[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月04日 00時36分09秒 ) | パスワード |
著者
大塚ひかり(オオツカ・ヒカリ)
1961(昭和36)年生まれ。
早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒。
個人全訳『源氏物語』、
『ブス論』『本当はひどかった昔の日本』『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『エロスでよみとく万葉集 えろまん』『女系図でみる日本争乱史』
など著書多数。
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/04031140/?all=1&page=3
ここが特に面白かったです。
理由は 夫の医者のご先祖さまが誅された理由にも通じるのかな?と。
この医者は外見風間俊介にソックリ。
ただし白い巨塔ご出身なので もしかすると 歌と踊りの偏差値は35あたりかも。
以下部分コピペ(全文はURLへ)
歴史上の毒親はハンパない! 毒母に育てられた応神天皇の小狡い性格とは
応神天皇のただ一度の自己主張
応神は、『宋書』倭国伝のいわゆる倭の五王の一人である“讃”に比定される場合もあり、実在する最古の天皇という説もあります。
この応神に伝えられる逸話は、激しい母とは正反対の優しく穏やかなものばかり。
『日本書紀』によれば、日向国の美女カミナガヒメを妻にしようとした際、息子のオホサザキノ命(のちの仁徳天皇。以下、仁徳)が彼女に一目惚れしたのを知ると、2年越しで用意した結婚にもかかわらず、息子に快く譲ってしまいます(応神天皇十三年九月条)。
古代天皇家にあって、これがいかに寛大な処置であるか。
『日本書紀』によれば、日向国の美女カミナガヒメを妻にしようとした際、息子のオホサザキノ命(のちの仁徳天皇。以下、仁徳)が彼女に一目惚れしたのを知ると、2年越しで用意した結婚にもかかわらず、息子に快く譲ってしまいます(応神天皇十三年九月条)。
古代天皇家にあって、これがいかに寛大な処置であるか。
たとえば景行天皇は、妻の候補を息子のオホウスノ命に奪われ、オホウスの同母弟のヲウスノ命(のちのヤマトタケルノ命)に「ねんごろに教え諭せ」と命じ、結果、オホウスはヲウスに殺されてしまいます。父のお妃候補をもらい受けた仁徳にしても、自分のお妃候補を奪った異母弟を殺している。
奪われるのとはわけが違うとも言えますが、応神は、吉備国出身の妃が親を慕って嘆いていると、吉備へ帰るのをゆるした上、彼女の船を見送ってさえいるのです。
激しい母のコントロール下にあった応神は、子や妻に対しても自己主張が苦手な性格に育ってしまったのかもしれない。
毒親育ちにはありがちなことです。
そんな応神がただ一度、自己主張に近いことをしています。近いことというのは、ダイレクトな自己主張ではなく、子供に決めさせる形の巧妙な自己主張だから。
応神は死の前年、皇子の中で主だったオホヤマモリノ命と仁徳を呼んで、こう尋ねました。
「お前たちは子を可愛がっているか?」
「えらく可愛がってます」
二人が答えると、さらに、
「年長の子と年少の子とどちらがとくに可愛いか」
とたたみかける。年長のオホヤマモリが、
「年長の子にまさるものはありません」
と答えると、
“天皇、悦びたまはぬ色有り”
要はビミョーな顔つきになったのです。
一方の仁徳は、あらかじめ父の顔色を観察し、答えます。
「年長の子はたくさん年を重ねて、すでに成人しているから心配もありません。ただし年少の子はまだ一人前になれるか分かりません。そのため年少の子がとくに愛しいです」
すると、天皇は大喜びしたのです。そして、
「そなたのことば、まことに朕の心に叶っている」
と言って、二人の異母弟であるウヂノワキイラツコを太子にしたのでした。
このくだりを初めて読んだ時、妙な気持ち悪さを感じたものです。
それは今思うと、応神のずるさと親としての冷酷さ、それを受けた仁徳の要領の良さというか、自分の気持ち度外視で親の意を汲むやり方に、違和感を覚えたのです。
忖度って、1500年以上も前からあったんですね。
仁徳は、まさに父の顔“色”をうかがって、その意を汲んでいる。
そして父の応神ははじめから言いたいことは決まっていた。「下の子が可愛い、だから下の子に皇位を譲りたい」と。なのに、それを子に言わせようとして、「お前たちは子を可愛がっているか?」などという質問形で入り、自分の意に添う答えを待っていた。
ところが、察しの悪い上の子のオホヤマモリはバカ正直に「上の子が可愛い」などと答える。一方、登場人物の中では真ん中っ子にあたる仁徳は察しが良い。その察しの良さに助けられ、父の応神は「下の子が可愛い」と言うように仕向け、自分に都合のいい方向に話を持っていった。
なぜはじめから「ウヂノワキイラツコに跡目を譲りたい」と、ズバッと言えないのか。
神話作者は言わせないのか。
一つには、それだけ応神の意中とするウヂノワキイラツコの即位の正統性が低く、兄にあたるオホヤマモリや仁徳が納得しないと考えたからでしょう。
オドロキのショーゲキ
そうだったのか!
