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 投稿番号:101721 投稿日:2020年06月17日 01時02分16秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族CXXXY:136:いよいよ核心に‐4
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101718_47.html
長上郡の服部氏族CXXXX:135:いよいよ核心に‐3
の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


酔石亭主さんのご降臨で

     http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101717_51.html
          長上郡の服部氏族CXXXW:134:いよいよ核心に‐2
     http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101718_47.html
          長上郡の服部氏族CXXXX:135:いよいよ核心に‐3

先のスレッド、前スレッドで  日本の古代史の謎の読み解き方  を教えて頂きました。
お礼申し上げます。


前スレッドのレス<33><39>の蘇我氏の謎および蘇我氏と継体天皇の関係は衝撃でしたね。

これ以上はantebellum的には「不敬罪」の域になって行きそうなので止めておきます。


前スレッドの三つ柏さんの書き込み:

出雲と遠江の関係で、気になっていた「いなさ」という語義を調べておりました。

出雲では「稲佐」、遠江では「引佐」であり、
引佐郡に銅鐸が沢山出土しているということを考えますと、
銅鐸文化圏だということ、
出雲と大変関係が深いということは、
現実として認知されることだと思います。

出雲の「稲佐の浜」の浜には岩石の塔のようなものがあり、
「弁天島」と呼ばれており、
かつては海の中にあったということ。
 
遠江にも浜名湖の舞阪に「弁天島」というものがあり、
「いなさ」と「べんてん」と取り合わせは、
奇妙にも両方で一致しました。


銅鐸の出土地として三ケ日に荒神山という所があり、
出雲にも荒神谷遺跡というものがあり、
銅剣や近くで銅鐸がみつかっているのも、何か暗示的であります。


三ケ日の山にはダイダラボッチの話も残っておりますし、
いずれにしても、
酔石亭主様の言われた出雲、及び三輪氏と遠江との関係について、
これからもその探求を深化させて行きたいと考えております――



浜名湖近辺には出雲の人々の痕跡が多く見受けられるとの
酔石亭主さんの先スレッドでのご指摘のように
予想以上の古い時代から遠江には出雲の影響があったことが分かりました。
三つ柏さんのご先祖に辿り着きますように。

[1]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年06月17日 10時49分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッド、ありがとうございます。

 古代史は単純でなく複雑で奥深いものであるというか、歴史の塗り替えが
常に行われてきたと考えた方がいいと思います。「勝てば官軍」というのは、
歴史の法則、つまり人間の欲望の本質だと思います。都合の悪いものは消し、
あるいは都合のいいように書き換える。いわゆるあを様のよく言われるロン
ダリングであります。
 その大規模に行われたのが『日本書紀』だと思います。もちろん、それは
その後の歴史の流れの中で、どういう効果・結果をもたらしたのか、正しく
評価されなくてはなりません。
 藤原氏だけでいいのか、秦氏は賀茂氏は?
 藤原氏は秦氏とつながっていますし、秦氏は賀茂氏とつながっております。
 この三者の複合された形の統治システムがありはしなかったか?……そん
な勘が働きます。

 さて、「銅鐸」でありますが、銅鐸にも奥深い謎がいくつもあります。そ
の代表的なものが、銅鐸には大きく2種類のものがあるということでありま
す(大加茂真也氏の『八咫烏の「超」日本史』)。それは――
 @「古いタイプの銅鐸」
 A「新しいタイプの銅鐸」
 これは、以前では――
 @「小さい銅鐸」
 A「大きい銅鐸」
と分類されておりました。最近では――
 @「聞く銅鐸」
 A「見る銅鐸」
とも言われているということであります。
そして、その分布は――
 @:島根県から広島県、そして香川県、徳島県、さらに和歌山県の北部
   から名古屋、そして福井県に囲まれた地域
 A:静岡県・愛知県の2県、滋賀県、和歌山県・徳島県南部・高知県と
   いった3つの地域
の中に集中して分布しており、滋賀県野洲市だけが両方のタイプが出土し
ているということであります。

 大加茂氏は、出雲と大和からは「古い小さな聞く銅鐸」が集中して出土
していることから、少なくとも出雲と大和は同一文化圏であったと結論付
けております。つまり、「スサノオが出雲を築き、子の大国主が国を造り、
そしてさらに子孫の大物主が大和を造った」という物語と考古学的資料が
一致すると言う。

 銅鐸についての考察は、もう少し考古学的資料の分析を当たった上で裏
付けを取らなければいけないと思っています。
 現に、浜松博物館の発行する『浜松市の銅鐸』を見ますと、この遠江で
は「三遠式銅鐸」と「近畿式銅鐸」という分類がされており、大きな特徴
としては――
 @「三遠式銅鐸」:ア.鈕(ちゅう 吊り下げる輪っか部分)に「飾り耳」
がない。
イ.菱環(りょうかん 鈕の正面面みたいなもの)の
            幅が狭く、厚みがある。
          ウ.裾が短い。
 A「近畿式銅鐸」:ア.鈕に渦巻模様で飾った双頭の飾り耳があるものが
            多い。
          イ.菱環の幅が幅が狭く薄い。
          ウ.裾が長い。
というような特徴を上げております。これを見ますと、大加茂氏のいう
 @「古いタイプの銅鐸」
 A「新しいタイプの銅鐸」
という点では整合してくるのかと思われますが、両方が遠江では確実に出土
しているという点で相違があります。
 少なくとも近江(野洲)と遠江(引佐)では、弥生時代前期の終わりないし弥
生時代中期より弥生時代後期までの間、出雲の銅鐸文化圏にあったと言える
のではと推察されます。

 細江町にある「姫街道と銅鐸の歴史民俗博物館」に行くと、銅鐸の通常
のレプリカと、音を聞くためのレプリカがあります。その音は、澄んだ音
がした覚えがあります。
 今回、このように遠江と銅鐸、三輪・賀茂氏に興味が高まりましたので、
改めてこの博物館に行ってまいりたいと思います――
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月17日 23時34分26秒 ) パスワード

三つ柏さん

おっしゃる通り、21世紀から縄文時代や弥生時代・神代や古代を考えるって単純にはいきませんね。


>出雲と大和からは「古い小さな聞く銅鐸」が集中して出土していることから、
>少なくとも出雲と大和は同一文化圏であったと結論付けております。
>つまり、「スサノオが出雲を築き、子の大国主が国を造り、そして、さらに子孫の大物主が大和を造った」
>という物語と考古学的資料が一致する


>近江(野洲)と遠江(引佐)では、弥生時代前期の終わりないし弥生時代中期より弥生時代後期までの間、
>出雲の銅鐸文化圏にあったと言えるのでは


去年あたりにテレビで銅鐸の番組を見ました。
巨大なものから小さなもの、入れ子式のもの   いろいろあって   結局  へぇ〜  で終わってしまいました。


それでウイキで調べて来ました:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%90%B8
画像をしげしげ見てて  笑ってしまった。カワイイのもあるんだな、と。
弥生人はどんな気持ちでいろいろやってみたのかな?と。



三輪氏や賀茂氏などの地祇系氏族との関連は以前より指摘されており、
出土分布が
                        島根県(大国主神など出雲神話の舞台)、
                        兵庫県(播磨国風土記など出雲系神話の舞台)、
                        徳島県(天八現津彦命の後裔が定住)、
                        高知県(天八現津彦命の後裔が定住)、
                        奈良県(事代主神など三輪氏の本拠)、
                        滋賀県(和邇氏一派や三上氏の本拠)、
                        長野県(建御名方神の後裔が定住)であるように、

三輪氏系部族と物部氏系部族の政治連合体において象徴的に用いられたとする説もある。

                        へぇ〜

これらは神武東征の影響によって崩壊し、畿内の中心地域から弥生時代後期に銅鐸が消えたとされる[19]。


                        ここで神武東征が出て来る?とビックリ!


                                   日本ってヤッパリ本当にワケ分からなくなる



以下は友人からのメールのコピペ:

藤原の鎌足・・・

藤原姓は吉備の国のほうが古く今でも日本でも多い地域です。
大和に出ていた。吉備氏族や蘇我一族の中に藤原一族が居たのではと推測します。
何せ、百済の王子説が根強いですからね。
是についてはまた別便にします。


という事から調べてみました:

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E8%97%A4%E5%8E%9F

@中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。特に北家の族葉が広がる。
A藤原式家としては、藤原秀郷流、藤原利仁流がもっとも広まる。
Bまた各地の藤原という地名が起源(ルーツ)である。
C最も古代の藤原氏も大和国高市郡の地名であったとされる。
D他にも、藤原部(ふじわらべ)から起ったもの、各地の藤原という地名から起った藤原姓もある。

E備前国に藤原郷あり。允恭天皇が皇妃衣通姫を妃とし藤原宮を建て、住まわせる。その後、藤原部を定め、由来のひとつ。

                        允恭天皇がここにも出現!



分布!
ホントに岡山に多い!


藤原さんの多い地域 TOP5


都道府県別    人数

兵庫県 およそ45,100人
大阪府 およそ35,200人
岡山県 およそ22,600人
東京都 およそ18,600人
広島県 およそ13,800人


市区町村別    人数

岡山県岡山市 およそ7,200人
岡山県倉敷市 およそ5,500人
大阪府和泉市 およそ4,500人
兵庫県姫路市 およそ3,900人
兵庫県西脇市 およそ3,800人


藤原さんの比率が多い地域 TOP5

都道府県別    比率

岡山県 1.19906%
島根県 1.03591%
秋田県 0.95172%
岩手県 0.94336%
兵庫県 0.82591%




ブログ紹介
http://kibinokojima.blogspot.com/2010/04/blog-post.html
吉備楽土


以下勝手にコピペ
ブログ主さん、ごめんなさい

2010年4月1日木曜日

秦氏と藤原氏


藤原家と秦氏は極めて近い関係


久慈力氏の「シルクロード渡来人が建国した日本」を読んでいると
「藤原氏はシルクロード有力渡来豪族の集合体」との一説が目に入った。

藤原氏はスキタイ・サカ族が中心氏族であり、彼らと秦氏、月氏系などの集合体」とあり、

藤原氏と秦氏はそのルーツが非常に近い、しばしば婚姻関係を結んでおり、ほとんど融合している。


秦氏が藤原氏を経済的に支援している。
あるいは秦氏が藤原氏にもぐりこんでいる
とある。

西大寺観音院の縁起に出てくる[皆足姫]縁起には「藤原皆足」とあるが、
別の記述には「秦皆足」とある。

玖珂の皆足とは秦氏だった。

藤原氏と秦氏が密接な関係にあったとしたら、この辺りも理解できる。



改めて日本国のルーツは何か?秦氏と藤原氏など、関係を知りたくなった。


                       わたしも知りたくなった。

                                             へぇ〜(驚き!)
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月18日 04時32分20秒 ) パスワード

藤原部って何?

ということで検索:
https://nihonsinwa.com/page/1414.html
允恭天皇(日本書紀)>允恭天皇   
15   奈能利曾毛と藤原部


                       この允恭天皇って、オンナにしたら=正妻にしたら=とんでもないオトコでした。
                       皇后が雄略天皇を出産した時、オンナに会いに行ってた=衣通郎姫=このオンナ  皇后の実の妹!
       
                       そりゃ、皇后、怒るよね

                              人間関係ややこしくて落伍!



>茅渟へと移り住む前に、藤原宮に住んでいた衣通郎姫に「藤原部」を定めた…というお話です。
>古代では皇女や皇子の名前を冠した「部民」を定めることで、その名前を残そうとすることがありました。
>藤原部というのは、衣通郎姫の名前を残すためのものです。



https://nihonsinwa.com/page/1411.html
允恭天皇
12  皇后の出産の日に藤原に行く=皇后の妹の所だよ



ホント!
日本の神話もギリシャ神話同様  余りに人間的で  面白い。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A3%E9%80%9A%E5%A7%AB
衣通姫

『古事記』には、
允恭天皇皇女[1]の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名[1]とし、
同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)と情を通じるタブーを犯す。
それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚、伊予へ流刑となるが、
衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たした二人は心中する(衣通姫伝説)。



『日本書紀』においては、
允恭天皇の皇后忍坂大中姫の妹・弟姫(おとひめ)とされ[1]、
允恭天皇に寵愛された妃として描かれる。
近江坂田から迎えられ入内し、藤原宮(奈良県橿原市)に住んだが、
皇后の嫉妬を理由に河内の茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移り住み[1]、
天皇は遊猟にかこつけて衣通郎姫の許に通い続ける。

皇后がこれを諌め諭すと、以後の行幸は稀になったという。



ソープドラマというか昼メロというか週刊誌ダネというか
人間ってエンエンとこういう事をやって来たんだね。


アングロサクソン(イギリス・アメリカ)は浮気はいけませんという大前提があって
影でコソコソだけど

ラテン系は  他にオンナ(オトコ)がいて当たり前   という大前提がある。
マリーアントワネットが悪女とされるのはルイ16世に公妾がいなかったから国民の不満が彼女1人に向かったという説がありますね。


日本の場合は  正妻に叱られる若い女が好きなオット  か?


日本の神話は同じようなハナシがいくつもあって   日本人の民族的傾向なのか?  古いハナシの焼き直しなのか?

和歌には  本歌取り  ってあるし
こういうのが  日本人は好きなのかな?


           欧米化した現代日本人は  「盗作」  って罵倒するけど。
           日本では「出藍の誉」レベルなら許されると思うけど。


ということで「出藍の誉」って誰の言葉?と思い調べたら
    『荀子―勧学篇』に「青取之於藍、而青於藍」とある。
    「青は藍より出でて藍より青し」という句から出たもの
でした。


それで性懲りも無く  エンエンと  よろめきドラマを作り続けるのか?
[4]酔石亭主さんからのコメント(2020年06月18日 18時37分00秒 ) パスワード

空の青海のあをさん 三つ柏服部さん 

銅鐸に関連するレス2
>三輪氏や賀茂氏などの地祇系氏族との関連は以前より指摘されており、

これは大場磐雄氏の「銅鐸私考」による内容で、三輪氏や賀茂氏の関連地名として三河の岡崎市洞町に鴨田郷の字鴨田。幡豆郡の三和村。加茂郡。北設楽郡田峰に三輪川、三輪村。遠江は和名鈔に浜名郡六郷の内に大神郷、白須賀町付近。既に書いた弥和山神社。などがあり、出土場所は三河国が幡豆郡三和村小島、宝飯郡御津町広石、御油町水戸山、八幡村十両 豊橋市源祖、小坂井町伊奈、豊橋市瓜郷、北設楽郡田峯、遠江国が白須賀町鍛冶谷、引佐郡三ケ日町釣、気賀町小野、浜松市北区中川、三ケ日町北方只木などとなっています。こう見ると三輪氏や賀茂氏は銅鐸に関連しそうで、三つ柏さんもそのように指摘されていますが、この問題は一考の余地がありそうです。

その前にお詫びですが、浜松の三輪さんに関して支離滅裂な部分がありました。例えば服織神社で秦氏と服部氏の後に出雲神族が来てタケミナカタを祀ったなどと書き、その後のレスでは290年頃に崇神天皇が来たので物部氏や三輪氏が大和を出て行った結果、尾張や美濃、遠江に三輪さんが多くなったと言った主旨で書いています。要するに場当たり的に年代的な整理をしないまま書いてしまったわけで、誠に申し訳ありません。もう一度整理し直してみます。

まず三遠式銅鐸ですが、2世紀末には終了したとの前提で考え、三輪さんの浜松到来時期に関して幾つかのシナリオで書いてみます。

@饒速日命が倭国大乱を避け190年頃大和に東遷した結果、纏向遺跡が3世紀になって始まり、それに押し出されるように三輪さん、賀茂さんが大和を出て美濃、尾張、三河を経由して遠江に入った。このシナリオの場合三輪さんや賀茂さんが三河や遠江で銅鐸を作らせた可能性がある。

Aその約100年後の290年頃に崇神天皇が大和に入り、結果、物部氏、三輪氏、多氏などが押し出され、三輪氏や物部氏の一部が同様のルートで遠江にまで至った。このシナリオの場合銅鐸との関連付けは困難。最後のシナリオは長くなります。

B三輪氏の祖は記紀によると大田田根子で和泉国(大阪府)の陶邑(堺市)から招かれています。三輪山における祭祀の始まりは4世紀後半からとされ、5世紀後半に盛期となり6世紀には勾玉を用いた祭祀が行われました。陶邑での須恵器の生産の最古段階は4世紀末から5世紀初頭であり、三輪山山麓出土の祭祀用須恵器は陶邑産となっています。ただ、三輪氏による三輪山祭祀の始まりは、内容を確認してはいませんが、三輪高宮系図によれば欽明天皇の時代とされているとのこと。これらから大田田根子は(実在すると仮定して)400年前後の人物で三輪氏による三輪山祭祀の始まりは550年頃に想定され、三輪氏が各地に御師を送り込んだのも550年頃以降となりそうです。

多分三輪さんは出雲神族から神様とその系図を買い、三輪さんのグループAは大国主を再販、Bは大物主、Cは大己貴、Dはタケミナカタ、Eはその他の神々、と言った具合に手分けして各地を回り、三輪の神を分祀し(=神札を売りまくり)、ついでに有難い三輪の名前も売ったのかもしれません。だから現代における三輪さんの姓が秦さんよりも多いことになったのかも。(現代では蘇我さん、尾張さん、物部さんはほぼいないも同然)そうして得たお金を朝廷に上納して三輪山の祭祀氏族としての地位と朝廷における地位を確保した。なお三輪さんの名前は「三、み」が「巳」で蛇の象形。「輪」は蛇がとぐろを巻いている姿を表したものと考えられます。これが三輪氏の神様商売ですが、彼らにはもう一つ別の商売がありました。

と言うことで、遠江湖西窯跡群の研究に関する以下の記事を参照ください。
http://www.book61.co.jp/book_review.php/83

(須恵器の)集積場は一つではなく、窯場ごとに焼成後の選別を行い出荷する生産形態は、神直が代表する神直−神人−神人部という「人制」によって包括された、6世紀以来の在地首長の支配秩序に依存して展開していたという。湖西窯跡群のミワ氏族は、課役を免ぜられた品部・雑戸ではなく一般公民なので、以下略。

要するに三輪さんは酒器用の須恵器を陶邑で製造し三輪山祭祀に使用していたが、三輪の神の祭祀を地方にまで広げ(分祀し、神札を売り)、同時に各地で須恵器の生産と販売を行っていたことになります。また別の論文では、各地の須恵器生産地周辺に大和三輪山の神との関わりを推測させる神社が存在することが確認され、「部民制の伴造−部民という関係を通して、三輪神祭祀が須恵器生産者に広まった」と考えられている。とのこと。美和神社と須恵器の関係で非常にわかりやすい例があり、以下を参照ください。
http://miwa1929.mond.jp/index.php?%E4%B8%89%E5%92%8C%E3%83%8E%E5%B3%B0

須恵器の大生産地に岐阜県岐阜市の美濃須衛窯跡群、愛知県尾張地方東部の猿投窯跡群(三大古窯の一つ)、静岡県湖西市の湖西窯跡群などがあり、三輪さん姓が多い県と須恵器の生産地が重なっています。ただ尾張の場合、巨大な美和郷だった一宮市周辺に窯跡はなく、この場合は神様商売で多くの三輪さんがいたことになります。以上から三輪さんの姓は、須恵器を生産する際に粘土の輪を重ねることにも由来し、一つの姓に蛇と粘土の二面性があることになります。蛇は神札商売部門で粘土は須恵器商売部門と三輪さんもなかなか商売上手ではないかと…。地方の須恵器生産はフランチャイズにしてロイヤリティを取っていたのかもしれませんね。だとすれば、恐ろしく先進的な人たちですよ。須恵器の関連から判断すると、三輪氏は出雲神族から神様と系図を買っただけで、その実態は半島の渡来人になる可能性が高そうです。

等々、あれこれ考えるとBのシナリオが浜松市に三輪姓が多い理由説明としては最も合理性がありそうに思えます。過去レスの間違いを挽回するため、ついつい長くなってしまい申し訳ありません。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月18日 23時57分15秒 ) パスワード

酔石亭主さん
三つ柏さん


昨日は「あなたも絶対行きたくなる!古墳スペシャル」を見ました。

33面の三角縁神獣鏡が出土したことで卑弥呼の墓じゃないかと言われる黒塚古墳が出演者の行きたい古墳トップ人気でしたね。

鏡のアップで  何やら書いてある文字の中で  読めたのは「文」だけでした。
だって  古代の「漢」字って  1つに対して10もそれ以上も表現があるから  他は  想像も及ばなかった。



さて銅鐸の話題ですが
>須恵器の関連から判断すると、三輪氏は出雲神族から神様と系図を買っただけで、その実態は半島の渡来人になる可能性が高そうです。


                       三輪氏は出雲神族から神様と系図を買っただけで

                            有り得ますね
                            古代豪族成り上がり策をとったのは三輪氏も?と納得しました。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月19日 00時11分53秒 ) パスワード

レス<2>の続編


                       以下は友人からのメールのコピペ:

                       藤原の鎌足・・・

                       藤原姓は吉備の国のほうが古く今でも日本でも多い地域です。
                      大和に出ていた。吉備氏族や蘇我一族の中に藤原一族が居たのではと推測します。
                       何せ、百済の王子説が根強いですからね。
                       是についてはまた別便にします。


ということで別便を頂きました:
以下コピペ:

早速の名字由来ネットの検索・・・さすがですね。7000傑さんのHPは消されたままですね。

                       そうなんですか?
                       わたしのPCでは開けないので永いこと行ってないです
                       7000傑さんについては週刊誌で読みました


                       再開されると皆さんのお役に立てるのにね。

                       小林先生も台湾以降  いらっしゃらなくなりましたね





備前の「藤原」地名:

第11代垂仁天皇の第5皇子である、鐸石別(ヌテシワケ)命より始まります。

命の曽孫である弟彦王  神功皇后の三韓征伐の後の忍熊王の反逆折り、関(備前市三石)を設けて防ぎ、反乱を鎮圧。

                       (戦国期に宇喜田直家の本城の三石城が有った所)

弟彦王はこの勲功によって、藤原県に封じられこの地に土着しました。
その後、和気氏は代々郡司の役について、この地を中心に備前・美作に栄えました。


孝謙天皇の御代、弓削道鏡事件の当事者である和気清麻呂の生誕地です。



                       *藤原の地名は大和の藤原で皇室に関する佳称地名。後には藤の生える原として用いた。

                        と地名辞典には出ています。


しかし、大和の藤原より、藤原県の方が遙かに古いですね西暦200年代ですからね。

藤原郡に成ったのは、養老5年(721年)です。

(オオクニヌシ、蘇我氏や応神天皇等のページで独自論を展開しているHPより)

