【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る | 使い方とお願い | 日子の島TOP
 投稿番号:101703 投稿日:2020年01月05日 02時55分51秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏紋の服部さんの代理
長上郡の服部氏族CXX\:129:現場100回-10
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族CXX[:128:現場100回-9
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101700_55.html
の続きです。


             ローマ数字の表記がかなりアヤシクなっている(恥)


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。



「発見!ユダヤ人埴輪の謎を解く」を拝見しました。
帯に「秦氏一族である」と書かれていますね。


一体日本人にどれほどのユダヤ人が混じっているのか?
それについては前スレッドにコピペで書かせて頂きました。


まず、ご自分のY染色体を調べるのが良いのではないか?
と思います。

わたくしの場合はミトコンドリアDNAの型がD4bということで「「縄文人」系です。
確かにわたくしは山や川や木や岩や瀧に何かを見ます。
あらゆる物の中に神を見て来た縄文人の血を受け継いでいる。

     逆に「見えない」と言う人に驚いていました。
     なるほど  縄文人系でなかったら  見えなくて当たり前だったのか。
     その事がDNAのハプロ型の違いということだったのか、と。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2020年01月05日 09時37分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッド、ありがとうございます。

 DNA鑑定について調べていただきましたが、私はもちろんその専門家では
ありませんので、それらの鑑定方法・理論について正しいかどうかの判別が
できません。
 ただ、歴史はある意味、統計学・確率論なので、何千年の歴史の中で、地
域別に過去からの時間線に沿って数多くの検体調査をすれば、ある程度の傾
向は見つけられるとは思います。

 がしかし、@過去のユダヤ人、A現在の日本人、があって、B過去のユダ
ヤ人は現在の日本人のルーツである、という課題を証明するには、「父親か
らその息子へY染色体が伝わる」といういわば「万世一系」の検体を入手す
る必要があります。が、それは確率から言って、無理でしょう。

 歴史におけるDNA鑑定は、その結果よりも、結果を生み出す前提条件の設
定が難しい、とてつもなく難しいのだと思います。

 したがって、「当たらずとも遠からず」ぐらいのスタンスで我々は臨んだ
方がいいと思っています。

 「ユダヤ人とは何か」、この定義の問題も、ご存じのようにユダヤ人と言
われる人達は、ディアスポラの民でありましたので、生物学的な定義ではな
く、宗教的定義でユダヤ人を定義しました。そして現在もそうであるという
ことを考えますと、ますます純粋なユダヤ人、純粋な日本人の定義は難しく
なり、DNA鑑定万能の神話は遠のきます。でも一応、参考資料として捉える
ことはできると思います。
 
 それよりも、歴史的経過・経緯を確実にすることの方が、これらの課題に
対して、明確な結論、納得の行く結論を生み出すのではないかとは思ってい
ます(こちらもとても難しいのでありますが)。

 以上、あを様の意に反したような記述になりましたことを反省し、次のテ
ーマに入りたい(南朝ベースに戻りたい)と思います――
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月05日 16時04分26秒 ) パスワード

三つ柏さん

まだ暫くこだわりますね。


>DNA鑑定について調べていただきましたが、私はもちろんその専門家では
ありませんので、
>それらの鑑定方法・理論について正しいかどうかの判別ができません。


<正しいかどうかの判断>についてですが

最近やっと日本政府がフィリピンでの旧日本兵の遺骨とされるものの内に  実は日本人のものではなかったものがあった  と認め始めましたよね。

遺骨収集をフィリピン人に任せたために非日本人のものを日本政府は買ってきたとバレてしまった。


    <正しいかどうかの判断>について日本政府は困ったでしょうね
    日本兵のものとして大量に買ってますからね
    世界で一番<正しいかどうか>について困ってるのは日本政府でしょうね。

        笑い転げました


クリントン大統領が執務室で修習生と遊んでた証拠を彼女=モニカ・ルウキンスキー=が提出し
それがクリントンのものではない可能性は  70兆分の1  しかない  ということで
地球上の人口が70億人として男性が半分として35億と5000万。


       これもアメリカ中が笑い転げたDNAの検査結果です
       で、クリントンは結局認めました。


>宗教的定義でユダヤ人

「宗教的」でユダヤ人を語るなら

これは  母親がユダヤ教徒なら  その子はユダヤ人なのです。
父親がユダヤ人でも  母親が異教徒なら  その子はユダヤ人ではないのです。

とくに正統派のユダヤ人は  この部分を  大切にします。


ユダヤ人がアメリカに来ると何故だか(恐らく政治的理由からだと想像しています)正統派に変化してしまい
その妻が非ユダヤ人なら  離婚  になるんです。

ここの部分でユダヤ人の日本人妻達は夫が正統派に化けると大変な苦しみが始まります。
離婚しかないから。


   かつてエリザベス・テイラーはエディ・フィッシャーと結婚するためにユダヤ教徒に改宗しました。
   
        わたしが思うにエリザベス・テーラーはデビー・レイノルズからエディを略奪するのに改宗までしたのだろうと思っています。


   最近のハナシではトランプの娘のイヴァンカがユダヤ人のクシュナー氏と結婚するためにユダヤ教に改宗しています。


イギリスの皇太孫のウイリアム王子の妻のケイト・ミドルトン=キャサリン妃=は母親がユダヤ人 旧姓Goldsmith というユダヤ系バリバリの苗字なので
ユダヤ女性達が大喜びしてました。

将来のイギリス王は  ジョージ坊やがいずれイギリス王になれば  母親がユダヤ人だから  イギリス王はユダヤ人だ!  と。

 
   ただし  ケイト・ミドルトンの母方は数代前に改宗しているんですけど
   ユダヤ女性達にとっては名誉ですからケイトはユダヤ人認定されているのです


父親がアングリカンチャーチ  英国国教会の信者(いえいえ信者どころか 大元ですね  イギリス王室が主催者の教会ですから)でも  
母親がユダヤ系だから  もともとがユダヤ人だから  イギリス王ジョージはユダヤ人認定。


ユダヤ人は宗教の民ですからね。ユダヤ人からはユダヤ人認定されるというわけです。


ケイト・ミドルトンの母方の血統はユダヤ人ですから。


男性はYの他にX染色体を持ってますからね。ジョージ坊やのX染色体はケイトのですからね。


わたしの周りでユダヤ人と結婚していまだに婚姻関係が続いている日本女性は米谷ふみ子女史だけです。
みんな離婚してる。

    選民意識では日本人はユダヤ人に負けてないけど宗教から言ったら日本人は全くユダヤ人の対局にあると思う
    ユダヤ人は日本人に(冗談じゃないぜ。俺らと一緒にするな)と思ってるとわたしは思う


田中氏の本に書かれた あの D2  というのがどこから出て来たのか  実に不思議です。
D2で認められているのはナイジェリア人。
未だにD2で日本人とユダヤ人の関係が掴めない。


で、もっと詳しくD2について調べてみました:https://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_D_ (mtDNA)

D2 - Uyghur
D2a'b D2a - Aleut, Tlingit

D2a1 - Saqqaq, ancient Canada(←これ  うちのカナダの親戚です。トーテムが「太陽をクチに入れたカラス」です) D2a1a - Aleut

D2a1b - Siberian Eskimo
D2a2 - Chukchi, Eskimo

D2b - Yukaghir, Even (Maya River, Okhotsk Region) D2b1 - China, Tibet, Kazakhstan, Kalmyk, Belarus (Tatar) D2b1a - Buryat, Yakut, Khamnigan, Evenk

D2b2 - Evenk, Bargut
D2c - Buryat


D2に日本とユダヤは出てないですね。



>純粋なユダヤ人、純粋な日本人の定義は難しくなり、DNA鑑定万能の神話は遠のきます

ここに  日本の天皇のハナシが絡むわけですね。天皇は男系でなければならないというハナシ。

つまりY染色体は男性にしかない。  女には無い。
だからこのY染色体で天皇家を繋いでいかないといけない。
それでないと万世一系にならない。     


    女性天皇では  XXですから  女性の染色体しかない。

    愛子さまが天皇になって、ただの日本人♂と結婚したら  天皇家のY染色体が  その  ただの日本人の♂のY染色体になってしまう。
    だから女性天皇は許されないんだ、と。


で、思うのですが
日本人にとって  こういう  Y染色体マインド=万世一系マインド=はどこから来ているのだろう?と。


日本人には   Y染色体  という概念があったのかなと。



>意に反したような記述になりましたことを反省し、

いえいえ
三つ柏さんには反省の必要は無いです
わたくしにとって考え方の方向を変える切っ掛けになりますから歓迎です


>次のテーマに入りたい(南朝ベースに戻りたい)と思います――

はい
どうぞ
続けてください。


今日は不調だったPCを見てもらったのですが
その人は三重県松阪の人でまさに平姓バリバリの苗字でした。
 
    おー!平家じゃんね〜、って。


フツーでは初対面で絶対にしないような  込み入った  家庭の事情や秘密を聞いてしまいました。(楽)

やっぱり平家の「血」なのかな?


わたしには彼のバックグラウンドなんて見えてるからね。


ムカシ昔ロスで働いてた時に新人が来て  最初に見た瞬間に  平家じゃん!  と思って  地名を出したらモロに彼女の出身地でした。
美しい女性でしたよ
12世紀中ごろだったら確実に朝廷で活躍するような美貌と頭脳を持ってました。


だから  ヒトと会うのが好き!  平家とか南朝方とか  ピンと来ると嬉しい。
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2020年01月08日 06時59分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は体調が絶不調で、一昨日の8キロの山歩きの疲れ+風邪の初期症状
かなと思い、無理せず養生しておりました。

 今年は、ぜひ服部半蔵についての論文をまとめようと思っています。その
ため、半蔵についての行動記録が書かれている資料を、できる限り集めよう
としております。

 『改正三河後風土記』を読むと、服部半蔵と伊賀衆の出陣記録が残されて
います。また、平山優著『天正壬午の乱』を読むと、本能寺の変の後の、甲
斐争奪戦で半蔵と伊賀衆の活躍をかなり知ることができます。
 それらの戦い方から見ると、半蔵軍団は一般武将軍団の戦い方とは違った
動きをしているのが見えてきます。どうやら、別動隊といった形であるよう
に思われます。伊賀衆の形態・動きもある程度想像できそうな気もいたしま
す。伊賀衆のもつ研究され訓練され磨かれた特殊戦闘能力・技術、そして情
報力、これらは勝つための総合兵法であったと思われます。

 兵法を研究すると、やはり「情報力・忍衆の諜報力」がまず一番大事であ
ると思われます。戦いとなれば「忍衆の持つ特殊能力=戦術・技術」が一番
に効力を発揮します。もちろん武器・火器の殺傷能力、武具の防御能力等の
向上も日々の競争課題であると思われます。そして人員数、馬匹数、経済力、
そしてやはり最後は一糸乱れぬ組織力および統率力、そして調略力・交渉力
であると思われます。

 半蔵を筆頭とした服部党、そして明智光秀との関係、そしてバックにいる
徳川家康、やはり何かが見えそうな感じがする……それが知りたいと強く思
っております。

 あを様の今までの服部氏研究も、ありがたく利用させていただきたいと思
っています。服部党の全体の系図(相関図)のちゃんとしたものがないか、探
しています。あを様お持ちでしたらコピー送っていただけませんでしょぅか
――


[4]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月08日 14時17分35秒 ) パスワード

三つ柏さん

最初のスレッドに書いたことの件ですが
     (最初の方のはご希望で、いくつかスレッドを削除しましたよね)

あれは

三重県桑名郡七取村字西福永184
服部喜四郎氏が纏められたもの、
と思います。

毛筆で書かれたのは  徳江雅堂氏


服部一族
限定500部

東京都中央区銀座3−8−4
03−567−6013   今は567の部分が4桁ですよね

発行元  日本家系協会
発行所  発行人  北村 進      あらあら 北村氏?!驚

編集人  武田光弘日本家系家紋研究所


昭和59年6月吉日発行


https://www.google.com/search?sxsrf=ACYBGNT2mCzsZsM1iV5_F6bdpdQVgWclDA%3A1578460029079&ei=fWMVXouyBMbi-gTyrqL4Dg&q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E5%AE%B6%E7%B4%8B%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E5%AE%B6%E7%B4%8B%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.12...2249.2249..3848...0.2..0.131.131.0j1......0....2j1..gws-wiz.......0i71.YcbynI71zJA&ved=0ahUKEwjL5MzqnfPmAhVGsZ4KHXKXCO8Q4dUDCAo#spf=1578460031584



http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/261449.html
日本家系家紋研究所


電話番号は載ってないですね。


見たら  松島・松嶋一族  というのがありました。
服部氏は載ってなかったです。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月08日 15時35分06秒 ) パスワード

今、ちらちら  服部一族  を見てたのですが
服部小平太が義元を討った話の箇所で

    彼は津島の地頭だったそうです

その後  伊勢の松阪5万石をもらって  やがて秀次事件で破滅に至るわけですが


ここで  ハタ!  と思ったのです。
なぜ松阪だったのか?


それは先祖の服部宗純の出身地だったからでは?
と。

伊勢国奄藝郡の出身でしたよね。
わたしには  ピンポイントではどこか  分かりませんが
「先祖由来の土地」が欲しかったんでしょうね。



郡域

1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、以下の区域にあたる。

•鈴鹿市の一部(概ね白子本町、白子駅前、白子町、東旭が丘、野町東、野町中、野町西、野町、稲生町、鈴鹿ハイツ、御薗町、長法寺町、三宅町より南東[1])
•津市の一部(概ね上浜町・島崎町・大谷町の各一部[2]および江戸橋、一身田各町、夢が丘、大里各町、高野尾町、芸濃町椋本、芸濃町忍田、芸濃町楠原以北)
•亀山市の一部(関町萩原・関町福徳)



一昨日うちに来た松阪の人
そして今日読んだ小平太の松阪

ちょっと  背筋がゾッとしています。


小平太と秀吉の話は全くしなかったのが惜しかった。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月09日 02時24分48秒 ) パスワード

三つ柏さん

>服部党の全体の系図(相関図)のちゃんとしたものがないか、探しています。

「ちゃんとしたもの」は難しいと思います。

      壇ノ浦以降の平家はボロボロですから。

      それで  生き残った者が絶えた家を継いだり再興したり
      誰が誰やら  

         改めて大事な人の名を継いで名乗ったりしているし  

      人間関係が輻輳してる。


どうやら  伊賀系服部氏=半蔵さん宅=と伊勢系服部氏=うち=は南北朝時代に別の生き方をしてるようですし。

              江戸幕府に提出する先祖も出自が違う?笑


そして数年前に自分なりに纏めた服部氏を読み直したら  書き入れた矢印がどこから来てどこに繋がってるのか  不明・・・
      書き入れた時は分かってたのでしょうけど。

      だいたいからして  自分の字が読めない。


書き直さないといけないです。
前々から書き直さないといけないと思いつつ  今日に至ってしまった。


ということでボチボチやります。


      先日来た人に絶対に喜ばれる「ある物」をコピーしてあげようと思って棚にしまっていた物を取りに行ったらヤッパリ無かった。


      たぶんコレは三つ柏さんも大事にしてくれる物だと思うので捜し出せたらコピーを送ります。

          2002年のワールドカップのブラジル選手団のサインのコピーです。
          当時友人たちに送ったらとっても喜ばれた物です。
          
              友人達は女性だからサッカーは興味が無いけど
              サッカーをやってた息子さん達とかブラジル人の患者さん達に喜ばれたと言ってました。

                   捨てたのかもね
                   2年前に大掃除したから


ということでボチボチ・・・   
ボチボチの前に片づけないと
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月10日 05時27分47秒 ) パスワード

ボチボチやってます。


矢印がどこからどこへ繋がってるのか分からないのでネットで調べ調べやっているのですが

わたしが引っ掛かる人達のいた所が  まさに  伊勢国奄芸郡で  津とか鈴鹿の関とかで  ああ、やっぱり  と、涙が溢れて来ます。


やっぱりワタシの過去世は奄芸郡なんだなぁと。


     京の都にいた気は全くしないし  伊賀にも「行った」記憶はあるけど住んでた記憶に繋がらない。

     やっぱり  奄芸郡だなぁ  と改めて思うのです。

服部宗純が伊勢国奄芸郡出身だった、というのはホントだったのかと。


久居・津・鈴鹿・松阪
あの辺りの山の育ちだったんだなと。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月11日 03時17分43秒 ) パスワード

今は半蔵さんの前の世代と奮闘中で  脳味噌を7回は引っ繰り返した。
     なんとなく分かったけど5分もしたら元の木阿弥になりそう。


やっと三つ柏さんが「服部は平忠正の子孫」とお書きになった経緯がかなり分かって来た気がしています。


つまり清盛は
保元の乱で叔父である忠正とその息子達を斬首にした後  
叔父と伊賀出身の女との間に生まれた子は殺さず  伊賀に送って育てさせた

伊賀で育てられた平忠正の子は、生母の実家で育てられた、つまり家長の子=養子=猶子=として育てられ、俗姓で服部を名乗った

という事だったんだろうと思います。


これで辻褄が合うんですけどね。

            合理的なわたし  自画自賛  パチパチパチ

ではボチボチ戻ります。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月11日 09時25分02秒 ) パスワード

取り敢えず  系図は書き直してみました。
字が下手クソで 自分で自分の字がやっぱり読めないという箇所があるものの
来週あたりには郵送します。


   もう1回書き直すと  きれいかな  と思うけれど  気力が無い


わたしなりに纏めた系図です。


キレイな系図はネットにいくらでも載ってますからそちらを基に
わたしのはメモということで見て頂きたいです。


数日置いて見比べてみます。
なんせ自分の字を写すのに誤字脱字をやっているので
新鮮な目で確かめたいと思っています。
[13]三つ柏服部さんからのコメント(2020年01月11日 09時55分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。楽しみに待っております。

 小生、ただいま再充電中――
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月12日 08時19分14秒 ) パスワード

三つ柏さん

8枚に纏めて投函したところです。
10日ほどしたら届くと思います。


もう1回書き直したら読み易いかと思いますが  完成がいつになるか見通せないので止めておきます。


ここの所  毎日ものスゴイ大雨なので  テープで  住所などが滲まないようにしておきました。
[15]三つ柏服部さんからのコメント(2020年01月12日 12時00分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 感謝いたします。届くのを首を長くして待っています。楽しみであり
ます。

 私は、今、これまでにたまった資料―服部氏関係、忍者関係の大整理
をしているところであります。
 「平熱」に書き出すのは、もうしばらく時間がかかると思いますが、
仮のテーマは――
 「南朝フィルターを通して見た戦国時代と服部党」
あたりになると思います。

 言うは易し、まとめるは難し――
[16]三つ柏服部さんからのコメント(2020年01月15日 10時41分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一昨日は芝刈りに、昨日はお見舞いにと、結構用事があります。明後日
には鳥羽・伊勢と、そして十九日には「麒麟がくる」がはじまります。

 今、"南朝フィルター"を読み直したり、過去のメモ帳を読み直したり、
伊賀・甲賀、服部党に関する資料に再度目を通したりしております。
 ここで、"南朝フィルター"について記しておきますが、これは加茂喜三
氏(故人となられた)の著書『富士"隠れ南朝"史』のことについて、その内
容が正に見えない南朝色を浮かび上がらせてくれるので、そう私が名付け
たものであります。五百頁弱の本で、国会図書館か富士図書館にのみ見ら
れます。富士図書館でそのコピーをしてきて手元にあるわけですが、その
価値は南朝史・後南朝史におけるいわゆる"隠れ南朝"の姿を唯一と言って
いい程、この本は示してくれています。あを様にもぜひ見てほしいとは思
いますのですが、とりあえず私がその内容の要点をまとめるということで
どうかと考えています。

 明智光秀は土岐氏で北朝と簡単に色分けしてしまう風潮がありますが、
私は光秀は南朝シンパだと考えております。
 それはやはり「心」の問題だと思います。心とは「仁」だとも思います
が、それは越前の十年間に特に培われたものと推察しております。
 それについては、今後述べて行きたいと思っています――
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月15日 21時55分53秒 ) パスワード

三つ柏さん


>後南朝

後南朝について特に期待しています。
母方がまさに「後南朝」関係者なので。
つまり私は後南朝子孫だ。

伯母から一子相伝の話をほんの少し聞かされましたが
   賢い人なので私が知らない部分のみを教えてくれたのだと思っています。



戦国時代末期の美濃国が意外に広かったのが驚きでした。
昔の国境線を現代の県境で捉えるから無理があるんでしょうね。


光秀の「生誕地」という言葉をどう捉えるかによっても  戸籍謄本みたいな父の家か里帰り出産の母の実家かハタマタ使用人の家か。

        日本人には「本籍地」≠「出生地」でない人もいますからね。
             公式文書だと「本籍地」でしょうけど、戦後の高度成長期にはそうとは限らないですから  え?  となりますよね。

             知り合いに「満州」とか「朝鮮」とかの生まれの人がいてビックリした経験があります。

                某大使館で働いてた人は国籍日本  本籍地神奈川県  出生地満州  
                某市長の息子さんは  本籍地長野県  出生地朝鮮(総督)。
                   この人に手紙を出すのに 某市長ご子息  で届きました。笑

                      (ある友人には「後藤新平公宅の○隣」で届きましたっけ  笑)         




そう言えば  夫のパスポートを代理で申請した時に  夫の父親の出生地を(舅はカナダとの二重国籍者で当時は二重国籍が許されていた)
ウッカリアメリカにしてしまって申請したけど
難無くパスしました。
   

今でも「出生地」という話になると混乱します。
日本は「出生地」主義じゃない  よね?
「本籍地」が大事  よね?