↓
オホヤマモリの母は、皇后より前に応神の妃となっていたタカギノイリビメノ命です。タカギノイリビメは景行天皇の子のイホキノイリビコノ命の孫。つまり景行天皇の曾孫に当たります。仁徳の母は、このタカギノイリビメの妹のナカツヒメノ命で、同じく景行天皇の曾孫の上、皇后でした。
一方の下の子ウヂノワキイラツコの母は、和珥臣<わにのおみ>の祖であるヒフレノオホミの娘のミヤヌシノヤカハエヒメ(『日本書紀』ではヤカヒメ)。和珥氏(当時は氏はなく、大和の和珥一帯の豪族といった意味)は名族ではあるものの、二人の兄より母方の格は低い。
こんなことからウヂノワキイラツコを太子にするには相当無理がある……と応神は考えたのかもしれない。
とはいえ、古代は末子相続説もあるくらいだし、そもそも神功皇后は実在を疑われ、その子供である応神天皇の事績にしても鵜呑みにはできないと言われている。
すべては日本神話編著者の創作の可能性もあり……なわけで、ならばダイレクトに「朕はウヂノワキイラツコに皇位を譲りたいのじゃ」と言わせても良かったんじゃないか。
それをさせずに、上の子たちに質問をして、彼らに答えさせるというような他の天皇には見られない言動を、なぜ神話の編著者は他の天皇でなく、よりによって応神にさせたのでしょう。
それは彼が神功皇后の子だったからではないか。
神功皇后のような母に育てられた子は、応神のようなタイプになるということを、古代人が知っていたからではないか。
強い母・神功皇后に忖度し続けた結果、自身も子供に意識的・無意識的を問わず、忖度を求めるような人間になる。気弱さと、一種のずるさを持つようになる、と。
「ずるさ」ということばが悪ければ、「自己防衛本能」と言い換えることもできます。
そうしなくては、自分を守れない。自分が傷つかないようにしているのです。小さいころから、「あなたは何がいいの?」と母に聞かれながら、いざ選ぶと、
「ママはこれがいいと思うの」と言われ続けた子は、自分が否定される痛みを味わわないように、自分が傷つかないように、人に選ばせる。人に選ばせるようでいて、巧妙に意志を通すすべを学ぶのです。形の上では人の意志を尊重しているから、人の反感も買わず、自分も嫌な思いをせずに済む……。
にしたって、なにも「上の子と下の子とどっちが可愛い?」などと質問して、答えさせなくてもね……。しかもそれを上の子に言うとは、上の子の気持ちなんてみじんも考えていない。
「下の子が可愛い」と言わされる羽目になった上の子らにしてみれば、面白いわけがありません。
応神死後、子供たちに争いが起きるのは、あらゆる観点からみて当然なんですよね……。
以上コピペ
なるほどね
大山守尊の真面目さも、かの医者から連想できます。
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月17日 14時25分41秒 ) | パスワード |
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/04171140/?all=1
続編
「聖帝」として知られる仁徳天皇 歪んだ「毒子」が犯した数々の惨劇のワケ
え゛〜〜〜
民のかまどに煙が立たぬのを見て課役を3年間やめた“聖帝”(『古事記』)として名高い仁徳天皇は、父・応神に対しても従順な孝子として描かれています。応神が「そなたらは年長の子と年少の子とどちらが可愛いか」と、年長の子であるオホヤマモリノ命とオホサザキノ命(のちの仁徳天皇。以下、仁徳)に尋ねた際、オホヤマモリが「上の子が可愛い」と答えたのに対し、仁徳は「下の子が可愛い」と答えた。仁徳は父・応神が下の子であるウヂノワキイラツコに皇位を譲りたいという意を汲んで、今のことばで言えば「忖度して」そう答えたのです。
こうしてウヂノワキイラツコは『古事記』によれば“天津日継<あまつひつぎ>”を保つよう父に言われ、天皇死後、仁徳は父の命に従って、“天下”をイラツコに譲った。
末子相続説さえある当時、下の子のウヂノワキイラツコが皇位を継ぐのはさほどおかしいことではないとしても、彼の母の身分はオホヤマモリや仁徳の母たちと比べて劣っている(前回参照)。
納得いかないのは年長の子であるオホヤマモリです。
彼は父の崩御後、その遺志に背いてさっそく弟のウヂノワキイラツコを殺そうと兵を準備します。ところが、そのことを仁徳がウヂノワキイラツコに告げたため、兄のオホヤマモリは返り討ちにあって殺されることとなります。
問題はそのあとです。
残されたウヂノワキイラツコと仁徳は皇位を譲り合い、
