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 投稿番号:101665 投稿日:2019年04月24日 06時57分54秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏紋の服部さんの代理
長上郡の服部氏族CXXI:121:現場100回-2
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101660_54.html
長上郡の服部氏族CXX:120:現場100回
の続きです。




     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


>服部本家筋(はっとりさま)の調査に一歩踏み込みました。
>一ヶ月以内には、何らかの情報がもたらされるものと思います。

良い情報がゲットできると良いですね。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2019年04月25日 14時34分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今日から十二連休となります。この間、少なくとも寺林峻著『服部半蔵』
を読み、分析してみたいと思っております。半蔵に関しては、色々な小説が
出ておりますが、氏の小説は、史実に忠実であり、フィクションであること
を押さえ、できるだけ冷静に"事実を推理"しておりますので、いわゆるシミ
ュレーションとして大変参考になりそうです。

 また、当方の服部家についても、そのルーツについて、可能性の高いいく
つかの筋を整理し、次に備えたいと思っております。

 @古代服部連に連なるもの(摂津神服神社と三河地域での神服部の関係…)
 A服部中保次に連なるもの(引佐刑部領主―大久保旗本…)
 B服部政季に連なるもの(荒井関所番…)
 C服部半蔵……?
 D葛西・笠井氏、定明寺との関係から
Eその他
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月25日 14時53分16秒 ) パスワード

三つ柏さん

12連休ですか?
まとまった研究が出来そうですね。

謎に迫れると良いですね。



わたしは先月、昔2つ先輩からすっごく可愛がってもらえた謎が分かって
      彼女の家は後鳥羽上皇方だった
      可愛がってもらうような接点は無いはずだったのに
そして今月もいろいろ分かることがあって
      雑賀孫一は八咫烏一族の子孫ということ
      九鬼嘉隆も
      

日本ってすごいなと思うことしきりです。
結局アソコともココともご縁で結ばれていたのかと。


三つ柏さんも核心に迫れると良いですね。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月27日 16時20分49秒 ) パスワード

本日金曜日ご本を頂きました。
ありがとうございました。

メールを送らせて頂きました。
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2019年04月28日 08時18分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ツアーで、北信濃の野沢温泉に泊まり、外湯巡りをしてきました。歴史
探求が目的ではありませんでしたが、文部省歌を作詞した「高野辰之」の
記念館や、碁盤目の地下都市のような「象山地下壕」を訪れることができ
ました。これらは、また新たな歴史への有意義な視界を開いてくれました。

 温泉は熱かったけれど、お灸と一緒で免疫力を高める効果があるのでは
いかと想像しています。熱い温泉、やみつきになりそうです――
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月28日 11時43分55秒 ) パスワード

三つ柏さん

>高野辰之

日本人なら誰でも知ってる唱歌の人ですね。


>象山地下壕

大本営を移動させる、というハナシですね。
天皇にもご動座して頂く、という。

こんな戦況では、終わってるのに、それでも頑張るつもりだったですね。
このメンタリティがいけないんだ、というのが分からなくなってた
そこまで戦争をした
これも徴用工訴訟になりそうですね。


>熱い温泉

こういうのはβエンドルフィンが出てやみつきになるんでしょうね。
母がコレです。ゆでダコ状態になります。

うちのオットはヌルイのが好きで日本人が熱い湯が好きというのは分からないようです。猫舌だし。笑



のぼせないようにしてください。
[6]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月01日 00時31分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 平成が終り、令和の時代に突入です!

 このところ、マスコミは平成天皇の話題ばかりでにぎわっておりました。
 これからは令和天皇の話題で一色になると思います。
 いわば"新年(new year)"が来たみたいな気分になると思います。
 デパート等、みんな大売り出し(セール)ということになり、それが改元
の意義なのか……庶民の現実的喜びの感覚はそんなものであります。

 令和が万葉集から取ったということで、浜北にある「万葉の森公園」や
「賀茂真淵記念館」には人が押し寄せております。「万葉集」が売れると
いうのも一時的な現象だと思いますが、万葉集がブームになり、その良さ
が見直されるのはいいことだと思います。

 私は、この二日間は地元の歴史の調査をしておりました。蟻の一歩のよ
うな進歩(発見)がいくつかありました。次回に記したいと思います――

 
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月01日 03時01分32秒 ) パスワード

三つ柏さん

こちらも午前5時=日本の零時=に令和幕開けのニュースがあり
改めて平成天皇のご退位が映りました。
  
全身が粟立ちましたよ。
日本人のDNAが反応した瞬間が分かりました。

     脳じゃない
     日本人のDNAです。
     不思議ですが  これが血と肉  なんでしょうね。


万葉集ってスゴイと思います。

人間は自然に歌って来た
中國はリズムの詩であり日本は31音限定でありイギリスは韻を踏む詩。


最初は鼻歌だったんでしょうか?
縄文人は、原始人は、どんな鼻歌を歌ってたのかな?と
考えたりします。

それから音楽が始まり踊りが伴い。
今のエンターテインメントは全盛中。
子供が自主的にその世界に入りたがってますからね。


和歌ってホントすごいです。
今は歌留多取りも国民的スポーツ(謎  競技の方が良いのかな?)になってますしね。


>浜北にある「万葉の森公園」や「賀茂真淵記念館」には人が押し寄せております

評価・再評価が行われてすばらしいですね。
市長さんには嬉しい現象ですね。

令和には経済が良くなりますように!
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月01日 15時49分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 1572年の「三方ヶ原の戦い」に参陣した将士の生死・負傷等について
調べました(まだ終わってはいませんが)が、その一年半後に起こった「長篠
の戦い」についても、参陣した将士の生死について調べてみようと思いまし
た。
 
 「長篠の戦い」について改めて調べて見ますと、一口に「長篠の戦い」
と言っておりますが、実は正確にはおよそ「三つの戦い」が合わさったも
のを言うことがわかりました。
 その三つの戦いとは――

 @長篠城を守る攻防戦
 A鳶ヶ巣山(とびかすやま)砦の戦い
 B設楽原の決戦

であります。
 信長軍の鉄砲3000丁の三段打ちの舞台は、Bの設楽原の決戦であり、
これを我々は長篠の戦いと認識してしまっております。大きな意味では間
違いないのでしょぅけれど、長篠城の攻防戦が正にそれであるかのような
認識は訂正し直す必要があります。

 長篠には何回か行っており、現地や、資料館で調査を行い、資料も手に入
れておりましたが、深く突っ込んで調べるということを怠っておりました。
いわゆるモチベーション力の不足でありました。

 今回は、三方ヶ原の戦いの調査の後で、モチベーションも高いので、いろ
いろな調べを進展させることができました。

 主なな資料は――

 ア.熊谷岳山著『新城の今昔』
 イ.武田神社発行『新編 武田二十四将正伝』
 ウ.長篠城址史跡保存館発行『探訪 長篠の戦い』
 エ.『・名郡誌 上』
 オ.『戦国合戦大事典 三』
 カ.藤本正行著『再検証 長篠の戦い』

であります。

 三方ヶ原の戦いで、徳川軍は主たる武将や家臣を壊滅的と言っていい程
失いました。でもその一年半後には、またあの歴史に残る長篠の戦いに加
わっている。そして将士や家臣達を失ったのは間違いない。一体どんな将
士たちが亡くなったのか、『探訪 長篠の戦い』を見ますと――

 @長篠城を守る攻防戦……主な武将十八人死亡
 A鳶ヶ巣山(とびかすやま)砦の戦い……死傷者なし
 B設楽原の決戦……主な武将五人

となっておりました。

 具体的には、次回に記しましょう――
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月02日 16時27分01秒 ) パスワード

三つ柏さん

楽しみにしていますね。
にっこり


平成上皇の退位のお言葉の場のシーンのアップで既に涙・なみだ・涙の1日を過ごし

     かたじけなさに涙こぼるる
     の心境です



いろいろ考えています。
パレートの法則からしても20%の日本人は反皇室・嫌皇室なのだろうと。


     逆に20%あたりの日本人は皇室の為に自らの命や家を捧げた人々の子孫なのだろうなと。
     実際にはもっともっと少ない数が武士層でしたでしょうけど。5%にも満たないあたり?


> @長篠城を守る攻防戦……主な武将十八人死亡
> A鳶ヶ巣山(とびかすやま)砦の戦い……死傷者なし
> B設楽原の決戦……主な武将五人

前のスレッドでも出ましたが実際にはプラスαの大勢の人々が命を落としていますね。


今日はずっと「命」について考えて泣いていました。

我が家からも(幕末に)死ぬために生きたような最期を迎えた人がいますから。
彼の死は一体なんだったのかな?と。
勤王だったから、実際は何もしないで←文字通り S組に粛清に遭ってる。油小路事件
赤穂のHさんじゃないですよ尾張南西部=南朝方本拠地=出身の人ですよ。忠正とか名乗ってました。 笑  なんで忠正?
日本で一番人気の無い首相の加藤(当然旧姓服部)高明の伯父です。←このヒトがらみでいろいろハナシはありますがココには書けない。

赤穂の服部さんとは親しかったろうことは容易に分かるし  平家と南朝がらみで
さらに
赤穂の服部さんが伊東先生に傾倒する前、S組では尾形俊太郎の隊にいた
というのも  平家つながり!  と分かるし
さらに服部とオガタの関係は今でも続いているし   これもココには書けない!


パレートの法則の「20%」について  こりゃ摂理だよ!  と言いたい。神の国・日本!ですから。


わたしのようなのが日本に20%いるとして、逆に、アホかと思う人が20%いて(わたしの友人はコッチ)
あと60%はオモシロイと思ってるわけで

この元号の移行の2日間は先祖からのパワーが物凄く来て、ちょっと収拾がつかない。


主君のために、帝のために、友のために
自分の命を投げ出した
自分のためには戦わなかった
そういう叫びが。


戦後は「先祖が・・・」なんて言うと  アホか  と思われる。
でも今のような機会には先祖の思いがヒシヒシと聞こえてしまいます。
126代続けることが出来たのですから。
[10]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月03日 00時04分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、新城・設楽・長篠へ行ってまいりました。自宅から第二東名を
利用して車を走らせれば、三十分で新城へ着いてしまいます。距離にして
三十五q。信じられない程早く着いてしまいます。江戸時代なら二日はか
かるでしょう。便利な世の中になったものです。

 目的は、長篠の戦い(広義)で亡くなった武将の墓を訪れ、般若心経を二
巻ずつあげることでありました。
 もう一つの目的は、設楽原歴史資料館と長篠城址史跡保存館で何かいい
史料があれば入手することでありました。

 いろいろ収穫がありましたが、頭の中の論理がまだ混とん状態なので、
少しクールダウン、及び熟成させてから記したいと思います。明朝には、
書き出せると思います――
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月03日 13時41分01秒 ) パスワード