そうすると明智光秀は「美濃国」の生まれ、だけで良い?
「可児だ」「恵那だ」「滋賀県だ」などの出生地論争は意味が無い!
地元にしてみれば経済効果上多いに大問題だけど。


光秀が医者をしてた  などの説もあるけど
若い時に  さまざまな場所に行き  さまざまな人に会い  さまざまな勉強をした  その1つに医学の勉強もした  ということであって
他には  刀鍛冶説もあるし
とにかく光秀という人物は幅の広い人だった奥深い人だった   表面で語ることのできるような安っぽい人間じゃなかった  ということなんだろうな、と。


戦国時代という時代は個性豊かな人物像がいろいろ見られて生き生きした時代だから好きです。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月16日 10時08分45秒 ) パスワード

舞台が宮崎県の椎葉村、主演 市原悦子・林遣都の「しゃぼんだま」をやっと見ました。

クレジットの名前が「椎葉姓」と「那須姓」が殆どで「甲斐姓」もかなりあって
現地の人達が協力・出演してるんだなあ
と見ていました。

     甲斐姓は熊本だろうと思うけど
     ま、宮崎のご近所さんということで甲斐姓も多いんでしょうね。

     甲斐姓については菊池さんを調べてた時に読んだけど記憶に無い。
[19]三つ柏服部さんからのコメント(2020年01月16日 12時56分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 閑話一題:「那須与一の話」

 平家物語のハイライト「那須与一」ですが、昨日ブックオフで見つけた
『天の弓 那須与一』(那須義定著)という本に、いろいろ面白いことが書か
れていましたので、いくつかご紹介いたします――
 
 @那須氏のルーツは、紀元四世紀の景行天皇の時代に置かれた那須国造
 家、更には三世紀の孝元天皇に行き着く。

 A屋島での「扇の的」にはどんな意味があったか?
  それは、こういうことであります――この時の扇は、平家が厳島神社
 に奉納した「神扇」であったそうです。この扇を源氏が射損じたなら、
 平家に生き延びるチャンスがある。射貫かれたなら平家の明日はないと
 いう「占い」を込めた平家側の挑戦であったということであります。
  約七十メートルの距離から見事射貫いたのは偶然でなく、与一は小さ
 い時から、才能も有り弓の訓練を受けた天才であった。
  さらにその倍の距離の戦場の武将(宗清の血族)を義経の命で射貫いた
 のは、与一のトラウマになっただろうということであります。

 Bその時の与一の弓術は、「蟇目(ひきめ)の術」であった。蟇目という
 のは、矢の先につけた蟇目鏑(かぶら)のことで、木を挽いて削るので引
 目といい、その形が蟇蛙(ひきがえる)に似ているので蟇目と言われた。
 風切り音を発し、それによって魔性退散させるものであります。
  少し前、源頼政の時代にこの蟇目の術が使われ、鵺退治が行われまし
 た。神服部氏がこの蟇目の術を習得しておりました。

 ➃与一はこの後、法然上人に弟子入りしております。その一年前には、
 親鸞が弟子入りしており、二人は兄弟弟子でありました。
  与一は僧になって、後半生を源平将士の菩提の弔いに費やしたのだと
 思われます。享年六十四歳。
 
 那須という所、一度行ってみたくなりました(古代史の謎の探求も含め
て)――
  
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月16日 15時00分58秒 ) パスワード

またもや書き直し:

書き直し:


三つ柏さん

>さらにその倍の距離の戦場の武将(宗清の血族)を義経の命で射貫いたのは、与一のトラウマになっただろうということであります。

これについては  お送りしたコピーにも書いておきました。

この件は 平家物語の「弓流しの事」の章に書かれています。



家貞の10男? 伊賀家長の弟で50歳ほどの  十郎兵衛尉家員  という人物が
那須与一を褒め称えて舞ったのに

殿の(義経の)   ごじょう <御 言定 漢字が無い>  であるぞ  と伊勢三郎義盛に促された那須与一に射倒されています。


こういう章からも  源氏方は  人間性の美しさに欠ける東国の野蛮人  扱いされるわな  ということです。


当時の日本人には義経のメンタリティは許せない
他にも
当時は有り得ない  水主を=平家方の船の漕ぎ手を=射殺しているし。


平家物語は「滅びの美学」の最高傑作
つまり平家の公達の最期の美しさを描く名作だけど
それはつまり
源氏方は人とはとても言えない野蛮人
ということでもあります。


義経と頼朝の違いは
頼朝には戦略があったのに対して
義経には戦術はあった・・・だから平家には勝ったけど・・・それだけの人間で・・・結局は頼朝に滅ぼされることになった。


平家物語はものすごく「深い」です。


だから  伊勢三郎義盛  は嫌いです。

あの場面で伊勢三郎が義経に「そういう命令は恥です」と言ってれば
わたしは伊勢三郎を嫌いにはならなかったと思います。

    伊勢三郎にしてみれば  平家に対して何か含むところがあったんでしょう。
           わたしにとっての伊勢三郎とは山賊とか馬泥棒のイメージしか記憶に残ってない。
           だから  あんな伝言を那須与一にしたんだろうな  と思います。


平家物語は  源氏に対して  全て悪いことばかりを記録しているわけじゃないです。
木曽義仲の乳兄弟妹の今井とか巴御前のことなんか日本人は好きな話だと思います。
他にも熊谷とかね。


いくら殿からの命令とはいえ  自分を称賛してくれた  それも  老人を  射殺したのは   与一にとって寝醒めが悪かったでしょうね。
トラウマになったでしょうね。

    でも「組織」には  逆らえないしね。

         「組織」
         わたしも人には言えない経験があります。

         清少納言式に言うと「 宮仕えはツライよね 」です。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月16日 15時30分36秒 ) パスワード

2回も書き直してしまった。


最近日本語がボロボロで
さある副詞を使ったら結びをどうするんだっけ?
と迷うのが増え


書くより話す方はもっとメチャメチャで


それで近所の日系人会に今年から加入したものの
    明日新年会です

平均年齢が  85歳あたり


だからワタシの日本語よりずっとヒドイ日本語の世界です。


    元々が高知県人が基礎の会なので
    会の歌の1つが  ♪坂本龍馬が何とかで〜  大政奉還が何とかで〜♪
         の歌詞にビックリした。


ハワイって英語もヒドイけど        ピジンなんですよ
ハワイの日系人会は日本語もヒドイ。英語はもっとテキトーでヒドイ。


    ロス時代「今日は暑いな」というのを  「今日は暑いer」という比較級使用なのに   ビックリした


明日2回目の出席です。
まだ老婆達の日本語を聞いていないです。

先週は1回目だったから控え目に振舞って小さくなって片隅にいたので
皆さんの日本語を近くで聞くほどには聞いてなかった。


明日も乙女を演じようか考え中。  平均年齢85歳の世界じゃわたしは小娘です。


ところで最近またもやパワーを得ました。

   いつもは銀行からの取引書?をしっかりチェックしたりしないんだけど
       (先月こんなに遣った記憶はないんだけどね)
   と思いつつ

   結局はすっごく気になって3回もチェックすることになったら
   なんと!他人の支払いをワタシがしてたことを発見した。

      電話で抗議したら  電話じゃなくて  銀行まで出掛けて来い  って言われた。


          なんでコッチが行かなきゃいけない?怒
          とは思ったけどハッキリさせたかったから出掛けた。


で、たまにスッゴク気になって、よくよく調べたら他人にお金を使われてた  という事態があります。


虫の知らせ
というか

何か誰かが知らせてくれてるような気がします。


うちのマンションの場所は一番交通事故の多いところで
何度かオソロシイ目に遭うんだけど

これも何か誰かが知らせてくれてるような気がします。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月16日 22時35分34秒 ) パスワード

メールを頂きました。
以下コピペ:


1月1日のBSNHKプレミアムで「本能寺サミット2020」の2時間番組の中程で出て居ましたね。

今月19日の13時より再放送が有りますが、そちらでは見られるといいのですが?。

                見られないです(残念っ)



番組中では石川美咲氏(一乗谷博物館の学芸員)が光秀が朝倉家から医学の秘伝を伝えられていたことを指摘し、
光秀は朝倉家を介して足利将軍家など旧勢力との結びつきが強かったと主張している。



朝倉家の傷薬「セイソ散」が大河に出て来たら私を思い出してくださいなんて言って居ましたよ。

可愛い女性でしたよ。



朝倉家の傷薬「セイソ散」・・・
古文書「針薬方」にセイソ散越州朝倉家の薬(細川家の文書)
(永禄9年の足利義昭の出さずの手紙の裏に書かれた物)
本物で事柄も真実とのことです。
(超一級資料ですね)



「朝倉家から秘伝を伝授される身分だった」と言って居ましたね。
朝倉家では、ただの食客では無かった様だ。

光秀は若い頃から幕府や京都に接点が有った様だ。・・・昔からの血縁や幕臣関係での行動だったのではと言っていますね。


明智光秀は、
琵琶湖の北西岸寄りの田中城で永禄9年以前に籠城して居た(足利義昭の京都脱出のルートに当たるとか・・・。)。
刀傷の手当てもしていた。

医者と言うよりは医術の心得も持って居た。

すでに田中城時代では幅広く学問を修得した知識人で在ったと言うことらしいですね。


田中城で口伝を明智光秀より承けた人物が後の肥後熊本の細川家に文書を残して居たわけですね。

以上コピペでした。
感謝
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2020年01月17日 05時23分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 貴重な情報、ありがとうございました。
 学芸員の石川氏の講演を聞きたかった。
 テレビの番組も見落としていました――

 
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月19日 07時57分01秒 ) パスワード

石川美咲さんの再放送は本日1時からのようですね。
静岡でも見られるでしょうか?



さて木曜に総領事から聞いたお話を   こちらにもコピペ:


総領事のハナシの1つの
厚生労働大臣が来布した理由は日米遺骨収集の件だった?


日米の遺骨収集の違いのお話があった。


アメリカは独立戦争以来最後の一兵まで遺骨を持ち帰り遺族に渡すって。

    どこやらの国では荼毘に付すから、お国に着いた時には何の骨か正体不明になってる
    って



アメリカ側には  その「お国」のやり方  がさっぱり理解出来ない


例えば
歯だけでもいろいろな情報がある

前歯1枚で白人か非白人か分かる
親知らずからでもいろいろな情報が得られる  
    例えば  何を食べていた人か  
    どこの水を飲んでた人か   

         だから  どの州のどの水源かで  その兵士の出身地が特定出来るんだ


その他にも
歯の治療痕から特定できるし


などなどアメリカは独立戦争以来本人確定を科学的にやって来た


だから
フィリピンから騙されたり
北朝鮮から騙されたり
ロシアから騙されたりなんて
ア リ エ ナ イ

そういうハナシを聞いた。



更に  
後になって行われた遺骨収集で見つかった小さな小さな骨片を鑑定して
その人の他の部位が無名戦士の墓にあるのが分かれば掘り返してDNA検査をして
マッチすれば一緒に埋葬し直す
って


聞いてて泣けた。



某国では遺骨収集に遺族を帯同するけど
アメリカはしない

あまりにもエモい作業だから遺族は感情的になるし


だけど
某国の算段では
遺族を帯同すれば人手が助かる?
そういう計算?



とにかくいろいろ聞いた。

わたしは理数系はLDだし
もともと科学する子じゃないし
総領事が説明する理系単語がアタマの上で飛び交うだけで
さっぱり分からなかった。


         同位体がどーたらで

         同じ元素であれば陽子数は同じだけど
         同じ元素でも中性子の数が異なる原子がどーたらだから

             それで親知らずの根元の膨らんだ所のコラーゲンから
             何を食べてきた人か  どこの水源の水を飲んでた人か分かるんだ

         そうなの?
         わたしにはチンプンカンプンだった。
         
         



そうだね
日本は  無名戦士は  ♪水漬く屍  苔むす屍♪  だもんね


「現地で荼毘に付した」

遺族に対して「手厚い礼儀」をしましたよ
だもんね。


実態は   遺族には   そこら辺の草  じゃなかった  石ころでも  やっとけ
だもんね。    


アメリカは独立戦争以来  つまり18世紀から  遺骨どころか遺体を収容して遺族に渡して来たのか


死して屍拾う者無し
の世界とは  
200年以上の開きがあるのか
それもアメリカは科学的にやって来た
と。


そういうノウハウを持った国に厚生労働大臣が近い将来始まる太平洋戦争の激戦が行われた島での共同遺骨収集を前に勉強に来たようでした。



他にも河野洋平じゃなかった太郎のこととか聞いた。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月20日 03時29分55秒 ) パスワード

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69838

『麒麟がくる』を100倍楽しむ!明智光秀めぐる不穏な「謎」の数々
父親、出生地、斎藤道三との関係…


by 島崎 晋 歴史作家


初回放送まで6時間半あります。
そうか  浪人時代から始まるのか。

これで父親の名前と出生地をスルーするのか。
珍しいよね、だいたい子役から始まるのに。


次に頂いたメールを載せます。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月20日 04時11分49秒 ) パスワード

友人よりメールをいただきました。
コピペの部分やワタクシの編集もあります。


以下コピペ

1.
明智光秀の「妹」が織田信長の側室だったと言うのがTVで、再現ドラマ仕立てでやって居ました。

           *娘では無かった様な・・・妹だったと記憶・・・

足利義昭を織田信長に引き合わせるのに、「織田信長にいささかのつてが有る」ってやって居ました。


また、信長の動向や考えを明智光秀に知らせて居たと言う話も再現ドラマとしてありました。



どうも、真実ぽいようです。光秀もこの情報がとても役だっていたとの事でした。


2.
上手くまとめられないのでコピペです。

他のTVでの放送で再現ドラマを挿入していたのがNHKのと違っていました。
テレビ東京「これが日本の新常識!なぜ、あの歴史は消えたのか?」かも、です。

同じ一乗谷の学芸委員の彼女もでていたはずなのですが録画をしていないし見る機会もなさそうです。



下記に上げた内容がほぼ出そろって居たような気がします。



光秀は明智城陥落以後は学問修業で旧幕府関係者の所へ出入りしていたのでしょうね。

永禄9年頃には、足利義昭の近侍の足軽衆に属して居た事が分かるようです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・

田中城の筋は、後に、三河岡崎城城主や筑後柳川城の城主など勤めていますね・・・なにやら徳川家とのつながりも見え隠れしていますよ。

田中氏も同族の高島氏、朽木氏と同様に、代々、非常に将軍家に忠誠厚い家柄。


写本を細川家に残した「米田氏」は細川家の親戚で家老1万5000石と「長岡氏」文書を書いた沼田勘解由左衛門清延で兄で義輝に仕えた光長は、細川藤孝の妻である麝香(じゃこう)の父。
                びっくり
将軍足利義輝や義昭に使えた若狭衆の沼田氏でした。


*明智憲三郎氏らの指摘されて痛そうです。永禄9年の田中城の出来事で元亀年間の事では無いっと。

     要するに、浅井長政が攻め寄せて足利義昭側の土地を攻めていた時点の出来事との事。



::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


光秀と田中城 米田文書 https://akechi1582.com/143/   

【田中城】

所在地: 〒520-1217 滋賀県高島市安曇川町田中
田中郷の領主・田中氏(近江源氏)の居城。
「上寺城」・「上ノ城」の別称があります。

<遺構>

曲輪跡、土塁、堀跡、土橋。
ほぼ完全な形で保存されています。
遺構を見学しやすいように整備されています。

「田中城」の「看板」から見学ルートの案内板があります。



<構造>

天主台があったと推定される曲輪の標高は2220m、
地との比高差はわずか60m程で
同時期の山城と比べて標高の低い場所に位置しています。

しかし、城域の要所に堀切、土塁、武者隠しなど外敵を防ぐための遺構が見られ、
相当の規模であったことが遺構から推測されます。

曲輪が土塁に沿ってきちんと配置されており、
方位を確認しないで歩き回ると、
方向感覚が分からなくなってしまう程、だそうです。

なので、登城される際には、
方向や、散策・登城してきたルートの確認や
方位磁石などを携帯されると良いかと思われます。


<区分>

中世山城跡

元亀元年(1570年)4月、

織田信長は越前の朝倉義景を討つため
「田中の城」に逗留したと「信長公記」に記されています。

浅井長政の勢力下に置かれた田中城は
元亀4年(1573年)に信長の手によって攻略され、
其の後明智光秀の支配を受けて終焉を迎えます。

また、光秀が語ったとされる文書(米田文書)の内容に
「高嶋田中籠城之時」がありますが、この城のことということです。

この城の位置は湖西から越前方面へ向かう交通の要衝です。


光秀は後の元亀2年(1571年)に滋賀郡に領地を与えられています。




<米田文書>

「米田文書」(個人蔵)に含まれる『針薬方』が現在においては、光秀の史料上の初見とのことです。

その中に、光秀自身が「高嶋田中籠城之時」に語った内容を含んでいます。

永禄9年(1566年)10月20日に
テレビ東京「これが日本の新常識!なぜ、あの歴史は消えたのか?」とのことです。
医術の心得が記されているとの事です。

また朝倉家の塗り薬の記述が見られるとの事です。



【米田求政】

米田求政(こめだもとまさ)は、

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
室町幕府13代将軍・足利義輝に仕えていました。
永禄8年(1565年)の永禄の変で義輝が三好三人衆などに殺害されると、
三人衆や松永久秀によって興福寺に幽閉されていた将軍の弟・覚慶(後の15代将軍・足利義昭)を細川藤孝、三淵藤英、和田惟政、一色藤長、仁木義政らと共に救出しました。

永禄12年(1569年)からは細川藤孝に仕えています。

元亀元年(1570年)11月23日には
求政の主催で藤孝、里村紹巴らと連歌百韻を催しました。

元亀2年(1571年)には山城国勝竜寺城の普請を務めます。



<子孫>

子孫は熊本藩上卿三家の家老二座として
1万5000石と長岡姓を与えられ、明治維新後には男爵となったそうです。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::



https://hajimete-sangokushi.com/2019/01/08/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80%E5%88%9D%E9%99%A3/    

信長に仕える以前の光秀の足跡を記したものとして米田文書こめだぶんしょが注目を集めています。


これは、熊本藩次席家老、米田家に代々伝わる文書で現在は熊本大学付属図書館の所蔵品になっています。

この米田文書に含まれる針薬方しんやくほうの奥付おくつきに以下の記述が存在するのです。

"右一部、明智十兵衛尉あけちじゅうべえじょう高嶋田中たかしまたなか籠城ろうじょう之時口伝くでん"

しっかりと明智十兵衛の名前と光秀が高嶋田中城に籠城していたと書かれています。

内容は光秀に医学の心得があり、それを聞き書きしたものだそうです。


光秀が医学に通じていたというのは、あまり聞きませんが、後に医師である施薬院全宗せやくいんぜんそうとも、そうとう密に交流する事から、有り得ない事ではないようです。



米田文書は信用できるのか?

もちろん、いかに古い記録でも、思い違いや嘘や誇張、伝聞による情報変質など光秀の名前が出るから、即、真事実とはいえません。



その意味で米田文書は信用できるのでしょうか?

その点は信用できると考えられています。

というのも、熊本藩は光秀の娘婿、細川忠興の藩であり、忠興の父の藤孝と光秀は若い頃から行動を共にした間柄だからです。

そして、この米田文書、針薬方を記述したのは、米田貞能こめださだかずと言い、足利義昭あしかがよしあきの将軍就任翌年、永禄十二年(1569年)から細川藤孝の部下になり義昭の追放後は、そのまま藤孝に仕え代々の家老職、細川家米田氏初代になった人です。

どこの誰とも分からない、いつの時代か分からない人が書いたのではなく、光秀と同時代に、光秀と近しい関係にあった細川藤孝の重臣が書き記したわけで信憑性は高いと言えるでしょう。



文書を書いた沼田勘解由左衛門清延とは?

この米田文書、針薬方の記述は沼田勘解由左衛門ぬまたかげゆざえもんという人が、明智光秀から聞き取って文書にしていたものを永禄九年(1566年)十月二十日、米田貞能がさらに近江坂本で筆写したとされています。


ここで疑惑が生じてきます、では、沼田勘解由左衛門とは何者なのか?

