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 投稿番号:101674 投稿日:2019年06月28日 03時44分25秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏紋の服部さんの代理
長上郡の服部氏族CXXV:123:現場100回-4
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101668_76.html
長上郡の服部氏族CXXU:122:現場100回-3
の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


>二年程前より、
>私は「しんあいち歴史研究会」という金山を本拠地とした会員数八十名弱、
>活動実績二十一年の正に会名のとおりの歴史研究会に入っております。
>会誌も年三回発行し、研修会、研修旅行も活発に行っております。
>会長は衣川真澄氏で、
>私は以前、『古代の謎 抹殺された史実』という本を買っておりましたが、
>その著者が会長さんであることに今気付いた次第です。

「今、気付いた」ということで脳の情報処理能力が活性化しましたね。

今後、読み直すモーチベーションの方向性が修整になりましたね。


やはり、いろいろな人を朋とし、万巻の書を読み、万里の道を旅すべきですね。
三つ柏さんの老後の脳は、お若い時のシナプスの動きを取り戻すでしょうね。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月28日 06時16分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッドありがとうございます(いつもお世話になります)。

 頭の活性化は、私には現状維持がせい一杯かなと最近思うようになりまし
た。「本を読んだり、ものを書く能」と「おしゃべり能」は別のように思え
ます。活性化には後者の「おしゃべり能」を刺激する、つまり人とベチャク
チャとしゃべるということの方が(五感も伴うので)、より脳細胞やシナプス
を鍛える効果が高いのではないかと推察いたします。これはどちらかと言え
ば、女性の得意の分野でありますね。老いてますます元気になれるというの
は、女性に与えられた特権かなといつも崇拝、時に畏怖しております……。

 衣川真澄氏が「しんあいち歴史研究会」の会長であることを知った(正確
には確認した)のは、実は数日前でありまして、年次総会の報告書で会長名
を見て、まてよこの人確か本を書いている……で、本棚に走って行き、見つ
けた次第であります。でもその本『古代の謎 抹殺された史実』は私には実
に難しく、今まで読みこなせておりませんでした(何回か挑戦したものの、
こちらに読みこなせるだけの古代知識と根気がなく、万歳となった)。つま
りは本棚の片隅に置かれているだけの存在であったのであります。
 でも、今その本に目を通しておりますが、衣川氏は岡崎市宇頭町に住むよ
うになってから、町内にある「薬王寺」という古刹の由来、および同地に点
在している前方後円墳等九基の古墳群の謎に興味を抱き、尾張・三河地方に
おける古代史から始め、ついには日本全体の古代史に及んでの解明を図った
ということであります。
 今回、あを様のおかげで、再度挑戦の機会を与えられたようでありますの
で、これから衣川氏の著書群・論文群に挑んでみます。新たな発見は当然出
て来ると思いますので、またご報告いたします――

[2]三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月28日 08時48分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 前スレッドの最終レスとクロスしました。

 織田家のルーツがが平家・忠盛よりの五代孫・親真であるという説があり
ますが、織田家には平家らしさの片鱗があったのでしょうか?
 また、源氏の頼朝と熱田神宮(尾張氏から藤原氏)との深い関係と、平家筋
であるという織田信秀・信長二代と熱田神宮の深い関係、織田家にとっては
源氏も平家も関係なく、ひたすら現実主義を取ったということでありましょ
うか?
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月28日 08時55分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:レス[1] 「能」→「脳」 
 
 本日は夏風邪気味、プラス、夜中に猫の叫び声で起こされ、頭が重く注意力
散漫であります。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月28日 12時50分52秒 ) パスワード

三つ柏さん

>織田家には平家らしさの片鱗があったのでしょうか?

これでしたら  まさに!  「敦盛」  でしょうね。

信長が今川義元と激突する前に「敦盛」を謡って舞って出陣したというのは
「人間の寿命なんて僅か50年なんだから、敦盛のように負けても敵に後ろは見せない、堂々戦って散ろう」
そんな気概を思います。


>ひたすら現実主義

はい
まさに。

現実的かつ合理的。

これは幼い時からやってた悪ガキ達との遊びから得たそうです。
信長は腰に袋をいくつかぶら下げてて、その中に、常時使う必要な物を入れてたそうで

     お坊ちゃま君だったら自分で携帯せず下男とか守り役に言いつけて用意させるけど
     信長は  自分で、いつでも取り出せるように  腰にぶら下げてたそうです。


母親に愛されなかったから、孤独のうちに、女性的な発想には染まらなかった、  ということでしょうね。


      うちが負けるはずだ
      と思いました。


いろいろな苦労はしなきゃいけないんですよ
自分で考えなきゃいけないんですよ
そして工夫をしなきゃいけないんですよ


母親の土田御前の愛されなかったから  くだらないコトとか大事なコトとか  自分で考えたんでしょうね
家来達も土田御前の愛してる弟の方に味方につくだろうから  自分は自分で自分を守らなきゃいけない  って思ったでしょうね。


信長のエピソードで  人数が多いから勝てるんだ  というのは誤りである  というハナシは有名なんじゃないかな?
逆に少人数だから1人1人が真剣に戦う(喧嘩で戦う)というのを体得したんだ  というハナシ。
だから  自分は織田家の中で孤独でも腹心の部下が少数いれば勝てるというのを  習得したのかな  と思います。


織田信長の家は
本家の織田家からしても斯波家の中でたいしたことのない身分で
更に信長の家は織田家の中でも下の方だった
という位置づけでした。

       マウンティングしてるな、ワタシ。


父親が頑張ってた姿があって
織田家の中でだんだん頭角を現していく

そういうのを見ていたから
母の土田御前と弟を中心に家臣が纏まっていくのに危機感を持ってたでしょうね


自分の味方が家老で守り役の平手の爺さんだけという現実と、平手の爺さんさえ自分を認めてくれてはいない寂しさ
というのに  
なんとか自分の腹心を作らなきゃいけない
そういう
危機感をずっと持っていたでしょうね。


     織田の重臣と自称しても無能な部下なんか持ってたってしょーもない
     というのも感じてたでしょうね。
     この人達は弟の方を主人にしたがってたし。



     平手の子孫もワタシのまわりにいましたよ。
     ホントにヒトの良さそうな、いいとこのお育ち、って感じでした。

     平手の爺さんは教養のあるヒトだったそうです。


        それで平手の子孫に会う度に
        このヒトのご先祖さまが信長のパパの葬儀の後に腹を切って詫びて死んでいったんだな〜
        と、毎回、妄想に耽りました。

           政秀寺、と言います。
           平手政秀から。

           本拠地は名古屋市北区の平手町の志賀城。
           今は公園になってるのかな?

信長の弟の有楽斎の奥さんが平手の出だったような。
平手は織田の家老の家ですからね。


名古屋は管理社会だからあんまり合理的な人間じゃないけど
織田は越前から移って来て
のし上がった家だから
古くからいる名古屋人よりは=うちだ!=現実的で合理的だったと思いますよ。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月28日 13時21分16秒 ) パスワード

>織田家には平家らしさの片鱗があったのでしょうか?

もう2つ別のハナシを書きます。


1.

平手の爺さんが信長に絶望したハナシです(だから腹を切ったハナシ)

平手の息子が駿馬を持ってて  それを  信長が所望して  喧嘩になって
この件でも平手の爺さんは腹を切ったんだ

      とマコトしやかに語られています。


このハナシって  頼政の息子の仲綱の馬を宗盛が所望して辱めた  と似てますよね。


頼政の息子は馬を宗盛に差し出した
だけど
平手の爺さんの息子は拒否した


ここんところが頼政と平手の爺さんの違い。
だけど
両話とも  所望した若様はバカ。   宗盛もバカ   信長もバカ。

信長はながいこと  バカ扱い    (弟の信行は賢いとされていた)。
それは身だしなみが出来てない  例えば  髪型とか腰に袋をいくつもぶら下げてる  とか。



この話から推量すると
平手の爺さんには  信長さま=イコール=平家の宗盛さま  に似てた?
危機感があった?


武家にとっての教養である平家物語は
フツー、宗盛のバカ話は武家の皆さんには  こんな息子がいては家が滅びる  と不安になるところですよね

まさに信長が宗盛に似てる

政秀にとって  ヲイヲイ  自分が育てた信長が織田家を潰す?滅ぼす?
じゃ、今のうちに  殿さまの信秀さまの死に殉じた方が織田家にとっても平手家にとっても  ベターな選択?

自分の皺腹1つで信長さまに最後の諫言に?


  
2.

前にも書きましたが
信長は伊勢を乗っ取ってます。

伊勢を自分の子供2人に分け与えてます。
2番目の子供と3番目の子供に。

1人は北畠家です。信雄に継がせてる。
北畠は南朝方の名家です。北畠親房が有名どことですね。

      ホンヤさんの先祖が正月に挨拶に行った帰りに滝川一益に騙されて殺されました
      今でもホンヤさんはお正月にこのご先祖=友貞=の墓参りをしています。



もう1人は神戸(かんべ)の家を継いでいます。信孝。
神戸って鈴鹿だよ〜
ここの家老が関盛信だよ〜   平信兼の関係者でしょうね
この関の娘は大河内重綱の妻になってるから  まさに  南朝方もからむね〜



信長は平家にも南朝方にも   劣等感とか近親感とか  あった  と思います。


だから  ワタクシは信長って平資盛の子孫  というハナシはホントだと思ってます。

大事な次男3男に伊勢の名家を継がせてるから。


以上  状況証拠から  へへへっ  
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月28日 14時13分00秒 ) パスワード

前スレの  1.の中で  信長の身だしなみが悪かった  と書きましたが
髪型や、腰に袋をぶら下げてた他に

信長は着物を短く着ていた、というのがあります。
短いと行動し易いでしょ?働き易いでしょ?戦さの練習=喧嘩=するのに短い方が便利でしょ?


それから合理的ということの1つに
信長は槍を長くした
というのもありますね。

長けりゃ  敵を突き易く、敵からは突かれ難いですものね。


とにかく信長の悪ガキ時代というのは大人達には理解不能だったそうですよ。


髪型は  茶筅曲げ  と言って
後ろで結んでただけで  ブッツリぶった切ってた  髷を結うようには伸ばしてなかった
髪をちゃんと結ってなかった

とにかく  何だ?コイツ!  と大人達から白い目で見られて  バカとかウツケとか  たぁけ(名古屋弁) とか呼ばれてたそうです。



で、

>平家筋であるという織田信秀・信長二代と熱田神宮の深い関係

これですが

我が家が  (ホンヤさんとこが)  織田家とも親戚であり  (誰だったか記憶に無いのですが熱田神宮の千秋家とも親戚であったように)

織田家が尾張最古の名家の熱田神宮と親戚でないはずが無いじゃないですか。
尾張で一番  お金  を持ってる組織なんですから。
それに千秋家は織田に仕えていましたし。


       わたしの従兄は熱田神宮で神前結婚式を挙げ更に浄土真宗のお寺でも仏前結婚式を挙げています。
       わたしの父は第7子ですから父には格式の資格は全く無いですけど父の実家の跡取りは格式高く2宗教で結婚式です。笑



数年前に「熱田神宮の千秋家」について書いた記憶です。

千秋季忠
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E7%A7%8B%E5%AD%A3%E5%BF%A0

千秋 季忠(せんしゅう すえただ)は、戦国時代の武将・宮司。
織田氏の家臣。
尾張国羽豆崎城(幡豆崎城)主。      知多半島の最南端です。師埼。  三河の西尾=今川氏発祥の地=にも幡豆って場所がありますね。


      http://www.oshiromeguri.com/mihama/04hazusaki.html

      【太平記】によれば、新田義貞の弟・脇屋義助が歴応三年(南朝・興国元年=1340)に
      美濃国の根尾城から73名の家臣とともに落ち延び、
      しばらくここに滞在して吉野に向かっています。

      また、宗良親王が信濃からこの地に落ち延び、やはり吉野に向かっています。

       羽豆崎城は知多半島の最南端、師崎の岬にあり、
       西の伊勢湾・東の三河湾に向かって『海の道』の要所だった事が伺えます。



天文3年(1534年)、千秋季光の子として誕生。

父・季光は熱田神宮の大宮司であり、かつ、武士として織田信秀に仕えていたが、加納口の戦いで戦死[1]。

季忠も大宮司職を継ぎ、信秀の子、信長に仕えた。


永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いに参加。
佐々政次と共に鷲津砦・丸根砦を落とした今川義元軍と対峙していたが、
信長が善照寺砦に到着したのを見て義元本隊に攻撃を仕掛け、
政次ともども討ち死にを遂げた[2]。

その時母の胎内にあった子・季信が、後に大宮司職と織田信長より遺領となる野並村を継いだ。


       
この千秋家は藤原南家で
平安時代末期に平清盛と結んで勢威を得た院近臣  藤原通憲(信西)はその代表。


あらあら
繋がっちゃった


結局みんな繋がっちゃいますね。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月28日 14時31分50秒 ) パスワード

千秋家について素晴らしいサイトを見つけました:


http://kamezakino1.blogspot.com/2013/03/blog-post_7056.html


15年振りくらいに名古屋市緑区野並(相生山?)にある千秋家の墓地へ行ってきた。
墓標を確認するためだ。
そうしたら、立入禁止の札があって墓地へは入れないようになっていた。



千秋家とは、明治時代に入るまでの間に熱田神宮の大宮司を世襲した由緒正しい家柄。

元々熱田神宮の大宮司はこの地の豪族の尾張氏(尾張国造)が代々世襲していたが、
平安時代末期に熱田大宮司の尾張員職(かずもと)の娘と、尾張国の目代・藤原季兼(藤原南家)との間に生まれた藤原季範(すえのり)が熱田神宮大宮司職を継いだ。

彼の孫である憲朝が号を千秋と称したことから、それ以後子孫は千秋氏を名乗り、
明治初期まで熱田大宮司職を世襲した
(明治時代になって大宮司という職名は伊勢神宮に限定されたため、現在の熱田神宮のトップの職名は宮司)。


なお、季範の娘の由良御前(NHK大河ドラマ「平清盛」で田中麗奈の役)は源義朝と結婚して源頼朝を生んだ。

           

かつては千秋家墓地として名古屋市教育委員会が建てた案内看板もあったのだが、それも既に取り外されていた。

いろんな人がブログ等で取り上げて、
しかも市やその他の人たちが野並の散策ルートとして紹介しているから、
不特定多数の人が墓地に入って好ましくないことが発生したのだろう。

そもそも、墓地だから本来は物見遊山で行ってはいけないし。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月28日 14時37分42秒 ) パスワード

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sensyu.html

千秋氏 蔓柏紋:医家の服部家の紋もこんなのでしたよね





 千秋氏は藤原南家季範の子孫・熱田大宮司家の一流で、季範の娘は源義朝に嫁して頼朝を生んでいる。それ以後、大宮司家は源氏と強く結びつき、次第に武士化していった。憲朝の代に至り、三河国設楽郡千秋の地名を以て、名字としたのに始まるとされる。

 室町幕府に仕え「永享以来御番帳」などに複数の千秋氏が確認され、室町将軍家の奉公衆を構成していた。将軍の御的始めの射手を度々務める等、射芸に秀でた家柄であった。そのためか、将軍足利義政やその妻日野富子の寺社参詣や猿楽見物等には、必ず御供衆に加えられている。また、将軍家の息災祈願を司る祈祷奉行は、千秋家の世襲するところであった。


 千秋氏は代々京都に在住し、尾張・美濃・三河の広範囲にわたる所領の支配は下級の神官にまかせていたのだが、
戦国時代にいたって、尾張知多郡の羽豆崎城に移ってきた。

社領を直接支配する必要に迫られたのであろう。しかし。この頃には、かつて三国にも及んでいた社領もわずかに残るのみであった。


 尾張に乗り込んだ千秋氏は、守護代の一族として急速に勢力をつけてきた織田信秀と結び付く。

世は戦国時代、実力がものをいう世界、熱田宮の「大宮司」としての特殊性を認められていても、世俗的には尾張の国人の一人に過ぎなかった。

かくして千秋氏は信秀の指揮のもとに各所での戦に駆り出される。

天文十三年、当時の大宮司千秋季光は、稲葉山城攻めの時に戦死。
長男の季直も戦死か、なんらかの闘争に巻きこまれたかで自然死ではなさそうな若死。

その弟の季忠は、すでに神官という性格でじゃなく、まったく武士そのものであった。


彼は大宮司とは名ばかりで、信長の一部将として活躍している。
そして。
桶狭間の戦いのとき、今川軍の先鉾隊に戦いを挑んで戦死してしまった。



季忠の嫡子、のちの季信は、この時母胎内にいた。
母は実家の浅井氏に戻って、季信を生み、育てたという。

季信は十五歳で、初めて信長に謁した。

そして、「これからは軍事にたずさわることを止め、大宮司に専念するようにせよ」と言われたという。

その後も信長の統一戦は続くが、千秋季信がそれらの戦いに参加したという記録はない。

信長のことばに従って大宮司職に専念したようだ。
[9]三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月29日 14時40分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 千秋家というと、「服部政光」の妻が「千秋式部少輔」の娘であることを
思い出します。
 この千秋式部少輔を調べてみますと、『福井県史 資料編2』の中に載っ
ており、「越前千秋式部少輔季藤、清水寺再建のため、柱一本代二十貫を寄
進」とあるそうです。
 つまり、越前を拠点としていた。
 越前と言えば、朝倉氏を思い浮かべます。

 政光は信長から家康へと主君移動をしております。
 服部中保次もおおよそ政光と同世代で、やはり信長から家康へ仕え直して
おります。
 服部政光も服部中保次も津島の「服部宗純」より分かれておりますので、
同根と言えます。
 彼らの動きの背景に、織田家(信秀・信長)、足利将軍(義晴〜義昭)、朝倉
家(孝景・義景)、そして明智光秀(土岐氏)、徳川家康の五つの「点」が見え
てきそうです。この点を結ぶ線上に服部家が見え隠れします――
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月30日 04時23分43秒 ) パスワード

三つ柏さん

>千秋家というと、「服部政光」の妻が「千秋式部少輔」の娘であることを思い出します。

そうです!
思い出しました!