三つ柏さん

>長篠の戦い(広義)で亡くなった武将の墓を訪れ、般若心経を二巻ずつあげることでありました。

良いことをなさいました。
名を遺せた武将はラッキーでした。
名を残せなかった雑兵は21世紀にお経を聞けて嬉しがっているでしょうね。


我々は名も残せないし本も書けないですがWWWの空間に書き込みが飛び回って後世にも残って、それだけでも幸運と思いましょう。



>頭の中の論理がまだ混とん状態なので、少しクールダウン、及び熟成させてから記したいと思います

はい
時間がかかるでしょうね。
日本史上に残る特異な戦いでしたから。


新城って、そういえば恩師の出身地だったな、と思い出します。
とても穏やかな場所のような処ですがスゴイ戦いがあった。
あの戦いで新城は名を残したという感じ。

兵どもが夢の跡
みたいな。


「日本史」のゆかりの地ですから時々お経を詠んでくれる人が訪れてあげて欲しいものです。


最近知り合いが自分の先祖が南朝方だったと知って驚いていました。
この10連休は信濃宮関連を回っています。宗良親王のことです。
   天皇制反対
   南朝嫌い
の人だったですけどね。


自分の先祖のことを知らないって、哀しい。
でも一旦知って、その後、まとめて勉強して深く知るって、遅かったけど良いなと。

そういう10連休の使い方もあるって良い改元でした。



ここ暫く過去の迫害なんかもツラツラ考えたのですが
日本人が異人種を迫害して虐殺して占領して絶えさせたけど
あれって異人種の生命力に対して恐怖があったのかな?とか。

    例えば人種によって病気が異なりますからね
    民族的な、人種的な、遺伝病の違いとかね
    黒人の推算糸球体濾過量(eGFR)の基準値は非黒人である我々とは違うし。

    信玄の傷の回復力がスゴイなんて言われますが
    こういうのも当時の日本人には脅威だったでしょうし。


人皇126代令和天皇の誕生で反対側の20%の人にはドーでも良いことをここ暫く考えています。

人間って、日本人って、いったい何なんだぁあ〜?って。
でも歴史のある民族ってラッキーですよね。
原始時代があって、古代があって、中世があって、近代があって、現代に至るって
それだけ泣いて来たし。


いっぱい泣いて
でも悼んでくれる人が必ず出現してくれて
お経を詠んでくれて
涙は止まったのかな?
な〜んていろいろ考えるのです。ホントにいろいろ。
[12]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月03日 16時25分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 実は、時間がかかるのは、「ある壮大な関係」の検証をしているからで
ありますが、ほぼほぼ、論理的にも筋が通る論としてまとまってまいりま
した。調べるのに大変です。系図、人間関係、出来事、行動……四〜五百
年も昔のことであります……。

 それは、次回には記したいと思います。

 昨日、長篠城址史跡保存館で入手した資料に、大変貴重なものがありま
した。家に帰って袋から取り出して初めてわかったのですが、そこには、
長篠の戦い(広義)に参陣した将士の名前と生死の別、個人の属性等がまと
められておりました。二〜三年前に入手した『探訪 長篠の戦い』の内容
を更に更に充実させたもので、『長篠・設楽原の戦い史跡案内図』という
タイトルが付けられておりました。
 
 その名簿の中に、服部半蔵や中保次、政季がないかどうか真っ先に探し
てみました。長篠の戦いには、忍者働きの情報がほとんど出てこないので
何とか突破口をと思っていました。
 すると、これはあを様も既にご指摘されておられましたが、「服部保英」
の名前が一人だけ掲載されておりました。
 寛政重修諸家譜で確認してみますと、半蔵正成の長兄・保俊の嫡男であ
りました。長篠の戦いに参戦、神君伊賀越えにも供奉……とあり、伊賀衆
を率いて活躍したとありました。保長の長男の息子ですので、それなりに
重要な立場にあったと思われます。保英が出陣しているということは、半
蔵正成も服部政季も出陣しているはずであります。『服部半蔵と影の一族』
(橋場日月著)を見ると、出陣していると書いてあり、半蔵は常に家康の側
にいたようです――

 
[13]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月03日 23時45分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そうそう、単発的な発見について記しておきます。

 長篠城址史跡保存館には、いろいろな当時の遺物・資料が飾ってありま
すが、その中に、服部半蔵の妻の父である長坂信政(異名 血鑓九郎)の鑓
があるのを見つけました。鑓の穂先部分は約八十センチ程あり、柄も太く
(根本近くでカットしてあります)、全体としてはかなり重いものであった
と想像できます。東京西念寺にある服部半蔵の鑓は、残念ながらまだ見て
おりませんが、こちらも重かったようです。

 なお、長坂氏は武田臣にもおりまして、長坂光堅(みつかた)といいます。
長坂信政とは、ルーツ(小笠原系長坂氏)を同じくするように思われます。
 この光堅は、長篠の戦いに参陣しておりますが、設楽原の決戦に強行に
突入する側の意見をし、それらに従った勝頼以下武田軍は、結果、惨敗し
たということであります。野戦・鉄砲を甘く見たということでしょぅか―
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月04日 03時41分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「服部保英」

まさに!伊賀服部保長家の嫡子系のお名前ですね。

この人のパパ(保俊)は三河国高橋合戦で24歳で討死していますが。


子・保英は家康に仕え、13歳で姉川合戦に参加。
伊賀越えで家康に同行。
小田原の役で   馬飼料の地を給ふ  ということなので
今の表現ですと  車製造工場を任された  という感じでしょうか?
ものすごい名誉なことですね。
関ケ原の役では上杉景勝と戦った。



    保英の孫の元延(保忠)は秀忠に仕え妻は大久保治左ヱ門忠佐の娘

    元延の孫?の保慶の妻は近藤左衛門用弘の娘(おんな城主直虎に出てたアソコの子孫ですね)  将軍は綱吉・家宣の時代ですね


保英の妻は村串与左衛門某の娘


村串という名字は知らないです。
三河から移動して静岡に移って残ったのかもですね。
ということは遠江あたりの服部さんと関係があるのかもですね。


村串https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%9D%91%E4%B8%B2

【名字】村串
【読み】むらくし,むらぐし
【全国順位】 17,539位
【全国人数】 およそ290人

徳川家などを輩出した現愛知県東部である三河の有名氏族。     全く知らなかった
近年、静岡県に多く特に賀茂郡河津町峰に集中してみられる。
「村」は村(邑)を表す。

分布は静岡・山梨、千葉まで。
[15]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月04日 09時31分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 浜名湖の庄内湾に突き出た半島の先端部に、「村櫛」という町(旧村)が
ありますが、字を当て字と考えれば、「村串」にもなり、いつもどういう
意味なのか、もちろん意味はあるのだろうと思っています。

 さて、これから本題に入ります――

 『探訪 長篠の戦い』には、戦死傷者のみの92名の名前が載っており
ましたが、『長篠・設楽原の戦い史跡案内図』では、参戦した将士のすべ
て、615名の名前が載っており、これはやはり参謀本部編『日本戦史
長篠役』の付録の将士表によるものだと直感いたしました。
 参謀本部は、日本の各戦史における作戦や、その結果の損害・死傷者の
夥多を検証し、陸地戦の戦術研究としたのではないかと考えられます。過
去に学べであります。
 615名の内、武田軍の将士は198名で、その内の122名が討死し
ております。討死率62%で、これはもう壊滅状態といってもいいと思い
ます。三方ヶ原の戦いでの徳川軍の将士の討死率57%を上回っておりま
す。
 長篠の戦いでの全体の死傷者は、武田軍10,000余、徳川・織田軍
6,000余と言われております。別の見方では、死者については、10
時間足らずの間に、武田軍10,000人、徳川・織田軍5,000人、
両軍合わせて15,000人とも言われております。これは、三方ヶ原の
戦いにおける両軍合わせての死者1,600人程のほとんど10倍近くと
いうことになります。また、大坂夏の陣の25,000人の死者に次ぐ、
2番目の大戦争であったと言うことができます――
[16]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月04日 14時36分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いよいよ本題をと書きかけていたものが、操作ミスで一瞬にして消えてし
まいました。復元できる方法はないのでしょぅか。落胆。

 気分転換のため、しばらくの間、ゴルフ番組を見ます――

 
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月04日 15時35分38秒 ) パスワード

三つ柏さん

瞬殺されましたか。
泣けちゃいますね。


幼稚園以来の親友のPCが新しいのに変って
わたくしからのメールが文字化けするそうで
読めないから今は原始メールで送らないといけなくなっています。


わたしだって窓7の時は文字化けを直せたりいろいろ出来ましたが
窓8になってからは文字化けを直すなどの操作は出来ないし
もう1つの窓10はもっと操作が出来ないので
彼女には電子メールが送れなくなりました。

すごい後退!

今はセキュリティが厳しいので
外国に小包を送る時の税関申告書は今は手書きではなくネット申請の上にコピーをして郵便局に持っていかないといけないので
これが窓8では出来ないしプリントアウトが出来ないし

もうすっかり時代に取り残されています。


ひところ窓8の瞬殺を直すにはコントロールとZキイで出来ると聞きましたが
ワタシの技術では出来なかったです。


昭和・平成・令和と3つも元号を生きて
なんか  化石  になった気分です。



>浜名湖の庄内湾に突き出た半島の先端部に、「村櫛」という町(旧村)があります

村櫛姓の方は静岡に10名いらっしゃるそうです。
おそらくこの土地の住人でしょうね。
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%9D%91%E6%AB%9B


>武田軍の将士は198名で、その内の122名が討死しております。討死率62%で、これはもう壊滅状態

アメリカの空母1艦を沈めるのにどれだけの戦力が必要かという比較を読んだ時に
中國の場合は40%の戦力を要するから   つまりオワコン
中國はアメリカ軍とは戦えない
と書かれていました。

討死率62%ということは  壊滅どころじゃないですね。オワコン。

武田軍の中には現在川越で民俗資料館をなさっていらしゃる服部家もいらっしゃったので
        家紋は車の中に並び矢紋で武田方母衣武者として描かれているのを見ました

伊賀の服部一族も敵味方で戦い
そして
敗れた後は武士を捨て商人になっていらっしゃるので
ひょっとすると本来の姿に戻って現代に至る
ということだったかも知れないですね。

          つまり商人として情報収集をしていたのかもですね


川越藩は江戸幕府の老中が治めていましたから
    酒井家・堀田家・大河内松平家・柳沢家・甲斐国にも関わる名君秋元家・越前松平家・松井松平家など

そういう家に出入りしていた豪商ですから政治を見ていたかもですね。


酒井家・堀田家・大河内松平家なんて、まさに南朝方であり華陽院さま=お大さまの御生母=がらみだったりと
伊賀の服部家もバリバリ関わるし。


やっぱり日本史は一筋縄では語れない。
[18]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月05日 14時12分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本題については、さらに色々調べております。おぼろげながらも壮大な
ものとなりつつあります。起承転結の文章の論理・構成をどうすればいい
のか、思案中であります。もう少し時間がかかりそうです――
[19]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月06日 16時03分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 では、本題に――

 長篠城址史跡保存館発行の『探訪 長篠の戦い』の中に、徳川軍の将士で
戦死した人が8人掲載されておりました(長篠城籠城の奥平氏関係は除く)。

 その8人とは――
<鳶ヶ巣の戦い> 
@本多甚九郎正近
A松平主殿伊忠……39歳、愛知県深溝の城主。
B松平七平
<設楽原決戦>  
C蜂巣賀彦助……徳川の将本多忠勝の士
D林四郎右衛門
E本多彦右衛門清政
F滝川源右衛門助義……新城市出沢に住む。
G佐脇八兵衛
であり、この人達の個人的属性・人間関係をもっと調べてみようと思いまし
た。

 インターネットで調べてみるも、@BCDは情報なし。
 Aについては、『家忠日記』を書いた松平家忠の父親であることがわかり
ました。ちなみに、家忠も参戦しておりました。
 Eについては、額田郡の大平城主であることがわかりました。
 Gについては、豊川市御津町の佐脇城主であることがわかりました。