『古事記』によればウヂノワキイラツコが先に崩御したため、
『日本書紀』によれば自殺したため、仁徳が即位したというのですが……。
↑
コレは知らなかった
上の兄を殺してまで皇位を守ったウヂノワキイラツコが、下の兄の仁徳とは皇位を譲り合ってあっさり死んだというのはあまりに不自然です。
ウヂノワキイラツコは『播磨国風土記』では“宇治天皇”と記されている。
仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)
仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)(他の写真を見る)
朝廷が『古事記』『日本書紀』を編纂したのとほぼ同時期、編纂が命じられた『風土記』には、ヤマトタケルノ命や神功皇后も天皇と記されていて、歴代天皇が確定する以前の実態が反映されています。ウヂノワキイラツコは応神死後、皇位についたと見て間違いないでしょう。『古事記』にも彼は“天津日継”を受けた(皇位を継承した)とはっきり書かれています。
一方、『日本書紀』では父の死後も“太子”と記されていますが、父が死ねば太子は即位するのが普通です。現に『古事記』では父の死後、兄の仁徳が“天下”をイラツコに譲ったとも書かれていて、この時点でイラツコは即位した可能性が高い。
一連の流れを考えれば、実は仁徳もはじめから皇位を狙っており、三兄弟の皇位継承争いに結果的に勝利した、あるいは実質的に皇位についていたウヂノワキイラツコを死に追いやったと見るのが自然ではないでしょうか。
つづく
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月17日 14時28分59秒 ) | パスワード |
聖君伝説ときょうだい殺し――大事なのはウヂノワキイラツコの母系の血筋
“聖帝”仁徳のきょうだいで死んだのはオホヤマモリとウヂノワキイラツコだけではありません。
仁徳は葛城地方に住む豪族のイハノヒメノ命を皇后(当時は大后)にしていましたが、亡きウヂノワキイラツコの実の妹であるヤタノワカイラツメと結婚し、イハノヒメの恨みと怒りを買っていました。それでも懲りずにさらにその妹のメドリノミコ(以下、メドリ)を娶ろうとして、異母弟のハヤブサワケノ命を使いに出します。
ところがメドリは、
「皇后が強いからといってヤタノワカイラツメにまともな処遇をしていない人になど私はお仕えしたくありません。あなたの妻になります」
と宣言し、使いのハヤブサワケを選ぶのです。このあたり古代の女ですね。因幡の白ウサギで名高い大国主神の神話でも、目の前の求婚者たちではなく、彼らの荷物持ちをさせられていた大国主神(当時はオホアナムヂノ神)を選んだのは女(ヤカミヒメ)のほうでした。
「私はあなたたちの言うことは聞きません。オホアナムヂと結婚します」
という言い方もそっくり。
話を仁徳に戻すと、そんなふうにメドリは仁徳ではなく、使いとしてやって来たハヤブサワケを夫として選びます。仁徳はいつまで経っても戻らぬハヤブサワケに業を煮やし、しばらくして直接メドリのもとに出かけます。そして機織りをするメドリに、
「誰のために織っているの?」
と歌に乗せて問うと、
「空高く行くハヤブサワケのため」
と答えるではありませんか。
しかもメドリは、夫のハヤブサワケに謀叛を勧める歌をうたいます(『日本書紀』ではハヤブサワケの舎人らがうたっている)。
「ヒバリだって空を翔るじゃない。ましてあなたは天空高く行くハヤブサワケ。スズメ(サザキ)なんて取ってしまいなさい」(“雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 雀取らさね”)
スズメ(サザキ)はもちろんオホサザキ、仁徳のことです。
これを聞いた仁徳は、二人を殺そうと考え、実行するのです。
ここから分かることは主として三つ。
一つ目は、当時は、即位したあとでも皇位を奪おうという謀叛は起きうるということです。ウヂノワキイラツコが即位していたとしても、兄・オホヤマモリや仁徳が謀叛を企てるのは不自然ではありません。皇位といっても平安時代のような安定的なものではないのです。後世でいえば戦国武将の家督争いや天下取りのような感覚でしょう。
二つ目は、“聖帝”と呼ばれる仁徳は、間接的にではありますが兄・オホヤマモリを殺し、異母弟・ウヂノワキイラツコを死に追いやり、異母弟・ハヤブサワケと異母妹・メドリを殺したということです。<系図>からも分かるように、
“聖帝”は合計4人の異母きょうだいを間接的・直接的に殺しています。
