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 投稿番号:101651 投稿日:2019年01月02日 04時57分48秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏紋の服部さんの代理
長上郡の服部氏族C]Z:117:長上郡歴史まとめ
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101650_44.html
長上郡の服部氏族C]Y(課題確認59):116
の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


スレッド43より引用:

この遠江長上郡の服織神社について、鳥瞰的に考えてみました。

浜北図書館の蔵書(浜松中央図書館にもあると思いますが)
『静岡県 郷土研究』(静岡県郷土研究協会編 国書刊行会)「第八巻」で
伊藤源作氏が「浜松付近の上代観」というテーマで論文を書いておられます。


<浜松地方の歴史的重層構造>は
@海人系―安曇氏の到来
A出雲系(出雲族、大神族)の到来
B物部氏族の到来
C帰化系―秦氏、漢氏の到来
ということになります。


これに服織神社の祭神の推移をいろいろ勘案して整理してみると――
@ハトリ(服織、服部)神(海部等海人系にからむ)
A天穂日命(出雲臣)
B熊野権現
C諏訪系(がプラスされる)


つまり、氏族でいいますと
@服部
A永井(長田)
B鈴木
C松島(諏訪系)
となります。


           加藤は別筋として、、

この氏族の@ABは正に、当地(私の住む村)にかたまっておりますし、
Cは江戸時代より服織神社の神官を務めております。
もちろん、当地の主要一族であります。
加藤氏は趣が少し違う氏族であると思います。



いずれにしましても、上代の歴史層(レイヤー)が、神社の祭神に忠実に残されているような気がいたしております。

つまり、それは服織神社を中心とするベクトルの一致する者同士が「類が友を呼ぶ」ように集まったのかも知れません。

また、それに加え、
@とAとBは南朝関係の同志でもありますし、
@とAは平氏同志でもあり、
AとBは熊野信仰でつながっております。
 

わが村の氏族構成が、全くの偶然の集まりというよりも、やはり寄せ集める何らかの「引力」が働いていたと考える方が自然かなと、強く思うようになりました。

以上コピペ

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月02日 08時22分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッド、ありがとうございます。

 五百年、千年、二千年、三千年の歴史は、いわば地中深くに眠っておりま
す。我々は、知っているようで、知らないことばかりだと思っています。
 従って、歴史探求はエンドレスということになります。定説はくつがえさ
れ、また新しい説が登場する……のだと思います。
 そういう意味で、歴史探求の壁にぶつかった時は、発想を変えるなりすれ
ば、必ず脱出できるものと信じております。

 本日は、こりからデパートの「初売り」に付き合わされます――
[2]三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月03日 08時37分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 デパートの前には、二〜三千人の人が列をなしていたのには驚きました。
すでに景気が良くなっていると判断できる材料になるのかも知れません――

 さて、あを様、「阿保」とかいて「あお」と読んでいることを知っていま
したか? もちろん「あぼ、あほ」でもいいと思うのですが、伊賀では今は
「あお」と読んでいるらしいです。
 平城天皇の第一皇子に阿保親王(あぼしんのう 平城天皇の第一皇子)がお
りましたが、この阿保という呼び名はどこからきたのかは今の所わかってお
りません。阿保親王を祖として名張の大江氏が出ています。

 通称、阿保親王と呼ばれる人はもう一人おりました。

 ここで、一旦切ります――

 

 
 
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月03日 09時44分54秒 ) パスワード

三つ柏さん

わたくしも今日は朝から買い物で大変でした。
2か所目は列が凄くて自主敗退。

3か所目のクリスマスの売れ残りセールは何にも目ぼしい物が無くて敗退。

4か所目のところでお釣りをごまかされました。
大敗

5か所目は思わぬ物が安くなってて
これで負けを取り返せました。


帰宅して近くの日本レストランに行ったら行列が出来てて
若い女の子ばかり10人+たむろってたので逃げ帰りました。
若い子は元気だ。


>阿保


「あほう」と読まれて気の毒ですね。


【名字】阿保
【読み】あぼ,あほ,あぼう,あんぼ,あやす,あぽ,おかやす
【全国順位】 3,171位
【全国人数】 およそ4,100人


現三重県北西部である伊賀の大族、阿保君、阿保朝臣などにみられる。
ほか阿保連、丹党、小槻山公などにみられる。

北海道、青森県、東京都、埼玉県などに多い。

なかなか由緒正しい姓のようですね。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月03日 14時05分20秒 ) パスワード

「家康 江戸を建てる  水を制す」を見ました。

見てるだけでも内臓を掴まれるようなストーリーで
三河人とはスゴイな
と思って見てました。


     大久保長安、しっかりヒールでしたね。
     あれじゃ、足をすくわれるな、と。
     あんなイヤなヤツだったんでほうかねぇ。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BF%A0%E8%A1%8C


大久保藤五郎忠行

(おおくぼ ただゆき、生年不詳 - 元和3年7月6日(1617年8月7日)
戦国時代から江戸時代の武士、治水家。

宇津忠茂の五男。  宇津姓 → 越前の大窪藤五郎から大窪姓を貰う → 大久保姓へ

大久保忠俊・大久保忠員の弟。妹は大久保忠世の家臣の加藤景成の妻。
妻は遠山氏の娘・伊可。


通称は藤五郎、主水(もんと)。


三河国上和田=現岡崎のJR岡崎駅付近=の武士。

      上和田城はJR岡崎駅から北西約700mの所。
      跡地には上和田公民館が建っています。

             知らなかった。


徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)に三河国宝飯郡赤坂郷で領地300石を与えられる[1]。
永禄6年(1563年)、三河一向一揆に三河大久保党三十六騎の一人として出陣するが、
鉄砲の弾が腰に当たって落馬・負傷し、以後歩行が不自由となる。


これにより実質、侍としてのいわゆる「槍働き」ができなくなり、
戦役を免除され三河国上和田に住んだ。

何処で覚えたのか定かではないが、忠行は菓子類の制作ができ、この技術により家康の陣営に茶菓(餅)を献上する役目、いわゆる菓子司となった。

忠行の作った餅は駿河餅、ないしは三河餅と呼ばれ、この餅を含めた各種の菓子は家康の嗜好に合ったらしく、度々忠行にこれを求めていた。

また、家康は毒殺を恐れて普段から献上される餅を食べなかったが、忠行から献上された際には彼を信頼して食べていた[2]、などの話が残る。


三方ヶ原の戦いの際には従軍する代わりに、出陣に際し六種の菓子を家康に献じ、その後それが家例となった[3]。


神田上水

天正18年(1590年)7月12日、江戸城下の上水工事の命を受ける[4]。
その後、約3か月で小石川目白台下の河流を神田方面に通し、これは後の神田上水の元となったとされている。
また、この功績により家康から「主水」の名を与えられたが、水が濁ることを嫌って「もんど」ではなく「もんと」と発音するように命じられた[5]。


元和3年(1617年)7月6日死去。
墓所は東京都台東区谷中の瑞輪寺、戒名は清浄院蓮来日富。

実子は無く、甥の忠元(兄の忠員の子)を養子とした[6]。


主水の子孫は代々「大久保主水」を名乗り、幕府御用達の菓子司となった。
江戸城内での行事に使用する菓子類の制作時には、歴代の大久保主水が責任者となり采配した。

幕末の大久保主水は徳川宗家の静岡移動にも従い、娘を旧幕臣の重鎮で同族の大久保一翁の子息の嫁としている。

大正13年(1924年)2月、贈従五位[7]。



https://blogs.yahoo.co.jp/kanezane2/24131429.html
以下コピペ:
【大久保一族の発祥地】
場所   愛知県岡崎市上和田町南屋敷
大久保一族発祥地。

この辺りは、三河譜代の臣として幕末まで続いた大久保一族の屋敷があったところです。

上和田には城址があり、大久保忠教以降、代々の居地でした。

家康、秀忠、家光の三代に渡る将軍に仕えた大久保彦左衛門もここで生まれています。

                大久保彦左の屋敷跡には行ったことがあるけど  へぇ〜


また大久保一族の墓は竜泉寺町の長福寺にあります。

上和田城から県道を挟んで北側の字北屋敷にある浄珠院。
三河一向一揆が起きた際、ここに家康が本陣を置いたと云う。


南西へ行くと糟目犬頭神社が鎮座。
ここは本多作左衛門重次の生誕地と云う。



妙國寺
境内には宇都宮泰藤の墓がある。

大久保氏は下野宇都宮氏の庶流である武茂氏からの分流で、
南北朝の争乱の際に武茂時綱の子の武茂(宇都宮)泰藤が三河国に移住したのが始まりと云う。

境内には大久保家遠祖の供養塔が建ち並ぶ。




知らなかった
大久保一族は岡崎だったのか。
幸田の方かと思ってた。
活躍したからアチコチに分散したんでしょうね。
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月03日 20時57分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「家康 江戸を建てる  水を制す」は、こちらでは夜の九時からでしたの
で、酔いが回って寝てしまいました。見れなかったのは誠に残念でした。水を
制さずに、江戸の発展はありませんでしたので、そういう観点からも是非見た
かったと思いました。お菓子の話とはまた思わぬニッチな世界でおもしろいで
すね。関の服部さん(菓匠)も、江戸の話ではありましたが、きっと見たかもし
れません……。