 そしてFの滝川助義でありますが、これは「東三河を歩こう」という観光
案内のサイト――
 http://www.net-plaza.org/KANKO/shjnshiro/shitaragahara/kasai-tajikawa
/index.html
を見ましたら、「滝川助義・笠井肥後相討ノ地・橋詰さんばし跡」という内
容で写真等が載っておりました。またそこには、長篠・設楽原の戦いの地の
略図も載っており、その中に武将の討死した場所の碑や墓がいくつか書かれ
ておりました。
 それらのある所は新城総合公園のほぼ北の領域になりますが、回る順番か
ら言えば――
@松平伊忠戦死の地(新城総合公園の南)
A馬場美濃守信房戦死の地
B瀧川助義・笠井肥後相討ノ地・橋詰さんばし跡
C笠井満秀の墓
D瀧川助義の墓
でありました。

 つづく――

 
 
[20]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月06日 16時44分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 五月二日は爽やかで素晴らしい天気になり、新城、設楽原、長篠を訪れる
気持ちはワクワクでありました。

 前日、笠井肥後守という人物については、ひょっとして遠江長上郡笠井の
定明寺にまつられている笠井肥後守高利のことではないかと思い、私の定明
寺のファイルに納められた記事のコピーを見たところ、こう書かれておりま
した(一部)――

 「天正五年(三年の誤り)五月、長篠合戦ノ節、甲軍武運拙し、織田徳川両
 軍ノ為ニ大敗シ、主人勝頼ノ駿馬疲労シテ進退據(より)ヲ失ウ。高利之ヲ
 見テ、我乗馬ヲ主人ニ進シ、徒歩にて二丁余引返シ、遠州笠井ノ城主新羅
 三郎ノ末孫笠井肥後ノ守高利、主人勝頼公ニ代テ討死セント大呼シ、鎗ヲ
 揮テ奮闘戦死ス。時ニ年四十一才、笠井定明寺に葬ル。一心院殿義誉勇意
 第居士ト法名ス。」
とありました。

 長篠の戦いの季節はちょぅど五月で、今回の長篠訪問とピッタリと重なる。
そして、現地の「笠井肥後守」の墓等がどうなっているのか、いてもたって
もいられなくなる程、ワクワクドキドキでありました――
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月07日 14時59分43秒 ) パスワード

書き直し:深溝はふこーずと読みます。それで書き直しです。


メールをありがとうございました。
楽しみに続きを待っていますね。



三つ柏さん

>現地の「笠井肥後守」の墓等がどうなっているのか、いてもたってもいられなくなる程、ワクワクドキドキでありました

笠井氏の家紋は三つ柏紋でしたよね。
ホント!ワクワクドキドキしますね。



>A松平主殿伊忠……39歳、愛知県深溝の城主。

18松平家の1つでしょうね。

深溝は地元の人が「ふこーズ」と発音してたように思います。名古屋人には  フカミゾ以外の何物でもないんですが。

    たとえば  静岡が  しぞーか  に変化するように
    名古屋だったら 深溝は  ふかいみぞ → ふきゃーみぞ  → ふきゃーぞ???笑 ふこーズにはならない(キッパリ)笑

    思い出したことを1つ
    うちの父は松坂屋のことを  まっつぁかやさん  と呼びます。
    松阪の人も  地元のことを  まっつぁか  と発音するらしいです。 
    面白いですね。


>C蜂巣賀彦助……徳川の将本多忠勝の士

尾張の蜂須賀の一族なのかしら。
蜂須賀一族は   大橋の親戚だから  信長には付きたくないというのがあったから  (大橋の乱があった)
家康方に走ったのかな?と楽しいロマンが広がります。


     秀吉が信長に言われて蜂須賀小六を味方に欲しかったけど、小六は信長なんかの配下になるものか  と答えた有名な逸話があります。

          ワタシ、地元ですから。あはは


>B瀧川助義・笠井肥後相討ノ地・橋詰さんばし跡

そうか  瀧川と笠井が相討ちしたのか。

この瀧川というのは滝川一益の一族なのか分かりませんが謎の一族であります。
滝川姓は山の多い土地の日本には全国にあるでしょうし。

          これも地元ネタ。滝川一益は我が家の敵ですから。笑
[23]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月08日 07時06分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 第二東名新城インターチェンジまでは、家から三十分。時間的には会社へ
行くより十五分も短い。信号がないとはいえ、改めて高速道路の効果という
ものに驚きます。
 新城に着き、151号線を東に約1キロ走ると有海の交差点、それを北に
折れ、257号線を約1キロ行くと大海という所、そこに「松平伊忠戦死の
地」の看板が建っておりました。
 257号線は何回も通っており、何か看板が出ていたなあという記憶はあ
りましたが、今回車を止めて観察するのは初めてでありました――
[24]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月08日 09時16分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊忠の墓碑は、正確には大海の手前の有海にあるようです。大海にしろ、
有海にしろ、調べれば深い意味のある地名だと思います。

 墓碑は路面より少し高めの山すそに建てられておりました。
 道沿いということで、どのような戦いがあったか調べてみますと、退却す
る武田軍を追って戦いになり、武田軍の小山田昌行から猛反撃を受けて戦死
したということであります。
 息子の家忠も参戦していましたので、ひょっとして父親の死を目前で見た
のかも知れません。『家忠日記』は興味ある本ですので、国会図書館のデジ
タルコレクションでゆっくり見てみたいと思います。読経二巻――
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月08日 13時17分45秒 ) パスワード

三つ柏さん

>『家忠日記』は興味ある本ですので、国会図書館のデジタルコレクションでゆっくり見てみたいと思います。

はい。

まだ21歳の若さで父の跡を継ぐことになって
武士とは大変ですね。



>読経二巻――

わたくしの分もありがとうございます。


父の死ぬのを子が見ていたというのは  残酷  ですね。
でも戦いなので  武士にとっては家の名誉でもありますから  以て瞑すべし  ということにしておきます。


先日、三成は大谷吉嗣を救援するのに損得無しで駆けつけて
結局関ケ原で負けてしまった
ということで   三成ほどの切れる頭脳の人でも  友のために判断が曇るのかと
オトコの友情とはスゴイなと感心していました。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E5%BF%A0
松平 家忠(まつだいら いえただ)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。深溝松平家4代当主。

彼の記した日記(『家忠日記』)は、戦国武将の生活や当時の有力大名を知る上で貴重な史料となっている。


                              面白そうですね


弘治元年(1555年)、深溝松平家3代当主・松平伊忠と鵜殿長持の娘の長男として、深溝松平家の居城である三河国額田郡の深溝城[1]で誕生。

                              鵜殿さんって家康の若い頃にちょくちょく目にする人物ですね


家忠が元服した頃の深溝松平家は、本家である徳川家康に服属し、家康に東三河の支配を任されていた酒井忠次(吉田城代)の指揮下にあった。

                              吉田って今の豊橋ですね?浜松のすぐ近く。
                              酒井家との関係からも家康には近かったというのが分かりますね


天正3年(1575年)5月の長篠の戦いには父と共に従軍、酒井忠次率いる鳶巣山攻撃軍に加わったが、ここで父が戦死したために数え21歳で家督を引き継いだ。

なお、時期は不明ながら天正初年ころに刈谷城主水野信元の弟・忠分の次女を室に迎えている。


                       水野家も出て来てバリバリの家康一族ですね
                       松平家で7光 + 酒井家で7光 + 水野家で7光  物凄いプリンスですね。


その後、家忠は各地の合戦に従軍するが、合戦そのものよりも浜松城・牧野城(諏訪原城)・新城城・横須賀城、また高天神城攻めの付城(前線基地)などの城郭の普請や補修などに従事しており、土木に技能を持っていたこと がうかがえる。

                       ビックリですね
                       日記も残したりして、只者じゃないですね
                       有能さがよく分かりますね




これは当時の領国にあった広田川が頻繁に氾濫し、その復旧を行う記述が『家忠日記』にあることから、その際に培われたものと考えられる。

                       土木事業を実務で覚えた、ということですね
                       伊奈さんも土木に優れていたけど
                       こういう時代には優秀な人を輩出するんでしょうね
                       わたしは無芸大食。


天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると、武蔵国埼玉郡に1万石を与えられ、忍城[2]を本拠とした。

                       映画「のぼうさま」を思い出しますね。笑


本来、忍は家康の四男・松平忠吉が10万石で与えられたものだが、忠吉はまだ幼少のため、彼が成人するまでは家忠が預ったものである。

                       家老ってコトか。


その後、忠吉が正式に城主になると改めて下総国小見川[3]に移封され、上代城(同市櫻井)を本拠とした。


通称は又八(郎)であったが、天正20年(1592年)頃からは主殿助を名乗っている。

慶長5年(1600年)、家康の命で鳥居元忠、内藤家長らと共に伏見城の守備に残り、石田三成ら西軍の挙兵を誘った。


そして目論見どおりに三成は挙兵したが、家忠らは関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで戦死し、城は落ちた。享年46。


                       そうだったの
                       それで三成のことが気になってたのか
[26]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月09日 14時20分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 浜名湖の村櫛というところの由来、わかりました。鎌倉時代に村櫛三郎
兵衛という在郷武士がいたということで、人名から地名になったようです。

 忍城とは忍者に関係するのかと思いきや、「忍氏」という氏族が造った
居城だそうです。しからば「忍氏」とはどんな人……不詳。

 さて、松平伊忠の戦死の地墓碑から川沿いに少し北へ向かうと、「橋詰
殿戦場」というの石碑がありました。さらに行くとそこには「馬場信房の
塚」なる看板が建てられており――
 「馬場美濃守信房(信春)は、武田三代に仕えた智謀の老臣である。設楽
原では、北部戦線で最後まで奮戦し、主君勝頼の戦場退去を見届け、討死
した。相手方の信長も「手前之働、無比類」と讃えた。」
と書かれておりました。

 そこから500m程川沿いを北に行った所に「馬場美濃守戦死の地」の
看板が出ており、そこから逆方向に坂を50m程登ると「馬場美濃守討死
之地」の石碑が建っておりました。
 石碑の前には花や酒が供えられており、そこで私は鈴を鳴らし、般若心
経を二巻唱え捧げました――
[27]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月09日 14時51分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 鈴は「りん」とも「すず」とも読みますが、どういう違いか……たぶん、
「りん」はその読みのとおり「リ〜ン」といい音が長く続くものを言うの
ではないか。それに対し、「すず」は「リンリン」「シャンシャン」と、
音が短く鳴るものを言うのではないか(まてよ何かパンダみたいだ)。

 また「りん」は鉢型のものを叩く形式を言い、「すず」は丸玉の器の中
に金属の小粒を入れた物を振って鳴らす形式をいうのではないだろうか。

 それではお遍路さんの鳴らす鈴は、逆さ鉢形の金属の空洞部に金属棒を
吊ってありますが、これは「りん」か、はたまた「すず」と言うのか?
 それは音からすれば、「リ〜ン」と高く澄み切った美しい音が長く響き
ますので、これは「りん」に分類されると思います。

 いずれにしても、「鈴(りん)」の音は、その音でもって辺りを清めたり、
鎮めたり、あの世への空間を開く働きがあるのではないか―そんな思いを
抱いて、最近は読経の際には、必ず「鈴(りん)」を鳴らすようにしており
ます――
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月09日 15時39分52秒 ) パスワード

