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 投稿番号:101718 投稿日:2020年06月01日 14時36分10秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族CXXXX:135:いよいよ核心に‐3
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101717_51.html
長上郡の服部氏族CXXXW:134:いよいよ核心に‐2
の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


酔石亭主さんのご降臨でかなり進展しました。
感謝です。


特に興味深かったのはレス<35>の

>出雲は大和の様々な豪族に影響を及ぼしていることになるのですが
>(富家伝承では大和は出雲の分国)、
>それは無理筋ではないかと思います。

>出雲の絡みはぐちゃぐちゃでいまだによく理解できないので、
>出雲の御師みたいな人間が大和に来て、
>大和の豪族に出雲の神様を神札にして売りまくり、
>豪族たちは自分たちの先祖に取り込んだのではないか
>などと妄想している次第。

>そうしたぐちゃぐちゃな筋の中から出てきたのが蘇我氏だとすると、
>もうどこの馬の骨だかわからないとなってしまいます。

>なので、蘇我氏は6世紀から7世紀前半にかけて強大な勢力を持っていた一族とするだけでいいのではと思いますが…。


そしてレス<37>

>レス27の三角縁神獣鏡に関して、
>出土数は畿内が圧倒的に多く、黒塚古墳では33面も出土しています。

>型式編年によると同古墳の鏡は250年から260年頃鋳造されたもののようで、
>この年代は台与の時代に相当します。

>台与が仮に九州の邪馬台国の女王だとしたら、
>彼女が配布したものになるはずで、北九州での出土が最大になると考えられます。

>ところが、畿内で200面以上に対して福岡県では37面ですから、
>圧倒的に畿内特に奈良県が多くなっており、矛盾してしまいます。

>これを矛盾がない形にするには、
>台与が大和に東遷して配布したとするしかなく、
>三角縁神獣鏡の出土が台与東遷の証明の一つになり得ます。


その他  「物部氏の東遷」「神服部家」について  など  
客観的で貴重な情報がたくさん書かれています。


酔石亭主さんには本当に感謝しております。

[1]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年06月01日 19時04分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッドありがとうございます。出雲について、視野が開けてきま
した。酔石亭主様、あを様に感謝です。

 このところ、所用が多く、集中できておりませんこと、もどかしく思って
おります。
 
 出雲について、情報を整理してみます――
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月02日 00時20分24秒 ) パスワード

三つ柏さん

わたしは  先入観に支配されてて  結局は先入観へ回帰して行ってしまいます。

>出雲について、情報を整理してみます

楽しみにしています。



昨日の「麒麟がくる」は今川方の鵜殿長照が出てて  いよいよ  桶狭間の戦いです。

その2年後の戦いで  築山殿と信康が長照の子供達と人質交換になるわけで  この時  うちの三河の親戚も  長照同様戦死するわけです。


昨日の「麒麟」で  鳴海は今川方だったので  鳴海の服部さんは  この時  今川方だったのかな?と知りたくなりました。

商人となって今に至るから  当時は  やっぱり今川方だったのかな?と。


半蔵の父上(保長)がアチコチ歩き回った時に  鳴海の服部家に寄って  という文章を記憶しているので。
この服部家の家紋は  車に横の2矢ですから  当時の半蔵の家紋と同じで   当時のホンヤさんの家紋と同じです。


ま、わたしの視点と一般視聴者の目は  違う物を見て違う事を感じているわけで  
我が家がいよいよ没落していくんだな  と感慨深いです。


逆に  津島の服部小平太の活躍(5000貫を信長から貰った)  中保次の活躍の場でもあります。
この2人の関係はどうだったのか  歴史の謎です。
ま、一族なんでしょうけど。
そうなれば、座りが良い。
[3]酔石亭主さんからのコメント(2020年06月02日 18時27分16秒 ) パスワード

空の青海のあをさん

鳴海の服部さんが、「桶狭間の際に今川方として戦に参加し、そのまま鳴海に居ついたと伝わっております」などと書いていますよ。その後有松に移った服部氏はうだつの上がった商家で有名な井桁屋の服部家になったようです。

三つ柏服部さん


>出雲について、情報を整理してみます。

木を見て森を見ずなどと言いますが、出雲関係は森を見ていると訳が分からなくなりますので、木から、いや枝辺りから始めたほうがいいかもしれません。
私もそのうち蘇我氏の馬の骨からの成り上がりストーリーに出雲神族を絡めてこちらで書いてみようかと思っています。乞うご期待。いや結局ハチャメチャになるかも…。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月02日 23時25分40秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ありがとうございます。

有松の服部さんの家紋から逆算して  鳴海や三河や我が家のホンヤさんとの関係   を勝手に夢見ていましたが
正夢だったとは!
と嬉しく驚いています。


>木を見て森を見ずなどと言いますが、<歴史>関係は森を見ていると訳が分からなくなりますので、木から、いや枝辺りから始めたほうがいいかも

はい
まさに!

わたしの場合はまさに「枝」から   いや  「葉っぱ」から見て   当たってました。

名字と家紋で  あれ?うちの一族?と気付き   
その後  半蔵の父親が三河から出張する時に?帰省する時に?  鳴海の服部家で一宿一飯し
その後  猿投の服部家に寄って・・・
と読んだので   戦国時代のロマンに心躍らせていました。


>蘇我氏の馬の骨からの成り上がりストーリー

楽しみです。
[5]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年06月03日 11時10分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 水石亭主様――

 「木を見て森を見ず」か逆の方法として「森を見て木を見る」のか、つ
まり「一つ一つの事象を積み重ねて全体を見る」か「大きな流れ・全体を
鳥瞰して個々の詳細に下りて行く」か……もっとわかり易く言えば「魚を
一匹づつ釣る」か、「大きな網で一網打尽に捕まえるか」の手法の違いで
あるかなと思います。
 私が頻繁に言う「AI手法」とは、「巨大な網で取り囲み、その中の魚
(情報)を検証・統計・分析する」やり方で、歴史探求の世界にもこのAI
手法を取り入れて、確度の高い推理をしてほしいと願っております……。

 さて、浜松への物部氏の到来は、隣の東三河にも言えると確信しており
ます。私の以前の勤め先の所有する土地が豊橋市にありますが、そこには
「権現山古墳」というものがあって、ある情報によりますとこの古墳は、
大国主の墓であると言われております。発掘時には三笠宮がおいでになら
れたとも言われております。出雲が実はこの地方であったということはな
いと思いますが、出雲神族あるいは出雲臣族が来ていたという傍証にはな
るかと思います。権現山の北西(豊川市)に本宮山という山がありますが、
その頂上付近に大国主が見下ろしたという「国見の岩」があり、私はその
上に跳びのって、下界を見渡し、なるほどと思ったことがあります。

 出雲については、水野祐氏の『古代の出雲と大和』、吉田大洋氏の『謎
の出雲帝国』、安達巌氏の『出雲の大神と日本建国』、そのほかに「出雲」
と直接に名の付く書物をが10冊程、関連書物は限りなく所持しております
が、読めば読む程錯綜の森となって、こんがらがって(諸説のくい違い)、
かえってわからなくなります。酔石亭主様の言われる「森」が正にこれに
あたるのかなと思います。
 
 私が知りたいのは、実は「服部連」についてでありまして、出雲を大上
段に構えて知ろうという訳ではありません。秦氏を知れば服部連・服部氏
の謎のが50%はわかります。
 さらに、蕃別とは別筋の「マラの宿祢」という「摂津・服部連」について
は、「マラ」が「物部氏」の匂いがいたしますので、物部氏を知りたいと思
うのであります。
 水石亭主様の言われるように、「神服部」は出雲の匂いがするということ。
 また尾張氏と同族である海部氏に「神服部」氏があり、海部氏は物部氏と
同族ということ。
 「服部連」は「神服部」とも呼ばれたという情報もある。
 そのへんの糸をたぐって行くと、「物部氏、出雲」にたどり着く感じがし
てならないのです――
[6]酔石亭主さんからのコメント(2020年06月03日 16時08分49秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青海のあをさん

>大国主が見下ろしたという「国見の岩」
私も行きましたよ。東三河と浜松の出雲族は一体的に見てもいいほどですね。

>読めば読む程錯綜の森となって…「森」が正にこれにあたるのかな
まったく同感。数年前に何冊か出雲に関する本を読み、どうしても全体像が把握できず放り投げてしまいました。

>私が知りたいのは、実は「服部連」についてでありまして
それはもう重々承知しています。ちょっと整理してみますね。

新撰姓氏録:「摂津国神別(天神) 服部連 熯之速日命十二世孫麻羅宿禰之後也」
新選姓氏録:「大和国神別 服部連 天御中主命十一世孫天御桙命之後也」
国造本紀:物部連の祖・天蕤桙命の8世孫の若建命神功皇后朝に伊豆国造に任じられた。
伊豆国造系図:天御桙命の8世孫若多祁命が神功皇后6年に伊豆国造を賜った。次が弥蘇足尼。その次が麻羅足尼で「允恭天皇御宇賜服部連」と脇書。
初衣生神社の神服部宮司:以前訪問の際天御桙命も祖神だと言われ、これは疑問に思った。
初生衣神社 鈴木栄男宮司:神服部家は出雲神社系、大和を本拠:美和(三輪・神)氏族。

まず国造本紀で物部連の祖・天蕤桙命とあるのは、後の続き具合と伊豆国造系図から見て明らかに誤記。麻羅足尼は私も最初にこの名前を見たとき物部氏系かと思いましたが、天御桙命が架空の人物であるにしても物部氏系ではないので、麻羅足尼は物部氏にはならないと見られます。従って服部連の流れは天御桙命→麻羅宿禰(服部連)となり、神服部さんが主張するように天御桙命も祖神だとすれば、結局神服部家も服部連となります。

鈴木宮司の神服部家が出雲神社系で美和(三輪・神)氏族との主張に関して…
浜名惣社神明宮に関し元は浜名県主が祖神・太田命を祀ったものとされ、この県主は三輪氏の系統で太田命は大田々根子命に関連した名前であり、鎮座地名の大輪山も三輪山を想起させます。三ケ日町只木の神明宮も元は三輪氏の大物主命を祭神とする式内社弥和山(みわやま)神社で、同社解説板にも、抑々当神明宮の濫觴は、上古期浜名湖周辺に定着繁栄した三輪(神・美和)氏族の奉斎にかかる式内弥和山神社に当るものにて、云々とあります。要するに浜名湖周辺は出雲神族系が満ち溢れている。

さてそこで、鈴木宮司は以下のように書いています。
  @出雲神社系、大和を本拠:美和(三輪・神)氏族 → 遠江へ移った。
  A神氏:神人(むはびと)の後世、神(じん)氏と称して世々服部となり神御衣(かんみそ)を織った。

神氏とは正しく出雲神族系美和氏族の名前。それが世々服部となり…。これがミソです。神服部氏とは神氏・服部氏の複合ネーム。だから美和氏族とも言える。いつの時点かは不明ですが、両氏族の合体により神・服部氏が成立した。以上で最終回答にしていいでしょうか?

[7]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月04日 00時17分54秒 ) パスワード

酔石亭主さん

懇切丁寧な書き込みをありがとうございました。

服部半蔵が記しているのは

            「伊豆国造系図:
             天御桙命の8世孫若多祁命が神功皇后6年に伊豆国造を賜った。
             次が弥蘇足尼。
             その次が麻羅足尼で「允恭天皇御宇賜服部連」と脇書」

この部分の話なのか。



>神服部氏とは神氏・服部氏の複合ネーム

驚きました。


【名字】神服部
【読み】かんはとり
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%A5%9E%E6%9C%8D%E9%83%A8
【全国順位】 92,286位
【全国人数】 およそ10人

                   京都在住の神服部姓の方が随分前に平熱にいらっしゃってましたね。

                   そして京都の知り合いが神服部氏についてほんの少しお話しになってました。

【全国人数】上記10名について、浜松の北区に10人いらっしゃるということですね。

__________________________________


【名字】美和
【読み】みわ
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%BE%8E%E5%92%8C
【全国順位】 9,121位
【全国人数】 およそ850人

美和首、美和真人、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)
秀郷流などにもみられる。
現山口県東半部である周防にみられる。
近年、静岡県浜松市に多数みられる。
「和」は輪のような地形を表す。


美和さんの多い地域 TOP5

静岡県 およそ270人
神奈川県 およそ90人
愛知県 およそ80人
東京都 およそ60人
岐阜県 およそ60人


静岡県浜松市南区 およそ160人
岐阜県多治見市 およそ50人
静岡県浜松市東区 およそ30人
三重県志摩市 およそ30人
静岡県浜松市西区 およそ20人


ホント!浜松に多いのねぇ。



>要するに浜名湖周辺は出雲神族系が満ち溢れている。

やはりヨソ者のワタシには理解を超えていました。
わたしは  ミワさんといったら  三輪さん  しか知らなかったです。
「神姓」のミワさんは  諏訪大社系限定  長野県人  と思っていて
美和姓は100%存在を知らなかったクチです。


ということは三つ柏さんは    出雲神族系で  素戔嗚の柏の葉っぱ由来の家紋なのかもね。

是非須佐神社にいらっしゃってください。
     今は  まだ  ダメよ。コロナを連れて行っても連れ帰ってもいけないから。みんなが迷惑!


https://www.susa-jinja.jp/

神紋は  亀甲の中に髭のついた三つ柏紋(髭のついた三つ柏紋って医家の服部さんの紋でしたよね)

[8]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月04日 00時29分15秒 ) パスワード

http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/south/izmo_mon.html よりコピペ

亀甲紋は大国主命のシルシ…

出雲の神社は、一宮である出雲大社をはじめとして「亀甲紋」が多い。
あらためて見ると、まさに亀甲紋の神社ばかりといっても過言ではない。

これは、大国主命の縄張りであることを表わしている。

すなわち、天孫族から国譲りの勧告を受けた大国主は、それを容れ、北方鎮護の神として祀られた。
北方は玄武のことで、
玄武は亀が守った、
かくして亀甲が玄武の印として出雲に残った。

                       あ、そうなの?

