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 投稿番号:101668 投稿日:2019年05月28日 05時14分54秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏紋の服部さんの代理
長上郡の服部氏族CXXU:122:現場100回-3
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族CXXI:121:現場100回-2
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101665_65.html
の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


「自分探し」なんて言いますが
自分のことなのに自分1人では探せないのよね。

そしてヒトの「自分探し」を手伝ってるつもりでいたら
実は自分の「自分探し」になっていくのに気が付いた。


人間って自分1人では生きられないし
他があって自分の存在に気が付く。

三つ柏さんのご先祖さまを探していたら
ワタシは自分のルーツの奥深さに嵌ってしまいました。

   (わたし1人分は、一体、誰で出来ているの?)
   (わたしの性分は、一体、誰から受け継いだの?)
   (大昔の人物に共感するって、一体、どうして?)

ただいま中二病に陥っている感じ。
ホントに目に見えない敵と心の中で戦ったりしてる。

仮面ライダーや戦隊物の人気が続く秘密ってココなのかな?
と思い始めた。


まだまだ解明には至らないですが地道に探していきましょう。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月28日 07時08分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッドありがとうございます。

 歴史はその時その時の「点」でなく、過去からつながる「線」であるという
こと――それは、歴史を知り、鳥瞰・概観してみると見えて来ます。
 源平―平家―源氏――鎌倉時代――南北朝時代――室町時代…戦国時代……
と続いて行くわけですが、その線というのは、人間関係の糸・綾であります。

 A.AKECHI様の英勝寺での「桔梗紋」が太田氏の桔梗紋とはちょっと
違うというご指摘、推理してみるにそこにはやはり英勝院(お梶の方)と遠山・
明智氏との関係、そして明智氏といえば春日局、家光、天海、そして土岐氏と
のつながりが見えて来ます。

 鎌倉と土岐氏がどうつながるのか?ということを調べてみました。次回に記
したいと思います――
[2]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月28日 17時13分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様
で゜
 土岐氏が何で鎌倉に?……ということでありますが――
「清和源氏」の「頼光流」……つまり「頼光」の子「頼国」には三人の 
 男子がいて、長男は「頼資」、二男が「頼綱」、三男が「国房」であり
 ます。
 
 @二男「頼綱」の孫が、あの鵺退治の「頼政」であります。
  この頼政より「下間氏」「大河内氏」「太田氏」「浜名氏(鵺代氏)」
 が出てきます。

 A三男「国房」の孫が、「土岐光信」であります。
  以後土岐氏は「光基」「光衡」「光行」「光定」「頼貞(定)」と続き
 ます。
  この土岐頼貞より「明智氏」や「妻木氏」が出てきます。

以上表記した中で、「太田氏」、「土岐氏(光基)」、「明智氏」が出て
まいりました。それぞれの関係は、清和源氏頼光流の二代目をルーツにし
ており、同族であります。

 それでは「鎌倉」との関係は?といえば、これは次回に記すことにいた
します――
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月28日 19時11分04秒 ) パスワード

三つ柏さん


     @
     二男「頼綱」の孫が、あの鵺退治の「頼政」であります。
     この頼政より「下間氏」「大河内氏」「太田氏」「浜名氏(鵺代氏)」
     が出てきます。


@に反応しました。

平家物語によると
清盛の3男の宗盛(バカ息子)が頼政の嫡子・仲綱の大事な馬を所望して、
この馬の名を頼政の嫡子の名前にして「仲綱!仲綱!」と呼んで動物虐待をして頼政の嫡子を侮辱したから、
平家方として働いて来た頼政が平家に反旗を翻したと書かれていて  (平家に負けて77歳で自害)
その後、平家が滅びることになって行きました。


下間氏は反信長の石山寺の指導者の1人として伊勢長嶋一揆で戦い、三重県出身の友人の母方のご先祖さまです。
まさか頼政の子孫だったとは!これは知らなかった。


大河内さんは最初に尾張に落ちて来て三河に移って大河内を名乗り吉良家に仕え
たという流れと
南朝方の大河内さんもあって(恐らく吉良家に仕えた一族に反感を持ってた?)

           随分前に・・・西尾の中学生がいじめで自殺をして、その名前が大河内君ということで驚きました
           三河で大河内姓だったらイジメになんか遭わないだろうと思ってたけどイジメた側は元々が三河の住人じゃないという記事からの印象で
           なるほどな、と納得した記憶があります。
           結構、資産家の大河内さんだったようで、この子が巻き上げられた金額は2000万円あたりだったのを記憶しています。


大河内といえば、
(出自がハッキリしない。恐らく美しさ故に何度も身分ロンダリングしたのだろうと推測)
華陽院さまは最初に尾張水野家に嫁いでお大さまなど4人を生み
その後
三河の松平清康=家康の祖父=の戦利品となり、子供を産み
その後
星野秋国や菅沼定望に嫁ぎ
最終的には大橋家の分家になる川口盛祐との間に川口宗吉を儲けて、
そのご子孫がこの平熱にもご降臨なさってました。源氏を称していらっしゃいました。恐らく後醍醐源氏または家康がらみで。

       華陽院さまは最低でも7人?の子供を産んでる・・・・
       美しく生まれるというのも悲しい人生を送ることになるという女性でした
                   ワタシはラッキーだったんだな!  しゅん

       最終的には今川家に人質となってた家康の世話をしてた



頼政の一族も紆余曲折がすごい。
頼政は京都で陰陽師としてドジった人を服織神社の神職にしてあげたんでしたっけ?

遠江と頼政の関係を思い起こせば子孫の大河内氏が遠江に来たというのも納得です。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E5%86%85%E6%B0%8F

天正15年(1587年)、秀綱の二男正綱が家康の命で長沢松平家庶流の松平正次の養子となり、旗本として出世の後、元和3年(1617年)に相模玉縄藩2万2000石の大名となったことから、この子孫は大河内松平家と呼ばれる。

正綱の兄大河内久綱の子で正綱の養子となった松平信綱は、3代将軍徳川家光の小姓から老中に進むとともに武蔵忍藩(埼玉県行田市)3万石・同川越藩主(同県川越市)6万石と加増され、島原の乱や慶安の変の鎮圧などで活躍した。


江戸時代には大名家として三家があった。

玉縄藩は松平正綱の長男正信が相続し、その孫正久のときに上総大多喜藩に転じた。
松平信綱とその子孫は代々「松平伊豆守」を名乗り、下総古河藩・三河吉田藩(今の豊橋ですね?)と移りながら老中を何人か輩出した。

信綱の五男信興は下総土浦藩に封ぜられ、養子輝貞からは上野高崎藩主として幕末に至った。


     北村匠海似のオトコに彼女を奪われた元カレ氏は吉田のお坊ちゃま君です。稲葉友に似てたような。なかなかのイケメンだった。両方ともワタシの好み

     方向音痴なので「三河の吉田」=東三河=と聞くと「吉良吉田」=西三河=を連想します。西三河でイケメンというと佐野勇人かな?

     この3人、似てるような気がする。北村匠海似のオトコの顔系。元カレ君も入れると、ひょっとするとこの5人のルーツは三河武士かも。

     ついでに書きます:
     ワタシの嫌いな顔は佐々木蔵之助とか長谷川博己とか杉野遥亮とか松田翔太とか町田啓太とか中川大志などの殿さま系の顔。


バカ話に終わってごめんなさい。
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月29日 09時16分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 
三男「国房」の孫が、「土岐光信」で、以後土岐氏は「光基」「光衡」
「光行」「光定」「頼貞(定)」と続きます。
 この土岐頼貞より「明智氏」や「妻木氏」、更には「菅沼氏」も出ます。

 「土岐頼貞」――この人がキーマンです。

 ちょっと休憩――
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月29日 13時32分46秒 ) パスワード

三つ柏さん


>土岐氏

ま、土岐家は有名どころだし弟の親友にも土岐君というのがいて、
わたしには  土岐氏=美濃国  限定でしたが

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E6%B0%8F

土岐氏は、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。
清和源氏流摂津源氏系美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた軍事貴族の系統。

                        ここまでは確実に知ってた


南北朝時代から戦国時代にかけて美濃国守護を務めるとともに
室町幕府の侍所頭人として幕閣の一角を占め、
最盛期には美濃、尾張、伊勢の3か国の守護大名となった。

                        尾張や伊勢も、というのは100%知らなかった    へぇ〜
                        地理的に近いから、そうなんだぁ〜   です


戦国時代には近江の六角氏、京極氏、越前の朝倉氏・尾張の織田氏・伊勢の北畠氏など周辺大名と争うも、
斎藤道三の下克上により没落した。

                        ココも有名な話なので知ってた


庶流にあたる明智光秀・浅野長政・土岐定政(菅沼藤蔵)らは戦国武将として各地の大名に仕え頭角を現し、
江戸時代には浅野家、土岐定政家が大名として存続した。

                        明智とか妻木とか舟木 (舟木一夫の舟木氏)は知ってた

                        浅野長政の「浅野家」も?これは知らなかった
                        100%知らなかった
                        秀吉の妻の寧々さまの妹のややさまが養女に行ってた浅野家の甥の弥兵衛さんが婿に入って浅野長政になったのは知ってた
                            この子孫が赤穂事件の浅野内匠頭

                        寧々さまは杉原家から妹と一緒に浅野家に養女に行ってたのかな(そんな記憶)

                        で、最近有名な杉原千畝というユダヤ人を救済したヒトは美濃国の人だから

                        案外土岐家がらみかも。


                        ところが「杉原氏」で有名どころとなると中国地方の桓武平氏系の杉原氏だそうで(平家に近い平氏)
                        人間は動き回るから平氏なのか源氏なのか曖昧になったのかも



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E6%B0%8F

承久3年(1221年)の承久の乱では美濃が主戦場となり、
京方(後鳥羽上皇方)に「土岐判官代」の名が見え、

                   へぇ〜
                   弟の親友の土岐君は南朝方の土岐氏の子孫なのかな?


                   土岐氏も一族の中で南朝方北朝方に分かれて戦ったのか

       これを光衝の子の光行とする書物もあるが、
       光行はこれ以後も幕府の記録の『吾妻鏡』に登場しており、

京方の「土岐判官代」は弟の光時と考えられる(谷口研語法政大学兼任講師の説による)。


光行の子の光定の時に9代執権北条貞時の娘を妻としており、土岐氏が幕府において有力な地位にあったことが分かる。
嘉元3年(1305年)、光定の子の定親(蜂屋氏)は連署北条時村襲撃事件(嘉元の乱)に関与して処刑されている。

兄弟の頼貞に累は及ばなかったようで、頼貞の系統が土岐氏の嫡流となる。


鎌倉時代には土岐氏は庶流を美濃国内に多く土着させて、家紋にちなんだ「桔梗一揆」と呼ばれる強力な武士団を形成していた。

                         

          桔梗一揆というのは知らないけれど
          美濃国の人の性格は反骨心がスゴイというハナシは聞いている

               尾張国人は上には従順なので
               ここが美濃と尾張の気質の違い


浅野長政ふたたび:

尾張国春日井郡北野に宮後城主・安井重継の子として生まれる。
織田信長の弓衆をしていた叔父・浅野長勝に男子がなかったため、
長勝の娘・やや(彌々)の婿養子として浅野家に迎えられ、
のちに家督を相続した。

同じく長勝の養女となっていたねね(寧々、のちの北政所、高台院)が木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に嫁いだことから、
長吉は秀吉に最も近い姻戚として、信長の命で秀吉の与力となる。

天正元年(1573年)、浅井長政攻めで活躍し、秀吉が小谷城主となると近江国内に120石を与えられた。



時代が下がるに連れて一族が増えて名字が分散して、養子を取ったりして、平氏とか源氏とか線引きは難しいんでしょうね。
浅野が土岐というのには引っ繰り返りそうに驚いた。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80

光秀が越前国に在住していた傍証は、越前地付きの武士の服部七兵衛尉宛の、天正元年8月22日付け光秀書状[注釈 12]がある。

               [注釈 12]「朝倉氏滅亡時の混乱の中で光秀と縁の深い、越前にいた竹という者の面倒を見て命を救った様子の感謝と服部七兵衛を百石加増した」


この越前の服部七兵衛尉という人物が何者かは分からないですが
  越前守=平資盛がしてたから     1171年(嘉応3年)

平家時代に越前に来てた子孫なのか
南北朝の戦いの時に越前敦賀に来てた子孫なのか

こんなところでお仲間らしき人の名が出て来て感無量です。



家が大きくなっていくと同じ一族の中で喧嘩になるのだなぁとシミジミする。
[6]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月30日 14時01分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 清和源氏全体を把握するのに時間を費やしました。
 次に土岐氏について把握するのに時間を費やしました。
 参考図書は、『日本史のなかで最も複雑な時代が一冊でわかる!室町時代』
(洋泉社MOOK)と、『南朝全史』(森茂暁著)、及び『源頼政と木曽義仲』(永井
晋著)であります。系図は七千傑様による系図を参考にさけていただきました。
 土岐氏についての参考図書は手元にないため、Wikiを参考にさせていただ
きました。

 さて、土岐頼貞(1271〜1339)でありますが、祖先的にも子孫的にも、ここ
頼貞の代が大きな結節点(踊場・プラットホーム)となっております。
その内容を見てみますと――
 @母は鎌倉幕府執権の北条時貞の娘。
 A若年時代を鎌倉で過ごす。特に禅僧の高僧達に帰依し、夢窓疎石と親交
  を結ぶ。
 B「正中の変」に関与するも、生き延びる。息子の頼兼は自害。
 C後醍醐天皇と挙兵、足利尊氏軍に加わる。建武親政で美濃守護になる。
 D尊氏、建武の新政苻から翻ると、それに同調、対南朝で戦功をあげる。
 E頼貞にはたくさんの子供があり、土岐氏(継続)はもちろんのこと、明智
氏、妻木氏、他に15氏族もの後裔氏族を輩出している。

 次回は、祖先をさかのぼってみます――
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月31日 15時08分31秒 ) パスワード

三つ柏さん

>『源頼政と木曽義仲』(永井 晋著)

頼政と義仲

この2人の対比に興味があります。
どちらも頼朝に道を開いた人物
という感じがします。

この2人がいたから頼朝は義経を使って平家を滅亡させることに成功したのかな、と。



レス<5>

>越前の服部七兵衛尉という人物

自己レス  すまぬ


明智光秀が後妻に名張の服部氏のムスメを娶ったというハナシ。

数年前は余りにも唐突過ぎて  どういう関係で?  と思ったけれど
越前で服部七兵衛尉に出会っていたから?と思い始めました。


服部七兵衛尉は資盛代官の子孫だったのかな?と。
    資盛が越前守となっても実際には京都にいて現地には赴任せず代理に運営を任せていたわけですから
        それに服部氏というか平家貞は忠盛・清盛・重盛の家の家令だったから越前に行かせた可能性は非常に大きい

        当然、服部七兵衛尉の先祖が越前に来ていたのだろうと推測する。


越前は南朝方の拠点でもあるし服部氏が存続してても全く合理的。

    朝倉家にどうやって仕えたのかは、ま、想像はつく。
    我が家が尾張斯波氏に仕えたような事情だったのだろう。


そうすると服部七兵衛尉 ←→ 明智光秀  ←→ 名張城主の服部出羽守保章(服部正尚や青山成重の叔父)  の関係が成立するのかなと。


服部出羽守保章  →  服部伊賀守保光  →  明智光秀後妻の伏屋姫  →  内治麻呂(母方祖父の家に養子に行き北村弥兵衛保之を称す)


こんな関係で明智光秀が伊賀服部氏と結ばれた?
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月31日 15時24分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 @土岐頼貞から、A父、B祖父、C曾祖父……と祖先を過去へ過去へと
 たどってみます――

 @頼貞
 A光定:正室は執権北条貞時の娘
 B光行:源実朝、後鳥羽院に仕える
 C光衡:三男光長の子、長男光基の養子となる 一般的には土岐氏初代
 D光基:木曽義仲から後白河院へ寝返り
 E光信:白河院、鳥羽院に仕える 弟に「光保」※注
 F光国:検非違使
 G国房:検非違使
 H頼国:藤原道長一族との結びつき強し
 I頼光:藤原道長の側近
 ※注「光保」:平治の乱で信西を殺害、その後清盛方へ加勢

 土岐氏だからどうのこうのというより、「清和源氏頼光流美濃源氏」と
いうことで、同じく「清和源氏頼光流摂津源氏」の頼政系と双璧をなす存
在であるといったほうがいいのか。というよりも、頼政死後、むしろ主流
派になったのかも知れない。土岐氏を有名にしたのは、「桔梗紋」を正に
旗印としての土岐一族の結束であった。


 「保元・平治の乱」の「源頼政」と、その約百年後の「正中・元弘の変」
の「土岐頼貞」は何となくシチュエーションが似ているように思いますの
で、この辺をもう少し探求してみたいと思います――
[9]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月31日 15時30分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスが交差してしまいました。読ませていただきます――
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月31日 16時21分00秒 ) パスワード

三つ柏さん

>土岐頼貞

舟木一夫のご先祖がココで出て来るのか。


舟木一夫の家は「すごい家」というのは聞いて知ってたけど(どういう家?ああ、美濃の殿さまの土岐の一族か、あたりでした。恥)
検索してビックリ!


                  日本史上、とんでもない人物でした。
                  我が家にとって、ですね


兄弟:隠岐国時、高田衡国、阿波教国、笠毛光教(光時)、隠岐胤国、蜂屋定親、(頼貞本人)、舟木頼重=舟木頼春の父。

         で、この頼重=頼春=の子の光賢を頼貞は養子にしている。

                もう名前がゴチャゴチャしててワケ分からなくなる(泣)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%A0%BC%E5%93%A1
土岐 頼員 = 舟木 頼春(とき よりかず/ふなき よりはる)

鎌倉時代末期の武将。
土岐氏一門の舟木氏の当主。


別名:
孫十郎(通称)、舟木頼春、頼貞← ホントに?でも、なんで頼貞を名乗る?、頼直、頼真、頼玄


妻:
斎藤利行の娘      出ましたね!  たぶんこの人物の子孫が後の世の明智光秀の重臣で春日局の父上である斎藤利三


           斎藤利三の母上は蜷川親順のムスメで蜷川氏は一休さんで出て来る蜷川新右衛門の一族ですね

           さらに蜷川新右衛門さんといえばプロレスラーの武蔵のご先祖さまですよ
           武蔵さんのご先祖さまは清和源氏系の旗本で、
           下間家とも板倉家とも親戚で日本最初の征夷大将軍の坂上田村麻呂の子孫でもあります。

           お祖父さんと誰やらが東大を出てて、父上が学習院出だったかな?