応神天皇が実力で大王位を手中にした四世紀末頃には
鉱物資源の発掘や鍛冶の技術に長けた「別部」を配下に従えた和気氏が存在感を増していたのだ
と推測。


・・・蛇足、寿永2年(1183)には妹尾兼康が酒を飲ませて倉光三郎を討ち取った場所です。



蛇足の蛇足です。

ウィキペディアより「藤原氏」

地方の雄族で先祖が不詳になったものには、中央の権門勢家にかこつけ藤原姓と称したものも多々あり、

地方武家の藤原氏と称する氏にはむしろ十分な注意を要する。

佐藤・斎藤・伊藤・加藤・後藤・武藤・近藤・安藤・尾藤・遠藤など、一般に藤原氏後裔とみられている苗字は、
各地に分布が多いので一概には言い難いものの、
むしろその多くが本来は藤原姓ではなかった

     (俗説はむしろ間違いで、もっと言えば、□藤というのは殆どが藤原姓ではなかったということ)。

陸奥に多い佐藤など□藤の苗字は、殆どが陸奥古族の末裔か。




古代氏族研究家の宝賀寿男「藤原氏概覧」で下記の通り言い放っています。

養猶子関係等の形をとって、古代の在地豪族の後裔がかなり多く混じり込んでいる

利仁流・為憲流・秀郷流の藤原氏をはじめ、武家藤原氏の殆どが出自部分に大きな疑問があることも、分かってきた。

                       ズタズタに切り込んでいますよ。
                       宇都宮氏・伊達氏・上杉氏などの武家藤原氏の殆どが出自部分に大きな疑問がある。
                       などですね。


藤原姓を称する武家の系図については、十分な注意を要することを銘記しておきたい。


___________________________________


鐸石別命(読み)ぬてしわけのみこと

記・紀にみえる垂仁(すいにん)天皇の皇子。
母は渟葉田瓊入媛(ぬはたのにいりひめ)。

和気氏,山辺氏,稲城壬生(いなぎのみぶ)氏の祖とされる。

「古事記」では沼帯(ぬたらし)別命。
[7]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年06月20日 14時34分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 山崎謙氏の『まぼろしの出雲王国』という本を読んだ。「まぼろしの」と
いうところが、妙に私の情緒に響いた。出雲は雲の向こうの限りなくまぼろ
しの世界……小さい頃より聞き及んだ神話のイメージがオーバーラップする。
 しかしながら、出雲は「まぼろし」の存在でないことが、あいつぐ考古学
的発見によって明らかになりつつある。
 それは――
 @1984年に荒神谷遺跡から出土した358本の銅剣
 A1985年に同じく荒神谷遺跡より出土した6個の銅鐸と16本の銅矛
 ➂1996年に賀茂町で出土した39個の銅鐸
 C2000年に出雲大社境内遺跡から見つかった巨大な三本一組の心御柱
 つまり、まぼろしでなく、現実に存在した出雲王国なのである。

 ついでながら、2014年には、高円宮典子殿下と千家国麿氏(出雲国造
家結婚式が執り行われ、正に出雲が眠りから覚めたように、そのまぼろしの
ヴェールを上げ、我々のこれからの期待に応えてくれそうな雰囲気が漂って
いる――
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月20日 14時51分49秒 ) パスワード

レス<2>の
                   >百済の王子説が根強いですからね。
                   >是についてはまた別便にします。
の≪別便≫を頂きました。


中大兄皇子と鎌足と百済王子豊璋そして鏡王女のハナシはいろいろ言われていますね。


           https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E4%BD%99%E8%B1%8A%E7%92%8B
           扶余 豊璋(ふよ ほうしょう、扶余豐璋、生没年不詳)

           百済最後の王である義慈王(在位:641年 - 660年)の王子。
           『日本書紀』での表記は余豊璋、余豊もしくは名のみの豊璋、豊章であるが、
           『三国史記』では扶余豊もしくは名のみの豊、『旧唐書』では扶余豊もしくは余豊である。

            また、『日本書紀』にも登場する百済の王族翹岐を豊璋と同一人物とする説もある[1][2]。


            倭国滞在中、百済本国が唐・新羅に滅ぼされたため、百済を復興すべく帰国したが、復興は果たせなかった。



以下コピペ:



概略は以下の通りですが、難しいです。
「関 裕二」氏の論説が先に私の頭に入って居ましたから。
この次も有るので、後便で送ります。


百済の王子豊璋 

・百済の王子豊璋帰国して662年即位したが,翌年新羅(しらぎ)軍に攻められ,高句麗(こうくり)に逃亡したまま消息不明となった。

・豊璋は高句麗王族らとともに唐の都に連行され、高句麗王の宝蔵王らは許されて唐の官爵を授けられたが、豊璋は許されず、嶺南地方に流刑にされた。

・倭国に逃げ帰った     「関 裕二」氏が論じて居るものです。ずいぶんと前から知って居ましたが2019年の夏に是について出版されていました。



::::::::::::::::::::



百済の王子豊璋と阿曇比羅夫経歴


阿曇比羅夫 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E6%AF%94%E7%BE%85%E5%A4%AB    

舒明天皇在任中に百済に使者として派遣されていたが、舒明天皇13年(641年)天皇の崩御に際し、翌642年百済の弔使を伴って帰国し、その接待役を務めている。

またこのとき百済の王子翹岐[2]を自分の家に迎えている。
斉明天皇7年(661年)高句麗が唐の攻撃を受けると、百済を救援するための軍の将軍となり、百済に渡っている。

翌662年日本へ渡来した百済の王子豊璋に王位を継がせようと水軍170隻を率いて王子と共に百済に渡った。

大錦中に任じられた。



百済(くだら)(朝鮮)の義慈(ぎじ)王の王子。

人質として来日。
皇極(こうぎょく)天皇2年(643)大和(奈良県)三輪山で養蜂(ようほう)をこころみたという。

660年百済滅亡の危機に送還要請があり,帰国して662年即位したが,翌年新羅(しらぎ)軍に攻められ,高句麗(こうくり)に逃亡したまま消息不明となった。

余豊,扶余豊,豊章,糺解,翹岐とも。




もし蘇我氏が健在だったならば、白村江の戦いなどという損な戦いに、日本が参戦することもなかっただろう、 の大きな疑問から問題提起です。


百済王子豊璋について考察していると、百済王子豊璋=藤原鎌足という考えに辿り着く

http://seiwagenjisinjituryu.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-63a1.html  

天智天皇は、百済王子豊璋の言いなりになって、白村江の戦いに日本から大軍の援軍を出した。

白村江の戦い以前に滅ぼされていた蘇我氏は、もともと日本が百済のために国益を損なうことをするのに、反対の立場を取っていたそうである。

もし蘇我氏が健在だったならば、白村江の戦いなどという損な戦いに、日本が参戦することもなかっただろう。

百済王子豊璋にとって、蘇我氏は目の上のタンコブだった。



もし仮に鎌足と豊璋が別人ならば、

天智天皇が藤原鎌足と密着して蘇我入鹿暗殺計画を練っていた時、
日本に滞在していたはずの百済王子豊璋は、一体、どこにいて何をしていたのか、謎だ。

豊璋も蘇我入鹿暗殺計画に加わっていたとしてもおかしくないが、
その時には、一切、登場していない。



また、天智天皇が、百済王子豊璋の言いなりになって、白村江の戦いに参戦していた時に、肝心の、腹心の部下の藤原鎌足は、一体どこで何をしていたのか、謎だ。


しかし、藤原鎌足と百済王子豊璋が同一人物ならば、謎が解ける。



天智天皇は、蘇我氏を目の上のタンコブとしていた鎌足の言いなりで、かつ、蘇我氏を目の上のタンコブとしていた豊璋のいいなりだ。

鎌足と豊璋は同一人物だろう。



話を大化の改新へ戻そう。
百済王子豊璋こと鎌足は、天智天皇をそそのかして、蘇我入鹿暗殺計画を練っていたのだ。そして実行したのだ。


天智天皇と鎌足による蘇我入鹿暗殺計画に一枚噛んでいた蘇我倉山田石川麻呂は身分が高かったが、
身分の低い藤原鎌足如きが、天智天皇と密着していたのは不自然である。



しかし、百済王子豊璋ならば、日本に人質・兼・客分として滞在していた外国王族であり、身分が高いので、天智天皇と密着していても不思議はない。


今をときめく蘇我入鹿と対立! 天智天皇と密着! 
これは、藤原鎌足が中臣氏の出身などではなく、本当の身分は、百済王子ということで、高かった証拠であろう。


鏡王女は鎌足の正室になったせいで、実は皇族ではなかったという嘘を広められているが、
それは鎌足が百済王子だったことを隠蔽するために、藤原氏が作った嘘だろう。



:::::::::::::::::::



豊璋―藤原鎌足の正体
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784309227900  
関 裕二【著】
河出書房新社(2019/11発売)


内容説明

古代史最大の英雄は本当に英雄だったのか!?
日本の歴史の大きな転換点となった大事件「白村江の戦い」に到るまで、改革の立役者・鎌足はなぜ歴史から消えるのか?
『日本書紀』に隠された重大な秘密とは何か?
気鋭の歴史作家が、古代史最大の謎を解く!



目次

第1章 本当に中臣鎌足は古代史の英雄なのか
                       (皇族をコケにして中臣鎌足を礼讃する『日本書紀』;
                       (百済の貴族)鬼室福信と(入鹿のイトコ)蘇我倉山田石川麻呂の首を塩漬けにしたのは同一人物か? ほか)
                     

                       https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E5%AE%A4%E7%A6%8F%E4%BF%A1
                       鬼室福信

第2章 卑劣な豊璋(中臣鎌足)(素姓が定かではない中臣(藤原)鎌足

天皇に近侍する役目の内臣が天皇に近づかない謎 ほか)

第3章 豊璋と鎌足(入鹿殺しの「韓人」は豊璋?;王家を見下す藤原氏 ほか)


                   入鹿殺しの「韓人」は豊璋?
                   これ、気になってた!


                   入鹿暗殺後、脱出した古人大兄皇子が述べた「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ」
                   (「原文:韓人殺鞍作臣」)
                   の韓人とは、朝鮮使を暗殺者たちと誤認したものと思われるが、
                   先祖にその名を持つ蘇我倉山田石川麻呂を指すという説もある。

                            蘇我倉山田石川麻呂は結局中大兄皇子と鎌足の罠にかかって自殺してるところまでは知ってたけど
                            首は塩漬けにされてた?



第4章 豊璋のミイラ(奇跡的に見つかった阿武山古墳;日本でたったひとつの百済王墓に眠る中臣鎌足 ほか)

                    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%AD%A6%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

                    1982年−1987年  当時大ニュースになってたのを記憶してる!
                    鎌足が落馬で寝たきりになった記録と一致するとか

出版社内容情報

白村江の戦いに際し、鎌足は歴史から消える。
来朝の百済王子・豊璋はその時百済に帰る。
同一人説から古代史の謎が解けてくる!



_________________________________

やっぱり中大兄皇子と鎌足は好きになれないな
入鹿の方が好き ♡
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月20日 16時04分47秒 ) パスワード

三つ柏さん

出雲ってスゴイですね。

我々日本に生まれたシモジモには神話の世界
成り上がりの皆さんの出自ロンダリングの必須条件
天皇家よりずっと古くて格上。


高円宮典子女王と千家国麿氏の結婚生活。

なかなか難しいようですね。
噂になってたオリンピックの後での離婚というハナシはオリンピックが空中分解しそうな気配ですから離婚も無いと良いのですが
日本一の旧家の夫君と日本一の名家で実力も有る家の出の妻女の組み合わせは
取り巻く人が多過ぎて
シモジモのワタクシには大変さを想像するなど出来ないです。



軍事ヲタクで古代史マニアの友人から:

世界には,男系継承と女系継承があります。
農耕民族は男系継承,遊牧騎馬民族は女系継承です。


ムガール帝国のティムールご存じでしょうけど,彼はジンギスカンと全く関係ないので,皇帝になれませんでした。
モンゴルでは,ジンギスカンの血を引いていないと,汗(皇帝)になれません。モンゴルは,跡取り息子でなく,跡取り娘なんです。
要は,皇后がジンギスカン一族かが重視されます。
だから,ティムールは,全くジンギスカンと別の血統ですので,汗になれないのです。
それで,ティムールは,ジンギスカンの末裔の娘を探し回ります。
それで,皇后にして,やっと汗になります。
まあ,ティムール死んだら,息子ども、お家騒動起こして,ムガール帝国20年くらいで滅亡しますけど。



日本の場合は,女系男子継承だったようです。

神武が,ニギハヤ家に婿養子に入った。

ところが,神武はニギハヤ家を乗っ取ろうとして,
日向から連れてきた,(日向国吾田邑の娘=吾平津媛=との間に生まれた)長男・手研耳尊(たぎしみみのみこと)を2代天皇にして死んだ。

               手研耳命は弟2人に対する反逆(タギシミミの反逆)を起こしたとされることで知られるヒトね


そうなったので,神武王朝討伐運動が起き,皇后イスズヨリヒメとの間にできた綏靖天皇との間に戦乱が起きたようです。

               
               神武天皇の崩御後、皇子・手研耳命は二人の弟(神八井耳命・皇太子神渟名川耳尊)を殺そうとはかった。
               弟二人は手研耳命を討ち、神渟名川耳尊は即位した(2代目綏靖天皇のことね)。
       
         
日本書紀に綏靖が弓で手研耳命を殺し,2代天皇になったと書いてありますので。


ただ,古事記には全く書いてないのです。
だから,私は古事記は全く信用していません。



継体もそうで,イスズヨリヒメの血ではないのです。


                        ヒメタタライスズヒメ(媛蹈韛五十鈴媛 by日本書紀)
                        ヒメタタライスケヨリヒメ(比売多多良伊須気余理比売 by 古事記)

                        イスズヨリヒメのパパが神である大物主神/事代主神です。


だから,イスズヨリヒメ系列の欽明と父子抗争が起きたようです。
これを強引に男系継承にしたのが,天智と鎌足。
入鹿暗殺事件です。


正統は,大海人皇子だったようです。


天智はバカ天皇だったので,白村江の戦で大敗。
日本書紀も記録読むと,大宰府くらいまで唐に占領されていた可能性があります。


これにより,反乱が起きた。
古代最大の内戦,壬申の乱です。

天武が勝利した。それで桓武まで,男系継承派と女系継承派の冷戦が続き,男系継承派が勝利して,今に至るわけです。


だから,日本では,平安時代まで入り婿婚だったわけです。

枕草子に「ありがたきもの,舅に好かれる婿」と書いてあるのは,婿入りがあたりまえだった証拠です。

嫁入りなら「ありがたきもの,姑に好かれる嫁」になるはずですからね。

この残滓が,私は婿養子だと思います。



私は,だから愛子天皇になっても,先祖返りしただけで,伝統に反しないと思います。


アジアが,発展しなかった理由は,儒教だと思いますけど,
日本は儒教にどっぷり漬からなかったので,発展できたと思います。


儒教の教義に毒された地域は,中国のほかに,朝鮮とヴェトナムですけど,
中国に対する態度は正反対で,
朝鮮の媚中,ヴェトナムの反中です。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月20日 16時31分33秒 ) パスワード

>この残滓が,私は婿養子だと思います。

これについてもコピペしますね。



日本と中朝の家の存続制度には大きな違いがあります。

我が家は,娘一人ですから,娘に養子を取ったら,我が家の名は残ります。
でも,中朝は儒教思想により,女の子に家を継ぐ権限がありません。


論語の基本は,女は穢れている,なんです。
女は悪いことを前世にしたので,女に生まれた。
だから,女は罪人で,今,前世の罪の償いをしているというのが儒教の基本です。
だから,女に家は継げない。
罪人だから,そんな奴に家は継がせられない。

だから,中朝には養子と言う考えがないのです。


漢王朝の始祖は劉邦ですけど,中国皇帝で唯一本名が分からない人物です。
劉邦は,劉あにき,というあだ名です。
それだけ,底辺の出身でしょう。


秀吉すら,百姓と言うことが分かっていますが,
劉邦はそれ以下でしょうね。
奴隷かもしれません。
実際,父親は奴隷だったという説もあります。


これに対して,劉邦の皇后の呂后は,実家は大金持ち。
父親は郡の長でした。

日本なら,劉邦は呂家に婿養子に入るわけですけど,中朝は前述のように婿養子制度が無いですから,
上流階級のお嬢様の呂后が劉家に嫁いるわけです。


      アジアで,婿養子制度があるのは日本とモンゴル位です。

      だから,刈り上げ=黒電話=の子も与正の子も女の子ですから,
      金一族には後継者がいないわけですから,金家はこれで終わりです。
      北朝鮮にしたら,大問題なわけです。
[12]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年06月21日 09時15分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古代史については、いわゆる「総論賛成、各論反対」というパターンが
常であります。つまり、細かな個々の事象に関しては、それぞれの意見が
違ってくる。従って、個々の人物・個々の事象に関することについては、
私はいつも慎重な姿勢で臨むよう心掛けております。本を読んでも、これ
は本当なのだろうかと一定の距離を置いて見ています。

 大きな流れ・背景の中での個々の事象を洗い出し、追い詰め・問い正し
て行くということ。いわゆる歴史捜査は、犯罪捜査と似ています。
 今、日本のマスコミを賑わせている河井夫妻の政治資金規正法違反の問
題も、その背景にあった選挙状況というものを考察すると、お金を配った
という必要性が見えてきます(検察側のシナリオ)。本人達は無実(買収目的
でない)と言い張るつもりだと思います(当事者側のシナリオ)。どちらの
シナリオが勝つのか、証拠、状況証拠、証言、アリバイなどを積み重ねて
いけば、限りなく当事者側は「黒」に近づいて行くものと予想されます。
 人間としてしらばっくれるのは潔くない。清き日本人の精神は、今の日
本には失われつつあります(上流から下流へと伝わる)。

 藤原不比等の問題も、限りなく「黒」のように捉えられていますが、は
たしてそうであるのかどうか……私は、ひょっとしたらそんな単純ではな
い裏があり、どんでん返しがあるのではと慎重に臨んでおります――
 
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月22日 10時24分16秒 ) パスワード

三つ柏さん

不比等の謎。
それについては  実は天智の子  というのも有りますね。


今の時代からは  え?  と思いますが

ムカシは拝領妻というのがあったので
    生まれた子が女子なら返してくれ男子ならそっちで育ててくれ
だそうで

今は  夫婦が別れる時は  姑が離婚させる時は  
男の子供は父親に  
というのも   ワタシには   分かりません。

    「女腹」という単語も  え?  です。
     姑の「オトコ産め産め攻撃」も死語じゃないようだし。

            この先も「オトコ産め」は天皇家のスローガンであり続けるのかな?
                悠仁さまはお気の毒に。


一応「記紀」は   目を向けましたが  字を追っただけですね。

行間も読めなかったし  文字の裏にも気づかなかったし   
それどころか  別名が多過ぎて  誰が誰やらワケ分からないのが分かった段階   で終了。  
出て来る人間が誰の子なのか  考えもしなかった  です。
人間関係が複雑過ぎ。  いえ、 神さま関係か。



友人からメールを頂きました:
コピペ

難しい話ですが1番下のURLのサイトは分かり易いかと思います。
古代史はオモシロイというのが改めて分かります。
                              本当か?


中臣氏一族が藤原姓を名乗れず、鎌足系のみ藤原姓を許されたのも不可思議なことですね。
その謎解き。



伯耆の地域ネタ:

                   以下ややこしい話です:



藤原鎌足は「翹岐」で中大兄王子は「豊璋」
「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

中大兄王子は「豊璋」であり、藤原鎌足は「翹岐」である
2018-08-03 08:13:34 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
https://blog.goo.ne.jp/ysaino11jp/e/4a92be3971bc75b1a94086dfe5a0f8a7  


                       どっちがどっちなのかな?