亀甲はこのようなわけで、出雲地方の神社はもとより神官、氏子にまで用いられた。
その代表が出雲大社の 神官千家・北島両家である。
その他、神門郡朝山郷から出た朝山氏、石見国那珂郡周布氏など、多くの豪族が亀甲紋を用いた。

                       うんうん、これは知ってた


ということで更にコピペ:須佐神社と日御碕神社の神紋は違うんですねぇ。両方にご挨拶に行かないとね。

出雲の神社神紋マップ

[9]どごさんからのコメント(2020年06月04日 01時19分35秒 ) パスワード

こんばんは
飛び入りで恐縮です
万九千神社(併川)というのがあります
二重亀甲で万の字がはいります
十九(全て)の意味とつうじるようです
ご参考になれば
[10]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年06月04日 10時43分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様
酔石亭主様

 情報及びご見解、誠にありがとうございます。感謝申し上げます。
 酔石亭主様のご慧眼には感服するばかり。また、あを様の博識にも、ただ
ただ頭の下がる思いであります。
 酔石亭主様とあを様の情報・ご見解を元に、さらに追跡調査をして行くつ
もりであります。

 「伊豆宿祢系図」を見ますと、麻羅宿祢(足尼)が出てきてびっくり仰天で
す。それは、今まで「麻羅宿祢」といえば、「服部連」の祖で、摂津高槻の
「神服神社」で祀られているものであった。それが、何で伊豆と関係するの
かと、地理的・距離的なイメージギャップに襲われました。

 「物部連」の祖の「天御桙命」の8世孫(御桙命から数えて9世孫)が、「
若建命」で、神功皇后6年に「伊豆国造」を賜る。その若建命の子が「弥蘇
宿祢(みそのすくね)」。またその弥蘇宿祢の子が「麻羅宿祢」で、允恭天皇
の時に「服部連」を賜るとそれぞれ添え書きがあります。

 果たして、この系図を信じていいものかどうか……というか、一挙に結論
までに至ったしまったので、唖然として考えられない状態であります。
 素直でないと言えばそうですが、小心者の私は石橋を叩いて渡るタイプで
もあります。自分で調べて裏付けを取って初めて納得する……ということで、
追跡調査を継続いたします。

 「弥蘇宿祢」という人物については、たぶん『播磨国風土記』に出て来る
「服部の弥蘇の連」のことかと思われます。因幡にある服部神社の祭祀氏族
で、位の高い執政官だったようです。
 『因幡国法美郡服部郷について―海部と服部の痕跡をたどる』という黒田
一正氏の論文がWebに出ておりますが、これは非常に参考になります。続編
を期待しているのですが……。

 服部氏は物部氏なのか秦氏なのかという問題、秦氏は純粋に秦氏なのか物
部氏(武内系波多)も含むのかという問題……単純ではないのですが、支配層
と被支配者層(労働者)とでDNAがちがうのではないかと直感しております。
今後もその点をポイントに探求したいと思います。
 また、物部氏族というもの……海部・三輪・賀茂、関連の秦氏も含めて、
更に探求して行きたいと考えます――
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月04日 13時35分50秒 ) パスワード

三つ柏さん

                       ビックリですよ!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B1%86%E5%9B%BD%E9%80%A0
伊豆国造


本姓       伊豆氏、日下部氏
家祖       若多祁命
種別       神別
出身地      大倭国   (奈良県)
主な根拠地    伊豆国(後の駿河国)
支流、分家    服部氏              ガーン!!!!!
                          ホントに載ってた!!!



祖先

『先代旧事本紀』「国造本紀」には国造の祖は物部連の祖・天蕤桙命の8世孫の若建命神功皇后朝に伊豆国造に任じられたと伝わる。

『伊豆宿禰系図』には天足別命の子・天御桙命の8世孫の若多祁命が神功皇后六年四月に国造に任命されたと伝わる[1]。

系図には麻羅足尼=すくね=が見えることから、物部連は服部連の誤読と見られる。

                             そうなの?



氏族

伊豆氏(いずうじ、姓は君)で、
後に日下部氏(くさかべうじ、姓は直)。




本拠

不明。



支配領域

のちの伊豆国全域で、現在の静岡県伊豆半島。



氏神

旧田方郡にあり伊豆国一宮の三嶋大社(みしまたいしゃ)か。
社家は国造の後裔である矢田部氏が務めた。





向山古墳群
三島市に存在する古墳群で、前方後円墳2基と円墳14基で構成される。
前方後円墳の3号墳は全長21メートル、16号墳は全長68メートルの規模を誇り、5世紀後半から6世紀の築造とされる。


瓢箪山古墳
函南町に存在する全長87メートルの前方後円墳で、古墳時代前期(4世紀)の築造とされる。


駒形古墳
伊豆の国市に存在する前方後円墳で、古墳時代後期の築造。
現在は前方部が削平されているが、かつて大刀が出土した。



子孫

日下部益人 奈良時代の地方豪族。伊豆国造伊豆直の姓を賜る。久良麻呂の子。

伊豆乎美奈 奈良時代の官人。従五位下。益人の子。



脚注

1.^ 鈴木真年「伊豆宿禰系図」『百家系図稿』一巻。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月04日 14時15分30秒 ) パスワード

関係無いけど   スクネ   について:

主に物部氏や蘇我氏の先祖に宿禰の称号が与えられたということ(ところが!ところが!なんだよね。ちゃんと最後まで読んでね)
その上に
「時代」によっても違うんだね。

                       へぇ〜

                       日本の制度って  「崩れる」  からワケ分からなくなるよね
                       口分田でも、やがて、崩れて私有制が出て来るし

                            

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%BF%E7%A6%B0

宿禰(スクネ、足尼、足禰、少名、宿儺)


古代日本における称号の一つ。
大和朝廷初期(3世紀〜5世紀ごろ)では武人や行政官を表す称号としてもちいられていた[1]。
主に物部氏や蘇我氏の先祖に宿禰の称号が与えられた。

                       それだけじゃなかったんだよね



8世紀には八色の姓で制定された、姓(カバネ)の一つとなった。
真人(まひと)、朝臣(あそん)についで3番目に位置する。
                      
                       格下げ?!
                       アソンが身分が高いというのは平安時代から?真人消えるよね?


                 真人
                 基本的に、継体天皇の近親とそれ以降の天皇・皇子の子孫に与えられた。
                 天武天皇が制定した八色 の姓の第一位。皇族出身の者に授けられた。まっと。←桑田の息子?笑った

                          へぇ〜



大伴氏、佐伯氏など主に連(むらじ)姓を持った神別氏族に与えられた。

                          ややこしいね



用法

スクネには古く足尼や足禰の漢字を用いた。                      うんうん・これは分かる

知られている最も古い用例は、埼玉県行田市稲荷山古墳出土の鉄剣銘に見える〈多加利足尼〉である。

古い伝承を伝える国造本記には20を超える国の首長としてスクネを称号あるいは官名とする人名あるいは氏族名が見られる。

                        昨日、酔石亭主さんから習ったところ


甲斐国造に塩海足尼、穂国造に菟上足尼 、淡道国造に矢口足尼などである。



スクネとオオネ

スクネは物部氏先祖に多く見られる。
そこではスクネの官名がオオネ(大禰、大尼)の官名と並んで補任されているケースを見出す(先代旧事本紀)。

崇神天皇期にタケイゴコロ(建胆心命)をオオネとし、
タベ(多辨命)をスクネとした、と伝えている。


それ以前にもオオヘソキネ(大綜杵命)、オオミネ(大峰命)、タケタツ(武建命)をそれぞれオオネに任命し、
ムツミ(六見命)、ミツミ(三見命) オオミナクチ(大水口命)、オオヤグチ(大矢口命)をそれぞれスクネに任命したと伝えいる。


ここではスクネやオオネは単なる称号ではなく、ある定まった官名あるいは職名として使われている。


なおオオネの称号は軍事的部族である物部氏の先祖に限られている。

                        へぇ〜
                        知らなかった

                        ということは  物部>蘇我  だから  蘇我にとって物部は目の上のたん瘤だったから討った?
                        


オオネやスクネの語尾「ネ (称号)」は神別氏族の軍事的長の称号であるので、
オオ・ネ(大根)とスク・ネ(少根)は、今日でいう「大将」と「少将」にそれぞれ相当すると考えられる。


皇別氏族にもオオ・ヒコ(大彦)とスクナ・ヒコ(少彦)という同様の名称が見出される。

四道将軍の一人オオヒコ(大彦)にはスクナヒコタケイゴコロ(少名日子建猪心命)という弟が伝えられている[1]。

ヒコは皇別氏族の男子名称であるから、オオヒコとスクナヒコはそれぞれ大将軍と小将軍の称号となる。

                       「彦」って深い意味があったのねぇ


このように見てくると、
スクネはスク(少)とネ(根)に分けられ、
長官(オオ)に対する副官の名称「スク」と
軍事的カリスマに対する称号の「ネ」が語源と考えられる。


そして、大将軍「オオネ」に対する副将軍の意味が「スクネ」の起源と考えられる。


                        すっごくハナシがややこしい
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月04日 16時57分29秒 ) パスワード

三つ柏さん

酔石亭主さんのレス<6>の書き込み

新撰姓氏録:「摂津国神別(天神) 服部連 熯之速日命十二世孫麻羅宿禰之後也」

             ここから高槻の神服神社へ?

新選姓氏録:「大和国神別 服部連 天御中主命十一世孫天御桙命之後也」
国造本紀:物部連の祖・天蕤桙命の8世孫の若建命神功皇后朝に伊豆国造に任じられた。

             この「物部」が間違いの始まり?

伊豆国造系図:天御桙命の8世孫若多祁命が神功皇后6年に伊豆国造を賜った。次が弥蘇足尼。その次が麻羅足尼で「允恭天皇御宇賜服部連」と脇書。


初衣生神社の神服部宮司:以前訪問の際天御桙命も祖神だと言われ、これは疑問に思った。

初生衣神社 鈴木栄男宮司:神服部家は出雲神社系、大和を本拠:美和(三輪・神)氏族。

まず国造本紀で物部連の祖・天蕤桙命とあるのは、後の続き具合と伊豆国造系図から見て明らかに誤記。
麻羅足尼は私も最初にこの名前を見たとき物部氏系かと思いましたが、天御桙命が架空の人物であるにしても物部氏系ではないので、
麻羅足尼は物部氏にはならないと見られます。
従って服部連の流れは天御桙命→麻羅宿禰(服部連)となり、神服部さんが主張するように天御桙命も祖神だとすれば、結局神服部家も服部連となります。


と  ワタクシのレス<11>


>『先代旧事本紀』「国造本紀」には国造の祖は物部連の祖・天蕤桙命の8世孫の若建命神功皇后朝に伊豆国造に任じられたと伝わる。
> 『伊豆宿禰系図』には天足別命の子・天御桙命の8世孫の若多祁命が神功皇后六年四月に国造に任命されたと伝わる[1]。
> 系図には麻羅足尼=すくね=が見えることから、物部連は服部連の誤読と見られる。



ということで元々のご先祖さまを検索

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%85%90%E5%B1%8B%E5%91%BD
天児屋命(あめのこやねのみこと)= 天足別命(あまたりわけのみこと)


神祇
天津神

全名
天児屋命

別名
天児屋根命、<<<天足別命>>>、武乳速命、武治速兒命、速経和気命、天見通命、麻刀方命、太詔戸命

別称
春日神、春日権現、春日大明神

神格
祝詞、神事


興台産霊神または津速産霊神または建御雷神等


己等乃麻知媛命


天押雲根命、<<<天御桙命[1]>>>、天表春命[2]、天下春命[3]、玉依毘売命[4]

神社
春日大社、枚岡神社等

関連氏族
中臣氏、藤原氏、大中臣氏、卜部氏、伊勢国造等



『古事記』では天児屋命、『日本書紀』は天児屋根命と表記される。
別名として<<<天足別命(あめのたるわけのみこと)>>>、武乳速命(たけちはやのみこと)、速経和気命(はやふわけのみこと)、天見通命(あめのみとおしのみこと)、麻刀方命(まとかたのみこと)、太詔戸命(ふとのりとのみこと)などがある[5][6]。


その他通称として春日権現(かすがごんげん)、春日大明神とも呼ぶ。


『古事記』には岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大御神が岩戸を少し開いたときに布刀玉命とともに鏡を差し出した。
天孫降臨の際邇邇芸命に随伴し、中臣連の祖となったとある。


                これは奈良時代の者が中臣鎌足や藤原不比等などの一族に忖度しての中臣氏の出自ロンダリングおよび身分ロンダリングをしたということ?



