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 投稿番号:101687 投稿日:2019年09月02日 08時59分07秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏紋の服部さんの代理
長上郡の服部氏族CXXX:125:現場100回-6

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101680_52.html
長上郡の服部氏族CXXW:124:現場100回-5
の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


伊賀について『伊賀市史』の中から:

まずは律令時代に分けられた「伊賀国四郡」について――
@阿拝郡――「北部」に位置。柘植・川合・印代・服部・三田・新居の六郷。
       律令制期における伊賀国の中心部。
A山田郡――「東部」に位置。木代・川原・竹原の三郷。
B伊賀郡――「東南部から中西部」に位置。
       阿拝郡に並ぶ古代伊賀国の中心部。
C名張郡――「西南部」に位置。

「服部川、柘植川など伊賀盆地の水を集る木津川は、
下流で平城京や恭仁京(木津川市)の近くを通り、
さらに大阪湾へ流れ込む淀川につながって、
古代の政治経済の中心地を結んでいた」


武山憲明氏の『戦国忍者列伝 日本史の影で動いた男たち』より:

@
義経四天王のひとり、伊勢三郎義盛は伊勢を名乗っているが、
実は伊賀の出身で、
認歌「よしもり百首」で知られる忍者(山賊の頭領)だった。

A
伊賀の上忍服部家の先祖は、
源平合戦の際に平知盛に仕えた伊賀平内左衛門家長だといわれる。
家長は、伊賀者を率いて安徳天皇の親衛隊帳を務め、
敵将・源義経の奇襲を再三にわたってかわした。
その神出鬼没な行動から、"煙の末"の異名を取ったという。

B
こうしてみると、源平合戦の水面下では、
義経、伊勢三郎の源氏忍軍と
伊賀家長率いる平家忍軍との間で
熾烈なせめぎ合いが演じられていたのではないか?

C
『源平盛衰記』によれば、
家長は壇ノ浦の合戦の際に、乳兄弟でもある知盛と一緒に手を取り合って入水したことになっている。

しかし、

『伊賀者大由緒記』によれば、
家長は屋島の合戦の後、保長と名を改めて、伊賀の千賀地に隠れ住んだという。

D
家長は、平治の乱のときに平家方の捕虜になった源頼朝の助命に尽力した柘植の住人、平宗清と伊賀つながりで親しかったようで、この宗清が間に入って赦免してくれるように頼朝に頼んだといわれる。

E
そして、家長の長男、保清は頼朝に仕え、服部郷に住んだ。

保清の三人の息子はそれぞれ
上服部、中服部、下服部
と称した。

服部半蔵は、嫡流の上服部の子孫になるという。

F
上、中、下の服部家はそれぞれ別の先祖がいたのに、
信長の伊賀攻めの際に系図などの古記録がなくなってしまったため、
みんな揃って"煙の末"(家長)を称するようになったとも言われている。


長上郡の服部氏は
古代の大族秦氏系なのか?平安時代以降の平氏系なのか?
またまた原点に戻って謎の解明を続けましょう。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2019年09月04日 14時12分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッド、ありがとうございます。
 このところ、芝刈りやら、仕事やら、その他で集中できませんでした。

 その他とは、「瀬戸方久」=「新田友作」=「新田喜斎」=「名倉伊茂」の
ことについてであります。

 わかった詳細については今後書きますが、あを様に調べていただきたいのは、
新田義貞が越前で戦死後、「新田氏」自体、つまり「新田」の姓を継ぐ直系の
子孫達はどうなったかということであります――
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月04日 14時49分55秒 ) パスワード

三つ柏さん

了解です。


でも新田義貞の最高のご子孫は  徳川家康公  です。



本日はもう寝ますから
明日ジムでいろいろ考えてみます。


まだまだ暑いですから日射病にはお気を付けください。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月05日 13時09分45秒 ) パスワード

わたくしが家康は新田氏の出と思うことについて記します:



「浪合記」は明治政府によって偽書とされますが
こういう動きというのは

   世界史で中国古代史をやった時に
        新しい王朝が中国の覇権を握ったら前の王朝をボロクソに否定する
        そして、また、その王朝も新しくとって替わられた王朝によってボロクソに否定されて記される
   と習ったような?


だから徳川幕府を否定したい明治維新政府にとって
「浪合記」はまさに徳川家をボロクソに否定するのに利用された書
というわけだ。


わたしが「浪合記」の内容を(だろうな)と肯定的に思う理由の1つに
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%BF%A0%E5%B4%87
林 忠崇の家があります。

林忠崇は徳川幕府体制の零細極小藩である請西じょうざい藩の最後の殿さまで佐幕で「脱藩した珍しい殿さま」です。
戊辰戦争で唯一改易された藩でもあります。
林 忠崇は維新後、一番長生きした殿さまで「最後の殿さま」と呼ばれる人物です。
        世界史的に表記するとしたら Last Samurai というか Last Lord ですね


この藩主の林家はもともとは甲斐だか信濃だかの小笠原氏の出で
新田の子孫の徳阿弥さんが上野国から三河国にまで落ちていく途中で
    この家に寄って
    食べさせてもらったことから
徳川家が恩を返した

そんなハナシがあって
この林家はお正月の酒杯を並みいる諸侯の中で一番に将軍から頂くことになっている
そんな逸話があるそうです。


             どこかに書付があるんですが
             例によって
             場所はだいたい分かっているけど捜すのがムリ

                  来週あたりひょんな所から出て来るような


ということで
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E8%A6%AA%E6%B0%8F
徳川家の祖である「松平親氏」からコピペ:


室町時代初期の三河国の武将。
江戸時代に作成された系譜において松平氏・徳川氏の始祖とされている人物。「松平氏由緒書」では名を信武と記している[1]。

父祖の系譜は、
新田源氏世良田氏の末裔という[2]。

新田義重の四男義季が新田荘徳川に住して得川を称した[2]。
義季の二男を頼氏といい、世良田弥四郎と称し、三河守となった[2]。

その二男を次郎教氏、教氏の子が又二郎家時、家時の子が弥次郎満義である[2]。

満義のあとを政義、親季、有親と継いで有親の子が親氏という[2]。    ← ココですね


しかし、この系譜は徳川家康が永禄9年(1566年)に叙任奏請をする際、世良田氏の系譜と自らの系譜をつなげたことが、日本史学者渡辺世祐により論証されている[2]。
今日の学界では家康によって粉飾された系譜というのが通説になっている[2]。もっとも家康の祖父清康がすでに世良田氏を称していて、家康はその影響を受けたものと考えられている[2]。                      
                                   ←  ココ  大事ね

親氏は関東(あるいは信濃国浪合村)で鎌倉公方(あるいは斯波氏)の軍勢に敗れ、
足利氏の追捕を避けるために父・有親とともに相模国の時宗総本山清浄光寺に入って出家し、                わが母方の一族のお寺さんです
徳阿弥(とくあみ)と称したとされる。
                               
     

「乞食僧」「一種の賤民」と表現される場合もある[3]。

しかし、清浄光寺での落髪が語られるようになるのは「武徳大成記」成立後の元禄期以降であることが、
煎本増夫により明らかにされており、後世になってから作られたものと考えられる[1]。



徳阿弥は部下の石川孫三郎[4]を従えて諸国を流浪し、
三河国加茂郡松平郷に流れ着き、
在原氏あるいは賀茂氏の血筋を引く同地の領主松平信重(太郎左衛門少尉)の客人となった。

信重は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を評価して婿養子としたので、徳阿弥は還俗して松平太郎左衛門尉親氏と名乗ったという。

「松平氏由緒書」では信重から先祖を尋ねられた親氏が、
「わたくしと申しますのは東西を定めずに旅する浪々の者でありまして、恥ずかしく存じます」と返事をしたとする[5]。

ここには氏素性の知れない者として親氏は書かれている[5]。

松平郷の領主となった親氏は、郷敷城を築き、
嫡子(兄弟説[6]もある)とされる泰親と協力して「中山七名」と呼ばれる近隣の領主たちを滅ぼし、
勢力を拡大して戦国大名松平氏の基礎を築いたという。

しかし、「松平氏由緒書」の記述から、実際には買得によって土地を獲得したと見る説もある[7]。


親氏は武芸に通じ、教養があり、信仰と慈悲の心が深く、
領内に菩提寺となる高月院を初めとして多くの神社仏閣を建立し、
貧しい領民には援助を惜しまなかったという。

しかし、以上のような親氏の出自と事歴については、後世の松平氏・徳川氏の主張に拠っており、
傍証となる同時代史料は無いため、既述した論考の他、
松平氏創業の二代、親氏と泰親が同時代の史料にその名を見出すことができないため、実在を疑う説もある。



取り敢えず  三河に流れ着くまでに  新田の一族だった  というはなしがあるのだから  それで良いと思うし

1つの家が存続するのに  源平藤橘その他の姓とも関係があって  戦乱の世で生き延びるために家の名を隠した  ということもあるし

上野国あたりから三河に流れて来たということは  新田氏系・世良田氏系なのだろうと  少なくとも新田氏関係者だろう とわたしは思います。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月05日 13時36分33秒 ) パスワード

新田義貞の子孫について
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%BE%A9%E8%B2%9E

室町時代を通じて新田氏は「朝敵」「逆賊」(いずれも北朝から見て)として討伐の対象となった。


                       だから堂々とは名乗れなかったんですよ


義貞の直系は、応永年間に義宗の子・貞方が捕縛され、長子の貞邦と共に鎌倉で処刑され、断絶した。


ただし、貞方の庶子とされる堀江貞政は堀江氏と称し、武蔵国稲毛に逃れたとする伝承があり、この堀江氏の子孫は後北条氏に仕えた。


さらに、別の庶子と伝わる中村貞長は陸奥に逃れ、中村氏と称し他とする伝承があり、この中村氏の子孫は伊達氏に仕えた。


庶流として藤沢氏などが出たとされる。また、義宗の庶子とする新田宗親(親季?)の子孫も存続しているとする説がある。


一方、一族の岩松満純(『系図纂要』などでは義宗と岩松満国の妹との間の子とするほか、出自に諸説ある)も義宗の子と自称し、岩松氏の養子に迎えられたと称した。

満純の子孫である岩松氏礼部家は、岩松氏の別流京兆家との争いを勝ち抜き、新田氏の故地である新田金山城を本拠とした。

しかし、戦国時代には岩松氏は重臣の横瀬氏(由良氏)に下克上されて没落した。


新田一族の世良田・得川氏の後裔と称する徳川家康が関東に入部したとき、
岩松氏の当主守純が召し出されて新田氏の系図の提出を求められた際にこれを拒否したため(とされるが)、
守純は徳川氏の直臣となったが禄高はわずか20石を与えられただけであった。

                        殺されなかっただけラッキー!

岩松氏は守純の孫秀純の代に、表面上は新田宗家として交代寄合の格式を与えられながら、新田氏を姓とすることは許されず、
禄高も100石加増されただけで、交代寄合としては最低格の合計120石を知行するだけであった。


江戸時代、岩松氏は交代寄合に準ずる家(交代寄合衆四州に準ずる家)として細々と続いた。

また、岩松氏の執権で戦国時代に主家を下克上した横瀬氏も政義・義貞・義宗の子孫を自称し、明治維新後に新田氏に復姓している。


明治維新後に岩松氏、由良氏ともに明治政府に義貞の子孫として認定され、新田氏に復姓した。


いずれが新田氏の嫡流かを巡って争った末、岩松氏が嫡流と認められ、華族として男爵に叙されている。


女系では千葉氏胤室となった娘が氏胤との間に満胤を儲けており、満胤以降の千葉氏宗家にその血統を伝えている。


『熊谷家伝記』の伝承によれば、坂部熊谷家の初代熊谷貞直は、三河熊谷氏の祖である熊谷直重の娘、常盤と新田義貞との間の子であるとされている。
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2019年09月05日 21時55分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 お調べ下さりありがとうございます。新田氏もいろいろ複雑であります
のでじっくりと理解につとめようと思います。ひとつ不思議なのは、義貞
の家督を継いだのは長男・義顕でなく、三男・義宗であったということで
あります。長男・義顕には義一という息子がいますし、その後は義光、義高、
義明と代々続いていっております。長男を外した理由は何か、今後調べて
みたいと思います……。
 
 本日は、気賀の町、特に町の北側に屏風を立てめぐらせたような山並み
の中を二時間半歩き回り、ついに「新田喜斎」の墓を見つけ、般若心経を
二巻唱え捧げてまいりました! もっと早く行っていればよかったものを
と後悔しきりです。詳しくは、今後に――


 
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月05日 22時56分28秒 ) パスワード

三つ柏さん

>ひとつ不思議なのは、義貞の家督を継いだのは長男・義顕でなく、三男・義宗であったということであります。


新田義顕は若くして涙の死を遂げています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%BE%A9%E9%A1%95

生誕   文保2年(1318年)(文保1年(1317年)説あり)
死没   延元2年/建武4年3月6日(1337年4月7日)

幼名は小太郎:
長子か嫡男ということでしょうね。
小太郎だから「オヤジ(義貞)の2代目のセガレ」って意味。
だから本来は母が正室という意味でもある。


それか義顕の前に男の子がいて夭逝している、で
小太郎と名付けられたのかも。


20歳の若さで亡くなっているので
義貞の長男だけど義顕は父に先立って死に、
新田氏の家督は異母弟の義宗が継いだ。

コピペ:
義顕と叔父脇屋義助は後詰として杣山城に入る予定であったが、     (義助さまは我が母方とご縁のある方です)
敵の妨害に遭い、義顕は金ヶ崎城に引き返す。

まもなく、越前守護の斯波高経や高師泰らの軍に包囲され、半年に渡って篭城し続けた(金ヶ崎の戦い)。
父・義貞は義顕にその場を任せて脱出して杣山城から救出を試みるが失敗。

ついに食糧も尽き、足利軍の猛攻に飢えに苦しんだ新田軍の兵がかなうはずもなく、次々と討ち取られた。
義顕は城に火を放ち、尊良親王及び300余人の兵と共に自害した。
享年20。

恒良親王は捕らえられて足利直義によって幽閉され、翌年に没した(毒殺説あり)。

            「こうやって自害はするのですよ」と尊良親王に手本を示して先立った
             涙

                   瓜生兄弟が裏切ったような記憶




>長男・義顕には義一という息子がいます

子   義和(義一)?[1]、天野顕政 ?


     この 義一の子孫が  新田喜斎  という話ですね。

コピペ
『筑後佐田新田系図』によると、義顕は義和(義一、よしかず)という子がおり、子孫を残したと記されているが、真偽の程は不詳。
また、安芸国の天野氏に養子に入り、後に「天野顕政」と名乗った子が居たとされる。

                天野なんとかさんが「浪合記」を纏めたと聞いたような?
                作者の天野さんは尾張関係の天野さんかな?