1 中大兄皇子=「翹岐」説、藤原鎌足=「豊璋」説について

(1) 藤原鎌足=豊璋説は多い。
    関祐二氏はその根拠として、大織冠を賜ったのが、鎌足と豊璋だけであるから、とする。


    「豊璋」は中大兄皇子である、とする方は少ない。
     中大兄皇子は豊璋に大織冠を授けているが自分で自分に褒美を授けるのはおかしいことや、
     中大兄皇子は日本書紀の第38代天智天皇であり恐れ多いこと、などが理由と思われる。


(2) 中大兄皇子=翹岐説では   ← ギョウキ

    舒明3年(631年)、「百済王義慈は王子豊璋を人質として送ってきた」とあるが、
    このときの百済王は武王であり
    義慈王が百済王になるのは641年であるから、
    631年は間違いである、とする。


                        これは知ってたな

    また、百済には人質を差し出す理由がない、とする。




2 日本書紀の「百済人」と 「翹岐」と「豊璋」

    ◎敏達天皇12年(583年)、
     日羅は「百済人は謀略をもって、『船三百艘の人間が、筑紫に居住したいと願っています』という。

     もし本当に願ってきたら許すまねをされるとよいでしょう。
     逆に欺かれないように用心して、
     すべて要害の所には、しっかりと城塞を築かれますように」
     と言った。


    ◎推古17年(609年)、
     大宰府の長官が奏上して「百済僧10人俗人75人が、肥後国の葦北の港に停泊しています」といった。

     徳摩呂・竜の二人を返して百済人らにつけ、本国に送り付けた。
     対馬に着いて、修道者11人が皆在留したいと願った。
     それで上表をして滞留を許され飛鳥寺に住まわされた。


    ◎舒明3年(631年)、
    「百済王義慈は王子豊璋を人質として送ってきた」とある。


    ◎舒明13年(641年)冬10月9日、
     「天皇(百済王武)は崩御された。東宮の開別皇子(中大兄王子)は16歳で誄をよまれた」とある。  


    ◎皇極元年(642年)、
     百済の従者たちは
     「今年1月、弟王子に当たる子の翹岐(鎌足)や同母妹の女子4人、内佐平岐味、それに高名の人々40人あまりが島流しになりました」
     といった。


    ◎皇極2年(643年)2月21日に、
     「筑紫の大宰府から早馬で、
    『百済国王の子翹岐弟王子が調使と共に到着しました』といった。


    ◎皇極3年(644年)、
    「中臣鎌足連は・・・つぎつぎと王家の人々に接触して、企てを成し遂げうる明主を求めた。

    そして心を中大兄に寄せたが、
    離れていて近づき難く自分の心底を打ち明けることができなかった」とある。


    ◎斉明七年(661)九月(天智紀)、
    「皇太子は長津宮にあって、織冠を百済の王子豊璋にお授けになった。
     軍兵5千余を率いて、豊璋を本国に護り送らせた」とある。



3 (HPの方の私見)              

                        大ムカシに見たドラマに似てる気がする
                        当時のわたしには新羅も百済もこんがらがってた
                        日本人の出演者はこのドラマで外国語を話してた


                        当時の日本の上の人々は外国語を話すんだな、と見てた



(1) 中臣鎌足は藤原姓を授けられた。
「藤原」の読みは「ホゼワラ」であり「百済倭国」の当て字である。

中臣鎌足は百済人であった。

鎌足はテロを実行する明主として中大兄皇子に心を寄せていた。
中大兄皇子が百済の王族であることが分かっていたから
鎌足は企ての明主として中大兄皇子を選んだ。

百済王国を成し遂げる企てに賛同しその明主となれるのは百済王族である。
中大兄皇子と中臣鎌足は百済人であった。

   中大兄皇子と中臣鎌足の百済名は何であろうか。

このとき倭国にいた百済王族は豊璋、塞上、翹岐であった。
豊璋の系譜はウィキペディアでもはっきりしないが、
義慈は武王の長男である。
義慈は塞上を弟王子と言っている。
豊璋の弟も塞上である。
豊璋と義慈は兄弟。


631年が間違いではなく原古事記には武王とあったのを義慈に書き換えたと思われる。


豊璋も武王の子であり、631年に倭国に来ている。


日本書紀・斉明6年(660年)に
「天皇、豊璋を立てて王とし、塞上を立てて助けとした」とある 。


豊璋の弟は一緒に人質で倭国に来ていた塞上である。
豊璋は武王の次男になるから、
義慈の次の百済王になる。

豊璋の兄は義慈王であり弟は塞上であった。
豊璋は三兄弟の中であり中大兄であった。

                       あ〜、なるほどね、それで中大兄なのか


           *友人の記述

            ドラマ“薯童謠+(ソドンヨ)”百済の薯童王子(百済武王の幼名)で
            威徳王(いとくおう)の子供になっている記録もあるとの事。
            一応644に没年?かな

 

645年の段階で豊璋、塞上は13年間倭国にいた。
一方、翹岐は3年にすぎない。
乙巳の変のようなテロを起こそうと思えば倭国に来てから13年も何もしないわけがない。

翹岐が倭国に来たのは642年である。
643年の記述を最後に消えてしまう。

年が明けて1月1日(元旦)に中臣鎌足が突然現れテロの準備を始める。
翹岐は644年に中臣鎌足に変身しテロの準備を始めた。


13年の長きに渡って倭国(鳥取県中部)に居た豊璋(中大兄皇子)を、
渡来して間もない翹岐(中臣鎌足)が誘ったとみるのが正しいと思われる。

                        あ〜
                        なるほどね


(2)中大兄皇子=翹岐説は
   「この時期は百済の最盛期であるから、日本に人質を送らなければならない事情はなかった」とする。

   しかし512年頃から何度も任那(全羅南道)を侵していたのは新羅ではなく百済であった。
 

                        『日本書紀』には任那が新羅と百済の両方に侵食されていたことが書かれていましたね



   蘇我馬子天皇は日羅を呼んで進言を受けなければならないほど、百済に悩まされていた。

   日羅は「国王か王子を来させて」と言っていた(583年)ので、
   馬子は百済王武に「国王か王子が来るように」と言っていたはずである。


   631年に、任那(全羅南道)を侵さないことを約束し、倭国に6歳の豊璋と塞上を人質として差し出したとしてもおかしくない。


                       乙巳の変の14年前ですね


   百済にとって人質を差し出すことは兵法書六韜の教えを実践することにもなる。


   豊璋も蘇我入鹿天皇を徹底的におだてたはずである。
   「百済王義慈が送った」とあるのは百済王武であったのを改ざんしたと思われる。

   豊璋の生没年は不詳であるが豊璋は中大兄皇子であるので生年は626年であり6歳で倭国(鳥取県中部)に来ていた。

   天武の生年が623年であれ631年であれ、一緒に遊んだりして大事に育てられた。
   天武天皇とは他人であるが兄弟のようにして育てられたものと思われる。



                       これがワタシの軍事ヲタクの友人が言ってることか


    蘇我入鹿天皇(聖徳太子)は人質であっても我が王子と同じように育てた。


                       聖徳太子
                       このヒト、異母のキョウダイ婚で生まれてるのよね
                       574年2月7日〈敏達天皇3年1月1日〉- 622年4月8日〈推古天皇30年2月22日〉
                       実は生きてた?


(3) 中大兄皇子=翹岐説は
    「蘇我入鹿のテリトリーにわざわざ出向いて行くわけだから蹴鞠の会を、法興寺で催したのが中大兄であるのはおかしい」とする。

    中大兄皇子(豊璋)は倭国の都で6歳から13年間、倭国の皇子と同じに育てられていた。

    蘇我入鹿天皇(聖徳太子)は中大兄皇子が蹴鞠の会を、法興寺で催すことを許していた。

    中大兄皇子(豊璋)は倭国の都(鳥取県中部)で、正統な百済王子として6歳から13年間、倭国の王子と同じように育てられてきた。

    たまたま、644年に奈良の法興寺で蹴鞠の会を催すために行ったときに中臣鎌足に出会った。
    その時は18歳であった。

    「中臣鎌足は、中大兄と離れていて近づき難く」とは物理的な距離のことである。

     中臣鎌足は奈良にいた。
     豊璋こと中大兄は倭国(鳥取県中部)にいた。


(4) 中大兄皇子は鳥取県中部に長く居たため、鳥取県倉吉市大原(石上神宮)に武器が沢山あることを知っていた。

    倭国の軍備を減らすためにも石上神宮の武器を奈良に移す必要があった。
    石上神宮を管理していた物部氏とも顔見知りであり、
    中大兄皇子の依頼で647年に奈良に移されたものと思われる。

    647年より鳥取県倉吉市大原の石上神宮はなくなり、波波岐神社として始まった(鳥取県神社誌に大化3年創建とある)。


                       「波波伎(ははき)」は「伯耆(ほうき)」と同じで

                        伯耆国造の祖・天穂日命を祀る社ではなく、
                        伯耆国造が祀っていた事代主命を祀るお宮。


    「蘇我入鹿天皇が賊に殺されたように奈良は物騒だから武器を移したい」と言ったものと思われる。


(5) 豊璋の無道さ(首を切って塩漬けにするなど)は他の百済人と交わるうちに身についたものと思われる。

    この風習は百済人が馬韓に残っていた殷王朝末裔の準王一族から受け継いだものと思われる。

    石川麻呂の娘の遠智姫と結婚したのは中大兄王子である。
    石川麻呂の塩漬けの首を娘の遠智姫にみせたのは豊璋である。
    遠智姫と豊璋は一緒に住んでいたものと思われる。
    中大兄王子と遠智姫は一緒に住んでいたから、遠智姫に見せる機会があった。

    中臣鎌足と遠智姫は一緒に住んでいないから、遠智姫に見せる機会がない。

    豊璋またの名は中大兄王子が妻の遠智姫に岳父の石川麻呂の塩漬けの首を見せたと解するのが無理がない。


(6) 豊後国の西寒田神社縁起には
    「663年、大唐が百済を攻めた。
    日本は百済を救うため兵を遣わそうとした。
    大織冠である藤原臣はそのために九州へ下向し、豊前国中津郡に陣をとり、そこで指図し軍兵を集めた。
    その後、群国に漂泊すること数ヶ月を過ごした」とある。

     白村江の戦いの時、藤原鎌足は九州各地(主に大分県・宮崎県)を転々としていたので、豊璋である可能性は低い。


                       鎌足が死の直前に中大兄皇子に「白村江の戦いでは無能で申し訳ない」と言ってたのを読んだ記憶


     一方、皇太子(中大兄皇子)は筑紫の長津宮で、豊璋に織冠を授け、軍兵5千余を率いて、豊璋を百済国に護り送らせた。

     中大兄皇子自身も百済に行ったものと思われる。

     豊璋はその後所在不明になるが、中大兄皇子は倭国に帰ってきた。

     豊璋という着ぐるみは大陸に投げてきた。

     百済王子の豊璋はいなくなったが、倭国王子の中大兄皇子は生きて倭国に帰ってきた。

     中大兄皇子と豊璋を決別させるため
    (豊璋は6歳のときから30年間倭国にいるのだから
     もう百済王子の豊璋ではなく
     倭国の王子になったことにするため)
     の日本書紀の粋な計らいである。

     百済王子の豊璋は倭国王子の中大兄皇子に変身して倭国に帰ってきた。


(7) 日本書紀・皇極元年(642年)3月〜6月までに「翹岐」の名が11回出てくる。

    これは翹岐が藤原不比等の父親なのでそのデビューを華々しく書いたものと思われる。

    皇極2年(643年)を最後に翹岐の名は出てこない。

    代わりに翌皇極3年(644年)1月1日から、中臣鎌足を登場させている。


    皇極元年(642年)に翹岐は島流しになって倭国に来たのであるが、本当に島流しで倭国に流れ着いたのか。

   「島流し」とは島に到着してから船で他所に行けないようにすることである。

    何で倭国に着いたのか。

    609年の肥後国の葦北の港停泊の反省の上にたって「島流し」と言えば返されないですむと確信したからではないか。

    翹岐たちが島流しになった百済の大乱について百済本紀は一切語っていない。


                        面白いですよ〜
                     http://daukejin.seesaa.net/article/8852115.html
                        
                        日本書紀を見ると舒明天皇が死んだ 641年に百済に大乱が発生した。
                        どうして倭国の王が死んだのに百済に大乱が発生したのか?

                              古代史はホントに面白い!


    最初から欺くつもりで綿密に計画された謀略ではなかったのか。

    
    日羅は蘇我馬子天皇に進言していたが、蘇我馬子天皇から蘇我入鹿天皇に変わっていることも知っていた。

    これが蘇我馬子天皇なら609年のように百済に送り付けていたはずである。

    一般人の中にテロリストを忍び込ませていたのではないか、
    それも上手口をたたくテロリストを、と疑われる。

    このテロリストが中国の兵法書「六韜」を暗記するほど愛読していた鎌足であり翹岐であったと思われる。

     翹岐を弟王子と言ったのも信用できない。
     翹岐は王族ではないと思われる。

     周りの者がそうだと言えばそうなってしまう。

     殺す相手(蘇我入鹿天皇)に上手口を言うのも六韜に基づく計画である。
     上手口を言って歓待されたのである。


583年の日羅の進言によって百済がどういう国か判る。
倭国・新羅を乗っ取るために建国されてから三百年経っていた。
642年の「高名の人々40人」は倭国で国を造るための要人であったと思われる。
天智の母親である皇極(斉明)も642年の島流しの船の高名の人々40人の中にいたはずである。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月23日 10時55分56秒 ) パスワード

軍事ヲタクで古代史マニアの友人より

2020年 6月23日(火)

一昨日だったか,部分日食でしたが,
西暦250年に,日本全土で劇的な皆既日食がありました。

近畿地方では,金環食だったようです。
それが原因で,殺された有名人が卑弥呼です。


卑弥呼,老齢になって日食予言できなかった。
しかもこの時の日食ですけど,日没1時間前位から欠け初め,皆既日食で日没。

古代人は,明日は太陽昇るのか?と大パニック。


魏志倭人伝に,卑弥呼の死因を  持って死す  と書いていますが,
これ暗殺の場合が多いのです。
急死と言う意味ですけど。


私は,日没ミスった卑弥呼は処刑された,と思います。


この時代,女性の遺体に,腹だけに30本くらいの矢を受けている遺体が結構あります。

これは,処刑された巫女と言われていますが,卑弥呼も同じことになったと思います。


その後,卑弥呼になったのが,魏志倭人伝の宗女「豊」だと思います。
宗女は,一族の女と言う意味で,
教科書のように姪である必要はないのです。
養女でもよろしい。


多分,「豊」がクーデターを起こし,卑弥呼を殺したと思います。
卑弥呼は,女王とか王と言う役職名だと思います。

なので漢字を充てるとしたら「卑弥呼」でなく「日皇子」(太陽の子と言う意味です)でしょう。


そして,伊勢神宮の外宮にいる豊受が「豊」で,こっちが皇祖でしょう。


アマテラスは,殺した奴で,皇室に恨み持っている。
だから,第10代の崇神天皇が祟られるだけ祟られたので,宮中で祭っていた天照大神を笠縫村に放り出した。


笠縫村ですけど,奈良の唐子鍵遺跡の横に,笠縫と言う地名残ってますので,ここでしょう。


唐子鍵遺跡は,出雲の遺跡と言われていますので,天照大神も出雲の神様だったと思われます。



________________________________

古代史は難し過ぎて友人の内容にもついていけない。
それで検索。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87

疫病と祭祀​

崇神天皇即位3年、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に都を移した。

即位4年、詔を発して万世一系を謳った。

即位5年、疫病が流行して人口の半ばが失われた。
祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出すことにした。

                            コレだね

天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせた[2][注 1]。


倭大国魂神は渟名城入媛命に託し長岡岬[注 2]に祀らせた。
しかし渟名城入媛は身体が痩せ細って倭大国魂神を祀ることが出来なかった。


即位7年、「昔皇祖大いに聖業高く国は盛であったのに、朕の世になり災害が多い。その所以を亀卜にて見極めよう。」と詔して、
神浅茅原に幸して八百万の神を集めて占った。

すると倭迹迹日百襲姫命に大物主神が乗り移って自分を祀るよう託宣した。
神の教えのままに祭祀を行ったが霊験がなかった。

そこで天皇は沐浴斎戒して宮殿を中を清めて、「願わくば夢に教えて、神恩を示してほしい」と祈った。

するとその夜の夢に一人の貴人が現れ自ら大物主神と称して「もし我が子の大田田根子を以って我を祭ればたちどころに平安となる。」と告げた。

続いて倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の三人がともに同じ夢を見て、
大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子と市磯長尾市にせよという神託を受けた。


そこで大物主神の子とも子孫とも言われる大田田根子が探し出されて大物主神を祭る神主となった。


三輪山を御神体とする大神神社の始まりである。

                       あ〜
                       そういう事でしたか


市磯長尾市(いちしのながおち)も倭大国魂神を祭る神主となった。
すると疫病は終息して五穀豊穣となった。


即位8年、活日(いくひ)という者を大神の掌酒(さかびと)とした。
そして活日が神酒を捧げて歌を詠み、続けて諸大夫(役人)と天皇もそれぞれ歌を詠んだ。


此の       神酒は 我が神酒ならず 日本成す 大物主の 釀みし神酒 幾久 幾久(活日)
         味酒 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな 三輪の殿門を(諸大夫)
         味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を(

崇神天皇)



崇神天皇の母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)で後の物部氏の系譜に連なる。
母方の祖母が武内宿禰の娘だか孫娘だかで
武内宿禰の子孫が  波多氏・紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族だって。

ついていけない・・・
ワケわからなくなっていく・・・
[15]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年06月23日 11時30分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 
 2018-08-03 08:13:34 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
 https://blog.goo.ne.jp/ysaino11jp/e/4a92be3971bc75b1a94086dfe5a0f8a7

 今、頭の中が色々な情報で渾沌としていたところ、上記のブログをご紹介い
ただき、感謝申し上げます!
 このブログ「真実の古代史」の全体の記述を通読いたしましたところ、私と
してはかなり信頼していいなとの感じを抱いております。著者も「倭国古代史
研究会」を立ち上げられており、本名も出ており、文責者としての責任感も感
じられます。

 以前、あを様より、全国の古墳の数についてご紹介がありましたが、1位が
兵庫県で、2位が鳥取県、3位が京都府……出雲の島根県は何と17位という
ことで、あの出雲の隣の伯耆の国に何で古墳がこんなに沢山あるのだろうかと
疑問をいだいておりました。
 その疑問は、この「真実の古代史」を読むと氷解いたしました。
 このブログを読めば、日本の古代史の事実関係と日本書紀によるヴェールが
すべて判明し、今までごちゃごちゃしていた古代史が、一本の流れになってス
ッキリと解ります。どこまで信じるか、どこまで信じられるかは、今後確認し
て行きたいと思っています。

 実は、この5月に伯耆の国(鳥取中西部)に行く予定でした。ツアー予約を1
月にしていたのですが、新型コロナのために3月にキャンセルいたしました。
その名残もあって、余計伯耆の国に対する思いが増しておりましたところであ
りました。
 伯耆の国がこんなにすごい所であったのか、それにしては歴史に浮上してい
ないのは、何かのために「消された」ということ……。

 伯耆に限らず、どれだけのものが「消された」でしょぅか……国や氏族の歴
史……、それが『日本書記』の罪。しかしながら、今の常識でもって「罪」だ
と判断するのは単純過ぎると思っています。裏がある。裏の裏は表であると考
えると、その方が壮大な計画なのではないかと「勘」働きがいたします。

 只今、「『日本書紀』が隠したもの」ということで、様々な本を調べており
ます――
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月23日 12時57分54秒 ) パスワード

三つ柏さん

5月に伯耆国に行けなくて良かったかも、ですね。
にっこり


     ワタクシ的には伯耆国はひょっとすると
     素戔嗚がらみで出雲より重要な場所なのかな?
     と勝手に想像しています。


伯耆国に古墳がたくさん在るって
どうしてなんでしょうね?


古代史はオモシロイですけど難し過ぎますね
神さまのお名前から天皇のお名前まで  たくさん有り過ぎて混乱するし
母方のご先祖さままで考慮すると気が遠くなりそうで  落伍です。

酔石亭主さんのようには細かく読み込む能力も忍耐力も無いし
軍事ヲタクで古代史マニアの友人のようなアスぺルガーでもないし。


>只今、「『日本書紀』が隠したもの」ということで、様々な本を調べております――

古代の日本を知りたかったら東アジアの記録も読まないといけないし
普通の人間である我々はとにかく一歩一歩地道に読んでいくしかないですね。

期待しています。他力本願なので。
[17]酔石亭主さんからのコメント(2020年06月23日 18時08分57秒 ) パスワード

空の青海のあをさん 三つ柏服部さん 

すみませんが中臣鎌足、中大兄皇子に戻させて頂き少々…。彼らの時代は解釈が何でもありの百家争鳴状態なのでわけがわからない部分です。まあ何でもありなら、中臣鎌足、中大兄皇子のどちらも和人であるとの議論も十分に立てられるので、ちょっと書いてみますね。

景行天皇12年条に、直入中臣神の名が見られ、直入は今の大分県竹田市一帯に当たります。豊後国風土記には豊前国仲津郡中臣村が出てきますし、大宝二年の仲津郡丁里戸籍には中臣部が見られ、続日本記和銅二年には筑前国島郡(糸島市と福岡市西区の北部)小領中臣部加比の名があります。上記を総合すると中臣鎌足は豊前国にいた古くからの和人の系統となります。「大織冠である藤原臣はそのために九州へ下向し、豊前国中津郡に陣をとり、そこで指図し軍兵を集めた。」など地理的整合性がないとは思えませんか?普通なら博多湾あたりに陣を置くはずですね。中津郡に陣を置いたのはそこが自分の出身母体だったから。また負け戦になれば、唐・新羅連合艦隊が日本に攻め寄せてくるかもしれない。その場合、一番逃げやすい場所でもあるので中津郡を指揮所にした。

古代には名前を地名から取るケースがしばしば見られます。豊前国仲津郡とは天孫降臨の葦原中国ですから、中臣氏は中国(なかつくに)から名前を取った和人。中大兄皇子も実は同じ中臣氏の人物で、だから頭に中が付いている。中臣の一族の一人が中大兄皇子になったので、二人は協力して蘇我入鹿を倒し、政敵も全部粛清して新たに中臣王朝を創立した。天智天皇の諱は葛城だが、これは実名であり死後の名前。つまり葛城皇子は死んだ後に、その立場を中臣系の中大兄皇子に乗っ取られたことになる。

「豊璋は三兄弟の中であり中大兄であった。」仮に四番目が生まれたらどうなったでしょう?中大兄が生まれた段階では三兄弟の中になるかどうかわからないはず。無茶な論ですね。「身分の低い藤原鎌足如きが、天智天皇と密着していたのは不自然である。」同族だから何ら不自然ではない。

「天智天皇が、百済王子豊璋の言いなりになって、白村江の戦いに参戦していた時に、肝心の、腹心の部下の藤原鎌足は、一体どこで何をしていたのか、謎だ。しかし、藤原鎌足と百済王子豊璋が同一人物ならば、謎が解ける。」こんなのは謎でも何でもない。白村江の戦いは「藤氏家伝」にも記載されていない。外交と軍事を掌握していた鎌足のチョンボを不比等は表沙汰にしたくなかったから、家伝同様「日本書紀」に何も書かせなかった。これも「日本書紀」が隠したものの一つ。

以上の如く、もっともらしい部分を多少なりともちりばめれば、中大兄、鎌足の和人同族説以外の説は全部嘘っぱちであると断定できる新説が創作されてしまいます。とにかく彼らの時代は視点や切り口で結論がガラリと変わるのであまり触れたくない部分ではあります。大海人皇子にしても漢皇子説、淵蓋蘇文説、金多遂説と色々です。こんなにややこしい迷宮時代は深入りせず、新文献の発見を待ったほうがいいのかも…。

[18]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月23日 23時21分04秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ありがとうございます。


>中大兄の中臣氏説

ビックリです。


>ややこしい迷宮時代

はい


古代史ドラマは難し過ぎてNHKも大河にはしたくないでしょうね。
皇室に忖度して  タブー  でしょうしね
視聴者も黙っていないし。


不比等!
思ってた以上にワルだな。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月24日 01時32分54秒 ) パスワード

軍事ヲタクの友人で旧暦の分かる人の話  以下コピペ:

