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 投稿番号:101686 投稿日:2019年08月23日 19時16分17秒  パスワード
 お名前:かくれ柴田
柴田勝昌のおかあさん
キーワード:柴田勝昌 母 瀧澤氏
コメントの種類 :人物  パスワード

いつも楽しく拝見しています。柴田と申します。柴田権六勝家の一応は子孫です。訳あって祖父の代に大阪に移りましたが、その前は東京にて明治中期〜昭和初めまで医業をやっておりました。その前、江戸期は小禄ですが旗本幕臣でした。我が家には享保年間に作成された系譜、古ぼけた位牌がいくつか伝わっています。系譜の初代は柴田三左衛門勝昌佐久間氏で途中幾度とミドルネーム?権四郎が登場します。諱に勝と義がよく付いています。私で13代になります。知りたいのは初代勝昌の横に小さく添え書きされた母ハ瀧澤氏のことです。ネットを漁ると勝昌の父勝重の側室とありますが、それ以上はわかりません。身分が低かったため小さく添え書きされていたのでしょうか。実のところを知りたいです(名誉を晴らすことになれば幸い)。この瀧澤氏について何かご存知ないでしょうか?紋は丸に一羽の雁金です(柴田勝家は二羽)。一羽はいつの時代かに逃げてしまいました(笑)。よろしくお願いいたします。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月23日 23時00分34秒 ) パスワード

かくれ柴田さま


まったく分かりませんが
母の名前に家の名が書かれているということは
出自が分かっている

    つまり  下女ではない  ということだと思います。


瀧澤氏については分かりませんが
室町時代に羽後国由利12党の1つに瀧澤氏があるそうです。

そして
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%80%A7%E6%BE%A4 には

・現長野県である信濃国小県郡滝沢村が起源(ルーツ)である、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)。
・桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、
・現秋田県南部である羽後由利氏など様々な流派がある。



>身分が低かったため小さく添え書きされていたのでしょうか。

これはないでしょ。


昔は家の存続のために側室はいたし
正妻が来る前に愛していた女性かも知れないし
お産後に亡くなったのかも知れないし



>紋は丸に一羽の雁金

これについても分かりませんが
おそらく1羽にはご退場願ったのかも。

     分家だったから?
     秀吉に遠慮して2羽の雁金ではなく1羽にした?←恐らくコッチ?


柴田家も佐久間家も尾張の名家で織田家のもとからの重臣の家ですから
尾張徳川家の蓬左文庫に情報があるかも知れないですね。
でも
秀吉に破棄されているのかも。

愛知県図書館や福井県図書館に何か記録があると良いですね。
是非お出かけください。


お盆という良い時期ですからご先祖さまがお守りくださっていますように。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月23日 23時04分06秒 ) パスワード

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sibata.html

柴田家は清和源氏で斯波氏の一族で

それで越前に行ったのか。
へぇ〜

今からジムです。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月24日 04時06分16秒 ) パスワード

http://okhome.fc2web.com/siba/main/sibasi.html
このサイトが分かり易かったです。


                        管理人さん
                        感謝です。


斯波氏とは

 清和源氏足利氏一族の名族で、室町幕府の管領家(三管領筆頭)。
 代々の当主が尾張守、また兵衛督、兵衛佐に任ぜられたので、尾張家とも兵衛の唐名をとって武衛(ぶえい)家とも呼ばれる。

 祖は足利泰氏(やすうじ)の長男足利家氏(いえうじ )、母は名越流北条氏である。後、泰氏が北条得宗家から室を娶ったため、足利氏の家督は得宗家の室が生んだ弟頼氏(よりうじ)が継ぐが、その後幼少の足利氏当主が続いたため、家氏は足利一門を代表する立場に置かれ、関東御家人として活躍し、名族としての基礎を築いた。

 家氏は陸奥国斯波郡を領有したことにより、この系統は、後に斯波氏を称するにいたるが、それは室町期に入ってからのことで、南北朝の争乱時、室町期初期は、まだ足利の姓のままであった。

 家氏の曾孫が高経(たかつね)で、足利尊氏と同い年で南北朝期に活躍。 越前、若狭などの守護となり、新田義貞の討伐などで功績をあげた 。足利一族の中でも特別家格が高く、「第一の家格」とも「将軍と同格」とも言われていた。尊氏死後、権力を斯波一族に集中し幕政を管領した。