 さて、本日は丸子の丁子屋のとろろ汁を食べに行ってきました。いつもなが
ら大満足であります。何とも言えないおいしさであります。また食べたいと必
ず思うのは、とろろ汁とうなぎであります。

 これで三賀日が終わりましたので、明日からはほぼ普通の生活に戻るのかな
あと思います。

 阿保の話の続きは、明朝といたします――
[6]三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月04日 10時02分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 武内涼の『忍びの森』という小説を読み始めております。『戦都の陰陽師』
という小説を過去に読んでおりまして、その伝奇的ホラー感、博物物学的リ
アリズム感、かつジェットコースター的スピード感に魅了された覚えがあり
ます。
 その『忍びの森』という小説は、「天正伊賀の乱(一次、二次)」の戦いの
後に、逃亡して行く紀伊山中の鬱蒼とした森での、おどろおどろしい戦いを
描いたものでありますが、その中で、伊賀に関する蘊蓄(うんちく)―ある
意味で新鮮でおもしろい解釈がありましたので、少し長くなりますが、要約
の上、記してみます。但し、出典は書かれておりませんので、どこまでがい
わゆる歴史論文的記述なのか、どこからが創作的表現なのかははっきりとは
しません。が、スッキリした納得感はあります――

 「明治時代の富国強兵政策により、大規模な森林伐採が行われる前までは、
 甲賀、伊賀から紀伊山地にかけての広大な山々は、人を寄せ付けぬ太古の
 森に覆われていた。」
 
 「この失われた森に、古代から中世にかけて様々な者がやって来た。修験
 者(山伏)、杣人(そまびと 森の荘園で働く人)、都落ちの盗賊…等々であ
 る。こうした人と里人が混じり合い、忍びの先祖となって行く。
  呪術と棒術を得意とし、岩山を荒行する山伏、巨木にするすると上る杣
 人、夜襲や火付け、隠密行動を得意とする盗賊……忍びは先祖から様々な
 技術を吸収して行った。」

 「伊賀盆地は上質な"砂鉄"の産出地であった。北伊賀の佐那具、南伊賀の
 依那具には、特に大きなタタラ場があった。
  古代朝廷は、タタラ場の管理を大陸渡来人の集団に任せた。佐那具の製
 鉄所は、新羅系の"秦一族"が管理した。秦氏の子孫が有名な"服部一族"で
 ある。
  また、甲賀地方には、大規模な百済人入植地があった。
  大陸渡来人の有する最新の科学技術が、山の民の肉体に入り込み、忍者
 を誕生させたわけである。」

 ここで一旦切ります――
[7]三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月04日 10時45分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 続きです――

 「もう一つのタタラ場、依那具も渡来人・阿保(あお)一族が管理した。阿保
 氏の正体ははっきりしていない。熊野から伊賀へ移った最古の渡来人である
 "御色多由也(おいろたゆや)"の末裔であるらしい。」

 「御色多由也は、秦帝国の圧政を逃れ、日本に亡命した"徐福一行"の一人で
 ある。斉(せい)王国の女性で密偵を生業とした。即ち、我が国に"忍術"を伝
 えた最初の人である。徐福一行は、弥生時代の日本に漂着、彼らが住んだの
 が紀州熊野の地であった。」

 「御色多由也は、もう一人の女性と熊野を離れ、伊賀に移り住んだ。そして
 この地の人々に、惻隠術と千里眼術を教えたと言われる。
  この多由也の子孫が"阿保(あお)"を名乗ったと考えられる。何故ならば、
 阿保とは、"青"であり、それは多由也が伊賀に伝えただあろう"青銅"に通じ
 る。さらに多由也の故国、斉は漢帝国下で、"青州"と呼ばれている。」

 「続日本紀によれば、垂仁天皇は自分の息子、息速別命(いこはやわけのみ
 こと 通称、阿保親王)に、伊賀国の阿保村の支配を命じている。
  通称阿保親王を父に、渡来人阿保氏の娘を母にして、伊賀上忍"阿保一族"
 が誕生する。拠点は阿保城(伊賀市阿保)、近くには阿保親王塚もある。
  伊賀最大の実力者として、よく服部氏が知られるが、阿保氏は皇室と伊賀
 流忍術の祖、御色多由也まで遡る。服部氏以上の隠然たる力をもっていた…
 …と推測できる。」

 「黒衣を基本とする伊賀六十六流にあって、ただ一家、"青色の忍び装束"を
 まとった忍家があったという。伊賀阿保党(いがあおとう)と呼ばれた者たち
 である。」


 あを様、「あお」の不思議な魅力、一口では言えませんが、いわば「神に
通じる色」なのかも知れませんね。
 
 一度、伊賀の阿保・青山あたり、あるいは初瀬街道を訪ねてみます――
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月04日 14時07分55秒 ) パスワード

三つ柏さん


すごい!
背筋がゾクゾクします。


>呪術と棒術を得意とし、岩山を荒行する山伏、巨木にするすると上る杣人、
>夜襲や火付け、隠密行動を得意とする盗賊……
>忍びは先祖から様々な技術を吸収して行った。


実は友人といろいろネットで語っていて

    コピペ:
    硝石を化学的に作ることを,世界最初に発明したのが,伊賀者と言われています。
    小便とミョウバンで科学反応をおこさす。
    白川郷なんか,年貢の替わりが火薬でした。
    第1次大戦が長引いたのは,イギリスが海軍力でペルーの硝石を,ドイツが輸入できないようにしましたが,
    ドイツは,化学的に硝石を作っていたので痛くもかゆくもなかった。 
   (笑)
    戦国時代,ヨーロッパに50万人の日本人女奴隷が輸出されましたけど,これは硝石との引き換えです。
    大友宗麟が,一番ド派手にやったので,周りから嫌われていた。
    次が武田信玄です。
    ですので,大友家も武田家も大名として復活できなかった。

こんなハナシを交換してました。


1990年以降のアメリカの教育は  STEM教育に重点を置いていて
S  サイエンス       科学
T  テクノロジー      技術
E  エンジニアリング    工学 
M  マテマティックス    数学
この4つを同時に学ぶのだそうです。

これはワタシ達世代の過去の理工系のような学問の追及ではなく

新たな価値の創造  イノベーション
問題の解決力    プロブレム・ソルビング
思考力       クリティカル・シンキング
共同制作      コラボレーション
といった能力を駆使してSTEM全領域にまたがって新しいものを創り出すことのできる新時代の人材育成を目標としているんだそうです。


まさに上記2つのレスに三つ柏さんが書いてくださったような総合的なことですね。


さらに伊賀に移った古代人は  身体能力  にも優れていた。

確かに垂直な「木」にするする登ることのできる人がいるんですよね。
勿論ハワイには椰子の木に登ってココナッツを叩き落とす人や
アメリカとの国境線では背中に麻薬を背負って塀を軽々と登る人がいくらでもいる。


>忍びは先祖から様々な技術を吸収して行った

昨年からワタクシがガタガタ騒いでいる(赤面)男の子は身体能力抜群。
DNA的に発達しているんだろうなと。

そしてワタクシの家系は理数系が得意。除:ワタシ   私は残念ながら無芸大食


彼らはフツーの人々のしない努力をして学問もして技術を磨いていたのだろうなと。


人と同じことをダラダラやってては成長が無い。
借金して大学に行っても底辺に留まってしまう。
欲しがってもらえる能力を身につけないとね。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月04日 14時36分28秒 ) パスワード

本日の「家康  江戸を建てる  金貨の町」を見たところです。

安い制作予算でスゴイ内容のドラマでした。
家康vs秀吉の経済戦争。
すごかったですよ。
秀吉の豪華な大判ではなく、
家康は「天下万民に流通する=良質の=日本初の小判」の必要性に目を付けるのです。

とにかく  家康というオトコは  スゴイ。
家康は目先の豊臣家潰しなんてことより、いかに日本を纏め人民が安心して暮らせて経済を発展させるか、を考えているのです。

日本がこの30年モタモタ停まったまま、どうしようも出来ないでいる歯痒さが
なるほど  人材がいないんだ  と分かります。

教育も古いままで
将来の方向性を決める人もいないし
応えられる人材もいない

日本が衰退していくのをワタシは、今、目撃中ってことなのか
と。

日本だけじゃないですけどね
ヨーロッパもEUでヌカルミに足を取られているし
アメリカのSTEM教育を古い人間は理解できないし


     ワタシの時代は垂直思考と平行思考がドータラと職場で教育受けてたけど
     正直なところついて行けなかったワ  自虐   脳神経細胞死して既に何十年?