名前の「コヤネ」は「小さな屋根(の建物)」[7]、または「言綾根(ことあやね)」の意味で、名義は「天上界の小屋根(託宣の神の居所)」、または「祝詞を美しく奏上すること」と考えられる[要出典]。


知々夫国造の祖として知られる天表春命・天下春命の二神は思兼神の子であるが、
天児屋命の子にも同名の二神がおり、秩父彦命(知々夫彦命、知知夫彦命)をこの二神のうち天下春命の8世孫とする系図がある[8]。
またこれらから天児屋命と思兼神を同一神とする説がある[9]。


平田篤胤は天児屋命の別名として八意思兼神、天津兒屋根命、櫛眞智命、櫛眞命、太麻等能智命、太麻等能豆命、国之辞代命を挙げる[10]。


系譜

父は、『日本書紀』および『新撰姓氏録』によると津速産霊神の御子神・興台産霊命(居々登魂命:こごとむすび)[11][12]、あるいは『古語拾遺』によると津速産霊神(つはやむすび)[13]、

母は、天石門別安国玉主命の御子神己等乃麻知媛命(ことのまちひめ)で、

妻には天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)を娶って

天押雲根命(天忍雲命:中臣氏、伊勢国造祖)、<<<天御桙命(伊豆国造祖)>>>などを儲ける。

                          
                      服部連になっていくわけですね


一説に、櫛真智命の御子神・建御雷神の子[14]、あるいは櫛真智命の子[15]とも伝える。

<<<また天児屋命の別名と見られる天足別命[16][17]は、鹿島神(建御雷神)の御子神とされる。>>>



信仰

中臣氏の祖神であることから、中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神として信仰された他、藤原氏の繁栄にあやかって現在では出世の神としても信仰されている。


一説に、櫛真智命の御子神・建御雷神の子[14]、あるいは櫛真智命の子[15]とも伝える。また天児屋命の別名と見られる天足別命[16][17]は、鹿島神(建御雷神)の御子神とされる。


                       中臣氏=藤原氏=がちゃっかり乗っ取ったということでよろしいでしょうか?
[14]酔石亭主さんからのコメント(2020年06月04日 18時10分56秒 ) パスワード

空の青海のあをさん
>ミワさんといったら  三輪さん  しか知らなかったです。

三輪さんは凄い一族で静岡県では美和さん同様浜松市が断トツですよ。県別では愛知県がトップ。次が岐阜県。三番目が静岡県になり、この事実から三輪氏の動きが浮き彫りになります。愛知県の場合、一宮市が他を大きく引き離して多いのですが、ここには三輪氏に関係する美和の地名、多氏に関係する於保(おほ)郷があり、大神神社や大(おお)神社が鎮座し、真清田神社の古図には本殿裏に三つ鳥居が書かれていました。

岐阜県の揖斐川町には三輪神社が鎮座し、由緒によれば「神武天皇の御世、諏訪大社のご祭神、武御名方富命が当地に三輪明神を祀られたと伝えられます。三輪族は古代の近畿中部地方に大きく勢力を誇った豪族で、美濃の地域には三輪郷、三輪氏、三輪神社など、三輪(美和、大神)という地名や人名などが多く残されています。」とのこと。

少し前に書いたと思いますが、神武天皇は崇神天皇と理解すれば、崇神天皇が200年代終盤頃に大和入りしたことで三輪氏の一部が多氏と共に大和を離れ、まず尾張北部に来た。尾張に入った三輪氏の一部が美濃にも入った。美濃に入った三輪氏の一部が武御名方富命(人物ではなく出雲神族系三輪氏が奉斎する神。名前に出雲神族・富家の富が入っている。)を奉じつつ尾張の三輪氏の一部と共に遠江に入り、浜名湖周辺に定着した。さらに三輪氏別動隊が武御名方富命を奉じて秋葉山から後の修験ルートで諏訪湖に到着。諏訪大社にて祀られた。とのストーリーが成り立ちます。

名字の分布ひとつがこんな壮大なストーリーに繋がる…。1700年も前の名前が現代においても関係地域に歴然と残されているとは、ちょっと想像を絶しますね。

三つ柏服部さん

服部連に関して書けたのはお二人に触発されてのことです。その最たるものが以前にアップした「浜松の秦氏」。秦喜平の記事などにびっくり仰天して調べ始め、服部氏に関する理解も進んだ結果がレス6に繋がっているのですから、お二人なしには何も書けなかったことになります。ですから、こちらこそお二人に感謝です。服部連に関して物部氏も含めたさらなる追求ぜひ進めてください。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月05日 00時29分44秒 ) パスワード

酔石亭主さん

「三輪氏」についての懇切丁寧で詳しい説明をありがとうございました。

尾張国の一宮    真清田神社。
          まさに一宮市に在。尾張開拓の祖である「天火明命」の神社。
          蜂須賀小六の奥さんが真清田神社の関係者の娘
                       
          熱田神宮よりずっと格が高い


尾張国の二宮    大県神社
          尾張の国を開拓した神様の犬山市の大縣神社=大県神社

          18禁の方は田縣神社で小牧市ね。こっちが♂


尾張国の三宮    熱田神宮    

          え?そうだったの?と名古屋人は驚く箇所

          熱田神宮は信長以降かな?桶狭間の戦いで、霊験あらたか、ということで。



>真清田神社の古図には本殿裏に三つ鳥居が書かれていました

これは知らなかった。
「三つ鳥居」で三つ柏さんが欣喜雀躍する箇所ね。


服織神社のあることは知ってたけど。
だから一宮が織物産業が盛んなのかと納得。


ワタクシ的には
一宮は北朝方の拠点=妙興寺さん=だから
我が家的には南朝方本拠地=津島神社ということで
一宮と一宮のオトコには本能的な反感がある。



>神武天皇は崇神天皇と理解すれば、
>崇神天皇が200年代終盤頃に大和入りしたことで
>三輪氏の一部が多氏と共に大和を離れ、まず尾張北部に来た。

それで  尾張一宮  ということだったのか。



>三輪氏別動隊が武御名方富命を奉じて秋葉山から後の修験ルートで諏訪湖に到着

それで  諏訪大社のミワさん   になるのか。

        出雲から諏訪湖に直接 吹っ飛んで来たような  神話に惑わされていました。
        やっぱり  事実は  テクテク「歩いて」  来たんだね。


酔石亭主さんのお蔭で  神話から現実の姿を見るように  という意識が出来ました。

三つ柏さん、  伝説からも自らを解放なさい  ですね  お互いに。
                       神話とか伝説は夢があって楽しいですものね、だから、捉われてしまう。


>秦喜平

さすが!三つ柏さん
地元ということですね。

秦川勝の末子や聖徳太子の皇子さん達が遠江に落ちて来てたなんて
100%知らなかったです。
斑鳩で自殺したり殺されたりしたんだろうな
と思っていました。
[16]酔石亭主さんからのコメント(2020年06月05日 19時30分07秒 ) パスワード

空の青海のあをさん 三つ柏服部さん

>尾張国の一宮 真清田神社。尾張開拓の祖である「天火明命」の神社。尾張開拓の祖である「天火明命」の神社。熱田神宮よりずっと格が高い                 

>尾張国の三宮熱田神宮 え?そうだったの?と名古屋人は驚く箇所 熱田神宮は信長以降かな?桶狭間の戦いで、霊験あらたか、ということで。

尾張の神社の社格順位はめっちゃややこしいんですよ。真清田神社は中島郡美和郷に含まれ、和名抄によれば、美和郷の範囲は予想以上に広く、一の宮村を本拠と為し、北は三輪川の酒見神社(倭姫命の元伊勢・中島宮所在地)、西は南木、宮地花池、南は妙興寺から氏永、国府輪まで及んでいます。現在で考えると、名鉄の今伊勢駅から名鉄国府宮駅辺り(尾張大国霊神社)までが美和郷の南北軸。そんな三輪さんの一大拠点で天火明命を祀るなんて有り得ません。原初の真清田神社は天火明命(天火明命は明治以降の話)などではなく、大物主神(或いは大国主命)。

と言うことで、なぜ熱田神宮が三宮なのかも含め酔石流で再構成してみます。尾張国一宮の真清田神社は本殿真裏の現・三明神社鎮座地(三つ鳥居のあった場所)が三輪山の大神神社と同じ大物主神(或いは大国主命)を祀っており、これが本来の事実上の一宮。奈良時代に赴任してきた国司が真清田神社と大神神社を纏めて相殿・対の宮とした(←これが真清田神社も三輪さんの神である証拠の一つ)ので、真清田神社と大神神社の二社が尾張一宮。尾張二宮に関しては大神社のすぐ南に二之宮、さらに南には二ノ宮と言った地名が見られることから、大神社が尾張二宮(と推定)。大神社の近くに、一宮市大和町於保四之宮の地名があることから、今は存在しない尾張四宮が想定される。ここまでの中に三宮がないから熱田神宮を三宮に充てた。

要するに上位三社は全て一宮市内(美和郷内)に鎮座する大和の三輪氏系と多氏系神社で独占。尾張氏は新参者(三輪さんが来た頃は年魚市潟で魚釣りや塩つくり。熱田に来たのは大化2年で、このとき熱田大神=草薙神剣が座したと「朱鳥官符」にある)だったので後回し。大県神社を尾張二宮にすると熱田神宮が三宮になる理由をうまく説明できません。ただ、大県神は諏訪神の御子神の中に名前があるようで、御頭祭で神使が巡回する場所に大縣(おあがた)があり、それが理由で後から二宮としたのかも…。まあ、推測の部分も色々ありますけど、別格とも言える古参の神様に配慮すれば上記の順位になり、結構筋も通っているのではと…。

美和郷は本当に面白い場所で、以前チャリンコを借りて走り回り、あれこれ謎解きに精を出しましたが、古宮の地名がある大和町馬引には、なぜか郷戌亥(いぬい)、郷辰巳(たつみ、南東)、郷丑寅(うしとら、北東)、郷未申(ひつじさる、南西)などの方位地名が存在し、他にも辰巳河原、大和町乾出や東西南北のそれぞれが付いた地名もあります。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月06日 01時17分37秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ありがとうございます。


>原初の真清田神社は天火明命(天火明命は明治以降の話)などではなく、大物主神(或いは大国主命)。

明治維新で津島神社も祀る神様が増えたと聞きました。


現在から過去を見ては間違えますね。
ドンドンずれて行く。




レス<6>の

>三ケ日町只木の神明宮も元は三輪氏の大物主命を祭神とする式内社弥和山(みわやま)神社

これは福島出身の友人にメールしました。

友人宅は仙台藩の家老だった橘姓但木氏の一族で=明治維新後に斬首=(只木の字も使っていたことが家書にある)

それで「静岡の只木って?」と疑問でしたが(なんで静岡?と)
お蔭さまで昨日は三ケ日人の只木遺跡や只木の神明宮を話題に盛り上がりました。

浜名湖あたりは出雲族だらけだったのかと。

    友人からの伝言:
    ありがとうございます
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月08日 01時06分33秒 ) パスワード

三つ柏さん

浜松一中の食中毒事件の記事
https://bunshun.jp/articles/-/38219
[19]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年06月08日 09時05分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 このところ随分暑くなりました。ほぼ真夏です。温度と湿度と集中力の相
関関係を科学的に分析すると面白いかも知れませんね。ハワイでは、温度は
高いけれど、湿度が低いので、日陰では涼しいのでしょぅか。
 新型コロナウィルス禍も日本ではひと段落、コロナという言葉にももうう
んざりです。ハワイではいかがでしょぅか。

 浜松一中の食中毒事件は、ウィルスではないにしても細菌によるものであ
りました。昭和11年の5月の出来事でした。二・二六事件が起こった年で
あります。細菌兵器も研究されていました。その時の1中生は、生きていれ
ば100歳前後ですので、もうほとんど残っていないことになります。
 校内に「碑」が建っております。サルモネラ菌が原因と聞いておりますが、
正確には「ゲルトネル菌」のようです。ネズミ等に寄生しているようです。
 新型コロナウィルスも蝙蝠に寄生してたいたということで、動物にはくれ
ぐれも注意が必要ということですね。

 このところの酔石亭主様、あを様よりの情報量が多かったので、この3日
間位はそれらの情報の整理、関連調査等を行っておりました。相変わらず雑
用も多いので遅遅として進みませんが、それでも少し方向性は明るくなって
まいりました。
 まずは、「浜名湖周辺は出雲神族が満ち溢れている」という酔石亭主様の
ご指摘に関して。次に「三輪氏」について。これらについて、少し調べてみ
ましたので報告いたします。

 それにしても、また雑用で一時中断いたします――
 
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月08日 13時12分03秒 ) パスワード

三つ柏さん

ハワイは湿度  高いですよ。

不思議なのは湿度が高くても青空で
湿度が低くても雨だったりします。

湿度が高くても歩いて5分では汗まみれにはならないです。
歩いて10分後ぐらいだと汗がひどくなって来ます。
でもサラサラの汗   かな?

