカシの日本の家は今の家族関係とは違うので  何かあったのかも


「麒麟がくる」で鵜殿長照の家康に対する態度が大きかったのは  実は一族でもあったから?と空想してしまいました。


勿論家康が若造で今川の人質だったし
それに鵜殿長照は今川義元の妹が生母だそうで
これにも改めて驚きました。

     長照は家康より一回りあたり年上なのかな?


家康の妻子と交換になった長照の子供達の年齢など計算したりして
ドラマの俳優=佐藤 誓  58歳=のイメージと実際の長照の年齢はかけ離れていたんだろうな  恐らく30歳前?
などと空想してしまいました。


楽しい遊びです。



三つ柏さんが御町内の皆さんの出自などの背景を纏めておいてあげたら
ご先祖さま達へ良いご供養になるし
未来の方達からも感謝されると思います。


それにお年寄り達も語り残せるので嬉しいと思います。


我々が有名どころの桃井氏一族ばかりでなく青山師重を歴史の中から見つけたり新田の一族の羽河景庸の名を発見したりしたことは
きっと彼らは喜んでくれたと思います。


三つ柏さんは良いことをなさっていると思います。
[69]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年11月12日 11時48分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 青山師重(もろしげ)は、青山姓の始祖でありますが、その曾祖父は師賢(もろ
かた)で後醍醐天皇の忠臣でありました。祖父の信賢は、後醍醐天皇の子後村上
天皇に仕え、父師資は、後村上天皇の子後亀山天皇に仕えました。つまり、青山
氏は一貫して南朝臣であったということであります。
 後村上天皇の時に、南北朝の合一がありますが、足利義満は約束を守らず、南
朝からは天皇は出されなくなった。そして南朝は後南朝としての時代に入った。
 ここで、「尹良親王」の吉野より上野国への移動がある。それは正に『浪合記』
の書き出しにもなっており、吉野十一党、あるいは十五党の出番となります。
 青山氏はこの吉野十一・十五党の一員としては語られておりませんが、浪合に
て青山師重は討死しております。

 師重の後は、今度は一貫して松平家→徳川家に仕えます。松平・徳川家にとっ
て、間違いなく譜代の大忠臣であります。

 ここで一休み――
 
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月12日 14時40分43秒 ) パスワード

三つ柏さん


>青山氏は吉野十一・十五党の一員としては語られておりませんが

はい
吉野11党・15党というのは尾張の津島神社の大橋家を中心にした家々のことだから
青山氏は入らないです。


吉野11党:四家七苗字のこと:津島11家ともいう。


津島
「四家」は    大橋・岡本・恒川・山川の4氏
「七苗字」は   堀田・平野・服部・鈴木・真野・光賀・河村の7氏
両者あわせて四家七苗字と呼んだ。
さらに  宇佐見、宇都宮、開田、野々村の四家を合わせて  津島15家とも言う。

     *4名姓については未だに思い出せないです:藤原・赤堀・長野そしてもう1つ


光賀は「こうが」です。
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%85%89%E8%B3%80

【名字】光賀
【読み】こうが
【全国順位】 27,442位
【全国人数】 およそ130人

現愛知県である尾張国海東郡津島村が起源である、菅原氏がある。
ほか紀氏(紀朝臣出が多い。竹内宿禰を祖とする。源平藤橘につぐ大姓)などにもみられる。
宮川藩=津山藩の支藩=にみられる。堀田正休が吉井藩(群馬県高崎市吉井町)から1万石で入封し宮川藩を立藩。堀田に光賀がくっついていたんでしょうね。

近年、岐阜県に少数見られる。高山や下呂にです。



【宇都宮】というのが大久保の祖なのかな?



