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 投稿番号:101717 投稿日:2020年05月20日 09時51分41秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族CXXXW:134:いよいよ核心に‐2
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101715_55.html
長上郡の服部氏族CXXXV:133:いよいよ核心に‐1
の続きです。



     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。



「秦氏」と「服部氏」・「服部連」・「神服部」の関係の真実を、できる限り明らかにしたい。



参考文献:


鹿島 昇氏著
『孔子と失われた十氏支族』(1986年刊)
「〜ユダヤ人の多くは、エジプトに残留して賤民化したヒクソスの子孫だった。」



坂井洋一氏著
『日本の始まりはシュメール』(2016年刊)
ユダヤ人と日本人は両方とも古代エジプト人だった。




故上田正昭氏著
@『帰化人』
A『私の日本古代史(上) 天皇とは何ものか―縄文から倭の五王まで』
➂『藤原不比等』

         渡来の波
             @第1波:紀元前200年ごろから
             A第2波:5世紀、特に応神・仁徳朝にかけての波
             ➂第3波:5世紀の後半から6世紀の初め雄略朝から欽明朝へ
             C第4波:7世紀後半、特に天智朝の前後



小岸昭氏著
『中国・開封(かいほう)のユダヤ人』



久保有政氏動画
「秦氏のルーツ」



澤田洋太郎氏著
@『天皇家と卑弥呼の系図』
A『伽耶は日本のルーツ』
➂『ヤマト国家成立の秘密』
C『ヤマト国家は渡来王朝』

天皇家の祖先は扶余国から?



中島尚彦氏
「日本とユダヤのハーモニー」
など

[1]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月20日 12時58分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッドにつき、すばらしい表題のまとめ、感激です。
 「いよいよ核心に―2」ということで、プレッシャーも少し感じますが、
それによりモチベーションも高まり、気合を入れているところであります。

 昨日は、「古墳」を見に行ってきました。袋井市から掛川市に入ったすぐ
のところにある古墳で、つい最近復元されたばかりであります。「吉岡大塚
古墳」といい、茶畑(台地)のど真ん中に位置し、360度のパノラマ展望台
のようなものです。何でこんな台地のど真ん中に造られたのか、普通は川、
あるいは海の近くの少高くなった所に造られると思うのですが……。それで
も、古墳で「復元」されたものは全国でも意外と少ないので、古墳ファンと
してはとても嬉しいです。

 そこから東へ1q行くか行かないかのあたりに、また古墳群があります。
こちらは原野野川を見渡す台地のはずれにあります。

 また、西へ約10qほど行くと、ここにまた古墳群があり、「銚子塚古墳」
や「小銚子塚古墳」があります。こちらの方には、私は5月の連休中に行っ
て来たわけですが、調べてみると重要な由来がわかりました。それは、前者
の大きい方が「前方後円墳(全長108m)」で、後者の小さい方が「前方後
方墳(全長46m)」で、すぐ側に並んでおりました。親族か関係者の古墳である
とは思われます。4世紀中〜後半の築造であると言われております。

 そして大きい方の前方後円墳の方からは、例の「三角縁神獣鏡」が出土し
ており、また小さい方の前方後方墳は、成務天皇の時代に、初代遠江(遠淡
海 とおつおうみ)国造に任じられた「印岐美命(いきみのみこと)」の墓と
言われております。

 遠江国造の本拠は磐田郡(国府 国分寺があった所)で、支配地は磐田郡、
山香郡、長上郡、長下郡であったということであります。
 つまり、「長上郡」は古代(4世紀後半か)には、「出雲国造の支配下」
にあったということになります。
 出雲国造といえば、出雲、スサノオ、アメノホヒ、物部、葛城、蘇我…
…と関係してきます。
 長上郡にあった「服織(服部)神社」がアメノホヒを主祭神にしているの
は、出雲との関係を表しているように思われます。

 ここで、少し休憩――
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月20日 14時00分29秒 ) パスワード

三つ柏さん

大井川の西というのが古代日本の東の端という印象を勝手に受けています。

それで古墳の数っていくつだっけと思い最新の情報をゲットして来ました:
http://kofun.jp/diary/5176.html
からコピペしてわたしの感想も加えました。

『平成28年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数(古墳・横穴)』(文化庁調べ)
※現存と消滅を合算した数
総数:159636                       16万!実際にはもっとあったんでしょうね。


下記を見てると  あれ?  という感じで不思議です

1位)兵庫県:18851
2位)鳥取県:13486
3位)京都府:13016
4位)千葉県:12765
5位)岡山県:11810

6位)広島県:11311
7位)福岡県:10754
8位)奈良県:9700
9位)三重県:7025
10位)岐阜県:5140

11位)群馬県:3993
12位)静岡県:3829
13位)大阪府:3427
14位)愛知県:3101
15位)埼玉県:3100

16位)長野県:2831
17位)島根県:2571              意外に少ないですね  不思議
18位)香川県:2256
19位)石川県:2107
20位)茨城県:1862

21位)和歌山県:1486
22位)熊本県:1364
23位)徳島県:1120
24位)神奈川県:1098
25位)愛媛県:1083

26位)栃木県:1081
27位)福島県:1041
28位)滋賀県:897
29位)大分県:893
30位)宮崎県:832

31位)東京都:714
32位)山梨県:651
33位)新潟県:632
34位)佐賀県:566
35位)山口県:552

36位)福井県:541
37位)鹿児島県:529
38位)宮城県:508
39位)長崎県:470
40位)高知県:229

41位)富山県:216
42位)山形県:134
43位)岩手県:64

44位)北海道:0                 江別古墳群は擦文時代だから入れられないのかな?  飛鳥時代以降だから
44位)青森県:0                 本古墳群も時代が下がるから入れられないのかな?
44位)秋田県:0                 以前は6か所あったのに今は蝦夷塚古墳群・岩野山古墳群も  無し  扱いなのかな?
44位)沖縄県:0 
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月20日 14時24分06秒 ) パスワード

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E5%8A%AA%E5%9B%BD%E9%80%A0

久努国造(くののくにみやつこ/くぬのくにのみやつこ・くのこくぞう/くぬこくぞう)
久努国(遠江国中部)を支配した国造。



『先代旧事本紀』「国造本紀」に久努国造とある。

祖先

『先代旧事本紀』「国造本紀」には物部連の祖伊香色雄命の孫 印幡足尼(いにばすくね、いなばすくね)が仲哀天皇朝に任じられたとある。

「天孫本紀」、「国造本紀」には伊香色雄命または十千根大連の子とされる印岐美連公は「志紀県主、遠江国造、久努直、佐夜直等の祖」とあり、
同書記載の新河大連の子で、佐夜部直、久努直等の祖とされる物部大小木宿禰とも同人と考えられる。
また印播足尼は世代的・地域的・系図的に印岐美命の子にあたると考えられる。


氏族
久努氏(くぬうじ、くのうじ、姓は直)で、佐夜氏と同族とされる。

それで「久能」というのね


本拠

国造の本拠はのちの遠江国山名郡の久努郷で、
現在の静岡県袋井市鷲巣・久野とされる。

近辺には国本や久野といった地名があり、久野城跡なども残る。



支配領域

久努国造の支配領域は当時久努国と呼ばれていた地域であり、後の山名郡(袋井市)、周智郡、佐野郡一帯を支配していたとされる。

隣の佐野郡曽我を素賀国造の本拠とする説もあるが、
もともと山名郡は養老六年に佐益郡(佐野郡、佐夜郡)から8郷を割いて設置したとされ、
本来久努国造の領域は山名郡と佐野郡であったことになる。


氏神
赤尾渋垂郡辺神社(あかおしぶたれこうりべじんじゃ)か。
境内に印岐美命を祀る。


関連神社
七ツ森神社(ななつもりじんじゃ) 袋井市国本に鎮座する神社で、久努国造を祀る。




蔵王権現神社古墳(ざおうごんげんじんじゃこふん)
全長49m、高さ4mの前方後方墳。
古墳時代前期(4世紀)の築造で、印幡足尼の墓と考えられる。


和田岡古墳群(わだおかこふんぐん)

    各和金塚古墳(かくわかなつかこふん) - 全長66mの前方後円墳で、5世紀初頭の築造とされる。
    瓢塚古墳(ひさごつかこふん) - 全長63mの前方後円墳で、5世紀前半の築造とされる。
    行人塚古墳(ぎょうにんつかこふん) - 全長43mの前方後円墳で、築造時期は4世紀とも5世紀ともされる。
    吉岡大塚古墳(よしおかおおつかこふん) - 全長55mの前方後円墳で、5世紀中期の築造とされる。





本姓
久努氏(直)

家祖
印幡足尼

種別
神別(天孫)

出身地
大倭国

主な根拠地
久努国(のちの遠江国)


支流、分家(括弧内は姓カバネのことでしょうね)

遠淡海国造
佐夜氏(直)

珠流河国造
金刺氏                    
                       この名字は諏訪大社系だと思ってた。
                       信濃の大族、信濃国造金刺舎人の子孫、金刺連、金刺宿禰、金刺朝臣などから
                       別系統なのかな?


小市国造
小市氏(直)
                       俳優の小市慢太郎のご先祖さま?

風速国造
風速氏(直)
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月20日 14時43分05秒 ) パスワード

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%83%9B%E3%83%92

アメノホヒ
日本神話に登場する男神。


古事記では天之菩卑能命、日本書紀では天穂日命、他に天菩比神などと表記される。



天照大御神と須佐之男命が誓約をしたときに生まれた五男三女神の一柱。

天照大御神の右のみずらに巻いた勾玉から成った。
物実(ものざね:物事のタネとなるもの)の持ち主である天照大御神の第二子とされ、天忍穂耳命の弟神にあたる。


葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、
大国主神を説得するうちに心服して地上に住み着き、
3年間高天原に戻らなかった。

なんだか素直な良い子だった神様?


後に他の使者達が大国主神の子である事代主神や建御名方神を平定し、
地上の支配に成功すると、
大国主神に仕えるよう命令され、
お子さまの建比良鳥命たけひらとりのみことは出雲国造及び土師氏らの祖神となったとされる。

                     出雲国造のほか 武蔵国造・上海上国造・下海上国造、伊甚国造、対馬県値、遠江国造の祖先ですね



また、出雲にイザナミを祭る神魂神社(島根県松江市)を建てたとも伝わる。


任務を遂行しなかったというのは『古事記』や『日本書紀』による記述だが、
『出雲国造神賀詞』では異なる記述になっている。

これによれば、
アメノホヒは地上の悪神を鎮めるために地上に遣わされ、地上の様子を天照大神にきちんと報告し、子のアメノヒナドリおよび剣の神経津主神とともに地上を平定した、としている。


すなわち、
こちらでは地上を平定した偉大な神とされているが、
『出雲国造神賀詞』はアメノホヒの子孫である出雲国造が書いたものであるので、そこは割り引かなければならないかもしれない。

                       千家家は元祖ウソつき野郎だったのか

                       今の言葉では「やったやった詐欺」だね


名前の「ホヒ」を「穂霊」の意味として稲穂の神とする説と、
「火日」の意味として太陽神とする説がある。


農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神などとして信仰されており、
能義神社(島根県安来市。出雲四大神である野城大神と呼ばれる)などの旧出雲国内だけでなく、
天穂日命神社(鳥取県鳥取市福井)、鷲宮神社(埼玉県久喜市鷲宮)、桐生天満宮(群馬県桐生市)、芦屋神社(兵庫県芦屋市)、馬見岡綿向神社(滋賀県蒲生郡日野町)など全国で祀られている。

六甲山山頂、六甲山カンツリーハウス敷地内にアメノホヒ=天穂日命の磐座がある。


天穂日命を祀る神社

能義神社 - 島根県安来市
出雲大社 境内 氏社 - 島根県出雲市大社町
天穂日命神社 - 鳥取市福井
大江神社 - 鳥取県八頭郡八頭町
芦屋神社 - 兵庫県芦屋市
道明寺天満宮 - 大阪府藤井寺市
山阪神社 - 大阪市東住吉区
馬見岡綿向神社 - 滋賀県蒲生郡日野町
太宰府天満宮 境内 天穂日命社 - 福岡県太宰府市
天穂日命神社 - 京都府京都市石田
加茂神社 境内 天神社 愛媛県今治市菊間町




天穂日命が神魂神社を建てたという説は神魂神社の社伝による。

しかし『古事記』『日本書紀』『延喜式神名帳』『出雲国風土記』にも神魂神社は出てこず、

文献における初見は承元2年(1208年)の鎌倉将軍下文であり、
実際の創建は平安時代中期以降とみられている。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月21日 01時16分34秒 ) パスワード