ウッソォ〜
知らなかった〜
三つ目は、仁徳にとって同じ異母きょうだいの中でも、ウヂノワキイラツコの血筋が重要であったということ。
水谷千秋によれば古代の王族にとって「父方の親族は王位を争ういわばライバル同士」であるのに対し、「母方の親族こそが我がミウチ」という感覚です(※1)。
仁徳がヤタノワカイラツメやメドリといった、ウヂノワキイラツコの同母妹を二人まで妻にしようとしたのは、彼女らが新政権に必要だったからです。
古代の天皇は、姉妹をセットで妻にすることが多く、仁徳の父・応神も景行天皇の孫のホムダノマワカノミコの娘を3人も妻にしています。この一族と手を結ぶことが政権維持に有益だったからでしょう。仁徳もまた、父・応神が天下を譲ったウヂノワキイラツコと同腹の妹と結婚することで、亡きウヂノワキイラツコ側の支持を取りつけ、政権を安定させようとした、と私は考えます。
ところがメドリは仁徳を拒み、ハヤブサワケを選んだ。
これは、亡きウヂノワキイラツコ側の支持を取りつけたい仁徳にとって大きなダメージです。
ウヂノワキイラツコと同腹のメドリの裏切りは、政権維持どころか、政権がひっくり返る事態に発展しかねない。
仁徳がハヤブサワケだけでなく、メドリをも殺さねばならなかったのは、その影響力の大きさはハヤブサワケの比ではなかったからでしょう。
メドリがハヤブサワケに「スズメ(仁徳)なんて取ってしまいなさい」と上から目線で謀叛を勧めたのも、メドリのほうがハヤブサワケより王権に近い位置にいるから。応神に正式に指名された太子(もしくは実質的な天皇)であったウヂノワキイラツコの同母妹のメドリには、それだけのパワーがあったわけです。
そして、こうした兄弟たちの争いの根には、皇位継承の法則が確立していない当時の日本の状況に加え、身分や長幼を無視して下の子ばかり可愛がる父・応神の偏愛があった――と、考えるのです。
兄弟関係についてはURLへ
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月17日 14時30分10秒 ) | パスワード |
話を戻して、メドリの立場で考えてみましょう。『日本書紀』によれば、古代、皇后は天皇と同等の地位でした(安閑天皇元年七月一日条)。メドリにしてみれば、仁徳が、メドリと同じくウヂノワキイラツコの同母妹であるヤタノワカイラツメを差し置いて、イハノヒメを皇后にしていたことは、許しがたい屈辱だったでしょう。もしもヤタノワカイラツメが皇后であれば、ウヂノワキイラツコと母を同じくする一族が天皇と同等の権力を持てる。けれど現状は違う。自分が仁徳の妻になっても、イハノヒメの下位に甘んじるという同じ屈辱的な待遇を受けるだけ。ならばハヤブサワケを利用して、政権を取り戻そう。
そんなふうに考えたのではないでしょうか。
一方、イハノヒメの立場になってみましょう。仁徳の皇后のイハノヒメは『古事記』では嫉妬深い女性とされていますが、『日本書紀』にはそうした記述はありません。そして『古事記』『日本書紀』に共通しているのは、ヤタノワカイラツメを夫が愛した時、恨み怒って公務を投げ出し、家出したことです。それはひとえにヤタノワカイラツメの血筋がとくべつで、皇后の地位を脅かされる、もっと言えば別の系統に王権をさらわれるのでは――という恐怖さえあったからではないか。
葛城出身のイハノヒメは4人の皇子を生み、そのうち3人が即位しています。が、ヤタノワカイラツメが皇后になって皇子でも生めば、そちらに皇統が移りかねない。そんな危機意識さえあったのではないか。
イハノヒメのヤタノワカイラツメへの怒りは、嫉妬の気持ちもさることながら、そうした危機意識によってふくらんでいるように思います。
けれど、イハノヒメにとっては幸いなことに、ヤタノワカイラツメは子を生みませんでした。
また、彼女の同母妹のメドリも、仁徳の妻になるのを拒み、ハヤブサワケに謀叛を勧めたために夫もろとも殺されたことも再三書いてきた通りです。
そのおかげ……と言っては語弊があるかもしれませんが、イハノヒメの血筋はそのまま皇統に流れ続けます。武烈で皇統が途絶え、仁徳の父・応神の五世の孫にあたる継体に皇統が移るとはいえ、継体以下、三代にわたる天皇たちは、イハノヒメには曾孫に当たる仁賢の娘たちを皇后にすることで、新政権を強化する。イハノヒメの血はそこに注ぎ込まれ、栄華は続いていくわけです。
※1 水谷千秋『謎の大王 継体天皇』(文春新書)
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