               前レスで、すっごく  下間さんに引っ張られてたけど  ココでハッキリした。
               背後霊が  下間さんも書いて置け  と願ってたのは我が家とは伊勢長嶋一揆で一緒に反信長で戦った仲間ですからね 
                          なるほどね


『太平記』巻一「頼員回忠事」

元亨4年(1324年)9月、
夫の土岐頼員から、後醍醐天皇の倒幕計画を聞かされた娘が事の顛末を父である利行に知らせる。

利行は急ぎ頼員を説得し計画への参加を放棄させ、9月19日に六波羅探題へ急報し関係者が処罰された(正中の変)。

                    裏切ったんだよね〜



で、頼員=舟木頼春の話をコピペ:

元亨4年(1324年)9月、鎌倉幕府に反発していた後醍醐天皇の倒幕計画を妻に漏らしたことで露見し、正中の変を引き起こした。

『太平記』巻一「頼員回忠事」によると、
頼員も同族の多治見国長らと共に倒幕計画の参加者であり、
無礼講という体裁で幾度も開かれた倒幕密議に加わっていた。

ある夜、妻との別離を惜しみ、倒幕計画を告白する。
妻は六波羅探題評定衆の奉行であった父・斎藤利行へ事の次第を告げ、
利行が六波羅探題へ急報したことにより、9月19日には幕府の知るところとなる。


幕府は機先を制し、小串範行・山本時綱に軍を率いらせ、
上洛していた土岐惣領家に属する従子、
もしくは従兄弟の土岐頼兼(従兄、もしくは伯父の土岐頼貞の十男)や多治見国長および、足助氏の当主の足助貞親(加茂重成)を討伐させた。

国長らは寡兵で奮戦したが、討ち死に、あるいは自害したという。


朝廷では、日野家一門の日野資朝や日野俊基が捕縛され、鎌倉へ連行された。

              この日野俊基さんのお墓を友人に連れられて見に行ったのを思い出した!



そうか!
舟木一夫の家がスゴイ家というのはとんでもない人騒がせの家ということだったのか。
やっと分かった。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月31日 17時18分01秒 ) パスワード

なるほどね
やっぱりわたしの血や肉の中に何やらモヤモヤした記憶らしきものがあるのに
それが何かハッキリは分かっておらず

ご先祖さまが地団太踏んで何か言ってるけどワタシにはキャッチ出来ない


ピンと来ないのよね
弟の親友の土岐君の名前を知った時も、ああ、美濃の名家の子か、ぐらいで

今頃、
なるほどね、
と。

明智光秀はわたしの母方先祖の家を助けてくれようとしてたし
斎藤利三は母方でバッチリ繋がるし
だから明智光秀はわたしの母方の家を滅亡から救おうとしてくれてたのか

          後に秀吉によって実際に完璧に滅びた乗っ取られたその他恨みツラミ有り



やっぱり日本人です
いろいろな関係で繋がるんだね

大学1年の入学早々の春に某氏と出会ったのも先祖がらみだったのかとマタマタ納得した。


もし  わたしが男子で   入学早々に出会ったアノ人達が女子だったら  
おそらくワタシは全部のアノ女子達に手を出していたのかも

だけどコッチは女子だしカトリックで6年洗脳されてオトコ解禁になったから
絶対に選りに撚った男子を選んで結婚する!
と思ってたから  

長男?ダメ!  一人っ子?ダメ!  大地主?ダメ!  旧家?ダメ!  公務員?ダメ!  と篩にかけて全部落としてやった。


それで結婚した相手が厳島神社に連れて行けと何年も言い張って
やっと連れて行ったら
「自分は厳島神社の前の海にいた蟹だ」
と言うからビックリ。


昨日、一日中、わたしの好きな南軍の歌を聴いて泣いていました。
https://www.youtube.com/watch?v=TFFHMNBiYvM
ここに3−4枚オットにそっくりな人達の写真が出てます。
      もしかすると一族かも
最後の写真は去年ひきずり倒された像の1つだと思う。
      この時もスッゴク泣いた。



https://www.youtube.com/watch?v=RMNtzd_tQyk&oref=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DRMNtzd_tQyk&has_verified=1

同じ歌です。
でももしかすると  画像が残酷過ぎて開けられない  という表示が出ますが
クリックすれば開けられます。
YOUTUBE はなかなか規制が厳しいのです。


南軍は個人で手弁当で参加した
という感じで
写真の目がすっごく絶望的な目をしているのが泣けます。


わたしは初めてこの曲を聴いた時にすっごく泣けて
夫が「きっと前世で、恋人が死んで君の所に戻って来た時に、この曲が演奏されたんだね」と言って、
わたしはまた泣いた。


唄ってる人が南部訛りで、英語は幕末の頃のものだし、聞き取れないから歌詞をコピペします。

Bob Roebuck is my sweetheart's name
He's off to the wars and gone

He's fighting for his Nannie dear

His sword is buckled on
He's fighting for his own true love
His foes he does defy

He is the darling of my heart
My Southern soldier boy


Oh if in battle he was slain
I'm sure that I should die
but I'm sure he'll come again

And cheer my weeping eye
But should he fall In this our glorious cause

He still would be my joy
For many a sweetheart mourns the loss
Of a Southern soldier boy

I hope for the best
And so do all
Whose hopes are in the field

I know that we shall win the day
For Southerns never yield

And when we thing Of those who are away
We'll look above for joy
And I'm mighty glad
That my Bobby is A Southern soldier boy


Songwriters: capt. g.w. alexander
[12]三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月01日 11時40分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明智と服部の関係、奥は深いものであると思っています。服部中保次も正
にそこに含まれると推察しています。信長の父親信秀との関係からでしょぅ
か……。津島の服部氏も関係すると思います。――服部党の裏ネットワーク
と言ってもいいのかも知れませんね。詳しいことはわかりませんが、闇の中
にうっすらと見えたり消えたりしています。

 南軍の歌、何とも言えない哀愁を含んだメロディー、イギリス本国から来
ているのでしょぅか。私が探し求めているかつて聞いたメロディーもこれに
近いのですが……十回も聞いてしまいました。

 さて、土岐氏ですが、土岐氏に関する資料本を一冊見つけました。それは
新人物往来社の『日本の名族 五 中部編』というもので、やっと今役に立
ちます。
 次回はそこから抽出したものを記しますが、土岐氏は最終的には「光秀」
に収束しますね! 光秀は、土岐氏の再興を願った―その思いは私には実感
としてわかりませんが、それはきっと体に流れる「血」というものなのでし
ょぅ――
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月01日 15時45分35秒 ) パスワード

こんがらがってしまったので書き直し:

三つ柏さん

レス<10>

足助氏の当主の足助貞親(加茂重成)について  自己レス   すまぬ

>幕府は機先を制し、小串範行・山本時綱に軍を率いらせ、
>上洛していた土岐惣領家に属する従子、
>もしくは従兄弟の土岐頼兼(従兄もしくは伯父の土岐頼貞の十男)や多治見国長および、足助氏の当主の足助貞親(加茂重成)を討伐させた


ココですが  足助氏の当主の足助貞親(加茂重成)  について1つ思い出しました。

戦国時代、幼い半蔵の父親がまだ三河松平家からアチコチに出張っていた時に、
足助の服部氏宅に寄って  一宿一飯?  の世話になっていた
ということを読んだ記憶です。

それで  足助の服部氏って?  と思っていました。


しかし、こうして足助の貞親=加茂重成=が出てくると、ここに親しかった服部氏というのがいたのかな?と。
やはり後醍醐天皇方、のちには南朝方の土岐氏系の家と親しかった服部家の存在が浮かび上がって来るように思います。



我が家的感覚から書くとすると
津島の服部さん=我が家的には袂を別った服部さん=ということで織田との喧嘩から服部一族内で喧嘩別れ=つまり=敵になった服部さんですね
服部党=ホンヤさんを中心とした=信長を敵とした服部友貞をカシラとする服部グループ
こんな区別です。

    我が家にすればうちよりずっと下の身分だった織田の分家が旭日のように高きに昇っていく織田信秀信長父子はいまいましい存在でした


    結局は  わが服部党が完敗  しましたが。
    その前に今川義元と組んで信長を殺す予定が狂って我が家は逃げ帰っていますし
    三河在の服部家は桶狭間を機会に岡崎城を奪い返した家康を敵としてそのまま義元の子・今川氏真に仕えました。



瞬殺がコワイのでここでアップ
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月01日 16時02分31秒 ) パスワード

平家+南朝方として一枚岩のようだった服部グループも戦国時代の永禄時代前あたりからはとうとう分裂ですね。

   でも血で繋がっているから裏では秘密の動きがあったでしょうね

   特に今川+武田+北条の鼎立時代には服部グループも今川や武田(および北条にも?)に仕えたのがいますからね


>土岐氏ですが、土岐氏に関する資料本を一冊見つけました。
>それは新人物往来社の『日本の名族 五 中部編』というもので、やっと今役に立ちます。


本は  見つけた時に買っておくべきですね。
知り合いは  一番大きな部屋を図書室にして  3000冊の本を収めています。
彼の場合は書斎で収入も得ているので当然ですが。


土岐氏についてのご報告を楽しみにしています。


ここでアップ
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月01日 16時52分28秒 ) パスワード

>南軍の歌、何とも言えない哀愁を含んだメロディー、
>イギリス本国から来ているのでしょぅか。
>私が探し求めているかつて聞いたメロディーもこれに近いのですが……


南北戦争の時の歌って
南軍も北軍も  もともと1つの歌を基にして  それぞれ南軍歌にしたり北軍歌にしているというのが多いと思います

南軍歌になると南部らしく楽器にバンジョーとか使ってて曲調がディキシーになってて
その上に南部の人が歌ってるわけで    南部訛りの強いヒトが歌ってると何を言ってるのか99%分からなかったりします

さらに「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラのように  
父方出身がアイルランド母方出身がフランスという人達も南部にいたわけで
彼らの南軍の歌となると  え?  何?これ!  です。 面喰らいました。


上記の画像に出てたヒト達の顔もオットのような純種のイギリス系もあればスコットランド系もありドイツ系の顔もありフランス系もありで。


代表的な南軍の歌のリストです。
https://www.civilwarpoetry.org/confederate/songs/index.html


アイルランド訛りの英語って・・・
ケルト民族だから(スコットランドとかウエールズとかと同じ民族)
英語は更に違うし曲も全く  え?  だし。


でも皆さん同じく  手弁当で  そして  家にあった武器を携えて  参加した  って写真です。

表情が、顔の肌が、未来を見てない、希望を持ってない、あるのは絶望と、身近な死  そういう写真で
まるで自分の先祖達が最終戦に出て行く姿を見るような気分になります。


寝る時の毛布も持って参戦している姿に胸が痛みました。

圧倒的に南軍側は素人の寄せ集めの農業従事者だから  工業地帯出身者の北軍に勝てるわけないけど  
それでも自分達の土地を守るか、自分達の土地を守れないなら死を選ぶしかないわけで

去年は南軍記念碑なんかへの蹂躙がひどかったです。
要するに  南軍の将軍の像を引きずり降ろしたり。

         今年は南部の中絶禁止運動に対して全米が反対運動で盛り上がってますね  
         ハンガーの絵は、あれは「じゃ、わたしたちにハンガーで自分で中絶しろってコトか?」という意味です


         わたしは10年カトリックで育ってるから  こういう運動に対して何にも言えない  ヘタレです。



おそらく三つ柏さんがお捜しのイギリスの歌は  Greensleeves  と思います。
https://www.youtube.com/results?search_query=greensleeves+song
いろいろ出てます。

オリビア・ニュートン・ジョンの歌声と歌詞つき
https://www.youtube.com/watch?v=9CIcMQ2S_DM
作曲者はヘンリー8世と聞いたことがあります。たぶんいろいろな人が書いてるかも。


オットはわたしの木の小箱にグリーンスリーブスのオルゴールをつけてくれました。

「グリーンスリーブス」または「グリーンスリーヴス」(英語原題:Greensleeves)は、伝統的なイングランドの民謡で、ロマネスカと呼ばれる固執低音の旋律をもつ。 原曲については作者不詳となっているほか、チューン(節まわし、いわゆるメロディーの骨格)は2種類存在していた可能性があるが、どちらも不明である。

詳しくは https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%96%E3%82%B9

 
それか  Amazing Grace  アメイジング・グレースあたり?
https://www.youtube.com/watch?v=HsCp5LG_zNE
歌姫つき

アメイジング・グレイス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%B9
[17]三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月02日 11時28分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私が探している音楽というか曲は、学生時代に友達が持っていたレコード
の曲でありまして、ボブディランかなと思っていたのですが、どうもディラ
ンの曲ではないようです。音楽ルーツ的には近いのかなとは思っております。
 そのレコードを持っていた友達は、風来坊でおそらくは東京にいるのだと
思うのですが、住所も定かでなく連絡もとれません。
 ま、気長にその音調を探して行きたいと思っております。アフリカンドラ
ム?の低い音、ジプシィ的?な哀調…マイナーでも活き活きした音楽でした。

 ケルトについては、余り知識を持っていないのですが、ストーンヘンジの
環状列石と日本にもある環状列石は関係があると思いますので、ケルトとい
うものはいずれ詳しく探求してみたいと思っております。

 来週は、津軽=青森に旅行に行きますので、山内丸山遺跡や十三湖の安倍
水軍の歴史のかけらを拾ってきます。大湯の環状列石にはいきませんが、そ
れに近いものがあるかもしれません。どんなレポートができますか、楽しみ
にしていて下さい。

 土岐氏については、謎という意味では、明智土岐氏の光秀につきますが、
そういえば南部氏出の笠井氏も笠井「満秀」でありました。天海はたしか
「秀満」という名前でしたので、「みつひで」、「ひでみつ」という名前に
は、何か祖先の宿命的な願いが込められているように思えてなりません。

 土岐氏については、次回にまとめます――
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月03日 10時50分35秒 ) パスワード

三つ柏さん


土岐氏について楽しみに待っていますね。



「みつひで」「ひでみつ」が土岐氏にとって意味があるかも知れないですね。


「みつひで」とか「ひでみつ」という名前は、「みつ」も「ひで」も元々が良い意味の言葉ですから、普通に多い名かも知れないですね。

戦国時代末期の「ひで」が初めに来るのは秀吉に遠慮して「ひで」を頭にしたんでしょうね。


思い出した!
大学1年の時のオトコの名前!
美濃国+土岐氏+斎藤氏がらみの名前だったのかも。

     斎藤利三も  あんがい  「利光」とつけたかったかもしれないですね
     で、遠慮して、利「三」にしたかも。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%88%A9%E4%B8%89
>天文3年(1534年)、斎藤利賢の次男として生まれる

次男なのに「三」というのがアヤシイし。



ボブ・ディランはノーベル賞を貰ったんでしたっけ。
歌手で初めて、ということで
エンターテインメント界の朗報でした。

本名Robert Allen Zimmerman
ところが
ヘブライ語の名はシャブタイ・ツィメルマン(シャプサイ・ジスル)
(イディッシュ語: שַׁבְּתַאי זיסל בֶּן אַבְרָהָם צימערמאַן‎‎ Šabsay Zisl ben Avrohom Tsimerman)。

ジスルはイスロエルの愛称。
祖父母はロシアのオデッサ(現ウクライナ)やリトアニアからの移民であり、
父エイブラハム・ジマーマンと母ビアトリス・ストーン(愛称ビーティー)は小規模だが絆の固いミネソタのアシュケナジム・ユダヤ人の一員だった。


精神的背景が非常に複雑なんですねぇ。

ビートルズと同様に、わたしの世代より少し前の人に、人気の歌手かなと思います。

     わたしが興味をもつところは  ミネソタ訛り  ってところです。
     なかなか聞くことはないから。
     How の  「あう」の音とか Manの{a}の音とか Answer の「A」の音とか Justの 曖昧音が特徴があるなぁ、と関心を持つ。

1941年生まれということで公民権運動とかベトナム戦争真っ只中の人だけど徴兵されてない幸運の人だったようです。



「答えは風の中にある」
へぇ〜
[19]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月03日 13時34分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ボブ・ディランはいわゆるバリバリのアシュケナジーユダヤ人であった
との情報、ありがとうございました。不勉強でした。
 「風に吹かれて」「ミスター タンプリンマン」の二曲は何か考えさせ
られる曲で、英語の勉強の一助にと思ったのですが、あとが続きませんで
した。歌う吟遊詩人といったところですか、難解です。
 「答えは風の中にある」は、英語で言うと"You will know the answer
in the winds."でよろしいでしょぅか?(直訳すぎる?)
 
 
 
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月03日 16時41分20秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「答えは風の中にある」は、
>英語で言うと"You will know the answer in the winds."でよろしいでしょぅか?

ボブ・ディラン:
The answer is blowin' in the wind.
答えは風に吹かれている。


この blow  という「動詞」はどういう意味で使っているのか  さっぱり  分からないです。
ま、普通は  素直な人には  吹いている  揺れている  あたりの意味ですけど。
俗語では  台無しにするとか  コカイン  だったり・・・  


本人はハッキリ言ってなくて
「答えは風の中に舞っている」
と禅問答のような大喜利のような。

わたくし的には
     「答え?んなもん俺が知るか!クソ喰らえ!」 って言ってるのかな?と「単純に言うなよ!反戦?反戦歌として作ったんじゃねぇ〜ぞ。」



ユダヤ人はものすごく複雑ですからね。
ユダヤ人も  アシュケナージ vs セム系(中東のユダヤ人) の対比があるし
ボブ・ディランは民族的にもいろいろな民族の血を受け継いでいて
本人は苦しいんでしょうね。


先月、刑務所の経費削減のための仮釈放で外に出てた囚人が期日までに戻らなくて、ニュースで捜してました。
(しょっちゅう指名手配のニュースがあります。先週は女の囚人が戻ってないとニュースがありました)

その男の人の顔写真は全くの白人でした。なかなか整った顔をしてましたよ。
ところが名字は  日本人  でした。日系人ですね。  え? と思いました。
そして身長は  160p  でした。


この囚人の苦悩が見当つきますか?
彼が犯罪を犯した一端が見当つきますか?

日本だと  ハーフ=美しい  という誤解があるけど
(実際に顔が平均化するとバラスがとれる=美しいということですが)
ハーフだからステキに生まれるとは限らないわけです。


森瑤子の苦悩をお読みになったことがありますか?
スコットランド系イギリス人の夫との間に娘を3人もうけた。
例えば
娘が画いた森瑤子の似顔絵は  金髪の女性。
他にもいろいろあって  
3番目のムスメさんは精神的に・・・
そして森瑤子自身も心療内科に通って
そして森瑤子の実父が森瑤子の夫に望むことがあっても森瑤子はそれに対して許せない感情を父上に持った。

わたくし自身もいろいろ書きたいことがあるけどサラッと書きます:
白人と日本人の混血にはどういう病気が・・・?
白人は白人特有の遺伝的な病気がある(黒人は黒人の独特な遺伝的な病気がある)


ボブ・ディランの場合は家族的な複雑な民族性とか宗教の問題とか(キリスト教に改宗してユダヤ教に戻ったり)
彼自身が薬やってたり

だから彼のノーベル賞には賛否両論侃々諤々喧々囂々いろいろあった。


でも人間の永遠の問題について提起しているから  ノーベル賞の価値がある 
ということだとワタシは思っています。


彼自身が「答え」を出していないからね。
人間はみんなそれぞれが考えなきゃいけないんだ、って彼は言ってるだけ。


「答え」は永遠に我々の手になんか入らない、って言ってるんじゃないかな。
誰にも。人間に「答え」なんか、あり得ないんだよ、と。

だからノーベル賞に相応しい、ということですかね?