コッチは曇りだったので日食は見られませんでした。


2009年の皆既日食の時も、  コッチは部分日食でしたが、  あの日も曇り。
曇天だと、日食になって空が暗くなっているかなんて、全く分からないんですよね。

本能寺の変の前日(万年暦だと6月30日)も京都は部分日食で、
桐野作人とかいう奴はその日食をネタに二つの暦
    ――京暦と三島暦
を論じ、

日食を予見していなかった京暦は不正確だと論じていました。


桐野がなぜこれを騒いだかというと、
天正十一年の元日が東日本と西日本で閏月の関係で、
なんと一ヵ月もずれてしまうという事件が起きたため。


信長が推したのが東日本の三島暦でした。


でもね、残念ながら、現代科学の計算では京暦が正しいんですよ。

桐野とか井沢みたいに信長様絶対主義のバカは科学的な根拠もなく京暦は間違い、と主張していますが、
旧暦のつけ方を勉強してしまうと奴らの妄言は通用しない。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月24日 01時48分13秒 ) パスワード

軍事ヲタクで古代史マニアの友人の話。
以下コピペ:


魏志倭人伝には,卑弥呼の死亡年も死因も書いてないのですよ。
ですので,日本の日食を再現できるソフトが出来るまでは,
248年説と250年説で,
歴史学者等で甲論乙駁状態でした。


ところが,東京のプラネタリュームが,展示用にアスキーだったかな?ソフト会社に,過去の天体の動きを再現できるソフトの制作を依頼しました。


そうしたら,250年に日没1時間くらい前から,太陽が欠け始め,皆既日食で日没と言うことがあったことが分かった。

しかも,北は北海道から南は九州まで見られる。


それで,卑弥呼の日没予言ミスで,
250年に怒れる国民に,卑弥呼殺されたというのが,
今の古代史の常識のようです。

まあ,コンピュータ様様なわけで。(笑)


で,卑弥呼は西暦250年ぐらいに死んだというのが定説で、

魏志倭人伝には,
日食については全く書いてなくって,
卑弥呼の死因について「以て死す」としか書いてありません。


私は,
卑弥呼の死は250年と考えていますので,
初代天皇の神武ですけど,日本書紀なんかから推測すると,
私は卑弥呼の孫世代で,300年くらいに即位した,
と思います。


ただ,神武は初代ではなく,
その前に出雲のスサノオの作った王朝があったと考えた方が良いと思います。

出雲王朝と仮称しますけど,
この出雲王朝の初代王がスサノオ,最後の王が大国主だと思います。


宮下文書という古代の史料があります。
大本教の聖典ですけどね。

ここには,初代王がスサノオ,最後の王が大国主になっていますけど,
大国主ですけど,
256代の王になっています。

これには,個人的に疑義はありますけど,
出雲王朝が日本最初の王朝だと思います。

それを神武が乗っ取ったようです。
日本書紀を読むとそうとしか思えないのです。


ですので,私は天武までは女系男子継承,その後,女系男子になったり男系男子になったりのせめぎあいで,
男系男子継承が最終的に勝利したと思います。


男系男子になったのは,光仁天皇以降でしょう。
ここから万世一系の男系男子継承になったと思っています。


でも,それでも1,000年以上ありますから,
ギネスも天皇家は世界最古の王家と認めています。

次がイギリス王室ですけど,こっちは500年くらいのはなたれ小僧。(笑)


______________________________________

大国主って、そういう立ち位置だったのか。
サッパリ分からなかった。

幼稚園児用のウサギとワニのハナシあたりのレベルしか読めてなかった。恥
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月24日 01時55分39秒 ) パスワード

2009年の日食の時
         オットはUCLAで天文学を専攻してたほどの天文マニアなので

               趣味の副職は彗星の追っ掛けカメラマン

うちのマンションの6階のレクリエーションデッキに天体望遠鏡やらイロイロ運んで数時間に亘って観察しましたよ。


といっても欠けたのは4分の1で
真っ青な空が「ちょっと」陰った程度でした。


もう10年以上もムカシのことだったのか。
つい数年前のコトだと思ってたのに。トシだね。
[22]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年06月24日 10時21分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様
酔石亭主様

 色々な情報、ありがとうございます。

 古代史の探求は、「誰の説を信じるか」=「何をスタンダードとするか」
で進んで行くしかないと思っています。色々積み重ねて行くと、角張ったも
のがとれて丸くなって行く。ちょぅど水石の形成と同じであります。

 ただ、文献(系図を含む)のみに頼るのは、砂上の楼閣になってしまいます。
その点、考古学的資料は饒舌ではありませんが、「事実」の証として存在し
ます。従って、古代史の探求については、半分は考古学的なアプローチが必
要なのではないかと思っています。

 宮内庁の天皇陵も信憑性がないものもあるということで、一つのネックに
なってはおります。天皇家の墓を発掘する(あばく)というのは絶対に許され
ないことなのでしょぅ。天皇制の成り立ちを揺るがせたくない。国体を、ま
た日本の歴史を揺るがせたくないということなのでしょぅ。

 今回、おかげさまで三輪氏のことを勉強させていただきました。奈良県桜
井市の三輪山を中心とする地域、及び纏向遺跡にコロナ禍の終わった頃、行
ってみたいと思っています(3泊位で)。

 三輪氏と言えば、大神神社の神主家ということですが、この「三輪」につ
いて、加茂喜三氏は『ヒミコの故郷』の中でこういう見解を示しております。
即ち――
 「日ノ斎祇で結ばれた加茂と三輪
  古来、加茂と三輪は一体で、形影の如き存在だとされているが、その原
 点は、加茂が"日の観測者"であったことによる。
  日の観測で中心をなすのは、「冬至」・「春分と秋分」・「夏至」の三
 つに大別できる。太陽をその形態から「輪」とみると「三つの輪」となる。
 これが「三輪」である。日を観測するのは、正三角形または二等辺三角形
 の山である。なぜ、正三角形またし二等辺三角形でなければならないかと
 いうと、日の昇る位置を的確に計測するために必要な条件であるからで、
 "日の観察"に用いられた山は、すべて正三角形または二等辺三角形に造ら
 れたか、自然の山をそのように整形したものとされている。
  これを主宰したのが加茂である。加茂は三輪山の主であった。それでの
 ちに三輪は加茂の代名詞となり、場合によっては加茂そのものとなった。
 また、三輪の三(み)は、加茂の神(み)でもあった。」
ということであります。

 次回は、「三輪・賀茂氏」や」「日の観察」にからむ「子持勾玉」の話を
したいと思います――
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月25日 00時09分22秒 ) パスワード

三つ柏さん

三輪山自体が御神体というのは知っていました。
だから本殿という建物は無い、と。

ウイキから:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BC%AA%E5%B1%B1

『古事記』『日本書紀』にも三輪山伝説として大物主神の伝説が記載されており、
三輪山が神の鎮座する山(神奈備)とされている。
延喜式神名帳には式内大社の大神大物主神社として載せられていて、別名は三輪神社であり、三輪氏の氏神であった。

太陽神である天照大神は、三種の神器のひとつ八咫鏡を神体として祀られる。
この鏡は『日本書紀』によればもとは宮中に祀られていたが、
崇神天皇(第10代天皇)6年に笠縫邑に移し皇女の豊鍬入姫命に祀らせ、
垂仁天皇(第11代天皇)の時代に皇女倭姫命が伊勢国へ移し
これが現在の皇大神宮(伊勢神宮の内宮)であるという。

この笠縫邑は三輪山の西麓の檜原神社[1]の地であると伝えられる。
檜原神社は大神神社の摂社で、天照大神若御魂神などを祀る。
神体は山中の磐座である。

                         へぇ〜
                         ということは  見ることが出来る  のかな?

また古代には、神坐日向神社[3]が三輪山の頂上に祀られていて太陽祭祀に深く関わっていた神社であったと推測されている。

現在この日向神社は三輪山の西麓にあり、頂上には高宮社[4](高宮神社)が祀られており、日向御子神を祭神としている。
日向神社も高宮社も大神神社の摂社である。


だったら明日香の里も訪問して、3泊ぐらいしないとね。



________________________________

以下は軍事ヲタクの友人から旧暦について情報を貰ったものの  5秒後には  忘れる内容:


日本の旧暦は,太陽太陰暦と言って,太陽の動きと月の動きで暦作っていました。
だから,純粋な太陰暦でないのです。
だから複雑になって,3年に一回,30日位ずれるので,閏月を作って調整しました。

人類の暦で正確無比なのが,マヤ暦と言われる,南米の暦。
これ現代科学で法則すらわかりません。
だから,誰が作ったのか不明ですし,いつできたかも不明。
しかも,紀元前1,200年ころに成立したオルメカ文明と言う,南米文明の母と言われる時代から使われていました。

だから,マジに宇宙人が教えたという学者もいます。

オルメカ文明の担い手は黒人だったともいわれています。
と言うのは,オルメカ文明大量の石像残してますけど,全部黒人です。
だから,紀元前に南米にも黒人がいたという説もあります。
確かに大西洋は狭かったけど,50p位。(笑)
だから,大西洋の海底に北極から南極まで連なる,大海底山脈と言われる,中央大海嶺と言う大海嶺がありますけど,これがアトランティス大陸の残骸だと言う説もあります。

大西洋には,海底に都市が結構沈んでいます。
特にビビニ諸島沖(ビミニ?)の海底にある,ビビミ道路と言われる,紀元前の道路の跡が有名で,
これがアトランティス大陸の一都市跡説もあります。

                       今年の初めに「平熱」でもビビミについて書いてますね


太平洋,大西洋,インド洋の海底は全部違っていて,
平野に近い太平洋
砂漠のインド洋
山岳地の大西洋
と言われています。

ただ,太平洋に沈んだムー大陸は,今は存在を全否定されています。
インドの古典が原点ですけど,
それを紹介した,チャーチワードと言うイギリス陸軍大佐が存在しないこと
太平洋に大陸が沈んだ残滓がないこと
等で,最近はムー経済圏説が強くなっています。

ポナペ島(現ポンペイ島)にボロブドール遺跡と言う人工港遺跡があります。
巨大な遺跡で,1944年にノルマンディ上陸作戦時に,連合軍が物資揚陸に作った,世界最大の人工港ソールズベリー人工港と同じ面積があります。
でも,伝説すらないので,相当古くに建設され,8世紀ころに地震か台風,津波で完全に破壊され忘れさられたと言われていますけど,
縄文人は,地球規模で行動していますので,
日本を中心とした経済圏がムーだと最近言われています。



暦作るのは,日本は海上保安庁の水路部の仕事ですけど,
世界では海軍の水路部が作ります。

航海するのに,干満が必要ですので,月との関係が大事になります。


海軍の場合,対潜水艦戦闘の場合,塩分濃度とか海水温,潮流の向きや速さ等を調べながら戦闘します。
このような海象を調べるBTブイを放り込んで情報を取ります。
壮大な海中実験をしながら戦うわけです。

海上自衛隊は,この対潜水艦戦が大得意。
アメリカ海軍以上の実力持っていると言われています。

                        海軍ヲタクだから、コレが言いたかったのだろう

だから,天文学ですけど,欧米では航海術の一分野として発達しました。
東洋では,占いの一分野ですので,江戸時代まで,暦作っていたのは陰陽師なんです。

日本みたいに,海軍と準海軍のような組織があっても,暦は海軍水路部が作っています。
日本だけです。
準海軍の海上保安庁水路部が暦作るのは。

アメリカ海軍の場合,海軍専門の天文台もありますし。この天文台,1830年にできて,アメリカ最古の天文台だったと思います。
ワシントンDCにありますけど。

それと,アメリカ最初の理学博士号取ったのも,アメリカ海軍大佐。
この天文台の台長だったそうです。
ただ,アメリカの大学では,理学博士号を取れなかったので,フランスのソルボンヌ大学で理学博士号を取ったようです。


>ダンナさんの趣味の副職って彗星の追っ掛けカメラマン?

私が天文にはまったのも,ヴェネット彗星と言う彗星を見たのが最初でした。
彗星は空の具合で,滅茶苦茶奇麗です。
だから,彗星だけを追っ掛けている天文ファンは多いそうです。

ただ,太陽系の惑星の海王星ですけど,
この惑星シアンと言う猛毒で出来てますけど,
この成分が彗星の成分です。
だから,太陽につかまって,惑星になったと言う説があります。


海王星ですけど,ゲル状のシアンの液体で出来ていて,大気も青酸カリ。
宇宙戦艦ヤマトで,海王星基地ありましたけど,
ここに基地を作ったら,
基地は反対の宇宙空間に落ちます。
太陽系で,唯一,軟着陸できない惑星だそうです。
衛星も反対の宇宙空間に落ちる。(笑)

                       意味、分からない。

                       わたしは方向音痴なので
                       朝、散歩の時に6時台に月が残っているのが東のダイアモンドヘッドと西の真珠湾の間で
                       え?月って南に落ちる?
                       これから西に行って落ちるの?
                       とワケ分からない。                   
[24]酔石亭主さんからのコメント(2020年06月25日 14時10分18秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青海のあをさん  

大和へ行かれるなら三輪山周辺だけでなく、葛城族の聖地・高天彦神社や近くの賀茂族の本拠となる高鴨神社などもいいですよ。葛城族は神武天皇(崇神天皇)に討伐され土蜘蛛として貶められた挙句、自分たちの宮殿や古墳(葛城氏の古墳も含むかも)の多くを欠史八代の天皇の宮殿や墓にされてしまいました。葛城襲津彦辺りから葛城氏として200m超級の大型古墳を4世紀末から5世紀前半にかけて幾つも築造し繁栄しますが、雄略天皇に討伐されて滅び(円大臣の娘は雄略天皇の后になっています)、累が及ぶのを恐れた賀茂氏と秦氏は共に山城に脱出します。両者が京都で仲がいいのはこの時の縁によるのかもしれません。そして葛城氏庶流と見られる蘇我氏も中大兄や鎌足によって暗殺された訳ですから、正に悲劇の葛城さんと言えそうです。各地に枝葉を伸ばし繁栄した三輪さんや賀茂さんだけでなく、悲しい宿命の中に消えた葛城さんにも機会があれば目を向けてくださいね。

[25]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年06月25日 18時41分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 酔石亭主様――

 またまたありがとうございます! 二重三重に奥の深いご教示で、葛城は
ぜひ行かなくてはと感じました。三泊では足りないかもしれません。場合に
よっては一週間位かけても、日本の古代を見て考えてみたいと思います――
[26]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年06月26日 11時07分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「倭は国のまほらば〜」という歌がありますが、この「まほらば」という
言葉の語源について知りたいと思っています。意味的には「素晴らしい場所」、
「住みやすい場所」ということのようですが……。

 三輪山を中心として、大和(倭から大和へ)は古代史の"るつぼ"のようなも
のですね。土地勘がないので、どの方向に何があり、過去に何が起こったか
ということがほとんどわかりません。これでは古代史を語る資格がない。さ
っそく奈良の地図を手に入れたいと思います。

 三輪山というもの、信仰・祭祀という点で考えても、奥深いものだと思い
ます。天文(夏至・冬至、春分・秋分)や暦という側面もあるかも知れません
し、消して平面的にとらえてはいけないと思っています。

 平林章仁氏の『三輪山の古代史』には、三輪山は「養蚕・機織文化」と大
きくかかわっているということであり、伊勢の服部氏、麻績氏とも関連して
いるようであります。また、アマテラスやスサノオの神話もオーバーラップ
してくるという正に"機織り文化のるつぼ"であります。

 いわゆる応神期に秦氏が渡来する「前」と「後」の機織文化の在り方を、
一度総括する必要があると考えます。「機織り女(巫女)と大王」の関係から、
殖産興業の「絹織物」への転換ということ……のプロセスの把握をしたいと
思います――

 夏至ラインというもの
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月26日 13時59分35秒 ) パスワード

三つ柏さん

ホント!
酔石亭主さんのお陰で  我々は古代が全く分かっていなかった  ということが!!!   分かりましたね。


葛城って、そういう場所だったのか!
と初めて認識しました。


蘇我氏が葛城を欲しかった
ということをボンヤリとは知ってたけど
結局分かっていなかった。



古代の豪族達も  ヤバイ!と思うと  逃げてたんだな
というのも分かったし。
その逃げた先が京都だったとは。
それで桓武天皇が遷都した時   賀茂氏には先住者として敬意を払ってたのか、と。


酔石亭主さんの御降臨で歴史の読み解き方をいろいろ教えて頂きましたね。
感謝です。




https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%81%AE%E5%85%AD%E7%9C%8C
倭の六県(六御縣、やまとのむつのあがた)

古代の大和国にあった大王(皇室)の直轄地である。


645年(大化元年)8月5日に、東国の国司とともに使者が派遣され、
造籍(戸籍作成)・校田(田畝調査)が行われた[1]。


「六県」は『和名類聚抄』での以下の各郡域に相当する。
・曽布(添)県 (そふ) - 添上郡、添下郡
・山辺県(やまのべ) - 山辺郡
・磯城県(しき、志貴) - 式上郡、式下郡
・十市県(とおち) - 十市郡
・高市県(たけち) - 高市郡
・葛城県(かつらぎ、葛木) - 葛上郡、葛下郡

域内には県名を冠する添御県坐神社(奈良市三碓、奈良市歌姫町)、山邊御県坐神社(天理市別所町、天理市西井戸堂町)、志貴御県坐神社(桜井市三輪金屋)、十市御縣坐神社(橿原市十市町)、高市御県坐神社(橿原市四条町)、葛木御県神社(葛城市葛木)の式内社が置かれている。



『延喜式』にある27篇の祝詞のうち祈年祭(としごいのまつり)には上記の「六の御県(みあがた)」の名前が見え、蔬菜を献上したとある。

六県は奈良盆地の全域を占めるが、広大なものではない。


624年(推古天皇32年)、蘇我馬子は推古天皇に、県の一つである葛城県は蘇我氏の本居(うぶすな)で、(蘇我一族の「臣(おみ)」という)「姓名(かばねな)」もそこに由来するものだから、「封県」に賜りたいと懇願したが、蘇我氏の血をひく女帝から拒絶された、ともある[2]。




https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%9F%8E

葛城(かつらぎ、かづらき)

奈良盆地の南西部を指す地域の名称。

上代からの地名であるが、明確な範囲や境界を示すことは難しく、北の大和国(奈良市近辺)から西端の和歌山市友ケ島までの範囲に「葛木」という漢字をあてる文献も多数あり、古くからの山岳信仰から生まれた名称の色合いも強い。


語源

神武天皇が、葛で編んだ網で土蜘蛛を捕らえたためと伝えられる。



歴史

古墳時代でも有数の豪族であった葛城氏の勢力圏であったと考えられている。
飛鳥時代の前半あたりには葛城県が、その後は葛城国が置かれたようである。


『延喜式神名帳』には、大和国忍海郡に葛木坐火雷神社二座とこれに合祀された為志神社を載せていることから、
大和国が置かれた際の葛上郡・葛下郡・忍海郡のあたりが元の葛城国(葛城県)の範囲と推定できる。

現在の行政区分に照らし合わせると御所市・大和高田市・香芝市・葛城市・北葛城郡の一部もしくは、和歌山市友ケ島までの和泉葛城山脈全域が想定される。


江戸時代の初め頃までは、この地が高天原であるとも考えられていた[1][2]。
                       コレはビックリですね


[28]酔石亭主さんからのコメント(2020年06月26日 14時48分14秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青海のあをさん  

三輪山麓に行かれれば纏向遺跡にも訪問されると思いますが、そこから直線距離で約2qの田原本町蔵堂426に村屋坐彌冨都比賣神社(大神神社別宮)があり、その境内に三つ柏さんと関係のある服部神社が鎮座しています。一帯は秦氏の関係地で服部連と秦氏の近さがここから感得されます。また大和岩雄氏の「秦氏の研究」を引用したPDFによると、「伊賀国浅宇田庄預所に参勤していた上嶋慶信入道景守(伊賀服部氏を継いだ)の次男が観阿弥の父・服部次郎太夫とある。嫡流である長兄の家系に「蔵堂」「筒井」「味間」という大和の地名を冠した苗字の人が続く。」とのこと。この内容が正しいか判断できませんが、蔵堂は正に服部神社の鎮座地で、味間もすぐ近くの地名で、こちらは物部氏に関連する地名となります。

村屋神社境内には物部神社もあり、一帯は杜屋郷(もりやごう、多分物部守屋から取った)となっています。さらにそこには秦氏の散楽に関係する楽戸郷があり、秦氏の秦楽寺(田原本町秦庄267)の元となる新楽寺があったそうです。秦河勝の創建と伝えられる秦楽寺には笠縫神社が鎮座し、ここが元伊勢第一号の笠縫邑だろうと思っています。秦楽寺の西側には聖徳太子が飛鳥から斑鳩に通った太子道があり、秦河勝と聖徳太子の関係もこの辺が始まりかもしれません。うんと簡単にほんの一部分だけ書いていますが、この非常に狭い地域を見ていくだけでも、そこから物凄く広がりのある世界が展開されてきますので、ホントに大和は奥深く病みつきになってしまいます。三つ柏さんが病みつきになっても責任は取りませんが、蔵堂は秦氏、服部氏、三輪氏、物部氏、観阿弥・世阿弥などの関係地ですから折を見て行かれたほうがいい場所ではないかと思います。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月26日 16時26分01秒 ) パスワード

三つ柏さん

すごい情報を頂きましたね。


奈良の磯城郡田原本町に服部神社があるのは100%知りませんでした。読みは ハトリ かな?

https://www.google.com/search?sxsrf=ALeKk00vDsaUN0CcSroI01hKe15Ol583ww%3A1593153039024&ei=D5b1Xt-MAYWx0PEPpLO6sAE&q=%E7%94%B0%E5%8E%9F%E6%9C%AC%E7%94%BA%E8%94%B5%E5%A0%82+%E6%9C%8D%E9%83%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E7%94%B0%E5%8E%9F%E6%9C%AC%E7%94%BA%E8%94%B5%E5%A0%82+%E6%9C%8D%E9%83%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%80%E3%81%AF&gs_lcp=CgZwc3ktYWIQDDoECAAQR1CnyQNYyNIDYJDmA2gAcAF4AIABmwGIAaMCkgEDMC4ymAEAoAECoAEBqgEHZ3dzLXdpeg&sclient=psy-ab&ved=0ahUKEwif0NrH7Z7qAhWFGDQIHaSZDhYQ4dUDCAs#spf=1593153093226

ここでイロイロなサイトに行けます。


1つ拾って来ました:
https://murayajinja.com/sessha/hatorhijinja/

                       どうして h が付いてるのかな?

