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 投稿番号:101692 投稿日:2019年10月02日 06時13分33秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏紋の服部さんの代理
長上郡の服部氏族CXXY:126:現場100回-7

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101687_49.html
長上郡の服部氏族CXXX:125:現場100回-6
の続きです。


      自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
      最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


前スレは新田義一と新田喜斎が目玉でしたね。


久保田順一著『新田三兄弟と南朝』の中に、
「(佐田氏の)祖・新田四郎義一は、
義顕と「菊池七郎藤原氏基」の養女・竹玉との間に生まれたとある。
竹玉は落城前に金ヶ崎から新田荘に落ち、
延元二年(1337)四月に義一を生み、
義一は新田義繁の子として養育されたという。」



『清和源氏の源流を訪ねて:三河遠江名倉氏の系譜』
(川島長次郎、細田安治編著)

「新田義貞の一族が、遠江・三河・尾張方面に下向した。
新田兼時(誰の子?)は、三河幡豆郡に移り、貝吹郷(西尾市)を開いた。
新田伊武(誰の子?)は、奥三河の菜倉(設楽西納庫)の清水城主となり、
28ケ村を領し、旧姓を改めて菜倉と名乗った。

男子に恵まれず、婿養子として新田義一を迎え、
義一は結婚後に兼氏と改めた。
兼氏は岩松政経の子供と判明。幼名を藤王丸、
後に新田右衛門左と名乗っていた。

新田兼氏(義一、清水城主二代目)から数えて五代孫の兼春は、
碧海巨海村に移り、その弟・伊茂(友作、後の喜斎)は気賀の堀川に移り、
堀川城主となった。

この兄弟の父・清水城主五代目・新田伊義は、
武田方・下條氏に攻められ落城、
息子の伊茂(新田友作、堀川城主)を頼って気賀に落ちた。」


そして驚きべき情報がありましたね:
瀬戸方久と新田喜斎方久は別人説。


さて戻って:

@「貝吹郷」のあった西尾市ですが、
全体を吉良氏が治めていたわけですが、
南北朝時代においては、
吉良の本家筋が「南朝方」、分家筋が北朝方」にと、
身内同士が分かれて争っていた。

つまりそれは本家筋の「西条吉良家」と、分家筋の「東条吉良家」であります。

吉良氏は足利氏だから、北朝方だとばかり思っておりましたが、
歴史に思い込みは禁物であるということ、そんな教訓を得ました。
  


新田義一の妻の父親・伊武は、大河内系の最初の清水城主であり、
また、名倉(菜倉)と名乗った最初の人でもあります。

名倉家は、その後代々清水城主を務めます。

義一は結婚後「兼氏」と名乗りますが、
その兼氏から数えて五代目(玄孫やしゃご) の伊茂が「新田喜斎」であります。
喜斎は法名(仏門名)でありまして、通称は「友作」でありました。


新田喜斎(伊茂 友作)のその後:
 
清水城主の系統は、
伊武―兼氏(義一)―兼伊―伊信―伊義―伊茂(友作) と続きますが、
1554年に武田信玄が下伊那から奥三河に攻め入って来ます。

下伊那を領していた下条氏は、武田の軍門に下り、
そしてやむなくその先頭に立たされて奥三河に攻めて来ます。

清水城主の伊義は、攻められる寸前で清水城を明け渡し、
気賀に落ちて行きました。

気賀には、既に(10年前くらいに)やって来ていた息子の新田方久
喜斎(伊茂 友作)がおり、「堀川城主」となっていました。

気賀での新田喜斎の活躍については、
1568年に徳川家康が遠江に攻めてくるわけですが、
喜斎は今川から徳川に付くことを主張しますが、
家臣達は今川を主張したため、堀川城から出てしまいます。

その後にあの悲惨な堀川城の戦いがあります。

喜斎は気賀の呉石に隠棲後、井伊氏に協力して気賀地域の発展に尽くします。
1606年、喜斎82歳の時に、塩の訴訟事に関係し、
不幸にも刑死させられてしまいます。


こんな流れでしたね。

[1]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月02日 09時11分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あたらしいスレッド、ありがとうございます。

 歴史の真実というのは、資料・伝承・口伝等にどれだけ信憑性があるか
で決まって来ます。極論でいえば、「客観的事実」がどうだったかという
ことになります。

 ただ、人間の「心の中・気持ち・感情」というものも真実であります。
でもそれは音楽のようなもので、文章に残される場合もありますが、大半
は虚空の中に消え去ってしまいます。

 客観的事実だけでは、無味乾燥したものになってしまいますので、そこ
に人間としての「思考・喜怒哀楽―何を考え、何を感じたか」を加味して
やらなければなりませんが、そこの部分は推測に頼ること大であります。

 そうすると、想像的要素がでてきますので、客観性とはすこし乖離する
ことになります。

 歴史学とは何なのか、改めて考えてみたくなりました。

 甲賀については、まだ未知なるものが一杯です。甲賀の研究者さんがい
ると思いますので、いつかコンタクトできればなあと思っております。

 昨日、菅沼氏について「平熱」に書いたのですが、トラブル中か何かで、
消えてしまいました。後で改めて書き直します――
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月03日 14時11分16秒 ) パスワード

今年は9月30日がユダヤ暦  5780年  だそうです。(9月30日から10月1日にかけて)

え?
と思ったのですが

エジプトは紀元前3000年頃には中央集権国家だったから
そんなもんかな?と。

ラムセス2世が紀元前1200年台?
モーゼが紀元前16世紀とか12世紀とか?笑  すごい誤差。
ということはラムセス2世もそのあたり?

ま、深く追求しないでおく。
いったい何百年?何千年?エジプトの奴隷をやってたのかな?と。
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月04日 16時35分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 設楽の「田峯城」の看板等によりますと――

「土岐資長が菅沼家に養子に入り、定直―定成―定信と続き、この定信によ
って「田峯城」が築かれ、定信からは、代々田峯城主として、定忠―定宏―
定継継―定忠と続きます。

 今川、武田、織田、徳川などの戦国大名の台頭する中で、ここ奥三河では、
作出の奥平氏、長篠の菅沼氏、田峯の菅沼氏の三氏が「山家三方衆」として
結集していました。しかし、その団結も時によって崩れ、姻戚関係でありな
がら、骨肉相食む戦いを繰り広げることになります。

 田峯城五代目城主の定忠は、武田方に従い、家老の城所道寿とともに長篠
の戦いに出陣しますが、今川義元討死・武田方大敗の知らせを受けた留守居
の将・叔父の定直と家老の今泉道善らの謀反にあい、田峯城に入城できずに、
武田勝頼と共に信州に敗走することを余儀なくされます。

 復讐を誓った定忠は、翌天正四年(1576)七月十四日、田峯城に夜襲をかけ、
謀反の一族老若男女九十六名を惨殺、首謀格の今泉道善を鋸引きの刑に処し
ました。

 定忠は、天正十年(1582)、飯田の知久平にて討たれ、その後、田峯菅沼宗
家は断絶しました。」

ということでありまして、長篠の戦い後で、武田勝頼を守りながら甲斐へ敗
走した菅沼定忠、また、勝頼を守るために自分の馬を主君に与え、討死した
笠井満秀、その他にも主君のために命を捨てた人がいます。彼らの行動は、
ひょっとすると、南朝精神に基ずくものであったかも知れません――
 
 
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月04日 22時55分52秒 ) パスワード

三つ柏さん

すごい血生臭いお話ですね。

作手には知り合いがいて
とてもプライドの高い人で
なんか分かった気がします。


勝頼の母方祖母が服部氏に繋がるからか
すごく同情します。
いろいろな意味で勝頼は南朝方系でしょうね。
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月07日 00時27分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、富士市立図書館へ行ってきました。目的は、国立国会図書館にしか
ないと思っていた本が、この富士市立図書館にあったからであります。
 富士市までは120qありますので、名古屋へ行くより少し遠い距離であり
ます。
 当日の午前中は雲もなく、富士山のパノラマがクッキリと見えておりました。
ただ、白化粧した美女的な富士山と比べると、素顔の富士山の方は武骨な男性
的イメージであります。

 何の本かと言いますと、ある郷土史家からもらったコピー、それは『"隠れ
南朝"の天皇』という題でしたが、元の本がどんな本か探すのに随分時間がか
かりました。いくつかの候補の本を探し出し、その中からほぼこれだと推定
することができました。そして、それが富士立図書館にあることがわかった
のです。
 元の本の表題は『富士"隠れ南朝史"』で、作者は加茂喜三氏でありました。
今から32年前に発行されております。
 この本には、南朝に関する驚くべき事実が書かれています。それは想像を
越えたものであり、南朝史全体の背景・関係がわかる。さらには近世とのつ
ながりもわかると言っても過言ではありません。ただ今読み込んでおります
ので、近々報告できると思います――
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月07日 03時24分26秒 ) パスワード

三つ柏さん

ワクワクして待っています。


ヒバリさんのお家が絡んで来ませんか?
宮下さんです。

上記レスに勝頼の母のそのまた母上は服部系・南朝がらみと書きましたが
これに関することなのかな?と。

そして背筋がゾクゾクすることが先週にあったのです。

     見ちゃったのです
     アマテラス!
     某神社の動画で。
     本当に一瞬。
     1秒の3分の1ぐらいの時間。


それでちょっと自信を無くしていました。
こういうハナシは好きじゃないし  「気のせい」  と無視することにして来ましたが
アマテラス  本当にいた?ウッソォ〜   →   今は  いた!  に傾いています。



で、関係無いのですが
http://nihonrekishiken.com/nankutyusyo.htm
南北朝関連文献より


母方は後南朝系なので
ココに興味がありました:

以下コピペ:
南朝皇室と後南朝伝説―『中田』『南朝誌』対『宮下』『美作文書』

従来、後南朝といえば、良泰・尊義・尊秀・尊雅(後南朝四代)と続く皇統とされてきたが、
さらに後南朝のニューフェイス、あるいは第二の長慶天皇とも言うべき勝王、忠義王の身代りとなった国貞王、尊雅王が生き残って
改名した尚尊王が加わって新たなる後南朝史を組み立てることで、
いわゆる後南朝は良泰・尊義・尊秀・尊雅(後南朝四代)から、
良泰・尊義・尊秀・勝王・尊雅王の五代に訂正を迫るとともに、
美作・熊沢・天内など西陣南帝の子孫を称する多くの家を震撼させる驚天動地の一大スペクタル巨編文書
(南朝誌・瀧川寺禅寺系譜・姓氏家系大辞典ー後南朝系譜)登場。
さらに尊良親王・成良親王・護良親王・綴連王・雛鶴姫・陸良親王・興良親王・尹良(隆良)親王・説成親王・尊聖などに関する諸問題、
三浦芳聖式南朝系譜などについても論及、その謎を余すところなく解明。


南朝尹良親王と徳川系図の謎(ここでは  まさなが親王。  我が家は  いずよし親王とお呼びする)

以下コピペ
青嘉堂に残る各種徳川系図、中田憲信の遺作『諸系譜』『徳川家譜』、鈴木真年の『百家系図稿』、
などが伝える徳川家と南朝尹良親王・良王・良仁親王たちの交わりを通して徳川系図の謎を解明。

賀茂(加茂)氏・在原氏・三河畠山氏・松平氏・徳川氏・南朝氷室・新田・足利・大橋氏・堀田氏・水野氏
などの氏族系図の解明を通して徳川家系図の謎を解き明かす。
伊耶那岐命〜大鴨積命〜加茂氏〜在原氏〜清和源氏〜徳川氏と続く一連系図(徳川氏は第18代当主の恒孝まで掲載)
宗良親王・興良親王も登場。
清和源氏を称した徳川家が加茂氏で、その祖たる徳川親氏の妻(松平亀子)は在原業平の末裔だった。
その連綿系図をついに公開! 
鎌倉幕府北条執権十五代・ 室町幕府足利将軍十五代(肖像画つき)・新田義貞家系図も掲載。

などなど

信じる信じないを別として
    事実にかすってるな
と。


日本人だから、アッチの家、コッチの家がグチャグチャ絡んでるのは当たり前。

>徳川親氏の妻(松平亀子)は在原業平の末裔だった。

在原業平が東国に行った(当時の表現では、下った、か)ハナシは有名ですものね。

業平は父方をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫。

ということは  ワタシも無関係ではない  と?笑


とにかく日本の歴史の中に自分に関係のある人達の名が出て来るのは嬉しいです。
日本史って  つまり  自分に無関係じゃない  ってことだものね。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月07日 03時59分54秒 ) パスワード

http://www.nishifuji.com/takamagahara3.html
富士高天原の歴史 ― 神話は真実を物語る

2005年12月13日
富士高天原坂下ノ宮 西富士オートキャンプ場
橘高さまからの コピペ:



はじめに

古代史の文献として「宮下文書」というのがあるが、

                   宮下家!

