[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月18日 07時38分14秒 ) | パスワード |
Chap 2 源平の巻
2.4 不死鳥!伊賀平氏
>信太義広は伊賀国山田郡千度山の金峰神社に潜伏して時節を待っていたらしい。
>然しそれを知った服部平六正綱(服部時貞?元は平家の郎党?)が何とか手柄をたてて鎌倉殿の目に止まり、没収された父祖伝来の本領を安緒されんものと、信太義広の隙を狙った。
>この春、頼朝から伊賀守護に任ぜられた大内惟義、伊勢守護・山内首藤らの援兵を受け、二百余騎で千度山を襲った。
>>>>服部平六正綱(服部時貞?元は平家の郎党?)
この人、誰?
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月18日 07時49分44秒 ) | パスワード |
>それを知った平田家継らは平六の裏切りに大いに怒り
>六月十八日、大内惟義の守護館を襲い、
>留守を守る郎党八十余人を討取って高らかに凱歌を奏すると壬生野平田城で軍議を開いた。
>伊賀一円を征したものの今後どうするかで協議の末、進ノ次郎能盛の意見を容れ
>「伊賀で戦っては百姓達の難儀、むしろ近江に進み鈴鹿山を背後にして戦い、敵弱くば都を望み、戦い利なくば山に籠りて長期戦を展開せん。」
>と決め三百余騎を率いて柘植の与野から甲賀に進んだ。
>黒田庄の下司職紀七景時を先峰とする平家勢は、この一戦に一族の運命をかけて必死の奮戦を見せ、その勢に源氏方は浮足立ち敗色に覆われるのを見た総大将の佐々木秀義は「平家はもはや運つきて西海に落ちたり、その僅かな残党共でどうして武運にめぐまれたる源氏を倒せよう、たゞひたすらに追い崩せ!」と先陣に立った。
黒田庄の下司職紀七景時は名張の人かも
>それを見た進ノ次郎能盛は得意の強弓を引絞って狙い射ち、たまらず落馬する処を追いかけて首を取った。
この能盛はどなた?
進ノ というのはどこかで見た記憶があるような?
>けれども源氏の郎党達は主の仇をこのまま見逃しては武夫?武勇?の面目が立たぬと反って奮い立ち、その凄しい反撃に小勢の平家は次第に押され始める。
何と云っても伊賀平氏の主力は平内左衛門家長、筑前守貞能、弥兵衛宗清らと共に西海に在り、伊賀に残っていたのは老若の兵が多かった為にひとたび崩れ立つと案外にもろく、総大将家継以下主だった部将八十余人が次々に討死して総崩れとなり鈴鹿山中に散り散りとなってしまった。
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月18日 08時18分54秒 ) | パスワード |
>乱軍の中で辛うじて落ち延び洛中に潜伏して再挙を計っていた関信兼の子・兼時ら三人は義経配下の検非違使庁の兵に捕えられて無念の最後をとげる。
>伊勢の関城に落ちた信兼は頼みとする息子達が悉く先立ったのを知るや、その死場所を伊勢滝野城に求めて力戦した。
>元暦元年八月半ば、伊勢守護から援軍を求められた義経は、精兵数百を率いて伊勢に向ったが、
>その軍中には恐らく弁慶や伊勢ノ三郎ら名ある郎党もすべて勇姿を見せていたに違いない。
>滝野城(現在の飯南郡粥見町有馬野)に籠った平家勢は今日が最後の戦いと覚悟を決め、
>折から猛暑の最中だけに鎧を捨てて素裸となり必死の坑戦を続けたが衆寡敵せず、