三つ柏さん

>村櫛

本当に村櫛姓がいらっしゃったのですねぇ。
それも鎌倉時代から。
へぇ〜
名家だったんですねぇ。
絶滅危惧姓とは惜しいですね。


>忍 姓

https://name-power.net/fn/%E5%BF%8D.html
北海道、千葉県。
埼玉県行田市忍発祥。
戦国時代から記録のある地名。
秋田県秋田市千秋公園が藩庁の久保田藩士に江戸時代にあった。
岐阜県ではシノブ。
善隣。   ← 意味不明   善隣外交しか思い浮かばない(恥)
奈良県橿原市上飛騨町に分布あり。


https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%BF%8D
【名字】忍
【読み】おし,にん,おしぬみ,おしのうみ,おしみ,しのぶ,しのび
【全国順位】 14,290位
【全国人数】 およそ410人
おし、おしみ、しのびなどにもみられる。
現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵国埼玉郡忍庄が起源(ルーツ)である。
上総にも同族。


>馬場美濃守戦死の地

わたくしの分も般若心経をありがとうございました。

武田信玄の忠臣のトップですね。
惜しい人材でした。


>お鈴  りん

こちらは  澄んだ音  というイメージですね。

https://www.butsudannavi.com/about-lin/
そもそものリンの役割とは

もとはこのリンというものは禅宗で使われていたとされています。

今では呼び名などは宗派によって一部変わったりする事がありますが全ての宗派で現在でも使われている仏具になります。

鳴らせば澄み渡る「チーン」という音が鳴りますが、この音によって人々の邪念を払うと言われているのです。

                       へぇ〜

さらには、この音にのせて、供養や祈りを極楽浄土に届けるといった事も言われていますので、御先祖様や仏様、故人への思いをしっかり込めて鳴らすようにしましょう。

小さい頃に祖父母の家などで音が面白くチーンチーンと鳴らしていて怒られるのもこういう意味からでもあります。


>すず

おりんとは違いますね
音が違うし
今では  広瀬すず  で女の子の名前に復活しているでしょうね。


我が家にあるインドの鈴は  ガランガラン  と鳴ります。
可愛い音とか澄んだ音とは反対の極にある低い音です。

インド的な意味があるのかもですね、ヒンドゥ教の永遠に生まれ変わる・永遠に戦うという、そういうイメージには合う音かも。


>鵜殿家

ここはもともとは今川氏に仕えた家かも。
その後、家康に仕えたのかも。
それか鵜殿家自体が分裂してたのかも。

次にコピペします。
[29]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月09日 16時07分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さて、いよいよ「笠井肥後守」に移ります――

 馬場美濃守信房戦死の墓碑のある所より、さらに北へ500m程行くと、
そこは「花ノ木公園」という景観の良く、また広いけれど巨岩の連続して
いる川岸で、釣り堀がいくつか造られてお、新緑も花も目に美しく、また
まるでナイヤガラの滝のような長く続く瀑布が白く流れ落ちておりました。

 階段を下りて行くと、縦3m×横4mくらいの絵看板が目に入りました。
それは何かというと、すぐ右横に「わが主君の身代わりとげし笠井肥後」
と書かれた看板がその絵の内容を端的に表わしておりました。

 その絵は、中央に笠井肥後守――兜を外した姿で右手に大刀を振りかざ
し、左手には2人の武者がひるんで劣勢にある姿、右手には白馬と栗毛
の二頭の馬がいて、そこにまさに鎧兜の武将が栗毛の馬に手を掛け、乗ら
んとする場面が描かれておりました。

 絵の中の右上に、説明文が書かれておりました――
 「天正三年(1575)五月二十一日、長篠の役設楽原の合戦は、武田方に利
 なく、日が西に傾くにつれ、武田方は殿(しんがり)戦へと押されていっ
 た。
  ここ橋詰において、笠井肥後守は、勝頼の馬が疲弊したのを知るや、
 己が馬を無理に勝頼に勧めて之を立ち退かせ、自らはこの地において徳
 川軍をくい止め、壮烈な討死をした。」
と書かれておりました。
 絵の左下の方には、この絵看板を寄贈した人の名前がでており――
 「笠井肥後守満秀子孫 静岡県富士宮市住人 笠井×× 平成十三年五
 月建立」
と書かれておりました。
 つまり、ここは奥三河の寒狭川の川幅の狭まった所に丸太橋が掛けられ
おり、それで橋詰と言われたのだと思いますが、いずれにしてもこの辺
で笠井肥後守満秀もいわゆる殿(しんがり)戦を戦い、主君には自分の馬を
提供して甲斐方面へ向け走らせ、自分は追手に対する防波堤になって討死
したということであろうと推測されます。

 その絵看板の右奥に、二つの石碑が建てられておりました。一つはもち
ろん「笠井肥後守満秀」、もう一つは「瀧川源右衛門助義」のものであり
ました。両方の末尾には「相打ちの地」と彫られており、隣の説明看板に
は――
 「天正三年(1575年)五月二十一日、長篠設楽原合戦のとき、武田家旗本
 笠井肥後守満秀は、主君に自分の馬を譲り、自らは我こそは勝頼と名乗
 って、瀧川郷の領主で織田方に属する瀧川源右衛門助義と組討ち、差違
 えて戦死したのが、ここ橋詰、猿橋の地である。」
とありました。

 ここで般若心経二巻の読経――その声と鈴の音は、長い瀑布の水滴と音
の中に吸い込まれて行き、自分は戦国時代の真っただ中にいるような感覚
に浸っておりました。遅咲きの桜の花びらが、頬を撫でて飛んで行きまし
た――
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月09日 16時14分13秒 ) パスワード

鵜殿さんは今川義元が討ち死にしてから  略  築山殿+信康と人質交換された鵜殿家の皆さん  という形で出て来るから
鵜殿=今川の家臣
と思っていましたが
三つ柏さんのレスで  あれ?  と混乱しました。

つまり鵜殿家も紆余曲折あったことがハッキリしました。


いえいえ紆余曲折の始まりはどうやら源平時代からのようですよ。

初めは清盛方だったのに(熊野だけに)
形勢不利になると源氏方になって平家を滅ぼしていますからね。
それで頼朝には信用されなかった。

      ざまぁ〜
      おほほのほ

最後までお読みになれば鵜殿氏の出自が  藤原氏?秦氏?どっち?  なるほどな  とガッテンガッテンガッテンになります???



                上記の忍の成田さんも紆余曲折ややこしいですね
                単純に南朝方とばかり思っていましたが成田家は名家ゆえに
                読んでるうちに余計混乱しました。

                映画「のぼうの城」は面白かったです。三成に勝ってしまったんですよね。ココだけは理解出来ます。笑



さて鵜殿氏についてです:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E6%AE%BF%E6%B0%8F

本姓は藤原氏(藤原北家)、藤原実方の子孫と称している。
諸説あるが、『鳥取藩史』の着座家伝によれば紀伊熊野別当・湛増の子・某が新宮鵜殿村に住したことから、鵜殿姓を名乗ったという。

その後、
熊野別当家が代々荘園を有していた三河国宝飯郡蒲郡(西郡)[6]に移ると、鵜殿長善の子・鵜殿長将(上郷家[7])、鵜殿長存(下郷家[8])に分立。

A)
長将(上郷家)の代には今川氏に仕えた。
長将の子・長持が今川義元の妹婿[9]となったことで待遇が向上した。


桶狭間の戦いで義元が討ち死にすると、今川氏への臣従を続けるのは直系の上郷鵜殿家のみとなり、
不相家・柏原家の庶家は徳川家康の傘下に入ったため、
一族は2派に割れた。

                      なるほどね〜



家康に居城・上ノ郷城を攻め落とされた際、
長持の孫・氏長、氏次兄弟は捕縛されると、
人質交換によって今川氏への帰参がかなう。

                       通字の「氏」はまさに今川氏からの拝領ですね。


今川氏が没落した後に家康に仕えた。
のち氏次は深溝松平家忠に属し、家忠に従って伏見城に戦死した。


一方、氏長は1700石余を領して子孫は旗本になったが、
4代目の氏基のとき子がなく、
弟・源之丞への名跡継承で減封され蔵米300俵となり、
さらに源之丞も無嗣断絶となって家は絶えている(「断家譜」)。



B)
一方、下郷家は早期に徳川氏へ帰順した。
深溝松平氏、竹谷松平氏等と通婚し、
五井松平氏、形原松平氏と合わせて蒲郡周辺でネットワークを形成して、吉田城の酒井忠次旗下に置かれた。

                       なるほどね〜
                       三つ柏さんお書きの鵜殿さんですね


下郷家は鵜殿長龍[10]が徳川氏の関東移封に従い、1590年(天正18年)、下総国相馬に移封された。



鳥取池田家家老・鵜殿氏[編集]

長将(上郷家)の子で長持の弟に当たる長祐(長裕)は徳川氏に転属した庶家の一つ柏原鵜殿家を興した。その長祐の死後、宗家から養子に入った長忠が家督を継ぐ。

長忠の子・長次は池田輝政の継室・良正院の叔父に当たり、その縁で慶長18年(1613年)、良正院の招きを受け、5,000石で池田忠継の後見役として迎えられて以降、池田氏に仕えた。

なお長次の跡を継いで池田家に仕えたのは四子の大隅守長定、別家として池田家臣となったのが五子・藤右衛門長義であり、長定の兄三人(長堯・長直・長正)は父とは別に旗本として取り立てられている。

寛永9年(1632年)の鳥取転封後、着座家に列した池田家臣の鵜殿氏は因幡国岩井郡を始めとする地域に所領を与えられ、浦富の町政が委任された。

鳥取藩に仕えた鵜殿氏の中でも4代・長春、11代・長発は学問に秀でており、共に財政分野の知識に明るく重用されたことで知られている。

天保13年(1842年)には浦富の自分手政治が正式に認められ、弘化3年(1846年)には家禄が6000石に加増された。

明治2年(1869年)の版籍奉還で浦富などの所領を返還、12代・長道はその後も鳥取藩大参事などの職を歴任し、廃藩置県後もしばらくの間、残務処理や引継ぎの事務作業を行うなどした。

長発の子の一人は鳥取藩家老の清和源氏満政流和田氏に養子に入り、和田信旦と名乗った。

その娘の碧川かたは婦人運動家として活動し、龍野藩家臣の家系の三木節次郎と結婚して三木露風らを産んだ。

後に節次郎とは離婚し、ジャーナリストの碧川企救男と再婚。
その間に日本の映画色彩技術の草分け的存在である映画カメラマン碧川道夫が生まれている。



旗本・鵜殿氏[編集]

寛政譜には、柏原家の長定から始まる7家および上郷家の1家(氏長系、1700石余、当時既に絶家)が収録される。

ただし両系統は「寛永系図」のときに長将・長祐が兄弟関係にあったことを述べておらず、

                       「鵜殿の出身は藤原?秦?はココです  ↓

長祐系が熊野別当・湛増の後胤(藤原姓)、
長将系(氏長系)が熊野住人・常香の孫(秦氏末裔)と称していた。  ← 平家の味方でああったけれど、平氏とはわざと称さなかったのが忖度のせいかも


鳥取池田家家老の鵜殿氏の家伝にのみ長将・長祐の兄弟関係が記載されてはいたが、
寛政譜は兄弟説を採らず、
寛永系図に祖先を従い、両系統は別系として収録されている。



柏原家7家は、長次の三子(長堯・長直・長正)の系統。
藤助長堯の家系700石、新三郎長直の家1000石、長直次男・十郎左衛門長興の家1300石、長直三男・甚左衛門長時の家300俵、はじめ200俵のち加増で650石となった長正の家系、長正系の150俵・200俵の分家2家である。650石の長正系からは儒学者の鵜殿長一(鵜殿士寧)[11]が出た。


『国字分名集』[12]には2家収録される。

「鵜殿十郎左衛門[13]藤原氏 本国三河下総・上野・武蔵内1,300石  家紋 丸に三石畳 獅子に牡丹    屋敷 小川町雉子橋通」


「鵜殿主計[14]藤原氏 本国三河下総・相模内1,000石   家紋 丸に三石畳 獅子に牡丹    屋敷 牛込軽子坂上」


                       どちらもメンド臭い家紋(次のレスの載せられるかも)


城館[編集]
西郡城下鵜殿氏居城。蒲形城・下之郷城ともいう。近世に深溝松平氏を経て交代寄合竹谷松平氏の陣屋となった。    
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月09日 16時15分57秒 ) パスワード

鵜殿さんのメンド臭い家紋
出るかな?