これは富士吉田市に在住の浅間神社宮司宮下家に代々伝わる古文書で、
これには9千年に渡る人類の歴史が書いてある。

                   浅間神社に「服部神職さん」って今でもいらっしゃるのかな?


誰が書いたか不明のため、2300年前中国から来た除福が書いたとか言われているが、
実はこの文書、南北朝時代の事まで書いてある。

またこの記述をもとに調査した結果、その記述の場所に証拠が未だに残っている。

と言う事は、この文書は真実の記録かもしれない。
これこそ[日本の正史」かもしれない。

世間に知られた「古事記」や「日本書紀」と言った古文書は抽象的な表現が多く
そこに書かれている話は、夢物語の様で現実として捉えられていない。


しかし宮下文書は違う、具体的に書かれており、登場する神々の系譜から地図まで示されている。

その内容は膨大なものだが、ここに簡単に人類9000年の歴史を整理してみた。

これは加茂喜三先生の(富士市在住)の研究に基く著書[日本の神朝時代」「木花咲耶媛の復活」[隠れ南朝史」(共に富士地方史料調査会発行)を参考にした。



今の人類の歴史は9000年前ペルシャの北方から始まった


世界の中心は日本の富士山麓に置かれた


高天原の始まり(第四神朝時代 5代488年間)


高天原の一大事


富士山に投身自殺した木花咲耶媛尊


高天原の分裂


人皇天皇の時代になる
内乱を平定した皇太子は、神武天皇となり即位した。


忘れられていく富士高天原

10
永遠に続く富士高天原

                      この稿、夫の医者のご先祖さまのお話ですね。だからこのパラグラフは全コピペ

富士王朝の血を受け継いだ大山守皇子は富士入麓を決意した。
大山守皇子は応神天皇の第一皇子なので大変な事態となった。


            宇治川の方で謀殺されて亡くなったと別ルートで読んだ
            ご子孫が大井川まで逃れて西に住んだ、と読んだ記憶

大山守皇子の乱の始まりだ。

富士川を境に両軍が向かい合った。
富士王朝側には大山守皇子の他に二人の応神天皇の皇子も加わった。
なんと朝廷の皇位継承権のある皇子は、後の仁徳天皇ともう一人を残し
三人が富士に来てしまったのだ。

                          この部分は知らなかった


この戦いは勝敗が容易に決せず、そこで和議となった。
内容は
「@大山守皇子を朝廷側に引き渡す事A朝廷軍は山宮から撤退し富士川の西に移る事」。

これ により富士王朝側は大山守皇子の身代わりを立て、その首を持って差出し、一応の決着がついた。

そして、大山守皇子は「宮下」と名前を変えて阿祖山太宮司となり、高天原の復活を願っていった。

これは現在迄引き継がれ、この史実を記録したものが「宮下文書」だったのだ。


故に、この記録こそ日本の真実の歴史と言われる理由だ。
しかし、その後の富士王朝も平穏にはいかなかった。


桓武天皇の延暦19年(西暦800年)富士山は未曽有の大爆発を起こした。
これによって、富士山麓にあった高天原の阿祖山太神宮は一瞬にして消失、
埋没あるいは流出して、 610余社と言われた由緒ある神殿はことごとく消えて、神都は遂に壊滅してしまった。
まさに日本のポンペイとなった。


この富士山大噴火は高天原の終焉を思わせた。
しかし幸か不幸か、この時阿祖山太神宮の首脳者349人は、伊勢皇太神宮との和解のため伊勢から奈良に向かっている途中だった。
しかし、難を逃れた一行は、朝廷の企みのため暫く都に足留めさせられた。

それは朝廷が坂上田村麻呂を富士に仕向けて、これを機会に富士王朝の壊滅を企てるためだった。

坂上田村麻呂は富士にある神社を全て浅間神社に統一して、木花咲耶媛尊を本尊とした。
さらに阿祖山太神宮は相模の寒川に引っ越しさせ、神裔をそこに追いやってしまったのだ。

(これは坂上田村麻呂も高天原の血を引いており、富士の殲滅を朝廷より命ぜられたが、内緒で神裔を別の場所に移した。)

こうして何も富士には無くなってしまった。


これで富士にあった高天原は歴史の記録から完全に消え去っていった。
今から1200年前の話だ。


しかし宮下文書にはまだ記録がある。

西暦1333年、後醍醐天皇が入麓してきた。
南北朝時代の始まりだ。
一般的には、後醍醐天皇は吉野に居たことになっているが、実際には高天原のあった富士に入麓し、隠れ南朝として高天原の復活を目指した。

その影響は現在に迄及んでいる。
その記録と共に末裔達は現在も伝承を守り、秘密とされている。


後醍醐天皇を富士におつれしたのは佐野源左衛門尉義正という人物。
この人こそ富士高天原の神裔だ。
佐野氏はまず現在の山梨県南部町の佐野に仮宮殿を造り、一時天皇を匿った。 その後、富士の西麓に本殿を造り(現在の田貫湖付近)お招きした。
引っ越しの時、北朝の今川勢に見つからない様、天子ケ岳を超えて入麓した。 目印しとして高く煙りの狼煙を焚いた。
この風習は現在も引き継がれ、家が新築されると、「火伏念仏」として狼煙を焚く。

仮宮殿のあった佐野の館跡は、ダム建設によって天子湖の湖底に沈んでしまったので、今は見る事は出来ない。
村の人の話では、館跡は保存されていたと言う。


一方本殿の方は田貫湖畔に今も田貫神社が残っており、大きな松や杉の老木が当時を偲ばせる。
田貫とは南朝の末裔田貫親王のことだ。
これらの記録は当地の佐野家に今も保存されている。
それには、天の岩戸の事迄書いてある。
キャンプ場の天の岩戸は本物だ。


ここで重大な事が判明した。
天皇即位の時に使われる三種の神器を南朝が持っていたと言う事だ。
神器は一度は北朝に渡したものの、北朝が南北交互に皇位につくという約束を守らないため、南朝は神器を持ち帰ってしまった。

                      これは後南朝の尊秀さま=自天王さま=のお話だね


そして南朝の滅亡と共に行方不明となってしまった。

                      赤松の遺臣が北朝帰参のための手土産として持って行ったんじゃなかった?


これでさぞかし北朝は困ったかと思いきや、三種の神器にはいざと言う時のため、その予備が用意されており、それで何とかなったのだ。

                      そうすると赤松の遺臣は岡山あたりの親王様に三種の神器を差し出したのかな?


南朝は四代の天皇の後、度重なる北朝の南朝潰しに合いながらも、隠れ南朝として富士に存在した。
しかし、南朝最後の尹良親王は、御所を富士から三河に移すために、
甲斐と信濃の北回りで移動中、
信濃伊那谷大鹿村で土民の襲撃に合い、自害してしまった。

これが南朝の最後となってしまった。


今も長野県大鹿村の信濃ノ宮神社にその跡を見る事ができる。
ここには不思議な塩の湧き出る場所がある。
現在も湧き続けている。


ところで、この時、南朝を警護してたのが武田家。

三河で御所の準備をして親王を待ってたのが徳川家(松平家)だ。
松平は本来群馬県尾島町の世良田にいた徳川(南朝の世良田親王の子孫)が名前を松平に変えて、三河に潜入して準備をしていたのだ。
これが家康の代になってその事を知り、元の徳川に名前をかえた訳だ。


南朝を守っていた近衛兵「佐野の千頭の騎馬部隊」は親王の死後、その意志を継いだ武田家に仕えた。
だから武田信玄は強かったのだ。


こうして富士高天原復活の願いは、武田信玄そして徳川家康へと引き継がれて行った。


11
埋蔵金と高天原


途中および以下略
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月08日 00時14分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『富士"隠れ南朝"史』(加茂喜三著)は200頁位の本ですが、内容が濃く
情報量が多いので、読解するのに時間がかかりますが、立派な論文のように
感じられます。文章・情報にあいまいさはなく、はっきりしています。それ
は、氏がいかに真剣に南朝関係の情報の収集と理解に取り組んだかというこ
とを示しております。また、それ以前に、氏は日本の古代史に造詣が深く、
特に伊豆から富士あたりを中心として、巨石文化、ヒミコ、木花咲耶媛、そ
の他の本も書いておられます。そういったファンダメンタルな知識の上に立
った『富士"隠れ南朝"史』であると思います。

 『宮下文書』については、難しくなりますので言及しませんが、「宮下」
という名字は、富士浅間神社の神主の一つの名前でもあるということであ
ります。

 ここで、少し話が変わりますが、津島の図書館へ行って調べたことです
が、「服部宗純」の妻は「井出弾正忠正長」の娘であることがわかりまし
た。『富士"隠れ南朝"史』の中には、この井出氏について詳しく書かれで
おり、「大山守皇子」の子孫の正家が、富士宮の富士見城主となり、その
また何世代かの末が『浪合記』に出て来る「井出正房」であります。そし
て、その子「正長」の娘が、宗純の妻であります――



[9]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月08日 02時52分38秒 ) パスワード

三つ柏さん

すごいお話をたくさんありがとうございます。
ちょっと衝撃から抜け出られません。
どこから書いて良いのやら。


井出氏のことは   長野出身で旗本で   というあたりは知ってました。
これだけ。
ま、長野出身なら南朝方だろうな、と。


ということで検索してきました:
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E4%BA%95%E5%87%BA

【名字】井出
【読み】いで,いいで
【全国順位】 552位
【全国人数】 およそ36,100人

【由来】
@井出臣。
A井出首(秦氏)。
B中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。藤原南家工藤氏流。
C越智氏(物部氏の子孫)
などにもみられる。

現長野県である信濃、現静岡県である駿河地方に多くみられる。

現在の長野県の井出は、静岡県の身延から信濃へ渡った井出で、
その昔は武田信玄の時代に武田に仕え、
山本勘兵衛のもとで土木関係に力を発揮し、
武田の金鉱探しに力を発揮すると言う土木集団で知られていた。


苗字に関するエピソードもある。

主にオランダのアムステルダムの干拓埋め立て工事が有名であるが、
これには武田の信玄堤(堤防工事)の工法が持ち入れられ、

そのため日本から遠征し、そのままオランダに骨を埋めた流れで
現在日本人を先祖にもつIDEさんという方たちが現存しており、

自分がヨーロッパやアメリカを歩いたとき名前の読みをアイディーでなくIDEをイデと読まれ
驚いた事があったという。


土木に秀でた家系には、
中巨鎌足が天智天皇から賜ったことに始まり藤原氏より派生し井出右大臣を排出し、皇室の要職者も多く排出している。

そして、天智天皇から静岡県身延山に身延山新勝寺を開山するためさしむかられ、
現在まで身延山の檀家総代の家系が井出さんである、

そこから二手に分かれ、

一手は長野に北上し、信濃で武田の家臣団に加わり、武田の土木に力を注ぎ、武田の軍事道路の棒道の維持管理の為に配置されたため、
山梨県甲府市から長野県佐久市をへて長野の川中島までに現在でも井出姓は多くみられる。

また身延山の静岡側には、奈良県から最初に渡来したときは、身延の西に井出村という地名があり
ここが東日本での最初の定着地であろうと言う説がある。

そして身延山の開山の後、山梨県の大石寺造営の為もう一派が現在の富士市に移り、
その家ノ前に三島の下馬桜が有名である。

またその後、
天命により富士吉田市(河口湖)に富士講の為、現在の富士吉田登山口(道)の維持管理を目的として遣わされたことから、
山梨に井出が多いとされている。


現在東京等では、山梨系と長野系を起源とする井出姓を確認することが出来る。




宮下姓
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%AE%AE%E4%B8%8B

【名字】宮下
【読み】みやした,みやのした,みやもと,みやしも
【全国順位】 246位
【全国人数】 およそ89,800人

【名字の由来解説】
@平経盛の子孫、昌辰に始まる。      ← これはビックリ  
                       父上が平忠盛、母上が源信雅の娘で
                       お子さまは 経正、経兼、広盛、経俊、経光、敦盛、輝経

Aほか諏訪氏。              ← これはヒバリさんのご実家の事から、そうだろうな、と思ってた。

B中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。
など様々な流派がある。


現長野県である信濃地方に多くみられる。

「下」は上や中に対し、低いところやふもとを表す。「宮」は神社を表す。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月08日 03時29分30秒 ) パスワード

思わぬところで思わぬ人と繋がるものですねぇ。驚   日本人、ですねぇ。


    夫の医者が大山守皇子のご子孫と知って  へぇ〜、古い家の出なんだァ〜  と思ってただけでしたが

    先生は  長野から大阪に出た  とおっしゃってた、  で「白い巨塔」で勉強して医者になった

    先生はジャニーズの風間俊介にソックリです。違いは、風間俊介の目は視線がユルイけど  先生は視線がしっかりしてる

   