     ボブ・ディランは薬をやるより他なかったのかな?
     ラリってる時には答えを見つけた気分になれたのかな?   ← 古い表現!笑  死語だよね?
     苦しみから解放されたのかな?


     タンバリン・マンについて       タンバリン・マンって薬物販売者のことですよ〜  麻薬のディーラーのことですよ〜
    
     なので、ある人が  "Mr. Tambourine Man" is all about the LSD experience だろうって。

          だから音楽係は薬をやりたがる?
          元祖薬系アーチスト?
          この次に有名どころはビートルズですものね。
          その後、続々。
          そして日本も今や。 情けない・・・ジャニーズの皆さんには日本の若者の手本になって欲しいのに    


「風に吹かれて」の歌詞を検索しました:

How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
                       非常にオリエンタル的ですよね。「万里の道を往け」って感じで
How many seas must a white dove sail
Before she sleeps in the sand?

Yes, 'n' how many times must the cannon balls fly
Before they're forever banned?
                      ここが反戦歌とされる部分かな?非核3原則みたいな?
The answer, my friend, is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind

Yes, 'n' how many years can a mountain exist
Before it's washed to the sea?

Yes, 'n' how many years can some people exist
Before they're allowed to be free?

Yes, 'n' how many times can a man turn his head
And pretend that he just doesn't see?

The answer, my friend, is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind

Yes, 'n' how many times must a man look up
Before he can see the sky?

Yes, 'n' how many ears must one man have
Before he can hear people cry?

Yes, 'n' how many deaths will it take till he knows
That too many people have died?

The answer, my friend, is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind



Songwriters: Bob Dylan
Blowin' in the Wind lyrics © Audiam, Inc
 


タンバリン・マンの歌詞            

Hey! Mr. Tambourine man, play a song for me
I'm not sleepy and there is no place I'm going to

Hey! Mr. Tambourine man, play a song for me
In the jingle jangle morning I'll come following you
                       この部分だよね、彼がLSD中毒なんだろうな、ってのは
                       ジングル・ジャングルって薬物は何日も眠らずにいられるんだそうです

Though I know that evening's empire has returned into sand
Vanished from my hand

Left me blindly here to stand but still not sleeping


My weariness amazes me, I'm branded on my feet
I have no one to meet

And the ancient empty street's too dead for dreaming


Hey! Mr. Tambourine man, play a song for me
I'm not sleepy and there is no place I'm going to

Hey! Mr. Tambourine man, play a song for me
In the jingle jangle morning I'll come following you

Take me on a trip upon your magic swirling ship
My senses have been stripped
My hands can't feel to grip
My toes too numb to step

Wait only for my boot heels to be wandering
I'm ready to go anywhere, I'm ready for to fade
Into my own parade

Cast your dancing spell my way, I promise to go under it
Hey! Mr. Tambourine man, play a song for me

I'm not sleepy and there is no place I'm going to
Hey! Mr. Tambourine man, play a song for me

In the jingle jangle morning I'll come following you
Though you might hear laughing, spinning, swinging madly across the sun
                       幻覚ですかね?        
It's not aimed at anyone
It's just escaping on the run

And but for the sky there are no fences facing
And if you hear vague traces of skipping reels of rhyme
To your tambourine in time

It's just a ragged clown behind
I wouldn't pay it any mind

It's just a shadow you're seeing that he's chasing


Hey! Mr. Tambourine man, play a song for me
I'm not sleepy and there is no place I'm going to
                       まだ不眠で苦しいって叫んでる?

Hey! Mr. Tambourine man, play a song for me
In the jingle jangle morning I'll come following you

And take me disappearing through the smoke rings of my mind
Down the foggy ruins of time
Far past the frozen leaves
The haunted frightened trees
Out to the windy beach
Far from the twisted reach of crazy sorrow

Yes, to dance beneath the diamond sky
With one hand waving free
Silhouetted by the sea
Circled by the circus sands
With all memory and fate
Driven deep beneath the waves

Let me forget about today until tomorrow

Hey! Mr. Tambourine man, play a song for me
I'm not sleepy and there is no place I'm going to

Hey! Mr. Tambourine man, play a song for me
In the jingle jangle morning I'll come following you
                       歌詞を読んでるだけで吐き気がして来る

#BobDylan #Folk #SingerSongwriter


Category
Music


Song
Mr. Tambourine Man


Artist
Bob Dylan


Writers
Bob Dylan


Licensed to YouTube by
SME; LatinAutor - SonyATV, UBEM, CMRRA, Audiam (Publishing), Sony ATV Publishing, LatinAutor, and 6 Music Rights Societies


でもねぇ、いろいろな国の宗教(日本の神道も含めて)と麻薬は切っても切れない関係にあるから
やっぱりボブ・ディランとか音楽系とかって考えると
音楽をやってると  やりたくなる  そういう中毒性があるのかな?
困ったもんです。


だからトランプが、今、中国と戦ってるでしょ?
表面は  武器弾薬  を使わず   貿易戦争  という形で。

今のアメリカは中国から密輸入されるフェンタニールがすごいことになってるんですよ。


過去のアメリカ大統領はコロンビアに対しては  爆撃で  ぶっ潰したけどね。
                       その代わりが  メキシコからの密輸になっただけ。


中国からの輸入量が減ったら  密輸入されるフェンタニールも減るかもね。
なんせコンテナ1つ1つ検査出来ないものね
多過ぎて。

トランプはお酒とかタバコをやらないとかだから麻薬に対しても厳しいのかもね。
頑張って欲しい。
[21]三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月03日 20時45分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 目からウロコどころか、日本人的常識の世界がもろくも崩壊してしまいま
した。我々にはアメリカに対する憧れ(逆に言うとコンプレックス)があり、
アメリカ=善という潜在的意識がありましたが、そうか「酔ったような話」
なのか「禅問答」なのか、いずれにしても唄歌いの感性の世界であるという
ところですね。退廃一歩手前の危ない世界ですよね。ある意味突き詰めた世
界なのかもしれませんね。いずれにしても、一度、じっくり探求してみます―
 
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月03日 23時03分06秒 ) パスワード

今からジムです。
その後、歯のクリーニングです。


それで手早く
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54373
そもそも「大麻」とは何か?


日本じゃマリファナとかコカインとかのレベルで騒いでいるけど
ハワイもマリファナを解禁する
って方向で

結論は知らないです

ここは民主党系の世界だから  いずれ  解禁なんだろうなと思っています。


ヘロインはドイツのバイエルが喘息とか気管支炎用に開発したもので
つい最近までドイツでは合法だったんだとか。


コカインは精神的な中毒だそうで
だから抜けるのはそんなに大変じゃないらしいです。


でもフェンタニールはモルヒネの100倍200倍の薬だそうで
それが雪崩のように中国から入って来てて
毎日ODオーバードースで何人も死んでるそうです。

では出掛けます。
[23]三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月03日 23時43分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ディランを"dig"するように、歴史も"dig"しないと本当の世界は見えてま
いりません。
 土岐氏もしかり、表面的なあるいは教科書的な情報では真の世界は見えて
まいりません。
 それはまた全てに言えることで、いかにして真実を「掘る」かで、隠れた
あるいは隠された世界が見えてまいります。掘ればかならず真実のかけらが
みえて来るはずです。

 さて、土岐氏はどうでしょうか――
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月04日 02時12分52秒 ) パスワード

三つ柏さん

そろそろ歯科に出掛けます。
その前に頂いたメールのコピペです。
                        メールでのご指摘、感謝です


>次男なのに「三」というのがアヤシイし。

*戦国時代にはよく有ることです。縁起担ぎの一つです。



『真田太平記』
(NHK新大型時代劇、1985年 演:渡瀬恒彦)
でやっていました。


真田の三兄弟で長男なのに三郎と呼ばれて居ましたね。
そのときのなにかの解説かドラマの中だったか、
長男や跡取りが早く亡くなる戦死するなどの厄落としの意味で
わざと三番目だぞと名付けて難を逃れようとした。
と言われて居ました。


落語の死に神をごまかす為に布団上の人物をくるりと回す、枕返し・・・枕の位置を変えると言うのがありましたね。

戦国時代の死に神に対する防衛・・・ごまかしかな。縁起担ぎってところですかね・・・。



織田三郎信長・・・の信長は三男でしたっけ・・・・?。

                 答え:次男
                    庶兄がいたそうです。



三つ柏さん

なぜ中国がアメリカにアヘン戦争を仕掛けているか
それはオバマとの密約が(G2が)成らなかったからです。


確かに中国はアメリカの国債を大量に買った
裏で売却してた
しかしアメリカが察知

借金のカタに中国はハワイを寄越せと言った
アメリカが拒否した

                      うちの父が「ハワイを欲しくない国なんて世界中に1つとして無いだろう」と言いました

                      某アメリカ軍人の答え
                      「今時ハワイが重要拠点だなんて古いね」

それで南沙諸島やら西沙諸島に中国は基地を作り始めた
オバマは見て見ぬふりをした

     ベトナムやフィリピンが反発
     フィリピンはアメリカ軍を追い出しておきながら「戻って来て〜」とラブコール


中国は実は刷っても刷ってもお金が足りない
アヘンの大量密輸で絶賛増資中


       とはいえ旧日本軍もアヘンで中国をボロボロにしているから日本は中国を非難出来ないわね
       当事者は鈴木商店と横浜正金銀行でしたっけ?後の東京銀行。現ユニオンバンク

             勘違いしてるかな?


「アメリカは外からの力で潰れたりしないけど国の内部から崩壊する」
と言われて久しいです。
言ったのは  リンカーン。

で、現在、中国がアメリカをアヘン戦争で内部崩壊させようとしている。


ここで時間切れ。
今から歯医者です。
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月04日 06時14分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ボブ・ディランの気持ちがわかってきました。しょせんこの世はフェイク
の世界、表と裏とうまく使い分けていきていくしかない。これが世界の現実
だ――ということか。アメリカが裏で何をやっているのか、中国が裏で何を
やっているのか、皆自国を優位にするための戦略上の作戦・駆け引きを行っ
ている。それを知らないのか、知っていても知らないふりをするのか、フェ
イク情報をに流すのか……正に混沌以外の何物でない。信じられるのは自分
だけ。……何かユダヤ人の気持ちがわかるような気がします。できれば、裏
は知らない方が気が休まりますね。日本人は単純で純粋な気性となっていま
すので、そんな世界の現実はつらいですね。

 さて、土岐氏についてということで、回りくどく述べておりますが、土岐
氏の全貌を短時間で理解しようとするのも無理があります。あくまで概観と
直感に基づいて、土岐氏の謎について述べてみたいと思います。

 ギリシア・ローマの栄光のように、土岐氏が過去の栄光や旗印となる祖先
がいたとしたら、それは何なのか・誰なのか――

 一旦ここで切ります――


[27]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月04日 16時30分19秒 ) パスワード

長々書いてたら瞬殺された。
もう、寝る!怒
[28]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月04日 17時23分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 怒れる気持ち、さぞかしと推察申し上げます。ゆっくり気持ちがおさま
るまで気分転換等図って下さいませ。

 土岐氏についてのいわゆるプロット(骨組み)がなかなかまとまりません。
もう少し頭の中で熟成させたいと思っています。土岐氏や清和源氏頼光流
の人間でないと、その気持ちはわからないし、表面的な資料では深奥を垣
間見ることができません。
 これは私の推測ですが、土岐氏の資料が少なく、十分な理解ができにく
いのは、南朝がもろにからみ(もちろん北朝ももろにからみ)、そして最大
の山場として明智光秀がからむ。つまりは特大の秘密がからんでいるから
いろいろなものが抑えられた、あるいは隠されたのではなかろうかと、そ
んな思いを抱いております――
[29]三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月05日 05時18分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 土岐氏を土岐氏だけのマターとして捉えるのは、肝心なことを見落とすこ
とになるのではと思いました。

 つまり土岐氏は、清和源氏頼光流(摂津源氏)であり、直接的な始祖は「頼
光(らいこう)」で、神話的ヒーローとして金字塔のように輝いています。
 さらに、頼光の孫の代で分かれますが、近い血族として、やはり頼光と同
じく神話的ヒーローの「頼政」がおります。

 土岐氏が、この二人を一族の「アイデンティティ」の拠り所としたかどう
かの証拠は、今の所見つけておりませんが、それに反したとは考えにくく、
いわゆる「過去の栄光」「ギリシア・ローマ」であったのではないかと推測
しております。

 彼らヒーローは、単に武者としての存在だけでなく、王朝を警護し、邪悪
なものを取り除くという「辟邪的要素」(呪術的要素)を含んでおり、更には
歌人というような高度の教養知識を携えていました。

 やはり、この二人は、清和源氏頼光流の「大祖先」であり、心の帰順する
拠り所ではなかったかと思うのですが、いかんせん私個人では、血としてそ
れを実感することができないのが残念です。

 土岐氏をまとめようと思ったのですが、謎のない内容について、つらつら
とまとめたところで、何の面白みもありませんので、今後、何かの謎にから
んだところで記して行きたいと考えます。

 やはり、土岐氏は明智氏とのからみでの謎解きが一番でしょう。土岐氏の
直系(紆余曲折あり)の最後である土岐頼芸にも謎があるような気もいたしま
すし、また桔梗紋にも謎があるような(宗良親王だったと思うのですが、桔梗
ヶ丘の戦いというものもありました)気がいたします――

 次回は、津軽行きの報告になります――
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月05日 05時26分48秒 ) パスワード

三つ柏さん


昨夜は土岐氏についていろいろグダグダ書いてて瞬殺されました。
土岐氏はホント!分かり難い名家ですね。


                        
                       戦国時代の土岐氏が滅びるあたりって兄弟喧嘩でグッチャグッチャですもんね。


土岐氏で知ってると言ったら片手で数えられるあたりで
特に  土岐頼遠  と  土岐頼芸  あたりかな?


土岐頼遠は   なぁ〜んか、バカ  って感じ。
武者としては良いのだろうけど。
脳味噌も筋肉で出来てるの?と言いたくなるヤツ。


https://kotobank.jp/word/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%A0%BC%E9%81%A0-104620

南北朝時代の武将。
美濃の守護。
通称は七郎。
弾正少弼。

父頼貞が延元4=暦応2 (1339) 年病死したあと,美濃守護を継いだ。

足利尊氏(たかうじ),直義(ただよし)にしたがい、
暦応1/延元3(1338)年,北畠顕家の西上を足利方が美濃で迎撃した美濃青野ケ原の戦では、1000騎がわずか20騎になるまで奮戦し、活躍。

特に足利直義に従い,数々の戦功をあげたが,興国3=康永1 (42) 年12月1日京都で光厳上皇の御幸に行き会い、矢を射かけた罪で、六条河原で斬られた。

この事件の時、その罪を問われると無断で美濃に下向、一時、反乱の姿勢をみせたが、結局、斬首された。

『太平記』は
「土岐(頼遠)は元来酔狂の者なりけるに、このごろ殊に世を世ともせざりければ」と評している。


和歌が『新千載集』『新後拾遺集』に収められている。

佐々木道誉(高氏)とならんで婆娑羅(ばさら)大名のひとり。

有名な言葉:何に、院と云うか、犬と云うか、犬ならば射て落さん(「太平記」)


「青野原の軍は土岐頼遠一人高名と聞し也」(『難太平記』)とたたえられた。


                       そうか「酔狂のやつばら」と表現すれば良いのか。



土岐頼芸
                       この人もねぇ、教養は高くて鷹の絵はうまいけど、愛妾の深芳野をアンパンで?斎藤道三に下げ渡したり
                       実兄を追いやったり・・・のバカ

                       でも頼芸も後に追放された時に神代桜で有名な根尾谷を通って越前に落ちていったのよねぇ
                       実兄も同じルートで越前に落ちて行ったんだろうに後年自分が同じルートを取るなんて、
                       どう思ったでしょうね


                                こういう「心理」にものすごく興味があります。

                       この桜、見に行きましたよ。ものすごい山道で、オットはハラハラドキドキしてました。


土岐頼芸

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%A0%BC%E8%8A%B8

兄の頼武及びその子・頼純の嫡流と対立、
美濃国とその周辺国を巻き込んだ争乱の末、
土岐氏当主、美濃守護となった。

しかし、後に重臣の斎藤道三に追放された。


文亀2年(1502年)に土岐政房の子として生まれる。
この当時の美濃の国内情勢は重臣の斎藤家は守護代・斎藤利国の戦死により衰退し、
代わってその庶流長井家が台頭するなど斎藤家中は不安定であった。


斎藤家だけではなく守護土岐家も暗雲が漂っていた。
父・政房には長男の頼武がいたが、
政房は次男の頼芸を溺愛して頼武の廃嫡を考えるようになり、
政房によって頼芸は小守護代・長井長弘、長井新左衛門尉(斎藤道三の父)らに擁立され、
兄の頼武も守護代・斎藤利良の支持を受けたことにより、

両者は対立して家督争いが起こり、
永正14年(1517年)、合戦となった。

                       すごいね
                       我が家より内訌が複雑だ

この戦いで頼芸側は敗れたが、
前守護代・斎藤彦四郎の助力も得て、翌永正15年(1518年)、再び合戦となり、
頼芸側が勝利し
頼武を越前国に追放し、頼武方の勢力を一掃した。


しかし、永正16年(1519年)、朝倉孝景の支援を得た頼武側が美濃に侵攻し、
頼芸側は圧倒され頼武側が勝利し、
頼武が美濃守護に就くことになったことで決着がついたと思われた。

しかし、

頼芸は政権奪取を企て、大永5年(1525年)に再び挙兵し、
美濃守護所の福光館を占拠した。

享禄3年(1530年)には兄を再び越前国に追放し、
「濃州太守」と呼ばれて実質的な守護となった。


その後、後ろ盾であった斎藤長弘、長井新左衛門尉らが相次いで死去したため、
新左衛門尉の子・長井規秀(後の斎藤道三)を重用し、勢力保持をはかったとされる。


天文4年(1535年)6月、父の17回忌を執り行い、自らの正統性を国内に宣言したため、兄の跡を継いだ甥・頼純と対立し、
朝倉氏、六角氏らが頼純側に加担したことにより戦火は美濃全土へ広がった。


同年7月1日、新たな守護所であった枝広館が長良川大洪水で流され、
稲葉山の麓に移る。


同年6月22日、第12代将軍・足利義晴の執奏により、修理大夫に任官。
翌天文5年(1536年)、勅許により美濃守に遷任して正式に守護の座に就いた。


同じ頃、頼芸は六角定頼の娘を娶り、六角氏と和睦したことによって争乱はほとんど治まり、
天文8年(1539年)には頼純との間に和議が成立した。


天文10年(1541年)、重臣の斎藤道三が頼芸の弟・頼満を毒殺する事件が起こったため、
これ以降道三との仲が険悪となり、次第に対立する。


天文11年(1542年)、頼純の籠もる大桑城が落城し鷺山城へ移る。
またこの年、頼芸は子の頼次ともども道三により尾張国へ追放された。

                       へぇ〜、これは知らなかった


頼芸は尾張国の織田信秀の支援を得て、
越前国で朝倉孝景の庇護下にいた頼純と連携し守護の座に復帰するが、
まもなく天文15年(1546年)、
道三と孝景が和睦し、

                       ウッソォ〜


その和睦の条件が頼芸の守護退任であったため、
頼芸は守護の座を頼純に明け渡した。


さらに天文17年(1548年)、信秀と道三が和睦したことによって後盾を失い、
天文21年(1552年)頃、再び道三に追放され、

妹の嫁ぎ先である近江国の六角氏、

続いて実弟の治頼がいる常陸国に寄寓し、

この時治頼に系図や家宝を譲り渡したという。

                       あっらぁ〜


次いで上総国の土岐為頼を頼り、後に甲斐国の武田氏に身を寄せる。
この間に病によって失明する。


この間に大勢力となっていた織田信秀の子の織田信長による甲州征伐の際、武田氏に庇護されていた頼芸が発見された。


頼芸の旧臣でもあり
当時織田麾下であった稲葉一鉄のはからいで美濃国に戻り、
半年後に死去したといわれている。
享年81。


                       波乱の人生ですねぇ
                       でも美濃で死ねてラッキーだったかも。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月05日 05時42分56秒 ) パスワード

美濃国内がこれだけグチャグチャしてたから

明智光秀はアタマの中を整理するために諸国を放浪したのかな?