服部神社


繊維染織、服飾全般を司る神

延喜式内社 旧 式下郡 蔵堂
祭神 天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)   ポスターの絵からすると女神さま?  鏡も持ってるし。
天之御鉾神(アメノミホコノカミ)

服飾関係を司る神である。

これより西2kmばかりの所に、大安寺村字神来森(カキノモリ)という土地がある。
そこに鎮座して波登里村(ハトリ)・阿刀村(アト)の氏神であった。


祭礼には、氏子が盆に綿を盛り、その上に十二祷を乗せてお参りした風習があった。
今は、綿の栽培がなくなったので、此の風習はなくなった。


元弘年間(1331ー34・南北朝)の兵火に遭い社地を没収される。
更に天正年間(1573–92・織田信長)にも兵火に罹り、
神主が御神体を背負い本社(式内・村屋坐弥富都比売神社むらやにますみふつひめじんじゃ)境内に遷したと言われている。

                       村屋神社   つまり  別名  守屋神社(物部守屋)
                                                    杜→村の読み違えから村屋に成ったといわれる
                       村屋神社は大物主と三穂津姫の夫婦神を祭る「縁結びの神」


この頃、波登里・阿刀村も消滅して、神社の経営成り立たず、そのまま本社境内末摂社となる。と同時に、壬申の乱の神功を称えるお渡りも中断するに至り、未だ復興することができない。


建築について

切妻造妻入り見世棚造庇付カラー鉄板葺である。
柱間56cm位の社殿で、自然石の基壇上に土台を廻し、方柱を建てる。
柱天端は直接桁を受けている。
中央板扉両開き、他面板壁、見世棚下部は正面のみ板壁他面解放である。
身舎、庇部分共板軒で、屋根勾配の緩い小社である。


https://blog.goo.ne.jp/shinsansan1944/e/e61082dfe66f6e985788ceaa700310a1

>田原本町<黒田>は「記紀」に記載の七代孝霊天皇黒田廬戸宮の比定地
 
                       わたくしの母方ご先祖さま登場!

>皇女には倭迹々日百襲媛(卑弥呼?)  箸墓古墳の被葬者?  これは知ってた
>皇子には彦五狭芹彦尊(桃太郎)

ウイキから
大日本根子彦国牽尊(孝元天皇)
千千速比売命
倭迹迹日百襲姫命
日子刺肩別命
彦五十狭芹彦命
倭迹迹稚屋姫命
彦狭島命


                       我が家の家書では「彦狭鳴命」。「鳴」は我が家が南朝方ということ。
                       一族でも、北朝方では「嶋」を用いる

稚武彦命


意外なところで意外な人物が登場しちゃいました。
結局やっぱり日本人って遡ると   みんな親戚   ですね。



酔石亭主さん
改めて、ありがとうございました。
[32]酔石亭主さんからのコメント(2020年06月27日 10時04分36秒 ) パスワード

空の青海のあをさん 三つ柏服部さん  

>『延喜式神名帳』には、大和国忍海郡に葛木坐火雷神社二座とこれに合祀された為志神社を載せていることから、大和国が置かれた際の葛上郡・葛下郡・忍海郡のあたりが元の葛城国(葛城県)の範囲と推定できる。

忍海郡は葛城襲津彦が新羅から連れ帰った忍海漢人(おしみのあやひと)と言う鍛冶技術集団にちなんだ地名です。葛木坐火雷神社の鎮座地は高尾張邑で、尾張氏の発祥地ともされる説もありますが、それは「日本書紀」編纂者の意図的な誘導によるもので間違いです。高尾張邑の地名は神武天皇の御代に出てくるのですが、天皇が土蜘蛛を討った瞬間に葛城に変えられています。これには明らかに作為があり、朝廷と尾張氏の奥深い謎(裏取引)が読み取れる場所となります。こちらと雄略天皇に葛城氏の勢威を示した一言主神社もお勧めの場所です。

>田原本町<黒田>は「記紀」に記載の七代孝霊天皇黒田廬戸宮の比定地
 わたくしの母方ご先祖さま登場!

ビックリです。孝霊天皇の宮殿は葛城エリアではなく、この天皇は各地に鬼退治に出向いている伝承があるので、吉備津彦その人だろうと推定しています。黒田は桃太郎伝説の地とされていますが、吉備津彦の鬼退治がその原型になっています。ところが吉備津彦の場合、川からドンブラコの場面がありません。その伝承があるのは秦楽寺の秦河勝。秦楽寺の西側から太子道が黒田へと続いているので、両地域の住民が交流した際二つの話を合体させ桃太郎伝説の完成に至ったと推定しています。詳しくは以下に書いていますので、参照ください。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1997.html

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1998.html

>奈良の磯城郡田原本町に服部神社があるのは100%知りませんでした。読みは ハトリ かな?

あれ、あをさんは同社に関する最も詳しい情報を1000%ご存じですよ。この地域の全体像を書いた中の一つとして取り上げたのでわかりにくくなったのかな?

>これより西2kmばかりの所に、大安寺村字神来森(カキノモリ)という土地がある。そこに鎮座して波登里村(ハトリ)・阿刀村(アト)の氏神であった。

この場所は田原本町字大安寺に鎮座する森市神社の北とされています。今はグーグル地図で見ても水田が広がるだけで何の痕跡もありませんが…。それでも大安寺は秦氏と関係し、またこの場所も秦庄に近いので、やはり秦氏と服部連は緊密と理解されます。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月27日 11時15分05秒 ) パスワード

酔石亭主さん


いろいろ教えて頂いて感謝です。


>阿刀村

阿刀といったら  弘法大師  の母上のご実家の名字を思い出します。


それに弘法大師と我が母方の関係もあり  (石手寺伝説)
さらに
善通寺も母方と関係があります。   善通寺からはさらに高畑淳子や北川景子にも繋がるし。要潤も顔がソックリだし。要潤は出身地が三豊だし。

     明治維新で宇摩に戻った先祖の墓が三豊のすぐ隣の川の江の山にあります



いやいやいやいやいやいやいや
ひょっとすると   孝霊天皇以来の関係?

母からは  うちは海賊だとは聞かされてるけど  桃太郎のハナシは知らないです。桃太郎伝説は兄上ですから。うちは三男だから。
父子で海賊してたハナシは知らないです。

でも岡山のヒトの顔にわたしは似てると自分では思ってます。
どっちか言うと希望は北川景子似でありたかったけど。
残念っ

母と伯母は和歌山によくある顏です。
後南朝関係だから和歌山にも関係しているので。

     吉野とか葛城とか磯城とか  日本史上の場所を先祖がウロついてたのを感じます。



酔石亭主さんのレスの中に「阿刀」の地名を拝見して以来  なぁ〜んか引っ掛かってましたが

いやぁ、日本人ってホントみぃ〜んな繋がってしまう。


うちの母親は「どこにでも行け。その為のお金ならいくらでも出してやる」と言ってましたが

そうか  孝霊天皇父子は元祖侵略主義者  だったのか。
その血が母に脈々と流れてたのかと納得。
きゃはは
[34]酔石亭主さんからのコメント(2020年06月29日 15時26分23秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青海のあをさん  

昨年秋に行った場所ですが大和のお勧めをもう一か所(実際はお勧めするほどでもありませんが)。ご存じのように平城京は条坊制を採用した都市で、南北の大路(坊)と東西の大路(条)が碁盤の目状になっています。これは都市計画として厳格に守られているはずですが、実は一か所そのルールから外れた南北の大路があります。それは何とあをさんがお嫌いな藤原不比等邸があった場所。この場所は現在の海龍王寺や法華寺一帯に相当します。この寺に向けて南から北に伸びる道路がかつての「東二坊大路」ですが、海龍王寺の少し前で不自然に大きく右へカーブし、その後すぐに北へと向かっています。つまり本来なら南から北へ真っすぐ伸びるべき「東二坊大路」が不比等邸のところで東に折れ曲がり、次に北へ伸びる形となっているのです。(グーグルのストリートビューで確認ください)大変面白いのは、不比等のルール違反が現在の道路にそのまま受け継がれ反映されていること。従ってこのカーブは、彼の息づかいが現代に至ってもなお感じられる稀有の場所となります。

なぜこんなことになったのかと言うと、不比等邸の敷地は土師氏から譲ってもらったもので、彼らの氏寺をそのまま邸内に残す形としたのですが、寺の部分のみが丁度「東二坊大路」に当たってしまう位置となったので寺を移設するのではなく大路をネジ曲げてしまったのです。これを不比等による土師氏への配慮と見るか、不比等の横暴と見るか判断は人それぞれとしておきます。

問題はなぜこんな場所に土師氏の土地があったのかという点です。実は平城京のすぐ北側に佐紀古墳群と言う200m超級の巨大古墳が密集するエリアがあり、築造時期は4世紀の末頃から5世紀前半にかけてのものとなっています。(平城京建設により削られた古墳、削平された古墳もある)三輪山麓近くで景行天皇陵が4世紀中頃以降に築造が終わり、これをもって纏向遺跡も終末を迎え、大王墓が奈良盆地北部の佐紀に移るのですが、この佐紀王朝は但馬、丹波、近江、山城方面とつながりを持つ別王朝。よって土師氏が所有していた場所は、正しく佐紀古墳群の造営や埴輪類の供給のための拠点だったと理解されます。

とまあ、710年頃の平城京の様子を見ていたら、あっと言う間に300年代終わりにまで飛んでしまう。この歴史の重層性こそが大和歴史散歩のだいご味ではないか、と思う次第です。さらに佐紀古墳群が終わる前頃に河内で巨大古墳が築造され始めますが、それらの中には佐紀古墳群の古墳と相似形のものもあり、また河内にも土師の里があることから、佐紀にいた土師氏の相当数のメンバーが河内に移動したと推定できます。このように流れを辿れるのも古代史の面白さですね。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月30日 05時30分04秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ありがとうございました。
平城京の地図を見て来ました。


土師町を  どし‐ちょう  と読むと知って
これまたビックリ。



http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/01shaji/02tera/01north_area/kairyuoji/access/

仁徳天皇の兄上の大山守命のお墓が奈良航空自衛隊基地の東にあって
これまたビックリ。
ホントにお墓があるなんて  実は  信じていなかった。


日本の歴史って  あなどれない
ホント 奈良って  我々  日本人の故郷なんだね。
わたしにホントにご先祖さまっていたんだ・・・・
  



三つ柏さんへ

https://mokotabi.exblog.jp/30773496/
模糊の旅人
古墳時代についての所感 〜佐紀古墳群の謎を解く〜
[36]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年07月01日 09時34分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろありがとうございます(酔石亭主様にも)。
 ここのところ、事情(良い部類)により集中(フォーカス)できませんでした。

 古代史は誰の本(説)を教科書(スタンダード)にするかで、立ち位置が全然
変わってしまいますので困ります。それは、砂上の楼閣か、幻想のようなも
ので、別の説によってもろくも崩れ、吹き飛んでしまいます。

 その原因は、やはり「天皇(大王)の系譜(人物、系統、年代)」にあると思
います。ここが正確に示されれば、すべての古代史も正確になって来ます。
つまり、天皇家はすべての古代史に先行する問題であり、ここの真実こそが、
古代史を探求する上での基盤(スケール)となるマターであると思うのですが
……。

 私は、天皇家の年代については、既に石澤一由氏の算定による天皇在位期
間年表を適用しております。古代の天皇自体の実在性については、とりあえ
ずのところ、そのままとしています。但し、濃い関係の万世一系ではなく、
薄い関係での寄せ集め(パッチワーク)感がいたします。仮に実在した人物と
しても、その属性ストーリーは都合のいいように加工されたもののような気
がいたします。

 そんな疑念が心にあるので、古代史の探求姿勢は、慎重にならざるを得ま
せんが、そうもばかり言っておれないので、勇気をもって今後も進めて行き
たいと考えます――
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月02日 10時40分21秒 ) パスワード

申し訳ありません。
日本の古代がハッキリしない1つは  我が家の血   のせいなのです。


   魏の国で邪馬台国への道程を言ったのはワタシの先祖なのです。
   我が家は日本史上稀に見る方向音痴家系なんで
   邪馬台国の位置を   方向と距離  自分の脳内磁石と距離で伝えたばかりに
   九州説と畿内説
   で今に至るも皆さまを翻弄しております。


ホント!
ますます確信になってしまった。
[38]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年07月03日 10時28分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ちょうど、小路田(こじた)康直氏(奈良女子大学文学部教授)の『卑弥呼と
天皇制』という本に目を通していたところで、「方向音痴」という言葉と、
『魏志倭人伝』の「東」と「南」「西」という方向性についての論述が、オ
ーバーラップしました。

 『魏志倭人伝』における「方向」の問題と「距離」の問題が、邪馬台国の
位置を割り出す争点になっているということでありますが、一体、古代の人
達は、水行や陸行において、その方向を何で導き出したのでしょう。磁石(
コンパス)はあったのでしょうか? 磁力を帯びた物質を沈まないようにし
て水の上に浮かべるとそれは南北を示す――ということは、いつ頃わかった
のか(資料がどこかにあるはずなのですが、今ちょっとすぐにはわからない)。

 航海には、日中は太陽、夜間は星――特に北極星を中心として方向を導き
出したと言われております。一説には、日中においては「日鏡」が方位の算
定に使われていたのではないかということであります。それは物を映す鏡と
いうよりはちょうど風水で使う円盤のような物で、その面には方位と時刻の
刻み模様が描かれている。それぞれ12あり、時間線(十二支)を太陽の方向
に合わせると、その時点、位置での東西南北がわかるというもの。
 但し、季節により太陽の位置(緯度)は変わるので、この点の補正がどのよ
うに行われていたかを検討する必要はありそうです。
 いずれにしても、古代においては天文が「必要は発明の母」で、すごく発
達していて、時間と方向を割り出す器具も既に作られていたということであ
ります。 

 但し、著者によると、魏志倭人伝における邪馬台国を示す方位は、必ずし
もコンパスで測られたような正確な東西南北を言うのではなく、もっとアバ
ウト――わかり易く言えば、両手を90度位広げた範囲くらいのおおまかな
範囲で言ったのだと推論しております(これは方向音痴ではないということ)。
 最終的に、邪馬台国の所在地については、畿内(大和)であろうという結論
を導き出しております。

 いずれにしても、「天文」というものは、ただ単に水行や陸行において、
時間や方角を割り出すものだけにとどまらず、「王権」にとって必要不可欠
で深いマターであったと推論いたします。今後、古代と天文の関係を、もっ
と突っ込んで調べて行きたいと考えます――
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月04日 14時59分40秒 ) パスワード

三つ柏さん

拝見して笑い転げました。
小路田氏は我が母方と同じ人皇7代孝霊天皇の子孫なのかしら?
我が家の skeleton in the closet をよくご存じのようなので。


                          210名中199名が死亡した八甲田雪中行軍遭難事件よりも
                          遥かに多い<合計>死者数を我が一族は出してるから



ハワイでも大昔の人は北極星を頼りに航海してたと聞いていますが

だってね
先日2時間  それも午前中の10時〜正午まで  半袖で2時間歩いただけで
両腕が水膨れ寸前の日焼けになりました。

        ハワイでは午後に海に行くな  日焼けどころか火傷になって救急病院行きだ  と言われています

翌日から腕はヒリヒリするし痒いし  水膨れ前のニキビ状のブツブツが腕一杯に出来て
1週間大変でした  夜は痛いし痒いで眠れないし


午前中の2時間でこんなに焼けるんですから
ポリネシアの人は日中航海なんて恐ろしくて出来なかったんじゃないか?

だから  航海は夜  やってたんじゃないの?
と思います。


卑弥呼時代   魏へ
その前の後漢時代(小国乱立時代)

日本人はどうやって大陸へ航海したんでしょうね。


わたしの先祖なら  行き会ったりバッタリ  舟ごと流されて行ったんじゃないかな?
運が良ければどこかアッチの方のどこかに流れ着いたんじゃないかな?
大きな国だから、どこかに漂着すれば、都に行けたのかも、


それが  後漢だったり   魏だったり  西晋だったりで   更に  運良く記録に残った、
とか?


後漢   
後漢書東夷伝の記述から
この時代には小国乱立の日本列島の人々が中国の王朝と直接交渉していることが知られ、
福岡県志賀島で発見された「漢委奴国王」金印がこれを裏付けている。



魏志倭人伝
邪馬台国。
239年に魏の皇帝より「親魏倭王」の金印を受く?


西晋
卑弥呼の後継者とされる台与(あるいは壱与)が、西晋王朝成立の翌年である泰始2年(266年)に朝貢を行っており、
これは王朝交代に伴う朝貢と考えられる。
前王朝から授けられた「親魏倭王」の金印はこの朝貢時に回収された可能性が高い。
(なお、壱与にも「親晋倭王」等の新しい称号と印綬が晋より授与されたと推測されるが、そのことを示す史料は現存していない)。




https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E8%BF%B9%E8%BF%B9%E6%97%A5%E7%99%BE%E8%A5%B2%E5%A7%AB%E5%91%BD

倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと[1]/やまとととびももそひめのみこと[2]、生没年不詳)

記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。

第7代孝霊天皇皇女で、大物主神(三輪山の神)との神婚譚や箸墓古墳(奈良県桜井市)伝承で知られる、巫女的な女性である。


                       この人が卑弥呼なんでしょうかねぇ?
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月05日 17時47分37秒 ) パスワード

全く関係無い話ですが  今回の大雨で三峡ダムが決壊するんじゃないか   と言われてて
いろいろ噂を聞きます。
ネット上では  三峡ダムの様子が中国政府によって永久閉鎖になっていて  見られないようになっている  とか。

もし決壊したら6億人が被害を受けるとか。

重慶とか上海とか南京とかが大変な事態になるとかで  放水に次ぐ放水で  既に水没になってる村々があるとか。



わたしは方向音痴だから「黄河」も「長江」もどっちがどっちで、北だっけ?レベルなんですが
   黄河が北で渤海へ
   揚子江じゃなかった長江が南の揚子江に
注いでいるんだったかな?


で、方向音痴なので
軍事ヲタクで古代史マニアの友人が教えてくれたことをコピペします:



Q.
三峡関連について  ホント?  こんなハナシを聞いたので:
以下コピペ


日中戦争の時の黄河決壊事件知ってる?

日本軍を食い止めるため黄河を決壊させて中国人を100万人コロした。
しかも、日本軍が軍の食料提供して被災者の救援活動にあたった。


wiki>
黄河決壊事件(こうがけっかいじけん)

日中戦争初期の1938年6月に、中国国民党軍が日本軍の進撃を食い止める目的で起こした黄河の氾濫である。
事件当時は黄河決潰事件と表記された。
中国語では花园口决堤事件(花園口決堤事件)と呼ばれる。

犠牲者は数十万人に達し、農作物に与えた被害も住民を苦しめた。
軍事目的の環境破壊として史上最大とされる。



A.

黄河決壊事件は有名な話です。

でも,中国軍弱っち過ぎたので,日本軍の進軍速度が素早くって,日本軍の戦死者は無し。
日本軍通り過ぎていた。
それで日本軍,水滴もかぶらなかった。(笑)


ただ,中国共産党は,南京虐殺と同じで,日本軍が堤防破壊したと言っています。


黄河は超天井川。
しかもこの川は不思議で,上流域より,中流域のほうが北にある川です。
確か,25mほど高いのでなかったかな?


この川ですけど,清代に大洪水。
それで,河口800km移動しました。
800kmというと,東京岡山の距離。

一回の洪水で,隅田川が岡山で海に注ぐようになったような形です。


黄河を暴れ竜と言いますけど,
まあ,洪水を起こしてきたわけですけど,
洪水を起こすたびに,下流域が龍のしっぽのように動き回ったからです。


中国の戦国時代,春秋戦国時代には,各国で「どんなに負けが込んで,国が滅びても,人為的な黄河の決壊は行わない」という条文があったくらいです。


人為的に黄河決壊させたの,蒋介石のバカだけでないかな?
中国では,国民の命より,自分チのペットの命のほうが重いわけです。



黄河は大変変わった川です。
上流域より,中流域のほうが北にあるので,黄河全面凍結しますが,下流域が先に氷が解けますけど,次に氷が解けるのが上流域なわけです。

最後まで結氷してるのが中流域。


だから,上流域から流れてきた水が,中流域で停留します。
で,どうなるか?答えは簡単。洪水です。
だから,黄河は毎年洪水を起こすのです。


自然では,天井川絶対できません。
天井川出来る前に,流路変わるからです。
例えば,ハドソン川の流路変わったら,ニューヨークが水浸し。
そうなると,アメリカ経済困りますよね。
だから,流路が変わらないように治水します。

そうなると,土砂が流れてきます。
それで,益々治水する。
益々,川に土砂が流れてくる。
だから,堤防高くする。
この繰り返し。



ハドソン川が,アリゾナ砂漠のど真ん中を流れていたら,誰も治水工事しません,流路が変わっても誰も困らないから。
だから天井川になりません。


黄河は,ご存じのように,中国歴代王朝の都がありました。
だから,都に洪水が起きたら困るので,堤防を高くし,黄河の流路が変わらないようにしてきました。


極端に言ったら,黄河には,中国4000年分の土砂がたまっているのです。
だから,超天井川で,最も洪水の起きやすい川なんです。
しかも,超天井川ですから,水がどこまでも流れる。
だから,春秋戦国時代の「国が滅びても,黄河の堤防は決壊させない」という条約になるのです。


黄河が氾濫したら,水爆並みの破壊力ありますから。
実際,黄河と長江のちょうど中間点に,ワイ水と言う中国第3位の川がありますけど,ここまで何キロあるか知りませんが,1000km以上はあると思いますが,黄河の水,ワイ水まで流れました。


中国ですけど,春先には,中流域に人民解放軍の陸軍と空軍を派遣します。
毎日,砲撃と爆撃で,氷を割るわけです。
洪水防止のためです。
それだけの暴れ川が黄河です。
こんなことやる川,黄河だけでしょうね。


因みに中国では,長江は「江」,黄河は「河」と書きます。
中国では,江も河も,これ固有名詞です。
中国では,その他の川を「水」と書くようです。
ですので,長江と黄河は別格です。

_________________________________


ということで  昨年の夏から  アメリカにいる日本人の話題は  三峡ダムの決壊の可能性   で持ち切っています。

いろいろ噂があるから。


その前に香港をしっかり弾圧して  一罰百戒政策で  三峡ダムが決壊して氾濫を起こしても  大陸の人民に反乱を起こさせないように
という魂胆があるのでは?と。


本当に決壊したら  コロナ騒ぎどころじゃないんでしょうね。


その上に黒電話のお世継ぎ問題もあるし。


わたしは生まれて初めて夏らしい夏を経験しなかったです。
いつの間にやら7月になってて  今日が  FORTH OF JULY  の祝日なのに
ロビーに郵便物を取りに行って  え?今日配達無いの?  と気が付き

毎年7月3日から花火の打ち上げ練習でうるさいのに  4日の独立記念日は夜中過ぎてもどこかのバカが花火や爆竹で騒ぐのに   今年は静かなもんです。

このままズルズル2020年が終了するような気がしています。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月06日 01時57分48秒 ) パスワード

続き
軍事ヲタで古代史好きの友人からのレス  今度は  長江  について。
三つ柏さんへの回答にもなってるかも。

                       わたしには珍文漢文。


長江なんですけど,
この川の水,河口から50km位海を流れ出て,海水と混ざり合います。


この長江の水が,海水を流れるところを,白江と言います。



黒潮流れていますけど,
川の水ですから,白く見えるわけです。

白川のお陰で,遣唐使船は中国に行けました。
当時の船ですけど,天文航法もできました。
月日が分かれば,人差し指の第1関節まで約5度です。
人差し指と中指,大きく開くと約5度。
方向は太陽の出入りで分かります。


ですから,羅針盤や六分儀と言う航海器具なくても,
アバウトで
方向等が分かります。

                       コレ、だね!