明智光秀にかこつけて嘘を喋ったのではないか?という疑惑です。

しかし、この沼田勘解由左衛門もしっかりした履歴の持ち主で、若狭三方郡熊川城主くまかわじょうしゅの沼田光兼ぬまたみつかねの四男で父と共に足利義昭に仕えています。

永禄六年諸役人附にも、父と共に名前が出てくるようです。そればかりでなく、兄の沼田光長ぬまたみつながも足利義輝の外様詰衆とざまつめしゅうとして仕えていて
公家である中院通勝なかのいんみちかつの日記、継芥記にも「若州奉公衆 沼田弥太郎」として登場する人物です。

そして、勘解由左衛門の兄で義輝に仕えた光長は、細川藤孝の妻である麝香じゃこうの父であり、勘解由左衛門もこの縁で藤孝の家臣になっています。 

こうしてみると沼田勘解由左衛門は、どこの馬の骨という人ではなく足利将軍家とも深い縁があり、細川藤孝とも繋がり
藤孝の重臣である米田貞能とも会話を交わせる立場にあったと言えるでしょう。

もちろん、義昭に仕えていた奉公衆の光秀とも面識がある可能性は高く米田文書の信憑性は高いと考えられます。



田中城籠城の経緯

田中城は現在の滋賀県高島市安曇川町あどがわまちの地名で、比良山系の泰山寺の台地から南東に突き出た丘の先に田中城があります。

ここは、当時の近江の戦国大名、六角義賢ろっかくよしかたの支配下にありましたが、近江で勢力を伸ばしていた浅井氏の圧迫を受けていました。

この城は本城である南市城の詰城でした。

詰城というのは、いざという時に平城では守り切れない時に立て籠もる城で最期の拠点というような意味合いの場所です。

例えば、武田信玄の居城である躑躅つつじヶ崎館は普段の居城で、ここで守り切れない時は背後の要害山城に詰めていました。

田中城の本城である南市城は、田中江と共に安曇川の舟運により琵琶湖の水上流通と繋がる陸上の重要拠点でした。

永禄八年以前の時点では、六角氏とその隣の若狭武田氏は将軍足利義輝の大事な後援者であり財政基盤でもありました。

また田中城の城主の田中氏も同族の高島氏、朽木氏と同様に、代々、非常に将軍家に忠誠厚い家柄でした。

なので田中城を浅井氏に落とされると、将軍家は支持者も財政基盤も若狭武田氏への避難経路も抑えられるというまずい事になったのです。

そこで、将軍家は田中城落城を座視できず、奉公衆を派遣して籠城させ、その中に足軽衆という身分で光秀もいたという事でした。

また、沼田勘解由左衛門の出身である熊川城は、田中城に近く勘解由左衛門は救援に赴いた可能性が高そうです。


つまり、勘解由左衛門は田中城籠城時に直接に光秀から医学についての話を聞かされて居たのかも知れません。

それが為になる話だったからこそ、文書に残していたのでしょう。



この田中城は1573年に織田信長によって攻略され、後に明智光秀に与えられその後、廃城となる運命を迎えました。

城主であった田中氏からは田中吉政が出て、豊臣秀吉、後に徳川家康に仕え、関ケ原の合戦にも参加、
三河岡崎城城主や筑後柳川城の城主などになり、城下町の建設と整備に才能を発揮しています。

田中籠城の時、光秀は1540年誕生説をとると、26歳の青年武将になり、かなり初陣に近い時期の合戦だったのではないかと思います。


*「永禄9年(1566)といえば、明智光秀の年齢は39歳(享年55歳説)か51歳(享年67歳説)。既に壮年、もしくは老年に差し掛かった年」



永禄9年(1566)ごろ、田中城を含む高嶋郡一帯がどんな状況下にあったかというと、ここに興味深い史料があります。

—高嶋之儀、饗庭三坊之城下迄令放火、敵城三ケ所落去候て今日令帰陣候…(『細川家文書』より)

高嶋のこと、饗庭三坊(西林坊・定林坊・宝光坊)の城下を放火し、敵の3城を落として今日帰陣しました…



これは明智光秀が曽我助乗に宛てた書状で、五月十九日付。年号が付されておらず、従来の研究では「元亀3年(1572)」と比定されていました。

が、『光秀の遺言』(河出書房新社刊)などで明智憲三郎氏らの指摘する通り、この年代比定は明らかな誤りです。



根拠のひとつは曽我助乗という宛先で、この人は足利義昭の側近。つまり光秀は足利義昭の家臣として、その側近に宛てる形で報告している書状なのです。


が、光秀は元亀2年(1571)に足利義昭のもとを離れて織田家に仕えていますから、元亀3年の時点でこの形式はちょっと考えにくい。



また、浅井長政が発給した永禄九年四月十八日付の書状(『来迎寺文書』)によって、永禄9年の時点で饗庭三坊が浅井方に味方していたことがわかりますから、その相関関係を推し量るべきでありましょう。



ここで冒頭の『米田家文書』も振り返って、諸史料から見えてくる情景を整理してみます。

永禄9年(1566)。

高嶋郡を侵食すべく手を伸ばしてきた湖北の雄・浅井長政を前に、「高嶋七党」と呼ばれた豪族たちの対応は分かれました。



優勢な浅井方に付いて生き残りを図る者がある一方、足利将軍家と縁の深い朽木谷の朽木氏や、田中城の田中氏はこれに抵抗したようです。

「このとき田中城に入った明智十兵衛こと光秀は、おそらくは幕府方から援軍として派遣された兵の一人。」



光秀はこの時点ですでに博識の侍で、同じ籠城戦を戦った同僚の米田貞能は、彼から教えられた何らかの医学知識を書き留めていました。

また、彼らは時に出撃して浅井方の陣を陥れる手柄も挙げたようです。

織田家に仕官する5年前、若き明智光秀の姿です。


ここからあぶり出される光秀の姿には、少なくとも「全国各地を武者修行していた」「越前朝倉家に仕えていた」といった通説の経歴は見えません。

彼はおそらく若いころから室町幕府に仕えた幕臣で、さほど高い身分ではないながら、文武に慣れた有能な人物として認められてはいたのでしょう。

以上コピペ



光秀という人物、ますます謎に満ちてきた。


斎藤道三も油売りから、その才覚で、一代で成り上がったハナシがドラマで採用されて定着してきたけど
そうでもない話もあったりして

      脚色する方がドラマがますます盛り上がるからね

真実とまでは求めないけど事実は知りたい。



光秀は自分の父親の名前を書き残したりしてないのかな?
それとも当時の性風俗として男女間は緩かったのかな?そういう立場の人間が一躍日本史に名を決定的に残してしまっただけなのかな?

     身分の高い家でも日本は父親母親が曖昧だしね
     現代の戸籍制度でも100%記録が真実やら完璧やらじゃないもんね


        わたしの母方祖父ちゃんでも某市の戸籍だけ名前が間違ってタイプされてるけど
        市側のタイポなのに
        変更には面倒な申請手続きが要るもんね

        他の市の戸籍はちゃんと入力されてるんだけどね   大阪と名古屋はちゃんと仕事してる


生物的父親母親   家名的な父親母親   ここに更に  社会的歴史的政治的圧力も加わって  
      記録を持ってても表に出せないこともあるわけで
      学会で紛糾して大騒ぎになるしね
人為的にわざとワケ分からないことにされてる人なのかな?


まだ、後、100年は眠らせておくべき史料があるのかもね。
と想像してロマンが広がる。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月20日 14時15分56秒 ) パスワード

「麒麟がくる」第一話を見ました。

展開が早くて脚本は良いと思いました。
でも演出はサイテーでした。

     色が鮮やかというハナシは知ってたけど
     安っぽかった。

     火事のシーンではCG多用過ぎて
     バカっぽかった。


     相対的に作り物っぽくて
     ガッカリだった。


俳優のセリフが下手過ぎた。

特に西村ナントカのセリフが聞き取れなかった。
モッくん、帰蝶のこと、   嫁に行った身   みたいな事  言ってませんでした?

     織田との戦いが始まるのを帰蝶が心配して稲葉山城に戻って来たシーンで。


ところどころ意味不明でした。


でも  主要登場人物が次々に出て来て  楽しみです。 


伊藤英明って  顔はいいけど  MM事件で  このヒトかなりアホ  って思って以来  斎藤道三の息子役=アタマ悪い  にピッタリって思いました。

    MMって  マジックマッシュルーム  のことです。
    


マジックマッシュルーム

トリプタミン系アルカロイドのシロシビンやシロシンを含んだ、菌類のキノコの俗称。
種は200以上存在し、世界中に広く自生している。
毒キノコだが、主に幻覚作用であり重症や死亡はまずない。    
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月20日 22時20分26秒 ) パスワード

メールを頂いたのでコピペ:


下記のHPから抜き書きです。


信長の正室の濃姫(帰蝶)も光秀の妹(義妹?)もです。
いずれにしても、明智一統がらみの人物ですね。


明智光秀の自画像の復元された顔立ちは美男子でしたね。
美形の一族だったことが分かりましたよ





【歴史の転換点から】信長をめぐる女たち(1)あの「帰蝶」も登場 側室「3千人」?

https://news.livedoor.com/article/detail/17681774/  



明智家の館

https://akechi1582.com/2962/   

麒麟がくる・明智光秀の一族や明智家臣・織田家などの武将・城郭などの情報



江戸時代初期の成立で、「帰蝶」の名前が初めて登場する史料として知られる『美濃国諸旧記』の記述

      明智光継は光秀の祖父にあたり、「明智光秀は(帰蝶の)従弟なるがゆえに、その余情あるところなり」

と記されている。


後半部の「余情」は「よせい」と読み、「光秀は帰蝶のおかげで信長のもとで出世した」の意だろうか。
ともあれ、司馬が『国盗り物語』で描いた人間関係の原型がここに垣間見える。




明智光秀もしくは
その正室である妻木煕子の近親者として、
織田信長に近い位置にあった女性が
天正年間に活動していた。


「戒和上昔今禄」、
天正4年(1576)6月28日の条に
「惟任妹ツマ木殿ヲ以テ被仰出」
とあります。


「戒和上昔今禄」は、
奈良の興福寺の僧が記した、
奈良の興福寺と東大寺との
間の争いに関する裁判の記録とのことです。


「惟任」は明智光秀のことを指しています。
「惟任日向守光秀」といいます。


この時、惟任の妹であるツマ木が
織田信長の使者として奈良へ出向き、
興福寺と東大寺の調停役を務めたこと
が書いてあるそうです。

「お妻木」の仲介によって話がまとまると、
兄である明智光秀が実務にあたっています。


これは織田信長の記録の中で、
唯一の女性使者の記録でもある



「言経卿記」とは
公家の山科言経(やましなときつね)日記です。

天正7年(1579)5月2日の条に、
京都に来た織田信長の所へ、
山科言経が御機嫌伺いに行きました。

織田信長は、顔面に腫れ物が出来ていたため、
面会は出来ませんでした。

そこで女房衆であるツマキ等に
会って贈り物をしたとのことです。

「ツマキ」が
織田信長の女房衆であることが
確認出来る史料であると


「兼見卿記」とは、
吉田神社の神主である吉田兼見の日記です。

天正7年9月25日条には、
「惟任姉妻木在京之間罷向、
双瓶・食籠持参、他行也、渡女房館皈」
と記されているのが確認できている



「多聞院日記」とは、
興福寺多聞院の僧の日記のことです。

天正9年(1581年)8月20日の条で、
「去七日八日ノ比欺、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了、信長一段ノキヨシ也、向州無比類力落也」
と記されているそうです。



【お妻木と信長】

「お妻木」は織田信長の唯一の記録に残っている女性使者である。
[31]三つ柏服部さんからのコメント(2020年01月21日 00時05分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『麒麟がくる』はについての感想は、あを様とほぼ同じでありました。
 まず第一に、俳優の基本的な発声・発音が悪いのが気になりました(但し、
松永久秀役の発音はさすがだと思いました)。

緑が鮮やか過ぎだと感じました。緑は「仁」を表すオーラということが
その表現の背景にあるのだと思いますが、余りにも人工的過ぎて違和感を
感じました。
 
 いずれにしても、内容次第ですが、余り期待し過ぎても裏切られますの
で、しばらくは様子見としたいと思います。

 私は、明智光秀と服部党との関係の秘密・謎を解明したいと挑んでおり
ます。何で光秀の妻の一人が「服部保章(名張城主、出羽守)」なのか。ど
ういう関係・経緯で一緒になったのか……「徳川家康と服部正尚との関係」
は、「明智光秀と服部保章との関係」と似ており、そこには上下関係とい
うよりも、服部一族の諜報力・ネットワークを大いに活かしたいという期
待があったのではないか……と推察いたします。
 逆に服部党からしてみれば、将来期待される権力の中枢に血として入り
込みたいという"陰謀"じみたものがあったのかも知れません。
 深い歴史の奥底の謎、それが知りたいのです――
 
 
[32]三つ柏服部さんからのコメント(2020年01月21日 08時54分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 正尚の娘も保章の娘も、ある意味「くノ一」であったのかも知れない。つま
り武将(将来の将軍)の至近距離にある側近(室)として、その警護と諜報の集積
端末として最高の役割を果たしたのではないか。この仮説は、意外と可能性が
あるかも知れない……本当のことは、誰にもわからないように工作されている。

 ただ、服部党の陰謀などというよりも、それらのベクトルを操るもっと大き
な、大局的な秘密組織があるようにも思われる。もちろん秘密組織、影の組織
に徹していて誰にも分らない。家康も光秀も自発的行動のようには見えるが、
その裏に、そのベクトルが働いていたのかも知れない。ベクトルを動かすのは
影の組織。その組織とは……正史、表には出てこないのが鉄則。

 それは、ひょっとして「勘解由小路党」や「八咫烏」と呼ばれる組織なのか
も知れないが、トンデモ説になってしまうかも知れないので、ここで止めてお
きます。
 いずれにしても、修験道・陰陽道について、そのド深い闇に光を投射してみ
なければなりません――
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月21日 11時18分14秒 ) パスワード

三つ柏さん

勘解由小路家(賀茂家)

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=327252
https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/1067520/blogkey/1855645/


甲賀とか伊賀の「賀」は賀茂氏の「賀」というハナシ
これはビックリでした。

これは知らなかった。
[34]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年01月22日 16時35分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日午後3時頃、air-mail届きました。ありがとうございました。
 とてもよく整理されていて、わかりやすいです。
 服部正尚のところが、特に知りたかったので、嬉しいです。
 よく読んで頭にインプットしたいと思います−−
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月22日 22時16分39秒 ) パスワード

三つ柏さん

ご報告、感謝です。
やっと届きましたか。

12月とか1月とかは休日が多くて時間がかかりますね。


もう1回書き直すと、より分かり易くなると思います。
ソコは三つ柏さんがご自分の手でお書きになると分かり易くアタマに入ると思います。


わたしは  配分というか計画性が無い人間なので   ダメだなと思います。
自分では   ちゃんと  書かなきゃ  と思いつつ  最初は小さく纏まった字で書いていくつもりではいるのですが
だんだん  奔放になってしまい  収拾がつかなくなってしまいます。赤面

    たぶん理系人間じゃないから
    我が家の一族の人間の中でわたし1人「纏まらない思考」が現れているようです。



服部正尚の部分は三つ柏さんとの対話からアソコまで整理出来ました。



そして正尚の家が将軍家に仕えていくのにもヒッソリコッソリというのがやっぱり(影の軍団)としてなのかなと想像しています。


表立って支える
影でヒッソリ支える   コッチは書かれない記録されない   こういう日陰の生き方に徹するって  ワタシ  じゃないな。
[36]三つ柏服部さんからのコメント(2020年01月25日 08時44分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 徳川秀忠の義父なのに、服部正尚について書かれたものは、余り多くはあり
ません。これはなぜなのか……不思議であります。秀忠の義父といえば、即ち
秀忠の子「和子」と後水尾天皇の子「明正天皇」の義理の祖父でもあります。
 正尚のお墓は一体どこにあるのでしょう?

 私の手元に、掛川市が市政10周年記念と家康没後400年を記念して発行
した『考証 西郷局 郷土出身の偉人を顕彰して』の写しがあります。この中
に、服部正尚についての情報が含まれておりますので、次回にそれを整理して
記してみたいと思います――
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月25日 10時23分59秒 ) パスワード

三つ柏さん

> 正尚のお墓は一体どこにあるのでしょう?

1520巻あるとされる寛政重修諸家譜 巻18 379頁  あたりに  蓑笠之助 服部平太夫正尚 や子孫の 正高 が出てると思います。

出てれば  家紋やお墓についても書かれていると思います。


将軍家に仕えた
隠居した
弟を将軍家の近習にした   つまり  青山成重のことと思います  (父:服部正信、母:青山忠教の娘)


で、子孫は幕臣でも  後に  大久保長安事件があって=大久保成国を養子にしていたことから=一族がグチャグチャになって士分を召し上げられ
 蓑姓を   宝生座巳野姓に変えたり 
後に 子孫が 武士に戻って  蓑姓に戻したりして  この戻れたヒトは芝・増上寺に葬られたとあるから


     可能性としては  ご先祖さまである正尚も芝・増上寺にお墓があるかも。



お愛の方=西郷局=宝台院さま=38歳で亡くなった
ということで
静岡市葵区常磐町2-13-2の
宝台院が菩提寺です。

    彼女は一説には正尚の娘とも言われているので  静岡にもパパとしてお墓があるかもですね


正尚の息子の惣右衛門は秀忠の同母弟の忠吉に仕えて尾張(当時はまだ清州だけど)に行ってるので
忠吉はお墓が3か所あるので  そちらにも  正尚の墓があるかもですね。

     芝の増上寺
     名古屋市千種区の性高院
     豊田市の隣松寺



なんせ正尚は家康の伊賀越えで自分の笠と蓑をお貸しした人物なのでアチコチの寺にお墓があっても不思議じゃないですからね。



NHKで時代考証をなさってる小和田先生は全巻  21巻だっけ?  寛政重修諸家譜を  お持ちです。

なので大きな図書館には全巻揃ってるかも。


そこで索引で服部氏を引いて正尚が読めると思います。
そこにお墓と家紋が書かれているはずです。
[38]三つ柏服部さんからのコメント(2020年01月26日 07時24分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さすがあを様です! 『寛政重修諸家譜十八巻』は主として服部党を調べ
るために、私も所有しております。調べてみると、確かにあを様の言われる
通り「蓑家」については、確かに379頁に載っておりました。私はあさは
かにも、これをずっと見落としていました! ありがとうございました!

 ただ、ここに載っているのは、服部正尚から数えて六代目(ちょっと何代
かは自信がない…)の蓑笠之助正高からで、なぜ五代目までを載せていな
いのかと不審には思います。たぶん、正尚四代目の政長が、大久保長安の縁
者(といっても、正尚の弟の青山成重家の方が断然濃い親戚である―つまり、
その娘が、長安の三男の妻となっている)という理由で連座して処分―采地
を没収され、その後赦免されたということであります。
 
 正高は芝増上寺の心光院に葬られ、そこを代々葬地とするとありました。
 家紋は「一階笠、車輪の内に矢筈二」とあります。

 正高は、「大岡越前守忠相」に仕えた代官ということで、長谷川平蔵もそ
うでしたが、忠相もいわゆる裏世界の「草」と関係をもっていたと推察いた
します。

 『寛政重修諸家譜』に書かれている「蓑家」の説明書きを、明智光秀と関
係しているので載せておきます――

 「蓑 もと服部たり。のち蓑と称し、また巳野にあらたむ。正高、宝生座
 猿楽のものより御家人にめし加えらるに及びて、蓑に復す。家伝に、その
 先服部平大夫正尚、東照宮に仕え奉り、天正十年六月、伊賀路を渡御の時
 嚮導し奉り、喜多村出羽守某が領地を過らせ給ふ。彼は明智光秀の外舅な
 れば、御不審におぼしめされ、正尚が出羽守と親族(伯父 筆者注)たるに
 より、御使を受け給わりて其許に至り、御味方すべきやのむね達するのと
 ころ、出羽守、守速に人数を具して迎え奉るといへども、其心底はかりが
 たければ、まず秘かに渡御あるべしとて、正尚蓑笠をとりたてまつりしか
 ば、浜松に帰御ののち、その忠節を賞せられ、上意もて蓑笠之助とめさる。
 これより四代連綿して笠之助政長に至り、慶長十八年大久保石見長安罪を
 かぶるの時、政長所縁あるにより、これに坐して御勘気を受け、采地をも
 おさめられ、のち赦免ありて猿楽の列となり、三大にして正高に至るとい
 ふ。」

 『改正三河後風土記』にも、明智光秀と服部家の関係について書かれた部
分がありますので、次回に記します。

 「最重要問題」は、「なぜ明智光秀と服部党の娘が結婚しているのか」と
いうことです! 柳生宗矩と松下之綱の娘が結婚したような関係なのでしょ
うか? 人間関係があって初めて結婚するに至るので、明智家と服部党は、
密接な関係を築いていたと推察されます! そして、家康と光秀の間の情報
伝達をしていた……と推察いたします。

 これから、明智光秀の"本丸"、可児市の明智城跡近辺を探索しに行ってま
いります――
 
 
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月26日 22時58分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


たくさんの情報をありがとうございました。
すごい話が記録されてたのですねぇ。

光秀と名張城主の関係の謎が深まりました!


>『寛政重修諸家譜十八巻』は主として服部党を調べるために、私も所有しております。

さすが!


でも失念していらっしゃった、ということは
メンタルブロックがかかってた、
ということですね。


我々は既に若い時の活発な脳の働きを失ってしまっているということですね。泣

     ということでわたくしは近所の日本人会に今年から加入しましたが
         平均年齢85歳*笑*の老婆達が中心ということで
         わたしよりグチャグチャで
              ヲイヲイ
                  
     数日前は   上智から  略  東大で学位を取得したという   78歳の女性がサロンの中心人物でしたが
     彼女もかなり記憶力が危うくなっていて

     彼女の話の中でロシア語の語尾変化の表現を忘れていたので  
     帰り間際に「ロシア語では格変化と言います。対格とか与格のこと」とメモを渡しました。
     他には1964年にフルシチョフがうちの親戚とド〜のということもメモにちょっと書いて渡しました。



三つ柏さんもワタクシも  お互い  本当に目の前にあっても  気付かない気付けない年齢に達してしまいました。

三つ柏さんの身近に服部氏一族関係のお仲間が出来ると良いですね。
そうすればシナプスの信号も元気回復になって   閃きが  ムカシの若者時代に戻れるかも。


あ、数日前に  日本の遺骨収集で「屑」骨について  もう  現地で荼毘には付さないように  という方向になっていく要請が出て来たそうです。



>明智光秀の"本丸"、可児市の明智城跡近辺を探索しに行ってまいります――

可児市の明智城は  叔父さまの光安の城なのか?  父上の城は別な処にあったのか?  やはり元々は光秀の父の城だったのか?  ですね。

そうすると  恵那の明智城(も)(が)やっぱり  本当は光秀の父上の城だった  説  否定できないですね。

母上が恵那の人だったかも、というのはわたしの中でかなりの確信になって来ました。


もしお時間が出来れば  恵那にもお運びを。
そしてご自分は、どう、お思いになるか  検討してみてください。


光秀と名張の服部出羽守の関係が見えると良いですね。
[40]A.AKECHIさんからのコメント(2020年01月27日 14時14分00秒 ) パスワード

三つ柏服部様
空の青海のあを様

>「最重要問題」は、「なぜ明智光秀と服部党の娘が結婚しているのか」と
いうことです!