名古屋の夏は玄関を出たら汗が瞬間にドッと噴き出すのに比べたら快適の方です。
こっちはベットリの粘質系の汗  かな?


ラスベガスは湿度が極端に低いので汗が毛穴の出口0.5mm内側で留どまるので汗腺が詰まる感じで
汗かけない毛穴の詰まった感じは気持ち悪いので、汗は出る方が本当に良いです。


今朝は3時間歩いたのですが
     明朝は歯のクリーニングの予約があって午後からはプロバイダーの修理屋さんが来るので
明日の分もちょっと、今朝、こなしたのですが
途中で休憩に石塀に腰を掛けてたら立ち上がるのが面倒になりました。
     たぶん熱中症一歩手前の感じ?
 

今は最高気温が31℃、最低が24℃です。
ラスベガスはもう40℃を越えてると思いますが湿度が低いので42℃あたり迄はまだまだ快適です。笑


昨日は土曜で「仮面ライダー」を見終わったら外がすごい音で
ああ、嵐が来てるのか
と思ったらBLMのデモのシュピレヒコールでした。「黒人の命も大事」運動のことです。

7ブロック  デモ隊とは反対側でついて行って  どのぐらいの人数か  を知りたかったのですが   
(数千人だったそうです)
途中で諦めて帰宅したら丁度「映画コナン」の「ゼロの執行人」編の時間でした。

            公安組織って3種類あるというのは知らなかったです。

            警察の公安   これは誰でも知ってるのですね
            検察の公安?
            もう1つ。   ワケ分からなかった


https://www.excite.co.jp/news/article/Myjitsu_013796/
                 『警察庁や都道府県の公安部門』
                 『公安調査庁』
                 『公安委員会』

基本的には、
犯罪捜査は公安警察で、情報収集は公安調査庁、各届出や警察への苦情などは公安委員会の仕事、
公安警察と公安調査庁は仕事の内容が一部重複することから連携して動くことも多い
だそうです。



昨日の「映画コナン」は「公安」のハナシと「ドローン」のハナシと「ハヤブサの帰還」のハナシのセットで
大人が=ワタシだ=見ても充分  ついてけない  のが良かった。笑


さきほど「麒麟がくる  第21話」を見終わりました。

演出が源義経みたいに、
今井翼が(ワイアアクションで)2mの高さから今川義元を討つシーンがありましたが
義元の両目に毛利新介が映ってましたね。

     良い演出でした
            今回の大河って演出がすっごく遊んでますよね



だけど  突っ込みどころ満載の今回の大河  今回も主役は  いったい 誰?  状態。

そして今回の帰蝶さんは全然冴えない  フツーのおんな  でしたね。  光秀からの指示が得られなかったから。


結婚して10年
子供がいないから外のオンナに産んでもらった

と言ってましたね。


信長26歳 マイナス 10年  =帰蝶さんと結婚したのはやっぱり  16歳あたりですね。

やっぱり彼女の方が年上なのかな?

    一応帰蝶さんは14歳で信長と結婚したそうですが
    その前に2回土岐の兄と弟=土岐頼純と土岐八郎=と結婚しているから    14歳は無いんじゃない?  と思います。


今回やっと桶狭間の時の家康の動向が  ちょっと  分かりました。
これまでの大河では分かり難かったです。

家康が大高城に兵糧を運んだ時にホンヤさんとこも舟で協力してた話をさちこさんから教えられて
ここまでは理解出来ていたけれど

その後の家康の動きが全く理解出来なかった。

          今回の大河で  ああ、そういう事だったのか  と。
          織田方の砦を襲ったのは知らなかった。


最後の紀行の部分で
名古屋市案内で  桶狭間のエリアが広大だという説明で  それでアチコチに「桶狭間古戦場跡の碑」があるのかと分かりました。

     誰も信じないけど      馬を見に行ってただけだよっ   番号背負ってる馬だけど
     あの近くに競馬場があって
     中京競馬場駅の近くにも碑があって
     駅の名前にも「桶狭間古戦場駅」があったような?
     (どうしてアチコチに「桶狭間古戦場跡」の碑があるんだろう)
     と不思議でした。

         だいたい名古屋市内に桶狭間の古戦場があった?  と書いてる本人も意味不明
         大高は名古屋の子供が遠足に行く遠い遠い場所   公園が戦場跡?そんな所に子供を遊びに行かせる?

              全くこういう背景が分かって無かったので

              アチコチの行政が「桶狭間古戦場跡」の碑を建ててただけだったのかと
              やっと距離感が・・・謎・・・方向音痴のワタシに掴めた?
              
              要するに  鳴海も大高も善照寺も丸根も中島もその他も  桶狭間の戦いに関係した場所  ってコトだったのかと。

              それでアチコチが桶狭間の戦いの舞台・舞台で
               今川義元が討たれるまでの背景と時間がバラバラにあったという紹介だったのか、と。


                  方向音痴の理解がやっとココまで辿り着いた   汗


それにしても  熱田神宮での戦勝祈願は無視されたし  「加藤!今日の戦いは勝とう!」の駄じゃれも無視されたし

期待はみごとにスルーされました。


本日の回で分かったことは

家康ってメンド臭い優柔不断のオトコだったんだね。
それが22歳の時には既に始まってたんだね。
なかなか本心が分かり難いオトコだったんだね。


鵜殿長照が  「なんだ!まだ飯なんか喰ってるのか?」  と入って来た時の松平側の様子は
あれは関ケ原の時の某家のサボタージュのパクリの演出でしょうね。

       ホントに今回の大河の演出は  遊びに遊んでいるな  と思います。


やっぱり明智光秀が主人公というのにはムリがあるな、と。
大河の1年分の放送の半分以上がワキの存在だものね。

でもお蔭であの時代の「脇の人々」が生き生きとしてる。
松永久秀とかね。

滝藤賢一演ずる将軍足利義昭がどんな風に演出されるのか今から楽しみです。


あ、コッチのコロナ対策はまだまだ真剣にやってます。

どうやら8月一杯まで飛行機はハワイに入れないし
観光客はお断り方向で   

でも日本からの観光客だけはオーケーにしようか  
という方向でのハナシも出てるような?

うちの近所の教会は7月からミサを始める予定のつもりらしいです。
ハワイはまだまだコロナ禍、続いてます。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月09日 08時11分26秒 ) パスワード

こんな小さな信長の小競り合いの戦いを読みました:


場所は尾張領内で
時は結婚して数年後

今川方に寝返った者がいて
信長が成敗することになりました。向こうは信長の首を今川への手土産にしたいし。


戦う者達はもともと尾張人だし  もともと織田方だったし。
それで互いに顔も名前も知っている仲。


で、2時間も槍を合わせ刀を振り回し互いに疲れ切って休戦に。


ここからが面白かったのです。

互いに知らない者同士じゃないし

それで捕虜の交換をし
敵陣に迷い込んだ馬を返してもらいに行き


身内同士の喧嘩レベルの戦いなので   ほのぼの感があって  ココに書いてみました。
[24]酔石亭主さんからのコメント(2020年06月09日 10時34分47秒 ) パスワード

空の青海のあをさん 三つ柏服部さん 

レス13
>中臣氏=藤原氏=がちゃっかり乗っ取ったということでよろしいでしょうか?

中臣氏=藤原氏の乗っ取り技に関して、三輪氏、出雲神族、蘇我氏を絡めてちょっと書いてみますね。以前から不思議に思っていたのですが、房総には出雲臣(天穂日命)系の国造が非常に多くなっています。大昔に出雲から出雲臣の御師がわざわざ房総まで出かけるとは考えられず、かなり新しい話のはずとまでは思っていました。以前にも書きましたが、服織神社は最初に三輪氏が来て建御名方神を祀り、続いて蘇我氏の乱を逃れた秦氏と服部氏が644年頃やって来て、機織りの神社としての服織神社になり、彼らが去った後の708年が服織神社の創建となり祭神を天穂日命にしています。Wikiには、『古事記』によると建比良鳥命が遠江国造の祖とあり、出雲国造、无邪志国造、上菟上国造、下菟上国造、伊自牟国造などと同系とされる。とあります。(出雲国造以外は全部東国)となると、建比良鳥命が遠江国造の祖である点と、房総の各国造の話は連動している…。

遠江国造に関してお二人の意見も知りたいところですが、実際に国造となった氏族は物部氏との理解でいいのでしょうか?その前提で、蘇我氏に敗れた物部氏の力が弱まり、出雲臣系が入り込んで祖神の入れ替えが起きたとしておきます。祖神の入れ替えが起きたのは708年で、出雲国造の地位を失った出雲臣が財政難に悩み遠江国造に自分たちの神札を売りつけたのではと…。この見方に対して、律令時代に国造はいないとの反論が出そうですが、「続日本紀」には国造を賜うの記事がかなりの数出てきます。旧国造族などに対して単なる名誉職としての国造を与えたのかもしれません。

一方、よくよく考えると、この時代に出雲臣が勝手に神札を売りつけるなど不可能で、背景には藤原不比等の了解があったと考えられます。そこで三輪氏ですが、上伊那郡辰野町に三輪神社が鎮座、諏訪大社上社北方の大和(大輪)が諏訪郡美和郷で建御名方命の末裔・神氏のいた所とされ、長野市三輪に式内美和神社が鎮座と、特に逃げたと言うことでもなく、遠江から北に向かっている様子が伺えます。東は静岡市の浅間神社は三社で構成されその一つに神部神社があり祭神は大己貴命ですから、社名・祭神共に三輪氏が関係していると思われます。

ここから先は推測・想像ですが、三輪さんの別動隊で建御名方神を奉じた戦闘的な一団が関東に至り、房総半島一帯に建御名方神の神札を売りまくり、地方豪族に買い取らせた。建御名方神はダイダラボッチでもあるので、関東でのダイダラボッチ伝説は、これが理由でと推測しますが、房総に集中しています。彼らの活動により、鹿島の武甕槌神の領域が荒らされ両者の間で神様をめぐる争い(武甕槌命VS建御名方神)も起きていた。出雲神族とは浅からぬ縁のある蘇我氏(出雲神族・富家伝承では同家の彦太が越前の蘇我氏に婿入りしたのが後の継体天皇)もこの地に至り、東北の資源獲得などの足場とした。結果今も蘇我の地名が残り、蘇我比?神社も鎮座している。

時代は下り藤原不比等。過去に自分たちの氏神の領域を荒らした出雲神族にこの野郎と思った不比等は出雲臣から国造としての支配権を取り上げる代償として遠江だけでなく房総などでの神様商売を許した。出雲臣の背後に不比等の存在がある以上、房総の豪族は拒否などできず軒並み出雲臣系に替わり、同時に房総の蘇我氏も貶められた。蘇我比?神社など由緒に『第十五代応神天皇は、特別の命により蘇我一族をこの周辺の国造として派遣し政治をおこなわせました。 蘇我一族は、代々「春日神社」「比?神社」を守護神としており、両神社の御分霊をいただき「蘇賀比?神社」を建立しました。』と書くほどの立場にされてしまった。不比等にしてみれば一石二鳥いや三鳥、江戸の敵を長崎でとなる。

以上から、国譲り神話の武甕槌命VS建御名方神は出雲ではなく東国の話だったことになります。神様同士の争いは、現実に置き換えると神様を奉じる一族同士の争いであり、建御名方神は東の方向に活発な動きがみられますが、武甕槌命は不比等が710年に或いは藤原永手が768年に現春日大社の鎮座地に遷座しただけで、それ以外の動きは見られません。(注:神武天皇を熊野で助けていますが、彼が高倉下に渡した剣は物部氏の剣なので、初代天皇も助けた藤原氏の祖を強調したくて、名前だけ出させたに過ぎないと思われます)