[32]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月09日 16時34分25秒 ) パスワード

一族でも争いの場から離れれば離れるほど混沌とするということでしょうね。


源平時でも南北朝時でも遠隔地では<勝つ方に>寝返りましたから。
寝返る、ということでなくても  負けた後に赦されれば  鉾を収めましたからね。


我が家の三河の一族は義元が負けた後も今川方でした。

後に我が家は信長と激突しましたが
村人を数万人虐殺され滝川一益によって当主が謀殺されて

信長に膝を屈して現在に至るですから
三河の一族には尾張の我が家は腰抜けとか裏切り者だったでしょうね。


どっちにしろ結局は家康が最終的に勝ち残ったのですから
先に家康に従った方が勝ちでありラッキー!でした。


ヒトの世は紆余曲折複雑怪奇そして改竄横行。

鵜殿さんも出自は藤原氏?秦氏?それとも穂積氏?紀氏?もっと古い古代の豪族?
真実が見え隠れしているな、というのがワタクシの感想です。
案外  鵜殿さんは  出自?そんなの知らんよ  かもですし。

でも平家の時代や南朝方の時代があったのだろうなと思います。
なんか鵜殿さんが  舌をペロッ  と出したように思います。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月11日 15時23分27秒 ) パスワード

https://www.youtube.com/watch?v=Bwd_SeEfOjw
日活映画「忘れないと誓ったぼくがいた」

お暇な時にどうぞ。
1回見ただけでは?もう1度見ると今度は彼女の視点からの映画になります。


https://ameblo.jp/rsn48/entry-12249151799.html
ネタばれサイト



そうか
我々は忘れるんだ

絶対に忘れたりしないと誓うけど   絶対に愛し続けると誓うけど  やっぱり忘れてしまうんだ。そして終わりが来るんだ。

でも、また出会ったら、やっぱり好きになるんだ。恋に落ちるんだ。


ああ、なるほどねぇ
と思いました。

わたしはタカシだなと。
やっぱり何度も出会ってるんだなと。
生まれ変るたびに  出会って  (あれ?どこかで出会ってる?) とは思うけど   でも絶対に思い出せない。


なんだかワタシ自身の心の旅路のような映画でした。
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月11日 21時03分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レス[29]が、あを様のレス[30]〜[33]と入れ違いになり、過去に置
いてきぼりになってしまいました。できれば一度読んでいただきたいのです
が……。

 笠井氏(河西氏とも書く、南部氏が本姓)を調べるために、本日山梨県南部
町と、ついでに身延山久遠寺へ行ってまいりました。片道110q。この話
は、また後でまとめたいと思います――
 
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月12日 02時20分40秒 ) パスワード

三つ柏さん

拝読致しました。


>笠井肥後守満秀子孫 静岡県富士宮市住人 笠井×× 平成十三年五月建立

遺すべきは  名と子孫  ですね。


静岡県富士宮市の住人 笠井××某氏もこれで先祖の名とご自身の名を後世に残すことができました。
某氏のご子孫も誇りに思うことが出来ます。

      お金のかかることですから、同じようにしたい人はいても、なかなか実行は出来ません。
      良いご子孫を得て笠井肥後守満秀公は本当にお幸せな最期でした。
      

わたくしの分も般若心経をありがとうございました。


後日噺がこれまたスゴイのでコピペしておきます。

大谷吉継は出て来るし井伊直政は出て来るし
ひょっとすると三つ柏さんの心情とわたくしのイマジネーションが共振してたのかもですね。
 


http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7386.html
戦国ちょっといい話・悪い話まとめ:笠井満秀の討死
よりコピペ

2013年03月21日 19:52
笠井満秀

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/20(水) 21:12:43.55 ID:AuFUMXeM

武田勝頼が設楽原の戦場を逃れて寒狭川の橋詰にさしかかった時
疲労のためか勝頼の馬が動かなくなってしまった。
敵軍が迫り来る中でこの様子を目にした家臣の笠井肥後守満秀は
急いでやって来くると馬から飛び降り、これに乗るように勝頼に勧めた。

「それでは其の方の身が危なくなるではないか」と勝頼が述べると
「命は義によって軽く、一死を以って君恩に答えて奉らんのみ。
私には倅がおります。
事が済んで平らかになったらどうぞ御取り立てください。」

笠井はこう言うと、自分の馬に勝頼を乗せ川を渡らせ、自らは勝頼の疲れた馬に乗り叫んだ。

「我こそは武田四郎勝頼なり!」

それを信じた徳川方の滝川源左衛門助義と戦って討死した。
笠井肥後守満秀の名は、後世に語り継がれることとなった。


その肥後守の子、孫右衛門慶秀は、大谷刑部少輔吉継に仕えた。


大谷吉継を訪ねて井伊兵部直政が度々邸にやって来た。
その際に慶秀が座敷に出てもてなすため、笠井肥後守の子が大谷家へ仕えていることを知った。
あるとき直政は慶秀に肥後守の最期について語り、慶秀は涙を流してそれを聞いていた。

その後、関ヶ原にて大谷吉継は討死すると、慶秀は直政の話を思いだし井伊家を訪ねた。
直政は肥後守満秀の忠節を思って、慶秀に禄を与えて家臣にした。

今、井伊家に仕えし笠井利左衛門がその子孫である。

(『長篠軍記』、『日本戦史 長篠役』−「長篠合戦余話」収録)


以下略


泣けますね。
笠井肥後守満秀公お1人で何度涙を流すことになったか。


静岡県富士宮市の住人 笠井××某氏が何故に静岡に住んでいらっしゃるのかと思いましたが
井伊家がらみもあったのかもですね。


やっぱりヒトのハナシというのは胸を打ちますね。
[36]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月13日 06時32分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、おとといの身延山久遠寺のヒマラヤへ登るよう急で段差の高い
階段を死ぬ思いで登った疲れから、不調な一日でありました。
 ただ、久遠寺とはどんな寺かで解けた謎は、久遠寺のほぼ真東に富士山
が存在し、山と山の切れ間から今回は残雪をかぶった富士の頭頂部が顔を
のぞかせており、それはあたかも観音様が天窓から顔をのぞかせているよ
うに感じました。身延山の位置としての価値は、正にそこにあったのでは
ないかと思いました――
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月13日 14時56分41秒 ) パスワード

三つ柏さん

お疲れさまでした。
蹴上や踏面が建築基準法に守られた一般住宅とは違いますから、山道の階段は大変なんですよね。
ブルーノ・タウトがそもそも日本人の考える階段はありゃ階段ってもんじゃないと言ってますからね、梯子に過ぎないって。



     新城の鳳来寺も登るのは大変でした。

     階段が1425段だったかな?
     お大さまが家康を身籠るために登ったとかガイドさんが紹介してました。
     そもそも、あの時代に新城まで出掛けた?
    


身延山は幼稚園以来の親友が信仰しているので彼女の家ではご夫婦で毎年出掛けて宿坊に泊まるのですが
わたしは自分の足で登るのはいやです。インクライン(斜行)エレベーターで登りたいです。

比叡山も坂本からケーブルカーで行ったような記憶です。
ラクしたい人間なので。



日蓮という人物はドラマティックだなと。
ワタシ的には日蓮は自分の乗ってるボートを揺する系の人。
ワタシもこういう傾向があるので  家族や弟子達は大変だったろうな、と。

でも日蓮宗は穢多とかの被差別層にも優しいお寺さんという理解です。
仏教がアッパー層のものだった日本に庶民にも分かり易い仏教を広めた人という印象です。

       義兄の家が日蓮宗です。
       うちの家は父方母方共にだいたい多分すべて反信長ですから一向宗というか浄土真宗というか西本願寺というか
       それで日蓮宗のことは分かりません。


北条時宗の異母兄の相模三郎北条時輔さんが二月騒動で暗殺されたのとセットで日蓮上人がインプットされています。

               時輔さんは長子だけど母が正妻でなかったから嫡子にはなれなかった
               そこのところに自分の先祖が長子だったのに元寇にも参加して負傷しているのに家督を譲られなかった
               というワタクシの個人的なネタミからの同情

               そして蒙古襲来事件も加わって

時宗の名越家潰し(得宗家を盤石にするために、一族である名越一族を襲った)には蒙古事件や日蓮事件が都合が良かったのかなと。


ワタシは内訌は好きじゃないので   母方が内訌で潰れているから  鎌倉幕府というか北条氏は好きじゃないです。

でも日蓮上人の龍ノ口での処刑寸前のどんでん返しとかアッチコッチに流されたとか
日蓮上人とはドラマティックだなと。


結局は鎌倉幕府は潰れて南北朝の争いに移るわけで
     江戸時代の幕末に「ええじゃないか」運動が起きたような
あの鎌倉時代の幕末に人々から受け入れられた宗教だったのかなと。
[38]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月13日 16時46分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 おとといの山梨地方は、30℃でありました。5月上旬でこれだけの温度、
毎年早まっていると思います。信じられない事態にどんどん陥っております。
暑かったり、寒かったりで、昨日、今日共、絶不調であります。2〜3日は
養生して直したいと思います。

 久遠寺と日蓮、及び南部氏については、後でまとめて報告いたしたいと思
います。
 その前に、長篠の笠肥後守満秀について、またその周辺のことについて、
完結させてしまいたいと思います――
[39]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月14日 20時15分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 笠井肥後守満秀という武田方の人物が、長篠(東三河)は徳川方の領土であ
るにもかかわらず、忠義のヒーローとして喧伝されているのは、今まで何回
もこの地を訪れているにもかかわらず、私は知らなかった。一方で、長上郡
笠井にある定明寺に葬られている笠井肥後守高利という人物は、全く注目も
されずに今ではひっりと位牌のみが寺に残されているということ。この落差
は一体何なのだろうか。また何故に笠井という所が笠井なのか、なぜ笠井の
定明寺に笠井肥後守高利=満秀の位牌があるのだろうかという、根本的な疑
問がふつふつと涌いて来ました。

 寒狭川の橋詰の笠井満秀・瀧川助義との相打の石碑とは別に、笠井満秀の
墓は、設楽原までのほぼ中間地点にある龍泉寺の裏にしっかりと建てられ、
まつられておりました。
 武田二十四将ならいざ知らず、それ以上の取り扱いを受けている理由は一
体何なのか……何か隠された謎があるのではないかという思いに立ち至りま
した――
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月15日 05時12分48秒 ) パスワード

三つ柏さん

>何か隠された謎があるのではないか

そうなのです。

まず!
いまだにワタクシには松島家という存在が謎です。
なぜ「高天神城落城」とわざわざ記したのか?