>主将信兼以下その大半が討死して平家相伝の郎党としての名をかざった。
泣けるな。
今の松阪なんだって。
http://iinan.net/id-2/id-5/
滝野城跡
サイト主さま
感謝です。
以下コピペ:
2017年5月
有間野には源平合戦の記憶がある。元暦元年(1184年)平信兼が一族郎党と籠城し、義経勢と戦ったのである。『源平盛衰記』には次のように記載されている。
同十一日九郎判官義経ハ和泉守平信兼カ伊勢國瀧野ト云所ニ城郭ヲ構テ
西海ノ平家ニ同意スト聞テ軍兵ヲ指遣シテ是ヲ責。
信兼ニ相従郎等百余人。
城内ニ籠テ皆甲冑ヲ脱棄テ
大肩脱ニ成楯ノ面ニ進出テ
散々ニ射ケレハ義経カ郎等多被討捕ケリ。
矢種尽ニケレハ城ニ火ヲ放チ信兼已下自害シテ炎ノ中ニ焼死ケリ。
誠ニ由々敷ソ見エシ。
負薏苡之讒遂ニ亡ケルコソ無慙ナレ。
(第四十一 頼朝叙正四位下付崇徳院遷宮事)
平信兼らは籠城して交戦するも、矢が尽きて自害したという。
信兼が籠もった城は川俣川(櫛田川)南の高城と称す山頂にあったと『勢陽五鈴遺響』は書き記す。
地元民には「たかんじょ」と呼び親しまれ、昔から山頂に城があったと言い伝えられている。
現在は金刀比羅宮が祀られており、城跡らしい痕跡はない。
『飯南町史』には山頂近くに土塁や壕の跡が残っていると記載されているが、素人目には判別することが難しい。
美杉村の郷土史家であった小林孚も『多芸国司縁の城址』の中で、
「川面より約八十米の高さで、孤立した峰である。
頂上近くの二十米位は特に急峻である。
円錐状孤峰なので、壕・土居等の遺構は見当たらない。」
と書き残している。
『飯南郡史』には記載がないので、昭和の遺跡調査の時に判定されたのだと思われるが、
文化財調査報告書『三重の中世城館』では土塁、壕ともに触れられておらず、
山腹の平坦地の存在だけが報告されている。
この平坦地は現在も確認できる。
また『勢陽五鈴遺響』には山頂に秋葉山権現を祀ると記されており、
著者の安岡親毅(1758-1828)が現地検分した時には現在の金刀比羅宮ではなく
秋葉山権現が祀られていたことが判る。
神原地区に住む古老曰く、
山麓に住む有力者の娘さんが、琴平でいただいてきたお札をお祀りたいということで、
昵懇の仲であった有上地区の有力者と共同で金刀比羅宮を創祀したのだそうだ。
今から100年ほど前の話だということなので、大正期前後のことであろう。
なぜ神原の単独管理ではなく、有上との共同管理なのかがこれで解った。
しかし有上にはこの話しは残されていないようで、有上の古老たちも金刀比羅宮創祀の経緯は知らないという。
山頂の小祠前には献燈と刻まれた石柱が納められており、昭和七年の文字が見られる。
伊勢平氏の流れをくむ関氏家系といわれる平信兼は平安時代末期の武将で、
鈴鹿郡を本貫地(所領)としていた。
若い頃から京都に出て、北面武士となって活躍していたという。
十二世紀初頭、都の政については妥協を知らない性格から「悪左府(あくさふ)」と異名された藤原頼長に対して、義憤の痛棒を与えるほどの武勇優れた武将であった。
『百練抄』には次のように記録されている。
(久寿)二年二月一日。左大臣於途中為左衛門尉信兼被射危。咎無禮之間及闘亂也。(第七 後白河天皇)
信兼は頼長の行列と知りつつも矢を射かけて、列中の供の者らが無礼者と咎めているうちに乱闘となったという。