建御名方神が房総にまで至った根拠がダイダラボッチだけでは弱すぎますが、武甕槌命と建御名方神が出会う場面は上記から東国以外になさそうです。律令制により豪族による連合政権から脱却し、710年の平城京遷都により他の豪族を天皇家から切り離し(不比等による皇室の囲い込み)、政敵を排除した上で自分の氏神を春日に遷す行動は時系列的にも一連のものとして語られると思われます。超賢い不比等のことですから、そうしたグランドデザインを基にした行動の一環と考えれば、房総に出雲臣系国造が多いことの説明として筋が通るのではないでしょうか?まあ、日本国の総取り戦に打って出た不比等にとって、房総作戦は小さなピースの一つに過ぎず、天御桙命を中臣氏の系図に組み込むなど系図屋さんにほとんどおまかせで作らせたものに過ぎないでしょうね。

あまり精査せず書きましたので間違い等があれば、是非ご指摘のほど…。
[25]酔石亭主さんからのコメント(2020年06月09日 10時45分32秒 ) パスワード

空の青海のあをさん 三つ柏服部さん 

蘇我ひめ神社の表記ができなかったようです。ひめの「め」は口偏に羊です。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月09日 23時26分51秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ありがとうございました。


>建御名方神はダイダラボッチ

ダイダラボッチが実は建御名方神ということ、全く連想していませんでした。

一寸法師の対局に大男がいるのは理解できるので、それがダイダラボッチ、と思い、元々は建御名方神
にまでは全く思い至りませんでした。

説話(神話・伝説・民話)は奥が深いんですねぇ。


日本の神様のハナシは西洋の一神教の神とは全く違って、いろいろ変化するので、
途中でついていけないし、
先祖のハナシにすり替わって、1つのハナシがいろいろなバージョンに化けるので

逆に  不比等はスゴイ人だった   という話が  聞いてた以上にホントにスゴイ人だったんだね  
と上記レスで改めて納得しました。

     奈良時代平安時代そして現代の日本や日本人に至るも影響力を及ぼしているのですから日本史上最高の脳を持った人だったのか。
     畏怖
     「日本の国」そのものを乗っ取ったオトコ「今に至るも」。     

藤原姓の出現で源平藤橘の時代への幕開きとなって「八色の姓」制度が吹き飛ぶんだものね
もう言葉もありません。


古代豪族など不比等の前には雑魚でしかなかったのかと。
鎌足は不平分子のチンピラと思って来たけど。


酔石亭主さん、改めて感謝しております。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月10日 14時58分44秒 ) パスワード

給付金を貰ったら遺跡に行って来たら?

鎌足は不平分子のチンピラと思って来た


についての軍事ヲタクで古代史マニアの友人から:

        
行くとこ無い。
最近大発見無いしね。

飛鳥の都塚古墳がギザのクフ王のピラミッド並みの壮大な古墳だったという発見と,
明日香の明日香特別支援学校古墳と横の菖蒲池古墳と言う小さな古墳が,
内部の壮麗さから,蘇我蝦夷と入鹿父子の双墓(ふたつはか)以来止まってますから。
明日香なんざ見るとこ無いし。


菖蒲池古墳ですけど,聖徳太子と言う謎の人物が誕生したという伝説をもつ橘寺のそばにあるので,聖徳太子関連の古墳とみられていました。


聖徳太子を用明の長男の厩戸皇子とみると穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ=異母兄・用明天皇の皇后)の墓とみられていました。

この女性,用明天皇の死後,  実は田目皇子=用明天皇の第一皇子=と不倫関係になり,佐富女王を妊娠して捨てられました。
日本書紀にそう書いてあります。


この時代,推古は強姦未遂の被害者になるし,
用明の皇后の穴穂部間人皇女は不倫して,妊娠して捨てられます,しかも,田目皇子は用明の子ですから,義理の息子とHして妊娠ですから。


私は継体から欽明への皇統について,日本書紀読んでも,継体が武力で奪い取ったとしか思えないのです。


継体以降,天武まで皇統は相当ごたごたしますし。


しかも,これも日本書紀に書いてあるのですけど,

蘇我馬子が葛城は社稷の地だからほしいと推古におねだりしましたけど,
推古の答えも謎で「葛城は,卿(馬子)の社稷の地であることは承知しているが,
朕にとっても社稷の地である。
葛城を卿に渡すと,だから女はだめだと言われる」
と言って断ったと書いてあります。

これ単純に読むと,天皇家と蘇我家は同じ親戚だったということになります。どっちが本家かわかりませんがね。


私は,天智の蘇我入鹿暗殺こそが,大逆事件だったと思います。
だから,天智は入鹿を殺した以外,何もできなかった。


私は,天武は蘇我系の天皇で,蘇我系が当時天皇としては正当だったと思います。


壬申の乱は,武力で皇統を奪った天智と藤原鎌足に対する,正当な皇統に戻そうとする勢力の戦いだったと思います。

よって逆賊は天智と藤原鎌足だったと思います。



近鉄飛鳥駅の近くに,正しい欽明陵と言われる丸山古墳があります。
その隣に宮内庁が,欽明陵としている欽明陵があります。


猿石等の石造物がありますが,ここが双墓だという説もあります。


宮内庁が欽明陵とする古墳には,蘇我蝦夷・入鹿の墓だという説もあります。
宮内庁の欽明陵は,明治時代,小さな二つの古墳を改装して,前方後円墳にした古墳です。


私は,欽明陵は怪しい天皇陵だと思っています。

その500m位上に,植山古墳と言う古墳があり,
ここは推古と長男竹田皇子を合葬した古墳とされていますけど,
ここの古墳,復元されていますけど,城壁や衛兵詰め所まであります。


宮内庁の言う推古陵は,大阪にありますが,私はここも嘘だと思っています。


最近,天皇陵と皇族の墓である陵墓参考地は全部嘘と言われていますけど,私もその通りだと思います。


宮内庁が天皇陵や陵墓参考地と言う古墳のメッキが相当はがれてきていると思います。
だから天皇陵と陵墓参考地を管理している宮内庁書陵部はいらないから解体してしまえと言いたい。
(宮内庁自体が要らないと思います)


__________________________________

天智と天武は実の兄弟なのかどうか   古代のことは本当のところはどうなのか  謎だらけです。

明治維新で宮内庁がバタバタとテキトーにいろいろ決めたのだろうなとワタシも思っています。
[28]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年06月10日 17時14分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 宮内庁といえば、正にこれ以上の権威はないのであります。権威は、これ
以上の真実はないと門戸を閉ざしています。

 「宮内庁」というもののそもそもの成り立ちを考えなければなりません。
 「神社庁」も同じように権威の塊であります。

 宮内庁の管轄するものに「天皇陵」があります。欠史八代と言われる天皇
にも、ちゃんと宮内庁の公認する「天皇陵」が奈良に存在します。もちろん、
初代の神武天皇の陵墓も奈良市橿原市にあります。

 天皇の陵は「りょう」ではなく「みささぎ」と言われております。
 九代までの陵は、どうやら「円墳」(?)のようであります。
 十代目の崇神天皇の陵からは、「前方後円墳」となります。

 私が不審に思うのは、「円墳」は常識的に考えれば、土盛りの延長であり
ますので、丸く土盛りするということはごく自然の成り行きだと思うのです
が、十代の崇神天皇になって、いきなり「前方後円墳」になるということは、
大変不自然な成り行きであります。

 ここに、何か隠された秘密があると思われます。
 あを様いかがでありましょうか?

 出雲の東進、三輪氏の東進(その他物部氏の東進、秦氏の東進)ということ
で水石亭主さまより啓発を受けまして、改めて見直しております。
 古代の一番深いところの問題ですので、浅学の私にはなかなか高みに這い
上ることができません。
 私がテキストと仰いでおります大加茂信也氏の『八咫烏の超日本史』を改
めて読み返してみましたところ、大かたの問題に回答がえられました。
 「興味」を抱いて本を読むと全く違った風景に出会うから不思議です。
 そういった意味で、刺激を受けるということの大事さを再認識しておりま
す。

 大加茂氏の著書の内容は、「賀茂氏と三輪氏で全ての謎が解ける」という
ものであります。詳細については、これから簡潔にまとめてみたいと思って
おります――
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月10日 23時26分32秒 ) パスワード

三つ柏さん

纏めたのを是非読ませてください。

古代というか神代はグチャグチャでワケ分からない。


            グチャグチャ書いてたら  わたしはアホか  と思えて来て  削除。


最近  沖縄言葉で語るNHKの番組を見るようになって  字幕が出るので  沖縄の言葉って  日本語の方言だなと思うようになりました。

トカラ列島が平家の日宋貿易の港であったことを知って  
平家が滅亡していく時に
沖縄に逃れたとかトカラに逃れた  というのを信じるようになりました。


>刺激を受けるということの大事さ

はい

本を読むこと  人と知り合うこと  行って来ること
やっぱり大事ですよね。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月12日 23時54分06秒 ) パスワード

昨日  2018年10月31日放送の  又吉直樹のヘウレーカ!「僕はどこから来たの?」を見ました。


     ヘウレーカって   εuρηκα   Eureka  のことでしょ
     だったら発音は  屁ぇ〜鰤かァ〜  じゃないのか?  又は  ゆーりーか   ← 学校ではコッチで習った記憶

             わたしのギリシャ語の勉強不足?
             なんで  ヘウレーカ  hěurɛːka  になるのか  何が省略されてるのか  ソコんとこが不勉強で分からない
             せいぜい想像するのは   現代ギリシャ語?



で、又吉直樹のDNAを調べた結果

母方が  M7b1a1a1     浙江省の方向から日本への流れ     南から来たってことだね
父方が  D1b って言ってたような。   日本と沖縄の間あたり

    検査した篠田謙一さんのは  N9a  だとか。


D1bというのは  タイ  に多くて  その次が  チベット  日本には3分の2ぐらいいて   その他  韓国や中国南部や台湾にもほんの少し  ほんの少しね  いる。

チベットに多いのは  高い山々の世界だから  外へ行かなかったから残ったのだろうと。



今、検索したら  日本でも再放送してたんですね。

https://www4.nhk.or.jp/heureka/3/

以下コピペ



6月10日水曜
NHKEテレ1
午後10時00分〜 午後10時45分
選「僕はどこからきたのですか?」


21世紀に入り、ゲノム解析が進んだことで私たちのルーツが一気に解明されてきた。
古い人骨からも一部を削ってDNAを調べるとルーツがわかるようになっている。

最近では、都内のキリシタン屋敷で見つかった人骨が、イタリア人で迫害を受けていた宣教師のものだと判明。


研究にあたる篠田さんは、DNAを調べていくと、世界各地の人々は結局つながっていて、国や民族などで分けることができないと語る。

【出演】又吉直樹,【解説】国立科学博物館研究主幹…篠田謙一,国立科学博物館 人類研究部…坂上和弘,【語り】吉村崇



7月あたりに再放送があると良いですね。
お見逃し無く!
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月13日 01時12分16秒 ) パスワード

軍事ヲタクで古代史マニアの人からの情報
以下コピペ:

地震を古代は「ない」と言いました。

漢字で「鳴土」と書いたようです。
土が鳴く、と言う意味でしょうかね?