>長上郡にあった「服織(服部)神社はアメノホヒを主祭神にしている
>長上郡は古代(4世紀後半か)には、「出雲国造の支配下」にあったということになります


>アメノホヒ
>天照大御神と須佐之男命が<誓約>をしたときに生まれた五男三女神の一柱。


この「誓約」の意味ですが
ワケ分からないから
いろいろ言われているけれど


一番納得の入ったのは
https://blog.goo.ne.jp/sansui-ou/e/61c86e27c7f7da52a0fd509070111410
以下勝手にコピペ
全文はURLへ


記紀共にイザナギは、三人の子にそれぞれ任国を与えた後に身を隠したとしており、
『古事記』では近江、『日本書紀』本文では淡路に坐すと伝えています。

言わば高天原をアマテラスに授けたのはイザナギであり、
これを擬人的に解すれば、
数ある男子を差し置いて愛娘に後事を託したことになる訳ですが、
やはり現実的にこれは考えにくいものです。


例えば日本史上には十代八人の女帝が即位していますが、
内親王の身で父君から立太子の宣を受けたのは、
聖武帝皇女の阿倍内親王(孝謙・称徳女帝)だけで、
これは唯一の皇子である安積親王が光明皇后の子ではなかったことなど、
豪族間の権力闘争も絡んだ特殊な事例です。



因みにアマテラス・ツクヨミ・スサノヲの三子は、
(『日本書紀』本文以外の書では)
イザナミの死後に生まれたとされており、
正妻(先妻)イザナミの子ではありません。

                       100%忘れてた

立太子を経ずに父君から譲位された例として、
後水尾帝皇女の明正女帝の例もあるとは言え、
やはりこれも紫衣事件に端を発する幕府と朝廷の軋轢が生んだ異常事態です。



イザナギ自身が「生みの終に三柱の貴い子を得た」と言っているように、
恐らくアマテラス・ツクヨミ・スサノヲは晩年の子で、
三子に国を分け与えたのがイザナギの最後の仕事としているのは、
裏を返せば三子が成人する頃には既にこの世にいなかったということでもあります。
 
                       すごい!
                       読み解けてなかった〜

        
従って女神アマテラスが高天原の主に君臨したのは、
父のイザナギによって継嗣に任じられたものではなく、
イザナギの死後に諸神の合議によって擁立されたか、
或いは
イザナギ死後の空白期間を経て推戴されたものと思われます。



実際に後世の事例を顧みても、女帝が選ばれる時代というのは、
後継者を巡る内乱や有力豪族間の紛争など、
国内に政情不安を抱えているか、
またはそれを経験した直後
というのが殆どなのです。

                       では愛子さまは天皇にはなれないということだ


そこで前記のアマテラスとスサノヲの神話を考察し、
人話として考えられる一つの仮説を立ててみると、


イザナギの死後、高天原で姉のアマテラスが即位したことを知ったスサノヲは、内心ではこの相続に承服していなかったため、兵を率いての上京という挙に出たのでしょう。

                       あ〜
                       なるほどね〜


しかしこの行動を知ったアマテラスは諸神を従え、自らも武装して強硬な姿勢で出迎えたため、
先手を打たれたスサノヲは面食らい、自分に異心はなく挨拶に来ただけだと弁明したものの、
弟の気性を知るアマテラスは当然これを真に受けません。

                       さすが、お姉ちゃん
                       弟のことが分かってる


アマテラスから悪意のないことを証明するよう求められたスサノヲは、共に誓を立てて正邪を明白にすることを申し出ます。

                       ここだね


それがどのような神明裁判だったのかは分かりませんが、
その結果がスサノヲの無実を証明するものだったので、
勝ち誇ったスサノヲがそのまま高天原に居座ってしまった訳です。


逆に言えばこの時の天意はアマテラスの負けだったのであり、
それも岩戸隠れの遠因の一つになっているのかも知れません。

                       おんなの意地ってのか



アマテラスとスサノヲが生んだとされる子を見てみると、
五柱の男子については、史書の系譜にもある通りスサノヲの子と理解しても構わないでしょう。


要はアマテラスに対して身の潔白を証明するために、
スサノヲは我が子を全て姉の養子に差し出した訳です。

                       これは100%考えてもいなかった


系譜上アマテラスには直系の子孫がない(つまり実子がない)ので、
実弟スサノヲの子を養子に迎えるのは至って自然な流れですが、
記紀には月読命の子孫に関する記述もないので、
或いは次弟であるツクヨミにも子がなかったのかも知れません。



これに対してアマテラスは、見返りに三人の女子をスサノヲに授けており、恐らくこれは多くの侍女の中から特に三人を選んで下賜したものと思われます。

                        あの3女神は下女が身分ッ出自ロンダリングしたものだったのか


一人の弟に複数の女子を嫁がせるという行為は、
後に天智帝が四人の実娘を弟の大海人皇子の妻にした例もあり、
稀有ではありますが
同様の事例は歴史上いくつか確認されます。


_____________________________

すごい謎解き!
「読める」人っているものですねぇ。
感嘆!

わたしは字面しか追えなかった。

______________________________

数年前に三つ柏さんから教えて頂いてた 長上郡=遠江国=と出雲国の関係 に納得が  やっと!  いきました。

                      イマイチ  なんでぇ?  と思ってた。

                      遠江国は出雲国から距離的に随分離れているから    
                      出雲 → 信濃経由で → 遠江  への流れだとばかりに縛られていました。


>お子さまの建比良鳥命たけひらとりのみことは出雲国造及び土師氏らの祖神となったとされ
>出雲国造のほか 武蔵国造・上海上国造・下海上国造、伊甚国造、対馬県値、遠江国造の祖先にもなった
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月21日 07時32分16秒 ) パスワード

ということで

服織神社は  アマテラスさん用に  出雲国系が織物アラタエをやってた  服部さん?


その後  アマテラスさんが伊勢神宮に遷って  そのアラタエを作るのに  伊勢国の服部さんが現地採用された?


絹系の織物はずっと後の秦氏系服部さん?



https://kotobank.jp/word/%E8%8D%92%E5%A6%99-427951
荒妙(読み)アラタエ   荒▽妙/粗×栲


1 上代、木の皮の繊維で織った、織り目の粗い布の総称。→和妙(にきたえ)
2 平安時代以降、麻織物のこと。
[補説]書名別項。→荒栲




https://www.weblio.jp/content/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%82%BF%E3%82%A8

荒妙

(1)織目のあらい粗末な織物。
(2)麻布。




https://www.nikkei.com/article/DGXMZO40029440V10C19A1962M00/
大嘗祭の麁服(あらたえ)調進準備 三木信夫さん
(語る ひと・まち・産業)阿波忌部直系               すごいね
徳島の麻文化再興訴え
2019/1/16 12:00

全文はURLへ

「新天皇の即位関連儀式である『大嘗祭』において麻の織物『麁服』は欠かすことができない重要な品。調進とは天皇家から依頼を受けて納めることで、古代からこれができるのは阿波忌部である三木家だけだった。室町時代前半の南北朝の動乱でいったんは途絶えてしまうが、大正天皇の儀式で約580年ぶりに復活した。『大嘗祭』は日本の歴史そのものである。古代からの伝統様式をそのまま次の世代につないでいく努力が求められている」

三木家には1260年の亀山天皇の「大嘗祭」で「麁服」の調進をするように記された古文書が残る。三木家直系は「麁服」を作製し宮中に直接届けられる唯一の「御殿人(みあらかんど)」だ。三木さんは徳島に根付いてきた麻の文化や織物の技術を伝承し、再興することが地域活性化につながると訴える。

「麻を栽培する畑を整地し、春に種をまく。何度も間引きをしながら約100日で成長した麻を収穫し、茎の天日干しから煮沸、皮を剥ぐなどの工程を経て麻の繊維を紡いでいき、『麁服』が完成する。『麁服』にできる麻は気温が平地よりも3〜5度低い高地といった限られた場所でしか栽培できない。こうした繊細な技術を確実に継承していくことは今後の課題だ」


「麻は法律で栽培が制限されていることもあり、管理も大変だ。私が担当した前回(の『大嘗祭』)は麻を育てる畑を24時間警備しなければならなかった。こうした人件費を含めて『麁服』調進にかかる費用は数千万円になる。徳島の企業や人に広く寄付を募っており、これが地元の関心が高まるきっかけになればと期待している」

■現在の吉野川市は麻を植える地域に由来する「麻植(おえ)郡」という名称だった。徳島の麻文化再興に向けて「麻植」の地名復活を提唱する。

「2004年に4町村合併で『麻植郡』が消滅した。これを後悔する人たちも増えている。兵庫県の篠山市が丹波篠山市への変更を問う住民投票が賛成多数で成立した例もある。麻農業が誇れる文化だと地域住民に浸透していけば、自然と地名を変えようという動きにつながってくるのではないかと期待している」




ということで

麻織物と絹織物の「服部さん」は全く別のハナシかもね。

我々は  織物=絹=秦氏=応神天皇=百済派遣 に拘り過ぎてたのかも。

「呉織」・「漢織」
「呉機織」(くれはたおり)・「漢機織」(あやはたおり)
に捉われてたのかも。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月21日 08時25分47秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101715_56.html
レス[42](2020年05月17日 03時01分48秒 )


>友人より頂きました:
>以下コピペ


>隠ヶ丘(かくれがおか)の三つ柏の紋
>出雲系でしたね


ということで検索してきました:
https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g1023583-d1857314-r450412047-Hinomisaki_Shrine-Izumo_Shimane_Prefecture_Chugoku.html



スサノオノミコトが放った柏の葉が 止まった場所

日御碕神社の口コミ
2017年1月8日
より勝手に以下コピペ


その昔、出雲の国造りをしたスサノオが根の国(黄泉の国)から、「吾が神魂は、この柏葉の止まる所に住まん」と柏の葉を投げて占ったところ、この神社の背後にある「隠ヶ丘」に止まったとか。

この神社の紋の三枚の葉が柏の葉なのは、これに因むのでしょう。 


下の宮は日沈宮(ひのしずみのみや)を、上の宮は神の宮(かむのみや)を、その二本社を合わせて日御碕神社というそうです。



ということで、島根にどうぞ!
今はまだダメよ。
コロナ連れて行ったら皆さんに迷惑だから。
[9]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月21日 14時57分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古墳は全国に16万基も築造されたということ。何のためにそのような
途方もない労力をかけたのと、今の世界の私たちには理解不能であります。
これを解くことができれば、古代の謎の半分以上は解明されるはずであり
ます。ただ、天皇家に関係のありそうなものは、宮内庁が管轄しておりま
すので、主要な古墳の謎は解明ができない。歴史に封印をしたということ。

 長上郡の服織神社は、その北約400mの所にある蛭子森遺跡と、年代
的にも距離的にも関係が深いと言われております。
 また、蛭子森遺跡は天竜川の東にある「銚子塚・子銚子塚古墳」と関係
があるとも言われています。それは遠江国造・印岐美命の墓が子銚子塚古
墳であり、彼は長上郡の領主だったからであります。

 その印岐美命の出自が『古事記』と『先代旧事本紀』では違っていると
いうこと、つまり天穂日―建比良鳥の後裔か、物部氏の祖・伊香色雄の後
裔かということ。Wikiでは、建比良鳥の子は、出雲国造の祖・櫛八玉
神と物部氏の祖・饒速日と兄弟であったと解説しております。この辺の事
情の検証は今後の課題といたします――
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月21日 15時30分33秒 ) パスワード

書き直し:

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101715_56.html
の<レス37>


>『新撰姓氏録』も万全のものではありませんが、
>秦氏が蕃別、服部連が神別に分類されているということは、
>秦氏と服部連は当時としては筋(系統)が違っていたということになります。


ということで


服部半蔵が
@うちはホノハヤヒのミコトの末裔で、
A允恭天皇の御世に織部の司に任じ諸国の織部を拾領、服部連を称す。
で、うちは帰化人じゃない方だから間違えないでね
と言ったわけですね。


                        >諸国の織部を拾領

                         日本中のアチコチに織部があったので、服部連となって、それらを纏めて統括した、ということですね


B平氏にして葛原親王の後裔で伊賀平内左衛門が末孫なり

        この部分はもっとずっと後の世の事ですね。

              葛原親王かずらわらしんのうは桓武天皇の第3皇子。



允恭天皇
5世紀前半の古墳時代に19代天皇となった允恭天皇は仁徳天皇の第4皇子。


____________________________________

ここから蛇足:  ここの一家って血で血を洗う争いをやった恥知らず一家で  興味深いからコピペ(わたしもわたしだ)

            夫の医者が仁徳天皇の長兄の子孫だけど
            長兄さんは弟達(仁徳天皇たち)に殺されてるものね


允恭天皇は長男の木梨軽皇子を皇太子とするが、
翌年に同母妹の軽大娘皇女との近親相姦が発覚。

            兄弟姉妹でも母が違えばオーケーだけど
            同母の場合は近親相姦として罰せられた

即位42年1月、崩御。

『古事記』では甲午年1月15日に崩じたとされる。


木梨軽皇子は群臣の支持を得られず粛清され、弟の穴穂皇子が即位した(安康天皇)。


ところが次男の安康天皇は「殺害された」と明確に記された最初の天皇なんですって。
げ〜


スゴイ話の続き:

安康天皇は雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)の第二皇子。
母は稚渟毛二派皇子の女・忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)。

木梨軽皇子の同母弟で大泊瀬幼武天皇(雄略天皇  日本史上殺しまくった天皇ですね)の同母兄。

父帝が崩御すると群臣の支持を失っていた皇太子の兄に替わって即位。

石上穴穂宮に都を遷す。

即位元年、根使主の讒言を信じておじ(大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の皇子)の大草香皇子を誅殺。

即位2年、その妃であった中蒂姫を皇后に立てたが、翌年8月9日に連れ子の眉輪王に暗殺された。



この事件の背景:

根使主の讒言

即位元年、安康天皇は大泊瀬皇子=弟=後の雄略天皇=の妃探しがうまくいかないのを見て、おばの草香幡梭姫皇女(仁徳天皇の皇女)を見合わせようと考えた。

                    おばさんと甥で結婚させようって?
                    すごいね


             雄略天皇は反正天皇の娘達と結婚したかったけど              乱暴者だから断られてたのです

             それで  おばさん(笑)と結婚させられそうになった時のハナシですね    ややこしい!


