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 投稿番号:101711 投稿日:2020年04月08日 01時07分09秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族CXXXII:132:現場100回13

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101709_59.html
長上郡の服部氏族CXXXI:131:現場100回-12
の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


三つ柏さんは原点に戻って古代史=秦氏=から調査のし直しです。
大和岩雄氏の『秦氏の研究』
頑張って纏めてくださいますように!

[1]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年04月10日 06時26分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッド、ありがとうございます!

 昨日は、インターネットが中断しておりまして、それと知らずに書いてお
り、結果として、すべて無駄になってしまいました。
 また、タブレットの調子も悪いということで、見てもらいに行きましたが、
やはりこれもインターネットのせいであることがわかり、無駄な骨折りをい
たしました。

 インターネットといい、新型コロナといい、やる気を奪うことばかりで、
集中力が奪われております。モチベーションを高めること、これが課題であ
ります。

 でも、新型コロナの感染拡大、急カーブを描いて増大してきました。あを
様のご指摘どおりでありました。日本の対策が遅く、生ぬるく、せこいのが
原因であることは間違いないように思います。せこさを感じたのは、政治家
のパフォーマンスや補償対策へのケチリであります。

 感染爆発してしまったら、政治家・政府はどう責任を取るのか、腹を切る
くらいの覚悟はできているのかなと思います。もちろん、今の日本の精神的
風土というものにも、根本的な問題が潜んでおりますが……。

 いずれにしても、感染爆発を前にして、今ある平穏は風前の灯となり、恐
ろしい近未来を想像して怯えております――
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月10日 07時55分38秒 ) パスワード

三つ柏さん

そうですか
ネットの不具合でアップ出来ませんでしたか。
くやしいですね。


わたしの場合は窓8が思ってた以上に不安定で長々書いてて瞬殺されるので
なるべく早くアップするように

しようと思いつつ

アップしている間に何を書こうとしていたかコロッと忘れてしまうという老化現象に再度ぶちのめされます。あ〜あ



イギリスだったか補償は政府の発表から2週間で振り込まれたなど聞いています。
従業員は80%補償して貰えたとかも。


アメリカも申請から2週間で振り込まれたと聞いています。


こういう素早い補償は国民には嬉しいですよね。
マスク2枚の配布よりも現金をサッサと振り込んでくれ!ですよね。



コロナは
75歳以上
男性
血液型A型が死者の48%だった
喫煙者
大気汚染のひどい場所の住民(PM2.5の数値の割合の高さで、より、ひどくなるとか)
既往症があって  そういう人が低カリウム血症を起こしている場合コロナにやられ易い
など等いろいろ情報が出てますね
他にはBCGをやってる国は死者が多くないとか。


日本については世界が注視していますね。
   日本は人命と経済の両方を救いたいようだけど可能なのか?


ハワイは現在の陽性者が442人で死者が6人。
オアフ島は334人です。


人口が150万人もいない州(142万人あたり)で442人が感染です。
島だから空気は良いのに(とはいえ  キラウエア火山からの火山灰で喘息になるけど)。

ホノルルは人口が100万人もいないのに334人の感染者。


愛知県は人口755万人+で  感染者数 301人。


こうして比べるとアメリカの感染が爆発しているというのが良く分かると思います。


一応個人の運動で外に出るのは禁止されてはいませんが
外に出るなんてオソロシイです。

うちのスグ近所にホームレスが3人いて、先週暫く2−3日姿を見ていなかったので施設に行ったのかと安心していたら
戻って来ました。施設に入るのがイヤな人って一定数いますから。
彼らは我が家の近所が気に入ってるのかも知れないけど施設にいて欲しいと内心思っています、双方の健康と幸せのために。


それで今は頂いたご本を朝7時から1時間ラナイ(ベランダ)で読み返し
8時には脳味噌が焦げそうに暑くなるので室内に移動しています。


やっぱり人間は  若いうちに  万巻の書を読み千里の道を往きいろいろな人間を朋として  学ばなくてはいけませんね。
TOO LATE!


とにかくヒトと接触しない  ヒトと会わない  家族とも距離をとる(笑)
それから手を洗う   

    特に目ですが  顔を手で触るのがいけないので   
    バンダナを首に巻いて  顔を触りそうになったら  バンダナで触るようにする

だからマスクとメガネは必需品



我が家はタワマンで定期的にセキュリティが公共の場やエレベーターのボタンを消毒していますが
わたしも公共の場に行く時は消毒用のワイプを持参してしっかりご近所さんの為にも消毒しています。

[3]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年04月12日 00時00分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大和岩雄氏の『秦氏の研究』を読み直してみましたところ、二三の新発見
はあったものの、究極的な新事実は見つけられませんでした。
 二三の新発見というのは――
 @ハタ氏には、「秦氏」と「波多氏」の二系統があり、波多氏は建内宿祢の
  子の「波多八代宿祢」の子孫であり、八代宿祢は葛城襲津彦と兄弟である
  ということ。 
 A大和の服部連は、糸井造・三宅連と同じに、天日槍を祖とする新羅・加羅
  系渡来氏族で、秦氏と同じ地域出身の渡来氏族であったということ。
 ➂『古事記』は親「新羅」であり、『日本書紀』は反「新羅」であること。

 「秦氏」の謎を解くためには、やはりユダヤモードに一歩足を突っ込まない
と解明できないのではないかという思いが、今回再び強くなりました――
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月12日 01時10分35秒 ) パスワード

三つ柏さん

さきほど「雪」についての番組を見ていました。

日本人は「雪」について欧米人とは違う「精神性」を感じている
というもので  
以前 三つ柏さんがお書きだった「虫の音」に通ずる自然に対する日本人の感性
    
    たぶん  古代人  縄文人以来の  自然に対する畏怖  から来ているのでは?

と思いました。



    勿論  弥生人も雪がたくさん降ることによって稲作が守られる  というのを知っていた  と思います。




>波多氏

これは盲点でした。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E6%B0%8F_ (%E5%8F%A4%E4%BB%A3)

索に移動



波多氏(はたうじ)は、「波多」を氏の名とする氏族。

波多の地名は日本各地に分布している。

具体的な地名としては、
肥前国松浦郡波多村、
大和国高市郡波多郷[1]、
出雲国飯石郡波多郷[2][3](のち波多庄)、
肥後国天草郡波多郷[2]があり、
ほかに大和国(波多小北庄)、
相模国(波多庄)、
信濃国、
土佐国にもこの地名が存在する。


これらの地名を由来とする波多姓の氏族が多数存在する。


ここでアップ
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月12日 01時25分58秒 ) パスワード

波多氏というのは100%知らなかったです。
URLで読んでください。


各氏族の概要


皇別氏族(武内宿禰裔)

波多氏  皇別氏族(武内宿禰裔)
氏姓   波多朝臣
氏祖   波多八代宿禰
種別   皇別
本貫   大和国高市郡波多郷

武内宿禰[4]の長男である波多八代宿禰[5](はたのやしろのすくね)を祖とする[6]。姓は臣のち朝臣、真人。

八多(八多朝臣[7])、八太(八太臣)、羽田(羽田臣[8]・羽田朝臣)とも表記される。
大和国高市郡波多郷[9]の地名に由来し、高市郡にあった延喜式内社の波多神社[10]を氏神とした。




古事記、日本書紀


祖の波多(羽田)八代宿禰は弟の巨勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)とともに神功皇后による三韓征伐に従う。


応神天皇3年(392年)には、
百済の辰斯王が天皇に対して礼を失したため、
弟の紀角宿禰らと共に百済に遣わされ、
その無礼を詰問する。

百済は辰斯王を殺して謝罪したので、八代宿禰らは阿莘王を王に擁立し帰国したという[11]。


また、17代履中天皇后である黒媛を八代宿禰の娘とする説もある[12]。


推古天皇31年(623年)
蘇我馬子が朝貢を促すことを目的に、境部雄摩侶を大将軍とする数万の軍を新羅に派遣した際、
小徳の位にあった波多廣庭は副将軍の一人に任ぜられている[13]。



天武朝に制定された八色の姓では、
皇族出身である52氏の一つとして朝臣姓を賜与されている。


推古天皇の時代に
副将軍となった波多一族の一人が羽田と改名した。

その後この羽田一族の一人が日本書紀の編者の一人として選ばれて編集した時に古事記の表記波多を日本書紀では羽田と全て書き換えてしまった。

どちらも同じ一族で同じ波多郷に居た。




続日本紀

続日本紀に見える官位は、
直広参、正五位上〜従七位下が見え、
姓は、波多真人、波多朝臣が見える。


名前(事績)としては、
牟後閉(周防総領)、牟胡閉(薬師寺建造の司)、余射(山陰道を巡視)、広足(遣新羅大使)、広麻呂、与射、足嶋、僧麻呂、継手、安麻呂、古麻呂、孫足、足人(宮内少輔)、足人(備後守)、男足、百足等が見える。




皇別氏族(息長氏族)

羽田氏(波多氏)

氏姓      羽田真人
氏祖      意富富杼王(第15代応神天皇の皇子若野毛二俣王の王子)
種別      皇別
本貫      大和国高市郡波多郷


応神天皇の孫である意富富杼王を祖とする[14]。
姓は君のち真人。
八多(八多真人[15])、羽田(羽田公[16]・羽田真人[17])とも表記される。

大和国高市郡波多郷の地名に由来するが、
のち推古天皇の時、羽田姓に改めた。

壬申の乱の功臣に羽田矢国・大人父子がおり、天武天皇13年(684年)で真人姓(羽田真人)を賜与された。

日本書紀編纂に向けて持統3年(689)6月2日、7名[18]の一人として羽田朝臣齊(はだのあそん・むごへ)が撰善言司(よきことえらぶつかさ)に任命された。


その後日本書紀の元となる先祖の墓記を上進する18人(691年)[19]の一人となった羽田朝臣齊(はだのあそん・むごへ)は
日本書紀の中では古事記の記述の中の家祖である波多を羽田に変えてしまった。




皇別氏族(日本武尊裔)

波多氏    (皇別氏族(日本武尊裔))
氏姓      波多君
氏祖      武養輦命(日本武尊の王子)
種別      皇別


日本武尊の子である武養輦命を祖とする[20]。
姓は君。


                       ここまでが皇室系?
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月12日 01時42分21秒 ) パスワード

ここから土着系?


地祇系氏族(波多国造)

波多氏  (地祇系氏族(波多国造))
氏姓    波多君
氏祖    不詳(天韓襲命後裔)
種別    神別(地祇)


崇神天皇の代に波多国造となった天韓襲命の後裔[21]。
天韓襲命は事代主神の子(または孫)の観松彦色止命の後裔で、長国造・都佐国造の祖である韓背と同人とされる[22]ことから、
海神族の三輪氏族に含められるが、
建田知命の後裔に天韓襲命がいることから、同じ海神族系の尾張氏族とする説もある[23]。



渡来系氏族(百済族)     帰化人系   半島系外国人


波多氏   (渡来系氏族(百済族))
氏姓     波多造
氏祖     不詳  (佐布利智使主後裔)
種別     諸蕃
本貫     百済


百済人である佐布利智使主の子孫[24]。
姓は造。




渡来系氏族(坂上氏族)    帰化人系   大陸系外国人

波多氏   (渡来系氏族(坂上氏族))
氏姓     波多造
出自     坂上忌寸
氏祖     波多阿良 (坂上志拏 3男)
種別     諸蕃
本貫     後漢
       大和国添上郡坂上




波多祝            皇室系だけど土着系になった?  

波多氏   (波多祝)
氏姓     波多祝
氏祖     高皇産霊神   波多八代宿禰
種別     神別(天神)?
本貫     大和国高市郡波多郷


大和国高市郡(奈良県高市郡)の波多神社[26]の祝(ほうり:神職)の一族と見られる。
高皇産霊神の孫である治身の後裔とされる[27]が、系譜ははっきりしない[28]。姓は祝。

姓氏録によれば、波多祝からは久米氏(久米直)族とされる波多門部連・波多造も派生している。 [22]。

波多神社の祭神は、波多祝の祖神・高皇産霊神のほか、波多臣の祖である八多八代宿禰[29]である。




結局ワケ分からない。


脚注

1.^ 『日本書紀』推古天皇20年(612年)5月5日条に“薬猟(くすりがり)をして後、羽田に集い、引き続いて朝廷に赴いた”という記述がある。この時の羽田を『和名類聚抄』では大和国高市郡波多郷としている。また『大同類聚方』には高市郡の波多神社に新羅伝来の「志路木藥」が伝わるとある。

2.^ a b 『和名類聚抄』
3.^ 『出雲国風土記』

4.^ 古事記では、建内宿禰(たけしのうちのすくね)

5.^ 『古事記』では波多八代宿禰とするが『日本書紀』では羽田が編者の一人となったため波多を羽田に変更し羽田矢代宿禰と書く。

6.^ 『古事記』孝元天皇段
7.^ 『新撰姓氏録』右京皇別
8.^ 『日本書紀』大化2年条

9.^ 『和名抄』に大和国高市郡波多郷は後世、波多庄を称し、至徳三年(1386年)文書に畑庄と見ゆ、(高取町市尾から羽内の辺り及び明日香村南部まで)波多郷稲淵山との記述がある『五郡神社記』。 『大日本地名辞書 上方』 波多《ハタ》郷 和名抄、高市郡波多郷。今高取村舟倉村是なり。霊異記に高市郡波多里、又今昔物語高市郡八多郷に小島小寺ありと見ゆ、小島は今高取村に大字存す。 また波多神社のある冬野の麓には畑という地名が残るのでこの辺りまで波多郷であったと思われる。

10.^ 奈良県高市郡明日香村冬野152 『大日本地名辞書 上方』波多神社 大和志に今高市村の大字畑に在りと為す、畑は高取村の東に接すれば或は然らん、本社は延喜式に列す、波多氏の祖神なるべし。

11.^ 『日本書紀』応神天皇3年条
12.^ 『日本書紀』『古事記』では黒媛を葛城葦田宿禰の娘とする。
13.^ 『日本書紀』推古天皇31年条
14.^ 『古事記』応神天皇段
15.^ 『新撰姓氏録』左京皇別
16.^ 『日本書紀』天武天皇元年7月2日条など
17.^ 『日本書紀』天武天皇13年10月条

18.^ 施基皇子(しきのみこ)、佐味朝臣宿那麿(さみのあそん・すくなまろ)、羽田朝臣齊(はだのあそん・むごへ)、伊余部連馬飼(いなべのむらじ・うまかい)、調忌寸老人(つきのいみき・おきな)、大伴宿禰手拍(おおとものすくね・てうち)、巨勢朝臣多益須(こせのあそん・たみやす)

19.^ 大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・采女・穂積・安曇

20.^ 『本朝皇胤紹運録』
21.^ 『先代旧事本紀』国造本紀
22.^ a b 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年
23.^ 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年
24.^ 『新撰姓氏録』大和諸蕃
25.^ 「坂上系図」(『続群書類従』巻第185所収)
26.^ 延喜式神名帳記載の式内社
27.^ 『神祇志』『特選神名牒』

28.^ 『新撰姓氏録』未定雑姓。高皇産霊神の後裔であれば天神系氏族となる。
29.^ 『神祇宝典』『五郡神社記』


やっぱりワケ分からない。
ここを読んだ感想は  波多氏は土着の人々であって  高い文化や産業を日本にもたらした人々ではないような?


高い文化や産業を齎した「秦」の人々の日本名が「はた」と呼ばれるようになったのは波多氏の支配下に置かれたから?