         松島家はどっち方だったのか?
         武田方?家康方?

         里見家だの出て来るから   源氏が絡んだ家?




そして笠井満秀=高利=公のお話:
https://84669014.at.webry.info/201705/article_20.html
コピペ

笠井肥後守満秀(高利)が備後守定明の何代目になるかわからないが、所伝によれば
南朝の臣・新田義貞の配下で湊川の戦い(1336年)において
敗走中に主君義貞に自分の馬を与えて踏み止まり
足利勢と戦って討死した小山田高家の十二代の後胤であると云われている。

奇しくも満秀は先祖と同様の死に方をしたことになる。


小山田氏から武田家重臣の小山田氏との縁によって武田方に身を投じたのであろう。
その後満秀の子の孫右衛門慶秀は大谷吉継に仕え、関ケ原合戦後は井伊家に仕えたという。
「長篠合戦余話」   (参考資料 静岡県中世城館跡・日本城郭大系・9・案内板その他)


そうか、この笠井家は南朝方だったのか。
奇しくも南朝方ですか。

武士の世界は人口がやたらと小さいから、
その世界はやっぱり狭くて小さいから、
武士を語るにはどっちにしろ  源平藤あたりの3つの大姓に、南北朝のどっち側、で収まるのかもね。
そして下剋上で運良くよじ登れた雑草系武士が加わるのが戦国時代以降かもね。


この大きな人間関係のブロック割で、中はグッチャグチャに入り乱れた人間関係で、
とはいえ日本の人口の80%は  殆どが無関係もしくは部外者もしくは弁当持って見物した野次馬もしくは争いに乗じて暗躍したフィクサー。


つまり天皇家でも公家や貴族でもなく寺社でもなく、ただの一般人=農民なんかでもない武士はどう生きたのか?

どう生きていくのか?

あの松島家の家書を見ていると   この家は一体どういう家だったのだろう?  と不思議です。
わざと書かれなかったこと・書かれていることの本当の裏の意味
松島家のご先祖の思いがわたしの胸に手を伸ばして来ているのを感じます。


明治政府によって神職になった家が多いですからね
ここのところも把握しないといけないし
ただし神職になったということはそれなりの家だった
という意味でしょうし。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月15日 05時26分40秒 ) パスワード

笠井(河西)肥後守高利
改正三河後風土記: 上巻

https://books.google.com/books?id=7Xr5K1UH2q0C&pg=PP709&lpg=PP709&dq=%E7%AC%A0%E4%BA%95%E8%82%A5%E5%BE%8C%E5%AE%88%E9%AB%98%E5%88%A9%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=6o5kXV432G&sig=ACfU3U0MiOV184acQBvXTBaIHO7wI5Q54Q&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwiz367Q5ZviAhXPjp4KHYJ9DkQQ6AEwA3oECAgQAQ#v=onepage&q=%E7%AC%A0%E4%BA%95%E8%82%A5%E5%BE%8C%E5%AE%88%E9%AB%98%E5%88%A9%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

わたしのPCは小さいので読み難い。

笠井城
http://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/totoumi/shiseki/seien/kasai.j/kasai.j.html


忠死の誉れ、
        笠井肥後守の故城

コピペ:

天正三年(1575)長篠の戦い(設楽原古戦場)。武田勝頼率いる一万五千と織田信長、徳川家康連合の三万五千の大軍が設楽原で激突。

信長の用意した大量の鉄砲戦術で武田勢は信玄以来の重臣の多くを犠牲にして敗退した。

 現在、長篠の古戦場史跡を訪ねると七十余ヶ所に石碑などが建てられて紹介されている。
その内のひとつ、長篠城址から3`ほど寒狭川に沿って北上したところに「笠井肥後守、滝川某相討ノ地」の石碑が建てられている。

武田勝頼が設楽原の戦いに敗れ、戦場を脱してここまで来たとき馬が疲れて動かなくなってしまった。
これを見た笠井肥後守満秀が自分の馬を主君勝頼に勧め、自らは追手を喰い止めるためにこの地に止まり、徳川方の滝川助義と戦って討死を遂げた。

という話しが伝えられている。


滝川助義はこの時深手を負い、後日果てたので結果的に相討ちとなった。


この笠井肥後守満秀の城がここ笠井城であると云われている。
城跡といっても稲荷社があるだけで遺構らしきものはなさそうである。
静岡県教委の中世城館跡の対象には含まれていないので単なる伝承に過ぎないのかと見過ごされてしまいそうでもある。


ここ笠井城址の200bほど南に定明寺がある。


この寺の開基が長禄二年(1458)笠井備後守定明となっているのである。
寺の名もこの人からきている。

したがってこの頃には笠井氏の城館が当地に築かれていたとしてもおかしくはないのである。


笠井肥後守満秀(高利ともいう)が備後守定明の何代目になるのかは分からないが、
所伝によれば南朝の臣新田義貞の配下で湊川の戦(1336)において敗走中に主君義貞に自分の馬を与えて踏み止まり足利勢と戦って討死した小山田高家の十二代の後胤であると云われている。

奇しくも満秀は先祖と同様の死に方をしたことになる。

小山田氏から笠井氏に至る系譜の詳細は分からないが、武田家重臣の小山田氏との縁によって武田方に身を投じたのであろうか。


その後、満秀の子の孫右衛門慶秀は大谷吉継に仕え、関ヶ原後は井伊家に仕えたという(「長篠合戦余話」)。



また他の伝承によれば、徳川家康は武田家ゆかりの側室於都摩の方に産ませた五男の万千代を慶長六年(1601)に元服させて武田家を再興させた。

武田信吉と名乗った。

翌年には水戸二十五万石の藩祖となり、水戸には武田の旧臣らが集まった。


慶秀も弟とともに水戸へ赴き信吉に仕え、信吉急逝の後も水戸徳川家に代々仕えて明治に至ったとも言われている。


満秀の戦死後、その忠死の美談は後世に語り伝えられたが、笠井城は荒廃するにまかせ、時とともに忘れ去られてしまった。


明治二十九年(1896)、尾張の画工司馬老泉が笠井に来住、城址御殿山稲荷の復興に携わった。
参道入り口の城址碑は老泉翁の書で、明治三十三年に建てられたものである。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月15日 05時59分23秒 ) パスワード

http://www.hasegawa.in/story/yuraiki/syuokyu2.htm

ここに葛西氏について書かれています。


承久の乱の時は北条方。
葛西宅は北条高時が最後に逃げ込んだ家で、高時はこの後に自害。

以下無断コピペ


葛西清貞は楠新田亡き後までも独り東北を拠点に活発な行動をくり返している。即ち尊氏叛するや陸奥守兼鎮守府将軍たる年少18才の北畠顕家を補佐し義良親王(のちの後村上帝)を奉じ運命を堵して激斗している。


延元3年11月沙弥宗心状によると葛西氏六代目武蔵守清貞以下兄弟一族残らず朝廷にお味方申上げ中納言顕家の指揮下の中核として奥羽の豪族、伊達、南部らと共に大いに戦い特にその弟対馬守武晴の働振り眼ざましく徹底的に足利氏に反抗しその野望に挑戦している。



尊氏が幕府を開くや彼は東北に眼をつけ一族吉良斯波両氏を奥羽探題として送り旧勢力、葛西氏一掃を企てた。
これがのちの大崎氏である。


葛西一族が最後まで永く抵抗したのは南朝に対する忠義の外、自家の命運に関わる危機であったことを物語っている。
新田、楠亡きのちの南朝方の主力は九州の菊池氏を除き、義貞の遺児義興義宗らの小反発にすぎず、
その主力は北畠兄弟をもり立て再三奥羽の地より大軍を京都大阪方面に送って死斗をくり返したのは葛西氏唯一人である。


顕家は貴族として飾物にすぎず実質的には足利対葛西の両実力者による南北両朝の運命を堵けての指導権争いの観あり、清貞の執念物凄く自己の影響下にある伊達南部田村武石など奥羽の諸豪族を盟友とし最後までその中核として足利氏に反抗している。





南朝の柱石 清貞兄弟

南北朝動乱全期間を通じ最も永くかつ最後まで南朝を支援したのは、清貞兄弟一族である。

彼は奥羽第一の大名として親房の信任をうけ東北の諸豪族を帥い奮戦しているが、
その功績の殆んどが北畠親房父子兄弟に帰し葛西氏の名は顕われていない。
 

当時の諸豪族は地下人として軽く取扱われ問題にされていなかった証左で歴史はすべて貴族中心に評価され
門閥身分なき者は、いかに大功あるも賞されずその主人の功に帰し歴史の影に隠れている。

要するに門閥身分意識は骨の髄まで各階層にしみこみ武士は貴族の前には只の下僕にすぎなかったことが判る。



以下葛西氏関係の忠誠を記すと次の通り。

(1)延元元年(1336)尊氏叛するや清貞、義貞、正成と協力し奥羽より大軍を帥い伊達、南部、結城、相馬の四氏と共に京都に兵を進め尊氏を撃破しこれを敗戦せしめている。

この戦いで清貞の総領三郎左ヱ門宗清、神楽坂で戦死している。


(2)延元2年(1337)義良親王を奉じ、伊達行朝、武石高広と共に清貞その主将として利根川の陣に於て尊氏義詮父子の連合軍を破り鎌倉を占領す。


(3)延元3年、顕家の下知により奥羽大名と共に東北より鎌倉を経て伊勢、伊賀、奈良の各地で戦い足利勢を破り大勝を博したるも打続く長途の遠征と志気の疲れもあって泉州阿部野ケ原の大激戦に於て将軍顕家22才を一期として戦死したるほか、南部師行武石高広など大名達も戦死し犠牲極めて大きく敵将、高師直、師泰兄弟に大敗し主将清貞危く逃れ辛くも東北へ帰りついている。


これ史上有名な泉州堺の戦争ともいわれ南北朝天下分目の戦いとなり、これを契機として南風競わず足利氏の天下は安定するに至った。

別格官弊社阿部野神社は北畠顕家を祀る。


この戦斗が葛西氏をはじめ奥羽諸豪族に与えた影響は大さく再び起上る勇気を失わしめた観がある。

その証拠に以後、朝権回後を眼ざして大軍を京都に進めていないことで判る。


阿部野ケ原の大激戦で主将清貞のみ辛じて東北へ選ったものゝその一族部将卒達は敗残の身を異境に露し身の置き所すらなく、さりとて足利勢力の真只中を潜って遠く奥羽へ還る希望と勇気を失い、彼等唯一の希望は当時反足利勢力として阿波管領細川氏に反抗し南朝唯一の味方として気を吐いていた阿波一の宮の城主小笠原長宗を振って再生を図ることにあった。