政光の先代さんが権大夫左京亮信発(のぶひで)改め政家で
    織田信秀に属して
    尾張国河内に蟄居す
でしたね。


           まさにホンヤさんとこのハナシです。
           これが例の「大橋の乱」なのかな?
           織田と喧嘩したハナシ。
           尾張国河内はまさにホンヤさん宅のことです



で、天文5年8月13日に45歳で亡くなって法名が常久。

妻が  横井丹後守の娘。


          この横井さんが   北条時行=北条時宗の孫=ゆかりの子孫です。
          
          北条時行は北条氏というか得宗家の嫡流。世が世なら「執権」です。
          信濃に逃れ南朝方になった人。

          横井さんは元々は尾張に来て横江という姓でしたが横井に改めました。



だからね  小さな世間で少ない人口の世界の人間達というのは  みんな繋がります。


実は今週なにやらゴタゴタ調べてた時に  わたしと朝倉との関係が読めてしまって  あれ?  と思ってました。


母方には越前に留まった人達もいました。


そして越後の方のハナシに行きますが
わたしの幼稚園以来の親友の家が木曽義仲の侍大将だった家で  (源平盛衰記に書かれている)
樋口の子孫と一緒に新潟に行って     樋口家からは後の直江兼続になったのがいて

なんと!
上杉景勝って   魚沼の生まれなんですよ!!!長尾政景の次男です。母親が上杉謙信の姉です。それで上杉家に養子にいった。


魚沼って  わたしの34代前の先祖が越後の魚沼に土地を貰って  一族が今に至る  です。


もうね、越前も越後もワタシの血を分けたのがいるんですよ。
まさか上杉景勝の名前を一族がらみで書くことになるなんてね。


     実は幼稚園以来の親友に彼女のご先祖さまと上杉景勝の悪口を2週ほど前に書き送ったばっか。
     関ケ原の戦いの前哨戦に上杉一派が何を越後にやらかしたか
        (あなたのご先祖が・・・と悪口を書いた)
     魚沼のワタシの血を分けた一族が絡んでるわけです


いやいやいや
ホント  噂とか悪口とか   天に向かって吐いた唾はまさに自分の顔にべチャッと戻って来る          
でした。

       高貴な身分の方達は噂とか悪口は言わないとしたものですが
       わたしのような卑賎な者は自分で自分の悪口を他人にバラしてる・・・



で、政光の先代さんですが
左京亮を名乗るわけですが
ホンヤさんのご先祖の友貞も左京亮を名乗ってたわけで
代々、名乗るわけで

諫早で西郷家と運命を共にした西郷家の侍大将の服部なんとかさんは  右京亮  だったような。

             右京と左京がこんがらがる


まだ自分と朝倉の関係が何だったのか思い出せないのですが
取り敢えず
越前に残った母方の一族は遅くて南朝方=敦賀の氣比神宮を拠点=で戦った人達というのは分かります。

ここから戦国の朝倉に繋がっていくわけですが、ハッキリ覚えていない。


武家は一族の中でも敵になったり味方になったり再び敵になったりをやって来たからナカナカ明朗じゃないですね。


        本日の反省:悪口は書かないようにしなくっちゃ。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月30日 05時11分39秒 ) パスワード

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%8F%8B%E8%B2%9E

服部 友貞(はっとり ともさだ)

戦国時代の武将。
尾張国荷ノ上の土豪・服部党の当主。
別名:友定、左京進    ここでは「進」になってるね。

      この「荷ノ上」「二ノ上」あたりが「河内」に相当。

      土豪だって。笑   土豪、って言われちゃったよ。
      ま、いいけどね。

      うちの村の一番の出世頭が前田にヨメに行ったおまつさん。利家のヨメ。
          場所を限定すると  今の  七宝村の篠原家の娘さんだった。
          父親が戦死して母が再婚することになって尾張国荒子の母方の伯母の家(前田家)に引き取られた。



尾張の国人で織田信長に抵抗し、織田氏の重要な拠点である津島の南にある河内(海西郡)に勢力を持っていた服部党の頭領。

当時、服部氏の所領は織田氏から見て陸続きではなく『市江島』いちえじまと呼ばれる輪中地帯にあり、
院家として東海地方の本願寺門徒を統括する願証寺と協調関係であった事も手伝って、
信長の勢力が強大となった後も尾張で長らく独立を保っていた。


この事は信長公記巻首にも「河内一郡は二の江の坊主服部左京進横領して御手に属さず」と記されている。


           信長公記にはうちの悪口がしっかり書かれている。

           二ノ上・荷の上という地名は
           平治の乱で負けた源義朝が
           迷子になった頼朝を置いてけぼりにして舟で大垣の青墓から内海の野間に逃げる途中
           柴に身を隠してたのを、ここまで来ればもう大丈夫と
           柴(荷)を舟から上げた場所
           だから  荷の上  と呼ぶって聞いたような記憶
          

永禄3年(1560年)5月、
桶狭間の戦いでは今川方として参加し、
今川義元の討ち死により荷ノ上へ引き返す。


永禄4年(1561年)に長島城代になるも、
永禄8年(1565年)に不在の隙を突かれて織田氏の家臣・織田信興、滝川一益の侵攻を受け敗北し
自身の所領の市江島に鯏浦城を、立田輪中には小木江城をそれぞれ建築され、
織田氏によって領地に楔を打ち込まれた形となった。


              織田信興は信長最愛の弟で
              これをうちが殺したから信長の逆襲で
              うちは長嶋一向一揆で村人を大勢殺された

  

永禄11年(1568年)正月、
北畠具教に年賀の挨拶をするために霧山城へと登城する最中に
織田軍の刺客に囲まれ伊勢国(三重県員弁郡藤原町)米野の陰涼庵で自害に追い込まれた。

                  まさに平家方藤原氏の本拠地だね
                  だから友貞としては油断したのかな?


なお、友貞の死後、服部党は長島一向一揆に参加している。


                  友貞の弟が継いでる。
                  政家に似たような名前だった記憶。

                        ホンヤさんから頂いた記録を持っているけど
                        我が家はジャングルなので捜すのが来年以降かな?


出典
伊藤重信『長島町誌 上巻』長島町教育委員会、1978年

          この人の名前を見て、あれ?と思い出しそうなゾワゾワした気持ちがある。

          一向一揆の時か、関が原の時の西軍方・大垣城城主の伊藤盛宗がらみか?

          どっちにしろ平家方の藤原(伊藤)忠清の子孫あたりだろうなと思う。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月01日 04時36分39秒 ) パスワード

信長のことで1つ思い出しました:

信長はよく言われる身分や出自に捉われないというハナシの件ですが

     例:秀吉の抜擢やマダガスカル出身の黒人奴隷の弥助を人として扱っていた件

     例:逆に無能な重臣(Xとか   この子孫がラスメートにいたんで心苦しい  その他)を追放した



信長は出世につれて城を移し
必要な職人などを堺などの畿内から移住させた
それで当時の日本で革を扱うなど卑しい身分とされた職人を手厚く保護した
という件。


その後、江戸時代になって、士農工商の身分が決定されると、その下にエタとか非人が置かれた

     名古屋もアッチコッチに部落があった。というか最近まで。


江戸時代後期に干拓された新しい土地にはそういうのは
無かった。    と、思う。


だから信長の世になっていたら士農工商というのはどういう形の制度になっていたのかなと妄想する。
エタとか非人とかいうのも、どうなってたのかな?


士農工商とかエタとか非人とかいう身分の固定は江戸時代の三河気質に源を
求めるのではなく
日本の本来の民族性じゃないのかなと妄想したりする。

     農奴なんてあったしね。あ、日本じゃ  奴婢  か。農奴はヨーロッパだね。

     それから連座制。江戸時代には  女性には  奴制があったね。大岡越前さえもこの軽減に失敗してるし。


こういう日本的な民族的な気質を信長だったら、どうしたのだろう?と妄想する。

  
連座制は多分古代中国からの輸入だと思うけど   (中国は9族に渡って連座が適用されたって読んだ) ← 「9」というのは白髪三千丈的レトリック?笑
日本の連座制は9族には及ばなかったんじゃないかな?せいぜい一族とか隣組限定だったんじゃないかな?


信長は現実的で合理的な人だったから、どうしたのかな?
荒木事件で黒田官兵衛が裏切ったんじゃないかと疑った時、子の松寿丸(長政)を殺せとは命じたけど、黒田家一門は皆殺しにはされてないような?

殺しまくったのは
比叡山焼討・伊勢長嶋一向一揆・伊賀
このあたり?


弟の信行を殺した時には母親は殺してないし
足利義昭も殺してないし

だいたいホンヤさんとこが一向一揆の後に詫びを入れて許されてるし。
     平家がらみとか南朝方がらみとかの関係がある?


改革半ばで斃れてるから、イマイチ分からないですが。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月01日 04時48分25秒 ) パスワード

信長の家来だった 「ブラック・サムライ・ヤスケ」 がMGMの映画になるようなハナシを聞いています。
     

どういう取り上げられ方をするのか?
信長がどう描かれるのか?


光秀が弥助を逃したのは  あれはニンゲンじゃないから放っておけ  とゆー事というハナシらしい。


この春4月にそんなハナシを聞いた記憶。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月01日 04時56分05秒 ) パスワード

全く関係無いけど 横井の前が横江だったという派生:


うちのマンションの近所に  横江さん  という全身脳味噌のような賢い女性がいるんですが
     双葉出身だというのは知ってる
本当に  お嬢様  という上品な方です。

たぶん  早稲田大学あたりの出身じゃないかな  と彼女の早稲田出身のご友人から   邪推している。

わたしのような理数系LDの人間には  複雑な数学センスのある、それを仕事で英語で説明できる彼女には感心するばかりですが

わたしの上司のことも考えると   やっぱり家の良い人は頭脳も良いのかな?  と思ってしまう。

      北条氏って賢い人が多いから。
       名古屋の家の近所の横井さんもすごかった。
           小学校の入学の時の知能検査で分かるし
           高校は旭丘だったし(ここは東大・京大に行くのが当たり前の学校
           彼女は名古屋大学に現役で行った)

                わたしはこの検査で小学校1年の前に既に要領の良さを発揮してしまった  赤面

  

で、尾張の横井さんですが調べて来ました:
やっぱり北条時行の関係者で正解でした。
やっぱり、そうなんだよ。
日本人は名字と出身地で氏素性が分かるんだよ。



         やっぱり「でぇゃぁこん」で正解だった。笑

         上司の奥様が上司の実家に初めて行った時に
         「○○子さん、でぇゃぁこんは食べるかね?」
         と上司の母上に訊かれて
         (でぇゃぁこん、って    何?)
         と思ったハナシ。


                 尾張の「平野」も時行の子孫で横井の一族。


        一族男子はみんな「時」が通字として今に至るも使われている家で
       尾張藩のご重臣だった家です。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E6%99%82%E5%BB%B6

横井 時延(よこい ときのぶ ?〜天正7年5月25日(1579年6月18日))

戦国時代の武将。
尾張国海西郡赤目の人。通称は雅楽助。
子に時泰、時雄、時朝、時久などがいる。

天正2年(1574)年7月、伊勢長島攻めの、篠橋攻撃に参加した。

同7年、丹波国で戦死した。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E6%99%82%E6%B3%B0
横井 時泰(よこい ときやす)

安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。
尾張国海西郡(現愛西市)赤目城主。


横井氏は北条時行の次男・時満の子・北条時任が愛知郡横江村に逃れ
その孫・横井時永が赤目城を築城し横井氏を称したことに始まる。


生涯

天正2年(1574年)6月7日、岐阜城に忍んで侵入した敵を退けたことにより織田信長に褒められた。

本能寺の変後は織田信雄に仕えた。

小牧・長久手の戦いでは徳川家康に味方し、その後家康に仕えた。


慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに東軍に組し福島正則の配下に属した。
福束城の丸毛兼利の家老・丸毛六兵衛に東軍につくように促したが拒否され、
8月17日に徳永寿昌・市橋長勝らと福束城を攻略した。

関ヶ原の本戦では長宗我部盛親隊を福島正則の別働隊として
子の時家、時安、徳永寿昌、市橋長勝と共に監視。

南宮山を退いた西軍の長束正家や安国寺恵瓊の兵を追撃した。


後に尾張徳川家に仕え、同じく旧領赤目5,800余石を拝領している。
戦功により弟の時朝(藤ヶ瀬横井家・1,200石)、時久(祖父江横井家・1,900石)も尾張家に仕えた。


家督は時泰の子・時家、時安と引き継がれ、幕末まで代々尾張徳川家に仕えた。遊猟を好んだ(赤城神社説明板)。



幕末の尾張藩にあった大弾圧の  青松葉事件で  重臣であった横井家からも斬首者が出た。


      幕末の尾張藩主は徳川慶勝で  ← 美濃国の尾張藩飛び地高須藩から養子に来た。弟達は会津藩主や桑名藩主その他の藩主
      慶勝は自分は勤王だったけど藩士には隠してたから
      藩内が佐幕と勤王に分かれて争って
      この青松葉事件が起きた。

               ワタシにはサッパリ分からない

                    我が一族からは新選組⇒伊東先生の御陵衛士になって殺されたのがいるから
                    当時の日本はワケ分からない時代だったんでしょうね



事件による処罰者

1月20日
[斬首]
御年寄列、二千五百石、内五百石足高  渡辺新左衛門在綱(49)   この人はあの家康側近の渡辺さんのご子孫ですよ!

大御番頭、千五百石、内四百石足高  榊原勘解由正帰(59)
大御番頭格、千石  石川内蔵允照英(42)


1月21日
[斬首]
御手筒頭格、御書物奉行、二百俵、内五十俵足高  冢田愨四郎有志(61)
錦織奉行格、表御番、二百五十俵、内百八十俵足高  安井長十郎秀親(52)
御使番格、表御番、百五十石  寺尾竹四郎基之(54)
寄合、二百石  馬場市右衛門信広(26)


1月23日
[斬首]
二百石、御手筒頭格武野新五郎父、隠居  武野新左衛門信邦(77)
二百五十石、御馬廻組光太郎父、隠居  成瀬加兵衛正順(62)  成瀬なんて尾張藩の家老の家で犬山城主の一族なのに


[家名断絶、御預け]
中奥御小姓格  竹居新吉郎
大御番組  武野新五郎
御馬廻組  成瀬光太郎


1月24日

[永蟄居]
鈴木嘉十郎父、隠居謹慎中  鈴木丹後守重到
成瀬比佐之丞父、隠居謹慎中  成瀬豊前守正植

[減知、隠居、永蟄居]
御年寄列  鈴木嘉十郎重熈

[減知]
成瀬比佐之丞正心


1月25日

[斬首]

千五百石、横井孫太郎父、隠居謹慎中、寄合  横井孫右衛門時足(44)   1500石の横井さん
八百石、沢井溢也父、隠居、寄合  沢井小左衛門貞増(44)
四千石、御老列横井伊折介総領、謹慎中  横井右近時保(51)       4000石の横井さん  4000石なのに!
御普請奉行格、二百俵、内百四十六俵足高  松原新七直富(41)
御先手物頭格表御番三百石、内五十石足高  林紋三郎信政(40)

[蟄居]

大寄合滝川亀松父、隠居  滝川伊勢守忠雄
平右衛門父、隠居  千村十郎左衛門仲冬

[隠居、減知、永蟄居]

三千石以上寄合  大道寺主水直良         大道寺あやこの親戚?


[隠居]
五十俵、寄合  若井鍬吉

[隠居、蟄居]
御用人御側掛、寄合  松井市兵衛

御使番  進八郎

寄合  天野儀兵衛

武野新左衛門二男、中奥御小姓格  名倉鉞之介


御書院番頭格  加藤五郎左衛門
寿操院様御用役  本間太左衛門
錦織奉行格  本杉録兵衛


隠居謹慎、減知]
横井孫右衛門嫡子、千石以上寄合  横井孫太郎時棟       この横井さんも1000石以上なのに
沢井小左衛門嫡子、寄合  沢井溢也
[15]三つ柏服部さんからのコメント(2019年07月02日 15時06分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 戦国時代の人間関係をいろいろ調べておりますが、膨大な時間がかかりま
す。
 
 横井さんですが、おもしろいことに、「服部政光」―「政季」―「正信」
と続く中で、政光の母は「横井丹後守の娘」であり、「政光」の妻が「千秋
式部少輔の娘」であります。

 また、津島の大橋家に養子に入った「伊重(良王 よしたか)」の子「信重
(神王 みわきみ)」の妻は「千秋刑部大輔季隆の娘」であります。

 服部政光は、津島の服部宗純から数えて七代孫のようであります。
 服部中保次系も服部一忠系も、同じく宗純から分かれているようです。
 政光と中保次は信長から家康の方向へ、一忠は信長の死後豊臣秀吉・秀次
に仕え、松阪城主を務めるも、秀次事件で切腹とあいなった。

 それぞれの進路は計算されたものだったのか、あるいは成り行きだったの
か、友貞も含めてそのへんを検証出来ましたら、こんなありがたいことはあ
りません――
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月03日 13時08分56秒 ) パスワード

三つ柏さん

日本って   ホントに何重にも婚姻してガッチリ  固めてますよね。
だって命のやりとりをする時代ですから  血と涙を共有できる関係でないとね。


あの時代の尾張南西部の服部家は横井さんと千秋さんで固めていた。
横井さんもそうだろうし千秋さんもそうだろうし。

     当時の大橋家は蜂須賀なんかと繋がってたし。


横井さんの一族の平野氏は秀吉に仕えて(柴田勝家と戦った)賎が岳の七本槍の1人(平野長泰)になって出世してるし。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8E%E9%95%B7%E6%B3%B0

平野氏は桓武平氏直方流と称した鎌倉幕府の執権北条氏の庶流横井氏の流れを汲むという。
尾張国海東郡津島の住人となり、中島郡平野村を領したことから村名を姓とした。

ただし長泰の父・平野長治[注 5]は、元は船橋右京進と名乗り
長泰の外祖父・平野萬久入道[注 6][注 7]の婿養子となった人物で、
長泰自身は父系としての北条氏の血筋ではなく、母系の系統に過ぎない。


      この舟橋さんですが
      やっぱりムカシのクラスメートにいて
      (南朝方つながり)
      という記憶です。

      だから結局は  みんな  繋がるのです。


ムカシのクラスメートを思い出すと   み〜んな  どこかで繋がります。
尾張南西部なら南朝方で。


     愛知県でも北尾張は北朝方ですからね。


明治政府が廃藩置県をやった時に
佐幕系だった県は小さな郡の名をつけた
    新政府方だったところは県名と県庁所在地の名前が同じ

        ただし静岡県は府中が不忠の音に繋がるということで静岡にしたというハナシ

だから愛知県の愛知という名称は尾張南西部の愛知郡から名を取ったという明治新政府の嫌がらせ(笑)かも。

信長ゆかりの那古野でもなく尾張徳川ゆかりの名古屋でもなく三河の岡崎でもなく
愛知郡からとった
というのは佐野七五三助ゆかりなのかな?元新選組で伊東先生の御陵衛士に転向して殺されたヒトがらみで。

      同じく赤穂出身の服部武雄も新選組から御陵衛士になって死んでいる。
      2人は仲が良かったというので
      隈さんのことを考えると
      平家以来+南朝方以来の関係なのかなと思ったりします。

この佐野七五三助の甥になるのが  日本で一番人気の無い首相の  加藤高明です。

加藤高明:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E9%AB%98%E6%98%8E

彼が尾張藩の当主に越前松平春嶽の晩年の子を尾張徳川義親にしてやったのに
義親は加藤高明の治安維持法に貴族院ではただ1人反対して    (社会主義者を北海道の尾張藩士達の入植地である八雲に匿ってたし)
加藤高明はショックとイカリの末に死んでしまいました。   


で、うちの父方の親戚で「お姫さま」と呼ばれるNYのおばさまは
加藤高明の項を読むと見えて来る人物です。

     子供の時はなんで「お姫様」と呼ばれるヒトがうちの親戚にいるのか分からなかったけど
          日本人ですからね
     ワタシになんぞにも繋がってしまうのですよ。

        その次男は2001・9・11の時に運良く助かりましたが
        彼の同僚達は亡くなっています。  


        長男は回り回って三つ柏さんに到達する・・・笑


日本人はホントに小さな小さな世界に生きているって思います。
[17]三つ柏服部さんからのコメント(2019年07月04日 10時52分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ただ今、二十冊位の本を同時進行でつまみ読み(おいしいところだけのつま
み食いのようなもの)をしております(時間との戦いでもあります)。

 歴史は広く深く、際限がありません。読んでも読んでもコンピュータのよ
に記憶できることはありません。読んだ一方から記憶は消えて行きます。
ただ言えることは、頭の中の片隅に「勘ビュータ」としての機能は養われて
行くということであります。何かの時に、「アッ確かそうだった…」と気付
き、あれこれ探して記憶部分に立ち戻ることができます。
 その繰り返しで、記憶はだんだんと頭に定着して行くのだと思います。

 でも、やはり若い頃ころから歴史の勉強をいておくべきだったと、今更な
がら悔やみます。記憶能力の低下の追い打ちもあります。その点については、
記憶の再現力の機能を持つ「海馬」の能力を何とか回復させたいと思ってお
ります。何かいい方法はありませんでしょぅか?