結論;分かりません
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月12日 02時11分26秒 ) パスワード

>➂『古事記』は親「新羅」であり、『日本書紀』は反「新羅」であること。

「日本書紀」は天武天皇の命によって編纂されたものですからね。
そりゃあ  反新羅  でしょう。

      兄上の時の  「白村江の戦い」  は忘れられない日本の危機  でしたから。
      新羅や唐は憎い存在でしたでしょう。


とはいえ  「古事記」が親新羅  という分類には驚きました。



大和朝廷というか古代史の日本は
ドラマでも  え?  と思うような描写があって  スッキリしません。

    敵味方  善悪  ハッキリ・スッキリしているのが分かり易い(バカですね)



全く関係無いのですが
白村江の戦いで驚くのが

第2派で  阿倍比羅夫  が指揮官として出てくることに感動し
第3派で  庵原氏が出て来るところ。  
      庵原氏ってまさに戦国時代に活躍した武家なのに  この時からの名家だった????!!!!

         庵原氏は 山本勘助 で出て来る家だし  
         今川氏で出て来る名門だし         「おんな城主 直虎」で新野の娘のご主人が 今川家重臣・庵原助右衛門 = 太原雪斎の一族 =  
         山田裕貴が演じた目張りのスゴイ!ハンサムな若者像で印象に残った(笑)



倭国軍

第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。

第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。

第三派:1万余人。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県静岡市清水区を本拠とした)。




この白村江の戦いの倭国の情勢:

朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、
大化の改新最中の倭国内部でも警戒感が高まった。

大化改新期の外交政策については諸説あるが、

唐が倭国からは離れた高句麗ではなく伝統的な友好国である百済を海路から攻撃する可能性が出てきたことにより、
倭国の外交政策はともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で二者択一を迫られることになる。


この時期の外交政策については、


「一貫した親百済路線説」
「孝徳天皇=親百済派、中大兄皇子=親唐・新羅派」
「孝徳天皇=親唐・新羅派、中大兄皇子=親百済派」
など、

歴史学者でも意見が分かれている。


やっぱり古代史はワケ分からない。


でも確実に日本の歴史は  古代から今に至るのだから  興味深いです。
庵原氏が日本史の中で  名門中の名門だったというのは  スゴイ!
[8]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年04月12日 08時50分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さすがあを様、するどいご洞察!
 秦氏も一筋縄ではいかない。
 歴史は「数学」ではなく、「化学」と捉えた方がいいのかも知れません。
 くっついたり、離れたり、つまり融合したり、分離したり、またある条件
の下でグループ化したり・されたり……。

 ハタ氏も中核に王族的血族支配層がきっと存在し、そこを中心としていく
つかのグループが集まり、擬制的集団を形成している―そのような気配がし
てきます。

 秦氏を単独の氏族として捉えるのは間違いなのかもしれません。しかしな
がら、歴史の捉え方としては、「当たらずとも遠からずの理論」で、秦グル
ープとして一つにまとめてしまうという捉え方もあってもいいのかも知れま
せん。逆にその方が、「大きな流れ」というものを見い出せるのかも知れま
せん。個々にこだわってしまうと、かえってわけがわからなくなって、蟻地
獄に落ちてしまい、見える者も見えなくなってしまう……。現代風に言うな
らば、ドローン的高みの視野で鳥瞰するということ――「大きな流れ」を捉
えるということ、これが一番大事であるかと思います。

 秦氏を「カテゴリー日本人」(日本モード)で捉えることは、そもそもの間
違いであり、そのために我々現代日本人は、秦氏の本当の姿を見逃している
のかも知れません。

 「カテゴリー渡来人」として秦氏グループを捉えること――そして「大き
な流れ」を見出すこと、これがスタートラインであると思います。

 さて、「大きな流れ」でありますが、ちょっと用事で中断します――
[9]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年04月15日 19時24分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古代に関する本、50冊程に目を通し、何が本当なのか熟考しておりま
す。100人の古代史研究家がいれば、100のモードの古代史があり、
それぞれ色彩が違っております。
 何が本当なのかということについては、色々な本を読むと、少しずつ勘
がは働くようになってきます。
 今、私が信じるに足る人と言えば、長野正孝氏であります。氏の著作シ
リーズとしては――
 @『古代史の謎は「海路」で解ける』
 A『古代史の謎は「鉄」で解ける』
 ➂『古代史の技術を知れば、『日本書紀』の謎が解ける』
であります。
 氏は理科系でありますので、論理体系がはっきりしている。従って、わ
かりやすい。歴史研究のプロパーではないけれども、かなりの歴史の知識
を携えています。
 今、この3冊について、内容を確認しているところであります。

 本日をもって、「長上郡の服部氏族」は丸6年となります。これも、す
べてあを様のおかげと感謝いたしております。
 明日からも、引き続きよろしくお願いいたします――
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月15日 23時18分44秒 ) パスワード

三つ柏さん

長野正孝氏の
@『古代史の謎は「海路」で解ける』
A『古代史の謎は「鉄」で解ける』
➂『古代史の技術を知れば、『日本書紀』の謎が解ける』


Bについてはまだまだ取っ掛かりにも至っていません。

@とAについては三つ柏さんに6年(ですか!)に渡ってお教え頂き
理解出来るようになって来ています。(感謝)


@については
海外そして日本国内でも人と物の大きな「移動」に水路つまり「海路」や「川」が大きな役割を担った

Aについては
「鉄」は  現代も 「鉄器時代」に我々は生きている、のですよね
鉄は弥生時代から令和の御世に至るも人間生活に密着に関わっている


「鉄」を「鉄工業・鉄鋼業」の「第二次産業」で考えるから 「鉄?そんなもん発展途上国のビンボー人に作らせておけ。これからはグローバルに生きなきゃ。我々は第三次産業に移行するんだ。そして我々の21世紀は金融で生きて行く」なんて、
どこかのバカ2人がインチキ金融工学で世界を支配しようとして・・・


いえいえ


インチキ金融工学はリーマンショックを引き起こして破綻
今回のコロナ騒ぎでグローバルなんて理念は現実の前に「夢・幻」でしかなかった、と吹き飛ばした。


日本と鉄の関わりは
弥生時代から?

永きに渡って石の道具を使って来た日本人にはスグに割れて使いものにならなくなる挫折に打ちひしがれる日々を鉄が救ってくれた


鉄と出会った日本人の進歩がスゴイですね。それには半島を渡ることだった。
海路と鉄


やはり原点に戻らないと見えて来ないですね。

三つ柏さんのご指摘に目を見開かせられました。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月16日 00時01分03秒 ) パスワード

一体どうやって日本は鉄を半島から紹介されたのでしょうね?


半島から鉄を持った人がたまたま日本に流れ着き
日本人はその強靭さに括目し

鉄の斧で木を切り倒して舟を作り  交易  によって半島から鉄を手に入れ


鉄って使っていると  研がなくてはならないから  どんどんチビていくから   斧から手斧にし  さらに  小さな道具にして  最後の最後まで  使い倒した

こうして鉄の斧から  道具  を創り出すことに日本人は目覚めた。



交易について  鉄との物々交換の品は日本産の米  だったんですってね
当時の半島は冷害で米が取れなくなっていたから



それで大和政権の三種の神器が  剣と勾玉と鏡  になっていった。


勾玉は  それこそ  国内での交易の品。
特に日本海側(小松とか新潟の)翡翠。
これを原石から加工する技術もチビた鉄器から開発してた。


さらにさらに時代が下ると   タタラ製鉄の技術を砂鉄から発展させた。


やはり 現代の21世紀で考えていては何も解けませんね。
過去に戻らないと。
現場で何が起きていたのか?


そして時代が下って戦国時代の終わりに大久保長安が家康に雇われて金山銀山の開発に成功し家光の時代には徳川家は1000万両を蓄財。
それは大久保長安が武田信玄から学んだことを改良したから出来たこと。

     すぐに綱吉の時代には財政難に至るけど
     で、ココで農地を増やそうと重農主義になってニッチもサッチもいかなくなって幕末には日本中で財政逼迫

        数人の豪商と大地主と製塩をやってた藩しか日本ではお金を持ってなかった
        ココに大久保長安の開発した金銀が集中したってコトだったんですねぇ


        で、幕府が倒れてしまった


            明治維新で西洋の製鉄業を取り入れ
            あっと言う間に日本中の金属が供出させられ大東亜共栄圏内で消費  ココに消えたのか

                  戦後日本は鉄鋼業で世界の一流国になったものの
                  世界中で不動産を買いまくって破綻して  外国の不動産は持って日本には帰れないものだもんね

                
                       そして破綻して今に至る30年
                       日本人はいつまでも自分達は一流国家だと夢から覚めてない
                       とっくに転落してるのに
                        

                           さらにコロナで   ???  日本人の生活は数年後どうなるんでしょう?



自分は無芸大食無能なのを実感するばかり。
でもお陰様でこの6年間しっかり勉強させて頂けました。
バラバラに持ってた情報が結構纏まって来たように思います。


あの「忍者」の本から
      結構誤字誤植勘違いなんか見つけちゃいましたが   
      校正係は何やってんだ?!と読みながら突っ込んでました
「柘植七党」という表現をゲットしました。

      確かに柘植氏から計7家になってますね。ここから日本の有名人が輩出されたのかと。eg 観阿弥世阿弥松尾芭蕉


本当にありがとうございます。



➂『古代史の技術を知れば、『日本書紀』の謎が解ける』

楽しみにしています。

ま、だいたい  秦氏の活躍だろうな  と見当はつけています。
秦氏の謎の解明を宜しくお願い致します。
[12]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年04月16日 07時09分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日より、「7年目」に入ります。大学院を卒業したことになります。
 プロフェッサーあを様の指導を受け、歴史全般の知識を得ることができ、
本当に感謝です。超古代から縄文・弥生まで、古代(大和)から上代(飛鳥・
奈良・平安)まで、中世(平安末・源平・南北・室町・戦国)から近世(安土
桃山・江戸)までと、まんべんなくであります。

 テーマである「服部氏の謎」については、かなり深く探求できましたが、
まだ50パーセントの道中というところでしょぅか。
 服部と言えば――
  第1に「服部半蔵」でありますので、いずれにしろこれはいずれ何と
 かしなければはなりません。
  第2は「機織り」との関係。
  第3は、「秦氏」との関係。
  第4は、「服部連」と「神服部」との関係。
 松尾芭蕉の「奥の細道」の旅は、2400qであったということで、そ
の距離を達成すべく、平均しますと4q/日は歩いておりますが、4キロだ
と芭蕉の歩いた距離を達成するのに、600日かかるということになります。
 これを毎日のはげみとして歩いておりますが、「服部氏の探求」も同時
に、同じ思いで取り組んでいきたいと考えております。

 古代史における秦氏、服部氏については、そろそろまとめにはいりたい
と思います――
[13]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年04月16日 09時08分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私が、歴史研究者の信頼度をはかるテーマとしているのは――
 @「天孫族のルーツ」について、正しい方向性で捉えているかどうか?
 A「古代の天皇とその在位年代」について、正しい方向性で捉えている
  かどうか?
 ➂「聖徳太子」の解釈について、正しい方向性で捉えているかどうか?
 C『日本書紀』について、正しい方向性でとらえているかどうか?
 D「秦氏」について、いわゆるユダヤ人として認識しているかどうか?
であります。
 これらは、正に古代史の「ヘソ」「キモ」のテーマであります。
 これを「永遠のテーマ」として解決しないのは、いかにも日本人的な深
慮の及ぼすところだと思います。
 が、それをはっきりとさせないことには、歴史は一歩たりとも進歩しな
い、クリアにならないということになります。

 所用にて中断――
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月16日 11時05分03秒 ) パスワード

三つ柏さん

>古代史の「ヘソ」「キモ」のテーマ
>「永遠のテーマ」として解決しないのは、いかにも日本人的な深慮の及ぼすところ

ハッキリさせられないコトがあるんでしょうね。



以下は関係無いですが古代史好きの友人からです:

正史の三国志に,呉が滅亡の前夜,呉の全艦艇が全兵員25,000名と行方不明になったと言う記述があります。

この呉艦隊の司令官が,ウガヤフキアエズノミコトだと言う説があります。


長江から,沖の崇明島に出ると8時間で薩摩につくそうです。
黒潮本流に乗りますから。
だから,ウガヤフキアエズノミコトが鵜戸神宮にいたと言う説もあります。


卑弥呼と対立した,狗奴国王のヒミココヒコですけど,
この人物も神武説があります。


そして,魏志倭人伝に書かれている,ヒミココヒコの大臣のククチヒコですけど,
この人物が,狗奴国に残り,菊池氏の先祖になったと言う説があります。

だから,菊池氏は勤王の家になったと言うわけです。


神武がヒミココヒコと考えると,日本書紀の崇神天皇で
天照大神が卑弥呼と仮定すると,
神武と崇神は同じ人格を天皇家を古く見せるために,2人に分け,
そして2代綏靖天皇から9代開化天皇を創作し挿入したと言うのが,
古代の定説ですが,

         
          ワケ分からない
          山岸光秀と家康2人説みたいに  ワケ分からない


そうなると,崇神天皇が天照大神に祟られ続けて,天照大神を笠縫と言うところに放り出した,と言う日本書紀の記述と合うと思います。


          そうなの?
          ワケ分からない


つまり,天皇家の先祖は天照大神でなく,天照大神は神武王家に滅ぼされたと思います。


日本書紀では,神武はニギハヤヒ王家を乗っ取り橿原で即位していますので,天照大神は天皇家に滅ぼされたので,祟るのも当然だと思います。


私は,天照大神になった卑弥呼を滅ぼしたのは,伊勢神宮外宮にいる月読命だと思います。
そして,月読命は台与だと思います。


                以下については納得

これ,日光東照宮もそうですけど,家康の神社に,なんで秀吉がいるかと言うと,
家康は豊臣滅ぼしましたので,当然秀吉は恨んでいるはずです。
だから,豊臣を滅亡させた,家康の呪力は,秀吉の呪力を上回ったので,豊臣は滅亡した

と言うのが,古代からの日本神道の考え方です。
ですので,家康の呪力で,秀吉の呪力を封印して,秀吉の霊が暴れださないようにするわけです。


伊勢神宮も同じで,内宮の卑弥呼(天照大神)が暴れださないように,外宮の月読命(台与)がいるのだと思います。

だから,天皇家も,外宮から先に参拝するのだと思います。


天皇家のご先祖様は,天照大神でなく,月読命だからだと思います。
以上コピペ

       この結論は分かった。




https://kotobank.jp/word/%E9%B8%95%E9%B7%80%E8%8D%89%E8%91%BA%E4%B8%8D%E5%90%88%E5%B0%8A-439076
鸕鷀草葺不合尊(読み)ウガヤフキアエズノミコト



日本神話で、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の子。
母は豊玉姫。
五瀬命(いつせのみこと)・神日本磐余彦尊(かんやまといわれびこのみこと)(神武天皇)の父。



記・紀にみえる神。
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)・豊玉姫の子。

母の妹玉依(たまより)姫を妻とし,   ヲイヲイ
神武天皇が生まれたという。

名前は母が海辺に産屋(うぶや)をつくり,鵜(う)の羽で屋根をふこうとしたところ,ふきおわらないうちに生まれたことによる。

宮崎県鵜戸(うど)神宮の祭神。


「古事記」では鵜葺草葺不合命。





記紀神話に登場する神。

火遠理命(ほおりのみこと)と海神の娘豊玉姫(とよたまひめ)の子。

鵜の羽で葺(ふ)いた産屋(うぶや)がすべて葺き終わらぬうちに生まれたための名であるという。

おそらく,ウブヤの意味のウムガヤ(産むが屋)が転化してウガヤとなり,
そこから〈鵜の羽を葺草(かや)にして〉(《古事記》)の説話が生まれたらしい。

この神は玉依姫(たまよりひめ)をめとって神武天皇を生む。
【武藤 武美】



記紀神話の神。

彦火火出見尊ひこほほでみのみことの子。
母は豊玉姫とよたまびめ。
神武天皇の父。
彦波瀲武ひこなぎさたけ鸕鷀草葺不合尊。




記紀などに見える神。

彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の子。
母は豊玉姫。

神武天皇、五瀬命(いつせのみこと)の父。

彦波斂武(ひこなぎさたけ)鸕鷀草葺不合尊。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月16日 15時04分42秒 ) パスワード

書き直し


上記の呉のハナシをちょっと検索してみました
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E3%81%AE%E6%BB%85%E4%BA%A1_ (%E4%B8%89%E5%9B%BD)
呉の滅亡


戦争:呉滅亡
年月日:279年11月~280年3月15日
結果:晋が呉を滅ぼし、中国を統一した(三国時代の終焉)。


265年、魏の朝廷を掌握した司馬昭が蜀を滅ぼした後に病没し、
司馬昭の息子の司馬炎(武帝)が権力を継承した。

司馬炎は同年に曹奐(元帝)の禅譲を受けて皇帝に即位し、晋王朝を建てた。

その後、279年に司馬炎は6方向より呉を攻めるように命令した。

晋軍20万は破竹の勢いで呉軍を破り、280年3月15日に孫晧が降伏したことにより、中国を統一した。



        この3月15日の降伏の寸前の事ですね

            3月、晋の主将龍驤将軍都督梁益二州諸軍事『王濬』軍は三山に達した。
            呉の皇帝『孫晧』は張象に軍を率いさせ抵抗を試みたが、
            呉の将兵に既に戦意はなく、
            旗を振り晋軍に投降した。

            このため呉の皇帝『孫晧』は、さらに鎮南大将軍荊州牧『陶濬』に2万の軍を率いさせ抵抗しようとしたが、
            その兵たちも出撃前に殆どが逃亡した。


                 呉の皇帝孫晧と将軍陶濬は晋の王濬に投降している
                 だから三国志の呉志に誰がリーダーとなって逃亡したか載っているかも知れないですね

                 そのリーダーが神武天皇のパパ?

