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 投稿番号:101660 投稿日:2019年03月28日 08時24分43秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏紋の服部さんの代理
長上郡の服部氏族CXX:120:現場100回
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族C]\:119:三つ柏紋の謎解明成功
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101655_83.html
の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。



徳川軍「三方原役(参謀本部命名)」参陣武将一覧表


T.
@酒井左衛門尉忠次(参河渥美郡吉田―今の豊橋―ノ城主 四十八歳)
A佐久間右衛門尉信盛(織田家臣)
B平手甚左衛門正長(死亡 織田家臣)
C滝川左近将監一益(織田家臣)
D石川伯耆守数正(参河額田郡土呂ノ城主)
E小笠原興八郎長忠(遠江城東郡高天神ノ城主)
F松平甚太郎家忠(参河幡豆郡東絛ノ城主)
G本多平八郎忠勝(二十五歳)
H鳥居四郎左衛門信元(死亡 額田郡六名ノ城主)
I渡邊半蔵守綱(負傷 参河碧海郡浦邊に住す 三十一歳)
J柴田七九郎康忠
K大久保治右衛門忠佐(三十六歳)
L青木四郎兵衛廣次(死亡)
M中根平左衛門正照(死亡)


N本多肥後守忠眞(死亡 額田郡欠ノ城主 忠勝ノ叔父)
O松平弥右衛門康純(死亡)
P米津小大夫正信(死亡 碧海郡米津ノ城主 勝政ノ子 四十二歳)
Q夏目次郎左衛門正吉(死亡 幡豆郡野場ノ城主 五十五歳) 
R渡邊半十郎正綱(守綱ノ弟 二十九歳)
S鳥居彦右衛門元忠(負傷 碧海郡泉ニ住ス 三十四歳)
21大久保七郎右衛門忠世(額田郡羽根ノ城主 四十二歳 忠佐ノ兄)
22戸田三郎右衛門忠次
23三宅總右衛門康貞(参河西加茂郡梅ケ坪ノ城主 三十三歳 正貞ノ子)
24本多作左衛門重次(額田郡大平ノ城主 四十三歳)
25高力興左衛門清長(負傷 額田郡高力ノ城主 四十四歳)
26天野三郎兵衛康景(額田郡坂崎ノ城主 三十六歳)


U
@ 石川日向守家成(遠江佐野郡掛川ノ城主 三十九歳)
A 久野弾正宗能(遠江周智郡久野ノ城主)
B 内藤弥七郎信成(碧海郡上野下村ノ城主 家長の庶兄 二十八歳)
C 鈴木石見守重好(参河八名郡吉田ノ城主)
D 松平備後守清善(参河宝飯郡竹谷ノ城主 六十六歳)
E 松平興一郎忠正(碧海郡桜井ノ城主 二十七歳)
F 設楽甚三郎貞通(南設楽郡門前ノ城主)
G 青木所右衛門一重(十九歳)
H 本多太郎左衛門利久
I 松平善兵衛康安(負傷 正親の子 十八歳)


V
1. 岩堀勘解由左衛門(死亡 高力清長の女婿)
2. 岩堀勘次郎   (死亡 勘解由左衛門の子)
3. 岩室勘右衛門  (死亡 浪士 元は織田信長の近臣)
4. 伊藤金八    (死亡)
5. 伊藤七郎兵衛  (死亡)
6. 伊藤忠兵衛   (榊原康政の士)
7. 伊奈源左衛門
8. 市川用三    (死亡)
9. 犬飼九郎次郎  (死亡)
10. 犬飼甚蔵    (死亡)
11. 井上新五郎   (死亡)
12. 池野十蔵    (死亡)
13. 石原弥三郎   (死亡)
14. 石原十度右衛門 (死亡 酒井忠次の士)
15. 石川半三郎正俊 (死亡)
16. 石川小大夫   (死亡)
17. 長谷川紀伊守正長(死亡 32歳)
18. 長谷川藤九郎栄一(死亡 正長の弟 19歳)
19. 長谷川右近   (死亡)
20. 長谷川十郎次郎 (死亡)
21. 長谷川橋助   (死亡 元は織田信長の近臣)
22. 服部半蔵正成
23. 服部源兵衛保正 (死亡)


徳川軍の武将の列挙数はレス69・74・76・79までで73人ですが、
その内の28人が死亡しております。
死亡率は38%でありますので、今の所高いような気配です。

『日本戦記 三方原役』では、徳川軍の死者数は300人、
あるいは、
1180人、の2つの説がある。


73人の中には懐かしい名字があったり全く知らない名字があったり。


ヒトは死して名を残すと聞きますが、
全く知らない名の人々がここに名を刻まれて
草葉の蔭で喜んでくれていますように。


前スレッドでは
ヨソのお家のことを調べていて自分チのことを知るということになり
不思議でした。

わたくし自身の宿命の名字も分かってしまいました。
三つ柏さんが何度も平熱でお書きになってた名字でした。
父方母方で繋がりのある家で
且つ
確実に源平時代からのご縁でした。

そしてワタシは逆ナン女だった・・・赤面っ
自分の本性の1つまで分かっちゃったなんて。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月28日 12時56分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様
ぷくぷくぽん様

 あを様、新しいスレッド、ありがとうございます。

 柏木英夫氏の『駿遠卍戦記』によれば――

 「徳川の将士は二百人以上が討死し、雑兵を含めれば千三百人が戦死し
 たという」

となっておりました。あを様の見解のとおりでありました。

 兵の数については、各書まちまちでありますが、小和田哲男氏の説とし
て、徳川軍「七千」(織田軍三千を含む)、武田軍「二万五千」と述べられ
ておりますので、そのように捉えたいと思います(『戦国合戦大事典V』)。

 武田軍の二万五千というのは、膨大な数で、甲斐より山を越え、川を越
えてはるばる遠江まで来るためには、先ずは食糧ひとつとっても大変な量
であります。莫大な費用は甲州金で賄われたのでありましょう。武田の強
さは正に金の量=兵の調達能力に比例していたのでしょぅ。

 此の時の徳川軍の兵力は、小和田氏によれば最大調達能力は八千、高天
神城や各所に分散せしめていたため、三方ケ原には四千位だったと述べら
れております(『戦国合戦大事典V』)。

 徳川軍のは「鶴翼の陣形」、つまりは攻撃のための横隊形。一方、武田
軍は「魚鱗の陣形」、これは退却のための縦隊形であると参謀本部編『三
方原役』の中で述べられております。

 これは、実際のところどういうことかといいますと、元亀三年十二月二
十二日の夕方の四時頃(日没寸前)、武田軍は金指方面へ向けて「魚鱗の陣」
で撤退し始めた。それは信玄が徳川軍を「窮鼠」とみて慎重になったとい
うのではなく、どうやらそれが信玄の「誘い水」の作戦であったようであ
ります。

 戦いの経過は長くなるので止めておきますが、最終に近い「犀ケ崖の戦
い」については『服部半蔵武功記』にも書かれているということです――
 
[2]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月29日 06時39分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 戦国時代の動画のご紹介、ありがとうございます。映像で見る歴史は、妙
に説得力がりますね。本とか想像の世界にはない、具体的かつ総合的な感性
と知性の合体があります。時間が長いので、ゆっくりと見させていただきま
す。

 さて、改元ということで、天皇陛下もいろいろ忙しそうです。いわゆる退
任のあいさつ回り的な行脚……京都に行かれまして、「神武天皇陵」にご挨
拶というニュースが報じられ、本当に存在したのかどうか疑問の神武天皇と
認識しておりましたので、驚きをもってテレビを見ておりました。実在した
というのは事実だけれど、その存在は脚色された虚像であったということで
ありましょぅか、でも国の表の歴史でもあり、今それを打ち消すわけにはい
かないというお立場でありましょぅ。

 四月には伊勢にも行かれるようであります。
 わたくし的には、この三月に一足先に伊勢・志摩に行かせていただいて、
まずは、伊勢神宮のおおもとの「倭姫」の遺蹟を訪ね、祈りを捧げてまい
りました。
 「倭姫(やまとひめ)」……実に良い響きではありませんか……。

 天皇陛下が替わるということは、ある意味歴史が変わるということであり
ますので、その象徴たる天皇陛下のお気持ちは大変重いものがあると推察さ
れます。日本の歴史全体にかかわる要素をもった改元であります――
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月29日 13時43分15秒 ) パスワード

三つ柏さん

>徳川軍のは「鶴翼の陣形」
>武田軍は「魚鱗の陣形」


川中島の戦いで  鶴翼 < 魚鱗  と刷り込まれている(記憶な)ので
なるほど
家康が負けたわけだ
と思いました。


>倭姫(やまとひめ)

日本武尊関連の?
ということで検索しました。



倭姫命 やまとひめのみこと

記・紀にみえる垂仁(すいにん)天皇の皇女。
母は日葉酢媛(ひばすひめの)命。


「日本書紀」によれば,天照大神(あまてらすおおみかみ)を伊勢(いせ)(三重県)にまつり,伊勢神宮の初代斎宮(さいぐう)となる。

東征にむかう甥(おい)の日本武尊(やまとたけるのみこと)に草薙剣(くさなぎのつるぎ)をあたえたという。

                       え?甥?


「古事記」には倭比売命とあり,2代斎宮。
倭建命(日本武尊)の東征にあたり,火打ち石のはいった袋もあたえたという。




『古事記』『日本書紀』にみえる人物。

日葉酢媛が生んだ,垂仁天皇の皇女。
甥の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が西征に出立する際に,伊勢神宮にいる彼女が自分の衣装をこれに与えたので,ヤマトタケルはそれで女装して敵を殺害することができ,また東征の際にも彼女が草薙剣と火打ち石の入った袋とを与えたので,ヤマトタケルはそれを用いて難を切り抜けることができたと『古事記』は伝える。

この倭姫の名とヤマトタケルの名とがペアになっていることから,以上の話は,神の力を背景に勇者が国を平定したことを語るものだと考えられる。


なお『日本書紀』には,倭姫は天照大神の託宣のとおり伊勢に祠と斎宮を建てたという,伊勢神宮の起源を語る伝承がみえ,倭姫と同神宮との間に密接な関係があることを示している。

<参考文献>肥後和男『日本神話研究』,吉井巌『ヤマトタケル』


___________________________


すっかり忘れていました。
彼女と彼は  おば←→甥  関係だったんですねぇ。
勝手に  恋人関係  と思ってました。



今上天皇は皇后さまとホントによく公務をなさいました。
次期天皇ご夫妻はどういう形なのかなと思います。

アメリカは永く白人の移民世界だったのが1965年以降移民を世界的に広げて
わずか50年で今や白人は半数あたりになっているそうです。
わずか50年で、ですよ。
      白人がマイノリティに転落するのは時間の問題だとか。

日本の門戸開放移民政策はどういう形になるのかはまだ決まっていないのでしょうけど
天皇制も時間の問題なのかなと思います。

その時にはワタシはこの世にはいないでしょうから泣いたりしなくていいな。
日本人が守って来たプライドの終わりも見なくて済むな。


127代あたりで終了でしょうか?
その終わりの始まりが今のゴタゴタなのかも。

今上陛下ご夫妻はご自分達の御世はちゃんと責任を持って幕引きなさっているのだなと思います。
[4]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月29日 14時05分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 天皇陛下のご訪問の行程につき、テレビの断片的情報で書いてしまいま
したので、訂正と補足説明を以下のようにさせていただきます。

 「三月二十六日、奈良県橿原市を訪れた天皇皇后両陛下は、神武天皇陵
 に向かわれ、天皇陛下のご譲位に関する儀式の一つである「神武天皇山
 陵に親謁の儀」に臨まれました。
  儀式の後、両陛下は京都市に移動され、夕方、大宮御所に到着されま
 した。」
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月30日 02時36分58秒 ) パスワード

三つ柏さん

>天皇陛下のご譲位に関する儀式の一つである「神武天皇山陵に親謁の儀」に臨まれました。

神武天皇に、退位のご報告をなさった、ということですね。


でも天皇が「譲位」なさるというのは珍しいことで
       特に、神武天皇に譲位退位の御報告って、こんなの、ありましたっけ?
       新しく天皇になった、ということでの即位のご挨拶は1989年にありましたが
       退位譲位のご報告って日本史の記録で読んだことがないような?