センセイとワタクシは父方で繋がってましたか。


>「服部宗純」の妻は「井出弾正忠正長」の娘であることがわかりました。
>『富士"隠れ南朝"史』の中には、この井出氏について詳しく書かれており、
>「大山守皇子」の子孫の正家が、富士宮の富士見城主となり、
>そのまた何世代かの末が『浪合記』に出て来る「井出正房」であります。
>そして、その子「正長」の娘が、宗純の妻であります


つまり  先生とわたしは  先祖同士も「浪合記」の時に  知り合ってたんでしょうね。

           先生、タイ人と間違えて、ごめん
           わたしより古い時代から日本人やってたんだね



http://www.hb.pei.jp/shiro/shizuoka/?c=fujinomiya
富士宮市のお城一覧

駿河・葛谷城 山城 富士宮市下稲子
駿河・南条館 居館 富士宮市下条字堀之内(妙蓮寺)
駿河・大宮城 平山城 富士宮市元城町字城山(大宮小学校)
駿河・吉野屋敷 居館 富士宮市山本字柿崎
駿河・高原城 山城 富士宮市山本字高原


          駿河・井出館 居館 富士宮市狩宿字井出   ← コレ


 駿河・稲子城 山城 富士宮市上稲子字城山
駿河・白鳥山城 山城 富士宮市内房
駿河・尾崎城 丘城  富士宮市内房字尾崎(浅間神社)
[11]三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月11日 10時10分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ようやく『富士"隠れ南朝"史』の70パーセントくらいを読解いたしました。
 目からウロコがボロボロと落ちるような、なるほど、なるほど、なるほどの
連続でありました。

 それでは、まずは著者加茂喜三氏の「あとがき」からご紹介いたします――

 「遠江と三河を中心として、西は尾張、東は駿河、甲斐と、東海五カ国のこ
 の地域は、南北朝の争いの始動から終結まで、これほど長期にわたって南北
 朝争いが存続した事例は、全国どこにもないことであろう。
  しかも、その所産として、この地方の"隠れ南朝"だった織田信長、豊臣秀
 吉、徳川家康が立って天下統一へ向かったことは、この地方に於ける"隠れ南
 朝"のエネルギーが、如何に強大なものだったかを物語っていると言えよう。
  換言すれば、この地方の"隠れ南朝"が日本の現代を作り出したとさえ言え
 るのである。
  その意味で、この地方の南北朝争いの歴史は、もう一度洗い直して考え直
 す必要があろうかと思う。」

 この中で、いきなり織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が隠れ南朝方として出て
まいりますが、その証左については、順次記述いたします。
 服部党についても書かれておりますので、お楽しみに待っていて下さい――
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月11日 14時47分46秒 ) パスワード



三つ柏さん


楽しみにしています!

>織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が隠れ南朝方
>服部党

楽しみです。


驚いたのは津島神社の大橋家の家紋が茗荷に一文字であったこと。

出るかな?


http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ow_ohasi.html
尾張大橋氏

以下一部コピペ:

戦国時代、尾張国津島に大橋氏が割拠していた。
尾張の大橋氏は桓武平氏・平貞盛の子孫で、文治年間(1185〜90)の平貞能が筑後守・肥後守に任じられ、
その子左衛門尉が肥後国山本郡大橋に下向大橋城主となって大橋を称したのが始まりである。

はじめ、平家の家人であたが、その没落後源頼朝に随従して御家人に列した。

貞能は隠居地として尾張国海東郡内に所領を得たといわれ、
その地がのちに尾張大橋氏の拠点となり、
南北朝の内乱期を経て、戦国時代に至って大橋重一が出た。

南北朝期は宮方に属し、和泉守信重は「津島大納言」と呼ばれ、
実は良王親王嫡子であった者が大橋信吉の養子となったと伝えている。

信重は奴野屋城主であった。


                      このサイトの系図では  宗清は家貞の甥になってました。
                      近いというのは分かってましたが  つまり  宗清は貞能や平田家継や服部家長の従兄弟ということです。


                      この系図によると戦国時代に大橋家から蜂須賀家に嫁いだり大河内家に嫁いだり、川口氏や長田家に養子に行ってます。


コピペ続き


尾張の国人領主に成長

尾張国津島には、「四家・七名字・四姓」の土豪よりなる南朝方「十五党」があった。

               うちは「七名字」の1つ

四家の長は大橋氏で、戦国初期の当主が重一であった。

重一は大永二年(1522)、美濃国高須城を築造あるいは修築している。

               大橋家には関係無いけど
               幕末の高須藩の5兄弟が尾張藩主や石見浜田藩主、それから会津藩主や桑名藩主、そして一橋家当主になっています。


高須城は長良・木曽両川を挟んで津島と接しているのであるが、
大橋氏は次の重長(那野屋城主で、上記高須城主・重一の弟)のとき、
尾張国清洲城主織田氏と領地を争っている。
「大橋の乱」である。

               「服部家ホンヤさんの家」が大橋方について
                織田一族に計3回ボロ負けすることになったことの最初の負けでしょうね

               

尾張国にはまた、信長の祖父である織田信貞の子で、勝幡城主の信秀=信長の父がおり、
重長(重定)は、信秀と抗争を続けたが、                
ついには信秀の女蔵を嫁として迎え、やがて信秀に属するようになる。

                この後に?服部政信の祖父・政家=ホンヤさんの先祖服部友貞の弟=が信秀と手切れになった記憶
                で、弥富の二ノ上(荷之上)あたりに蟄居することになった記憶

                服部政家の妻が横井丹後守の娘

                       横井さんと平野さんは北条時政の子孫    わたしも時政の子孫です


重長の高須在城は、天文三年までで、

                服部政家は天文5年夏に45歳で薨去

同年より弘治二年(1556)までは高津直幸が城主、
翌年より永禄三年(1560)までは、津島十五党の"縁者"が守将に名を列ねる。


平野長治                    ジャニーズの平野紫耀のご先祖さま関係でしょうね
恆川信景                    恒川さんは同級生にいた
鷲巣光康                    鷲巣さんも同級生にいた
秋山信縄
林長正・林正三                 このあたり幕末の伊藤博文のご先祖さま=河野氏=関係かも
稲葉正成                    ここも河野氏に関係します                    
らである。

このうち、稲葉正成は斎藤福こと後の春日局を後妻とする人物で、福の父が信長を本能寺に屠った明智光秀の老臣の斎藤利三である。


                      明智光秀さま御降臨!


なお十五党には、
のち秀吉に仕えて伊勢国松坂城主の服部一忠や、    ← 義元に1番槍をつけた津島の服部小平太です   この槍はホンヤさん宅にある
春日局の養子となり老中まで上り詰める堀田氏の先祖、
さらに平野長治が賎ヶ岳の七本槍の一人として知られる長泰である。


重定の子が重賢で、滝川一益に仕え、一益没落後は福島正則に仕えた。
しかし、正則も改易処分となり、
結局松平出羽守直政に仕え、家老職を勤めたという。


一族には、帰農した者もいる。


                        うちが織田に3回目に負けた伊勢長嶋一揆の後に信長さまには逆らいませんと恭順したからね
                         大橋の中にも戦うのを止めた人達がいたんでしょうね
                         

                        いろいろあったんだね〜
                        
                        わたしの同級生には南朝方仲間の子孫がゴロゴロいたんだね〜   当時は知らなかったな〜
                        同窓会名簿を見ると結婚してわたしの一族になってる人がいるし
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月11日 22時59分24秒 ) パスワード

                        無駄話




服部友貞が伊勢で(北畠さんに正月の挨拶に行った時)  瀧川一益に謀殺された後

                        以来ホンヤさんは正月に伊勢の米野の友貞の墓参りをする   とおっしゃってた記憶


弟が継いだ記憶。この人が政家?こんな名前だったような?


この人が信長に恭順して
今に至る服部家の屋敷を天正年間に建てることになったのか?
でも建てた人は  時系列が合わないから  政家の子か孫  かな?

政家の孫の1人が遠江の代官の服部政信。


この時代に服部中保次も遠江で家康に仕えたのかな?


ま、気力が出て来たら書類を捜そうと思うけど  気力が湧かない。
なんせ  物  多過ぎ   断捨離出来ない。


ということで  このレスの信憑性   かなりアヤシイ。大筋は合ってるけどね。細かいところが  アヤシイ。すまぬ


そして江戸時代の記録が曖昧な上にワタシの記憶も曖昧。ボケも始まってるし。
[15]三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月12日 14時23分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ただ今、台風19号(スーパー台風)の到来を前にして、テレビで各地の模様
を見ているところであります。静岡県の御前崎から伊豆半島あたりまでが、台
風の上陸する可能性の高い所であります。降水量1300ミリ、風速60メー
トルということですので恐ろしいのですが、ちょっと想像力が及びません……。

 集中力が今一つなので、少々お待ちください――

 
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月12日 14時51分20秒 ) パスワード

三つ柏さん

>御前崎

中部電力の原発のある所でしょうか?
心配になります。


降水量1300mmって
想像が出来ません。
洪水・・・か?


千葉の方達はまたもや蹂躙されそうですね。



こちらはカリフォルニア州が秋の山火事シーズンに備えての計画停電で(36時間 〜 5日間)大騒ぎ
なのに今朝のニュースでどこやらで山火事が発生したそうです。

    毎年秋にはカラッカラに乾燥したサンタナ風で山火事が発生します

我が家のある離島では昨日+本日は大雨と雷雨で大洪水。
すごい雷雨でジムではバリバリ音が聞こえたのでエアコンが壊れたのかと思ったら雨でした。
慌てて部屋に戻って窓を確認し  雷雨だからPCの電源を外す方が良いかな  と心配したら
今日は水回りの改修見積もりの人が来るから  断水の前にシャワーと洗濯を済ませてしまおうと  自分の利益のみ優先してました。

    昨年、電車の電気量アップのための計画停電が3夜あって
    そのせいか
    今年は珍しく断水と停電にならなかったです

          断水と停電でエアコンが作動しなくなるので困るのです
          クソ蒸し暑い世界なのに

あ、今、ヒルトンホテルで花火を打ち上げてるので雨は終わったようです。
明日は晴れの予報です。



あ、ヒコーキが、往復各便3便ずつキャンセルだと今朝のニュースでやってました。
そっちもこっちも飛べるような状態じゃなかったです。


御前崎の方は今川方の朝比奈さんの某一族の出身地です。
それで心配になります。
[17]三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月13日 11時49分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 台風19号は伊豆半島に上陸し、中部・関東と広範囲にわたって猛烈な被害
をもたらしました。特に多量の雨による水害が大きいです。長野県の千曲川の
氾濫が、「広範囲」ということを象徴しています。
 私は昨夜来ずっとテレビを見ていましたので、寝不足。頭があまり働きませ
んので、少し休ませていただきます――
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月13日 22時39分47秒 ) パスワード

三つ柏さん

日本は河川の氾濫に繋がるので大変ですね。
こちらは島だからフツーの嵐でも簡単に洪水です。
我が家のマンションは敷地を囲む南の道路までが洪水指定地区です。
                       知らなかった
                       そしたら業者が「島だから」と答えて、それにビックリ
                       日本も「島だから」洪水が起きて当たり前なのか、と。
                              なんかバカっぽい反応ですまないです・・・


映画の「2012」だったか、あの映画は怖かったです。
「ノアの洪水」とか「2012」とかになったら我が家も水没か、と。
その後に見た「ゴジラ」の映画で、我が家の(ムカシのホテルマンションの)隣のヒルトンがシッポで壊されるのを見て
帰り路は不安で一杯でした。
                       (今の)タワマンも壊されてる?と。



令和天皇さまの即位式は無事に執り行われるでしょうから
ちょっと安心しています。


そして驚きは日本がスコットランドに勝ったこと。
日本ってそこまで進化してた?
[19]三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月13日 23時40分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ラグビー、日本vs.スコットランド戦を見ています。今、日本が逆転して
勝っています。期待しながら、恐れながら、ビクビク、ドキドキしています。

 さて、加茂喜三氏の『富士"隠れ南朝"史』ですが、何故「富士」なのか、
また何故「隠れ」なのか、これについてまず推察してみたいと思います。

 「富士」――これには二つの意味が込められています。それは――
 @古代、紀元前、徐福の時代、富士の麓に王朝ができたという「富士」
 A南朝の拠点(大本営 本陣)が富士の麓にあったという「富士」

@については、宮下文書の信憑性の問題がありますので、ちょっと言及
 を避けま す。
 Aについては、加茂氏は「富士谷」に南朝の大本営(本陣)があったと書
 いておりますが、それがどこなのか……『身延町史』によれば、それは
 富士山北麓で富士吉田市と都留市の中間くらいか……そこには、日本最
 古の神社であったという「不二阿祖山太神宮」が再建中であります。ま
 た、そのすぐ西に、富士山浅間神社(北口本宮)が鎮座しております。
  本陣が具体的にはどのような形で存在したのかは、今のところ情報を
 入手しておりません。

 次に、「隠れ」でありますが、これは「隠れてしまった、忘れ去られて
しまった、記録から失われてしまった」ということ。あるいは「世をはば
かる」ということ、つまり、「体制から追われ、身を隠すという立場」の
こと。南朝は敗軍となって追われる立場になりましたので、後者の立場と
なりました。

ということでありますが、次回には、加茂氏が言わんとすることが凝縮さ
れた前段(前書き的な部分)について、ちょっと長くなりますが、書き出し
てみます――

 (おついでですが、日本はスコットランドに勝ちました!)