                 確かに  呉の国から日本に来る・来たことは  有り得ますね


                      それに  日本の広島の「呉」が日本の海軍  つまり  東洋一の軍港だった  というのがロマンを掻き立てます
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月16日 16時02分08秒 ) パスワード

ということで神武天皇の祖父について調べてみました:


彦火火出見尊(ひこほほでみ)、あるいは火折尊(ほおり)。


『日本書紀』では前者、『古事記』では後者でほぼ一貫している。

"彦火火出見尊"は神武天皇の諱でもあり、祖父と孫が同一名ということになる。


海神の助けを得て兄の海幸彦を征し、
海神の娘である豊玉姫との間に彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊=神武天皇のパパを得た。


                  ここで既に挫折の方向ですぅ・・・

つまり  このヒトは  別称  山幸彦???

                  あの兄弟喧嘩って山幸彦が勝ったんでしたか。忘れてた


                       そう言えば  旧約聖書の兄弟喧嘩=人類最初の殺人事件(笑)=は
                       弟が神に愛されていたから、嫉妬した兄が弟を殺したんでしたよね
                       兄のカインは人類最初の嘘つき男


                       
お兄さんが海幸彦
神社   鹿児島神宮など

         
              鹿児島神宮

              鹿児島県霧島市隼人町内(はやとちょううち)にある神社。
                        隼人って!!!


                        隼人(はやと)とは、
                        古代日本において、阿多・大隅(現在の鹿児島県本土部分)に居住した人々。
                        日本神話には海幸彦が隼人の阿多君の始祖であり、祖神火照命の末裔であるとされる。


                            だから隼人は征服された?
兄弟喧嘩  スゴ過ぎぃ〜


              式内社(式内大社)、大隅国一宮。  
              旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
              かつては「大隅正八幡宮」「国分八幡宮」などとも称されていた。



お兄さんの海幸彦=火照命

      ホデリ(『古事記』では火照)は、日本神話の『古事記』に登場する神。
      山幸彦と海幸彦の説話に登場し、
      一般には海幸彦(海佐知毘古、うみさちひこ)の名で知られる。
      隼人の阿多君の祖神とされる。

      ホデリとは火が赤く照り輝くこと

『日本書紀』ではホデリは火闌降命(ほのすそり の みこと)または火酢芹命(ほのすせり の みこと)。



日子番能邇邇藝命(ひこほのににぎのみこと)に国津神の子ではないかと疑われた木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)がその疑いを晴らすために火中で生んだ三神の長子で、火がさかんに燃えて照り輝いている時に生まれたので火照命(ほでりのみこと)と名附けたとする。

弟に
火須勢理命(ほすせりのみこと)、
火遠理命(ほおりのみこと、山幸彦)
がいる。


海で魚などを猟って暮していた。ある日、狩りをして暮らしていた弟の火遠理命と道具を交換するが、火遠理命が釣針を無くしたことを許さなかった。その後、海神から復讐の方法と呪具を与えられて帰ってきた火遠理命によって苦しめられ、火遠理命に服従した。

                      やっぱり こんがらがって来た




火須勢理命(ほすせりのみこと)  「ホ」は「火」で、「スセリ」は「進む」という意味で、「ホスセリ」は「燃焼が進む」という意味


『古事記』では火須勢理命(ほすせりのみこと)、
『日本書紀』では火闌降命(ほすそりのみこと。本文・第八の一書)または火酢芹命(ほすせりのみこと。第二・第三・第六の一書)
と表記される。


『日本書紀』によれば隼人の祖である。
『古事記』では火闌降命の事績は火照命という名で記載され、火須勢理命は事績を持たない別人となっている。

また、第二・第六の一書では、火酢芹命が長子としている。

火須勢理命は、瓊々杵尊と木花開耶姫の子である[2]。
天孫降臨の段において、一夜で身籠ったために瓊々杵尊に国津神の子ではないかと疑われ、木花開耶姫がその疑いを晴らすために火中で生んだ三神の第二子であり[2]、
火が盛んに燃え立つときに生まれたので「ホスセリ」と名附けられた。

兄が火照命、弟が火遠理命である[2]。




https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B9%B8%E5%BD%A6%E3%81%A8%E6%B5%B7%E5%B9%B8%E5%BD%A6

海幸彦と山幸彦


山幸彦と海幸彦

『記紀』に記された日本神話で天孫族と隼人族との闘争を神話化したもの[1][2]。

主に「海幸山幸(うみさちやまさち)」と呼ばれる。


         そうすると天孫族=神武天皇ということでいいの?

                    やっぱりワケ分からなくなって来た

古代日本において、南九州にいたとされる熊襲の平定服従を元に説く神話である[3][4]。


海幸彦が隼人の阿多君の始祖であり、
祖神ホデリ(火照)の末裔が、阿多[5]・大隅[6](現在の鹿児島県本土部分)に居住した隼人とされる[7][8]。

また仙郷滞留説話・神婚説話・浦島太郎の話の元になっているとされる[1][2]。




熊襲(くまそ)とは、日本の記紀神話に登場する、現在の九州南部にあった襲国(ソノクニ)に本拠地を構え、ヤマト王権に抵抗したとされる人々。

また地域名自体を表す総称である。

古事記には熊曾と表記され、
日本書紀には熊襲、
筑前国風土記では球磨囎唹
と表記される。



ココですごいサイトに出会った!

https://ugaya.jimdofree.com/2013/07/26/%E7%86%8A%E8%A5%B2%E3%81%A8%E3%81%AF-%E7%86%8A%E6%AF%9B%E7%8E%8B%E5%9B%BD%E3%81%A8%E5%A4%A7%E9%9A%88%E9%9A%BC%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%80%A3%E5%90%88%E8%BB%8D%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F/

熊襲とは、熊毛王国と薩摩隼人との連合軍だった


サイト名
「ウエツフミとウガヤフキアエズ王朝の研究」
大分の存在した古代国家


古代九州に3つ王朝があった、
というお話です。


すごい!すごい!すごい!
是非URLに行ってください!

かなり  三つ柏さんの疑問に迫っていますよ。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月16日 16時13分54秒 ) パスワード

こんな風に分類がされています。



古代九州の3つの王朝


宇佐神宮
八幡信仰
百済系=秦氏系
熊毛国
大和王朝




祖母山
ウガヤフキアエズ王朝
縄文系・山の民
豊玉姫信仰
蛇神信仰           三つ柏さんのお好きな
豊後国・日向国・大隅国





阿蘇山
阿蘇神社
熊襲
新羅系
霧島神社




古代のハナシはこんがらがるので明朝じっくり読みます。
未だに  山岸光秀と2人の家康は理解出来ていないです。つまり自分の言葉に出来ていないです。
古代のハナシはもっとワケが分からないです。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月16日 16時24分27秒 ) パスワード

友人からの続編


古代史では,行方不明になった呉艦隊司令長官が,神武説が強いのですけど,
私は日本書紀読むと,
亡命呉艦隊司令長官がウガヤフキアエズノミコトと考えた方が合理性があると思います。


最低,1世代は状況調査すると思います。



鵜飼いは,岐阜が有名ですけど,
この漁法,長江流域で発生したと言われています。

多分,遣唐使が伝えたと思うのですけど,
鵜の羽根で屋根葺くのも,長江流域が発生のようです。


ですので,私はウガヤフキアエズノミコトいなかったかもしれませんけど,
呉からの帰化人が日本を統一したと思います。


日本では,海賊と言う言葉出来たのは,秀吉の天下統一以降です。
それまでは,海賊でなく,海族でした。


海族は,海に生きる一族と言う意味で,
外国のように盗賊ばかりではないのです。

船員や漁業を生業とする一族も該当します。


このような国,日本だけですけど。
道君も毛野氏も,海上交通路を掌握していたので,
大和朝廷すら敵わなかったのです。


大津から今津へ行くのに,陸上では3日間,湖上を船で行ったら6時間です。
これは川もそうですけど,
古代,陸上交通より,
川等の内水面使った方が早いのです。


大体,日本の巨大古墳(全長100m以上の古墳のこと)は,墓ではなく,灯台だったと言われています。

古代,夜は航海しませんので,昼しか航海しません。
だから目標がいるわけです。

世界最大の墳墓大仙古墳(仁徳陵)も,古墳時代,海岸線にありました。


また,4世紀最大の前方後円墳で,長野県の更埴市にある森将軍塚古墳も,
この麓を千曲川(新潟に入ったら信濃川になります)が流れています。


北陸最大の古墳秋常山1号墳(全長140m)も
麓を石川県最大の河川手取川が流れています。


しかも,大体が小高いところにあります。
古墳は葺石(ふきいし)と言うスベスベの石が古墳全体を覆っていましたが,
この葺石は太陽光を反射しやすいのです。

晴天だと30km離れた所から光が見えたそうです。



そうなると,航海の支援に役立ちます。
日本の古墳ですけど,航海支援装置としても作られたとされています。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月17日 01時25分40秒 ) パスワード

友人から


以下コピペ


あ、その前に  日本は4月2日から(SAL便  など? の)国際輸送を止めているそうです。


ではコピペ


日本人ですけど,不思議な文化を持っています。
木の文化です。
ユネスコも認めていて,

世界四大文明に匹敵する文明が,縄文文明だ。
ただ,不思議なことに木の文化だったので残らなかった。

それと,日本だけが縄文時代から,植林の文化があった。
三内丸山等の縄文の大都市には,植林した跡があります。


     自然の木か,人が植えたかはDNA解析で分かります。
     自然の場合,DNAの塩基配列が,1本1本違いますが,
     植林の場合,自然の木を植えて,子孫増やすわけですので,DNAの塩基配列にバラツキないのです。


三内丸山の場合,集落の周辺に,栗やドングリ数万本ありますけど,
DNAの塩基配列5種類しかないのです。

これは,5本の木を持ってきて植えて増やしたと言う証拠です。

だから,縄文時代には農業があったわけです。
栗とドングリは,縄文時代の主食です。
だから,米や麦を育てるようなものです。

ドングリは,一晩,あく抜きしないと苦くて食えません。
それで,縄文土器が出てきたと言われています。

ドングリを一晩,水にさらしてあく抜きするわけです。


地球上に,縄文土器より古い土器存在しません。
それで,縄文土器が出土したら,日本にいた縄文人がいたと言う証拠になっています。


縄文土器は,南太平洋のバヌアツ,北米大陸,南米のボリビア,北欧のフィンランド等からも出土していた,ので縄文人が来ていた証拠になっています。


北米大陸からは,縄文人の骨も出ていて,
アイオワ大学だったと思いますけど,
DNA判定で「縄文人だ」と発表したら,
北米インディアン協会が切れて,訴訟を起こしました。


       インディアンより古い人類はいない。
       人種差別だ!というわけです。


結局,アメリカの最高裁まで行ったようですけど,インディアン協会の全面敗訴。(笑)
縄文人は,丸木舟で全地球的に行き来していたと思われています。



それと,血を不吉なものとして嫌いますけど、これも世界では日本だけです。
江戸時代まで,高貴な女性は,月経小屋みたいのがあり,月経中,そこに軟禁されていたようです。
月経中の女は汚れているという発想ですけど,このような文化日本以外にありません。
だから,月経中の日本女性,どのように処置していたかわかりません。
記録ないからです。


このようなことも,日本以外ありません。


遊牧民族は,壊血病対策で生の血飲みますし,
世界でも,ここまで血を嫌う文化,日本以外にありません。


だから,運動も嫌うわけです。怪我する可能性高いですから。


縄文文化ですけど,今では再生可能な文化として評価されなおしています。
以上コピペでした。
[22]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年04月17日 07時01分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 たくさんの情報、ありがとうございます!
 昨日から7年目に入っております。

 三内丸山遺跡を見ましたけれど、今で言う巨大なログハウスと解釈すれば、
超古代の建物であっても、現代と比べて何ら見劣りがしません。むしろ、
重機や釘を使っていないだけに、人間の手による巨大力学のノウハウに驚き
ます。
 超古代に、偉大な創造能力があったのは、文明というものが1万年2万年の
単位でなく、何十万年、いやひょっとすると百万年の単位で、いくつも勃興
したと考えた方がいいのかと思います。
 過去の文明は、「巨大力学」の創造であったということ、人間の頭脳をそ
こまで進化・発展させた要素は何だったのでありましょぅか? 
 必要は発明の母と言いますので、きっと必要に迫られて何回も、何千回も
繰り返すうちに、技術・ノウハウが蓄積され洗練されていったことは間違い
ないと思われます。
 巨木文明や巨石文明……つまりは「重量の克服」、これは並大抵のことで
はありません。現代人を丸裸にさせて造ってみろと言っても、きっと無理で
ありましょぅ。ノウハウとモチベーションがないからであります。
 ノウハウとモチベーションの相乗効果、それしかないのではと思いますの
ですが――
[23]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年04月18日 18時36分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 巨大古墳といえば、「仁徳天皇陵(百舌鳥古墳群の大仙陵古墳)」でありま
す。
 秦太秦公は、仁徳天皇より「波多」姓を賜ったと『新撰姓氏録』に書かれ
ておりますとおり、応神天皇や仁徳天皇、雄略天皇を中心にに奉仕していま
す。
 仁徳天皇陵は、大林組の試算で、延べ680万余の人工と15年8ケ月の
工期を要するような工事であったということであります。
 墳丘部だけで482m。墓域は80ヘクタール、つまり東京ドーム17個
分の広さに該当いたします。
 こんなとてつもない土工事を施工した人々、その中心には秦氏がいたと推
測されるのですが、今の常識を覆す工事であります。もしそうだとすると、
秦氏とは、とてつもない技術集団であることになります――
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月19日 05時46分09秒 ) パスワード