       天皇が、引きずり降ろされた、というのは日本史上、何度もありましたが
       だからと言って
       引きずり降ろされた天皇が、神武天皇にご挨拶に行った、というのは読んだ記憶が無いように思います。


つまり今回の「神武天皇山陵に親謁の儀」は今上天皇のお気持ちなのでしょうね?
こういうところにも今上天皇ご夫妻の律義さが出てるなと思いました。

今上天皇が次の天皇の御世の弥栄を願っている、神武天皇にお願いしている、という叡慮に
今上天皇ご夫妻のご性質が良く出ているなと感動します。

       


三方が原の戦いですが
徳川軍は4000人を動員し織田が3000人の援軍を送ったというのは最近読みました。

で、死者が殆ど徳川方で(佐久間氏や平手氏は織田家の重臣の家。滝川一益は我が家の敵なので ドーでもいいけど)
4000人のうちの1000人ほどが死んだ?と思うと
家康領の男子が大勢亡くなった(いなくなった)=働き手が失われた=ということに
困窮ぶりが見てとれて
留守を預かった者達の嘆きが聞こえるようでツライものがあります。


とはいえ
日本は自分達で解決して来たから
現代社会の世界情勢に於いて
他国からの援助を期待したり他国の争いに介入したりというのは
何の解決にもならない

            と、思います。

やっぱりワタシは真っ先に討ち死に組だな。
[6]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月30日 06時15分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今生天皇、皇后陛下のお気持ちをよくぞくみ取っていただき、さすがあを様
と感服・感激いたしております。橿原という所、まだ探訪したことがありませ
んが、一度訪れていろいろ見てみたい、さらには応神天皇陵や仁徳天皇陵も見
てみたいと思っております。

 天皇の歴史は日本の歴史でもありますので、本当のところ、一個人としては
その真実を知りたいのですが、今のところブェールの向こうの世界となってい
ます。いつかは真実を知る時が来るかもしれませんが、それは世界情勢が平和
というキーワードで一つになる時かも知れません。

 その時まで私も生きていませんので、せいぜい謎解きを"楽しみ"たいと思い
ます。

 三方ヶ原の戦いに参戦した将士については、あを様のよくご存じの方もいる
と思いますので、この際できるだけ載せておきたいと考えます。
 
 次回に――
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月30日 07時34分01秒 ) パスワード

三つ柏さん

よろしく、です。


[8]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月31日 12時09分15秒 ) パスワード

全く関係無いけど面白かったのでアップ:
https://www.youtube.com/watch?v=QqVeT1ts3Ng
名古屋県という発言は禁句・他 愛知あるある

                       いえいえ、愛知だと三河も入るので
                       余計に違和感アリ。




どこかのサイトで平野紫耀が言ってた「でら」というのは聞いたことが無くて知らなかった。
この子は守山の子だからワタシは知らない。
ワタシは「どえりゃあ」というのは知ってたけど。

           名古屋弁は「カミ」と「その他=田舎=どん百姓」に分けられるのかも。
           わたしはどん百姓系=タモリの名古屋弁。
[9]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月31日 12時35分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、横浜の中華街へ行ってきました。中華料理を食しましたが、この
歳になると、本質的にさっぱりした自然食系の日本食の方が体に合うような
感じを抱きました。量的に満足するなら中華料理、質的に満足するなら日本
料理という感じです。「食」もまた重要な歴史的要素であると思います。時
代、宗教とも関係してきますので、一度探求してみたいと思います。


 さて、参謀本部編『日本戦史 三方原役』の付録の「両軍将士姓名表」の
続きですが、この表に載せられた徳川軍391人の将士の内、今まで59人
の名前を載せました。あと332人の名前がある訳でありますが、これらを
載せるのは大変であります……! 
 まずは姓の同じ人達(同族か?)の集団で、数の多い順に記載していきたい
と考えます。あとは、私の気分次第……最後の一人まで載せるかどうか……
でもその一人が重要な意味を持つかもしれませんので、何とか載せるよう努
めてみたいと思います。

 <11人>松平氏
   @松平三郎太郎康元(久松俊勝の子 13歳 家康の同母弟)
   A松平左近将監忠次(幡豆郡津平の城主 52歳 後の康親)
B松平源次郎眞乗(額田郡細川の城主 20歳)
   C松平主水為親(眞乗の弟)
   D松平又七郎家忠(宝飯郡形ノ原の城主)
   E松平信介(又七郎家忠の士)
   F松平弥九郎景忠(宝飯郡五井の城主)
   G松平八郎三郎康定(幡豆郡浅井の城主)
   H松平半兵衛(死亡)
I松平伝六郎(死亡)
   J松平権兵衛(石川数正に属す)

 <10人>鈴木氏
   @鈴木角平(死亡)
   A鈴木出来助(死亡)
   B鈴木伝六(死亡)
   C鈴木伝九郎(死亡)
D鈴木又六郎(死亡 伝九郎の弟)
E鈴木八十郎(死亡)
   F鈴木八平(松平眞乗の士)
G鈴木伝八(死亡 鳥居元忠に属す)
   H鈴木又八(死亡 伝八の弟 三宅康貞に属す)
   I鈴木久三郎

 <9人>加藤氏
   @加藤九郎次郎景元(死亡)
   A加藤源四郎(死亡 景元の弟 26歳)
   B加藤日弥之丞長次(死亡)
   C加藤八兵衛(死亡)
D加藤三右衛門
E加藤三平(死亡)
   F加藤九七郎(死亡)
G加藤喜助
   H加藤善蔵
  
 <8人>小笠原氏
   @小笠原丹波守安次(死亡 幡豆郡寺部欠の城主)
   A小笠原新九郎安廣(死亡 安次の子 19歳)
   B小笠原三郎兵衛(死亡)
   C小笠原七郎右衛門(死亡)
D小笠原金平
E小笠原信倫入道宗玄(死亡)
   F小笠原次右衛門定信(大須賀康高の士 宗玄の子)
G小笠原小五郎安勝(負傷 本多忠勝に属す 18歳)
 
今回はここまで――
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月31日 14時53分05秒 ) パスワード

三つ柏さん

一族ですと名前が似てるからこんがらがって書き込むのが大変ですね。
感謝です。


今日、プロバイダーにムリを言って、モデム?とルーター?を替えて貰いました。
これまでのは接続がなかなか難しくて、今日からのは新しいのですから、落ちないで欲しいです。

        1月からずっと接続が悪くてお蔭で詐欺電話や投資の勧誘の電話が無くなりましたが。
        朝8時から夜8時までひっきりなしにかかって来てました。
        特に奨学金の滞納整理をしろと詐欺の借金回収業者から。
        世代が違うのに。


中華は好きですが
中華でも世界的に好まれる食べ易いものが好きです。オレンジチキンとかビーフブロッコリとか。

        鶏の足とか蛙とか豚足はイヤです。


うちの近くに菅田将暉とか太賀が紹介の今時の若者に人気のレストランがありますが
1回どんなものか食べてみるのは、ま、いいのですが
2回目は、無し、です。

昭和の日本人がフツーに卓袱台で食べてたような何の変哲もない和食で充分。
半島の人はカライのを食べるから胃癌や大腸癌(+膀胱癌)になると言ってるのに
   せいぜいツンと瞬間に来る山葵あたりの
日本人が食材が見えないほど真っ赤にして食べているのを見ると平成だねと昭和のワタシは呆れます。

そろそろ元号が変りますね。
日本人がどう変わっていくのか、昭和は遠くなりにけり、です。
次の世代の日本人は何を食べてどんな病気に罹るのか、結構、面白いです。

    「食べたい物を食べまくった幸せの末」ということなんだろうな、と。
     戦国時代の人は刀キズ槍キズ投石キズ鉄砲キズ落馬キズで死ぬ人が多かったんですからね。 
     これも、オトコの望んだ生き方の末、ということで特に殿の馬前で死ねたら本望だったんだろうな、と。

        新しくアップされたお名前を見ながら
        意地とかプライドとか土地とか家とか名前とかのために、ちゃんと死ねましたか?と語りかけてしまいました。

        上記の地名に知ってる三河の友人の家の名があったりしましたから。   

        名前と地名を拝見してたら、当時の人が生き生きと動き出したように思いました。


三つ柏さんは良いご供養をなさっていらっしゃいます。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月31日 15時25分17秒 ) パスワード

欠町とか
あった!あった!なんて
懐かしく思い出しました。


形原は遠いけど、豊橋はものすごく遠くて
三河って西も東もよく知らないのでウロウロしてたら
名鉄のサイトに行ってました。

      オットが鉄っちゃんなので結構楽しみました:

https://www.youtube.com/watch?v=m1NOKkD0y9w
【名鉄一の迷急行】急行吉良吉田行き774レ

https://www.youtube.com/watch?v=_3Fv_p-6RPQ
名鉄のかわいそうな駅 - Episode 1. スルーされ続けて70年   山王駅  球場があった駅

https://www.youtube.com/watch?v=eRJRdPSX_ZY
名鉄のカオス

名古屋駅って日本一とんでもない駅だったのですねぇ。

藤井聡太師匠のお住まいの瀬戸市って名古屋の郊外とは思ってましたが
その先は美濃国の多治見だったの?!
とビックリ。

日本史を土地鑑無しで勝手に解釈してました。
現代の列車でその不便さを知って、昔の人はそんな距離を戦争に行ったのか、と。


やっぱり千里の道を実際に旅して自分の足で歩いてみないといけませんね。
次の10連休のお休みは、もう、予定が決まってますか?
日本民族大移動でしょうから、自宅に籠っているのが良いかもですね。
[12]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月31日 22時53分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 引き続き――

<七人>中根氏
  @中根藤蔵  (死亡 額田郡田口に住す)
A中根次大夫 (死亡)
B中根市左衛門正直(死亡)
C中根弥助    (死亡)
D中根喜蔵利重  (死亡)
E中根彦三郎 (死亡)
F中根善次郎

  服部半蔵正成の妻は中根氏の出、半蔵の妹は中根氏に嫁ぎ、やがて
半蔵の娘も中根氏に嫁ぐ。平忠正の子孫から、服部、中根氏も出ており
ますが、そちらの両氏と、半蔵家との血縁関係がどうなっているかは、
詳しくはわかりません――

 テレビドラマ「オクニョ」を見るため、今晩はここまで――
 
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月01日 03時52分58秒 ) パスワード

三つ柏さん


服部家と中根家はなかなか深いものがあります。
三河でも尾張でも。


そして明治時代でも。

その上に漱石との関係でも。

そしてホンヤさんの話に絡んでいく。


               個人情報に関係して来るのでココでは書けない。
               まだ関係者が生きてますからね。
               「お前なんかにだけはバラされたくない  怒」
               というのがありますから。
               ムカシの悪行がぁ・・・・



中根さんのご先祖は坂東平氏でうちの先祖の貞盛の一族ですから
平忠正の子が、父や兄達を処刑されて、母に伴われて伊賀で保護された
その時の子の1人が中根を名乗った、ということでしょう。

               民法の300日規定(笑)

               中根正持は恐らく母が懐妊中だったかもですね。


幸田町の田口という場所は全く知らないのですが
確かに三河武士がウヨウヨ生息してた場所ですね
ご近所に坂崎とか彦左とか大草とか深溝とか
家康の側近中の側近が住んでた場所。


でも半蔵の家は家譜によれば南朝方に馳せ参じてはいないから
もっと後の時代に
松平家と関係が出来たのかもですね。

           どっちか言うと  今川が西尾から東征していく過程だったのかな?
           途中で西三河の幸田町に留まった家かな、と思います。


中根家の家紋は   茗荷とか雪輪に6つ薺(なずな)だそうで
茗荷は結構服部系にあったような?
雪輪に薺というのは  雪輪が源氏車を模しているのかなと想像してしまいます。


                      ここらへん個人情報に抵触するので書き難い。



三河人のプライドの高さって
なるほどな
って思いました。
[14]三つ柏服部さんからのコメント(2019年04月02日 16時24分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 引き続き――

<七人>水野氏
  @水野惣兵衛忠重(碧海郡鷲塚に住す 32歳 信元の弟)
A水野太郎作清久(28歳)
B水野弥吉康忠
  C水野藤七郎(死亡)
  D水野新五郎(死亡)
  E水野喜兵衛(死亡)
  F水野右京(死亡)