そこで根使主を皇女の兄の大草香皇子へ遣わし、その意を伝えさせた。      つまり大草香皇子は安康天皇達のおじさんですね

大草香皇子は心から喜び感謝して四回も頭を下げ、
言葉だけを返すのは無礼だとすら考え
根使主に宝石と金で飾った冠を持たせた。

しかし根使主は宝の美しさに目がくらんで着服し
「大草香皇子は縁談を断ったうえ、刀を抜き怒った」
という讒言を行った。

これを信じた激怒した天皇は大草香皇子を誅殺し、翌年にその妃であった中蒂姫を皇后としてしまった。

                       すごいね
                       おじさんのヨメを自分のヨメにしちゃった
                       ヨメもヨメだけど


                          やっぱり超近親結婚のゾロアスターの影響?



眉輪王の復讐

即位3年、天皇は神殿で皇后に悩みを打ち明けた。

それは皇后=おじさんの元ヨメ=と大草香皇子の子、すなわち皇后の連れ子である当時7歳の眉輪王が成長し、父親を殺したのが自分だと知って復讐心を起こさないかということだった。

実はそのとき床下に当の眉輪王が入って遊んでおり、
真実を知った眉輪王は天皇の心配通りに復讐を決意した。

                       7歳で継父の秘密を知ったなんて
                       それも自分の父親を殺した男と自分の生みの母が結婚したと知ったなんて
                       現代人でも苦しいよね

                       
眉輪王は8月9日、天皇が寝入った隙を見計らって神床に侵入。
そばに置いてあった太刀を使って天皇の首を切り落としてしまった。

天皇は『古事記』『旧事紀』に享年56、『帝王編年記』に享年54と伝えられる。


皇太子を指名することなく崩御したが、
従兄弟の市辺押磐皇子(履中天皇の皇子)を皇位継承者に立てる腹積もりであったとされる。

しかし実際には天皇の弟の大泊瀬皇子が市辺押磐皇子を殺して帝位に就いた(雄略天皇)。


雄略天皇=弟の大泊瀬皇子=が眉輪王を含めた多くの皇族を殺して後を継ぎ即位。

根使主は14年後に讒言が発覚して誅殺されたが、
やすやすと信じてしまった安康天皇の過ちもあり
根使主の子孫が根絶やしにされることはなかった。



仁徳天皇は日本史上立派な天皇視されているけど
実はナカナカ
ですね。
仁徳天皇も長兄を殺してますから。

そしてその子供達もとんでもないガキどもだし。


それにしても古代のヒト
名前 と 続柄 
がややこし過ぎ

途中で誰が誰やら分からなくなる。


多分上記で良いと思うけど間違ってるかも。
すまぬ
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月21日 15時59分53秒 ) パスワード

三つ柏さん

レス<8>を書き直しました。


>印岐美命の出自が『古事記』と『先代旧事本紀』では違っているということ、
>つまり天穂日―建比良鳥の後裔か、物部氏の祖・伊香色雄の後裔かということ。

>Wikiでは、建比良鳥の子は、出雲国造の祖・櫛八玉神と物部氏の祖・饒速日と兄弟であったと解説


出自ロンダリングもありますし
家族関係も複雑ですし
ウソもあるだろうし
わざとミスリードしているでしょうし

結局は古代豪族達は皆さん血で繋がってた?
考えるとワケ分からなくなるから止めておきます。
[12]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月22日 10時57分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「古代」は、探求し始めるとどんどんおもしろくなってきますが、諸説入
り乱れて頭の中がグチャぐチャになってきます。アナログの情報量が非常に
多いということ、つまり100人の研究者がいれば、100通りの主張・論
理・色彩があるということであります。
 それは、いつものことで慣れてはいるのですが、解読する労力と時間が実
はもったいない。有限の生でありますので……。

 今回の新型コロナウィルスで亡くなった方について、乾いた情報しか伝わ
ってきません。人間の生命の重さ、親族の張り裂けんばかりの悲しみといっ
たものがそぎ落ちてしまっています。
 人生において死とは、まるでシネマのフィルムが突然プツンと切れて、映
写機の回転に合わせてカラカラと音を立てている風景のようなものなのか…
…何だか寂しい限りです。

 やはり、ロマンに生き、ロマンに死すということが一番かなと思います!


 
[13]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月22日 12時27分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レス[1]の修正:「出雲国造の支配下」→「出雲国造系一族の支配下」

 『静岡県郷土研究 第七集』(1936 静岡県郷土研究協会)の中に、西郷藤八
氏の「出雲系民族の濱名湖拓殖」という論文が載っております。ポイントを
簡単に記しますと、この地域・浜名湖畔に出雲臣族と出雲神族が古代に移住
して開拓を行い、永住の地とした。そこから遠江国造が出て、やがて衰退し
て行き、物部系の国造が代わってその職に就いたものと考えるとあります。

 出雲臣族に付属して来たのが、土師連の統率した土師部(土師氏)であった。
 土師氏は、高天神城のある土形村にも居住したであろう。高天神というの
は、高い小山の上にある天神様ということで、菅原氏=土師氏の祖の天穂日
を祀っております。どういう訳か、わが村にもこの地域では珍しく天満宮が
あります。

 一方、出雲神族の方は、美和氏(三輪)氏であるということであります。ど
ういうご縁か、私の母の妹は、大庄屋をやった長下郡の三輪家に嫁いでおり
す(もう年ですが)。古文書もあるようです。 

 何か雰囲気的には出雲と関係しているようなこの地域ですが、具体的なも
のは「大黒様」「蛭子様(えべっさま)」の信仰(暮れにこれらの神様の絵を
買う)くらいでしょぅか。

 出雲というより、私は「丹後」の気配を感じるのですが……。
 それは、「蛭子森古墳」「銚子塚古墳」の「蛭子」「銚子」が、丹後にあ
る「蛭子山古墳」「銚子山古墳」と重なるからであります。
  聖徳太子の子達を伴って秦河勝の子がこの地に逃避して来たと内藤家の
系譜にありますし、丹後は聖徳太子の母・穴穂部間人の生地のようでありま
す。

 丹後か出雲か?……私が推測するに、日本海にはヤマト王朝に先立ち(謎
の四世紀まで)、王朝があった――それは、@物部王国であり、A出雲王朝
であり、➂蘇我王朝であり、C大丹波王国のようですが、これらは結局は
表現が違うだけであるのか、同族の分立国家だったのか、これからの探求
課題としたいと考えます――
 
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月22日 14時20分53秒 ) パスワード

三つ柏さん


>『静岡県郷土研究 第七集』(1936 静岡県郷土研究協会)の中に、
>西郷藤八氏の「出雲系民族の濱名湖拓殖」という論文が載っております。
>浜名湖畔に出雲臣族と出雲神族が古代に移住して開拓を行い、永住の地とした。
>そこから遠江国造が出て、やがて衰退して行き、
>物部系の国造が代わってその職に就いたものと考えるとあります。

ありがとうございます。
すごく分かり易いです。

               出雲臣族と出雲神族 → 遠江国造 → 物部系


オットの医者ですが  先生の話では  元々は長野の出身で大阪に引っ越した  ということですが

この医者の名字がとても珍しく、調べたら応神天皇のお子様の大山守皇子の子孫で      
大井川の西に住み
この皇子さんの子孫の名字がオットの医者の名字だったり   「土形」もあったように記憶しているので調べて来ました。


https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%9C%9F%E5%BD%A2

【名字】土形
【読み】つちかた
【全国順位】 84,461位
【全国人数】 およそ10人       絶滅の危機ですね

現静岡県西部である遠江発祥ともいわれる、土形君(応神帝子孫)の子孫。    やっぱりね
近年、山形県酒田市にみられる。                       どうして山形に移ったのか?


関係無いけどアタマの中を空にしたいので
ちょっと以下のことを調べてみました。


https://www.kakeisi.com/survey/survey_sizuoka.html
静岡県のご先祖調べ


令制国の遠江国と駿河国そして伊豆国に相当します。
伊豆国は、天武天皇9年(680)に駿河国の東部2郡を分割して設置されています。
遠江国と駿河国の境は大井川になります。




■静岡県の名字

戦国期以前より勢力を振るった在地領主の一族を郡別にみてみましょう。
ただし名字の出自や由緒には諸説あり、すべては網羅できておりません。参考の一つにしてください。

まずは遠江国です。

引佐郡には、徳川四天王の一人となる藤原北家良門流の井伊氏が井伊荘に起こります。分出した諸氏は以下の通りです。
  赤佐・奥山・早田井・貫名・石野・田中・田沢・松田・井平・谷津・石岡・上野・伊世・岡・河井・中野

敷智郡には、浜松荘の吉良氏、引馬城の飯尾氏が勢力を張ります。


長上郡には、蒲神明宮の祀官・蒲氏があり、渡瀬・頼母木・大角・篠瀬・蒜田の諸氏が分出しています。
安間郷からは安間氏が起こります。


山香郡には藤原南家工藤氏流の天野氏が勢力を振るい、
長下郡には浅羽荘から浅羽氏が起こります。
城飼郡には、土形郷から土方氏が起こり、入山・丹野・門屋・鷲塚・篠原・三沢の諸氏を分出しています。
賀茂荘横地からは横地氏が出ます。
高天神城には小笠原氏がおり、のちに徳川家康に従います。
榛原郡には、相良荘から藤原南家工藤氏流の相良氏が、勝間田荘からは勝間田(勝俣)氏が起こります。

この他、以下の諸氏がみえます。

藤原氏流・・・秋鹿・寺田・袴田・市野・加々爪・万年・石谷・天方・青山・近藤・細田・松風・広戸・伊達・門奈・川井
清和源氏・・・高林・植村・戸塚





静岡県の苗字トップ20位をあげると、以下の通りです。

1鈴木 2渡辺 3山本 4望月 5杉山 6佐藤 7伊藤 8山田 9加藤 10佐野
11中村 12大石 13高橋 14小林 15増田 16田中 17石川 18村松 19土屋 20山下

東日本の苗字の代表格鈴木・佐藤が入り、
西日本の代表格田中・山本・中村もランクインしています。

静岡県は鈴木氏が最も多い県で、人口5%を占めています。2位の渡辺氏の3倍以上です。
伊豆国江梨村に下向した鈴木繁伴に始まるといいます。
3位の山本氏は軍師山本勘助のルーツ(富士宮市山本)として知られています。
4位の望月氏は長野県・山梨県からの流れを引いていると思われます。
5位の杉山氏は静岡市に多く、戦国時代に駿河国安倍川周辺で活躍した武士団安倍七騎の一人に杉山氏があります。





■静岡県の家紋

静岡県の使用家紋をみてみましょう。
『都道府県別姓氏家紋大事典』によると、静岡県の家紋トップ10は次の通りです。
1位 片喰 2位 藤 3位 鷹の羽 4位 木瓜 5位 柏 6位 梅鉢 7位 蔦 8位 茗荷 9位 桐 10位 竹笹

日本の十大家紋と比べると、沢瀉紋と橘紋がランク外となり、かわりに竹笹紋と梅鉢紋がランク入りしています。


■静岡県の寺院

静岡県の寺院をみてみましょう。
『全国寺院名鑑』(全日本仏教会寺院名鑑刊行会)によると、静岡県の宗派別の割合は以下の通りです。

遠江地方(浜松・掛川) 駿河地方(静岡・富士宮) 伊豆地方(三島・伊東)
天台宗 1%以下             1%以下       1%以下
真言宗 4%               4%         4%
曹洞宗 56%             43%        30%
臨済宗 23%             17%        26%
浄土宗 4%                7%        10%
浄土真宗 3%               2%         3%
日蓮宗 7%               23%        23%
その他 2%                3%         3%