それで,遣唐使船,日本を出港したら,白江を目指すわけです。
約50km沖にまでありますので,見つけて,それを逆に手繰って行ったら,いやでも長江の河口につきます。

                       わたしが言いたかった事
                       かな?笑



まあ,長江の河口には舟山列島と言う列島があるので,
この島も目標にするわけです。

ただ舟山列島,長江の河口から13km位ですから,最初,白江を探すわけです。
この舟山列島ですけど,ここから鹿児島まで,潮の状態良ければ,8時間くらいで着けるそうです。

                        へぇ〜
                        そぉなの?


だから,太平洋戦争中,南方から物資運んできた,輸送船団ですけど,舟山列島見えると,護衛艦も商船の乗員も「何とか,日本に帰れそうだ。」と,ホッとしたそうです。


                        さすが某有名海軍佐官の親戚!


遣唐使船ですけど,
日本から唐には,
割合行きやすかったのですけど,
日本列島に,白江のような目印ないので,大変だったみたいです。

                        それで迷子になって難破したり沈したのか


ただ長江ですけど,
黄河のような天井川でないので,
洪水になっても,被害は広大にならないと思われます。



ただ,長江の支流の黄浦江と言う川が,上海の市内流れてますので,上海が水浸しになるくらいでないかな?(笑)



ただですね,
中国経済のこと考えると,
三峡ダムは必要なんですよ。


漢詩で白髪三千丈と言うのがありますが,
これは三峡を遡行するときです。


この漢詩は対になってて,
反対に上流から下流に行くのが,「朝に白帝城を辞す。一日にして帰る」なんです。


つまり,長江を船で上流に行く場合(航海用語で遡行(そこう)と言います)は,
白髪が三千丈になるまでの長時間がかかる
と言う意味なんですけど,

上流から下流に行く場合,1日で戻ってこれると言う意味で,
これ三峡が急流地帯だと言う意味です。



もう一つは,
長江は春のヒマラヤからの雪解け水のある時は,水深が深くて船通れますが,
夏以降の渇水期は,川底が出ます。

だから,船通れないわけです。
海でないので,言い方おかしいですけど,
海だったら干満の差が激しいわけです。


重慶と言うところあります。
日本軍に追われた蒋介石が逃げ込んだところで,
ここからを蜀にする中国人は多いですけど,
重慶は工業地帯です。

                       これは知ってる
                       三河の親戚がココで軍医をやってた記憶



三峡ダム作って,
長江の水深一定にしたら,
重慶まで,15,000Tの船が入れます。

だから,大量の物資を船で運べるわけです。


中国の発展考えたら,三峡ダムは必要なわけです。


だから,中国共産党,反対派を戦車で踏みつぶして作ったわけです。



三峡ですけど,白帝城の有名な史跡が一杯あります。

                        これは知ってる
                        わたしは劉備玄徳さまが大好きだからね



だから,
ユネスコも中国に三峡ダム建設はまかりならん
と言う勧告しましたけど,
中国は無視しました。


例の内政不干渉を盾にとって,建設を強行しました。
だから,中国にしたら,三峡ダムが崩壊しても,
黙っている以外方法がないのです。

共産党のメンツ丸つぶれですから。

                      ヲイヲイ
                      とっくに崩壊始まってるのか???
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月06日 08時55分59秒 ) パスワード

>もしかすると三峡ダムの崩壊はとっくに始まっているのかもですね。

もしかしなくても,
去年だったか三峡ダム下流の大洪水。
緊急放流でなくって,
ダムには,放流用の扉ありますけど,
ここが一枚外れたと言う説もあります。

長江の下流部,平たんで,長江は天井川でないですから,
黄河と違って,被害範囲小さいわけです。
水が余り流れない。
緊急放流の伝達ミスにしたら,被害範囲大きい。

だから,三峡ダムの一部が壊れたと言う専門家もいます。


それで,一番壊れやすいのが,放流用の扉です。
開けることを前提に設計されているので。
それで,扉が外れて,ダム湖の水が流れ出た。
でも,中国共産党認めると,国内外から「それみたことか」と言われるので
認めないと言う説もありますけど,
この説が出た時,
中国外務省(正式には中国外交部のあのキンキン声の)女報道官
「中国に対する悪意だ」
とキンキン声で反論したので,
益々怪しいと言う人もいます。(笑)


ただ,これも不思議な現象ですけど,
去年の暮,
日本に対して,この女報道官,珍しく感謝の会見をしました。

新型コロナで中国でマスクが品薄になった時,日本がマスクを贈ったからです。


日本はまだ大したことない時期でしたから。


女報道官,何か悪いものでも食ったか,新型コロナウィルスでラりっていたか?(笑)
中国の外務省,今まで文句しか言ったことないのに。



世界最大の設計ミスしたダムがエジプトのアスワンハイダム。

このダム,1902年に完成したアスワンダムと区別するのに,
このダムの上流部にあるので,
アスワンハイダムと言われています。


アブシンベル神殿が沈むことが,建設中に分かり,世界中が大騒ぎ。
設計はソ連ですけど,設計段階で分からんかったのかバカと言われた。
それで真っ青になったユネスコが,アブシンベル神殿を,200m上に移した。


ところが,1970年に完成しましたけど,いつまでたっても,満水にならない。
それで,ロシアになってから,再計算したら,
水の蒸発量をソ連国内で計算していたから,
貯水量より蒸発量のほうが大きいと言うことが分かった。(笑)

再計算したら,後200年待たないと満水にならない。


エジプトも親日国ですから,国民,なんで日本に設計依頼をしなかっのだ,ドアホ!と政府に集中砲火。


でも良いこともあるのです。

ダム湖から,大量のダム湖の水が蒸発するので,よく雨が降る。
だから,アスワンハイダムの周辺は,大変緑豊か。

それだけでありませんよ。

もともと,砂漠ですから,保水性が土にない。
だから,大規模な土砂崩れも砂漠とは思えないほど起きる。(笑)


一時,エジプト政府,アスワンハイダムをぶっ壊して再建設考えたほどの素晴らしいダム。(笑)

でも,ダム湖から水をどうやって抜くかで,計画とん挫。(笑)


今でも,3分の1しか水たまってないらしいです。



蒋介石はドアホですけど,長男の蒋経国は優秀でして,この人物,2代中華民国総統になったら民主化を推進しました。
そのお陰で台湾は豊かになりました。

経国はアメリカに留学経験もあったのですけど,
蒋介石の独裁を自分が総統になったら辞めました。


      金正男も,独裁をやめて民主化,少なくとも中国のような集団指導体制にしようとしてデブの逆鱗に触れて,追放されたわけですけど。


経国の場合,蒋介石には面従腹背。
だから,蒋介石自身が一番驚いているのでは?

民主化したお陰で,台湾に外国資本が入ってきました。
経済力,技術力では,今のところ台湾が,中国の上。

だから,中国もうかつに手を出せない。
返り討ちになりかねませんので。


因みに,今,台湾区軍の主力戦闘機の名前,経国と言います。
蒋介石の長男経国から来ています。


因みに,中国は日本にも手を出せません。
今の海上自衛隊の実力,アメリカ海軍より上ですから,
肥満児だけの中国海軍,うっかり海上自衛隊と喧嘩したら,ボロズタされて,庶民怒りだして,中国共産党王朝まず崩壊。

だから,領海侵犯の嫌がらせしかできません。


世界では,陸上自衛隊,航空自衛隊,日本海軍と言って,海上自衛隊だけを特別視しているようです。


日本の海上自衛隊はそれだけ強い。

なんせソ連が日本への侵略計画を1970年にシュミレートしたら,
海上自衛隊を全滅できるけど,
その場合,海上自衛隊が大奮戦して,
ソ連艦艇の6割が沈むか行動不能になる。
そして残り4割の艦艇で救援に出てくる世界最大のアメリカ海軍と喧嘩して,
ソ連は勝てるか?

で,ソ連は日本への侵略計画を取りやめたそうです。
[43]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年07月08日 11時53分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 書いたものが消えてしまいました。"Microsoft Edge"が新しくなったせいで
あります。
 これから用事があり、中断いたします――
[44]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年07月09日 10時25分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今回は、注意してしっかりとかいたのですが、最後のメールアドレスのところ
で操作していたら全部が消えてしまい、ガックリ。立ち直るのに時間がかかりま
す――
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月09日 10時46分01秒 ) パスワード

三つ柏さんは土嚢作りで忙しいのかな?



ヲタク友人とのやりとり:以下コピペ


ヲタク:
7万年前,地球上で全人類が2,000名に減少した時期がありました。
原因は不明ですけど,最近はパンデミック説が有力になっています。


この結果,1万年前に農業と言う産業が生まれ,
定住が始まった
と言われていますが,


皆さん,「世界四大文明」と思われていますけど,
これ,今では否定されていて,
今は「世界七大文明」と言われています。


最新の説は,
日本の縄文文明,中国の長江文明,その後の黄河文明,インドのインダス文明,メソポタミア河流域のメソポタミア文明,エジプトのエジプト文明,南米大陸のオルメカ文明です。


この中で異質なのが,日本の縄文文明で,しかし,木の文明なので遺跡は残らなかったが,
残りの6文明を牽引した
と言う説まであります。


中国文明の発祥の地が黄河流域と言うのは間違いです。


最近,長江流域が中国文明の発祥地と言われています。

長江の中流域に,二頭里遺跡(にとうりいせき)という遺跡がありますけど,
これが中国最古の王朝・夏王朝の都,と言われています。

最も,古代は日本もですけど,何か悪いことがあると都を移しました。
日本の場合は天皇が死ぬ度に都を移しましたが,
中国の場合は水害とか悪いことがあると都を移したようです。


それで二頭里遺跡は夏王朝中期から最後の遺跡と言われていますが,
夏王朝最後の王傑王(けつおう)の都ではないかと言われています。

傑王ですけど,
史記によると「木に肉をかけ,池に酒を満たし,裸の女奴隷どもを庭を走らせ鬼ごっこをして傑王がとらえた女奴隷を犯した。女の体に飽きたら,飽きた女に無理やり池の酒を飲ませて,酔っ払って池に落ち,おぼれ死ぬのを喜んで見ていた」と書いてあります。

これが酒池肉林の語源ですけど,

長いこと商王朝の前の夏王朝の都を,中国は黄河沿岸だろうと思って探しまくっていましたが,全く発見できませんでした。

一つは,
中国を作ったと史記が伝える黄帝(こうてい)の碑や伝説が黄河周辺にあること。
それと
史記も黄河周辺に夏王朝が在ったような書き方をしているからです。


この遺跡,1959年に発見されましたが,
最初は重要な遺跡と思われていませんでしたが,
発掘してみると広大で,国の首都としか考えられない。

しかも,紀元前1800年くらいですから,商(殷)王朝も成立していない。
それで,
商(殷)王朝の前の夏王朝の都と今は考えられていますが,

商(殷)王朝の都跡の安陽からは,商都と言う文字を書いたものが出土しましたが,
二頭里遺跡からは,夏と書いたものが出ていませんので,
未だ確定されていませんが,

中国考古学会では,二頭里遺跡を夏王朝の都の跡とみています。


中国政府も,そう見ているようで,
全国重要文物(日本の国宝のこと)遺跡に指定してあります。



稲は,長江中流域に原種があるので,中国文明も最近,稲作とともに,長江中流域で始まった。

しかし,黄河流域のほうが,地味が肥えていたので,
商(殷)王朝が,長江流域を捨てて,黄河流域に都を移した。
それで,商(殷)王朝以降の王朝は,黄河流域を都にしたと言われています。


世界の砂漠は,結構,栄養豊富です。
サハラ砂漠なんか,大量の植物の化石が出ますし,クロマニヨン人の時代,サハラ砂漠は,砂漠でなく森林でした。

そのような絵画が残っています。

中国のオルドスと言う,黄土の砂漠もそうです。


今でも,植物植えたら,ちゃんと育ちます。
多分,ラスベガスですら,アリゾナ砂漠だと思いますけど,アリゾナ砂漠も植物植えたら育ちます。

なぜそうなったかと言うと,日本にしか植林の風習がなかったからです。


だから,薪で木を切っても,日本のようには植林しない。
だから,土がドンドン流れて,植物が育ちにくくなった。
と言うより,
土が砂になって保水力が無くなってきた。


ですから,砂漠は洪水が起きやすいのです。

それで,益々荒れ果てた。


でも,日本は縄文時代から,木を切ったら,そこに新たに木を植えると言う植林の風習があったので,土の栄養が逃げなかった。


ただ,それだけですけど,

不思議なのは,なんで日本だけ植林と言う技術が生まれたか?と言うのがよく分かっていません。

日本神道の影響説が強いのですけど。


日本神道は,すべてに神が宿るという教義です。
だから,自然を破壊したら,神の怒りに触れるという教義で,
これ中国の民間宗教である道教も同じです。
でも,中国には植林の思想は生まれなかった。

だから,日本だけの技術が植林で,

中国の北京が30年以内に砂漠になると言われていますが,これを守っているのが日本の大学。(笑)
日本の農業系の大学や学部が北京を守るために植林しています。


砂漠を緑化するには,最初っから木を植えたらだめで,まず苔から始める。次は雑草。そして,今度は花。そして木を植える、になって行きます。


だから,1世紀くらいはかかります。

今,日本は海外援助で,サハラ砂漠の緑化をやっています。
ただ,植林のお陰で,花粉症が日本では増えました。
銭になる杉,松,檜を植えますので,花粉がドンドン飛ぶ。(笑)



ワタシ:
英語で陶器はチャイナだけど
実際には  日本が土器を最初に作った  とアメリカで知りました。

日本人ってホントすごい民族です。
縄文人が植林という発想を持ってたことも驚きだし。



ヲタク;
私の考えは,
縄文人が優秀だから土器発明したわけではなく,
日本には米も小麦もなかったので,
栗かドングリを主食にする以外なかったから
だと思っています。


ドングリは,一晩,水にさらしてアク抜きをしないと食えません。
しかも,クリは,クッキーのようには簡単には調理出来ません。


だから,縄文人はドングリを主食にしたのでしょう。


土器は,
一晩,ドングリをアク抜きをしないといけないから,
水をため,
アク抜きをするために
発明されたと思っています。


植林もそうで,
もし日本がスコットランドのように,海抜500m位しかない島国だったら,
山崩れ等がないから,
植林という意識は生まれなかったと思います。


それと,大陸との距離もあったと思います。

ヨーロッパ大陸とイギリスのように,
中国大陸と日本との海峡が幅17kmしかなかったら,
日本独自の文明は生まれなかったと思います。


縄文文化を否定する気はありませんけど,文明は必要だから生まれる
と私は思っています。


日本が,イギリスのような島国だったら,土器も植林も生まれたか疑問だと思います。


製紙技術は,中国で発明されました。
ただ,蔡倫が発明したのではなく,蔡倫は紙の大量生産方法を発明しただけです。


紙の発明は,相当古くて分かっていませんが,縄文時代に既に中国にあった,
商(殷)王朝にはあったみたいです。

でも,大量生産できないので,滅茶苦茶高価でした。


だから,メモを動物の骨に文字を刻んだのですけど,
紙より,動物の骨のほうが長持ちしたので,
商(殷)王朝時代の紙媒体の記録は残っていません。

その代り,動物の骨のメモは大量に残っています。


次の周王朝の時代もそうです。
紙の記録が無いんです。


司馬遷の史記は,漢代ですので,原典はありますがね。

だから,
動物の骨に文字を刻んだ物を金石文と言いますが,
これと,史記の記述を付き合わせた結果,
史記には,ほぼ誤謬がないので,
史記の記述は正確とされています。


紙はあったけど,大量生産できなかったので,動物の骨に書いた記録が残っただけです。

もし,紙の大量生産が出来ていたら,商(殷)王朝と周王朝のこと,全くわからなかったかもしれません。


そして史記が信用できるかも分からなかったでしょう。


つまり,紙が大量生産できなかったので,史記の記述が正確だと言うこともわかったわけですし,
紙が大量生産できないので,下書きを動物の骨に掘ったわけです。


だから,商(殷)王朝や周王朝の時代が分かるわけです。



タラス川の戦いで,徴兵された唐軍の兵士の中に,紙漉き工がいました。
だから,中国からヨーロッパに製紙技術が伝播したわけですけど,
アラブは砂漠地帯です。
それで,紙の原材料の植物が無いので,アラブ人は困りました。
それで,アラブ人は着れなくなった古着をほどいて紙を作る技術を発明しました。
これがヨーロッパに伝わった。
でも,古着ですから,量産できません。
だから,ヨーロッパでは,羊の皮に文字を書きました。


ヨーロッパでは,紙は大事でして,
天正使節団や支倉使節団が,鼻をかんで捨てた和紙を乾かして使ったそうです。

その紙が,ヨーロッパの博物館にあるそうです。
鼻をかんだ跡がついてるらしいです。


そこで,18世紀に,ドイツは森林地帯ですから,森林を使って紙を作る技術が生まれた。
これがパルプです。
現代の製紙業の元です。

これも,ドイツが砂漠地帯なら,産まれなかったでしょうね。



つまり,文明は民族が優秀とかでなく,求められて生まれるものだと私は思います。
[46]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年07月10日 11時58分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 毎日毎日雨が降りっぱなしで、まるで(雨の)檻に入れられたライオンのよ
うに鬱々として、モチベーションなど微塵も沸いてこない精神状態でありま
した。
 それでも、昨日は雨もしばらくは止む気配がありましたので、その雨間を
ぬって、「遠州の小京都」と呼ばれる「森町」へ行ってきました。車で二三
十分の距離であります。

 何で森町が「遠州の小京都」と呼ばれるのか――それは「遠州の奥座敷」
とも呼ばれるような静かな自然豊かな町で、しかも歴史と文化の香りが漂う
町であるからだと思います。そして立派な神社仏閣が多く存在しています。
中核は「遠江一宮 小國神社」であり、更に「天宮神社」、「山名神社」と
続きます。いずれも国の無形文化財にしていされている「舞楽」で有名であ
ります。
 そしてお寺は、「ききょう寺(香勝寺)」、「はぎ寺(蓮華寺)」、「あじさ
い寺(極楽寺)」と華やかさと雅(みやび)を醸し出しております。

 さて、今回、森町図書館に立ち寄り、郷土史コーナーを見てびっくりした
ことがあります。それは、詩人、戯曲家、小説家である「中村真一郎」氏が
森町出身であったことであります。これは想像もしていなかっただけに大き
な発見でありました。しかもそれだけではありません。氏の祖先についても
びっくりでありました。
 この続きは、次回に――
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月10日 23時57分30秒 ) パスワード

三つ柏さん

遠州森と言えば   全国区的には  盛の石松  ですね。
歴史好きには  天方城と天方通興。


>氏の祖先についてもびっくりでありました。

どなたでしょう?


秀康関係?
小堀遠州?
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月11日 01時20分20秒 ) パスワード

軍事ヲタクで古代史マニアの友人より
以下コピペ:



法隆寺の釘ですけど,近代になればなるほど錆び易いそうです。
これ,宮大工が書いているので間違いない。(笑)



縄文時代ですけど,1万5000年前に始まったとされています。
最古の縄文土器が,1万5000年前に作られたので。
ただ,この時代,氷河期の末期ですけど,まだ大氷河期です。
だから,なんで大氷河期に縄文文明生まれたかが,最大の疑問です。


最初の貝塚は,横須賀の夏島貝塚ですけど,
これが約9000年前と言われています。


だから,この時代に,横須賀に人が住んでいたことになります。
しかも,クジラ,イルカ,シャチ等の骨やマグロ,カツオ等の骨もあるので,
伊豆大島沖くらいで漁業やっていたと言われています。


120km位,伊豆大島までありますから,丸木舟で往復していたことになります。


夏島ですが,これ,島だったので,
伊藤博文が,ここに籠って明治憲法を作った島です。

それを,大正時代,海軍が航空基地を作った時に埋め立てたのです,横須賀海軍航空隊と正式には言いますけど,
海軍では,このあたりを追浜地区と言っていたので,追浜航空隊と言われていましたが,
ここは実験航空隊で,新しい航空機の実験基地でした。


有名なゼロ戦の最初の事故も,横須賀航空隊沖で起きた空中分解でした。
だから,1945年にアメリカ海軍に占領されました。

今は,この航空隊跡は,滑走路を利用して日産の工場とテストコースがありますけど,
夏島貝塚を発見したのがアメリカ海軍でして,
1949年に発見しました。


それで,最初に調査に入ったのが,アメリカのミシガン大学という変わった貝塚でして,
この時,1万6000年前の遺跡であるとミシガン大学は判定しましたけど,
今は約9000年前
になっています。


ただ,当時,縄文時代の開始は,約5000年前でしたので,
日本の考古学会が大騒ぎになりました。


世界四大文明(今は七大文明ですけど)は,大体,9000年から1万年前に始まりました。
この時代に,農業が生まれたからです。
縄文時代には,農業が行われていた証拠があり,
今,縄文時代と弥生時代の違いは,土器の文様だけ,と言うのが今の定説で,
最近,縄文・弥生文明と言います。


因みに,日本最古の稲作ですけど,
青森県の垂柳遺跡ですが,
次に出てきたのが,福岡空港にある板付遺跡です。


日本の稲作は,青森に始まり,南下して福岡で始まったことになります。
これからは,あくまでは私見ですが
三内丸山遺跡に,周王朝の青銅器の破片出ていますので,三内丸山と周王朝とに,交流があったと言われています。


日本が中国の史料に出てくるのが,周王朝の歴史書の周書の「薬草をもって,倭人が朝貢に来た」ですけど,
当時,丸木舟しかないですし,
司馬遷の史記に書いていないので,
この記述は,嘘だろう,と長いこと思われていましたが,
三内丸山から,周王朝の青銅器の破片出たと言うことで,
最近,周と三内丸山の住民とは交流があったと言われていますが,
周では,この時代に稲作が始まっていますので,
三内丸山経由で,稲作の技術が伝来したと思います。


ただ,青森県は寒いので,
稲作が放棄されたのだと思います。


実際,垂柳遺跡ですけど,
10年で放棄された跡があるそうです。


縄文人は丸木舟で世界的に行き来していますので,
福岡の縄文人に稲作技術が伝わったのだと考えています。

________________________________

ヲイヲイって感じ。
でもワタシの習った日本史は  今では  古い・古過ぎる   というのは知っています。


自分なりに計算すると、ま、1万5000年の間に、ワタシの先祖の母上は5人ぐらい中国にいたらしい。
だから  友人の説がストン!と腑に落ちる。


今から1万4900年ほど前   わたしのご先祖さまの母上は丸木舟で日本に来た?