千里の道を往き万巻の書を読み多くの人と語り合い歴史に学ばないといけませんね。


秀吉vs家康の流通貨幣権威主義と実用主義戦争は気づかなかったな〜
[10]三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月05日 23時18分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 最近わかったことでありますが――

 "当村"の永井氏の宗教は神道でありました。
 永井直勝はもともと神主でありましたので、この地の永井氏もそれを引き
継いでいると解釈できる可能性があります。また、永井の大本家筋の墓には、
江戸時代のものが現在の墓の後ろ置かれており、現代のものの家紋は「永井
切り梨」でありますが、一番古いと思われる墓石に刻まれた家紋は「一文字
三星」でありました。永井直勝もそうでありましたので、本家筋とつながっ
ている可能性大だと思われます。

 服部家の本家筋については、"服部さま"の屋敷跡を歩測してみたところ、
現在の敷地ではありますが、東西約50m、南北約60m、面積約3000
u=約910坪程でありました。過去へ遡れば、もっと多かったのは確実で
ありましょう。敷地内には、家人(使用人)の住居や、蔵は当然複数あったと
いうことです。
 村の寺の墓地には、"服部さま"の笠付の墓(服部家累代の墓)が特段に高く
全体を見渡しているかのように建っております。また、菩提寺である笠井の
定明寺の位牌堂においては、位牌は最奥の列の観音様のすぐ近くにあります。
 これらから想像できることは、庄屋(名主)に近い、あるいは庄屋以上の地
位であったことは、"さま付"で呼ばれるとていたことも考えると可能性は大
だとと推測されます。ただ、具体的な文献がどういう訳かほとんど見つかっ
ていないということは残念であります――

 たぶん、永井と服部の関係がわかれば、服部家のルーツもわかって来るはず
だと考えております千―
 
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月06日 06時59分50秒 ) パスワード

三つ柏さん

>永井と服部の関係がわかれば、服部家のルーツもわかって来るはずだと考えております

分かると良いですね。
なぜ服部家の家紋が三つ柏紋なのか、永井家から分かりそうですからね。


伊勢国の秦氏系服部さんの家紋は「笹竜胆」だったか
え?
なんで?
源氏みたい!
と思った記憶です。

このお家も今は男子がいなくてお祀りをする人がいなくなって
誰も知らない時代になるんでしょうね。


>笠つき墓石

以下コピペ:
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1477247789
Q
普通の墓石の一番上に、さらに、かぶとのような形をした石が乗ったお墓を大名墓というと聞いたのですが本当ですか。
又そのいわれと、一般の墓に使用してもよいものか教えてください。

A
その石は陣笠です。
武士のお墓には、かならず笠がのっています。

いわれは陣笠。
一般人は笠はのっていません。


使用しても良いか悪いかですが、貴方が新しく作る場合なのでしょうか?

先祖調査をし、士族なら、その由来を言い伝える為、作っても良いと思います。商人 農民なら止めましょう!

家紋は知っていますか? 必ず墓には必要ですよ。
以上コピペ
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月06日 13時20分33秒 ) パスワード

「花戦さ」を見ました。

「猿」と言われて怒る秀吉。
でも「猿」は軽やか。
信長に見いだされて出世していく秀吉の姿にも重なる。

利休を追い込んだ秀吉は
信長の言葉「武将は茶と花で精神を鍛錬せよ」と思い出して
池坊専好を赦す。


ご先祖さまの中に立華を極めた人がいます。
大坂城でお褒めに預かった、と家書に書かれています。


この映画で  主人公の花1輪  の美しさがちょっと分かったような。


今は花屋さんが華道用の花や枝を用意してくれるけど
昔はみんなで鑿や鉋で形を造ったのか
と感心した。


楽さんの「黒」の美しさにもちょっと分かった気がする。
美しい年配の女性の装いの基本は黒いスカートだし、
とズレてみる  笑
[13]三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月06日 23時18分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろなドラマをよく視聴されるのですね。外国から見ると、日本人の
特徴・特性がよく分かるのではないでしょぅか。それは、長い歴史によって
培われたものであると思うのですが、特には感性の部分が外国と変わってい
るのでょぅか?

 さて、本日は酔石亭主様の勇気を見習って、二ケ寺を訪れ、住職に会って
きました。
 一ケ寺目は若い住職で、「個人情報に絡むことは固くお断りします」の弁
でありました。顔を見ると、宗教家としては未熟な顔・目つきでありました。
寺の住職も世代替わりの時を迎えており、昭和まで何とか存在したであろう
歴史情報も、むなしく失われて行く定めにあるようです。
 もう一ケ寺では、良い住職に出会いました。さすがに名家ならぬ、名僧の
創建したお寺であります。おかげで、私の調べたかったことが、一歩前へ進
みました。
 個人情報も絡みそうなので、それらについての言及は、大きな歴史の流れ
の中の一つの根拠として、今後利用させていただくことにいたします。

 歴史は一年三百六十五日、毎日毎日がフェイドオン・フェイドアウトで少
しずつ変わって行きます。このようなグラデーションの緩やかな変化は、余
り歴史には残らないのではないでしょぅか。「劇的変化」のみが歴史には刻
まれて行く。歴史紙面上に残されたものが何パーセントかはわかりませんが、
大部分ものが紙面には残されていないのではないでしょぅか。
 また、読み書きのできる者でなければ詳細なデータとしての記録は残せな
かったということもあります。そういうことのできる人は、ある意味特殊で
少数であったと考えられますので、記録としての網にかからなかった情報は
ものすごく多かったものと考えます。
 庄屋(名主)情報も、一村に一名はいたはずなのに、それらの情報は意外と
少なく、庄屋一覧表でもあったらいいのにといつも思います。逆に言うと、
一村に一名もいたので、日常茶飯事のレベルとして、インパクトがなかった
ということかも知れません。あるいは、火災、水害、戦争等で失われてしま
った可能性もあります……。

 当村の記録(古文書)については、『浜北市史 資料編 近世W』の中に、
二つ見つかりましたので、次回に記します――
[14]三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月08日 06時44分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新大河番組「いだてん」を見ました。いわゆる「大河」を超越?…逸脱し
た内容(時代背景)でありましょう。ドラマの作り方も、「ゆったりさ」から
「スピーディさ」へギアアップした感じで、総じて「唖然」…。ま、「様子
見」と行こうと感じた人が多いのではないでしょうか。
 ただ、このドラマの2人の主人公の内の1人、「田畑正次」は浜松の人、
私の高校の先輩でもあります(世代的には祖父の時代))。NHKも取材に来た
ということで、再び「おんな城主 直虎」についで、浜松のシーン(浜名湖)
が出たりして、話題になりそうです(大河の後半)。実家は大きな造り酒屋だ
ったそうで、浜松でも有数の資産家であったということです。浜名湖畔の
弁天島に別荘があったそうで、その頃はプールはあまりなく、浜名湖で水泳
(概して自然の水辺を利用)をしたのが実情で、「浜名湾遊泳協会」の創設が
日本の水泳をオリンピックで世界一にした原点であるそうです。

 さて、善地について書かれた公式記録(古文書)ですが、『浜北市史 資料
編 近世W』の中に、2つ取り上げられておりました――
 @ 1つは、寛政3年(1791)の『善地村高反別万書上帳』(何と読むのでし
 ょうか―ぜんじむら たか・たんべつ よろずかきあげちょう―でしょう
 か)。
 A 2つ目は、天保2年(1831)の『天竜川西側村々水防組合議定』(こちら
 は近代的な気配がいたします)。
であります。

 内容的には長くなりますので、ポイントだけ抜き出しますと――

 @には、名主(庄屋)が「藤兵衛」、組頭が「五郎右衛門」「佐五兵衛」、
 百姓代が「次郎太夫」「五郎兵衛」、神主が「藤太夫」でありました。
 この内、「五郎兵衛」は加藤家の屋号であるとある資料(系図)より推察さ
 れます。

 特筆すべきは、「百姓林」が六ケ所、一反五畝(450坪)あり、その内の
 三か所を名主の藤兵衛が所有、一カ所を百姓代の五郎兵衛、(たぶん組頭級
 の)七郎左衛門、同じく徳左衛門が一か所づつ所有していたということで
 あります。この地域は天竜川の扇状地でありますので、いわゆる雑木林で
 あったと思われます。簡単な家の骨組みや薪には利用できたのではないか
 と推察いたします。

 また、神主は「大明神」と「天神」の両方を兼ねていたようで、「天神」
 は、現在ある「天満宮」、「大明神」は「熊野」より、天竜川水系では
 「諏訪」ではないかと推察いたします。それらの領として、天神領―中畑
 三反歩(900坪)、大明神―中畑五畝歩(150坪)あったと記されており
 ます。

 寺は、「東泉寺」で、羽鳥村源長院末寺となっており、寺領として合せて
 約二反歩(600坪)でありました。

 百姓の家は41軒で、男女251人、その内8人が下人でありました。
 馬の数は3匹、目医者が一人おりました。

 船役(天竜川)として、善地が正保年間(1645年前後)に4分村化後の村々―
 上善地村、善地村、中善地村、末島にて小舟一艘の船役が課せられており
 ました。これは池田の渡場に直結するものであります。

