[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月03日 02時58分38秒 ) | パスワード |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%9B%9B%E5%AE%B6
藤原四家(ふじわらしけ)
藤原不比等の4人の息子が興した藤原氏の四つの家の総称。
近年では藤原氏四家ともいう。
藤原南家 - 藤原武智麻呂(680年 - 737年)
藤原北家 - 藤原房前(681年 - 737年)
藤原式家 - 藤原宇合(694年 - 737年)
藤原京家 - 藤原麻呂(695年 - 737年)
藤原は氏であり
家名でも苗字でもないため、
明治以前においては「藤原家」と称する公家は存在しない。
藤原四家とは
藤原家ではなく、
藤原氏の「南家」、藤原氏の「北家」、藤原氏の「式家」及び藤原氏の「京家」の総称である。
武智麻呂の館は南に有るを以て南家(なんけ)と号し、
房前公の館は北に有りて北家(ほっけ)と号す。
宇合公は式部卿を兼ねられしも式家(しきけ)といひ、
麿(麻呂)は左京大夫を兼ねられるを以て京家(きょうけ)とぞ号しけり。
式家と京家って
へぇ〜
そうなんだぁ〜
知らなかったぁ〜
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月03日 03時17分46秒 ) | パスワード |
日本史を考える上での基本のキなのに
せいぜい一夫多妻とか同母でなきゃ兄弟姉妹の結婚はOKだったあたりの配慮しか思い出せない。
同母きょうだいの悲恋話は記憶にいくつか残ってるけど ← これは多いよね
聖武天皇の母と妻が異母姉妹だったなんてねぇ。
100%脳内に定着されて来ていない。 ← 聖武天皇と光明皇后のお名前の大きさからだろうと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%9B%9B%E5%85%84%E5%BC%9F
藤原四兄弟(ふじわらしきょうだい、ふじわらよんきょうだい)
奈良時代前半の天平年間に政権を握った藤原不比等の4人の息子を指す歴史用語。
藤原四子(ふじわらしし、ふじわらよんし)などとも呼ばれる。
藤原四兄弟
藤原武智麻呂(680年 - 737年)(藤原南家開祖)
藤原房前(681年 - 737年)(藤原北家開祖)
藤原宇合(694年 - 737年)(藤原式家開祖)
藤原麻呂(695年 - 737年)(藤原京家開祖)
武智麻呂・房前・宇合は同母兄弟、
麻呂は3人の異母弟である。
なお、聖武天皇の母の藤原宮子と聖武皇后の藤原光明子はともに異母姉妹にあたる。
藤原四子政権
律令編纂や平城京遷都などに関わった不比等亡き後、四兄弟は元正天皇・聖武天皇の時代に渡り長屋王と政権の座を争ったが、長屋王の変で長屋王を追い落とした後、すでに公卿となっていた武智麻呂(大納言)・房前(参議)に加え、官人の推挙により宇合・麻呂も参議となり、9人の公卿の内四兄弟で4人を占め729年から737年までの間朝廷の政治を担った。これを藤原四子政権と呼ぶ。
四子政権時代には律令財政が確立され、天平6年(734年)に官稲混合による正税が成立し、天平8年(736年)には公田地子の京進が開始された。また、京や畿内に惣管・平城京以西の道ごとには鎮撫使、のちに節度使を設置し治安維持を強化した。対外的には遣新羅使の派遣や、東北遠征などが行われた。
四兄弟は737年の天然痘の流行により相次いで病死し、藤原四子政権は終焉を迎えた。その後四兄弟の子が若かったため、政権は光明皇后(不比等の娘)の異父兄弟で臣籍降下した橘諸兄(葛城王)が右大臣として担うことになった。
その後は、四兄弟のうち宇合の息子広嗣が740年に乱を起こし討伐された(藤原広嗣の乱)こともあり、孝謙朝に武智麻呂の子豊成次いで仲麻呂が台頭するまで、藤原氏の高位官僚の不在時代がしばらく続くことになる。
藤原四兄弟の子の系統はそれぞれ南家、北家、式家、京家と呼ばれ、それぞれの家に栄枯盛衰はあったものの、その後の政治や学問、文化に大きな足跡を残している。藤原四家を参照。
但し、宇合については武智麻呂、房前と生年が離れすぎていることから、同母兄弟ではないとする異論もある。
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月03日 03時43分14秒 ) | パスワード |
で、元祖美魔女「薬子の変」について、歴史研究家の永井義男氏のお話
https://www.news-postseven.com/archives/20190728_1416186.html
よりコピペ:
平安時代初期、“熟女パワー”で政権を大きく揺るがせたのが、藤原薬子である。
3人の男子と2人の女子を産んだ後、長女が皇太子である安殿親王(後の平城天皇)の妃になる際に、幼い娘の介添役として東宮に入る。
「藤原家は、藤原(中臣)鎌足の孫4人が興した四家に分けられますが、当時はそのうちの2つである式家と北家が激しい勢力争いをしていました。式家の薬子はライバルである北家の頭領・葛野麻呂に接近し、セックスで彼を虜にして娘の東宮入りを仕組ませたのです。
さらに東宮入りした後は、娘から安殿親王を寝取ってしまった。
それが桓武天皇の逆鱗に触れ、薬子は東宮から追放されてしまいますが、安殿親王が天皇に即位すると、すぐに薬子を呼び戻しました。その時、薬子はすでに40代でしたが、どれだけ惚れ込んでいたことか」(永井氏)
薬子の力で藤原式家は権勢を極めたが、平城天皇は病のため4年で譲位し、北家とのつながりが深い嵯峨天皇が即位する。
薬子は平城上皇の病状が回復すると、勢力挽回のために上皇の復位を企て、挙兵を試みるも失敗。毒を飲んで自殺する。これが「薬子の変」(810年)で、その後、藤原北家が全盛期を迎えるのである。
「薬子の変」は日本史で習ったから記憶にはあったけど
上記のような流れだったのは100%思いもよらなかった。
桓武天皇の時の事件といえば 早良親王事件 ぐらいで
藤原種継暗殺事件(宇合の孫であり宮子や光明皇后はおばさん)と種継の娘の薬子の事件がこんがらがっていく。
とはいえ、どっちにしろ 式家の没落 に関係するわけか。
と、式家没落コースは分かった気がしたけど
自分で自分の表現でまとめようとするとヤッパリこんがらがる。
もう止めておく。
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