勿論、強く³同意いたします。

その上で(?)、次のことにご留意いただきたいと思います。

>彼は明智光秀の外舅なれば、御不審におぼしめされ、

 と言うのは、「伊賀路を渡御」を決める直前に「知恩院に駆け込んで自刃する」と叫んだとされるのと同じく、(本心を隠して)芝居を打ったものではないでしょうか?
 「明智一族 三宅家の史料」に収載の「権現様より喜多村出羽守へ御書の写し」には、こう明記されています。

 「(前略) 先年伊賀越え仕り候節、一揆起こり道路取り塞ぎ、(中略) 難儀により、御介抱の儀貴様頼み入り候ところ、(中略) 御人数召し連れられ御出馬、(中略) 粉骨敵を追い崩し、比類無き御働き故、大事を遁れ帰国せしめ候事、(中略) 刀一腰、奥州育ちの八寸八分の黒の駿馬、並びに時服代金百両進ぜ入れ候、(後略) 」

 
また、「服部保章(名張城主、出羽守)」とされていますが、
名張城は、天正13年(1585年)松倉勝重(筒井定次の家臣)によって築かれ、1908年まで松倉勝重が城主を務め、その後1616年までは梅原武政(藤堂高虎の家臣)、1616年〜1636年は藤堂高清(藤堂高虎の異母弟)、1636年からは藤堂高吉(丹羽長秀三男、家紋が何故か桔梗紋の名張藤堂家祖)が城主を務めていて、服部出羽守が城主になったことはありません。

[41]A.AKECHIさんからのコメント(2020年01月27日 14時18分39秒 ) パスワード



済みません。
年号の数字が誤っていました。

(正) 1608年 ← (誤) 1908年、
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月27日 16時20分36秒 ) パスワード

A.AKECHIさん

ここ数年に亘るわたくしと三つ柏さんのやりとり上のことですので
A.AKECHIさんの御認識とは時代背景がかなりズレているように思いますので
ちょっとソコのところを書きますね。


      マウンティングするみたいでイヤなので
      A.AKECHIさんのご指摘はスルーしたいのですが
      わたくしからコソッとメモを渡したような感じで受け取ってくださいね。


>名張城は、天正13年(1585年)松倉勝重(筒井定次の家臣)によって築かれ

レスに書いた「名張城主」の件は   天正10年6月13日=1582年7月2日 以前のことです。

ですから    A.AKECHIさんの論点とは   数年のズレがあります。


その数年のズレ  つまり天正10年〜天正13年までの3年間に   
秀吉が光秀を討ち  更に  秀吉は柴田勝家を討って  織田信孝をも自害させています。 
       勝家って名古屋東部の人とは知ってたけど  
       ポイント的には上社の子で
       先日我が家にPCを直しに来てくれたヒトの名古屋のお住まいのある所です。
       もっと平家の話や信長の話をすれば良かったと後悔  > 三つ柏さん


天正12年には小牧長久手の戦いもありましたね。



なので天正10年の本能寺の変までは服部保章が名張でメンチ切ってた、ということです。


     光秀と懇意であった服部保章が光秀を秀吉に討たれた後
     どのような数奇な運命を辿ったか
     哀し過ぎて  とても  ココ  平熱には書けていません。

             わたくしの心の中でも  無かったことにしたいのです。


                  この服部保章の落魄した件は
                  明智一族および明智方がどのような目に遭ったか
                  A.AKECHIさんならお分かりでしょう。                  
      

「服部保章  名張城主」の件は
三重県桑名郡七取村字西福永184
服部喜四郎氏
の「服部一族」にも書かれています。

     桑名の方なので服部石見守半蔵正就の直系かも知れないです。
     服部石見守半蔵正就の正室は家康の同母弟である松平定勝(久松松平氏)の長女  松尾  です。


     コピペ:
     服部石見守半蔵正就は父である服部正成の病死により、
     21歳の時、服部家の家督および服部半蔵の名と御先手鉄砲頭、与力7騎・伊賀同心200人の支配を引継いだ。

     正室の松尾は、自身の祖母であり伯父家康の母である於大の方に侍女として仕えていた。
     松尾の父は家康の異父弟の松平定勝であったので、
     縁組が決まると松尾は家康の養女とされた。

     松尾との婚姻後、於大の方への返礼のため登城した正就は、家康より秋廣の刀を賜っている。


ということで三重県桑名郡七取村字西福永184の服部喜四郎氏の纏めた「服部一族」の中にも
服部保章は名張城主
と書かれているのです。



また  この服部喜四郎氏の纏めた「服部一族」の中には  
徳川秀忠と松平忠吉兄弟の生母であるお愛の方さま=西郷局は  
実父が服部正尚で  西郷清貞の養女  と書かれています。

で、服部正尚は観世と同祖   と書かれています。



などなど   わたくしもいろいろ調べて  足掛け40年です   ま、  このあたりは平熱に書いていいかな?と思って書いて来ました。


こうやって  わたしのハナシは長いから  嫌われるんだろうな
当人的には   あんまりマウンティングは好まないけど  やっちゃうんだよね

ということで   A.AKECHIさん  ごめんなさいね。


ホントはもっといろいろエンエン書きたいんだけどね。
だから嫌われるってコト  はい  分かっています。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月27日 16時24分32秒 ) パスワード

>「最重要問題」は、「なぜ明智光秀と服部党の娘が結婚しているのか」ということです!


実はお愛さま=西郷局さま=の母上は  源姓土岐氏流三河西郷氏  説もあるのです。

ここに服部正尚がからむし   家康もからむし  服部保章もからむ   から?
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月27日 16時49分47秒 ) パスワード

上記のレス
書きたいことがたくさんあって  補足を書くと余計にヤヤコシくなるだろうしね
不完全燃焼中。



三つ柏さん

「麒麟がくる」の第2話を見ました。

なんと始まったら  リブーティングが始まって
それで慌ててオットのテレビをつけに行ったのですが
オットのテレビはいろいろメンド臭い仕様で・・・音が・・・・

    一応  音は出てるのですが
    うちのオットはいろいろやるのが大好きで
    滑舌の悪い俳優の言ってることは全く聞き取れなかったです。


今回のストーリーは第1回目よりずっと良かったです。


やっぱり帰蝶さんは出戻り嫁だったんですねぇ。
第1話で   実家を心配して里帰り強硬?  にビックリしましたが

夫君は土岐頼純でしたか。


演出も凄かったですね
毒殺シーン!


道三が茶杓で粉を茶碗に入れてた時、  あれ、青酸カリ?  とビックリしました。
青い色のパウダーだったので  え?  青酸カリ?  青酸カリって本当に青色だったの?
とビックリしました。

    白だと思ってたので
    それで青だから  青酸カリ?
    

その後、抹茶色になって、お茶のお点前が完了して
    ほ〜
    こうやって毒殺するのか
とビックリしました。




信秀の陣の中にいた「白」帽子の人が熱田神宮の千秋氏なのかな?
とボンヤリ見てました。

             烏帽子じゃ「黒い」帽子ですもんね
             笑


熱田神宮は信長の桶狭間の戦いで重要な場所ですから
この「麒麟がくる」は物凄く詳しく丁寧に些細なシーンも演出をちゃんとやってるんだな
と感心しました。        
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月27日 17時40分40秒 ) パスワード

消えた!
瞬殺された!

簡単に書く。



https://japan.fandom.com/ja/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E6%B0%8F_ (%E4%B8%89%E6%B2%B3%E5%9B%BD)


西郷氏 (三河国)

西郷氏(さいごうし)

三河国の氏族で三河西郷氏とも呼ばれる。
約2系統が存在する。
本貫は三河国八名郡西郷村[1]である。


1.西郷氏 (碓井氏) :

碓井姓鎌倉氏流相模長江氏一門の美濃長屋氏の庶家。
西郷稠頼(つぐより/ちかより、清海入道)[2]を祖とする。

父の盛頼の代から足利氏(下野源氏)一門で三河国守護の仁木氏の家老として三河国守護代をつとめ、三河国額田郡岡崎郷[3]にある岡崎城(龍燈山城)を拠点としていたが、奥三河から進出した三河松平氏(徳川氏/三河源氏)の当主の松平信光に撃破されて、子の頼嗣とともに降伏した。

稠頼は岡崎城を信光に明け渡して、南方の郊外にある三河国額田郡山中郷[4]の山中城に移転した。

なお、稠頼の娘は大草松平家の祖の松平光重(信光の子)に嫁いだ。

稠頼の孫の清孝[5](近宗とも、頼嗣の子)の代に、叛いて松平清康(信光の玄孫)の総攻撃を受けて、兄弟の昌安[6]ととともに清康に降伏した。

以降は三河松平氏に恭順を示した。

通字は「頼」「昌」「近」で、
江戸時代には清康の系統である保科松平家(会津松平家)の家老として仕えて、幕末に西郷頼母(近徳)が出た。

同族に庶家に板取氏・大畑氏[7]・尾張森氏[8]・近江黒田氏[9]があった。





2.西郷氏 (源氏) :    お愛さまはコッチの西郷なんだね

信濃平賀氏(信濃源氏)一門の大内維時[10]の子の信治[11]が上記の碓井姓西郷氏の当主の西郷忠昌[12]の婿養子となった家系で源姓西郷氏(三河源氏)とも呼ばれ、
碓井姓西郷氏とは別系統として存在した。

                        へぇ〜

通字は「正」「勝」「員」で、

信治の後裔にあたる於愛の方(西郷局/竜泉院/宝台院)[13]は徳川家康の側室となり、秀忠・松平忠吉(ただとみ、忠康)を産んだ。


江戸時代以降は安房国東条藩(東條藩)の藩主となったが、
秀忠の孫の徳川綱吉(つなとみ)の代に、勘気を蒙って、下野国上田藩に転封された。

当時の藩主は延員(のぶかず)であったが、子に先立たれて、嗣子に定めた甥の茂員(もちかず)[14]が不祥事を起こして、廃嫡された挙句に茂員に嗣子がなかったので、そこで大村純長の子の繁員(治員)を婿養子に迎えて、寿員(ひさかず)と改称させて、その後を継がせた[15]。


ここで、源姓西郷氏の男系は断絶した[16]。


脚注

1.↑ 現在の愛知県豊橋市牛川町西郷大字
2.↑ 長屋頼景の6世の孫、西郷忠昌の玄孫、守政(守昌)の曾孫、守隆の孫、守頼(土岐頼音(よりおと)の女婿)の子。
3.↑ 現在の愛知県岡崎市康生町
4.↑ 現在の愛知県岡崎市舞木町/羽栗町山中大字

5.↑ 近清の父、近昌の祖父、近次(一生入道)・近憲・近陳・近鎮・近良・近禎・近苗兄弟の曾祖父、近房(近次の子)の高祖父、近方・近天(ちかたか)の
6世の祖、近長(政張入道、近方の子)の7世の祖、近致(ちかむね)の8世の祖、近義・近寧(ちかやす)の9世の祖、近光(近寧の子)の10世の祖、近思(ちかもと)の11世の祖、近徳(頼母)・山田直節(なおたか)・説近(のりちか)の12世の祖・有鄰(ありちか)の13世の祖。

6.↑ 昌久の父、三光の祖父。
7.↑ 庶家に金森氏があった。
8.↑ 庶家に尾張戸田氏・尾張上野氏・笠合氏があった。

9.↑ 近江国伊香郡黒田郷(現在の滋賀県長浜市木之本町黒田大字)を拠点とした。
10.↑ 大内維義の孫、維信(維親・家信・維家(義海)の兄)の子、維忠(維治の父)の弟、維基の兄。

11.↑ 維親の弟、信胤の父、盛信の祖父、正治の曾祖父、正隆の高祖父、盛隆の6世の祖、盛正の7世の祖、正行の8世の祖、正則の9世の祖、信員の10世の祖、正員・正勝・照員・正忠・俊員兄弟(盛正の子)の11世の祖。
12.↑ 長屋頼景の子。

13.↑ 遠江国の国人・戸塚忠春と西郷正勝(正員の従弟)の娘との間の娘で、母方の叔父である西郷清員の養女となる。

                       ⤴ココだね

   従兄の西郷義勝(元正の子)と結婚して、秀忠・忠吉の異父兄となる勝忠(重勝の異母弟)を儲けたが、夫に先立たれて、未亡人となった。


14.↑ 用員(もちかず)の子。
15.↑ その寿員も嗣子がなく、大田原清勝の子の忠英を婿養子に迎えたが、これも嗣子がなかった。

16.↑ 延員の又従弟の正勝には、子の正胤と孫の義龍がいたが、いずれも父・祖父よりも先立って、義龍にも嗣子がなかったために盛勝系も断絶した。




うちのホンヤさんも  後醍醐源氏になってるしね。
わたしの母方も源氏になってるしね。それも後醍醐天皇より前の後鳥羽源氏になってるしね。御寵愛を受けてたし。


出自の操作ってのがあるし
日本は氏姓制度からして混乱しまくってるしね。


碓井姓    知らない
鎌倉姓    こんなの坂東平氏でしょ

ということで碓井さんを調べたら  平氏?橘氏?  って出てた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A2%93%E4%BA%95%E8%B2%9E%E5%85%89

碓井 貞光(うすい さだみつ)

平安時代中期の武将。
平姓とも橘姓とも言われる。
生まれは相模国碓氷峠付近とする。


源頼光に仕え、渡辺綱を筆頭とする頼光四天王の一人と称される。大江山の酒呑童子退治で有名。『今昔物語』には源頼光の三人の家来の一人として、その名が記されている(なお、『今昔物語』には四天王の筆頭渡辺綱の名前はない)。

越後から上野へと向かう道中、野宿する事になった貞光が読経をしていると「汝が読経の誠心に感じて四万の病悩を治する霊泉を授ける。我はこの山の神霊なり」とのお告げを受けた。そこで貞光が周囲を調べたところ温泉を見つけて「御夢想の湯」と呼び、これが四万温泉の由来になったという。

またある時、貞光が帰郷すると碓氷峠に巨大な大蛇が住み着き、人々を苦しめていた。そこで貞光は十一面観世音菩薩の加護のもと、大鎌を振るって大蛇を退治すると、碓氷山定光院金剛寺を建立し、そこに観音菩薩と大蛇の頭骨を祀ったという。

童話『金太郎』では、樵に身をやつし、強い人材を求めて旅をするさなか足柄山で金太郎(後に坂田金時)を見いだして源頼光のもとへ連れて行くという役割を与えられている。

最近の研究では平忠通は貞光(貞通)の子で、これが三浦氏・鎌倉氏らの先祖になったとも言われている。




凡例
碓井貞光/平貞光/橘貞光

時代
平安時代中期

生誕
天暦8年(954年)?

死没
治安元年(1021年)

改名
貞通、貞道、忠通?平貞通?

主君
源頼光       ← 主人にあやかって  そりゃ  源氏に化けるよね

氏族
桓武平氏?/橘氏?

父母
父:碓井貞兼?平忠光?、母:不詳


平忠通



鎌倉氏

武家のひとつ。
本姓は桓武平氏。
家系は良文流の系統で、相模国鎌倉郡を中心に勢力を伸ばした武士団である。

平氏ではなく、相模の豪族の末裔だった可能性も高い。


近年では、相武国造の子孫であったという説や、鎌倉別の子孫説もあるが、その説においても確証は曖昧である。

秩父平氏が、良質の銅と馬の生産を背景に発展したのと同様に、鎌倉党は製鉄技術により発展した武士団といわれる。   ← コレは面白かった
[47]三つ柏服部さんからのコメント(2020年01月27日 21時42分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様

 すごい話になっています……!
 あを様の話は情報量が多く、しかもその内容が重要なものばかりなので、
サラッと流してはいけない話だと思っております。

 A.AKECHI様のご指摘も、ある意味そのとおりだと思います。
 「名張城の出羽守」という存在を示す"一級資料"は見つかっていないのが
現状ではないかと思います。

 名張には調査に行ってきましたが、天正伊賀の乱(一次は1579年、二次
は1581年)があり、そして本能寺の変(1582年6月2日)へとつながり、
その後の光秀の死(1582年6月13日)となります。
 つまり、光秀の妻の父・"名張城主"服部出羽守保章は、どんなに遅くとも
本能寺の変までにその立場になっていなければなりません。

 但し、歴史に残されている「名張城」は、本能寺の変の後、筒井定次によ
って造られ、そののち、名張藤堂家に引き継がれ、さらにその後、名張藤堂
藩の陣屋となっています。
 
ということは、服部保章の居城した名張城というのは、歴史に残された名張
城とは別のものであるはずで、それは――
 @筒井定次が名張に築城する前にそこに存在したものか、
 A名張郡の別の所にあったのか、
 B創作話か、
 ➃どこかとの間違いか、
 D正史から消されたか、
等々、はっきりいたしません。

 『改正三河後風土記』には、明智光秀に関する記述がかなりあります(第
18・19巻)。その19巻にこうあります――

 「左馬助(光秀の娘婿のこと)は、…中略…、其身は坂本の城に入、光秀の
妻(服部出羽守保章女也。。台徳公の御生母宝台院殿とは再従姉妹也といふ)、
自然・天然(原書に二男阿古、三男乙寿)という兄弟の子を天守に登せ、下に
焼草を積て寄手を待懸たり。」
とあり、最終的にはこれらの妻子を我が身の妻子とともに刺殺して天守に火
をかけ、左馬助は腹を十字に掻き切って火中飛び込んで最後を遂げると書か
れております。

 ここに書かれた光秀の妻の括弧書きは、一体誰が何の資料に基づいてそう
書いたのか、根拠は示されておりません。二人の子供の方の括弧書きには、
「原書に」と書かれております。とすると、妻の方も「原書」に書かれてい
た可能性があります。原書とは、改正される前の『三河後風土記』でありま
す。

 不明の名張城については、小説ではありますが、神宮寺元氏の『戦国の荒
鷲2 浜松最終決戦』の中に、百地丹波の柏原城(天正伊賀の乱の最終決戦
の山城)の近くと書かれています。近々、その小説をよく調べてみます。

 光秀も、その妻も子も謎が多く、何とかして解明したいと苦慮する毎日で
あります――
 
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月27日 21時57分19秒 ) パスワード

レス<46>漢字を間違えたので書き直し


そうそう織田信秀が道三攻めに出た城が  古渡城  でしたよね。
ワタシはここに住んでました。


古渡城のすぐ近くに那古野城もあって
ホントにすぐ近くで
「離れ」と「離れ」の関係みたいでした。

城っていうより「砦」だね。


    こうやって並べると  あれ?  ワタシはどっちの一角に住んでたっけ?  とこんがらがる。

    考え始めると  分からなくなる。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月27日 22時57分19秒 ) パスワード

三つ柏さん

当時の日本の様子を現代の落ち着いた日本の状態から考えると
そもそもが  間違い   ということです。

       漢字もテキトーに用いられたし。


なので「城」という言葉も   現代の我々が見ている「城」を考えては間違っているし。


    まさに「砦」ですよ。

    「柵」よりは  もうちょっと  木や板が使われていたレベル   かもね。


    名張は伊賀よりも規模がずっと小さく
    東大寺領としての歴史あたり  
    黒田荘事件あたり   
 
    黒田でメンチ切った人々(悪党)と東大寺鎌倉幕府仁木氏の戦いがあり


              お送りした紙に  仁木氏と柘植宗家が戦ってたと書きましたよね
              で、結局  柘植が  織田とも戦い  後に家康を助けて旗本となって
              甲賀に土地をもらったのだとか


    そして黒田の悪党が南朝方となり
    南朝方が負け   

この辺りから名張はグチャグチャで   筒井の名も出て来るし  後南朝方の残党である越智河野の名も出るし  
    (うちの母方一族も名を連ね)⇔ 美濃の稲葉とか林が同族だしね  ココに美濃国守護代の斎藤も絡むし


名張の当時の様子は  今のリビアみたいに  国自体が吹き飛んでいる


信長も出て来て  柘植宗家も信長と戦うし  

               信長が本能寺で殺されて  柘植宗家は家康の味方をし旗本になっていく


今のリビアみたいに  部族がアッチともコッチとも戦う  そんな感じだったんだろう。

そういう部族の1つが  服部保章だった   ということです。
         

なんで単純明快一本で   さらに  敵味方を単純に  語ろうとするのか?
そんな段階じゃない。
まさに今の中東だ。


そういう背景で   服部保章には服部正尚が一族にいた。
で、西郷氏も絡むし。

         で、土岐氏が出て来て

明智が「土岐繋がり」で出て来る。



小さな小さな小さな繋がりで人間関係が出来ている。


ま、日本なんて名乗っちゃったもん勝ちで自称源氏とか平氏とか橘氏とか藤原秀郷子孫とかで

    中国も  結局は  評判の悪い先祖がいると姓を変えるんですって
    最近知ってビックリ仰天しましたが
    人間とはこんなもんです。


わたしの大坂の役の時の先祖も「長門守」を名乗ってたというしね。
名乗っちゃったもん勝ち。
そういう時代。


服部保章は名張でメンチ切ってた1人で大成出来なかったからメンチ切ってたレベルで終わってしまった。
明智光秀が本能寺の変に成功してたら本物の「名張の主人」になれたんだけどね。


今の平和な日本の姿から戦国時代の、それも部族レベルの争いの状態を、考えない方が良いとワタシは思います。


あ、上記に書いた「78歳の女性」は  上智卒業から  結局  最終学歴は東大の博士号を取得したんだったかな?
紆余曲折があっての事です。

      日本にいる平穏な日本人が考える取得とは全く想像も出来ない結果です。

わたしは  ゴチャゴチャした人間関係や人間心理をアレコレ妄想するのが好きです。


ということで明智光秀の出身地?生誕地?を岐阜と滋賀が争ってるのを空想して楽しんでいます。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月28日 02時34分17秒 ) パスワード

今朝はジムで知り合いの政治争いに1時間ほど巻き込まれてやって全く運動しなかったけど
     体脂肪率が14.1%になってた・・・
     最小は昨年13・9%というのがある
     最大は20%に限りなく近づく

で、さっき部屋に戻ったところです。

     3月にホテルの宴会場で権力闘争があるんで、その頭数に誘われた。

     去年は乱闘をわたしも1つ起こしてやるかという事があって
          訴訟なら司法的に行政的に100%楽勝でわたしが勝つ案件
     が、弟がちょうど来布して、弟が欲しがってた無料の配布物を隣のビルへ貰いに同行するのを選んで 2個もらえるからね  それで去年は参加しなかった。


     うちは加藤高明の一族だし江崎真澄とも親戚だから  ← いろいろあったからね  だから余計に政治には興味無い


三重県桑名郡七取村字西福永184の服部喜四郎氏については100%知りません。
ただ桑名という地名と服部姓から思うところはあります。


     どこの家でも必ず自分の家の出自を明確に子孫に伝えたい人物が出て来るようで
     そういうお1人なんだろうと思っていますが
     桑名と服部姓ということで   かなり  アレ?  と思う部分があります。


桑名はまさに  家康の一族  ですからね
それも家康の生母の方の。

     父方の一族だとシブリング・ライバルリーとかで兄弟喧嘩が血で血を洗う抗争になるけど母方はちょっと違う。   


で、服部家とは   鎌倉〜室町の間に、服部 → 千賀地 → 上服部・中服部・下服部などの筋が出来

          中服部の出だから正就が部下からストライキを打たれたわけで       
          うちは下服部

      
さらに江戸時代に   服部半蔵正就が岳父に泣きついて桑名に転がり込んできたことで  ここでも大中小などの服部の筋が出来  さらに上席家老に収まってるし

半蔵の名を襲名する大服部家は明治期に絶家。とはいえ、絶えた家を再興するのはよくあるハナシだし。喜四郎さんがその人でもおかしくないし。


ここで終わったハナシかと思ってたのですが


1997年ごろに某女史が現代の「大服部家」がどうのという話を始めて
ヲイヲイ
今でも大服部家とか中服部家とか小服部家とかの区別がある?
と驚きました。


その女史は全くの部外者なので20世紀なのに20世紀の終わりなのに「大中小服部家の存在」ということについて違和感アリアリで


なので三重県桑名郡七取村字西福永184の服部喜四郎氏がどういう人物なのか今年になって気になりだしたという次第です。


服部家ホンヤさんがどういう立ち位置かも分からないし。
    うちの敵は津島の服部小平太だろう、と思うし。
    この人は我が家=ホンヤさん=にとっての裏切り者だからね。

     そうすると遠江の服部小平太?服部中保次はどうなる?
     