静岡県全体を通して禅宗系の寺院が多くあり、少数派の臨済宗寺院が多いことが特徴的です。
一方、他地域で多い真宗寺院が極端に少ないのも特徴的です。
日蓮宗寺院の多さは総本山身延山久遠寺が近いこととも関係しているようです。




■静岡県の神社

遠江国一之宮は小国神社と事任(ことのまま)八幡宮です。

浜名湖の東、周智郡森町に鎮座する小国神社の主祭神は大己貴命(おおむなちのみこと)、大国主神とも呼ばれます。
事任八幡宮は掛川市に鎮座し、己等乃麻知媛命 (ことのまちひめのみこと)を主祭神としています。

以下略

何か参考になると良いのですが。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月22日 14時49分05秒 ) パスワード

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE
小国神社

神紋は「右三つ巴」。

祭神   大己貴命(おおなむちのみこと)



社名の「小国」は、出雲の「大国」に対する遠江の美称とする。

                   ということは  本家は「出雲」という意味なんでしょうね。


所在地
静岡県周智郡森町一宮3956-1

交通アクセス
天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線 遠江一宮駅から 徒歩:約50分           遠過ぎ!
バス:送迎マイクロバス(日曜日・指定日のみ運行)で約10分          結構遠いのね

車 駐車場:無料(約800台)
東名高速道路 袋井ICから、約20分
新東名高速道路 森掛川ICから、約15分




https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E4%BB%BB%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE
事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)                 読めなかった

御神紋は「亀甲に卜象」「左三つ巴」である。


旧東海道沿いの、日坂宿および小夜の中山の西の入口、宮村にある。

当社と諏訪大社、特に下社春宮(長野県諏訪郡下諏訪町)、および修験道場として名高い戸隠山(長野県長野市)は、ほぼ南北一直線上にある。


                                 信濃との関係が深いのでしょうね


近隣を通る国道1号日坂バイパスの「ことのままトンネル」は事任八幡宮から命名された。


祭神
主祭神己等乃麻知媛命 (ことのまちひめのみこと)
興台産霊神の妻神で、天児屋命の母。

配神3柱合わせて八幡大神と総称。


息長帯姫命 (おきながたらしひめのみこと、神功皇后)応神天皇の母上
誉田別命 (ほんだわけのみこと、応神天皇)                    ココ  アヤシイ
玉依比売命 (たまよりひめのみこと)                下記 2番目の女神でしょうね



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%A8%E3%83%AA%E3%83%93%E3%83%A1

タマヨリビメ(タマヨリヒメ、玉依毘売、玉依姫、玉依媛)

日本神話・神道の女神である。

タマとは霊(神霊、霊魂)のことで、ヨリとは憑りつくことを指す。
すなわち、タマヨリビメとは「神霊の依り代となるヒメ(巫女)」を意味する。この名を持つ神は複数存在する。


タマヨリビメ (日向神話) - 海童の娘。彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の妻で、神武天皇の母。



玉櫛媛 - 玉依日売、活玉依媛とも。
                       三島溝橛耳神(陶津耳)の娘。
                       事代主神(大物主大神)の妻で、
                       鴨王(三輪氏の祖)・
                       媛蹈鞴五十鈴媛命(神武天皇の皇后)・
                       五十鈴依媛命(綏靖天皇の皇后)の母。
                       また、火雷神の妻で、賀茂別雷命の母。

                                         てんこもりですね


玉依姫命 - 『日本書紀』第9段の第7の一書にのみ登場。

                       高皇産霊尊の娘万幡姫の娘。天忍骨命の妃で、天之杵火々置瀬尊の母。
[16]酔石亭主さんからのコメント(2020年05月22日 16時25分48秒 ) パスワード

ご無沙汰しております。

コロナ禍にもめげることなく活発な意見交換、素晴らしいですね。出雲と浜名湖周辺の関係に関しては、以下のような議論もあるようです。

不思議なのは、この出雲で起きた国譲りを迫った出来事や地名が、この曽許乃御立神社のある浜名湖北部に存在する事である。第一には、出雲(島根県)で国譲りを迫った鹿島神宮(茨城県)の武甕槌神が出雲と同様にこの地(曽許乃御立神社=根本山周辺)に滞在している事である。第二には、出雲の国譲りで争いの舞台となった地名がこの地にもあることである。例えば“引佐の浜”、“礫岩”(島)、弁天島、更に、出雲大社の建造地である杵築(きづき)は都築(つづき)と重なり合うなど、同じような地名が浜名湖周辺に集中して存在することである。第三には、国譲りで武甕槌神に力比べを挑み、負けた建御名方神(タケミナカタノカミ=諏訪大社の祭神)が逃げ延びた先が諏訪湖であること。古事記では引佐の浜のある島根県の出雲から、長野県中部の諏訪湖へ逃げた事になっている。現在でもどのように行けば良いのかわからないほど、道筋の怪しさを含んでいる。仮に浜名湖が国譲りの舞台であったと考えれば、諏訪湖へは天竜川を通じた道筋(川筋)であり、極めて整合性が取れる。

この見解が正しいとは思いませんが、708年に出雲国における政治権力を奪われ(=現実としての国譲り)財政難に悩む出雲臣族の果安が配下を浜松に派遣して収入増を図り、その際出雲の地名を持ち込んだと考えれば整合性が取れてきます。
[17]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月22日 23時14分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様
水石亭主様

 水石亭主様、お久しぶりでございます。お元気なご様子、何よりです。

 二俣から秋葉街道をずっと北へ歩いていけば、一本道で諏訪に着きます。
ある意味、自然が造った昔のハイウェイのようなものであります。
 古代は水運が主体でしたので、二俣あたりからこの陸路を歩いて行った
のだと思います。水運と陸運の交差する所が二俣であります。

 タケミナカタは、神代出雲の国譲りという神話の時代の人、これは寓意
でありますので、現実的にはプレ大和政権が大和政権に政権を譲った頃の
話だと推察いたします。すると、謎の4世紀の前あたり、3世紀半ばあた
りの話だったのではないでしょぅか……。

 5世紀半ばには、この二俣の天竜川東岸の丘陵地に、全長83mの前方後
円墳・光明山古墳が築造されています。誰を祀る古墳かはわかっていませ
んが、渡来人もかかわっていたとみられております。
 
 いずれにしましても、二俣は内陸部と平野部及び海洋を結ぶ交通・交易
の要衝であり、勝手な想像ですが諏訪の東海側の表玄関だったのかも知れ
ません――
[18]酔石亭主さんからのコメント(2020年05月23日 09時13分57秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青海のあをさん

浜名湖の礫島にはダイダラボッチの伝説があり、ダイダラボッチが山を作るのに疲れて手をついたら手の平の形の浜名湖ができ、次ににぎり飯を食べると小石が入っていたので吐き出すと、その小石が浜名湖に落ちて礫島になったとのことです。

出雲の礫岩にも、国譲りの際に武甕槌神と建御名方神が力比べのために稲佐の浜から岩を投げあったが、力は互角で何回も同じところに落ち積み重なった岩だとの伝承があります。ダイダラボッチは蹈鞴法師などと呼ばれ蹈鞴製鉄が盛んだった出雲と関連し、建御名方神は製鉄神とされ、岩を投げていることからダイダラボッチそのものとも言えそうな存在です。出雲の国引きで有名な八束水臣津野命はダイダラボッチの異名を持つ怪力の持ち主とされています。

これらから浜名湖の礫島と出雲の礫岩の間には、単なる名前の一致以上の関連性があり、出雲の人々が浜名湖周辺に来た証拠の一つになり得ます。なお信濃諏訪ー熊伏山ー定光寺山ー竜頭山ー秋葉山を結ぶルートは修験者の回峰道であり、天竜沿いの渓谷を避けた塩の道だったそうで、浜名湖でのダイダラボッチは秋葉山にいたとされます。

出雲神族に関しては、大国主の系統とされる神門家が有名で島根に圧倒的に多い苗字ですが、次が静岡県でほぼ浜松市に局限されています。これは出雲神族が浜松に移住した証拠の一つと見做せます。建御名方神はもう一方の王家となる富家に関係し、同家によれば事代主神の子が建御名方富命となり、その子孫が富家となります。出雲神族の富家も浜松に来て、修験ルートで諏訪湖に至り、建御名方神を鎮座させたなどの筋もあるのかもしれません。その証拠が建御名方「富」命の神名に見られます。まだ整理できていませんが、ここで書いた諸要素を追求・精査すれば、かなり面白い話になるのではと思います。是非トライしてみてください。

武甕槌神と建御名方神の争いは別の時代、別の話と思われますが、国譲り自体は700年代初めの出来事を神話として過去に飛ばしたものだと以下に論証していますのでご参照ください。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-2784.html

3世紀半ばあたりの話としては、記紀神話の天岩戸や天孫降臨から山幸彦・海幸彦神話に至る間の時期に相当しています。コロナ禍で北九州に行けないので、「魏志倭人伝」の邪馬台国問題と記紀神話群を「北九州古代史の謎を解く」シリーズで簡潔に書き、不十分な面もありますがほぼ解明はできました。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月23日 10時10分48秒 ) パスワード

酔石亭主さん

お久しぶりです。


素晴らしいお説に感動しています。

>ダイダラボッチ
久しぶりです。


是非とも服織神社についてもお調べください。

源頼政が京都から連れて来た神服部さんが今でも神職さんなのでしょうか?

アラタエを織っていたと思いますが
まさかの  絹織物  だったのでしょうか?


12世紀に服織神社の関係者が入れ替わったのかなと思っています。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月23日 10時21分52秒 ) パスワード

三つ柏さん

以下コピペ:

http://engishiki.org/ise/bun/is080711-01.html

【延喜式神名帳】服織神社 伊勢国 奄芸郡鎮座                 うちの出身地ジャン    神紋が分かるといいけど
【現社名】服織神社
【住所】三重県鈴鹿市御薗町2019
       北緯34度49分50秒,東経136度31分21秒
【祭神】栲機千千姫命
        (合祀)息長帶姫命 天児屋根命 国狹槌之命 木花開耶姫命 武御名方命
       須佐之男命 大山祇命 大己貴命 伊弉冉命いざなみのみこと 速玉男命 事解男命 五男三女神

       誉田別命                       応神天皇ですよ〜
       菅原道真
       武内宿祢

【例祭】10月15日 秋季例大祭
【鎮座地】旧村内一宮森にありし
        その後現在の地に
【祭祀】江戸時代は「八幡神社」と称していた
【社殿】本殿神明造
       拝殿・神樂殿・神饌所・社務所

集落の西北隅の山裾に鎮座する。
本来は八幡。
古からの八幡を江戸期に服機神社と称したという。

社伝に「当社は「延喜式内」の社で、元は神明の社と称し、また服織神社と申し伝え来たので、旧和歌山藩において神社の調査が行はれた際、その旨を上申せしところ、その後調査されて本社号を用いるに至つた」とある。
明治8年教部省によつて式内社と確定された。



[21]酔石亭主さんからのコメント(2020年05月23日 13時59分13秒 ) パスワード

空の青海のあをさん 三つ柏服部さん 

服織神社に関しては以前に少し書いていますが、現時点での理解でいえば、出雲臣系の天穂日命と出雲神族系の建御名方神の双方が祀られているのがややこしい点になります。整理すると、644年以降に秦氏と服部氏が来て同社の実質的な創建となり、しばらくして両者は去った。

その後出雲神族が建御名方神を奉じて到来し、服部系の神を消し去りここで祀った後に一部の人々が諏訪に去り、さらに時代を下った708年に出雲の支配権を奪われ財政難に悩む出雲臣(出雲国造家)の果安が収入を増やすため自分の子(或いは配下)を浜松に送り、服織神社に天穂日命を祀ったとなります。

「古事記」で天之菩卑能命(天穂日命)の子である建比良鳥命が遠江国造の祖とするのは、この時点の話が取り込まれたものと考えられます。まあ、古代の浜松で起きたと想定される事柄を繋げただけなので、これが事実と主張するものではありませんが……。

Wikiによれば諏訪大社の宮司家は以下の通りです。
諏訪地方に伝わる伝承によると、諏訪大社の祭神・建御名方神(諏訪明神)が諏訪に侵入した際に地主神の洩矢神と相争った。戦いは建御名方神の勝利に終わるが、敗北した洩矢神は諏訪の統治権を譲り、建御名方神に忠誠を誓いそのもとに祭政を司ることとなった。この神話は守矢氏が諏訪盆地にやって来た外来勢力(のちの神氏)に征服された事を反映していると考えられる。

出雲の国譲りと瓜二つの伝説ですが、この神氏が神門氏のことなのかもしれません。三つ柏さんが読まれた出雲神族が浜松に来た話の詳細がわかれば、もう少し整理できるかもしれないので、彼らがいつ頃、どんな目的で来たのかなど教示いただければ幸いです。