                
___________________________________

弟の義興は母が下女だった。
義興と主従13人は、多摩川の矢口の渡しで謀殺された。享年28。

     この本はロス時代に読みました。


ジム行きます。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月06日 03時10分00秒 ) パスワード

ジムで涙をこらえながらタコ踊りをしました。


南朝方についても、母方の先祖一族もからみ、わたしには自分の身を切られるような思いです。


新田義興と主従13人は矢口の渡しで裏切られ殺されたわけで
殺した方が  ウッソォ〜  の人だし


ウイキからコピペ:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%BE%A9%E8%88%88


尊氏が没した半年後の1358年(正平13年/延文3年)、
義興は尊氏が亡くなったことを時期到来とばかりに鎌倉奪還のため挙兵、
鎌倉をめざした。

これに対し
尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と関東管領の畠山国清は、
竹沢右京亮と江戸遠江守にこの迎撃を命じた。


           江戸遠江守高重は江戸太郎重長の6代の孫
           わたしの先祖の母方一族でもあるわけです。


はじめ竹沢は少将局という美女を義興に与えて巧みにとり入り、謀殺の機会を狙ったが果せず、
江戸遠江守とその甥江戸下野守の協力を求め、
江戸遠江守は甥の下野守とともに三百余騎を率い、
『太平記』によると一族の蒲田忠武も首謀者のひとりとして参加していたとされる。


10月10日(11月11日)、義興と主従13人は、多摩川の矢口の渡しで謀殺された。享年28。


            血で血を洗う、って感じ。
            ホント!わたしみたいにアッチコッチの血を受け継いでいるのが分かっていると泣くより他ない。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月06日 03時27分19秒 ) パスワード

瓜生家について:http://www2.harimaya.com/sengoku/html/u_ryu.html よりコピペ


元弘三年(1333)後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し、建武の親政が始まった。
しかし、その政治の矛盾から足利尊氏が諸国の武士の棟梁として、後醍醐天皇と対立するようになり、
ついには南北朝分裂の時代となる。


このころの瓜生氏の当主は保で、かれを中心として瓜生一族は南朝方として戦っている。


新田義貞は後醍醐天皇に仕え、南朝の中心となって足利尊氏と対抗したが戦に敗れて、尊良・恒良の両親王を奉じて京都から北陸に撤退し、敦賀の金ケ崎城に拠った。

しかし、尊氏方の将・斯波高経、高師泰ら六万の大軍に包囲され善戦むなしく、建武四年(1337)三月、金ケ崎城は落城。

義貞の嫡子義興と尊良親王は自害した。
恒良親王は足利方に毒殺されたと伝える。



落城が迫ったころ、義貞は援軍を求めて城を出たが時すでに遅かった。
義貞はこの後一年あまりも戦ったが、建武五年七月、足利軍と灯明寺畷で戦い、藤島の地で壮烈な討死をとげた。


このとき、現在の北陸トンネルに近い剣阻をもってなる北陸の尾根、杣山に拠点を構えた瓜生保は新田義貞軍に加勢、
よく善戦したが衆寡敵せず、
敦賀に近い山峡の樫曲で戦死。

このとき、弟の重ら一族もともに戦死した。


瓜生氏は承久の乱でも宮方に属して敗れ、南北朝においても宮方に属して敗れたことになる。


その後、瓜生氏は足利幕府に仕えたようで、『見聞諸家紋』をみると、瓜生源九郎受の家紋として「瓜」が 記されている。

戦国時代における瓜生氏の消息は詳らかではない。


            わたしの心の中では 瓜生一族が裏切った  です。
            しょうがないよね
            内戦なんだから
            昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の裏切り者  そういう時代。

            

瓜生判官保
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%93%9C%E7%94%9F%E4%BF%9D

うりゅう たもつ
生年不詳 - 延元2年/建武4年1月12日(1337年2月13日)

日本の南北朝時代の武将。
父は瓜生衡、
弟に瓜生義鑑坊、瓜生重、瓜生照らがいる。

通称を判官という。


越前南条郡飽和村出身。

新田義貞の配下として、北条残党の名越時兼を加賀大聖寺で討ち取る。

1336年(延元元年)10月、越前に下向した新田義貞を出迎えるが、程なく義貞の下を離反し、一時期足利尊氏に味方する。

太平記は、保は尊氏が送った偽の綸旨に騙されて離反したと伝えるが[1]、これが事実であるかどうかの信憑性については疑問もある[2]。

足利に与した保は斯波高経、高師泰の軍勢に所属して金ケ崎城を攻め、義貞と戦った。

しかし、保の弟達はこれに賛同せず、瓜生一族は分裂の様相を呈した。


その後11月になると、尊氏から送られた綸旨が偽物であることを看破[3]、
弟の義鑑や照らが義貞の甥脇屋義治を擁立して越前杣山城に挙兵するとこれに呼応、
斯波の軍から志を同じくする武将数名と共に脱走し、
弟達に合流して南朝に帰参した。


保が南朝の元の鞘ヘ戻る過程として、
尊氏から送られた綸旨はやはり偽物ではないかと疑っていたところ、
宇都宮泰藤と天野政貞が、三つ鱗の家紋を持つ北条は二引両の家紋の足利氏に滅ぼされた、
とすれば、
やがて二引両の足利氏は一引両の家紋の新田氏に滅ぼされるのが筋だろう、と語った。


さらに天野政貞は『周易』と付会して、
「一引両」の「一」は、周易にある「陰にも一(かたき)なし、陽にも一(かたき)なし」の一である、
つまり、新田軍に敵(かたき)はなく、無敵であると解釈して熱弁をふるった。

これに感化されて、保は新田に味方することを決めた、という逸話があるが、これは創作とみなされている[4]。



その後は越前で北朝勢と戦い、師泰、高経の軍を度々蹴散らして越前における戦局で優位に立っていたが、
里見時成に随行して包囲された金ケ崎城の救援に向う最中今川頼貞に待ち伏せされ、
時成や弟義鑑と共に戦死した。


保が戦死した時期については正月[5]とも8月[6]とも言われている。


瓜生保が戦死した地と言われる敦賀市樫曲地区[7]には、戦死之地の石碑(敦賀市文化財史跡指定[8])があり、
そこから山に上がったところに瓜生家の末裔が明治44年に建てた墓がある。



敦賀市金ヶ崎町の絹掛神社に、弟義鑑をはじめ、南朝方として共闘して露と消えた義貞の子義顕、里見時成、気比氏治、気比斉晴らと共に合祀されている。

           気比氏は気比神社の大宮司さん
           この神社にも行きました。


テレビなんかのクレジットというかエンドロールで瓜生とか気比とかの名字の人を見ると懐かしく思います。

           おっ、アソコのアイツの子孫か、って。
           わたしの中の誰かが反応してるんでしょうね。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月06日 04時15分01秒 ) パスワード

レス<6>への自己レス


>>>>長男・義顕には義一という息子がいます

ウイキより
>>>>子   義和(義一)?  天野顕政 ?
>>>この 新田義一の子孫が  新田喜斎  という話ですね。


で、良いと思います。
20歳で自害した義顕ですから、子供を数人遺しているでしょう。
男子も数人生まれている可能性はものすごく高いです。

     なんせうちの先祖はパパが17歳の年の長子ですから。


新田喜斎についても新田氏または新田氏系というのは充分可能性があります。
NHK大河「おんな城主」で描かれた瀬戸方久は  まさに  水平思考の人だったから   いろいろな意味で新田氏子孫を称したでしょう。


もともと遠江の井伊家を中心としたエリアの出身だったら南朝方の可能性が高いですから。

瀬戸方久が新田を名乗った時に   もし偽称だったら  スグに  バレていますよ。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E6%88%B8%E6%96%B9%E4%B9%85
コピペ


遠江国引佐郡瀬戸村の郷士で、もと名主を務めていた松井平兵衛が地名から瀬戸を名乗り、
一帯の領主・井伊氏の庇護を受けて豪商に成長したと見られている。

永禄9年(1566年)井伊直虎が渋川村の福満寺に梵鐘を建立しているが、方久は鋳造の資金を担い、
瀬戸四郎右衛門の名で願主として名を連ねている。



面白かったブログの紹介:
https://bushoojapan.com/iinaotora/2017/07/09/101675

名倉姓は 
新田一族の祖である名倉伊武は、もとは源満仲―頼光の流れを汲む武士で
愛知県西尾市貝吹から名倉=愛知県北設楽郡設楽町西納庫清水=に移って名倉を称した。

彼には息子がいなかったので、岩松政経の子・新田義一(結婚して「兼氏」と改名)を娘の婿養子として名倉家を継がせ、
その子孫は代々清水城主として新田姓となった。

その運命が大きく変わったのは弘治元年(1555年)。
武田氏の軍門に下った下条氏に攻められ、清水城が落とされると、
新田友作は気賀に逃れてきたという。
この逃亡の手助けをしたのが(苅谷俊介が演じた)新野左馬助親矩(井伊家の目付家老)である。


     左馬助の3女が今川家重臣・庵原助右衛門に嫁いだ。

            長女は光浦靖子が演じた

     庵原助右衛門は目張りが凄かったので記憶しているのですが山田裕貴が演じた。
     「なつぞら」の雪次郎くん。(ドラマ中、「なつ」より夕見子の方が可愛い、発言アリ)     
     広島東洋カープ一軍内野守備走塁コーチの山田和利の息子さん。
     厚化粧にビックリしたけど、あれが素顔みたいです。目力がスゴイ、ってのでしょう。
     話すと自然に名古屋弁になってしまう。
     高校はたぶん奥田瑛二の後輩。


いろいろな方面から考えて瀬戸方久は新田義一の子孫で良いと思います。

現代に生きるわたしが「それで、いいんじゃない?」と思う以上に
当時の人には瀬戸方久を「受け入れられた」のですから。


恐らくわたしが知ってる以上の事を当時の人達は共有してたと思います。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月06日 04時56分21秒 ) パスワード

http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/n_about03.html
浪合記の解説


作者と思っていたのは正しくなくて    天野信景が写本した    ということだったようです。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%87%8E%E4%BF%A1%E6%99%AF
天野 信景(あまの さだかげ)
江戸時代中期の国学者、尾張藩士。   あぁ、やっぱり尾張の人なんだね。


名古屋城下南大津町に生まれる。
                   わたしが住んでたトコじゃん。
                   明治から戦前にかけての地名だから分からなかった。


生家の天野氏は鎌倉時代の武将天野遠景の末裔と伝えられる。

寛永元年(1624年)頃、山城国に住していた祖父孝信の代に尾張藩に仕え、
次男であった父信幸は進物番・納戸を経て金奉行や町奉行を歴任し、
450石となっている。


信景は父の歿後、貞享元年(1684年)に家督を継ぎ、寄合・鉄砲頭となる。
享保8年(1723年)に病のため職を辞し、同15年(1730年)には剃髪して隠棲する。

業績

人となりは温厚にして博聞強記と伝えられる。

                       そうそう!天野一族って  温厚  だよ。


特定の師はいなかったとされるが、
国典は伊勢神道の再興者とされる度会延佳(わたらい のぶよし)から、
仏典は養林寺七世・単誉上人一如から受けた。

朱子学を基底に置き和漢の学を究め、さらに広く仏教・博物・天文・地理・風俗などにも通じ、
著書は全千巻ともいわれる一大随筆集の『塩尻』(元禄10年(1697年)頃の起筆。歿年まで書き継がれた)をはじめ
国史・地誌・文学など多岐に亘り、
『国書総目録』に収載されている書目だけで145に及ぶ。


元禄11年(1698年)に藩主・綱誠の命によって『尾張風土記』の編纂事業が始まると、吉見幸和や真野時綱らとその任に当たった。

                       真野さんも南朝方。

この編纂作業は翌年の綱誠の死により中断(信景死後の宝暦2年(1752年)に『張州府志』として完成)されたが、
この経験から実証学的な手法を身に付けたとされる。

それ以後、神道や儒教・仏教への歴史的な批判や、『万葉集』や『源氏物語』の他、歌語・俗語などの言語学的検証、
そして本草学・天文学といった広範な分野において、実証学的な見地から考察を加えている。


信景の実証的な指向は、その後の本居宣長や伴信友・河村秀根などに強い影響を与えたと考えられ、
平田篤胤の『俗神道大意』・谷川士清の『倭訓栞』は信景の随筆『塩尻』に負うところが大きい。



また、南北朝時代末期の世良田氏の興亡を伝記とした『波合記』や
南朝正統論に基づいた『改正続神皇正統記』も著している。

                        ↑
                       コレだね

『鸚鵡籠中記』の著者である朝日重章(文左衛門)と親交があり、
信景は重章から兄事され、45歳で没した重章の臨終に立ち会った。


         こうして自分の来し方を鑑みるとわたしは南朝方に囲まれた人生だったなと思う。

         初めて会ったとたんに好きになったり、合わないけど嫌えない、というのはやっぱり背後霊じゃなかった先祖パワーのせいかな?