     津島の服部小平太と遠江の中保次は   同一人物ではないが  兄弟かイトコあたり?


三重県桑名郡七取村字西福永184の服部喜四郎氏の蔵に収まっている古文書から見える
    半蔵の家
    正尚の家
    保章の家
    明智光秀
の話は徳川一族の中の話。


我々部外者が4の5の言える話ではない。



三つ柏さん、いつか三重県桑名郡七取村字西福永184の服部家あたりへ  ドライブなんぞ  いかがでしょう?
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月28日 14時01分18秒 ) パスワード

春風亭昇太のファミリーヒストリーを見終わったところです。


ビックリしたのは富士宮市郷土資料館館長の渡井一信氏が父にそっくりだったこと。
並べたら似てないのかも知れないですが  とにかく  似てました。
風貌、っていうのかな?


春風亭昇太の本名の田ノ下家ではなくお母さん?の実家が稲葉家で
家紋がまさにわたくしの母方河野家の家紋と同じで
これにもビックリ。

ずっと水飲み百姓をしてきた、と言ってましたが
どこかで落ちてそのまま、
なんでしょうね。

    たぶん戦国時代の明智がらみの稲葉家かも?
    春日局の母方お祖父さまの家。
    明智方で転げ落ちてそのまま江戸時代からずっと貧しいままだったのかも。


春風亭昇太の言葉:
「驚きましたね。いろんなものが繋がってるんだな。
細かいパーツだけど、すごく繋がってるんだな」


わたしが上記に書いたままの言葉を春風亭昇太が言ってて
これにもビックリ!


春風亭昇太の稲葉のおじいさんがペルーに移民に行って
    ペルーは楽園だから月給25円になると騙されて(教師の月給が10円だった時代)行ったものの
    ペルーは楽園どころか疫病の宝庫のような風土でバタバタ日本人移民が亡くなって
    でも奥さんになるヒトの家が裕福だったから幸運にも帰りの船賃を出して貰えて日本に逃げ帰って来たそうで

春風亭昇太が東海大学に入学してラテンアメリカ研究会に入りたかったけど部室に誰もいなくて
隣の落研の部室にヒトがいたから  落研の部屋でラテンアメリカ研究会のヒトが来るのを待つことになって
今に至る落研に入ることになったわけだけど

あそこでラテンアメリカ研究会に入ってたら稲葉のおじいさんのように逃げ出すことになったのだろう
なんてハナシもあったりして


稲葉家繋がりで春風亭昇太がすっごく身近なヒトになりました。

思わぬような遠い遠い小さな小さなご縁ですけど   やっぱり日本人なんだな  どこかで somehow  somewhat  
わたし達  日本人って  繋がってるんだな   と思いました。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月28日 14時46分14秒 ) パスワード

もう1つ今日ビックリしたことは

子供の時に父に連れられて中田島砂丘に行ったことがあって
なんで行ったんだろう?と不思議だったけど

    だって砂州?浜堤?に子供を連れて名古屋から写真を撮りにわざわざ出掛ける?

あの近くの今切口というか今切の関所というか
で服部政信が奉行をしてたのよね。

政信の家はホンヤさんの弟の流れの家ですから今こうして思い出すと不思議な感覚です。


わたしにとって  浜名湖=うなぎの養殖  しか浮かばないし  次は天竜川を連想するぐらい。

「東海道」で目に入る浜名湖の景色は養鰻池の水車?エアレーター?が目に焼き付くあたりで


そこへ春風亭昇太の出身地の富士川がドンと胸に刺さった。
わたしにとって富士川は平家がボロ負けした川なんだ。



ご先祖さまパワーが久し振りに来てるのかな?と。


わたしに静岡で引っ掛かってるのは島田宿の服部家なんだけど
伊賀の人間なら日本中アチコチに拠点を持っていたろうから島田にも息のかかった家があったんだろう。


わたしには島田よりも伊賀へ行く電車の中で顔にヒトの体温を感じたことの方が気になってるんだけどね。



「麒麟がゆく」の第2話で熱田神宮の千秋氏が出てる
と上のレスに書きましたが

このヒトは千秋季光で  あの時に 戦死してたようですね。


    信秀に  誰かが戦死した  と報告してたけど
    滑舌が悪過ぎて聞き取れなかった
    千秋季光のことだったのかな?


後に信長が桶狭間に出掛ける時に祈願した熱田神宮の大宮司は季光の子だそうです。
この祈願は必ず放送されるシーンです。


コピペ:

千秋氏は代々京都に在住し、尾張・美濃・三河の広範囲にわたる所領の支配は下級の神官にまかせていたのだが、

戦国時代にいたって、尾張知多郡の羽豆崎城に移ってきた。

社領を直接支配する必要に迫られたのであろう。
しかし この頃には、かつて三国にも及んでいた社領もわずかに残るのみであった。

尾張に乗り込んだ千秋氏は、守護代の一族として急速に勢力をつけてきた織田信秀と結び付く。

世は戦国時代、実力がものをいう世界、熱田宮の「大宮司」としての特殊性を認められていても、世俗的には尾張の国人の一人に過ぎなかった。


かくして千秋氏は信秀の指揮のもとに各所での戦に駆り出される。

天文十三年、当時の大宮司千秋季光は、稲葉山城攻めの時に戦死。
長男の季直も戦死か、なんらかの闘争に巻きこまれたかで、自然死ではなさそうな若死。

その弟の季忠は、すでに神官という性格でじゃなく、まったく武士そのものであった。
彼は大宮司とは名ばかりで、信長の一部将として活躍している。
そして桶狭間の戦いの時、今川軍の先鉾隊に戦いを挑んで戦死してしまった。
 


千秋さんも大変だったんだね。
[53]A.AKECHIさんからのコメント(2020年01月28日 19時41分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様
三つ柏服部様


色々とご教示下さり、ありがとうございます。
伊賀上野生まれの私は、同じ伊賀でも名張には行ったこともなく、名張のことは殆ど知らないのです。
尤も、名張藤堂家の方も12代目が(婿)養子だったことを理由に「何も知らない」とおっしゃられましたが…

名張城に関して年代を記しましたのは、その年代のことを言いたかったのではなく、天正13年(1585年)以前に「名張城」は無かったし、後世の人が「名張城」と呼ぶに相当する砦や柵は無かったのでは? ということでした。
もしそのような砦等があったのであれば、ご教示下さい。

また、当時服部氏が活動していたのは北伊賀で、名張をはじめ南伊賀は、百地氏が君臨していたのではなかったでしょうか?
百地氏は名張の出身と聞いておりますが、名張には砦や城を築かず、ずっと東の喰代(ほうじろ)に城を築いています。 
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月28日 22時54分51秒 ) パスワード

A.AKECHIさん

そうか
伊賀上野生まれでも
ですか。


伊勢伊賀出身の人と話すと
「そこらじゅうに戦国時代のシロ跡があるんだよね」
と盛り上がって来ましたが。


A.AKECHIさんと盛り上がれないのは世代が違うのかもね。
ひょっとして  すっごく  若い方で  御年輩のお話は聞いたことが無い?


わたしの出身の尾張でもそこらじゅうにシロ跡があるんですけどね


名古屋のド真ん中の繁華街の  わたしが住んでたところでも  南北歩いて数分  の差で   2−3分?かな  2つ織田のシロ跡がありますが

看板が立ってるからね  古渡城跡  那古野城跡  って外出の度に何度も  少なくとも  2回は  目に入るから


伊勢伊賀だったら  もっと  そこらじゅうに  残ってる  という認識でした。
友人達の話では  そこらじゅうに今でも  ある  と言ってました。



友人からメールで頂きましたのでコピペしますね:

名張市のお城一覧です。



城のあり方は様々です。

地侍の屋敷のそのものが城として記述されて居ることも有ります。
また盆地状の地域の四方には入り込む街道の両サイドの山に城郭を形成しています。
四方向から進入路があれば8個の山城が有ってもおかしくは無いです。


本拠地の盆地なら平地に館や構えを作り、山には詰めの城を築いて居ます。
いずれも城です。

要するに城だらけです。


中世の城には様々な形態が存在しています。
戦乱のあり方や在地支配のあり方でも違って居ます。


どんな少数の集落でも山城風に作られた「逃げ込み小屋」とも呼ばれるちいさな
物も存在します。
小高い丘だったり、山腹だったりです。


いざと言うときは防衛しています。
自己自衛の城郭ですね。

また、砦群を形成するにも距離を決めてつなぎの城や砦を形成して居ますよ。
銅鑼や太鼓の聞こえる半径には必ず砦を作っています。


大きな砦はだいたい直線で8キロおきくらいですね。
これはほぼ公式的にあてはまりますね。



地域支配者の規模の大小は当然有りですね、
砦や城の規模の大小も当然有りですね。



ちなみに、公に知られて居る「名張市のお城」は下記の通りです。
これ以外にも当然存在していると思います。



三重県名張市のお城一覧(城郭放浪記)
http://www.hb.pei.jp/shiro/mie/?c=nabari   



伊賀・頓比屋宇峯北砦 丘城 土塁,郭(名張市安部田字馬廻り)
伊賀・頓比屋宇峯南砦 丘城 土塁,郭(名張市安部田字馬廻り)
伊賀・桜町中将城 丘城(名張市下小波田)


滝川氏城 (名張市下小波田字下出)


伊賀・下山甲斐守城(比奈知) (名張市下比奈知字兼前)



名張陣屋(名張市丸之内)


伊賀・愛宕山砦 (名張市青蓮寺字後山)
伊賀・青蓮寺城 (名張市青蓮寺字斧出)
伊賀・柏原城 (名張市赤目町柏原字宮城 )


以上コピペ終了



わたしの古い友人が・・・10世紀以来の刎頸の友の家の人ですが・・・
伊賀で教師をしてた時に  百地  って名の生徒がいて

「すんごい目をした男でさ、さすが百地!って感じだったよ」

と教えてくれました。


この友人が言うには
「伊賀の古老のハナシでビックリしたのは  そのヒトには  天正伊賀の乱の時の血生臭い風景が見えるんだって」


    他人のハナシのように語っていたけど
    彼の経験じゃないかって
    わたしは思いました。


百地って  藤林にしても  服部姓を名乗りたかっただろうな  って思う。
千賀地に服部を名乗られて、家康に服部姓を認められて、悔しかっただろうな、って。


わたしは名張はピンと来ないけど
伊賀ではやっぱり佐那具とか加太とか
大山田とか  平田ね
花垣とか

あとは伊勢の奄芸郡に不思議体験をします。


うちは1006年に伊勢に来て14世紀に伊勢を出たので
わたしには伊勢伊賀はヨソの国だったけど
上記に書いた古い友人と出会ってから不思議体験の連続です。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月29日 14時52分02秒 ) パスワード

一部文字化けしてるので書き直し:


友人のハナシ:面白かったのでこちらにもお裾分け

1.
太平洋戦争ですけど,この戦争,地学を大発展させました。

この戦争のお陰で,台風の予想ができるようになりました。
それと,海底にある海山が見つかり,
大西洋はど真ん中に大西洋大海嶺という,海底の大山脈があるけど,
太平洋はそのようなものがなく盆地。
インド洋の海底は砂漠状態
なんてコトが分かりました。


大西洋大海嶺がアトランティス大陸だという説もあります。

実際,キューバ沖に,ビビミ島と言う島がありますけど,
この海底に古代の舗装された道路があり,ビビミロードと言われていますが,
ここがアトランティスの都だとの説もあります。


なんせ,アメリカ軍,潤沢な軍事費で使い切れなかった。
それで,気象や海洋を調査したわけです。


プレート・テクトニクスが証明されたのも第2次大戦。
ジェット気流が発見されたのも第2次大戦でした。

ジェット気流ですけど,冬,サイパンから日本本土へ空襲に行くB29はエンジン全開でも時速60km位しか出ない。


ところが帰りは音速に近い速度で帰ってこれる。


何でだ?と言うことになり,発見されたのがジェット気流です。
ですから,今 航空機は対地速度と言う速度でスピードを発表します。

                       え?Ground Speed ?
                       対気速度Airspeedとこんがらがる・・・

                           わたしはディスパッチャーにはなれない

                     

中国に冬行くとき,日本から中国に向かうときは時速500km位。
帰りは1,200km位出ます。

それで,冬 日本に中国から向かう飛行機は空港の誘導路上で機内食 食わします。
上海からだと,1時間半くらいで着くからです。


                       あぁ、それでか



ハワイ諸島がキラウェア火山の位置で出来て,全部,日本に向かって移動しているというのが分かったのも第2次大戦のお陰です。


ただ,最初にできた,ハワイ諸島の残骸 北に一列に並んでいますので,昔はマグマの移動は,南から北に向かっていた。

ところが,いつの頃か  東から西に変わったという説があります。

でも,50万年後,日本は10倍になり,日本亜大陸になります。
でも,朝鮮とくっついちゃう。
日本海 無くなります。


日本海が出来た時,地中海が干上がって盆地になっちゃった。
人類は盆地の地中海渡ってヨーロッパに行き,世界中に拡散しました。

ただ,日本海が出来たのと地中海の盆地化の相関関係  あるかないかが 分かりませんが,

地中海が当時海だったら,人類はアフリカ大陸にしかいなかったと言われています。


                     へぇ〜
                     それで人類はアフリカから出て世界に散ったのか。
                     こういう発想は無かったな〜



今,どこの会社もやってるオペレーション・リサーチも第2次大戦がなければ存在しませんでした。

イギリスで始まりました。


少ない護衛艦で,いかにドイツ潜水艦から商船を守るか?
当時イギリスはドイツ潜水艦によって餓死寸前になりましたので。


                       この話はエリザベス女王の少女時代の伝記で読んだ


それで,あらゆる分野の学者を集めて作った学問がオペレーション・リサーチ。

イギリス海軍が確立しましたけど,
一番役に立ったのが生物学者,次は歴史学者,次は国語学者の順。
一番役に立たなかったのが工学博士。(笑)

これにはイギリス海軍が一番驚いたようです。


日本は一番戦争の役に立たない工学博士を徴兵猶予して,
文科,理科の順で殺していったので,戦争に勝てるはずがなかった。(笑)


                       へぇ〜
                       わたしはヤッパリ日本人だ。
                       文科なんて   文化以外には  役に立たない暇人の研究だと思ってきた。
                             わたしが理数系人間じゃないからの劣等感からなんだけどね。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月29日 21時31分02秒 ) パスワード

友人からレス:ま、わたしはパイロットが  「べろしてぃが」  なんて言っても  (え?  舌市?)  のレベルなんでワケ分からないけど




今 飛行機の時速は対地速度です。

だから,季節等によって変わります。


因みに,B29は戦争中は悪魔の飛行機,戦後は天使の飛行機と言われています。

                        余計ワケ分からん


B29は欠陥飛行機で,1万機生産されましたけど,
空中でオーバーヒート起こしてエンジンが停止する。


それで,普通は4発のエンジンの内,半分は止めて飛んでいました。
交互に動かさないとオーバーヒートでエンジン停止  → 墜落だからです。

結局,ボーイングは設計を最初からやり直して,B50と言う爆撃機を作りますけど,
B29とそっくりですが,
部品は10%しか使えなかった、という笑い話があります。

                       え?ボーイングだったの?
                       ボーイングって  良くないんだよね  とボスがぼやいてたっけ
                       わたしは、このレベル



ところが原爆5Tありますので,
運べるのは世界でもB29しかなかった。

それで生産したのですけど,戦争が終わったら使い道がありません。

それで,気象観測機に改造しました。

                       へぇ〜


5Tの爆弾を積めるので,観測器材を大量に積めます。
気象観測機のB29を,WB29と言いますけど,
このWB29を横田基地に集中配備しました。
台風観測のためです。

                       知らなかった〜


それで,台風が来ると,横田からWB29が出撃。笑
台風の中に飛び込んで墜落した機体もありました。
それで,台風発生のメカニズムとか進路予想ができるようにうなりました。

ですので,B29は戦後は天使の飛行機と言われるのです。

                       あ〜
                       なるほど
                       こういうレベルの説明はワカル
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月31日 10時47分21秒 ) パスワード

<58>の書き直し


今日は日本人会に行って来たのですが
    平均年齢85歳あたりなので
    こんな感じ  ⤵

        彼岸桜と寒緋桜の違いの件で
        質問者「どう違うのか?」
        回答者「彼岸桜はお彼岸の頃に咲く早い時期の桜で寒緋桜は沖縄のように暖かい所で咲く桜」
        質問者「ありがとうございます。よく分かりました。つまり同じ桜でしたか」


           わたしも50歩100歩なんで  近い将来の自分の姿  だろうと。



この日本人会は今日が4回目で
その中の1人に  あれ?  と思う男性がいるのです

このヒトは坂本龍馬が好きで 会の歌の1つに 「坂本龍馬がなんたらで〜  大政奉還がなんたらで〜」という作詞をしています。


で、そのヒトが先週   「麒麟がくるが楽しみで」    と言うから
なるほど   坂本龍馬の噂の先祖は明智光秀って聞くもんね   と思ってた。

その男性の出身は美濃だと言うし。


で、今朝(木曽義仲の侍大将の子孫の)幼稚園以来の友人に「こーゆーヒトがいてね」と書き送って

                 彼女の家とわたしの母方の一族は関ケ原の後、越後に転府して来た堀家にいやがらせをやってた関係


手紙を投函後に「くだんの男性」のご先祖をちょっと調べたら


      なんと!
      頼朝の御家人の子孫    らしい
      それも一の谷で平通盛さまをコロした1人

      いろいろあって歴史から転げ落ちたんだけど
      保元物語や平家物語や吾妻鑑に出て来るヒトです



12世紀から21世紀に至る   それまでの経緯から推察するに   
彼の先祖は   源氏繋がりで美濃の土岐家に厄介になって  美濃の土岐が空中分解して  さらに  明智光秀もああいうことになって
という流れだろうと


それで「平家物語」の彼のご先祖さまの箇所などをコピーし
ご先祖さまの出身地や父上の名前なども  纏めて  
今日  その男性に  「おたくのご先祖さまでしょ?」と言って手渡したのです。


     なんで他人の家の調査をわたしがやる?



ココからなんですよ
驚きは!


実は今 作家の細川呉港さんがハワイにいらっしゃってて  
    来布の目的は
    ハワイの日系人の高木氏だったかな? 
    数奇な一生を送った日系人なんですが
    戦後はMISに勤務して  舞鶴に戻ったシベリア抑留兵の聴き取り調査をしたヒトで
    このヒトの伝記を春に出版するのかな?
それで細川氏は来布したという次第です。



で、細川氏の大好きな桜のハナシが今日はあったのです。


で、出ましたよ!

ココからが本題ね:


伊賀の予野の花垣神社の桜のこととか   嵯峨天皇ゆかりの御車返しの桜とか
芭蕉の「一里は みな花守りの  子孫かや」とか
平忠度さまの桜の歌とか
平家の公達のハナシがたくさん出て

皆で

一の谷の 軍(いくさ)破れ
追われし平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛

更くる夜半に 門を敲き
わが師に託せし 言の葉あわれ
今わの際まで 持ちし箙に
残れるは「花や 今宵」の歌

を唄いました。


     さすが平均年齢85歳
     みんな知ってた
     わたしは歌詞は知ってたけど聞いたことは無かったし勿論唄ったことも無い

          だってずっと年下だから。
          進駐軍が禁止した後に生まれたからね知らないよ           



               向いに座ってた婆さまから「まだアンタの来る場所じゃない」って言われた「ここは天国に近い人の会」  (笑)



で、  

琵琶湖の安曇川の 若宮神社の 大般若波羅蜜多経600巻のハナシが出た。

若宮神社
滋賀県高島市安曇川町北船木2203 

大般若波羅蜜多経六百巻のことを細川呉港氏が教えてくれた。


   伊賀の北朝方が隠した?移動させた?
   え?