青山師重は上野国青山郷にいたということで新田家と近い関係にあったのでしょうね。



分倍が原の戦い:

元弘3年(1333年)5月8日、新田義貞は上野国生品明神で鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。
この旗揚げ時の新田軍は、義貞以下一族の脇屋義助、大舘宗氏、堀口貞満、岩松経家、里見義胤、江田行義、桃井尚義ら総勢でもたった150騎ばかりであったと謂われる。

しかしながら、南行して利根川に至ったところで越後国の新田党(里美、鳥山、田中、大井田、羽川の各家)や、甲斐源氏・信濃源氏の一派が合流し、軍勢は7,000騎にまで及んだ。

以下略


越後の新田一族の羽川というのが羽河です。
越後南魚沼郡の坂戸城が新田の城です。


わたくしの母方先祖が14歳で元寇に参加し、恩賞に越後南魚沼郡上田荘に土地を貰って、その子供が越後にいました。
だから坂戸城の新田一族とは親しくしていた。

そして父方も羽河景庸と行動を共にしていたとは驚きです。


我が家は全員全家南朝方。新田一族とも何重にも繋がっている。

これが日本・日本人ですね。


https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%BE%BD%E6%B2%B3

【名字】羽河
【読み】はがわ
【全国順位】 66,272位
【全国人数】 およそ20人
【名字の由来解説】
羽川と語源をともにする。現栃木県である下野国都賀郡羽川邑発祥ともいわれる、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)新田氏族。室町徳川家の臣下にみられる。


https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%BE%BD%E5%B7%9D

【名字】羽川
【読み】はがわ,はねかわ,はかわ,うかわ
【全国順位】 8,838位
【全国人数】 およそ890人
【名字の由来解説】
現栃木県である下野国都賀郡羽川村が起源(ルーツ)である、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)新田氏族。現秋田県南部である羽後にもみられる。近年、秋田県に多数みられる。
[71]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年11月14日 10時24分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

「青山氏」のルーツも、「大久保氏」の祖の「宇都宮氏」のルーツも、藤原氏
大繁栄の基礎を作った「藤原兼家」に収束する。
「兼家」の長男が「道隆」……子孫に「池禅尼」がいる。
「兼家」の三男が「道兼」……子孫に「宇都宮氏」がいる。
「兼家」の五男が「道長」……子孫に「青山氏」がいる。
 
「青山氏」の始祖の「師重」は、「兼家」から数えて十五代目にあたる。
「師重」の曾祖父の「師賢」は、後醍醐天皇に仕えた南朝忠臣であった。「師
重」は後醍醐天皇の孫の尹良親王に仕え、殉死した。

「大久保氏」の始祖の「泰藤(武茂氏)」は、「兼家」から数えて十四代目に当
たる。泰藤は後醍醐天皇臣の新田義貞に仕えた南朝忠臣であった。

 青山氏と大久保氏は、以上のように、@藤原氏本流であり、A後醍醐天皇臣、
つまり南朝臣であるという少なくとも二つの共通点をもっている。

 では、服部氏はどうか……次回に――
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月14日 15時30分06秒 ) パスワード

三つ柏さん

>藤原兼家

天皇に対する極悪人ですね。寛和の変。


     若い花山天皇をだまして出家させ

                実行犯は三男の道兼

     三種の神器を奪い自分の孫を天皇に据えた。一条天皇。
     そして自分は  摂政・関白・太政大臣に。


ま、日本史上、不比等に次ぐ政治家  でしょうね。


伊尹、兼通、兼家の藤原3兄弟
団子兄弟とは違ってこの藤原家は伊尹の死後の兼通vs兼家の権力闘争・兄弟喧嘩・嫌がらせ合戦。
「兄弟は他人の始まり」を地で行ってますね。

そして5男の道長。この人も 甥の伊周と権力闘争と追い落とし合戦。
後に宮廷女房達の争い:中宮定子↔清少納言 vs 中宮彰子↔紫式部


わたしは子供の時にこの政治闘争を読んで 藤原氏が大嫌い  になりましたよ。

       母からは自分の曾祖母の家の悪口を言うなと叱られました。




冷泉天皇は今で言う発達障害だったのかな?
それでも62歳という当時では随分長生きなさったと驚きます。


高松宮殿下がホンヤさん宅に遊びにいらっしゃった時に
美智子さまが皇太子妃に選ばれた理由の1つだと聞きました。
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月16日 11時04分57秒 ) パスワード

「麒麟がくる」を見終えたところ。

今回は久し振りに神回でした。
振るえた!