で、天野さんをウイキした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%87%8E%E9%81%A0%E6%99%AF

天野 遠景(あまの とおかげ)

平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。
藤原南家工藤氏の一族で、吉川氏と同族である。
伊豆国田方郡天野に住して、その地名を取り天野氏と称した。


永治元年(1141年)に鎌倉の亀谷で生まれたとする文献がある[1]。


平家の家人であったが、

天野郷が蛭ヶ小島に近かったこともあり、
仁安2年(1167年)頃、伊東祐親の下で幽閉生活を送っていた源頼朝と狩や相撲を通じて交流を持ち、親交を深めた。
そのため頼朝の挙兵当初から付き従うこととなる。

治承4年(1180年)、石橋山の戦いに息子・政景とともに参戦するが敗北を喫する。

その後は伊豆国内で平氏方と交戦したとみられ、
同年10月の富士川の戦いの後、平氏軍に合流しようとした伊東祐親を捕縛した。

寿永2年(1183年)には信濃国を中心として勢力を拡大する木曾義仲への使者を務め、義仲の嫡子・義高を人質とすることに成功した。


         頼朝の長女の大姫の恋人ですね。
         鎌倉に行った時に見に行きました。

         義高は別名清水冠者(志水冠者)常楽寺に義高の墓と伝わる塚(木曽塚)がある。享年12


 
               寿永3年(1184年)1月、木曽義仲は宇治川の戦いで追討軍に敗れ、粟津の戦いで討たれた。
               父・義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化する。

               恋人・義高を殺された大姫は寝込んでしまい
               怒った政子が義高を討った郎従の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、
               6月27日(8月5日)、堀親家の郎党・藤内光澄は晒し首にされた。

                     光澄にしたら、(んな、バカな〜)目玉ドコ〜   ですよね。



天野さんって、そーゆー家だったのか。
(ワタシは信康の検死役の天方道綱の名字とこんがらがってた   恥) 
[12]三つ柏服部さんからのコメント(2019年09月07日 06時30分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。新田氏についてほぼ一通り概観することができま
した。ただ情報量が多いため、その理解と確認のために時間がかかっており
ます。
 新田義貞は楠正成と比べてどう捉えたらよいのか、今一つヒーローとして
のイメージ、印象が少ないような感じがいたします。これは何か。でも南朝
の忠臣として、もっと顕彰してあげてもいいのではないか……その辺のこと
がまだ勉強不足でわかりません――
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月07日 22時56分39秒 ) パスワード

三つ柏さん

明治政府にとって新田義貞は家康の先祖ということで徹底的な否定をしたかったのですよ。

それで新田義貞は出陣を女にうつつを抜かして後朝の別れをエンエンとやってた腑抜け扱い。

     これが平家の公達になると美しいハナシになるのに。

その上に義貞の戦死の場面が   日本帝国の国民皆兵にはあってはならない姿として  称賛されない。

     木曽義仲の最期の場面は  美しいハナシ  になるのに(樋口・今井・巴で)



逆に楠正成はたいした家の出でもないからこそ(橘姓でしたっけ?)後醍醐天皇への忠誠で、いよいよ英雄にされた。

       義貞との対立もあったから。

子の正行との別れも美しく脚色され

最期も一族で「報国七生」という言葉を残しましたしね。弟の和田さんの言葉のようですが。


明治天皇は正統なのは南朝方なんて言って明治元勲達を慌てさせました。
     大室寅之助の替え玉説あり。


とにかく明治維新政府は利用できるものは最大限に利用しました。


今からジムなのでアタマ整理して来ます。


政治力学とかポリティカルサイエンス(笑)とか、こういうのを理解したら解けると思います。
[14]三つ柏服部さんからのコメント(2019年09月08日 21時56分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 近世最後、またしても討幕、そして……時代によって否定されたり再評価
されたり――つまりその時のポリティカルな風土の中で浮き沈み……。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月08日 23時05分27秒 ) パスワード

三つ柏さん

>その時のポリティカルな風土の中で浮き沈み

はい
現代のは日本人主催による討幕ではないけど

      GHQ主導だったから

戦後、南朝方子孫の天皇捜しをしたけれど
    500年も経ってますから
    人品卑しからざる
ということでは選ぶのが難しかったそうです。

      一番有名なところでは  熊沢天皇  ですね。


でも日本中には南朝方子孫の天皇になれるような血筋の方はかなりの数いらっしゃったそうですよ。
奥州から西南まで、それぞれの親王さまのご子孫がいらっしゃるわけですから。


結局、北朝方天皇の子孫ということで、続行
となった。


戦後GHQの指導もあって
楠正成の役目は否定された。

気の毒なことです。



でも否定したのがGHQですから日本人の心の中では生き続けている。


最近の名古屋での美術展の騒ぎは
反日と皇室侮辱
がスサマジかったそうですね。


反日はさておいて
皇室侮辱は
日本人の出自を否定するものでもありますから
なんだかな。


    わたしは当然見に行ってないので
    昭和天皇をさんざん辱めたという展示物の数々は見てないです。


日本人の1人としては複雑です。
わたしは南朝方子孫でも北朝方の悪口は自分の顔に唾を吐く行為と思うので
出来ないです。


ジム  行きます。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月09日 05時29分44秒 ) パスワード

三つ柏さん

「反日」については、これも政治的なものがあって
特筆するとシンガポールの亡きリー・クアンユー首相
それから
アメリカの民主党
かなと思っています。

      リー・クアンユー元首相はオソロシかったですよ。
      「斧」だね。
      斧でバッサリ叩き殺される印象を受けました。

        もう2人コワイ人がいて
            1人は桜田武日経連会長。
                 この人は「妖刀」だった。
                 ちょっとドジって大名行列を横切ってしまったワタシ。
                 怖かったですよ、妖刀で襷掛けに斬られる感じでした。

            もう1人は「抜き身の刀」って感じ。
            だから避けてた。


リー・クアンユー元首相は(日本に追いつけ追い越せで)既に日本を遥かに抜いてる。
一応「日本は嫌い」ってスタンスだったけど、本心は日本に尊敬心を持ってたんじゃないかな?
わたしが一番教えられたことは「水平思考を養いなさい」ってコト。垂直思考なんで。アタマ悪すぎ。

     外国人労働者政策の「バッファー扱い」もスゴイ。
     やっぱり水平思考がスゴイ。



そこへいくとマレーシアのマハティール首相はホントに日本が大好き。

20年ほど前に従妹が石油の人と結婚してマレーシアに住んでて、それで
マハティールさんが某ショッピングセンターでいつもお茶してる(コーヒーかも)から、
会いに行きたかった。果たせなかったけど。握手して欲しかった。


15年ほど前かな?ここの外相夫妻にわたしがコンタクトしなくてはいけなかった時に
わたしはすっごいドジをやらかして・・・
だって、外相夫妻っていったらフツー旦那さんが外相だと思うじゃないね。

     知らなかったよ、奥さんの方が大臣だなんて。



で、アメリカの民主党ですが

ここは反日です。
ずぅっと反日です。
つまり親中。

鳩兄なんて  ルーピー  扱い。
ご本人は気づいていないでしょうけど。
片思いってのだね。

        わたしがサンフランシスコでウロチョロしてたころ確か鳩兄はスタンフォードに留学してた記憶。
        ルーピーを裏付けるような噂を聞きました。


アメリカの民主党の反日は古い歴史があって
「アメリカは中国に進出したかったけど日本に先を越された」
ここから反日。

FDR(民主党のフランクリン・ローズヴェルト大統領の方ね。  共和党のセオドア・ルーズヴェルト大統領とは従兄弟関係)は

日本人のことをゴキブリのように、
「日本人は下等民族だから地球上から絶滅されねばならない」
と演説して

     ま、実際に日本はその目に遭ったわけです。


         日本も当時は「鬼畜米英」とか「出て来い   ニミッツ  マッカーサー。地獄の底に真っ逆さま」
         と言ってたんですから、ま、お互いさまですが

アメリカの民主党の反日は今でも続いているってことです。


直近ではクリントンとオバマの時の日本パッシングはひどかった。

    カーターの時に、カーターが来日して帰国して行く時のタラップで
    娘のエミリーが、後ろを振り向いて「アッカンベー!」をやったのですよ。
    これは  相手を侮辱する仕草です。
    だから最低でもカーター家では日本の悪口をムスメの前で喋ってたんでしょうね。

           その割にはこの娘はバイオリンを鈴木メソッドで習ってたんですよ。
           わたしも鈴木で習った。
         

戦争中に民主党系の政策で、西海岸在住の日系人は転住させられたけど
コロラドの共和党の知事は日系人をフツーに扱ってくれたのですよ。
これが災いとなって、この知事は戦後の大統領選で負けてしまいました。
          
           共和党のレーガン大統領の時に収容された日系人は1人2万ドルを補償されました。
                 カナダも追随して補償した。
                 
           このハナシには後日譚があって
           ペルーからアメリカに送られて収容された日系人が補償を要求して
           アメリカ政府は「ペルー政府に要求しろ」と却下した(ところまで知ってる)



こんな感じでわたしにとっての「反日」というのがあるので
わたしには芸術については「表現の自由」とか、なんちゃらの自由とかいうのは、守られるべきと思っています。


昭和天皇への侮辱については
わたしには   50年早かったな   と思っています。
悠仁天皇の御世か天皇制が廃止になった後ぐらいに起きるんだろうな
と思ってました。

     今上天皇の御世に起きたということで消化できないでいます。


今上天皇の英語は日本語のお言葉よりもずっと  真摯で誠実  に思います。
日本語で聞くより  英語の方がずっと  聞く人の耳に  丁寧だと思います。

     たぶん令和天皇のお人柄が出ているのでは?
     と思います。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月09日 06時55分19秒 ) パスワード

明治維新政府の元勲達は徳川政権を否定したい
だから「浪合記」捏造説というのは   家康はそんな立派な家の出身じゃない  と貶めるのに利用されたと思う。

     家康と新田は関係無いと否定している割に
     新田義貞は明治政府に優遇されていないような?
           明治政府、矛盾している。



ところが、ところが

明治天皇は実は大室寅之助というハナシがある。

確かに集合写真の中で  大室寅之助と(岩倉具視に暗殺されたと噂のある孝明天皇のお子さまで明治天皇になった)祐宮睦仁親王の顔が  逆。

     祐宮は華奢で弱弱しい。   まさに皇族って印象。
     大室寅之助は堂々としていてガッシリしている、まさに明治天皇の御真影のお姿。
           明治天皇は相撲が強かったってハナシもあるし。


大室寅之助の弟の孫が橋本龍太郎。
岡山って言ったら  南朝方  だよね、ザックリでは。(前の時代での恩で南朝方にならなかった家もあるわけですが)



で、伊藤博文ですが
伊藤姓は養子に入ったからで
その前は林さん

出身は美濃とか尾張とか言われている。   林さんは信長の子供時代に名古屋の古渡城とか名護野城にいた。わたしの家の近く。
稲葉系。
越智姓伊予河野氏支流尾張林氏。


林政秀の子の正成が稲葉重通の養子となり、稲葉正成として稲葉氏家督を継ぐ(春日局の夫ですよ)。ここで明智と関係が・・・

林通政の弟林通起の子孫の林十蔵が伊藤博文の父であると言われている。


     系図的にはグチャグチャしてて良く分からないけど
     我が母方と共通する部分がタブンにある。

     我が母方の家が潰れて主人は妻の実家(小早川隆景の)竹原でマスオさんになって24歳で病気で亡くなった。これで滅亡。


たぶん伊藤博文の先祖は稲葉正成が寧々さまの甥が小早川家に養子になった時に一緒に西国に行ったんじゃないかな?
小早川秀秋の家老で。
小早川秀秋は三成を裏切った。

毛利輝元は西軍の大将だったから敗戦後に毛利家は安芸を失って防長2国に押し込められた。

これで伊藤博文の先祖は山口県にいることになったんじゃないかな?


で、大室寅之助ですが、
後醍醐天皇の末裔として山口県内で育てられ
伊藤博文が世話してたとかって。

               土地勘が無い場所なのでピンと来てない。


大室寅之助についてはネットにいろいろ出てます。


孝明天皇の不審な最期は
岩倉具視が暗殺したと言われているけど
岩倉具視だったらヤリカネナイ。


明治天皇が相撲好きだったというハナシ、
単に相撲が好きというよりご自分も相撲をとってる
というハナシはネットに出てる。

     あの祐宮さまじゃ相撲は(好きでも)取れない。


その上に明治天皇の「天皇の正統は南朝だ」という発言も孝明天皇のお子様にはアリエナイ。


NHK大河の「西郷さん」で林真理子は実に明快な説でドラマにしてくれましたが
さすがに孝明天皇暗殺譚とか明治天皇なりすまし説は出してなかった。


林真理子は爆弾発言をすることで人気があるけど
恐らく
彼女はいろいろな秘密を知っているんでしょうね。


小室圭さんの「過去」を最初にバラしたのも彼女ですもんね。
こっちは「小室」あっちは「大室」で笑ってしまいますが。



あ、追記です:
明治維新の後、新田義貞、および、南朝側の諸将は朝廷のために尽し続けた「忠臣」「英雄」として再評価されるようになり、
明治15年(1882年)8月7日に義貞は 正一位を贈位された。


河野通有も追贈された記憶ですが、こちらは元寇の役で、だと思います。
伊藤博文のご先祖さまなので。


ということで「明治天皇替え玉」説はなかなか興味深いです。
[18]三つ柏服部さんからのコメント(2019年09月10日 15時53分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ただ今新田喜斎についてまとめており、そちらに集中しておりますので、
しばらくお時間を下さいませ。新田喜斎は、新田義貞の長男義顕の、どう
やら直系孫になります。そこのつなぎの部分(系図)を調べているのですが、
点と線がすんなりと整合性がとれないので時間がかかっております――
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月10日 22時58分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


レス<6>の『筑後佐田新田系図』によると、義顕は義和(義一、よしかず)という子がおり、子孫を残したと記されている。


筑後国、というのがそもそもドコを指すのかが土地勘の無い者には分からない。
ま、柳川とか?

柳川というと  立花家?
この立派な家に仕えた一族に新田の子孫がいた?


     懐良親王に従って鹿児島まで降りて行った新田系武士がいたのは簡単に想像できるし
     そちらまで落ちて行ったことも考えられる。


この『筑後佐田新田系図』からすると遠江や三河の出身の新田喜斎との接点はかなり  無い  んじゃないかと思うので
別の系統で   それぞれ   新田の子孫なんじゃない  と想像する。


>ただ今新田喜斎についてまとめており、そちらに集中しております

楽しみにしていますね。


今からジムです。
[20]三つ柏服部さんからのコメント(2019年09月11日 15時11分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新田喜斎の謎を解くキーマンは「新田義一」であり、さらには新田氏
と同族の「岩松氏」がキーを握っていると推測しております。
 ただ今調査中――
 
[21]三つ柏服部さんからのコメント(2019年09月11日 23時12分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 久保田順一著『新田三兄弟と南朝』の中に、佐田系図のことが書かれており
ます。それによると――
 「(佐田氏の)祖・四郎義一は、義顕と「菊池七郎藤原氏基」の養女・竹玉と
 の間に生まれたとある。竹玉は落城前に金ヶ崎から新田荘に落ち、延元二年
 (1337)四月に義一を生み、義一は新田義繁の子として養育されたという。」

 この「菊池七郎藤原氏基」と「新田義繁」とは何者でしょぅか?
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月12日 03時33分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


わたくしとしましては  新田喜斎は  レス<10>にあるように
    愛知県西尾市貝吹から名倉=愛知県北設楽郡設楽町西納庫清水=に移って名倉姓
    その後
    遠江国引佐郡瀬戸村の郷士で、もと名主を務めていた松井平兵衛が地名から瀬戸姓を名乗る
    一帯の領主・井伊氏の庇護を受けて豪商になって新田姓を

この流れから  まず  西尾市貝吹と言う場所は  ここには書けない。

メールします。



で、菊池さんが出て来てまたまたビックリ!

菊池さんと言えば西郷さんですよ!
西郷どんであり西郷局である。


アイヤイヤー!      ←  なぜに突然シンガポール人になる?笑
スゴイ凄すぎる。

やっぱり  先祖パワー  炸裂!

ということで  西尾から調べたら?  と思ってましたが   菊池さんですか。
やっぱり懐良親王がらみか後世に懐良親王の跡を追って行ったのかな?

それが三河に来た。
西郷局さんのご先祖さまと一緒に来た?

井伊の地に辿り着いた?