書き直し



三つ柏さん

仁徳天皇は民草の家の竈から煙が上がっているのを見て満足したというハナシから
日本史上、聖人扱いの天皇ですが

     https://www.dailyshincho.jp/article/2020/04171140/?all=1
         「聖帝」として知られる仁徳天皇 
                  歪んだ「毒子」が犯した数々の惨劇のワケ

によると清濁併せ持つナカナカの策士だったようです。


     古代史好きの友人によれば  天皇家と物部氏と蘇我氏は同族だろうと
                   更に  法隆寺を作ったとされる聖徳太子とされる人物は一体誰なのか?
                       タリシヒコ大王なのか?ウマヤドの皇子なのか?蘇我馬子なのか?蘇我入鹿なのか?
                       一体何者だったのか?  と


     日本書紀もかなりアヤシイし

     法隆寺自体が  改修改修による継ぎ接ぎだらけの「テーセウスの舟」じゃないのか?   と思えて来るし


>秦太秦公は、仁徳天皇より「波多」姓を賜ったと『新撰姓氏録』に書かれておりますとおり

この「波多氏」自体が一体何者だったのか?
と疑問が湧いて来るし

何故  秦ゼネコングループが波多姓を賜ったのか?  何故  「はた」と読め、なのか?
と疑問が湧いて来るし



仁徳天皇陵も法隆寺も  現代でも大変な工事だろうに、古代の人が本当に作ったの?  
と疑問に思えて来るし

    石の技術は  恐らく中東〜エジプトにかけての、西の技術なんだろうな  と  何となく理解します

    でも法隆寺のあの柱の木造技術は   ギリシャ神殿の技術の自家薬籠中なのかな?と。


       つまり  エンタシス様式の柱を木造で応用するのに  真ん中を太くしたのかな?と。



遥か西の技術を日本に伝えるに至るまでに  通過エリアで改良に改良を加え  さらに  日本国内でも改良に改良を加えたのだろうな?と。


で、ココで   秦氏って一体何者だったの?  と  また元に戻ってしまった。汗


とにかく記録  特に  正史なんて   時の権力者に都合の良いように書き加えられ書き直されて来たのだから


とは思いつつ  「川勝」なんて名字が今でもあるし

現代に於いて   「のぞみ」に通り越された側としては   誰がリニアなんかに土地を提供するものか   という意地も
非権力側の人間には気持ちが分かるし


歴史は日々作られていますね。
ニッコリ
1000年もしたら  そんな抵抗は影も形も無かった  とスンナリ記録されているのでしょうか?
[26]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年04月19日 11時31分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「川勝」という名前、正に秦川勝(河勝とも)を連想させます。『新編― 
姓氏家系辞書』(太田亮著 丹羽基二編)によれば、河勝(川勝も同じと見て)
姓は、丹波の秦氏族と示されており、寛永系図、寛政系譜には、始皇帝の
後裔であると書かれております。静岡県知事の川勝氏は、その筋にあたるの
かも知れません。秦氏が遠江(知事になる前は浜松の静岡文芸大の学長をし
ていた)から駿河(静岡県知事)に東遷したということ、千五百年以上も前の
秦氏の東遷を彷彿とさせて面白いです。

 苗字というものは、一種のいわば"DNA"のようなもので、千年もあるい
は二千年も続いて行く。我々の服部も、そうであると考えると、千年もそう
遠い昔のことではないような親近感を覚えます。

 服部が、服部連から出たのか、服部郷から出たのか、秦氏から出たのか、
それぞれの可能性ありと推察しています。秦氏も色々な系統の集まりであり
ます。服部氏も色々な筋の集まりであっていいと思います。

 『新撰姓氏録』により、秦氏が「所蕃」、服部連氏は「神別」と仕分けら
れたのはどうしてでしょうか。
 また、服部連氏が何人もいたのはどうしてでしょうか。
 たぶん、服部"連"という姓(かばね)と"織部司"という役職は、代々受け継
がれていったものと推察いたします。摂津の服部連と大和の服部連の出自が、
それぞれ熯之速日命と天御中主命であるという違いは、服部連はアフターの
姓であり、ビフォーの姓はハタ氏、あるいはハトリ氏であり、それぞれ筋が
違っていたのかも知れません。あるいは全く違う他の姓であったのかも知れ
ません。
 「織部(ハトリの)司」としての「服部連」は、一人だけ任命されたのか、
あるいはのちのち複数任命されたのか、あるいは代々引き継がれて分岐・増
大して行ったのか……大連(おおむらじ)を今で言う大臣とするならば、連(
むらじ)は今で言う局長みたいなものであると思われますので、局長なら複
数いてもおかしくないとは思うのですが――

[27]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月19日 13時29分46秒 ) パスワード

三つ柏さん

考えれば考えるほど考えがボロボロになって行きます。泣
ホント
我々の名字はどこから来たのでしょうね?

   職業系なのか  地名なのか  ウチの場合は明らかに先住者の伊賀の服部さんのを借りた?乗っ取った?ことになるけど

連についても  

   半蔵さんの家は允恭天皇の御世に織部司に任ぜられ諸国の織部を拾領し服部連を称す  ということからすると

   服部の連は現代でいうと  日本医師会長 横倉義武氏  みたいな代表者  だったのかな?

   でも  当時は一代限りではなく  世襲だったでしょうね


   それが  半蔵さんの家は11世紀の初めに伊勢伊賀にやって来た平氏と結んで  平家方になって 平姓服部氏に鞍替え?

                      なに?この緩さ!怒


と、考えているとやっぱり考えがボロボロになって行きます。



で「諸蕃」ですが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E8%95%83

諸蕃(しょばん)とは、
古代日本における用語で、
「三韓」と呼ばれた朝鮮半島の国々及び高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅(しらぎ)など朝鮮諸国に対する呼び名。

      和訓は「となりのくに」。「もろもろのえびす」。


また、中国大陸および三韓に出自を持つ渡来人系氏族を指す言葉としても用いられた。
秦氏、東漢氏、百済王氏などが知られる。


                       要するに  日本海の向こうのヒト  ってことですね   
                       纏めた人も  日本海よりアッチの人達のコトなんて  ワカンナイヨ〜   と?



古代中国において周辺諸国を「化外」という意味で「蕃」と呼称したものが、日本でもこれを模倣して用いたと考えられている。

                       要するに  日本人じゃない  ってコトですか


『日本書紀』清寧天皇3年11月条(482年)以下複数の記事が見られ、律令制でも「玄蕃寮」が設置されるなど、
「諸蕃」・「蕃」・「蕃国」の表記がしばしば用いられた。

                       陸続きの人のコトは混然としてたんでしょうかねぇ  それでひとククリでヨロシク   と?


ただし、大国である中国(唐)に対しては同じ和訓を持つ「隣国」という表記が公式には用いられた。


また、7世紀後半に新羅が朝鮮半島を統一すると、
対象国が事実上同国のみとなってしまったために
新羅を指して蕃国と呼ぶ例も現れる。


渡来人としての「諸蕃」の使用の始期については不明な点も多いが、
『日本書紀』の注釈書である「弘仁私記」には、
当時『諸蕃雑姓記』という書物があったことが記されている。


確実に判明するものでは、
弘仁6年(815年)に成立した『新撰姓氏録』であり、
「皇別」・「神別」と並んで「諸蕃」(「蕃別」ではない)という出自呼称が用いられ、

「大漢(中国)三韓の族」を意味するものと定義されている。

                       大陸と半島のヒト限定?
                       中国と朝鮮以外については何だったんでしょうね?


明治時代に成立した華族の宗族制度では、諸蕃の家系の家は「外別」として扱われている。


                       過去に遡って?すごい差別!

                  https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780647

                       書誌情報

                       永続的識別子info:ndljp/pid/780647
                       タイトル華族類別譜. 下巻 神別,外別
                       著者柴山典
                       編出版者屏山書屋
                       出版年月日明13.12-17.6
                       請求記号66-203
                       書誌ID(国立国会図書館オンラインへのリンク)000000435326
                       DOI10.11501/780647公開範囲インターネット公開(保護期間満了)
                       IIIF マニフェスト
                 URIhttps://www.dl.ndl.go.jp/api/iiif/780647/manifest.json




新撰姓氏録

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%92%B0%E5%A7%93%E6%B0%8F%E9%8C%B2

『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)
平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑。


京および畿内に住む1182氏を、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に分類してその祖先を明らかにし、
氏名(うじな)の由来、分岐の様子などを記述するものであるが、
主として氏族の改賜姓が正確かどうかを判別するために編まれたものである。

後述するように、記載氏族が限られているとはいえ、日本古代氏族あるいは日本古代史全般の研究に欠かせない史料である。

現存する『新撰姓氏録』は、目録だけの抄記(抜き書き)であって本文は残っていないが、      
                       ココ 大事ですね  要するに今になっては  あんまり役に立たない  ?

所々にその残滓が認められるとともに、若干の逸文が知られている。


なお、本書の対象とする範囲は京(左京・右京)と五畿内に住む姓氏に限られており、

                       あらあら

また「序」にはそれすらも過半が登載されていないと記している。

                       という事は   本当に  モトモト  一部しか記録されてなかった?



なお、書名に「新撰」とつくのは、企画倒れで終わった『氏族志』のやりなおしという意味であって、
『新撰姓氏録』以前に『姓氏録』なる書が存在していたわけではない。


構成

本書には、全部で1182氏姓が記録され、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に3分類されている。


                         「皇別」・「神別」は略します



諸蕃

太秦公宿祢、秦長蔵連、秦忌寸、



以下は必要無しですね

文宿祢、武生宿祢、桜野首、伊吉連、常世連、山代忌寸、大崗忌寸、楊侯忌寸、木津忌寸、木津史、浄村宿祢、清宗宿祢、清海宿祢、嵩山忌寸、栄山忌寸、長国忌寸、清川忌寸、新長忌寸、当宗忌寸、丹波史、大原史、桑原村主、下村主、上村主、筑紫史、吉水連、牟佐村主、和薬使主、大石、和朝臣、百済朝臣、百済公、調連、林連、香山連、高槻連、広田連、石野連、神前連、沙田史、大丘造、小高使主、飛鳥部、高麗朝臣、豊原連、福当連、御笠連、出水連、新城連、高史、日置造、福当造、河内民首 ほか。




川勝知事って「平太さん」っておっしゃるんですねぇ。
「平太」なら  平氏の長男  という意味でしょうから  平姓なのかな?

秦氏と桓武天皇の関わりから=平安京のゼネコンは秦氏だから=その時の関係から  平姓  を賜ったのかも知れないですね。


     知り合いの某国立大学の研究者の家では男子は「平X」さんとおっしゃって
     「あ、平氏なの?」と言ったら「うちは坂東平氏だから  ウチの家の長男は平太」ということでした。



結局は  文字化する前の  元ネタ自体  既にアヤシくなってた  で良いのかな?
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月20日 01時40分02秒 ) パスワード

古代史オタクの友人からの情報(本人は  軍事オタク  と自称。警察を貶めるのが趣味のヒト  かな?)一族には日本史上スゴイ人物がいる  ココでは書けないのが残念


聖徳太子について

古代史では,俗称聖徳太子と言われる××と先に言うのが常識です。

聖徳太子は,実在しないと言うのが常識ですから。
ですので,日本史一、有名だけど,
日本史イチ、実在性が疑われる聖徳太子という言い方をします。
だから,聖徳太子と言われると思われる××が,法隆寺の元の若草伽藍を建立したと言えば問題ない。

 私なら,俗称聖徳太子と言われる,蘇我入鹿と言います。

ただ,厩戸皇子が法隆寺の元の若草伽藍作ったと言う人もいますけど,
私は日本書紀を読むと,厩戸皇子より蘇我入鹿だと思います。



古代史の醍醐味は,日本書紀と古事記、嘘書いてる
と言うのが常識です。

初代天皇は神武かというと分からないわけです。
神武は前半生は詳しいけど,後半生はほぼ書いてない。

10代の崇神天皇は,反対で前半生不明ですが,後半生は詳しい。


私は,そうは思っていませんが,恐らく神武と崇神は同一人物で一人の業績を分けたのだろうと。
これは天皇家の存在を長くするためです。

2代綏靖から9代開花を無理やり入れたと言うのは定説です。
欠史八代と古代史では言いますけど,この8人の天皇存在しないと言うのが常識です。


しかし私は,欠史八代は存在したと思っています。
もし架空なら,200歳近くまで生きたことにしなくても,40歳くらいで死んだことにして人数を増やせばよいわけだから。
その方が騙しやすい。(笑)


神武も存在しなかったと言う説も強いのです。


古代史は,ソースが曖昧ですから,何でもありなわけです。
解釈次第ですから。


だから厩戸=蘇我馬子説も,厩戸=聖徳太子と同じくらいの専門家が支持しています。

そうなると,法隆寺をを作ったのは,蘇我氏ということになります。



ただ,反政府活動の拠点が,若草伽藍だったことは日本書紀にもありますけど,3回燃えたのは,
天智天皇が燃やしたとは書いていませんが,
天智天皇が,生駒山にあった高安城に兵士,武器,兵糧を入れた直後,
若草伽藍燃えているので,
天智軍が攻めたと言われています。

古代史は,状況証拠しかないのです。


       (高安城は日本最古の城です。
        これ以前,城の記録ないからですけど,
        考古学的には,
        桃太郎の鬼退治の舞台の岡山県の鬼城(きのき)のように
        古代は,城と書いて「き」と言いました。柵という意味です。
        当時の城壁が,柵だったからです。)


この高安城ですけど,築城年分かりませんが,弥生から卑弥呼の時代だと言われています。


例えば
源平時代,平家物語が間違ったこと書いていても,玉葉なんて他の文献があります。

実際,
倶利伽羅の合戦と同時並行で行われた,志雄山の合戦ですけど,
平家物語には書いてありません。

ところが玉葉にはありますので,

なんで平家物語は,志雄山の合戦オミットしたのだ?という疑問が出ますが,

古代史では、日本書紀と古事記しかないので,両方に書いてなければ分からないわけです。


      → この箇所意味不明   日本書紀,古事記とも、最古のものは1200<年代の>物です。
                   写された、という意味


                   現存する最古のものは平安極初期のもの。
                   写本は古本系統と卜部家系統の本に分類される。

                     友人のハナシのカイセツ(笑)友人のハナシに合わせた部分のみコピペ
                     詳しくは  ウイキへ

                     1.古本系統
                       図書寮本(書陵部本) 12世紀写 。宮内庁書陵部蔵。
                       鴨脚本(嘉禎本) 1236年(嘉禎2年)写 。
                       賀茂御祖神社の社家・鴨脚(いちょう)氏旧蔵本。本文・訓点とも大江家系か。國學院大學蔵。


                     2.卜部家本系統
                       図書寮本(書陵部本) 1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)写。
                       北畠親房旧蔵本。宮内庁書陵部蔵。

                       卜部兼右本 天文9年(1540年)写。
                       神代巻2巻は再度失われた。人代巻28巻を完備したものとしては最古に位置する。



まあ古事記は正史でありませんので,ないのかもしれませんが,
日本書紀は正史ですので,あったはずです。

日本書紀の最古のものは,皇居にありますけど,それ以前のものはどこにも存在しません。


日本書紀の参考書を釈日本紀(しゃくにほんぎ)と言いますし,
日本書紀の次の正史を続日本紀と言いますので,
日本書紀はできた時は,日本書紀でなく,日本紀だったと言う説も有力です。
それで,いつ誰が日本紀の間に,書入れたの誰だ?という議論もあります。

要は,正史の日本書紀も怪しいわけです。(笑)
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月20日 01時55分00秒 ) パスワード