 水野「清久」は「正重」ともいい、その父親の清信は、水野信元や徳川
家康の母「於大」とは従兄弟にあたります。

 また、清久の息子「清次」の元へ、服部中保次の曾孫の「保継」(保俊の
次男)が一時養子に入り、後、嫡子「清定」が生まれたため戻っています。
 清定は二十歳で亡くなり、保俊の三男「清氏」が養子に入っています。
 また、清次には養女の娘があり、服部中保俊の後妻となっております。
 この養女は、花井吉成とお八(茶阿の子)の子とみられ、水野家に入って
花井家の因縁を取り払ったものと推測されます。

 正重(清久)については、寛政重修諸家譜』によると――

 「(徳川軍)三方原御陣に三度まで敵陣を打ち破りたまふといえども、敵、
猶多勢なるがゆえ味方敗走し、兵を浜松におさめらる。ときに正重殿し
て、しばしば取ってかえし、敵を近づけざりしかば、大いに御感あり。」
 
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月02日 18時40分37秒 ) パスワード

三つ柏さん

エンエンと2時間書いてたのを不注意で消してしまいました。


レス<14>でわたくしの先祖がらみのことも含めていろいろ分かりました。


>@水野惣兵衛忠重(碧海郡鷲塚に住す 32歳 信元の弟)

お大さまの弟ですね。
なかなか立派な紳士で、the漢オトコという感じの人物で、信長に愛された人ですね。

鷲塚は碧南です。

        なんと!
        若君さまの出城はここのスグ近くでした。
        国境の川は尾張と三河の境の、境川かな、と。
        こんな事まで分かってしまいました。


そしてこの近くに源姓の家があって

        保元物語や平治物語にも出て来る家で
        承久の変の時は後鳥羽天皇方で

学生時代にワタシをすごく可愛いがってくれてた2つ学年が上の女性の家でした。

        彼女の家の城跡は今でも一部が残っています。
        ムカシ、最盛期には、ものすごく広大な土地を有していました。

なるほどワタシを可愛がってくれてたはずです。
もしかすると過去生でワタシとは姉妹か母娘だったかも。

経緯からすると彼女の家も南朝方だったかも。
いやいや
承久の変で負けてるし=北条憎し
場所的に足利の家令だった一色家の領地の近くだし
今川の発祥の地に近いから  
北朝方だったかも。

その内に「浪合記」を読み返します。



>ときに正重殿して、

正重は家康のマタ従兄弟ということでしょうか。

危険なシンガリを勤めて、それで一族の者を大勢亡くし、そうやって家康を浜松城に逃げ込ませたのですね。

泣けます。

今日もいろいろ分かっちゃいました。
ありがとうございました。
[16]三つ柏服部さんからのコメント(2019年04月03日 11時02分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『日本戦史 三方原役』(参謀本部編)の「両軍将士姓名表」の続きです――

 <7人>渡邊氏
   @渡邊平六直綱 (守綱の族 29歳)
A渡邊十左衛門永(死亡)
   B渡邊新九郎  (死亡)
   C渡邊弥之助光 
   D渡邊金内   (石川数正に属す)
   E渡邊半兵衛眞綱(死亡 本多忠勝の士)
F渡邊半助   (死亡)

<7人>都築氏
   @都築惣左衛門秀綱(碧海郡坂左右の城主)
   A都築久大夫景忠 (負傷)
   B都築勘助
   C都築八郎兵衛  
   D都築藤一郎
   E都築彦四郎   (死亡)
   F都築清七郎   (死亡)

<7人>本多氏
   @本多豊後守廣孝(渥美郡田原の城主 45歳 康重の父)
   A本多彦次郎康重(19歳)
  B本多六左衛門 (死亡)
   C本多八蔵   
D本多長次   (死亡)
   E本多三弥正重 (負傷 碧海郡小川に住す 正信の弟 28歳 忠勝の士)
   F本多甚六   (死亡 本多忠勝の士)
本田小太郎  (死亡)

 次に続く――
[17]三つ柏服部さんからのコメント(2019年04月03日 22時51分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 続き――

<5人>大久保氏
@大久保五郎右衛門康忠(負傷 碧海郡上和田に住す 忠世の従弟)
A大久保荒之助忠直  (20歳)
B大久保新蔵忠寄   (死亡 忠佐の弟 26歳)
C大久保勘七郎忠正  (忠寄の弟 22歳)
D大久保新十郎忠隣  (忠世の子 20歳)

<5人>榊原氏
@榊原小平太康政(25歳)
A榊原摂津守忠政(死亡 額田郡羽栗に住す 康政の従弟)
B榊原市右衛門 (死亡)
C榊原興十郎  (死亡)
D榊原九蔵   (死亡)

<5人>斎藤氏
@斎藤宗林  (死亡)
A斎藤市大夫 (死亡)
B斎藤孫右衛門(死亡)
C斎藤文蔵  
D斎藤彦左衛門(死亡)

<5人>長谷川氏(「長上郡の服部氏族CXX:120」の冒頭に記載済)
@長谷川紀伊守正長(死亡 32歳)
A長谷川藤九郎英一(死亡 正長の弟 19歳)
B長谷川右近   (死亡)
C長谷川十郎次郎 (死亡)
D長谷川橋助   (死亡 浪士 元織田信長の近臣)


次回は、大久保氏と長谷川氏についてのエピソードを――


[18]三つ柏服部さんからのコメント(2019年04月04日 09時29分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 三方ヶ原の戦いでは、余り「鉄砲」は使われていなかったようであります。
 本格的な鉄砲の使用は、その三年後の「長篠の合戦」における信長の三千
丁の三組での順繰り一斉射撃と言われております。1543年にポルトガル
より種子島に鉄砲が伝えられたと言われておりますが、長篠の合戦までの約
30年間で、何故信長がそんなに大量に所有できるようになったか、ここは
戦国時代の制覇を決する重要なポイントであります。

 銃(鉄)と弾薬(硝石)と弾丸(鉛)を手に入れる。鉄から銃身(中空)を造る技
術、硝石の輸入、弾薬の配合、ところで鉛はどこから入手していたのでょぅ
……そう考えると、武器としての性能を発揮できる鉄砲・弾薬・弾丸という
ものをセットで考えると、自前で作ったというより、いわゆる「武器商人」
がいて一手に請け負い納入したと考えた方が、時間的な効率から考えて濃厚
であるように推察されます。
 この点を一度探求してみたいと思います――

 
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月05日 02時47分46秒 ) パスワード

三つ柏さん


長篠の合戦・長篠合戦

天正3年5月21日(1575年6月29日)
三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり


下記のサイトで鉄砲や火薬・硝石について堺の役割がよく書かれていたので橋山氏には無断でほぼ90%コピペ:



なにわ大坂を作った100人:
https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/050.html

第50話 織田信長(おだのぶなが)(1534–1582年)
乱世を駆け抜けた天下人


       まれに見るスピードで天下人に駆け上がった天才児・織田信長。
       ここでは信長が33歳の時に足利義昭を奉じて上洛した時から始めよう。

       永禄11年(1568)9月26日、信長は足利義昭を奉じて尾張、美濃、北伊勢の5万とも6万ともいわれる軍勢を率いて上洛した。
       軍勢は摂津、河内まで進軍。三好三人衆〔三好長逸、岩成友道、三好政康(宗渭:そうい)〕は勝竜寺城、芥川城、
       越水城を放棄して全員が阿波に敗走した。京に凱旋した信長に正親町(おおぎまち)天皇は、
       文書をもって逼迫していた朝廷の財政の建て直しや京の治安の回復を命じた。
       義昭は正親町天皇から15代将軍に任ぜられ、信長は副将軍に就任を求められるが固辞し堺を直轄地にすることを求めた。


                       ココから大事


これより先、信長は永禄2年(1559)24歳のとき、上洛の帰りに堺に立ち寄り、ヒト、モノ、カネで沸き返る堺の町を見て貿易の重要性を感じ取っていたと思われる。

                       若い時の海外留学は大事だってコトかも


そして本願寺に5千貫、法隆寺に千貫、堺に2万貫の矢銭(軍資金)を要求した。
本願寺は要求に応じ、三好勢の保護下にあった堺の商人たちは最初は拒否したが新興の今井宗久や津田宗及の説得で信長の支配下となる。


                ココですね


信長が堺の商人たちに求めたのは、その莫大な財力と鉄砲と火薬であった。
戦国の動乱を終わらせ全国統一を目指す信長にとって、強力な軍事力と将軍の権威、それに天皇の後ろ盾は必須条件であった。



また、信長は京で関所の廃止や地子銭(じしせん:固定資産税)の免除等の政策を打ち出し町衆に歓迎されたが、
それを収入源としていた寺社勢力からの反発は必至であった。


元亀元年(1570)は信長の全国制覇のスタートの年だ。             この5年後に長篠の戦いがあったのですねぇ。
4月、越前の朝倉義景の討伐に出陣。信長が味方と信じていた浅井長政の離反、そしてこれに呼応して六角氏も蜂起。
摂津には再び三好三人衆が阿波から進出。
信長軍は摂津に戻り、三好三人衆と野田・福島で対峙した。

9月12日、突然、石山本願寺の軍勢が鉄砲隊を先頭に信長軍に襲いかかった。
石山合戦の始まりである。
本願寺法主顕如の「仏敵信長と戦え」という檄文に各地の一向一揆衆も蜂起した。
同時多発的信長包囲網である。
敗勢に追い込まれた信長は12月、正親町天皇の勅命講和で窮地を脱した。


このあと石山合戦は10年にわたり断続的に衝突と和睦を繰り返しながら続くことになる。
一方、将軍の権威を利用して全国制覇を目論む信長と足利幕府再興を目指す義昭との間に亀裂が生じ始めた。
元亀4年(1573)信長は義昭に対して『17箇条の諌言』を進言した。
これで2人は決裂し、義昭は京を追放された。
ここに室町幕府は事実上滅亡し、元号も元亀から天正へと改められた。

将軍義昭は紀伊の由良で2年ほど過ごしたあと、毛利氏を頼り備後に移り「鞆幕府」亡命政権を樹立。反信長陣営の大義的存在で信長の前に立ちはだかった。


一方、信長は徳川家康、羽柴秀吉、滝川一益、前田利家、明智光秀などの優れた武将や家臣に恵まれ、畿内から東海にかけて大領国を築いていった。その背景には、農民は農村で農業に専念させ武士は有給で雇い城下町に住まわせる「兵農分離策」。所謂、常時戦時体制に入れる軍隊の整備と、家康との「織・徳同盟(=清洲同盟)」が大きなポイントとなる。信長は岐阜城で「天下布武」の朱印を使い始め、天下取りに名乗りを挙げた。

この頃の戦国大名は隣国との領土争いに明け暮れ、全国統一を目指す大名は信長以外いなかった。信長の統一戦は苦戦が続いたが、武田信玄の病死や上杉謙信の急死(天正6年[1578])など天も信長に味方し、窮地を脱し戦いに勝利していった。

天正3年(1575)、信長は正親町天皇から大納言、右大臣に任ぜられ「公家」となり「上様」と呼ばれるようになった。同4年(1576)、信長は近江に安土城の築城を始めた。五層七重の城であった。麓には城下町を建設し、税の免除などで町民を住まわせ、楽市楽座などの経済政策を実施した。同8年(1580)、信長を10年にわたって悩ませ続けてきた石山本願寺の戦いは信長軍の圧倒的な優勢の中、信長は本願寺法主顕如との和睦の誓紙を勅使に渡した。天皇による和平調停「天皇の平和」が信長によって成立し、畿内に平和が戻った。正親町天皇は天下が平和を取り戻したことを京の町衆や諸国の大名たちに知らせようと、信長に「京都馬揃」の開催を持ちかけた。同9年2月28日、宣教師から贈られた西洋の帽子に赤いマントと派手な服装の信長を先頭に、織田勢の大名を総動員して全国から集められた500騎余りの名馬に乗っての行進に、見物の町衆たちも大いに盛り上がった。これは軍事パレードというより「葵祭り」といった華やかなもので、正親町天皇は「これほど面白い遊興は観たことはない」と喜ばれたと「信長公記」に記されている。誠仁親王(さねひとしんのう)は「天下いよいよ平和になった、朝廷の満足は空前絶後のことである、どのような官位に推任されても請けられたい」と書状を送った。残るは四国と中国、信長の全国制覇はもう目前に迫っていた。