今からメールします。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月12日 05時01分51秒 ) パスワード

三つ柏さん

ザッと検索してみました:

菊池七郎藤原氏基では分かりませんでしたが、  恐らく  下記の人物かと思います。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E6%AD%A6%E5%90%89

菊池 武吉(きくち たけよし、生年不詳 - 延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日))

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。
菊池氏第12代当主・菊池武時の七男。
第13代当主・菊池武重の弟。
通称は菊池七郎。


生涯

1336年5月、兄の武重と共に新田義貞の軍勢に加わり、東上してきた足利尊氏の軍勢を兵庫にて迎撃するも敗北(湊川の戦い)。
そして楠木正成・正季兄弟も同じく敗れて自殺しようとしているのを見て、
逃れようと思えば逃れることができたにもかかわらず、
楠木兄弟と共に自害して果てたとされる。

大正13年(1924年)2月11日、従三位を贈られた[1]。


脚注
1.^ 新井淳一『菊池一族』鬼沢書店、1943年、31頁



菊池氏のご子孫のブログ
http://www.kaff.jp/page006.html
ブログ主さん、感謝です。
無断コピぺ  ごめんなさい。



菊池氏の歴史
一、
刀伊の入冠を撃退


初代菊池則隆の父藤原蔵規(まさのり)は、寛仁三年四月(1019年)大宰府権師藤原隆家のもとで刀伊の入冠を撃退して武名を挙げました。この戦は、日本領土に上陸した国外の侵略者と戦争をするという、我が国初の大きな国難でした。


二、
文永弘安の役で蒙古軍を撃退

竹崎季長の蒙古襲来絵詞で有名な、文永(1274年)、弘安(1281年)の合戦でも菊池武房率いる菊池一族は、蒙古(モンゴル)軍と戦い大いに武勲を挙げました。
この時、神風(たぶん台風だろうと思いますが、)がふいてモンゴル軍の艦船は壊滅したと伝えられています。


三、
博多の鎮西探題を攻撃

元弘三年三月(1333年)パパである菊池武時は、後醍醐天皇の綸旨を携えて、阿蘇氏、大友氏、少弐氏らと共に鎮西探題北条英時を攻めましたが大友、少弐氏の裏切りで善戦も空しく主君菊池武時と共に全員討ち死にをしました。



四、
菊池武重は、肥後の守に任ぜられ、後醍醐天皇に従う

御前会議の席において、楠正成公は菊池武時の命を賭けた偉業を後醍醐天皇に進言されました。
これを聞かれた後醍醐天皇は、菊池家に充分な恩賞を与えるよう命じたのです。

菊池武重は、父武時の武功を後醍醐天皇に評価され肥後の守に任ぜられたのです。
また、庶子の菊池武澄、武茂、武敏等も叙勲、対馬の守や豊後の守などの要職に任ぜられましたた。
その後、足利尊氏が建武の新政から離脱し朝廷に反旗を翻したため、武重は後醍醐天皇のおそば近くに仕え全国各地を転戦しました。


現在でも、我が家では「替紋」として、楠正成公が後醍醐天皇より下賜されたと伝わる「菊水紋」に丸を付けて用いています。このような楠正成公との深い絆があって、武重の時代から「菊水紋」に丸を付けて用いていたのかもかもしれません。

                    我が母方と同じです。
                    南朝方に共通しているのかも。



五、
懐良親王を隅府城にお迎えする

興国4年(1343年)、後醍醐天皇の皇子懐良親王が、征西将軍として九州に下向、肥後国宇土にご到着して庶流の菊池(豊田)武光に迎えられました。
その後、懐良親王は阿蘇惟澄の本拠地御船を経由、菊池家の居城である隅府城に入城されました。

このように、菊池家の忠誠が、強く輝いたのは、蔵規、武房、武時、武重、武光の時代でした。


一門に名声を残しましたが、一族や郎党の犠牲を考えれば、実に哀れ(あわれ)で不憫(ふびん)です。


戦国時代には、戦国時代の生き方があり、現在のような平和ボケ的時代感覚での評価は、
的はずれであり、祖先からもお叱りを受けるかもしれませんが?それでも、、、、。

今は、ただ、祖先の冥福を祈るばかりです。


菊池武重の制定した「菊池家憲」

菊池武重は、新田義貞公の紹介で曹洞宗の大智禅師と出会い、大智禅師の教えとその人柄に深い感銘を受けました。
延元三年には、国見山に鳳儀山聖護寺を建立し大智禅師を招聘しています。
延元三年七月二十五日、武重は大智禅師の教えに従い、菊池家憲ともいうべき「寄合衆の内談の事」(よりあいしゅのないたんの事)を制定しました。
菊池家の古文書の中で、最も重要で最も有名なものといわれ、花押、血判のある古文書としては、わが国で最古のものと言われております。
武重が、この家憲を書かざるを得なかった当時の状況を想像すると、一族や家臣団の中に、下克上の波が大きく押し寄せていたものと想像します。
子孫として、この時の武重の心中、察するに余りあります。

以下略
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月12日 06時16分38秒 ) パスワード

書き直し:

新田義繁は分かりませんでした。

    新田義貞のご落胤か、
    義貞の弟の脇屋義助のご落胤か脇屋義助の子の脇屋義治の子か?
    ま、新田一族でしょうね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E6%B0%8F
新田義貞が鎌倉幕府を滅亡させてから。

当初、鎌倉幕府の冷遇によって建武政権での新田氏本宗家の権威は同族である足利氏惣領よりも格下に見られていたが、
後に政権内部の政争により、義貞は長年の足利氏との関係を断ち切って反足利氏派・反武家派の首班として尊氏(高氏改め)と対立した。


新田一族中でも義貞とともに上京した者と鎌倉や新田荘に残った者にわかれ、

前者は主に義貞に従い、
後者や山名時氏や岩松氏・大舘氏・里見氏・世良田氏・大島氏などは主として足利氏に従い北朝方となった。

                       一族の中で分かれたんですねぇ。

  
以後、新田氏一族は南朝方の中核を担うが楠木正成とともに戦った湊川の戦いで敗戦。
比叡山での戦いの後、長男の新田義顕と共に後醍醐天皇の皇子・恒良親王を奉じて北国に拠点を移した。
しかし越前国金ヶ崎城で足利方の斯波高経・高師泰らに敗れ、義顕は自決し、義貞自身も同国藤島で戦死する。


義貞の戦死後、三男新田義宗が家督を継いだ。

足利家の内乱である観応の擾乱に乗じて異母兄の新田義興と共に各地を転戦、
一時は義興が鎌倉の奪還を果たすが巻き返され、
足利基氏・畠山国清らによって武蔵国矢口渡で謀殺されると劣勢は増すばかりとなった。

足利義詮、基氏が相次いで没すると、義宗は越後から脇屋義治とともに挙兵するが、
上野国沼田で関東管領上杉憲顕配下の軍に敗れて戦死し、
新田氏本宗家は事実上滅亡した。


その後も、義宗の子とする新田貞方とその子貞邦や、義宗の子とも伝わる脇屋義則などが抵抗を続けるが、
鎌倉公方の軍に破れ新田氏の抵抗は収束していった。



一方、北朝方についた新田一族の岩松氏に上野国の新田荘が与えられ、
新田義貞の3男の義宗の落胤を称した岩松満純[注釈 5]が入嗣する。

                       岩松氏は新田義貞方の敵でしたが義貞の孫=義宗の子=が岩松家に養子となった?


                          結局は一族ってことですね
                          ちゃんと血で繋がってる人だったんでしょうね。
                          血で繋がってなかったら拒否られたでしょうから。


そうすると岩松氏は正統新田義貞の子孫でいいわけか。
ややこしい。
へ〜



岩松 vs 由良の   新田家跡目争いは  岩松の勝ち。

由良っていうと松嶋家の家譜にも出て来ませんでした?
松嶋家の家譜には藤原千常の名も出て来たりして
                        これが   日本   なんでしょうね。
                        いろいろな人と家と繋がる。


人口の少ない武家の関係はこんなもんでしょうね。
みんな親戚。


大昔に新田と足利の水争いを読んだことがあります。渡良瀬川です。

要領の悪い新田家は要領の良い足利家の下に置かれて
若き日の義貞が悔しいオモイをしてた
というハナシでした。


見に行きましたよ。
渡良瀬川のコッチ側が新田で  アッチ側が足利で  さらに  その右ッ側が佐野(藤原)  という関係。

                 方向音痴丸出し  ごめん。

                       ホントのところは  小貝川  とこんがらがってる。
                       こっちは利根川系で?向こうは荒川系?

                       小貝川はまさに茨城千葉あたりの平氏一族の川でしょうね。わたしの父方ご先祖さまの。
                        平一族の中での争いの芽だったかも。

                       昔の同級生がNHKの記者で「たびたび洪水を起こす小貝川がなんたら」と放送してて
                       やっと渡良瀬川と小貝川の位置関係が脳内に定着することになった。
                       最近だよ。キリッ   ← 居直ってる  恥



   
言い訳
わたしの時間感覚はスゴイ。寝過ごすとか遅刻と言うのはアリエナイ。
だけど空間感覚はゼロに等しい。                    


ということで新田喜斎が新田氏というのは有り得ると思っています。

新田喜斎の先祖が西尾市貝吹から愛知県北設楽郡設楽町西納庫清水=名倉=に移った
背景が知りたいところです。


わたくしの想像:

西尾市=今川家発祥の地
設楽=南朝方の足跡のエリアですね。
北設楽=平安時代に成立した足助荘は後宇多院領、のち八条院領、大覚寺統領で  
     南朝の後醍醐天皇の孫尹良親王が足助荘奥郷に居館を設けたとの伝説があり、
    現在も茶臼山高原の坂宇場に御所平という地名が残っている。


    戦国時代には、松平清康に宇利城を落とされた熊谷実長の長男直安がこの地に逃れ、
    黒川城を築いたが、子は帰農した。

         https://www.daitakuji.jp/2016/04/13/%E5%BE%A1%E5%85%88%E7%A5%96%E3%81%AF%E7%86%8A%E8%B0%B7%E7%9B%B4%E5%AE%9F-%E6%9D%B1%E4%B8%89%E6%B2%B3%E5%AE%87%E5%88%A9%E5%9F%8E%E4%B8%BB-%E7%86%8A%E8%B0%B7%E5%82%99%E4%B8%AD%E5%AE%88%E5%AE%9F%E9%95%B7/

         平安から鎌倉期に名を馳せて、
         当流御開祖とも交流がある法然門下の熊谷次郎直実の一門です。
         その六代を経たのが宇利城主の熊谷備中守実長で、当時は今川配下でした。

         東三河の他の領主たちがこぞって今川から松平になびいていく中、熊谷実長は今川を偏に頼りました。

    

新田喜斎の先祖は今川氏に押されて設楽に落ちて行った?
その後、
設楽から松平氏に押されて遠江に出て行った?



足助って服部半蔵の父の一族がいた記憶だけど、かなりの豪族で、
わたしの脳内の足助と、ここに書かれている三河の足助が一致しない。
やっぱり方向音痴です。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月12日 12時04分56秒 ) パスワード

三つ柏さん


新田喜斎の先祖の動き:

西尾市貝吹にいた

1.
足利一族である西尾の今川氏が力を持ち
ドンドン勢力を高め
駿河まで今川の領土となった。

西尾市は今川の領土で岡崎も支配下に置いた。松平は今川の部下。

2.
南北朝の戦いで北設楽に行った?
足助氏の代官?
そして名倉姓に?
レス<10>
愛知県北設楽郡設楽町西納庫清水 は  <納庫>なぐら → <名倉>なぐらへ   清水は清水城のあったところですね


道の駅アグリステーションなぐら
https://www.miniiku-trip.jp/ikusa/detail.php?id=9
住所北設楽郡設楽町西納庫字森田32
TEL0536-65-0888
定休日月曜、祝日の場合は翌日

清水城跡は設楽町清水地区の中心にある小山が城跡です。
城主は菜倉左近蔵人で
奈倉又は名倉姓発祥の地といわれています。


ということで
https://www.higashimikawa.jp/spot/detail.php?id=463
よりコピペ

地図も出てますよ!
なんと!津島神社もあります。


清水城址

南北朝時代(1336年〜1392年)、足助氏の代官・菜倉(名倉)左近蔵人の居城でした。
天正10年(1582年)、蔵人は信州に出陣して討死し、廃城となりました。
設楽町の指定史跡です。


     足助氏ですが懐良親王に従って九州に行き、菊池氏と、ということです。
     改めてレスします。

              やっぱり足助の服部家は「あった」んですよ。


問い合わせ先:
設楽町観光協会

住所:
〒441-2301 北設楽郡設楽町田口字居立2

TEL:
0536-62-1000

FAX:
0536-62-1675

URL:
https://www.kankoshitara.jp/


三つ柏さん
3000円握って設楽町観光協会へGO!
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月12日 12時24分57秒 ) パスワード

足助氏:
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/asuke_k.html
対い鳩紋
(清和源氏浦野氏流)

源頼朝が伊豆で兵を挙げたころ、御家人として一族をあげて源氏に仕えた小野氏・浦野氏が
三河国には八条院領高橋荘、同領高橋新荘の荘官職となっている。


            高橋新荘はのちに足助荘と呼ばれるようになる。


この荘官職となった浦野重長は、尾張国山田荘から来住して、足助氏を称するようになった。


以後、足助荘は足助氏に伝えられていくこととなる。

初代重長が足助へ移住して、本拠地としたのは黍生城であったが、
二代重秀から八代重政まで代々居城としたのは飯森山城であった。


飯森山は、巴川と足助川の合流点にあり、
南と西を巴川の流れをめぐらす要害の地である。


そのうえ、尾張、三河と信州を結ぶ街道および東三加和への街道が通じる交通上の要地でもあった。



足助氏の動きで注目されるのは、京方に味方した働きである。
承久三年(1221)、後鳥羽上皇による討幕計画で、世にいう承久の乱では、重秀の子重成が後鳥羽方として戦い討死にしたと伝えられている。

                   だからワタシは母方でも足助氏にシンパシーを持つのかな?


また、元弘元年(1331)後醍醐天皇による討幕の計画は、幕府が事前に察知するところとなり、天皇は笠置山に逃れた。

この笠置山に最初に馳せつけ天皇に味方したのが、足助氏の惣領・次郎重範であった。


重範は天皇の呼び掛けに応じて集まった者三千余人の総大将をつとめた。

この元弘の変は幕府方の鎮圧され、後醍醐天皇は隠岐へ流され、重範は京都の六条河原で処刑された。


元弘三年足助氏は、新田義貞の鎌倉幕府攻撃に参加した。
このとき、足助太郎重信、賢尊、孫三郎重成が討死にしている。



建武三年(1336)足利尊氏が京都に入り、光明天皇を立て、後醍醐天皇は吉野に移った。


南北朝時代の始まりであった。

このころ、足助一族は、重春が重範の子重政を助けて一族を統率していたと考えられている。

そして、征東将軍宗良親王を迎えようとしたが果たさなかった。

                       宗良親王のお名前(だけ)ご降臨!



しかし、興国四年(1343)頃、重政が成人すると、
重春は足助を去り安芸国へ移住している。


このころから一族の一部が各地へ離散していき、各地の足助氏の祖となったことが知られる。



一方、足助重治は、建武新政崩壊後、征西将軍懐良親王に従って、九州に赴き、菊池一族とともに各地を転戦、後醍醐天皇の宸筆の感状を賜っている。

                       懐良親王ご降臨!