 あと、名主・組頭には御給米が支給されていたと書かれています。

 ここで一旦切ります――
 
[15]三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月09日 12時21分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 しばらく酔石亭主様のブログから遠ざかっていましたら、いつの間にか
「浜松の秦氏」その26から34までが書き上げられておりました。酔石
亭主様の持てるパワー――能力・知識・推理力の高さに圧倒されました。

 服織神社を中心として、秦・服部が僅少の理由が明示されましたので、
私の先祖が、古代からの服部氏であるという可能性は極小になりました。
 本家の当主が37代目ということが、暗にそれを物語っているのかも知
れません。37代前の起点というと、およそ源平の時代のどこかにあて
はまるかと推察しています。源平の時代に祖をもつ服部氏が、いつここに
来たかという問題が残ります。情況的には、服部中家に関係する氏族が近
くにほとんど揃っておりますので、その可能性は高いと思っておりますが、
400〜500百年の時のヴェールが、その上に覆い被さっております。

 当地の永井氏の家紋が、宗家の「一文字三星「」から「永井梨の切り口」
に改紋しているのは、永井直勝の総領家でなく、永井白元の次男系である
確率の方が高いと推察いたしております。一方、もう一つの家紋「丸に三
つ柏」に改紋した永井氏もあり、これは祖先の長田氏への心的な里帰現象
かなと想像します。
 いずれにしましても、この小さい村の中で、少人数の帰農百姓が肩を寄
せ合って生きてきた間には、通婚は間違いなく行われております。服部家
の家紋は、永井氏との通婚の中で生じた可能性が大きいと思っています。

 それでも、ミッシングリンクにつきましては、これからも根気よく探し
て行きたいと考えます――
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月09日 15時08分29秒 ) パスワード

三つ柏さん


田畑姓
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%94%B0%E7%95%91
【名字】田畑
【読み】たばた,たはた,たはだ,たばたけ,だはた
【全国順位】 478位
【全国人数】 およそ42,000人

@鹿児島藩の士族にみられる。

ほか現長野県である信濃、現三重県である伊勢、志摩などにみられる。


田畑政治は阿部サダオかなと思って検索しようとしたら
   The program website of The Taiga Drama‟ IDATEN” is limited to browsing in Japan only.
   大河ドラマ「いだてん」の番組サイトの閲覧は日本国内のみに限定しています。
が出てしまった。笑
このWWWの時代にねぇ。



>服織神社を中心として、
>秦・服部が僅少の理由が明示されましたので、
>私の先祖が、古代からの服部氏であるという可能性は極小になりました。

伊賀の場合は平姓服部氏が乗っ取りましたしね。


三重の名家、秦氏系服部氏は先細りで存続は危ぶまれています。
個人情報なのでこれ以上は書けないです。


三つ柏さんのホンヤさまには公開願いたいところですが
平家の武門を担った藤原氏も公開を拒否していると20年前に聞きました。

    公開したくないというお気持ちは分かります

うちのホンヤさんは寛大で、蔵というかお文庫を公開なさって、研究員を入れていますが
それはそれなりに尾張藩から認められた家ですし殿さまも何人も育てたし

でも歴史の中で公開したくない事情というのが出来した場合
当然だれが公開なんかしてやるものか
というの、分かります。


でも一族の者達には教えておいて欲しいですね。
どなたか必ずそういう人物が現れます。
待つより仕方ないですね。


遠江国  国司
平家時代
平重盛(保元3年〈1158年〉8月10日〜平治元年〈1159年〉12月27日)正五位下
平宗盛<1159年(平治元年)12月27日〜1160年(永暦元年)1月21日>従五位下


ということで
重盛時代は清盛の家老だった平家貞系のサポートが大きかったのですから家来に服部姓はいたでしょうね。

重盛の生母の高階さんは元が醍醐源氏の出で過去に複数回失脚してるし大河でも結構貧しい貴族として演出されてましたね。
ということで遠江国の支配者として服部氏はいたと思います。

    でも三つ柏紋は想像が結びつかないです。

宗盛の場合は母君が堂上平氏ですからサポートは貴族系だった。
乳母の家の名前を忘れてしまいました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%97%E7%9B%9B

平治元年(1159年)12月、宗盛は清盛の熊野参詣に同行していたが、その途上で平治の乱が勃発する。

清盛はすぐに都へ引き返すと、二条天皇を内裏から六波羅に脱出させることに成功する。

官軍の立場を得た清盛は藤原信頼・源義朝を打ち破り、乱は平氏の勝利に終わった。


12月27日、乱を鎮圧した勲功を賞する除目が行われ、宗盛は遠江守となる。    ココ
前任者の重盛が伊予守に任じられたことによる後任人事だった。

翌永暦元年(1161年)正月には、異母兄・基盛と任国を交代して淡路守となる。


                      行盛さまの若死にしたパパのお名前が!
                      関係無いけど行盛さまは播磨守でした。



2月には同母弟・知盛が武蔵守となるが、これらの国はいずれも清盛の知行国だった。

                      関係無いけど知盛さまはワタクシが一番尊敬している平家の公達です。♡

                      このあたりのお名前が出て来ると胸が苦しくなり涙が出て来ます。


ということで遠江国に服部姓が重盛の下+宗盛の下で赴任していたことは可能性が非常に高いと思います。


その後は南朝時代に天竜川を遡って戦ってますし
この時には服部宗純の一族が遠江国に残っても当たり前ですし
だけどそうすると家紋は  車and/or矢  でしょうね。


で、もっと下がって義元時代は当然遠江に服部一族がいたろうし
この時も家紋は  車and/or矢  でしょうね。


その後、服部中とか政信とか神主の貞信系が来てますね。
やっぱり家紋は  車and/or矢  でしょうね。


でも三つ柏紋ということは  「うちは一緒にしないでくれ!」  という叫びが聞こえて来ます。

この違いをご存じだろうと推測すると
三つ柏さんとこのホンヤさんにお訊きするより他なし
ですね。


根気良く捜していきましょうね。
[17]三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月10日 09時00分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨晩はサッカー―トルクメニスタン戦を見て後、酔石亭主様の説、あを様
の諸説をもう一度頭の中でグルグルとまわし、自分自身の気持ちの整理を図
りました――

 およそ1500年前、800年前、500年前のことはそう簡単にはわか
らないだろうというのが率直な気持ちであります。というのは、歴史と一口
に言いますが、それはやはり「点と線」の重なり、つまり「無数の立体的点
と無数の立体的線」のつながりが、「面」になり無数の「層」となっている
ので、歴史の真実をつかむには、あらゆる情報、あらゆる角度からの推論を
把握し、さらに学習・進化させ、確度の高いものにしなければならない(正に
AIと同じ)。つまり、まだまだ推論の余地は残っている、糸は消えたわけ
ではないと思い直しました。

 入鹿の乱のおとぼりが醒めた頃、秦氏や服部氏が帰ってしまったというこ
とは一つのファクトというよりも一つの可能性であるかも知れませんが、帰
った(戻って行った)というファクトの証左があればそういうことになると思
うのですが……秦氏がやがて内藤という名前を変えて居ついた(帰らなかった)
というファクトらしいことがあるることも事実であります……。

 いずれにしても、色々な角度から歴史のファクトに光を当てるということ
は大事でありますので、酔石亭主様の推論、あを様の推論も大事な情報とし
て頭の中に刻み込み続けます。

 本日は、静岡の羽鳥から藁科川に沿ってをさかのぼってみます。「わなし
な」という言葉の響きに妙に魅かれます――
――
[18]三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月11日 00時27分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、静岡の藁科川沿い、羽鳥より北へ向かって、湯の島(温泉)まで行
って来ました。
 以前より、「藁科(わら・しな)」という地名に何か魅惑を感じておりまし
た。 それは、信濃の更科(さら・しな)、蓼科(たて・しな)の「〜しな」と
同類のような感じで、つまり「信濃(しな・の)」とも共通する何かがあるよ
うな感じがします。食で言えば、いかにも「蕎麦(そば)」がうまそうな感じ
がいたします。車で2時間(バイパス)、約100qの距離でした。

 藁科川の水量・水深はそんなに多くも深くもなく、南アルプスからの清ら
かな水が、滔々と流れております。

 湯の島温泉は、定休日で入れませんでしたので、がっかりしました。建物
は藁科川の川べりに鉄筋コンクリートで作られておりました。静岡市の経営
ということでありました。人影はほとんどなく、こちらの気配におどろいた
のか、猿が2匹、木陰から逃げて行きました。

 この湯の島温泉行きの旅では、収穫はあまりありませんでしたが、藁科川
に沿った一帯は、いわゆる駿府(府中)とは違った文化圏であるのかなとの感
じを抱きました。
 静岡市は、北に山梨、及び長野を背負っておりますが、安倍川や東の富士
川は山梨につながりますので、いわゆる府中は山梨と関係が深いのだろうか。
 一方の藁科は、遡って行くと南アルプス・長野(信濃)に行き着きますので、
長野と関係が深いのだろうかと思った訳であります。