翌年の保元元年(1156年)に起きた保元の乱に際しては、惣領平清盛とともに後白河天皇に味方して活躍した。
『保元物語』には故院(鳥羽法皇)の遺誡として美福門院(近衛天皇の母)の元に届いた文の中に、
万一の場合に召集すべき武将の名前の中に信兼の名が連なっている。
此兵乱の出来たらんずる事をば、かねてしろしめしけるにや、内裏へめさるべき武士の交名をしるしをかせ給へるなり。
(源)義朝・(足利)義康・(源)頼政・(源)季実・(源)重成・(平)維繁・(平)実俊・(源)資経・(平)信兼・(土岐)光信等なり。
(第十章 官軍召し集めらるる事)
その後、戦功によって正五位下に累進し、検非違使、和泉守、河内守、出羽守などに任命された。
それぞれいつの時期に任ぜられたのかは不明だが、
治承・寿永の乱(治承四年:1180年〜元暦二年:1185年)では養和元年(1181年)に伊勢志摩に乱入した熊野山の僧兵と二見浦で戦い撃退したという記録がある。
『官職要解』によれば、和泉国は「下国」にあたり、和泉守の官位相当は従六位下、出羽国は「上国」にあたり、出羽守の官位相当は従五位下、河内国は「大国」にあたり、河内守の官位相当は従五位上になる。
↑
こういう部分はさっぱり理解出来ないね
↓
したがって順当に昇進すれば検非違使→左衛門尉→和泉守→出羽守→河内守と叙任されると思われるが、
『吾妻鏡』や『百練抄』の記述から信兼の最後の官職は出羽守であることが判り、
和泉守→河内守→出羽守という任官であったと推測される。
へぇ〜
廿一日、戊辰、熊野山悪僧等、去五日以後亂入伊勢志摩両國、合戦及度々、至于十九日、浦七箇所皆悉追補民屋、平家々人、爲彼或捨害之地逃亡、或伏誅又被疵之間、彌乗勝、今日燒拂二見浦人家、攻到子旧瀬河邊之處、平氏一族關出羽守信兼、相具姪伊藤次已下軍兵、相逢于船江邊防戦、悪僧張本戒光、中信兼之箭、仍衆徒引退于二見浦
(『吾妻鏡』巻二 治承五年辛丑正月)
しかしながら同族の平康弘の断罪を命じられて無情を感じ、
さらに清盛ら一門の権勢欲に武人としての誇りが許さず、
一人伊勢所領に帰っていったという。
へぇ〜
そうなの?
治承四年(1180年)、頼朝が挙兵し平氏追討を進める中でもっとも危惧したのは、平氏の本拠である伊賀・伊勢の動向であった。
同年八月には信兼の末子である兼隆(山木判官)を事に座して流された伊豆の山木郷にて殺害し、
元暦元年(1184年)三月にはどこよりも早く伊賀の守護に大内惟義を任じ、
伊勢へは大井兵衛次郎実春を差し向け平氏残党の追補を命じた。
一方、六月に入ると信兼は同士に呼びかけ、
三人の子息(兼衡、信衡、兼時)をはじめ、
二百人とも三百人ともいわれる兵力を伊賀の平田城にて挙兵した。
わたしののおじじ様のところだね
七月七日辰の刻(午前八時頃)に平家継を大将軍として応戦し、信兼は鈴鹿山を切り塞いで応戦したという。
八日甲午晴、傳聞、伊賀伊勢國人等謀叛了伝々、伊賀國者、大内冠者、知行云々、
仍下遣郎従等、令居住國中、而昨日辰刻、家繼法師爲大将軍、大内郎従等悉伐取了、
又伊勢國信兼已下切塞鈴鹿山、同謀叛了云々
(『玉葉』元暦元年秋冬 七月)
大内勢を敗走させられたことに驚いた頼朝は大騒動になり、
直ちに鎌倉から軍勢が差し向けられ
伊賀・伊勢党を撃破した。
この戦いで三人の子息は信兼の父・忠清と姿を消したという。
信兼の父が忠清みたいな表記は正しくないと思うが?
忠清は藤原(伊藤)忠清でしょ?