 さて、私が歴史を概観して思うことは、歴史には「三つの法則」があると
いうことであります。
 それは――
 @利害関係の法則
 A好き嫌いの法則
 B流れの法則
であります。

 @の「利害関係の法則」は、「理」であり「頭」で決定する結果法則であ
ります。そのためには、色々な人間関係の強化を図ります。信用できるか否
かは、「血縁」による信頼が一番であります(但し、往々にして家督相続等
に骨肉の争いが生じますが)。

 Aの「好き嫌い法則」は、「情」であり「心」で応じる結果法則でありま
す。好き嫌いで判断するのは、正に人間的情動と言ってもいいかも知れませ
んが、そこには憎しみと愛がからんでおります。

 Bの「流れの法則」は、ある意味個人の能力を超えた身の回りに起こる大
きな流れによる結果法則であります。それを人は「運命」とか「宿命」と呼
ぶのかも知れません。

 実際には、これらがミックスされた形で人間は動き、動かされて行くのだ
と思います。

 服部宗純を通して派生している「一忠」、あるいは「政光」、あるいは
「保次」、それぞれがどのような歴史的法則に基づいて進行して行ったの
か、詳しく知ることができたらなあと思っています。

 服部宗純がなぜ「津島」に来たのか、その子孫たちが「織田」、「今川」、「徳川」等の間をどう切り抜けて行ったのか、お互い連絡を取りながら進ん
で行ったのか、そこには「服部党」というものの存在があったのかどうか、
注目されるテーマではあります――
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月04日 13時26分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


>記憶の再現力の機能を持つ「海馬」の能力を何とか回復させたいと思っております。
>何かいい方法はありませんでしょぅか?

まさに  本家にお盆に集まる事  です。

1年に1回か2回、席を設けて一族で先祖話をするのですよ。
そうすれば忘れることはありません。

次の世代に伝わりますし。


それが今は核家族化で  オットの在所や実家になんか、誰が行くものか  という時代になって  話を知っている年寄り達は次々と鬼籍に。

もうすぐ日本の天皇制が終わりますから  それで良いのですよ。
「日本人の」心の拠り所だった天皇制が崩壊するんですから  忘れて  上等!
異民族によって突然外から壊されるのでなく、日本人が、自分達でコツコツ内から壊してきたんですから。


親友によく言うのです
記憶力の維持には子供時代の友達と思い出話やバカ話をすること、って。


高校時代から始まった友人は脳の活性化にはたいしたことないし
大学時代なんて、もう、無駄だし
仕事上、利害関係が生じた同僚や知り合いなんて時間の無駄だし
やっぱり子供時代の友達がいいわよ、と。

私達の場合は12歳から22歳まで10年べったりやって来たから脳にいいわよと。
それで来年からはムカシの友人達には積極的に会おうかなと。
お互い暇だし。


ココにグダグダ書いてるムカシのクラスメート達を思い出して
      市橋とか舟橋とか横井とか
いろいろ思い出すことがあります。



政治家で父方の親戚になるのは  江崎真澄で
だから政敵は  海部俊樹。ネクタイが水玉のヒト。


海部  
徳島は  カイフ  と読むのよね
尾張は  あま   と読むのです。

この違いがよく分からないです。
海部俊樹はカイフだから三木首相(徳島の出身)に可愛がられたってハナシです。徳島つながりで。


ところが  尾張にも  カイフさんが  いるんです。
どこから来たのやらワタシには謎です。


ところが海部俊樹って  うちの父の顔にソックリなんです。
         だったらやっぱり尾張でいいわけ?


海部俊樹の従弟の小林誠先生(ノーベル賞受賞者)とは父は似てないです。
小林先生の母で海部俊樹と繋がるって話です。


父は  岡田元也?さんにソックリです。岡田克也の兄上です。克也には全く似てない。似てるのは兄上の方です。ジャスコの。
このヒトはバブソン大学でMBAを取得したそうですが、トヨタの章男さんがバブソンでの少し後輩になるのかな?

         前に書きましたよね
         豊田家と服部兼三郎商店の話。
           
岡田さんの出身は四日市です。
その前は員弁郡です。   モロに平家じゃん!

         だから父とは  伊勢繋がりで似てるの?と。


そして石原慎太郎にも父はソックリです。裕次郎の方には似てません。残念っ
石原慎太郎の石原家は元は服部姓ですから     家紋は矢車だったかな?7本だったような?
やっぱり伊勢伊賀の服部の出なんだろうなと。それが伊予に転封で名字も変わったし、でも、顔がソックリ。


だから他人みたいだけど、顔が似てて当たり前なのかな?と。
    


舟橋さんの事から以上の事を思い出しました。


舟橋さんってものすごく目の大きな可愛い顔をした女の子で
平野さんが美しいとか目が大きくて  というと   やっぱり舟橋さんがらみなのかなと。

     近所の長田さんも(別な意味で)美しい一族でした。
     感じとしては清原果耶の目つきをおとなしい印象にした感じ。
     目力を無くした感じ。


こういうバカ話を子供時代からの友人や
先祖を同じくする一族と話してたら
いろいろ思い出し、記憶に残るんじゃないかな
と思います。


わたしは日本国内でもアチコチ転居したので  顔を見て名字を聞いて出身地を確認して  ああ、あそこのアイツか  なんて結構情報を得ました。


最近ボケがすごいので英会話学校と日本語学校に行こうかなんて80歳の友人と話しているところです。
[19]三つ柏服部さんからのコメント(2019年07月05日 15時01分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 時間をくっておりますが、まだ頭の中に天の声が降りてきません(熟成して
おりません)。しかしながら、そうも言っておられませんので、見切り発車い
たします。

 土岐頼政にこだわったのは、土岐氏の直系の祖ではないものの、ほとんど
土岐氏の本家筋の祖先のような存在であり、源平の時代から、戦国時代まで、
頼政(頼光も含め)は土岐一族の心の中に光り輝いていたと推測いたします。
 つまり、土岐頼芸が斎藤道三によって国外追放され、実質滅亡した。その
再興をめざす一族の心の中には、もちろん美濃源氏かつ美濃守護家土岐氏の
栄光を取り戻すということもありましたでしょうが、やはり頼政以来の誇り
というものが作用していたのだと思います。これはまだ推察の段階なので、
確証はありませんが、きっとその内見つかるものと信じております。
 土岐氏といえば、土岐氏に仕えた「斎藤氏(道三は別とします)」でありま
すが、藤原利仁流の流れであります。後鳥羽院の時、「親頼」が美濃国の目
代となります。ほぼ同じ頃、清和源氏頼光流土岐氏は、「頼康」の時に尊氏
将軍から、美濃・尾張・伊勢三国の守護職を賜っております。結果として、
斎藤氏は土岐氏の家臣となり、その後、おおよそ二百年にわたり、守護・守
護代として関係し続けた来ました。
 土岐氏と斎藤氏は一心同体、上下関係も後半部には逆転した状況でありま
した。
 土岐氏の一流に明智光秀がおります。土岐氏・明智氏・斎藤氏と関係する
のが朝倉氏であります。
 この朝倉氏は不思議な求心力と遠心力をもった人でありました。

 次回に続く――


[20]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月06日 06時33分41秒 ) パスワード

三つ柏さん

戦国時代って登場人物が生き生きとしてて日本人は好きな時代だって思いますね。
自分だったら?
と重ねられますから。

     ま、早々と討死でしょうけど、残念ながら。


光秀が放浪してた頃の朝倉氏というのは名門の尻尾をまだ引きずってる頃で名声はあったんでしょうね。
しかし光秀が頼った時には  平成時代の日本  という感じの「オワコン」の家だったんじゃないかな。

丁度日本が「茹で蛙」と呼ばれてたみたいに  本人はいい気分で温泉に漬かってるつもりだったけど温泉じゃなくてスープで煮られて食べられる  ところというのに気づいてない。

朝倉義景はそんな感じ。



で、ワタクシがイメージする光秀役にピッタリの俳優というのは  池松壮亮  で
    頭脳明晰  だけど  表情が暗い
    自分の頭脳を生かせる主人はどこだ?と捜しているイメージ

そんな感じの光秀を池松壮亮なら出せるんじゃないかな、と。  

    光秀の暗さというのは、イヤミを言っても相手が理解出来ない頭脳の持ち主だから失望し、
    内心バカにしながらイラついているのがツイツイ顔に出てしまう。  
    笑


    長谷川博己だと、相手にいったイヤミが通じないな、コイツはバカか、と鼻の先で嗤っている感じがモロに顔に出るのでは、と。



ムカシのヒトは細い細い糸の縁を頼って=ほぼ蜘蛛の糸なみの見えるか見えないレベルなのに=放浪してチャンスを捜し求めたんじゃないかなと。


本姓の源氏でも、大家になった土岐姓でもなく、屋号の明智姓というところに劣等感を抱きながら
畿内を中心に光秀は歩き回ったんじゃないかなと。
どこかの家で自分の頭脳を発揮できないか、と。


     わたしは池松壮亮の声が好きなんですけどね

     だから長谷川博己の甲高い声より池松壮亮の落ち着いたセクシーな声の方が明智光秀の方がいいのに、と。
     長谷川博己だったら信長役の方がいいのに、なんて思ったりする。
     長谷川博己の顔の研ぎすまされた隙の無さでも信長役の方がいいのに、と。


光秀は自分の能力を発揮出来る家を求めて当時の畿内あたりの有力大名の家を観察して歩いたんじゃないかな、と

最初は畿内の最有力大名の六角氏あたり
六角定頼の娘達は細川春元の後妻や土岐頼芸の正妻、北畠具教の正妻さらに若狭武田信豊の正妻になってるし


既に権威しか持ち合わせていないボロボロの足利幕府時代を引きずった畿内で
どこの家で足利幕府の立て直しに自分の能力を発揮できるかと見て回ってたんじゃないかな。


美濃国が下剋上で斎藤道三の時代になっていくのを見てた光秀の流浪時代は
若狭の武田もダメだし
近江の浅井久政はバカだからその内に朝倉に飲み込まれるんだろうな
などと見ながら
六角か朝倉か?
この2択だったのかな?と。

ま、選んだのは朝倉だった。
だけど朝倉義景は「煮られる蛙」だった。


日本が平成の30年で墜ちたというのを認めたくない我々凡人は
ブルーオーシャンを求める覇気も無く
若者はレッドオーシャンで溺死寸前。


経済学者の森永某が「これからの若者は年収300万円の人生だ、かわいそうに」と言ってたけど
実際は300万どころか「年収200万」で契約とか派遣で働いているんだとか。

                    アメリカの40年後れです


ベビーブーマーは  逃げ切り世代  とか呼ばれるんですって?
退職金もしっかり手にしたし
年金も(減らされたとはいえ)貰えて。


光秀は先祖代々働いてきた大会社が倒産して放り出された有能な人材って感じがします。
今の時代に重なるな、と。
来年のNHK大河はどこかの大会社のお家騒動みたいで楽しみです。


今の「いだてん」はやっと二部が始まって楽しみにしています。一部には途中で落伍した。
阿部サダオと桐谷健太の掛け合いが実に面白いです。

おかげで何故今上陛下が子供の時に浜名湖で赤フンだったのかというのが分かりました。
久しく  なんで浜名湖で遠泳なの?  と謎でした。
[21]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年07月06日 09時24分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私の通った高校(田畑政治の出身校)では、みんな浜名湖で赤フンで遠泳
をやらされました。伝統だそうです。今はどうなっているかわかりません
が……。

 今は忙しいで、またにします――
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月06日 17時28分00秒 ) パスワード

三つ柏さん


光秀という人物は生誕の地が5つも6つもあるということで  
                (4つか5つは  光秀 and/or 明智氏ゆかりの地  ということでしょうね)
さらに
道三が戦死してから放浪した先がどこだったのかもハッキリしないし

いろいろ語られる話は小説家や語り部の創作した伝説でしょうね


でも、それだけ自分を出さずに相手の出方を見てた、ということかも。
光秀の人生は「雌伏」の半生だったんでしょうね。
その間に教養を積み朝廷関係者ヨシミを通じ軍事を学び、日々、研鑽に励んでたんでしょうね。


朝倉義景も幼少期がハッキリしない人物のようです。
そして
自滅していくのも嫡男の死にウダウダしてたから機会を逃してしまったとかで
家名は立派で教養もあるけど実力は無い   =  今川氏真  みたいな人  だったのかな?と思います。


群雄割拠の時代に結構運が転がり込んでたのに道三が息子の義龍と不和になって戦死して道三方だった光秀の家も崩壊。


道三の妻が明智の出で
だから
信長の妻になった濃姫は光秀の従姉妹だとか。


けっこういい線いってたのにね。

信長を殺さなかったら信長王朝で結構良い大臣になってたのかもですね。


でも人間「運」に懸けたい時とかありますよね「勝負」に出たいとか。
勝算はあったんだから。


光秀は天才肌
秀吉は水平思考の出来るオトコ   地頭力で天下を勝ち取った   ということでしょうか。

光秀はまさか秀吉に敗れるなんて思ってもいなかったでしょうね。自分の方が源姓を持ち土岐氏の流れで出自は優れているのに、と。


ここで謎が浮いて来ます:
秀吉が松下加兵衛之綱の家を辞して信長に仕えることになったハナシ
秀吉の才覚を勝っていた?なのに今川系には就職を斡旋しなかった?

秀吉が松下家で嫌われたハナシが本当とすると秀吉は尾張のスパイじゃないかと疑われていた?

だから尾張に帰れ、と?
遠江にいるより尾張で仕える方がいいぞ、と?


1つ思う事は
平家と南朝方繋がりで
平家で南朝方の家に仕えた方がいいぞ、と?
そうなると織田家かな?と。



田畑政治は幕末でいうと坂本龍馬のようなタイプだったのかなと。

(田畑政治本人は実際には長生きだったのに自分は早死にすると思い込んでいたから)
何でも命のあるうちにやってしまおうという行動に出たのかな?


豊田家も遠江の出身でしたよね、拳母に出る前。


時代が生んだ英雄とか偉人とかなんでしょうね。

    わたしは無芸大食で時代には選ばれないその他大勢。あはは
[23]三つ柏服部さんからのコメント(2019年07月07日 04時40分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 無芸大食に徹するということは、ものごとにこだわらず、何でも前向きに
吸収するということでありますので、それはそれで素晴らしい悟り方だと思
います。

 
 
 
[24]三つ柏服部さんからのコメント(2019年07月08日 06時48分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明智光秀を理解するためには、土岐氏・斎藤氏、朝倉氏・浅井氏、本願寺、
足利義昭の相関関係を深く理解しなくてはなりません。その間(はざま)に服部
党が存在しております。そして、最後は、明智と服部の関係が最大の謎解きと
なります。時間がかかります――
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2019年07月10日 10時33分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「点」と「線」……いくつかの「点」があり、それを論理の成り立つ
「線」で結びつけることができて、初めて「筋(ストーリー)」が完成し
ます。それは簡単なようで簡単ではありません。一つ一つの「点」とそ
の背景を深く理解しなければ、「点」と」「点」を結ぶ「線」は見えて
きません。
 ということで、織田家をとりまく戦国時代の一つ一つの「点」を、必
要に応じて詳しく探求してみようと思います。
 
@織田家が「津島」を支配したのはいつのことであろうか?

 織田弾正忠(だんじょうのちゅう)家の「織田信貞」(信秀の父、信長の
祖父)は、大永年間(1521〜1528)の初期に津島の北東約4qの勝幡(しょば
た)に勝幡城を築いた その後、信貞は津島を数度にわたって攻め、焼き
払う。その頃の津島の領主的存在(奴野城主)は大橋清兵衛重長で、信貞の
息子信秀の娘を室として織田方と和睦し、これより津島は信貞・信秀の支
配する所となった。


 次に続く――
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月10日 13時41分19秒 ) パスワード

三つ柏さん

続きを楽しみにしていますね。


では奴野と大橋家について書きますね。
コピペだけど。

               管理人さん、感謝です。


http://www.oshiromeguri.com/tushima/01nunoya.html

奴野城
戦国時代以前に大橋定省が築いたお城


愛知県津島市の奴野(ぬのや)城は、戦国時代以前に大橋定省という武将が築いたお城です。


津島市は、津島神社の門前町をして古くから発展してきた町です。

奴野城主・大橋氏の祖先である九州の守護大名・肥後入道貞能が、源頼朝から永代退隠領として津島の地をもらい、文治年間(1185〜89)頃から代々、居住したそうです。

もともとは単純に住むだけの屋敷だったのですが、お城として築城(改修?)されたのが、鎌倉末期の元弘二年(1332)の頃。


この時の当主が大橋三河守定高(一説には息子の貞省とも)でした。


ところで奴野城の歴史的に分かっている事はこのくらいで、奴野城が戦国時代、江戸時代ににどうなったのか?というのが謎に包まれています。
以上コピペ


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B2%9E%E8%83%BD

平 貞能(たいら の さだよし)

平安時代末期の武将。
伊賀国を本拠とする平家譜代の有力家人である。
父は平家の「一ノ郎等」(『愚管抄』)である平家貞。


保元の乱・平治の乱に参戦し、平清盛の家令を勤め(『玉葉』治承4年2月20日条)、清盛の「専一腹心の者」(『吾妻鏡』元暦2年7月7日条)といわれた。

仁安2年(1167年)5月、清盛が太政大臣を辞任して嫡男の平重盛が平氏の家督を継ぐと、平氏の中核的な家人集団も清盛から重盛に引き継がれた。

同じ有力家人の伊藤忠清が重盛の嫡男・平維盛の乳父であったのに対して、貞能は次男・平資盛の補佐役を任された。


忠清は「坂東八カ国の侍の別当」として東国に平氏の勢力を扶植する役割を担ったが、貞能は筑前守・肥後守を歴任するなど九州方面での活動が顕著である。



治承・寿永の乱

治承4年(1180年)10月、平氏の追討軍は富士川の戦いで大敗し、戦乱は全国に拡大した。

12月に資盛が大将軍として近江攻防に発向すると、貞能も侍大将として付き従った。

畿内の反乱はひとまず鎮圧されたが、翌治承5年(1181年)閏2月に清盛が死去した。

後継者となったのは清盛の三男・平宗盛であり、重盛の小松家は一門の傍流に追いやられることになる。

同じ頃、九州でも反乱が激化しており肥後の豪族・菊池隆直らは大宰府を襲撃した。

4月10日、宗盛の強い推挙で原田種直が大宰権少弐に補され、4月14日には菊池隆直追討宣旨が下される(『吉記』同日条)。
8月、貞能は反乱鎮圧のために一軍を率いて出発するが、早くも備中国で兵粮の欠乏に直面した(『玉葉』9月6日条)。
追討は困難を極めたが、翌養和2年(1182年)4月にようやく菊池隆直を降伏させることに成功した。


寿永2年(1183年)6月、貞能は1,000余騎の軍勢を率いて帰還するが、7月には木曾義仲軍の大攻勢という局面に遭遇する。



                           ココで宇治田原が出て来た!↓
                           伊賀呉服明神の神職の服部貞信が宇治田原に引っ込んでましたよね
                           それで神君伊賀越えの際に和泉国堺より近江国信楽まで嚮導した、って


貞能は資盛に付き従い軍勢を率いて宇治田原に向かったが、
この出動は宗盛の命令ではなく後白河法皇の命令によるものだった。

小松家が平氏一門でありながら、院の直属軍という側面も有していたことが伺える。

宗盛は都落ちの方針を決定するが、貞能は賛同せず都での決戦を主張した。


九州の情勢を実際に見ていた貞能は、西国での勢力回復が困難と認識していた可能性もある。


25日の夕方、資盛・貞能は京に戻り、蓮華王院に入った。
一門はすでに都落ちした後で、後白河法皇の保護を求めようとしたが連絡が取れず、翌26日の朝には西海行きを余儀なくされる。