12世紀に関しては浜松市史にある以下の記事の関連ですね。

永暦のころ(一一六〇)、後白河上皇の御願により、熊野社を模して京都に建てられた新熊野社に寄進された多くの諸国荘園の中に、遠江国羽鳥庄の名がみえる。これは市の東端、笠井の東にいまも羽鳥の地名を存するところで、服織神社がある地にほかならない。


[22]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月23日 14時47分08秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ありがとうございます。


出雲国  遠江国  信濃国


初心に戻ります。
[23]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月24日 08時32分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 酔石亭主様に、とりあえずお詫びを――

 レス[17]で「水石亭主様」とウッカリ書いてしまいました。
 しばらく前、失われた十支族のイスラエルの民の信仰心を「水」のよう
に清く、「石」のように固いと思った時……つまり合わせて「水石(スイセ
キ)」か……それなら「スイセキ」亭主様のスイセキはこの意味か?…と思
った瞬間、既に「酔石」は、頭の中で「水石」に変わっておりました。
 お詫びして、訂正いたします。
 どうも年のせいで、思い込み(単眼的思考)が多くなります。ニューロン
(本来なら複眼的思考ができる)が劣化しつつあります――

 
[24]酔石亭主さんからのコメント(2020年05月24日 09時24分39秒 ) パスワード

空の青海のあをさん 三つ柏服部さん 

レス21の
>出雲の国譲りと瓜二つの伝説ですが、この神氏が神門氏のことなのかもしれません。

は間違いです。すみません。神門家は大国主系とされるので、富家で事代主系の建御名方神とは別系統になります。三つ柏さん、酔石亭主は単なるハンドルネームですから気にしないでください。内容を間違えるほうが恥ずかしい。

ところで浜松市には富塚町があり、この地名は5世紀頃畿内から東征して一帯を治めていた登美首人(とみのおびと)の塚があったことに由来する(説がある)とのことで、太田亮氏の『姓氏家系大辞典』によると、登美首は物部氏になります。詳細はWikiの迹見赤檮の項を参照ください。一方登美家は富家の分家とされ、確認した訳ではありませんが、建御雷神(武甕槌神)の名は登美家の系図の中にあるそうです。となると、建御雷神と建御名方神の力比べは富家本家と分家の争いになってしまいます。この筋で行けば国譲りに関係する力比べは浜松になってしまい、レス16の引用通りになってしまうかも……??

以上から浜松は、

1.出雲神族の神門家と神門姓の多さから繋がり、
2.出雲神族の富家と服織神社の建御名方神やダイダラボッチ伝承で繋がり、
3.富家分家の登美家と繋がり、
4.出雲臣と服織神社の天穂日命やその子が遠江国造の祖となることで繋がり、
5.出雲神族の美和氏(三輪氏)で繋がり、

出雲全員集合みたいなことになってしまいます。まあ、妄想に近い粗い話ではありますが、お二人でもっと追求・精査いただいて、出雲、諏訪、大和、浜松を繋ぐ壮大なストーリー(夢物語?)に仕立て上げられないかと思う次第です。なお、美和氏を出雲神族とすべきかやや悩ましい部分があります。

[25]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月25日 23時44分53秒 ) パスワード

酔石亭主さん
三つ柏さん



何も書き込めない状態です。


昨日友人より情報を頂きましたので以下にコピペします:


富の地名は到る所に有る様ですね。

平家物語関連で言うと 源平の水島の合戦の土地の北の後背地に富峠が有ります。

出雲勢力は吉備の勢力地を南下している様です。
石清水八幡宮の本宮も美作地内にあり、
宮司は今も物部氏の子孫です。


大神部の「神直氏」の系図について:

粟鹿大明神元記の竪系図は国宝のはずです。
古事記より古い書物になります。
かなり信憑性が高いと言われて居ます。
神功皇后も新羅征伐の必勝祈願をされている神社と言われており、
これまた信憑性の高いことの様です。


第18話 編纂1300年の古事記より古い粟鹿大明神元記の竪系図:
http://tajima2000nenkatsura.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-7d61.html  

活字化した町史編纂の資料編に全文有ります。

粟鹿神社
神部氏/日下部宿禰
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_awaga.html  

素戔鳴尊より五世に大国主命がみえ、さらに太田々弥古命に連なる。
系図を信ずる限り、
大三輪氏の分かれであり、賀茂朝臣とも同族ということになる。

また、太田々弥古命の子太多彦命の子孫の速日・高日兄弟が神部直の姓を賜り、速日の子忍が但馬国造となり併せて粟鹿大神祭主となったと記されている。


太多彦命・・・の墳墓は何処何処に在り、と
この系図に書き込まれています。

               上記の系図には省かれています。

この墳墓・・・古墳は、存在します。ただ、どれか特定出来て居ません。


しかし、地名として残って居ました。
「美和(みわ)」です。
小さな盆地状の村です。

美和中学校や美和村なんて有りました。

同じ地区内に墳墓推定地から一キロほどの所に、日本の正式な記録上で最古(555年)の屯倉(みやけ)が設置されました。


蘇我氏の管掌で差配者は白猪の姓をもらっています。


ここより和気氏が別れている様です(和気清麻呂の先祖)。
いわゆる物部氏でしょうか。
古来より、朝廷や皇室関係の土地であり各幕府の直轄地となる由縁です。


源平の時までは皇室の大炊寮も有り、
白河院の長講堂領も存在しています。


_________________________________
上記情報を得た時に関連して見つけたブログのご紹介:

https://ameblo.jp/oyasumipon/entry-11951001179.html
蘇我氏は和邇氏で、吾田方隅命を祖神とする出雲王朝の血筋


このブログの内容も興味深いものでした。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月25日 23時51分07秒 ) パスワード

勉強不足で   驚いた部分があったので  ココにコピペ:


http://tajima2000nenkatsura.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-7d61.html

『和田山町史 上巻』(平成16年5月発行)には、
「昭和57年には、溝口睦子著『日本古代氏族系譜の成立』が刊行されて元記の系譜の文献的性格の評価は決定的となった。」



「イザナギ・イザナミの開闢神話の神から始まり、スサノオノ命、オオクニヌシノ命を経て、オオタダネコに至っている。ここまでの神統譜は中央の豪族大三輪(大神)氏の系図であり、大国主系統の氏々に共通する部分であるという。」



神部直(みわべのあたい)の系図には、伊佐那伎(イザナギ)・伊佐那美(イザナミ)の下に大日神、月神、素佐乃乎命、さらに素佐乃乎命の下に、蘇我の名をもつ蘇我能由夜麻奴斯。その4代後に大国主命。さらに10代後に大田田祢乎命の名が見えます。


                       大国主の前に「蘇我」?!と驚いた

                       わたしのアタマの中で天地が引っ繰り返ってる
[27]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月26日 10時31分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 酔石亭主様――
 いろいろなご教示ありがとうございます。日本書紀の神話というもの
は、異なった話をあたかも時系列上の話のようにまとめたものであると
いうこと、富氏は物部氏であるということ、浜松地方と出雲とは深い縁
があるということ……etc.

 何が真実かということを考えるに、古墳や遺物(例えば銅矛、銅鐸、銅
鏡、鉄剣)というものは一面の事実を伝えてくれています。それらに嘘は
ないはずであります(解釈の間違いはあると思いますが)。

 @古墳の地域ごとの数、A前方後方墳、前方後円墳の種別分布、➂大王
級の巨大前方後円墳の分布、これらで大きな歴史の流れがわかってきます。
銅鐸と銅剣・銅矛で異勢力の水平展開がわかります。鉄剣もまたそうです
し、銅鏡に至っては、「三角縁神獣鏡」というものの分布で、その意味・
背景が推察できます。

 記紀の中の歴史的真実部分はどの程度含まれているのか、ひとつひとつ
分析しないと誤った歴史論となってしまいます。それは記紀だけではあり
ません。いわゆる広く「文献」というものが、どこまで真実を伝えている
のか……常に疑いを持ちながら、あらたな事実がわかれば修正して行くと
いうことが必要かと思っています。

 「三角縁神獣鏡」と「銅鐸」は浜松地方に縁があります。物部氏は銅鐸
と関係していると思われますので、気賀や引佐は物部氏との関係が推定さ
れます。
 三角縁神獣鏡は卑弥呼との関係を取り出さされておりますが、天竜川を
はさんでほぼ向かい合うように、赤門上古墳(西岸)と小銚子塚古墳(東岸)
で見つかっています。どちらも時代的には「4世紀後半から末」と推定さ
れております。

 谷川健一氏の『隠された物部王国「日本」』によれば、物部氏の東遷に
は三つのエポックがあったということであります。それは――
 @物部氏族に属する金属工人は、弥生時代末の3世紀後半には遠江まで
  進出していた。
 A4世紀の初頭、邪馬台国の東遷により、河内・大和の物部氏の一派が、
  近江を経て東海地方に東遷を余儀なくされた。
 ➂587の蘇我馬子による物部守屋の殺害と物部氏の滅亡により、逃亡
  を余儀なくされ、東への活路を求めた可能性あり。
 
 謎の4世紀と言われていますが、邪馬台国の東遷による物部氏族のさら
なる東遷、つまり近江経由、遠江行きということの証明が、「銅鐸」、そ
れを作った「伊福部氏」が引佐郡に住んでいたこと、気賀を中心にして、
引佐一帯に銅鐸が多数残されたということであると推察されます。
 ちなみに、近江野洲市にはいわゆる「銅鐸博物館」があり、また浜松市
引佐町気賀にもいわゆる「銅鐸博物館」があります。
 
「三角縁神獣鏡」でありますが、浜松へ進出あるいは帰結した豪族、ある
いは元々の地場豪族と邪馬台国の卑弥呼との関係を云々されてもいる訳で
すが、卑弥呼は247年、つまり3世紀半ばに死んでおりますし、天龍川
両岸の神獣鏡の発見された遺跡は、4世紀後半のものでありますので、卑
弥呼の生きている間のやり取りの可能性は低いように思われます。ヤマト
政権の勢力拡大と、それに恭順した地方の豪族の関係を表しているのでは
ないかと思われます――
[28]酔石亭主さんからのコメント(2020年05月26日 13時19分17秒 ) パスワード

空の青海のあをさん 三つ柏服部さん 

>素佐乃乎命の下に、蘇我の名をもつ蘇我能由夜麻奴斯。その4代後に大国主命。

蘇我氏の蘇我ではなくて、スサノオと櫛名田比売の子である八島士奴美神のことです。『日本書紀』では「清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠」(すがのゆやまぬしみなさるひこやしましの)。『粟鹿大明神元記』では蘇我能由夜麻奴斯弥那佐牟留比古夜斯麻斯奴(そがのゆやまぬしみなさむるひこやしましぬ)。「日本書紀」にはスサノオと櫛名田比売が二人の場所を探し出雲の清地(スガ、素鵝)にたどり着いたので、スサノオが「私の心は清々しい」と言い、それでこの土地を清(スガ)と言ったとありますね。その清(スガ)が蘇我と表記された訳で、天地がひっくり返るほど悩む必要はありませんよ。なお、『先代旧事本紀』では八島士奴美神=大己貴神(大国主)でもあるので、もうこの辺はぐちゃぐちゃで考える必要もないかと……。

三つ柏さん

レス27のご指摘(古墳や遺物と文献などと整合させる視点)はその通りで、まだ書き始めてはいないのですが、三角縁神獣鏡など私も北九州の古代史に絡めて色々考えています。謎の4世紀に関しては別に謎でも何でもなく、台与の女王国(伊都国内或いはその南と推定)が250年代に邪馬台国(大和も含む近畿全域)に移動し日本側窓口がほぼ消滅したこと、311年に中国側の対日本窓口だった楽浪郡が高句麗に攻められ消滅したこと、4世紀の大和王権の関心が朝鮮半島に移ったことなどが原因で中国史書に書かれなくなったと理解されます。(注:邪馬台国が九州に存在できない点は「北九州古代史の謎を解く」で詳しく論証していますので必要であれば参照ください)
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月26日 14時10分42秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ありがとうございます。
呪いにかかりました。



https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E8%98%87%E6%88%91

【名字】蘇我
【読み】そが
【全国順位】 32,780位
【全国人数】 およそ90人                             へぇ〜

現奈良県である大和国高市郡蘇我邑発祥ともいわれる、孝元帝子孫の蘇我臣、蘇我連、蘇我朝臣などの子孫。

                                こちらにはスンナリ納得


孝元天皇子孫の武内宿禰を祖にもつとされる、飛鳥時代に勢力を誇った有力豪族。

渡来人だという説もある。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E6%B0%8F

王権の職業奴属民としての役割を担っていた渡来系の氏族と深い関係にあったと見られ、
渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられている。


また、仏教が伝来した際にそれをいち早く取り入れたのも蘇我氏であったとされる。
これは、朝廷の祭祀を任されていた連姓の物部氏、中臣氏を牽制する為の目的もあったと推察される。