1383年に九州で没した。




いずれにしても、足助氏の勢力は重範の死後衰退を余儀なくされたようで、その居城であった飯森山城には鈴木氏が居住するようになる。


一説によれば、鈴木重則は足助重範の娘婿となり所領の譲りをうけ、足助氏を称したともされるが確証はない。




そうかっ!

わたしが足助氏に捉われるのは
母方で承久の変から南北朝にかけての先祖パワーのせい
プラス
父方で  伊賀の服部半さん=保長=の一族が交通の要衝の足助にいたからか。


なんで?なんで?なんで?足助に捉われる?と長いこと思って来ました。
やっぱり理由があったんでしょうね。


このレスで、
    実は、大学生の時にある男の子からすっごくモーションを掛けられてて、   振ったんだけど
    バブルの時に  惜しいことをした!  という経験をしています。
    なんで振った?
と思い出した。


そりゃあ当時は事情が分からないから先祖から「赤い糸」が垂れ下がって来ても拒否するわな。
TOO LATE!

     彼はまだ独身かしら?
     あはは


メールします。
[28]三つ柏服部さんからのコメント(2019年09月14日 21時48分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新田喜斎については、断片的情報(「点」)が、それぞれ変化した形で存在
するので、それらを一本の「線」でつなぎ、理路整然とさせるのは至難の業
であります。ただ、新田喜斎の子孫にあたる細田安治氏が、川島長次郎氏と
共同で研究された資料が、国立国会図書館に収められているということなの
で、機会をみて行って調べて来たいと思っております。

 その資料の題名は『清和源氏の源流を訪ねて:三河遠江名倉氏の系譜』(
川島長次郎、細田安治編著)であります。
 そこに書かれている内容で、ポイントの所を一部入手しましたので記しま
す。但し、全て正しいとは思いませんので、これをさらに詳しく掘り下げ、
整合性を取り、系譜として完成することができたならば、どんなに嬉しいこ
とでしょぅ――
 「新田義貞の一族が、遠江・三河・尾張方面に下向した。

  新田兼時(誰の子?)は、三河幡豆郡に移り、貝吹郷(西尾市)を開いた。

  新田伊武(誰の子?)は、奥三河の菜倉(設楽西納庫)の清水城主となり、
 28ケ村を領し、旧姓を改めて菜倉と名乗った。
  男子に恵まれず、婿養子として新田義一を迎え、義一は結婚後に兼氏と
 改めた。兼氏は岩松政経の子供と判明。幼名を藤王丸、後に新田右衛門左
 と名乗っていた。

  新田兼氏(義一、清水城主二代目)から数えて五代孫の兼春は、碧海巨海
 村に移り、その弟・伊茂(友作、後の喜斎)は気賀の堀川に移り、堀川城主
 となった。
  この兄弟の父・清水城主五代目・新田伊義は、武田方・下條氏に攻めら
 れ落城、息子の伊茂(新田友作、堀川城主)を頼って気賀に落ちた。」

 次回は、私なりの解釈(ストーリーのまとめ)を述べたいと思います――
[30]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年09月17日 12時50分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私の総合的まとめです――

1.「おんな城主 直虎」
 ムロツヨシが演じた「瀬戸方久(ほうきゅう)」、そして、柳楽優弥が演じた
「龍雲丸」…この二人には、それぞれそのモデルとなる人物がおりました。

 「瀬戸方久」…文字どおり、瀬戸方久と呼ばれた人物が存在していました。
 「龍雲丸」…その名前は、都田川が浜名湖に注ぐ東岸・伊目にある「龍雲寺」
 にちなんでおります。そのわけは、そこに「新田喜斎(にったきさい)」の墓が
 建てられており、新田喜斎もまた実在する人物であったからです。
  
 ただ、ややこしいことに、この新田喜斎も、瀬戸方久と同じく「方久」を
名乗ったということであります。またどちらも瀬戸に住んでいたという事実が
あります。従って、新田喜斎=瀬戸方久と捉えられてしまう傾向がありました。龍潭寺の前住職・武藤氏もそう捉えておりました。

 ただ、昨年の五月(「おんな城主 直虎」が終わった翌年)に、気賀の全得寺
の小野前住職が、『新田喜斎物語』という冊子を出版され、その中で色々な資
料の分析に基づき、「瀬戸方久」と「新田方久喜斎」が別人であることを明確
にされました。

 これで「方久」についての混迷は一応解決された形になりますが、大河ド
ラマに於ける瀬戸方久(商人)と竜雲丸(武人)のキャラクターは、実在した本物
二人のそれぞれが持つ実際の属性であり、それをドラマでは、視聴者に分り易
いように、一方を全くの「商人」に、一方を全くの「武人」として、二極化し
たのだと思います。

 実はここで重要なことは、「方久」うんぬんではなく、この新田喜斎の名前
(姓)が「名倉」でもあったということであります。 

2.「名倉という所」
  井伊谷から、国道257号線を約60q程北上しますと、稲武(いなぶ)とい
う所に出ます。ここは山間に於ける交通の要所でありますが、ここから約6
〜7q戻った所に、道の駅「アグリステーションなぐら」があります。ここ
の地名は「西納庫」(にしなぐら)といいますが、昔でいう「名倉」の地域であ
ります。「東納庫」という所もあります。
 名倉という地名は、時代によってさまざまに書かれてきました。最初は「菜
倉」、あるいは「菜久楽」とも書かれました。いわゆる当て字であります。い
つ「名倉」の文字が使われるようになったかはわかりませんが、鎌倉時代に
は、既に「加茂郡名倉郷」という呼称・表示があったということであります。

 さて、この名倉に「清水」という所があり、そこには清水城がありました。
今では、城の跡かたもありませんが、土塁とか掘が一部残っております。私
も大河ドラマの始まった頃、調べに行ったことがあります。車は道の駅に置
き、方角的には北東の山の方へ向かいました。行けば案内看板が出ていると
思い、おおよその見当で行ったわけでありますが、ところが全く手がかりが
ありません。地元の人に訊いても知らないという。グルグル何回も回ったあ
げく、ある農家の軒先にて年老いたご主人に訊いたところ、ほぼ場所がわか
り、やっとのことでたどり着けたわけであります。昔の山城は、所在が分か
りにくいものが実に多いというのが実感です。
 清水城跡のすぐ下には、清水城主の墓というものがいくつか並んで建てら
れておりました。

 では、この清水城主として名倉を治めたのは、一体何者であったのか……そ
こが一番肝心なところであります。

 つづく(次回までには少し時間がかかります)――

[31]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月17日 14時48分53秒 ) パスワード

三つ柏さん

瀬戸方久と新田方久喜斎は別人ですか。
ビックリ

続きを楽しみにしていますね。



「おんな城主  直虎」は、かなりハナシにムリがあったと思います。

どこまでホントのハナシ?
と、いつも  疑問に思っていました。

例えば
亀之丞 あらため 井伊直親
    母親が鈴木氏の娘だったのはいいけど
    妻になったのが一族の奥山の娘で   (なんで直虎じゃないの?)
    信濃でも女をくどいて子供を作ってて
    三浦春馬みたいな誠実っぽいイケメンが 何故こんな womanizer 女たらし  の役に抜擢されたの?怒


庵原助右衛門
演じたのは山田裕貴。「なつぞら」の雪次郎。
すっごいイケメンで光浦靖子の妹の「さくら」の夫になった人。

閨で変な趣味があるとかで、何?何?と身を乗り出したのに、そこでシーンが変ってしまった。
どんな趣味なんだ?知りたいじゃないか!怒


井伊直政は万千代時代、テキトーな男子で、
従兄弟の小野万福の方がずっとマシだった。


良かったのは小野万福。
井伊直政の懐刀。
小野正次道好の弟のただただ誠実な玄蕃の子。
幼名は亥之助。
虎松とは母方の従兄弟同士。
演じたのが  井之脇 海くんで、
このイケメン若手俳優が大洪水の時代に
俳優としては地味な感じだけど明るい笑顔と誠実さが実に良かった。
すっかりファンになった。


「龍王丸」は必要だった?


なぁ〜んか、ストーリーに無理があったし、ハナシ延ばし過ぎだったし。
こんな荒唐無稽のNHK大河ってあったっけ?
でした。



あったあった!「花燃ゆ」がバカみたいだった。
主人公役の井上真央が気の毒だった。
3幕とも主人公なのに引き立て役だった。



「おんな城主  直虎」で高橋一生がスターに化けたのは凄かった。
小野正次道好の生きざま死にざまが凄かった。
戦国時代には、ああいう分かり難い人物が暗躍したのかな?と。
NHK大河で現代人が見るには弟の小野玄蕃の方が分かり易い。


わたし的には  瀬戸方久と新田喜斎と龍王丸  が未だ消化出来ていないです。

恐らく「南朝方」というのが背景に絡んでいるからではないか?と。
[32]三つ柏服部さんからのコメント(2019年09月18日 10時58分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 歴史は、時間という縦糸と、空間という横糸で織られている。そんな感じが、
新田義貞を追っている内に感じました。

 何を言いたいのかというと、「新田義貞」と「明智光秀」と「松尾芭蕉」が
一つの糸でつながったからであります。

 その糸とは、偶然性が大きいかも知れませんが、武士の矜持に対するシンパ
シィの糸だと思います。

 具体的には、新田義貞の菩提寺越前「称名寺」がその織り目となります――
[33]三つ柏服部さんからのコメント(2019年09月18日 11時36分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ついうっかり:「称名寺」→「称念寺」 であります。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月18日 13時34分01秒 ) パスワード

三つ柏さん


>称念寺

我が母方の一族に繋がります。
越前も繋がるし

さらに松尾芭蕉でも繋がるのですか。
伊賀ですね。
そうしますと思い出すのは名張の城主服部保章ですね。
そして近江の北村氏に繋がります。



結局日本人は父方でも母方でも繋がりますね
知らないだけで
実は何重にも繋がってた。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月20日 03時19分03秒 ) パスワード

9月26日は台風15号・伊勢湾台風 60周年の日で
名古屋の新聞では毎年特集記事が多いです。

     10年前の50周年記念の時も大特集がありました。

         HN「さちこさん」は木曽崎の方だそうで
         お父さまの前妻さんとお兄さまが亡くなった記憶。
         それで「さちこさん」は後妻さんのお子さん。

         「さちこさん」のお宅は桑名市長島の願証寺を中心とした伊勢長嶋一揆の子孫なわけで

         このあたりは木曽3川がこんがらがった場所だから台風があると大変なことになるわけです。
         伊勢湾台風の時は満潮時に重なって高潮が起き大洪水になった。


             この台風は紀伊半島に上陸して三重県と愛知県の境の伊勢湾を縦断して日本海側に抜けたのだそうです。

             被害が大きかったのは名古屋市南区で、丁度カナダからのラワン材?が荷揚げされたところだったから
             木材で家々が潰され、死者や行方不明者が5000人を超えた台風になりました。


で、本題です。

恐らく9月2日あたりの朝日新聞に出てた記事ですが

タイトルは  「防災 いま 一度考えよう」
サブタイトル 「大同大大同高に救援活動記録」
というのがあって

その校長先生が服部保孝氏だそうです。


       なんとなく父の兄に似てる気がする。
       おそらく父の母親系のような?三重県系のような?
       父の父親の顔は石川啄木にソックリ。

       いえいえ、加齢で、みんな似て来るのかな?

              父方祖父母は名字は違うけど血縁関係があるのかも?


大同大大同高は名古屋市南区大同町にある大同大学大同高等学校のことです。
       大同大大同高はどうやって読むのか分からなかった   汗   わたしには視力検査だった


で、この高校の校長先生のお名前が、服部保○?
え?伊勢伊賀の平家系の服部家?
とビックリしました。

       ご両親さまがたまたま「保」の字を使用しただけ?



よく分かりませんが  服部保○系一族はこういう感じのお顔だったのかな?と。

三重県の顔だと思う。
父の母親の先祖は倭漢氏族で村主、百済族で宿祢だったらしい。

            (そんな立派なもんじゃないよ   祖母の声)



思わぬところで思わぬ記事に遭遇しました。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月23日 08時30分56秒 ) パスワード

ここ暫く「武士の戦い」を調べていたのですが
名前がゴチャゴチャで
結局途中からワケが分からなくなりました。

    内訌では一つの家の中の人間の名が似ててワケ分からなくなるし
    拝領の「通字」が敵も味方も一緒でワケ分からなくなるし

結局最後まで読めない。
その上に、不都合な場面は  ボカすから  抜けてるから  あれ?  となってワケ分からない。


鎌倉幕府成立年1つとっても、わたしの時代は  「いい国作ろう」の1192年  だけど
幕府発足年について、1185年以外に、1180年、1183年、1190年、1192年など様々な意見が存在してて
1192年は征夷大将軍の宣下がなされた
ってコトで・・・

        だから1192年なんじゃないのか?怒
        と思うし

わたしみたいな垂直思考の人間は「定説」というか「正しい答え」が欲しいんだなと。
自分のアタマで考えろと言われたら  日本の人口1億2600万通りの主張が出ることになるじゃないかと  
それで諦めた。


義元を討った武士の1人にしても尾張と遠江の2人の人物がいるらしいし
         尾張では服部小平太
         遠江では服部中保次

遠江の人物にしても瀬戸方久が複数いるようだし。
「瀬戸」という屋号を使った人は大勢いるでしょうけど  「方久」  という名は結構一般的に使用されてたのかな?