日本最古の地震の記録は,416年の允恭地震です。
允恭天皇の時代なので,この名前があります。

今の奈良県明日香村周辺が震源と日本書紀に書かれていますので,遠つ明日香地震とも言います。

ただ被害の記録ないので,直下型地震と思えます。


                    天正大地震だっけ?
                    秀吉の時代の大地震。

                    これは9年前の東北大地震よりずっと大きかったという記事を最近読んだ。



尖閣諸島に中国は中国名を付けたようですね。
ただ,私は劉備の例もありますので,
中国は本気で尖閣取りに来ないと思います。

中国が,このあたりで一番欲しいのは台湾でしょう。

尖閣は,那覇から北に200kmですし。飛行場もない港もない。使いようがない。
多分,中国が侵略するとしたら,石垣島でしょう。
なんせ3,000m以上の滑走路持つ空港が2か所ある。

石垣港は,喫水10身上の軍艦も入港できる。
中国は空母を2隻持ってますけど,2隻とも石垣港に入港できます。


劉備が荊州を取ると公言して,曹操を油断させ,蜀を取った方法をとるでしょうね。


ただ,海上自衛隊と台湾海軍の実力では,中国海軍まだ歯が立ちません。


                       この文章、軍事系はサッパリ門外漢のわたしには  ドッチがドッチか  さっぱり分からない。
                       たぶん  中国海軍にはムリ  という意味だろう。


                        わたしは  香港 → 台湾 → 沖縄 → 日本の順番だと思ってる。



新型コロナですけど,不思議なことが多い。

大阪に先に患者増えましたが,東京はそうでもありませんでした。
反対なら分かりますけど。

それと,最後まで岩手県に患者出なかった理由です。
それと,もう一つ不思議なのは,富山県です。

富山県も患者,長いこと皆無でした。近隣の石川や新潟に患者いるのに,富山県だけいませんでした。これも不思議です。

北陸新幹線の終着駅が,金沢だからだと言う医者もいますが,
だったら,北陸新幹線の通っていない福井に何で患者いるのだという疑問がある。


福井より富山のほうが観光県です。
福井なんか,観光地余りありません。
観光客が多い金沢は分かりますけどね。


新型コロナ,相当入念に見直ししないと,2次感染の手が打てないと思います。

                        わたしは今年の冬至から来年の春分の間が正念場だろうなと思っています。
[33]酔石亭主さんからのコメント(2020年06月13日 07時33分36秒 ) パスワード


空の青海のあをさん 三つ柏服部さん 

レス27 >これ単純に読むと,天皇家と蘇我家は同じ親戚だったということになります。
レス31 >新型コロナですけど,不思議なことが多い。

新型コロナの不思議も蘇我氏大躍進の謎も、それを解くにはファクターXが必要になるんでしょうね。蘇我氏の場合このファクターXこそが出雲神族。さすれば、蘇我氏の謎も天皇家の謎も全部とは言わないまでも、ほとんど解けてしまうかも……。ちょっと前に三つ柏さんが古代史を知るためには蘇我氏が重要だと指摘されたこともあり、いいタイミングなので馬の骨・蘇我氏成り上がりストーリーを検討してみます。

以前から蘇我氏でわからないと思っていたのは、稲目の段階で突如中央政界に躍り出たように見える点です。しかも、稲目の前の高麗は記紀にも記録がなく何の事績も見られません。そんな人物の次になる稲目がなぜ突如脚光を浴びる身になったのか?この謎を解くカギが出雲神族にありそうなので、継体天皇も絡めて書いてみます。

出雲大社本殿本殿の北側に素鵞社(そがのやしろ)と言う神社が鎮座しており、祭神は素戔嗚とされています。でも、実際の祭神は男大迹王(継体天皇)だとか。出雲大社の領域になぜ蘇我氏を想起させる名前の社があり、継体天皇が祀られているのか?この辺に出雲と蘇我氏、継体天皇を巡る謎の核心部がありそうです。と言うことで、まずは蘇我氏の居住域をwikiから引用します。

河内の石川(現在の大阪府の石川流域、詳細に南河内郡河南町一須賀あたりと特定される説もある)および葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)を本拠としていた土着豪族であったとされる。(注:先祖は沼津市石川にいたとの説もあり)

次に馬子に至るまでの系譜です。

武内宿禰―蘇我石川−蘇我満智−蘇我韓子−蘇我高麗−蘇我稲目−蘇我馬子

彼らの人となりや年代を以下で推定してみます。

天平宝字6年(762年)の石川年足墓誌では、「武内宿禰の子宗我石川宿禰命」とあります。武内宿禰は殆ど伝説の人物で多くの氏族の祖とされ、その中に武内宿禰の子となる葛城襲津彦がいて4世紀末から5世紀前半頃の人物となります。よって、蘇我石川(姓名のどちらも地名)と葛城襲津彦は同時代の人物。その前提で考えれば、蘇我石川は400年代前半頃に河内の石川にいた人物(推定生年400年、没年440年頃)となります。

蘇我満智は「古語拾遺」によると雄略天皇の時代に秦氏や漢氏を使って内蔵、大蔵等の管理をしたとのこと。雄略天皇の在位は457年から479年であり、これに石川の年代も踏まえると、蘇我満智は420年から460年頃の人物で、彼の代に葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)に移住した可能性があります。

「日本書紀」によると蘇我韓子は雄略9年(465年)に征新羅将軍の一人として紀小弓、大伴談等とともに朝鮮に派遣されていますので、440年頃から480年頃の人物になります。ここまではうまく繋げられました。

蘇我高麗は業績等の記録が一切なく不明ですが、460年から500年頃の人物と想定されます。

その次の蘇我稲目は生誕年が506年頃?で、536年に宣化天皇の大臣となり没年が569年。稲目の娘・堅塩媛は欽明天皇妃で用明天皇および推古天皇の母。小姉君も欽明天皇妃で崇峻天皇の母。石寸名は用明天皇妃。これらからわかるように稲目の段階で蘇我氏は天皇の妃を出す立場を得たことになります。以上で稲目の時代に大躍進を遂げた蘇我氏の系譜を年代的にほぼ復元できたことになりますが…。(注:各人の寿命を40年に設定しています。飛鳥時代の平均寿命は30歳とされており、蘇我氏の場合一般の庶民よりは長命でしょうから妥当な数字だと思います)

この年代特定の作業をしていて奇妙な点に気が付きました。高麗と稲目の間が一人飛んでいるようにも思えませんか?

この辺に隠されたものがありそうな気がします。

稲目の前の高麗は何の事績も記録もありません。なのに、その次の稲目が突然高い地位に成り上がったのはあまりにも不自然です。もう一つ不自然な点は稲目の妃が誰か不祥な点です。皇妃になった女性の母の名前がわからないなどありえないと思えます。

稲目の妃問題はさて置いて、蘇我氏は、高麗と稲目の間の人物の時代(継体天皇の時代)に目には見えない大きな動きがあり、稲目の代になって一挙に中央政界に躍り出たとの推定が成り立ちます。やはり、高麗と稲目の間の誰か、すなわち推定生没年が480年から520年頃の人物が系図から消し去られているのです。消したのは多分藤原不比等。ここに蘇我氏大躍進の謎と実質継体天皇に始まる天皇家の重大な秘密が隠されている。だから不比等は蘇我氏のある人物を系図から抹消するしかなかった、などと推測されます。

蘇我本宗家滅亡の際、すべての文書は焼き尽くされましたので、当時の最高権力者不比等にとって滅亡した蘇我氏の系図に手を加えるなど、造作もないことです。と、勝手に盛り上がったところで一旦切ります。ここから先は富家伝承を参照しつつ書きますが、伝承自体が「ふわふわしたお話」なので、これを現実のフレームの中に落とし込む必要があり、かなり厄介な作業となるからです。
[34]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年06月13日 13時21分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 やっぱり古代史は"はまる"……つまり、研究者ごとにそれぞれの古代史が
あり、それぞれのくい違いがあり、整合した骨太の真理ストーリーが、なか
なか見えてこない。それは決定的な証拠がないからでもあり、またそれぞれ
が自説という牙城に籠る傾向が強く、また共同研究というコラボが少ないか
らであります。
 そんな現実を踏まえ、古代史は"当たらずとも遠からず"でいいのだと、い
つも自分に言い聞かせています。"大きな流れ"さえつかむことができれば、
あとは想像力・推理力の世界だと思います(それをロマンと言う)。

 証拠と推理……いわば法相(ほっそう)の世界と同じであります。ならば、
古代史マターについての最終の"最高裁"もあっていいのでは?とも思いま
すが、あを様いかがでしょぅか?
 (いつもこんなテイタラクな愚痴ばかりですみません。これは私自身のジ
レンマストレスに対するガス抜きであり、気分転換であると解釈していただ
けましたら幸甚であります。)

 さて、梅雨入りして、暑くムシムシしてまいりました。集中力もなくなり
ます。机の上や周りには30冊くらいの本が開け広げられたおります。
 全体のストーリーの「きっかけ」と「展開」……それが頭の中にまだバッ
チリとは降りてきていませんが、何とか見切り発車してみます――

 「三輪氏」について――

 親戚に三輪氏があり、かつてちょっと調べたことがありますが、余りよく
わからなかった。確か、尾張や美濃との関係がちょっと頭に残っていて、そ
れは酔石亭主様のご指摘されたとおりなのかなと思います。渡辺三義氏の
『静岡県の苗字』は中途半端な本ですが、それによりますと、磐田に今川範
国や今川義元に仕えた三和氏と三輪氏がいることが書かれております。その
中に今川氏から家康・信吉・秀忠へ仕えた三輪氏がいると書かれております。

 三輪氏自体、一般には余り知られていません。中世から現代までの歴史の
中で、印象に残る人物も事象もなかったからだと思われます。
 芳川という所に叔母の嫁いだ親戚があるのですが、その三輪家は昔大庄屋
で、その後地方銀行を興したりしています。
 但し、浜松市史などには三輪氏についての記事は、今のところ発見してい
ません。現在は浜松メイヤーとも親戚になっています。

 一般的な言い伝え(今の人は知らない)によりますと、古代カモ、ミワ氏族
の住んでいたと言われる所に、銅鐸が多く分布しているという傾向があるそ
うです。
 浜松にも三輪氏族が多いのですが、それに比例するように銅鐸も多く(全国
でも上位)出土しています(但し、浜松と言っても、古代と現在とでは氏族の
地域的分布状態は違っております)。新居の大神神社や三ケ日の弥和山神社は
三輪氏の居住を物語っていると推測されます。

 三輪氏は出雲臣であるということですが、それは広く言えば物部氏族でも
あるということになります。
 物部氏の東進と三輪氏の東進はシンクロしていると思います。
 この地方の銅鐸は、気賀で作られたと言われておりますが、気賀は昔の伊
福郷と比定されており、物部氏族の伊福部氏が銅鐸を作ったと推定されてお
ります。

 三輪氏は一般的には賀茂氏と同族であると言われております(私はつい最近
まで、別系統だと思っておりました)。それは大加茂真也氏の本の中で示され
ており、三輪氏と賀茂氏は兄弟でつながっており、賀茂氏には隠されている
7代の祖先がいて、それは三輪家の系図には示されているということであり
ます。その系図を見ますと、なぜ三輪氏や賀茂氏が力を持つのかがわかりま
す。
 その詳細は、次回に――

 
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月13日 13時37分45秒 ) パスワード

酔石亭主さん


>蘇我氏は、高麗と稲目の間の人物の時代(継体天皇の時代)に目には見えない大きな動きがあり、
>稲目の代になって一挙に中央政界に躍り出たとの推定が成り立ちます。

>やはり、高麗と稲目の間の誰か、すなわち推定生没年が480年から520年頃の人物が系図から消し去られているのです。


>>>>消 し た の は 多 分 藤 原 不 比 等 。


>ここに蘇我氏大躍進の謎と実質継体天皇に始まる天皇家の重大な秘密が隠されている。


>>>>だ か ら 不 比 等 は 蘇 我 氏 の あ る 人 物 を 系 図 か ら 抹 消 す る し か な か っ た 


>などと推測されます。



背筋が、全身が粟立ちました。


不比等って、ホントにワルだったんだねぇ〜



>蘇我本宗家滅亡の際、すべての文書は焼き尽くされましたので、当時の最高権力者不比等にとって滅亡した蘇我氏の系図に手を加えるなど、造作もないことです


蘇我氏が自ら焼いたのか?
中大兄皇子・中臣鎌足側が焼いたのか?
中大兄皇子や鎌足に忖度した豪族が焼いたのか?
はたまた  過失で  ウッカリ焼いてしまったのか?


まことに残念なことです。


我々が触れることが出来る情報は藤原氏にとって都合良く改竄されたものでしょうね。


不比等という人物、 空オソロシイ。



>ここから先は富家伝承を参照しつつ書きますが、
>伝承自体が「ふわふわしたお話」なので、これを現実のフレームの中に落とし込む必要があり、
>かなり厄介な作業となるからです。

是非是非拝見させてください。
[36]酔石亭主さんからのコメント(2020年06月13日 21時01分07秒 ) パスワード

空の青海のあをさん 三つ柏服部さん 

>蘇我氏が自ら焼いたのか?

「日本書紀」皇極天皇の4年6月条に「己酉、蘇我臣蝦夷等臨誅、悉燒天皇記・國記・珍寶。船史惠尺、卽疾取所燒國記、而奉獻中大兄」とあり、悉く焼けたが、船恵尺が急いで焼かれる国記を取って、中大兄皇子に奉献したので、状態はともかく国記は残ったことになります。悉く焼けたとの部分だけが頭に残っていたので、書いた内容に勘違いがありました。きちんと確認せずに書いてすみません。「日本書紀」の記事からすると蘇我蝦夷が自分で屋敷に火を放ったことになりそうです。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月14日 00時11分23秒 ) パスワード

酔石亭主さん


「国記」が現存してない、というところにイヨイヨ「謎」を感じます。


>船 恵尺

アヤシイ人物とされる存在ですね。

スパイだったのか?コウモリだったのか?蘇我蝦夷の友人だったのか?天皇記・国記の編纂をしてただけなのか?