          わたし的には自分の運転とか操縦とかで乗り物に乗って楽しんだという意識は皆無なので
          やっぱりワタシの先祖は誰かに丸木舟に乗せられて日本に来たのかな?と確信になった。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月12日 10時46分46秒 ) パスワード

ハワイの感染者数の累計が1200人です。
すごい・・・
人口が142万人弱なのに。



ということでアタマの中を空っぽにしたくて
友人からのレスを以下にコピペ:


古代の絶対錆びない釘については,定説はないですけど,仮説ならいくつかありますが,
一番面白い仮説は,釘を作る段階で,鉄に黒カビを練りこんだとする説です。


何で黒カビを作ったかと言うと,梅干しの液体です。
これが鉄分と反応すると,黒カビになるそうです。
だから,釘の鉄分が溶けている段階で,梅を漬けた時の汁を練りこんだと言う説です。


梅干しなんですけど,中国には,梅干しはないそうです。
梅漬けはありますけど。
梅漬けは,漬けた梅を食べる以外に,漬けた時の汁を中国では有効利用しました。


梅には,命にかかわるものではないですけど,毒があります。
だから漬けないと食中毒を起こすようです。


梅漬けの汁を取るために,中国では梅を漬けた。
梅本体を食う風習は,日本以外には無かったと言う説もあります。

どうも,梅干し自体が日本の発明のようです。


梅漬けは,遣唐使が奈良時代に,日本にもたらしたと言う説が有力ですけど,
最初は寺院以外では漬けられなかったようです。

ただ,鎌倉時代には,幕府の正式な宴会にウメホシと言う名前の料理が出されていますので,
平安時代位に,どこかの寺院で梅干しが発明されたと言う説が有力です。


梅干しは,日本で発明された食品のようです。
確かに正史の三国志にも,梅漬けの話は少ないですし,
三国志演義でも,曹操が酒の肴に梅漬けをしていたくらいです。

演義は,明代の作ですので,三国志時代,中国では梅酢を取るためだけに梅を漬けていた可能性もあります。

実際,古代中国では,梅本体は食べなかったと言う説もあります。




人類は,一緒のお母さんから進化しました。
確か200万年前にいた,ルーシーと言う女性です。
現人類,全員がルーシーのDNAを引いてます。
だから,グレートマザーと言いますが,
ルーシーの両親は不明。

だから,突然変異説もあります。


ただ、ルーシーには,夫と子供がいたようで,世界最古のファミリーですので,ルーシー一家をファーストファミリーともいいます。


だから,私とあをちゃんは家族。(笑)

                        やだぁ〜
                        ぜったい  ヤ  だぁ〜


人類は,猿人以降現代人に至るまで,アフリカのヴィクトリア湖で発生しています。
なんで,ヴィクトリア湖かと言うとよく分かっていません。
ルーシーファミリーも,ヴィクトリア湖周辺にいました。

人類ですけど,最初に出てきたのが,黒人,次は白人,最後に黄色人種です。
古代の文献読むと,藤原不比等も白人のようです。紅毛碧眼と書いてあるので。


それで,トンデモ説ですけど,奈良時代までは,日本人も白人だったと言う説もあります。

黄色人種は,中央アジアの乾燥地帯を通るときに,背が小さくなり,紫外線から内臓守るために黄色人種になったと言う説が有力ですけど,
漢民族は,完全に白人系なんです。
漢民族には,蒙古斑ないそうです。
だから,漢民族までは白人で,
白人系の漢民族が日本に渡り,黄色人種になり,一部がモンゴル高原に行き,その一部がベーリング海峡を船で超えて,インディアンの先祖になったと言う説もあります。


北米大陸に最初に住んだのが,縄文人らしいです。
今のところ,一番北米大陸で古いのが縄文人の骨。その上からインディアンの骨が出る。

最も,南米大陸で一番古いのがオルメカ文明で,
インカ文明もアステカ文明も,オルメカ文明から発展しましたけど,
この文明ですけど,
大量の石人像ありますが,全部ニグロなんです。

だから,アメリカ大陸ですけど,北米は縄文人,南米はニグロ系だったけど,後発のインディアンに滅ぼされたと言う説もあります。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月13日 10時05分27秒 ) パスワード

7月予定の棚の掃除は無事に終わって(でも家宝の南北戦争当時のランプのほや?ガラスの部分を粉々に割ってしまった)
今日は日曜だというのに奥歯のクラウンが外れて気分が良くない(歯医者にすぐに電話したけど明朝診てくれると嬉しいけど)


ということで以下は友人からのコピペ:アタマも手も脚もモノスゴイ加齢中で動かない


梅林は中国では3世紀ころにあったようです。
曹操が行軍中,喉乾いた,と言う連中が多かった。
でも,水がないので「この丘を越えたら,梅林がある」と言ったら,
全員,つばが出てきて乾きが収まったという記述が三国志にあったと思います。


中国では,梅干しは無いようですけど,梅漬けはあったようです。
梅酢を使ったと言われていますが,何に使ったのかわかりません。



日本の戦国時代も,足軽に梅干しを配給したそうです。
胃薬兼のどが乾いたら「見る」のに使ったようです。
だから,梅干しをおかずにしたら,軍律違反になったようです。


足軽は,非常勤の武士でして,1日日給1万5千円くらいで募集されたようです。
ただ,捕虜の住民を売れるとか,相当,給与外所得があったので,引く手あまただったそうです。

だから,戦争が終わると奴隷市が立ったそうで,
若い女が1人4万円くらい,
ところが捕虜が多いと1人4,000円に値崩れしたそうですけど,

武田信玄は,最低価格10両(100万円くらい)で入札したそうです。


高坂弾正の日記に「信玄公は,若い女を売って軍費を稼いだので,甲斐の領民は大喜びだが,占領地は,怨嗟で満ち溢れている。困ったことだ」と書いてあるそうです。


一番奴隷市をやったのが,大友宗麟,次が武田信玄らしいですけど,
大体,戦国大名は,公認していたそうです。
足軽の士気下がるからです。


最近の研究で,戦国時代,キリシタンの奴隷船で輸出された日本人女奴隷は50万人と言う研究があります。
一番遠くは,アルゼンチンに売られた,日本人女奴隷の記録があるそうです。


鎖国は,奴隷貿易を止めるために行ったと言う説も最近出ています。


これは私見ですけど,大友,武田は名家ですけど,お家再興運動が起きなかったり,起きても潰された原因がこの奴隷貿易だったと思います。


奴隷狩りを乱捕(らんどり)と言いましたが,
これが安土桃山時代に乱暴取りになり,
これが乱暴の語源になったそうです。



                       以下は沖縄のアメリカ軍の軍人が7月4日の独立記念日に公園でバーべQパーティをやってクラスターを発生させた話へのレス


新型コロナですけど,フランス海軍でも大騒ぎです。
フランスの原子力空母シャルル・ドゴールでもクラスターが発生。
フランス唯一の空母ですので,フランス海軍は大騒ぎ。
地中海で発生したようですが,乗員の6割が罹患したようです。

アメリカでは原子力空母ルーズベルトでもクラスターが発生。

それで艦長は報告したけど,海軍は全く手を打ってくれない。
それで怒った艦長が自分のスマホで
「アメリカ政府も,アメリカ五軍の最高司令官のトランプも知らんぷり。
乗員に笑って死ねと言うのか?バカやろうー!」
と切れたのを載せたので,

アメリカ国防総省が上を下への大騒ぎ。
艦長は更迭されたようですけど,今一番怖がられているのが艦船内での発生で
これは逃げようがないですから。


特に一番怖いのが潜水艦でして,
アメリカ海軍の原子力潜水艦は1回出港したら70日間海底で缶詰ですから,新型コロナが発生したらするんだ?と海軍は大騒ぎですけど,


                        潜水艦は3密どころじゃないもんね
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月13日 10時27分19秒 ) パスワード

中国気象局の予報では、長江中下流域では18日まで強い雨が続く見通し。
長江にある世界最大級の「三峡ダム」は6月末から放水を始めたが、放水が増水に間に合っておらず、警戒水位を上回っている。

中国南部の長江流域を中心に続いている豪雨は、中国応急管理省の10日までの調べで、
被災者が江西、安徽、湖北省など27省市・自治区で延べ約3400万人に上り、死者・行方不明者が140人を超えた。
長江中下流域周辺の一部地区では10日、警戒レベルが最も高い洪水警報を出した。

国営新華社通信などによると、江西省上饒市では8日、堤防が約50メートルにわたって決壊し、農地が浸水するなどの被害が出た。
土砂崩れも湖北省などの各地で起きている。
応急管理省によると、これまでに延べ約200万人が緊急避難した。


あと1週間   持ちこたえてくれないとね。
洪水後のチフスとかコレラとかペストとか   こんなのが起きたら  日本も無傷ではいられないでしょう。


このハナシへのレス:


三峡ですけど,ここ川底の影響もあって,春の増水期には,階段波と言われる波が立ちます。
水が多いのと急流ですので,川の水が階段のように流れるそうです。

これが昔から大きな障害で,
日中戦争で日本軍が重慶を占領できなかったのは,
三峡を日本海軍の砲艦でも通れなかったから。


階段状の波ですから乗り切るのが大変。
乗員が,後部から全部に移動して,艦首を下げるようなこともやったようですけど,途中で波に吹っ飛ばされて終わり。


日中戦争には海軍が大反対で,
米内光政が中将で支那方面司令長官の時,重慶に艦隊を派遣して,蒋介石を応援しようとしたことがありました。

この時,砲艦二艘が,この波に吹っ飛ばされて座礁。
それで諦めましたが,
これも,興味のあるIFです。


少なくとも,海軍は陸軍と違って,中国への侵略の意思は無いとアメリカが知っていたら,どうなっていたか?

それだけ,日本陸海軍は,仲が悪かったんです。


米内光政はその後,海軍大臣,総理大臣になって,三国同盟阻止に命かけますけど,
結局,三国同盟は締結され,
太平洋戦争,
そして敗戦への道を日本は歩みました。


けど,この時,米内光政と蒋介石が会談していたら,どうなったかは興味があります。


米内は海軍一の中国通でした。

当時の中国は,一番,国際問題の起きやすいところでしたから,
日本海軍は優秀な士官をアメリカ,イギリス,中国の順で派遣していました。

だから,中国には最上級ではないですけど,結構優秀な士官が派遣されていました。


米内光政は盛岡市の出身ですけど,
明治の山本権兵衛,大正の加藤友三郎,昭和の米内光政を,海軍大臣三傑と言います。

米内は,腹に何もない人ですけど,肝は据わっていて,全く動じない人物で,同期生が驚いたと言う逸話が大変多くあります。

昭和天皇が一番信用した海軍軍人で,戦争に負けて海軍が解体するとき,米内を昭和天皇が呼んで「米内,君には大変苦労を掛けた。今までありがとう」と直々に礼を言った唯一の人物らしいです。

米内は,退出後,声を忍んで号泣していたそうです。


太平洋戦争にも米内流の準備があり,山本五十六と仲が良かったので,連合艦隊司令長官に山本五十六を出し,アメリカ通の山本の人脈でいい加減のところで,海軍大臣に戻し,アメリカとの和睦を考えていたようです。


山本五十六は大尉から大佐の昇進辞令を,全部,ワシントンの日本大使館でもらったと言う海軍きっての知米派でしたので,
アメリカ海軍やアメリカ政府にもそれ並の人脈があったようです。

ただ,山本五十六の戦死は,完全に米内の想定外だったようです。


だから今でもアメリカは,山本を襲ったのは大きなミスで,山本を生かしといたほうが,アメリカ軍の損害も少なく,対日戦勝利になったのにと言う声が,アメリカの歴史学会にもあるそうです。


                       確かに最近の真珠湾攻撃についてのアメリカ側の表現は穏やかになっているのを感じる
[52]酔石亭主さんからのコメント(2020年07月13日 16時16分03秒 ) パスワード

空の青海のあをさん 三つ柏服部さん   

>洪水後のチフスとかコレラとかペストとか こんなのが起きたら 日本も無傷ではいられないでしょう。

洪水とは関係ありませんが、ペストはもう内モンゴル自治区で発生していますよ。パンデミックの可能性もある新型インフルエンザウイルスも見つかっており、ブタを宿主とし、ヒトにも感染するそうです。アフリカ豚コレラもまだ収束していないようだし、お隣のカザフスタンでは原因不明のウイルス性肺炎で1700人も亡くなっているとか。これで三峡ダムが決壊したらどうなるんでしょうね?

機会があれば近江に行こうと思い地図を見ていたら、もうご存じかもしれませんが、野洲市中主町虫生154に虫生神社が鎮座していました。神社庁によればかつてこの地域に服部郷があり、錦織部の人々がここに居住して、虫生社を勧請したと伝えられる。とのこと。面白いのは同社の西に錦織寺があり、そこは木部集落で木部神社が鎮座している点です。浜松の伎倍→木部→(秦)喜平に通じるような構造が近江にもあるのが印象的でした。日本書紀では仁徳天皇の時代に錦織の人名が見られるものの、多分斉明天皇から天智天皇の時代、百済から逃げてきた錦織の人々が服部郷に移住したのでしょう。一方で錦織部が来たから服部郷になった可能性も脳裏に浮かび、実際どうだったのか知りたいところではあります。また錦織姓は出雲が圧倒的に多いのも、諸説はありますが、よく理解できないところです。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月14日 00時03分35秒 ) パスワード

酔石亭主さん

2020年の世界は新型コロナウイルス騒動どころか、もっとひどい事態になりそうな雲行きですね。
三峡ダムの決壊が起きたら難民が沖縄や九州に殺到するでしょうから日本は大混乱どころか歴史始まって以来の惨状に?
ひたすら平穏無事な世の中になることを祈るばかりです。



虫生むしゅう神社は100%知りませんでしたが  父方祖母の先祖に関係するのかな?とハタと思いました。
祖母の旧姓は変った名字なので、百済系か倭漢系かと思っていましたが、お蔭でかなり迫りました。


そして「虫」から  秦川勝の  常世神退治伝説  を思い出しました;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E4%B8%96%E7%A5%9E

『日本書紀』によると、皇極天皇3年(644年)、東国の富士川の近辺の人・大生部多が村人に虫を祀ることを勧め、「これは常世神である。この神を祀れば、富と長寿が授かる。」と言って回った。巫覡(かんなぎ)等も神託と偽り、「常世神を祀れば、貧者は富を得、老人は若返る」と触れ回った。さらに人々に財産を棄てさせ酒や食物を道端に並べ、「新しい富が入って来たぞ」と唱えさせた。

やがて信仰は都にまで広がり、人々は「常世虫」を採ってきて清座に祀り、歌い舞い、財産を棄捨して福を求めた。しかし、全く益することはなく、その損害は甚大だった。ここにおいて、山城国の豪族・秦河勝は、民が惑わされるのを憎み、大生部多を討伐した。巫覡等は恐れ、常世神を祀ることはしなくなった。時の人は河勝を讃え、

                       太秦は 神とも神と 聞こえくる 常世の神を 打ち懲(きた)ますも 

                        (秦河勝は、神の中の神と言われている 常世の神を、打ち懲らしめたことだ)             


なかなか面白い伝説なのでURLに行ってお読みください。



ということで三つ柏さんの便利の良いように:
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=486

虫生神社 (ムシュウ)

御祭神   月讀命
御神紋   桑二葉


御由緒
その起源は詳らかではないが、かつてこの地域の服部郷があり、
このうちの錦織部の人々がここに居住して、虫生社を勧請したと伝えられる。

嘉元四年(一三〇六)に記された「昭慶門院御領目録」(吉野神宮蔵)に「「勧喜光院、近江国石山寺、虫生社、三条局」とあり、
のち、地元の豪族虫生丹後守の被護下にあり、
永正年中には「正一位虫生大明神」と奉称されてきた。

徳川の治政下では、天領として、小堀遠江守、芦裏観音寺の代官支配を受けたが、
明治に入って村社に加列、この時境内、諸設備の充実が計られ、神饌幣帛料供進指定となる。


本殿・境内建物
〔本殿〕二間社流造 間口二間三尺 奥行二間三尺
〔拝殿〕入母屋造 間口三間 奥行三間


境内社(摂社・末社)
八幡宮 天満宮 巖島神社

祭礼日
祭礼日は神事(祭儀)のみ行ない、御神輿・山車・露店などは別の日に出る場合があります。お出かけの際は念のため神社にお尋ねください。
4月 18日



郵便番号 〒 5202432
鎮座地 滋賀県野洲市虫生154



https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E8%99%AB%E7%94%9F
【名字】虫生
【読み】むしゅう,むしう
【全国順位】 35,046位
【全国人数】 およそ80人

【名字の由来解説】

現滋賀県である近江国野洲郡虫生邑発祥ともいわれる、宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)佐々木氏族。
近年、静岡県磐田市に多数みられる。


虫生さんの多い地域 TOP5


都道府県  人数
静岡県 およそ50人
神奈川県 およそ10人
愛知県 およそ10人


市区町村  人数
静岡県磐田市 およそ50人
神奈川県横浜市港北区 およそ10人
神奈川県横須賀市 およそ10人
愛知県名古屋市天白区 およそ10人
愛知県名古屋市緑区 およそ10人


虫生さんの比率が多い地域 TOP5

都道府県    比率

静岡県 0.00151%
愛知県 0.00017%
神奈川県 0.00016%


市区町村    比率

静岡県磐田市 0.03106%
静岡県浜松市南区 0.00464%
愛知県名古屋市天白区 0.00397%
愛知県名古屋市緑区 0.00253%
神奈川県横浜市港北区 0.00209%
[54]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年07月14日 09時46分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今の中国に対しては、歯止めの利かない暴走列車に例えられるかも知れませ
ん。
 安田喜憲氏の『龍の文明 太陽の文明』は中国及び日本の古代の精神・政治
風土がわかりますので、お勧めです。

 さて、このところ身内にtoo-badな話が続き、落ち込む要素となっておりまし
たが、やっと立ち直る途上にあります。
 ただ、古代史に関しては、迷宮の中で立ち向かうだけの力と時間的余裕がな
いという、いつもの立ちはだかる壁を再認識させられております。もちろん、
古代史は古代史として重要ですので、それはそれとして頭に置き、自分の手の
届く範囲内のテーマで取り組んで行きたいと考えます。

 例えば、三輪氏は総じて「南朝方」であったというような話は、南朝の本質
を解くファクターであります。「南朝とは何ぞや」は、服部党を解くキーでも
あります。酔石亭主様の言われる三輪氏と服部氏の近しい関係も、何となくそ
こからへんあたりからも探ることができそうな気がいたします――
 
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月14日 15時39分39秒 ) パスワード

三つ柏さん

今年はとんでもない1年になりそうですね。

    コロナウイルスは感染者数が日本風英語でいう「オーバーシュート」ですが、死者数はそんなには突出してないから
    ウイルスの変化が弱い方に行ってるのかな?と   ちょっと   期待しています。


    トルコがアヤソフィアをイスラム教寺院にするということでキリスト教系が怒っているそうです。

          ギリシャ vs トルコ vs イラン  vs イスラエル  の火薬庫も引火寸前ですし。



    ハワイ州政府は8月1日からの観光客受け入れ+航空機の乗り入れをどうするかで侃々諤々喧々囂々中。
    同じマンションの一家が日本に帰りましたが 24時間かけて 一旦ロスに飛んでから成田に行くということで  聞いただけでコッチが疲れました

           まだまだ日本人も入れられないし日本からの飛行機も運航を認めないでしょうね
           ハワイの感染者の累計は  1,243人  人口は142万人弱なのに。


子供達も学校がずっとお休みでは学校が始まっても行く気力が出るんでしょうか?
わたしは働いてた時1か月しかない有給休暇でも遊び疲れて仕事に戻るのが憂鬱になってました。

           職場で中印代理戦争やってたし。戦後はみんな仲良くしようよの曖昧な精神の日本人としては旗幟を鮮明にするなんてオソロシかったし。

           中国軍がインド兵に嫌がらせをしているのは
           インドを怒らせて三峡ダムを決壊させようって魂胆じゃないか、なんて噂もあります。
           インド人ってモノスゴク賢いので、まさか旧日本軍の二の舞はしないと思うけど。
           中国とインド   どっちがカシコイer=比較級ね=のか  ワタシは息をこらして見詰めています。
           

たぶん若い人でも自宅待機してる内に働くのがイヤになってしまうんじゃないでしょうかねぇ?  ワタシだ

まさか子連れで親の家に転がり込むって  無い  よね?   イヤイヤ日本だったら アリ かもね。特に娘一家が転がり込んで来る、というのは。


イロイロな情報が溢れている今の時代でも何が起きているのか  実は  分からない。読めない。先も見通せない。


古代は勝てば官軍ですから改竄捏造隠蔽責任転嫁やりたい放題。
我々に与えられた数少ない情報源が   テキトーだったり  ウソッ8°ですからね  


今日トルコのエルドゥアン大統領の演説を聞いてたら   文法が SOV  で  膠着語  前置修飾の形容詞  というのが  チョッと  分かって
(なんで日本語にそっくりなんだぁ〜〜〜!)
と不思議だった。