鉄砲200挺。
オトコの世界だねぇ〜
あれが日本のオトコ対オトコの契約だね。

    中東じゃ、ありえん。


これから信長は四方八方敵だらけになって  いかに  苦境を脱するか
どんな脚本か楽しみ。
比叡山焼き討ちは光秀のアイデアなのか?
そこも楽しみ。


今日は後半に  摂津晴門  あれ?  結構足利幕府思いじゃん  と思った。
いつもは  喰えないオヤジ   (片岡鶴ちゃんの演技に  ヤルねぇ)  と思ってたけど
摂津晴門自身はやっぱり足利幕府再興を願ってたのかな?と。


      足利幕府内の名家だし。


これから家康は三方が原の戦いで大変な目に遭うのだな、と。


オトコ達の窮地。
次回が楽しみ。
[74]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年11月16日 11時09分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大久保氏についてもう一度整理してみると、先祖の宇都宮家は元は藤原氏で
あり、始祖「宇都宮宗円」より始まる。
 宗円の息子・「宗綱」の娘は、「平家貞」の妻となり、「平貞能」(大橋氏
の祖先)を生む。

 宗円から数えて五代目の「頼綱」の娘は、「藤原定家」の息子・「為家」の
妻となる。
 この藤原定家の「御子左家(みこひだりけ)」の流れは、「定家」―「為家」
―「為世」―「為道/為子」―「為定/藤子」と続く。
 「為子」は後醍醐妃となり、第一皇子・「尊良親王」、第四皇子・「宗良親
王」を生む。
 「藤子」も後醍醐妃となり、第八皇子「懐良親王」を生む。

御子左家を媒介にして、宇都宮家の後裔・支流である大久保家始祖の「泰藤」
は、尊良親王・宗良親王・懐良親王と血がつながっているということになる。
 泰藤が南朝に仕えたのは、そういった意味で当然の帰結であったのかも知れ
ない――
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月16日 11時39分35秒 ) パスワード

三つ柏さん

>泰藤が南朝に仕えたのは、そういった意味で当然の帰結であったのかも知れ
ない

「宇都宮氏」が津島15家の1つなのは「そういった意味で当然の帰結であったのかも知れない」と思って来ましたが
やっぱりそうなのかな?

   https://blog.goo.ne.jp/magohati35/e/f6346d29e1b7d9b250d3a116d83968ac

応永四年世良田大炊助政義[ 弥次郎満義ノ子]桃井右京亮宗綱ト議シテ[宗綱実父ハ三州額田郡吉良弥三郎有信子母ハ桃井駿河守義繁女ナリ]

妙法院宗良親王ノ御子兵部卿尹良ヲ上野国ニ迎ヘ奉ル此尹良親王ハ遠江国飯谷カ館ニテ誕生ナリ

御母ハ飯谷井伊介道政女也

延元元年尹良ノ御父宗良親王ヲ道政主君ト崇奉リ  遠江国ニ迎ヘ旗ヲ揚テ  京都将軍ト挑戦

尹良ハ大和国吉野ニ御座テ御元服ノ後正二位中納言一品征夷大将軍右大将兵部卿親王ニ成ラセ給フ

元中三年八月八日源ノ姓ヲ受サセ給フ

然ルヲ  新田 小田 世良田 桃井等  其外  遠江 三河ノ宮方与力ノ者相議シテ
桃井和泉守源貞識ヲ以テ  吉野ヨリ上野国ヘ迎ヘ移シ奉ル  [貞識ハ桃井伊豆守貞綱二男ナリ]
 


吉野ヨリ供奉武士
大橋修理大夫定元       岡本左近将監高家
山川民部少輔重祐[或ハ朝祐] 恒川左京大夫信規
此四人ヲ新田家ノ四家ト云

                       新田家の4家
                       恒川氏が繁殖してる 場所はまさに尾張西南部 津島神社勢力下  我が家の仲間

                       新田勢力を背景に大橋・宇都宮=大久保=そして青山がガッチリ肩を組んで来たのかな?
                       そして後に三河に定住したということで良いのかな?
    