 藁科が信濃と関係が深かったかどうかは、本当のところわかりませんが、
帰宅後、とりあえず『静岡県安倍郡誌』という本を開いてみました。

 その中でわかったことは、次回に記したいと思います――
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月11日 02時49分05秒 ) パスワード

三つ柏さん

静岡は横に広いから  話がすっごく  飛んじゃって
藁科川だったら 最重要観光地は 登呂遺跡  じゃないですか。笑

     ということは藁科川流域には古くから人が確かに生活してたところですね
     登呂遺跡には、またの機会に、どうぞ。


その上に  静岡は  遠江・駿河・伊豆  と3つも旧国がある。


以前  狩野の城跡を見に行ったことがあります。
狩野は伊藤の前身だから。
うちの先祖が従兄弟の平将門を討った時に藤原(北家系)秀郷が助けてくれた。
その子孫達が伊勢に行く途中に藤原氏は狩野を名乗った。

     名前がコロコロ変わるから脳が追い付かない。



遠江から東の世界というとまさに武士の巣窟。

坂東平氏が藤原氏や源氏と組んで  とにかく  武士多過ぎ  だから屋号を使って俗姓がどんどん増えて

藁科さんも藤原氏の1つで
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%81%E7%A7%91
藤原南家の流れ。
駿河国安倍郡藁科(静岡市葵区)発祥。

藁科氏は南北期、南朝方に属した。                当たり前でしょ

その後、今川氏、武田氏、徳川氏と主君を替え、江戸時代は旗本となった。     ラッキー!

米沢藩の藩医を務めた藁科氏は大江氏の流れ。

江戸時代中期の藁科松伯は経史の講義も行い、竹俣当綱、莅戸善政を育て、上杉鷹山の藩政改革を助けた[1]。



で、ご先祖さまになる藤原為憲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%82%BA%E6%86%B2
遠江権守になってるんですって。

で、平将門・平貞盛の従兄弟にもあたる。
(父:藤原維幾)
母が桓武天皇の孫で口減らしで臣下になって平姓を名乗った高望王の娘  ← だからこの3人は母方で従兄弟なんですね。

そりゃあ、放っとけない関係ですね。

藤原為憲がうちの味方になったのは、将門のパパが死んじゃって、その土地を将門の親戚が寄ってたかって奪ったから
数の多い方について、味方の少ない将門を、ボコボコにしたお仲間でしたか。

     藤原北家系の秀郷がうちの味方になったのは
     将門の誘いで一緒にご飯を食べた時に将門のお食事マナーがなってなかったからなんだって
     それで将門を見限って、うちの先祖の貞盛の味方になってくれたんだって


            平家一門の伊藤家にしたら
            南家の為憲の勝つ方についたってのは信条に反するんじゃないのか?「卑怯者」って?
            北家の秀郷がマナーのなってない将門を見限ったのはヤッパリ「立ち居振る舞い」の悪いヤツは嫌いだという血なのかな?
            と笑ってみる


で、この藤原為憲の妻は秦氏の娘なんだそうです。
ヲイヲイ



この人間関係でも結婚によって親戚関係になってるから、もう、ゴチャゴチャ。
名前が通字を使うから分かり易いけど分かり難い。


ということで藁科さんは藤原南家の流れで南朝方だった。
その前は平家とも関係があったと逆算出来ますね。
だいたい駿河国は時盛さまの受領地だったしね〜   って、この中途半端な人、だれ?


ということで  歴史を語るって  奥深過ぎ  人間関係ゴチャゴチャ  ワケ分からなくなる。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月11日 03時14分15秒 ) パスワード

駿河の歴史もやっぱり  半分、悲しい。

以下コピペ

安倍城(葵区西ヶ谷)に拠点を構えていた狩野貞長は、
駿河国の南朝方の中心人物として活躍しました。

康永3=興国5年(1344)ごろ興良(おきよし)親王を,
のち宗良(むねよし)親王を城にむかえた。               コレは知らなかった

安倍城は安倍川西岸の内牧、慈悲尾、羽鳥にまたがる標高435mの山上にあって、
ここを本拠地とし南朝方の勢力圏を形成しました。

しかし、次第に北朝方に制圧され、安倍城も落城しました。




興良親王 おきよししんのう

南北朝時代。
護良(もりよし)親王の王子。

祖父後醍醐(ごだいご)天皇の養子となり,親王となった。

南朝の征夷大将軍に任じられ,北畠親房に常陸(ひたち)(茨城県)にむかえられる。
延文5=正平(しょうへい)15年(1360)赤松氏範(うじのり)とともに北朝方に通じ,大和賀名生(あのう)の南朝の行宮(あんぐう)を焼き討ちし,追討をうけて逃走。

別名に大塔若宮,赤松宮。


     うちの母方先祖は赤松の遺臣に滅ぼされてるから心境複雑。
     兄弟は他人の始まりどころか敵にもなるんだね。しみじみ
[21]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月11日 13時49分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 阿倍城の情報、ありがとうございます。安倍城跡のふもとまで行ったこと
がありましたが、その時は、南朝関係ということを余り理解していなかった
ので、無理して登りませんでした。次回、丸子に行った時は訪れてみます。

 ――ということは、丸子あたりは南朝方であったということ、今後の探究
のヒントになりました。何で丸子あたりが好きなのか、丁子屋のとろろ汁だ
けではなく、無意識的に南朝の空気感を感じていたのかも知れません。丸子
に住みたいなと冗談に言ったこともあります。こんどは、必ず丸子周辺を歩
いてみます。丸子から山の中を通って羽鳥へ抜ける道の途中にある歓昌院に
も寄って住職の話を聞いてみたいと思います――

 
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月11日 17時04分57秒 ) パスワード

三つ柏さん


もう、ホント、泣けます。丸子の歴史にも泣けます。

わたくしの日本の父が丸子が好きで
自分でジオラマみたいな物を作り、その中に丸子の茶屋を作ったりしています。
藁葺きの屋根はタワシの毛で。笑


うちの先祖は宗良親王に従って駿河にも行ってたのかもですね。
全く知りませんでした。


丸子の城には義元のパパが今川家の家督争いで住んでいたり
武田の城になったり
高天神城の敗戦で丸子城は徳川に明け渡されたり         ココでまたまた松島家が気になります
丸子の城にも悲しい歴史があったのですね。



狩野氏もいろいろに分かれたのだなと感慨深いです。

わたくしが夫と一緒に見に行った狩野の城は伊豆の下田街道の柿木ノ城(修善寺からバスに乗った?)の方です。
こちらは源平時代には源頼朝に従った狩野です。


    伊豆は平家の時兼の受領地で   ← 平時忠の養子
    平家とよしみのあった家は平家方だったけれど
    そうでない家の皆さんは妬みなんかあったのでしょうね。
    そういう家は頼朝の旗揚げで源氏方につきましたから。


    伊東祐親(藤原南家系・工藤・河津でもある)は平家に忠実で
    自分の京都赴任中に娘が頼朝の子供を産んで、これを殺してもいる。


    伊東祐親ってオトコとしては好きなタイプです。
    でも自分の父とか兄弟とか夫には  冗談じゃないタイプ  です。

    祐親は平家が負けてから
    甥の工藤祐経=頼朝の寵臣=などからの助命嘆願で赦されたものの自害します。
    
           非常に「平家」だなと思います。

    で、ココから日本3大仇討ち事件の1つ  曽我兄弟=伊東祐親の孫=が一族の工藤祐経を暗殺するという事件に。 
   
    さらにこの事件が原因で頼朝の弟の範頼が謀反を企てたとして伊豆修禅寺に幽閉されて殺された。


    伊東祐親って人騒がせな血を残したな、と。自分だけに止めておけば良かったのに。




その後、南北朝時代には狩野氏の中から南朝方についた家があったということで
狩野氏の中もいろいろあったのでしょうね。


画家の狩野家は  3本矢紋  だったそうですよ。



兄弟は他人の始まり。英語では  sibling rivalry シブリング・ライバルリー 同胞抗争  と言います。


源氏の方は元気だな。
平家がさっさと滅びちゃったからエネルギーが有り余って暴走に次ぐ暴走をしちゃったのかな?