最後の1行だけ  ワタシにも理解できる。


続き

日本古代史ですけど,日本書紀と古事記しか文献がないので,信用できないというわけです。


古代天皇の墓も,桓武以降は間違いないですけど,
その先になると不思議な天皇陵が沢山あります。

例えば,戦後,天武・持統合葬陵と文武陵が入れ替わったようなこともありました。
なんでかというと,山陵記という鎌倉時代の墓泥棒の取り調べ調書が戦後見つかり,文武陵の記述と違う。
中に墓泥棒入ったわけですからね。
どう読んでも,天武・持統合葬陵としか思えない。
それで変更されました。

草壁皇子の奥さんで,天武・持統天皇の娘の元明天皇陵ですけど,
この天皇陵,
どう見ても4世紀の古墳だとしか思えない。

それで,本当に689年に崩御した,元明天皇陵?
という疑義が昔からあります。


世界遺産に登録されましたけど,大仙古墳(仁徳陵)も,幕末出土した遺物が,アメリカのボストン美術館にありますが,
これどう見ても,5世紀初めのもの。

仁徳は5世紀中ごろですので,大仙古墳の主は,仁徳でなく,応神天皇でないの?というのが考古学会の常識です。


だから,天皇陵や陵墓参考地を所轄する宮内庁書陵部,学術発掘すら認めない。

認めたら,平安時代以前の天皇の墓と陵墓参考地(皇族の墓)全部入れ替えになる。

そうなると,宮内庁の面目丸つぶれ、言われています。(笑)


天皇陵と陵墓参考地ですけど,
全部学術調査なしに,明治時代,日本書紀の記述で決めました。


天皇や皇族の眠りを妨げるのを恐れ多いという理由ですけど,
考古学的調査無しで決めてますので,
ほぼ、外れ、でしょう。(笑)




法隆寺は,鎌倉の長谷の大仏と同じように,だれが何の目的でいつ創建したかの記録がない寺です。

まあ,厩戸皇子が斑鳩に隠棲して死んだという記録あるので,
厩戸皇子と言われますけど,
分かったものではない。


日本書紀にも古事記にも書いてありませんから,
推古天皇かもしれないし,
馬子かもしれない。


厩戸皇子の追善に,子供の山背大兄皇子が作ったのかもしれない。


蘇我蝦夷か蘇我入鹿かもしれない。


ただ,若草伽藍として,最初に出てくるのは,白村江の後の反乱で3度燃えたという記述が,日本書紀では最初ですので,白村江の時はあったと思われます。


なければ燃えるはずがない。(笑)


だから,法隆寺を世界遺産に登録するとき,ユネスコと揉めたのは,創建年はいつか、ですよ。

日本の言うとおりかい?ということです。


ただ,燃えた記録があるので,これが決め手になりました。
燃えなければ,世界遺産にならなかったかも。(笑)


飛鳥寺は蘇我馬子,
大阪の四天王寺は厩戸皇子が創建したとは,
日本書紀に書いてありますので,
ほぼ間違いない。


日本最古の寺は法隆寺でなく,飛鳥寺だ、ともいわれています。
そして,法隆寺を今の形にしたのは,藤原氏です。


入鹿暗殺後,藤原氏が大金を法隆寺に寄付し続けました。


古代には,むごく政敵を殺して,厚く祭るというのが常識です。

スサノオや大国主がその典型です。
殺してしまう。
ただ,祟られたら困るので手厚く祭るわけです。

出雲大社が,その典型です。
ここにいる,ニニギノミコトは天孫族を道案内した一人で,大国主の看守役の神様と言われています。
しかも,古代死後の世界は全部逆ですから,4礼も4拍手も  4という数字は「死」ですから 「お前は死んでいる」という意味で,

手のひらでなく,手の甲を打つのは,死後の世界を表現する意味だといわれています。


日光東照宮だけでなく,東照宮に秀吉が祭られているのは,家康が豊臣家を難癖付けて滅ぼしたので,秀吉は祟る。
それでは,徳川家は困るので家康の霊力で抑えるわけです。


信長は,多分,家康が唯一恐怖に感じたのが信長で,
これも信長が祟らないように、という意味でしょう。


このように,祟る可能性のある人物の霊を,日本神道では相殿と言います。
だから,古社では相殿を調べると,創建した氏族,誰に後ろめたい気持ちもって神社を作ったか、すぐ、わかります。


徳川家は,豊臣家の祟りが怖かったのだと思いますよ。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月20日 04時45分56秒 ) パスワード

「麒麟がくる  第14回」を見終わってゲームしてアタマの中をリセットしたところです。

神回でした。
脚本家  すごい!


もう最初っから  唸ってばかり。
信長の方が道三を越えてる。
道三より信長の方が新しい。やっぱり信長は天才だ。

古い価値観に捉われていない。

そこへ行くと道三の家臣も古いし
稲葉も古いし
高政も古いし。義龍ですね。

光秀も古い。


信長と道三の   モッくんと染谷翔太の丁々発止の演技も凄かったですね。
モッくんは哲学者というか  追及に、そのまた核に追及して、完全を目指しているのが分かるけど
染谷翔太はサラッと演じてその不気味さを出してる。今回も凄味が凄かった。天才なんだね。

    長谷川博己も堺正章も佐々木蔵之助も霞んでる。


信長が岳父に会う「支度」を「帰蝶の入れ知恵だ」とバラしたから  信長は黙っていれば良いものをワザワザ言うなんて  ウツケだ  と言ったのだろうけど
だからこそ「ウツケ」の怖さを道三は底が知れないと   自分の息子のバカさと比べて  息子に失望したんだろうな。

いやぁ  もう  ホント!
脚本家  うまい  ウマ過ぎ。



あの  菊丸さんって  一体何者なんだろう?
と検索してみたら

岡村隆史演ずる菊丸さんは  お大さまの兄上の水野信元=織田方=から遣わされた忍者だったんだね。

それで今回は  竹千代が駿府にいるから  菊丸さんも駿府に来てたんだね。


だけど半蔵さんの一味の   あ、半蔵のパパの半三さん=保長=の一味が   水野の家来になってたってコトは   コレは聞いてないよ。
まだまだ菊丸さんの正体に納得できない。
竹千代を見守っている、というのは分かってるけど。


光秀はまだまだカシコクナイ設定ですね。
迷ってる感じ。
古い、な。

信長について行けてない感じ。
まだまだ(なんだ  コイツは?)という段階かな。
[31]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年04月20日 06時25分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「麒麟がくる」は、毎回面白さのレベルが高く継続し、なかなかいいです。
 確かに、斎藤道三と織田信長が今一番目立つシナリオで、また両者の役者
がいい演技をしています。信長のかわいさとこれから現れるだろう残酷さと
の落差が、今から想像してみるに恐ろしくもあります。
 明智光秀と明智光安は確かに脇役になってしまって存在感が薄い局面であ
ります。シナリオのよりどころとなる史実自体も難しいところですね。
 ただ、依然として光安役の役者の滑舌が悪い。今からでも発声方法を矯正
し直した方がいい。全体のレベルを保つために、是非お願いしたいところで
あります――
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月20日 11時26分53秒 ) パスワード

三つ柏さん

確かに  滑舌が悪い俳優がいますね。
聴き取れない

   でも  ひょっとすると  加齢で聞き取れない  というのも有るかもです。


今朝はNHKの「柳生一族の陰謀」を見ました。
日本で4月11日に放送されたものです。
5月23日(土)午後3時30分から4時59分 再放送予定


【出演】
吉田鋼太郎  この人は分かった
溝端淳平   どこかで見たことはあるけれど  名前に繋がらなかった  「立花登・青春手控え」に出てた子ね
岡山天音   最近よく見るかんじ。でも名前は思い出せなかった
飯豊まりえ  どこかで見た記憶はあるけど  名前が思い出せなかった
森田望智   全く知らない
金田明夫   名前は知ってるけれど顔は知らない
山田純大   え〜?気が付かなかった
波岡一喜   お公家さんで剣術使い役でした。  この人は息の長い役者になると思う  でも悪役で
荒井敦史    知らない
高橋克実   尾張藩主役でした  でも名前は思い出せなかった
美村里江   ミムラの名前で出てた美女ですね。春日局役でした
榎木孝明   すぐ分かった。でも吉田鋼太郎(柳生宗矩)に敗れる役という信じられない配役でした  気の毒  逆だ!怒
宅麻伸    気づかなかった  どこにいたのかな?
斉藤由貴    お江与役でした。彼女は天然役も悪女も似合うな、と。例のパンツ事件以来  笑


根来衆が柳生宗矩の陰謀に加担するのですが、
報酬が紀州に戻れるという設定なのに、死人に口無しということで宗矩に殺戮されます。


この映画が何度もリメイクされているのは知ってましたが、これが初めてでした。
お金を払ってまで見に行く価値を感じて無かったので。


そうか
根来衆は秀吉に敗れて、以来、世を忍んで生きていたのか
と思い出しました。

傭兵もツライもんですね。  この部分=傭兵=は「麒麟がくる」の先週回で  描かれてましたね。


    準主役の柳生十兵衛役の溝端淳平が紀州の出身で  ひょっとすると  根来寺に近いエリアの出身かも。


雑賀衆は石山本願寺側   根来衆は信長側
その後  秀吉の根来攻めがあって
関ケ原で家康方   (尾張の付け家老の成瀬家の下に置かれた)
紀州和歌山藩の庇護を受けたそうです。



柳生家には甲賀忍者が使われたのかなと思っていましたが
この映画では最後に粛清するということで根来衆を利用するという設定だったのかな?と思いました。


どんでん返しにビックリしました。
そーゆーストーリーだったの?でした。



松下之綱の娘  おりんさんと  柳生宗矩が夫婦仲が悪かった  というハナシは  この映画を見て  そりゃ、そうだろうな  と思いました。汗


過去に何度か作られた「柳生一族の陰謀」と内容が同じかどうか分かりませんが
お暇でしたら、どうぞ。
[33]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年04月22日 12時34分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今から19年前にあを様の主催したスレッド「古代日本に栄えたロマンな
帰化一族:秦氏」(www.hikoshima.com/bbs/heike/100211.html)を何回目に
なるかまた見ていました。隅さん、さち子さん、秦さん、川口さん…と、そ
うそうたるメンバーが投稿していて、活発な議論を展開されていました。今
はそういう活発なスレッドはあまり見られなくなりましたが、世代が、時代
が変わったということでしょぅか。かつての時代がうらやましい限りであり
ます。

 その中で、「平氏系秦氏」というものが一体何なのか、あを様の言われる
平知盛と関係する秦氏ということなのかということを調べてみました。
 もっとも、この件は「三つ柏」の件でかつてほんの少し触れたような気が
いたします。それは、久慈力氏の『封印された日本古代史ミステリー』の中
に――
 「(山口県長門市の)二尊院のお墓に「三つ柏」の家紋があった。これは平
 氏系秦氏の家紋で、柏はユダヤ教の燭台(メノラー)を表現しているとみら
 れ、イスラエル国家のシンボルになっている。」
という下りがありまして、「三つ柏」は「平氏系秦氏」の家紋であると言う。
 そこまでは知りえたものの、「平氏系秦氏」というもののイメージが浮か
ばずそのままになっておりました。

 今回それを調べてみますと、やはり壇ノ浦の戦いの敗戦の後に平家が逃れ
た所が山口県の長門地域でありました。
 また、秦河勝の子「物主」の後裔の「惟宗信房」は、「平知盛」の家人で
あり、壇ノ浦の戦いにて討死したと書かれています(宝賀寿男『秦氏・漢氏
 渡来系の二大雄族』)。
 「平氏系秦氏」という表現は、「平氏系服部氏」と同じ意味の言い回しで
使われていると感知しました。この討死した惟宗信房の娘は、平知盛の妻と
なっており、その子供に「平知宗」を設けています。この知宗の子孫が信房
の宗家を継ぎ、対馬の宗氏となっております。

 知盛に仕えた平家といえば、何と言っても知盛の乳兄弟の「服部家長」で
あります。壇ノ浦の敗戦で知盛と共に入水したと言われております。

 つまりは、平家に仕えた秦氏の後裔・惟宗宗氏、同じく平家に仕えた秦氏
系の服部氏は、一門的シンパシィでつながっていたのではないかと推察いた
します――
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月22日 15時53分56秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「平氏系秦氏」
>「三つ柏紋」
>「山口県長門市の二尊院」


すごい!

長門市だったか下関市だったか記憶にありませんが
ここの管理人さんに平知盛さまのお寺へ連れて行って頂いたことを思い出しました。


     下関の清盛公の墓には管理人さんが「りんご」をお供えになりました
     平家だったら「赤」だろう、と


秦熱
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100211.html


秦熱2
http://hikoshima.com/bbs/heike_slink/100337_95.html


秦熱3
http://hikoshima.com/bbs/heike_slink/100362_92.html




>平氏系秦氏  and/or 秦氏系平家 

川勝知事は平氏系秦氏(秦氏系平氏)なのかな?
秦氏と桓武天皇とは関係が深いことから 平家と繋がるのは アリエル  のかな?


>秦河勝の子「物主」の後裔の「惟宗信房」は、「平知盛」の家人であり、壇ノ浦の戦いにて討死

そうすると  秦氏系平家  ですね。



>平家に仕えた秦氏の後裔・惟宗宗氏、
>同じく平家に仕えた秦氏系の服部氏は、
>一門的シンパシィでつながっていたのではないかと推察いたします――

いいですね。



おそらく最初の頃、6年前、に「柏紋」の使用者に平氏系では服部氏も使っていると書いたと思いますが
コレでバッチリでしょうか?


他に柏紋使用の平氏系は   豊前;久間;室;長田;飯塚;横尾;堀屋  があります。


    ジャニーズのKis-My-Ft2の  横尾  という男の子が何ァ〜ンか好きなのです。
          このヒトは俳句がうまいとかも聞いています。料理も。
           
          ここからしても  平氏  繋がりで好きなのかな?




最近  夷隅が千葉県  旧上総国 ということを知りました。
いまごろ!
        自分に呆れます!