   南北朝期の北朝方って当然鎌倉幕府方の人達でしょう
   仁木とかさ。



もう本当にビックリした。


なんか最近  ご先祖さまパワーが来てるのは分かってたけど
まさか今日平家の公達のハナシをたくさん聞くことになるとは思わなかった。


なんかね
細川さんに    ←  モロに苗字的に  北朝方だよねぇ

       上記に書いた男性のことを指差して

「コイツの先祖が一の谷でオレ達平家の公達を殺した、と言え!言え!」と命令されてるみたいでした。



        勿論そんな事は言いませんでしたけど


帰宅時間になったので  くだんの男性に   「今日はまさにあなたのご先祖さまがご降臨したみたいね」  と言ってやった。


        勿論わたしは自分のことは言わないですよ。


わたし  ⇔ 平家 ⇔ 岐阜出身のあの男性  =  明智光秀?  =  伊賀名張? = わたし ? = 美濃国?  =わたしの母方一族?


なんかね  日本人だから?  わたしとあの岐阜の男性が  繋がってしまった? 


あのヒトも今頃  わたしが渡した紙を見ながら  ええぇっ?  と思ってるのかしら?
今日は変な女に引っ掛かった、って?
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月31日 16時30分39秒 ) パスワード

追加


「青葉の笛」なんか全然知らない歌だったけど
平均年齢85歳にちょっと満たない世代もやっぱり知らないわけで


細川氏が「この歌、歌ったことある人、います?」とお聞きになったら
わたしの隣にいた人が「ありまァす!」と言って「♪ 青葉繁れる桜井の〜 ♪」と歌い出したので


    ちょっとぉ、それ、楠正成だよ
    


青葉違い!
残念っ!


わたしの世代は「青葉城恋唄」なんだけどね。


       だけど  さとう宗幸って  なんでエコーをかけるんだろう?

             それも   ヒヒヒヒヒヒ〜  って
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月31日 22時51分15秒 ) パスワード

メールを頂きました:


なぜか知って居る歌ですし多少はメロディーが浮かんで来ます。


京都の河野の家と濃い関係の祖母が大正時代の訓導(小学校の教師)でしたから、
文部省唱歌は当然で
私たちが子供時代でも歌っていたのかもですね。

又、実父も兵役には就かなかった(県庁勤めで農業部門の国家公務員)けど
当時の歌をよく歌っていましたね。
軍歌から昭和の戦後までの流行歌までですね。

宴会は勿論のことですね。
歌が社交的な娯楽の一つですもんね。
TVが本格的に普及する前後までですもんね。

                      なるほど
                      コレか!



森繁久弥の森繁節の歌は大好きですが、かなり音程を変えていますから、正調とはいえないですけどね。



文部省唱歌「青葉の笛」(明治39年)
https://www.youtube.com/watch?v=8UShL2FwUNM



楠公の歌〜櫻井の訣別〜
https://www.youtube.com/watch?v=U8yjnEu0QJY   



森繁久弥の「青葉の笛」
https://www.youtube.com/watch?v=RWlkV95qxmM  



https://www.youtube.com/watch?v=tfjKZD03Ox8  
知床旅情 森繁久弥


お天気も悪く家の中で過ごして居ます。
TVとパソコンで・・・・。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

桜・・・勉強しました。やっぱり違うもの・・・・?。
https://blog.goo.ne.jp/tomi153713102014goo/e/394f75bd1a2acb17d5635077ae32c03f  



ヒカンザクラ(緋寒桜)

・(彼岸桜)と紛らわしいので、カンヒザクラ(寒緋桜)とも呼ばれている
・釣り鐘状の花で、鮮やかな緋色です。
・原産地は南中国、台湾だそうです。沖縄にも自生しているそうです。

 沖縄で「桜」といえば、このヒカンザクラ




ヒガンザクラ(彼岸桜)
・春の彼岸の頃に開花することが名の由来



以下の写真で納得。短いページで簡単に比較出来ます。
https://blog.goo.ne.jp/t-nakatyan/e/5a5bfe96d3ef8fe5d8154707c02598d3  
[62]三つ柏服部さんからのコメント(2020年02月01日 00時35分54秒 ) パスワード



レス[47]で言及しました神宮寺元氏の小説『戦国の荒鷲2 浜松最終決戦』
の中の「名張城」云々ですが、時代的には本能寺の変の5年後という設定で
したので、これは正に変後に造られた名張城そのものでありました。

 馬野秀行氏はその著書『信長暗殺は光秀にあらず』の中で、『鈴木叢書』
の「明智系図」によるとということで――
 「光秀には内治麻呂という天正十年(1582)の正月に生まれた男の子がいま
 すが、その母は伊賀の柘植城主、喜多村出羽守保光の娘となっています。
 もっとも、光秀研究の第一人者として名高い高柳光寿氏によれば、明智系
 図は どの系図もまったく信用できないと言っています。
  もしかしたら、光秀は伊賀となんらかの関係があるのではないかと疑っ
 ています。」
ということでありますが、「名張城主の服部出羽守保章」が「柘植城主の
喜多村出羽守保光」となっています。一体どっちが正しいのか……?

 羽生道英氏はその小説『明智左馬助 光秀を最後まで支えた智勇兼備の将』
の中で、次のようなことに言及しています――
 「後世の話になるが、乙寿丸(光秀の一番下の子)は、しばらくは服部半蔵
正成に育てられた後、近江の北村氏の養子になったという説がある。」

いずれにしましても、明智光秀と服部党、二者の間にどんな磁力が働いて
いたのだろうか……プラス家康の三者と言った方がいいのかも知れない――

 
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2020年02月01日 03時24分21秒 ) パスワード

三つ柏さん


読み直しての書き込みをありがとうございました。


>神宮寺元氏の小説『戦国の荒鷲2 浜松最終決戦』の中の「名張城」
>時代的には本能寺の変の5年後という設定でした

本能寺の変の5年後とは1587年ですから秀吉の天下まっしぐらの時ですね


      北野大茶湯(ティ・パーティー)が開かれたし
      九州平定がありましたね
      喧嘩停止令があって  その翌年には  天正16年の刀狩令(同時に海賊停止令)が続きましたね
      そうそう日本人がヨーロッパに   奴隷女や奴隷兵として   連れ去られて売られていたから  バテレン追放令  もありましたっけ



>馬野秀行氏はその著書『信長暗殺は光秀にあらず』の中で、『鈴木叢書』の「明智系図」によるとということで――
>「光秀には内治麻呂という天正十年(1582)の正月に生まれた男の子がいますが、
>その母は伊賀の柘植城主、喜多村出羽守保光の娘となっています。


      その母は伊賀の柘植城主、喜多村出羽守保光の娘

             わたくしの纏めた系図の(伊賀守保光  若死に)を見て頂けましたでしょうか?

      正清 ー→  保章(名張城主)  −→  (伊賀守保光  若死に)  −→  女(伏屋姫)明智光秀室  −→ 内治麻呂北村弥平衛保之


もう1度書きます
>伊賀の柘植城主、喜多村出羽守保光の娘

本当の父親は伊賀守だけど、若くして亡くなったから
お祖父さまの名張の出羽守保章が父親代わりになった
ということですね。

大筋として合ってますね(ホッ)



喜多村とか喜多という姓は  正尚の時に  何度も出ましたね。

伊賀には北姓というのがあって  これは  平知盛さまが壇の浦で乳母子の家長と手に手を取って入水した後  
息子の3男である知忠が、伊賀の北部で育てられて「北姓」を名乗った
その記念からなのかな、と思っています。


天正時代の伊賀と言えば  
大きな勢力としては やっぱり 千賀地の服部と西湯舟の藤林と  それから喰代砦の百地   が三つ巴で主導権争いをしていたイメージですが
名張の服部保章にしてみれば息子の保光が若死にしてしまって伊賀に統制が取れなくなってて   悔しかったでしょうね



名張服部家としては  名張よりも  伊賀でメンチ切りたかっただろうから。

もともと伊賀の主人は服部伊賀家長の家で  その跡を継いだのが=頼朝に認められた=柘植宗清の家ですから
自分こそが伊賀の主人という矜持があったでしょう。

      なんか泣けて来るな

だからこそ明智光秀をバックにして  伊賀の正当な主人になりたかった  でしょうね。


>もっとも、光秀研究の第一人者として名高い高柳光寿氏によれば、
>明智系図は どの系図もまったく信用できないと言っています。

系図はね   命に替えても守りたかったものですが  そうも言ってられないのよね

系図から名前を抹殺しなきゃいけない事態だってあったわけだし
名前を変えたりもしたでしょうし


秀吉の天下だもの   明智=存在してはいけない  日々だったんですからね。


もし「あっても」世に出せないということもありますからね。
    多分  とっくに出して  ひどい目に遭った  そういう経験が絶対にあったと思います。
    でも認めて貰えなかった
    だから「あっても」出さない。



>もしかしたら、光秀は伊賀となんらかの関係があるのではないかと疑っています。」

そりゃ、あるでしょ。
放浪の旅に出てたんですから
伊賀にも寄ってるでしょ。



>「名張城主の服部出羽守保章」が「柘植城主の喜多村出羽守保光」となっています。


名張の保章がパパ
柘植の保光が息子     喜多村姓は「屋号」。  本姓平  俗姓服部  屋号が柘植および喜多村または北村。


>一体どっちが正しいのか……?

どっちも正しい。

日本の苗字というのがヤヤコシイということが背景にあるから現代人が混乱する。

だから日本人を語るのには21世紀から見るのでなく古代からの流れを追わないといけない。

でも途中で姓を賜ったり臨機応変で変えたりするから  部外者には  ワケが分からなくなる。


     だけど日本人なら出身地でもかなり特定できるから
     名字と出身地から素性が分かる    と書きたいけど  今は混乱の真っ最中。

        日本人  澄まして  「東京出身です」  って言うけど
        令和の出身地じゃなくて  江戸時代はどこだったの?明治以前はどこだったの?をハッキリさせて欲しい。
        今や埼玉県民も「出身?東京の方」って騙るもんね。



>羽生道英氏はその小説『明智左馬助 光秀を最後まで支えた智勇兼備の将』
の中で、次のようなことに言及しています――

>「後世の話になるが、乙寿丸(光秀の一番下の子)は、しばらくは服部半蔵
正成に育てられた後、近江の北村氏の養子になったという説がある。」

一番下の子の内治麻呂は喜多村(北村)姓で幕府に仕えているので
半蔵さんに守られたというハナシも本当かもですね。

ワタシ的には  本能寺の変の後に乙寿丸は死んだ  と思っていますが
「死んだことになってる」
という事も有り得ますから
死んだかも知れないし  生き延びたのかも知れないし  幕府の要職に就いたかも知れないし  水飲み百姓として今に至ってるかも知れないし。


半蔵が助けてたなら  やっぱり  本能寺の変  はいよいよ謎が深まりますね。



>いずれにしましても、明智光秀と服部党、二者の間にどんな磁力が働いていたのだろうか……プラス家康の三者と言った方がいいのかも知れない――

こういうのは  政治の闇  ということですから
いろいろな人が勝手なことを語って良いのです。
小説家の出番ということです。


石田三成の子供でも東北地方で育てられたのがいるってハナシですね。
世の中が引っ繰り返った時に  担ぎ上げる  という役割もあるから。
特に  頼朝  の事がありましたから  負けた方も希望を捨てなかったんでしょうね。

な〜んちゃって。
[64]三つ柏服部さんからのコメント(2020年02月01日 09時43分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 保章、保光については理解が進みました。ありがとうございます。

 また、「明智光秀をバックにして、伊賀の正当な主人になりたかった」とい
うのは、マーベラスな新説だと思います。今後、更に深堀りして行きたいと思
います。

 光秀の生涯での動き(どこへ何しに行ったか)、わかる範囲でまとめてみたい
と思います――
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2020年02月01日 10時44分32秒 ) パスワード

三つ柏さん

補足です:


> 羽生道英氏はその小説『明智左馬助 光秀を最後まで支えた智勇兼備の将』
の中で、次のようなことに言及しています――
>「後世の話になるが、乙寿丸(光秀の一番下の子)は、しばらくは服部半蔵
正成に育てられた後、近江の北村氏の養子になったという説がある。」

近江の北村氏は  保光の息子ですから   

     明智の息がかかっていたのかも  ですね。
     近江ですから  恐らく  甲賀?


        柘植本家は仁木と戦い信長と戦いそして家康を助けて旗本となり甲賀に土地を貰ったとありますから
        
        保光の息子の北村氏は  柘植本家と関わってたかも  ですね。


            それには寛政重修諸家譜の  柘植氏や北村氏のページを読まないといけませんね。


            服部半蔵が助けて近江で生きられるようにしたのかも
            ですね。



伊賀がグチャグチャになって  その後  千賀地の服部家が家康の御威光で伊賀の主人になり  伊賀忍者を配下に置いて  この時代は平穏

ところが半蔵が亡くなって  息子正就が21歳の若さで家督相続して  引き続き伊賀者を支配に置くに至って  伊賀者が反発  そして  ストライキ。

ま、正就は  21歳の若造なのにパパの名前と妻の実家=松平定勝=家康の同母の弟の家をバックに横柄だったんでしょうね。


千賀地の服部なんかたいした家じゃないくせに!
とかの
伊賀者の反発が凄かったんでしょうね。


反発した伊賀者の家がどこの流れなのか興味があります。
家康の先祖である頼朝公に恩を返された柘植氏系なのか?
藤林系なのか?
同じくあの時の伊賀越えに参加した伊賀の大将達=一匹狼=実力者の一族なのか


正就に対して  「お前なんかに顎で使われる筋合いじゃないんだぜ」  と言いたかった気持ち  すっごく分かります。

    ま、小さいオトコ達だった  とは思いますが

    どんな気持ちだったのか   じっくり  聞いてあげたい感じです。



3月の終わりに服部某氏が来布します。

東大を出て経済産業省に入省、ハーバード大学修士、東京工業大学博士、経済産業省大臣官房所属。

2005年から2008年までシンガポールのAPECに出向し、2013年から2016年までパリのIEA(国際エネルギー機関)で勤務。

COP21の締結に向けての仕事をしている。

要するにバリバリのキャリア組のエリート官僚。


   
行くか迷ってます。
[66]A.AKECHIさんからのコメント(2020年02月01日 18時09分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様
三つ柏服部様


>「名張城主の服部出羽守保章」が「柘植城主の喜多村出羽守保光」となっています。
>一体どっちが正しいのか……?

>どっちも正しい。

その通りですね。

それはそうと、[40]に書きましたように、
「神君伊賀越え」にあたって、喜多村出羽守=服部出羽守は、 
「御人数召し連れられ御出馬、… 粉骨敵を追い崩し、比類無き御働き…」をされたわけですから、
伊賀越えのルートから遠い「名張」ではなくルート上の「柘植」から「御出馬」されたと考えられるのではないでしょうか?















































[67]三つ柏服部さんからのコメント(2020年02月02日 09時26分09秒 ) パスワード



「本能寺の変」と「伊賀越え」は正に謎多きテーマであり、ありとあらゆる
説が述べられておりますが、今の我々の常識的推理では及ばないからくりも秘
められていると推察され、小手先の謎解きではあまり意味がないように思われ
ます。

 本質の謎解き、即ち「光秀」と「家康」と「服部党」のベクトルの方向性、
さらにプラスして、弑逆される前の「信長」の権力政策(諸大名対策)というも
のを加味したものが「最大かつ最優先課題の謎」であり、それを解くことによ
って「伊賀越え」の真理は自然と解けてくると思います。

 では、その「最大かつ最優先課題の謎解き」とは何であろうか?

 方向性は見えてきていますが、裏付けとなる一級資料がなく、従って推理と
いう形しかないようにも感じます。怪しげな状況証拠を数限りなく見つけて並
べて行くしか方法はないのかも知れません。

 いずれにしても、基本は「光秀」と「家康」と「服部党」の関係です――

 

 
[68]三つ柏服部さんからのコメント(2020年02月03日 08時49分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「明智光秀」と「徳川家康」と「服部党」を引き付ける引力とは何かとい
う本質・核心の問題ですが、それは「南朝DNA」なのではないかと私は推理
しています。ここでいうDNAとは、必ずしも血縁のことではなく、シンパシィ
も含めたものを言います。

 しかしながら、明智光秀には南朝の「な」の字も今のところ見出せません。
それよりも、一般論としては美濃守護土岐氏=明智氏=北朝と色付けされて
しまっております。

 私は、光秀は南朝シンパだという信条を強くもって探求して来ているので
すが、本日、下記ウェブサイトにて、こんな記述があることを発見しました。
 そのサイトとは、「草の実堂」でありまして、テーマは「明智光秀の出自と
生誕地について調べてみた」であります。
(https://kusanomido.com/study/history/japan/azuchi/32729/ )

 それによりますと――
 「土岐氏の通字は「頼」で明智氏の通字は「光」とも、北朝方の土岐一族
 の通字は「頼」で、南朝方の土岐一族の通字は「光」とも。いずれにせよ、
 土岐氏の祖・源頼光からとったという。」

 北朝臣の中には隠れ南朝が結構いたようです。表向き北朝臣を装っていた
ということになります。
 また、逆に南朝シンパでも、状況によって有利な方に鞍替えするといった
輩もあったと思います。
 どの時代まで南北朝の心情が残っていたかでありますが、いわゆる戦国時
代にはかなり残っていたと推察されます。

 「南朝フィルターを通して見る戦国時代」のテーマについては、私は今後
に記述すべく残しておりますが、とりあえずは信長の父・信秀は南朝シンパ
であったことを記しておきます。
 
 信長はそういう父の掌の上で育っていますので、他人が見ればその南朝色
を識別したのではないだろうかと思います。
 明智光秀が隠れ南朝ならば、南朝色に包まれた織田氏へ近づいた理由(引力)
がわかります。

 徳川氏や服部氏はバリバリの南朝ですので、もし明智氏が隠れ南朝なら、
底通するのは当然の帰結となります。
 徳川家康が服部正尚のいわゆる娘を嫁にしたのも、明智光秀が服部保章の
いわゆる娘を妻にしたのも、「南朝つながり」ということであれば素直に理
解ができます。いわゆる忍者の棟梁の娘を天下を争う武将が娶るなどという
ことは、家格からしてまずありえないのではないか。でも南北朝の時代には、
同じ釜の飯を食らった同士であったという残存意識があれば可能だったので
はないか……と推察いたします――
[69]三つ柏服部さんからのコメント(2020年02月05日 00時01分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、立花京子氏の『信長と十字架 ―天下布武の真実を追う』を読み
ました。この本は今から十六年前に出版された本でありまして、内容的には
説得力のある論述であると感じました。つまりどういうことであるかと申し
ますと(これだけでは説明不足になると思いますが)――

 「信長はイエズス会の勢力の援助を受けて大きくなったのに、独力で達成
 したかのように傲慢になり、イエズス会への服従を拒否するようになった。
  その結果、イエズス会は信長の抹殺を計画して、朝廷をして明智光秀に
 信長討伐命令を下すように仕向け、光秀に信長を討たせ、かつ秀吉に光秀
 を討つように準備させた。」
ということであります。

 もっとも複合的要因がありますので、数式を解くようには行かないとは思
いますが、大筋の流れとしてはこうであったのではないかと感じました。

 この本は、信長主体に書かれておりますので、明智光秀の謎にはあまり迫
ってはおりませんでした――
[70]三つ柏服部さんからのコメント(2020年02月05日 12時17分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 立花京子氏の『信長と十字架 ―天下布武の真実を追う』の中で、明智光秀
の出自に関する謎についてはほとんど書かれていないけれど、本能寺の変の謎
に関する部分については信長を主体としているものの、光秀等の首謀者側の状
況についても書かれております。――煎じ詰めると、前レスのようになります。

 図式にまとめると、信長がセンターにいて、その周りのサークルに、@イエ
ズス会、A堺商人グループ、B朝廷、➃光秀の四極が存在し、さらにその外側
のサークルに➄秀吉、E家康が存在する構図となっています。

 キーマンを絞ると、Aにおいては代表として「津田宗及」、Bにおいては、
つなぎ役として「細川藤孝」であります。つまりは裏方のフィクサー代理で
あります。

 いずれにしても、変に至る経緯には、複合的要因がいくつも絡んでいる訳で
ありますが、大きな流れとしては――

 1.イエズス会が信長に目をつけ援助して強く大きくした。その見返りとし
   て、カトリックの信仰の促進を得た。また貿易は相互の利益になった。

 2.信長は「天下布武」即ち「七徳により天皇の治世に平和をもたらす」と
  いういわゆる「麒麟がくる」理念から徐々に逸脱して行った。ゼウスに対
  する考えも逸脱してきたということで、信長を光秀に討たせ、その光秀を
秀吉に討たせるというシナリオをイエズス会が描いた。ここにAの「津田
  宗及」の介在があります。

 3.また、信長は朝廷に対しても、無理難題をいくつも投げかけた。そこで
  朝廷としてもを光秀に討たせることを考えた。ここにBの「細川藤孝」の
介在があります。

 4.この2と3のベクトルが合体して本能寺の変になり、光秀が一時天下を
   取った形になるけれど、すぐに秀吉の漁夫の利となってしまった。

 5.4のカラクリははっきりしないけれど、秀吉の諜報力と実行力が優って
   いたのだろうか。それとも家康もそれにからんでいたのだろうか、複雑
   な権力闘争劇、パワーバランスの世界であります。

 光秀は生きていた等の話もあって、「真実は藪の中」でありますが、大き
な流れとしては、立花氏の言うとおりなのではないかと思われます――
  
[71]三つ柏服部さんからのコメント(2020年02月05日 13時15分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本能寺の変については、無数の説がありますが、服部党のマジョリティー
としては、あの天正伊賀の乱での蹂躙・虐殺は絶対許せない、絶対信長を殺
してやると全員心に誓っていたはずであります。