何か情報が抜けてるんでしょうね。
[37]三つ柏服部さんからのコメント(2019年09月23日 08時51分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 続きです――


3.「奥三河足助庄」
  名倉という所は南北朝の時代では、足助庄の中に含まれていたものと推察
 されます。足助自体は街道筋の町ですが、足助庄は大雑把に言って、東西二
 十〜三十q位の広大な地域を占めておりました。そして、足助荘は後醍醐天
 皇の領地(旧八条院領)であったものと推察されます。
  ついでながら、遠江の気賀庄も、井伊谷を含んだ形で後醍醐天皇の領地で
 あったものと推察されます。 
  従って、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒に立ち上がった時、足助の足助氏も、
 井伊谷の井伊氏も、後醍醐天皇側につき、天皇と共に南朝臣として戦いまし
 た。特に、井伊谷には井伊谷宮があるとおり、後醍醐天皇の息子である宗良
 (むねなが)親王が拠点とされておりましたので、井伊谷を表玄関として、そ
 の奥―奥三河・美濃・南信は南朝色の非常に濃いところでありました。宗良
 親王は、南朝軍の征夷大将軍でもあり、新田氏一族とも共に戦いました。

4.「名倉にやって来た新田氏」
  新田氏といえば、「新田義貞(よしさだ)」のいわば代名詞であります。
 鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇の南朝方に親子三代にわたり尽した一族であり
 ます。
  徳川家康の祖先とルーツは重なります。つまり、新田氏の始祖が「新田義
 重」で、その子供に「義兼」(兄)、「義季」(弟)があります。兄の方の子孫
 が「新田義貞」、弟の方の末裔が「徳川家康」であります。
  新田義貞は、上野(かみつけ 群馬県)の新田郷(太田市)の出身で、1333年
 に鎌倉幕府打倒の兵を挙げ、鎌倉幕府を倒します。その後も故郷へ帰ること
 なく、各地で戦いの日々を送りました。およそ五年間でありますが、不幸に
 も越前の藤島城攻めで灯明寺畷にて討死してしまいます。
  その長男の「義顕(よしあき)」は、父と一緒に戦ったものの、父よりも先
 に越前金ケ崎城にて討死してしまいました。その時の年齢は二十歳前後であ
 りましたが、新田四郎義一という子が産声を上げておりました。
 
  さて、ここからは推測的な話となります。というのは、断片的な情報はあ
 るものの、一貫した整合性のとれた情報がないためであります。それは、新
 田一族が、各地での戦いで動き回っており、またその多くの人々が戦いで命
 を落としてしまったりで、記録が残されなかった。また、「勝てば官軍、負
 ければ賊軍」で、負けた側にば残党狩りや一族の粛清があったりで、新田氏
 族や郎党は、つてを頼って落ちて行ったり、あるいは名を変えて隠棲したり
 せざるを得なかったと思われます。

  戦地で生まれた新田四郎義一も、生まれながらにそんな境遇にあったはず
 であります。従って、敗軍・新田として生きて行くのは難しく、同族で北朝
 ・足利氏よりの岩松家の温情で、その子として育てられたのだと推察いたし
 ます。
  ただし、その義一が奥三河に来るわけでありますが、いつ、誰と、どのよ
 うにしてやってきたのかは定かではありません。
  『浪合記』には、1424年に新田義一をはじめ多くの者が、尹良親王を
 護衛して信濃(岡谷)へやって来たとあります。その先に「浪合合戦」が続き
 ます。
  たぶんその辺の混乱を経て、新田氏族は奥三河に流れて来たのではないか
 と推察されます。たぶん状況から言って、南朝方の足助庄の足助氏を頼って
 来た可能性は大です。  
  そして、義一はある家に婿養子に入るわけでありますが、その入り婿先は
 清和源氏頼政系大河内氏の家系であった可能性が高いようです。但し、その
 当時の成り行きから言って、様々な系が婚姻や養子縁組でつながったりして
 いますので、大河内系も新田系とすでにつながっていた可能性はあります。
  南朝方の隠れ家のような奥三河に新田氏が落ちてきたのは、当然といえば
 当然の帰結だったと思われます。落ちて来たのは、新田氏だけでなく、その
 家臣達も追いかけるようにしてやって来ております。

  では、新田義一のその後はどうなったのでしょぅか。

  つづく(しばらくお待ちください)――

[38]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月23日 22時24分19秒 ) パスワード

三つ柏さん

楽しみにしています。
ボチボチ頑張ってください。


自己レス:

「イイクニつくろう鎌倉幕府」の語呂合わせで覚えた鎌倉幕府成立年の「1192年」が、
2007年から「1185年」と教科書の内容が改訂されているハナシ

この裏付け?が載ってました:
https://news.mixi.jp/view_news.pl?id=5799212&media_id=112&from=pickup_news
このサイトは数日で消えます。


>『令和の新常識』(日本の新常識研究会著、PHP研究所刊)では、
>歴史や法律、社会、科学、健康、美容など、幅広い分野にわたって、近年変化した常識を紹介する。

>現在の社会常識だけでなく、過去の歴史についての解釈も変化していくもの。
>時代の変化に取り残されないために、古い常識をアップデートしてみてはどうだろう。

>(新刊JP編集部)


既に12年前に取り残されてたのか。
「仁徳天皇陵」とは呼ばないことについては数年前に知ってたけど。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月23日 22時54分45秒 ) パスワード

知らなかったハナシのお裾分け:


Q
もともと夫はユダヤ教ではあったけれど、かなり自由な生活をしていました。

しかし、ここ数年、急にユダヤの正統派のシナゴーグに通い始めてヒゲを伸ばして、全てをコーシャーにし、先日からあの黒いスーツを着始めた。
 
夫は儀式の一環で、頭に黒い小箱をつけて角の笛を吹いている。

わたしは正統派になるつもりは全くない。

悩んでいるのですが、私の周りには、ユダヤ教の人がいないので、どうしたらいいのかわかりません。


今や、寝室も食べ物はもちろん、冷蔵庫も食器も別々。 
このまま離婚になるのかと不安を抱えています。



A1
オーソドックスだったらそもそも外国人というかジューイッシュ以外の人が付き合う事もないのでは?
まして結婚はできないと思います。
母親がジューイッシュじゃないとジューイッシュじゃないですからねー



A2
だとしたら、土曜日は電気を使うもの一切触れない、所までいくのではないでしょうか。

エレベーターも乗らない、電気のスイッチを入れない、などとにかく生活が大変になるみたいですよ。



A3
アメリカに来て目覚めてしまうユダヤ人、いるみたいですね。

私の同僚(奥さんの方)にいますが、すごいですよ。
産児制限をしないので、子供は8人。
食事は制限があるので、ランチとかは絶対人と一緒にしません。
来てもテーブルに座ってみんなと話するだけ。

出張に行く時も、金曜までビジネスがあっても土曜に帰らず日曜まで待つ。
出張も特別食事手当が出る。
学会に出て土曜にもスケジュールがあっても出てこない。

子供はイスラエルに留学。

勿論基本のくるぶしまでのドレスと頭には被り物です。


極め付けが、近くのシナゴーグのラバイと折り合いが悪くなったので、
新しいシナゴーグに入るために通勤に2時間以上かかる場所に引っ越していきました。


規則で許されてる最大の週3日はTeleworkで、2日は近くのモーテルに泊まって仕事に来ています。


私の察するには、
彼女はネタニヤフの右のゴリゴリの極右、
トランプ支持+race-based policy支持なので、
今まで住んでたところはリベラルな人が多いので、政治的な意見でラバイと意見が合わなくなったのではないか?と勘ぐってます。


ニュージャージーのLakewoodという街にユダヤ正統派の人たちが移り住んで、
自分達の子供はイェシバに送るので公立校なんて無駄、
ということで、
学校区の選挙で大量投票で乗っ取り、
公立校の予算をカットして音楽や美術のクラスがなくなって・・・
というので数年前大問題になりました。


ドキュメンタリーの映画もあるますけど、すごいですよ。
映画のトレイラーは見つけられなかったけど、こんなのもありました。
https://www.youtube.com/watch?v=xvUWnXCgoaM

他人のおもてなしは受けられない(食事がコッシャーで作られたかわからないから)、
変な儀式をする、
何があっても(例:台風が来てても)村の皆とは土曜日は一緒に仕事できないので、洪水が来てても協力しない、
等々、

なんでユダヤ人が行く先々で迫害されて追い出されていったのかがよくわかるエピソードです。

でも、今は、アメリカやヨーロッパでは怖くて誰もなにも言えません。

以上コピペ


こういう厳しさは知らなかった。
[40]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年09月24日 14時13分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、設楽町図書館へ行ってきました。下道で60q、時間にして
1時間半でありました。

 行ってよかったのは、国立国会図書館にしかないと思っていた『清和
源氏の源流をたずねて:三河遠江名倉氏の系譜』(川島長次郎、細田安治
編著)という本があったことであります。郷土史家の本は間違いが結構あ
って全面的には信じられないものでありますが、この本は客観的な捉え方
をしていて、出典も明確であり、信憑性が高そうな感じを抱きました。

 コピー機が休日は使えなくて、田舎の図書館だなと感じました。コピー
を依頼してきましたので、明日か明後日にはまた取りに行かなければな
りません。
 今まで入手した資料は、ほとんどこの本から引用したものが多いのでは
ないかと思うほど、内容はきっちりしております。コピーを入社しました
らチェックして続きをまとめたいと思っております――
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月24日 22時22分02秒 ) パスワード

三つ柏さん

良かったですね。
でもコピー機が使えないって、
日本国内で?
です。

取りに戻らなきゃいけないって、二度手間で、わたしが住んでる離島と同じ。
こっちは2度手間では済まない世界ですが。
     今日は5度目の手間に挑戦します。


ある人が某国の島を買って移住しようとしたのですが
Wi-Fiは来てるけど
ネットには繋がらないんですって。
( ̄∇ ̄;)ハッハッハッハハ


ま、コピー機って紙が詰まったりインクが切れたりいろいろ起きますからね
     (アチコチにコピー機を借りに行っては壊した本人談)
           オーストラリアの某航空会社・日本の某航空会社・韓国の某航空会社及び検疫所の皆さま、伏してお詫びします
[42]三つ柏服部さんからのコメント(2019年09月25日 10時38分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 回り道していて、新たに入手した事実――

 @「貝吹郷」のあった西尾市ですが、全体を吉良氏が治めていたわけですが、
 南北朝時代においては、吉良の本家筋が「南朝方」、分家筋が北朝方」にと、
 身内同士が分かれて争っていた。つまりそれは本家筋の「西条吉良家」と、
 分家筋の「東条吉良家」であります。吉良氏は足利氏だから、北朝方だとば
 かり思っておりましたが、歴史に思い込みは禁物であるということ、そんな
 教訓を得ました。
  
 A新田義貞と「時宗」は深い関係にありますが、時宗の宗祖「一遍」は四国
 のあの水軍・河野氏―河野通広の次男であったということを知り、改めて、
 歴史の展開の妙・意外性・不思議さを知りました。

 B一向一揆で有名な「一向宗」ですが、これは「浄土真宗」のことであると
 認識しておりましたが、中世においては、真宗のみならず、時宗のことも、
 また一向俊聖を始祖とする一行派も「一向宗」と呼ばれていたということで、
 ひょっとしたら、一向一揆とは浄土真宗のみならず、もっと幅広い層、幅広
 い宗派による、浄土思想下での自由を求める運動であったのかと推察してお
 ります。

 その他、時宗を探求して行くと、いろいろ面白い事項に出合います――
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月25日 22時27分39秒 ) パスワード

三つ柏さん

貴重なお話の数々をありがとうございました。

@
そうなんです。
家の中で割れて敵同士になる
そういう不幸が、あるんですよね。

で、これはメールでなくても良い話になりますが
教えて貰いましたよ
足利将軍家の作法のこと。

     小笠原流より格のずっと高い「将軍家」の礼儀作法のことです。吉良家が大名に作法を教えていましたでしょ?

     もう記憶が薄れていますが  急須の口を南に向ける  とか
     毎度の料理でも食材は人数分しか用意しない  とか   つまり  ニンジンだってテキトーに余しては調理しない
          いろいろ教えて貰ったのに、すっかり忘れていました。


だから大学時代に可愛がってくれた先輩
(「どうせお化けなら化粧してお化けの方がマシ)ということで平安時代のような化粧してた先輩)が
あんな場所でも(承久の変で)上皇方   つまり  南北朝時代には当然南朝方  だったのか。
最近知ったのですが、この家の名は明治維新で「藩」の名前に使われて復活していました。

      彼女とわたしの繋がりの深さは、武家なら底流に、どこかで何らかのカタチで、みんな繋がっているのだなと改めて思いました。


なるほどね
なんで?
と思うようなことが少しずつ見えて来ました。
感謝です。


A
一遍上人の跡を追って
・北は「おじじさま」のお墓まで里帰りの度に毎年行きました。それで我が家の他にも「84代目」がいることを知りました。
・南は大隅半島には行けなかったのですが鉄輪温泉のお祭りには参加しました。
・一遍上人のポスターは島津系の(父方でも)母方でも繋がる方から頂いて今のタワマンにも貼ってあります。
・比叡山にも行きましたが御真影を見上げた時「よく来たね」とにっこり笑ってくれました。
      追っ掛けしてたワタシは滂沱の涙でした。ああ、ここにいらっしゃったのか、と。
      この時、根本中堂で不思議な出来事に遭遇した夫は
      「ここって、ドーマントだね。休火山みたいに、表は静かだけど、裡に物凄いマグマがたぎっている所だね」と驚いていました。
・当然松山の宝厳寺にも行きましたよ。一遍上人生誕の地。

       当然博多の「防塁」も見に行きましたしね。

大隅半島には行けなかったのが心残りです。



B
>一向一揆とは浄土真宗のみならず、
>もっと幅広い層、幅広い宗派による、浄土思想下での自由を求める運動であったのかと
>推察しております。
 
日本中の有力大名を巻き込みましたからね。
[44]三つ柏服部さんからのコメント(2019年09月28日 00時44分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 続きです――

5.「名倉氏となった新田氏」
 さて、この名倉に「清水」という所があり、そこには清水城がありました。
今では、城の跡かたもありませんが、土塁とか掘が一部残っております。私
も大河ドラマの始まった頃、調べに行ったことがあります。車は道の駅に置
き、方角的には北東の山の方へ向かいました。行けば案内看板が出ていると
思い、おおよその見当で行ったわけでありますが、ところが全く手がかりが
ありません。地元の人に訊いても知らないという。グルグル何回も回ったあ
げく、ある農家の軒先にて年老いたご主人に訊いたところ、ほぼ場所がわか
り、やっとのことでたどり着けたわけであります。昔の山城は、所在が分か
りにくいものが実に多いというのが実感です。
 清水城跡のすぐ下には、清水城主の墓というものが数基程並んで建てられ
ておりました。

 新田義一が婿養子に入ったのは、この清水城主の名倉(菜倉)家であります。
この名倉家は、系統としては、新田氏と同じ清和源氏であり、頼光・頼政系
の大河内氏の家系であったようであります。三河の西尾市にも名倉氏の末裔
がいますが、その「名倉姓由緒」には、次のように書かれています。

@新田義一の系統
・源満仲―頼信………………(十代略)………………義貞―義顕―義一

A新田義一の妻方(名倉)の系統
・源満仲―頼光…(三代略)…兼綱―顕網―兼時―兼重―伊兼―伊武―娘

 新田義一の妻の父親・伊武は、大河内系の最初の清水城主であり、また、
名倉(菜倉)と名乗った最初の人でもあります。名倉家は、その後代々清水城
主を務めます。
 義一は結婚後「兼氏」と名乗りますが、その兼氏から数えて五代目(玄孫
やしゃご) の伊茂が「新田喜斎」であります。喜斎は法名(仏門名)でありま
して、通称は「友作」でありました。

6.「新田喜斎(伊茂 友作)のその後」 
 清水城主の系統は、伊武―兼氏(義一)―兼伊―伊信―伊義―伊茂(友作) と
続きますが、1554年に武田信玄が下伊那から奥三河に攻め入って来ます。
下伊那を領していた下条氏は、武田の軍門に下り、そしてやむなくその先頭
に立たされて奥三河に攻めて来ます。
 清水城主の伊義は、攻められる寸前で清水城を明け渡し、気賀に落ちて行
きました。気賀には、既に(10年前くらいに)やって来ていた息子の新田方久
喜斎(伊茂 友作)がおり、「堀川城主」となっていました。