どうして  政信のことを一生懸命書き込んでた時に4男の知行地=1500石=ってピンと来なかったのかしら?
上総国は我が服部家の元々の故郷なのに。   口減らしで姓と鍬を賜って京都から追い出された先だ。

      わたしは  夷隅郡って  埼玉あたり  と思っていたのですよ。大恥  あ、方向音痴なので。汗
   

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%B7%E9%9A%85%E9%83%A1
夷隅郡(いすみぐん)は、千葉県(上総国)の郡。
伊甚屯倉の分割によって成立した。

古くは古事記に「伊自牟」(いじむ)、
日本書紀に「伊甚」(いじみ)として登場する地名であり、
郡名としては「夷灊」  など
様々な当て字が用いられてきたが、江戸時代初期に「夷隅」の字が当てられ、定着したとされている。
          

でもワタクシの原風景の故郷は市原なので夷隅を知らなくて当たり前と開き直っておく。


三つ柏さんのご先祖さまは  秦氏系平氏の服部さん  なのかしらねぇ?
すっごく収まりが良いですね。
みんな  カバー  してますよね。


半蔵さんが「帰化人系じゃない」とハッキリ否定している意味の裏を読みたくなります。


あ、そうそう
楠正成が後醍醐天皇に従う時
その時に  和歌山の保田庄司を討ってるのです。

和歌山の保田さんって   千賀地の服部家を相続しているので  え?  となりました。

半蔵さんの家は南朝方とは言ってませんものね。

それで  ヲイヲイ  これって関係あるの?  と。


謎がいよいよ深まりました。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月22日 16時20分56秒 ) パスワード

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ki_yasda.html

保田(安田)氏
(清和源氏頼光流)
追洲流紋使用

 
安田氏は、甲斐国山梨郡安田より起こった逸見清光の子義定が安田三郎を名乗ったことに始まる。

安田義定は、 源平合戦に先だって源頼朝から遠江守護に任じられ、寿永三年二月源義経に属して須磨一の谷において平氏と戦 い戦功を挙げた。

幕府成立後に誅殺された。
        
              アラアラ

その子孫は遠江・信濃・石見・肥後などに広まったという。


そのうちの一流が、紀伊国在田郡保田庄に住して戦国時代を経て徳川旗本家となっている。



保田(安田)氏の興亡

『続風土記』によれば、安田義定の子に忠義があり、その曾孫忠宗は保田荘の地頭職に補された。

忠宗の子権守宗重は保田庄と併せて湯浅荘を領し、文永年中の禁裏の火災に際して、士卒を率いて馳せ参じその功により「十六葉裏菊」の御紋を賜わったと伝える。


 宗弘のとき、畠山氏に属して軍功があり、河内国倶禾庄誉田など四ケ村を与えられた。

その後、保田氏は土居城から七山城に住し、知宗の代には在田郡八幡山城に拠った。

その後、知宗は佐久間玄蕃允に属し、越前国に住して、天正十一年四月近江国賤ケ岳の合戦で討死した。


 知宗の跡は弟の繁宗が継ぎ、若狭守を称した。

もとは高野山華王院住職であったが、賤ケ岳合戦で戦死した兄知宗の遺領を継承、紀伊保田庄を知行して、大和大納言豊臣秀長に仕えた。

のち大和竹田などで加増されて三千五百石。
その後、家督を繁宗に譲り隠居した。

文禄三年(1594)主家断絶後は、繁宗とともに豊臣秀吉に直仕した。


 繁宗は伊賀国名張郡四濃野城(これって  伊賀郡予野のこと)に居住し、文禄元年家督を継承して保田庄を知行した。

同年、秀吉の朝鮮出兵に際して肥前名護屋へ出陣。

秀吉の死後、慶長十一年(1606)九月山城国追分において徳川家康に拝謁し、 旧領三千五百石を安堵され徳川旗本に列した。

同十九年使番に任命され、丹波国篠山に出張している。


 その後、宗雪−宗郷−宗恒と続いたが、宗恒の子縫殿介が亨保八年正月、嗣子なく夭逝したことから、保田氏は断絶した。


出自の謎

 ところで、紀伊保田氏の系譜を見た場合、『尊卑分脈』にみえる安田義定の子に忠義は記されていない。

また、系譜の名前をみると、紀伊国の名族湯浅氏のそれと似た名前が並んでいるのである。

ちなみに『姓氏家系大辞典』には、保田氏について、「湯浅氏の族なり。寛政系譜に「知宗、弟 繁宗(若狭守)−則宗(伊賀名張郡西濃野城、(← 字が違う) 後 保田庄、三千五百石)−宗雪(美濃守)−宗郷(越前守)−宗恒−某(縫殿助)、家紋 追洲流し」と記している。


 また、『続風土記』保田荘領主條に「源頼光の末孫に保田太郎忠宗あり、保田荘の地頭職たり。忠宗の子 権守宗重、湯浅荘を領し、併せてこの地を領す。

宗重の子孫 後に断絶す。

将軍尊氏、那賀郡貴志荘の地頭職 貴志氏を以って、この地を領せしむ。
貴志氏、よりて辻堂村に住す。天正十三年、豊臣氏に滅ぼされ、羽柴美濃守に属す」とみえる。

 紀伊保田氏を清和源氏の裔と断定することには、若干の抵抗が残るといえよう。



ここで面白いサイトをご紹介
http://www.ict.ne.jp/~hi--no/uhssi/isiker/ukozihci.html

伊賀の服部一族


勝手にコピペ(管理人さん  ごめんなさい)


 伊賀で服部といえば 忍者!と早とちりしてはいけない。家康に仕えた「槍の服部半蔵正成」が伊賀者を束ねていたのは事実だ。その父 保長が伊賀出身と言うのも事実だろう。しかしただそれだけ である。


 服部一族は諸所に分散し 分家、諸家多くある。住み着いた地名を冠している。予野の千賀地谷(ちがちだに)に住み着いた者は千賀地服部と称した。保長は千賀地服部の出身と言われている。(宗家ではなく 下の服部とよばれ百姓侍の末であったといわれている。)



上野市服部に小宮神社がある。

延喜式伊賀二十五座に列せられ 伊賀二ノ宮と称せられている。 
服部氏の祖神「酒の君」をお祭している。

            秦氏のことでしょうか?



応神天皇の時代(270年〜310年)に呉国と漢国より絹を織ったり綿糸を紡ぐ女性たちが渡ってきた。

呉国から来た人を呉服(くれは) 
漢国より来た人を漢服(あやは)と呼んだ。

この渡来人が所属した部署を部(とり)と 言った。

ゆえに 呉服部、漢服部と書く。


この部とは衣服をつかさどる者に名付けられこの先祖が酒の君で この酒の君が伊賀で領した場所を服部という。



服部氏に三流ありという

漢服部は平内左衛門相続し平氏     紋は 丸に横二つ切り竹矢筈

呉服部は服部六郎時定相続し源氏    紋は 左ひとつ巴

敢国服部は一ノ宮の神事を勤める一族で源氏  紋は八つ矢車
                            石原慎太郎さん宅の家紋かな?(養子に行く前  旧姓  服部)



また一説に「伊賀一円 服部名字 七流にて候」(応仁元年 1599年 米良文書)ともいう。


伊賀平内左衛門尉家長

          平知盛の家臣。壇ノ浦では冑を二領着て知盛とともに入水している。服部村に住んだので服部を称す。

          五人の子供がおり 竹野屋(荒木に住す) 宮田(丸柱に住す) 高畠(高畠に住す) 杉本(湯舟に住す) 小泉(依那具に住す)という。



服部六郎源時定(みなもとのときさだ)

          頼朝の従士 服部の産。



敢国服部

          伊賀一ノ宮と称せられる敢国神社(あえくに 又は あいくに))の古祭「くろうとう」を勤める一族は服部氏のみ、という古法が有る。

          この一族を敢国服部と呼ぶ。



藤堂采女元則

          伊賀上野城代職の藤堂采女は予野の産である。

          由緒書きには 
              源姓 保田氏 実は安田 家紋 追州流   今は三角文字


          元則 幼名左十郎 また 佐助と称す 緯は吉次のち元則    実は千賀地半蔵則直の子 
                        とある。


                系図
                URLでご覧になってください


この系図は郷土史家の久保文雄著 伊賀史叢考より作成。
久保先生も 紀州保田家と予野千賀地の関係は不明とされている。

群書類従系図部には 
 
則宗 
         伊州名張郡四濃野城主 豊臣秀吉公に仕える 慶長十四年十二月京都に於いて卒 歳四十六 号元亨院雪貞利白居士とある。

               名張郡四濃城主とあるが伊賀郡予野城主が正しい。



         采女家は予野では千賀地姓を名乗っているが 
         明治になり保田姓に復姓している。

         実質的に予野の千賀地宗家は則直で終わったことになる。



コピペ終わり
[36]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年04月23日 11時16分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 絹織物の歴史を調べていますが、布目順郎氏の『絹の東伝』という本の中
に、こんな一文がありましたので記します――

 「京都市東山区円山町の長楽寺に、安徳天皇御衣幡(みぞばん)二流が寺宝
 として保存されている。これらの幡は、建礼門院が剃髪の際に、安徳幼帝
 の御衣を同寺に寄進され、それを幡に仕立てたものである。
  1985年に、この幡を構成する織物、及びその材料についての調査を
 委嘱されたが、調査の結果は、まさしく絹とみられる高級品のほかに、絁
 (し あしぎぬ 粗い絹布)にそうとうするとみられるものも使われている
 ことがわかった。
  この幡は平安末期のものであるが、奈良時代においても、文武諸官の衣
 服はもとより、皇室をはじめ上層階級の人々の衣服の一部として、多くの
 絁が使用された可能性が考えられる。」

 後半部分は別として、建礼門院の母としての安徳帝へのいとおしさが伝わ
ってきます――
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月23日 13時14分40秒 ) パスワード

三つ柏さん





レス<35>の一説に

      「伊賀一円 服部名字 七流にて候」(応仁元年 1599年 米良文書)

とありますが
応仁元年1599年は誤りだと思います。   応仁の乱は足利時代ですから

     応仁元年は閏年なので1467年または1468年
     1599年だったら  慶長4年   長宗我部元親が夏に亡くなった。関ケ原の戦いの前の年ですね

           


同じくレス<35>に

保長は千賀地服部の出身と言われている。
(宗家ではなく 下の服部  とよばれ百姓侍の末であったといわれている。)

     この部分でしょうね

     孫の半蔵正就に対して部下の伊賀者達がストライキをした時に
     「えらっそうに!我等より下の家の者のくせに」
     と言って糾弾されているので

     三河の松平家に仕えたのは伊賀で喰い詰めてたからかも  ですね



>呉国から来た人を呉服(くれは) 
>漢国より来た人を漢服(あやは)と呼んだ
>漢服部は平内左衛門相続し平氏     紋は 丸に横二つ切り竹矢筈


呉国から来た    というと  友人が書いた  三国志の呉の滅亡時の亡命者が関わってる?

漢国から来た    というと  始皇帝の「秦」出身者?

平内左衛門  で  平氏  で  <車>に横2つ切り竹矢筈紋  というと  まさに  ホンヤさん宅の先祖だろうなと。鳴海の服部家も同じ

          うちは分家なので  ただの  <丸に>並び矢紋

               時代が平和になるとデザイン性がアップして美化されますから  車に竪並び矢紋  が使われてますね

                

>絁

日本製だったのか?とも思いますが
平家は  平清盛は   宋貿易で財を成しましたから  中国製だったのかも  ですね。


建礼門院は母方でのイトコ結婚をして安徳天皇を生み国母となり
夫に先立たれ父の死に遭い   平家一門は滅亡し 
地獄を見
そして大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔ったというのが通説ですが


     崩御については
     建保元年(1213年)に生涯を閉じたとする説が一般的

ただし   (コピペします)

建保元年(1213年)12月12日に殷富門院(亮子内親王)が絶入(気絶)した事実(『明月記』12月14日条)を徳子と取り違えたのではないかとして、
同年の『明月記』に徳子死去の記述が全く見えないことから

『平家物語』の「延慶本」「四部本」の記述から、

徳子は大原から法性寺(延慶本)もしくは法勝寺(四部本)の辺りに移り住み、
承久の乱後の貞応2年(1223年)に亡くなったとしている。

法勝寺の西南には徳子の妹が嫁いだ四条隆房の管理する善勝寺があり、
隆房が徳子を迎えて保護したのではないか
の説もある。


     だとしたら長生き!

     そして  

     北条政子+東国鎌倉武士   vs  後鳥羽上皇+西国武士  の承久の変   1221年(承久3年)を知ってたわけだ。


後鳥羽上皇の父上は高倉天皇だから安徳天皇の腹違いの弟。安徳天皇の御座を奪ったヤツでもある。

そして後鳥羽上皇は   隠岐に流されて  そこで1239年(延応元年)に崩御するわけですが


建礼門院のトラウマはすごいものがあったでしょうね。


わたしだったらメンタル何回壊れる???
[38]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年04月24日 08時49分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 5月15日の「葵祭」が事実上中止になりました。事実上というのは、行列
(路頭の儀)が中止ということであります。
 学生の頃、アルバイトで行列の一員として着衣・帽子をまとい、歩いたこと
があります。下鴨神社から神賀茂神社まで歩きます。
 京絵巻のようなこの行列が見れないのは、何と言っても残念なことでありま
す。

 ところで、この行列には「斎王」が登場します。調べてみますと、伊勢神宮
の斎王だと思いきや、賀茂神社にも斎王が奉仕していたことがわかりました。
 でも、なぜ賀茂神社に?

 ちょっと用事で中断します(よくあります)――
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月24日 10時46分29秒 ) パスワード

三つ柏さん

>斎王

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E7%8E%8B
以下コピペ


斎王(さいおう)または斎皇女(いつきのみこ)

伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王(親王宣下を受けた天皇の皇女)または女王(親王宣下を受けていない天皇の皇女、あるいは親王の王女)。

厳密には内親王の場合は「斎内親王」、女王の場合は「斎女王」といったが、両者を総称して「斎王」と呼んでいる。


伊勢神宮の斎王は特に斎宮(さいぐう)、賀茂神社の斎王は特に斎院(さいいん)と呼ばれた。


斎宮の歴史は古く、『日本書紀』によれば崇神朝にその嚆矢が認められるが、
制度的に整ったものが確認できるのは上代の天武朝からで、
源平合戦(治承・寿永の乱)で一時的に途絶してからは鎌倉時代を通じて徐々に衰退し、
建武新政の崩壊をもって断絶するに至った。


斎院は平安時代初期の嵯峨朝に始まり、鎌倉時代に入っても継続していたが、
承久の乱後の混乱の中でやはり断絶した。

伊勢では幕末に、津藩主藤堂高猷が再興を主張したが、成らなかった。
以上コピペ



賀茂氏というのは京都の古くからの名族で
桓武天皇が遷都して
土地の名族だから賀茂氏には敬意を払ってた
とムカシ読みました。


当時は桓武天皇家よりも格が高かったのかもですね。

我々は21世紀から考えるから  桓武一行の方が賀茂氏より格が上という先入観がありますが
当時の人にすれば  ヨソ者が奈良から引っ越して来た  ぐらいの感覚だったのかも。

それも一族の中でエンエンと殺し合いをしてきた「ならず者一族」
という目で賀茂氏は桓武一行を見てたのかも。


桓武一行は  もともと  ずっと南の小さな小さなエリア=明日香の村=の出身で  それが成り上がって  力を付け  

一族の中でエンエンと権力闘争をして

大仏鋳造で公害(水銀中毒)があったり   怨霊が跋扈したりして


    そうだ!もっとずっと北の方に  賀茂氏という長者が住んでるユートピアが有る‼ うちもアッチの高級住宅街に引っ越して人生リセットしよう!

ということで遷都になったのかな?笑




葵祭りhttps://shikitari.net/shikitari/event/festival/2143/

葵祭はもともと賀茂祭、または北の祭りという名前でした。

京都の上賀茂神社と下鴨神社(2つの神社を総称して賀茂神社といいます)のお祭りで、行われるのは毎年5月15日です。


現在の葵祭はどのようなお祭りなのでしょうか。

天皇のお使いである勅使が、賀茂神社で祭典を行うことと、賀茂神社までの道のりを行く勅使一行の行列を忠実に再現しているのが現在の葵祭です。


葵祭がいつから行われているかですが、今から1400年以上前の567年、天候不順のために作物が実らなかったために、五穀豊穣を願って始まりました。

           欽明天皇28(567)年
           飛鳥時代ですよ
           欽明天皇  【大臣】蘇我稲目   【大連】物部尾輿
           567年は日本各地で、大洪水が発生し、大飢饉となって
、死者を食べて飢えをしのいだ  という年ですね。
           これを記念してるんですねぇ。


もともと賀茂神社と朝廷の行事でしたが、御所から神社までの行列が華やかで素晴らしいので、貴族がこぞって見物に訪れるようになりました。

行列する方も見物する方も両方共貴族だったので、文句なしの貴族のお祭りですね。

平安文学の中では名高い源氏物語の中にも、葵祭に関する場面が描かれています。

以上が葵祭の由来と、貴族の祭りといわれる意味です。



賀茂神社までの行列を、路頭の儀といいます。

動く平安絵巻ともいわれ、これを見るために毎年たくさんの観光客が京都に押し寄せます。

路頭の儀の後、行列が神社に到着した後は、勅使が御祭文を奏上し、御幣物(お祝いの品)を奉納します。
これが葵祭では最も重要な儀式で、これが終わると神馬の引き回しや舞の奉納も行われます。

これら神社に到着した後の一連の儀式を社頭の儀といいます。
以上コピペ



馬の競走がありましたよね。馬くらべ?