景清の父、なら分かるけど
保留
八月十一日、義経は信兼追討の軍を催すとともに、後鳥羽天皇に奏上して信兼の官位(正五位下出羽守)を剥奪し、滝野城にて信兼を自刃に追いやった。
前夜には信兼の三人の子息が京都に潜入しているのを自らの宿舎へ招き寄せ殺害している。
廿六日壬午、源廷尉飛脚參者、去十日、招信兼子息左衛門尉兼衡、次郎信衡、三郎兼時等於宿盧、誅戮之、同十一日、信兼被下解官宣旨云々
(『吾妻鏡』巻三 元暦元年八月)
八月十日丙寅。大嘗會國郡卜定也。今夜。出羽守信兼并男左衛門尉兼衡被下解官宣旨。件信兼子息三人。於新廷尉義経宿所自害云々。
(『百練抄』第十 後鳥羽院)
鈴鹿郡を所領していた平信兼が平田城で挙兵し、滝野城で没する。
なぜ滝野城だったのだろうか。
信兼と滝野城との関係は明らかではないが、
叔父が多気郡庄田に住んでいたことや、
信兼の末子兼隆に仕えたといわれる岡小四郎が、戦功によって清盛から飯高郡谷野の地を与えられ、
そこに館を築き居住していたといわれていることから、
川股谷とは近しい関係にあったのかもしれない。
小四郎は滝野城で自害し、
妻の「くま」は嘆きのあまり谷野の奥地にある池に身投げした。
里人はその池を「くまの池」と呼び、彼女の霊を祀り、小四郎の館跡には小四郎神社が建てられた。
「くまの池」は現在「熊ヶ池」と称され現存する。
滝野城は本当に山の上に建っていたのだろうか?
『飯?町郷土誌』には花岡神社の由緒記の中に「鷹武山の城」という文字が書かれていることを記載している。
(前略)後鳥羽上皇の御宇、元暦元年八月十一日、当社の南、鷹武山の頂に、和泉守信兼、城郭を構て、西海の平家の一門に一味の聞え有之によりて、九郎判官・源義経臣、伊勢三郎義盛、勢を催促して、則ち、当社の辺に陣を構へ、火矢を以て攻る事、危急なして、終に鷹武山の城落たりと古記に見えたり。
(『花岡社日天八王子略記』安政三年)
古記とは何を指しているかは不明だが、概ね『源平盛衰記』の記述を踏襲しているといえる。
さらに「鷹武山の頂」「当社の辺に陣を構へ」「火矢を以て攻る」など『勢陽雑記』や『勢陽五鈴遺響』には出てこない
現地ならではの具体的な記述が興味深い。
『勢陽雑記』は江戸時代初期、『勢陽五鈴遺響』は江戸時代末期の天保四年(1833年)に完成しているため、
安政三年(1856年)に書かれた『花岡社日天八王子略記』は両誌を参照していたと推測される。
鷹武山は「たかむやま」と読み、現在ではこのように呼ぶ人を知らない。
宮前では「こんぴらさん」、有間野では「たかんじょ」と呼び親しまれており、「たかんじょ」は「高城」という文字を当てている。
高城山は標高286mとそれほど高い山ではないが、急峻なため自然と一歩がゆっくりとなる。
山頂への登り道は麓の八幡宮奥から南西方向に続いており、このルート以外では登頂は困難である。
おそらく山の地形は信兼の時代からほとんど変わっていないと考えられるため、当時も登頂するには現在のルートから登ったのではないかと思われる。
山頂近くになると勾配もきつくなり登り道以外はとても上がれそうにない。
山頂に着くと30m×10mほどの平坦地で金刀比羅宮は登り道の奥である西の端に鎮座する。
『源平盛衰記』によれば、100人ほどが籠城し源氏に向けて矢を射かけたという。
この狭い山頂で100人も籠城できたのだろうか?
少し疑念が湧いてきた。
周囲は急峻な崖となっており、登頂するにはたった一本の山道を登るしかない。
そこへ源氏の兵士が大挙しても一人ずつしか進めず、弓を射るよりも大きな石でも落とした方が効果的だと考えられる。
花岡神社由緒記には源氏は火矢を放ったとある。
本当だろうか?