『平家物語』一門都落の章段によれば、
貞能は逃げ去った一門の有様を嘆き、
源氏方に蹂躙されぬように重盛の墓を掘り起こして遺骨を高野山へ送り、辺りの土を加茂川へ流して京を退去したという。


平家は8月中旬に九州に上陸するが、豊後国の臼杵氏、肥後国の菊池氏は形勢を観望して動かず、
宇佐神宮との提携にも失敗するなど現地の情勢は厳しいものだった。

特に豊後国は院近臣・難波頼輔の知行国であり、後白河法皇の命を受けた緒方惟栄が平家追討の準備をして待ち構えていた。

惟栄が重盛の家人だったことから資盛・貞能が説得に赴くが、交渉は失敗に終わる。

平家は10月に九州の地を追われるが、貞能は出家して九州に留まり平家本隊から離脱した(『玉葉』閏10月2日条)。

また『玉葉』の寿永3年(1184年)2月19日条に資盛と平貞能が豊後国の住人によって拘束された風聞が記されている。



平家滅亡後の元暦2年(1185年)6月、
貞能は縁者の宇都宮朝綱を頼って鎌倉方に投降する。


朝綱は自らが平家の家人として在京していた際、貞能の配慮で東国に戻ることができた恩義から源頼朝に助命を嘆願した(『吾妻鏡』7月7日条)。

                       これが大橋が津島に住むことになった上記サイトのお話の回収です。


この嘆願は認められ、貞能の身柄は朝綱に預けられた。


北関東に那須塩原市の妙雲寺、芳賀郡益子町の安善寺、東茨城郡城里町の小松寺、そして南東北でも仙台市の定義如来など
貞能と重盛の伝承をもつ寺院が多く残されているのは、貞能の由緒によるものである。



続く
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月10日 14時03分21秒 ) パスワード

https://yaplog.jp/rekishi-meijo/archive/182
からのコピペです。

                    管理人さん
                    感謝です


大橋氏の居城奴野屋城については、不明な点が多く浪合記から引用した。

                           浪合記は宗良親王を大将とした南朝方のお話です


奴野屋(ぬのや)城は、大橋三河守定高が正慶元(1332)年に初めて築く。
その前には城は無かった。

右大将頼朝卿から、大橋の先祖の肥後入道貞能に隠退の領として、尾張國海部郡門真庄を永代下された。

そのため足利家が天下を治めたまうといえども、頼朝の下文のとおり大橋氏の領地となっている。

定省の時、良王(よしたかの君)を津島に隠したが、
京都からは何も言われなかった。


肥後守平貞能は、文治の頃から津嶋に住んでいた。
 
                       頼朝から土地を貰ったからね


その子、貞経は肥後國に住んだ。

貞経の子、大橋貞康は三河国額田郡に来て住んだ。
その場所は、大橋と呼ばれている。
大河内、中根、大橋の三ヶ村は、隣郷である。


                       なるほどね
                       それで  華陽院さまが(大橋の一族の)川口さんに(最終的に)ヨメに行ったのか
                       華陽院さまはお大さまの母上で家康の祖母です
                       美しさゆえにオトコからオトコへと譲り渡された気の毒な女性です


                       大河内さんとか大橋さんは南朝方だし中根さんは平家一族だし   なるほどね


                       
尹良(ウチではいずよし  ヨソではゆきよし)親王の娘、桜姫という姫君が大橋定省に嫁いで、男子を多数産んだ。
修理亮貞元、三河守信吉らである。


                       尹良親王の息子が良王君でホンヤさん宅で亡くなったと聞きました



城跡は、西方寺周辺一帯と伝わるが、市街化にともない遺構などは何も残っていない。



コピペ続き

       信長の祖父・織田信定の登場

今では想像も出来ないが、津島は昔、木曽川の支流・佐屋川と天王川の合流点にあり、湊があったのだ。

街は鎌倉時代から湊を中心に発展していった。

中世の京都や鎌倉など東国を結ぶ海上輸送の玄関口で、商品流通の中心となり、伊勢湾海運の拠点であった。

また、同時に津島神社の門前町としても発展した。



続き

この時代を著す資料として「浪合記」があり、
浪合記は江戸時代に書かれ歴史書としては偽書とも言われているが、   ← 明治政府にとっては徳川家を否定しないとね

登場する寺院が残っている、
四家(大橋・岡本・山川・恒川)
七名字(堀田・平野・服部・鈴木・真野・光賀・河村)  

                       平野は北条時行子孫の横井さんからの分家、
                       堀田は春日局に関係する江戸時代の大名でココから尾張藩の最近の当主が来た

と呼ばれる姓が津島近郊に多いという事実もある。

                       5?名姓というのもあったけど記憶がアヤフヤ
                          藤原(伊藤さんだね)とか長野とか  ハッキリ覚えてない   赤堀だったかな?



浪合記は南北朝時代、南朝の後醍醐天皇の末裔・良王君の生涯についての物語で、
北朝に追われ四家七名字に守られながら、津島へやってきて津島神社の神主となったとされている。



コピペ続き
ここが三つ柏さんのレス<25>に呼応します。


津島は、室町時代末期には尾張を代表する湊町となり
「宗長日記」にその様子が描写されている。

そして、このころに織田信長の祖父、織田信定が現れたのだ。


当時、守護大名斯波氏のもと、織田家直系が尾張を治めていた。
しかし、尾張の中にあって津島は、守護の支配が及ばない四家七名字の有力者達による自治都市が形勢されていた。

そんな尾張の空白地帯である自治都市・津島の支配を目論んだのが信定だった。


津島は低湿地のため年貢がみこめず、武家の誰からも見向きもされない土地だった。
だが、信定には才覚があった。
信定は年貢に頼らずとも、
津島湊の商取引に課税することで、より莫大な税収を得られると考えたのである。


そして、勝幡城を築き津島を支配することに成功すると、その目論みも見事に的中させたのである。


◇奴野屋城【所在地】愛知県津島市天王通 4-23 (西方寺)
◇津島湊跡【所在地】愛知県津島市宮川町 (天王川公園)
◇信定古城蹟碑【所在地】愛知県稲沢市平和町六輪城之内

以上コピペでした
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月10日 14時10分50秒 ) パスワード

関係無いけど  御器所(ごきそ)についてのサイトがあったのでコピペします。

清盛が忠盛から相続した土地の1つです。
秀吉のお母さんが御器所の人です。

                    服部監物とかいう人が治めてたような記憶(あやふや)


ではコピペ   谷川彰英さま、感謝です

【地名の由来4】昭和区「御器所」に隠された熱田神宮の謎


「御器所」といえば名古屋では誰でも知っている町名ですが、県外の人にはまず読めないでしょう。この地は御器所台地の中央に位置していて、昔は「村雲(むらくも)の里」とも呼ばれていたそうです。これも何やら意味ありげですね。


『尾張誌』という本に「此地は古熱田神宮御神領にて、神事に用いる土器を調進する故に御器所と名つけたるよし」と書かれています。つまり、熱田神宮に献ずる土器を作っていたところから「御器所」という地名がつけられたというのです。

じつはこの御器所は熱田神宮とはそう遠くないところにあります。

熱田神宮といえば、名古屋を代表する神社ですが、この神社の御神体となっているにはその昔、天照大御神が天孫降臨の際に授けたとされる「草薙剣(くさなぎのつるぎ)(天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ))」なのです。

この剣は「八咫鏡(やたのかがみ)」と「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」と合わせて「三種の神器」と呼ばれているものの1つです。

それがこの熱田神宮に祀られているということは大変なことなのです!


この剣を持って東国を制覇していったのが、日本武尊なのですが、その日本武尊が活動の拠点にしていたのが実はこの熱田神宮周辺だったのです。

「村雲の里」と呼ばれたのもこの剣の名前からですし、御器所近くにはなんと「村雲小学校」「御劔(みつるぎ)小学校」という学校もあるのです。

今はこのような古い歴史を学校では教えていないのですが、子どもたちにもすごい歴史を持った土地だという自覚を持ってほしいものです。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月10日 14時25分46秒 ) パスワード

関係無いついでにホンヤさんがらみなので記念にコピペ:

http://www.oshiromeguri.com/yatomi-kanie/

鯏浦城うぐいうらじょう
信長の弟・信興の居城で敵対する服部氏が攻めたお城


鯏浦城は、
尾張西部に勢力を持ち、織田信長に反抗していた服部氏とその一党に対抗するために、
永禄八年(1565)頃、信長が築いたお城で弟・信興に守らせていました。


鯏浦城があった辺りは、昔は海岸線であり、
荷之上集落とともに自然堤防上に立地し、
蟹江城と並んで中世期城砦の最南に位置しています。


服部氏はもともと尾張守護・斯波氏の旧臣で、
織田氏とは同格という意識が強く、            ウチの方が格上だよ、とディスっておく
まったく従いませんでした、
というか隙あらば信長を倒そうとしていたのです。     そうなのです
                            これ書いたヒト、うちの一族?



例えば永禄三年(1560)の桶狭間合戦時には、今川義元と共に信長を挟み撃ちにしようとしたり、
長島一向一揆に味方するなど、敵対心バリバリでした。
                            そうなのです                   


そんな服部氏を押さえるために築いたのが鯏浦城で、信興がしばらく服部氏に睨みを利かせていました。


この信興は、古木江城主(愛西市)も兼ねており、一向一揆に対する織田家の指揮官だった様です。


ですが服部氏は元亀元年(1570)に動きだします。


まず鯏浦城を攻め、信興を古木江城まで押し戻し、伊勢長島一向一揆の民衆と共に攻め、信興は亡くなってしまいます。
                       殺したんだよ〜


これ以来、信長は服部党ら対抗勢力に対して攻め入り、
三度目の天正二年(1574)には大軍を送り込み、
周辺をことごとく焼き払いました。


そうこうしているうちに鯏浦城は廃城になったみたいです。



信長公記に次の様なエピソードが記載されています。

永禄三年(1560)の桶狭間合戦時、
服部氏は今川義元が桶狭間まで出陣したのを知り、信長を背後から襲うべく、船で桶狭間に向けて出陣しました。


しかし到着する前に義元は討たれてしまいます。
                       近所の朝比奈一族の方に「アンタんとこがサッサと負けちゃったからウチは大変だったんだよと毎度言ってます


でも手ぶらでは帰る事ができず、当時、織田家に従っていた熱田の町を焼き払おうと、熱田に上陸します。


ですが武装した町民たちの抵抗に遭い、コテンパンにやられた服部さんは、結局逃げ帰ったのでした。

                       はははと笑ってごまかしておく


鯏浦城は織田信興、服部友貞率いる服部党と、目まぐるしく戦乱に遭った歴史を持っています。


そんな鯏浦城ですが、今では静かな住宅地の中の薬師寺というお寺になっており、お城の遺構は残っていません。


鯏浦城跡には、信興が崇拝していた薬師如来を収めるための御堂が建てられ、これが明治時代初めに現在の薬師寺となりました。


現在、境内に鯏浦城の石碑がありますが、これは昭和五十一年に建てられたものです。


また境内には大楠があり、樹齢は六百年とも伝わります。もし本当なら、この大楠は歴史の移り変わりを見てきたのでしょうね。



所在地 弥富市鯏浦字上六町49
立地 平城
築城時期  永禄年間(1558〜69)
築城者  織田信長
主な城主  織田信興・服部氏
現状  薬師寺
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月10日 15時05分29秒 ) パスワード

次に蟹江合戦のことをコピペしたいと思い
  あれ?蟹江合戦って
  うちの一族の誰かが関わってたよね
  と思い引っ張って来たら

服部保長の長男=保俊=の子供=保英=が天正12年1584年に水野勝成に属して武功を挙げた
でした。

服部保長の三男の家が服部半蔵の家になっていくのです。




そして   服部政家の子が左京亮友貞と政光で   政光の子が政信でした。つまりホンヤさんとは叔父甥の関係でした。


ムカシのメモを見てたら
政信の4男の信成が   夷隅郡で1500石   妻は川口久助宗次の娘

                             大橋の一族の川口さんですよ
                             川口さんは家康と華陽院さまを挟んだ親戚です
                             なるほどね
                             ホンヤさんが尾張徳川家の中で特別な家のはずだ

                             だから吉宗と喧嘩した尾張藩主の後釜に、
                             ホンヤさんで養育した高須家の子を尾張藩主にしたはずだ

                                幕末にはこの高須藩から尾張や会津や桑名やその他の殿さまに養子に行きました

                             やっぱり回り回ってみんな親戚
                                わたしは馬の骨の服部のじゃじゃ馬娘です



ではコピペ

http://www.oshiromeguri.com/yatomi-kanie/04kanie.html
蟹江城
小牧長久手合戦の後半戦である蟹江合戦の舞台

蟹江城は小牧長久手合戦の後半戦である、蟹江合戦の舞台になったお城です。

                       秀吉と家康が喧嘩した時の話ですね


永享年間(1429〜40)の築城と伝わる蟹江城の築城者は、2つの説があります。


まず一人目は赤目城(愛西市)の横井氏の先祖・北条時任。
                       でました!北条時行の子孫


もうひとりが渡辺源十郎という人物です。


お城の規模は、ほぼ90m四方で大手口が南にあり、三重の堀で守られており、桑名方面(現・三重県)に対する構えのお城でした。


蟹江城が歴史的に有名になるのは蟹江合戦で、
これは天正十二年(1584)小牧・長久手合戦の後半戦ともいうべき、蟹江城の争奪戦です。


織田・徳川連合軍方だった蟹江城主・佐久間正勝は、伊勢(現・三重県)の萱生に砦を築くため留守役を前田与十朗長定に命じました。


しかし長定は、かねて羽柴方の滝川一益に通じており、一益軍を蟹江城へ招き入れてしまいます。


これを知った織田・徳川連合軍は大軍をもって蟹江城を包囲。一益は対抗できず降伏しました。与十朗長定はこの時に亡くなっています。


蟹江城はこの時、織田・徳川連合軍により廃城となり、翌年の天正十三年(1585)に大地震で倒壊したという事です。


歴史
かつては小牧・長久手合戦の局地戦ともなった蟹江城ですが、現在では閑静な住宅街になっており、
本丸部分には、蟹江城を示す石碑と井戸が残されています。

石碑のある場所の西側を大きな蟹江川が流れており、西側に対して備えていたお城という事が分かります。

また近くには蟹江町歴史民俗資料館があり、蟹江合戦の展示物が少しあります。


所在地  蟹江町大字蟹江本町字城       あざ・しろ  なんてズバリの凄いネーミング
立地 平城
築城時期  永享年間(1429〜40)
築城者  渡辺源十朗? 北条時任?
主な城主 北条氏、渡辺氏、織田長益、佐久間氏、前田氏、佐久間正勝
現状 住宅街
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月14日 03時41分06秒 ) パスワード

三つ柏さん

レス<31>は拝見しております。


やはり  お盆  ということで
ご先祖さまがパワーを下さったのかも
ですね。


つまり先祖供養・一族供養とは  すべき  ですね。



大橋が津島に定住することになった経緯は上記のコピペ・レスで分かって頂けましたね。
     頼朝から拝領した土地

     宇都宮氏を頼って落ちていった貞能は守られたけど
     後で頼って行った  服部家次は断られ  もっと山奥に落ちて行きました(今は温泉宿になってますね)


信長パパが大橋家の津島を乗っ取ろうとした経緯も上記レスにコピペしましたし。


定明寺さんに大橋家の位牌があったとのご報告
どちらの大橋さんか分かりませんが

     元々が平家貞の兄弟同士の一族ですし

     頼朝の援助で三河の大橋に定住することになった三河大橋さんの子孫かも知れないし尾張津島の大橋さん子孫かも知れないし
     尾張津島の反信長勢力(政信系の仲間)の遠江大橋さんかも知れないし。

     結局は  一族  の大橋さんのお位牌  でしょうね。


知らなかったことが分かって良かったです。
定明寺のお位牌の皆さんが喜んでくださったのを感じました。
わたくしの分も般若心経を宜しくお願い致します。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月14日 03時55分04秒 ) パスワード

https://www.jalan.net/onsen/OSN_50088.html
湯西川温泉


壇ノ浦の戦に敗れた平家が隠れ住んだという、平家落人伝説の残る美しい温泉郷。

渓流沿いに藁葺き屋根の家が並ぶ風情ある景観に心和む。

アルカリ性単純泉の温泉の発祥は天正元年で400余年の歴史をもつ。

地元で採れた岩魚・ヤマメ等の川魚や野鳥・鹿・熊・山椒魚やみそべら等をいろりでじっくり焼いて頂く落人料理が有名。



https://www.jalan.net/yad373449/
湯西川温泉 本家伴久 平家伝承かずら橋の宿

平家直孫創業1666年の宿。
「かずら橋」を渡り平家隠れ館で炭火焼きいろり会席料理。

湯西川温泉
東北道宇都宮IC経由日光宇都宮道今市ICより国道121号を会津・湯西川温泉方面に60分


へぇ〜
湯西川って   群馬だと思ってた。   栃木だったのか。  良かった(さいたま)と書かなくて。方向音痴なんで。


やっぱり宇都宮のずっと奥なんだね。



どっちにしろ群馬とか栃木とか埼玉とかって南北朝の時、血湧き肉躍った人達の子孫が住んでるんだろうなと思う。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月14日 05時03分52秒 ) パスワード

名古屋市中川区に  二女子ににょし  四女子しにょし  などという場所があります。

           中川区で有名な場所というと荒子で
           荒子というと前田利家の出身地です。

           中川区の北に中村区があって
           中村区の有名人というと  秀吉  です。
           

           だから利家(犬千代)と秀吉が仲が良かったというのも当たり前ですね、ご近所さんだから


で、この二女子とか四女子ですが


ある素封家に娘が7人いて
そのうちの2人  二女子と四女子が  貞能の妾になった  というハナシを大昔に聞いたことがあります。だからアヤフヤ。子供だったし。意味不明。


このあたりは名古屋駅(中村区)に、ま、近い・・・
そこから西に行った   津島  って?  けっこう遠い・・・

ワタシには遠いけどムカシの人には   文字通りのお泊り  には楽勝の距離だったのかな?
などと連想します。


とはいえ
貞能は   父が平家貞、母は宇都宮氏の娘  で、  だから従兄弟の宇都宮を頼って落ちていったんだけど

以下コピペ
平家滅亡後の元暦2年(1185年)6月、貞能は縁者の宇都宮朝綱を頼って鎌倉方に投降する。
朝綱は自らが平家の家人として在京していた際、貞能の配慮で東国に戻ることができた恩義から源頼朝に助命を嘆願した(『吾妻鏡』7月7日条)。
この嘆願は認められ、貞能の身柄は朝綱に預けられた。



那須与一の扇の的イベントで
与一が義経の御諚で  みごとな与一の腕前をほめたたえて舞を舞った平家の老人   「年の齢  50ばかりなるおとこ」を射る話があって
         50チョイで老人?笑

この人は
    伊賀平内左衛門尉が弟に十郎兵衛尉家員といふ者あり
と源平盛衰記に書かれていて


    主人である平忠盛の参内(1132年あたり)に六郎家長が16歳でボディガード   で父の家貞と一緒について行ったということは 
    服部家長は 1116年あたりの生まれで ? 1185年に死亡だから 70歳に近い年齢だった?

    平知盛さまと壇の浦で入水した乳兄弟の「家長」って  実は家長の孫では?  

    50ばかりなるオトコは1185年の扇の的イベントで50チョイだから
    十郎家員さんは家貞の末子あたり?


こうして逆算すると貞能は1185年には70いくつか80よりは前でしょうけど  すごいヨボヨボ?