  

 
 
[20]酔石亭主さんからのコメント(2019年10月14日 08時44分06秒 ) パスワード

ご無沙汰しております。

再建中の不二阿祖山太神宮(富士吉田市大明見3537)はある宗教団体の手によるもので、実際の不二阿祖山太神宮つまり富士高天原王朝の中心は富士吉田市大明見1丁目36の北東本宮小室浅間神社・旧社で、東本宮小室浅間神社の解説板には、この神社の前身である阿祖山太神宮は古屋敷に鎮座していたとあります。グーグルのストリートヴューで入り口付近を少しは見ることができます。

ここを流れる川は古屋川で古屋敷とは南朝の古い屋敷があったことにちなむのかもしれません。北東本宮小室浅間神社・旧社の社地には南朝英霊神之碑と長慶天皇の石碑南朝碑もあるので、隠れ南朝の中心も多分この場所になるはずです。

この集落の入り口は明見駐在所の東のV字路でここには高い位置に道祖神碑が立っており、立ち入りを禁止しているような雰囲気があります。かつては富士吉田の人々もこの奥には立ち入らなかったとのことです。ここが秘密の、心的バリア(結界)が張られた場所であるとよく理解されます。

古屋川に沿った山側の一帯には大山守皇子(彼の子孫が宮下家)の石像もあり、川を遡った硯水不動尊には頼朝の伝承も残され、秦氏や不二阿祖山太神宮との関係も推定され、様々な歴史が垣間見えます。一度訪問されたらいかがでしょう。南朝関係資料は以下を参照ください。

https://books.google.co.jp/books?id=gDvEVVMIdDwC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r#v=onepage&q&f=true
http://fuji-san.txt-nifty.com/photos/uncategorized/2013/04/15/326851.jpg
http://fuji-san.txt-nifty.com/photos/uncategorized/2013/04/15/326852.jpg
http://fuji-san.txt-nifty.com/photos/uncategorized/2013/04/15/326853.jpg
[21]酔石亭主さんからのコメント(2019年10月14日 16時02分29秒 ) パスワード

すみません。以下誤りがありました。ボケてますね。

東本宮小室浅間神社の解説板→北東本宮小室浅間神社の解説板
前身である阿祖山太神宮→阿曽谷神社(創建時)後に富士山本宮阿座真明神に改称
長慶天皇の石碑南朝碑→長慶天皇の石碑

狭義には阿曽谷が富士谷を意味していると推測します。広義には富士山北麓で富士吉田市から都留市の中間一帯でしょうね。
[22]三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月15日 00時08分34秒 ) パスワード

酔石亭主様
空の青海のあを様

 貴重な情報、ありがとうございました。古代の富士山麓において、秦氏―
徐福系、秦氏―河勝系がオーバーラップし、古代富士王朝と南朝がオーバー
ラップするような感じがしております。富士王朝のことは、まだ突っ込んで
探求したことがありませんので、論及できないのが残念です。たまたま先日
行った相模の「寒川神社」が「宮下文書」と、また大山守皇子とも関係して
いるようで、探求し出したらどんどん深みにはまってしまいそうです。

 加茂喜三氏は、『富士"隠れ南朝"史』の書き出しの部分で、こう書いてお
ります――
 「井伊系図によると、井伊氏は天御中主尊を出祖としている。即ち富士「
 高天ヶ原」王朝の右守大神の家系で、天児屋根命や藤原鎌足の後裔とされ
 る名家で、共保のとき遠江守に任じ、井伊谷に土着して井伊氏を称したと
 ある。この系譜でもわかるように、井伊氏は富士山浅間宮大宮富士氏(三浦、
 宇津、宮下とも称した)や、楠木、新田、北畠の諸氏らと同じく、富士山
 の麓に"高天ヶ原"王朝を営んだ"神という名"の建国の人々の末裔だったので
 ある。南朝は実にこうした栄光忘れ得ぬ"高天ヶ原"神裔の一大ファミリー
 によって、後醍醐天皇の勅諚を拝し、富士を"陰の大本営"とし、建武中興
 に便乗して富士"高天ヶ原"王朝の復活に殉じた尽忠の一大ドラマだったの
 である。」

 次回より、目からウロコの数々を、列挙していきます――
 
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月15日 04時23分13秒 ) パスワード

酔石亭主様

お久です。



>「小室」氏             
                       「小室氏」に対抗して明治天皇なりすまし説の「大室氏」を連想します

小室家は2つに割れて
1つは木曽義仲に従って  終わり
もう1つは木曽義仲敗死の後に頼朝に恭順して御家人となり   現代に  圭さんに繋がるのかな?


眞子さまの母上の父方が和歌山の川嶋家ということでアチコチから平維盛の子孫と聞いています。当然南朝方でしょうし。

                       眞子さまの母上の祖母方の実家は静岡の杉○氏で、その妻方は服部だと読みました。


>東本宮小室浅間神社


ということは   小室圭さんのご先祖は南朝方?   


結論:眞子さまと圭さんは、切ってはいけない関係  かも。

わぁ、すごい所に行っちゃった。
[24]三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月15日 21時12分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 富士山麓には、取り巻くようにいわゆる「浅間神社」が存在しております。
 創建の新しい方から列挙してみますと――
  
  
  @東口本宮冨士浅間神社:静岡県駿東郡小山町須走126番地
              創建は807年。
  A小室浅間神社(下浅間):富士吉田市下吉田3丁目32番18号
              創建は807年。
  B北口本宮冨士浅間神社:富士吉田市上吉田5558
              創建は807年
  C冨士御室浅間神社
     A:奥宮(旧本宮) :南都留郡富士河口湖町勝山(富士山二合目) 
     B:里宮・(現)本宮:南都留郡富士河口湖町勝山3951番地
               創建は699年
  D山宮浅間神社:静岡県富士宮市山宮740番地(字宮内)
          創建は3世紀の初め頃か。
  E富士山本宮浅間大社:静岡県富士宮市宮町1-1
             創建は3世紀の初め頃か。
  F小室浅間神社(富士吉田市大明見):富士吉田町大明見2丁目1-1
              始まりは、阿祖谷神社(※注1)→
                   富士山北東國本宮阿座真明神→
現在名
      創建は2世紀の終り頃か。

  ※注1:不二阿祖山太神宮という再建中の新興の神社もあります。

 さて、この中で南朝と深い関係にあったのはどのお宮でありましょうか?
 『富士"隠れ南朝"史』では――

 「井伊道政が南朝に味方したのは、まだ後醍醐天皇の密使万里小路藤原
 藤房が「富士山浅間宮」大宮司義高・義勝父子のもとを訪れて、正式に
 南朝への奉仕が決する以前からであった(ちなみに、万里小路藤房の父は
 宣房で、後醍醐天皇の側近公卿で、その娘は楠木正成の妻)。
  それは、道政の母「福野の方」が駿河国側(大宮 富士宮)の「富士山
 浅間宮」大宮司国安の娘であり、その実姉「宮野の方」が、甲斐国側(小
 室)の「富士山浅間宮」大宮司義高の室となっていた関係で、三家は早く
 から緊密な連繋があった。
  もともとこの三家は、富士"高天ヶ原"神裔で、王政復古については累世
 にわたった共通の悲願でもあったので、後醍醐天皇の勅諚が届くと、たち
 まち強い結束が実現したのであった。」

 つまりは、道政の母は、Eの「富士山本宮浅間大社(富士宮市宮町)」の大
宮司国安の娘(福野ノ方)で、その娘(福野ノ方)の姉は、Cの「冨士御室浅間
神社(富士河口湖町勝山)」の大宮司義高の室ということで、道政―国安―義
孝は、富士山浅間宮の大宮司家と姻戚関係にあったということであります。

 さらには、「井伊氏は道政以後も、富士山浅間宮大宮司家を中心として、
新田、楠木両氏とも姻戚関係を固め、南朝の隠れた主柱となっていた。」と
いうことで、井伊氏のバックグラウンド、南朝のバックグラウンドというも
のを初めて知ることができた次第であります――
 
 
 

[25]三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月15日 21時23分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:「道政―国安―義孝は、」→「道政は、国安・義高という」
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月15日 22時49分34秒 ) パスワード

三つ柏さん

>井伊氏のバックグラウンド、南朝のバックグラウンドというものを初めて知ることができた次第


ありがとうございました。

井伊家の母方の出自に驚きました。


日本は家名が父系社会だから、母方が謎で、
母方が分かればどういう家なのか
かなりの謎が解けて来ますね。

やっと井伊家が宗良親王を守ることになった経緯が腑に落ちました。


富士山の裾野があまりにも広大なので、駿河側の富士山しか見てないと、甲斐側の世界が見えていないですね。
なるほど上野国の新田軍が来るのは簡単だったのか。

                  方向音痴なので現場が3次元で浮かび上がらなかった


感謝です。
[27]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月17日 17時35分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レス[8]で、「服部宗純」の妻は「井出弾正忠正忠(あるいは正長)」の娘
であると報告いたしました。
 さらには、この「正忠(あるいは正長」の曾祖父が「井出弾正忠正親」で、
その娘が「楠木正成」の親「正遠」の伯父「楠木正近」の妻となっておりま
す。

 また、楠木正成の妹が伊賀の服部家に嫁に入り、「観阿弥」を生んでおり
ます。

 つまりは、服部党、楠木党、井出党とは南朝中枢にあり、姻戚関係でつ
ながっており、しかも井出家は宮下家と同じく大山守皇子の子孫ということ
で同門であり、応神天皇の子孫でもあります。

 応神天皇と言えば、やはり秦氏が主役なのですが、南朝関係の中では、
「秦氏」の直接の存在がうかがえません。そういう現象は、隠れ南朝史の中
にもありまして、「南部氏」の拠点は富士に隣接しており、南朝忠臣である
のにもかかわらず、隠れ南朝史には出てこないという不思議現象があります。
何か不都合なことがあったのでしょぅか、そのあたりも探究しなければなり
ません――
[28]三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月17日 22時21分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 井伊道政について、加茂氏の『富士"隠れ南朝"史』に示されている「南北朝
争いに於ける井伊氏の縁戚関係図」の中から更に拾ってみますと――

 @道政の室は、新田義貞の妹「玉江姫」であります。つまり道政と義貞は、
 義兄弟となります。

 A道政の娘「重子 浜名ノ方」は「宗良親王」の室となり、「尹良親王」と
 「桜子」を生みます。

 B道政の娘(重子の妹)の井佐姫は、富士の"隠れ南朝"の中心人物富士山浅間
 宮(小室)の大宮司兼富士十二郷総地頭の富士義利(義高の孫 義勝の子)の室
 となります。

 C義利には二人の女兄弟がいて、一人は新田義貞の子の義宗の室、もう一人
 は 楠木正成の子の正行の室となります。

 C義利の伯母は、新田義貞の弟の義助の室となります。

 Dこの関係図では、楠木正成の父を楠木正近としておりますので、ひょっと
 したら、井出弾正忠正親の娘は楠木正成の母になる可能性もあります。

 E Dが正しいとすると、楠木家と服部(宗純)家は井出家を通じて縁戚とな
 ります(いずれにしても、楠木家と服部家は縁戚関係となる)。

 このように、楠木、新田、富士大宮司家、井出、井伊、宗良親王らは、縁戚
関係となり、結束は固くなった。もちろん、世良田氏や大橋氏もそこに加わり
ます――
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月18日 02時45分07秒 ) パスワード

三つ柏さん

服部宗純と楠正成が親戚になるというのは驚きでした。

楠正成のシスターが服部家にヨメに来てたのは知ってましたが
その前からご縁があったんですねぇ。

      日本人ですから繋がって当たり前ですが
      思ってた以上に強固に結ばれていたのですねぇ。


そうしますと静岡側の浅間神社の神主に服部姓の人がいるってムカシ知ったことは、いらっしゃって当たり前だったのですねぇ。

クラクラするぅ〜
[30]三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月19日 08時23分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 長い間、古代の天皇の在位期間・年数について、困惑し続けておりました
が、今後は下記の石澤氏の算定モデルに従うことにいたしました。氏の言う
根拠は、簡単に言うと「古代治世年」と「古代暦年」の数え方によるという
ことですが、詳しくは石澤一由著『古代天皇の実年代を探る』に書かれてお
ります。古代からの天文・暦法については、歴史的に大変深く・重いものが
ありますので、いつか一度探求してみたいと思っています。