内訌で自分自身も同士討ちで潰れるなんて、そんなバカな生き方はしたくなかったのだろうなと思う。


外から美濃国を眺めて、どういう外科治療が必要か、考えたんだろうな、と。


重臣の斎藤家の中もゴチャゴチャだったんですねぇ。
それで斎藤家の中も分家の長井さんが出て来て余計ゴチャゴチャに。


船頭多くして、という国内に
斎藤道三が下剋上で美濃国を乗っ取っていったのか。


この斎藤道三というオトコは父親が松波さんと言って
日野家の分家筋。

で、この日野家は  後醍醐天皇方。

ところがこの日野家の中も  父子で北と南に分かれ
後に足利家にヨメに行った富子さんもいて

とグチャグチャ。


それが日本史。でも取り敢えず日本人の中での争いだから、ま、いいか。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月05日 07時58分19秒 ) パスワード

三つ柏さん

青森行き、お気をつけて。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月06日 15時17分58秒 ) パスワード

ツラツラ考えるに
美濃国の悲劇は土岐氏内の内訌が頼芸可愛い余りに長男をないがしろにしたパパに始まったということか
とパパについて検索したら

                       このパパも似たような大変な目に遭ってたのか。


土岐 政房(とき まさふさ)
戦国時代の武将。美濃守護。
土岐成頼の長男。
後に8代将軍足利義政から偏諱を受けて、頼継から政房に改名した。


父母
父:土岐成頼
母:斎藤利永のムスメ        へぇ〜  ママは斎藤のムスメだったのか

土岐氏の嫡男となっていたが、
パパの父の成頼は弟の=4男の=元頼を溺愛して長男で嫡男の政房の廃嫡を図った。

                        アッチャー


成頼の支持を受けて守護代斎藤利藤と小守護代石丸利光らが元頼を擁立し、
母方の叔父の斎藤妙純(利藤の異母弟)が政房を擁立したため、
明応3年(1494年)に内乱が起きた(船田合戦)。


                        斎藤家の中の内訌も  なるほどねぇ〜


                もう、笑っちゃった


美濃では守護代の斎藤氏の力が土岐氏を凌ぐようになっており、
船田合戦を通じてさらに強まったが、
明応5年12月、妙純は近江へ出兵して六角氏と戦うが大敗を喫し、子の利親と共に戦死してしまう。
その後は小守護代の長井長弘の力が強まった。


                すごいね
                下剋上のそのまた下剋上だね
                さらに
                後に斎藤道三による下剋上だものね
                斎藤道三も義龍より他の息子達を可愛がって結局義龍と戦って死ぬんだものね



美濃が弱体化するはずだ
やっぱり親がバカだとダメだ


>パパの父の成頼は弟の元頼を溺愛して政房の廃嫡を図った。

ココですが  元頼の生母は側室なんだって。
ということは  政房のママは斎藤という家老の家の出身だけど  元頼のママは側室だから

鼻の下を延ばした成頼が側室の猫なで声で  「わたしの生んだ子に美濃を」  とたぶらかされたのかもね。


よくあるお家騒動で  美濃国も土岐氏も滅んじゃうんだから  スゴイ。


これだけ家の中がゴチャゴチャするって珍しいね。
2代に亘って、だからね。



徳川家が8代将軍吉宗の後、問題のあった家重でも嫡男だからと将軍にしたのは

第3代将軍家光・駿河大納言忠長以来の長幼の序を重視し、家重を後継者とした。
また、家重の嫡男・家治が聡明であったので、家治の将来に期待して家重を後継者にしたとも言われている。


弟の田安宗武はよく我慢したなと思う。
この人の子が松平定信?
やっぱり吉宗の血って優秀なんだね。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月06日 15時31分25秒 ) パスワード

それにしても
さすが
美濃国。


尾張に近いせいで周りの岐阜出身の子達の名字に土岐家がらみが多かった。

あの人も!
あの人も!
あの人のご主人も!


こんな感じで今頃わたしの回りって土岐氏の内訌に大なり小なり関わってるじゃんとビックリ。

岐阜特有の名字だな〜
なんてボンヤリ思ってたけど。


岐阜人の県民性が戦国時代の土岐家からかとだんだん分かってきた。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月06日 22時55分59秒 ) パスワード

実は母方我が家の内訌の事情がちょっと分かった。

パパが17で生まれた我が先祖
パパと大叔父と元寇に行って怪我をした
パパも怪我して
大叔父は死んだ。


だけどパパの遺言状には正妻である北条のムスメを母とする末子に家督を譲ると書いてあって
我が先祖は怒って国に帰った


      だから南朝方についた
      と思って来た


ところが、その前に、ちょっと違う話があって
南朝方についた経緯に  あれ? と思うことが分かった。


この部分は家書を読み込まないといけない。


ワタシってバカなの? 
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月08日 04時17分05秒 ) パスワード

土岐家のゴタゴタを知るために頼芸のおじいちゃんの成頼を調べたら
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E6%88%90%E9%A0%BC
土岐家の当主におさまった経緯というのが
実は養子さんだった

父:一色義遠?、饗庭元明?、佐良木光俊?このヒトは養父土岐持益の叔父大桑頼名の三男
養父:土岐持益


こんなに実父が確定しないって
複雑な生い立ちだね

    今時は  薬局に行けば 「お父さん確定検査キット」  を売ってるから
    自分の子かどうか ココロ当たりの無い有る場合、 オトコは調べられるけど


ま、美濃国の守護に養子で入るとしたら、身分ロンダリングの為に、何度も名家に養子に入ったんだろうね


こういう経緯だから、嫡男という立場に対してもいい加減だったのかもね

だから正妻の斎藤家出身の娘の生んだ長男を廃嫡して、側女の生んだ4男を跡取りにしようなどと考えたのかと想像する。

自分の立場とか  実父が身分が低い
正妻の父親とか  岳父なんて目の上のたん瘤だものね
考えたら

自分が好きになった側女の方が心が休まるし、きっと顔も好みだったろうし、

逆に言えば  しょせんその程度の覚悟のオトコが棚ぼたで美濃国の守護になった  ために起きたゴタゴタの始まりだったのかな?


やっぱり自分の血を分けた子供でないとね。生母も一族の女からでないとね。
なんか日本の  家制度  というのを改めて考えさせられた。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月08日 04時28分33秒 ) パスワード

昨日雷雨の中9か月に1回しか認められてない保険の使える血液検査を受けました。

その結果:
General Information
Collected:
06/06/2019 7:19 AM

Resulted:
06/06/2019 8:47 AM


自分のコレステロール値にホレボレ。
Component Results

Component
Your Value
Standard Range


Hr Post-Prandial(RPPH) 18 HR HR
Appearance: Clear


総Cholesterol       167 mg/dL      <200 mg/dL
中性脂肪 Triglyceride     68 mg/dL     <150 mg/dL
HDL 善玉Cholesterol      59 mg/dL      >39 mg/dL
LDL 悪玉           94 mg/dL     <100 mg/dL
LDL/HDL Risk Factor (RCHD)      1.60         <3.5




以下の検査も全て基準値内。
ナトリウムがギリギリあたりかな  最近塩を摂ってるからね

Component
Your Value
Standard Range


Hr Post-Prandial 18 HR HR
Appearance: Clear

Calcium            9.3 mg/dL     8.6 - 10.3 mg/dL
Glucose             98 mg/dL     70 - 99 mg/dL
                          A1C換算で  5.04  でいいのかな?

BUN               13 mg/dL     8 - 24 mg/dL
Creatinine           0.66 mg/dL    0.40 - 1.10 mg/dL

Total Protein          7.4 g/dL      5.9 - 8.4 g/dL
Albumin            4.6 g/dL       3.5 - 5.2 g/dL
Bilirubin, Total        0.7 mg/dL      0 - 1.2 mg/dL

Alk Phos             57 U/L       40 - 118 U/L
AST (SGOT)            25 U/L      13 - 38 U/L
ALT (SGPT)            23 U/L       9 - 48 U/L
A/G Ratio             1.6        1.3 - 2.7


Sodium               144 mmol/L     133 - 145 mmol/L
Potassium              4.0 mmol/L    3.3 - 5.1 mmol/L
Chloride              107 mmol/L     96 - 108 mmol/L
CO2                 25 mmol/L      21 - 31 mmol/L


eGFR CKD-EPI  Non-AfrAm非黒人用   91 mL/min/1.73m2    >89 mL/min/1.73m2
eGFR CKD-EPI Afr Amer 黒人用   105 mL/min/1.73m2    >89 mL/min/1.73m2  

Normal eGFR: >=90*
* eGFR declines with age beginning at 40 years old,
  and it continues at a rate of approximately 10% per decade
   (Clin Kidney J. 2017.10(4):545).


こんな感じで検査結果はサイコー
つまり次回からは 年1回しか健診を受ける必要無し  って言われるかも


前から  アンタみたいなヒトばっかりだったら世の中から医者が要らない  って主治医から言われてる


わたしは検査が大好きなんだよぉ〜

自腹でお金を払って、保険の使えない高価な各種検査を毎年受けに行ってる。
[38]A.AKECHIさんからのコメント(2019年06月08日 11時45分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

(明智&服部一族かもしれない家系の)医療関係者として一言。
検査結果は究極(?)の個人情報なので、たとえ「Standard Range
」であっても、サイバー空間(?)に公開することはおやめ下さい。
どうぞよろしくお願いします。
[39]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月10日 11時23分29秒 ) パスワード

A.AKCHI様
空の青海のあを様

 サイバー空間における個人情報(特に検査結果等ムキダシの)の放出には、
十分に注意をすべきというご注意、ありがとうございます。
 ハイパー空間とは、全世界の隅々までつながっているということ、十分
注意を払うよう、認識を新たに取り組んで行きたいと思います。

 さて、土岐氏についての私の思いは、この青森旅行中も頭の片隅から離
れることはありませんでした。旅行より帰って、昨日は静養しながらも、
色々調べておりました。
 その内熟成してくると思いますので、その時には記したいと思います。
 「桔梗」紋も深堀りすれば、何か秘密が出てくるような気がいたします
――

 
[40]三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月11日 06時04分59秒 ) パスワード

A.AKECHI様
空の青海のあを様

 桔梗の花が咲き出したようです。袋井市森町にある通称「ききょう寺」
(正式名鹿苑山香勝寺)には、およそ十七種、四万株の桔梗が植えられて
おり、日本最大の桔梗寺だということであります。

 桔梗にも色々な種類があるということですが、色については紫(あるい
は紫がかった青)のオーソドックスなものがいいですね。
 藤の色もそうですが、単純には表現できないその花独特の色があり、む
しろ「桔梗色」(藤は「藤色」)と表現した方が、逆に正確(否定的要素を
残さない)かも知れません。色を表現するのは、感覚の問題なので、難し
いものではあります。

 これら、桔梗や藤のブルー系、紫系に共通するものは、フェルメールの
ブルーのような「崇高さ」であり、これもまたなかなか表現するのが難し
いのですが、何か精神がひきつけられるというか、いつまでもその花を見
ていたくなるような、時の経つのを忘れてしまうような、その花の色の中
に吸い込まれてしまうような……魅力があります。我々の持つ本性(精神性、
神性)がそれに共鳴し、癒されるのではないかと思っております。

 桔梗については、更にもっと深い意味があるのではないかと思うのです
が、詳しくは情報を得ておりません。土岐氏がなぜ桔梗の花を家紋にした
のか、ただそこに咲いていた花を兜に飾ったという偶然性のものなのか、
桔梗がたくさん咲いている土地に住んでいたいう偶然性のものなのか、私
は偶然性より必然性があったのではないかと思うのですが……。

 桔梗について調べると、朝鮮には「トラジ」という歌があって、私はい
い歌(メロディー、リズム、言葉)だなと思って来たわけですが、その意味
については調べておりませんでした。ビックリしたのは、そのトラジの意
味が「桔梗」であったということであります。
 朝鮮における「桔梗(トラジ)」の存在価値は、推察するのがさらに難し
くなりますが、土岐氏即ち源氏のルーツを探ると新羅に行き着くというこ
とを考えると、何か新羅と源氏とを結ぶ糸が桔梗にはあるのかも知れませ
ん。桔梗は薬草でもあるということ、ここにも何か意味があるのかも知れ
ません……。

 A.AKECHI様におかれましては、もし桔梗に関する情報をお持ち
でありましたら、教えていただきたいと思うのですが――

 ちなみに、この「ききょう寺」、開基は「武藤氏」(坂東の武藤氏の分派、
清和源氏系か)であります。開基の武藤刑部尉氏定公は一宮(森)領主で、
天正九年の高天神城攻防戦で戦死しております(本能寺の変の一年前であり
ます)。もっとも、その当時の武藤氏が桔梗を好んだかどうかについては、
今のところわかりません。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月11日 14時55分43秒 ) パスワード

三つ柏さん

武藤氏と桔梗の関係は全く知りませんが
武藤氏もいろいろ有り過ぎて

>武藤刑部尉氏定公は一宮(森)領主で、 天正九年の高天神城攻防戦で戦死

http://www.kikyoudera.jp/history.html

香勝寺は天文14年(1545)2月18日、一ノ宮領主、武藤刑部守氏定公が寺領を寄付。

開基 武藤刑部尉氏定公 刑部少輔又刑部
  法名 香勝寺殿興岩道清大居士  一宮宮司 一宮領主である

天正9年(1581年)3月22日高天神城落城之日戦死

当武藤家の初祖は武藤五郎称して坂東の武藤の分派にて、

長兄は武藤太郎頼忠(武蔵国)、

次兄は武藤小次郎頼資にして頼朝の臣にして九州の少貮氏となる、元寇の乱に奪戦せし人なり、

三男の五郎は頼朝の臣、安田義定の五家老の一人にして、
義定が治承4年遠江守に任ぜられし時此処一宮領の代官(目代)として当地に住み、
安田遠江守義定息の些細な罪により鎌倉に呼びつけられて建久5年8月19日に梟首せられた。
翌月20日五家老殉死。

      遠江守伴類五人 
      名越(なごや)邊被刎首所謂、前瀧口      やっぱり竜の口で斬首刑ですね

         この5名ですね   榎本重兼、前右馬允宮道遠式、麻生平太範国、柴藤三郎、武藤五郎等也
     (和田義盛奉行此、事)吾妻鏡にあり


                       事件とは:
                       甲斐源氏の有力武将は頼朝によって次々と排斥されているが、
                       建久4年(1193年)に義定も子の安田義資が院の女房に艶書を送った罪で斬られ、
                       義定も所領を没収されている[8]。
                       同時に遠江国守護職も解職。
                       翌建久5年(1194年)、義定は謀反の疑いで梟首された[9](永福寺事件)。
                       享年61。


五郎の子孫当境内地に住み天文まで  (1532年から1555年まで)その間360年13代位と思う。

戦国末期まで土地の豪族也。墓石発見により当境内地が屋敷跡と思う、即ち宝篋印塔12・3基外五輪塔と共20基ばかりあり。
御朱印高十六石・慶長8年9月25日家康公より
  慶長6年8月24日付けにて寺領十六石あるを認めて御朱印申請可出当役所に預かり置き申し者也仍如件伊奈備前守忠次(花押)  黒印書あり
慶長9年8月8日井出伝衛門(印) 御朱印高十六石地所再確認書あり
当時山主は三世秀虎和尚也
境内地底 38,000余坪(字菖蒲ヶ谷が全部なり)
総建坪630余坪 (絵図面有)



ということは
この武藤氏は  遠江在の武藤氏  ということで
美濃の武藤氏とは違うのでは?
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月11日 15時19分45秒 ) パスワード

https://sirousagi.hamazo.tv/e7608181.html

森町の武藤氏
信玄の家臣だった



以下勝手にコピペ(ごめんなさい)

http://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/totoumi/shiseki/chuen/sanada.j/sanada.j.html
真田城
周智郡森町一宮 

土着の小領主
        武藤氏


ここ一宮の地に武藤氏の名が登場するのは応永二十七年(1420)のことである。

この年の六月、北九州の有力武将少弐満貞がその所領となっていた一宮大田郷一藤名(いちふじみょう)の地頭に武藤白幡を任じたのが、武藤氏と一宮との関わりの始まりであろう。

永享四年(1432)十二月、足利幕府は一宮荘代官職を武藤用定に安堵している。
これは北九州において反幕の行動を取り続ける少弐氏を封じ込めるためであろうと思われ、
また武藤氏としても少弐氏との縁を断ち切り、
独立する好機でもあったのではないだろうか。


この当時の居城は一藤名に近い草ヶ谷にあった。

武藤用定は足利幕府の奉公衆として将軍に忠勤を励んだ。
奉公衆というのは将軍直属の軍団を構成するもので、
用定の他に武藤孫三郎、同弥四郎、同孫四郎の名が記録されている。

これは一族をあげて足利将軍に近侍していたことをうかがわせている。


その後、世は戦国の様相を色濃くし、守護大名はその軍事力をもって支配地域を拡大、戦国大名と化していった。


遠江は守護斯波氏と隣国駿河の今川氏とが激突する争乱の地となった。

やがて遠江は今川氏によって統一されることになり、武藤氏もその被官に組み込まれていった。

もはや形骸化しつつある足利将軍に近侍する意味は無くなっていたのである。


永禄の頃(十六世紀中頃)、武藤家の当主は刑部氏定であった。
                                  うんうん、ココからだね

今川氏全盛の義元の時代である。
氏定は草ヶ谷の平地に館を移し、天文十四年(1545)、それまでの城跡に香勝寺を建立した。
                                  ふむふむ