6世紀後半には今の奈良県高市郡近辺を勢力下においていたと思われている。
蘇我氏が政治の実権を掌握した時代以後、その地域に集中的に天皇の宮がおかれるようになったことからもうかがわれる。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月26日 14時32分58秒 ) パスワード

三つ柏さん

>伊福部氏

伊福部 昭さんが火を噴くゴジラの作曲をなさったというのとご先祖さまの製錬業との関係が興味深いところです。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E7%A6%8F%E9%83%A8

「伊福部」

伊福部(いおきべ / いふくべ / いふきべ)は、古代日本の職業部。
あるいは名代の民。
五百木部、廬城部、伊福吉部とも表記する。


美濃国本巣郡・山県郡(大宝2年戸籍)ほか、東は陸奥国・武蔵国・遠江国 ・尾張国から、西は薩摩国まで広く分布しており、

とりわけ美濃を中心に、因幡国・出雲国・安芸国などの中国諸国に広く分布しており、
『和名類聚抄』にも伊福部の地名が各地に残されている。


美濃国の伊福部(大宝二年御野国味蜂間郡春部里戸籍)、因幡国の伊福部臣(伊福吉部臣徳足比売骨蔵器銘・伊福部臣氏系図)、石見国の伊福部直(日本三代実録仁和2年5月12日条)などは、いずれも伊福部の管掌者であると思われる。


伊勢国度会郡城田郷には皇太神宮儀式帳に田辺神社の四至として「東は五百木部浄人家を限りとす」という文がある。


職掌については、『日本三代実録』貞観4年6月15日条に、「播磨国揖保郡雅楽寮答笙無位伊福貞、本姓五百木部連に復す」とあるように、笛吹の部であるといわれていた。

現在有力な説は、

1.五百木部と同じで、景行天皇の皇子、五百城入彦皇子の名代の部。

2.息吹(製鉄の際の踏鞴(たたら))に携わった部。

伊福部氏の系図(因幡国伊福部臣古志、延暦3年頃成立)に、「若子臣」という人がいて、
允恭天皇の時に祈禱して、気を飄風=つむじ風・はやて=にかえたという伝承があり、
稲葉(?因幡もこと?)国造族は製鉄氏族の物部氏と同族である。

しかし、伊福部と製鉄関係の遺跡とのかかわりは、まだ証明されてはいない。

                           あら、そうなの?

3.火吹(ひふき)が訛った部。
雄略天皇3年4月に廬城部連枳莒喩いおきべのきこゆと武彦親子の名があり[1]、武彦(たけひこ)は湯人(ゆえ)として朝廷に仕えていたわけことから湯を扱う下級官吏として、火吹部とする。

分布状態からすると大規模過ぎる点が難である。




中央の伴造には、「伊福部連」があり、天武天皇13年12年宿禰姓を賜っている[2]。


『新撰姓氏録』「左京神別」・「大和国神別」には「伊福部宿禰」を載せ、
尾張連と同祖、火明命の後とする。


「河内国神別」には「五百木部連」もある。


宮城十二門の一つ、殷富門(いんぷもん)の名前の由来にもなっている。

伊福部の伴造氏は、連のほかに、臣・君・公などがあり、一族には「直」・首・君姓のものも存在した。

[31]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月27日 01時11分52秒 ) パスワード

友人より頂きました。
まだきちんとURLを見ていませんが。
見てたら涙が出てしまったので。

以下コピペ:


蘇我氏・出雲系の「すか」?



以下の蘇我氏の考察は、三つ柏さんや酔石亭さんの方向性と違ってきてしまいますが。

ちょっと面白いですから。



下記HPにも、秦氏や漢はとりや、やた百済などの王族を表す「コニキシ」を持ち込んだ一族についても述べられて居ます。

コニキシ・・・・岸さんらの先祖と言われて居ます。



蘇我氏・・・・難しいですけどある程度は分かります。
先祖が・・・帝と天皇となるとお門違いの偽系図になりますね。
天武天皇が672年で、初めて「天皇」の使い始めですからね。
まだ大君(おおきみ)の時代ですから!。



・・・・奈良の蘇我邑の出身の豪族と言うのがミソですね。
古墳時代後期です。
ヤマト政権(連合国家)の豪族ですね。
この豪族達は江戸幕府に住まわされた大名達と同じく地方豪族の代表の住み処ですね。・・・・

吉備国の代表が住む所は、「奈良県桜井市大字吉備」。
吉備池廃寺跡とか吉備塚古墳(奈良東大寺南に隣接)


蘇我邑は桜井市の南の隣接地(石舞台古墳の在る土地)


「蘇我氏考」

いずれにしても本流は出雲系の「すか」・・・・中州の意味を持つ一族でしょうね。
それに、くっ付けた流れでしょう。
平家物語ではないですが、
養子縁組や猶子縁組みさらに血縁関係が無くとも名跡を継ぐ等のやり方ですね。
あるいは、土地の名前を背負わされたとかですね。


http://ek1010.sakura.ne.jp/1234-7-6.html  
7.蘇我氏考に能くまとめて居ますよ。

秦氏も記述されていますね。


3世紀後半から、4世紀初め頃が古墳時代前期、
4世紀末から古墳時代中期、
6世紀初めから7世紀の半ば頃までを古墳時代後期

645年の薄葬令以降は群集墳時代です。


____________________________________


孝元天皇===武内宿祢===の子   波多八代って  誰?


孝元天皇と言ったらワタクシの母方先祖の伯父さん    

古代史はロマンの世界です。
とだけ書いておく。


散歩から帰ったら、上記URLをちゃんと読み直します。
ではアタマ空っぽにして来ます。
[32]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月27日 14時35分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろお調べ下さりありがとうございます。

 「蘇我氏」については、蘇我氏がわかれば古代史の謎は30%は解明される
と考えています。あと30%は「秦氏」。あと残りは「物部氏」「海部氏」
「尾張氏」……であります。

 『日本書紀』による「日本古代史最大のトリック」というものがあります。
 それは「蘇我氏」に絡んでおります。もっとも、私が申しているのではな
く、石渡信一郎氏の説を汲む林淳治氏の説であります。

 いずれにしても、『日本書紀』によって隠蔽しようとされたものがありま
す。その一番が「蘇我氏」かも知れません。「出雲」も絡むと思います。

 詳しくは、もう少し頭の中を整理したあとで記したいと思います。諸説に
はくれぐれも振り回されないように注意しつつ、見極めてみたいと思ってい
ます――
[33]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月27日 14時43分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一部飛びました。:絡んで「……」く、 → 絡んでおります。もっとも
                      これは私が申しているので
                      はなく、
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月27日 15時55分54秒 ) パスワード

三つ柏さん


古代史の罠?古代史の呪い!には振り回されますね。


今日は録画しておいた「ファミリーヒストリー  ケンドー・コバヤシ編」の再放送を見てたら
岡山美作の母上さま方の名字が【安東】だそうで

        安東なんて東北でしょ?安倍の一族でしょ!

と思って検索したら   なんと!  孝元天皇のご子孫でした。
失礼をば致しました。


なんか  孝元天皇の呪いに・・・・いえ・・・・縁に導かれているようです。


なんとかかんとか言いながら
我々日本人はやっぱり神代からの縁に結ばれているのだなと思います。


      だけど!呪いにはがんじがらめにされています。
      やっぱりワケ分からなくなります。

 
ケンドー・コバヤシという人は全く知らなくて   料理のコウ ケンテツ 高 賢哲 のことかなと思ってました。


でも見てる内に  ああ、この人=ケンドー・コバヤシ=とわたしは南朝方で結びついてる  と思いました。

それで名字の安東姓を調べたら孝元天皇の子孫になるということで  南朝方よりずっと大昔の   神代の時代からのご縁でしたか
と笑ってしまいました。


フツーだったら  ケンドー・コバヤシ?高賢哲?   興味無し!  ということでスグに削除したのに
なんだか今日は   つまらないけど見るか   時間の無駄だけど  と思いつつ   見て引き込まれました。


とにかく、この番組を見た事も不思議でした。
ご先祖さまパワーが来てるのかな?

美作なら当然  平家パワーも来るでしょうから。


それに処方薬を取りに行ったら   コロナ廃業で  その薬局が今月一杯で閉めるから
在庫一掃処分でサプリが安かったので  3万円ほど買い捲ったのですが

家に帰って  日頃  見もしないレシートを見たら  ビタミンK2が1瓶18ドルもしてたのです。
ウッソー!
確かにK2って高いけど在庫一掃値段でこんなにする?
と思ってネットで調べたら

ネットで  1瓶  10ドル売りだから  18ドルはいくらなんでも暴利過ぎるよね

と思って   汗びっしょりついでに薬局に汗びっしょりになりながら値段を見に行ったら  やっぱり  棚の値段とレシートの値段が違ってました。


わたしは結構こういう「虫の知らせ」というのがあって  日頃見もしないカードの支払い明細を見ると  やられてるのが分かったりします。


今日はケンドー・コバヤシの録画を見てた時に薬局から「処方が済んだから取りに来て」という自動案内がかかって来て
最後まで見てから薬局に行ったのでした。


欠史8代  なんて言うけど   実在してたと思う。
最近やたらと孝元天皇の存在が身近だから。

って、考えると  わたしの先祖って  神武天皇ってコト?
いいの?
図々しくない?
だけど、遡るとそうなるんですけど。
[35]酔石亭主さんからのコメント(2020年05月27日 16時21分20秒 ) パスワード

空の青海のあをさん 三つ柏服部さん 

レス31
>以下の蘇我氏の考察は、三つ柏さんや酔石亭さんの方向性と違ってきてしまいますが。に関して、

系図において蘇我が清の別表記になる点を説明しただけで、蘇我氏の出自については出雲系かどうかも含めよくわからないし、残念ですが私では方向性の出しようがありません。出雲神族・富家末裔の斎木雲州氏が大元出版で「出雲と蘇我王国」という本を出版しています。出雲と蘇我氏の関係はこちらが参考になるかも…。関連する記事は幾つかのブログやホームページで見られます。富家の分家が神服神社のある高槻市(摂津三島、野見宿祢の神祠があり、神服神社に行った際訪問しています)に来て、後に大和の葛城、三輪山山麓に移ったのが登美家とされ、ここから加茂氏や三輪氏に繋がっていくので、三つ柏さんが書かれたように三輪氏は出雲神族となるわけです。

蘇我氏が出雲系物部氏かもしれないとして、推定される出雲系物部氏の意味は、例えば大物主神は出雲側から見ると大己貴命で出雲系ですが、物部側から見ると饒速日命で物部系になります。登美家も物部側から見ると物部氏で、出雲側から見ると富家の分家になってしまいます。饒速日命は登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)の妹の登美夜毘売(とみやひめ)を妃にしているので、出雲側から見ると饒速日命は入り婿した立場と考えているのかもしれませんね。また系図的にはスサノオ―饒速日命−物部氏の流れから出雲系物部氏になるのかも…。

要するに出雲は大和の様々な豪族に影響を及ぼしていることになるのですが(富家伝承では大和は出雲の分国)、それは無理筋ではないかと思います。出雲の絡みはぐちゃぐちゃでいまだによく理解できないので、出雲の御師みたいな人間が大和に来て、大和の豪族に出雲の神様を神札にして売りまくり、豪族たちは自分たちの先祖に取り込んだのではないかなどと妄想している次第。そうしたぐちゃぐちゃな筋の中から出てきたのが蘇我氏だとすると、もうどこの馬の骨だかわからないとなってしまいます。なので、蘇我氏は6世紀から7世紀前半にかけて強大な勢力を持っていた一族とするだけでいいのではと思いますが…。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月27日 17時46分38秒 ) パスワード

酔石亭主さん

>出雲の御師みたいな人間が大和に来て、
>大和の豪族に出雲の神様を神札にして売りまくり、
>豪族たちは自分たちの先祖に取り込んだのではないかなどと妄想している次第。

                       妄想なんかじゃありませんよ

>そうしたぐちゃぐちゃな筋の中から出てきたのが蘇我氏だとすると、
>もうどこの馬の骨だかわからないとなってしまいます。
>なので、蘇我氏は6世紀から7世紀前半にかけて強大な勢力を持っていた一族とするだけでいいのではと思いますが…。


<<<<出雲の御師さん>>>

そう!これ!御師さん!