 なお高経の弟家兼(いえかね)は奥州探題となり大崎氏を、また家兼の次子は羽州探題として最上氏を称した。

 高経の子義将(よしまさ、よしゆきともいう)は幕府の重鎮として前後三回管領を務め 、細川頼之とともに 将軍義満を助けて幕府の基礎を確立した。

 斯波を名乗るのはこの義将以降からで、尾張、遠江、信濃、若狭、越前、越中、能登、佐渡の8国の守護を歴任し、斯波氏の最盛期を創出した。

 このころから幕府の管領は斯波、細川、畠山の三家から選ばれるようになり、三管領と称し、斯波氏はその筆頭となった。

 その子義重(よししげ、後に義教を名乗る)も,応永の乱に大内氏を討った功により尾張、遠江の守護職を与えられたのをはじめ 、管領としても大いに勢力をふるい、やがて斯波氏の領国は越前、尾張、遠江の三国として定着した。

 その後、斯波氏の正統が絶えると、庶流である大野の斯波持種の子義敏(よしとし)がはいって宗家を相続するが、義敏は実力者の越前守護代甲斐氏をはじめ重臣層と対立した ことや、幕府の思惑もあり、傍系から渋川義鏡の子義廉(よしかど)が家督を継ぐに至り 、斯波氏は二流に分かれ家督争いを展開する。これが、畠山氏の家督争い、将軍後継をめぐる争いを巻き込んで応仁の乱へと発展し、越前を家臣の朝倉氏に、遠江を今川氏に奪われ、ようやく尾張守護職のみ保持したが衰退は免れなかった。

 最後の当主となった義銀(よしかね)は名前だけの尾張守護で、織田信長に推戴されたが (「信長公記」に若武衛様、武衛様として登場する)、後、追放され滅亡した。



これで柴田家が尾張にいたことが分かりますね。

で、瀧澤家ですが

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yuri_k.html

こちらは由利党瀧澤氏の紹介です。


そういえば
瀧澤姓で超有名人というと馬琴でしたね。




http://okhome.fc2web.com/siba/main/kakaku.html
斯波氏の家格という欄に


>奥州斯波郡は足利氏の支配するところとなっていました。
>斯波氏の祖となる足利家氏は関東御家人として幕府に出仕するともに、
>長らく本家の後見役、足利一門の代表を努め、源氏ゆかりの斯波郡を領有したこともあり、
>足利尾張家として一族のなかでも特別な家格を得ることになるわけです。
>足利尾張家の名は、家氏が文永二年尾張守に任じられたことに由来します。

と、出ていたので

斯波氏系柴田氏と羽後国の由利氏系瀧澤氏との縁は前々からあったのかな?と。
どっちにしろ
瀧澤氏は信濃にもあるそうですし
どっちにしろ斯波氏系とは縁があったのでしょうね。


天正3年9月、越前平定がなると北陸支配を任され、北庄城に入った。
     勝家公が越前北ノ庄に移った理由は分かりませんが
ヨメのお市の方のご先祖の織田家は越前の出ですし


柴田家も瀧澤家も秀吉には嫌な目に遭ってるのも共通するし
ご縁があったのは当然でしょうね。



http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yuri_k.html

 関ヶ原の合戦後、由利五人衆のなかでは、仁賀保氏と内越氏が幕臣として存続することを許された。

そして、滝沢氏は最上氏の家臣として存続した。
「滝沢氏家系」には、滝沢刑部少輔政道が慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて最上義光に属して軍功をあげ、
翌年最上氏の旗下となり、
家老職をつとめ同八年に由利地方が最上氏領化する過程で滝沢に封ぜられ前郷に築城したとある。


また『最上義光分限帳』には、滝沢兵庫として「高壱万石、二十騎、鉄砲五十挺、弓十張、鑓百二十本」と記してある。


滝沢氏は最上氏の家臣として一万石を領したとはいえ、陪臣の身分に降下したことでもあり、
関ヶ原の合戦は滝沢氏にとってマイナスに作用したといえる。



柴田氏は越後の柴田から柴田氏を称したようですね。
柴田城跡についていろいろネットに出てますね。

 

新訂寛政重修諸家譜 6
- Page 50 -
https://books.google.com/books?id=1VMlLyxvxX0C&pg=RA5-PA50&lpg=RA5-PA50&dq=%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E3%80%80%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%9F%8E%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=I6O4dmG61K&sig=ACfU3U00O4SWKfNfNPTUlRj-HVpfiON5tw&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwjXh-mU1ZnkAhUWrZ4KHcMaDowQ6AEwBnoECAcQAQ#v=onepage&q=%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E3%80%80%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%9F%8E%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


(?和源氏支流(?政重謹家譜卷第三百七士一?和源氏支流柴田今の呈譜に,始祖修理大夫義勝,斯汲の支おにして越後國柴田城に住せしより家號とすといふ。權六修理亮 ...