さらに小国神社及び一宮防衛のために真田山に築城した。
この城がここ真田城と呼ばれるものである。

                                  真田昌幸が一時  武藤姓  を拝領したのよね


磐石と思われた今川氏も桶狭間に義元が敗死した後は衰退の一途をたどり、
遠江は武田信玄と徳川家康の争奪、
激突の争乱の地と化することになる。

                                  で、ややこしいんだね


永禄の後期から元亀にかけては、数百年にわたって土地に根付いた遠江の小領主たちにとって存亡を賭けた運命の時代となった。
武藤氏とて例外ではない。
 


片瀬城
http://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/totoumi/shiseki/chuen/katase.j/katase.j.html


駿遠の太守今川家も義元亡き後、
氏真の代となってからは衰退はなはだしく、
永禄年間(1558〜1569)の後半には、
ことに遠江の国人層の多くが今川離反の動きをみせていた。


これは甲斐の武田氏と三河の徳川氏による調略合戦が活発化していたことにもよる。



さて一宮荘の国人武藤氏定の場合である。
氏定はいち早く今川を見限り、武田に属した。
武田からどのような誘いや支援を受けたのかは知る由もないが、
氏定は一宮防衛のために領内の各所に多くの城砦を築いて徳川勢の来襲に備えたのであった。
                                  選択に間違いは無いと思ったよね


その数、十二ヵ所に及んでいる。
                                  すごいね



列記してみよう。

武藤氏本来の居城であった草ヶ谷城、
そしてその周囲を取り巻くようにして森之城、粟倉城、松ヶ谷砦、宇藤の谷砦、丸山城がある。
さらに一宮の田園を囲むように真田城、十王山砦、西の谷砦、薬師山砦、元思案坊砦、そしてここ片瀬城である。


永禄十一年(1568)十二月、武田信玄は駿河攻略に取りかかった。

駿河は瞬く間に武田のものとなり、今川氏真は遠江掛川城に逃げ込んだ。


武田の駿河進攻を知った家康もすかさず遠江への進攻を開始し、掛川城を囲んで攻めたてた。

周辺諸城の平定も合わせて進められ、いよいよ遠江の国人にとって一族の浮沈を賭けた波乱の時代へ突入したと云ってよい。


氏定は、武田勢の来援を心待ちにしていたが、それより先に徳川勢による遠江進攻が素早く進んだため一旦、一宮を退去して甲州へ逃れた。


それから三年、元亀三年(1572)に氏定は武田の大軍に属して故郷一宮に戻った。

信玄は三方原において家康を叩き伏せ、三河へ向った。

この時、氏定は武田の庇護下で先祖伝来の故郷を守り続けることができると安堵したのではないだろうか。

                                  うん、そう思う


しかし、それも束の間、翌年四月に信玄が死去し、武田の動きが止まってしまった。

六月、家康が一宮に兵を進めてきた。

武田の後詰あっての城砦網である。
氏定は故郷を再び捨てざるを得なくなって甲州へ遁れた。


その後、氏定は武田勝頼の命によって高天神城に入り、天正九年(1581)三月、徳川勢との戦闘で討死した。

故郷一宮の土を再び踏むこともなく。

                                  なんか泣ける。





ここで美濃の武藤氏について若干:

美濃の武藤家といえば  尾張人のワタシには  名家中の名家  という認識です。
わたしは尾張人なんで美濃人についてはかなり噂レベルですが。

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[43]A.AKECHiさんからのコメント(2019年06月11日 15時36分53秒 ) パスワード

 三つ柏服部様

 平氏ではない土岐氏に関してまでも詳しく追究して頂き、ありがとうございます。

 せっかくのお申し出ですが、当方不勉強につき「桔梗」に関するオリジナル情報は持ち合わせません。すみません。

 こちら↓のサイトに、桔梗紋のルーツは、土岐光衡(や光国あたり)ではなく、源頼光である、との説が出ています。ただ、これにも「なぜ桔梗の花を家紋にしたのか」の言及、まして朝鮮半島との関係については触れられていません。
 http://higashitanism.net/shiokawa-s-misunderstanding4/

 ところで、先日鎌倉の英勝院の桔梗紋のことに触れましたが、最近TVでちらっと見た東京の墨田区にある太田道灌開基の寺=法恩寺の山門。門前の説明版(?)の桔梗紋は「大田桔梗」なのですが、山門の扉に大きく描かれている桔梗紋はどうみても「土岐桔梗」なのです! また謎が増えました。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月11日 15時44分12秒 ) パスワード

では美濃国の武藤氏について:



土岐家臣団
www.geocities.jp/kawabemasatake/dousan.html
終了しています。


意味不明ですが

美濃守護 土岐(隠岐、世保、西池田、一色)氏、
土岐一族 揖斐氏、島田氏、久々利氏、徳山氏〈織田家収録〉、福光氏、今峰氏、外山氏、武藤氏、舟木(高松)氏〈大覚寺統 ...

                        ここに  武藤さんが出てますが  確認できず


でも武藤さんといったら  美濃国・岐阜県  の名家って感じです。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%94%E6%A2%97%E7%B4%8B
桔梗紋

植物としての桔梗は秋の七草のひとつにして、平安時代の『万葉集』では朝貌(あさがお)の名でよまれている。また、「岡に咲く神草」という意味で「岡止々支」(オカトトキ)ともいい、土岐氏が本拠とした土岐の地名はこのトトキの咲くところから生まれたという説もある。

桔梗紋は、土岐悪五郎の「…水色の笠符吹流させ…」という『太平記』の記述が文献上に初めて現れる。この「水色の笠符吹流させ」というのが桔梗を表す[1]。


桔梗は土岐氏、明智氏、肥田氏、山城氏、沼田氏、加藤氏、

それに丸を加えた「丸に桔梗」は、妻木氏、岡氏 、沖村氏、

細身の花弁の「太田桔梗」・「丸に細桔梗」は太田道灌ら太田氏が用いた。

                               次のレスで画像を出します。失敗するかも知れないですが



「土岐桔梗」は江戸時代に「桔梗」から派生したもので[3]、
おもに土岐氏、明智氏、肥田氏、瓜生氏が用いた。

船木氏や土田氏など土岐氏に関係する一族が「清明桔梗」を桔梗紋の代用として用いている[1]。

下級武士での使用例には、「組合い角に桔梗」の坂本龍馬が知られる。
龍馬ら坂本家は、明智光秀の娘婿であった明智光春の子、明智太郎五郎を先祖としていることから用いている。



土岐氏が桔梗紋を使うことになったきっかけ

清和源氏系で、土岐氏初代となった土岐光衝は治承・寿永の乱の時代の人物で、鎌倉幕府の成立にともない源頼朝の御家人になった。

ある戦の時に野に咲いていた水色の桔梗の花を兜の前立にさして戦ったところ大勝利を得たことから縁起のいい花として桔梗の図案を家紋として採用し、
清和源氏を象徴するものとなった[4]。


また桔梗の「更に吉(さらによし)」という語呂に縁起をかついだという説もある。



清和源氏土岐氏がおもに用いた家紋であり、
明智光秀が用いたとされる「陰桔梗」のように、その庶流の一族が桔梗紋を用いていることが多く、
また、庶流や土岐氏に関係する一族では以下のように桔梗を含む家紋を用いていることが多い。

「組合い角に桔梗」は、正方形の角と辺を交差させた「組合い角」の内に桔梗を描く。

太田道灌ら、太田氏が用いた「太田桔梗」は、丸の内にやや細身の桔梗を描く。

土岐氏が用いたという「水色桔梗」は色彩紋で、現代でいう「水色」ではなく「浅紫色」を施す。

「晴明桔梗」は、「安倍晴明判」と同図案であるが「安倍晴明判」より太く描かれる。





明智さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E6%B0%8F

明智土岐氏

美濃守護職を務めた土岐氏は徳川氏の旗本となったが、数多く存在する美濃土岐氏の傍系には大名を輩出した一族がある。

その一族のうち明智氏は、初代美濃守護である土岐頼貞の九男長山頼基の子明智頼重を祖とするという。

戦国時代に存在したとされる明智定明は、内紛により弟の定衡によって殺害された。

その子定政は母方の祖父である菅沼定広を頼って三河設楽郡へ落ち延び、そこで成長した。
当初、奥平氏に再嫁する母とは生き別れたため、母方の叔父の養嗣子として菅沼藤蔵と名乗り、家康に仕える機会を得た。
定政は、徳川が関東に移封された際、下総の守谷で1万石を与えられ、明智姓に復して定政と名乗った。
その後、秀吉の勧めを受けて土岐姓に復し、土岐定政と改称し、明智土岐氏の祖となった。


幕藩体制下では、何ヶ国かの転封を経て上野沼田藩3万5,000石として明治維新を迎えた。
初祖の定政以来、山城守を世襲していたために「土岐山城守家」とも呼ばれた。


なお、明智光秀の祖父ともされる頼典(光継ともいう)は、定明の父である頼明の兄となるという。




https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%94%E6%A2%97%E3%83%B6%E5%8E%9F
桔梗が原の戦い

諏訪直頼およびその代官祢津宗貞や仁科氏など信濃の南朝方勢力を結集した宗良親王の軍と、
小笠原政長・長基(信濃守護)父子や甲斐武田氏(武田信春ほか)らで構成される北朝軍が桔梗ヶ原の地にて一戦を交え、
後者が勝利したと伝わる。


ここでアップ
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月11日 15時46分58秒 ) パスワード

「剣香い桔梗」ともいう。





太田桔梗



晴明桔梗

[46]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月11日 16時43分50秒 ) パスワード

この一族4代、岐阜の醸造家で、政治家で、超有名人。


武藤嘉門(武藤家に養子に入った)
武藤嘉一
武藤嘉文
武藤容治


まさか21世紀になってからココで書くことになるとは思ってなかったから記憶が曖昧だけど

慶応に進学するのに
面接で  「岐阜からどうやって通うのか?」と訊かれたそうで          面接官、どういう意味で訊いた?  と、この話を聞いた人、みんな笑った



慶応ともあろう学校の入試で面接官は身上書を見てないのかねぇ。

だって慶応って学校自体が官僚とか政治家とか経済人とかの子弟を育てる場所なのに。

嘉一さんなんて  慶応の教授なのに。(も、やってた)


武藤一族なんて日本の大臣を輩出している家なのに。


三田にしろ日吉にしろ   住むところなんぞ岐阜の実家は用意できると  
フツー  造り酒屋の家庭の子供の親の資産なんか想像できると思うけどね。

それも大臣を歴任の家だし。
  


わたしの回りの造り酒屋の人達だって

芥川の同級生(他に菊池寛とか久米正雄とかも同級生)

          菊池寛の寛は てん ゝ があるんですよ
          菊池寛は「おれはお前達より点  が多い」とえばるから
          「それはお前のオヤジが無教養だから ゝ をつけたんだ」と反論したと聞いた


は、いかに造り酒屋という家が金持ちだったかということで
「貧乏人=国立大学の学生のこと=になんか教えたくない」
と言ってました。

他の造り酒屋のことは  「XXのお殿様」  と XXという土地の人達は呼んでいる
とワタシのクラスメートの家のことを言ってました。

まだ他にもいるけど割愛。



ということで岐阜の武藤氏って   土岐氏の一族か岐阜の豪族なんじゃないかな?   各務原市あたりの。



と、いうことで武藤氏もいろいろあって、  高天神で討死した武藤氏と美濃の武藤氏は  別じゃないかな?と思う。

      ま、元は武蔵国出身の藤原姓?  「藤」がついてるってことは源氏じゃないけど  後に  源氏化したのかもね。
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月11日 23時10分55秒 ) パスワード

余談

造り酒屋のハナシで最初に書いた人の教え子が
ソニーの盛田
自動車の豊田

それから
2番目の造り酒屋のご主人です。

まだ他にもいるけど割愛。


盛田さんの家は  知多の「ねのひ」というお酒の造り酒屋で
物凄い大金持ちで
桁外れです。


いろいろな逸話を2番目の造り酒屋の人からも聞きました。


わたしも  上記の方達と同じ教え子仲間です。
ただし  叱られ組で   お前は英語が出来ない  とよく怒鳴られてました。

いえいえ
英語以前に問題が・・・・


着るものも  赤いのとかノースリーブを着ていると  今池のキャバレーに行け!  と怒鳴られたそうですが
わたしは  それは言われなかった。

オンナに学問はいらん
お針の学校に行け

とよく聞いたけど
わたしはそこまでは言われなかった


芥川とか菊池寛とか久米正雄の逸話をしょっちゅう聞かされ
盛田さんや豊田さんやその他の著名人の話を聞かされて
授業は5分とか10分ぐらいかな?

だいたい  オンナに学問はいらん  って話とか
イギリスの話だったかな?


造り酒屋って桁違いの豪商だったんだな
という刷り込みをされました。
[48]三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月12日 00時15分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様

 本日は、さっそく「ききょう寺」へ行ってきました。小雨の中でありまし
たが、この時期の桔梗は、雨の中でも活き活きとしていました。まだ三分咲
きとったところでしょぅか、六月末には満開になる模様であります。
 桔梗の色は、やはり紫の領域にあります。種類によって白色や桃色の桔梗
もありました。朝鮮では白い桔梗のようですが、桔梗も土質によって色が変
わることもあるようです。現に、当家の桔梗も、一年目は紫系、二年目は白
になってしまったということであります。

 ききょう寺では、桔梗の根の粉を擦りこんだアイスクリームを売っており、
初めて食してみました。味は無味だということですが、咳にはいいというこ
と、さて効き目はどうでしょう?

 武藤氏については、桔梗の植えられた斜面を二十メートル程登った所に、
墓があり、説明看板を読むと、一番最後のところに「一宮小國神社の武家神
主であったと言われている。その後、武田方に加わった武藤氏定は、高天神
城に籠って天正九年に戦死した。」とありました。

 『高天神城の総合的研究』(小和田哲男著 大東町教育委員会発行)により
確認してみますと、やはり「武藤刑部」の首実検がありました。
 城内に籠った武田の将士達は、兵糧攻めで、勝頼の援軍も来ない。もはや
最後と城内から討って出るわけですが、その前夜、あの有名な幸若舞「高館」
があたかも冥途の土産のように演じられるというやりとりがあり、涙を誘い
ます。

 天正九年(1581)三月の高天神城の落城から半年後の九月に天正伊賀の乱。
翌年の三月に勝頼は信長に攻められ自刃、武田氏滅亡。その三ヶ月後の六月
に本能寺の変が起こっています――
[49]三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月12日 11時41分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様

 あを様、レス[47]と[48]がクロスしました。「ねのひ」という名前の日本
酒、こちらのある酒造会社の酒の名にもあります。何かご縁があるのかも知
れませんね。

 さて、A.AKECHI様より紹介されました、下記サイトを見てみました。

 http://higashitanism.net/shiokawa-s-misunderstanding4/

 この中には、やはり摂津源氏(多田源氏)の祖・源頼光が桔梗紋を使ってい
たとの情報もあり、その子孫にとって、ヒーローとしての頼光が心のよりど
ころであった可能性が少し現実味を帯びてまいりました。

 頼光から数えて五代目がまたヒーローである頼政であります。頼政の子が
太田氏で、やはり桔梗紋を使っているということ、頼政もひょっとして桔梗
紋を使っていたのかも知れません……?

 頼政に関係してくるのが遠江初生衣神社の神服部氏でありますが、神服部
氏は神御衣調進の家であり、また妖化守護(妖化より守るの意味)の家であり
ました。この神服部家は安倍晴明系の陰陽師家との競争に負けて、遠江三ヶ
日に都落ちします(1155年)。三ケ日周辺は頼政の領地でもありました。
 頼政はもちろんのこと、その祖頼光も単なる武人でなく、宮中の守護、即
ち警備と辟邪(魔除け・呪術)の任務に携わっていたのであります。

 桔梗の花は、花の咲き加減により、つぼみのような桔梗の花の形、真っ盛
りになりますと花びらが広がり、あたかも人型(ヒトデ型と言った方が分かり
易い)のいわゆる「五芒星」になります。

 五芒星と言えば、安倍晴明に直結しますが、これは安倍晴明の専売特許と
言うより、ヘブライ的なカバラの象形であります。

 安倍晴明と源頼光は、ほぼ同世代人(頼光の方が一世代若い)であり、両人
ともこの五芒星については知っていたと思われます。

 A.AKECHI様のご紹介のサイトに記述されていたように、頼光の頃
から桔梗紋が使われていたのは、ひょっとして桔梗を五芒星に見立てて使用
したのかも知れません……?!
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月13日 05時26分17秒 ) パスワード

三つ柏さん

>城内に籠った武田の将士達は、兵糧攻めで、勝頼の援軍も来ない。
>もはや最後と城内から討って出るわけですが、
>その前夜、あの有名な幸若舞「高館」があたかも冥途の土産のように演じられるというやりとりがあり、
>涙を誘います。

はい、ほんとうに、泣けます。


>幸若舞「高館」

幸若舞の「敦盛」「景清」 「那須与一」 「文覚」  「硫黄が島」その他


武士の教養ですね。


      「敦盛」は信長が桶狭間に出陣する時に必ず演出に使われますね。



幸若舞の「高館」。
覚悟の最期を遂げる武士達の生き様の集大成。
         皆で水盃を交わし、明日は冥途で落ち合おうと約束した
その光景が浮かびますね。


それにしても運不運って分からないものですね。
まさか日本最強の武田軍団の武士である自分が明日は討死か
とは武藤氏定は思ってなかったでしょうね。


あの義経だって誰も思わぬ最期を遂げた
せめて自分は弁慶のような主人の為に矢達磨になる覚悟を世間に見せて死んで逝きたい
と思ったのかな?


>涙を誘います。

武士は名を残せてこそ。
武藤氏定が成仏したのを感じました。

英雄達の最期に涙する自分に(ああ、わたしは日本人だな)と酔ってしまいます。


三つ柏さんの文章で、ホント!氏定は成仏しましたよ。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月13日 06時41分45秒 ) パスワード

>頼政に関係してくるのが遠江初生衣神社の神服部氏でありますが、
>神服部氏は神御衣調進の家であり、
>また妖化守護(妖化より守るの意味)の家でありました。


神服部氏は初生衣神社の神職さんでしたね。


        もう最近アタマの中がとっ散らかってて
        カレンダーを見ても  まだ  日付がこんがらがってる
        という日々を送ってます。



ワタシがこんがらがってた  服織神社  についてスゴイ発見がありました。
https://www.google.com/search?ei=YGIBXbiHLeuv0PEPo82Y0AI&q=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E3%80%80%E6%9C%8D%E7%B9%94%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E3%80%80%E6%9C%8D%E7%B9%94%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.3...3982.18368..18984...7.0..0.248.5000.0j30j4......0....1..gws-wiz.......0i71j0i4j0i4i30j0i7i4i30j0i4i10i30j0i8i4i30j0i7i30j0i7i4i10i30j35i39j0i67.NQp0etFXXTk

          服織神社 - 名古屋発! 町の神さま考
          www.morimakoto.com/tag/服織神社
          遠江國長上郡・服織神社 ...
          天竜川西岸に近い場所に目的の服織神社は鎮座する。
          伊勢国奄藝郡の服織神社とされる神社は鈴鹿市御薗町と津市河芸町にそれぞれ存在

この部分に多いに反応!伊勢国奄藝郡!
ヲイヲイ!