               ところが、天正10年(1582)6月2日、「敵は本能寺にあり」と1万3千の光秀軍が本能寺に殺到した。
               信長は明智光秀の謀反と聞き、「是非に及ばず」と最後の言葉を残し、
               秘蔵の茶の名品と共に本能寺の炎の中に消えた。享年49。
               「人間五十年、下天の内を較ぶれば、夢幻の如く也・・・」。
               信長は出陣前、この幸若舞「敦盛」を好んで舞ったという。
               信長による既得権益をぶち壊す改革の流れは止まることなく、
               尾張で出会った秀吉・家康に引き継がれ、乱世に終止符が打たれて日本は近世への道を進むことになる。



信長がどうしても手に入れたかった堺

堺市役所本館ロビーには、「住吉祭礼図屏風」右隻の一部を陶板画に複製したものが壁一面に飾られている。江戸初期に描かれた屏風絵で、当時の自治都市・堺の繁栄ぶりを窺い知ることができる。

義昭を奉じて上洛した信長が最初に手を付けたのは、堺を直轄地とすることだった。尾張で生まれ育った信長は、南蛮貿易がもたらす莫大な富を確信していたに違いない。自治都市・堺は戦国大名たちの領土拡大戦争を尻目に、国際貿易港として東アジアはもとより西洋からの物資や最新の科学技術(鉄砲、火薬)それに情報が溢れ黄金の日々を謳歌していた。

信長は、直轄地になった堺に財務担当の家臣松井友閑を代官として送り込んだ。手に入れたかったのは堺の豪商たちの南蛮貿易のノウハウや社寺が持つ独自の交易ルートであり、商人たちの財力だった。信長は、新興の商人今井宗久を松井友閑の補佐的役割となる堺五箇荘の代官に任命し、塩合物(塩漬けの魚)座の権利、淀川通行船の関税免除などの特権を与えた。そして但馬を征服した信長は、生野銀山を直轄領にして宗久を代官職に任命した。今井宗久は鉄砲の大量生産や国内では産出しない火薬の原料・硝石の輸入を独占的に行う交易ルートを確保するなど、わが国で最初の総合軍事産業を興し、信長の統一戦を支えた。

また、堺の会合衆(えごうしゅう)の中心人物で天王寺屋の3代目・津田宗及は、本願寺との関係を断ち切り信長の軍門に降った。信長は戦わずして堺を手に入れたのである。今井宗久、津田宗及、千宗易(のちの千利休)は信長の茶頭として取り立てられ、政商としての地位を確たるものとした。

信長は天正2年(1574)4月3日の、相国寺での茶会で、宗及と宗易に正倉院から切り取ってきた蘭奢待(らんじゃたい)を分け与えたが、今井宗久には与えていない。その理由は気になるが、これが信長の堺商人に対する懐柔策であろうか。


堺には三好長慶を始め三好一族の遺跡は多い。長慶の曽祖父・三好元長(もとなが)が堺へ進出した時代から50年以上の付き合いだ。一方、堺のまちで、信長の足跡を見つけるのは非常に難しい。信長はわずか10年余り堺の商人たちを利用するだけ利用して去っていったのか。妙國寺に、信長が安土城に持ち帰ったが「堺に帰りたい」と夜毎泣いたので堺に還したと言い伝えられる大蘇鉄を配した枯山水の庭園があるぐらいだ。天正10年(1582)6月2日、明智光秀の謀反で信長が本能寺で自害した日、家康は堺見物をして津田宗及の茶会に招かれ、妙國寺に宿泊していたという。妙國寺の大蘇鉄の庭園を拝観したあと、信長の供養塔があるという南宗寺の塔頭・本源院を訪ねたが拝観謝絶ということで残念ながら見ることは叶わなかった。ここから、15分ほど北に歩き宿院の道路脇にひっそりと建てられた武野紹鷗や津田宗及や今井家の屋敷跡の石碑を巡り、秀吉が屋号を命名したと伝えられる鎌倉時代創業のお菓子屋「かん袋」で名物の「氷くるみ餅」を食し、阪堺電車に乗って、歴史に「if」があるなら、信長が天下統一を目指さなかったら秀吉も家康も出現しなかろうし、ひょっとしたら日本はポルトガルかスペインの植民地になっていたかも・・・と妄想しながらウトウト。「次は〜、東天下茶屋〜」と車内アナウンスに起こされて天王寺に戻ってきた。




2017年6月

(2017年11月改訂)

橋山英二

≪参考文献≫
 ・太田牛一『信長公記』
 ・今谷明『戦国大名と天皇』福武書店 1992年
 ・小島道裕『信長とは何か』講談社 2006年
 ・谷口克広『信長と将軍義昭』中公新書 2014年
 ・秋山駿『信長』新潮社 1996年
 ・堺屋太一『戦国時代の組織戦略』集英社 2014年
 ・井沢元彦『南北朝動乱と戦国への道』角川学芸出版 2014年
 ・津本陽『戦国武将に学ぶ処世術』角川書店 2005年
 ・神田千里『織田信長』ちくま書房 2014年




≪施設情報≫
○ 堺市役所
   堺市堺区南瓦町3-1
   電  話:072-233-1101
   アクセス:南海高野線「堺東駅」より徒歩約2分

○ 妙國寺
   堺市堺区材木町東4-1-4
   電  話:072-233-0369
   アクセス:阪堺電車「妙国寺前」より徒歩約5分

○ 南宗寺
   堺市堺区南旅篭町東3-1-2
   電  話:072-232-1654
   アクセス:阪堺電車「御陵前駅」より徒歩約5分
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月05日 03時54分03秒 ) パスワード

レス<17>の斎藤氏ですが
家康のために一族が死亡率80%で?命を捧げたのに
三河斎藤氏からは大名や旗本や御家人は出てないような?


ムカシ三河で働いてた時に「サイトウさん」という人がいて
この人が西三河の話をいろいろしてくれました。

                       風貌は瓢箪みたいな?落花生みたいな?顔の人で
                          あ、落花生は三河では「じまめ」地豆?と呼ぶらしい
                       とっても楽しいヒトでした。ヒトを楽しませる特技もあったし。除:ワタシ

                          瓢箪やピーナッツ顔は四角い顔の好きなワタシには好みじゃなかったからね(ごめん)


吉良上野介義央(江戸幕府の高家肝煎さん)は地元じゃ名君だよと教えてくれたのもこの人でした。

三ヶ根山のどこやらの華蔵寺にお墓があって、とか。
今は西尾市になるのかな?西尾は今川氏の発祥の地です。

                          三ヶ根山っていうと  A級戦犯の殉国七士廟のある所とか
                          最近だったら、高須のかっちゃんの出身地の近く      この高須家は代々皆さん医者の家



で、三つ柏さんの登板から得た情報ですと
吉良さまの菩提寺が市ヶ谷の万昌寺で
ナント!
服部和泉守正吉(重好)が葬られている所でもあります。

                      この服部和泉守正吉(重好)の子・正長(重長)と孫・正次(重明)は駿河大納言忠長卿に仕えたヒトです。
                      ま、不運だった、ということですね。



万昌院は吉良家の菩提寺で
多分この服部家は吉良家や今川家と関係があったからでしょう。

                     ということは    
                     元は尾張のうちの関係者だったんでしょうね。
                     織田信長を挟んでコロすのに失敗して、この三河服部氏はそのまま今川氏真に仕えて・・・
                     やがて家康に仕えて天正10年の戦いで出世していった。

正吉(重好)の奥さんは清野大炊の娘ということで
エッ?
卑怯者の三橋を好きな赤坂理子の清野菜名(稲沢出身)のご先祖さま?
彼女の運動神経の良さ体幹の良さは戦国時代からのDNA?笑



で、伊賀でヒトを殺して出奔し、今川義元・氏真父子に仕えた服部助左衛門康信も
同じく市ヶ谷(のちに牛込に移転した)万昌院に葬られている。

     この家からは津軽弘前藩に家康から監視役の家老として送られた服部康成が出てるけど
     服部正成の同族か庶長子らしい可能性がある。


などなど、いろいろ分かってしまいました。


でも三河のサイトウさんについては何も分かりません。
サイトウさんが藤原姓出身ということは分かるけど
なんで江戸時代に活躍していないのか?好待遇を受けていないのか?
     三方が原で一族の皆さんが討ち死にしたから終わってしまった?


あのサイトウさんは吉良家がらみのサイトウさんだったのかも。
赤穂浪士の討入事件で決定的に終わった家だったのかな
なんて想像します。        
[21]三つ柏服部さんからのコメント(2019年04月06日 06時44分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 市議・県議・市長のいわゆる地方選挙を明日・日曜日に控え、終盤の戦い
となっております。選挙が終わるまでは庶務雑用があり、集中力が途切れて
おりますが、それも実質今日で選挙戦より解放され、明日の夜の発表を以て
集中力は元に戻ると思っています。

 さて、「神武天皇」ですが、最新の関裕二氏の説(仮説)によれば――
 「神武天皇は、崇神天皇とヤマト建国時の同時代人であるが、別人であり、
 それは、大物主の息子である太田田根子である。」
ということを、昨年四月発行の新潮新書『神武天皇vs.卑弥呼』の中で書いて
おります。この本、まだ読み出したばかりでありますが、かなり真相に迫っ
たものだと感じております。一通り読了しましたら、まとめてみます――

 堺には絶対一度訪ねてみたいと思います。もちろんその周辺の古墳の見学
も兼ねてでありますが……。
 でも、一体「今井宗久」という人間、何者なのでしょぅかねえ?

 別系の服部家……寛政諸家譜で見てみました。元「平氏」なりということ
で、伊賀出身であると思われます。大きく言えば「服部一族」ということで
すね。服部家にも色々あります……。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月06日 07時45分55秒 ) パスワード

三つ柏さん

選挙
大変ですね

消費税の10%導入は  あれは  国民にはひどい負担になって
竹下の時の3%導入時なみの買い控えになって経済が停滞すると思います。

ムカシ消費税10%はニューヨークだけで
カリフォルニアはサンフランシスコが地震の寄付も含めて9%弱、ロサンゼルスが8.25%あたりだったかな?
こうなると無駄な消費はしなくなるし
ヨーロッパの人でも(イタリア人は買い物好きだけど)北の人は無駄な買い物はしなかったのを覚えています。

日本もヨーロッパ並みの15%とか25%にしていくんでしょうけど
消費税を払うのがイヤなのでわたしも無駄な買い占めや買い物はしなくなりました。
   
                       O型なので買い溜めが大好きなんですけどね


今は  「書道ガールズ  青い青い空」  を見ているところです。
ものすごく泣けます。

https://www.youtube.com/watch?v=5GP7MwkKcF0

泣けるから休み休み見ていて  今  ココにいます。

現代国語教師・書道部顧問の八代和樹先生(波岡一喜 演)
いいヒトだ。
大阪弁だからわたしもヤクザ役なのかなと思ってた。


若い時にこういう教師と出会えるって、自然にココロが豊かな人間になっていけるから、中学あたりでこういう教師に出会いたかった。

                       わたしは基本的に帰宅部だったけど
                       新学年の春は一応どこかのクラブに籍を置かないといけないから
                       科学部にいた時は羊羹を作ったりしてた


本当に素晴らしい作品です。
もし中学生とか高校生の知り合いがいらっしゃったら見せてあげてください。

では映画に戻ります。


神武天皇って秦氏なんでしょうかねぇ?
[23]三つ柏服部さんからのコメント(2019年04月08日 12時53分00秒 ) パスワード

天の青海のあを様

 昨夜は、深夜まで開票速報を見ておりました。私が長きに渡って応援し
て来た候補は、残念な結果に終わってしまいましたが、これも時代の流れ、
人には、上げ潮・引き潮の流れがあり、それは戦国時代の天下取りの武将
達の、入れ替わり、立ち代わって行く姿とオーバーラップいたします。