長宗は阿波国造家の後、裔一の宮長門守を亡ぼし自から一の宮長門守と名乗った悪党であるが南朝方の忠臣としての一面もあり阿波勤王党の首領山嶽党の頭領株でもあった。


これに関連して興味深い事実として
昭和43年阿波郡土成町の旧家秋月城主の子孫森本義男氏が入田の近藤忠男氏に案内され秀夫氏を訪問したことである。

その後自分も土成に森本氏を訪づれ調査したが、それによると葛西清重の曽孫に政平という人があり南北朝時代一の宮城に阿波の守護であった小笠原氏(長京ならん)を頼ってその客臣となりーの宮に滞在していたが政平は新田義宗を慕って伊予を経て阿波入りし小笠原氏を頼り客分として滞在申そのすゝめにより笠井姓に更め、開谷城に義貞の甥脇屋義春を訪ね細川氏に対抗したが敗れ、のち曲折を経て子孫帰農して土成に笠井姓の家数家あり本家は東京に番転しているが森本氏の妻が笠井氏の出身なりという以上断片的ではあるが当時の情勢を分析判断することによってある程度堆察出来る。



史実によると伊予の南朝方は気焔をあげ、建武4年懐良親王は新田義宗を伴い伊予に到着し一世紀近く続いた南北朝動乱は永く尾をひき一波は万波を呼び平地で破れた阿波南朝方は一の宮より焼山寺に至る山嶽に本拠を置き散発的な小勢力として残存し、阿波山嶽党の勤王といわれるのもそうした理由であろう。


葛西家臣小野氏の阿波入りも阿部野原合戦に出陣し敗れて阿波小笠原氏を頼って入国したものと思う。


故書によると陸中の小野寺氏、磐井郡一の関城に拠る封内記に一の関古畳葛西家臣小野寺伊賀守の拠る処なりと、歴代葛西家臣にして南北朝時代正平7年3月11日同家文書に阿波朽田庄地頭職に補せられ出雲守時有これを奉じ小野寺八郎これを受け日時と理由不明であるが、遠く奥羽の蒙族が阿波入したのも前記によるものと思う。


この南朝方と足利氏の天下分け目の合戦は阿部野ケ原の合戦(1338)であるが、地方における両派の争いはその後約一世紀続いている。


肥後の土豪菊池氏の如き鎌倉末期から足利時代にかけて九州を三分する三大守護職、肥前など三ケ国の大守少弐氏、筑後、肥後、豊後三ケ国の大友氏、更に大隅、薩摩、日向三ケ国の守護島津氏など全九州の兵力と戦い一勝一敗その智勇は南朝の精華として誇り高く、

一方東北に於ては敗れたりと雖も葛西清貞戦死せる顕家の弟顕信を迎へこれを盟主と仰き南部伊達田村との連合軍は、興国元年(1345)三迫に於て奥羽探顕、吉良貞家、石塔義房らと勢力を争いこれを破り活気を呈している。


更に時代は移って、正平6年(1351)名取郡広瀬川に於て(この川仙台市内貢流)官軍側は顕信の子将軍中院守親を奉じ足利方を破り大いに気勢を挙げているが、自領の中心地で戦う不利は覆うべくもなく盟友南部、伊達、田村、石川も次第に苦境に陥り奥羽総奉行の権威も薄れ打続く戦乱のため経済的破綻を来し社寺領を侵すなど信望を失いつつある。

奥羽将領中武石佐藤は足利方へ相,鴨氏は両派分れて戦い負けかけると結束乱れれ不運がつづく正平4年(1348)四条畷で楠正行兄弟が戦死した外南朝万の有力称領伊達行朝が58才で死亡したことで、南朝方の没落をいっそう早め葛西氏は非常な苦境に陥っている。


その頃になると清貞の勢力は衰えその子備前守良清、漸次足利氏に傾き保身の策を講じ自領の経営に乗出していたようである。


元々南北朝の動乱遠因は庄園争いから起ったといわれ、上は皇室から下は女士に到るまで大義名分より欲得づくめの感あり純粋精忠は楠、新田、菊池ら三氏で南朝最後の華は菊池氏の手に握られている。

子孫祖谷郷士となり山嶽党の一員でもあり、蜂須賀氏に協力し祖谷の元締格に納まっている。



伝説の人葛西佐七郎について

佐七郎清武若くは重高と称する人が、祖先との事だが西福寺内にも墓はなく、いつの時代の人か経歴時代その他一切判らない。そういえぱ同族間に佐弥都佐市など似通った名前の人が多い。

団平氏によると讃岐を経て入国というか彦八郎と混同しているように思えて信用出来ない、多分前記南北朝時代阿波入した葛西一族の一人としか思えない迂余曲折徳川初期葛西彦八郎重高(不正確)が蜂須賀氏を頼って阿波入し入田に土着帰農したのが入田村葛西氏の創始者である。


因縁とは不思議なもので森本氏の話による葛西一族を保護した一宮氏の子孫は入田に現存し、葛西氏の子孫松崎一族より一宮一族へ嫁しづく者あり遠い姻戚となっている。



奥羽平姓 葛西氏

初代 三郎清重
建久6年9月奥州検断総奉行に補され子孫これを継ぐも足利氏時代大崎(足利)氏これに代り権戚は失っている。

従五位左兵衛尉検非遺使、建久元年壷岐入道平清重とあり頼朝の腹臣の一人法名 定蓮、この人源平盛衰記平家物語にその名多くあり。

二代 清親
壱岐守左衛門尉 法名清蓮 この人東鑑にその名あり。





十七代 晴信 
法名智山 天正18年豊臣秀吉、晴信遅参の罪を責めその領地没収す。
晴信屈せず佐沼城に籠り一族即党多く戦死し鎌倉以来続いた葛西氏は滅亡した。

奥羽に在ること402年、一族四方に散布す。



戦国時代における葛西南部氏の争いについて

南部氏は鎌倉時代から奥の岩手郡に本拠をおき明治に至っているが天正年間26世信直は支族より入りこれを相続した。

南部彦三郎晴政は津軽地方を侵し天文年間厨川滴石の両城を奪い更に探顕斯波氏の領地を奪い近辺の豪族を攻め南部本家大膳大夫を攻め殺してこれを乗取り更に転じて奥羽最大の大名葛西領に侵入した。

これに対し葛西氏は時代に即応した軍制に更めず旧態以然たる体制を以て改革を怠っていた。


例えば家臣団の如きも富沢、拍山、江刺、薄衣、大原、浜田の7氏あり、いづれも二万石三万石を領しているがその家来に対してはそれぞれ二千石三千石を与え領地を分割し中世その為め統治方式請負制度による兵制では緊急に間に合わず平時は地頭対農民、戦時は武将と兵隊の干係を持し鉄砲など新しい戦術を採用せず南部氏の侵畧に対し、葛西家の部将柏山伊勢守明吉がその家来石川越後守の働きによって南部勢を打破り大功を立てたのに対し感状を与えているがそれによると「今度南部衆と一戦を遂げ北七郎、六戸弥太郎(いづれも南都一族)始め馬上十騎雑兵など打遂げ比類なく候。これにより伊沢郡下河原にて三千苅、若柳村にて五千苅、磐井郡にて四千苅、机島にて三千苅を忠賞として相添え永代宛行なうもの也仍て証文件の如し」明吉黒印 天文3年8月7日」

とあり、南部信直領土拡大は着々成功し、前田利家を通じ秀吉に誼み通じその地位を確保したのに反し、晴信はこれを怠り滅亡するに至った。



入田葛西氏について

元組は彦八郎である。
名は清武或は重高らしいがはっきりしたことは判らない。
紫雲山西福寺内に墓あり、団平氏と共に墓参したが墓石には葛西彦八郎とりみ刻み名乗はなかった。
武家浪人として伝手を求めて入国したが当時30万人と称せられた浪人洪水時代とて任官の望みなく従者と共に開拓に従事し帰農したと伝えられる。
その時期は元和寛永年間の始め頃と思われる。
団平氏によると讃岐を経て阿波入国と伝えうる処より讃岐葛西氏を調査したが同国の葛西氏は角切、角の内、釘抜の家紋を用い阿波蔦西姓の多くは鷹羽違いとて入田喜西氏とは直接関係なさそうである。

入田葛西家は清重以来の三ツ柏を用い現在に至っているところより奥羽平姓の流れを汲むものと思える。


同時期に浪人で入田へ入植した人ありと伝えられ寛文6年6月2日没行年71才、法名還阿常雲禅定門。
その妻元禄9子年4月6日没法名禄衣如光大姉





そうか
わたしの母方ご先祖さまとも葛西氏は引っ張り合いがあったのか。
知らなかった。
[43]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月15日 12時45分46秒 ) パスワード

天の青海のあを様

 笠井満秀と葛西氏についての情報、ありがとうございます。私も、山梨県
南部町に調査に出かける前、様々な情報をインターネットや本、資料等によ
って調べておりました。

 長篠の戦いでは武田軍のたくさんの武将がなくなりました。武田二十四将
(時代的には世代交代中)と言われる人も七名が亡くなり、またその子や兄弟、
親族達も多く亡くなっております。
 二十四将の一人馬場美濃守晴信と葛西肥後守満秀は、特に忠義・忠臣とい
う意味で人の心を打つ命の捨て方でありました。封建社会の中では、かくあ
るべき家臣の手本として、その後も世に喧伝されたのではないでしょぅか。
主君のために自らの命を捧げるということは、敵味方関係なしにほめたたえ
られる時代でもあったと思われます。馬場晴信と葛西満秀はそういった意味
で共通しております。
 ただ、笠井肥後守満秀は、二十四将ほどの名声もなく、余り知られていな
い存在であっかのような印象を持ちますが、これは今の我々が知らないだけ
で、その当時にはもっと知られていたのかも知れません……。

 そこで、笠井氏についてその出自を調べてみることにした訳ですが、まず
はインターネットで笠井肥後守満秀を調べてみますと、笠井満秀の本姓は、
「南部」であることがわかり、さらに「南部肥後守満秀」で探しますと、
Wikiに「南部宗秀」が出て来ました。その家族欄を見ますと、河西満秀がそ
の子として載っておりました。Wiki以外のサイトでも、南部肥後守満秀のこ
とについて書かれているものがあり、それによりますと、満秀は父の汚名を
はばかって改姓し、「河西」を称すとなっておりました。また、南部宗秀に
ついては、1548年に乱行を理由に、武田信玄によって甲斐追放となった
と書かれておりました。満秀は小山田高家の12代孫という情報もありまし
たが、これらの事項を総合してみますと、なかなか一筋縄ではいかないぞと
うことが感じられました。

 そこで、山梨南部行きとなったわけでありますが、その前に私には情報の
点と線を結ぶヒントが二つひらめいておりました。

 その一つは――
 あを様もご参加の平熱「三枝家、笠井家などについて」の、レス[39]の
白石様のご指摘――「尹義には三歳になる嫡男太郎丸(のちの義邦)がお
りました」ということと、[40]のレスで「笠井の子孫さん」からの情報―
これはポイント部分を少しコピーさせていただきます――、
 「笠井の始まりは、奥州葛西氏の確か六男の家に、笠井義邦が養子に入っ
 た時から始まります。葛西氏は平氏ですが、後醍醐源氏から義邦が養子に
 入った際、源氏姓の笠井になりました。義邦は後醍醐天皇の子孫です。
  義邦親子は北部王家を追われて、南部氏の計らいで護良親王をかくまっ
 た奥州葛西氏を頼ったと思われます。
  当初、葛西氏は南朝派だったのですが、北朝が強いことから次第に南朝
 を裏切るようになります。その流れの中で、南朝出身の笠井氏は、南朝派
 が強い遠江、南信に移り住みます。遠江に移り住んだ笠井氏は、居城を
 浜松に置くことになります。現在の浜松市東区笠井です。そして戦国時代
 を迎えると源氏の武田に付きます。」
 