 気賀での新田喜斎の活躍については、長くなりますので簡単にまとめます
と、1568年に徳川家康が遠江に攻めてくるわけですが、喜斎は今川から
徳川に付くことを主張しますが、家臣達は今川を主張したため、堀川城から
出てしまいます。その後にあの悲惨な堀川城の戦いがあります。
 喜斎は気賀の呉石に隠棲後、井伊氏に協力して気賀地域の発展に尽くしま
す。具体的には、農地を開拓したり、市場を活性化させたり、運河を開いた
り、水運による物流を促したり、また政商として活躍もしたり、子供達に読
み書きを教えたりしました。
 1606年、喜斎82歳の時に、塩の訴訟事に関係し、不幸にも刑死させ
られてしまいます。
 子供は側室に男子3人と女子3人がいたそうであります。
・長男の伊重……大阪夏の陣に従軍。
・次男の伊友……三河「名倉」氏の祖となる。
・三男の為高……遠江「名倉」氏の祖となる。
・娘の一人……中村家に嫁ぐ。

 これで、新田喜斎の話は終わりにしたいと思いますが、改めて、新田喜斎
の祖先はあの新田義貞であり、また源頼光・頼政の血も引き、徳川家康とも
ルーツ的に重なり、家康とは心が通い合う間柄であったと推察しています。
現に三男は家康の遠江侵攻の案内をしたりして協力しております。
 家康との関係が本当の所どのようでであったかの詳細は、よくわかってお
りません。ただ、徳川の世になって、喜斎が刑死させられてしまったという
ことに対しては、何か信じたくない気持ちが残ります。本当はそうでなかっ
たのでは?……今後の調査のテーマであります。



[45]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月28日 03時24分06秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございます。

しかし悲しいことを思い出してしまいました。
数年前に書きましたが今回は詳しく書きます。


http://yabusaka.moo.jp/okouchi.htm
愛知・大河内清輝くんいじめ自殺事件

【事件概要】
一部コピペ:
1994年11月27日深夜、愛知県西尾市の市立東部中学校2年の大河内清輝君(13歳)が自宅裏庭のカキの木にロープをかけ首吊り自殺。姿の見えなくなった息子を探していた母親(当時44歳)が発見した。死後、遺書が見つかり、その悲惨ないじめの事実が社会に衝撃を与えた。
以下略


もう25年になるんですねぇ。久し振りに涙を禁じ得ません。

ワタシにしたら  「大河内さん」「東部中学」というキイワードは
まさにワタクシにも全く関係が無いとは言えません。


そもそも「大河内氏」の名字を持つ子供さんがイジメに遭うというのが理解できません。


東部中学というのは貝吹町の西側にあって、デンソーのすぐ近くです。
なるほどデンソーに勤める家庭の子なら元々が地元民じゃないから「大河内氏」の存在を知らないわけだ、と自分を納得させました。


大河内氏は吉良家の家老で、もっと西の(碧南に近い)寺津に居住してました。

で、三つ柏さんのお書きのように  吉良家は割れて戦い、  さらに戦い、さらに100年続いて戦い、
ワタシにはどっちがどっちかワケ分からなくなっています。ついてけない!


家康の母方お祖母さまの華陽院さまは出自がいろいろ言われていて

     江州佐々木氏流の尾張・青木加賀守弌宗の娘
     尾張・宮の善七の娘(『尾張志』では宮野善七郎とあり)
     三河寺津の城主・大河内左衛門佐元綱の養女、または実の娘(政局は甥と伝わる)
     川口家々譜によれば大河内但馬守満成の娘

尾張の水野に嫁いで  家康生母のお大さまなどを生み  その後  三河の松平清康に嫁ぎ 寡婦となって  星野秋国、菅沼定望、川口盛祐に嫁ぎました。


大河内といえば  南朝方      初めて「浪合記」を読んだ時に驚きました
大河内松平家といえば 「知恵伊豆」の松平信綱。


西尾(今川氏発祥の地であり  もともとは  吉良氏の流れ)の名家の大河内さんの息子さんがイジメに遭う?とビックリしました。

      足利将軍家に跡継ぎがいなければ吉良が継ぎ、吉良に子 無くば今川が継ぐ
      そう唄われた家に関わる大河内氏。


      貝吹なんて、まさに南朝方。
      上記に出てた川口氏もまさに我が家に繋がる家だし。


今年38歳あたりだったのか。
子供さんがいても当然の年齢ですね。
そう言えば、XXXの家にも柿の木があったな、といろいろ思い出しました。


名倉家・大河内家・新田喜斎とわたしは、デンタルフロスぐらいの細さの糸で繋がるのかな?とシミジミです。
[46]三つ柏服部さんからのコメント(2019年09月28日 10時38分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 博識のあを様、ヒントをいただきました。やはり今は見えない糸が、昔は
確かにつながっていたような感じを抱きます。西尾の地、吉良、大河内、松平、
華陽院……家康、その糸はやはり「南朝糸」。
 但し、家康は、天下を取る者として、祖先が南朝系であることを余り吹聴し
なかった。北朝臣を取り込む必要があったからでありましょうか。
 新田喜斎が今まで余り取り上げられたり、顕彰されることがなかったのは、
ひょっとしてそこらあたりに原因があるのかも知れません。家康は、喜斎に
対し、心ではシンパシィを感じていたのかも知れません。

 新田喜斎の墓は気賀の全得寺、そして都田川の浜名湖につながるところの
伊目の龍雲寺にもあります。龍雲寺の喜斎の墓の後方には、服部家の墓が、
何かを物語るように一基建っております。家紋は「丸に並び矢」であります。
気賀に墓がある上嶋氏に「草」であったという口伝が残るように、やはり気賀
にまずやって来た忍集がかなりいたということ、それらのまとめは服部半蔵、
服部中保次等の服部党であったと思われます。そこに松下常慶らの松下家(佐
々木氏)もからんでいたということになります――
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月28日 14時54分42秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございます。


>都田川

直親(井伊直政のパパ)が暗殺された場所ですね。

    直親が女たらしでなかったら都田川のほとりで暗殺された時もっと深く同情出来たのに。
    ま、当時はたくさん男子が欲しい時代でしたから、妻はたくさん欲しかったでしょうけど。


>龍雲寺

えっ!
柳楽優弥が演じた龍雲丸の名と同じお寺さんがあったのですか?



>龍雲寺の喜斎の墓の後方には、服部家の墓が、何かを物語るように一基建っております。家紋は「丸に並び矢」であります。

ビックリです。
なんで?

わたしの家と繋がる?
    服部家宗家のホンヤさんの家だったら「車に並び矢紋」ですし
    半蔵の家や中保次の家や政信の家もホンヤさんと同じだし
「丸に並び矢」のわたしの家が遠江に繋がった?



今日は上記のレスをしてから、なんで大河内君はあんなことになったの?と考えたら
三つ柏さんにメールをした中に記した  33/10 だったのかと気付きました。
あれが原因でタカリや恐喝ユスリになったのかと。
こうやって間違った方向に行ってしまったのかと。




>気賀に墓がある上嶋氏に「草」であったという口伝が残る

上嶋家と言ったら、まさに伊賀忍者ですね。



>そこに松下常慶らの松下家(佐々木氏)もからんでいたということになります

松下家もわたしと繋がってしまいますか。


       秀吉が松下家に仕えたご縁は
       やはり平家+南朝方繋がりだったのかも。



三つ柏さんのレスで  わたしが遠江に繋がったかも  というのは本当に驚きでした。

義元とホンヤさんが信長を挟んで殺そうとした時の実行部隊には馬の骨の我が家の先祖もいて尾張に戻れなくて遠江にまで落ちて行ったのかも。

       馬の骨が良く見せようと粉飾するんだったら  車+並び矢紋  の方にしますものね。
       それはしなかった馬の骨は伊目の龍雲寺に足跡を残したのですねぇ。


https://www.navitime.co.jp/around/category/poi?spt=00004.22108900476&category=0705

Hに津島神社がありますね。笑
津島神社は尾張の南朝方の拠点。大橋氏。大橋の分家が川口家。



https://www.jalan.net/kankou/spt_guide000000188523/
書家金澤翔子さんって  NHK大河のタイトルの「平清盛」  を書いたヒトですね。

龍雲寺について

9000坪の境内をめぐる散策道

南北朝時代に時の皇太子によって開かれた禅宗寺院。← 南北朝時代に北朝の親王によって開かれたそうです  ← 間違いでは?



遠江国風土記伝によると  後二条院皇子木寺宮御願所  だそうですが!!!
https://books.google.com/books?id=XiWlHoM7MtwC&pg=PP81&lpg=PP81&dq=%E4%BC%8A%E7%9B%AE%E3%81%AE%E9%BE%8D%E9%9B%B2%E5%AF%BA%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=W4gtm-yXO9&sig=ACfU3U05Fnlrbir39OldYbZIFFKx0UP7Jw&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwjlutbx5PLkAhXTtp4KHbNbC7MQ6AEwB3oECAkQAQ#v=onepage&q=%E4%BC%8A%E7%9B%AE%E3%81%AE%E9%BE%8D%E9%9B%B2%E5%AF%BA%E3%80%80%E3%81%AF&f=false




https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87
後二条天皇
後二条天皇(ごにじょうてんのう、1285年3月9日〈弘安8年2月2日〉- 1308年9月10日〈徳治3年8月25日〉)は、日本の第94代天皇(在位:1301年3月2日〈正安3年1月21日〉- 1308年9月10日〈徳治3年8月25日〉)。諱は邦治(くにはる)。

大覚寺統であり、後宇多天皇の第一皇子。母は太政大臣堀川基具の養女で実孫の基子(西華門院)。



        後醍醐天皇の異母兄にあたる。



後二条天皇の即位は鎌倉幕府が朝廷に治天と天皇の交代を要求したことから実現したものだったが、ここまで半世紀以上にわたって持明院統と大覚寺統による両統迭立を重ねてきた結果、この天皇の即位後3年半にわたって史上最多となる5代の上皇(後深草院・亀山院・後宇多院・伏見院・後伏見院)が同時に存在することになった[1]。


弘安9年(1286年)10月25日に親王宣下を受け、永仁6年(1298年)6月27日、冷泉万里小路殿で元服。同年8月10日に後伏見天皇(持明院統)の皇太子となる。正安3年1月21日(1301年3月2日)、後伏見天皇の譲位を受けて践祚。同年3月24日に即位。徳治3年(1308年)8月に病を得て、同25日(9月10日)在位7年にして二条高倉皇居で崩御。宝算24。同27日、二条院の加後号として後二条院を追号された。

大覚寺統と持明院統との間で皇位継承をめぐる対立が続いていた時期に、邦治親王の立太子が実現した背景には、祖父・亀山法皇による幕府への強い働きかけがあった。すなわち、伏見天皇・後伏見天皇と持明院統の天皇が2代連続したことについて、大覚寺統は後嵯峨上皇の遺詔に反する決定として、幕府に不服を申立てたのである。即位に際しては、父・後宇多上皇による院政が実現したが、当時は南北朝分裂への過渡期にあたり、「天の下の人、又押し返し、一方に靡(なび)きたる程も、さも目の前に移ろひ変はる世の中かな」[2]と慨嘆される時世であった。さらに、天皇が在位7年で病没したことやその時点で大覚寺統の嫡流を継ぐべき皇子の邦良親王がわずか9歳だったことから、大覚寺統と持明院統とが交互に皇位継承していくという幕府裁定の両統迭立原則が崩壊することになった。その調整策の結果、天皇の異母弟である後醍醐天皇が中継ぎとして即位し、そして皇位継承への幕府の関与に対する異議申し立てに発する討幕運動へと展開していくことになるのである。

なお、天皇は在位中、嘉元元年(1303年)に後二条院歌合を催すなど、歌会・歌合の催行が多く、同3年(1305年)には、自ら『後二条院御集』(原題『愚藻』)を撰集している。また、後宇多上皇の院宣を受けて勅撰集(『新後撰和歌集』)の撰進が行われたが、これは大覚寺統による支配の正統性を誇示する政治的行為でもあった。



お子さまの木寺宮の件

母上は  
典侍:藤原(五辻)宗子(中納言典侍) - 五辻宗親女

第一皇子:邦良親王(1300 - 1326) - 後醍醐天皇皇太子。子孫は木寺宮家。
第二皇子:邦省親王(1302 - 1375) - 花町宮家始祖。



ということで

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E5%AF%BA%E5%AE%AE

木寺宮家(きでらのみやけ)

鎌倉時代から室町時代中期にかけて存続した宮家。
常盤井宮家に次いで、世襲親王家の体裁を備えていた。

始祖は後二条天皇の皇子である皇太子邦良親王、
初代はその嫡男の康仁親王。
称号の由来は、邦良親王以下の代々の殿宅が洛西の葛野郡木寺(仁和寺付近)にあったことによるという。

                    経済的に衰微した後は、遠江国に移ったともいわれる。      コレですね。


長くなり過ぎましたから
次にレスを続けます
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月28日 15時14分57秒 ) パスワード

    木寺宮が北朝というのは正しいし  でも  大覚寺統でもある???

             後醍醐天皇がわがまま過ぎて  ハナシ  ややこし過ぎ!