     レス<27>より
     鎌倉幕府によって貞能は津島に土地を貰い 
     その子、貞経は肥後國に住んだ。
     貞経の子、大橋貞康は三河国額田郡に来て住んだ。その場所は、大橋と呼ばれている。
     大河内、中根、大橋の三ヶ村は、隣郷である。


つまり貞能がやがて亡くなって孫が肥後から三河に来た。

ということで壇の浦で負けた平家方は本貫地の伊勢伊賀および尾張三河に棲息ちょっと繁栄。
勿論宇都宮あたりにも棲息繁栄まではしないけど。

こういう人が南北朝時代まで雌伏してたんでしょうね。各地の仲間と連絡を取りつつ。


やっぱりお盆とかには一族で集まって旧交を温め情報交換をしないといけませんね。
時既に遅し、だけど。
まだ間に合うかな?


           とにかく人名地名の名前がこんがらがる。ド忘れしちゃうし。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月14日 06時13分13秒 ) パスワード

宇都宮朝綱の弟の八田知家は  噂では   源義朝の隠し子とか頼朝の隠し子とか  言われています。



例えば
平忠盛の拝領妻の祇園女御の妹は白河院の子を身籠っていたとか
斎藤道三の拝領妻の深芳野は土岐頼芸の子を身籠っていたとか
島津家の初代は実は頼朝の子である島津忠久とか

   以下コピペ
   忠久の出自については、『島津国史』や『島津氏正統系図』において、
  「摂津大阪の住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局は源頼朝の側室で、
   忠久は頼朝の落胤」とされ、

   出自は頼朝の側室で比企能員の妹・丹後局(丹後内侍)の子とされている。
   そのため頼朝より厚遇を受け地頭に任じられるとされている。



柳沢吉保の息子の吉里は実は綱吉がパパって噂ですよね

   以下コピペ
   『三王外記』によると、
   第5代将軍・綱吉の死後は綱豊が継嗣として決定していたにもかかわらず、
   綱豊を廃嫡して吉里を擁立しようという動きもあったとされている。
   その理由として、吉里は松平姓を許される家柄でないにもかかわらず松平姓と綱吉の偏諱を授かっていること、
   元服の格式などは異常なほど厚遇されていることなどから、
   吉里は綱吉の御落胤であるとされているものである。

   さらに『三王外記』では、綱吉が吉里に対して甲府100万石のお墨付きを与える約束を交わしていたとされている。

   三田村鳶魚はその著作で、吉里御落胤説を支持している。


ムカシの日本は
この人物は自分の仲間に絶対に欲しいという時は
自分の娘または猶女を娶せたけど
手持ちに無い時は
自分の愛人や側室を下げ渡したんだなと。

こうやって結束を固めたのだなと。

    そこへもって来て  屋号とかが名字になるから  ワケが分からなくなる。


トップの人間にしてみれば  自分以外は  臣下  ですから。

つまりトップの人間  将軍とか天皇(院)とかにしてみれば  自分以外の人間は貴族であろうと太政大臣であろうと
臣下=手下=奴隷=ゴミ  
ですから遠慮が無い。


女性にしても自分がトップの人間の子を産んで、その子がトップの人間になれば自分の実家が重用されるし


だから  平安時代以降こういう男女関係は共に  ウインウイン  の関係だったのかな?


庶民には盆踊りの時が年に1度の公認の楽しい乱交パーティだったわけだし。


表にはハッキリ出ないけど
人間とは
表に出るハッキリした結束と蔭の結束があるんだろうなと。


平忠盛の烏帽子親は義兄の源義忠で   源義忠は同族の妬みで暗殺されて  それで  源氏は力を失い平家の繁栄になってしまった。

だから源氏は頼朝が出て来るまで一族の中で殺し合い。頼朝も、自分も、弟を殺してるし。


やっぱり兄弟は他人の始まりだから
自分の本物の息子をアチコチの有力な武士にお願いしたかったのかな?

それで  ウインウインに。  ウインウインなのは自分1人ね。

      中国が一帯一路で各国にウインウインしようと言うけど
      世界は  お前中国が2度ウインしたいだけじゃん  と見破ってる。


持ちつ持たれつ  結局は   自分の利だけ。
有り難がって拝領妻をもらう時代はやがて終息。

わたしの時代は  え゛〜?  だけど 今は 結構  平気になってるみたい。


最近、嫡子と非嫡子の相続は同等だしね。
これだけ格差拡大階級差定着になると将来ハードルは低くなるのかもね。

身分差のあったムカシみたいになるのかもね。
世間は色メガネで見ない時代になって来てるし。


わたしの時代の男子はこんな事を言ってました+言ってます
A
お古はイヤだ
B
僕達の時代は守ったのにね




今時の男の子は(20歳前後の若者限定)相手の女の子に求める経験値が
2−3人なら丁度いい
10人とかだとイヤ
初めてはメンドくさい、どうしていいか分からない

だって。笑
アメリカの50年前の感覚。


つまりワタシも平安時代以降の人間関係は男女関係は分かって無い
ってコトですね。笑
[35]三つ柏服部さんからのコメント(2019年07月14日 16時21分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 祇園精舎の鐘の音も遠州大念仏の鐘の音も、時代は離れていますが、心の
底に響き渡ります。心の底に浸みこんだ鐘の音は、きっとこの世とあの世を
つなぐ掛け橋なのだと感じております。

 さて、栃木県の山奥に、平家の落人の里(湯西川温泉)があるとは、初め知
りました。歴史地図帳で調べてみますと、「平家落人民俗館」や「歴史資料
博物館」があります。日光の北の鬼怒川温泉のさらに北の奥……行ってみた
いけれど、ちょっと行けそうもないかなとも思っています。
 それにしても、平家の落人の里には「葛橋」がつきものですね。何か特別
な意味があるのでしょぅか?
 できれば、すべての平家の落人の里を巡り、般若心経を捧げたいものです。
もちろん、その次は源氏方ですが……。

 大橋氏と服部氏、そして中根氏の墓が、服織神社の南の常光町のお寺にあ
ります。松島源右衛門の墓もあります。何か見えそうなのですが、見えてき
ておりません。
 津島と遠州を結ぶもの、それを探したいと思っております。もっとも、良
王、大橋家、長田家、永井家と糸が結ばれておりますので、長田・永井で津
島と遠州は結ばれていると言うこともできます。また、戦国時代の将士の移
動というものは、今の私達の定住性から考えると想像を絶するものがありま
す。

 つづく――

 
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月15日 04時49分03秒 ) パスワード

三つ柏さん

書きながら泣けて来る。

群馬・栃木・埼玉あたりの出身の芸能人を見ていると
何か身内感があって
おそらく平安時代末期から室町時代後期に  平家+南朝方  で一緒してたんだろうな
と思うのです。

    ジャニーズで言うと岩田典剛が俳優の中村俊介に似てるな、と。
         岩田さんは名古屋のお金持ちのお坊ちゃまで
            ワタシは最初  岩田結納店の子かな  と思ってました。
               名古屋の超大金持ちの家が岩田結納店にお願いします。フツーとかビンボー人とかは岩田結納店なんて知らないと思う
            
            他の人が言うには「靴のマドラスの岩田さんの子だろ」。
 
               よく分かりません
               靴の岩田さんは下呂で由緒ある温泉宿もやってるって話です


       まだ他にもあの辺り出身の芸能人に「近い血」を感じます。
       残念ながら  佐藤健  には感じない。

               「竜馬伝」の岡田以蔵役では「おりて来てた」すごい俳優です。
               「Rookies」の時はパッとしなかったのに。ドレッド・ヘアしてた


湯西川に落ちて行った  服部家次  という人物。
どなたなんでしょうね?


       名字というか屋号が  服部  というところに
       誰?この人!
       です。

       服部という以上、平家貞の子か孫で、家長の一族でしょうね。

             

       Q
       なんで宇都宮のもっと奥に落ちて行ったの?
       
       A
       つまり  貞能とは違って宇都宮氏とは血で繋がってない  ということ?



ということで  湯西川  について検索して来ました:
       
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E8%A5%BF%E5%B7%9D%E6%B8%A9%E6%B3%89


湯西川の先祖は平忠実(平忠房が改名したと言われている)が落ち延びたとされ、
平家の落人伝説の残る集落で知られている。

温泉の発祥は天正元年で400余年の歴史があり、平家の落人の子孫が発見されたと伝わっている。



追討から逃れ、身を潜める山村生活を営み生きるため、
この地では今もなお端午の節句に鯉のぼりを揚げない、たき火をしない(煙を立てない)、鶏を飼わないなど
独自の風習が残っている。



更に検索:

平忠房
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E6%88%BF

平安時代末期の平家一門の武将。

平重盛の六男(五男という説もある)。

母は正室の藤原経子。
経子の父は中納言・藤原家成。兄弟に藤原隆季・成親がおり、成親は同母兄と見られている。左大臣・大炊御門経宗の猶子。高倉天皇の乳母。


『平家公達草紙』によると、
平忠房は安元二年(1176年)3月の後白河法皇50歳の祝賀の催し「安元の賀」に兄達4人と共に名が見られる(兵衛佐と書かれているが当時の役職は能登守)。

治承三年(1179年)1月、信西の5男・藤原脩範の娘を正室に迎える。


『吉記』の寿永3年(1184年)4月の条に、
忠房が密かに関東へ下向し、許されて帰洛するという風聞が記されているが
忠房は同記に翌年の12月に鎌倉に呼ばれた後に斬首されたと書かれており、
矛盾するので

前者の忠房は2月に屋島から抜けた異母兄の維盛の誤りという説があるが、
この時忠房は兄に同行して屋島から抜け出していた可能性もある。


『平家物語』の「六代被斬」によると、   6代さんは  維盛の嫡男  です
忠房は平家が屋島の戦いで敗れた後、
ひそかに陣を抜け出し、
紀伊国の豪族湯浅宗重の庇護を受けて同地に潜伏する。

                          湯浅さん、出ました!
                          DNA的には  ワタシも
湯浅さんの血が南北朝期にも混じってる感じがする(笑)

                          この時に維盛が入水したのかもね。

                          紀子さまが維盛の子孫という話はアチコチから聞いている。別ソースで。



壇ノ浦の戦いで平家一門が滅亡した後、
源頼朝による追討を受けるも、
宗重や藤原(伊藤)景清ら平家の残党が忠房の元に集い、
3ヶ月の篭城という徹底抗戦する。

しかし「重盛には旧恩があり、その息子は助命する」という頼朝の偽りの誘いを受けて降人となり、鎌倉に出頭する。

頼朝に面会した後、京に送還されるが、その途上の近江の勢多で斬られたとある。


『吉記』には文治元年(1185年)12月8日の項に「同日、小松内府息忠房招引関東事」とあり、
16日に「忠房被切首事」との記述がある。

だが『吾妻鏡』の同年12月17日の項には「小松内府息丹後侍從忠房。後藤兵衛尉基?預之。」とあり、
後藤基清が囚人として身元を預かったと書かれている。


                       後藤(の誰か)って
                       清盛の子供の誰かの乳兄弟なんだけど
                       すっごいドジなオトコで
                       さらに
                       主人を裏切って頼朝に味方した記憶
                       
                       名前は覚えてない

                       名古屋の実家の近所に後藤さんの家があって、昭和天皇の御幸の際には公安が来てた(笑)



   
     後藤基清って元々は佐藤さんで、藤原秀郷の子孫で、佐藤義清(西行)の兄弟・佐藤仲清の子で後藤実基の養子となった人。

     承久の変では後鳥羽上皇方について負けて鎌倉幕府方の息子の基綱に斬首された。 

     戦国時代の後藤又兵衛基次は黒田官兵衛の重臣だったけど、
     官兵衛が亡くなった後、
     もともと細川と黒田は犬猿の仲だったのを(黒田長政がバカだから)
     細川に走って更に大騒動にして
     後の大坂夏の陣で討死。 死に場所が欲しかったんでしょうね。                                       

涙ヶ磯

丹後の伝承によると、
忠房には白拍子花松との間に遺児がおり、
平家滅亡を聞いた彼女は丹後に潜んでいたが源氏の捜索が及ぶのを恐れ、
子供を道連れとみせかけて自ら岩から身投げをしたという話も残っている。


以上の話を総合すると
服部家次という人物は   小松家(重盛の家名)の5男か6男の忠房の乳兄弟  または  家令で  (同じことか)
忠房の一族を率いて宇都宮に庇護をお願いに行き
残念ながら断られて
もっと奥に落ちて行った
ということかも。


貞能は、重盛の2男の資盛の家令で、維盛の後に資盛が指揮を執るのかと思ったら
治承5年(1181年)の清盛の薨去で指揮系統が重盛の腹違いで無能の弟の宗盛に移ってしまい
貞能も困ったでしょうね。

           宗盛や知盛は清盛の後妻さん=公家の平氏出身の時子さんの腹。



忠房は重盛の5男か6男なので、
貞能の父・家貞以来、先祖代々、頼りにしてたから
忠房の家は伊賀の服部家長の一族の者が=家次が=仕切ってたのでしょうね。


平家貞は平家の嫡流の家     正盛・忠盛・清盛・重盛・維盛・六代さま    と実に6代に亘って仕えました。

それで維盛の残した幼い子供を  六代さま  と呼ぶのです。


忠房について風評がいろいろあるのは  関係者が忠房の名を出すから  死んでても生きている話になったり  したんでしょうね。

死体は1つでも  墓や塚や碑は  日本全国に存在する  そんなところでしょうね。
それだけ重要人物であり慕われ大切にされていた人、ということでしょうね。


湯西川の平家落人村は平忠房に仕えてた服部家次が一族を率いて落ちて来て出来た集落ということですね。


完全引退なさって暇になったら是非お出掛けください。
少なくとも   名字で繋がっているのは確か  ですから。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月15日 06時50分36秒 ) パスワード

三つ柏さん


今朝は  フェデラー vs ジョコビッチ  の試合をずっと見てて
まだエンエンと続くんだろうな
と思って
トイレに行って  ついでに  トイレ掃除もして
戻ったら、
ちょうど試合が終わったところでした。
残念っ
肝心な場面を見逃した。

ウィンブルドン・ジュニアの部で望月慎太郎君が、
日本男子初のシングルス優勝。

ジュニアレベルだったら日本人のカラダでも世界で戦えるのかもですね。
大人になると錦織選手はいいとこまでは行けるけどナカナカ優勝は難しいようですね。
今回のユニクロ対決は惜しかった。



>平家の落人の里には「葛橋」がつきものですね。
>何か特別な意味があるのでしょぅか?

それだけ、秘境に隠れ棲んだ、ということでしょうね。
追手が来たら葛を切って橋を落とそう、と。
泣けます。
葛橋の葛はまさに命綱だったんですね。


>できれば、すべての平家の落人の里を巡り、般若心経を捧げたいものです。
>もちろん、その次は源氏方ですが……。

今となっては  敵味方無く  菩提を弔ってあげたいですね。
それに我々日本人は  源平藤橘それから庶民そして名も無き奴婢の血も  いろいろ混じっていると思います。

やっぱり先祖を大切にするってコトかな?



>大橋氏と服部氏、そして中根氏の墓が、服織神社の南の常光町のお寺にあります。
>松島源右衛門の墓もあります。
>何か見えそうなのですが、見えてきておりません。

点としては元々ご縁の深い家々なんだろうな
とは分かるけど
どのような線で繋がるのかが分からない。

つまり年に1度とか2度の席を設けないから。

盆とか正月とかに皆さんが集まって和気藹々わちゃわちゃアレやコレやバカ話を継続して来てたら途切れることが無かったのにね。


松島<源>右衛門さんは  本当に源氏なの?源氏に鞍替え?それともカッコつけてるだけ?  と訊きたいですね。
ま、100年もしたら誰も深く追求しないでしょうから  源氏出身ということ  で落ち着くかもね。


母方祖父の弟は源十郎です。笑
ま、西面の武士・後鳥羽源氏だから、いいのかな?笑  ヲイヲイ



>津島と遠州を結ぶもの、それを探したいと思っております。
>もっとも、良王、大橋家、長田家、永井家と糸が結ばれておりますので、
>長田・永井で津島と遠州は結ばれていると言うこともできます。

宗良親王と遠州井伊家で尾張津島の大橋家が繋がりますから
津島の大橋家がもとは伊勢伊賀の平氏である平家で、三河にも縁があり、
長田氏は桓武平氏でもともとは尾張平氏。(知多半島の野間が本貫地)。中部国際空港のある所。
先祖は同じだけど別系統で繁栄して長田氏は源氏に仕えたり、また、平家にくっついたり・・・

     長田氏は平貞盛の叔父になる良兼の子孫。
     平将門事件の時は将門方についたり離れたり。
 
     平治の乱で義朝を討った長田忠致が「尾張かせめて美濃の国司が欲しい」と言って清盛に反対されたり。
   
     ○に三つ柏紋使用というのが  平家とは違う  という主張なのかな?

     
     
>また、戦国時代の将士の移動というものは、今の私達の定住性から考えると想像を絶するものがあります。

はい。
動くし、変えるし、替えるし。
分かり難いですね。

兄弟は他人。
シブリング・ライバルリー
というのですね。

お互いに良くも悪くも「お前なんかとは違う!」というアイデンティティがある。


日本人のこれを潰したのが江戸幕府かなと。
一国一城制度。
そして移動の禁止。

260有余年で日本人はすっかり均質化してしまったんでしょうね。


で、明治維新があり、その後太平洋戦争があり、その後、この74年間にすっかりバラバラ。
元が分からなくなった。

もう本家にもお金が無いしね。
席を設けて分家や一族の者をもてなす余裕なんて無い。


自分の先祖を美化したくて、テキトーなハナシをデッチ上げるのもいるし。
ムカシは「分を弁えよ」と叱る長老がいたんでしょうけどね。


先日知らない人から電話がかかって来て、すっごい爺さん声で何を言ってるか聴き取り難くて、でも、くらたーを処分してやるよ、と言ってた。

     クラターってガラクタとか要らない物とかです。CLUTERね。

そう、わたしが死ねば、すべてゴミ。
献体登録してるからワタシ自体に限っては引き取り手が決まってる。

死んだらご先祖さま達に会えるなと思うとワクワクする。

ヒト違いしないように、自分の先祖のことはちゃんと把握しておきたい。
だからご先祖さまは子孫が迷子にならないように、名字や家紋を残してくれた。

     ぼぉ〜っと生きてるんじゃねぇ〜よ!