これで馬の骨だった自分達の名も無い先祖の出自ロンダリング・身分ロンダリングをした
というのが座りが良いです。



出雲の御師さん
うまいね
儲かったでしょうね。

元祖ウインウイン!
[37]酔石亭主さんからのコメント(2020年05月27日 18時30分31秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青海のあをさん

レス27の三角縁神獣鏡に関して、出土数は畿内が圧倒的に多く、黒塚古墳では33面も出土しています。型式編年によると同古墳の鏡は250年から260年頃鋳造されたもののようで、この年代は台与の時代に相当します。台与が仮に九州の邪馬台国の女王だとしたら、彼女が配布したものになるはずで、北九州での出土が最大になると考えられます。ところが、畿内で200面以上に対して福岡県では37面ですから、圧倒的に畿内特に奈良県が多くなっており、矛盾してしまいます。これを矛盾がない形にするには、台与が大和に東遷して配布したとするしかなく、三角縁神獣鏡の出土が台与東遷の証明の一つになり得ます。

物部氏の東遷に関しては以下のように考えます。
@饒速日命が倭国大乱を避けるため190年頃に大和に入った。纏向遺跡は2世紀末に突如出現したとされますが、それは外来勢力が入ったことを意味し、遺跡によって多少は東遷を証明できる。従って箸墓古墳以前の纏向型前方後円墳はプレ物部氏の墓と推定。
Aプレ物部氏が3世紀後半に遠江まで進出したのは、まさにこの時期に台与が東遷したので、プレ物部氏の一部が纏向を去ったから。
B4世紀初頭は邪馬台国ではなく神武天皇(実態は崇神天皇で活動期は290年から318年頃と推定)の東遷により、台与の後継勢力や出雲系?プレ物部氏が移動を余儀なくされたものと推定。「日本書紀」の崇神天皇6年にそれを示唆するような記述がある。
C587の蘇我馬子による物部守屋の殺害(殺したのがあの迹見赤檮)と物部氏の滅亡により、逃亡、東への活路を求めた点は、蘇我の乱により聖徳太子の子が逃げたのと同じようなパターンですね。

村積神社(岡崎市奥山田町字山田46)は推古天皇の時代、聖徳太子や蘇我馬子と争って敗れた物部守屋の子(?)・物部真福が祀った神社とされており、これはCの証明の一つになりそうです。以前に住んでいた藤沢市の地名由来の地と考える伊那市高遠町藤沢に物部守屋を祀る物部守屋神社があり、訪問もしていますが、守矢家の言い伝えでは、神長官裏の古墳は蘇我氏との戦に敗れた物部守屋の子(?)・武麿のもので、武麿が初代モレヤ神になったとされているようです。これも東への逃亡の証明になるのかもしれませんね。ちょっと気になったのは物部守屋神社の神紋が丸に三つ柏であること。出雲系物部氏(スサノオ→饒速日命→物部氏)の神紋と言うことでしょうか???

11世紀頃分家の守屋一族が現浜松市水窪町に諏訪明神の御幣を持って移住し、北条時頼の足痛を癒した5代目守屋辰次郎を祀ったのが足神神社で、守屋家が代々宮司家(現在で41代目)を務めているようです。色々ありますね。

以下は「初生衣神社 鈴木栄男(すずきしげお)宮司様のお話し」からコピペ

2 神服部(かんはとり)家の歴史
  @出雲神社系、大和を本拠:美和(三輪・神)氏族 → 遠江へ移った。
  A神氏:神人(むはびと)の後世、神(じん)氏と称して世々服部となり神御衣(かんみそ)を織った。
  B神服部(職業的の部):服部の一種で神御衣を織る部民である。
  C ○ 鎌倉・室町時代 : 神氏
    ○ 徳川時代    : 目代(もくだい)・神目代(じんもくだい)
    ○ 明治時代以降  : 神服部(かんはとり) 織殿で機を織っていた人たちの意

これだと、神服部家も出雲神族に……。

何度もお二人のお邪魔してしまい申し訳ありません。ついあれこれ書きたくなってしまいますので…。この辺で退散します。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月28日 00時26分51秒 ) パスワード

酔石亭主さん


ありがとうございました。


「東遷」って「都落ち」の意味もあったのですねぇ。

わたしは大山守皇子さんの子孫が大井川の西まで落ちて来たのは身近な人の例で知ってたけど。


>村積神社(岡崎市奥山田町字山田46)は推古天皇の時代、聖徳太子や蘇我馬子と争って敗れた物部守屋の子(?)・物部真福が祀った神社

ここは大樹寺の東北、松平郷の近くでいいのかな?
都落ちして隠れ住む場所だなと。
奥山田町山田なんて  モロに  山の中か。
知ってたら行ったのに。


>物部守屋神社の神紋が丸に三つ柏

これにもびっくり。
スサノオ  →  物部  →  三つ柏紋?  →  遠江の服部氏?


いやぁ
やっぱり  スサノオさんに会いに行かないとね。



酔石亭主さん  懇切丁寧な解説をありがとうございました。
[39]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月28日 07時01分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 水石亭主様――
 わかり易い解説に感謝申し上げます。非常にモチベーションが上がってき
まして、嬉しい気持ちで満たされております。触発されたことがいくつかあ
りまして、今後記したいと思いますので、なにとぞよろしくお願いいたしま
す。

 「出雲」は、浜松から観光バスで行きますと、高速道路も利用して6〜7
時間もかかりますので、いつも"遠い国"だなと思っておりました。
 昨今、長野正孝氏の『古代史の謎は「海路』で解ける』を読みまして、古
代には道路と言う道路はなく、ましてや険しい山岳部が多いので、交通手段
の主流は「舟(船)」であったということ、またその具体的例にも納得いたし
ました。

 つまり、古代においては水運(海、湖、川)が主な交通手段であった。まし
てや当時の海水面は今より高かったということでありますので、平地は更に
少なかった。逆に入江はずっと多かった。この入江というものはバイパスで
もあり、避難港でもあるので、水運には都合が良かった。従って、船の利用
は理にかなったものであり、自然環境の利用・適用方法としては当然の帰結
であったと思われます。

 陸上においては、中には奇跡的に山岳を縦断するような谷間があったとい
うこともあります。そこは道として利用された。丹波にも、越前にも……こ
ちらでは伊那谷であります。

 高槻も、陸路で考えると遠いのですが、水運を利用して移動したと考える
と、神服神社の神主さんの移動時間は大幅に短縮され、その旅程は想像して
いたよりはるかに"楽"になります。神服神社との距離感も、そういう意味で
短縮されました。

 古代においては、人は、舟によるホモ・モーべンスであったということを
頭に入れて歴史を考察しなければならないと思いました――

 
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月28日 07時20分56秒 ) パスワード

友人からレスを頂きました:
以下コピペ


蘇我氏・・・やっぱり出雲系ですね。
須佐能の尊のスサも中州のスサ(州砂)だと記憶していました。
蘇我氏も「スサ」から来たネーミング仲間だったはず・・・横須賀の「須賀」も同じ意味のスカですね。



安東姓多いです。
美作区域だけで1500人は居るようです。

津山には集中していますね。

           さらに、普通に安藤姓の人も結構居られるのですよ。


放映された安東さん宅は宮本武蔵の生家から北東の4キロ地点の谷間です。
もう4キロ上流に行けば、関ヶ原から落ち延びた「明石掃部」の子孫の家が40軒ほど在る所です。
ほとんど播磨国と接して居ます。


どうも、北条政権の時の西遷御家人で地頭職をしていた安東氏が元のようですね。

熊本か大分かの安東姓のHPからの問い合わせでちょっと探った覚えが在ります。
九州方面の安東氏と同じ家紋を使用している家が美作にも在りましたね。
まさしく同族ですね。


_______________________________

わたしにはNHKの画面から家紋はイマイチ分からなかったです。
[41]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月28日 07時51分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様
酔石亭主様

 古代における水運(舟・船)の利用に関して、舟を造った人、舟を操った人が
いたわけで、それは「船木氏」、および「猪名部氏」であります。

 船木氏は垂仁天皇の頃から活躍したということですので、4世紀前半から、
猪名部氏の祖は応神天皇の時から活躍したということですので、4世紀末からと
いうことになります。

 伊那はこの猪名部氏の「イナ」から来ているようです。つまり、天竜川を遡
って行ったということになります。
 あるいは、秦氏の東遷にもこの猪名部氏の協力があったのではないかと推察
しております。

 今後もこの二氏について調査して行きたいと思っておりますので、何か情報
がありましたらご教示下さいませ――
[42]酔石亭主さんからのコメント(2020年05月28日 09時49分15秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青海のあをさん

私の本来の趣味である水石に関して員弁川石(いなべがわいし)があり、これに関連して三つ柏さんの関心のある点は以下でほぼ網羅していますので参照ください。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-2634.html

東員町の舟連墓は以下を参照ください。
https://www.town.toin.lg.jp/cmsfiles/contents/0000004/4671/naka.pdf
[43]酔石亭主さんからのコメント(2020年05月28日 10時14分53秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青海のあをさん

船木氏は元伊勢に関係しそれは私も少し書いているのですが、こちらが全容を知る決定版となりますので、参照ください。イスラエルにまで繋げているのはどうかとも思いますが…。
http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=234
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月28日 14時45分21秒 ) パスワード

住んでた場所が場所だけに
   員弁=三重県
   船木=美濃出身者   代表:舟木一夫
に限定されてしまっていました。


                    ところが
舟木一夫の本名は上田 成幸で  出身は一宮でした。  カ〜ン!残念でした。

今迄信じてたのに。


     もう寝るっ!不貞寝!
[45]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月29日 08時35分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 舟木一夫氏については、「高校三年生」は同窓会の締めの定番で、いつも
歌っております。――誠に残念でした。

 水石亭主様――
 猪名部氏についてのご考察を読ませていただきました。さすが第一の秦氏
研究者様であります。何でも知っておられます。

 猪名部氏についての論文が、四日市大学論集の第5巻第1号にも載ってい
ました。「「イナベ」考」という表題でありますが、堀端孝治氏によるもの
であります。
 その中に、猪名部氏と船木氏が協力したであろうという推察が、少し載っ
ておりました――
 「木工集団の猪名部族にとって、伐採をする人々や大工道具を作る人々の
支えが必要である。(員弁の)下之宮町の式内社・耳常神社は、『地名の古代
史』によれば、船を造る木を切り出す舟木直(あたえ)を祭る神社であり、猪
名部族に協力したものと考えられる。」
とあります。

 所用にて一時中断いたしますが、酔石亭主様にもう一つだけ質問がありま
す。それは、秦氏と一口に言いますが、その中には武内宿祢系の波多氏族も
含まれるのでしょうか(あを様の疑問にもありました―波多八代)――
 
[46]酔石亭主さんからのコメント(2020年05月29日 11時42分52秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青海のあをさん

>秦氏と一口に言いますが、その中には武内宿祢系の波多氏族も含まれるのでしょうか

秦氏には含まれませんが、含まれているような混同はあちこちの資料で見かけられます。この問題はあくまで伝説ですが、武内宿禰と徐福との関係がベースになっています。伝説を現実に置き直せば、徐福を秦氏と読み替え武内宿禰を羽田八代宿禰(表記は色々あり)と読み替えて考えればいいのではと思います。詳細は以下の「富士山麓の秦氏 その22」を参照ください。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-736.html

[47]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月29日 14時27分35秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ありがとうございました。

まさか富士山の北(都留)まで出て来るとは思いませんでした。
ボーゼン


三つ柏さん

浅間神社の神職だった服部氏
いよいよ気になって来ました。

この服部さんの家紋が何か分かると面白いと思っています


中国人の友人が始皇帝が徐福を日本に送ったことは知っていました。
2200年ほど前のことですね。



ということでウイキから:


1)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B9%E7%B9%94%E7%89%A9

絹織物は、中国で創出されたもので、絹を生産している形跡が新石器時代遺跡(西陰村遺跡(中国語版)、河姆渡遺跡など)から幾度も発見されている[1][2]。

                       え゛〜


刺繍が施されるようになった最も早期の事例は、中国にある戦国時代(紀元前3世紀〜5世紀)の墓から発見されたものである。

                       うっそぉ〜


2)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B9

絹の生産は紀元前3000年頃の中国で始まっていた。

                       気絶しそう


伝説によれば黄帝の后・西陵氏が絹と織物の製法を築いたとされ、
一説には紀元前6000年頃ともされる。

                       早過ぎ!