 さて、集注力も戻ってまいりましたが、関裕二氏の『神武天皇vs.卑弥
呼』をサラッと読んだところ、やはりわかりやすそうでわかりにくいのが、
関氏のいつもの特徴であります。つまり直球勝負で来るかと思うと、変化
球でかわされる。簡単に結論を出さない方が賢明である、ということを熟
知しているようです。私が過去に購入した関氏の本は、数えたら、これで
四十一冊目になります。次から次へと買って来ましたが、ある意味、それ
らしい"空気"を買って来たのかも知れません。最後は読者側で推理せよと
いうこと。飛鳥氏と違うところであります。

 私なりに整理し、推理しますと――
@神武天皇、A崇神天皇、B神功皇后、C応神天皇の「神」のつく人々は
ある意味、神格化され、また時間ルールを飛び越えて創られた偶像。但し、
元になる人物は誰かいたのだと思う。
 神功皇后=「台与」とすると、応神天皇は台与の子となり、応神天皇=
神武天皇とすると、神武天皇は応神天皇をさらに過去に投影した虚像とな
ります。
 台与が海部氏の出であるならば、秦氏との関係もありと推察されますの
で、あを様の言われる「神武天皇って秦氏?」もありえるのかも知れませ
ん。
 いずれにしましても、関氏が天皇家の祖と海人族・安曇氏との関係に言
及したのは、「方向性良し」と言えるのではないかとは思います――
 
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月08日 14時07分25秒 ) パスワード

三つ柏さん

おつかれさまでした。

残念でしたね。
でも三つ柏さんには新たな人脈発掘に繋がったかも知れないので
お気落ちされず新たな友との交流に結びつけてください。

どこかで、どなたかが、三つ柏紋の服部氏のことをご存じかも知れないので。


別スレッドhttp://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101659_6.html に書いた
https://www.youtube.com/watch?v=0uQ0PSdShXg
「武内宿禰が語る陰陽道と賀茂一族、八咫烏の謎」
第七十三世武内宿禰と行く秘授口伝ツアー

武内宿禰73代の子孫のお話
なかなか面白かったです。

           武内宿禰は神功皇后の愛人だった
           なんて噂もありますね。

           73代、ということは
           各代、長寿で、
           平穏なお家だったようですね。



それにしても関氏の本が四十一冊目だなんてスゴイですね。
同じ作家で41冊読み続けたというのは全部ですか?
にっこり
[25]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年04月11日 10時49分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 このところ、寒暖の差が激しく、また春の嵐に近い風が吹き止まず、従
って花粉がひどく、おまけに中国の黄砂も飛来し、さんざんな毎日となっ
ております。
 
 さて、今月の十五日で「長上郡の服部氏族」は満五年になります。ほぼ
毎日のレスの交換でありましたが、あを様のお力により、何とかここまで
やって来ることができましたこと、心より感謝申し上げます。

 次は六年目、大学で言えば大学院の二年目に入ります。学んだことは一
方で記憶が希薄になって行きますので、大学ノート(現在12冊目)に記した
メモを振り返って読んでは記憶を思い出しております。後で読み返すと、
新たな解釈ができたりします。それは、インプットされた情報量にある程
度比例してくるのかなという感じを抱いております。

 服部氏族の全体の関係(血縁関係も含めて)を、更に詳細に知ることを一
つの大きな目的にして、今後更に深く踏み込んでいきたいと思っておりま
すので、どうぞよろしくご指導の程、お願い申し上げます。

 服部半蔵正成、近くて遠い存在……私のいる会社は戦国時代の浜松城の
中にあり、そこでは家康も半蔵も秀忠も現存し、動き回っていたのであり
ます。半蔵がどこに暮らし、どのように動き回っていたか、克明に知るこ
とができたらこんなうれしいことはありません。武将としての半蔵の行動
はある程度記録に残され見えるのですが、部下たち――忍び軍団の姿はほ
とんど闇の中であります。そこは推測して行くのみでありますが、歴史の
一コマ一コマをリアルに見て行くと、必然的に忍びの動きも見えてくるの
ではないかと思っております。
 そのためには、一歩も二歩も踏み込んだ探究努力が必要とされますが、
自分自身にカツを入れてがんばりたいと思っております――
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月11日 15時29分23秒 ) パスワード

三つ柏さん


もう5年ですか。
早いですね。


遠江の服部氏がどこから来たのか
なかなか分かりませんね。
三つ柏紋使用、というのが混乱させるし。


半蔵の服部家はホノハヤヒの子孫で允恭天皇の御世に服部連で平氏。
この関わりで遠江の服織神社関係なのか?


神社関係だと貞信とも関わるのか?


尾張出身関係だと政信と中保次で、もとは伊勢出身の伊賀守宗純の子孫?


その他にも今川との関係の伊賀伊勢尾張出身の服部氏がいるし。
ここは三河服部氏と繋がるけれど。


正体を明かさないところが、まさに、忍び?


誰か知ってるヒトがいるはずです。
そろそろ出現しても良さそうなのに。


遠江、ということで政信・中保次関係者の可能性がかなり高いですよね。
半蔵系だったら正就が



正就の母は長坂氏の娘だそうです:

通称は半三(はんぞう)、あるいは源左衛門で、
一般に服部半蔵(半三)の名で知られている服部正成の長男。

母は家康の家臣である長坂信政の女子と伝わる[3]。

正室は松平定勝(久松松平氏)の長女松尾、子は服部正幸、服部正辰、服部正治。
官位は石見守。
生年については天正4年(1576年)[2]と永禄8年(1565年)の説がある。



長坂信政
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%9D%82%E4%BF%A1%E6%94%BF

長坂 信政(ながさか のぶまさ、生年不詳 - 元亀3年11月15日(1572年12月19日)

戦国時代の武将。
三河の松平氏(のち徳川氏)の家臣。
通称、彦五郎、茶利九郎。仮名は九郎。異名は血鑓九郎。

子の長坂信宅も同じく徳川氏の家臣である。


家系は清和源氏義光流小笠原氏の庶流長坂氏とされ、
武田家の家臣・長坂光堅とは同族(遠戚)と思われる。

また、陸奥の長坂氏とは別族である(こちらは桓武平氏千葉氏族)。


ただし信政以前の事績は不明である。

長坂氏は、小笠原氏支流である九郎守重(小笠原持長の三男)が足利将軍家に仕え
山城国長坂村に住したことから長坂姓を称して創始されたといい、その孫が信政であるといわれている[1]。

祖父・守重、父・信重(守重の三男)が足利将軍家に仕えていたのに対し、どのようにして信政が松平氏の家臣になったのかも不明である。


長坂氏の系譜に関しては小笠原信定を祖とする説もあるが、
信定は信政や光堅とほぼ同時期の人物であり、
ましてや光堅が仕えていた武田氏とは敵対関係にもあったのでこちらは信憑性に欠ける。


松平氏三代(松平清康、松平広忠、松平家康)に仕え、尾張の織田氏との戦いで活躍するなど、槍働きで功名を挙げたため「血鑓九郎」の異名を与えられ、この異名は信政の子孫代々に受け継がれた。

子の信宅も穴山梅雪を調略するなど徳川氏のため働き、子孫は旗本として存続した。


ここらあたりに  正就の失脚になった大久保長安の影がちらつくような?
コレ、良い線いってるかも。
[27]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年04月11日 16時50分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レス[25]訂正:現存し→現実に存在し

 半蔵の妻については情報ブランクでした。長坂氏の出身ということ……実
は、三ヶ日に長坂養蜂場というものがあり、私はてっきり地名だと思ってお
りましたが、今調べてみると、社長は長坂氏であり、姓でありました。
 長坂氏は知多郡東浦(ひがしうら)町に圧倒的に多く分布しており、他を寄
せ付けません。およそ1600人位で、ちなみに三ヶ日は70人位とありま
した。
 長坂氏から服部半蔵の身辺を洗うヒントが得られるかも知れません。
 東浦市は、刈谷市のすぐ西で、於大公園がある所です。つまり、半蔵と長
坂氏との間には、家康の母・於大が介在していた可能性があるかも知れませ
ん。近々、刈谷の新築された歴史博物館を訪れてみたいと思います。長坂氏
についての情報がないか探してみます――
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月12日 09時03分18秒 ) パスワード

三つ柏さん

>半蔵の妻については情報ブランクでした。長坂氏の出身ということ
>家康の母・於大が介在していた可能性があるかも

ここで長坂氏というアヤシイ人物が出て来ましたね。


半蔵とはどういう関係だったんでしょうね?
・信濃関係?武田信玄とも関わる?信濃のヒバリさんの服部家と関わる?
・足利将軍家を介した知り合い関係にあった?
・穴山梅雪が本能寺の変から逃げるのに失敗して死んだのは実は長坂家が関わって殺された?
・長坂氏って実は尾張長田氏が絡んでいる?


謎が次々と出て来てしまいます。



>三ヶ日に長坂養蜂場

ご商売をなさっていらっしゃるお家でしたら尋ね易いですね。

長坂氏が東浦に関わるのでしたら
つい最近話題に上ったばかりですね。


地元の蜂蜜は花粉症に効果がありますよ。
わたしは  RAWの蜂蜜が手に入るとこちらを買っています。高いですけどね。
本物の蜂蜜は健康に良いですよ。

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E9%95%B7%E5%9D%82
【名字】長坂
【読み】ながさか,ながさわ,おさか
【全国順位】 951位
【全国人数】 およそ19,700人

@清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)(現長野県である信濃、現山梨県である甲斐)。
A中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)隆家流(現熊本県である肥後)。
B弓削氏(徳川家などを輩出した現愛知県東部である三河)。
C平氏(現岩手県南東部と北西部を除く地域である陸中)。
等がある。

「長」は長くのびている地形、器物、生物などの意味。
「坂」は坂の地形を表す。
[29]三つ柏服部さんからのコメント(2019年04月12日 18時05分02秒 ) パスワード

天の青海のあを様

 「長坂信政」の娘が「服部半蔵正成」の妻ということで、長坂氏について
色々調べてみたいと思いました。

 まず、手始めに、参謀本部編の『三方原役』の付録の「両軍将士姓名表」
を見てみましたところ、二名の長坂氏が参陣しておりました――
 @長坂源次郎重信
 A長坂小大夫
であります。

 この長坂氏が半蔵の妻の縁者かどうかはわかりませんが、長坂信政の父が
「信重」、そして祖父が「守重」であり、「重」を通字としているところか
らすると、「重信」は信政に近い縁者のような気がいたします。つまり、半
蔵の妻の家系である長坂氏は、やはり一族郎党で参陣していたと考えられま
す。

 長坂信政は「小笠原持長」の第三子「守重」の孫でありますので、同じく
持長に関係している「松島氏」とも同族に近い関係になります。やはり、遠
江において、市野の惣大夫、その西の小池の半蔵、北東の羽鳥の松島氏はつ
ながっていた、少なくとも警備上で協力し合っていたと推測されます――


 
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月13日 10時52分38秒 ) パスワード

三つ柏さん


すごい!
背筋がゾワゾワしました。
すごい!!!!