こっちにすれば、細分化し過ぎで、余計に分からないよ!ですが。


ご先祖さま、来てくれると良いですね。
[38]三つ柏服部さんからのコメント(2019年07月15日 11時33分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろ教えていただきまして、ありがとうございます。
 遠江浜松城には、徳川家康が二十九歳から四十六歳までの十七年間にわ
たり、在城しておりましたので、当然家臣達も浜松に移り住んでいました。
それらの居住場所がすべてわかると、歴史の新たな解明が進むと思うので
すが、残念ながら、太平洋戦争の空爆や艦砲射撃で一面焼け野原になって
しまった浜松には、古文書等の資料が少なく、詳細は余りわかっておりま
せん。そのあたりの情報のかけらをかき集めて、少しでも収集して行きた
いと考えております。

 さて、服部氏の祖「家貞」「家長」「家次」の話が出てきましたので、
同じく服部氏の祖「宗清」「家清」と、その後裔「宗純」までの系統に触
れてみたいと思います。

 まず、中世では、「定と(さだ)」と「貞」、「次(つぎ)」と「継」、そ
して「能(よし)」と「義」のように「音」が一緒ならば、区別なく書かれ
ていたようです。そもそもの始まりは、万葉仮名からでしょうか。
 従って、「家次」は「家継」でもあるということになります。

 私が伊賀へ行って、図書館で調べてきましたのは、服部氏についてであ
りますが、その中でも特に「宗清」や「家長」についての詳しい資料がほ
しく、司書に訊いたみましたところ、何冊かの書籍を出してくれました。
その中に参考になるものがありましたので、私の解釈と推測も交え、宗清
と家長の関係、その他、その辺の身内と宗純までの後裔についての流れを
記してみたいと思います。

 久保文武氏の『伊賀史叢考』を精読し情報を整理し、さらに色々な情報
も加味し、推測を交えた結論は次のとおりです――

 @「家貞」―「家長」は親子であります。
 A「季宗」―「宗清」は親子であります。

 しかるに、@の「家貞」とAの「季宗」の親は「季房」。

 つまり、「家貞」と「季宗」は「兄弟」。

 従って「家貞」と「宗清」は「従兄弟」

ということになります。
 但し、「兄弟」は「義兄弟」の可能性が大です。「従兄弟」は「義理の
従兄弟」の可能性大であります。

 ひとまずここでちょっと休憩します―― 


 
[39]三つ柏服部さんからのコメント(2019年07月15日 11時41分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正があります。
  
 「家貞」と「宗清」は「従兄弟」 → 「家長」と「宗清」は……に訂正。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月15日 14時19分10秒 ) パスワード

三つ柏さん

ムカシの人はホントに名前が似ててコッチのアタマはグチャグチャになりますよね。
わたしも自分の書いたものを時間を経た後で読み返すと  なんという文章か  と恥ずかしくなります。赤面



貞盛の子・維衡が  寛弘3年(1006年)に  伊勢平氏になって後に平家となり栄えて行く。


維衡の子  正度が5人の男子を得て  ここから  平家が増えに増える。


わたしの本で家貞の系統を見ると
家房(または季房または範季)  ⇒  家貞 ⇒  家長  ⇒  家清  ⇒  柘植宗清 
となっているのですが

        宗清の子が家清ですしね。ヲイヲイ 

恐らくこれは  伊賀の当主が  伊賀の服部家長の家から  頼朝の援護で宗清に代替わりした  という流れと思います。



で、ウイキによると
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%97%E6%B8%85

宗清の父は  兵衛尉平季宗  で  『吾妻鏡』では左衛門尉。



錯綜してますね。



錯綜ついでに


宗清の妻は平維綱の娘で
平維綱は伊勢平氏の傍流、平清綱の子。
平忠盛の家人。
平忠盛の次男・家盛の乳母父。
鷲尾、桑名を称す。

    平家盛は平忠盛の次男で清盛の母違いの弟。
    生母が正室の藤原宗子さま。池の禅尼。  
    弟が頼盛。   この人は壇の浦の後に頼朝に庇護された人。

    家盛は若くして死んでしまって、頼朝が亡き家盛に似ているから、清盛に頼朝の命乞いをしたというハナシ


だから、もうグチャグチャでワケ分からない。
ただ、一族の中で結婚したり養子になったり猶子になったりしている、というのは分かります。


宗清の父の平季宗の出がどの平家なのか分からない
おそらく正度の子の貞季の子孫だろうと(ワタシは)推測する。
ところがココの子孫に貞能という人物がいる。ヲイヲイ


もう笑うより他ない。


とにかく子供のやりとりが頻繁だから  誰が誰の子なのか  ワケ分からない。
家を守る最善の策だったんでしょうね。



年齢的に考えたいけど

当時の力のあった武将は子供をたくさん儲けたから
1番初めの子がローティーンで生まれて  最後の子が(加山雄三のパパのように)70過ぎの時の子ってありますものね。



清盛の乳父は平盛康。
NHK大河「平清盛」の中で、この人の養子になったのが漁師だった鱸丸改め盛国(上川隆也が演じた)。
                     このハナシはドラマ上のウソだと思う
                     いくらなんでも漁師が盛康の養子にはならないと思う
                     盛康自身か平家の一族の者が瀬戸内海近辺で代官などをしてて地元の女に作った子だったら納得します


盛国の父親も  平盛康、平盛遠(『平家物語』)、平季衡(『尊卑分脈』)  などいろいろあるそうで    でも  一応  平正度の一族。



記録上、父親が何人もいてオカシイというより  血筋ロンダリングをやったから  父が複数いるんじゃないか、と思います。



庶民レベルは「夜這い」があったから父親が誰か分からないということはあったけど。


でも、あるレベルの階級の場合の父親複数説は  母親がアンパン(拝領妻)  か  血筋ロンダリングかなと。


最近の托卵女子で有名どころは  喜多嶋舞 (母親は内藤洋子で父親は喜多嶋修)ですね。

          そうそうロス時代に喜多嶋修の従兄弟さんから母方の従兄になるフロリダの加山雄三の家のハナシを聞きましたっけ。



アメリカは薬局でフツーに「お父さん確定キット」を売っています。
     だってアメリカの相姦関係は複雑怪奇ですから。
     アメリカのオトコは托卵されたくないですからね。

           アメリカの薬局は「自宅で出来る麻薬検査キット」もフツーに売ってます。
           就職する時の必須品です。笑


ムカシの日本は「夜這い」があったから、村の人口を確保するために、村全体で生まれた子を育てる風習があって
ヨソものが来たら(血が薄まるから)旅人は歓迎された、とかね。
それが貴人または貴人に仕える人なら大歓迎なわけで。


     わたしが子供の時には「足入れ婚」というのが尾張の某島民の中でありましたしね。


だから古代の人達の家系が錯綜してて当たり前かも。
それが日本の家族形態だったのかも。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月15日 15時41分20秒 ) パスワード

三つ柏さんの世代には信じられないでしょうけど
托卵女子
ってムカシっから、いますから。古今東西問わず。

だいたい日本じゃ  拝領妻  ってありますし。

   天皇家で  コレで揉めたのが  保元の乱ですから。
   清盛自身も拝領妻の腹に生まれた子ですしね。


平安時代の貴族階級では  遊びに行った先で作った子が  女子なら寄越せ  男子ならそっちで育てろ  でしたからね。

     でも優秀な男子が生まれてたら  その子が名を成す  とかあったでしょうね
     優秀な子孫が武士になって  豪族になって  江戸時代に大名になったかもね。
     世間は  「記録に無い」とか「自称」とか  悪口言ったと思う。



武士階級は  生まれた子が   男子なら寄越せ  女子ならイランわ。



わたしは人間は  縛り   が出来たのはツイ最近と思います。
江戸時代以降、旧憲法下の最近まで不義密通とかで罰したけど
人間はもっと自由に楽しんでいたんじゃないかなと。

     アメリカは楽しみ過ぎ。
     性病、多過ぎ。

     日本もその内に  再び おおらか  になるでしょうね。
     だけど戦国時代に梅毒が入って来て以降、今は、いろいろな性病があるから、後悔するだけと思う。
     癌にも発展するしね。


     アメリカの子宮頸癌のワクチンは男の子も小学校を卒業したら中学に入学する前までに、夏休み中に、済ませることになってるんですよ。

     あはは
     日本人には考えられない世界のハナシでしょ?
     もっとスゴイ話がいろいろあるけどココには書けない。

         管理人さん達が困惑なさるでしょうから。
         皆さん超上品な方達ですから。


アメリカの仕事場には19歳の未婚のママとか未婚のパパとか、フツーにいくらでもいますよ。

それでビックリする人がいるから「え?知らなかったの?子供って、結婚してなくても出来るんだよ」と教えてあげてた。      


それに未婚だったら生活保護をしっかり受けられるから結婚しない方がトクだし。
例えば  
託児所だったら  月に 1500ドル〜1700ドル かかるけど  未婚だったら無料だもの。



日本の家族関係も、いずれ、アメリカ並みに複雑になるでしょうね。

50年前とは言わないけど、日本でですが、数十年前に某幼稚園で聞いたハナシですが
A君のパパはB君のパパで、A君のママはB君のママ
つまり  
夫婦交換してた。入れ替わってた。

こういう形、今時、増えてるんでしょうか?


アメリカで多いのは  子連れ同士で再婚して更に子供を作って、
そうすると  子供の居場所が無い上に  子供同士の間の確執がスゴイことに。
で、2回目の離婚は  子供ゆえに。
         1回目の離婚は  お金の問題で。


アメリカの戸籍みたいな登録用紙には  父と母の名前はあるけど  母の名字は旧姓使用なんですよ。パスポートの申請も母は旧姓で記入します。
兄弟姉妹のことは  数だけ  記されている。


家族が崩壊するのは前提なのかしらね。


         フランスは事実婚という形をとるのが多いそうで
         フツーの結婚というのは珍しい方だと聞いたことがあります。


日本も今は(男女平等で育った若いヒト達は)我々世代には理解不可能ですね。
歳を取ったと思います。


日本の民俗は大きく変わりつつあるんでしょうね。
ま、ワタシにはムカシの民俗も今時の民俗も理解不能です。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月16日 14時14分32秒 ) パスワード

本日友人に送ったメールのコピペ:


本日、顔をしっかり拝見した夕見子のボーイフレンドさん

須藤蓮

この人は超賢いヒトだそうで

出身高校が御三家の武蔵高校だそうです。
ビックリ!


    麻布・開成・武蔵
    この御三家。



で、大学では法律を勉強したそうで
恐らく
早稲田の出身だろうと。



武蔵出身なら、慶応なんかではないぞ、と。


             
だからあの時代の男の子のイメージにピッタリのようです。


       うちの母親もこういうタイプの男の子をムスメの婿に期待してた。
       ごめんよ、母上。



で、「なつ」の結婚相手だろうとワタシが期待している陽平兄さん

ココ暫くちっとも出て来ないのは
    恐らく  今は
    高畑勲と宮崎駿を描いている所だから
    陽平兄さんを出さないのだろうと。


小田部羊一さんのイメージに合うのはやっぱり陽平兄さんしかいないもの。


毎日ドラマの進行具合に(ウソばっか!)とイライラしています。
内心  呆れ果てて  こんな朝ドラ見たくない!  と思いつつ
陽平兄さんとなっちゃんが結婚するまでは見続けねば!
と我慢して  アホくさ!  と思いつつ  毎日見ています。


    だったら見るな!  ですが   女の意地です。アホ


なつが会社に対して権利闘争をする姿は、夕見子で表しているのかな、と。



今週は若者の恋愛図を描いてて
視聴者には   中川大志と広瀬すず  のカップルを期待させているんだろう
とNHKは画策しているんだと思う。


でも


なつの結婚相手が中川大志では   
☆☆☆キラッキラ☆☆☆のイケメン王子さまであっても  
影が薄すぎる!
存在感が無さ過ぎる!


ということで  アリエナイ  んじゃないかなと。



なつはもっと骨太だからね。

そこは貧しくても才能のある人物で
小田部羊一さんのような「なつ」をまるごと理解する人でないと
と思うのです。



それで  ヤッパリ  なつの結婚相手は  陽平兄さんじゃないかなと。



だいたい陽平兄さん役=犬飼貴丈=って、天陽くん役=吉沢亮=にソックリだし。

        あの変な安っぽい帽子で美しい顔を隠しているところがアヤシイし。




    既に神地航也役=染谷将太  と  アニメーターの三村茜が
    カップルになりそうの雰囲気だし。



ということで  ワタシだったら陽平兄さん ♡ なっちゃん です。
あはは


勝手に空想して勝手に妄想を全開させています。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月16日 15時11分31秒 ) パスワード

三つ柏さん

ここ数日  定明寺  と笠井氏   と三つ柏紋  について考えていました。


以前アップした話など再度読み返しています。


https://blog.goo.ne.jp/esper-hk/e/9509a7bc61584f55e378362b36304d98
笠井城跡

                       管理人さん、感謝です。
以下コピペ:
浜松市東区笠井町に「笠井城址」があります。

室町末期に存在した城館ですが、築城時期等などの詳細は不明でした。
甲斐の武田氏に仕えた笠井備後守定明、その子・肥後守高利が居住したそうです。

高利は長篠設楽原の合戦で戦死し、廃城となります。


笠井中学校西隣に御殿山稲荷の石鳥居のある入口があり、左手民家を背にして
城址碑が建っています。
城跡の南方には定明が開基となった無量山定明寺があり、定明、高利の位牌が
祀られているとの事。

更に奥へ進むと、赤鳥居の先に稲荷が祀られていました。



ということで
定明寺を菩提寺に出来るということは?                  笠井氏の家臣だった?
家紋が三つ柏紋系なのは?                        元が平氏の葛西氏だから?

     後に家紋に○を付けるようになったのは武士の家という意味だとホンヤさんから教えて頂きました
                ○を付けない家紋を使用の武家もありますが

松島家の家譜の中に「高天神城  落城」と書いてあるのは何故か?     武田の家臣だった?

など初心に戻って考えていました。


で、とっ散らかったアタマの中を整理しようと、親友に上レスのメールを送りました。




https://84669014.at.webry.info/201705/article_20.html

2017年05月13日
静岡県の古城・笠井城

笠井城 築城年不明 築城者笠井氏 種別 砦
     浜松市東区笠井町

                     管理人さん、感謝です。


以下コピペ:

天正三年(1575年)長篠の戦い。武田勝頼率いる一万五千と織田信長・徳川家康連合の三万五千の大軍が設楽原で激しく激突。信長の鉄砲隊に武田勢は信玄以来の重臣の多くが犠牲になって敗退した。

現在、長篠の古戦場史跡を訪ねると七十余ヶ所に石碑などが建てられ紹介されている。その中の一つ長篠城址から三キロほど寒狭川にそって北上したところに「笠井肥後守、滝川其相討ノ地」の石碑が建てられている。


武田勝頼が設楽原の戦いに敗れ、戦場を脱してここまで来た時馬が疲れて動かなくなってしまった。これを見た笠井肥後守満秀が自分の馬を主君勝頼に勧め、自らは追手を喰い止めるためにこの地に止まり、徳川方の滝川助義と戦って討死したという話が伝えられている。


この笠井肥後守満秀の城がここ笠井城であると言われている。


城跡といっても稲荷神社があるだけで遺構らしきものはなにもない。笠井城址から200mほど南に定明寺があるが、この寺の開基が長禄二年(1458年)笠井備後守定明となっている。


寺の名がこの人からきている。したがってこの頃には笠井氏の城館が当地に築かれていたとしてもおかしくないのである。

笠井肥後守満秀(高利)が備後守定明の何代目になるかわからないが、所伝によれば南朝の臣新田義貞の配下で湊川の戦い(1336年)において敗走中に主君義貞に自分の馬を与えて踏み止まり足利勢と戦って討死した小山田高家の十二代の後胤であると云われている。奇しくも満秀は先祖と同様の死に方をしたことになる。


小山田氏から武田家重臣の小山田氏との縁によって武田方に身を投じたのであろう。その後満秀の子の孫右衛門慶秀は大谷吉継に仕え、関ケ原合戦後は井伊家に仕えたという。「長篠合戦余話」   (参考資料 静岡県中世城館跡・日本城郭大系・9・案内板その他)




葛西氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kasai.html
三つ柏
(桓武平氏良文流)


 葛西氏は桓武平氏で、秩父氏の一族豊島氏の流れである。高望王の子村岡五郎良文の孫中村太郎将恒(常)が武蔵介藤原真枝を討った功によって、下総国葛西郡を与えられたのが始まりとされている。


       村岡五郎良文は平貞盛の叔父です。

以下略
南朝方だった笠井氏とどう繋がるかがイマイチ分からないので略。


              葛西氏は東北に勢力を伸ばし、南北朝時代には南朝方だったり北朝方だったり。


でも遠江の笠井氏は南朝方だった新田義貞の家臣の小山田高家の後裔。



で、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%AB%98%E5%AE%B6

小山田高家

          大幅に略します

小山田家は鎌倉期には甲斐国都留郡に入部したというから
ここから武田の家臣になったんでしょうね。


以下コピペ
室町・戦国期には甲斐都留郡を本拠とした国衆である郡内小山田氏が出現し、甲斐守護・戦国大名である武田氏の家臣団となる。

院政期から南北朝期の秩父平氏小山田氏と室町・戦国期の郡内小山田氏との系譜的関係は不明であるが、
南北朝期に平姓小山田氏は南朝方に属して没落した一族で、
新たに北朝方に属した郡内小山田氏が台頭し、
両者の血縁関係を慎重視する見方もある[5]。


笠井氏は南朝方の子孫ということでしょうね。


もうグチャグチャに翻弄されまくった、というのが分かりますね。
父子・兄弟・オジ甥の関係でも2つに分かれて戦ったのですから
<<<両者の血縁関係を慎重視する見方もある。>>>は両者の血縁関係は成立する、とも言えますよね。


栄枯盛衰
泣けてきます。


でも浜松市関係で史料があると思うので
また読み直してみてください。


何度も何度も同じ史料を読むことだと思います。
アタマの中が休まってから読むと  また違う解釈になる  ってありますから。


武田方で滅亡後に川越に引っ越した服部さんの家紋は車の中に並び矢紋ですから
伊賀伊勢系でしょうね。


だから川越の服部さんは南北朝の時に宗良親王に従って浪合村まで行ってソコに住んで後に武田に仕えたのかな?


ホント、見えそうで見えないですね。
[44]三つ柏服部さんからのコメント(2019年07月16日 15時36分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『伊賀町史』によりますと、「家清」は「宗清」の子でありますが、母は
鷲尾維綱(本性平、桑名とも)の娘でありました。しかしながら色々調べます
と、どういう訳かその母は宗清の「妾」という身分でありました。つまり、
当然正室はいたわけであります。
 「妾」と「側室」の違いについてはよくわかりませんが、いずれにしても
正妻と妾、さらにはひょっとして側室もいたのかも知れません。

 『伊賀町史』には、『柘植姓の研究』の中に収録されている「日置氏系図」
が書かれており、「宗清」の子に三子があるということになっております。
 それは――
 @日置弥平次宗俊
 A福地次郎清春
 B北村五郎俊忠
であります。

 家清が妾の子なら、柘植の三子の母は正室か?との疑問が浮上してまいり
ますが、今後調べて行きたいと考えます。

 家清については、あを様の推察が平熱の「平家清について教えて下さい」
に既に示されておりましたが、さすがに正鵠を得た見解であると思いました
――

 一旦ここで切ります――
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月17日 02時44分09秒 ) パスワード

実にワラエル親の名前ロンダリングの1例。

本日友人から頂いた情報からの編集です:結論:日本では 親の名前については 家族のみが文句言える  笑

1.
米中戦争はすごい事になってて
わたしは  米中アヘン戦争  は知ってた。

    中国がアメリカにフェンタニールを密輸してて
    1日に100人近く死んでいる。

        フェンタニールだよ!
        笑うしかない。

2.
で、フアウエイの件は中国に世界中の情報がダダ漏れになるからな
あたりしか分かってなかった。


【ついに解明!図解】ファーウェイ、闇のネットワーク【WiLL増刊号 #046】
https://www.youtube.com/watch?v=sSGqv_T9BSg

だからトランプがフアウエイを潰したいわけね。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E7%94%B0%E8%90%8C%E7%B5%B5
【驚愕!】橋下徹さん、いかがでしょう?これが日本国籍乗っ取りの証拠です!【深田萌絵】【WiLL増刊号 #049】

これもスゴイ!