伊勢国奄藝郡って  まさに!  我が家が!  後醍醐天皇のお召しがあるまで治めてたところですよ。
今は存在しない郡らしい。読み方さえ  分からない  出身地なのに!怒   いや  恥  かっ?

ここに  服織神社って  あった?それも2つも?


ホンヤさんとこの茶室は江戸時代の後期?だかに伊勢国奄藝郡から引っ張って来たものなのです。
        ええぇ?そんなもん、わざわざ引っ張って来る?
        一体どういう経緯?
        と謎でした。


ということで伊勢国の服織神社について:
A 鈴鹿市御薗町の服織神社
B  津市河芸町の服織神社


http://www.morimakoto.com/tag/%E6%9C%8D%E7%B9%94%E7%A5%9E%E7%A4%BE
より以下コピペ


伊勢国奄藝郡の服織神社とされる神社は鈴鹿市御薗町と津市河芸町にそれぞれ存在する。


僕にはどちらが正統な神社かどうかを論ずる資格はないけど、
酒井神社という両社とは別の神社の境内にまで「服織神社旧跡」碑があるのを見てしまったので、
とても複雑な経緯を経て今日に至っているのだろうなと思った。

                      わたしも複雑
A
御薗町の集落の端、山際に服織神社は鎮座する。
鳥居の前で写真を撮ろうとしたら、車でやってきた氏子さんが参道の落ち葉掃除を始めた。

「写真の邪魔にならんかったかな」

FATBIKEを押して境内に向かうと優しく声をかけてくださった。
拝殿までは110歩。
まずは参拝。

社名の服織は「はとり」と読む。


金達寿氏は著書のなかで、伊勢国の隣、伊賀国の服部氏について「呉織(くれはとり)」から出たもので、呉織の呉とは高句麗(고구려・コグリョ)のことではないかと書いている。
「呉=句麗」というわけだ。


同じく「はとり」である当社も伊賀のように機織りを業としていた渡来人と関係があるのかもしれない。

しかし境内を歩いてみても現在では機織りを思わせるものは見られない。


なお、拝殿の右手には多くの山神碑がまとめられまつられていた。
由緒によればとても霊験あらたかであるというから、僕も迷わず手を合わせた。


B:
津市河芸町の服織神社:

久知野の服織神社の森が見えてきた。
ちょうど酒井神社のある山の南側の麓に当たるので、同神社境内にあった旧社碑はここ久知野の服織神社と関係があるのかもしれない。

入り口の鳥居から正面に見える拝殿まで25歩。
まずは参拝。

「農業養蚕機織を奨励され天の服織女として御衣を織らしめ給うた」ことから天照大御神をまつると由緒書に記されている。

もとは現在地から近い「社宮地」という場所にあり、この地方の服部郷の人びとが信奉する社だったそうだ。


以上こぴぺ
管理人さん、ありがとうございました。




そもそも  服織神社とは

服織神社 (浜松市)
服織神社 (豊川市)
服織神社(一宮市)真清田神社の摂社   ← 真清田神社は蜂須賀小六さんの奥さんの実家だった記憶、益田さん
服織神社 (鈴鹿市)      三重県鈴鹿市御薗町2019
服織神社(津市)      三重県津市河芸町久知野1781番




ところがワタシが参考にしている玄松子さんの三重県サイトでは全く載ってなくて
大きな織物関係の神社は載ってた
で、小さいところでは
http://www.genbu.net/data/ise/hatoriitoma_title.htm
服部伊刀麻神社旧地 (跡地  という感じ)
三重県松阪市出間町

以下コピペ:
松阪駅の北東8Kmほどの出間町に鎮座(していた)。
松阪駅から北上し、23号線に入って東へ。
櫛田川を渡ってから2Kmほどで北へ入った場所。

出間町集落の東端に生垣に囲まれた四角形の区画がある。
その区画の中に「式内服部伊刀麻神社舊地」と刻まれた石碑が立っており、
その傍らに山神が祀られている。

ここは、式内社・服部伊刀麻神社に比定されていた神社の古社地。
鎮座地名の出間(いづま)は伊刀麻(いとま)から変化したものと考えられており、
服部伊刀麻とは「服部地区の伊刀麻集落に鎮座する」という意味らしい。


服部伊刀麻神社の創祀年代や由緒に関しては不詳。

宝徳三年(1451)正月の「はたとのの御神事之日記」に「いつま社」とある古社。

布カケ社とも俗称された出間町の産神で、
元は出間町の北東(現在地の北側)に、田カナド明神として祀られていたという。

明治四十一年四月七日、許可を得て柿木原の宇氣比神社(二十五柱神社)に合祀された。

祭神は、明治十一年の神社明細帳に大命津姫命とあり
『式内社調査報告』では大食津姫命のことではないかとしている。
また、多氣郡合祀済神社明細帳には速佐須良比賣神とあるらしい。
さらに、飯豊比売とする説や、「伊刀麻」を糸女=織子と解して天八千々姫命とする説もある。


同じ管理人さんのサイトから:

浜松の服織神社
http://www.morimakoto.com/tag/%E6%9C%8D%E7%B9%94%E7%A5%9E%E7%A4%BE
のコピペ

天竜川西岸に近い場所。
由緒によれば和銅元年(708)に出雲国から神さまをお迎えして造られた。
祭神は織物と文学の神とされる天穂日命、織物の機械の神とされる建御名方命。
出雲と関係が深い神社である。

「当時は天竜川沿いのこの辺りには織物に関係した職人が集団で住んでいた」

機織に従事した人々と関係あるのだろうか、神社の北側には「蛭子森古墳」と呼ばれる古墳がある。
[52]三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月14日 07時02分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 女子バレーを見ました――おとといの夜は世界ランキング一位のセルビア
に勝ち、昨夜はアジアの強豪タイに勝ちました。華奢な日本人女子が男性並
みの世界女子に勝つのは、女子サッカーもそうですし、女子ゴルフもそうで
すが、何とも言えない喜びを共感いたします。この心理はいわゆる「判官び
いき」的な心情と共通するのでしょうが、これは日本人独特の心情なのでし
ょぅか?

 さて、土岐氏について探求しておりますが、私は「頼政」にシンパシィを
感じますので、「頼政」についてさらに探ってみたいと思います。
 次回に――
[53]三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月15日 08時18分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 全米オープンゴルフが始まり、本日は二日目の松山の活躍(まずまず期待
できそうな感じ、運が作用する)を見ながら、パソコンを打っております。
 
 さて、しばらく前に記したことがありますが、上嶋氏という知人、祖先は
気賀に土着した「草」であったという伝承があるということでありますが、
その娘さんが恋愛で韮山の多田家に嫁に入ったということであります。即ち
伊豆多田源氏の家系と縁を持ったということ、人生の不思議な縁を感じます。
この多田家の屋敷の敷地は広大であるということ、一度韮山に行って見たき
たいと思っております。

 用事で中断いたします――
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月15日 14時16分52秒 ) パスワード

三つ柏さん

>上嶋氏

能と服部氏と観阿弥・世阿弥父子について調べてた時に「上嶋家文書」というのが出てましたよね。


驚いたのは
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E4%B8%8A%E5%B6%8B

現熊本県である肥後国益城郡上島村が起源(ルーツ)である、阿蘇氏流。
ほか現長野県である信濃国伊那郡上島村が起源(ルーツ)などがみられる。

     そうしますと  三つ柏さんが御存じの上嶋氏は  信濃のご出身?



ということで能の服部氏関係の上嶋氏について:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%98%BF%E5%BC%A5

1962年(昭和37年)三重県上野市(現・伊賀市)の旧家から発見された上嶋家文書(江戸時代末期の写本)によると、

      伊賀・服部氏族の上嶋元成の三男が観阿弥で、
      その母は楠木正成の姉妹であるという。


この記載に従えば、観阿弥は正成の甥ということになる。

後に発見された播州の永富家文書を傍証に、この記載を真とする意見もあり、
1975年に永富家子孫によって、伊賀市に観阿弥の妻(世阿弥の母)の彫像が立てられた。


しかしこの文書の信憑性を巡っては議論が分かれており、
この説は研究者の間では広く受け入れられているとは言い難い[1][2]。

しかし梅原猛は、『うつぼ舟II 観阿弥と正成』(2009)で観阿弥と正成の関係を主張し、表章に挑戦した。
表はこれを受けて『昭和の創作「伊賀観世系譜」―梅原猛の挑発に応えて』(2010)を上梓し、詳細に反論した。

&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&


観阿弥の出自

観阿弥の息子、世阿弥の『世子六十以後申楽談儀』には、
観阿弥の祖父が伊賀の服部氏一族から宇陀の中家に養子にいき、
その人が京都の女性と関係して生まれた子が観阿弥の父であるという記述がある。


この観阿弥の父は、大和の山田猿楽の一座に養子にいき、
観阿弥の母は同じく大和猿楽の一座、外山の座の出身であるという。


なおこの記述によると、
観阿弥の長兄は宝生大夫、
次兄は生市とあり、
いずれも大和猿楽に関係していたと思われる。


また曾孫に当たる観世小次郎信光の肖像に書かれた讃には、
伊賀の服部氏一族の武士であった観阿弥の父が、
あるとき春日神社より「子を楽人として神に仕えさせよ」との神託を受け、
三男である観阿弥に結崎氏を名乗らせ春日神社に捧げた、
という伝説的なエピソードが記されている。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月15日 14時20分40秒 ) パスワード

ということで

上嶋家は、元々、南朝方がらみで信濃に行った?


上嶋家はもともとが伊賀の出身だった?
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月15日 14時36分50秒 ) パスワード

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kanze_kz.html

観世氏
(称桓武平氏/秦姓)


前略(笑)

大和猿楽の源流は大和国城下郡杜屋(もりや)で、
古代楽戸の血を引く秦氏を名のる下級の遊芸者の一団であった。

そもそも猿楽は、祝宴の席などにおける奇術、曲芸に、軽妙な歌舞、音楽を加えて演じられ、軽業的な要素が非常に強かった。


忍術の秘伝の変身の術には、猿楽師も含まれ、非賎な散楽、散所の民は、古来、諸国を漂泊放浪していた。
そのような境涯にあることから、山伏と同じように諜報活動をして暮らしをたてていたともいわれている。

                       ココですね

観世家も秦姓を名のり、当初、結城の糸井神社の神事に奉仕していた。

江戸時代末期の書写とされる観世家系図の異本『上島文書』によれば、
世阿弥は南朝の血を重々しく引きずっていたことになっている。


観阿弥は山田猿楽美濃大夫の養子となり、兄に宝生大夫と生一があった。
そして実父は伊賀国浅宇田庄預所を勤めていた上島景盛の子で服部氏を継いだ服部元成といい、
元成は楠木正成の妹を妻に迎えて観阿弥をもうけたというのである。


これによれば、世阿弥は楠木氏とゆかりの深い者でり、
この楠木氏との関係が、のちに観阿弥・世阿弥父子に不幸なカゲを落す原因になったとするものもある。


ちなみに、観阿弥は服部三郎清次と名乗ったことが知られている。
[57]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月17日 13時27分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「全米オープンゴルフ」が終り、松山はタイガーと同じく21位であり
ました。ベストテンには入ってもらいたかったけれど、それでもすごい成
績であることには間違いありません。絶好調と運と実力が、4日間揃わな
ければ優勝は無理でありますので大変です。選手たちの1打1打が真剣勝
負、だからおもしろい……ということで、この4日間、頭の中はゴルフで
占領されておりました。

 さて、観阿弥は確か駿河で亡くなっておりますね。一度ここら辺を探究
しなければと思っております。
 観阿弥は伊賀の名張に縁があり、名張の藤堂家が「桔梗紋」ということ、
ここも一度探究しなければと思っております。

 桔梗寺で有名な京都東福寺の天得院ですが、この寺の住職・文英清韓(
ぶんえいせいかん)は、豊臣秀吉や秀頼の五山の学僧であり、秀頼の要請に
より、「方広寺の鐘銘」を託され、鐘銘中に「国家安康君臣豊楽」の文字
を記したため、「家康を引き裂き豊臣家の繁栄を願う」として、責められ、
天得院は取り壊されたということであります。
 この寺にいつから桔梗が植えられたかは定かでありませんが、桔梗の美
には、どうやら「悲劇性」と「癒し」がついてまわるのかも知れません。

 「頼政」についてでありますが、やはり頼政は土岐家とも一心同体のよ
うなものであります。細かなところはあとでのべますが、私が概観して、
「頼政」と「光秀」は、「重用・謀反・悲劇・神聖化」という点で、一致
しているように感じます。頼光流のDNAでしょうか……。
 
 さらに、源氏「頼政」と平氏「頼盛」も、「情」という点で、よく似て
いると感じます。「情に掉させば流される」の夏目漱石の祖先も、頼政に
近い関係であったようで、ある意味「情」は初期の頃の源氏や平氏の中に
は存在した。それがやはり人の心に響くのかも知れない。
 頼政の領地に「伊豆」がありました。この伊豆を中心として、頼政の情
が見えてきます……詳しくは、次回に――
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月20日 12時56分27秒 ) パスワード

いろいろゴチャゴチャ考えてて
何故  名張藤堂家の紋が  桔梗  なのか?
フツーは蔦じゃなかったっけ?  何かの葉っぱみたいなの。


名張+桔梗紋  ←  あのお方達のせい?
いえいえ  アリエナイ!   いやいや  アリエル?
世は織田でも秀吉でもなくて  その後  だから。


アレやコレや   グチャグチャ妄想を楽しんでいます。
「歴史の謎」が実はあの家紋に隠されている、とか?
[59]三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月21日 01時38分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 時間を要しております。結局のところ、天皇家と藤原氏と平家と源氏の
人間関係の綾を解明ということになります。その中で、源頼政を中心とし
た人間模様を解かなければなりません。
 今わかっていることは、藤原得子、池禅尼、源頼政、平頼盛、平宗清、
藤原忠清、源頼朝がほぼ同時代人であるということであります。ここから、
どんな人間関係(情)があったのか、解いていきたいと思います――
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月21日 06時19分27秒 ) パスワード

一部文字化けしてたので書き直し:



三つ柏さん

>天皇家と藤原氏と平家と源氏の人間関係の綾を解明

すっごい大変な作業ですね。


まず12世紀の初めまで遡って
保元の乱の主原因の天皇家の相姦図を作成して(笑)  
藤原得子vs藤原璋子  の女の戦いに行って
保元の乱の時の実行部隊の人間関係を調べ・・・


ここで、もう、ウンザリですね。


保元の乱での代理戦争の
    藤原貴族の中の戦い   源氏の中の争い   平家の中の仲違い
そしてこの3氏が天皇家を挟んで麻のごとくグチャグチャに絡み合っていますから


    考えただけで  名前がこんがらがるぅ〜   


だいたい  何故頼朝は<頼>朝なのか?  
<義>の字を使うなら納得いくのですけどね。

      こうして考えると頼政の<頼>の字に引っ張られたのかな、と。

頼朝の通字が 「義」でないなら、
だったら、じいちゃんの為義から「為」の字をもらう方が「頼」よりは整合性があるんじゃないか?と思う。

       パパである義朝の敵になったじいちゃんやおじさんの通字の「為」では負けて殺されたのだから通字にするにはマズかった?


そのあたりについて頼朝についての偉人伝でいろいろ読んで来たはずなのに記憶に無いです。



藤原得子、源頼政(母が藤原友実の娘)、 池禅尼=藤原宗子さま(平頼盛の母)、藤原季範の娘=由良御前(源頼朝の母)  については
  堂上・公家・貴族  の藤原氏でまとめられる


頼政がかついだ以仁王の猶母は 八条院 <日章 子>・子内親王  しょうし=あきこさん  で  その母上が  美福門院藤原得子。



ここから   以仁王の敵が(笑)平滋子(建春門院)さんで、  この人は清盛の後妻さんの堂上=貴族の=平氏の平時子さんの姉上。


12世紀の初めから (ホントは日本史と共にずっとずっと前からだけど)  天皇家の跡目争いが ずっと続いてて  
天皇家の皇位争いに  血縁地縁つながりの貴族や武家が絡んで  壇の浦で源氏方が勝利するまで   ゴタゴタやってた


だから12世紀の初め  いえいえ  もっと前の10世紀あたりから考えないと  解けないのかも。
官位とか荘園とか土地とかからむから。

 
平宗清は清盛の一族で伊勢平氏の前は坂東にいたわけで
藤原忠清は藤原秀郷の子孫で伊勢に来る前は坂東にいたわけで

双方の先祖の平貞盛と藤原秀郷が組んで平将門を討って  両家とも11世紀の初めに伊勢に来た関係で
この2家は10世紀半ばから坂東以来しっかり組んでるけど  その前に  親戚だった。 



平国香(貞盛の父)    母が藤原(北家)良方の娘
藤原秀郷         藤原北家出身で  妻は  秦氏の娘の他に  源通の娘。


当時の人口の10%にも満たない人々の中での   兄弟は他人の始まり  いえいえ  血は水より濃し  の関係で
争い殺し合い
基盤とする土地もいろいろな家と入り組んで支配し奪い合いやってたわけで



>藤原得子、池禅尼、源頼政、平頼盛、平宗清、藤原忠清、源頼朝がほぼ同時代人であるということであります。
>ここから、どんな人間関係(情)があったのか、解いていきたいと思います
 
タイヘンな作業ですがボチボチ頑張ってください。



わたしはこの人達の名前から  
平家が都落ちしていく際に  資盛が八条院に後白河上皇へのお取次ぎをお願いに行って断られた経緯が
ちょっと分かったような気がします。

ワタシだったらどうしたのかな、と暫し考えました。
[62]三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月21日 12時35分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。源平は少しずつわかって来ましたけれど、藤原
氏は源平と違って名前が覚えられない。覚えたとしても、頭の中で整理で
きない。すぐ記憶が薄くなってしまう。それを何回も何回も繰り返して、
ようく頭に定着するのだと思いますが、あを様の碩学には頭が下がります。
 
 ちょっと用事にて――

 

 
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月21日 15時33分51秒 ) パスワード

三つ柏さん


はい、藤原氏は難しいです。

母方が幕末の時のおばばさまが藤原貴族の出だから
ワタシが藤原氏を貶めると
「おばばさまの家をバカにするな」
と怒ります。
ま、ずっと前の大昔にも三条家とも関係があるから、分かってるけど  So what? です。