 つまり、これらから、笠井氏には天皇家の血が入っていたと推察されるこ
とになります。津島の大橋家と同じようなシチュエーションかと思います。

 もう一つのヒントは、私が三十年前にある郷土史家からいただいたある本
のコピー――テーマは「"隠れ南朝"の天皇」でありました。その本の著者に
ついては、残念ながらコピーされた部分からはわかりませんでしたが、南北
朝、そして隠れ南朝について相当詳しい方であることはわかります。いずれ、
その著者が誰なのか、何とか割り出したいと思っております。
 それによると、遠江・遠州地方は井伊家・宗良親王に代表されるように、
南朝色の非常に濃いところであり、また"隠れ南朝"の秘密基地が各所に存在
したということでありました。笠井の隣には小松があり、ここを小松天皇は
拠点としていたということであります(隠れ南朝については、別途詳しく記し
たいと思います)。

 つまり、この二つのヒントをもとにして推理すると、笠井肥後守満秀は、
後醍醐天皇のある親王の末裔であるということ。笠井氏・南部氏という南朝
臣との行動の中で姻戚となり、笠井氏は最後は南朝の機密基地のある遠江、
笠井城にやってきたということになります。

 そしてついでながら、定明寺と笠井氏、定明寺とわが服部家の関係をみる
と、津島の雲居寺のような南朝がらみの何か太い絆があるようにも思えてま
いりました――
 
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月15日 16時22分21秒 ) パスワード

三つ柏さん

>定明寺と笠井氏、
>定明寺とわが服部家の関係をみると、
>津島の雲居寺のような南朝がらみの何か太い絆があるようにも思えてまいりました――

はい
まさに!

ここに両家を結ぶ  ○に三つ柏紋  というミッシング・リンクである家紋が謎を解明してくれるように思うのですが。


かなり迫っていると思うのですが。


松島家と笠井家の関係も分かると良いですね。
松島家と服部家は深い絆で結ばれているのは分かっているのですから。
    とはいえ、イマイチ分からないですけどね。


ハッキリ出来ると良いですね。
[45]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月18日 23時12分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 南部氏、笠井氏について、甲斐の南部にも行き調べたり、その他数年前
に仕入れた大島延次郎著『吉野時代 東北勤皇史』(昭和二十年発行)とい
う本を読んだりして、知識と理解を深めつつあります。
 本日は、鎌倉に行ってきました。そこでもおもしろい発見がありました
ので、いろいろ合わせて整理し、発表したいと思います。

 いずれにしても、南朝の基地であったこの遠州地方は、北朝―つまりは
足利氏の支流の吉良氏、斯波氏、今川氏等の支配により、南朝方への警戒
・取り締まりが行われたようですが、徳川家康遠江侵攻以降の戦国時代の
歴史の層の方がずっと厚くなってしまって、南北朝時代の日々の面影は、
井伊氏関係を除いて見えなくなっているのが現状であります――
 
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月19日 07時30分57秒 ) パスワード

三つ柏さん

鎌倉ですか。
そろそろ  あじさい寺が人気の季節  でしょうか?

こちらは最近は雨期で毎朝明け方に雨が降ってるようで
日本は1か月後に梅雨入りだな
と今朝思ったところです。


>南北朝時代の日々の面影は、井伊氏関係を除いて見えなくなっているのが現状であります

それで良いのでしょう。


戦国時代には南朝方北朝方入り乱れ損得計算づくの上、更に、親戚姻戚複雑に人間関係が絡んでいたのが
家康の勝利で江戸幕藩体制で収まった
ということで「恩讐の彼方に」でしょうね。

これで良いのですよ



日本人にとって江戸幕府時代とは素晴らしい時代だったんだなと思います。
   ただし  一部の日本人  限定ですが。
   8割の日本人だけでなく武士階級でも江戸時代は大変だったと思いますが。




鎌倉は友人が好きな場所なので連れて行ってもらったりしています。過去形ですが

     北条政権が崩壊して高時の息子は信濃に逃れて  諏訪氏に保護されて   当然  諏訪大社が保護ですね。

     北条氏が南朝方になったというのが実に日本史だなと。

          足利尊氏の息子も南朝方に引っ繰り返っているし楠正成の子も北朝方に寝返ってるし。


この日本のグチャグチャを収めた家康とはスゴイとしか表現できないです。
これが出来なかったら  日本も現在の中東情勢のような事態  をやってるところだったんでしょうね。


戦国時代とは必要だったんですね。

わたしは  最後の血の一滴・最後の涙の一滴まで流し合わないと  平和は齎すことは出来ない  と思っています。


うちは村人を数万人虐殺されて膝を屈した。
知り合いの国ではうちの4−5倍の人間が虐殺されたそうです。


ホント家康という人はスゴイ。
250有余年間、日本に平和をもたらしたのですからね。


我々が生きている今現在、太平洋戦争終結から、まだ、たったの74年。
74年の平和 vs 250+年の平和 
家康という人はホントにスゴイ。


     近々日本が民族大移動で日本人があっという間に絶滅の危機を迎えるんですから
             あと100年ももたないだろうと思うと
             世界中の先進国豊かな国が移民難民問題で困っているというのに
                  シンガポールは妊娠検査をやって妊娠が分かったら国外退去処分だそうです
                  この国の人に教えてもらいました、日本が茹で蛙と呼ばれているのを、1995年あたりだったかな?


     日本という国の来し方行く末を思うと涙が溢れます。


徳川幕府って  スゴイ!  のヒトコトです。
本気で日本を守ったんだなと。
自分達の政権を守るというのが=日本と日本民族を守ったんだなと。


        グローバル化というか民族大移動というか  それが迫っている現在
              書きたいことがあってもココには書けないやね


わたしは、ただただ、自分の家を守るのに天皇を利用してエンエンと戦って来た自分の先祖に感謝するのみです。
なのに、わたしは自分の家も天皇さまも守らないんだなと。
願わくば皇室が廃止になるのだけは見たくない。


1992年の4月29日から始まったロス暴動でロスの町が燃える煙に  
奇しくも 慶応四年(1868年)1月6日に慶喜が朝敵になるのを避けて大坂を脱出した時の先祖の心境を  
味わいました。 


50年後あたりの日本が天皇制廃止を宣言するのを見たくない  年齢的には見なくて済むんだけど  
この心境が日本の歴史が1つ終わる姿に重なります。


昭和22年(1947年)5月3日の華族制度廃止のように粛々と行われるのだろうなと思っています。


今や遠江にさえ南北朝期の面影を見出すことが難しくなっているのは
皆さん、もう、語らないからね。
語らなくなって400年?


天皇制と皇室が迎える終焉の終わりの始まりはちゃんと見えてる。

     皇籍は国籍とは違う。
     1つ例えば我ら臣民には名字がある。
     だけど皇族には2679年間名字が無い。

          パスポートも違うしね。


わたしが立場上知り得たことは先祖のお蔭と思っている。
立場上名誉に思ったことは先祖が名誉に思ったことに通じる。


だけど、もう、間もなくこの世から消えていく。
残るのは土地だけ。

100年もしたら遠江国という名称は古文書の中にしか存在しない。
そしてその時代の人々は  とおとうみのくに  と読むことも出来ない。
読もうとする努力もしない。


だって我々だって  Beowulf  なんて知ってても読まないし  読もうと努力さえしないでしょ?


>南北朝時代の日々の面影は、井伊氏関係を除いて見えなくなっているのが現状であります

泣けた
2時間は泣けた  
   
[47]三つ柏服部さんからのコメント(2019年05月19日 23時11分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 笠井肥後守満秀は、小山田高重の十二世孫という情報はどこから来たので
しょぅ?
 武田二十四将の中に「小山田左兵衛尉信茂」という武将がいますが、小山
田氏は坂東八平氏の一つ「秩父氏」より出ております。そして、小山田氏は
武田家とは密接な縁戚関係もあり、同族に近い存在であります。

 同じように、葛西・笠井氏も秩父氏より出ており、小山田氏とは同じルー
ツでつながっております。その辺の情報が入り混じった形で、小山田氏説が
出てきたのでしょぅか?

 葛西肥後守満秀が小山田氏の後裔であるのか、はたまたその名乗った姓(笠
井、河西)より葛西氏の後裔なのか、はたまた、甲斐の南部の諏訪明神神官の
若林氏の所蔵する南部師系図にあるように、南部光行―実光―義光―義重―
為重―時重―則時―元時―元秀―定秀―宗秀―満秀と続く南部氏であったの
か……どうも筋として特定できない謎につつまれております。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2019年05月20日 06時01分07秒 ) パスワード

瞬殺された!
書き直し


三つ柏さん

>笠井肥後守満秀は、小山田高<重>の十二世孫という情報はどこから来たのでしょぅ?


                      ん?高重?高家じゃないですか?



高家12世の孫については

改正三河後風土記: 上巻     巻15 の 613ページ にあります。

https://books.google.com/books?id=7Xr5K1UH2q0C&pg=PP709&lpg=PP709&dq=%E7%AC%A0%E4%BA%95%E8%82%A5%E5%BE%8C%E5%AE%88%E6%BA%80%E7%A7%80++%E3%81%AF&source=bl&ots=6o5lRY8-_D&sig=ACfU3U1lPcb0TvPqAxbivseKxM2Pc7QKNg&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwie1MzgtKjiAhWCqFQKHdH5Dog4ChDoATACegQICRAB#v=onepage&q=%E7%AC%A0%E4%BA%95%E8%82%A5%E5%BE%8C%E5%AE%88%E6%BA%80%E7%A7%80%20%20%E3%81%AF&f=false


笠井(川西肥後守満秀)肥後守高利   は  小山田太郎高家12世の孫  と書かれています。


わたくしのレス<41>にも  高家  と書いています。

                      高<重>も使ってたかも知れないですね。
                      秩父氏から出た坂東平氏一族の通字で「重」もありますから。
                      特に有名なところでは  鎌倉一の武士・畠山重忠が代表ですね。わたしの大好きな人でもあります


                          小山田さんは畠山一族潰しで一緒に没落してますしね


また  三河後風土記の中に

小山田弥助が  信玄から勝頼に渡された秘蔵の諏訪法性上下大明神と書かれた前立付き兜を拾って  落ち延び中の勝頼に捧げ渡した

と書かれているので
笠井高利と小山田弥助の関係がかなり分かりますよね。ハッキリ分かると良いですね。


>武田家秘蔵の諏訪法性上下大明神の兜

ここに  南朝方の諏訪大明神と笠井氏の南朝方そして信玄と勝頼の絆  は見られないですか?



武田方の悲運の退却中のドサクサに起きた事案から  笠井高利と小山田弥助の密なる関係  が浮かび上がりませんか?


通字からしても「高」という共通字から関係が浮かび上がりませんか?


     日本語は言葉に魂が宿っているとされます
     家の生まれを示す「通字」の重さ

         これらから見えて来る日本の【家】のありかた



こういう小さな情報から  背景  は浮かび上がりませんか?



三河後風土記を記した人物も  南朝方だった  のでは?というのが行間から読めませんか?



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