>長坂信政は「小笠原持長」の第三子「守重」の孫でありますので、
>同じく持長に関係している「松島氏」とも同族に近い関係になります。
>やはり、遠江において、市野の惣大夫、その西の小池の半蔵、北東の羽鳥の松島氏はつながっていた、
>少なくとも警備上で協力し合っていたと推測されます


養蜂業者の長坂さんと会えると良いですね。
違っていても
他の長坂さんの情報をお持ちかも知れないですし。


役に立つ情報は思わぬ所に落ちているかも
です。
[31]三つ柏服部さんからのコメント(2019年04月13日 13時04分32秒 ) パスワード

天の青海のあを様

 半蔵が結婚したのは、おそらく1572年の三方ヶ原の戦いで戦功をあげ、
「槍」を賜り、伊賀者「150人」を預けられた後のことであろうかと思わ
れます。長男の正就が生まれたのは、1576年、半蔵35歳の時でありま
す。もし晩婚が事実だとしたら、毎日が最前線での命がけの戦いでありまし
たので、結婚などは考える暇もなかったと思います。
 
 服部半蔵家と長坂家の出会いは、たぶん半蔵の父・保長が足利義晴に仕え
た頃、長坂信政の祖父・父・本人もその前から足利氏に仕えており、そこで
通じ合い、やがて足利氏に見切りをつけ、二家共、家康の祖父・清康の家臣
となったという流れだと思われます。長坂家は「血鑓九郎」と呼ばれ、半蔵
も鑓に秀でて「鬼半蔵」と呼ばれるようになった。気脈が通じ合う仲で、自
然、縁談話が進んだ……と推測いたします。

 浜松に於ける半蔵の屋敷はどこであったか? それは浜松城の近くでなけ
ればなりません。家康を守り、また家康より直接に指令が下される立場であ
りましたから、浜松城の中、あるいは周辺のどこか……これがわかると最高
なのですが……いくつかの小説では具体的に書いていますが、あたらずとも
遠からずというところでありましょう――
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月13日 14時27分54秒 ) パスワード

三つ柏さん

日本にはたいてい古地図というのがあって
それに屋敷割り?というか
どこに誰の屋敷があったか
というのが分かるはずなのですが。


曳馬時代の古地図って、あるのか無いのか、分かると良いですね。
[33]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年04月15日 12時50分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 オーガスタで行われた「マスターズ」では、タイガー・ウッズが優勝し、
完全復活を果たしました。
 私も、昨日は主催するコンペに於いて、久方ぶりに優勝いたしました。特
にグリーン上では、タイガー・ウッズに自分をだぶらせ、一打一打のパット
に集中しました。「パット イズ マネー」はタイガーのプレイを見ている
とその意味がよくわかります。
 もう一年くらいでゴルフは止めようと思っていますが、心身の健康と体力
維持を考えると、これからも続けてみようかなとも思っています――
 
 
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月15日 13時44分20秒 ) パスワード

三つ柏さん

是非ゴルフは続けてください。
健康維持に良いですから。


歳を取って家にいるようになりますと曜日が分からないとか言葉が出て来なくなるとかありますから
ボケ防止のためにもお友達とたわいない話をする機会を定期的に持つ方が良いです。


いつだったかタイガー・ウッズが道路脇の車中で寝てて捕まった時
いろいろな精神安定薬を持っていたことが発表されましたけど
あのような天才プロゴルファーでもストレスがスゴイんだなとビックリしました。

薬の名前を聞いてホントにビックリしました。


体力維持だけでなく脳の活性化のためにお友達と外で遊ぶのは一生続けてください。
人間関係って大切にすべきだとつくづく思います。
[35]三つ柏服部さんからのコメント(2019年04月16日 12時47分22秒 ) パスワード

天の青海のあを様

 本日より、六年目に入ります。改元もございますので、記念に下記の本を
お送りいたします。

 井上宏生著『謎解き 伊勢神宮 神々と天皇と日本人のDNA』

 この場合のDNAは科学的な分析のことではなく、血の中に受け継がれて
きた本性という意味であります。私はこの本を、伊勢神宮理解のための「テ
キスト」としております(なお、もっと理解するには『天孫人種六千年史の
研究』(三島敦雄著)を読まなくてはなりません)。

 さて、本日の新聞記事に「両陛下、最後の地方訪問」という記事が出てい
ました。「最後」という言葉と両陛下の年老いた御姿を目に浮かべると、思
わず胸から目頭にかけてが熱くなり、グッとこみ上げて来るものがあります。
これも日本人のいわゆるDNAみたいなものでしょぅか。両陛下は、いつも
日本全体の平和と安寧を祈る「偉大なる父と母」でもあるような気がいたし
ます。いつまでも、お元気で長生きして見守っていただきたいと思います。

 今回の両陛下の伊勢参宮は特別なもののようです。以下、新聞(静岡新聞)
の記事を載せてみますので、味わってその意味を解釈してみて下さい――

「天皇、皇后両陛下は17〜19日、天皇陛下の退位に伴う儀式の一つとし
て伊勢神宮を参拝するため、三重県を訪問される。両陛下にとって、在位中
最後となる地方への旅。歴代天皇が皇位とともに受け継ぐ「三種の神器」の
うち、「剣」と「璽(じ 勾玉)を皇居から携える「剣璽動座(けんじどうざ)
」も5年ぶりに実施する。

 動座は皇室とつながりが深い伊勢神宮の参拝に限って行われる。皇居から
2人の侍従が剣と璽をそれぞれケースに入れて携行し、車での移動には専用
車が用意される。
 皇位継承の証しとして受け継がれる「三種の神器」は、「八咫鏡(やたの
かがみ)」「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」「八尺瓊曲玉(やさかにの
まがたま)」で、鏡は伊勢神宮、剣は熱田神宮にある。皇居には、住まいの
御所内の「剣璽の間」に勾玉の本体と剣の複製品が安置され、鏡の複製品が
宮中三殿の賢所に収められている。
 5月1日には、剣璽等承継の儀が行われ、即位後の皇太子さまが引き継ぐ
ことになる。
 戦前は天王が一泊以上皇居を離れる際に剣璽を携行したが、戦後は警備上
の都合などで1946年に取りやめた。昭和天皇が式年遷宮後の伊勢神宮を
参拝した74年に復活した。

 両陛下は17日に東海道新幹線と近鉄で三重県に入り、18日午前に下宮
を、午後に皇室の祖神とされる天照大神を祀る内宮を参拝し、退位を報告。
19日午後に帰京する。」
[36]三つ柏服部さんからのコメント(2019年04月16日 12時55分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 前レス訂正:天の青海のあをさま→空の青海のあを様 (失礼しました)
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月16日 14時45分02秒 ) パスワード

三つ柏さん

>井上宏生著『謎解き 伊勢神宮 神々と天皇と日本人のDNA』

ありがとうございます


新聞記事の転載もありがとうございます。


日本人のDNAはまさに天皇家への敬意敬愛でしょうね。
よくまあマッカーサーが許したと思います。マッカーサーには感謝です。

天皇も50年後の日本に天皇制が残っているかどうかヤキモキなさっていらっしゃるでしょうね。
天皇ご夫妻にとって永遠に日本が続き栄えることをご先祖さまにお願いしたいでしょうね。


三重県人には伊勢神宮に天皇や皇室関係者および政府のエライ人達が参拝するのは
ことに今年は誇りでしょうね。
2回も、2代の天皇の行幸ですから。
こんな経験は日本史上おそらく初でしょうから。

あと2週間の御在位ですね。


でも準備万端で譲位なさるのは立派だと思います。
混乱を少しでも避けたいとのご叡慮、天皇ご夫妻のまさに生き様です。



>思わず胸から目頭にかけてが熱くなり、グッとこみ上げて来るものがあります

かたじけなさに涙こぼるる
という歌を思い出します。


           なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに  涙こぼるる


                    このパワーは目には見えないけれど、そばで見守ってくれている。
                    そう感じられるだけで、涙がこぼれるほどありがたい。

                            西行


「天皇」
本当に日本人には特別ですね。
日本人のDNAでしょうね。

泣ける
[39]三つ柏服部さんからのコメント(2019年04月17日 08時04分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 前々レスの訂正:@「璽(じ 勾玉)を→「璽(じ 勾玉)」を
         A戦前は天王が→戦前は天皇が
 
 三種の神器が、やはり天皇の天皇である証しということで、勾玉は宮中、
剣は熱田神宮、鏡は内宮ということ。この辺の詳細事項は、本来は機密な
ので、軽々しく報道されることはないと思われるのですが、ここに何か秘
密があるように思います――
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月17日 14時11分06秒 ) パスワード

三つ柏さん


>勾玉は宮中、剣は熱田神宮、鏡は内宮ということ。
>この辺の詳細事項は、本来は機密なので、軽々しく報道されることはないと思われるのですが、
>ここに何か秘密があるように思います――


三つ柏さんへのレスにはなりませんが(ぺこり)


詳細は忘れましたが
壇の浦で平家が滅びた時に

女性たちが三種の神器を携えて入水して

何やらと何やらは義経の手に届けられたけど何やらはどうしても見つからなかった
と読んだ記憶です。 宝剣が見つからなかったのかな?


で、後鳥羽天皇が即位した時には三種の神器は無かったから後鳥羽は天皇ではない、という問題が発生。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87


「神器なき即位」

                        ジンギ無きタタカイの勃発ですね


寿永2年(1183年)7月25日、木曾義仲の軍が京都に迫ると、平家は安徳天皇と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れた。

これに従わなかった後白河法皇と公卿の間では平家追討を行うべきか、
それとも平和的な交渉によって天皇と神鏡剣璽を帰還させるかで意見が分かれた。

この過程で義仲や源頼朝への恩賞問題や政務の停滞を解消するために安徳天皇に代わる「新主践祚」問題が浮上していた。

8月に入ると、後白河法皇は神器無き新帝践祚と安徳天皇に期待を賭けるかを卜占に託した。

結果は後者であったが、既に平氏討伐のために新主践祚の意思を固めていた法皇は再度占わせて「吉凶半分」の結果をようやく得たという。

法皇は九条兼実にこの答えをもって勅問した。
兼実はこうした決断の下せない法皇の姿勢に不満を示したが、
天子の位は一日たりとも欠くことができないとする立場から「新主践祚」に賛同し、
継体天皇は即位以前に既に天皇と称し、
その後剣璽を受けたとする先例がある(「継体天皇先例説」、
ただし『日本書紀』にはこうした記述はなく、兼実の誤認と考えられている)
と勅答している(『玉葉』寿永2年8月6日条)。

                       すっごいカシコイこたえ(笑)
                       3・11の時の放射能汚染の時の御用学者の説明を思い出します


                       日本人がハナシをすり替えるのがウマいってのは朝廷の有職故実が成立しない時の言い訳が伝統なのか
                       と思ってしまう


10日には法皇が改めて左右内大臣らに意見を求め、更に博士たちに勘文を求めた。

そのうちの藤原俊経が出した勘文が『伊呂波字類抄』「璽」の項に用例として残されており、
「神若為レ神其宝蓋帰(神器は神なので(正当な持主のもとに)必ず帰る)」と述べて、
神器なき新帝践祚を肯定する内容となっている。


新帝の候補者として義仲は北陸宮を推挙したが、後白河法皇は安徳天皇の異母弟である4歳の尊成親王を即位させることに決めた。
丹後局の進言があったという。


8月20日、後鳥羽天皇は太上天皇(後白河法皇)の院宣を受ける形で践祚し、
その儀式は剣璽関係を除けば譲位の例に倣って実施された。

即位式も元暦元年(1184年)7月28日に、同様に神器のないままに実施された。



安徳天皇が退位しないまま後鳥羽天皇が即位したため寿永2年(1183年)から平家滅亡の文治元年(1185年)まで在位期間が2年間重複している。


               ココですね、宝剣が見つからなかった件

                         壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した際、
                         神器のうち宝剣だけは海中に沈んだままついに回収されることがなかった。

          


文治3年(1187年)9月27日、佐伯景弘の宝剣探索失敗の報告を受けて捜索は事実上断念された。

以後も建久元年(1190年)1月3日に行われた天皇の元服の儀なども神器が揃わないまま行われた。

承元4年(1210年)の順徳天皇践祚に際して、すでに上皇になっていた後鳥羽天皇は奇しくも三種の神器が京都から持ち出される前月に伊勢神宮から後白河法皇に献上された剣を宝剣とみなすこととした。

                       ココで三種の神器のインチキが発生



だが、後鳥羽天皇はその2年後の建暦2年(1212年)になって検非違使であった藤原秀能を西国に派遣して宝剣探索にあたらせている。

伝統が重視される宮廷社会において、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま治世を過ごした後鳥羽天皇にとって、このことは一種の「コンプレックス」であり続けた[1]。

また、後鳥羽天皇の治世を批判する際に神器が揃っていないことと天皇の不徳が結び付けられる場合があった[2]。


後鳥羽天皇は、一連の「コンプレックス」を克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある[3]。


                       なるほどねェ〜
[42]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年04月18日 12時05分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「神器なき戦い」(仁義なき戦い)のお話、ありがとうございました。

 「三種の神器」、いわゆる王権の象徴「レガリア」については、たぶん
何冊もの本ができるくらいに奥深いものがあると思います。
 天皇の三種の神器も、いつごろから言い出したのか、そしてどのような
変遷をとげてきたのか、これらについて今後少し探究してみたいと思って
おります。
 安徳天皇入水と三種の神器の行方の問題も、本当のところは確たる証拠
があるわけでなく、真相はわからないと思います。浄土を願いつつ入水し
た天皇の最期が、幼くもあり、また取り巻きの女性や無二のレガリアを巻
き込んでの劇的な結末であればあるほど、因果応報、また逆に浄土という
救いの世界も際立つでしょうし、ストーリーとしてはこれ以上ない悲劇の
シチュエーション・クライマックスであります。
 安徳天皇だけを追っても一冊の本が書けると思います。