高城山を詳しく検分しようと思ったのは、
飯南町の学芸員統括監をされていたW氏の「滝野城は山頂ではなく、浄源寺あたりにあったかもしれない」という言葉であった。
古代の城は近世城郭のような天守閣を持たず、邸宅のような佇まいであったと考えられている。
そのため山頂にあったのは見張り台のような櫓で、城と呼ばれる本拠は麓にあったと考えることも可能である。
美杉町に遺っている北畠氏の館と多気城(霧山城)がまさにそのような関係にあるといえる。
『源平盛衰記』には「城郭を構えて」と記述されているが、古代の「城郭」とはどういったものか、『源平合戦の虚像を剥ぐ』では詳しく紹介されている。
大将軍には頭中将重衡、中宮亮道盛、都合其勢四万餘騎、南都へ發向す。
南都にも老少きらはず七千餘人、甲の緒をしめ、奈良坂、般若寺二ヶ所の路を掘截(ほりきっ)て舁盾(かいたて)かき、逆木ひいて待かけたり。
平家四万餘騎を二手にわかって、奈良坂、般若寺二ヶ所の城郭に押寄て、鬨をどつとぞ作りける。
(『平家物語』巻第五 奈良炎上)
南都大衆が「路を掘りきり、掻盾をかき、逆茂木を引いて待ちかけた」のに対し、平氏勢は二ヶ所の「城郭」を攻撃したと記しており、
ここでいう「城郭」が、堀・掻盾(垣盾)・逆茂木などの設備を備えていたことが判る。
掻盾とは、盾を横一列に垣根のように並べたもので、盾一枚の大きさは長さ140センチ程度、幅45センチ程度で二枚剥ぎのものが多い。
(『源平合戦の虚像を剥ぐ』)
浄源寺が建つ神原地区は櫛田川と高城山に挟まれたわずかな平地で、天然の要害といえよう。
この場所であれば、100人でも200人でも籠城でき、長期戦に備えて備蓄も可能である。
城内に籠もった信兼勢は甲冑を脱ぎ肩脱ぎして、盾の前に出て矢を射かけたのである。
書き残された文面を素直に読み取ると、山頂よりも麓での籠城と考えた方が合理的に捉えることができる。
W氏からは、謎多い歴史を解明するには、合理的な考え方を念頭におくことを随分教わったような気がする。
平氏も源氏も矢を放ちあったのは、目前に川俣川(櫛田川)が流れていたからではなかろうか。
Googleマップの航空写真を見ながら想像をたくましくすると、ますます滝野城麓築城説が頭から離れない。
真実は一つしかないが、
そこへたどり着くには気の遠くなるような検証を重ねることになるのだろうか。
浄源寺の南、高城山頂のすぐ西側に「不還道」と呼ばれる場所がある。
有上の古老たちは小さい頃からそう呼んでいたというが、現場へ行ってみるとその場所は意外にも曖昧であった。
また、金刀比羅宮の創祀の経緯を話してくれた古老は、初めて耳にしたという。
地元の神原では知られず、離れた有間野住民のうちで知られていたとは不思議なこともあるものだ。
現在、不還道への道は昭和32年に改修整備され、車で間近に見ることができる。
整備以前は人が歩くのもやっとの荒れ果てた状態だったようで、周辺から奥地にかけて田畑を持っている人たちには待望の改修整備であったという。
戦後しばらく経ってもこのような環境であった高城山なのだから、源平合戦時は推して知るべしである。
不還道とは本当に山頂に築かれた滝野城を目指して、源氏の兵が登った場所なのであろうか。
樹木が立ち並ぶが、櫛田川は意外と低い位置にあり、急峻な崖が行く手を阻んでいる。
現在の我々ですらこんな厳しい傾斜を登るくらいなら、もう少し下流の高低差の低い箇所を渡河したいと感じる。
その辺りこそ、源平の弓が飛び交う最前線だったのではなかろうか。
証拠らしいものは何も残っていないが、800年以上も伝承が語り継がれる滝野城跡はそんな魅力あるところである。
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月18日 14時10分03秒 ) | パスワード |
レス<2>の進ノ次郎能盛の「進」という名字はけっこういらっしゃるんですねぇ。
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E9%80%B2
【名字】進
【読み】しん,すすむ
【全国順位】 3,199位
【全国人数】 およそ4,100人
現鳥取県西部である伯耆国会見郡の有名氏族、紀氏(紀朝臣出が多い。竹内宿禰を祖とする。源平藤橘につぐ大姓)。
村上天皇の皇子具平親王の子師房にはじまる源氏(村上源氏)赤松氏流、
桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。
藤原南家などにもみられる。
ということはおそらく桓武平氏系で良い?
【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る 】 |
|
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇ DB-BBS-system V1.25 Rapah. |