吉野ヨリ供奉公家庶流
堀田尾張守正重   平野主水正業忠
服部伊賀守宗純   鈴木右京亮重政
真野式部少輔道資  光賀大膳亮為長
河村相模守秀清

此七人ヲ七名字ト号ス是十一家ヲ吉野十一党ト宮方ノ武士申ス也
二心ナク尹良君ヲ守護シ奉ル
[76]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年11月17日 11時58分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大久保家の祖先の宇都宮家について、もう一つ肝心なことを忘れていました。
 それは、宇都宮宗円の子・宗綱には少なくとも三人の子があり、それは@朝
綱、A知家、➂娘、であります。

 @朝綱から数えて八代目が泰藤――大久保氏の始祖であります。
 A知家は源義朝と関係する――これについては別途考察する。
 ➂娘、即ち宇都宮朝綱の妹は、平家貞の妻となり、平貞能(津島の大橋氏の
  祖先)を生む。
  平家貞は平宗清の叔父であり、宗清と貞能とは従兄弟となる。
  平宗清は、津島の服部宗純の祖先であります。

 つまり、宇都宮氏は、服部宗純が南朝臣であることの必然性をもたらした
要因の一つでもあり、また、逆のことも言えるのかも知れません。
 
 また、義朝・頼朝と朝綱、貞能、宗清、頼盛、池禅尼、そして熱田神宮の大
宮司家とはシンパシィ関係でつながっているような気がいたします。

 この辺も含めて次回に――
 
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月17日 15時41分28秒 ) パスワード

三つ柏さん


ムカシの家族関係はどこまで血の繋がった現代の意味の家族なのか  そこが分からない  という問題がありますね。


>A知家は源義朝と関係する

                       ご落胤説がありますね
                       そして母は朝綱の妹だとか

>➂娘、即ち宇都宮朝綱の妹は、平家貞の妻となり、平貞能(津島の大橋氏の祖先)を生む。

                        はい
             
                        しかし
                        知家を生んだ朝綱の妹とは誰なんでしょうね?


 
                        八田宗綱の娘で京都で生まれたとされる寒河尼/寒川尼は近衛天皇に仕えたとされ
                        頼朝の乳母となり、後に、小山政光の後妻となり
                        末っ子を連れて頼朝に会いに行って烏帽子親になって貰い
                        その子は小山七郎宗朝と名乗った(のちに朝光)
                        


八田宗綱には娘が一体何人いたんでしょうね?

わたしのご先祖さまになる北条時政には1ダース娘がいたそうです。
それでわたしの先祖は頼朝と相婿になりました。

      わたしの当時の先祖の正妻は北条時政の娘の「谷殿」



八田宗綱の娘
@源義朝の隠し子である八田知家を生んだ
A平家貞の妻となり平貞能を生んだ
B小山政光の<後妻となって>小山七郎宗朝を生んだ
                           では前夫はどなた?


可能性として@ABは同一人物?




そして  いつの間にか  服部宗純の先祖が平宗清に化けましたね。


今切の関所奉行  服部政信・政重兄弟は  ホンヤさんとは同じ先祖ですよ。


服部家長は壇の浦の後、服部郷荒木ではなく花垣村予野に引っ越して、六郎時定と名乗り 
子が時保で

その長男が宗保で、養子に行った先が   (服部季宗→ 柘植宗清 → 家清が三日平氏の戦いで戦死した服部家で)柘植7家となった。
福地・北村・山川・柘植・西川・松尾・北川。
後にこの子孫が観阿弥・世阿弥。


時保の次男は服部公清の息子の保俊で  この子が千賀地保行。保行の子が4人いて
中服部保親の子孫が半蔵さんや青山成重になって行く
下服部保長の子孫が保清→9代略して→保宗→服部伊賀守宗純  子孫がホンヤさんや今切関所奉行兄弟



千賀地保行 → 保長 → 保清 → 9代略 → 保宗 → 宗純 → 宗家 → 宗信 → 宗政 → 政家 → 友貞・政光兄弟

                        友貞が北畠具教の城に正月の挨拶に行って滝川一益に謀殺されて弟の正友が跡を継いだ
                        政光の子が政季で→政信・政重兄弟が今切の関所奉行