オトコとはこんなものかもね。
寄ると触ると喧嘩。
「今日から俺は!!」と目覚めちゃうのかしらね。ちっちゃい時から悪ガキでなくても。笑


いい子賢い子問題の無い子がサリン事件を起こしてしまったしね。


オンナ=伊東祐親の娘はクチのうまいオトコ=頼朝にいいようにされてしまうし。

オンナがオトコにいいようにされるのはオトコのクチに騙されるからだそうで
騙されないようにするには
クチのきけない動物の世話をさせるのが良いそうです。

例えば犬や猫を飼わせるのが良いそうです。
犬や猫の表情から、ココロの中を見抜く訓練をさせれば、オトコのクチに騙されないそうです。


で、オトコが喧嘩に上達するには荒々しい山の中で身体を鍛えると良いそうです。
体幹が養われるから。
キャハハ
だから忍者とか修験者とかは山の中で訓練に明け暮れたのかしらね。


舗装道路で育ったような子供は成長してもカラダも精神も弱っちいそうです。
忍耐力も養われないし。


と、最近、こんなことばっかり検索している・・・ 
[23]三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月12日 21時31分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 黒澤脩『駿河の戦国時代』を調べましたら、「安倍城」は「千早城」と同様
に、全国的に注目された城であったということであります。つまり、戦略的に
山岳の利用や要害に立てこもるという戦法が、南北朝争乱の時代から始められ
たということであります。

 安倍本城は、いくつかの砦に守られている。まずは藁科川の平野部の羽鳥に
建てられた建穂神社の裏山にある羽鳥砦、ここから連続した山並みのところど
ころに千代砦、久住砦があり、そして安倍本城に至る。さらに東に向けて行く
と、内牧城や西ヶ谷砦が続き、平野部へ出ます。

 安倍本城は、安倍川と藁科川に挟まれ、山々の最高峰にあって周辺を眼下に
望む絶好の山城でありました。
 安倍城主狩野貞長は、宇渡郡・安倍郡に在地する国人土豪の諸氏を従えて、
安倍城を本拠に今川軍(北朝)と激突したということであります。
 安倍本城が今川軍によって激戦の末、落城したのは観応元年(1350)。交通の
要地を占拠され、次第に追い詰められた結果、狩野氏は安倍本城を捨て、今川
氏の手が届かない安倍川上流の山間地の湯島城に移って行ったということであ
ります。この湯島城も、永享五年(1433)九月、今川範忠家臣の国人衆の攻撃に
よって陥落し、狩野氏は今川氏に従属することになった。

 つまり、安倍城は、安倍川・藁科川を挟んで、南側の今川館と対峙していた
ということであります。また、このことは、南朝側が、「服織庄」を我が陣地
・領域として戦う姿勢が見えてくるようです(これは私の主観ですが)。

 駿河の服織庄といえば、平家の没官領として池禅尼の恩に報いるため、頼朝
が池大納言頼盛に与えております。
 服織庄というのは、遠江にもありますが、羽鳥庄でもあり、服部庄でもあり、
各地にありますが、平氏に深く関係していたのでしょうか。何か悲しい声が聞
こえてくるような気がします――
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月12日 23時00分06秒 ) パスワード

三つ柏さん

>南朝側が、「服織庄」を我が陣地・領域として戦う姿勢が見えてくるようです(これは私の主観ですが)。

>何か悲しい声が聞こえてくるような気がします――


静岡は大きな河川がいくつもあって  豊かな土地  というイメージがありますから
武士は欲しかったでしょうね。


わたくしは島田というか金谷というか、何か引っ掛かります。
でも何も見えて来ません。
都から遠過ぎるのでしょうか?
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月13日 02時29分58秒 ) パスワード

島田とか金谷はどうやら菊川との対立という感じで東遠江国の歴史があるのかなと。

以下コピペhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E5%B7%9D%E5%B8%82

歴史

市内を流れる菊川が旧菊川町の名称の由来になった。菊川の名称の由来は菊川を参照。


古代

古代よりこの周辺には人が生活していたようである。近年の遺跡の発掘で大規模なものには、弥生時代後期の環濠集落である東原田遺跡がある。出土した柱や鉄器類等は、中央公民館に展示されている。それ以外にも横穴式住居跡など、多くの遺跡が散見される。

飛鳥時代の律令制の下で、遠江国が置かれると、それに属した。

古墳時代の大化の改新の後、北部に荒木郷、東部に河上郷、南部に高橋郷が記録に残っている。



中世

中世には付近一帯は荘園であった。当地には本所、半済、公文名など、荘園であったことを示す地名が残っている。

平安時代末期から源氏の系統の横地氏が横地城を築き横地周辺を支配していたようである。また、工藤氏の流れを汲む内田氏が、高田大屋敷を拠点に内田周辺を支配していたようである。両者とも鎌倉時代には、鎌倉幕府の御家人として長くこの地域を支配したようである。


室町時代においても、遠江国守護であった今川氏の下、国人となった横地氏がこの地域を支配していた。しかし、15世紀半ばになると遠江国守護が斯波氏に代わったことや、応仁の乱の勃発により、横地氏は斯波氏に接近し今川義忠に背いた。このため、今川氏の討伐を受けた横地氏は滅亡し、この地域は今川氏の支配下に入った。しかし、今川義忠は帰国の際に、塩買坂で横地氏の残党に襲われ戦死した。後に、義忠の子の今川氏親が義忠を弔うために、塩買坂に正林寺を建立した。この頃内田氏は本拠地を石見国に移したようである。1504〜20年頃、今川家臣の松井信薫が下平川に堤城を築城しこの地域を支配した。松井信薫は厚く仏法を信じ、同地に曹洞宗の深谷青龍院を建立し、現掛川市各和の永源寺から二世天庵和尚を招いて開山した。青龍院には信薫夫妻の位牌が安置されている。下平川志端の宇洞にある十三仏は、信薫夫妻が建立した瑞泉寺が廃寺となった際に移したものであるといわれている。


戦国時代後期になると、今川氏の滅亡により、徳川氏と武田氏が領有を争う。徳川軍は、武田軍に落とされた高天神城の攻略の為に、天正7〜8年頃(1579〜80年頃)嶺田に獅子ヶ鼻砦を築き、大須賀康高が守った。1581年に高天神城が落城すると、再び徳川氏の支配下に入った。1590年の徳川氏の関東移封により一時豊臣氏系の領主に統治者が変わるものの、関ヶ原の戦い以後は再び徳川氏が支配した。


徳川家康と武田勝頼が高天神城を巡って戦った時には、この周辺からも徳川方として武士達が高天神城に篭城した記録がある。その武士の一人に、後の黒田代官の先祖にあたる黒田義則がおり、高天神城が落城した時に帰農している。現在残る黒田家代官屋敷の前身は、元々今川家臣だった黒田義則が永禄年間に築いた館である。


また、相良を起点とし、長野県に至る塩の道の通り道であり、旧小笠町の川上やいくつかの寺社等には塩の市場があり、塩の交易が行われていた。前述の今川義忠が戦死した塩買坂もその塩の交易ルートとしの地名が残っているものである。この塩の道による縁が、旧小笠町と長野県小谷村の姉妹都市提携のきっかけになった。この塩の道は今川氏真による武田信玄への塩止めと上杉謙信の「敵に塩を送る」の逸話に関わっている。


近世

近世においては幕府直轄領、大名領、旗本の知行地が点在する地域であった。当時の記録には村ごとに様々な領主の名前が見られる。菊川水系全域では大よそ4万石以上の生産力があったが、幕府は統一的に支配する藩を置かず、旧菊川町域だけでも33の村が19の領主に分割されており、1つの村が2人以上の領主に分割統治されていたところも多かった。この地域に知行をもっていた大名で著名な者としては、相良藩主田沼意次などがいる。 このように、多数の領主に分割統治されていたため、菊川は河川改修などが進まず都市化もされなかった。一方で、農民達の生活は村の境を越えて物資の往来を行い、掛川まで物資を求めていた記録がある。生活圏と政治圏の矛盾がこの頃の大いなる課題であったようである。 また、近世に入る時期に前後して、三浦刑部部親子により加茂用水が、中条右近太夫により嶺田用水が引かれ、農業生産高が大いに上がったとされている。用水の工事を中条右近太夫が徳川家康に直訴したと言われるのも、領主の混在により村の境を越えるような大規模な工事は、幕府権力をもって行うしかなかったからである。


正保2年(1645年)1月、本多忠利が死去し、その庶子であった本多助久が別家を起して下平川周辺を領すると、嶺田に土着し帰農していた黒田家が代官に任じられた。黒田家が居住した黒田家代官屋敷は現存し、国の重要文化財に指定されている。

幕末になると、時代の変化がこの地域にも影響を与え始めているのが記録から垣間見える。 天保期(1830〜1844年)以降、度重なる水害などが農民の生活を圧迫し始め、村々の水争いすら調停できない領主や村役人の権威は次第に低下していった。 1837年に大塩平八郎の乱が起きるが、この時の反乱を起した民衆側の檄文が神尾村の松下家にもたらされている。これは、領主の境を越えた民衆の情報伝達ルートが全国に張り巡らされていたことを示している。 1853年のペリー来航の際に、この地域の領主の一人であった青山下野守が江戸表の警備を幕府から命ぜられ、菊川地域の農民から弓や鉄砲を扱えるものを徴用しており、兵農分離・身分制度の崩壊が始まっていたことを表している。 1865年の幕府による長州征伐は、この地域にも大きな経済的負担を与え、民衆の不満はますます高まっていった。 1868年に戊辰戦争が勃発すると、翌年にはこの地域も、新政府側か幕府側かどちらにつくかの選択を迫られている。これにより、浜松藩、掛川藩、横須賀藩、相良藩は新政府側につく請書を提出しており、農民たちも勤王の請書を提出している。農民達は新政府軍のために物資の輸送を行い、兵隊として軍に加わった農民もいる。