だからね  親の名前がゴチャゴチャするって  家族だけに権利があって
我々には  ああ、そうでしたか  と 引き下がるより他無いのですよ。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月17日 04時47分08秒 ) パスワード

三つ柏さん

>『伊賀町史』によりますと、
>「家清」は「宗清」の子でありますが、
>母は鷲尾維綱(本性平、桑名とも)の娘でありました。

                       レス<40>と同じですね。

                       宗清の妻は平維綱の娘で
                       平維綱は伊勢平氏の傍流、平清綱の子。
                       鷲尾、桑名を称す。


>どういう訳かその母は宗清の「妾」という身分でありました。
>つまり、当然正室はいたわけであります。
>「妾」と「側室」の違いについてはよくわかりませんが、
>いずれにしても正妻と妾、さらにはひょっとして側室もいたのかも知れません。


妾と側室は同じことですね。


正室は「家族の一員」であって、妾=側室は「使用人」。
この違い。


この時代の平家の重要人物の正室は身分の高い家から貰う女性がなる。
しかし、
正妻以外のその他の女性は身近な知り合いから調達したオンナであって、一族や使用人からなるのだろうな、と思う。


でも側室というと  「室」がついているだけに  自分の部屋を貰っている特別な女性  でしょうね。
だから  妾より  は身分が安定してたんでしょうね。
側室の腹の生まれの男子なら  正室に子が無ければ  後継者候補になれる。


        中国語を勉強した時に「妾」は「立っているオンナ」ということで
        宴席なんかで「正妻とは違って椅子に座ることは許されず、ずぅっと立っていなくてはならなかった身分でしかないオンナ」だそうです。


平安時代の天皇の女達は「局」を貰ってましたね。   桐壺の局  藤壺の局  とかありましたよね。

    御局は桐壺なり。    =  このお方のお部屋は桐壺である。

    
    【局】
     宮中等の御殿の中で、仕切りをして設けた部屋。
     また、自分用の部屋が与えられている、身分の高い女官・御殿女中。

     宮殿内の屏風や几帳 (きちょう) などで区画されて設けられた部屋。
     転じてそこに居住を許された女房などをいう。


正室>側室>妾>下女>奴婢    こんな感じ?
                 主人は自分の家の女は自分の財産であるから、遠慮なく手をつけることが出来た


>『伊賀町史』には、『柘植姓の研究』の中に収録されている「日置氏系図」
が書かれており、
>「宗清」の子に三子があるということになっております。       

        わたしの情報では宗清の子が日置太郎家清で  孫が  服部・柘植・日置家俊   福地清春    北村俊忠  の3人です  笑


         @日置弥平次宗俊                この人が  日置太郎弥平次家清  でしょうね。 でも名前が違うから宗俊は家清の子? 
         A福地次郎清春
         B北村五郎俊忠                 北村姓は喜多村と通じるわけで  明智光秀に関わる名張の喜多村家と関係あり?

https://www.kankomie.or.jp/spot/detail_2959.html
日置神社

住所〒519-1412 伊賀市下柘植2260
電話番号0595-45-9119(伊賀市伊賀支所振興課)
公共交通機関でのアクセスJR新堂駅から徒歩40分
車でのアクセス名阪国道・下柘植インターから車5分

平宗清の長男、日置太郎家清により創建されたと伝えられる日置神社は、
霊山の山麓にあり、近くには日置城跡が残っています。

毎年4月10日の春の例祭には「かっこ踊り」が踊られる。


http://jummy1015.blog91.fc2.com/blog-entry-630.html?sp
日置神社

管理人さん  感謝です。


以下コピペ

創建に平家が関わっていること。
子孫は日置一族と言うらしい。
和弓の日置流(へきりゅう)の伊賀日置流の発祥地らしい。
そして猿飛佐助のモデルになった「下柘植ノ木猿」こと上月佐助がこの辺にいたらしい。      
                        ジャニーズの「嵐」の大野智君の「忍びの国」を思い出します。伊勢谷友介が日置大膳役でしたね。


由緒には愛田区の氏神。
言い伝えでは平宗清(伊勢平氏の傍流)の子、日置太郎家清が下柘植に住み、
この神社を創建。(平安時代末期)
天正9年に伊賀の乱により全焼。後に子孫、住民により再建される。

神社を創建した日置太郎家清は平家都落ち(源平合戦)には同行せず、
伊勢・伊賀に留まっていた平家残党と共に元暦元年(1184年)7月から8月にかけて蜂起しますが討ち死にします。

双方に多数の死者あり、激闘だったらしいです。
藤原(伊藤)忠清+平田家継+平信兼の起こした「三日平氏の乱」とは別物で、
三日では収まらない大規模な乱だったそうです。
平家狩りが行われる中、彼らは戦うしかなかったのかもしれません。


      わたしの記録では、この家清の父は柘植宗清で、祖父は服部季宗になっています。



>家清が妾の子なら、柘植の三子の母は正室か?との疑問が浮上してまいります

宗清の妻は平維綱の娘ですから  一族の女の子だったでしょうね。 それも  維綱は頼盛家の家令ですから
  宗清に正妻がいたとしたら、池の禅尼の遠縁あたりの藤原氏系からもらったでしょうね。

でも家清が平家が壇の浦で滅んだ後に伊賀で旗揚げしてますから  家清の母はやっぱり平家一族の女で、平維綱の娘でしょうね。

平維綱の娘は宗清の正妻であったでしょうけどイマイチ分かりませんね。
でも家清は平家方の母に生まれた純種の平家の血、と思います。決起のことから。


正妻が藤原氏の遠縁の出の娘に生まれていたら、池の禅尼+平頼盛チャンネルで、当然、頼朝方に付いたでしょうから。


>家清については、平熱の「平家清について教えて下さい」に既に示されておりました

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100636_51.html

100%忘れていました。



日置は久居の近くだったのか。
そうするとワタシの800年前の自分には身近な場所だったのだなと泣けて来ます。
[47]三つ柏服部さんからのコメント(2019年07月17日 16時12分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 宗清には、@平家滅亡(1185)前の都での子「家清」と、A平家滅亡前後の
柘植に隠棲後の子供達、宗俊(柘植)、清春(福地)、俊忠(北村)の三子があっ
た。
 ここまでは何とか理解できますが、家清は「三日平氏の乱(1184年7月から
8月)」で7月に亡くなったということなので、父と一緒に柘植へ入り暮らし
たのは、ごくごくわずかな月日となります。柘植に家清が創建したと言われ
る「日置神社」がありますが、それは家清のの死後、身内が建てたと解釈し
た方がよさそうです……。

 家清についての情報は、どういう訳か少なく、ただ、『伊賀町史』には、
少なくとも二人の子供―光清と宗貞がいたと書かれております。
 そして、不思議なことに、この光清の後裔が宗純となっております。
 宗純は直接の柘植系ではないと思われますので、服部系との枝継ぎがあっ
たと思われます(たぶん服部家からの養子、あるいは妻方の姓を名乗る)。
 
 一番肝心なのは、平姓から服部姓への枝継ぎの実態でありますが、元々の
服部系はそれぞれどんな関係にあったのか、ちょっと整理してみたいと思い
ます。

 一旦ここで切ります――
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月17日 23時10分59秒 ) パスワード

三つ柏さん

わたしの資料では   宗純は  家長の子の服部時定の子孫です。

                            この時定という人の母が堂上平氏の(清盛の後妻さん系平氏)の出身ならスッキリします。


時定の孫の宗保というのが柘植の家に養子に行って後世に観阿弥が生まれています。


で、服部時定   服部家長  服部公清  服部季宗(宗清の父)ということで  このあたりは皆さん  服部姓です。  笑
つまり(北)伊賀を治めていた平家の一族は皆さん俗姓が服部???


つまり伊賀で睨みを利かせていたのが服部家長だったんでしょう。
壇の浦の時に家長は  アラ70  だったから  伊賀は既に家長の子や孫の時代になっていたはずです。


家長の子に3人子がいて   家清  家貞  柘植宗清  になってて  家清から服部時定の家に入ってます。笑


服部時定のの子孫に服部公清が入って  後世  宗純系と家康祖父に仕える系に分かれます。



今からジムに行きます。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月18日 03時22分31秒 ) パスワード

ジムでツラツラ考えた:おおざっぱなハナシです



     まず平家という家。
     本貫地が伊勢と伊賀。
     その後
     京都にも進出。


で、平家は伊勢伊賀京都を中心にして

京都には   忠盛  清盛  重盛  の家が居を構え  正妻にはおおまかに藤原氏系からヨメを貰った。

       この家の家令には平家貞・貞能一族が占めた。


伊勢はおおまかに盟友の藤原(伊藤)家に任せた。

       伊藤も京都で忠盛・清盛・重盛の家の家令を勤めた。


伊賀は平家貞の家に任せた。

       この家貞の補佐が(おそらく弟の)平田入道定次で後釜が家長であり家継。

            わたし的には北伊賀が家長で東伊賀が家継という感覚


          家長は16歳の時点で忠盛のボディガードをして京都にいた。
          だから実効支配していたのは家長の兄の家継だったであろう


       
で、家長の正妻は恐らく清盛の後妻の平時子とその兄の時忠に繋がる家の娘であったろう

だから正妻の子だから通字が「時」で、服部時定という人物が家長の子として記録されているのであろう。  


       1147年に清盛と時子の間に宗盛が生まれているので
       家長はアラサーですね。30歳ぐらい。

       1152年に清盛と時子さんの間に知盛さまが生まれている。
       家長の家が知盛さまの乳兄弟の家と知られている。


       なので、この辺りには家長の正妻さんが堂上平氏の家から来ているはず
       時定はこのあたりに生まれているのだろう

    

    時保の養子に服部公清の子が入って保俊を名乗り この子孫が  服部宗純や服部半蔵や名張の服部家へ



柘植については宗清が頼朝から柘植を拝領して柘植を名乗るわけですが
宗清の父とされる服部季宗が実の父なのか養父なのか?
一説には家長の子が宗清という系図もあるので養子に出た?
どっちにしろ本姓平氏で俗姓服部。で、屋号が頼朝からの拝領の柘植姓。 

服部時定の子が時保。  時保の長男の宗保が柘植に養子に入って清正と名乗り子供達が山川・柘植・西川・松尾・北川を名乗る。

時定の孫の宗保は壇の浦の時には恐らく乳飲み子あたりで曾祖父である家長の家が潰れたから柘植宗清の家に貰われていったのだと思う。

服部時定の孫の   つまり  宗保の弟にあたる  保俊の父は
服部公清なので  「公」を通字とする藤原氏出身の母から生まれたのだろうと思う。

公清が家長の子なのかどうかはイマイチ分からないけれど  公清の子の保俊が時定の孫となって服部宗純や半蔵や名張服部になる。


当時の「公」を通字とする人物を見つけたいです。



ジムで以上のことを考えました。
名前が似ててこんがらがる。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月18日 03時51分04秒 ) パスワード

で、服部公清の「公」に関係ありそうな藤原氏を捜したところ   藤原公教が1番可能性がありそうな人物として浮かびました。


        他には藤原公通・藤原公光・藤原公保あたりですが。


結論:「公」のつく藤原家に養女に行った女性なら可能性がありそうですが、上記の藤原公さん達とは関係無いと思う。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%85%AC%E6%95%99
三条 公教(さんじょう きみのり/きんのり)   

平安時代後期の公卿。太政大臣・三条実行の子。官位は正二位・内大臣。


母方の祖父・藤原顕季の引き立てで13歳で鳥羽天皇の侍従となった公教は、天皇が寵愛する従兄弟の美福門院(顕季の孫娘)との関係を利用し、31歳で参議として公卿に列した。譲位して院政を開始した鳥羽法皇も公教の質実で勤勉な態度を高く評価して院庁の執事別当として裁判・行政の中枢を任せた。

久寿2年(1155年)、美福門院所生の近衛天皇が急死すると、権大納言であった公教は鳥羽法皇・関白藤原忠通らごく数人と秘密裏に会議を開き、近衛天皇の異母兄雅仁親王(後白河天皇)の即位を決定した。翌年鳥羽法皇の崩御直後に保元の乱が起こると、公教は忠通・信西と共に後白河天皇の傍に近侍した。乱で天皇方が勝利すると、延期されていた鳥羽法皇の葬儀を執り行い、また信西の勧める記録所復興に賛同してその長官に就任した。これらの功績が評価されて保元2年(1157年)に内大臣(前年任ぜられた左大将を兼務)に就任している。

平治元年12月(1159年1月)に勃発した平治の乱においては、一旦は政局を手におさめた藤原信頼に気づかれないように二条天皇を内裏から脱出させて平清盛がいる六波羅に御幸させる工作を行った(『愚管抄』)。これが信頼失脚と藤原経宗らの天皇親政派の勝利を決定づけた。

だが、その翌年に58歳で父・実行よりも先に急逝した。




藤原公保
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%85%AC%E4%BF%9D

徳大寺 公保(とくだいじ きんやす)

平安時代後期の公卿。左大臣・徳大寺実能の三男。官位は正二位・権大納言。

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

保延2年(1136年)1月6日、従五位下に叙される[1]。保延5年(1139年)1月24日、侍従に任ぜられる。康治3年(1144年)1月5日、従五位上に昇叙。久安5年(1149年)3月13日、正五位下に昇叙[2]。同年4月15日、右近衛権少将に任ぜられる。久安6年(1150年)1月29日、備中権介を兼ねる。同年3月14日、皇后宮権亮を兼ねる。久安7年(1151年)1月6日、従四位下に昇叙。仁平元年(1151年)2月21日、権亮を辞す。同年7月27日、左近衛権少将に転任。仁平2年(1152年)1月3日、従四位上に昇叙(行幸時の院の賞。統子内親王給。)。久寿2年(1155年)1月6日、正四位下に昇叙[3]。保元元年(1156年)9月17日、右近衛権中将に転任。同年11月28日、皇太后宮権大夫を兼ねる。保元2年(1157年)8月3日、禁色を許される。

保元2年(1157年)10月27日、従三位に叙される[4]。中将を止めるが、皇太后宮権大夫は元の如し。保元3年(1158年)2月3日、太皇太后宮権大夫に転任。同年11月27日、右兵衛督に任ぜられる。同年12月17日、正三位に昇叙[5]。

永暦元年(1160年)2月28日、参議に任ぜられる。太皇太后宮権大夫は元の如し。同日、右兵衛督から左兵衛督に転任。応保元年(1161年)1月23日、伊予権守を兼ねる。応保2年(1162年)10月28日、右衛門督に転任。長寛3年(1165年)1月23日、権中納言に任ぜられる。太皇太后宮権大夫、右衛門督は元の如し。同年4月1日、検非違使別当に補されるが、8月17日には右衛門督と検非違使別当を辞した[6]。永万2年(1166年)7月5日、勅授を許される。同年10月21日、太皇太后宮権大夫から大夫に転任。仁安2年(1167年)1月28日、従二位に昇叙。同年2月11日、権大納言に任ぜられる。太皇太后宮大夫は元の如し。嘉応2年(1170年)1月7日、正二位に昇叙[7]。安元2年(1176年)、権大納言を辞退し8月13日に出家[8]。9月27日、薨去。享年45。
[51]三つ柏服部さんからのコメント(2019年07月19日 09時59分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一番重要な伊賀服部氏の系統についての論究、ありがとうございます。
 系図というものの信憑性が問題ですが、キーマンとなる人々は――
 @時定(〜保俊)
 A家貞・家長
 B宗清、家清
でありますね。
 ここの組合せのパターンが、色々な系図に表現されているわけで、どれも
「当たらずとも遠からず」かも知れませんが、そんな様相を呈しております。

 宗清からの柘植氏の流れについては、柘植氏による柘植氏のための系図と
その研究がありますので、その部分についてはかなりの信憑性があります。
但し、その柘植氏系図は服部氏の接点(枝継ぎ部分)については無視に近いの
でありまして、これは「柘植氏」のプライドがそうさせてきたのでしょぅか。
そこの歴史的及び地理的背景部分については、一度詳しく分析してみる必要
がありますが、『伊賀市史』を読むとおおよその要因が見えてきます。ここ
は少し時間を頂いて分析してみたいと思っております。
  
 いずれにしましても、服部氏と柘植氏は伊賀の平家方の流れをくむ二大
支族であることは間違いありません。

 一旦ここで切ります――
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月19日 14時23分54秒 ) パスワード

三つ柏さん

いよいよ選挙ですね。
終わるまで大変ですね。
暑いでしょうから熱中症にならないように頑張ってくださいね。


>系図というものの信憑性が問題ですが、キーマンとなる人々は――
     @時定(〜保俊)
     A家貞・家長
     B宗清、家清
>でありますね。

>ここの組合せのパターンが、色々な系図に表現されているわけで、
>どれも「当たらずとも遠からず」かも知れませんが、
>そんな様相を呈しております。


まさに!「当たらずとも遠からず」ですね。

いろいろな系図を見てても  一応  平家っぽい名前だから  なるほどと納得します。

時定についてはムカシは  (うそだぁ〜)と思ってましたが  
堂上平氏の母から生まれたのかな  と思えば  家長の嫡男だったのかな  と納得です。



本当にムカシの家族関係は「分からない」のヒトコトです。

    A.実親なのか養親なのか猶親なのか?

    B.親子として血は繋がっているのか?一族として一応繋がっているのか?全く繋がっていないのか?


ただしムカシは力があれば子供の数が多かった。
    実の子?
    取り敢えず実の子として
    分からないけど多分自分の子として
    多ければ多いほど良いからとにかく希望者は受け入れる

       秀吉なんて最たる人だと思いますね
         ねねさまに子がいなかったから

         信長さまにお願いしてお子さまを貰った
         家康さまにお願いしてお子さまを貰った
         利家さまにお願いしてお嬢さまを貰った

         ねねさまの甥ごさんをもらった

         分からないけど京都でねんごろになった女が「アンタの息子や」と言うて転がり込んで来たから受け入れたった
  
         おそらく大野治長の子供達であろうけど  お捨てとお拾いの男の子達2人を自分の子とした

            自分には子供がいないし、もともとは信長さまの姪のお茶茶さまの腹だから、ま、いいかっと

                  ワタシは秀吉は大野治長とお茶茶の相思相愛を知ってたと思う
                     おんなの勘。オバサンはこういうことには鋭いのだ

                     大野治長はお茶茶の乳母の子だから、そりゃあ、愛してたと思いますよ。愛さない方が不自然


少なくとも服部家長と平田家継が伊賀を治めていた
その後
頼朝の肝入りで宗清が伊賀を押さえることになった

           柘植の土地以外での服部一族の反発は大きなものだったと想像します



そのずっと後に  千賀地の服部半さんの家と  西湯舟の藤林さん  そして喰代の百地三太夫が  伊賀の覇権争い。 

      西湯舟あたりは地理的に柘植宗清系かも
      喰代は平田家継系かな?
      などと勝手に妄想。


平安時代に戻って伊賀を考えると
恐らく平田家継という人物は母が平家の一族の娘だったんじゃないかな?

