[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月24日 06時32分10秒 ) | パスワード |
以下コピペ:
平将門といえば、東京・大手町の超高層ビル群の合間にある首塚≠フ存在がよく知られているが、平安時代、中央政界きっての有力者と主従関係を結んでいた彼は、まぎれもなく屈指のエリートだった。にもかかわらず、のちに一族間で血で血を洗う「争族」を繰り広げ、無位無官のまま生涯を終えたのはなぜなのか。『平将門と天慶の乱』(講談社現代新書)の著者・乃至政彦氏による論考。
乃至 政彦氏
1974年生まれ。歴史家。神奈川県在住。単著に『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『戦国武将と男色』(洋泉社歴史新書y)、『上杉謙信の夢と野望』『戦う大名行列』(いずれもベストセラーズ)、共著に『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった(河出書房新社)、『関東戦国史と御館の乱』(洋泉社歴史新書y)がある。書籍監修や講演でも活動中
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月24日 06時33分51秒 ) | パスワード |
平将門と承平の乱
このたび上梓した新刊は『平将門と天慶の乱』(4月10日ごろ発売)というタイトルだが、本稿ではその「天慶の乱」より前の「承平の乱」前夜を見てもらいたい。
平将門が関わった争乱は、私闘である前期≠フ「承平の乱」と、朝廷への謀反である後期≠フ「天慶の乱」に大別される。
承平の乱は、通説では将門の私闘と見られているが、よく見返してみると、単なる利害や怨恨の問題から起こった争乱ではない。
これは、ローカルルールですべてを押し切ろうとする地方豪族たちの無法ぶりに業を煮やした将門が、敢然と立ち向かった結果として生じた戦いなのである。
ここでは将門がなぜ戦いの道を選んだのかを見ていこう。
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月24日 06時34分09秒 ) | パスワード |
エリート武官だった平将門
少年期の平将門は京都にあって、摂家の藤原忠平に名簿を提出し、密接な主従契約を結んでいた。忠平は藤原氏の長者である。当時は公卿(三位以上の貴族)のほぼ70%を藤原氏が独占しており、その長者である忠平は政界きっての有力者だった。若き日の将門は、願ってもない出世街道を歩んでいたのである。
この時期の将門をより掘り下げてみよう。中世の文献では「将門は検非違使の職を望んだ」と伝えられているが、事実ではない。
なぜなら、この時代の検非違使は、中世と比べて大きな権限がなく、ときには清掃役まで担わされる一役人に過ぎなかったからである。将門は桓武平氏として臣籍降下した高望王の孫であった。そんな高貴な身分なのに、あえて日の当たりにくい仕事を志望することは考えにくい。
では、将門はなんの職に就いていたのか。
これは、このときの藤原忠平が蔵人所別当だったことに加え、系図類に将門の異名が「滝口小次郎」と伝わっていることから、朝廷直属の「滝口武士」だったと推定できる。
滝口武士とは天皇の親衛隊である。もちろんこの役を務めるには、それなりの出自を備えていなければならない。
将門の父・良持(良将とも)は従四位下という高位にあり、その「蔭子」である将門もまた20歳を超えると自動的に官位を受ける身にあった。
このように少年期の将門は、京都で屈指のエリートコースを歩んでいたのだ。しかしそれがなぜか出世街道を外れて、無位無官のまま、坂東へ帰国することとなってしまう。
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月24日 06時35分28秒 ) | パスワード |
無位無官のまま帰郷する将門
将門が在京していたころ、従兄弟の平貞盛もまた京都にあった。
承平の乱が勃発したとき、貞盛が努めて将門の事情を理解しようとする描写が『将門記』にあり、ここから在京時のふたりが親しく交わっていたことを推察できる。
若き日の貞盛がだれに仕えていたかは不明だが、彼は「左馬允」に任じられていた。貞盛の弟・繁盛が忠平の次男・九条師輔に仕えていたことも後年の一次史料に残されている。すると、貞盛もまた将門同様、滝口武士として精勤していたのではないだろうか。
しかし貞盛が順調に出世していたのに対し、将門はいつのまにか京都を離れ、坂東の下総国へと帰郷していた。将門は「蔭子」であるから、忠平のもとで普通に過ごしていれば、20歳を超えれば、従七位下に叙位される予定であったのに、なんの官位も受けていない。なにか深刻な事情があって京都を離れざるを得なかったのだろう。
では、将門が出世街道を捨てて帰国することになった理由とはなんであろうか。