>日本書紀の記事からすると「蘇我蝦夷が自分で屋敷に火を放った」ことになりそう

気持ちは分かりますね。

大事な物は  敵に  渡したくない。
これは非常に日本人気質。
親が自殺する時に子供を道連れにするのは今でもあるし。


     大事な物を差し出して命乞いしたら  それは  「記録」されて  日本人的には「恥」だろうし。


蘇我蝦夷にすれば「大事な物」が中大兄皇子や鎌足の手に渡って利用されるのは許せないし。

                       vs

逆に  鎌足(や不比等)側にすれば  蘇我氏は素晴らしいという話が記録されてるなら  ヨケイな物は無い   ことにしたいし。


大昔に三つ柏さんが  この件について書かれた時に   (だけど  誰かが下書きの木簡とか持ってたんじゃないのか?)  と思いましたが


国記が  「現存してない」  というところに  更なる  ミステリー  を感じます。 


わたしは入鹿が好きなので  そう思う。
鎌足とか不比等とか  大っ嫌いだから。この2人なら証拠隠滅なんてやるに決まってると思う。

    祖父の母親は藤原氏出身だから母から「自分の顔に唾吐いてる」と言われるけど。
[38]酔石亭主さんからのコメント(2020年06月14日 08時40分17秒 ) パスワード

空の青海のあをさん 三つ柏服部さん 

>「国記」が現存してない、というところにイヨイヨ「謎」を感じます。

「国記」が紙に書かれたものならぼろぼろ状態だったでしょうし、木簡だったらとても全部抱えて持ち出すなどできなかったでしょうね。「国記」は「天皇記」ほど重要な内容ではなかったとも思えます。

この辺の時代は登場人物が多く、複雑に絡み合い、それぞれの立ち位置もよくわからないし、善・悪や正義・不正義で分けることもできないし、あまり触りたくない部分です。蘇我馬子にしても物部守屋を倒していますが、妻は守屋の妹だし、物部氏の一族を全部抹殺してはいないし、鎌足・不比等にしても蘇我氏の分家を抹殺してはいないし、不比等は蘇我娼子を嫁にしているし…。要するに時代や人物をうまくイメージできない。理解するには巨大な年表を壁に貼り、巨大な地図を床に置き、登場人物数百人分の人形を作って、何年何月何日にはそれぞれが地図上でどう動いて、何を考えたかを推定して、なんて作業を続けるしかなさそうで、私では永遠に不可能です。

偶々昨日NHKのBSで大化の改新ドラマ(かなり昔に放映したもの)をやっていて見ましたが、若い頃の鎌足と入鹿は友人で、入鹿を倒した後鎌足は入鹿を抱きしめ号泣し、それを見た入鹿が馬鹿だなあ、などと言い、飛鳥をたのむ、と言ってこと切れる話となっていました。入鹿の首は斬られ曽我町の「首落橋」まで飛び、これぞ平将門の首の元ネタじゃなかったのかなどと思っていましたが…。(首が斬られたのは「多武峯縁起絵巻」に描かれていますが、首斬りも飛んだのも事実ではないでしょうけど…)

[39]酔石亭主さんからのコメント(2020年06月14日 09時44分41秒 ) パスワード

空の青海のあをさん 三つ柏服部さん

レス33の続きとなる蘇我氏の系譜から抹消された人物の捜索に入ります。その手掛かりは継体天皇で、彼は北陸の越前出身とされていますので、この方面から当たっていく必要がありそうです。そこで「先代旧事本紀」の国造本紀を見ると、越前国の三国国造は「志賀高穴穂朝御世、宗我臣祖彦太忍信命四世孫若長足尼定賜国造」とのこと。彦太忍信命は第8代孝元天皇と、伊香色謎命(いかがしこめのみこと)との間に生まれた皇子で、武内宿禰の祖父になります。また「古事記」の孝元天皇条には、建内宿禰の子蘇賀石河宿禰は蘇我臣や高向臣の祖とありました。「新撰姓氏録」の右京皇別を見ると、高向朝臣に関し、「石川同氏、武内宿禰六世孫猪子臣之後也」とあります。つまり高向氏は蘇我石川と同じ氏すなわち蘇我氏であると確認され、さらに継体天皇がいたのも同じ場所になります。蘇我氏と継体天皇の関係が一気に浮上してきましたね。(注:ちょっとブログ風に書きますがご了承ください)

国造本紀に書かれた宗我臣祖彦太忍信命の四世孫若長足尼は蘇我満智に相当しますが、国造制度の始まりは5世紀の終わりから6世紀の初め頃と思われ満智では国造になれません。また雄略天皇の時代に秦氏や漢氏を使って内蔵、大蔵等の管理をしたとされる人物が越前で国造になるはずがないと思われます。従って、若長足尼(480年から520年頃の人物でこの頃が国造制の始まり)こそが高麗と稲目の間の抹消された人物にピタリと当て嵌まります。若長足尼は何らかの理由により越前に移住したことになり、富家関連のブログなどを見ると、翡翠を求めて移住したとされているようです。

そしてこの辺りに蘇我氏が継体天皇をも巻き込んで一挙に中央政界に進出した謎の核心部があるのではないかと思われます。

越前に移住した若長足尼は男子に恵まれず養子をもらうことにしました。富家伝承では、松江の熊野神社の近くにある富家の屋敷にいた次男・富彦太が蘇我家の振姫に婿入りしたようです。この彦太こそが男大迹王(おほどのおおきみ)であり、後の継体天皇でした。そんな馬鹿なとも思われますが、「日本書紀」には別名として、彦太尊(ひこふとのみこと)の名前が書かれています。不比等の意向に逆らえない編纂者も、ここに小さなヒントを滑り込ませておいたのかもしれません。

一方振姫は垂仁天皇の七世孫とされています。垂仁天皇陵は4世紀末築造とされていますので、没年は390年頃と推定されます。そこから一代当たり20年で計算すると、振姫の没年は530年頃となり継体天皇の年代と完全に一致します。継体天皇は彦主人王と振姫の子とされていますが、富家伝承によれば振姫が天皇の妃だったことになるので、それをベースに進めていきます。

富家(向家)の彦太が後の継体天皇と言う話は「日本書紀」のヒント以外に何もありませんが、最初から前提として扱うしかない点はご了承ください。けれども若長足尼の娘が蘇我氏である点は一定程度の論証が求められます。と言うことで、振姫が祭神となる高向神社(鎮座地:坂井市丸岡町高田1-7)の由緒を見ていきます。詳細は以下のホームページを参照ください。
http://www.komainu.org/fukui/sakaisi/takamuku/takamuku.html

【今より千四百年前武内宿弥六世の孫高向氏此の地一帯を統治し高向の郷と稱す 後の高椋村は之による 其の本拠は高田村に在り 高向氏の一女振媛命近江長浜に在住の応神天皇五世の孫彦主人大臣に嫁す 三児をもうけたるも夫君に先だたれ児を伴いて母在ます 高田村に帰る 第一皇子男大迹王尊長ずるに及び九頭龍川の治水農耕の開発等越前に治績多 し第廿四代武烈天皇没後嗣子なく中央より大連大伴金村物部鹿々火等に迎えられて第廿 五代の皇位につく 後に継体天皇と諡す 御陵は大阪府攝津市藍野に在り当神社は振媛命と夫君祖応神天皇を祀る】

今より千四百年前武内宿弥六世の孫高向氏とあることから、ここでも高向氏は蘇我氏だったと確認されることになります。「石川同氏、武内宿禰六世孫猪子臣之後也」の猪子臣は誰だかわかりませんが、蘇我稲目の甥とされているようです。この辺りも改ざんの匂いがしますが、いずれにしても高向氏が蘇我氏になる点は確認されます。

そして若長足尼は480年から520年頃の人物になりますので、娘の振姫が495年から535年頃の人物になり垂仁天皇の七世孫の時代にほぼ一致し、450年に生誕したとされる(この年代自体も怪しいのですが)継体天皇の母にはなり得ません。よって振姫は、確証まではないものの、510年頃に男大迹王の妃になった可能性は一定程度あると思われます。

上記由緒では彦主人王は応神の五世孫とありますが、実際には四世孫(推定没年490年頃)となります。ここから、若長足尼(480年から520年頃の人物)の娘である振姫(495年から530年頃の人物)の結婚相手が彦主人王とはなり得ず、男大迹王(継体天皇)になると確認されます。うまく整合させるためややアクロバット的にはなりましたが、以上から高向氏(=蘇我氏で若長足尼=三国国造)の娘・振姫も蘇我氏の人物と確認されます。次に高向の宮跡の解説文を見ていきます。

【「日本書紀」によれば、五世紀の中頃近江国高島郡三尾に住んでいた彦主人王は、越の坂名井から振媛を妻として迎えた。振媛は男大迹王(後の継体天皇)を生んだが、まもなく彦主人王が亡くなったので、幼い男大迹王を連れて故郷の高向に帰り、養育したとある。かっての、このあたりが継体天皇ゆかりの「高向の宮跡」であろうと推定される。「延喜式」神社帳にある高向神社は、四字久保庄あたりで『古堂様』と呼ばれ、振媛一族の氏神であり、高向郷の総社であったとも伝えられる。】

上記の場合だと、彦主人王は450年頃に振姫と結婚したことになりますが(注:継体天皇の生誕年である450年に合わせた記述とも受け取られます)、彼女の生誕は495年頃なので結婚などできないと理解されます。継体天皇は允恭天皇39年(450年)の生誕となりますが、その場合没年齢が82歳になってしまい、長すぎます。480年代に生誕して510年頃蘇我家の振姫に入り婿したと見るべきでしょう。また解説文にあるように高向が振姫の故郷であれば、振姫は高向氏(蘇我氏の若長足尼)の娘と確認され、そこには継体天皇ゆかりの「高向の宮跡」があるのであれば、この宮は正しく若長足尼の屋敷であり、男大迹王がそこに入り婿して振姫と結婚したことも確認され、全てのピースがきちんと収まります。

若長足尼の蘇我家に婿入りした男大迹王が様々な経緯を経て継体天皇として即位した訳ですから、その婿を出した蘇我氏を天皇家としてもなおざりにできず、次の蘇我稲目の代で娘の小姉君と堅塩媛を継体天皇の皇子である欽明天皇の后に送り込むと言う大飛躍が可能になったものと思われます。一方藤原不比等にとっては父・中臣鎌足に敵対した蘇我氏の入り婿風情が天皇家の実際の祖先であるなど絶対に表沙汰にしたくないはずです。だから蘇我氏系図から若長足尼(蘇我若長)を抹消し、存在しないものとしたと推測されるのです。

継体天皇以前は皇統の連続性に疑問があり、継体天皇こそが現代にまで続く天皇家の実質的な祖先となりますので、天皇家は出雲神族から出て蘇我氏に入り婿した人物の家系となります。最初に書いた素鵞社(そがのやしろ)の実際の祭神が男大迹王(継体天皇)であり、社名が蘇我氏を想起させる理由もこれで明らかとなりましたね。以下に推定年代を書いてみます。

若長足尼の生没年が480年〜520年頃。娘の振姫が495年〜530年頃。彦太(継体天皇)が485年〜531年頃の人物で入り婿したのが510年頃。問題は、ここまで書いた内容から若長足尼が蘇我家の分家に見える点です。ネット上に見られる富家の伝承では振姫は蘇我総本家の娘となっています。この筋を通すには、高麗の子である若長足尼が彦太を婿に迎えた後、例えば512年頃に男子を得た。越前にはすでに婿殿がいるのでこの子を大和に送り、それが稲目になったとすれば何とか筋は通りそうです。

年代は勝手に書いていますが、そもそも継体天皇の没年齢は「古事記」だと43歳、「日本書紀」は82歳(没年に諸説あり)で全く整合しておらず、年代を勝手な推測で書いても特に問題はないのかと…。まあ、継体天皇に関しては専門の研究者が数多くの論考を出しており、一方今回書いた内容は「ふわふわしたお話」の富家伝承を現実のフレームに落とし込む作業をしただけなので、一つの仮説・物語に過ぎないとご理解ください。ただ、蘇我氏大躍進の理由説明としては結構面白い見方になるのでとは思っています。

今回あれこれ書いていて、中学生時代の世界史の先生の授業が実に面白かったのを思い出しました。例えば古代ローマの話は授業と言うより、古代ローマの人々の戦いやせめぎあいを活写した胸躍る物語で、その世界観に浸っていました。今はそうした語り部もいないのではないでしょうか?日本の古代史はわからない点が多いのですが、だからこそ真実とは違うかもしれないけれど、面白いストーリーを紡ぎ出せたらと思っています。ストーリーのレベルがそのうち高(high)くなれば、最後には「hi.story」つまりヒストリーになるかもしれませんしね。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月14日 12時49分39秒 ) パスワード

酔石亭主さん


お見事でした!