 乱後も伊賀に残存した服部党、各地に散らばった服部党。
 そして長嶋一向一揆に加勢した津島服部党(信長に加勢し、その後秀吉に仕
えた服部一忠の筋。一旦は信長、その後家康に仕えた服部中の筋もある)。
 父・保長から岡崎の松平家に仕えた服部半蔵正成の筋。
 保長の弟筋の服部正尚の筋。
 また、服部正尚の叔父の服部保章の筋もあります。

 これらの特に伊賀のマジョリティーの服部党が何を考えたかは、やはり
「信長憎し」でありましょう。

 明智光秀と服部党の婚姻、徳川家康と服部党の婚姻というものが、一体ど
ういう意味であったのか……本能寺の変(1582)の数年から十年くらい前のこ
とだと思われます。そのころから、信長を取り巻く怪しげなヴェールがあっ
たのかも知れません。
 保章については、余り情報が得られませんが、正尚については少しはあり
ますので、それを記したいと思います。
 掛川市が発行した小冊子『考証 西郷局』でありますが、西郷局は地元掛
川の地「西郷」が故郷となっており、H27年が家康没後400年というこ
とで郷土出身の偉人を顕彰しようと企画されたものであります。
 内容的には、小和田さんのような一級の学者さんが著述・編集したもので
はないので、雑な寄せ集めになっており、一貫したストーリーとしての理解
がストレスを感じさせるものであります。そのせいで、レスに書くのが遅れ
てしまいました。
 今でもまとめるのにおっくうになりますので、どうしようかと思いますが、
結論としては、「真新しい正尚についての情報」を箇条書きにいたしたいと
思います――
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2020年02月05日 15時58分53秒 ) パスワード

設定を変えたら  なんか  良く分からないことになっています。
[73]三つ柏服部さんからのコメント(2020年02月06日 09時22分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ただ今、昨年の十月に出版された跡部蛮氏の『明智光秀は二人いた!』を
読んでいます。久々にしっかりした良い本に巡り合えて、嬉しく思っていま
す。興味あることがギッシリ詰まっておりますし、著者に歴史の学もあり、
また文体・論理もしっかりしていて信頼できると感じています。

 ここでいう「二人」とは、二人の別人が存在したということではありま
せん。「後半生」の光秀と、「前半生」の光秀のことを言っておりますが、
前半生の光秀の属性には齟齬がある(本人ではないいわば別人の属性のよう)
ということであります。

 僧・玄琳(内治麻呂の兄、いずれも服部保章が祖父で、喜多村保光が父で
ある娘と光秀との間にできた子)についての論述が多いので、ワクワクもの
であります。

 詳細は、読みこなしたのち、記述いたします――
[74]三つ柏服部さんからのコメント(2020年02月06日 10時34分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部正尚と服部保章については、原本が1600年代の半ばに成立し、
1800年代前半に改正された『改正三河後風土記』にうまく表現されて
いますので、私はひとまずこれをスタンダードとしております――

 服部正尚:
 「天正七年(1579)己卯正月のころ、蓑笠之助という者夢想に発句を感得
す。
  駿河なる 富士の山にて かひ(甲斐)食て
 此句目度句とて熨斗付の太刀を賜り、句を買いせ給ふ。又そのころ内藤
四郎左衛門正成が夢中に監督せしとて申上げる和歌は、
  咲花に和泉・河内のおさまりてこかね橋をわたる米倉
 とりどり目度事とて、御館の人々語り伝へしが、此歌夢見たるより百日
に満る夜三郎君生れ給ふ。是台徳院殿大相国の御事なり。遠州敷地郡浜松
の城に生れ給ひ、御幼名をば長丸君と申。御首服かへ給ひて秀忠公と申奉
りたり。
 此御母君はお愛殿といひ、西郷の局と称す。西郷弾正左衛門正勝が女、
戸塚五郎太夫忠春に嫁してお愛殿を生り。忠春天文二十三年(1554)遠州
大森の軍に討死しければ、其妻お愛を伴い、服部平太夫正尚に再嫁し、お
愛殿服部が家にて生立し後、大祖父正勝が孫右近進義勝が妻となりて、男
女の子一人づつ生れたり。然るに義勝元亀二年(1571)三月武田が手のもの
と戦ふて討れければ、お愛殿継父服部が家に帰りおはせしを、母方の叔父
西郷左衛門佐清員やしなひて子とし、天正六年の春浜松へまいらせしかば、
西郷の局とめされて、今年四月七日に此君をうみまいらせしなり。」

 服部保章:
 「〜略。左馬助は難なく唐崎に乗上て、一木の松陰に馬より下り、松の
根に腰かけ、迫来る大軍を遠見して休みしが、追兵既に四五町に及ぶ時、
馬にひらりと打乗、只一乗に坂方へ馳入。町中に十王堂あり。其堂の前に
て馬より下り、手綱を切て堂の格子に繋付け、矢立の筆取出し、貼紙引裂
て「此馬は只今湖水を渡したる馬にて候。分捕せし御方不便を加へ給はる
べし」と書付、手取髪に結付、其身は坂本の城に入、光秀の妻(服部出羽の
守保章女也。台徳院の再従姉妹也といふ)、自然・天然と(原書に二男阿古
三男乙寿)いふ兄弟の子を天守に登せ、下に焼草を積て寄手を待懸たり。」
[75]三つ柏服部さんからのコメント(2020年02月06日 12時25分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 掛川市発行の『考証 西郷局』の中の第六部「蓑笠之助と忍者集団」につ
いて、段落落ごとに番号をふって記します。


 @服部平太夫正尚は、伊賀の人(「伊賀の者」)にて、東照宮に仕え、蓑笠
 之助といわれた人である。

 A正尚の本姓は服部で、猿楽に列なる。これは観世大夫も服部で一類で、
 観世の元祖の服部観阿弥は、足利将軍義政の同胞で、その先祖服部某とい
 い、楠正成の家臣だった。正尚の先祖は武士であるが、当時は観世と同じ
 猿楽の仲間だった。伊賀の旧家に伝わる「上嶋文書」には、楠木正成の姉
 が伊賀の服部元成に嫁ぎ、観阿弥を生んだ。観阿弥は正成の甥で、服部の
 一員である。能と忍術はつながりがあり、猿楽師は忍者の代表的な変装で、
 彼らが演じた猿楽が後に能と呼ばれた。

 B正尚は、伊賀の者だが、参州矢作の人(岡崎城主松平家に出入りする)
で、三河の西郷家(西郷局の母の在所)とも出入りがあったようで、局の母
 ・西郷正勝の娘・於貞の夫(戸塚忠春)が天文二十三年(1554)、駿河の善得
 寺で「河東の一乱」の戦いに討死したので、三河西郷の実家西郷家に帰り、
 ここで正尚に再婚する。

 C正尚の妻(局の母)は、西郷家の一族である。家に帰った於貞は、縁あっ
 て岡崎の猿楽師正尚と再婚し、於愛も母に従い、継父正尚の家に養われた。

 ➄正尚は、岡崎・浜松松平・徳川家に仕えたが、遠江佐野郡西郷(掛川市)
 には往来があった。それは構江の戸塚家には、忠春の嫡男・忠家が今川家
 に仕えていてそこに住んでいたからである。正尚も構江に(養女於愛も)
 住んでいたであろう。正尚は、四郎五郎と呼び、平大夫の平は平家の流れ
 という。掛塚に住んで鍛冶五郎とも呼ばれたともいい、於愛の実父・戸塚
 五郎大夫忠春の没後、正尚は養女・於愛のよき父として、五郎大夫を名乗
 って屋敷に住んだと考えられる。

 ここで一度切ります(あと二回ほど)――
 
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2020年02月07日 02時16分47秒 ) パスワード

すごい!
感謝!
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2020年02月07日 14時08分53秒 ) パスワード

三つ柏さん

たくさんありがとうございます。
新しい情報はわたしの系図の紙に書き足しますね。



忍者は  将棋とか碁とか  趣味にも長けてないといけない
そういうのをやりながら  相手から  情報を聞き出すことができるから。

猿楽なら  もっと大規模に情報収集が可能。
世阿弥なんて将軍から可愛がられたんですものね。



人間は幅広いのが一番だな
なんて思いました。



ブラウザーを変えなきゃいけないということで変えたけど使い難くてIEをまた使っていますが
サポート詐欺に  また  やられそうな感じです。
もうやられてるのかな?

だいたい私は窓8なのにアップルのサポートセンターから毎日電話がかかって来る。
無視しているけど  なんか  不安。
[78]三つ柏服部さんからのコメント(2020年02月10日 00時27分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

レス[75]の続き――

 E今川義元の死後、正尚は、岡崎で徳川家康の側近くにて相談役的な立場
 で仕 えていた。
  正尚の養女になった於愛は、三河で西郷正勝の孫、右京進義勝に嫁し、
 男女各一人の子を生んだ(於愛と義勝の二子の、女子は成長して清員の子・
 西郷新太郎宗員に嫁し、男子は西郷孫兵衛勝忠と称し、後に紀伊頼宣公に
 仕えた)。元亀二年(1571)三月四日、夫義勝は三河に侵攻した甲州武田勢と
 竹廣で清員と共に戦い討死したので、於愛は再び継父正尚の家に帰ってい
 た。

 F岡崎から浜松での正尚の家は、城内の侍屋敷で、松平・徳川家に仕えた
 正尚の妻・於貞も住んでいたから、於愛も岡崎・浜松では母と共に暮らさ
 れたと考えられる。
  天正六年(1578)三月、家康が正尚の邸においでの折、於愛が初めてお目
 見えした。直ぐに浜松城へ召し連れられ、伯父(外舅)の西郷清員の養女と
 して浜松城に奉仕。初めは「おあい」と呼び、後に家康に見出され侍女と
 してお側近くに仕えるようになり、寵愛この上なく御台所に直され、側室
 となり、御部屋「西郷局」御平名「於愛の方」と呼ばれた。

 G天正七年(1579)正月二日、遠州浜松城で謡初があり、家康の諸将が皆な
 列席した。この時、猿楽で仕える正尚は、夢想で発句を思いつき、この日
 その句を献じて「駿河なる 富士の山にて かひくうて」と吟詠した。し
 ばらくして、家康が「この句はまことに瑞祥を示す。私がこれを買おう」
 と言い、熨斗付の太刀を与え「いささか以て其料とせよ」と言われた。家
 康の愛妾西郷局はこの時すでに懐妊し、七ケ月になれば、局の継父正尚に
 刀を与えたのは、別に深い考えがあったからであろう。
  正尚の養女・於愛は、この年四月に浜松城内の下屋敷(或いは正尚の屋敷
 ともいわれる)で、後の二代将軍となる秀忠(幼名長丸)を生み、さらに翌八
 年九月には四男の忠吉を生んだ。

 次回に――
[79]三つ柏服部さんからのコメント(2020年02月10日 13時28分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 続きです――

 I天正十年(1582)六月、家康が(織田信長に招かれて上京し対面の後)泉州堺
 で、正尚を召され、早速馳参した。二日、堺の町人今井宗薫の茶湯に招かれ、
 家康はその席におられた。正尚はその席で、明智光秀に信長が弑された本能
 寺の変の謀反の委細を報告した。家康等は驚かれ、評議の上、すぐに堺をお
 立ちになる。正尚は潜行しながら大和路の間道を案内し、伊賀路で参州に帰
 ろうと、名張の城下を通る。城主の服部出羽守は正尚の一族で仰せ入れ、用
 心のため山路の間道をお通りになった。正尚は、路次の忍だから変装するよ
 うにと蓑笠を奉った。家康はこれを召され、正尚に「蓑笠之助」と改名する
 ように仰せ付けられ、お褒めにより近習として近仕した。

 J世が泰平になると、正尚に江戸へ出て、将軍家に参るよう仰せ付けられた
 が、老年のため御免を願い出ると、弟に家督を譲り、代りに出仕するよう仰
 せ付けられ、隠居料として百五十俵を賜った。
  弟の七右衛門成重が正尚の家を継ぎ、家康に仕え加判の列に加わり、一万
 石を賜って青山図書助(介)と改号した。しかし後、家督について不届きがあ
 り、勘気をこうむって没収され、三千石を賜り蟄居した。その子・青山平八
 は両番組に勤め、この人は将軍家から青山伯耆守を仰せ付けられ、名字を贈
 ったとも云われる。

 K正尚(蓑笠之助)の実子(嫡男)を服部惣右衛門といい、家康の第四子・忠吉
 (薩摩守尾張国清洲城主)に付属され、その子は尾州公に奉仕した。次男・三
 男は早世で、四男の平四郎が七右衛門から家を譲られ、隠居料の百五十俵を
 譲られた。これが二代目の蓑笠之助で、庄次郎はその孫である。

 L家康、伊賀越えのとき、正尚の一族で伊賀国名張の城主だった服部出羽守
 保章は、明智光秀の舅だった。明智滅亡の後は、江州北村に蟄居して北村と
 改称したという。その子孫が将軍綱吉の時代に、松平美濃守吉保をたよって
 出仕を願い出たが聞き入れられなかったという。

 M服部半蔵正成の事績で、家康伊賀越えは、蓑笠之助の事績を横取りしてい
 るが、蓑笠之助正成と服部半蔵正成は同じ服部氏の一族であり、正尚は半蔵
 の父保長に近い年齢だったと思われる。伊賀忍者の元締めに偉業を譲ったの
 も、老齢のために江戸での就職を断ったのも、伊賀者忍者に相応しい正尚の
 仕草と感じられる。

 次回は、その他の「落穂拾い」を少ししてみます――
[80]空の青海のあをさんからのコメント(2020年02月10日 15時17分26秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございます。
詳しいですね。


L明智滅亡の後は、江州北村に蟄居して北村と改称したという。

    ふむふむ  これは知ってましたが


その子孫が将軍綱吉の時代に、松平美濃守吉保をたよって出仕を願い出たが聞き入れられなかったという。

    柳沢吉保にお願いに上がったというのは、これは知らなかったです。
    100%知らなかったです。


            恐らく  
            学問好きの綱吉は戦国の気風を嫌っていたから  
            綱吉の寵臣の柳沢吉保は上様の意向を忖度して
            (そんな大昔に伊賀越えで家康に恩を売ったことをネタに出仕しようなんて図々しい)
            と考えたのかも。


            柳沢吉保の側室は綱吉からの拝領妻で、
            生まれた柳沢吉里は綱吉のご落胤で
            だから   柳沢家は「松平姓を与えられて連枝待遇」された
            と言われているから

            
            上様である綱吉と自分の関係を  伊賀越えで結ばれた家康の恩人に乗り越えられては  カナワナイ  と思ったのかな?


            だって「神君家康公」をお守りした関係者なんかに出仕させたら
            どこでどう  自分の立場が危うくなるか  分かったもんじゃないですから。
            柳沢吉保は自分が綱吉の一番のお気に入りということで幕閣の反感やネタミを買ってることぐらい100も承知でしょうから。



政治の世界はオモシロイ。
[81]空の青海のあをさんからのコメント(2020年02月10日 16時10分47秒 ) パスワード

「麒麟がくる」の第4回。


初回から脚本の良さに驚かされています。
どんどん面白くなっています。

今回驚いたのは  (ここで幼い家康と光秀の関係を持って来たか!)  でした。


     古渡城から熱田神宮近くの加藤図書助順盛のぶもり宅に預けられる寸前の設定でしたか。

     熱田神宮の方に移ってから家康は信長と知り合った記憶なので来週あたり信長が出て来るのかな?と。



今回のNHK大河は シッカリ 「遊」んでますね。

気付きました?
光秀が逃げ回る時のBGMは  「シン・ゴジラ」の編曲?変曲?本歌取り?  なんちゃって「シン・ゴジラ」?

     ♪チャンチャンチャ〜ン  チャンチャンチャ〜ン♪

どこかで聞いたな〜
どこだっけ?
でした。


相変わらずCGの緑の着色には呆れています。
「庭」の緑が今回も濃すぎました。 



那古野城はもともとは今川義元の父上の氏親が築城したお城だそうで今川一族の那古野氏が管理してて
今の名古屋城は家康が息子のために作った城で  現在の中区と北区にまたがってて

現在、那古野なごのという地は西区とか中村区とかの繁華街だそうで
これにもビックリ。


わたし的には  名古屋城は北区にあると思ってた。
あそこも中区だったのか  とビックリ。
わたしは中区に住んでて  古渡城の中に住んでた?と思い  調べてみたら  愛知県には2000を超える城があったんだそうです。

http://sengokushiseki.com/?page_id=2568 よりコピペ
>現在、愛知県には2,000を越える城跡として調査されているものがあります。


2000!


これは知らなかった!


だけど  自分の住んでたところに  古渡城跡とか那古野城跡とかの碑があって  なんで?なんで?  とこんがらがってたけど
なるほど  縄張りが広大ということとか  一族の支配した場所としてとか  で「名前」が残って来たのか。


やっぱり一元的な物の見方では  分からないもんだな  と。



それからNHK大河が標準語でやってるからワラエル。
竹千代が刈谷に帰りたいと言った地名が標準語で   この子  三河の子だら〜?  でした。


     「おんな太閤記」の時はけっこう名古屋弁(式)で
     名古屋では「おジさま」「おバさま」と  オジ・オバを言うのが採用されてて驚いた。

             アクセントのある場所は標準語の「おじ様おば様」ではありません。


今回はみんな標準語よね?
京都から来た望月東庵先生も駒さんも標準語だし。


だから  すごい手抜きだな  と。


菊丸は三河の人なのに標準語。


あ、ちなみに名古屋弁の  タモリの言うミャーミャー名古屋弁は  カミの名古屋弁とは違います。

だから  標準語で統一してるのかな?
笑う
[82]三つ柏服部さんからのコメント(2020年02月11日 08時00分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 滑舌とアクセントは気になります。道三の「十兵衛」の発音が聞き取れない
ことが多かった、竹千代の「刈谷」のアクセントが違っていたので、「刈谷」
ってどこ?とわかりませんでした。光秀は腹式呼吸と発声の練習をやったのか、
少し気にならなくなりました。
 それにしても、「つぶて衆」という伏線、どこにつながるのでしょうか。美
濃において光秀を助けた人達というのは、竹千代が六歳の時に織田信秀の人質
になっていたということを考えると、服部党=服部保長(半蔵正成の父)の忍達
ではないかと推測するのですが(但し、今回のドラマには服部党は出ないので
はないかと思われます)。とすると……?

 竹千代は数え六歳(1547)から八歳(1549)まで、織田信秀の人質となっていま
した。1549年の時に、明智光秀は三十四歳(生年を1516とすると)、服部保長も
ほぼ同年代、服部中保次二十四歳、織田信長十六歳位ではなかっただろうか。
 ドラマでは光秀二十二歳(1528生まれ)で設定しているかも知れません。

 跡部蛮氏の『明智光秀は二人いた!』を今百ページ程読んだところでありま
すが、想像以上にすごい本で、光秀像が明らかになって来ます。生年も1516年
が有力であるということですので、今までのイメージ、光秀=青年から、光秀
=熟年〜老年のイメージとなり、それはある意味大きなインパクトであります。

 服部保長は最初足利義晴に仕え、服部中保次は最初足利義輝に仕えており、
光秀も義晴〜義昭に関係していたので、この足利三代を軸として、光秀と服部
党は濃厚接触していたのではないかと推察されます――
[83]空の青海のあをさんからのコメント(2020年02月11日 10時03分07秒 ) パスワード

三つ柏さん

>それにしても、「つぶて衆」という伏線、どこにつながるのでしょうか

「つぶて衆」については
わたしは  信長とその仲間  と思いました。


    それで来週謎解きがあるのかなと思っています。


信長の少年期は「つぶて」で遊んでいた
から
あれは  「信長とそのギャング」  のいたずらじゃなかったのかな  と思いました。



「つぶて」というのは今の中東の若者のように  石とかレンガで喧嘩するように  (ただし相手のイスラエルは本気の火器だけど)
日本のムカシっから  石は武器の1つで

平安時代の歴史小説を読んでいると  「石つぶての紀平次」  なんて人物が源為朝の家来にいて  活躍しています。


                「八丁つぶての紀平次」
                「三町礫の紀平次」

                     ヲイヲイ300mも飛ぶ?