< 石澤一由氏算定―天皇在位期間・年数 >
代数 天皇名 在位期間 年数
初 代 神武天皇 154 〜 172 19
第2代 綏靖天皇 173 〜 180 8
第3代 安寧天皇 181 〜 190 10
第4代 懿徳天皇 191 〜 198 8
第5代 孝昭天皇 199 〜 219 21
第6代 孝安天皇 220 〜 245 26
第7代 孝霊天皇 246 〜 264 19
第8代 孝元天皇 265 〜 278 14
第9代 開化天皇 279 〜 293 15
第10代 崇神天皇 294 〜 310 17
第11代 垂仁天皇 311 〜 335 25
第12代 景行天皇 336 〜 350 15
第13代 成務天皇 351 〜 365 15
第14代 仲哀天皇 366 〜 367 2
神功皇后 368 〜 377 10
第15代 応神天皇 378 〜 405 28
第16代 仁徳天皇 406 〜 428 23
第17代 履中天皇 429 〜 431 3
第18代 反正天皇 432 〜 434 3
第19代 允恭天皇 435 〜 455 21
第20代 安康天皇 456 〜 458 3
第21代 雄略天皇 459 〜 481 23
第22代 清寧天皇 482 〜 486 5
第23代 顕宗天皇 487 〜 489 3
第24代 仁顕天皇 490 〜 500 11
第25代 武烈天皇 501 〜 508 8
第26代 継体天皇 509 〜 533 25
第27代 安閑天皇 534 〜 535 2
第28代 宣化天皇 536 〜 539 4
第29代 欽明天皇 540 〜 571 32
第30代 敏達天皇 572 〜 585 14
第31代 用明天皇 586 〜 587 2
第32代 崇峻天皇 588 〜 592 5
第33代 推古天皇 593 〜 628 36
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月19日 10時12分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


>天皇在位期間・年数

ありがとうございます。


そうか、今年は皇紀1865年か。
皇紀2679年よりは当たっていそうですね。


神武天皇がなんとなく秦一族の子孫で福建経由で日本に来たように思えて来ました。
[32]三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月21日 00時01分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ラグビーワールドカップ「日本対南ア戦」は、今晩、残念ながら日本が負
けてしまいました。フィジカルの強さの差が出たように思えました。
 ウェールズはフランスに逆転勝ちしました。今後は日本の代わりに、ウェ
ールズを応援したいと思います。ウェールズという国、良く知りませんが、
ケルトの国、男性のコーラスが有名のようです……。

 さて、井伊氏について、今までは、そのバックグラウンドを知らなかった
のですが、南北朝の頃、井伊氏には強大な「井伊ファミリー」がいたという
ことを、加茂氏は書いておられます。それを列挙しますと――

 @井伊遠江守道政(本当のところ、実在したかどうかの確証がほしい)
A天野周防守景顕
 B足助七郎左衛門重春
 C奥山半七郎宗富
 D桃井和泉守貞識
 E吉良七郎兵衛正秀
 F西郷弾正正康
 G大庭雅楽助影平
 H児玉庄左衛門定政
 I酒井与四郎忠則
 J矢田彦七郎之泰
 K長谷川大炊助重行
 L吉田右近太夫綱弘
 M大草三郎左衛門信長
 N開田越後守政安
 O山内左京亮国親
 P稲垣三郎正春
 Q副田五郎政道
 R永田五郎満永
 S田出羽介祐宗
 21小出三郎光清
 22岡田八郎親治

これを、"井伊二十二党"と称していたということであります――
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月21日 07時47分33秒 ) パスワード

三つ柏さん

ラグビーワールドカップ「日本対南ア戦」、残念でした。
4強の壁は厚かったですね。


>"井伊二十二党"

これは知りませんでした。
伊勢尾張の「吉野朝忠臣15家」のようなものですね。

ありがとうございました。



@井伊家   知ってた
A天野家   知ってた
B足助家   知ってた
C奥山家   知ってたような?
D桃井家   知ってた
E吉良家   知ってた
F西郷家   知ってた
G大庭家   知ってた
H児玉家   知ってた
I酒井家   知ってた
J矢田家   知らなかった
K長谷川家  知ってた
L吉田家   知ってたような?      地理的に?
M大草家   知ってた
N開田家   知らなかった        元々は美濃国方県郡開田村出身?その後に愛知県一宮の割田城主?https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E9%96%8B%E7%94%B0
O山内家   知ってたような?      土佐の山内家の先祖かな?
P稲垣家   知ってた
Q副田家   知ってた          秀吉の妹の最初のだんなさんの家かな?
R永田家   知ってた
S田家    知らなかった        田英夫さんのご先祖さまの家でしょうか?元男爵家   https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%94%B0
21小出家   知らなかった
22岡田家   知ってた


名字を見れば  なるほどね〜  ですね。
江戸幕府の中の立場からも推察できますね。


源平時代あたりから拝見する名字ですね。
[34]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月21日 17時21分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今川氏といえば、今川義元が余りにも印象深い……即ち「桶狭間の戦いで
少部隊の織田信長軍に打ち取られ、大部隊の今川軍は惨敗したということ。
 だが、賀茂氏の『富士"隠れ南朝"史』を読んで、今川氏の本質は、そんな
表面的なところではなく、もっと根深いところにあったことがわかりました。
義元から遡ること八代、約二百年、南北朝の時代のことであります――
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月21日 22時51分50秒 ) パスワード

丸に三つ柏さん

C奥山家   知ってたような? と書きましたが  知ってました!  でした。

                       井伊家の一族の奥山さんですね。奥山朝利を完璧に忘れてました。娘が小野玄蕃と井伊直親の妻でしたね。



>義元から遡ること八代、約二百年、南北朝の時代のことであります。

続きを早く知りたいです。
[36]三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月22日 13時39分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ただ今、天皇陛下の「即位礼正殿の儀」をテレビで見ております。約180
ケ国の元首や王族、政府高官らは、別室でモニター画面によりその様子を見て
おります。
 人生で何回も見られるものではありませんので、貴重な瞬間であります――
 
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月22日 22時59分23秒 ) パスワード

三つ柏さん


昨日は録画してあった【スカーレット】と【同期のサクラ】を見ようとしたら録画が「即位礼正殿の儀」の番組になってました。


        丁度、雨の中を皇族方が雨傘をさして歩いているシーンでした。


            雨、降ることが分かっていたのだから
            雨除けの幕を付けたらいいのに

              
            でも

           「臨機応変」というのは【朝廷】にはありえなかったな 
            と思い出しました。


                  あれだけの正装に雨傘?と奇異に感じました。




今日は眼科の予約があるので帰宅したら早送りで見るかなと思います。
肝心の部分のみ。


その前のNHKニュースの調べで
    皇室に関心があると答えた人が4分の3で  10代20代の関心が非常に低かった  
という結果を放送してましたが

この若者達に外国人が日本の人口の半数になる50年後以降は  皇室は無くなる方向に行くんだな  と思いました。


調査では8割が女系天皇を可としてたけど
    女系では染色体がXXでしょ      ← 最近ボケがひどくて  コレで良かった?
    男系でないとY染色体が続かないんだよね


50年後はたぶんワタシは、まだ、しぶとく生きていると思うけど
その時
どう思うのかな?
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月23日 09時43分13秒 ) パスワード

眼医者に行きました。


病院に着く直前に  スマホを使い乍ら歩いて来る男性とすれ違って  あれ?  と思ったら   「白い巨塔」の先生でした。

7時半過ぎだったから  入院患者を診回って  8時開店のクリニックに歩いて行くところでした。


すれ違いざまに(体形が風間俊介に似てる!)と思って顔を見たら「白い巨塔先生」だったのです。

一瞬、オットのお礼を言わないといけないと思ったのですが
スマホに何やら入力中だったし
顔がすっごく浮腫んでた。

     昨夜深酒した?
     昨夜泣いてた?

ということで黙ってすれ違いました。
医者は大変だ
早朝は入院中の患者を診回らないといけないし
それが終わったらクリニックで外来患者を診ないといけないし
終わったら  膨大な量の   書類の整理があるし

     時々緊急医療なんかの手順の試験があったりするし。
     関係の無い科の試験の時は補習に行かないと落ちたらヤバいし。叱られるもんね。


ということで声を掛けなかった。
ご一族の井出さんの情報をゲットしたところなのに。

ま、向こうにすれば(ヤベッ!うるさいのが来たよ)と早々と気付いてスマホ打ってるフリしてただけかも。



医者が暇なんて有り得ないのはうちのマンションの若い子達を見てるからね。
患者の家族にとっ捕まりたくないのもワタシは分かってるしね。

     だから医者は若くてお金の無い時はマンション住まいでも一人前の収入になるとSFR(一軒家)に逃げ出す。
[39]三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月23日 17時15分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 近々、朝倉氏の一乗谷を訪ねてまいります。企画は「しんあいち歴史研究
会」で、金山を拠点としております。

 朝倉氏については、明智光秀との関係の真実がよくわかっておりませんの
で、調べれば何かヒントがつかめるかも知れないと思っています。

 今、朝倉氏についてわかっているのは、家臣に「服部氏」がいたこと、そ
して朝倉氏は比叡山との関係が非常に強かったということ。ひょっとすると、
比叡山の座主であった宗良親王や後醍醐天皇ともつながっていたかもしれな
い。もっとも時代的なものがあり、朝倉氏の何代目の頃か……いずれにして
も朝倉氏と比叡山と光秀……つながる要素はあるような気はします――
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月23日 22時17分35秒 ) パスワード

三つ柏さん

>朝倉氏と比叡山の関係


これは  志賀の陣 (信長vs浅井朝倉比叡山連合軍の戦い)  で  かなり解けますね。


浅井朝倉が比叡山に逃げ込んだ。
それで
信長の比叡山焼き討ちに繋がった。


比叡山にすれば信長に荘園を侵略されて怒ってたし
そもそも
日本の寺社は  古代からの超巨大政治勢力  で  特に権威のある比叡山は、ですから
浅井朝倉はまさか信長が比叡山に敵対するとは思わないし
比叡山にしても武門の信長が焼き討ちするとは思ってないし。


       だから光秀が傷ついたハナシは有名ですね。


これで日本中が信長の敵となり
我が家も伊勢長嶋一揆で信長の最愛の弟の信興を殺してますね。


信長の弟の信治=現一宮市の尾張野府(野夫)城主も(は)信長の救援に京都から駆けつけて殺されているのですが信治の子の名前が柘植正俊。


ハナシがずれるので次レスへ。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月23日 22時39分11秒 ) パスワード

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E6%B2%BB

織田 信治(おだ のぶはる)

戦国時代の武将。織田信秀の五男とも七男とも伝わる。       7男は信興でしょ。
織田信長の弟。

子に柘植正俊。

尾張野府(野夫)城主。


兄・織田信長に従って野府城(現在の一宮市立開明小学校付近が城址)を与えられていた。

元亀元年(1570年)9月19日未明、浅井・朝倉連合軍が宇佐山城に迫ってきた際、
信治は京都から2000の援兵を率いて救援に駆け付けた。
9月20日、森可成、青地茂綱と共に宇佐山城から出て浅井長政・朝倉義景の連合軍と近江坂本で戦ったが、
衆寡敵せず可成、茂綱と共に戦死した(宇佐山城の戦い)
享年27。

子の柘植正俊(実は養子らしい)は江戸幕府の旗本となった。         なんで柘植かは母方の姓だから

野夫城主の座は津田元嘉が継いだとされる。        津田さんと言ったら  信長の乳兄弟ってイメージで  名古屋の名家



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%98%E6%A4%8D%E6%AD%A3%E4%BF%8A

柘植 正俊(つげ まさとし、天文17年(1548年)[1] - 慶長16年6月2日(1611年7月11日))

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、旗本。織田信治の子であるが、『寛永諸家系図伝』では織田与四郎行正の子とされる。
      
         『寛政重修諸家譜』掲載の享年からの逆算による。
          ただしこの生年だと、父とされる織田信治とはわずか3歳差になってしまう。


織田三蔵、のちに柘植平右衛門と称する。妻は丹羽氏勝の娘。子に柘植正時、柘植正勝(旗本)。

はじめ三河国刈谷の水野信元に仕え、織田信長に仕えた際に津田姓を名乗るようにいわれるが、母方の柘植姓を名乗った。

後に豊臣秀吉に仕える。

慶長5年(1600年)に会津征伐ならびに関ヶ原の戦いで徳川家康に従軍する。
それまで400石を知行していたが、
慶長6年(1601年)に摂津国川辺郡他で加増をされ計900石を知行し、
慶長9年(1604年)には切腹した息子・正勝の所領であった500石も加えられて計1400石となった。

慶長16年(1611年)、駿府にて病没した。
墓所は静岡県静岡市葵区慈悲尾の増善寺。
子孫は幕末まで旗本として存続した。




https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E8%88%88

織田 信興(おだ のぶおき)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
織田氏の家臣。
織田信秀の七男で織田信長の弟。   だから  彦七さま。


兄・織田信長に早くから従う。
永禄8年(1565年)、信長の命で滝川一益と共に出兵し、
弥富服部党の当主・服部友貞不在の時を狙って攻め立て勝利する。

                                  こしゃくな!