少なくとも前漢(紀元前206年 - 紀元8年  秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした)の時代には
蚕室での温育法や蚕卵の保管方法が確立しており、現在の四川省では有名な「蜀錦(中国語版)」の生産が始められていたという。


6世紀半ば、北魏の『斉民要術』によれば、現在の養蚕原理がほとんど確立していた事が判明している。

また、北宋時代には公的需要の高まりに伴って両税法が銭納から絹納へと実質切り替えられ(1000年)、以後農村部においても生産が盛んになった。


一方、他の地域では養蚕や絹の製法は伝わらず、中国から陸路・海路でインド、ペルシア方面に輸出されていた。
これがシルクロード(絹の道)の始まりである。


紀元前1000年頃の古代エジプト遺跡から中国絹の断片が発見されているほか、

                       これは知らなかった

古代ローマでも絹は上流階級の衣服として好まれ、
紀元前1世紀にエジプトを占領すると、絹の貿易を求めて海路インドに進出、その一部は中国にまで達した。

だが、同量の金と同じだけの価値があるとまで言われた絹に対する批判も強く、
初代ローマ皇帝アウグストゥスは、法令で全ての絹製衣類の着用を禁止した。

マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、絹製のローブが欲しいという后の懇願を拒絶して模範を示したが、それでも絹の人気は衰えることはなかった。


絹の製法は6世紀に、ネストリウス派を通じて東ローマ帝国に入った。
中世ヨーロッパでは、1146年にシチリア王国のルッジェーロ2世が自国での生産を始め、
またヴェネツィアが絹貿易に熱心に取り組み、
イタリア各地で絹生産が始まった。

フランス王国のフランソワ1世は、イタリアの絹職人をリヨンに招いて生産を始め、のちに同地は近代ヨーロッパにおける絹生産の中心となった。

ちなみに宗教改革で母国を追われたプロテスタントの絹職人を受け入れたイングランド王国では、
ジェームズ1世以来、何度も絹の国産化を試行したがことごとく失敗し、
1619年にようやく成功に漕ぎ着けた植民地も17世紀にアメリカ合衆国として独立した。

                        アメリカの独立は  1776年7月4日   18世紀だよ

このため、他のヨーロッパ諸国よりも中国産の良質な生糸を求める意欲が強く、
これが清との間の貿易不均衡、
更にはアヘン戦争へとつながっていく遠因となったとする説もある。



日本には弥生時代には既に養蚕と絹の製法が伝わっており、

                       え゛〜   弥生時代?紀元前10世紀頃 〜 紀元後3世紀中頃まで  のどこかの時代?
                       そうすると2200年前あたりに徐福が齎したというのはかなりホントの事だったんだね   
                       

律令制では納税のための絹織物の生産が盛んになっていたが、品質は中国絹にはるかに及ばず、
生産は徐々に衰退していった(室町時代前期には21ヶ国でしか生産されていなかったとする記録がある)。


このため日本の貴族階級は常に中国絹を珍重し、これが日中貿易の原動力となっていた。

明代に日本との貿易が禁止されたが、この頃東アジアに来航したポルトガル人が日中間の絹貿易を仲介して巨利を得た。

                        これは知らなかった
                        スペインのパシリだったポルトガルが日本に鉄砲を持って来た  キリスト教を布教しに来た  ぐらいしか記憶になかった  


長年の戦乱などによる養蚕の衰退で、国産の蚕は専ら真綿にしか用いることができない低品質なものが大半であった。

                        だと思ってた


そのため、西陣や博多などの主要絹織物産地では鎖国後も高品質な中国絹の需要が高く、

                        へぇ〜

長崎には中国商船の来航が認められており、

                        これは記憶にあった

国内商人には糸割符が導入されていた。


しかし、寛永年間から品質改良が進められ、江戸幕府は蚕種確保のため、代表的な産地であった旧結城藩を天領化し、次いで同じく天領で、より生産条件の良い陸奥国伊達郡に生産拠点を設けて蚕種の独占販売を試みた。

これに対して仙台藩、尾張藩、加賀藩といった大藩や、上野国や信濃国の小藩などが、幕府からの圧力にもかかわらず養蚕や絹織物産業に力を入れたため、徐々に地方においても生糸や絹織物の産地が形成された。

                        これは知ってたな


この結果、貞享年間(1685年頃)には、初めて幕府による中国絹の輸入規制が行われた。

8代将軍徳川吉宗は、貿易赤字是正のため、天領、諸藩を問わず全国で生産を奨励し、江戸時代中期には中国絹と比肩する品質にまで向上した。

                        知らなかった

このため、幕末から開港後は絹が日本の重要な輸出品となった。

                         うんうん
                         NHK大河の「花燃ゆ」の杉 文=吉田松陰の妹=と楫取素彦の明治維新後の群馬時代のエピソードで知った   ような?
[48]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月31日 10時19分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「湯舟」というと、伊賀の柘植あたりの湯舟を思い浮かべますが、何となく
風情の響きあるある地名ですね――
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月31日 15時58分28秒 ) パスワード

三つ柏さん

伊賀の湯舟について由来など知りたかったのですが  たいした事は分かりませんでした:


https://folklore2017.com/843.htm からコピペ

■ 湯舟(ゆぶね)
【2014/07/16:新載】

# 山梨県の名字で山梨県韮崎市にまとまってみられる。
# 甲斐国巨摩郡上条南割湯舟(山梨県韮崎市旭町上條南割湯舟)をルーツとする。

                        山梨がルーツ?


               ということで
               http://202.174.57.147/WebOpac/Reference/DetailShow.do?id=200116&target=adult
               『韮崎市誌 下巻』p538 
               「湯舟という小字があり、姓もあるが、
                「ふね」には船舶の意のほかに
                水桶あるいはふろ桶の意味があるので、
                地形からきた名称であろう」

               
# 「湯舟」の主な地名

・ 青森県西津軽郡鰺ヶ沢町湯舟町
・ 青森県三戸郡南部町下名久井湯舟沢
・ 岩手県一関市室根町矢越湯舟

・ 岩手県滝沢市湯舟沢
・ 宮城県栗原市栗駒文字湯舟
・ 宮城県栗原市栗駒文字湯舟前
・ 宮城県東松島市根古湯舟

・ 山形県東村山郡山辺町北山湯舟
・ 福島県田村市常葉町新田作湯舟
・ 福島県東白川郡塙町山形湯舟

・ 福島県相馬郡飯舘村大倉湯舟
・ 山梨県韮崎市旭町上條南割湯舟
・ 静岡県伊豆市修善寺湯舟

・ 三重県伊賀市西湯舟
・ 三重県伊賀市東湯舟
・ 三重県伊賀市湯舟                      これは知らなかった

・ 京都府綾部市武吉町湯舟
・ 島根県仁多郡奥出雲町大馬木湯舟
・ 島根県邑智郡邑南町日和湯舟谷
・ 広島県大竹市湯舟町
・ 熊本県菊池市旭志麓湯舟



・ 湯舟村(ゆぶねむら): 栃木県。下野国那須郡にあった村名。
「天保郷帳」には湯船村と見える。
奈良川流域の奥州街道芦野宿の北東に位置する。
地名の由来は、岩槽または石槽にちなむと伝えられ、
これには戦陣中での芦野氏の奥方出産伝説や蛇神の伝説がある。


・ 湯舟村(ゆぶねむら): 熊本県。
江戸時代から明治時代初頭にかけて、肥後国合志郡にあった村名。
地名に関しては、仁平・久寿年間頃、鎮西八郎為朝が当国に来て亀カ城に籠城した時、
二郎兵衛高則という者が材木を筏にして夜々城内へ糧を入れたため当地を夜船と称し、のち湯船と転じたとする伝承がある。
また、昔、当地に湯が湧出し、舟を浮かべて月夜を楽しんだため、夜舟もしくは湯舟と称したとする口碑もある。

 
・ 湯舟: 戦国時代に伊賀国阿拝郡にみられた地名。


■ 湯船(ゆぶね)
【2014/07/16:新載】

# 全国にわずかに点在する。
# 「湯船」の主な地名

・ 青森県弘前市大沢湯船ケ沢
・ 宮城県仙台市青葉区芋沢湯船沢
・ 宮城県仙台市青葉区芋沢湯船沢東

・ 宮城県黒川郡富谷町富谷湯船沢
・ 福島県田村市滝根町菅谷湯船

・ 静岡県駿東郡小山町湯船
・ 静岡県駿東郡小山町湯船湯船原

・ 愛知県豊田市上切町湯船
・ 京都府相楽郡和束町湯船
・ 岡山県真庭市蒜山湯船

・ 広島県山県郡北広島町本地湯船谷
・ 熊本県天草市栖本町湯船原
・ 熊本県阿蘇郡産山村産山御湯船


・ 湯船(ゆぶね):  静岡県駿東郡小山町湯船。
地名は当地に温泉があったことに由来する。



・ 湯船(ゆふね): 旧伊賀国の水口丘陵南部、鞆田川の支流湯舟川流域に位置する。
平安時代から湯船荘という荘園があり、戦国時代には湯舟と書いた。


・ 湯船(ゆぶね): 京都府相楽郡和束町湯船。
地名は、白山神社境内の湯槽(ゆぶね)と称する浴場設備に由来するという。古くはこの湯槽は石製で、
毎年除夜には村人たちが湯を沸かし参拝して、1年中の罪・けがれを洗い清めたという伝承がある。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月01日 06時45分40秒 ) パスワード

伊賀の湯舟について友人が調べてくださいました。
以下コピペ


伊賀の湯船
地名辞典に出ていましたよ。

1056年の東大寺の文書で
湯船の杣工(そまく  きこり)が居て
風呂の木材の加工・生産をしていた木地屋を言う
と有ります。


まさしく、風呂関係の地名ですね。・・・この時期ですから蒸し風呂でしょうね。



*「杣山(そまやま)」と言います。いわゆる、国有林です。
他には「牧(まき)」が在りますね。
どちらにも工人集団が居ます。

木津川和束の杣工は、寿永二年の北陸道に動員されています。
梶原景時などは垂水牧の住人や住民を動員されていますね。
いわゆる「工兵隊」・「輜重隊」ですね。


                        へぇ〜


武将だけでは戦は成り立たないわけですね。


「源平合戦の虚像を剥ぐ」
川合康 著  より


湯舟の「湯」と「舟」の地名には製鉄地名が入って居る場合があります。


「舟」; 
鉄穴流しの水流の早さを調節するための池とする説があります。
しかし
舟地名は「船谷」のように谷全体の名称も多いことから、選別池を含めた舟地名もあると思われます。



舟地名には舟運に関係する地名があるので注意が必要です。



「湯船谷・奥湯船」(湯はタタラに関係した地名)


「船谷」(鍛冶屋地域内にあり)

「船坂(ふなざこ)」

「舟ヶ谷」





「くろ・ぐろ・くら・・・・ふろ・ぶろ」

黒は本来鉄の色で、クロガネは鉄の古称です。砂鉄の黒色から産地地名になったと
クロには平地で盛り上がった所を指す「畔(くろ)」があり、
黒に当て字されている場合があると思われます。

                       だね


訛って「ふろ・ぶろ」もあります。

                       こーゆーのが更にあるからヤヤこしくなる


お宮の森を「お宮ぶろ」なんていうのも有ります。

                       なんでぇ〜(悲鳴)
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月01日 06時53分54秒 ) パスワード

さらにもう1つコピペ:


吉野ヶ里遺跡の紹介:服装|吉野ヶ里歴史公園
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c609.html   



【ア.家蚕の絹】

出土品は繊維断面形より見て、いずれも家蚕の絹であり、楽浪系の三眠蚕と華中系の四眠蚕があります。

このうち、
華中系は中期初頭、中期前半の甕棺から出土し、
楽浪系は中期後半、後期初頭の甕棺から出土ました。



【イ.日本製の絹】

中国漢代の絹と織り密度や繊維断面計測値を比較してみると、
顕著な違いが認められ、
日本製の絹であると考えられます。


*透目絹は華中方面の古代絹に多く、華中方面との交流が考えられます。


(吉野ヶ里の日本製と言っています。)



【エ.染色された絹】

・・・・日本茜と貝紫が検出されました・・・

            (日本産の工芸製品と言うことですね。)



【オ.麻布が出土した】

・・・・・二つの甕棺から大麻を材質とした麻布が出土しました。
大麻布はいずれも織り密度で高度の織布技術を持っていたことが窺えます。



・庶民(下戸層)の日常着

・・・・弥生時代の織布の幅は30センチ前後・・・貫頭衣は、製作することが難しかったと考察しています。

          (日本は貫頭衣では無かったと言って居ます。)


                         へぇ〜


弥生ミュージアム

第四章 弥生時代の生活 > 3.身なり > 上位身分の人の服装
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode04/dress02.html  

吉野ヶ里遺跡の甕棺墓から出土した絹織物です。
この甕棺墓は富裕層に属する人物を葬ったものと考えられ、
布には袖を縫い合わせたと考えられる部分が残っていました。

これにより、貫頭衣とは構造が異なる袖付きの衣服を弥生時代の富裕層が着用していたことが明らかになりました。



透目絹は中国の華中方面の古代絹に多く、華中方面との交流があったことを窺わせます。
絹布の中には貝紫や日本茜で染色されたものがあることも確認されました。

これらのことを考えると、
弥生時代の後期後半の織物技術は吉野ヶ里など一部ではこれまで考えられているより高度で、
そうした地域に住んだ上位身分の人々の正装は袖付で赤や紫に染められた鮮やかな絹であったと思われます。


                       へぇ〜

                       弥生時代、みくびってたな、わたし。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月01日 14時37分32秒 ) パスワード

長上郡の服部氏族CXXXX:135:いよいよ核心に‐3
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101718.html
をご用意致しました。

キリの良いところで、どうぞ。
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