有名なハナシの
遠藤盛遠と袈裟御前と渡辺渡のハナシ。

これは事実ではないようですね。


『源平盛衰記』では、
文覚上人=遠藤盛遠=の出家の原因は、
従兄弟で同僚の渡辺渡(わたなべわたる)の妻、
袈裟御前に横恋慕し、誤って殺してしまったことにあるとする。

稀代の扇動者、文覚の前日譚が文覚発心である。

事件は創作とされるが、
登場する袈裟御前は絶世の美女、孝道と貞節の狭間で死を選んだ貞女とされてきた。


日本一の貞女だと思ってたけど作りドラマだったの?怒


近松門左衛門 人形浄瑠璃『平家女護島』

明治期に長唄『鳥羽の恋塚』が作られた。夫殺しを勧められて、盛遠に覚悟の上で討たれた袈裟御前の悲話。

上方落語に『袈裟御前』がある。

芥川龍之介の小説に『袈裟と盛遠』がある。

菊池寛に戯曲『袈裟の良人』がある。
この戯曲を原作とした映画『地獄門』(監督・衣笠貞之助)は、長谷川一夫が遠藤盛遠に扮し、渡辺渡(山形勲)の妻の袈裟御前(京マチ子)に横恋慕し、出家にいたるドラマを描いている。第7回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した。

    この映画は見ました。


吉川英治 小説『新・平家物語』

手塚治虫の漫画『火の鳥乱世編』には遠藤盛遠と文覚が別人として両方登場する。

永井路子 小説『北条政子』

石井歓 オペラ『袈裟と盛遠』



わたしは  葵祭り   →  袈裟御前の死  でした。汗
[40]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年04月28日 06時28分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 "stay home週間"と名付けられた外出自粛要請により、車で山に行っても、
海に行っても、どこに行っても、駐車場がロープ等で閉じられており、車を
置けなくなりました。つまり、山歩きをしたり、釣りをしたりできなくなっ
てしまいました。ゴルフ場も、今までと様相が変わり、レストランでの食事
は禁止、スループレイになりました。

 「目に見えない敵との戦い」……昔、「眼下の敵」というアメリカ映画が
あり、主演はロバート・ミッチャム(「帰らざる河」でマリリン・モンロー
と共演でも有名)で、海底の見えない潜水艦の恐怖を描いたものがありまし
た。恐怖映画のパターンは、ほとんどが「目に見えない敵」とのサーバイバ
ルであります。新型コロナウィルスも正に「見えない敵」「どこにいるかわ
からない敵」であります。「対岸の火事」にあらず、「明日は我が身」とい
うことで、感染度の高い低いは関係なく、外出時や人との接触機会における
行動や対策に気を遣う、注意するよう求められております。但し、感じ方は
人それぞれなので、脳天気な人も結構あり、腹が立つ場合も結構あります。

 このウィルス禍、結局のところ、ワクチンや予防薬ができない限り続くと
見て間違いないと推察されます。人間世界を窮地に追い込んでいきます。
何百年に一度の世界的ディザスターであることは間違いないと思われます!

 さて、この三日間は、「古代の森の迷宮」の中で出口を探しておりました。
具体的には、五十冊ほどの本のエッセンスを見比べており、色々発見したこ
とがたくさんあります。それぞれモードが違っており、それらをどう一本の
線にまとめるか、頭の「AI能力」が試されています――
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月28日 07時46分32秒 ) パスワード

三つ柏さん



長々書いてたら瞬殺された。
なんで?怒

ホント
なんで?泣いちゃうぞ


アメリカの感染者  とうとう100万人を越えました。
死者数  56,527 人です。

ハワイは  感染者数606人で  死者数14人です。
ホノルルのある島は  感染者数  396人です。   増えていないです


ハワイはすっごく真剣に緊急事態をやっています。

わたしの行きつけの病院は   
フツーの健診客と患者をハッキリ分けているし
フツーの健診客の検査は全く違う場所へ検査を受けに行くことになり
フツーの健診客は建物が全く別の所に医者に会いに行くことになってます。
ビックリしました、本気じゃん!って。



相変わらず  3人以上集まってはいけないとか
外に運動で出てもいいけど  立ち止まると  警官から警告を受けます。

今はマンションの中の廊下でもエレベーターの中でもマスクをしないといけないし
訪問客がマスクをしていないと  門前払い  です。


マスクを作るために布店は開いてるけど2人以上の入店は禁止です。


相変わらず  プールやジムなどのアメニティは使用禁止です。


ビーチは土曜日から開放されましたが
ボール遊びなどや遊具に触ってはいけないなど規則があり  
歩くか走るか自転車だけ
許されています。


ハワイ州政府はものすごく厳しいし  皆さんも  守っています。
だから  発症者がゼロ  の日が結構あります。


「本気」というのが分かります。


もうあと一週間日本語テレビは殆どNHKのニュースばかりです。


ニュースで見る沖縄とか岩手とかの  「ヨソモノに来て欲しくない!」という悲鳴  分かります。


東京の病院が医療崩壊しているニュース
医療従事者の皆さんは命懸けで気の毒です。

   習近平の来日問題やオリンピックのゴタゴタなどの時に欧米で医療崩壊を起こしていることや医療従事者達がバタバタ斃れたことは
   ちゃんと分かっていたのに。


スエーデンだけは集団免疫をやってて
今月中に人口の3分の1に抗体を作らせよう
ということで

スエーデンの死者数は現在2274人だそうです。

   同じスカンジナビア諸国の
   ノルウエーは  205人
   フィンランド  193人
   デンマークは  427人

皆さん   イギリスでも  早々にビビッてロックダウンに変更したけど
スエーデンは  抗体作りと  ブーマーリムーバーの両方やってる  なんて言われています。

      ブーマー・リムーバーって  
      ベビーブーム生まれの年寄りには早く逝って貰おう  
      ってのです。

                すごいね


ま、スエーデン人の鋼鉄の意思には  メンタル後進国はついていけない。

吉と出るか凶と出るか   それは  我々にはマダマダ数年?分からないことです。


昨日の「麒麟がくる」は
さすがモッくん!でした。
染谷翔太も良かったし。  モッくんとは違う  明るい不気味さ  というのかな?


わたしには  今回  やっと?  大学1年の時の先輩の先祖が出てて  ヲヲッ!  でした。
やっぱり  稲葉繋がりでも  ワタシと繋がってたのか  です。


帰蝶さんが  いかにも  意志のある戦国の武将の家の女性  という描き方で   気に入りました。


織田の彦五郎さんはあんな死に方だったのか  と当時のわたしの先祖の置かれた現実を突きつけられた想いでした。
うちの先祖は彦五郎さんの横死にその後の責任の重さを噛み締めたのかな?と。


それにしても  うちの三河の親戚が遠江もに関係してたのか と分かって  納得がいきました。
まさに  群雄割拠時代  ですね。


だけど  藤吉郎  秀吉  の描き方が  あれ?  ウッソー!  でした。
松下嘉兵衛さまは  無し?


とにかく  視点が全く  違う描き方   過去に捉われない演出ばかりで  オモシロイです。


帰蝶さんって×2の出戻りだったんですってね。
最初は土岐頼純と結婚してて  次に  義弟の八郎さんと結婚して  この人は切腹したんですって。


イヤなのは相変わらず  緑  がワザとらしいこと。
安っぽ過ぎ!
[42]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年04月29日 15時37分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 かねてより、私は日本の天皇家を中心としたルーツには、大きく分けて
三つのモードがあると考えてきました。
 それは――
 @日本モード
 Aシュメールモード
 ➂ユダヤモード
であります。

 別の言い方で言い表しますと――
 @日本史観
 Aシュメール史観
 ➂ユダヤ史観
であります。

 @の日本史観は、『日本書紀』によりルーツを高天原にもって行かれ、
 その創作的改竄の世界では、真実の解明はなかなか難しいものとなって
 おります。

 Aのシュメール史観は、スメラミコトのように、シュメール(スメル)に
 起源を持って行っております。ある意味、ストレートな見解であります。

 ➂のユダヤ史観は、古代イスラエルの失われた十支族等を起源としてお
 ります。

 これらについて、特に私がずっと感じてきたことは、Aのシュメール史
観と➂のユダヤ史観が、なぜ独立した形でずっと平行線をたどっているの
か、なぜそれらが合体融合しないのかということであります。
 天皇家はシュメールからきたのか、古代イスラエル(広義ではユダヤ)か
らきたのかという二者択一の認識であります。

 シュメール史観の方は、問題の「ユダヤ」を避けて、きれいさっぱりに
直接メソポタミアに起源をつなげたい思惑があったのかと推測しています。

 よくよく考えてみますと、古代ユダヤ民族とは単一の民族でもなさそう
です。メソポタミアの源流を遡って行くと、いろいろな民族的グループの
勃興がありますが、はたしてそれが血族、種族による純粋単一民族であっ
たかどうか、むしろいろいろな分派や各種結合でもあったのではないかと
推測いたします。
 がしかし、最古の民族、つまりメソポタミアにおける民族的源流はと申
しますとシュメール人ではないか、そこからいろいろ分派していったのか
も知れません。

 旧約聖書の創世記の舞台はメソポタミア。ノアの子―ハム・セム・ヤフ
ェト(ヤペテ)。セムがヘブライ人(ユダヤ人)の祖とされております。
 旧約聖書は日本書紀同様、神話的世界でありますので、どこまで歴史と
しての信憑性があるのかはわかりません。

 次回は、旧約聖書についての新たな記述(事実)を見つけましたので、記
したいと思います。

 それにしても、古代の森の迷宮から脱出するのは難しい―― 
 

 
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月30日 01時42分11秒 ) パスワード

三つ柏さん


日本の天皇家ルーツを探る3分流
 
 @日本モード
 Aシュメールモード
 ➂ユダヤモード


難しい作業ですね。
現代の人間には確たる証拠が欲しいところですから

    状況証拠は在るには在る  みたい かも   のレベルではね。


@の日本モードには中国の歴史書が裏付けしてくれそうですが  
現実には廃棄・焚書の目に遭ってるでしょうし  書いてあった情報は「伝聞」でしょうから
ハッキリしない。

日本書紀ではコウだけど中国の書物ではアアだ  恐らく  アアはコウ  コウはアアのこと   かもね  のレベル。


Aのシュメールモード   シュメール人って忽然と消えた?  
シュメールの宗教的?人物像の目の大きさって日本の土偶も目が大きいですよね。
シュメール文様は今でも中東の人々に受け継がれている、菊の文様とかね。


あの天文学知識って一体どこからゲットしたんでしょうね。


Bユダヤモード   ユダヤ人は宗教の民である。これが大前提。 
一神教を信じる人々であり偶像崇拝はしない。

アニミズム・シャーマニズム・偶像大好き日本人が  一神教民族のユダヤ系子孫だぁ?まさか!アリエナイ。

そしてママがユダヤ人であることがユダヤ人である必須条件。

でも母系っていうのは日本も永く母系社会でしたね。
儒教が入って来て母系社会が父系社会に駆逐された。対外的・表面的にね。


日本の家庭内では嫁姑大戦争は今でも継続中で、姑は自分の母系家庭を守ろうと嫁を抑え込みたい。どころか、孫だけ確保して嫁を追い出したい。

これはユダヤ人家庭まんまかな?

日本人のオトコって自分の母親のことを「おふくろは別に悪気があるわけじゃない」って批判的に考えていないことを嫁に言うから

                       妻が何を決意したか日本のオトコは全く気が付かない
                       笑

だけど日本の女は自分が姑の立場になるとやっぱり<自分の>家族を守りたいんだよね、息子の嫁は邪魔って。


こうやって考えると  ユダヤ教徒の嫁でないと認められないユダヤ人姑の気質を日本人女はしっかり今に至るも受け継いでいるな  と思う。


総合的に  Bはアリエナイ  と思う。

日本人はアニミズム・シャーマニズム・偶像大好きだから。フツーに占いも好きだしね。 

古代権力者層でユダヤ人の影響を受けていたとしたら  アニミズム・シャーマニズム・偶像は 早い段階で姿を消したろうし
日本の「太陽の子孫」「現人神」とかって発想はアリエナイと思うな。


イエス・キリストはセム語系のアラム語のガリラヤ訛りの人なんだよね。
今のシリアの方言とかで、現在のシリア内戦でアラム語はこの世から近々消滅するだろうと。
で、

宗教のラビは   ヘブライ語   でいいのかな?  当時の標準語ってコトなのかな?
交易になると  ギリシャ語で?  こっちは外国語、か。


キリストが洗礼を受けたのは  ヨルダン川のほとり。その後  ガリラヤで布教。今のパレスティナ(イスラエルの北部)。
ムカシの人は健脚だね。

     忍者は1日に100q歩いた  って甲賀忍者の川上さんが言ってたのかな?


キリストが馬屋で生まれたとか聖徳太子が馬屋で生まれたとか
これって日本って久しく不浄の女は小屋で隔離されてたから
小屋でお産するのはフツーだったんじゃないかな?

     人目を避けてとか


後世になってハナシを擦り合わせたとかあるんじゃないかなと疑ってる。


でも大昔のハナシは面白いし楽しいしロマンが広がるから
三つ柏さんの研究を早く読みたいです。


つくづく思うのは
浜北人が発見されて以降
    浜松に虎がいた?
    ナウマン象がいた?
こういう世界に生まれ育ったら  ご自分のルーツを知りたいですよね。

あの人骨が女性のだったというのが返す返すも惜しい。

男性だったらY染色体から分かることで倍になったのにね。
[44]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年04月30日 12時52分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今、五十冊くらいの古代に関する本(日本・シュメール・ユダヤモード)を
同時進行で本気で読み直しているのですが、今まで素通りしてしまって頭に
入らなかった記述・内容が、今は自分の頭の中のアンテナと共鳴できるよう
になり、逆に情報過多・モード過多でどうまとめていいのか、相当の統合力
が必要であります。。前回にも書きましたが、できれば頭のAIでなく、本当
のAIを使って古代史を解明できたらなあと思います。

 日本の古代史を解く鍵は、「人」「物」「文化」がどのように渡来したか
ということで、これがわかればすべてがわかるはずだと思います。
 ただ、それを証明するもの、根拠となる証拠は?というと、文書に書かれ
ていることが一番。物証については、比較推理となりますので、確度は劣る
ということになります。例えば千葉県の芝山古墳から出土した埴輪ですが、
正にユダヤ人容姿の埴輪が出ていることは事実であります。だからと言って、
それがユダヤ人が渡来した十分条件とはならないわけで、そこが苦しいとこ
ろであります。
 ただ、千年も二千年も前のことが、数学のように解けるわけがない。いく
つかの状況証拠的なものを拾い集めて推理する、それは永遠の仮設であって
も仕方ない。仮説でもそれはそれで意味があることではなかろうか。
 
 渡来人の代表格は「秦氏」でありますが、日本の古代の豪族達は、はたし
て古来より日本の地に自生した種族でありましょうか? 否でありましょう。
つまり、古代の豪族はみんな過去のどこかで日本に渡来した人であったと言
って過言ではないでしょう。
 秦氏を筆頭に、物部氏、賀茂(鴨、加茂)氏、中臣(藤原)氏……みんなどこ
から来たのでしょう? たた、神道という宗教でベクトルを同じくしている
ことは確か。そして神道は、天照大神と天皇とに結びついている。これは即
ち、方向性が同じ仲間が日本にやって来て、天皇を中心とした国体を作った
ということだと推察いたします。
 肝心なのは、原初はどこで、その後どうやって来た(陸路、海路)かであり
ます。その具体的な証拠というものがないのも苦しいところであります――
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月30日 15時17分32秒 ) パスワード

三つ柏さん

突っ込みどころ満載のレス<44>ですね。
にやり


太陽信仰で超有名というと  古代エジプト文明  ですよね。
     どこの民族でも太陽が大切だったのは  同じ。
     太陽を悪の権化・不要物とした民族って思い浮かばないです。


>千葉県の芝山古墳から出土した埴輪ですが、
>正にユダヤ人容姿の埴輪が出ていることは事実であります。
>だからと言って、
>それがユダヤ人が渡来した十分条件とはならない

三つ柏さんのユダヤ人説に対抗して   隈さんだったら  ソグド人  を持って来るかも。


ソグド人はゾロアスター教を日本に紹介して  これは日本に  「お水とり」  を齎した。
その上、「お水とり」は  今に、至る!
廃れてない。


だからユダヤ人のオトコよりはソグド人の方が古代日本に溶け込んでいたのかもですね。

          ユダヤ人のオンナの日本のオンナに与えた影響???については既に書きました。
 
          インドともなると  インドの姑は嫌いな嫁を焼き殺すとかね  
           インドは文化的に元々  オットが死ぬと妻も焼死する  というのがあるからね。

         「サティ」ですね「寡婦焚死」または「寡婦殉死」
          サティの本来の意味は「貞淑な女性」。

          サティは「夫が死んだら、火葬される時に、貞淑な妻なら火の中に入り死ぬ」ということ。

               この 姑が嫁を焼き殺す ハナシは
               日本の友人のそのまた友達でインド人と結婚した人が「姑  コワイ!」というハナシから知りました。

               当時  嫁の持参金が少な過ぎる  ということで姑が嫁を焼き殺した事件があった。




         日本の姑はせいぜい嫁に「コドモを置いて出てけ」レベルだから  ずっと  オダヤカ  かも?
          これは日本の自然が穏やかだから日本の姑もオダヤカなのか?謎だ




わたしはサンタモニカ時代にゾロアスター教の知り合いがいました。国籍がふぁるし=ペルシャ=でしたから   実際はソグド人の子孫だったかも。

ロスで働いてた時のインド人上司はゾロアスター教徒でした。国籍はインドでしたが  やっぱりソグド人の子孫だったのかな?