鯏浦城・小木江城(古木江城。現在の愛西市)を築き、
以後は小木江城に在城し、
服部党と西に控える長島を牽制する役目を担った。


元亀元年(1570年)11月、信長が石山本願寺などの信長包囲網にさらされると、
信興の小木江城も尾張・伊勢長島一向一揆衆によって囲まれた。

このとき、信長は浅井長政や朝倉義景らと比叡山で対峙し、
近隣の桑名城にいた滝川一益も一揆勢の侵攻により籠城していたため、
援軍を送ることができなかった。


信興は孤立無援の中で奮戦し、6日間耐えたが落城し、信興は天守(別伝には城外に撃って出た、とも)で自害した、と伝わる。

なお、この時80人余りの家臣も信興に殉じている。


信頼の厚い弟・信興を殺された信長の一揆衆に対する憎悪は高まり、これが天正2年(1574年)の長島一向一揆衆の大虐殺にまでつながった。


織田一族に彦七郎信定がおり、信興と同じ彦七郎を仮名としていることから信興の子と推定されている。


『信長公記』
「長島より一揆蜂起せしめ、取りかかり、日を追って攻め申し候、すでに城内へ攻め込みしなり、一揆の手にかかり候ては御無念と思食し、御天主へ御上り候て、霜月廿一日、織田彦七御腹めされ、是非なき題目なり」


                        これで我が家は信長の逆鱗に触れ、友貞は滝川一益に謀殺され、村人数万人を殺された。
[42]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月24日 16時51分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 柘植正俊(織田信治の子 織田信秀の孫)の墓が、静岡(駿府)の増善寺にあ
るということですが、この増善寺は次の二つの理由によって、私は近々行っ
てみたいと思っていたところでありました。
 その理由は――
 @増善寺の裏山の頂に、南朝方の「安倍城」があったということ(今は城
  跡となっておりますが)。
 A増善寺は今川氏親の菩提寺であるということ。

 服部党(友貞中心)と一向一揆については、表面的なものを見るだけでなく、
その底にある深い真実を見極める必要があります。つまり、一向一揆といっ
ても、宗教上の反乱や百姓の竹槍一揆ではなく、武士や鉄砲を活用したもっ
と高度な戦いであった(一向一揆については、更に深く探究して行くつもり
であります)。
 南北朝及びその後の後南朝(隠れ南朝)の時代に、下剋上の機運が創成され
て行ったと考えていますが、それはつまり、戦国時代は南北朝以来ののスキ
ームのほぼ延長線上にあるということだと思います。いきなり戦国時代にな
った訳ではなく、従って戦国時代のみを切り取って捉えたのでは真実度は半
減すると考えます。
 そういった観点から、信長・秀吉・家康を捉えることが必要かと思います。
 『富士"隠れ南朝"史』には、そのへんのことが書かれていますので、順次
要約して記して行きたいと思っております。まずはお約束通り、今川氏につ
いて急いで記します――

[43]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月24日 22時42分37秒 ) パスワード

三つ柏さん


>柘植正俊(織田信治の子 織田信秀の孫)の墓が、静岡(駿府)の増善寺にあるということですが、
>この増善寺は次の二つの理由によって、私は近々行ってみたいと思っていたところでありました。

驚くべきグッドタイミング!


母方の苗字の柘植さんを名乗った、というところが   どういう心境で?  と心の奥底を覗いてみたいものです。

柘植は宗清の子孫ということ?

確か柘植は(柘植の一部が?)信長に付いたという記憶ですが  ココのところに伊賀を裏切った背景が見えてるのか?



>安倍城

静岡県静岡市葵区内牧・羽鳥にある日本の城跡
築城主          狩野貞永(貞長)?

ハトリ  ですか・・・



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%9F%8E

市内西部を流れる安倍川の右岸にそびえる標高435メートルの山の頂にある。

築城年代は不明だが、駿河狩野氏一門で建武政権期に武者所に勤めていた狩野貞永(貞長)の築城と伝わることから、
14世紀前半と考えられる。

山頂を本城として、周囲の尾根筋にも久住砦などの支城を多く配置し、狩野氏の一城砦群を形成している[1]。


          伊豆の「狩野」には行って来ました。
          確か平家一門の藤原(伊藤)忠清の先祖の家だったから。

                  最近「ワタシの脳味噌 どこ行ったぁ〜?」状態


狩野氏は、建武政権崩壊後の南北朝期には南朝方につき、

                              ココですね

北朝方の今川氏と安倍川を挟んで熾烈な攻防を繰り広げた。



1392年の南北朝統一後は今川に恭順していたが、
1433年(永享5年)の今川範政の死によって勃発した今川家中の内紛に乗じて離反するものの、
逆に今川方に攻められて衰退。

以降安倍城は文献に現れないことから、廃城もこの頃(15世紀前半)と見られている[2]。


城跡は、幅35メートルほどの最上部の尾根を本曲輪として、
その周囲に稜線に沿うように階段状の小曲輪を配置しており、
一部の曲輪間には、堀切を設けている。


これらの遺構の多くは南北朝期よりも後の時代の改修によって造られたものと考えられている[3]。

城跡を含む当山は、現在登山コースとなっており、東南麓の慈悲尾(しいのお)増善寺と、
西南麓の羽鳥(はとり)洞慶院から登攀して曲輪や堀切などを見ることが出来るが、急峻な箇所も多い。
 
                       


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E5%96%84%E5%AF%BA

増善寺(ぞうぜんじ)

静岡市葵区慈悲尾(しいのお)にある曹洞宗の寺院である。
天武天皇10年(681年)に法相宗の始祖道昭法師が開いた真言宗の寺で、
「慈悲寺」と呼ばれていた。


明応9年(1500年)曹洞宗に関心の深かった駿河の国主で後に今川家中興の祖と呼ばれた今川氏親(今川家7代当主)は辰応性寅禅師(しんのうしょういんぜんじ)に帰依し性寅(しょういん)を開山として七堂伽藍を整えて、再興し、曹洞宗に改め、今川家官家増善寺となった。


大永6年(1526年)6月23日、今川氏親が亡くなると、この寺で戦国大名史上、他に例のない大葬儀が営まれた。寺には、苔むした氏親の墓とともに460年前に造られた等身大の木像が安置されている。


寺宝として、今川家古文書をはじめ、徳川家康寄進の天目茶碗・扇・硯などがあるが、これらは静岡市文化財資料館(浅間神社境内)に展示されている。



寺の裏山に南北朝期の安倍城跡がある。
一大城砦網の拠点としての安倍城主狩野貞長との戦乱において多大な年月と戦乱の末、
間もなく、今川家は根拠地を駿府に移し、
守護大名として、東海に君臨するようになった。


その後、度重なる内紛が起こり、その渦中で幼少を過ごした氏親にとって、安倍城をひかえた自然の要塞の地「慈悲尾」に今川家の菩提寺とし自らの安息の地を求めたのは決して偶然のことではない。



徳川家康と増善寺

徳川家康(竹千代)が、今川義元の人質時代に増善寺の等膳(とうぜん)和尚とは岡崎時代から顔見知りということもあり、
人質の身をよく理解してくれた等膳和尚を募ってよくこのお寺を訪れたという。


ある日のこと、竹千代が増善寺を訪れ参道で鳥を捕っていると、村人が竹千代に向かって「この寺は殺生禁断(せっしょうきんだん)の寺だ、殺生するとはけしからん」と言って罵ったという。


竹千代は等膳和尚にこのことを告げると、
和尚からも「むやみに鳥類を殺生することは仏の道に背くもの」として説教されたという。

この時に竹千代は、「自分は父親の葬儀にも墓参りもすることなく、駿府に人質に来たため1度だけでもいいから岡崎に墓参に行きたい」と告げたという。


このことを聞いた和尚は竹千代のために密かに持舟の港から岡崎に連れて行き無事帰途に着いて墓参を実現したと寺の記録に記されている。


等膳和尚はこの縁によって可睡斎の住職となり、
駿河・遠江領内の曹洞宗を統括する「僧録(そうろく)の位を得たという(「可睡斎(かすいさい)文書」)。

                         へぇ〜



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E6%B0%8F%E8%A6%AA

今川 氏親(いまがわ うじちか)

戦国時代の武将・守護大名・戦国大名である。
駿河今川家9代当主。
駿河・遠江守護。
父は今川義忠、母は幕臣伊勢盛定の娘・北川殿で、北条早雲の甥、今川義元の父に当たる。


                       この人の戦歴がすごいですねぇ。
[44]三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月24日 23時22分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ちなみに、安倍城は南朝臣狩野介貞長の城で、宗良親王の興良親王を預か
っていました。と言っても、興良親王は、狩野貞長の娘・富士乃姫(駿河姫)
と宗良親王との間にできた子でありましたので、貞長にとっては孫でありま
した。
 1340年、宗良親王は攻められて井伊谷から大平城へ移動、さらに子の
いる駿河の安倍城へと移りました。

 さて、今川氏ですが、個々の具体例を挙げるととても長くなってしまいま
すので、加茂氏が書いた今川一族についての一文を、とりあえずのところの
まとめの代りとして掲載させていただきます――
 
 「そもそも今川氏というのは清和源氏で、足利、新田、桃井、畠山、細川、
 仁木、一色、石堂、渋川、斯波、吉良氏らとは同族。新田、桃井氏らが、
 終始して南朝に仕えたのに対し、今川氏は範国より始まって氏親に至る十
 代の間、一貫して北朝に仕え足利氏に奉仕した。即ち南朝にとっては、初
 めから終りまで不倶戴天の仇だったのである。今川氏は南朝を征伐するこ
 とで出世し、そのことで、やがて反対に南朝から潰された大名である。」

 この一文の意味する所は、誠に重く、今までの今川像を一遍させるもので、
南朝方の後裔にとっては、その蹂躙され、虐殺されたという過去を再認識せ
ざるを得ません。我々の住むここ遠江・遠州も、随分と南朝残党狩りが厳し
かったと言われております。厳しいとは、即ち残忍であったということであ
ります。そのために、、先祖は逃げたり、身を隠したり、名前を変えたり…
…さまざまなつらい思いをして来たのだと思います。

 次回も、今川氏について書かれた説明を、更に載せてみます――
[45]三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月24日 23時30分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスが交差しました。

 前レス一つ訂正:今川像を一遍→今川像を一変
         (ついでながら、一遍上人についても深く掘り下げたいと
          思っております。当初は一向宗とも言われた……)


[46]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月25日 03時23分07秒 ) パスワード

三つ柏さん


まず自己レス:すまぬ

>寺宝として、今川家古文書をはじめ徳川家康寄進の天目茶碗・扇・硯などがあるが、これらは静岡市文化財資料館(浅間神社境内)に展示されている

ということなので機会が出来ましたら静岡市文化財資料館が浅間神社境内だそうですから
「浅間神社さんにムカシ神職さんで服部さんという方がいらっしゃったようですが」
とお訊きになってはいかがでしょう?