後宇多法皇は、早死にした子息後二条天皇が遺した孫の邦良親王を大覚寺統の正嫡として所領を譲与し、

尊治=後醍醐天皇の諱=の所領も将来は邦良に譲与すること、
尊治が即位しても本人一代に限り、
尊治の子孫は世襲親王家にとどめることと定めた。


1318年、尊治(後醍醐天皇)が即位すると、邦良が皇太子に立てられたが、後醍醐はひたすら譲位を引き延ばし、
生来病弱であった邦良は1326年に皇位につくことなく死亡した。


邦良の子康仁は、本来は父邦良の後継者として大覚寺統の正嫡たる身であるが、
後醍醐の在位中は徹底的に冷遇された。


後醍醐が叛乱に失敗して廃位されると、
後継の光厳天皇は康仁を皇太子に立てた。


大覚寺統の血筋の木寺宮が持明院統(北朝)と深い結びつきを有するようになったのは当然のことである。

                        ここで北朝方に転向ってことですか



しかし1333年に鎌倉幕府が滅亡し、権力を奪回した後醍醐が隠岐から京都に帰還すると、
光厳天皇の即位は取り消され、康仁も皇太子を廃された。


『康富記』によると、康仁親王の後の木寺宮は、邦恒王 ─ 世平王 ─ 邦康親王と3代を経て、室町時代中期まで存続した。

ただし、邦恒王と世平王は早世したため、親王宣下を受けた記録がない。


邦康の子には師煕親王(静覚入道親王)などがいるが、一等史料による限り、その後の子孫は確認されていない。



後二条天皇 ─ 邦良親王 ─ 康仁親王 ─ 邦恒王 ─ 世平王 ─ 邦康親王 ─ 師煕親王


遠江国下向と子孫

康仁について、
南朝方荘園の遠江国入野(静岡県浜松市)に下向して龍雲寺を興し、
そこに落ち着いたという伝承があって、
親王の屋敷跡・墓所・真影とされるものが同寺内に伝存している。


                       ココでは南朝方


康仁が京都付近で没したことは『園太暦』に見えているので、伝承は事実を伝えたものではない。


                       とはいえ、康仁が京都あたりで薨去したことにしただけかも知れないしね


ただし、木寺宮の縁者が遠江と所縁があった可能性はある。

                       コレですね


その時期は、中央の記録から消えた邦康以降ということになろう。
ただし、これらを具体的に裏付けるような史料は存在しない。



『龍雲寺文書』によれば、
永禄から天正のころ、当寺に「大宮様」が住んでいたが、
武田方の軍役を務めていたため、1580年に徳川家康に攻められ、
寺を焼いて信州に逃走している。


「大宮様」とは赤津中務少輔のことで、木寺宮(康仁親王)8世との寺伝があるが、これも具体的な裏づけはない。


なお『寛政譜』には、大沢基宿の母や知久則直の母を「木寺宮」出身と伝えている。

地方に下った宮家の例としては他に五辻宮が挙げられる。


                       木寺宮の母上のご実家が五辻家でしたよね


あ〜
ややこしい



そうしますと龍雲丸のお話も  ドラマ  というわけじゃないですね。
そうしますと  龍雲丸と直虎のロマンス  も有り得たわけですね。
新田喜斎との接点も浮かんで来るし。

う〜む・・・


後醍醐天皇のゴリ押しが世を乱した、ということですか?
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月28日 15時37分51秒 ) パスワード

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2213005100/2213005100100010/ht011900
浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ


家康の木寺宮領の保証

【入野】
天正八年(一五八〇)五月、徳川家康は市内入野町の竜雲寺に住む「大宮」に対し、
入野(当市内入野町)の本所領と竜雲寺領は、住持瑞椿に譲るのならこれを保証し、
大宮の存生中はお考えのとおりにすると述べている。

大宮は赤津中務少輔で、木寺宮の八世だといい、瑞椿はその子である。

中務少輔は天正八年三月まで、武田勝頼の軍役をつとめており(以上『竜雲寺文書』)これが問題となったのであろう。
十月に中務少輔は逃走した。



 
【竜雲寺と木寺宮】
入野の竜雲寺が木寺宮に関係があるというのは、
浜松藩士永井随庵が主命で延宝八年(一六八〇)に浜名湖周辺を巡歴したときの手記
『随庵見聞録』(『浜松市史史料編二』所収)に古老の説として誌したのがはじめであり、
内山真竜の『遠江国風土記伝』(一七九八)にも引用している。

その確証はあげていない。


また竜雲寺内に「木寺宮康仁親王墓」が伝存している。

しかし同親王は京都地方で薨逝されたことが確実である(『園太暦』文和四・四・廿九)。
ただ天正八年五月廿八日付徳川家康判物によると、「大宮様」とあり、
「御局」にあてているなど丁重な取り扱いである。


また天正八年三月十八日付武田家朱印状は「赤津中務少輔」にあて、
『遠江国風土記伝』では木寺宮八世としている(康仁親王は中務卿)。

後二条天皇(一二八五-一三〇八)の皇子邦良親王(木寺宮の初祖)の旁系の人と考えれば、矛盾はないであろう。


当市や周辺には南朝にゆかりの地が多いから、大覚寺統の木寺宮の旁系が滞在していたことはありえよう。
 

戦国大名は、宗教に対し信仰はしたが、宗教を分国統治の政策に利用することを忘れなかった。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E5%AF%BA%E5%AE%AE%E5%BA%B7%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

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木寺宮康仁親王
(きでらのみや やすひとしんのう、元応2年(1320年) - 正平10年4月29日(1355年6月10日))

南北朝時代の皇族。
大覚寺統の後二条天皇の孫。
後醍醐天皇の皇太子であった邦良親王の子。

持明院統の光厳天皇の皇太子となるがのち廃嫡。

官職は中務卿。            あ、なるほど!それで赤津中務少輔なのか

後に木寺宮家を起こす。禅林寺宮とも号す。


元弘元年(1331年)親王宣下。
元弘2年(1332年)後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を企てて失敗して隠岐に流される(元弘の変)と、持明院統から光厳天皇が即位した。

だが、鎌倉幕府は元弘の変について大覚寺統全体が関与したわけではないとして、
後醍醐天皇と対立関係にある大覚寺統嫡流から皇太子を輩出して、
引き続き大覚寺統と持明院統が交代で皇位継承(両統迭立)をすべきであるとしたため、
持明院統もこれに同意して当時13歳の康仁親王が立太子された。

だが、元弘3年1333年に後醍醐天皇側の反撃によって鎌倉幕府が滅亡すると、
後醍醐天皇によって光厳天皇と皇太子・康仁親王の否認(廃位、廃太子)が宣言された。

その後、中務卿に任ぜられたものの、
大叔父・後醍醐天皇との対立は続き、
足利尊氏によって持明院統の光明天皇が即位すると、これを支持した。


康仁親王については、南朝方荘園の入野(静岡県浜松市)に下向し龍雲寺を興し、そこに落ち着いたという伝承が存在し、
親王の屋敷跡・墓所・真影とされるものが寺内に伝存している。

ただ、親王が京都付近で没したことは『園太暦』に記されているので、伝承には疑問も残るが、
龍雲寺創建後に騒乱の落ち着いた後に京都に戻ったとも考えられる。

                       いいですね!


龍雲寺古文書では康仁親王は次男を出家させ京都相国寺を創建した普明国師の元で修行をさせる。
親王は当時南朝荘園だった入野に下向し御館を建立、四百余石を所領し、さらに御館横に祈祷所を建立し開基となる。

この時、普明国師を勧請開山、次男(明庵察公)を実質初代住職として迎える。

康仁親王は正平10年に36歳で亡くなる。

龍雲寺境内地には御墳墓五輪塔が残っている。

康仁親王が京都で没した事が事実であれば開山後京都へ戻り没し、
遺骨の一部か全てかを龍雲寺に運んだと考えられる。


その後、木寺宮家は静覚入道親王まで続くが、その後の赤津中務少輔に至までの二代の方が不明である。


赤津中務少輔の次男(弟説あり)円堂瑞椿は龍雲寺住持についている。



なるほどね
これでNHK大河の龍雲丸の生い立ちなどが納得出来ました。


                       昔の人は翻弄されたんですねぇ。泣
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月02日 06時15分13秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101692.html
長上郡の服部氏族CXXY:126:現場100回-7
をご用意致しました。

キリの良いところでどうぞ。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月02日 06時33分34秒 ) パスワード

昨日「鶴瓶の家族に乾杯」を見ました。
戸田恵梨香と甲賀というか信楽に行く番組でした。


甲賀忍者宅に行くということで鶴瓶が油日神社さんからの紹介で大原家に行ったのですが
ご主人は亡くなってて
奥様が御在宅だったけれどお嫁にいらっしゃった方なので「分からない」とおっしゃってました。

でも  甲賀忍者  <  甲賀武士  <  甲賀古士  のお家だそうで
甲賀古士の家として室町時代から続くお家だそうです。


室町時代からということは足利将軍家のゴタゴタに参加した家なんでしょうね。


関西と申しますか畿内と申しますか
あのあたりは我々ヨソモノとは違う時が流れているのでしょうね。


ということで甲賀の服部城について:
以下無断コピペ2点

http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/koukahattori.htm

所在地: 滋賀県甲賀市甲南町新治字中出
遺 構: 曲輪、土塁、空堀
形 式: 丘城 築城者: 服部氏 築城年代: 室町時代


服部城は、新宮神社の背後の丘陵に築かれている。 
丘陵山一帯は新興住宅地となっているが、
その北西隅にある小高い丘(もっとも一見雑木林と竹藪)が城跡。

周囲を土塁と空堀で取り囲んだ方形単郭の居館形式の縄張りだ。 

空堀と土塁などの遺構は良く残ってるが、
雑木と竹に阻まれ遺構確認は結構手こずった。

城から南東約200mの所に新宮城と新宮支城があり、共に服部氏築城の城だ。
服部城と新宮2城での防衛を図ったと考えられる。


新宮城は、室町時代に服部氏によって築かれた。 
服部氏は、甲賀郡中惣を組織した甲賀五十三家の一つ、
荘内三家に数えられた有力土豪であった。 


伊賀服部氏とも一族になり、服部一族本貫の地でもある。


          室町時代、ということは  古士  ということでしょうね。




鉄 道: JR草津線甲南駅〜徒歩約20分
 車 : 新名神甲南IC〜県道132号線
駐車場: なし。



ひとくち MEMO
甲賀・伊賀の服部氏一族本貫の地。




http://www.eonet.ne.jp/~mori-pat/castle-hattori.html
服部城
所 在 地  滋賀県甲賀市甲南町新治 別 名  
遺 構  曲輪 土塁 空堀 形 式  平山城
築 城 者  服部氏 築 城 年  16世紀後半
歴 史 服部城は甲賀五十三家の一つ服部氏により築城されたとされるが、詳細は不明。
伊賀武士の服部半蔵の本貫の地ともいわれる。
歴 代 城 主  服部氏


<アクセス>
服部城跡は、新名神高速道路の「甲南PA上り」の北東約0.7km。新治集落内にある。「甲南PA上り」の北側の県道337号線の「新治口」信号交差点を北上し、二つ目の交差点を右(東)に入る。次の三差路を左(北)に折れ、次の三差路を右(東)に曲がる。突き当りに高台へ上る小道があるので、この道を上ると城跡。駐車場はないので、集落外の道端に停める。(2016.02.11)



なんとなく分かってたけど  ヤッパリね  という感触。

母と母の従姉妹が伊勢伊賀と近江甲賀の「丸に並び矢紋」で繋がってることから
アヤシイとは思ってた。

昔伊賀と甲賀は  繋がってた  1つの国だった  と聞いてたから  ふぅ〜ん  と思ってた。


まさか半蔵さんで繋がるとは100%思ってなかった。
あの番組の中で忍者の秘伝の本 万川集海  の写本が映ってて
(おっ!西湯舟の藤林さんと近かったのね。当たり前かぁ〜)
と思った。


こうして「古士」という言葉が出て来ると
尾張の服部一族が足利将軍家に仕えてた
というハナシが突然腑に落ちた。

    尾張で管領斯波氏に仕えてたのは知ってたけど
    京の都にもみんなちゃんと留学研修してたのか。


我が家が留学とか研修とかやって来たのはムカシっからの家訓だったのか
と笑った。

[52]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月02日 06時46分35秒 ) パスワード

で、上記の大原さんですが

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E5%B7%9D%E9%9B%86%E6%B5%B7
ここに出てますね。

万川集海(まんせんしゅうかい、ばんせんしゅうかい)

延宝4年(1676年)に伊賀国、郷士で藤林長門守の子孫である藤林左武次保武(保義)が著した忍術書である。     

                        通字が「保」ですね。

都合上から「万川集海」とも表記されるが、古書では旧字の萬を用いた『萬川集海』が外題である。


延宝4年(1676年)丙辰 仲夏5月に藤林保義による序があり、そこに書名は「細い川もたくさん集めれば海になる」という意味でつけられ、すべての忍術の流儀をまとめ上げたものである。

戦乱が落ち着いた徳川時代に大成した忍術技術書で、甲賀・伊賀の各流派を超えて一子相伝とされた忍びの技術をまとめたことから、写本や類本が各流派に跨り残った。



写本は大原勝井家本などがある。
                       ココ!

また、甲賀の大原数馬・上野八左衛門・隠岐守一郎らが寛政元年(1789年)4月に幕府の寺社奉行(松平輝延)を通じて江戸幕府に献上した内閣文庫本が有名である。

                       ココにも大原さん。

備考
巻第十三隠忍三に記される身を隠す咒(じゅ)に「隠形之大事」があり、
その横にサンスクリットがあるが、
サンスクリットを熟知している人物が書いたとは思えない書であり、
忍者が修験道に影響を受けつつも確実に理解していたとはいえなかったことがわかる[2]。

                       そんな悪口言わんといて。
                       そもそも日本人は外国語がさっぱり出来ないんだよ。
                       6年間英語教育を受けても世界的な成績は5段階で「2」なんだよ。
                       アジアじゃ英語出来ないドベをタイと日本が争ってるレベルだよ。
  
                       これ、書いたヒトはサンスクリット語でなくても
                       少なくとも6年は学習したであろう英語のレベルでどれだけ英語をマスターしてる?

                       あの当時の日本で正しいサンスクリット語なんてどうやって習得した?

                       アンタの英語力はいかほどなんだ?と詰問したい。泣 







[53]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月02日 07時48分02秒 ) パスワード

「古士」という言葉を初めて知ったので検索してみました。



http://ninja-yakata.hatenablog.com/entry/2016/01/08/210000

甲賀古士その1 島原の乱 よりコピペ


「甲賀古士」とは、甲賀在住の元侍衆の農民のことである。
彼らは戦国時代、いわゆる”忍びの術”を以て諸国の武将に与し、
時に反抗したと伝える。

豊臣秀吉による甲賀武士の所領没収=甲賀ゆれ=によって、甲賀武士は没落。

ある者は郷土に残り、ある者は郷土を出て新たな仕官先を求めた。
おそらく郷土に残ったのは本家筋であり、外に出て行ったのは分家筋であろう。

郷土に残った甲賀武士たちは、次第に農民となり、
江戸時代には地元の有力百姓として存続していくことになるが、
彼らは、

@他の百姓家とは由緒が違い、ただの百姓ではないこと、
A家々に伝えているという”忍術”をもって、幕府への仕官や生活の援助を希望すること、
の2点を主張するため、自分たちを「甲賀古士」と称した。


なお甲賀古士は「甲賀五十三家」の中でも、特に「甲賀二十一家」の末裔を指す。

甲賀五十三家は、かつて鈎の陣(長享元年=1487)において佐々木六角氏に与した甲賀の地侍で、
特に戦功のあった者を甲賀二十一家とした、
といわれている。


以下略


へぇ〜
知らなかった。
[54]笠井知己さんからのコメント(2020年03月29日 17時54分52秒 ) パスワード

以前のスレで、「隠れ南朝」という言葉が出てきましたが、次の著書があることがわかりました。ご参考にして下さい。ただ残念なことに、在庫がないようです。
「隠れ南朝史 富士山麓が陰の本営だった」(著者 加茂 喜三)
[55]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年03月29日 23時01分45秒 ) パスワード

笠井知己様

 ご教示ありがとうございます。実はこの本、富士市立中央図書館の郷土史
コーナーにありまして、私は主要部分をコピーしてまいりました。
 内容的には目からうろこの落ちることがギッシリ書かれておりますが、こ
の場での論述までには至っておりません。
 私の探求のテーマの一つは、「浜松市笠井の定明寺の笠井氏と南朝関係」
でありますが、笠井氏は遡れば葛西氏、また南部氏とも関係しておるようで
ありまして、両方ともまた南朝と絡んでおります。
 笠井知己様におかれましては、当然笠井氏のルーツに興味おありのことと
推察いたしますが、もし何か笠井氏に関する何等かの情報をいただけました
ら幸いであります――
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