         わたしに「アレキサンダーを大王って  言うな  アイツは Son of a Bxxxxだ」と言った人はバハイ教徒でした。
        国籍はやはりふぁるし=ペルシャ=でした。


    「ふぁるし」でも  カリフォルニアで一番多かった知り合いはユダヤ人でした。

          彼ら彼女らは「イラン」という言い方は嫌ってました「誇り高き ふぁるし」を使ってました。
          ペルシャってもの凄い大国だから  今でも  ものスゴイ大国だから  プライドも物凄く高いのです。
  

          わたしが「イランじゃん」って言うと「ふぁるしね」と必ず訂正してた。


ユダヤ人のオトコ達の画像集
https://www.shutterstock.com/search/old+jews
https://www.shutterstock.com/search/ancient+jews
ユダヤ人男性もいろいろな姿があるってことで参考まで。



>千葉県の芝山古墳から出土した埴輪ですが、
><<<正に>>>ユダヤ人容姿の埴輪が出ている

あの埴輪のオトコはソグド人かも知れないし  他の中央アジアのオトコ像かも知れないし  

欲しいのは「あれはユダヤ人の姿の埴輪」という「結論」であって
この結論に寄せているだけかも知れない。

     わたしは埴輪時代に生きてたわけじゃないからハッキリは言えない



日本人にとっては  ソグド人とかカシュガル人とか言うより  あの埴輪の男性はユダヤ人と  断定した言い方のほうが 座りが良いのかも。
その上にユダヤには失われた部族伝説があるから。


あ、カシュガル人を書いたのは、義父がイランのシャーの仕事をしてて
その代理人がカシュガル人部族王だったので
古代日本に来てたのは ユダヤ人 and/or ソグド人だけとは限らないですよ   という意味で付け足しました。
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月30日 16時13分14秒 ) パスワード

三つ柏さん


>原初はどこで、その後どうやって来た(陸路、海路)か

原初はアフリカ
最近は  南アフリカ  が定説になりましたね
以前は  東アフリカ  だったのに
最近  東アフリカよりも  もっと古い骨が南アフリカで出たから。


ムカシは紅海が地続きだったとかでアフリカからユーラシアに行くことが出来た


また日本も大陸と地続きだった


言語から日本人のルーツを見つけようという学者もいて
    ウラルあるたい語族だのなんたらだの
    膠着語だからどの言語の人々とミックスしただの
    文法がSOVだから何とか語と同じだとか


日本人はオーストロネシアの一部でもあるとか

    確かに日本語とハワイ語は音が単純過ぎ  だから日本人やハワイ人は英語が聞き取れない(笑)   あ  「恥」の方か・・・泣

    その上に日本語もハワイ語も音を重ねる語が多いし

             ハワイで IKAIKA なんて初めて聞いた時  ぶっ倒れそうになりましたよ   (強いって意味ですが)  
             烏賊2杯? かと思ったよ(恥)


和歌の5−7−5−7−7形式が南アジアの歌にカタチが似ているというのも読んだ


ということで日本人や日本語は  少しずつ少しずつ  いろいろな民族が入り込んでいるってことじゃないのかな  と思います。


ムカシ日本は大陸と陸続きだった  海が干上がってた時代もあった  氷が覆ってた時代もあった
だからいろいろな方向から人々がやって来て日本人を作り上げた
で、良いと思いますけどね


今の21世紀の「海で囲まれた日本列島に住む日本人」で考えるから迷路に入り込むんじゃないかな?


最近は遺伝子情報からの解明が客観的としてもてはやされてますね。


https://readyfor.jp/projects/izumo17990/announcements/86380
古代出雲人の人骨から、縄文人・弥生人のルーツに迫る挑戦!
2018年09月30日 08:19
ネアンデルタール人とデニソワ人との間に子ども―娘が誕生


驚くことに、日本人の遺伝子は、デニソワ人の遺伝子が残っており、ネアンデルタール人とデニソワ人の遺伝子が最も残っている種の可能性が高いそうである。




https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/041500228/
デニソワ人に別グループ、アジアでまた驚きの発見

現生人類と交配した「旧人」は多様だった、現代人のDNAで判明
2019.04.15



わたしはアジア人なのにネアンデルタール人の遺伝子が2.7%で  0.1ポイントアジア人平均より少ない

夫はヨーロッパ人なのに平均より0.1ポイント高い2.8%。


わたしの遺伝子型は  D4b2a1  で  縄文系。
ひょっとすると  浜北女性はわたしの先祖かもですね。


三つ柏さんもご自分の遺伝子をお調べになったら良いのに。
驚くべき事が分かるかも  ですよ。

本をたくさん読んだって混乱するばかり  遺伝子を調べる方が  ずっと客観的に自分の来し方がハッキリするかも。


あ、そうだ!
給付金で遺伝子を調べてみてはいかがでしょう?

わたしは昨日給付金  1200ドル  受け取りました。第2グループに分類されてたので2週間待たされました。

今朝すぐに銀行に入金に行って
その足でドンキに食糧を買い出しに行って来ました。
これでもう1か月、  籠城  大丈夫です。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月02日 01時38分08秒 ) パスワード

周の?王(れいおう)の漢字のレイの字が出ないので書き直し。
<れい>の字は  雁垂れに萬の字。牡蠣の字の<蠣>から虫偏を除いた字です。




友人からのハナシ
細かい所は間違ってるかも。出来るだけ編集はしました。笑



日本語で「共和国」というのありますけど,
これ周代の年号からきているのです。

司馬遷の史記に書いてありますが,まあ,この時代,年号なかったという説もありますけど,
周の?王(れいおう)が暴政により国を追い出されて,王位が空位になった時代,諸侯が合議して国政を運営した時代によります。


    この時,国政を運営した人数,史記とか記録によりまちまちですけどね。


それで,マルクスの資本論を邦訳するときに,史記の共和年代の故事で,共和制と訳したのが最初のようです。

それで,共和制の国を共和国というようになりました。




史上最古の元号は,武帝の治世・紀元前115年頃に,統治の初年に遡って「建元」が最初だといわれています。

中国の史書で,現存する最古のものは司馬遷の史記です。
これより先の史書現存しません。
中国の史書の書き方は,史記の通りです。
だから,中国の歴史書は史記のパクリです。


ただ,資治通鑑という唐の2代皇帝で中国史上最大の名君と言われる太宗と臣下の問答集(諫言に太宗がどう答えたかというものです。家康の愛読書でもありました)に
そこに周王朝の元号が書いてあるのです。

ただ,史記も元号でなく始皇帝元年とか2年とか,項羽何年という書き方になっているので,私は共和には懐疑的です。

xx王何年と言ったのだと思います。


共和に関しては,司馬遷が史記を書くのにコレは特異な時代ですので,
この時代,重臣の合議で国政動いていたので,王がいません。
それで,xx王何年と書けないので,司馬遷が便宜的に創作したのだと思います。


一世一元になるのは,明の創始者洪武帝からです。
日本では明治からです。

だから,一世一元は新しいのですよ。
明の成立は日本の南北朝あたりですから。

        

 この項  ついていけないハナシ

          ところが,殷(商)王朝の王の相続に関して,殷(商)時代の金石文と4名しか違っていないのですよ。
          しかも,史記で親子が実際は兄弟だったりするする位です。
 



中国の場合,一番の名君が文,次が武です。
最悪が幽,2番目が霊,3番目が?(れい)です。

中国史上,最大の暗君は隋の煬帝です。
煬帝の「煬」は天地や神仏に逆らうという意味です。
そして
帝をテイでなく,ダイと読んだら,親を殺したものという意味です。


だから,煬帝は天地や神仏を恐れず,悪逆非道を尽くし,しかも,自分の生みの親も殺した皇帝という意味で,

中国でも煬帝というのは1名しかいません。

だから,隋の煬帝は,中国史上最低最悪の暴君という言う意味になります。




日本の元号は,天智天皇の大化が最初と言われていますが,
最近,天智は白村江の戦い後,反政府活動で明日香の村周辺が大騒ぎになったようですので,
天智には大化の改新なんかできなかったという説が強くなっています。


で,最近,大化の改新をやったのは,次の天武天皇で,天武の朱鳥が最初という説が強くなっています。


最近,天智がやれたのは,蘇我入鹿殺しただけで,あとは何にもできなかったという説が強くなってきています。
全部,天武がやったという説が強くなってきています。




コロナウィルスは,本来は鼻かぜ程度で収まるウィルスです。
だから世界中がなめてかかったことも今回の騒動の原因だと思います。

ウィルスは,必ず変異します。

世界初のパンデミックのスペイン風邪ですけど,
これは原因が分かっていて,

アメリカがカナダから輸入した生きた鶏が鳥インフルエンザにかかっていた。
そのウィルスが変異して
普通感染しないケンタッキー州の乳牛に感染した。
それがまた変異して,かからないはずの人間に感染するようになった。


しかも,時は第1次世界大戦中。
アメリカが27,000名の兵隊さんをヨーロッパに送った。
イギリスに着いたとたんに2,000名の兵隊さんがインフルエンザで動けなくなった。

しかし,こんなこと,ドイツにもれたら困るので,連合国側はひた隠しに隠した。

それで今度は敵のドイツで大流行。



なんでスペイン風邪かというと,
スペイン国王と皇太子同時に感染したから。
スペインが「国王と皇太子重態だ」と発表したので,
スペインが発祥のように思われたから。


ですけど,アメリカのケンタッキー州から始まったというのが,今の定説です。


ところが,パンデミックも良いことがあり,当時の徴兵可能の青年の3分の1が全世界で死んじゃった。
それで連合国も枢軸国も,兵隊さんがいなくなりました。
それで休戦になるわけですけど,


未消化で第1次大戦終わったので,
これが第2次大戦になったといわれています。


つまり,第2次大戦のようには,枢軸国が余力なしでは戦争が終わりませんでしたから。

だから,2回目の世界大戦が20年くらいで始まったといわれています。


以上友人からのハナシのコピペでした。




ウイキからコピペ

?王(れいおう)は、西周時代の周の王。

周の夷王の子として生まれた。
夷王が死去すると、?王が周王として即位した。

?れい王の在位期間は佞臣の栄夷公を重用し、
   賢臣であった周公や召公らの諫言を退けて
暴政を行ったとされ、

民衆は物事を口にするのを憚り、視線によりその意図を伝え合ったとされる。


これにより周の国勢は凋落し、朝政は腐敗を極めた。


金文によれば、?れい王は南国の服子を討伐したり、
晋の献侯とともに夙夷を征伐したりと、
親征を繰り返した。


民衆の不満が募り、紀元前842年には民衆が王宮に侵入し、?れい王を殺害しようとする国人暴動が発生した。


事件に際して?れい王は、鎬京を脱出して黄河を越え、彘(現在の山西省霍州市)に逃れた。

そのため、『史記』によれば周公と召公が代わって朝政を見る共和の体制となった。

                        これだね↑「共和」の語源



一方『竹書紀年』によれば、この時期に共伯和という人物が不在の王に代わって政務を執ったとされる。


紀元前828年(共和14年)に?王は死去し、周公及び召公により、?れい王の子である姫静が即位して宣王となった。


また、宣王の時代に?れい王の末子である姫友は鄭に封じられ、鄭の桓公となった。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月02日 10時58分22秒 ) パスワード

新しくスレッドを立てました:

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101715.html
長上郡の服部氏族CXXXV:133:いよいよ核心に‐1


大事な部分を書いて置きましたので、こちらにも重複しますがコピペしておきます:


スレッド132で三つ柏さんの長年の疑問にかなり迫りましたね。
特にレス<33>。

では順に追ってみましょう:

レス<3>
大和岩雄氏の『秦氏の研究』
@ハタ氏には、「秦氏」と「波多氏」の二系統があり、
波多氏は建内宿祢の子の「波多八代宿祢」の子孫であり、
八代宿祢は葛城襲津彦と兄弟であるということ。 
A大和の服部連は、糸井造・三宅連と同じに、
天日槍を祖とする新羅・加羅系渡来氏族で、
秦氏と同じ地域出身の渡来氏族であったということ。
➂『古事記』は親「新羅」であり、『日本書紀』は反「新羅」であること。



レス<26>
「川勝」姓、正に秦川勝(河勝とも)。
『新編―姓氏家系辞書』(太田亮著 丹羽基二編)によれば、
河勝(川勝も同じと見て)姓は、丹波の秦氏族と示されており、
寛永系図、寛政系譜には、始皇帝の後裔。



レス<33>
「平氏系秦氏」というものが一体何なのか?
この件は「三つ柏」の件でかつてほんの少し触れたような気がいたします。

久慈力氏の『封印された日本古代史ミステリー』の中に――
「(山口県長門市の)二尊院のお墓に「三つ柏」の家紋があった。

これは平氏系秦氏の家紋で、
柏はユダヤ教の燭台(メノラー)を表現しているとみられ、
イスラエル国家のシンボルになっている。」

つまり「三つ柏」は「平氏系秦氏」の家紋であると言う。
 

壇ノ浦の戦いの敗戦の後に平家が逃れた所が山口県の長門地域。
また、秦河勝の子「物主」の後裔の「惟宗信房」は、
「平知盛」の家人であり、
壇ノ浦の戦いにて討死したと書かれています(宝賀寿男『秦氏・漢氏渡来系の二大雄族』)。

この討死した惟宗信房の娘は、平知盛の妻となっており、その子供に「平知宗」を設けています。

この知宗の子孫が信房の宗家を継ぎ、対馬の宗氏となっております。

知盛に仕えた平家といえば、何と言っても知盛の乳兄弟の「服部家長」であります。
壇ノ浦の敗戦で知盛と共に入水したと言われております。


平家に仕えた秦氏の後裔・惟宗宗氏、同じく平家に仕えた秦氏系の服部氏は、
一門的シンパシィでつながっていたのではないかと推察いたします。
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