    清盛の家=平家の頭領の家=の家令が家貞・貞能ラインだったのは貞能の母が豪族の宇都宮氏の出だから、貞能は嫡男として扱われた。


それで家継が伊賀(や伊勢)を治める役を果たした。


家長の母も結構良い家の出だったんだろうと思う。

何故なら家長は京都にいたから。   
清盛の後妻の時子さんの生んだ知盛さまの養い親になっているから。


だから  伊賀の面倒を実際に見てた人物は  平田家継  だと思う。
そして数多い家長の子供達の内の何人かが伊賀に来てて家継と共に伊賀を治めていたと思う。


だから家長の子が  時定とか家清とか  が  壇の浦の後に系図の上でウロウロしているのだと思う。


とにかく当時は子供の数が多いし
伊勢伊賀京都を支配するのに男子が
大勢必要だった。

      実際に壇の浦で平家が滅びた後に伊勢や伊賀で蜂起してますから。
      ゲリラ活動するだけでも数は要りますからね。
[53]三つ柏服部さんからのコメント(2019年07月21日 00時38分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 全英オープンゴルフが二日前から始まっており、時間的には深夜であり、連日
夜更かしして見ておりますゆえ、歴史への集中力がありません。
 
 歴史についての記述は、明朝にしたいと思います――
[54]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年07月22日 17時23分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「家長」を「忠正」の子としている系図が、あるサイトにありました。
新説なら、ビックリですが、あいにくと根拠は示されておりませんでし
た。

 逆に推測すると、「家長(いえなが)」は「家長(かちょう)」という一般
名詞を固有名詞にしたものであって、つまり服部家の家祖としてあらまほ
しき像(絶対的忠臣・滅びゆくヒーロー)を「家長(いえなが)」という名前
の人物で描いたのかも知れません。
『平家物語』や『源平盛衰記』という、いわば創作物にのみに登場し、
その他の歴史的一級資料には全く見られないということでありますので、
その可能性は一概に否定できません。それらの創作物の作者の意図を一度
分析する必要があります。

 『伊賀史叢考』では家長は家貞の長男で、実在した人物としております。
知盛と共に海の藻屑と化したかどうか、あるいは落ち延びて生き続けたか
どうかのどちらかでありましょぅ。私としては、生き延びる可能性がある
なら、人はそう簡単に死を選ばないのではないかと思います。
 でも『平家物語』では、死なないと「悲劇のストーリー」は完結しない。
「因果応報」の教訓というものも成り立たない、ということになるわけで
あります。

 家長は実際生きていたが、二度と表に出ることはなかった。だけど、風
のたよりに服部家の人々には届いていた。服部家の人々は、この偶像化さ
れた「家長」を、ひとつの旗印=家祖として心を一つにし、再興を計った
のではないだろうか。

 いずれにしても、平家に服部家が枝継ぎされているのは、その表れだと
思うのですが、どうでしょうか?
 血を分け、通婚でつながり、土地の名でつながり……というように、渾
然一体となった平氏と服部氏(柘植氏)は、正確に系図をたどれなくても、
それはそれで納得してあげてもいいのかなとも思います――
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月23日 08時33分57秒 ) パスワード

三つ柏さん

>正確に系図をたどれなくても、それはそれで納得してあげてもいいのかなとも思います


はい「正確に」系図を辿るのはムリでしょうね。
記録がだいたいからして無いし
記録に残らないようなド〜でも良いその他大勢の一般人の中から麒麟児が出て来るわけで
麒麟児本人だって自分の先祖が正確には誰だか分かってないし。


    現代人の我々さえ曾祖父母や高祖父母の家族関係は分からないですからね。
    我々は明治の初めの戸籍によって、やっと、把握できるけど、その中に出て来る知らない名字の人を誰?この人!ですものね。


    なんで、この家がココに出て来るの?という謎がいっぱいですよね。
    昔の家族や一族のあり方は我々現代人にはサッパリです。

    でも、ちゃんと、先祖にも父と母はいたはずなのに、五里霧中、森の中、に入ってしまってワケ分かりません。



>「家長」を「忠正」の子としている系図が、あるサイトにありました。

これは忠正の孫(長光)が父(長盛)と祖父(忠正)達が処刑された後に母に連れられて伊賀に逃げたからの混乱からじゃないですか?

    母が伊賀のひとで、伊賀で保護された時に長光の父が<家長>とされただけでは?実際に養子関係になったかも知れないし。


    だからその系図は  忠正 −  家長 −  長光  と書かれたのでは? 
    おそらく長光は幼子だったでしょうから、元服した時に実父の「長」の字と仮の親の家長の「長」が共通するから
    「長光」と名乗ったのでは?


さらに江戸幕府に仕えた服部氏が忠正の子孫だと名乗っているのがいるらしい。ワタシにはどなたのことか分からないですが。

おそらく  呉服明神の服部貞信  じゃないかな?  と勝手に想像しています。

イマイチこの人物は謎だから。

その心は「源氏の敵であった平家の子孫というより、平家に滅ぼされた忠正の子孫の服部氏と称する方がおトク」という計算があったのでは?


もともと「家長の子孫という操作」があったのではないですか?
例えば、
壇の浦の後に平家狩りが行われた時に「自分は平家に滅ぼされた方の平忠正の子孫の服部氏を称した方だ」と言って命拾いした子孫がいたとか?

     それで服部貞信は  平忠正  −  家長  −  長光  〜〜〜〜〜〜〜 服部貞信  を称したのかも。

     呉服明神という神職だったというところにも  武士系の服部氏とは違う  と操作しているのでは?

     ま、確かに、貞信の家は  千賀地の服部家とか伊勢の(我が家だ)服部家とは違う  という矜持があったのだと思います。




>『伊賀史叢考』では家長は家貞の長男で、実在した人物としております。

家長は主人の平忠盛のボディガードで父の家貞と同行していますから、その絵も存在しているし、だから実在でいいけど

家長が家貞の長男というのは  これは分かりません。


平田家継が長男という系図も見たことがあります。

貞能はママが宇都宮の娘だから家貞の嫡男として扱われるのは分かります。
ということで家継のママはたいした家の娘ではなかったのだろうと思っています。でも平田家に養子に行ってる。


忠正の娘=または長盛の娘=が宇都宮朝綱の息子(業綱)と結婚しています。
この娘も不思議ですね、パパは一体どっちなの?じいちゃんの方なの?笑


>正確に系図をたどれなくても、それはそれで納得してあげてもいいのかなとも思います

はい
難し過ぎますね。



伊勢伊賀で平家が力を持って
平正盛の時代に伊賀を白河上皇に寄進して重用されて
次の代で
忠盛・清盛は鳥羽上皇に仕えたものの
忠正は鳥羽上皇に嫌われて、忠正は藤原頼長に仕えることにして
ここで
保元の乱が起きて

清盛の勝ち、忠正の負け。


ここまでの人間関係・婚姻関係があって  忠正の孫の長光は命拾いして伊賀へ。そして服部姓を名乗る。

その背後には  家長と貞能の力添えがあった  のは分かり易いです
家長は服部姓を名乗ることも許している。
貞能は恐らく自分のママと長光の姉さんの夫の家が宇都宮家だから、そちらの方向から長光を守ったのでしょう。


系図はかなり整理して略して書かれているから人間関係が分かり難いけど  事実  は読み取れるのでは?と思います。


生まれた順序で兄・弟を決める現代のわれわれには
昔は母の実家の格で兄・弟が逆転するというやり方は混乱しますね。


とにかくムカシは家と血でがんじがらめに結ばれていたというのが分かりますね。
当時は当たり前だった「そこの所」が現代に伝わってないから我々には読み解けない。
残念っ
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月23日 22時34分21秒 ) パスワード

系図の読み方として参考になるのではと思います。


江戸時代の話ですが
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101678_1.html
新書の紹介です:


以下を是非お読みください。
https://bunshun.jp/articles/-/12680
『壱人両名』 by 尾脇秀和 著


「江戸時代の“家の継承”についての考え方は、現代とだいぶ違います。系図のうえではつながっているように見えても、武家の“株”、百姓の“株”を得た人が、建前として“血縁者”の体裁を整えて継いでいるだけで、実際には血がつながっていないことはよくありました。“直系相続”にこだわる現代の人たちには、この事実は受け入れにくいかもしれませんね」
[57]三つ柏服部さんからのコメント(2019年07月24日 12時55分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 忠正と家長の関係、長光と服部姓の関係、なるほどと思った次第です。
 あを様のバックアップした平熱「平忠正の孫の長光が服部氏なのはなぜ
?」にも既に述べられておりました。

 平家関係、服部関係は、あを様によってありとあらゆるものが取り上げ
られ論及されています。これは驚き以外の何物でもありませんが、私のよ
うな者にも長々と付き合っていただけること、ありがたく改めて感謝申し
上げます。

 さて、昨日は「定明寺」へ行き、少し調査をしてきました。二つの発見
がありました。

 一つは、服部一門の位牌が今までは三つしかないと思っていたのですが、
二千ほどある位牌群を一つ一つチェックしたところ、服部家の位牌は全部
で十一基あることがわかりました。「丸に三つ柏」の一門衆です。
 新たに発見したものの内、二基は知っている一門筋でした。つまり、6
基が今まで知らなかった一門筋の位牌となります。

 二つ目は、位牌堂の一番奥の御本尊の左右に並ぶ位牌ですが、名字につ
いて、すべて調べて一覧表にしました。
 その中に、津島の「四家七名字」の十一党に見られる四つの名字があっ
たということ。それは、「大橋」、「岡本」、「服部」、「鈴木」で、占
有率36%強となります。
 といっても、「何かの匂い」程度の発見でありますので、今後更に調査
を進めたいと思います。

 ただ、「三つ柏」は、どうも「葛西(笠井)系」、「長田(永井)系」の両
方のアイデンティティーを示唆しているような気もいたします。
 あるいは、平家筋、南朝筋の両方を示唆しているような気もいたします。

 定明寺に関する調査報告は、まとまりましたらご住職に差し上げたいと
思っております。資料はかなり揃いましたので、あとは文章にまとめるだ
け。そのモチベーションを高めていかなければなりませんが――
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月24日 14時56分41秒 ) パスワード

三つ柏さん

今日は  湯西川に落ちて行った  服部家次  という人物を思い出し
また平忠正を思って   ← この人の不運さと不遇さは何から来ているの?と
余りの気の毒さに涙してしまいました。

       何か訴えかけて来てたのです。


平清盛の嫡男である平重盛の六男・平忠房(=平忠実)and/or 服部家次らの家臣と共に宇都宮朝綱を頼って落ちて来て断られ山奥へと更に落ちて行った。

       服部家次とは、重盛の家の子である忠房の家令ですから、当然、家貞の息のかかった一族でしょう。

       でも家次は直接には宇都宮家とは深い縁は無かったようですね。
       貞能系でも忠正系でもないのだろうと思うと
       残るのは家長系か家員系(か平田に養子に行った家継系)か?

       この平田家というのは恐らく家貞の弟のことじゃないのかなと。家貞に替わって伊賀を治めていたのだろう。
       その家に家継が養子に行って、平田家継になったのだろうと。

              でも服部家次が平田系だったら  同じイエツグという名にはしなかったのでは?と。

       こうして消去していくと  
       服部家次は  家長系か、那須与一に殺されたアラフィフの家員系かな、と思います。


            忠正系の服部氏は伊賀にいて壇の浦には同行しなかったんじゃないかな?と。



>さて、昨日は「定明寺」へ行き、少し調査をしてきました。二つの発見がありました。
>服部家の位牌は全部で十一基あることがわかりました。「丸に三つ柏」の一門衆です。
>新たに発見したものの内、二基は知っている一門筋でした。
>つまり、6基が今まで知らなかった一門筋の位牌となります。

良かったですね。御双方にとって朗報となりました。
6基の皆さんは見つけて貰えてホッとなさっていらっしゃるでしょうね。


>二つ目は、位牌堂の一番奥の御本尊の左右に並ぶ位牌

場所的に、重要な家の  お位牌  ということでしょうね。


>その中に、津島の「四家七名字」の十一党に見られる四つの名字があったということ。
>それは、「大橋」、「岡本」、「服部」、「鈴木」で、占有率36%強となります。

大橋さんは津島神社系でしょうね、それか、三河の大橋さん。どっちにしろ津島の大橋さんの一族。


鈴木さんは浜松には極端に多い名字ですから、南朝方ゆかりの方達が井伊家や服部家がらみで今に至るのかもですね。


>といっても、「何かの匂い」程度の発見でありますので、今後更に調査を進めたいと思います。


定明寺の檀家さん方と旧交を温めることが出来ると良いですね。
津島の11家がらみだったのか、分かると良いですね。


>ただ、「三つ柏」は、どうも「葛西(笠井)系」、「長田(永井)系」の両方のアイデンティティーを示唆しているような気もいたします。
>あるいは、平家筋、南朝筋の両方を示唆しているような気もいたします。

石原慎太郎の家はもともと武田の残党だった服部氏が今治に行って弓が上手かったから七本の矢車紋になったそうで
もともと平家の伊賀系服部氏だったら弓がうまくて当たり前だから(除:ワタシ)、この故事に乗っ取って
矢系の家紋になったのか、元々は川越の服部氏のように矢系の紋だったのか?



先祖は1本の筋では語れないから、なぜ三つ柏紋になったのか、定明寺さんの檀家さんと会うことが出来たら良いですね。

      ひょっとすると  神職だった服部貞信系かも知れないし。



>定明寺に関する調査報告は、まとまりましたらご住職に差し上げたいと思っております。

はい
良いご供養になりますからね。


>資料はかなり揃いましたので、あとは文章にまとめるだけ。
>そのモチベーションを高めていかなければなりませんが――

なかなか取り掛かれないのですよね。
分かります。

でも今はPC上で書くことが出来ますから、すこしずつ書き溜めていけば良いと思います。
PC上ならドラフトとして消さなくて良いし
校正が楽ですし。


一生の仕事にしていけば良いのですよ。
その前に、定明寺さんの檀家さん達との交流を再開させることですね。
[59]三つ柏服部さんからのコメント(2019年07月27日 23時47分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 定明寺で見つかった一門衆の位牌の現当主名につき、先ごろ隣村「寺島」
に在住の服部家について調査した資料(七家)と突き合わせたところ、三家の
氏名が一致し、寺島に住んでいることがわかりました。
 定明寺以外の寺にも、一門衆の墓(位牌)もいくつかありますので、善地
を中心に、およそ二十五家前後の一門衆がいるということがわかりました。
いずれにしても、これはこれでさらに探求を続けて行きます。

 さて、伊勢平氏の服部家を探ってきましたが、歴史探求の方向性として
は、「服部家と明智家の関係という最大の謎」を解明することで、そのた
めのいろいろ下調べ、回り道をしているということであります。

 いずれにしろ、向かう方向は「服部家と明智家の関係、その奥に隠され
ている謎」でありますので、時々思い出しながら、軌道修正して行きたい
と思います。

 もう少し回り道を続けますが、平家に仕えた服部家は、平家にとっては
中心的軍団かつ忠臣あったこと、それは単に利害関係だけでなく、平家庶
流との血縁関係という絆がそうさせたと考えた方が自然であるような気が
いたします。

 ただ、家長が一級資料に名前が出てこないのは何故かということであり
ますが、やはり創作されたキャラクターかという疑問も浮かび上ります。
壇ノ浦での平家の壮絶な大滅亡、その中でも中核の知盛の死出の旅に、寄
り添う人間として忠臣の服部氏が花を添えたということは、服部氏の勢力
というものが、当時相当なものであったということを証明しているとも考
えられます。

 次回は、「宗純」に照準を当てたいと思います――
[60]三つ柏服部さんからのコメント(2019年07月28日 22時43分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、台風一過でほぼ梅雨明けとなり、ギラギラ・ムシムシの中、芝刈
りに行って大変疲れて帰ってきました。突き刺す紫外線のため、体中日焼け
し、そのため体のいたる所が火照り、掻きまくっております。
 こういう酷暑中でのスポーツ、いよいよ東京オリンピックが一年後に迫っ
てきましたが、熱中症は必至であり、思いやられます。
 
 明朝、宗純について記します――

 
[61]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年07月29日 11時31分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 耳寄りな話――

 角川書店のソフィア文庫の『平家物語』を参考書として使っております
が、ビックリすることに、巻末に「インターネットで調べたい方に」とい
うことで、「平家物語を熱く語る!!」とそのアドレスが紹介されており
ます。角川書店からも認められているということ、心してレベルの維持・
向上に努めなくてはなりませんね――
[62]三つ柏服部さんからのコメント(2019年07月30日 12時03分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「宇治田原」という所、地図を見ていたら、伊賀、甲賀、大津、京都、奈良、
柳生、大坂等につながる交通の要所であることがわかりました。

 それに加え、ここには役行者が開いたとされる「鷲峰山(しゅうぶさん)」と
いう山岳霊場の拠点があります。大和の「大峰山」に対し「北大峯」と呼ばれ
たということです。つまりは、修験道のメッカでありました。頂上には、金胎
寺(こんたいじ)があり、平城京の鬼門封じとして聖武天皇によって築かれてお
ります。

 さらに加えて、保元・平治の乱の中心人物の「信西」の領地・大道寺がその
麓にあり、平治の乱の時にここに逃れて自害したということです。

 また、日本緑茶発祥の地と呼ばれ、茶文化の発祥の地でもあります。茶人と
いえば、同時に政商でもあり、神君伊賀越えの茶屋四郎次郎が同行・案内して
おります。
 
 総合しますと、「宇治田原」はあらゆる情報が集まる情報基地、いわば物見
やぐらのような場所であったと推察いたします。服部貞信もそんな所の近辺に
住んでいた。たぶん、修験とのつながりがあったのだと思われます――
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月30日 13時59分42秒 ) パスワード

書き直し:


三つ柏さん

はい。
服部貞信の履歴に(笑)呉服明神の神職をしてたけど、宇治田原に移ったとサラッと書かれていますが
この人は謎の人物です。

わざと映った理由を「書かなかった」のは何故?何を書かなかった?
なのに引っ越し先に宇治田原を書いたのは何故?


でも家紋は
嫡流が車輪竪二本矢紋・七本矢・矢の字桔梗紋
分家が
     車輪竪二本矢紋・右角万字(卍)紋
     車輪竪二本矢紋・七本矢紋
     車輪竪二本矢紋・左角万字(卍)紋
を使用。


出自は
平氏にして陸奥守貞盛9代伊賀平内左衛門家長の末孫なり
家長伊賀国阿拝郡服部村に住せしより子孫服部をもって屋号とすといふ。


「家長」の子孫とハッキリ書いているのは、貞信の家だけ、というのが
これまた不思議。


半蔵さんの家は  ほのはやひの命の末裔で服部連の子孫で平氏で葛原親王の後胤伊賀平内左衛門の末孫(家長とは書いていない)


中保次の家は弥平兵衛宗清より出ず
宗清頼朝将軍より伊賀国阿拝・山田2郡のうちにおいて32村の地を賜ひ
阿拝郡服部村に住せしより子孫服部をもって屋号とす
保次は其の後裔伊賀守宗純が末孫なりといふ

                      山田郡というのが平田家継がいた所です
                      平田農協というのが今でもあると思います。


政信の家は保清9代の孫を修理亮保宗とし、その子を伊賀守宗純とし、その子を左京亮宗政とし、政家は宗政が男なりといふ

                      政家の子が
                          友貞であり(服部家ホンヤさん)
                          政光(子が政信)



家長の子孫とハッキリ徳川幕府に申告しているのは貞信だけ?

                     
>保元・平治の乱の中心人物の「信西」の領地・大道寺がその麓にあり、平治の乱の時にここに逃れて自害したということです。

信西の孫が小督で(高倉天皇の愛人だった女性だから)清盛を怒らせています。
清盛の娘・徳子は高倉天皇との間に安徳天皇を生んでいるから、
小督は娘・徳子の夫の愛人ということ。

             この高倉天皇は20歳あたりで亡くなるのだけど全部で分かっているだけで7人の女がいた。
             清盛の娘の徳子と高倉天皇は母方のイトコ関係。



信西ですが
この人の最期は有名ですね

     この人は陰陽師でもないのに天文に通じてたとかで
     それまた謎の人物です。

信西の最期は、まさに、フツーの人の死に方ではないですね
土遁の術でしょうか?笑

穴を掘って竹筒で呼吸をしながら隠れてた、って。
追手に見つかって自害したものの
掘り出された時には、
まだ息があって目玉も動いてたとか。


孫の小督という女性は文学上芸術上、一応、薄幸の女性のように描かれるけど
ワタシは  なかなか  したたかな女  という感じを抱いています。

         良く描かれるという意味で、ま、トクな人だな、とは思います。

清盛は小督が女の子を産んだという一報を聞くまではヤキモキしてたのだろうなと思います。 

             もし男子を生んでたら?
              平家の立場はまた違ったものになったかも知れない。
             ということで、それだけの「運」だった、という事なのかな?


                       ワタシ、かなり意地悪いな。
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月01日 02時54分11秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101680.html
長上郡の服部氏族CXXW:124:現場100回-5
を立てました。

キリの良いところでどうぞ。
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