以下略
[26]三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月13日 11時30分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様の直感というものを大事にしたいと思っています。もちろん直感ゆ
え、その信憑性については保証できるものではありませんが……。
 この世に霊的な叫びや呼び声があるとしたら(私は経験上あると思う)、百
の論理より一瞬の閃きの方が真実に到達する可能性があるのではないか……
学問上の説としては認められませんが――

 あを様ご自身の直感に基づくキーワードを、私なりに並べてみますと――
 @高天神城
 A松島氏
 B麻績城主服部氏(清信・清正)
C丸に三つ柏

等であります。

 実は、これらのキーワードは、我が家系の菩提寺「定明寺」をキーワード
にすると解けるのであります。

 高天神城の戦いの中に、松島氏の名前が出て来ますが、これは松島氏が、
小笠原氏の血を引いていることによります。高天神城は小笠原氏が城主で
ありましたし、小笠地区というのは小笠原地区を略したものであるそうです。

 高天神城は一度武田に攻め落とされますが、やがて徳川に奪還されます。
 武田軍は、長篠の戦いの敗北とそれに続く信玄の死によって、総合力が落
ち、ついに天目山の戦いによる「武田勝頼」の死によって滅亡いたします。

 この勝頼は、「武田信玄」の「側室」の子であり、その側室は、信玄に
殺された「諏訪頼重」の正妻でありました。その出自は、麻績城主の「服部
清正」の娘であり、この麻績の服部氏は、伊賀経由の服部連を祖としており
ます。

 さて、この武田勝頼に仕えた武将に「笠井高利」という者がおりましたが、
その何代か前の祖に、「笠井貞明」という者がおりました。この貞(定)明の
開基したのが、遠江長上郡笠井の「定明寺」であります。

 この笠井氏の今の家紋は「丸に三つ柏」ではありませんが、元は葛西氏で
あった可能性が強く、葛西氏であればその家紋は「丸に三つ柏」であります。

 武田信玄の妻は服部氏、つまり勝頼の母は服部氏、麻績城主服部清信の娘。
兄弟に清正がおります。
 ということは、信玄や勝頼側に控えていた服部氏(麻績城主系)の一族がい
たとしても不思議ではありません。いやむしろ護衛の為にいたと考えた方が
自然てあります。そして、笠井高利の死後、服部氏はその遺物を定明寺に手
厚く弔り、自家の家紋も笠井本家の葛西氏の家紋「丸に三つ柏」に尊敬を籠
め、その象徴として使うに至ったという可能性も否定できません。

 笠井高利は、傷ついた武田勝頼に自分の馬を与え、尻を叩いて逃し、自分
はその場に残って戦い、討死したといわれ、武士道の誉として家康にも認め
られたということであります。
 家康は武田の家臣達を武田氏滅亡の後吸収しております。それに対して、
信長は厳しい武田残党狩りをしたようであります。

 この遠江にも元甲斐・武田系の人々の名前が散見されます。武田臣は、こ
の遠江においては畏怖よりも、むしろある意味尊敬をもって迎えられたので
はないか……井伊直政にはたくさんの武田家臣が付けられておりますし、こ
の地の庄屋の中にも武田臣の名前が散見されます。

 松島氏の大筋は、武田によって滅ぼされた伊那の松島城の松島氏族であり、
小笠原氏の血も引いておるようでありますが、千野氏や藤沢氏ともつながり、
元は諏訪氏系でありました。小笠原氏は信濃一帯に影響しておりますので、
麻績とも関係はあったと推察されます(今後、調べてみます)。

 松島氏がこの地で反映したのは、伊那にて落城後、徳川氏を頼った、また
血族の小笠原氏は徳川につき活躍した、ということが背景にあったのかと思
います。

 武田臣の笠井氏側にいたかも知れない服部氏と、徳川臣の小笠原一族であ
った松島氏、両者の菩提寺(松島氏は源長院)が違うのは、ひょっとしたらそ
のせいかも知れません。また当家筋の祖先の大きな位牌が、定明寺の位牌堂
のほぼ最上部でご本尊の側にあるというのも、笠井氏との関係を想像すれば
頷くこともできるかと思います。

 以上、あを様の直感に基づき、これもまた私の直感でストーリーにしてみ
ましたが、いかがでしょぅか。
 これも一つの説として、今後検証して行きたいと考えております(いくつ
かのストーリーが見えてきました)――


 
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月13日 14時25分58秒 ) パスワード

三つ柏さん

>小笠地区というのは小笠原地区を略したものであるそうです

この「小笠」という地名が何なのか不思議でした。
小笠原の省略でしたか。

これは地元の人でないとイマイチ見当も検討もつかないですね。
さすが!


      ずっと島田の服部家が気になってて
      どうして?どうして?
      と思ってました。

          島田ってたいした町じゃないみたいだし歴史的にも重要じゃないみたいだし
          どうして島田の服部家が気になるんだろう?と不思議でした。

          ま、服部家忍者関係者のお宿の1つだろうな、とは思ってましたが。




松島氏の出自は諏訪系のようですか。
もう何年も  松島さん  松島さん  と気になりつつも謎でした。
松島家の家譜に「高天神城」の名が記録されている意味がちゃんとあったのですね。

ものすごい旧家で
お嬢さんが16歳で素晴らしい文章をお書きで
どうしてこんなに歳若い女性が教養のある家なのだろうとは思ってましたが
想像以上でした。
なるほどね。


そして「麻績」「服部」「勝頼」。そして勝頼の母方の祖母の「太方様さま」。
なるほどね。
ここで  ヒバリさんのお話  が出て来ますか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%BE%A1%E6%96%99%E4%BA%BA

勝頼の生母である諏訪御料人を生んだご生母・麻績氏=小見氏=小見の方=太方様おだいぼうさまの消息


早くに死去した諏訪御料人に比べ、その生母の麻績氏は、武田家の当主となった武田勝頼の外祖母として、天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡まで存命している。
太方様(おだいぼうさま)と称された。

天文11年(1542年)に、夫の頼重が切腹し、諏訪惣領家が滅亡した後は、同じ諏訪氏の一族の禰津元直の元に、娘と共に身柄を預けられていたという説がある。

禰津元直の息子の禰津神平は、武田信虎の娘婿でもあり、
武田氏と諏訪氏双方と関わりが深かったため、禰津元直の元に小見氏と諏訪御料人は預けられたと考えられている。

その後、何年かは不明だが、娘が信玄に嫁いだ後、小見氏は引き続き、禰津元直の元に身を寄せていたと思われる。



『信州日牌帳』によれば、永禄8年(1565年)3月21日には勝頼による逆修供養(生前供養)が行われている[4]。

勝頼と共に高遠城で暮らしていたという。

天正3年11月に勝頼が諏訪南宮(長野県辰野町)へ奉納した棟札には、勝頼嫡男の信勝(武王殿)とともに「御祖母」の名が記されている[4]。

天正6年(1578年)10月には被官の池上清左衛門が無足で奉公していたことを知った麻績氏は、
勝頼の側近小原継忠・跡部勝忠に依頼し、彼に五貫文の所領を与えてくれるように頼み、それを実現させたという[4]。

麻績氏直筆の仮名書きに朱印を据えた消息も残されている[4]。


さらに、勝頼・鎮目左衛門尉により鎮目寺(山梨県笛吹市春日居町鎮目)に奉納された棟札にも「大奉様」の名が記されている。

この棟札は年未詳であるが、武田家臣のうち甘利信恒・山県昌満両名の名が見られ、
甘利信恒は天正4年(1576年)9月に陣中で殺害していることから、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いから天正4年の間に推定されている[4]。


『信長公記』によれば、天正10年月3月11日に勝頼一行が天目山で自害した際に、
勝頼に従った「勝頼の叔母大方」の名が見られることから、
勝頼とともに自害したと見られている[4]。


長野県長野市大岡地区天宗寺や同県朝日村古川寺に墓所がある。



三つ柏さん
証明できると良いですね。



わたくしはこれで  平家vs源氏は  なぜ「富士川の戦い」だったのか  が分かった気がします。


静岡県は  川、多過ぎて、どの川がどこにあるのか、位置関係が分からなかった!
大井川と富士川を逆に記憶してた。赤面



諏訪大社は元々は平頼盛領でしたし南朝方ですから  スッキリ  しました。


平頼盛の家老は宗清ですから
諏訪で実務をやってたのは服部家あたりでしょうから
そうすると  ヒバリさんのお家の服部家あたり その関係の家 が非常に浮上して来ますね。


やっぱり  繋がってしまいますか。

[28]三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月14日 13時34分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 平家の没官領として平頼盛に与えられた駿河の「服織庄」とは、通常我々
の想像する今の「羽鳥」ではなく、「服織庄七郷」のことであります。
 その七郷とは――
 @井宮郷
 A三輪郷
 B松角(まつずみ)郷
 C大河内郷
 D藁科郷……この中に羽鳥村あり。
 E井川郷
 F玉川郷
という結構広い領域であります。