寛政重修諸家譜  巻第1171  P76

新左衛門政久がとき嗣なくして家たゆ。
庶流服部重之丞信発が呈譜に
平氏にして葛原親王の後胤。

伊賀平内左衛門保長が男平内兵衛保清
伊賀国服部に住せしより家号とす。

保清9代の孫を修理亮保宗とし
その子を伊賀守宗純とし
その子を左京亮宗家とし
其子を伊賀守宗信とし
その子を左京亮宗政とし
政家は宗政が男なりといふ。


服部権大夫左京亮信発が呈譜政家に作る。
織田信秀に属し  後 尾張国河内に蟄居す。   ←  信長の父と喧嘩したハナシ

以下略


なので半蔵さんや青山成重は伊賀守宗純の直系子孫ではない。


う〜
こわかった
瞬殺されるかとヒヤヒヤした。
[78]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月17日 16時27分42秒 ) パスワード

服部公清って   どなた?
未だに誰?状態です。



服部季宗→ 柘植宗清 → 家清は三日平氏の戦いで戦死
家清は父が頼朝を助けたことが平家として「慚愧の至り」だったんでしょうね。
宗清は頼朝から鎌倉へ来いと言われても行かなかった・行けなかった  つまり  宗清も抑鬱状態だったんでしょうね。



三日平氏の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%97%A5%E5%B9%B3%E6%B0%8F%E3%81%AE%E4%B9%B1_ (%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3)


寿永2年(1183年)7月の平氏西走後も、その本拠であった伊賀・伊勢両国には平氏家人が播居しており、元暦元年(1184年)3月に大内惟義が伊賀の守護に補任され、武蔵国の御家人大井実春が平家与党討伐のため伊勢に派遣される。

7月7日辰の刻(午前8時頃)に平(平田)家継を大将軍とする反乱が勃発し、襲撃を受けた惟義の郎従が多数殺害された。

                        わたくしの前世の父上です

時を同じくして伊勢でも平信兼以下が鈴鹿山を切り塞いで謀反を起こし、院中は例えようもないほど動揺したという(『玉葉』7月8日条)。

                        殿下乗合事件を起こした平資盛が関の信兼の屋敷に預けられてココで生まれたのが信長の先祖ということ

                        資盛は越前守だったから、それで織田家は越前で保護されていたのかもね

                        息子の山木兼隆は北条政子の婚約者だった  頼朝に殺された

                        
19日には近江国大原荘で鎌倉軍(官軍)と平氏残党が合戦となる。

家継が討ち取られて梟首され、侍大将の富田家助・家能・家清入道(平宗清の子)らが討ち取られた。

                                     ココ↑ですよ  宗清の子は反頼朝でしたよ



平信兼・藤原(伊藤)忠清は行方をくらました。
反乱はほぼ鎮圧されたものの、源氏方も老将佐々木秀義が討ち死にし、死者数百騎に及ぶ大きな損害を受けた。

8月3日、事態を重く見た頼朝は、蜂起した平氏勢力の中の最有力人物である平信兼の捜索を義経に命じる。

10日、信兼の3人の子息、兼衡・信衡・兼時が京の義経邸に呼び出され、斬殺、自害へ追い込まれている。

義経はその2日後に信兼討伐に出撃した(『山槐記』8月10日条)。

その後の合戦の経過について貴族の日記による記録はないが、『源平盛衰記』によると、伊勢国滝野の城に立てこもる100騎ほどの信兼軍が激戦の末、討ち取られたという。

この平信兼追討の最中の8月6日、義経は後白河法皇より左衛門少尉、検非違使に任じられた。
                           

8月26日、鎌倉に義経から信兼の子息3人を宿所に呼び寄せて誅した事、信兼が出羽守を解官されたとの報告が届き、9月9日、信兼以下平氏家人の京都における所有地を、義経の支配とするよう頼朝から書状が出された(『吾妻鏡』)。


藤原忠清は翌元暦2年(1185年)まで潜伏を続けて都を脅かした。

一ノ谷の戦い以降、源範頼以下主な鎌倉武士は帰東しており、またこの反乱の最中の8月8日に、範頼は平氏追討のために鎌倉を出立し、9月1日に京から西海へ向かっている。

平氏残党に対する都の不安は大きく、後白河院は治安維持のために翌年正月の義経の屋島出撃を引き留めており、義経の検非違使・左衛門尉任官は、このような情勢の不安による人事であった。


近年の研究では、義経が平氏追討から外されたのは、後年の編纂書『吾妻鏡』が記すような無断任官による頼朝の怒りのためではなく、京都の治安維持に義経が必要であり、法皇や貴族たちの強い反対があったためと考えられている。

                       「組織」ってタイヘン!