今のわたくしイロイロ混乱中です。
[57]酔石亭主さんからのコメント(2020年07月15日 15時10分52秒 ) パスワード

空の青海のあをさん 三つ柏服部さん

虫生の詳細情報フォロー有難うございました。

私も『虫』は蚕で養蚕すなわち秦氏の関連かと思いましたが、どうやら違っているようです。本来は蒸湯で、江戸時代の上諏訪四湯の一つに虫湯があって、これは蒸湯のことのようです。従って、蒸湯→虫湯→虫生と転訛したことになります。錦織氏が半島から蒸湯のシステムを持ち込んだのかもしれませんね。

それにしても、近江発祥で大変希少な名前の虫生がなぜ遠江の磐田市に数多いのか、これは謎です。木部とも絡んでいるのかもしれませんが、どう筋道をつけるかわかりません。誰か解いていただければと期待するしかなさそうです。
[58]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年07月16日 07時56分27秒 ) パスワード

酔石亭主様

 「虫生」って地名、どこかで出くわした覚えがある、たしか周智郡森町の方
だったか……と思い、地図を調べてみますと、ほぼ森町とも言っていい程の所
の磐田市側に「虫生」はありました。森町の小国神社の北西3q(直線距離)の
ところであります。磐田市の獅子ヶ鼻公園の北3qの所でもあります。

 ちょっと用事で中断します――
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月16日 08時50分58秒 ) パスワード

酔石亭主さん


木部というのは 知らないので検索してみたら
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E9%83%A8%E6%B0%8F

三つ柏さんのお好きな源範頼に行き着いてしまいました。
ヲイヲイ


出自​

木部氏は源頼朝の弟、源範頼の末裔だとの言い伝えがある。
この説では、範頼の子孫(吉見氏)の一派が、石見国(島根県西部)の木部荘(島根県鹿足郡木部村、現在の津和野町の一部)に移り、
木部姓を号したとされている。


      いろいろ繋がりますね


上野国の木部氏

室町時代には上野国の木部城(緑野郡木部村、現代では高崎市木部町)により、古河公方の足利成氏に臣従していた。
(木部城は烏川と鏑川に挟まれた低地にあった。)

のちに扇谷上杉家の上杉定正にくみするようになったが、対立する山内上杉家の上杉顕定に攻められ、木部城を追われた(長享の乱)。

木部範次の代で木部城を取り戻し、その子木部範虎(駿河守)の時代に箕輪城の長野業正の傘下となった。

                ココでも三つ柏さんのお好きなお話に繋がりますね

                 しかし!
                 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%87%8E%E6%A5%AD%E6%AD%A3
                 長野業正は上野国箕輪城主で箕輪長野氏。上杉氏の家臣。在原業平の後裔と称する。
                 または、物部姓石上氏の系統とする説もある。
                 長野智子のご先祖さまですって。



範虎は武功により長野業正の娘(長野姫)を妻に迎え、長野氏の重臣の一人となった。
武田信玄が上野国北部へ侵入すると、長野氏のもとで武田氏と戦いこれを退けたが、
長野氏当主の業正が没し、長野業盛の代になると武田氏の侵攻を食い止められなくなり、敗れて長野氏は滅亡した。

その後、範虎とその子木部貞朝は武田氏に服属した。

天正10年(1582年)武田勝頼が天目山の戦いに敗れて自害したときに、範虎も殉死した。

その後、子の貞朝は、上野国の覇権をめぐって北条勢と織田勢(滝川一益)の間で争われた神流川の戦いで討ち死にした。



*この長野氏は伊勢の南朝方だった長野氏とは違うのか。ガッカリ

________________________________

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%9C%A8%E9%83%A8

【名字】木部
【読み】きべ,もくべ,きのべ
【全国順位】 2,783位
【全国人数】 およそ4,900人

紀部と同じ。
清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)三上氏流、新田氏流、吉見氏流、小野姓猪俣党などにみられる。



木部さんの多い地域 TOP5

都道府県   人数

静岡県 およそ800人
埼玉県 およそ700人
東京都 およそ680人
福岡県 およそ600人
群馬県 およそ470人


市区町村   人数

静岡県伊東市 およそ620人
埼玉県熊谷市 およそ210人
埼玉県深谷市 およそ210人
群馬県高崎市 およそ150人
群馬県前橋市 およそ140人


木部さんの比率が多い地域 TOP5

都道府県   比率

群馬県 0.02422%
静岡県 0.02204%
大分県 0.01921%
福岡県 0.01193%
埼玉県 0.00966%


市区町村   比率

青森県下北郡佐井村 2.06705%
静岡県伊東市 0.90093%
福岡県築上郡築上町 0.71793%
東京都西多摩郡奥多摩町 0.17335%
福岡県行橋市 0.15327%


__________________________________

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%B4%80%E9%83%A8


【名字】紀部
【読み】きべ
【全国順位】 84,609位
【全国人数】 およそ10人    横浜市戸塚区

【名字の由来解説】
紀臣私有の部曲。近年、神奈川県と千葉県にみられる。


部曲=かきべ=

部曲 部曲 (かきべ、ぶきょく)

古代の中国、朝鮮、日本の私有民や私兵などの身分のことである。
日本では民部とも書く。
中国が起源で、賤民であり、隷属的集団。


部民とも書く。
大和時代 (大化前代) の豪族の私有民。
中国で奴婢を意味する。

彼らは令制の家人,奴婢とは異なり一定の職業をもち,だいたい村落を単位として豪族に仕え,租税を納め,徭役に従いその隷属する主家の名に「部」の字をつけて名字とした自営の民である。

また,各豪族は,別に奴隷を所有していたところからみて,部曲の身分はそれほど低いものではなかったであろう。

大化改新後廃止され,天武朝には公民となった。


日本の律令は唐法の部曲を家人と改めている。
『日本書紀』にみられるように部曲の文字が広く豪族私有民の意味に使用されていたからであろう。

_________________________________

面白かったので出しておきます:

https://www.youtube.com/watch?v=-2jbTdS7624
【衝撃】日本の消された空白の150年。卑弥呼と邪馬台国、謎の四世紀
[60]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年07月16日 09時23分19秒 ) パスワード

酔石亭主様

 同じ「むしゅう」でも、「無州」という苗字が浜松にあります。昔から珍し
い名前、何かかっこいい名前と感じておりましたが、ひょっとして「虫生」か
ら来ているのかも知れません。

 『敷地村誌』によれば、「虫生」は敷地川上流域に位置し、その地名は、か
つて地内から鉱泉が湧出したので、当初「蒸湯 むしゆ」と称したが、のちに
転訛ということであります。

 環境省の「静岡県の代表的な湧水」によりますと、虫生(冷泉湧出)は、明治
の終わり頃までは、湯治場としてにぎわい、「秋葉山」参詣の旅人も訪れたと
いうことであります。また、ここには熊野権現・臨済宗虫生寺があるというこ
とです。

 なぜ「虫生」の名字が磐田に多いのか?……そのヒント探しに、本日でも行
って見て来ようと思います――

  
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月16日 13時34分33秒 ) パスワード

三つ柏さん

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%84%A1%E5%B7%9E

【名字】無州
【読み】むしゅう
【全国順位】 30,715位
【全国人数】 およそ110人

同名字は、静岡県、東京都にみられる。


無州さんの多い地域 TOP5

都道府県   人数

静岡県 およそ100人
東京都 およそ10人


市区町村   人数

静岡県浜松市浜北区 およそ70人
静岡県浜松市中区 およそ10人
静岡県浜松市南区 およそ10人
東京都町田市 およそ10人
静岡県浜松市北区 およそ10人


無州さんの比率が多い地域 TOP5

都道府県  比率

静岡県 0.00265%
東京都 0.00007%


市区町村 比率

静岡県浜松市浜北区 0.07077%
静岡県浜松市南区 0.00928%
静岡県浜松市北区 0.00498%
静岡県浜松市西区 0.00422%
静岡県浜松市中区 0.00401%


___________________________________

https://name-power.net/fn/%E7%84%A1%E5%B7%9E.html

無州さんの由来と分布

ムシュウ 【無州】3 日本姓氏語源辞典

静岡県浜松市浜北区。虫生姓あり。静岡県浜松市浜北区東美薗が本拠。同地では草分けで農業に従事していたと伝える。


1 静岡県 浜松市 東美薗(約60人)
2 静岡県 浜松市 遠州浜(約20人)
3 静岡県 浜松市 西美薗(約10人)
3 静岡県 浜松市 上島(約10人)


驚きですね。
日本って名字がやたらと多いのですが
こうやって派生しまくるんですねぇ。
おどろいた
[62]酔石亭主さんからのコメント(2020年07月16日 14時54分07秒 ) パスワード

空の青海のあをさん    

本当に驚きですね。どうして虫生さんは磐田市で、無州さんは浜松市なのでしょう?いろいろ不思議なことが多い。

三つ柏服部さん

早速の現地調査有難うございます。面白い結果が出るといいですね。ネット上でチェックしたところ、森町の虫生に虫生姓の方はいないとのことで、遠江国の中心となる磐田市見付に集中しているそうです。同地の慈恩寺には10基程度の虫生姓の墓石もあるとか。野洲市の虫生神社の創建は天智天皇5年(668年)なので、虫生の名前自体は近江発祥と見られますが、なぜ磐田市に虫生姓が多いのかやはりわからないですね。ひょっとしたら近江の虫生と森町の虫生(蒸湯起源)は由来が異なるのかもしれません。

近江の虫生は服部郷内であり秦氏や服部氏の関与があるとも考えられます。同地の木部神社は錦織寺の境内に鎮座していますが、岡山県久米郡美咲町錦織1431に鎮座する錦織神社の由緒には、
 『当社は、秦氏の祖霊社として、欽明天皇の御代、錦織古宮跡に建立されたのが創始で、その後、崇道天皇を始め素盞嗚尊を併せ祀っていたが、寛文7年、領主森長継公の臣、喜代須源右衛門が主命に依り、現在の地に奉遷した。』と書かれており、隣接する桑村が養蚕製糸の基地であったとのことです。この例から類推すると虫生は養蚕由来の可能性もありますが、残念ながら明確な根拠は示せません。

[63]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年07月16日 23時27分26秒 ) パスワード

酔石亭主様

 虫生へ行ってきましたが、手がかりは得られませんでした。湯治場がかつて
存在したということは、地元のおばあさんより教えてもらいました。松井とい
う姓が多かったです。
 虫生からは、小国神社の本宮がある本宮山へ通じる道が渓流に沿って続いて
おりまして、本宮山直前までの片道約5kmの山道を歩いてまいりました。
 秋葉信仰の盛んな江戸時代とは違って、今は打って変わって寂れた山村とな
っております――

[64]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年07月17日 07時05分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、獅子ヶ鼻砦跡のずっと北奥にある「虫生」に行ってきました。「蒸
湯」がなぜ「虫生」に変わったのか、当て字にしてもちょっと想像でき難いで
すが、しいて言えば、「虫」(蚕)のように「生」まれ変わるということであり
ましょうか。つまり、鉱泉の効能により、傷も病気も疲れも癒されて生まれ変
わったようになるということ……。
 虫明氏という岡山に多い氏族がいますが、この虫明は「虫(夜光虫)」に由来
するようです。
 「虫」という言葉には、現代人には想像できない何か「不可思議さ、畏敬、
ミラクルさ」が含まれていたように感じられます……。

 ところで、虫生行きの後、森町へ行き、戦国街道と銘打たれた場所あたりに
行ってまいりました。そして、そこでとんでもなくびっくりすることに出くわ
しましたのであります。

 そのことについては、これから朝食ですので、その後に書きたいと思います
――
[67]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年07月17日 14時58分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

レス[65]の個人情報を一部削除し、再掲載いたします――
 
びっくりしたことで、作家の中村真一郎氏の出自についてまだ報告しており
ませんでしたので、まず書かせていただきます。これらは、新聞に連載した本
人談であります。
 この中村氏は森町の出身でしたが、両親とも両養子で、中村家とは直接の血
のつながりはないようです。父方は「山内」、母方は「岡野」であります。
 この山内氏の先祖は「山内山城守通綱」で、山内一豊と同族ということであ
ります。森町の天方にある天方城主であった由縁で「天方通綱」として世間で
は知られております。いわゆる家康の長男の「信康事件」で、二俣城にて服部
半蔵正成の代わりに介錯したとされております(この辺には大きな謎が秘められ
ております)。
天方城は、森町の少し北奥に位置し、太田川沿いの山の上にあります(今は城
跡)。天方五万石とも言われております。
 天方三代の墓が、森町大鳥居の太田川沿いにある蔵雲院にあります。また天
方通綱の墓(最近天方一族によって建てられた記念碑)もその横に並んでおりま
す。先日そこを訪れた時、般若心経をあを様の分も含めて捧げてまいりました。

 ちなみに、通綱は高野山に蟄居したのち、家康次男の結城秀康に拾われて、
福井城にて後世をおくりました。
 天方氏と信康、服部氏、大久保氏、青山氏についてはもっと深ぼりして行き
たいと考えます。

 さて、もっとびっくりすることが、昨日起こったのです。それは、最近「戦
国夢街道」と名付けられた森町から北の方向=春野町に抜ける街道筋で三倉と
いう所を通った時のことでありました。三倉川という川に沿った街道でありま
すが、春野町側には天野氏の犬居城(今は城跡)があり、また秋葉山の表参道が
あります。「戦国夢街道」とは、家康と武田方(当初、天野氏、天方氏は武田
方)のせめぎ合いが行われたことから名付けられたのだと思います。
 その三倉川に橋があり、対岸へ行けるのでありますが、その橋のたもとに、
「服部商店 製茶販売」という電柱看板があるのを見たのであります。この辺
に「服部家」があるとは珍しいと思い、森の茶を買うつもりで訪れてみること
にしたのです。
 最近のテレビ番組で『山の中のポツリと一軒家』という番組がありますが、
よくもまあこんな山の中に製茶販売の店があるなあといぶかしげに思いながら
細い山道をこわごわ行った訳であります。何とか建物が見えてきて、どうやら
ここかと確信を持ちました。高齢のたぶん七十代の男性が、雨の後の落ち葉の
掃除をしておりました。その人が「服部商店の店主」でありました。
 そして、店兼工場にておいしい森のお茶をよばれながら、服部家についての
話を私の方から切り出したのであります。
 次回に、その内容を記します――


[68]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年07月17日 16時28分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「家紋」は中世・戦国・近世の長い時代の推移の中で、事情により隠さざる
を得なかったり、替えざるを得なかったりもしたと思われますので、現在のそ
れを以って判断してしまうことはできないというのが、私の至った結論であり
ます。(この点は、あを様も十分ご承知のことであります。替えずに現在まで
来れたということは、現象的には替える必要性も緊急性もなかったか、あるい
は一度替えたものを復活させたか、勝ち組の流れに堂々と、あるいはかろうじ
て乗って来れたかということだと思います。もちろん江戸幕藩体制下の現役の
武家においては、規定や規制はいろいろな点において厳しいものであったこと
は承知しております。)
 それでは、今回私の出会った服部家の家紋は何であったかと申しますと、ご
主人いわく、「桐」だとのこと。「五三の桐」かと問い返すと、めっそうもな
い、桐でなく「蔦」の方が正解かも知れないと言う。明智町で蔦の家紋の服部
家の墓を見たことがあったが、あを様からは源氏系かとのご指摘があったこと
を思い出す。
 ま、家紋のことは別途推理するとした。
 さらに続いて、ご主人いわく、ウチの家系の名前には「源」を付けるという
きまりのようなものがある、百パーセントではないけれどもと言う。即ち「通
字」のことである。そこで私は、「源」ならば「服部源左衛門」かとすぐに頭
に思い浮かべた。あの源左衛門か……?
 以降、次回に――
[69]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年07月17日 22時06分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 その他にご主人から聞いたことは――
 @祖先には千年の歴史があるということ。
 A今川、武田、徳川と仕えたが、武田のイメージが強いということ。
 ➂祖先の名前に「盛」という字が入る人がいる。例えば「光盛」公……公
 と言われた!
 ➃お寺の開基となっていること――蔵泉寺、栄泉寺。
 つまり、たぶん平家出身の服部氏で、最初は今川氏に仕え、武田、徳川方
と移った者で、相当な地位にあった者と推察される。

 そんな服部氏と言えば、今川義元に仕えた「服部源左衛門」しかない。

 『寛政重修諸家譜』を見ると――
 「今川義元に仕えた服部源左衛門、諱を「康高」という。少壮の時、伊賀
 国において人を殺し、立ち去りて駿河国に至り、今川義元に仕え、某年死
 す。法名浄圓。
  その子は「康次」助之丞。牛助。今川氏眞に仕え、十八人衆の内たり。
 永禄七年、一色村の合戦に首級を得たり。のち、しばしば軍功ありて、感
 状を与えられる。氏眞没落の後、小笠原与八郎氏資に仕える。天正十三年、
 遠江国にて死す.法名栄泉。」

 ここで、法名「栄泉」というのが決め手となる。「栄泉寺」は一族の後裔
が開基となったに違いないと推測される。

 また、小笠原与八郎氏資とは、高天神城の城主になった氏助=信興=長忠
であると推測され、今川方から徳川へ寝返り、さらに武田勝頼に攻められ、
武田方に寝返った。武田滅亡後に徳川方になった。このように転々としてい
る。

 では、なぜ森町の奥地に潜むように暮らしているのか?
 それは三倉という所が、戦略上要衝であったからであろう。家康は要衝の
警備に息のかかった武将をおいて警護・情報収集、ひいては統治させたとい
うことであろう。

 いずれにしても、本格的に調査した訳ではない。たぶん口伝での伝承は、
いろいろなものが入り混じっているであろう。明日、もう一度行ってさらに
確認してまいります――

 
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月18日 00時04分38秒 ) パスワード

三つ柏さん

えっ¿❓?!‼‼


以下わたくしのメモ:巻1173   平氏    源左衛門   対馬守康高



服部助左衛門さんの家。
伊賀で人を殺めて出奔し   駿河に至り
今川義元・氏真に仕えた。

2代目が康次で  氏真に仕えて   18人衆の1人だった。
永禄7年  一色村の合戦に首級を挙げ  後  しばしば軍功ありて氏真より感状を与へられる
天正13年12月21日(12日に改める)   遠江国に於いて死す   法名  榮泉

A
文禄元年  秀忠に仕えた。
服部助左衛門康信。
計410石になり  その内の260石


                       家紋は  車の内横矢筈2筋

B
服部助左衛門政泰の次男の家
410石の内     150石


                       家紋は車の内横矢筈2筋
                             および  むかひ蝶




葬地
牛込の万昌院は市ヶ谷から移された。
吉良家菩提寺。

              メモ
              今川家の中ではちょっとした家だったってこと?


              蘆田に仕えた服部正吉とはどういう関係?



              津軽弘前藩の家老  服部康成とはどういう関係?
                              家康から監視役として津軽に送られた?


              服部正成の庶長子?同族?
              または
              服部中?保長?と同族?


などの書き込みがあります。



ということは  うちの三河の親戚の服部家とは  筋がちょっと違うようです。
                        通字が違うし。
                        家紋もちょっと違うし。



源さんのお家の方は  伊賀で人を殺して出奔して駿河まで行った   という所に  いろいろ歴史的なロマンを掻き立てられます。

          半蔵さんの家は伊賀から三河止まりだものね。
  


いやいやいやいや
逆に  源さんの家と半蔵さんの家とうちの三河の家の3つの関係が  何だったのかな?と空想が膨らみます。

兄弟は他人の始まりで血は水より濃いんだなと  しみじみ。



光盛?
平忠正のお子さん方は  長盛、忠綱、正綱、通正、維盛、中根正持?  あたりですね。
中根さんというと  モロ  三河だよね。


ホントなかなか興味深いお話をありがとうございました。


般若心経   わたくしの分もありがとうございました。
鬼籍に入られた方達を思い出してあげるのは良いご供養になります。
[71]酔石亭主さんからのコメント(2020年07月18日 08時02分57秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青海のあをさん    

わざわざ虫生まで足を運んでいただき、成果がなかったのは申し訳ない気分ですが、偶然にもそれを遥かに超える大成果が得られたとは、驚きです。私も偶にそうしたケースに出会いますが、史料読みだけでなく現場を踏むことの重要性を改めて実感させていただきました。

[72]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月18日 14時02分22秒 ) パスワード

光盛って?
どこかで見たことがあるような?


ということで
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E5%85%89%E7%9B%9B-18610

平光盛
鎌倉前期の公卿。池大納言頼盛の三男。
母は法印寛雅の娘で、八条院女房。
平氏滅亡後、父と共に源頼朝の庇護を受ける。
讃岐介・右少将・備前守等を歴任後、貞応元年従二位に叙せられる。
寛喜元年(1229)歿、58才。
通称は池三位(いけのさんみ)。

_________________________________

酔石亭主さん

>現場を踏むことの重要性

はい
現場でないと得られない情報がありますね。

でも今は自粛時ですから  おとなしく地元周辺を調べることですね。
せっかくの GO TOキャンペーンが使えないのが残念ですが。
半額助かってもコロナを拾っては大損。


三つ柏さんは蔵泉寺、栄泉寺にも行ってお墓チェックをなさってみてください。
思わぬ収穫があるかも。
[73]酔石亭主さんからのコメント(2020年07月18日 16時43分32秒 ) パスワード

空の青海のあをさん 三つ柏服部さん

地元周辺ではもうめぼしい謎も残っていないので、謎の多い北九州へと思っていたのですが、コロナが再びひどくなってきており、ここ数年はお預けにするしかなさそうです。まあ、それはそれで仕方ないと思っていますが…。

ところで、衝撃的なニュースが飛び込んできました。直虎にも出演した三浦春馬が自殺したそうです。理由は不明ですが、コロナで仕事も激減し鬱状態になったのかもしれません。このところ厭な話が多すぎますね。
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月19日 06時15分04秒 ) パスワード

新しく
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101726.html
長上郡の服部氏族CXXXZ:137:いよいよ核心に‐5
をご用意致しました。

キリの良いところでどうぞ。
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月19日 06時39分06秒 ) パスワード

三浦春馬さんの突然の訃報には驚きました。

井伊直親が若くして都田川のほとりで暗殺されて        27歳の年
この直親という人物は驚くばかりの展開で
「この人の一生って直政をもうけるための人生だったの?」
と思いましたが

三浦春馬さんの短い人生にも
恵まれた容姿と才能と期待を
わずか30歳で終えたところに

人生って  何?  です。


直親も春馬も   「もっと違う人生を生きたかった!」  と叫んでたのかなと。涙
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