日本人だったら藤原氏といろいろな意味で繋がってるはずです。血縁でなくとも地縁で。他にもあるでしょうね。



中臣鎌足の子孫が藤原氏となって天皇家としっかり結びつき
貴族となり
平安時代の後期には  口減らしで自給自足させられていた=つまり武家になっていた=藤原氏が地方で力を持って繁殖し
さらに
天皇家から皇籍離脱。。。口減らしで自給自足生活をさせられた臣籍降下・賜姓降下。。。つまり臣下になった源氏や平氏とも婚姻し

これらの人々が人口10%にも満たないのにゴチャゴチャやっていた。


      眞子さまが1億6000万円だかの皇籍離脱金をもらったとしても
      ニューヨークじゃ小さな小さなアパルㇳマンを買って維持などアリエナイです。

      20年前でも古いアパルトマンなのに10坪で6000万円でした。
      母方従弟がマンハッタンにいるので従弟宅の近くに別宅を買おうとしたのです。管理は従弟にやらせようという魂胆で。
      これに毎月の管理費が10万円じゃ済まないでしょうし
      固定資産税はものすごい額です。強制保険の支払いもすごい額ですしね。

      ハワイでは30坪ちょっとの3LDKの安めのコンドが100万ドルを超します。ニューヨークよりはずっと安いけど。
      このコンドで年間維持費が最低で200万円は要ります。数年ごとに修繕費の徴収があるし。
      だからハワイでも1億6000万じゃ居住費が賄えないです。


だから皇籍離脱というか口減らしで自給自足をさせられた源氏とか平氏の皆さんは大変な思いをして降下したんだと思います。

ま、1億6000万円に相当するような土地と奴婢は貰えての離脱だったんでしょうけど。
   

だから地方で  天皇家や貴族と縁のある藤原系武士と平氏系武士や源氏系武士は婚姻して  
お互いに不遇をかこったのかな?  グチグチ言い合ったのかな?  と思います。
なんとか京都とパイプを持って利権に預かろうと工作したのかな?とか。
   



最近知ったのですが  多氏  って今でも続いてたと知って  ビックリ仰天でした。 
古代豪族! 
雅楽のエライ人の  やんごとなき多さんがWフリンしてた  というネット記事を見ました。検索できます。


実は  雅楽の東儀さんとはアッチの東儀さんコッチの東儀さんといろいろ知り合ってきたので(特に明治から平成限定)
多さんという家もあったのかと驚いたのです。

    当然わたくしの知り合いの東儀さんの奥様は藤原貴族の  (名前出したいけどダメよね?)  ご出身です。
    イメージで言うと  桃の花のような美しい方です。


        平成天皇ご夫妻がいらっしゃった時に当然晩餐会に旧華族の方達もお招ばれするんですが
        現地の領事館の・・・・・ここからはココでは書けないハナシ


ということで  平安時代末期までは   源氏だの平氏だの藤氏だのは  出自がハッキリしてたと思っています。

      鎌倉時代には地頭となって日本各地に散らばって
      だんだんアヤシクなって行って地方で定着してヨメも地元採用で
          あ、頼朝が、そもそも、そうですものね

室町時代にもなると武家は大きく成り過ぎて1つの家の中で喧嘩が絶えないから分裂して分裂して分裂して
戦国時代には自分の先祖が  よく分からない  ってコトになっていったと思います。
本家は地方に出て行った分家のそのまた分家のそのまた分家のことなんぞ知るもんか!ですし。
     中には、誰がうちの大事な系図を見せてやるもんか!ですし。
     逆に  利権に預かろうと  系図を使ってくれと申し出た家もあったろうし。


頼政のことを調べてた時に頼政のご先祖さまが伊豆とか駿河とかに関係があったのを見た記憶ですが
頼政も遠江にご縁があったのだから  神服部家のバックになったわけですね。

     現代のわれわれは   家を買えない子世帯に転がり込まれてヒーヒー言ってるから   
     平安時代、アッチコッチに土地を持ってた武家のことは  なかなか分かり難いですね。


尾張のことですが
平清盛はパパから尾張の御器所ごきそ=秀吉の母上の出身地=を貰って
その後
平治の乱の後、頼盛は尾張守に任命されて東国に逃れる源氏の残党狩りをした。


その前の保元の乱の時には頼盛は三河守になり、甥である重盛は遠江守。


     この時の一族やら家来達はその地に根を張るわけだし。


前のレスで三つ柏さんがお書きのハナシの派生でワタクシが書いた八条院の件が頼盛のウイキに出てました:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E7%9B%9B

清盛が頼盛を重用した理由としては、八条院の存在が挙げられる。

八条院は美福門院の娘で、父母から荘園の大半を譲られて大きな財力・武力を有し、二条天皇の准母としてその後ろ盾となっていた。

二条親政派が瓦解してもその勢力は衰えず、
後白河院や平氏にとっては敵に回すことが憚られる存在だった。

頼盛は建春門院とは疎遠だったが、八条院とは美福門院以来のつながりがあり、邸宅も接していた。

八条院の乳母は源国房の娘で宰相局と呼ばれていたが、頼盛は宰相局の娘で八条院女房の大納言局を妻に迎え、光盛が生まれている。


光盛は承安2年(1172年)の生まれなので、両者の婚姻は承安元年(1171年)以前と見られる。
おそらく皇太后宮権大夫を辞任したことで拠り所を失ったため、八条院の庇護を求めたものと推測される。

後に源頼朝は荘園33ヶ所を頼盛に返還しているが、そのうちの14ヶ所が八条院領だったことを見ても関係の深さがうかがえる[4]。


         名前がいっぱい出て来て  この人  だれ?  この女  だれ?  でしょうね。


ムカシの人って名前や呼び名や院号とか役職名とか   いっぱいあるから   誰が誰やら  ですね。


母が違うと他人の関係というのが普通で
平家の場合は家族や一門を大事にしたから結束は強いけど
それだけに 逆に我々には この人  だれ?  ですよね。
どっちにしろムカシの人の名前は名字も下の名前も難しい。


藤原氏の場合は  貴族系  武家系  神職系  身分の低い公家系  いろいろ有り過ぎて  お手上げです。

ムカシLAに住んでた時の友人で  (御主人が京大からUCLAに派遣されてた)名字がそりゃあ  藤原貴族まんまじゃん!  という人がいました。

      藤原貴族って屋号に通りの名前を使ってたでしょ。

「ヲヲッ!」
と反応したら
「たいした家じゃないんで」
と否定されました。

確かに  藤原貴族も  藤原氏の中でものすごい階級差がありますものね。
(そう言えば、どういう家か  ん?  だな)
と思いました。てへっ


ホント日本の名字って難しい。通字も1字限定じゃないし。
藤原氏なんて屋号で区別し細分化するし、みんな名前が似てるし、  なのに派閥抗争が激しいし。


とうような事をツラツラ妄想して楽しんでいます。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月21日 16時17分41秒 ) パスワード

平家は結束が固かった
と書きましたが


さすがに頼盛の家=池の禅尼=正妻だった藤原宗子さま系  と  母違いの  清盛の家とは
上記のレス   八条院がらみのコピペ  にあるように

かなり  冷たい関係  が見受けられますね。


ま、清盛にしてみれば父の正妻の宗子さまの懇願で頼朝の命を助けてしまいましたが
本心は聞き入れたくなかったでしょうね
でも正妻さんの頼みだからと仏心を出してしまったことが平家の滅亡になってしまった。


死の床で清盛の思いは  いかばかりであったか
清盛の後妻の時子さまは  清盛は「頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言した  と言いましたが 
時子さま(貴族系の平氏出身)にしてみれば  藤原出身の母の子の頼盛は鬱陶しい存在だったかもですね。

当然頼盛は平家の西海落ちに同行しませんでしたし。
その前に頼盛は兄の清盛のいやがる画策をいろいろやってるし。でも清盛は許している。


そして上記レスの   <頼盛は建春門院とは疎遠だった> は当たり前よね  建春門院は時子さまの姉上ですもの。

       頼盛にしてみれば  誰が腹違いの兄の後妻の姉なんかと  親しくするものか  というのがある。
       母が違えば  他人  ですからね。


この時代   本当に   血が濃い  というか  一族の中の争い  という感じ。


資盛はよくもまぁ八条院にお力添えをお願いに行ったなと
資盛は可愛がってもらってたからお願いに行ったつもりでしょうけど
八条院は   「ぶぶ漬けでもどうどす?」  と言ったのかな?  (一昨日おいで)の意味で?  


こうやって  いろいろロールプレイするのが楽しいです。
どういう心境だったのかな?と想像したり。


      ヤッパリ京都人の血かな?
      大阪人(住吉大社がらみで)も入ってて
      わたしの心の中で  大阪と京都が  争ってるぅ〜
      あ、住吉っさんは南朝方です。 
[65]三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月23日 09時03分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。視野が少し開けてまいりました。

 藤原氏を中心に色々調べてきまして、おかげさまである程度わかるように
なりました。といっても「点」と「線」でいえば、「点」がおぼろげにわか
ったというくらいでしょぅか。七千傑様の系図を頼りにしています。

 何を一番知りたいかというと、「頼政」と「池禅尼・頼盛」の関係を知り
たいということであります。両者が「何を考え」、「何を思い」、「何を感
じていた」のかを知りたい……何かあるはずと思っています。

 直接的な関係を物語る資料は今の所見つけておりませんが、系図を調べて
みますと、その人間関係が少しわかってきました。

 所用にて、ここでいったん切ります――
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月23日 12時02分19秒 ) パスワード

三つ柏さん

>何を一番知りたいかというと、「頼政」と「池禅尼・頼盛」の関係を知りたいということであります

既に答えは出ているではありませんか。
ズバリ 政治的キイワードは 「以仁王」。そして  補填する血のキイワードは藤原氏という閨閥。




源氏の一派  頼政系   息子の馬の件で平家に腹を立てて以仁王を立てて反乱した
             頼政のおばさんが藤原北家の関白の藤原師通の側室だったり中級貴族の藤原北家の藤原行実の奥さんだったりで結構貴族に近い立場
  
  ⇅

以仁王     猶母が  しょうし and/or あきこ内親王 つまり  八条院  つまり  美福門院(藤原得子)の娘さん

            第一関門:この女性達の存在が分からなきゃ解けないでしょうね
                 歴史の蔭にオンナあり

  ⇅

源氏の一派  源行家(義朝の弟  つまり  頼朝の叔父) ⇒ 頼朝

 
                                       ⇅

平忠盛正妻である池の禅尼とその長男である平頼盛   (家令が平宗清)   この人達が頼朝の命を助けた 
                 そりゃあ母方が藤原氏ですから頼朝と池の禅尼の生んだ次男の家盛の顔は似てたでしょうね




血のハナシ:    源氏 ⇔  藤原氏  ⇔  平家
                       この3氏の力関係




これで充分    頼政  と 池の禅尼+頼盛 の関係は<貴族の>藤原氏で繋がると思いますが。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月23日 12時43分08秒 ) パスワード

1つ
分かっちゃった。


三つ柏さんって  女性に幻想があるよね。
実はオンナってコワイんだよ。


オトコは解決を求めるけどオンナは怨みを忘れないってこと。
オンナはいつでもムカシの怨みを取り出せるってこと。

それでやっと八条院がなぜ資盛を門前払いにしたか分かった。
これが永いことワタシには分からなかった。ワタシもオンナなのにね。

    八条院が断ったのは源平戦の昨日今日のコトじゃなくて
    12世紀初めからの天皇家内の皇位をめぐるウラミツラミか、と。

    天皇家の争いに  貴族の藤原氏の中の権力闘争もあって
    さらに  実行部隊の源氏内や平家内の  ゴタゴタもあって

    保元の乱 →  平治の乱  →  頼政(以仁王)の反乱  → 源平戦

    と表に噴出しただけ。分かり易いのは  この25年間の部分。



しょうし and/or あきこさん   の母上になる美福門院(藤原得子)  と   璋子  しょうし and/or たまこ(待賢門院) の女の戦いがある


しょうし and/or あきこさん   の漢字がここには文字化けになって出ない。<日章>の字

しょうし and/or たまこさん   の漢字は  <王章>の字。


だから  天皇家の12世紀の初めからの時代を考えないと   頼政と池母子の関係は分からないのじゃないかな?




藤原璋子の生んだ崇徳天皇がどうなったか覚えていらっしゃいますか?
日本最強の怨霊とされる方。

大河「平清盛」では井浦新が演じましたが  降りて  来てましたよ。
その後に井浦新が訪れた  崇徳天皇白峰御陵訪問は  すごかったです。

    テレビで見てたワタクシでさえ  ものスゴイ風  を感じました。

もう本当に  日本最強の怨霊  というのが身を以て分かりましたもの。


    あ、他に  降りて来た  と思った俳優と人物は  綾野剛の松平容保です。綾野剛はスゴイ!

    鈴木亮平の西郷隆盛は降りて来なかったなぁ〜。
    ただの役、と思った。
    まだ瑛太の大久保利通の方が良かった。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月23日 16時46分44秒 ) パスワード

池の禅尼=藤原宗子さま=の母方を遡ると

源義家の妻がいるし

           まさに  頼政  につながりますね

そして一族の子孫が親鸞だし




頼朝の「頼」の字はご先祖さまの源頼義からもらったものでしょうし
         すっごい遡る
         頼義まで遡るとワタシの母方の先祖がらみになるし

              だからワタシの先祖が頼朝と北条時政の相婿であることも全然ヘンじゃないし(笑)


この頼義の正妻さんは平直方の娘ですから平清盛のご先祖さまと繋がる。



ホントにみんな繋がるのです。


だから   上記に書いたロスの旧華族のサロンでは  (ヒトの噂や悪口は言わない)  が暗黙のお約束でした。
みんな親戚だもの。
京都系旧華族と武家系旧華族の集まりでしたが

ワタシが属していたのは伊達さんの孫姫=我が家のすぐ近所のおばさま=とか南部藩の家老の娘とか島津系とか上記に書いた東儀先生の奥様=○○家の姫君

その他にもロスには紀州徳川家の姫君のサロンとかありましたよ。


当然NYにもあって
別系で徳川○○さまもいらっしゃって  いかにも公方さま  という体形で
ここでバラしそうになるハナシもあるけど  ヤバいよね?

NYの方は父方の親戚がそちらに属しています。父方我が一族は  お姫様  とお呼びしてました。


10坪で6000万円したアパルトマンの件で書いた従弟は母方です。
大阪在住ですがモトは甲賀出身で○に並び矢紋使用という  え?モトはワタシの父方と一族なの?という疑惑があります。


ホントに狭い狭い日本の人口の中での世間の出来事でしたから
み〜んな親戚なんですよ
それが利権争いで抗争が絶えず
他人の顔をしているけど元を辿ればみ〜んな血で繋がってる。

兄弟は他人の始まり  でも  血は水より濃し。兄弟間一族内での争い殺し合いはどうしようもなく醜悪。

最大の悪の根源は藤原氏だと思う。
天皇家に藤の蔓のように巻き付いて汁を吸い取り・・・自分の手は使わず武家を使って相手の息の根を止める
と母に言っては叱られて来ました。

ワタシにもその血は流れているんですものね。
悪口を言ってはなりませぬ。
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月23日 17時58分07秒 ) パスワード

1つ思い出した!

1996年5月8日にサンディエゴで  46歳の斎藤綱男博士と13歳の娘さんのるりさんが殺された謎の多い事件。

斎藤博士は京大理学部出身で
コロンビア大学やパスツール研究所でも研究してて
殺される前は10年間カリフォルニア州立大学サンディエゴ校のアルツハイマーの研究者で

アルツハイマー病とCJDとの関係についての新説
       (アルツハイマーにおけるリン酸化された、異常なtauと呼ばれる微小管会合タンパク質の存在)
がアメリカの某富豪の利益に反するから暗殺された
なんて誠しやかに噂になってました。

斎藤博士に関わる4人が同じような謎の事件に巻き込まれて3人亡くなっている。

それでこの殺人事件はBSEとアルツハイマー病とCJDの関係からだったのでは?と。



日本で文春が騒いだのは奥様のご実家がいかにも藤原貴族系みたいだったからかも。
もしフツーっぽい名字の田中とか佐藤とか鈴木とかだったら奥様は巻き込まれなかったのかも。

三河だと  松平  って名字の人が結構いて  この人は家康関係?それとも松平村出身の平民?  と考えてしまいます。

やっぱり名字ってインパクトがありますね。日本だから。


東京地裁の判決文:一部編集しました

奥様の名誉を毀損損し、その肖像権を侵害したことにより奥様が被った損害を賠償すべきところ、その損害の額は、本件不法行為の態様、これにより奥様が受けた打撃、週刊文春の発行部数その他本件に顕れた一切の事情を斟酌し、弁護士費用を含めて150万円と認定するのが相当である。

そして、本件不法行為の態様にかんがみ、謝罪広告の必要までは認められないから、右請求は棄却する。

(結論)
よって、奥様の請求は、主文第1項の限度で理由があるから、右の限度で認容する。
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月23日 18時04分02秒 ) パスワード

CJDについて書いておかないと分かり難かったですね
ごめんなさい。


クロイツフェルト・ヤコブ病(Creutzfeldt-Jakob disease:CJD)
脳に異常なプリオン蛋白が沈着し脳神経細胞の機能が障害されるプリオン病の一種。
[71]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月24日 14時27分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 男と女の違いって、双方とも一度生まれ育ったその記憶を持って、再度
異性に生まれ代わることができれば、その違いを実感できるはずでありま
すが、それは所詮無理なことであります。疑似体験はある程度できるとし
ても、それはリアルな現実ではありませんね。

 感性、理性、闘争本能、母性愛……同じ花を見ても、男性と女性は感じ
方が違うのでしょうか? 恋も、男性と女性とでは想い方が違うのでしょ
うか? 確かに私だけでなく、世の男性諸君は女性に幻想を抱いていると
言えるでしょうし、その逆もしかりだと思います。

 この辺の話は、深みにはまってしまいますので止めておきますが、男性
は年を取ると、段々女性的に、女性は逆に男性的になって来るのは確かで
ありますから、たぶんホルモン系が性格的なものにも影響していることは
間違いのないことでしょうね。

 歴史の捉え方もひょっとしたら男性と女性では違うかも……世の歴史は
男性が記述したものがほとんどでありますので、感性や考え方が男性的か
も知れませんね。女性が記述したら、感性(感情)が入り、文学的(情緒的)
になるかも知れませんね。

 『平家物語』の原作者は藤原行長と言われておりますが、史的要素に色
々な脚色をしておりますので、一概にすべてをリアル現実と捉えることは
できません。池禅尼が、捕らえられた頼朝を見て、亡くなった我が子の顔
に似ており、その結果、清盛に助命の嘆願をしたという記述がありますが、
これは女性としての思いをよく表現していると思うのですが……しかし、
女性はある意味現実的で、悪く言えば打算的と評価した場合、敵将の子を
助けてしまういうことは現実的でないようにも思えます。ここは、作者が
男性だからこそ、池禅尼というロマンを書いた、あるいは現実をカムフラ
ージュしたと推察するのですが……。