 昨日のテレビのニュースでは、「剣」と「璽」の入った二つの黒いケー
ス(楽器のケース様)のそれぞれを、二人の侍従が両手でかかげて移動する姿
が映されました。天皇のレガリアをそのように軽々しく持ち歩くのも、また
一般に撮影させるのも、私には異様で違和感を感じずにはおられませんでし
たが、あを様、これは私の思い過ぎでしょぅか――
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月19日 07時27分30秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「神器なき戦い」(仁義なき戦い)

母方我が家は1457年の12月まで、 コレ、 やってました。
そうか、後白河天皇に300年近く振り回されてたのか、です。


三種の神器
(さんしゅのじんぎ、さんしゅのしんき、みくさのかむだから)


日本神話において、天孫降臨の際に天照大神が瓊瓊杵尊に授けたとされる三種類の宝物、八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣の総称。

また、これと同一とされる、あるいはこれになぞらえられる、日本の歴代天皇が継承してきた三種類の宝物のこと。

                    この記述、かなり良いなと思います。


日本人は21世紀になっても神話・伝説から抜け出せない世にも珍しい民族なんて揶揄されますが

    <なぞらえられる>

なんて書いてしまうところに  「戦後」  を感じます。
戦前だったら<なぞらえた三種の神器を継承した今上天皇>なんて書き方をしたら不敬罪かもね。


日本の天皇はY染色体で連綿と繋がってきた(汗)なんてハナシになってるから
    だから女天皇で皇室を繋いでいくのはダメなんだ
    つまりヨソY染色体を持ったオトコなんか皇室に入れちゃダメなんだ
    馬の骨のY染色体ではとんでもない
ってコトなんでしょうね。


「三種の神器=正当な継承権を持つ天皇のみが保有できる神物=天皇皇位のシルシ」などと限定するからハナシがややこしくなって
世界から「一体日本はどの時代に生きているんだ?」と。赤面


一応世界的に認められた古い皇帝のいた国といったらエチオピアで
紀元前10世紀のシバの女王とソロモン王の子、メネリク1世を伝承上の国家の起源として
1974年9月公称3000年の歴史を誇るソロモン王朝のハイレ・セラシエ皇帝が殺害されて終焉。

               その100年後に日本の皇室も終焉?
               今年が皇紀2679年?だから55年後で良いのかな?


どうするんでしょうね?
テキトーにハナシを作り上げて  日本の天皇の資格はY染色体にはこだわらないのかな?  
その前に三種の神器のハナシも「後白河院の時のご叡慮でこれらに決められている」と宣言するのかな

など尽きないですね。


日本政府は皇室の資格について確定しておかないといけないでしょうね。
でも、どの首相も自分の時には「やりたくない」かもね。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月19日 07時52分38秒 ) パスワード

上記をアップするのに1時間かかりました。


この話題はタブーなのかな?

1457年に亡くなった母方の一族が怒ってるのを感じた。
瞬殺はされなかったけど
フリーズしたままで
他のサイトにはサクサク行けたのですけど

    「言葉を選べ!」

とパワーが来てた。


母方我が家は後鳥羽上皇あっての一族だから
赦されないことを書いた気がする。


もう21世紀なんだから真実バラして良いのでは?

いつまでも菊の御簾を守るだけの密室会議を続けなくても。
   宝剣が見つからなかったのは  事実  なんだから
   事実見つからなかったから後白河院の鶴の一声で代替品を使うことになって久しい
   と国民に告げていいんじゃない?


ひょっとすると   刀だけじゃなくて    鏡も玉も代替品なんだ   かもね。


いつだっけ?
天皇がスペインに行った時に
スペイン国王からもらった勲章(みたいな首から下げるヤツ)を機長預かりにして
飛んだら

なんと!

この勲章(みたいなヤツ)が消えてた事件がありましたよね。


あれって、くれた人に再びマミエル時にはちゃんと首にかけて会わないといけないのに   無い!ない!見つからない! で大騒ぎでしたよね。


誰が盗んだ?
紛失した、では国際的な大恥です。


結局、スペイン国王からお借りして首から下げて会った、と。


機長預かりって言ったって
機長が責任をもってあの狭い場所に保管するんじゃなくて
地上職員がカーゴで働いてるお兄ちゃんに手渡すだけで
実際に特別扱いはしなかったってのがバレバレになった事件。事故の方がいいのかな?


     で   宮内庁は機長預かりでお願いした   とか
     水掛け論に。

     結局どうなったのかな?

     出て来た、というハナシは聞いてないけど  
     出て来た、ということで処理したのかな?組織はこういう処理がおトクイだろうし。


おそらくステーション・マネージャー以下の処分はあったのだろうな、と想像する。
いえいえ
もっと上も処分されたのかも。


どうなったのか関心はあったけど後日談は知らない。


なんせ、どこやらの警察署で犯罪の証拠の8500万円が消えた事件もあったし。
やっぱり勲章紛失事件も内部犯行だったのかな?
[45]三つ柏服部さんからのコメント(2019年04月19日 13時33分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。

 三種の神器の本来性については、三島敦雄氏はその著書『天孫人種六千年
史の研究』の中で――
 
 「三種の神器は、その名称のごとく、神であって断じて単なる器物ではな
い。つまり「鏡」は「日神」、「頚飾(形は三日月形か長円形か曲玉形かは
はっきりしない)」は「月神」、「剣」は「軍神」の表像である」(要約)と
述べております。

 「表像」ということは、「神の依代」ということにもなりますので、本体
から複製へ神降ろしをすれば、複製が本体と同様の意味を持つということに
なり、それはそれで何ら揶揄されるべきものではないということになります。

 あを様のいうように、これは余りけがしてはいけないタブーの領域であり、
静かに見守っていればそれでよいと、私も思いました――

 
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月19日 15時18分17秒 ) パスワード

三つ柏さん

>これは余りけがしてはいけないタブーの領域

    >これは、けがしてはいけない、タブーの領域

ですね。「あまり」は抜きます。


穢しては母方我が家の、他ならぬ、自分の先祖を否定することになりますし。


>「表像」ということは、「神の依代」ということにもなりますので、
>本体から複製へ神降ろしをすれば、
>複製が本体と同様の意味を持つということになり、
>それはそれで何ら揶揄されるべきものではないということになります。

まさに  ココ  ですね。



わたくしが勝手に思っていることは
    宝剣は、アレは実は回収されていたけれど、佐伯氏が密かに隠した
    のだろう
です。


    隠した場所は厳島神社か宇佐神宮。
    このどちらか。
    おそらく宇佐神宮じゃないか?


佐伯氏は平家との関係があって
   天皇は安徳天皇である=後鳥羽天皇の即位を認めない
ということで宝剣を義経や後白河に引き渡さなかったのではないか
と思っています。


わたくしの中の平家方父方先祖と後鳥羽上皇との関係の深い母方先祖のことがあるので
「翔んで、埼玉」の菅原愛海(島崎遥香が演じた)みたいに
父と母の間で困惑する
心が引き裂かれる
そんな感じ。


後白河院が「見つからないなら宝剣はコレで」と指示すれば
それが宝剣なのだから
これで母方先祖が1457年12月まで頑張ったのが報われます。


かといって

平家方が三種の神器を持ち出して
「海の底の天皇の御座所に安置するものぞ。誰が源氏方になんぞ渡すものか」
の覚悟で入水したのだから 「ザマァ」の気持ちも分かってしまう。


この問題には21世紀の今でもココロが引き裂かれます。
[47]三つ柏服部さんからのコメント(2019年04月20日 06時30分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今生天皇と新天皇の退位と即位に関する今後の儀式は、次のとおりであ
ります――
  
・4月30日:退位礼正殿(せいでん)の儀
・5月 1日:剣璽等承継の儀
       即位後朝見の儀
・10月22日:即位礼正殿の儀
        祝賀御列(おんれつ)の儀
・10月22日以降:饗宴の儀
・11月14日〜15日:大嘗祭(だいじょうさい)


 「剣璽等承継の儀」にみられるように、「剣」と「璽」の2点セットが
いずれにしても主役のようでありますが、古事記の「天安河の誓約(あめの
やすかわのうけい)」には、このようにあります(浜松市博物館情報)――

 「須佐之男命が、自分に悪心はないことを天照大御神に話すと、須佐之
 男命の心が正しいかどうか判断するために、天安河をはさんで誓約(うけ
 い 正悪を判断する占い)を行いました。天照大御神は須佐之男命の「剣」
 から三柱の女性神を、須佐之男命は天照大御神の「まが玉」から五柱の男
 性神を生みました。この結果、須佐之男命は正しいと判断されました。」

 つまり、「剣」と「璽(まが玉)」の二種には、このようないわくがあった
のであります――

 
 
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月20日 14時09分08秒 ) パスワード

三つ柏さん

>剣璽等承継の儀

非常に最近のことだったのだなとウイキでも情報を得に行って来ました:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%A3%E7%92%BD

剣璽(けんじ)は、三種の神器のうち、天叢雲剣と八尺瓊勾玉を併せた呼称。
神器の勾玉を璽(あるいは神璽)とも呼ぶため、「剣璽」と称される。



剣璽の間

御所の天皇の寝室の隣に土壁に囲まれた塗り籠めの「剣璽の間」があり、
そこに神剣(天叢雲剣の形代)と神璽(八尺瓊勾玉)が安置されている。

神鏡(八咫鏡の形代)は宮中三殿の賢所に神体として唐櫃に納められて安置されている。

中世の天皇は、剣璽の間の入口を背にして座るのが正式とされた[1][2]。
剣璽は天皇の寝室の隅に置かれたため、最初寝室であったものが、大切な物を置く場所になり、それが剣璽の間になったと考えられている[1]。



剣璽動座

戦前は、天皇が皇居(宮城)を一日以上離れる場合に、必ず侍従が捧げ持ち随行した[3]。
これを剣璽動座という。

しかし、第二次世界大戦後に「皇位神聖否定」の一環としてGHQに中止させられた[3]。
        


剣璽動座の伝統が復活したのは、第60回式年遷宮の翌年である1974年に昭和天皇が剣璽を伴って神宮を参拝した時である[3]。

その後、天皇の神宮参拝の際には携行されるようになった。

                     これは知らなかった。


剣璽渡御の儀(剣璽等承継の儀)
https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%89%A3%E7%92%BD%E7%AD%89%E6%89%BF%E7%B6%99%E3%81%AE%E5%84%80%E3%82%92%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%84%80%E5%BC%8F%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E8%A1%8C%E3%81%86%E4%BB%B6

剣璽等承継の儀を国の儀式として行う件の原文 1989年 昭和64年1月7日内閣告示第4号

〇内閣告示第四号

一  国の儀式として、剣璽等承継の儀を行う。
二  剣璽等承継の儀は、昭和六十四年一月七日、宮中において行う。
三  剣璽等承継の儀の細目は、宮内庁長官が定める。

昭和六十四年一月七日
内閣総理大臣  竹下    登

                       竹下元首相は新天皇即位の時には必ずお名前が出ることになってラッキー!
                       草葉の蔭で喜んでいるのだな、と。

                            日本の「歴史」の中でも特異な国の告示ですものね


剣璽等承継の儀(1989年(昭和64年)1月7日)       懐かしいです。


剣璽渡御の儀は、天皇が譲位・崩御の後、皇位継承者(皇嗣)が践祚の際に皇位継承の証として剣と璽を受け継ぎ、新天皇となる儀式である。

神体である剣と璽が新帝の下に自ら動くという建前から「渡御」(神・天皇等が「渡る」ことをいう尊敬語)という表現がとられる。

この儀は、新天皇を国民や外国に公にする為の即位の礼とは違い、天皇崩御の直後に行われる。

桓武天皇の時代に定められた儀式(初例は平城天皇=へいぜいてんのうは桓武天皇の第一皇子)とされ、
平安時代中期以後は践祚直後の「夜の儀式」として行われた[4][5]。

1909年(明治42年)に制定され、戦後廃止された登極令(明治42年皇室令第1号)によれば、侍従が「奉仕」して「渡御」する剣と璽及び、内大臣秘書官が捧持する国璽と御璽を内大臣が天皇の前にある机の上に置くことが行われる。

なお、三種の神器のうち神鏡は宮中三殿の賢所の神体であるため、この儀式では動かない。剣璽渡御の儀と同時刻に「賢所の儀」が行われ、賢所で皇祖神天照大神に対し践祚の旨が告げられる。

今上天皇皇位継承の際の1989年(昭和64年)1月7日には、日本国憲法の政教分離規定への配慮から「剣璽等承継の儀」とされ、国事行為たる儀式として、剣・璽及び国璽・御璽を侍従長が新天皇の前にある机に置く短い儀式が、皇位継承後まもなく10時01分より宮殿の正殿松の間で行われ、テレビ中継された。


                       懐かしい!