もし家紋が丸に三つ柏紋でしたらバッチリなんですが。



>安倍城は南朝臣狩野介貞長の城で、宗良親王の興良親王を預かっていました。
>興良親王は、狩野貞長の娘・富士乃姫(駿河姫)と宗良親王との間にできた子でありましたので、貞長にとっては孫でありました。

伊勢尾張の「吉野朝忠臣15家」の「4姓」の1つが藤原氏=伊藤さん=です。

伊藤さんは伊勢に来る前の伊豆?駿河?(土地勘無し)にいた時は苗字?俗姓?が狩野姓でしたから
安倍城の狩野貞長が後醍醐天皇に従ったのは伊勢の一族に呼応したってことなのかな?と思いました。



>新田、桃井氏らが、終始して南朝に仕えた

新田家は足利家から長年マウントされてましたからね

           鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあって、
           1336年の建武の乱(延元の乱)以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将に過ぎなかったし


それ以前の生存権については過去からずっと渡良瀬川の水争いがあったわけだし

義貞にとって尊氏は(いつか鼻を明かせてやりたい)存在でした。



>今川氏は南朝にとっては、初めから終りまで不倶戴天の仇
>今川氏は南朝を征伐することで出世し、そのことで、やがて反対に南朝から潰された大名

義元と組んで信長を殺そうとした我が家としては・・・誠に・・・ははは  笑


津島神社の天王祭のハイライトは北朝方の武士を捉えたシーンで
この祭りを信長や秀吉も楽しんだ
ということです。



ちなみに尾張の北朝方の拠点は一宮の妙興寺さんです。(南朝方の拠点は津島神社)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E8%88%88%E5%AF%BA


妙興寺(みょうこうじ)

愛知県一宮市にある臨済宗妙心寺派の大寺院。
山号は、長嶋山(ちょうとうさん)、寺号は詳しくは妙興報恩禅寺と称する。

本尊は釈迦三尊、開山は滅宗宗興である。

周囲には、五つの塔頭がある。


古より「尾張に杉田(過ぎた)の妙興寺」と言われる。   
                 いえいえ、尾張一之宮のある一宮に存在する寺ですから当然です。熱田神宮は3の宮ですから格下です。汗


新陰流開祖上泉信綱が修行した。
無刀取り発祥の地。

修行道場として僧堂が設置されている。



創建以前には妙興寺廃寺(妙興寺跡)と呼ばれる古代寺院が建っており、
境内各所から出土する奈良時代の瓦によって8世紀には寺院建築が存在したことが確認されている。

その後、寺院は、いつしか衰退し廃寺になった。

数百年後の貞和4年(1348年) 尾張国中島城主中島蔵人の次男滅宗宗興が亡き父母の報恩に感謝するために創建され、
先師にあたる南浦紹明(なんぽじょうみん)を勧請開山とした。

伽藍が完成したのは貞治4年(1365年)のことである。

この間、文和2年(1353年)には 足利義詮の祈願所となり諸山に列し、延文元年(1356年) 後光厳天皇の勅願寺となっている。

最盛期には、境内塔頭8、末寺13あったという。


                       尾張で中島さん(なか⤵シま
、だよ。なかジ↗ま、じゃないよ)と言えば大家でして
                       当然我が家の親戚でもあるわけで
                       禅宗で
                       インドやスリランカで修行しています。

                       これ以上は余りにもな自慢話になるんで遠慮。
                       謙虚に書いておけば加藤高明がらみだね



ところが、応仁の乱を境に足利将軍家の庇護を失い、戦国時代の戦乱によって多くの寺領を失い衰微する。

天正18年(1590年)寺の荒廃を憂いた豊臣秀次(あるいは豊臣秀吉)によって京都妙心寺から南化玄興が招聘され再興がはじまり、
この時から妙心寺の末寺となった。

                       こんなに新しいハナシというのは知らなかった


秀次が200石を寄進した後、秀吉が300石を朱印地として宛てがい、後に松平忠吉に200石に減らされるも、これが尾張藩主によって代々安堵された。




ということで関係無いついでで一宮近辺の地図を出しておきます:
http://www.hb.pei.jp/shiro/owari/nakashima-jyo/

一番北が  真清田神社   蜂須賀小六の奥さんの実家
中島城跡  萩原駅のサインの東南
竹腰城   中島城の南西    竹腰さんは尾張徳川家の筆頭家老。子孫が昭和天皇の皇后さまの体操の先生だった
大矢城   中島城の5.9q離れたところ   大矢さんは尾張の名家  
                      名家ぶりは鎌倉時代の大屋中三安資の居城で大屋安資は吾妻鏡に出てくる尾張の武士

http://www.hb.pei.jp/shiro/owari/ohya-jyo/
ここ参照

稲沢になるんだね、知らなかった    清州のすぐ近くじゃんね。知らなかった  土地勘ゼロだから

この地図の1番南に七宝町というのがあるけど
うちの村の一番の出世頭の  まつ女史  の出身地です。
前田利家の奥さん。

この地図に増田とか長束とか浅野が出てるけど  いかにも  秀吉一党  だね。
え〜
知らなかった〜

青塚駅の北に  蜂須賀  ってサインが出てますね。
勝幡城が西にありますが  ここが信長が生まれた城。


                      蜂須賀小六が信長を嫌ってたハナシはそりゃあ近所過ぎて仲がムカシっから悪かったんでしょうね。


などなどツイツイ夢中になってPCから離れられない。  
[47]三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月25日 12時57分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 静岡浅間神社といえば、富士浅間神社から勧請ということで、宮司的には
南朝方(隠れ南朝の方がふさわしいか)であることをうかがわせます。

 1384年、今川氏(範国の孫泰範か)は、観阿弥を駿府に招き、浅間神社
にて能を舞わせます。

 観阿弥は"阿弥"という法名を使っているところをみると、時宗に関係して
いたようにも思われ、南朝方であることをうかがわせます。観阿弥の本姓は
服部で、母は楠木正成の女兄弟と言われています。

 浅間神社と観阿弥の取り合わせは、同じ南朝色でマッチするのですが、何
と能の奉納舞の十七日後に、観阿弥は謎の死を遂げてしまいます。

 時代的に見ますと、その前年には南朝天皇・長慶天皇譲位→後亀山天皇の
即位があり、またその翌年には、宗良親王が薨じています。

 さらに観阿弥の死後8年後には、南北朝合一がなっております。

 そんなはざまの中での出来事で、観阿弥は謀殺された可能性は高いと思わ
れます――
 

 
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月25日 14時20分55秒 ) パスワード

三つ柏さん


観阿弥の死は今川氏による謀殺説があり
しかし

    観阿弥 正慶2年/元弘3年(1333年) - 至徳元年/元中元年5月19日(1384年6月8日)

50代ですから脳卒中・蜘蛛膜下出血かも知れないし   (脳梗塞は当時の日本人には肉食が今ほどじゃないから縁が無かったんじゃないかな?)


で、検索してみました:
歴史を知りたい - BIGLOBE
www2m.biglobe.ne.jp › ~shotaro

     では、第1番目の謎「世阿弥の父観阿弥の急死の謎」・・・
     この死については、『花伝書』(正式名称は『風姿花伝』能楽の極意書、世阿弥編)には、
     次のような記載がある。


ということで   http://www2m.biglobe.ne.jp/~shotaro/no467.html   に行きましたが
わたくしのPCでは文字化けで読めませんでした。
残念っ
[49]三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月27日 04時34分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、ぶらりと三浦半島の「城ケ島」に行ってきました。三浦半島の先
端にあり、ロケーションは非常にいい所であります。海の向こうには、房総
半島、大島、伊豆半島、鎌倉、富士山と、大展望が広がっています。
 北原白秋の「城ヶ島の雨」で有名ですが、そんな大正浪漫的な感傷は今で
はつゆぞ感じられないような気がしました。

 しかしながら、考えてみるとこんなにロケーションのいい場所はない。つ
まり、「水軍の基地」にすればピッタリ……鎌倉にも千葉にも江戸にも伊豆
にも行ける、正に軍事的な要衝のように感じられました。

 白秋はこの近くの三崎町に住んでいたようです。歌詞の中に「利休鼠」と
か「投し矢」という言葉が出て何やら歴史の片鱗を感じさせますが、はたし
てどんな歴史がこの地に眠っているのでしょうか、あを様教えて下さい――
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月27日 14時34分47秒 ) パスワード

三つ柏さん


三浦半島=桓武平氏の子孫である三浦氏の拠点ですね。
でも鎌倉幕府執権の北条氏に粛清されてますね。
さらに北条早雲によって滅亡させられてますね。
  
                       よくよく「北条」という名字が不倶戴天の敵になるもんですねぇ


城ヶ島について調べてみました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E3%83%B6%E5%B3%B6


島名の由来

古代〜中世までは「尉が島」「尉ヶ嶋」等と称され、「城ヶ島」と呼ばれるようになったのは中世以降とされる。

「城ヶ島」となった由来・時期は諸説あり、尉(律令制度の役職)という者が住んでいたので「尉ヶ嶋」と呼ばれていたが、
源頼朝が「城ヶ島」に改めた(『三浦郡神社寺院民家並古城旧跡』)


源頼家が遊覧した際、「尉」を「城」に改めた(『俳諧三崎志』)


戦国時代に房総半島の里見義弘がこの島に砦を築いた頃に「城ヶ島」と呼ぶようになった(村井弦斎『桜の御所』)

                       里見氏といえば松島家家譜の記述を思い出します。

など。

このうち里見義弘にちなむとする説は明治時代の観光パンフレット『相州三浦半嶋案内』でも紹介されており、
かつては多くの人が島名の由来を知っていたと思われるが、現在では地元でも知る人が少なくなった。


                    
黒潮の影響で冬でも温暖な太平洋岸気候で、海からの風が常に吹いている。
暴風時には太平洋岸は非常に激しい海象となり、人を全く寄せ付けなくなる。

翻って三崎側の海面は本島が天然の防波堤として機能するため、比較的穏やかである。
このことが   三崎漁港を古来から避難港、風待港として天然の良港   たらしめている。

                       へぇ〜


標高30m程の平坦な台地が大部分を占め、沿岸部で急激に海に落ち込んでいる。海岸は島の東西端部に岩礁地帯が広がり、所々に砂浜がある。
太平洋側の赤羽根崎より東側は険しい海食崖が発達している。
元来、沿岸部に平坦な場所が殆どない地形である。


遊ヶ崎に弥生時代の遺跡があり、食料調達としての漁はその頃から行われていたと考えられる。

商いとしての漁業は江戸時代、江戸の発展に呼応するように始まった。
水揚げされた魚介は当時の快速艇である押送り舟(おしょくり)で江戸に運ばれた。


島自体が地元の重要な観光資源である。

観光地としての歴史は古く、鎌倉時代に源頼朝が度々来遊した頃に始まる。
頼朝は笠懸を催した「遊ヶ崎」、茶を淹れたり硯の水に使ったりしたとされる「水っ垂れ(水辺の岩に湧く清水)」、頼朝の侍女が酒に酔ったことからその名がついた「酔女ヶ浜」など、島内各所に由来を残している。


源頼朝は、城ヶ島と三崎の宝蔵山に数千株という大量の桜を植え込み、両岸を桜に囲まれた瀬戸(海峡)に船を浮かべて宴を催したと伝わる。

戦国時代には北条氏康親子が桜見物のために3日間滞在しており、城ヶ島の春は磯山に桜が咲き乱れる絶景であった様子が偲ばれる。

この桜は現存していない。
江戸時代後期に編纂された『俳諧三崎志』に枯死を惜しむ節があり、この頃には既に失われていたようであるが、
対岸の三崎に「花暮(はなぐれ)」という地名を残している。
花暮とは、三三崎から眺めた城ヶ島の桜は、白波に桜が映って日が暮れるまで眺めても飽きないということに由来する(『三浦紀行』)。


古代

遊ヶ崎(城ヶ島大橋直下)にて弥生時代の遺跡が発見されており、この頃から人が住んでいたと考えられる。

令制国としては、神奈川県の他地域とともに相模国に属した。
奈良時代には薬師山に奈良東大寺の大仏建立に協力した行基によって開かれた神宮寺という寺があったと伝えられる。
寺は既に存在しないが、三崎の見桃寺の本尊薬師如来像は元々この寺の本尊であったと言われる(『新編相模国風土記稿』)。


864年には藤原資盈(藤原鎌足から11代目)が任地赴任中に三浦に漂着、船の楫(かじ)を取っていた家臣三郎に住居の場所を占わせ、島西端にある小山に鎮座したとされる。
後に三郎を祀った梶ノ三郎神社が建立され、以降、小山は楫の三郎山と呼ばれるようになったという。
ちなみに、藤原資盈は三崎の海南神社の祭神として祀られている。



中世

1516年:北条早雲によって新井城、三崎城が落城し、三浦氏が滅亡。三浦氏の残党が城ヶ島に立て篭もって抵抗(三崎十人衆)。


1556年:北条氏康、城ヶ島・三崎の海上で里見水軍と交戦。

                   
1562年:里見水軍が城ヶ島に上陸、北条氏と交戦(三崎三浦海戦)。

1565年:北条氏康父子、桜見物のため三崎に来訪。城ヶ島に3日間滞在。
1570年頃:城ヶ島に三崎海南神社の分霊を歓請。
1573年:了善が常光寺を開山。

1590年:神宮寺焼失。豊臣秀吉による小田原征伐で戦国大名としての後北条氏は滅んだ。
     関東は徳川家康が転封され、三浦郡は徳川氏直轄領となる(代官長谷川七左衛門)。