「田畠」と「女論」
史料を見渡すと、その理由を探る手がかりが残されている。
帰郷の理由は、領土問題にあったようだ。将門の父が亡くなった年は不明だが、承平某年、将門はおじの平国香と平良兼を相手取り、「田畠」と「女論」が原因で争ったと記されているからである(『今昔物語集』『将門略記』)。
前者の「田畠」は亡父の遺領、後者の「女論」は縁談の問題であるというのが近年の通説で、わたしもその通りだと思っている。
ただし、研究者たちはその具体的詳細を不明としている。小説やドラマは国香と良兼が亡き良持の田畠を横領したように描くことが多い。勧善懲悪ものの物語としては、その方がわかりやすいから、こうした設定が好まれる。
しかし、国香たちは坂東屈指の豪族である。良兼にいたっては鎮守府将軍を務めたこともある。それがたかが田畠の問題で、人望を損なうような振る舞いをするだろうか。
そもそもこの時代の坂東は、まだ未開拓の地がたくさんあるフロンティアである。人手を集めて切り開けば、田畠ぐらいならいくらでも手に入っただろう。それなのに、大きな貫禄を期待される彼らが20歳前の甥を相手にそんな大人気ないことをするとは思えない。
では、国香と良兼は、なぜ将門と対立したのだろうか。
この謎を解く鍵は、昭和の発掘調査で明らかにされている。詳細は『平将門と天慶の乱』に記したので、ここでは簡単に述べるが、良持の「田畠」には馬産地や牧場、製鉄所などの重要な軍事施設が立ち並んでいたのである。
将門が出世コースを捨てた理由
将門が国香や良兼と対立した理由は次のようなものだろう。
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月24日 06時36分26秒 ) | パスワード |
将門は父の死により、帰国を決断した。亡父の遺領が普通の「田畠」だけなら、おじや弟たちに経営を委ねてもよかっただろう。しかし、そこには屈指の軍事施設がひしめき合っていた。これを人任せにはできない。将門は出世の道を諦めてでも帰郷しなければならなくなった。
国香と良兼にすれば、在京生活が長く、坂東の作法をよく学んでいない若い甥に、良持の遺領を委ねるのは心配でならなかった。ムスカにラピュタを与えるより危険だと思ったのだ。
こうした相続問題は、中世武士ならまず間違いなく二派にわかれての御家騒動が起こる案件だった。こうして将門はおじたちと対立し、やがて孤立していくこととなる。ここに、将門vs.国香&良兼の対立が顕在化していったのである。
実父より夫を選んだ将門の妻
しかも、これに「女論」の問題まで合わさった。
女論というのは、縁談の問題である。将門は良兼の娘と結婚している。『将門記』によると、将門の妻は彼の邸宅に住んでいた。
豪族の妻が夫の邸宅に住むのは、実はとても珍しい話であった。なぜなら当時は婿取り婚≠ェ普通で、妻は夫の邸宅ではなく、実家の邸宅に住むのが当たり前だったからである。
女論の中身をより具体的に見るならば、将門が良兼の合意を得ずに、彼女を自分の邸宅に連れ帰ったのだと考えられる。
こうして、良兼と将門は「合戦」したという。この女論に際して、両者は手荒な武力闘争を辞さなかったのだ。その後、良兼の娘は実父・良兼よりも、将門への「懐恋」の想いが強かったことが、『将門記』に記されている。おそらく良兼は将門を懐柔するため、娘との縁談を持ちかけたのだろう。
だが、将門はこれを逆手にとり、彼女を自邸へ引き連れたのだ。将門の妻もまた自ら望んで父より夫を選んだのだろう。
野本合戦と承平の乱勃発
こうして将門は「田畠」と「女論」の問題で、おじたち相手に、我を貫いた。この一件は周囲にも知れわたったが、あえて関わろうとする者は現れなかった。おじたちもこれ以上の関与を控えようとした。
だが、さまざまな嫌がらせが繰り返されたようである。将門のストレスは次第に高まっていった。
それは坂東嵯峨源氏一族の挑発で、頂点に達することとなる。
国香や良兼と親しい彼らは、明らかに反将門派の立場にあった。それが将門と対峙するとき、事もあろうに国司方の一族である特権を濫用して、官軍の旗や鐘を装備してきたのだ。官軍兵器の私用は違法である。これを黙って受け入れては、将門自身が群盗として蔑まされる。だが、ここで応戦すれば、おじたちとの全面戦争が待っている。
このため、将門は一瞬ばかり進退に迷った。しかし、ひとたび決断すると、その動きは迅速だった。
将門はかつての「滝口武士」である。朝廷の法に背く非法を許すわけにはいかない。風を背にするなり、敵の兵たちを次々と射殺しはじめた。将門は弓矢の名人で、配下の武装も坂東随一だった。あっという間に勝負はついた。これが野本合戦ならびに承平の乱の幕開けである。
この先の詳細は『平将門と天慶の乱』で述べさせていただくとして、ここでは、ひとまず将門の選択にもしかるべき理由があったことを伝えておきたい。
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