継体が大王家を乗っ取ったんだから
だったら自分も!
数代後の子孫が大王家を乗っ取ったっていいじゃないか
と中大兄皇子に接近して蘇我氏を倒し

いずれ自分の子孫は日本の大王!


やっぱり鎌足と不比等はワルだな。



わたしは  「天皇記」も「国記」も  あると思っています。
だけど  出せない。
出したら  とんでもないことになるから。

それが宮内庁の方針だと思っています。役人の体質、というかね。


天皇記や国記を編纂してた人々はコッソリ編纂し直してたと思います。


恐らく100年後の日本は今のアメリカのように
移民達の国になっていて日本人が国民の6割ぐらいになっているんじゃないかな?

その頃に天皇記も国記も「発見された!」なんてコトになるんじゃないかと。


船 恵尺は1人で編纂やってたわけじゃないだろうし。

     政治には関係無く編纂事業というものに命を懸けてた人物もいたろうし
     鎌足や中大兄皇子(や不比等)に反感を持ってた人もいたろうし
     蘇我氏系の人もいたろうし。



何故そう思うかについて:

1.
日本に中国の歴史関係の貴重な物が残っているから
中国では失われているのに。

なので
日本は貴重な物は大事に保管するのではないか?

2.
スピリチュアル的理由(笑)には  入鹿が好きで   鎌足や不比等に   敵愾心を持っているから。





高向王:皇極の最初の夫君:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%90%91%E7%8E%8B



高向王(たかむくのおおきみ、生没年不詳)

飛鳥時代の皇族。用明天皇の孫にあたる。宝皇女の最初の夫で、漢皇子の父。


概要

『日本書紀』巻第二十六の冒頭部は、斉明天皇は、はじめ用明天皇の孫の高向王に嫁いで漢皇子を産み、のちに舒明天皇に再嫁して皇后となり、二男一女(天智天皇・間人皇女・天武天皇)を産んだと記している[1]。


高向王の経歴は不明であり、父も不明であるが、一説に父親は田目皇子とされている[2]。

『本朝皇胤紹運録』によると、高向王は用明天皇の皇子とされている。

この場合は聖徳太子の兄弟となるが、太子関連の記録にはその名前は見えない。

のちに斉明天皇となる宝皇女との離別の理由もよく分かっていないが、
天智天皇の生年(推古天皇34年、626年)以前の出来事とされ、
田村皇子(舒明天皇)の即位以前のことであるため、皇子との結びつきが非常に重要になる[3]。



その名前から高向臣が資養にあたったとされ、
高向国押が蘇我本宗家滅亡の際に中大兄皇子に対して軍陣を張ったことなどから、
蘇我氏との関係が深かったことが推定される[3]。


________________________________

理由は自分でも分からないけど 東漢氏とか高向氏とか  入鹿が好きの延長線上で  好き。
入鹿と東漢氏には涙が止まらなくなる。 
[41]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年06月15日 06時28分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古代史の謎は、つまるところ、不比等一派が「何のために、何を隠し、何
を創り、何を改竄したか」ということに収束いたします。もっとも、古代史
は二重三重に複雑なので、それらが解ったとしても、どんでん返しがあるか
も知れませんし、量子力学のミクロの世界のように、それは研究者の思念が
影響し、反映された解釈となるかも知れません。

 不比等一派が行ったことを、一口に「歴史の改竄」とすれば、「何のため
に、何を改竄したか」という研究は、既に色々な説として出ていますし、ま
た、これからも永遠に続いていくのかとも思われます。

 結局のところ、不比等一派が改竄したものは古代の「天皇家」を中心とし
たものであります。古代の歴史の真実を探求しようとすれば、どうしても最
後に到達するのは「天皇家の壁」になると思います。
 天皇の生存・在位年があきらかに違っていても、それを直さないという一
点を見ても、この壁の越え難さがわかります。

 が、それは承知で興味ある人たちによる謎解きは進んで行きます。真実を
知りたいという欲求は、知性を持つ人間の本質なのだと思います――
[42]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年06月15日 07時10分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 水石亭主様――

「蘇我氏の血筋」というものは、いわば「臭いもの」であり、それにどうし
ても「蓋」をして臭わないようにしたかったということになりますね。

 蘇我氏は「氷山の塊の一角」のようなもの。つまり水上に顔を出している
部分にあたり、水面下には巨大な塊があり、波間に見え隠れしている。隠れ
ているといっても、既に歴史として顕在したもので、それを隠そうと思って
もすべて隠せ通せるものではない。
 聖徳太子という聖人、蘇我入鹿という悪人の一連のフィクション創作によ
って、氷山の一角を蒸発させ、氷山を消し去った……それはリアルタイムで
なく、フラッシュバックによるものであった。
 720年の5月に『日本書紀』は完成され、8月に藤原不比等は亡くなっ
ています。そのあたりにも、不比等の心象世界が見えてきそうな感じがいた
します――
 
[43]酔石亭主さんからのコメント(2020年06月15日 10時45分05秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青海のあをさん 

今回は偶々蘇我氏大躍進の謎と継体天皇出自の謎を絡ませると面白いストーリーになるのではと思い書きましたが、蘇我稲目から藤原不比等に至る時代は人間関係も含めややこし過ぎて理解できません。この時代の人々の行動原理を現代の価値観で測るのも無理な話ですし、善・悪、正義・不正義の物差しも適切とは言えず、蘇我氏の関連系図を見ただけでも頭がクラクラしそうになります。基本的には個々人の権力欲をベースに天皇家や各豪族の系図、地図、年表、各史料の記述内容などを並べ当時の内政、外交政策、半島・中国情勢まで含め考察すれば色々見えてくるかもしれませんが、私の手には負えませんので、古代史の専門家にお任せするしかないように思います。なので、面白そうなテーマに絞ってつまみ食いしている次第です。まあ、そうしているうちに一つのテーマから別の視野が開けてくる可能性もありますし、お二人の議論から多くのヒントも頂きましたので、これが古代史の醍醐味かとも思っています。今後とも活発なご議論を期待しています。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月16日 07時52分23秒 ) パスワード

酔石亭主さん


懇切丁寧な説明をありがとうございました。

神代の時代は神様のお名前がいくつもいくつも有り過ぎて誰が誰やらサッパリ正体が分からず
古代豪族は出自ロンダリングをするからワケ分からなくなるし
権力闘争で改竄隠滅美化があってホントの所は隠されるし
酔石亭主さんのお陰で流れが分かり易くなりました。



三つ柏さん

おかげで色々考え直す機会に恵まれました。


「聖徳太子」は「仏教の守護神」      仏教で守護神?笑っちゃうけど ということで
後世の仏教界から「聖徳太子」と呼ばれるんだ
とうちの菩提寺で聞きました。


                       最近の日本史では「厩戸王」で「聖徳太子」はカッコ付きなのだそうです


わたしの軍事ヲタクで古代史マニアの友人は  
「聖徳太子というのは中国に喧嘩を売ったりして  あれが身の程知らずの日本人第一号だな」と。

                       「日出る処の天子が」なんて本当に大口叩いた?


白村江の戦いでも  新羅と百済の喧嘩にしゃしゃり出て  中大兄皇子は新羅相手なら勝てるつもりだったんでしょうね
そこに唐が出て来てズタボロにされた。


    日本軍は豪族が自分のところの百姓を兵士替りに連れて出て行ったレベルですからね
    唐なんて   中国は  紀元前から大戦争の経験がエンエンとあった国なのにね


    その上、日本側の豪族間の争いもあったろうし連絡は密じゃなかったろうし、どうせ足の引っ張り合いもやってたろうし


こういうのが性懲りも無く秀吉の朝鮮出兵に繋がったんだろうし
第二次大戦になって行ったんだろうな、と。


    日清戦争にしても日露戦争にしても  日本人は勝ったつもりでいるけど  
    世界史的には、勘違い  なのに旧日本軍はアジア征覇にいっちゃったんだな  と。


こういう身の程知らずの雰囲気に呑まれる日本人には   聖徳太子の「日出る処の天子が」の国書
    小気味良いのだろうけど   このハナシもかなり眉唾とか?
                        日本書紀には  無い?


わたしも  ホントのところはどうだったの?  です。
日本史の授業の副読本で読んだハズだけど  結局は  目が字を追っただけで内容については分かって無かった。


分かってなかったハナシの1つに
魏志倭人伝の分身のハナシ   「皆鯨面分身」  について

現在ポリネシアに住んでて  ポリネシアの人って男女問わず  彫り物が好きなので
音が単純な言語上の繋がり同様  彫り物好きもムカシの日本人と共通するのかな  と思います。


      あ、彫り物というのが  お絵描き=ファッション=で   入れ墨は犯罪者=刑罰=   なんだってね。区別してなかった。恥
  

                        こんな事も三つ柏さんとの情報交換で知りました。


まさか学校出てかなりの年月を経た今頃    え?そうだったの?  です。
なんとなく脳の中に仕舞っていた事を改めて考え直して、ボケ無いよう、これからも刺激をください。
[46]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年06月16日 09時10分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ボケなくても、古代史の話はすぐ忘れてしまう。というか、すべてがあい
まい(諸説あって、いわゆる数学のような公式がない)なので、単純明快に脳
にしっかりと刻み込まれないというのが原因でしょうか。

 結局のところ、歴史の大きな流れをつかみ、あとは歴史のかけらを自分で
イメージ・推理してつなぎ合わせて行く――「歴史小説」になってしまうか
も知れませんが、それらはそんな手法で描いているのかも知れません。
 
 さて、出雲と遠江の関係で、気になっていた「いなさ」という語義を調べ
ておりました。出雲では「稲佐」、遠江では「引佐」であり、その違いは、
当て字といえばそれまでです。当て字にしても、「稲」は「いね」、「引」
は「ひく」のイメージがありますが、出雲の「稲佐の浜」で稲が採れる訳も
なく、遠江の「引佐」の「引」は「いな」とも読めるわけでもなく、いずれ
にしても調査をつづけたいと思います。
 引佐郡に銅鐸が沢山出土しているということを考えますと、銅鐸文化圏だ
ということ、出雲と大変関係が深いということは、現実として認知されるこ
とだと思います。
 『出雲国風土記』の解説付きのものを、出雲大社に隣接する「島根県古代
文化センター」にて購入してきましたが、今、改めて読み込んでおります。
 そのなかで、「稲佐の浜」の項目を見ましたところ、浜には岩石の塔のよ
うなものがあり、「弁天島」と呼ばれており、かつては海の中にあったとい
うことです。
 遠江にも浜名湖の舞阪に「弁天島」というものがあり、「いなさ」と「べ
んてん」と取り合わせは、奇妙にも両方で一致しました。
 銅鐸の出土地として三ケ日に荒神山という所があり、出雲にも荒神谷遺跡
というものがあり、銅剣や近くで銅鐸がみつかっているのも、何か暗示的で
あります。
 三ケ日の山にはダイダラボッチの話も残っておりますし、いずれにしても、
酔石亭主様の言われた出雲、及び三輪氏と遠江との関係について、これから
もその探求を深化させて行きたいと考えております――
 
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月16日 23時40分47秒 ) パスワード

全日空の7月31日までの航空便予定:全日空NYの一番エライ人である服部茂さんからの情報


現在、米国疾病予防管理センター(CDC)は日本の感染症危険情報度合いをレベル3(渡航中止勧告)としている。


それで全日空の4938便73路線が運休または減便になっています。


成田の(成田だった記憶)
NY便   週2便
LA便   週7便
SF便   週3便
シカゴ  週7便
だそうです。


それでハワイには  成田からロスに飛んでどこかの便でハワイに来ることになっていて


実は航空関係の人=それも某社のエライ人=なんだけど  日本に行ったままハワイに帰って来れない人がいます。
だよね
だから言ってあげたのにな〜


3月の中旬には分かってたことだから「早く帰りなさいよ。帰れなくなったら困るのは自分なんだから」と言ってあげたのに。


ハワイ州では  ハワイの島の間の便についての2週間自宅隔離は解除になりました。

でもヨソからハワイに来る場合は引き続き2週間の自宅隔離です。


ハワイも微増だけど感染者は増え続けています。
死者数は17人で増えていません。

2週前のBLMデモで感染が増えたのかもね。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月17日 01時03分40秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101721.html
新しいスレッド
長上郡の服部氏族CXXXY:136:いよいよ核心に‐4
を立てました。

キリの良いところで、どうぞ。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月17日 13時47分52秒 ) パスワード

「又吉直樹の僕はどこからきたのですか?3」


https://vimeo.com/298371349  

8:38あたりから東アジア人の遺伝子の位置が分かります。
又吉直樹のDNAの紹介も。
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