                       長谷川氏


1594年:代官長谷川長綱、三浦郡全域の検地を行う。
1602年:神宮寺、城ヶ島より三崎に移り、高庵坊が神宮寺薬師堂を再建。



江戸時代

城ヶ島を含む三崎一帯は江戸幕府の直轄地(天領)となる。
慶長年間に三崎御番所が置かれ、三崎代官(一時、三崎奉行)によって統治された(初代代官:長谷川長綱)。

1648年:三崎奉行設置。
        同奉行安部次郎兵衛が島東端の安房崎に烽火台を設置。

1649年:城ヶ島で海老網漁が始まる。
1676年:衣笠庄三崎郷が分割され、城ヶ島村となる。
1678年:烽火台を島西部に移設して灯明台を設置。
1681年:州の御前で雨乞いが行われる。
1696年:三崎奉行廃止、浦賀奉行所の所管下で再び三崎代官を設置、平岡三郎衛門が任官。
1721年:三崎代官河原清兵衛、灯明台を篝火に変更する。
1808年:城ヶ島の大火。浦賀奉行岩本正倫、砲台を設置。
1810年:幕府、会津藩主松平容衆に相模海防役を命じる。
1811年:会津藩、城ヶ島砲台を修理して遠見番所を併設。城ヶ島を含む三崎一帯の領主となる。
1812年:会津藩、安房ヶ崎にて大砲発射演習を行う。浦賀の加藤山寿が『三浦古尋録』を著す。
1821年:幕府、会津藩の相模海防役を解き、代わって川越藩が同役に就く。城ヶ島砲台は浦賀奉行の所管となる。
1841年:『新編相模国風土記稿』成立。
1854年:三崎の名主吉兵衛、城ヶ島沖に異国船2隻を発見、上宮田陣屋に報告。
1856年:遠見番所廃止。
1867年:幕府によって灯台建設が計画される。
1868年:三崎一帯は韮山代官江川英武の監督下に置かれる。

                       韮山の代官江川氏は中世以来の名家ですね。
                       
                       この英武は早々と恭順して韮山県知事になってますね
                       2代前の江川太郎左衛門英龍は海防に努めて大砲の反射炉を作っていて
                       その跡を捜しに行ったような記憶
[51]三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月28日 20時58分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございました。平家の三浦氏、藤原氏の結城氏、新田氏の里見
氏、それに北条氏と後北条氏、このへんは知識不足でありますので、たいへ
ん勉強になりました。城ヶ島・三崎港は正に戦略基地ということであり、そ
の有用性は今も変わらないのではないかと思います。今はマグロ基地か、昼
食にはマグロ丼を食べてきました。

 さて、昨日は福井の「一乗谷」を訪ねてきました。各種史料や頭の中が整理
でき次第、記したいと思います――
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月29日 09時31分12秒 ) パスワード

三つ柏さん

三浦氏は  平家  じゃありません。

                       平家とは伊勢伊賀を本貫とする平氏のことです。
                       なので三浦氏は平家ではありません。


三浦氏は坂東8平氏の1つです。


11世紀後半の前9年の役【1056年】で源頼義パパに、後3年の役【1083年】で源義家息子に従って
12世紀後半の保元の乱【1156年】では源義朝に付き、
平治の乱【1159年】で源義朝が清盛に負けてしまって

治承四年(1180)に源頼朝が伊豆で挙兵すると、三浦一族は頼朝に応じた。
ところが!石橋山合戦で敗れた頼朝が真鶴から安房国へと脱出したので

    これは三浦一族が着陣する前に頼朝が敗れたため、

三浦へ引き返す途中、平家方に襲われ、
三浦義澄らは安房へ向かい頼朝と合流。


その後、房総・武蔵の武士を麾下に加えた頼朝は鎌倉に入部。


この時の三浦氏は政子の実家の北条氏よりも力がありました。


これで三浦氏は頼朝のブレーンとなり

三浦一族は源義仲追討、
西国の平家追討から壇ノ浦の戦いで活躍、
その後の文治五年(1189)の奥州合戦にも活躍。


で、頼朝が突然死。


その後、鎌倉幕府の中は政子一族による粛清の嵐。
さまざまな頼朝恩顧の家が潰されていきました。


そして宝治元年(1247)宝治合戦で三浦一族は頼朝を祀る法華堂に逃れ
頼朝の絵像の前で一族、
主な者二百六十人、都合五百余人が自害を遂げ三浦氏は滅亡。


元弘元年(1331)、後醍醐天皇が企てた鎌倉幕府討伐の計画が未然に露見。
 

建武二年(1335)の「中先代の乱」に際して、
父の時継は北条方に、
息子の高継は足利尊氏に味方して戦った。


北条方の敗北により時継は斬られたが、高継は父の本領を与えられるとともに相模国大介職も安堵された。


高継は足利尊氏側で北朝方。


ところが、ここから足利家は兄尊氏と弟直義が戦ってグチャグチャになって行って
三浦が南朝方につくという事態に。

             足利家は父尊氏と子直冬(父に愛されず、叔父の直義の養子になっていた)が争って   

             その後はもっとグチャグチャになってワタシにもワケ分からない展開に


グッチャグチャの後、永正十三年【1516年】北条早雲に滅ぼされ
里見家を頼って落ちて行った三浦氏の末裔は里見の一族の正木の姓を名乗り
後に三浦氏に戻し紀州徳川家に家老として仕えた。



三浦 為春(みうら ためはる)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%82%BA%E6%98%A5

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。
三浦長門守家初代当主。

妹に徳川家康の側室・養珠院(於万)。

紀州藩祖・徳川頼宣と水戸藩祖・徳川頼房の伯父に当たる。

                        すごぉ〜い!ラッキー!
                        持つべきは美しい妹ですね。

                              ごめんよ、弟


改名   正木為春→三浦為春→遁庵定環(号)

                       
天正元年(1573年)正木頼忠の子として相模国足柄下郡小田原(現在の神奈川県小田原市)で生まれる。

母は北条氏隆の娘とされるが[2][3][注釈 1]、北条氏尭の娘とも、田中泰行の娘(北条氏尭の養女、板部岡江雪斎の姉)とも伝わり、諸説ある。


祖父・正木時忠は三浦氏の末裔を称する安房正木氏の一族である勝浦正木氏の当主で、
安房里見氏の家臣として上総国の勝浦城を任されていたが、
永禄7年(1564年)に一時後北条氏に寝返っており、
為春の出生時には父の頼忠が人質として後北条氏の本拠である小田原に滞在していた。


天正3年(1575年)に伯父の正木時通が急死すると、父・頼忠は家督を継ぐため勝浦に帰還したが、
為春はそのまま小田原の外祖父の許に留まり、
天正14年(1586年)になってから帰還した[4]。


豊臣秀吉の小田原征伐により後北条氏が滅亡すると、里見氏は惣無事令違反を理由に上総国・下総国を没収されたが、
勝浦正木氏もこの頃までに里見氏に帰参していたため同様に領地を失い、
安房に戻った。


妹の於万(養珠院)が新たに関東の支配者となった徳川家康の側室として寵愛を受けるようになると、
為春は隠居した父に代わって慶長3年(1598年)に召し出され、
3,000石を与えられた[3]。

また、家康から正木姓を改めて三浦姓に復することを許され[3]、
以後は三浦為春と名乗り、
三浦氏の祖とされる三浦為通の官名に肖って長門守と称した[2]。


慶長8年(1603年)に妹・於万が産んだ家康の十男・長福丸(のちの頼宣)の傅役を命じられ、
慶長13年(1608年)2月20日には常陸国内に5,000石を賜る[3]。

翌慶長14年(1609年)に頼宣が駿府藩50万石に転封されると、遠江国浜名郡に8,000石を領した[3]。

                        浜松にいた?


同年9月、家康の命を受け、前年に加藤清正の五女・八十姫と婚約していた頼宣の結納使となり、
清正の領国である肥後国に下って納幣[3]。大坂の陣では頼宣に従って出陣。戦後は頼宣と共に京都に滞在し、
京都では日蓮宗(法華宗)の僧で不受不施派の祖となった日奥の教化を受けている[5]。


元和5年(1619年)には紀州藩55万5,000石に転封された頼宣の紀伊入国に随行した。

為春は紀伊国那賀郡貴志邑1万5,000石を治める「万石陪臣」となり、
貴志城を築城している。


寛永元年(1624年)に家督を嫡男の為時に譲って隠居。
寛永3年(1626年)4月5日、従五位下長門守に任官[2][3]。
翌寛永4年(1627年)に了法寺で剃髪入道して遁庵定環と号する[6]。
慶安4年(1651年)には法号の妙善院日曜を大雲院日健に改めている[7]。


承応元年(1652年)7月2日、死去。享年80。墓所は和歌山県和歌山市の了法寺。


子孫は紀州藩(紀州徳川家)の家老を世襲し、三浦長門守家と呼ばれた。



人物・逸話

歌人・文化人としても知られており、書道や文学にも造詣が深かったとされる。

ある年には女子のために仮名草子の『あだ物語』を作り、大覚寺門跡の空性法親王(後陽成天皇の弟)がこれを甥の後水尾天皇に見せたところ、後水尾天皇は感心して跋文(奥書)を書き入れたという[3]。


他にも紀行文の『太笑記』や俳諧集の『野奸集』、『犬俤(いぬおもかげ)』などの作品が現存している。


日蓮宗の熱心な信者であり、晩年には常に法華経を読誦し、題目の書写を日課としたという[6]。

元和9年(1623年)に亡父・正木頼忠の菩提を弔うために紀伊国那賀郡上野山村(現在の和歌山県紀の川市)に了法寺[注釈 2]を建立し、寛永4年(1627年)には江戸麻布桜田町(現在の東京都港区)に妙善寺を建立している。

なお、両寺の開山は日蓮の生誕地にある誕生寺の第20世住職・日為が務めた。




三つ柏さんが三浦半島や三浦氏にシンパシーをお感じになったのは  浜松つながり  かもですね。

すごい!

何か有りそうですね。



だいたい  松島家家譜って?  なんで「里見」が書かれてた?
江戸時代にも松島家が三浦氏つながりで何かあったのかもですね。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月29日 22時27分56秒 ) パスワード

岡山の方よりメールを頂きました:以下コピペ


三浦氏・八賢士

三浦氏は当地では古くから馴染みの一族です。
西遷御家人の地頭ですね。
又、明和に入部したのも三浦氏ですからね。


江戸期の三浦氏の伝家の宝刀は、今、一族の人(大洲藩戸田家の分家の跡継ぎ)が持って居ます(私も拝見し抜刀して観賞し)、
縁の品々を一番多く所持して居ます。



家村の末裔と言う正次が江戸時代に時の将軍・徳川家光に仕えて若年寄となり
下総矢作藩で大名に列し、
下野・壬生城と日向・延岡城と三河・刈谷城と三河・西尾城を歴て明次の代に美作勝山藩に封じられ廃藩置県を迎えた。


*家村の従兄弟の盛連の末裔で横須賀三浦氏の流れが、戦国時代の美作勝山の三浦氏。
            一応 は滅亡・・・・名字を変えて地元に存続
            城主の奥さんは最後には豊臣秀吉の側室に成って居ます。


・幕末の長州征伐の戦功で藩主の名字を拝領者も有り(遠征の功労に当てる物が無くて)。


越前と山口にも三浦氏が今でも存在していますね。




里見氏の八犬伝の元に成った8賢人の祭られて居る場所(鳥取県倉吉市の大岳院)・・・・・・里見氏の配流されたのが、鳥取県西部の倉吉市。



八賢士

史実の里見家最後の当主であった館山藩主里見忠義は、江戸幕府によって伯耆国に転封され(倉吉藩参照)、1622年にその地で没した。

このとき忠義に殉死した8人の家臣があり、戒名に共通して「賢」の字が入ることから八賢士と称される。

彼らの墓は鳥取県倉吉市の大岳院にあり、また倉吉から分骨した墓が館山城の麓に建てられている。

この「八賢士」を八犬士のモデルに求める説もある。



第十代忠義は徳川幕府の重臣・大久保忠隣の孫娘を室に迎えましたが、
忠隣の失脚で、伯耆国(鳥取県倉吉市)に配流されてしまい、

最後は池田光政の鳥取に4000石の所領は召しあげられ、
百人扶持になり八年後に死去。
継嗣なきため里見氏の歴史は終わりました。
[54]三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月30日 15時59分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 情報を整理し理解・掌握するのに時間がかかりました。

 いろいろなことを知るきっかけになりました。改めて御礼申し上げます。

 @里見家の末裔・里見忠義は、大久保忠隣の長男の娘を室とするも、長安
 事件で忠隣が改易されると、同じく忠義も改易され、倉吉に転封となる。
 
 A三浦氏の末裔の三浦為春(正木氏)の妹・於万は、徳川家康の側室となり、
 頼宣、頼房を生む。

 B結城家は家康の次男・秀康が養子に入り、家督を継いだ。

 C里見氏も三浦氏も正木氏も結城氏も、そう簡単な色分けはできない複雑
 な経緯・状況はあるが、一応皆南朝方であった。

 Dつまり、南朝方は家康の元に収束する(もちろん、北朝方もやがて収束し
 て来るわけですが……)

 以上、大変貴重な情報を把握することができました。ありがとうございま
す。これだけの情報がありますと、次に展開できそうです――
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月31日 09時25分23秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101696.html
長上郡の服部氏族CXXZ:127:現場100回-8
を立てました。


キリの良いところでどうぞ。


わたくしの乱入で 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が隠れ南朝方だったこと 及び 服部宗純  の書き込みの腰を折ってしまいましね。
ごめんなさい。


続きを楽しみに待っています。
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