                       桓武天皇以降だった、というところが、ナルホドねぇ〜
                       やっぱりワタシは日本史を生きているんだなぁ〜
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月21日 02時31分41秒 ) パスワード

今朝のニュースで、フランスでは「ノートルダム寺院再建よりも我らに保護を」と騒動になっていて
警察が暴力的グループを分離排除している
らしいライブを流していました。

            と、言っても
            ジムのテレビなので音声は使ってない画像のみ


で、考えた。



            安倍さんが再建の支援するから言ってくれとマクロンに伝えたらしい
            日本の木造建築技術は世界最高峰だからね
            宮大工で修行したヒトの技術はすごいものがあるそうです


こういうのを見てて
奈良の大仏は、あれは何だったのかな?と。

聖武天皇にとっては自身の救済政策だった?
駆り出された庶民にとっては   ?   一応食糧は出たろうから腹を空かせた庶民には助かった事業?
しかし留守を守った故郷の女子供にとっては男手をとられた農作業はいかばかりであったか?


などツラツラ考えた。


今や世界的な格差社会で
それこそムカシの貧民階層絶賛再増産中。

      ドイツでもドイツ銀行が破綻寸前で(大き過ぎるから潰せない  Too Big To Fail  ての)
      自動車産業もガタガタで  (フォルクスワーゲンの不正から拡大)
      今や反脱原発で  笑  要するに  今は原発が必要ってコト 
          (石炭による火力発電は地球温暖化と大気汚染の元凶でソコに福島事件が重なったから脱原発運動になってた)


そしてフランスの雨傘じゃなかった黄色いヴェスト運動が今に至ってオオゴトに。


ノートルダム再建の資金を我らに還元を
ということかな?
200年かかって完成したらしいからね。

           大仏建設は7年
               (聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始。
                天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)。


マクロンは5年で完成させると言ってるけど
資金は既に500億円かき集めた?
今後どんどん増えるだろうし。


自分の国を、国民を、助けないでドーする?
と言っても
国内から製造業が逃げ出し
移民難民で保護はそっちに回るし

国民(若者層)には自分らだって助けて欲しい苦しいんだ
だし。


ハワイでも
外国からの移民は無料の部屋に入れたり月に500ドルで借りられたり
でもフツーの住民は1部屋のアパート代が月に1500ドルとか2000ドルで古くて汚いのに家族で住んでいる現実がある。

最低賃金が今は時給15ドルなのかな?(ヨソの州では18ドルだったりする)

時給15ドルでプラプラしてる従業員を雇う事業主がどれだけいるのか?
結局は倒産とか廃業だろうね
そうすると困るのは  誰?


今はどこでも一触即発だろうね。
美しい文化、誇らしい文化の影にどれだけの涙が流れたのだろうか?と考えた。



時給アップ要求ストでハワイのホテルの従業員達が1か月ストをやってた。
10連休前に解決しててラッキー。
重なったら大変な事態になるところだった。


             ワタシはとっくにそういう世界から足を洗ってる。
             すまぬ

[50]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月21日 15時26分40秒 ) パスワード

今日同窓会からの年報が来て
訃報欄(最近ここを最初に見るようになった)に

羽柴姓の先輩が出てた。ビックリ    島津藩だけでなく東北にも匿われた秀吉の関係者がいるんでしょうね

もう1人は読み間違えて普恩寺姓の先輩かと思ったら
別の変った姓で
日本に両手で足りる人数しかいない希少姓の先輩だった。

          普恩寺?と思ったのは
          北条仲時さまの一族?と思ったから。

          普恩寺姓で今に続く家がある?!
          それもワタシの先輩で?!
          と大感激だったのに
          全くのドジでした。

          前世のわたしがらみの子孫?と早とちりしただけだった。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月22日 03時29分33秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100806_24.html
レス  [21] としちゃんさんからのコメント(2012年02月14日 16時59分16秒 )

>島原の安徳村をさらに追われた平家の一門は、諫早まで逃れたそうです。

諫早には熊野神社(熊野神社は平家の神様だそうです。)がいくつか有り、
そのうちの破籠井(わりごい)の熊野神社は平家の将讃岐中将伊賀倉左近平時実の一族主従八人が定住し建てたものだそうですよ。

>ここでは毎年百手祭りと言う神事をやるので有名なので、御覧になると良いと思います。

>また、それとは別に真実は明らかではありませんが、
>安徳天と仁位尼の碑と言うのも島原街道を諫早に向かう途中の夫婦木にあるそうです。

>こちらは単なる言い伝えかもしれません。

>また、僕は北九州市の門司で生まれたのですが、
>門司の中心街は今は無粋な役人のせいで(あるいは源氏一族の陰謀で?)地名が変わりましたが、
>僕が子供の頃は大里(元は内裏?)と呼ばれ、
>風呂の井戸(安徳天皇が使われた井戸の跡)や柳の御所が有り、
>平家の縁の史跡が数多く有ります。



古いスレッドが上がって来てて
読んだら

わたくしが諫早の西郷家にシンパシーを非常に感じる原因がココなのかなと思いました。


    西郷家の侍大将の服部右京?左京?に引っ張られるのですが

    ま、南朝方というくくりだろうな、とは思っていました。

        あの辺りに母方先祖がらみの領地があって  神埼だったかな?

    でもやっぱり父方先祖で引っ張られるのは確かなんだなと。


・西郷一族の1つが三河に来てて家康の子を産むことになった
・鹿児島の西郷さんが遠島の刑で菊池と名を変えていた
・幕末の会津の家老の西郷氏と島津の西郷さんが会ったこと



>讃岐中将・伊賀倉左近平時実

このヒトは1180年あたりに讃岐を治めていた平維時の一族なのかな?

伊賀と名乗るということは伊賀の服部家と関係関係があるのかな?


ということで戦国時代や幕末は  やっぱり  諫早+西郷+菊池+服部  の線が
平家で南朝方でくくれるのかも。

なんか涙が出る。
[52]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年04月22日 12時50分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 内視鏡大腸検査を行い、ポリープを取りました。ここ十年で六個取りまし
た。担当医は「僕は八個取った」と自慢げに話しておりました。

 内視鏡検査の直前に、麻酔薬のような薬(精神安定剤に分類)を点滴液の中
に注入する訳でありますが、針が挿入されると、1、2、3、4、5……で
突然意識がストンと落ちます。
 それは、過去何回やっても、必ずそのパターンであり、徐々に意識がなく
なるというパターンはありません。あくまで、白から黒へ、昼から夜へとい
うように一瞬の世界であります。

 死というのは徐々に意識がなくなって行くのか、それとも一瞬で意識がな
くなるのか、その疑似体験のつもりで味わっておりますが、「意識」と「魂」
とは別のものであるのか、その辺も突き止めたいとは思っております。でも
それはどうも期待薄のようであります――
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月23日 04時28分14秒 ) パスワード

三つ柏さん

ポリープの切除で済んでラッキーですね。

わたしは2回全身麻酔をしてて(あ、来たな)と思った瞬間に眠ってました。
    一昨年前のピロリ退治で受けた2回目の時の全身麻酔は術後不快でした。へたくそだった。
    1回目は大腸癌検査でそりゃあ気持ち良い眠りで、マイケル・ジャクソンが中毒になった(そして亡くなった)のも良く分かりました。
    ホントに全身麻酔のあの眠りから覚めた気持ち良さは病みつきになりそうです。
    だから麻酔医の非合法使用ってのの気持ちが分かったりします。笑

          ただし、この大腸癌検査は保険の適用がなされず、物凄い金額を払いました。
          麻酔医への支払いだけですごい金額ですからね。
          医療保険を2つ持っていたけど、両社とも払ってくれなくて、しっかり泣きました。あの心地良い目覚めの代金は高くつきました。



オットの母親は前から便秘気味で、義兄の病気が心配で、医者の予約を無視した半年後に大腸癌の手術で袋になりました。
これは大変です。かぶれるし。


                       わたしの友人は袋が外れて中身が足許にぶちまけられるという体験をしています。


   ま、大腸癌も場所によってはということで、小腸に近いところだった知り合いの父君は袋にせずに済みました。


義母はマーガリンが好きで、それで大腸癌になったクチだそうです。


マーガリンとかショートニングとかというかトランス脂肪酸は巨悪の根源ですが
日本じゃまだ禁止になってないそうで?
きっとマーガリン業界から多額の政治資金を受け取っているのかも。


わたしは朝起きてからケーキを食べて学校に行くタイプで
ケーキやクッキーが無かったらご飯を食べるよりしょうがなかったのですが

義母が大腸癌になってからはケーキは食べていないです。

働いてた時は誰かがケーキとかクッキーとか持って来てたから、道具箱に隠して仕事場に持って行って食べてました。


日本女性の癌での死因の第一位が大腸癌ということで
    汗が噴き出ます
義母が大腸癌にならなかったら今頃わたしは大腸癌で死んでたのかも。


今は、ここ10年は、自分でケーキとかクッキーは買ったことがありません。
ヒトがくれるから食べるけど、半分はマンションのコンシュアージのお姉さんに上げてます。


男性の場合は大腸癌での死亡はあんまりいないでしょうけど
大腸癌になると膀胱癌への転移からの死亡率が高いし
それよりも前立腺癌になったら、この検査は大変です。


知り合いの医者(奥さんが日本人)はPSA値がかなり高いということで
前立腺癌の可能性があるとかで
検査に行かなきゃいけないけど、とぼやいてました。
「あの検査さぁ〜、泣けるよぉ〜」

それで「中国人はかぼちゃの種が良いって言うし、他にはニンジンとかのビタミンA系が予防に良いって聞くよ」と
医者に教えてあげました。赤面


オットの父親が前立腺癌だったから一応大変さはちょっとだけ知っています。


          オットは一族みんな癌家系なので


なので大腸癌検査の前の準備の大変さはホント嫌ですが
大腸癌にしてしまったら転移が心配ですし
肝臓に行ったら余命3か月かな?


とにかく癌にさせない!
キッパリ

ということでお互いに嫌な検査も受けて後でにっこり報告し合えるのがいいですね。

[54]三つ柏服部さんからのコメント(2019年04月23日 23時48分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、タケノコ狩りをいたしまして、夕飯にはタケノコご飯をいただき
ました。子供のころはタケノコは嫌いでしたが、年をとるとむしょうに好き
になるものですね。タケノコは一日に一メートルも伸びることもあるという
ことで、驚異的であります。
 去年の台風二十四号の被害(風と塩害)により竹は倒され、葉は塩害で枯れ、
タケノコは全般的に不作で、値段も高いです。

 江戸時代には、竹藪は管理され、竹を供出する義務も課せられたようです。
竹は、竹槍にもなり、弓の材料にもなり、防弾壁にもなり、馬房柵にもなり、
その他諸々、利用価値の高い資材でありました。

 本日はまた、服部本家筋(はっとりさま)の調査に一歩踏み込みました。一
ヶ月以内には、何らかの情報がもたらされるものと思います――

 
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月24日 07時00分59秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101665.html
長上郡の服部氏族CXXI:121:現場100回−2

をご用意致しました。
キリの良いところでどうぞ。


>本日はまた、服部本家筋(はっとりさま)の調査に一歩踏み込みました。
>一ヶ月以内には、何らかの情報がもたらされるものと思います――

良い情報がゲットできると良いですね。
楽しみです。

気長に待っていますね。
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