なお、平信兼と平家継は源義仲打倒の立場から、義経の入京に協力した京武者たちであった。『吾妻鏡』では信兼の息子たちが事件の張本であったとするが、彼らは義経の屋敷に出向いていることから反乱と深い関わりは持っていなかったと見られる。信兼追討の背景には、独立性の強い京武者の排除、従属させようとする頼朝の方針があったと考えられる。

                       「政治」ってキタナイ!
                        でも勝たないと意味が無い。負けたら  終・わ・り death! 大和田常務風に  
[79]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月18日 01時29分05秒 ) パスワード

一晩寝て  アタマすっきりさせて(謎)  もう1回服部家の皆さんの家のことを見て来ました:



宗清系で宗純子孫を名乗る人物は  中保次  でした。

中保次は(宗次・要介・小平太・中も名乗っている)
寛政重修諸家譜  巻第1172
  
高棟流にして弥兵衛宗清より出
宗清頼朝将軍より伊賀国阿拝山田2郡のうちにおいて       (山田は平=平田=家継の領地だった)
32村の地を賜ひ
阿拝郡服部村に住せしより  子孫服部をもって家号とす
保次は其後胤伊賀守宗純が末孫なりといふ



ということは   この服部中保次の家が壇の浦以後、頼朝のお墨付きで 家継・家長兄弟にとって替わった  伊賀の支配者ということで良いのかな?


      で、服部半三保長・服部半蔵や 呉服明神の神主貞信や 服部家ホンヤの一族の今切関所奉行政信の家とは系列が異なる  ということ。
      こっちは  家長子孫の千賀地系だから。 

      



だけど

中保次と津島の服部小平太が   混同  するのよね。
この2人は光源院=将軍義輝=に仕えて桶狭間では義元の本陣に馳せ向かひ戦功を勤す
つまり義元に1番槍を付けたのは小平太で
戦陣にまっしぐら向かった(だけという)のが中保次?
だからこの2人は別人ということなんでしょうね。

    だって津島の服部小平太は秀吉に仕えて大名になって秀次の守り役になって連座で切腹してますから。

    遠江の服部中保次は信長に仕えて桶狭間で義元の本陣に突進して永禄8年家康に仕えて9年に足軽同心50人(のちに55人に)を預けられ
    天正4年同心22人を預けられ5年に遠江国引佐郡をよび三河国岡村のうちにをいて120貫文の采地を賜ふ
    天正15年享年62。遠江国刑部村に葬る。


                だから服部小平太は 「2人」  いた。

遠江の中保次の家の家紋は
     16桁車の内横矢筈           ← 家長系家紋?
     むかひ蝶                ← 平家家紋?
     揚羽むかひ蝶の内16葉菊        ← 青山家との関係から16葉菊も付けた?




で、笑っちゃうのが
笑っちゃいけないんだけど

宗純は  1374年〜1436年の宗純さんもいるわけで  この人が津島の雲居寺を建てた人だと思うけど

この宗純さんの祖父がいわゆる「後醍醐天皇のお召し」で伊勢国奄芸郡から吉野に馳せ参じた服部伊賀守宗純と思うのです。


とにかくムカシの人の家族関係は現代の血統主義の家族関係と違うし今のような改製原戸籍制度があったわけじゃないし
ワケ分からない。


ホンヤさん宅は今では源姓になってるし。
宗良親王が将軍になった時に源姓を拝領した流れなんだろうけど。


というわけで  読んでも読んでも   読んだらヨケイにこんがらがる。
[80]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年11月18日 11時42分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様渾身のレス、ありがとうございます。

 服部党は、南北朝の前から「悪党」として東大寺等に反抗し、跳梁跋扈、勢力
を高めています。
 そういった意味からいきますと、源平の時代はまだすっきりしている。鎌倉末
期にクチャクチャになった。北伊賀と南伊賀で幕府側、宮側と対応が違った。
「黒田の悪党」は名張の方であります。
 地勢が解ると歴史がわかるといいますが、隠れやすい場所だったのでしょうか
――
[81]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月19日 14時27分56秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101737.html
長上郡の服部氏族CXL:140:いよいよ核心に‐8を立てました。

切りの良いところで、どうぞ。
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