                     ま、今時の子でも水面に石礫飛ばして遊んだりしますから
                     原始時代から人間は石を武器として来たのでしょうね。



少年時代の信長は「石礫合戦」で戦いの要領を学んだ
なんて言われています。


なので今回のNHK大河は今までの作りとは違うなぁと感心しています。
人間のあるべき姿の「基本」に戻ったというか
表の歴史をただツラツラ描いて来たこれまでの面白みの無い大河ドラマとは違うな、と。


      面白かった「真田丸」は三谷幸喜の個性が出まくった作品だったと思う。


>光秀像。生年も1516年

82年に死んでるのは確かでしょうから  信長より18歳も年上?
[84]空の青海のあをさんからのコメント(2020年02月12日 02時55分38秒 ) パスワード

ナゴヤとナゴノの違いが分かったところで積年の謎の一端がほぐれて来ました。


    うちの  三河の一族って  なんで三河在?なんで今川方?  という疑問がちょっと解けた感じ。



つまり今川氏親が那古野城を築き始めて一族の那古野氏に任せたことを知って
ヲイヲイ
我が家は織田信秀に敗れて尾張南西の今の弥富に引っ越す前に、(大橋の乱と思う)とっくに今川と懇意だったの?
と。

      ワタシにとって当時うちの先祖と今川氏との関係はアタマの片隅にもなかった。
      

      わたしが知ってたのは
      尾張管領の斯波氏の家来になって
      そこで
      頭角を現して来た織田氏に負けていくという図式を考えていたけど
     
      斯波氏の前に今川が尾張で力を持っていたのだったのか
      これは知らなかったな〜


          だから我が家は織田なんか後輩のくせにと根拠の無い
マウンティングをしてたのか。


          実は斯波氏は尾張管領になる前、本貫地は越前なんだよね

          だから織田(のヤローと書こうとしちゃった。わたくしとしたことが  おホホのホ)を越前から連れて尾張に来たってコトだったのか。

               織田は越前で神職をやってたってハナシだよね




      だけど  うちの一族の三河在が義元が桶狭間で死んだ後も今川氏に仕え
      その後
      家康が今川方で人質になっていた妻子を救出するのに

         今川方の鵜殿長照父子は討ち死にし、長照の子の氏長・氏次が捕らえられ、
         駿河国で今川方の人質となっていた家康の妻・瀬名姫(築山殿)(今川氏親族出身)、嫡男・松平信康、長女・亀姫ら
         との人質交換が行われた

この永禄5年=1562年=の戦いで三河の親戚が討ち死にしている。

  
         これは知ってたぞ
         去年の終わりだけど。



やっぱり歴史というのは一元的解釈では理解を超える。


そうか我が家は斯波氏の前に今川氏の家来になってたのか。
そこへ斯波氏が入って来て
今川氏は  足利家 >  吉良家  > 今川家 の順に身分格式が位置するから
斯波氏が入って来ても波風は立たなかったんだろうな。



織田が斯波氏の家来になって旭日の如く力を付け斯波氏や織田本家を圧倒して信秀信長へと繋がって行ったのか。


津島神社は織田家の氏神ってNHK大河紀行で紹介してたよね。

つまり織田家は平資盛子孫って  本当だったのか and/or 利用しただけなのか
とにかく津島神社と関係が深かったようだ。



こうなると  うちの一族から織田方に付いたのがいるというハナシも整合性が出て来る。


三河の一族は元々今川方だったご縁があった
ということだね。



津島神社の神事の1つの  北朝方の武士を捉えたシーンは  信長(や秀吉)が楽しんだ  というハナシは   なるほどね


信長の先祖は  平家で   越前に残留して   南朝方で   後に  尾張にやって来た  という流れがハッキリした。


織田のハナシはどこまで「仮冒」なんだろうと思ってたけど   信憑性が  いよいよ高まった。
[85]空の青海のあをさんからのコメント(2020年02月13日 02時49分51秒 ) パスワード

三つ柏さん

このスレッドでは遠江国の服部氏わけても長上郡の服部氏について研究したいスレッドでしたが

なんとワタクシの関係者のことが明らかになるばかりで   申し訳なく
そして
ご先祖さまが「いまごろ分かったのか」と叱っているような気もします。


そして最近知り合って仲良くなった人の俗姓がなんと  我が一族  でした。
上のレスにもその家名を書いたばかりです。


その方は家の格の高い出の人なので  纏っている雰囲気が  取りようによってはカンデッセンディング(上から目線)  にもなるんでしょうけど
な〜んか  彼女にからみたい  ということで

知っちゃいました!
   うちの一族!
   先祖同じ!
   向こうの方が格が1つ2つ3つは上
   きゃはは


ここ最近知り合った数十人いる仲間の中で  その方には  からみつきたい  そんな心境があって  自然に  分かったのです。


こんな事が  まだ起きるのか!  でした。
     なんか最近  ご先祖さまパワー  来てるんだよね〜
とは思ってたけど。




>服部保長は最初足利義晴に仕え、服部中保次は最初足利義輝に仕えて

この件でも今回の三つ柏さんの書き込みが無ければ  わたしにはイマイチ納得がいかない事  でした。


足利将軍家に尾張の田舎の侍が  それも  南朝方の子孫が  どうやって取り入って出仕できたのだろうか?
と長年  疑問に思ってました。


「家譜」とは先祖を顕彰して良いことを報告することですが
徳川幕府に足利将軍家に仕えたことなんか報告して意味あるのか?
本当に足利幕府に出仕してたの?
と疑問でしたけど


尾張管領斯波氏の前に  とっくのムカシに  今川氏に仕えていたのか  です。


「新参の織田なんかよりウチの方がずっと格上」という我が家の憎しみと妬みと焦りの感情は(笑)足利一族の中でも後継者として確立してた今川家がらみだったのか、と。


       世阿弥が足利将軍義満に可愛がられていた史実もありますしね


保長も中保次も一応当時の出世コースには乗ってたんでしょうね。
足利将軍家の中はガタガタだったけど。

それで現実にはどうすべきかということで  今川氏の領土の中で  活路をみつけようとしてたのかな?

       わたしの三河の一族は最後まで今川氏と命運を共にして GAME OVER になってしまったけど

       家康についた家は活路がちゃんと手に入ったということだったのか、と。


三つ柏さん宅が一向宗ではないというのも  GAME OVER側ではなかった  という1つの状況証拠かもね。


消去していくと  三つ柏さんのご先祖さまには  保長系と中保次系が残るのかな?



政信系だったら合わない点がいくつかあるから。

夷隅郡にいたとか        なんであんな遠くに飛ばされてた?
川口久助(大橋の親戚)と親戚とか
朝比奈からヨメを貰っているとか     朝比奈なんて今川家の家老の家じゃん


で、保長か中保次か  と敢えて特定したいとすると  中保次系?


まだまだたくさん読み込まないといけませんね。
[86]三つ柏服部さんからのコメント(2020年02月13日 12時47分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 跡部蛮氏の『明智光秀は二人いた!』は、その題名からして読者の好奇心を
引こうとする出版社側の思惑を感じるものの、つまりは前半生の光秀の属性・
イメージが別人の属性によって彩られたしまった結果、二人の別人がいたよう
な矛盾を生み出してしまったということで、原因の一番大きなものとしては、
僧・玄琳の「明智系図」の影響ということであります。
 この本の良さ・楽しさは、僧・玄琳(母は服部家出身)に関係する論述がかな
りの部分を占めているということです。なんとなくシンパシィを感じてしまい
ます。
 ただ今、本の半分程度を読んだ所であります。いずれ整理してお伝えいたし
ます。

 私の服部家の由来は、状況証拠ばっかりですが、限りなく服部中家であれば
さもありなんという環境にあります。古代の服部(神服神社の丸に三つ柏)が、
生き残った可能性は少ないのではと思います。
 いわゆる女紋(多分どこかで、系譜のどこかで永井氏と混交)を使うようにな
ったのかと想像しています。

 いずれにしても、明智家と服部党、服部党の中の相互関係、そして南朝下に
おける服部党、家康の浜松城時代(十七年間)の服部党の在り方、それらを知る
ことは自分を知ることになりますので、根気強く取り組んでまいります――
[88]空の青海のあをさんからのコメント(2020年02月15日 04時09分23秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101706_6.html
長上郡の服部氏族CXXX:130:現場100回-11

を立てました。

切りの良いところでどうぞ。
[89]三つ柏服部さんからのコメント(2020年02月15日 06時44分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 桑名市中央図書館で公開している『元御家人筋并御由緒有之蒙仰御用相勤
候蒙附服部家累系』(「蒙」という字がぼやけて正誤不明)という、服部半蔵
の長男正就の孫・正容から数えて六代目の丹後という人が書きまとめた服部
半蔵家の家譜がありますが、それによりますと、家祖は服部石見守「正種」
であります。一般的には「保長」のはずですが、二つの名前の関係はどうい
う具合なのか、ここは知りたいところであります。

 この「正種」の説明書きに――
 「是より以前数代、足利将軍家に仕え、正種より参州に…」とあります。
つまり、正種の数代前から足利将軍家に仕えていた……観阿弥・世阿弥(
服部家)とオーバーラップしてまいります。猿楽師の系統をにおわせます。

 猿楽師といえば、大久保長安(世阿弥の娘婿・金原七郎秦氏信(禅竹)か
ら数えて五代目で、も服部氏・楠木氏の血を引いている)も特筆すべき存在
であります。登場してくるのは、甲斐武田が滅びて後、つまり本能寺の変
の前に滅びていますので、ほぼ本能寺の変の頃から徳川方の家臣となって
きて、またたく間に一大人脈を築いて行きます。

 その人脈を分析すると、大久保長安を服部氏に見立てた場合、また服部
家を猿楽師の系統種族とみなした場合、猿楽師集団が家康の周りを取り囲
んでいることがわかります。
 @服部半蔵正成・正重
 A花井吉成・服部保俊
 B大久保長安
 C服部保章(名張は観阿弥旗揚げの地)

 猿楽師とは何であるのか、その本質を知ることは家康を知ることにもな
ります。世阿弥の祖は秦川勝であると言っています。服部氏も一般的には
秦氏に分類されております。

 家康は新田氏を名乗り(仮冒)ますが、本当は賀茂氏であり、秦氏とは近
縁であるということはわかっています。秦氏と賀茂氏はむしろ一体関係で
あると言った方がいいのかも知れません。いわゆる八咫烏集団ということ。

 明智光秀が、服部保章の娘を妻にしたということの真の意味は何か?
 明智光秀を八咫烏集団が信長の対抗馬として見込んだのではないか。光
秀はそれに応えるために服部氏の娘をもらった、あるいは付けられた。そ
れは情報の要として、またくノ一的身辺護衛のため――
[90]空の青海のあをさんからのコメント(2020年02月15日 11時11分50秒 ) パスワード

三つ柏さん


>服部半蔵の長男正就の孫・正容から数えて六代目の丹後という人が書きまとめた服部半蔵家の家譜

正就の孫ということは正就が伊賀者達からのストライキで職を失って桑名の妻の実家に身を寄せた後に生まれた人=正容=でしょうね
その人から6代目が丹後ということは  服部丹後は江戸中期あたりの人でしょうか?



>それによりますと、家祖は服部石見守「正種」であります。

はい
服部石見守正種は服部半三保長のことです。

保紹が「正種」とすると  寛政重修諸家譜第1168の服部氏  P60  に書かれています。


     服部半三保長の長男は保俊で家康に仕えて永禄3年三河の高橋合戦で24歳で討死

     服部半三保長の次男は保正で家康に仕え元亀3年12月三方ケ原の戦いで討死

     服部半三保長の三男は勘十郎で天正12年に討死

     服部半三保長の四男は久太夫=久左衛門で家康に仕えた

     5男のことは分かりませんが   若死にしてるのかもですね   
     6男が服部半蔵石見守正成です。


          つまり兄上達が早死にしてるので  6男の半蔵正成が保長の家督を継いだ  ということでしょうね。
          その後、半蔵正成の直系が石見守を名乗り続けた、ということですね。

              丹後さんはつまり嫡子じゃなかったようですね。
              嫡子で家督を継いだなら石見守でしょうから。


 


>一般的には「保長」のはずですが、二つの名前の関係はどういう具合なのか、

回答: 寛政重修諸家譜第1168の服部氏  を読み込みましょう


「正種」ということで将軍義晴に仕えて
安綱の刀を拝領

三河に来たりて 清康  広忠  家康に歴任し  のち  致仕す
岡崎にて死す
法名  道可


とワタシのメモには書いてあります。


桑名では
正就の子孫の家を  小服部家
正重の子孫の家を  大服部家
と呼ぶ

とメモがしてあります。
[91]空の青海のあをさんからのコメント(2020年02月15日 11時28分44秒 ) パスワード

たぶん壊れると思うけど頑張ります






*******保長の長男の保俊   
 

保長*****保長の次男の保正


*******保長の三男の石見守半蔵正成********長男の石見守正就****長男が石見守正幸で次男が正辰で三男が正治
              
****************************次男の伊豆守政重

****************************三男の正広


こんな流れ。




三重県の服部さんは一時ここ平熱に来てらっしゃって    秦氏の直系の服部さんです。
お嬢さん達はアメリカにいらっしゃいます。

ということで  我々がこのサイトで書きまくっている   服部氏とは異なります。
家紋も全く違います。
[92]空の青海のあをさんからのコメント(2020年02月15日 11時49分37秒 ) パスワード

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%8D%8A%E8%94%B5


服部 半蔵(はっとり はんぞう)


戦国時代から江戸時代にかけて松平氏から徳川氏の麾下で活躍した者を指す。


代々「半蔵」を通称の名乗りとした服部半蔵家の歴代当主である。


詳細は不明であるが、忍者だったのは初代だけであり、2代目以降は忍者ではなかったとされる。


もともとの先祖は伊賀国花垣村余野(現伊賀市)の千賀地谷に居住し、そこで代々周辺の地を治めてきた一族とされる。


4代目以降、服部半蔵家は大服部家として桑名藩で存続した。



初代 服部半蔵(半三)保長/正種

生没年不詳。
伊賀出身の忍者。

伊賀を出て室町幕府12代将軍足利義晴に、続いて三河にて松平清康に仕える。


隠居後は号を浄閑として岡崎城下で没した。
名は半三郎、法号は道可。


名や出生地については、伊賀国予野荘の服部(千賀地)保長が寛政重修諸家譜をはじめ通説となっているが、三代目半蔵正就の子孫が仕えた桑名藩の服部家譜は名を服部正種とし、今治藩の家譜では伊賀国荒木(阿拝郡荒木)の服部正種と記されている。

 
               荒木は平安時代平家の服部=伊賀=家長のもってた土地ね
               子孫で有名なのは  荒木又右衛門で鍵屋の辻の仇討ち事件の武士



2代目 服部半蔵正成

徳川家康に仕えた武将。
御先手、馬廻、鉄砲奉行などを務め、
のちに徳川家より伊賀同心の指揮権を預けられる。

いわゆる「服部半蔵」として世間でよく知られるのは彼の事であるが、
あくまで伊賀同心は配下の一部門であり、
自身は甲冑を着て足軽を率いた武士である。


一番槍、一番乗りなどの武功を重視し多くの戦功を上げた。
名は弥太郎、官位は石見守。

慶長元年11月14日没。
法号は専称院殿安誉西念大居士。


     関ケ原の合戦シーンなんかで武士が「伍」の旗印で行列していくけど     あれ  半蔵さんの一団ってことです。     



3代目 服部半蔵正就

父である正成の死後、
伊賀同心200人の支配を引継ぎ先手の鉄砲奉行を務める。

しかし伊賀同心とは服部家の家格などの理由で父の代より確執があった。

慶長9年、将軍お目見前に無断で身内の病気見舞いへ行った事などを理由に改易を申し付けられる。

このため正就は伊賀同心の支配の役目を解かれ岳父である松平定勝の元で蟄居となった。

後に汚名返上のため参陣した大坂の陣で行方不明となり、高野山で葬儀のみ行われる。

また、伊賀や新潟には正就が落ち延びた伝承が残っている。

名は源左衛門、官位は石見守。
法号は了義院殿前石州禅室参公大居士。



4代目 服部半蔵正重

2代目正成の次男で、3代目正就の弟。


兄の改易に伴い慶長10年頃服部半蔵(服部石見守半蔵)を襲名する。
徳川秀忠の小姓や家康の近侍を務め、
大久保長安の長女である美香の娘婿となり
佐渡金山同心を務めた。


後の大久保長安事件では咎を受けなかったものの別件で改易となり、
1613年、村上義明に預かられる。


以後1642年までの29年間、正重は村上藩に仕える事となった。

村上家に代わり堀直寄が村上藩へ入ると正重も預け替えとなり、許されて二千石で堀家に仕えた。


1642年に村上藩が一時廃藩になった折は暇を出され甲州にて息子らと隠棲していたが、
5年後の1647年、桑名藩に仕えていた兄正就の子、正辰が正重らを探し出し、
桑名に招かれる事となる。


桑名へ移った正重は松平定綱に二千石の上席年寄の身分で召し抱えられた。
また、息子らも部屋住みとして桑名藩に仕えた。


これにより桑名藩の家老職家として服部半蔵家は存続した(大服部家)。


名は長吉、官位は伊豆守。

桑名で左太夫(左大夫)と名乗る。

慶安5年5月27日(1652年7月2日)没。
法号は清流院殿澄性日浄大居士。


正重の兄・正就の妻は桑名藩主松平定綱の姉であり、その子・服部正辰(正重の甥)も桑名藩に仕えている。
血統から藩主一族の扱いを受け、服部半蔵家以上に優遇されている(小服部家)。



5代目 服部半蔵正吉

正重の長男。
父とともに桑名へ招かれ1000石の部屋住みとなり、親子で侍組および足軽100人を預かった。

正重の後に家督を相続、後に左大夫と名乗る。
元禄12年6月(1699年)没。



服部半蔵正勝

寛文3年(1663年)家督を継ぎ1600石を得る。



服部半蔵正秀

延宝8年(1680年)家督を継ぎ、1500石の年寄となり前方先手を預る。
宝永3年(1703年)没。
名は七兵衛。




服部半蔵正輔

正秀の息子。
宝永3年(1706年)家督を継ぎ、1600石の年寄となる。
享保9年(1724年)4月に没。



服部半蔵正明

正輔の息子。
名は主税。
正明の後、正輔の他の息子もすでに没していたため、服部家は養子縁組の願いを提出し正輔の家系である浜岡助五郎に家督を相続させる。



服部半蔵正盈

牢人であったところ、正輔の息子が早世したため養子となり跡目を継いだ。
名は浜岡助五郎。

父は半蔵正輔の兄弟である服部加藤次。      なんで加藤なんだよっ!

何らかの事情により享保5年(1720年)正月に知行と屋敷を召し上げられる。

これによりお家断絶の危機に見舞われたが、
当時の桑名藩主松平定賢が正成の時代からの服部家の武功と家柄を思い、
ふさわしい者に跡を継がせるよう命じたため、
服部半蔵家は存続を許された。


                        やっぱり、いい家と縁組するもんだね
                        子々孫々  助かるんだねぇ





服部半蔵正賢(正覧)

今治藩松平筑後守家の家臣である小服部家・服部伊織の次男。
名は茂十郎。
正盈の半蔵解任に伴い享保18年(1733年)家督を相続し、1000石の年寄となる。

幼少の頃から持病の喘息により病弱であった。

半蔵を襲名した後も喘息の悪化により職務に支障をきたし、再三にわたりお役御免を申し出たが、
そのたびに引き留められ、
温泉地などで寛々と養生するよう申し付けられる。


                       いいねっ!


安永3年(1766年)白河にて病没。



服部半蔵(内記)

桑名藩家老。



服部半蔵正礼

桑名藩家老。
服部日記を記す。
文政7年8月4日(1824年8月27日)没。



服部半蔵(諱不明)

桑名藩家老。
千石。



服部半蔵正啓

桑名藩家老。
名は吉人。
文政8年2月18日(1825年4月6日)没。



11代目 服部半蔵正綏

最後の服部半蔵である正義と桑名藩家老 酒井孫八郎の父。
文政7年家督を継いだ。
初め左太夫、伊豆と名乗った。



12代目 服部半蔵正義

弘化2年(1845年)9月29日生まれ。
21歳で(大服部家)家督を継ぎ桑名藩家老となる。

名は半十郎。
服部半蔵日記を記す。

桑名藩家老である酒井孫八郎は正義の弟である。

藩主の松平定敬が京都所司代となり、その補佐として正義も京に赴く。
慶応4年、鳥羽・伏見の戦いに桑名軍を率いて参戦、
明治元年(1868年)閏4月には転戦した柏崎の鯨波戦争で指揮官を務める。

同年9月26日に庄内にて降伏。

官軍に身柄を拘束され謹慎処分となるが、
明治2年12月、桑名藩の戦後処理の終了と共に謹慎が解かれ自由の身となる。


その後は桑名藩の要職や三重県第一・第三区長を務め、
明治19年(1886年)1月22日に没した。

嗣子・継嗣はなく、正義を最後に大服部家は断絶した。




最近知り合った会津の人ですが
この人の一族は仙台藩の家老で
奥州同盟なんかで活躍したものの
幕末に会津も仙台も負けたから
明治2年に斬首になってる。

人の一生とか運とか  いろいろだね。


でもやっぱり結婚相手は選ばなきゃいけないんだな
あはは
[93]空の青海のあをさんからのコメント(2020年02月15日 14時22分25秒 ) パスワード

http://ninja-yakata.hatenablog.com/entry/2015/12/04/193700
忍びの館の忍者コラムよりコピペ:


服部保長はまたの名を千賀地保長とも言い、伊賀の千賀地谷の出身だと考えられている。

一方、正種は平氏・服部平内左衛門の末裔で、
服部速水『今治拾遺』によれば、伊賀の荒木村出身だという。

これらが事実だとすれば、正種と保長は全くの他家であり、正成の父は保長ではなく正種だということになる。


では、なぜ服部保長の末裔たちは、江戸後期にこのような家系図を幕府に提出したのだろうか。

明確な理由は分からないが、徳川十六神将の1人・服部半蔵正成にあやかりたかったのかもしれない。

同じ伊賀出身で服部姓ということもあり、服部半蔵の遠戚と見せかけることは容易だ。
家格の見栄えも良くなる。
すでに江戸時代の半ばには「保長=正種」と考えられている節があり、
伊賀者の由緒書を見ても、保長の子孫と正成を「親戚」と書くものがある。



謎ですね。

義元を討ったとされる尾張の服部小平太と遠江の服部中保次は同一人物なのか兄弟なのか別人なのか?


謎とされる  そこが  忍者の忍者たるところなんでしょうか?
[94]空の青海のあをさんからのコメント(2020年02月17日 11時05分29秒 ) パスワード

「麒麟がくる」を見終わったところです。


今回も  しっかり  遊んでましたね。
サブタイトルからして「伊平次を捜せ」。

     これは「ウォーリーをさがせ」のパクリですね。

遊び所のBGMも  あれは  「キャバレー」か何か  1930年代あたりの  ギルデッドエイジのアメリカ音楽  でしたね。

     ライザ・ミネリのワイマール共和制時代のドイツあたりの音楽かな?

音楽は100%門外漢なので検討も見当もつかなかったです。



わたしは「伊平次」は   刀鍛冶という認識はあったけど  鉄砲鍛冶になってたという展開に度肝を抜かれた。


とにかく意外な展開がオモシロイです。


三淵藤英は細川藤孝の異母兄だったんですねぇ。
どこかで聞いた名前だったけど足利義昭なんかの時代に何度も出て来る名だなと。


義輝役が向井理とは!
ステキ過ぎ!     
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.25 Rapah.