ここでは 家紋は「2雁金紋」になってるから  この柴田家あらの分家ということで「1雁金紋」  になったのかもですね。
[4]かくれ柴田さんからのコメント(2019年08月24日 12時47分42秒 ) パスワード

皆様いろいろ教えていただきありがとうございます。
新訂寛政重修諸家譜と我が家の系譜はほぼ同じです!ちゃんと、勝昌は荘五郎とかかれています!(荘が異体字ですが)また、勝寿、勝継とあるので傍流ですね。。それで一羽なんですね。
本題ですが、勝重が領地で見つけた女性かもしれませんね。あと調べたら、馬琴の瀧澤氏は由利氏みたいです。江戸に出て旗本松平某の用人(家老?)をやってたとあります。関係あるかもしれません
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月24日 14時28分52秒 ) パスワード

瀧澤氏については秋田あたりの県立図書館でお調べになってはいかがでしょう?
もし関東にご在住でしたら日本最強の国会図書館があります。



最上氏の隆盛と没落に巻き添えを喰ったであろう瀧澤氏についてちょっとは参考になるかも
重ね重ね不運でしたね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%8A%E6%B0%8F



もう1度家譜に戻ります:

https://books.google.com/books?id=1VMlLyxvxX0C&pg=RA5-PA50&lpg=RA5-PA50&dq=%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E3%80%80%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%9F%8E%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=I6O4dmG61K&sig=ACfU3U00O4SWKfNfNPTUlRj-HVpfiON5tw&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwjXh-mU1ZnkAhUWrZ4KHcMaDowQ6AEwBnoECAcQAQ#v=onepage&q=%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E3%80%80%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%9F%8E%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


柴田勝峰さんの箇所をお読みになってください。
先妻さんは津軽土佐守信明の養女です。先妻さんのご実家は本当はどのお家だったんでしょうね?


     この関係でも柴田一族に羽後国の由利党の瀧澤氏の娘さんがお嫁に来たご縁があったのかも?
     
          柴田家 ⇔ 斯波家  +  津軽家  +  瀧澤家
          何重にも血で繋がってるのかも。 


勝重さんの3男=勝平さん  と   5男=勝昌さんの母上は瀧澤氏の娘。たぶんこの女性は側室というより後妻さんじゃないかな?

で、5男さん=勝昌さん=があなたのご先祖さま、かな?

だから雁金が1羽になったのはあなたの家が「5男」さんの「分家」だから、かな?

      
と推理してみました。
間違ってるかも、ごめんなさい。
系図がどこに繋がってるのか謎々みたいでかなり迷走したかも。

ホント、間違ってたごめんなさい。


勝家公のところから読んでたら
ワタクシの母方先祖の一族の名もあったり
わたくし自身が結婚したかも知れない人の家の名も出てたりして
日本だなと思いました。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月24日 14時40分33秒 ) パスワード

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%8A%E6%B0%8F

最上氏の起源である斯波氏は、本来足利宗家となるはずだったものの北条氏の介入によって廃嫡され分家した足利家氏を祖とする。

南北朝時代の延文期(1356年 - 1360年)に斯波氏傍流の奥州管領斯波家兼の子、
斯波兼頼が出羽国按察使と称して出羽国最上郡山形(現・山形県山形市)に入部し、
山形城を築城し本拠とする。

そして、室町幕府より屋形号を許されて最上屋形と称したことを機に所領の最上郡に因んで最上氏を称することとなった。

なお、山形を領したことから、山形氏と表記されることがある(太田亮『姓氏家系大辞典』)。


お宅さまは結局は「斯波氏」なんでしょうね。

                       尾張管領斯波氏が越前の織田家を尾張に入れなかったら、勝家公はあのような運命には遭わなかったのかも。
                       わたくしの父方も織田家にやられてます。

                       あなたとわたくしがココで出会ったのも奇しき縁なのかもですね。
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