 ただ、いずれにしても、現実的には清盛は頼朝を伊豆に流すわけですが、
この伊豆という所、古来より体制に不都合な諸氏の配流先になっておりま
す。絶海の孤島でもない伊豆が何故?と今に生きる私は素直に疑問に思う
のですが……源平時代において「得子」が「人物」の「キーワード」なら
ば、「伊豆」は源平にまつわる「土地」としての「キーワード」になると
強く感じております。

 この伊豆には、頼政も池母子も、その他もろもろがからんでおり、何故
頼朝を伊豆に流させたのかの謎も、この土地を探究することにより、解け
て来るのではないかと推察しております。

 伊豆が何故頼朝の配流先として選ばれたのか……ここを深堀りしてみた
いと思っております――

 
 
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月26日 02時40分35秒 ) パスワード

今に続く無芸大食で、ずっと、母親の期待を裏切って来ました。父親は何にも期待してないフリしてたと思う。

昔  ミコヤンさんが来た時に   母の一族が関係してました。
それで  母は  わたくしにジャーナリストになってモスクワに派遣されて欲しいと願っていました。
それだけの条件は母の一族で満たしていたので。

満たしてないのは  ワタシの脳味噌  の出来。
なんせ日本語のレベルで満たしてないから。


とにかく母からロシア語を習いに行かされてました。
    文法は・・・古文のレベルで・・・読めないよぉ〜
だから  与格とか対格とかで面喰って  


今はね、あ、そうか、なんだけどね


その後チェコ語も習ってました。
チェコ語とポーランド語って 似てるというか近いというか
     ロシア語も交えて  スラブ語系  ですからね

で、うちのマンションにポーランド系ドイツ人の住人がいてワタシのジム友達なんですけど
ドイツ語はドイツ系の学校に10年行ってたからね  むにゃむにゃ

でも日本語で  ていたらくですからね  今朝もこの人と一緒だったんですけど

ドイツ語、出て来ない
ポーランド語、出て来ない
ロシア語、出て来ない


もう1人、うちのマンションにドイツ人の友人がいるんですけどね
この人が子供さん達にドイツ語で話しているのを聞いて  心の中で  (うんうん、そうそう)なぁ〜んて相槌打ってたんだけど
子供さん達もドイツ語を使うのが面倒な年齢になって

すっかり忘れてしまっているのを上記のポーランド系ドイツ人がジムに来るたびに思い出す。


語学の才能、無し

こわくて外国なんか行けないよぉ〜
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月26日 03時24分07秒 ) パスワード

あ、新聞学とジャーナリズムのクラスはちゃんととりましたよ。
と言っても  脳味噌に難があるので  批評のレベルだね。
「この記事は、書いた記者の主観がXX%じゃねぇ〜か」
あたりのね。


で、本題ですが


母がずっとムカシにワタシに言いました
それは「乳母」のハナシ。

世が世ならワタシは乳母に上がれるのに、というタグイのハナシ。
「Kカップの持ち主?」とか、そういうハナシではありません。残念でしたっ


たしかに母の先祖の一族の女にはそれはそれは身分の高い人物の乳母だったのがいます。


平安時代って  ムスメ  は最大の武器だったのですよ。

平安貴族にとって  オトコよりムスメ  が欲しかったのですよ。
これは数年前にも書きましたが。


平安貴族にとって娘は多ければ多いほど嬉しいことでした。
どんな娘が欲しかったかと書くと

    美しいこと
    乳母になれること
    文才で賢いこと


「美しい」ということで最大級の爆弾女性は  しょうし・たまこ・ 王章 子 さま = 待賢門院。
だから  保元の乱になった。
そして結局は武士の時代にしてしまった。



平安貴族はこぞって美しい娘を天皇に差し出して男子をもうけさせ
その子が天皇になれば  母方の祖父は外戚ということで摂政関白になれた。
天皇そっちのけで日本中の利権を手に出来た。



文才があれば
入内させたムスメの所へ天皇や皇太子を通って来させられた。
紫式部や清少納言や和泉式部や菅原孝標の娘。

ま、筝とか琴とか笛とか、こういうのも良い武器だったわね。
音楽って今でも大産業ですものね。



最後に  乳母  の役割とメリットについて:

自分が生まなくても皇太子の乳母になれたら?
    乳母を  おっぱいあげる人  レベルで思っていては  オンナのチカラが分かってないね!  です。

皇太子の乳母ともなれば皇太子の教育係ですからね。
天皇になった暁には  典侍  ないしのすけ  ですよ〜
朝廷の人事権を掌握できますよ〜
宮仕えの女房の最高の職ですよ〜


乳母なんて、などと思ってたら大間違い!
最高の社会的地位ですよ〜


ま、「乳母」ってピンと来ない人がフツーでしょうね。
だから  オンナのチカラ  がイマイチ分からないでしょうね。


特に江戸時代、儒教のせいで、女性はオトコよりずっと低い扱いを受けて来ましたからね。
明治時代も、そう。
戦後の昭和の時代には「家をしっかり守る人」の位置づけ。ただしご褒美は「月給鳥」を飼う、だ。


だから永く女のチカラは侮られて来た。


わたしの母の「世が世なら乳母に」と期待したことは理解されないでしょうね。

平安時代=貴族社会=の女性の時代って、平成になって、久し振りに「バリキャリ」時代が訪れたな、と。  

令和の時代はどんな女性の時代になるのかな?とちょっと興味があります。
ちょっとだけね。
わたしは無芸大食だから。
[74]三つ柏服部さんからのコメント(2019年06月26日 14時20分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、「平熱」に全然アクセスできず、困りました。過去にも経験し
ておりましたので、やがては回復するだろうと待ちのモードでおりました
が、夜になっても戻りませんでした。明日は大丈夫だろうということで、
あきらめて就眠いたしました。一夜明け、本日は大丈夫でありました。

 二年程前より、私は「しんあいち歴史研究会」という金山を本拠地とし
た会員数八十名弱、活動実績二十一年の正に会名のとおりの歴史研究会に
入っております。会誌も年三回発行し、研修会、研修旅行も活発に行って
おります。会長は衣川真澄氏で、私は以前、いい本だなと『古代の謎 抹
殺された史実』という本を買っておりましたが、その著者が会長さんであ
ることに今気付いた次第です。
 その会誌『歴研会誌 第76号』は、一昨日に届いておりました。

 本日、あを様のレスを読んで、平安時代における家格は女性に負うこと
が大で、その中でも特に「乳母」によって引き上げられる場合があるとい
うことを改めて再認識いたしました。平安貴族のこと、どこかに書いてあ
ったなと、何気なく届いていた歴研会誌を見てみますと、中に『藤原忠通
の生涯〜摂関家を守り通した平凡人S』(小川剛史)という論文があり、正
に偶然のタイミングではありますが、「乳母」のことが書かれておりまし
た。
 その「乳母」の部分だけを取り出してみますと――

「乳母(うば)と言っても、ただ乳を与えるだけの乳母(乳人 ちちびと)で
はなく、乳母の夫並びにその家族・親族等、一家を挙げて養君への奉仕に
当たるのが常でした。
 いわば養君の栄達に自分達の命運を賭けていたのですが、とりわけ乳母
夫妻の子供である乳母子(めのとご)と養君とは、実の兄弟以上の強い絆で
結ばれており、順境・逆境を問わず、命運を共にすることも珍しくありま
せんでした(乳兄弟 ちきょうだい)。」
 
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月26日 17時06分08秒 ) パスワード

Q
何故頼朝は伊豆に流されたのか?

A
伊豆に山木兼隆がいたから。


山木兼隆は伊勢平氏の平信兼の子ですから。
平信兼は清盛と同じ国香=貞盛のパパ=の子孫だから、信用が出来る。
本拠地は鈴鹿の関。
信兼は平家が壇の浦で負けた後、藤原(伊藤)忠清と平(平田)家継と一緒に源氏と戦っている。


関には清盛の孫(重盛の次男)で殿下乗合事件を起こした資盛が預けられていた。

        織田信長は平氏を称していた。資盛の子孫を名乗っていた。
        資盛が関に流されていた時に出来た子という噂。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%A6%AA%E7%9C%9F
平親真

忌部 親真/斎部 親真
(いみべ の ちかざね/ いなべ の ちかざね) 「いなべ」=員弁=なんてまさに伊勢の北部のことです。

生年不詳 - 正元2年2月18日(1260年3月31日)/正応3年2月19日(1290年3月31日) 2回も死んでる?笑

平安時代末期から鎌倉時代初期の人物。
織田氏・津田氏の祖とされ、織田 親真あるいは津田 親真とも呼ばれる[2]。
別諱は親実とも表記される。

通称は三郎。官位は権大夫。
織田親基の父。



平資盛の子とする説[編集]

一般に流布している織田氏の系図[3]では、親真を平資盛と資盛の愛妾[4]であった三井寺一条坊の阿闍梨真海の姪の間の子とする。

寿永4年(1185年)の平家滅亡に際して、資盛は子を身ごもっていた親真の母を近江蒲生郡津田庄に隠した[5]。母はそこで親真を産み、津田の土豪の妻となり、親真も津田姓と名乗ったとされる。その後、親真は忌部親澄の養子となり、忌部姓へ改め、神官についたという。その後、親真が剃髪して、覚盛(覚性)と号したとされる。

しかし、この説は親真の後裔にあたる織田信長が天下統一した際に、本姓を藤原氏(藤原北家利仁流?)から桓武平氏に改姓するために系譜を仮冒したものである。2011年(平成23年)11月1日、福井県越前町教育委員会の発表によると、同町法楽寺で発見された親真の墓石の一部に親真死亡年月日が刻まれており、資盛の子だとすると100歳を超えることが明らかとなった[1]ため、小和田哲男は平氏に繋がる家系図は書き換えたものとしている[1]。



越前だから
平家や南朝方と関係あったろう。

資盛の子供とか孫でもおかしくないと  ワタクシは  個人的に思っています。



藤原姓というのは  日本人だったら  血で藤原氏だったり  どこかで藤原氏と繋がってるのは  当たり前だと思う。
勿論勝手に名乗っているのもいるだろうし。
[78]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月28日 04時00分19秒 ) パスワード

<75>は誤字を書いてしまいましたので修正の上アップ:


三つ柏さん

>乳母子(めのとご)と養君とは、
>実の兄弟以上の強い絆で結ばれており、
>順境・逆境を問わず、命運を共にすることも珍しくありませんでした

はい。


乳母子で有名なところと言うと  

木曽義仲の乳母の夫であった中原兼遠の2人の息子と娘  ですね。
      樋口と今井と巴御前。この3人。
木曽殿の最期のハナシは日本人なら泣くと思います。



平家方だったら  平知盛と伊賀の服部家長(わたしは家長の息子のことだと思っていますが)の入水のシーンですね。


朝廷では、時には
自分のお育てした親王が夭逝したり天皇になれなかったりしますから
失意のどん底です。

敵からの  報復人事  も待ってますしね。



オンナの戦いも
    武器が「美しさ」というのは、ねじれて、憎しみに変り、長続きしないこともありますね。
    逆に「美しく生まれてしまった」ということが仇となりますね。
               1度、そういう経験をしてみたいものだ


    保元の乱はまさに璋子さま(待賢門院)が美し過ぎたから起きたわけで
        ヨメに行った先の舅(白河院=清盛のパパでもある)に愛されて崇徳天皇を生んだ
              もともと、この2人はデキてたってハナシですね


    得子さま(美福門院)も美しいゆえに璋子さまの生んだ崇徳天皇にヨメに入るつもりが
        璋子さまの夫である鳥羽院に愛されてしまって手がついてしまって・・・


                鳥羽天皇を演じた三上博史は素晴らしかったです。最近の「集団左遷!」の横山役もスゴイです
       

          この時の天皇家のオトコ達=天皇さまや上皇さま=は代々息子のヨメを奪うというバカやってるけど
          得子さんと組んだ藤原忠通がまさに保元の乱の貴族方の火薬庫でしたね

                人間関係がゴチャゴチャし過ぎていて混乱するぅ〜



かといって賢い女というのも
才能を生かして自分の仕えるオンナ主人のところに皇太子や天皇を通わせてても
     もっと若くていいオンナが出現すれば浮気されるし繋ぎ留められなくなるし
     最悪、皇太子や天皇が死んでしまったりで
失脚。失職。用無し。残酷ですね。再就職の道は無いですからね。


そこへいくと「乳母」は赤ん坊の時から面倒を見るんだからしっかりコントロールしちゃうから最強!


    貴族の家でも、娘と乳母の関係はそりゃあ強固。
    乳母の死は実母の死より悲しいでしょうね。乳母は命を懸けて自分を守り育ててくれた人ですから。



金山の北、東別院の近くに信長が生誕した  那古野城なごやじょう跡  があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E5%8F%A4%E9%87%8E%E5%9F%8E


栄から東へ行った  末盛  というところに  末森城  というのがあって
信長の弟が父親からこの城を譲られました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%A3%AE%E5%9F%8E_ (%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E5%9B%BD)
覚王山駅下車だそうです。

2年後に弟は清州城で信長に殺されました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B4%B2%E5%9F%8E
6月25日清須の西枇杷島で段ボール会社が燃えたらしい。


熱田神宮に信長の塀が一部残っています。
今川義元を討った戦勝記念の感謝で奉納した塀です。



自分の中の藤原氏の血を思い知りました。

母は生まれる時代を間違えたと思います。
平安時代に生まれてたら乳母になって自分の実家を盛り立てたのだろうな、と
戦国時代に生まれていたら家を滅亡させなかったのだろうな、と。

私はそういう気概も無いし能力も無いし
現代のワタシと同じく
父や夫が養ってくれるのをマッタリのんびり享受しただけだろうなと思う。

今になってワタシが真剣に追及すべきだった学問が何だったのか改めて分かってしまった。
UCLAのモリソン教授、ごめんなさい。
いろんな人の期待を裏切って来てしまった。
そんな事が分かってしまった。  分かってたよ  テキトーな人間だってコトは。

今月は、喉元に刃を突き付けられた気がした今回のスレッドでした。
ヤッパリなぁ〜
トボトボ
[80]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月28日 04時58分32秒 ) パスワード

また間違えてた!

>金山の北、東別院の近くに   信長が住んでた  古渡城  ふるわたり城 跡  があります。

が正しい。

信長
1534年-1582年


生まれたのは  那古野城。  今の名古屋城の方だね。
育ったのが  東本願寺近くの  古渡城  だ。
清州城はもっと後世だね。
その後は岐阜の稲葉山城だしね。
もっと後が安土城か。

      わたしも引っ越し魔でアチコチ住んで何回引っ越したか既に記憶に無い。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E6%B8%A1%E5%9F%8E
古渡城(ふるわたりじょう)

天文3年(1534年)、
織田信秀により尾張国愛知郡(現・愛知県名古屋市中区)に築城された日本の城。
平城。
天文17年(1548年)に廃城となった。



天文3年(1534年)、織田信秀が東南方に備えるために築城した城。
信秀は今川氏豊から奪った那古野城を、嫡男吉法師(織田信長)に譲り、この城を拠点とした。

東西140m、南北100mの平城で、四方を二重の堀で囲まれていた[1]。
天文15年(1546年)、信長は古渡城にて13歳で元服する。

天文17年(1548年)、美濃に侵攻した信秀の留守を狙い、
清洲の守護代織田信友の家臣坂井大膳らが城下に攻め寄せ、
この際に町は焼かれたが、落城はしなかった。

同年、信秀は末森城を築いて移ったため、古渡城はわずか14年で廃城となった。

遺構として、真宗大谷派名古屋別院敷地内にある古渡城跡碑と、古渡城の堀跡を利用した下茶屋公園(真宗大谷派名古屋別院に隣接)がある。

愛知県名古屋市中区橘2-8
名古屋市営地下鉄名城線東別院駅下車 4番出口より徒歩5分



こうやって読んでると同級生の顔が浮かぶ。
津田とか坂井とか
名古屋の名家。
織田家以来の、と限定を書いて置こう。

           うちはもっと古いんだよ、とマウンティング。



あの子、
と書き出して赤面。


織田信長が子供の時に遊んでやってた子
後の家康。1543年生まれ


家康が今川に人質に送られる時に

天文16年(1547年)8月2日、
駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより
尾張国の織田信秀へ送られた。

だが広忠は今川氏への従属を貫いたため、竹千代はそのまま人質として2年間尾張国熱田の加藤図書助順盛のぶもりの屋敷に留め置かれた。



確か  この加藤順盛の家って、  熱田神宮のすぐ向かえ  って  イメージがある。
すぐお向かいと言っても  熱田神宮の敷地は物凄く広大で今でもすっごく広い通りが分け隔ててる。


熱田神宮と古渡の城は歩いても1時間はかからないと思う。
その途中の沢上の交差点に服部病院ってのがあって  今は慶応の下になるのかな?

    ゴルファーの服部道子さんとこは日進市。お父さんが医者と聞いたような。
    道子さんの旦那さんも医者だとか聞いた記憶。


ということで家康は幼い足でも毎日古渡の信長のところに通って遊んで貰ってたと思う。
  

今の幼稚園児と中学生の歳の差だから
      信長は実弟の信行のことは大っ嫌いだったから  後に殺してる
家康のことは可愛がってたと思う。

母親に愛されなかった自分と母親と生き別れさせられた家康の関係は
その部分を取り出してもかなりの絆があったと思う。


ということで検索:

http://sengokushiseki.com/?p=189
家康が竹千代時代に幽閉されていた名古屋市熱田区の加藤順盛屋敷跡

別名・熱田羽城跡

このサイトにホンヤさんとこの悪口が書かれてます。

           悪いハナシにはサッと逃げるワタクシ。




わたしの(鎌倉を案内してくれた)友人は頼朝が大好きで
頼朝は母の実家の熱田神宮の  近所の  なんとかというお寺?で育てられた
と言ってたような。


ということで検索して来ました:
https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g298106-d7001033-r309117432-Birth_Place_of_Minamoto_Yoritomo-Nagoya_Aichi_Prefecture_Tokai_Chubu.html

鎌倉幕府を開いた源頼朝の生誕地が
熱田神宮の西門を出た歩道橋を渡り、北に3分程歩いたところにある誓願寺の門の横に生誕地の石碑があります。


平安時代末期、源氏の棟梁の源義朝は
熱田神宮の大宮司、藤原季範の娘 由良御前を正室(妻)にむかえ、
源頼朝を授かっています。


石碑のある場所は大宮司 藤原季範の別邸があった場所とも言われています。


よって源頼朝は熱田神宮を崇拝しており、鎌倉幕府を開いた鶴岡八幡宮内にも熱田神宮を祀った熱田社があります。


名古屋にいらっしゃった際にはアチコチ散策なさってください。
熱田神宮の近くの白鳥という場所は日本武尊ゆかりですし
ダンプ山古墳というのもあるし。

金山の結構近所ですから。
[81]空の青海のあをさんからのコメント(2019年06月28日 05時20分47秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101674.html
長上郡の服部氏族CXXV:123:現場100回-4
を立てました。

キリの良いところでどうぞ。
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