 不思議なことに、遠江長上郡の今の羽鳥と昔の羽鳥庄の関係も、やはり
同じようなパターンで、羽鳥庄は七郷であり、羽鳥は村・郷であったよう
です。七郷が具体的にはどこであったのかは、まだ正式な結論を得ていま
せん。

 さらに不思議なことiには、遠江の羽鳥庄、駿河の服織庄の所在地には、
共通の地名の村がいくつか並んでいたということです――
 @長田村
 A三輪(美和)村
 B服織(羽鳥)村

 これは、古代において、特定の氏族群が遠江と駿河に同時、あるいは少し
ずれて居住し、開発を行ったということを示しているように思います。具体
的には特定できておりませんが、敢えて推測してみると――
 @海人族――和珥氏・安曇氏・海人氏・イナベ氏……
 A出雲族――物部氏……
 B秦氏族――秦氏・服部氏・麻績氏……
のような感じでありましょうか(間違っているかも知れません)。これらは
代表的な氏族ですが、氏族的にはもっと様々な氏族が混じっていたと考えま
す。
 これらの人々が同時に来たか、あるいは別々の時期に来たか、それとも
フェイドイン・フェイドアウトの中間ではオーバーラップしていたのか、
今は一つの平面となっていますが、時間的には重層構造でありましょう――

[29]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月14日 15時41分54秒 ) パスワード

三つ柏さん

>遠江の羽鳥庄、駿河の服織庄の所在地には、共通の地名の村がいくつか並んでいたということです――
@長田村
A三輪(美和)村
B服織(羽鳥)村

面白いですね。
この3つのグループは古代から一緒に行動してたのでしょうか?


熊野那智大社文書 6: 総索引
https://books.google.com/books?id=zCA8Y7Ydc-0C&pg=PA178&lpg=PA178&dq=%E6%9C%8D%E7%B9%94%E5%BA%84%E4%B8%83%E9%83%B7%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=f6y3TZBsy7&sig=eMnQ4th11eoaUjucGvm4flctgqM&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwis2rP00-zfAhWEHzQIHS4mAe4Q6AEwAHoECAoQAQ#v=onepage&q=%E6%9C%8D%E7%B9%94%E5%BA%84%E4%B8%83%E9%83%B7%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


P178
左のコラム
馬頭観音の下に

はとり7合(郷)   駿河国かさい  B97

というのが出てます。

駿河国  かさい  という場所にあった?
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月15日 13時29分03秒 ) パスワード

こちらの情報ですが
次回のNHKのファミリーヒストリーは  伊東四朗 だそうです。
「清盛と関係があった・・・」
なんて予告でした。


ということは  ワタクシの大好きな  伊東祐親の一族?
ワクワクします。

あの方のご子孫が  ♪しらけ鳥飛んで行く南の空へ〜  ミジメミジメ♪  なんて  言ってた?  とは信じられない。


本日の「家を売る女」の新登場は  松田翔太  でした。
ヅラだとホント上品なお殿様なのに現代人役はイメージが違ってて
これにもビックリ。

千葉雄大が変っててビックリした。
前のシリーズでは  若い男の子  だったのに。
暫く見ない内にすっかり落ち着いた男性になってた。
ガッカリ


北川景子の顔がやっぱり高畑淳子の実家系だなとこれにもビックリ。
美形のバランスということなんだけど。
[31]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月15日 14時12分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊藤四郎氏のお父さんは、旧榛原郡相良出身、お母さんは、掛川市だそう
です。相良と言えば、もろに相良氏や平家に関係してくるような予感がしま
すね。最近テレビは余りいい番組がないので、全般的に見なくなり、つい良
い番組も見落としてしまう傾向にありますので、忘れないようにメモしてお
きます。
 でも、あの番組、よく調べていますね。調査能力が高いというより、スタ
ッフが必死で探せば情報が集まるということ……私も、見習わなければなり
ません――
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月15日 15時42分37秒 ) パスワード

三つ柏さん

伊東四朗は伊東なのか伊藤なのか
この  イトー  って名字は  非常にこんがらがってるので
番組が楽しみです。

伊東だったら  伊豆の伊東氏?伊東祐親とか?平家方。
伊藤だったら  伊勢の伊藤氏?こっちはバリバリの平家の武門を担当した伊藤氏。


でも  伊東から伊藤に変えた  イトーも存在するし   
謎です。


愛知県にも伊東さんがいて  その土地のお殿さまと呼ばれてるし。
ここは超桁違いの大金持ち。超高高高学歴。超お人柄が良い。
お殿様と呼ばれるだけのお家です。


伊東四朗が運動神経が良いのはやっぱり先祖が武士だからかなと思うけど
ワタシは超ドン臭い運動音痴なのでご先祖さま達には申し訳ない。


日本語を忘れてしまうから日本の番組は見ておかないと、と思っていますが
若い人の言葉はホント分かりません。聞き取れないし。略語とかね。ついて行けません。
 

久しく日本のテレビドラマって
お金をかけてないし安っぽいし内容も浅いし音楽も安っぽいし
と言いながら
時々すっごく格調高いのもあったりして
見逃してガックリしたりします。


前回の「西郷どん」はもう少し オトコの嫉妬の部分 大久保vs西郷vs桐野 を掘り下げてくれてたらもっと良かったのに
と残念です。

大久保vs西郷vs桐野の 「オトコの嫉妬の部分」はわたくしの幼稚園以来の親友が説明してくれて  そういうことだったのか  と分かりました。

彼女はものすごく賢い人なので深く考えられるけど
ワタシは説明が無いと自分では気付けない。
        洞察力とか国語力というか欠けてるので、ドラマのシーンを自分ではピンと来なくて、イマイチ読めない、のです。


   前回の「西郷どん」は2回、ドラマ作りの変な説明の回があって
   描き切れなかったのだと思います。

   あの2回分で  大久保から西郷への嫉妬を説明してくれれば良かったし 桐野が西郷を死なせたかった心情を説明してくれれば良かったのに。

   ま、薩摩関係者には分かり切ったことでしょうから、よそ者にはどーでも良かったのかも。

   

ワタシ自身は  美しい生き方死に方滅び方  が好きなので
やっぱり平家の人達が好きです。
家族を大事にするところとかね。
ま、結束固く婚姻してるし、そりゃ、家族を大切にするわけですが。


好きなドラマは
オトコの中の男を描いてるとかね
オトコの捻じれた心情とかね
そういうドラマ  好き  です。
ニンゲンの強さ弱さを描いてるな、って。


卑怯な手で勝つヤツは主人公でも好きになれない。
例えば義経とかね。

とは言え、ワタシ自身が信条を守るのが好きだから  やっぱり戦国じゃ  1番に討ち死に  です。
自分でも  アタマ悪いな  と思うんだけど。


なんかね
ここ暫く
いろいろパワーが来てるのを感じています。

    7合(郷)のことも「実は」ということがあり   若君さまの方ですが(赤面)
    榛原のことを書いたら次回には伊東四朗でしょ
    


ああ、そうそう
今朝はエレベーターで甲斐犬を飼ってる人と一緒になったから
   弟はアイヌ犬を飼ってたんですが
   お互いに縄張り意識の強い犬を飼うって大変ですよね 
と言ったら

その甲斐犬の名前が  信玄なら  分かるけど  (甲斐だから)
その犬の名前が超有名な日本の武将の名前で  笑ってしまった


その飼い主さんも  名前負けです  とおっしゃって大笑いしたのですが


まさか  昨日平熱のレスで書いた信玄ファミリーのことが今朝エレベーターで話題に出るとは  と驚きました。

      上のレスで信玄の妻の1人のお母上のことを書いたばかりですから。
      勝頼も信長に滅ぼされてしまったし。← 若君さまの危機でもある(笑)


なんか最近昨年9月30日の朝日新聞の母方先祖の記事以来
母方父方から「先祖のパワーが続々と来てる」気がします。 
あまりにも内容がおバカ過ぎて平熱には書けない。


最近  和歌山の鈴木家のことも「来た」し。
上記に「熊野那智大社」のURLを書いたばかりだし。
大河の「清盛」で忠度を演じたのはムロツヨシだったと知って
忠度さまから来てるパワーと来月の南朝方の祭祀のことが結びつくし。
忠度さまは熊野関係です。


整理出来ないほど今は平家パワーに圧倒されています。


とにかく次回のファミリーヒストリーは楽しみです。
[33]三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月16日 15時00分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 酔石亭主様の「浜松の秦氏」の記述が更に進んでおりまして、とうとう
「神服神社」(旧摂津 高槻)を調査するというところまでになっておりま
す。すごい行動力とスピードと総合力で、いつもながら尊敬してしまいま
す。

 できれば、神服神社の神紋「丸に三つ柏」の謎を解いていただけると嬉
しいのですが……。

 私が思うに、柏紋は出雲より来ているのではないかと感じております。
 私の感性を研ぎ澄ませてみると、やはりあを様の言われるようにそこに
は「何か譲れないもの(存在価値の証)」があるのかもしれません。その譲
れないものとは、神とかかわるアイデンティティーなのか、そのあたりを
次回に記してみたいと思います――

 
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月16日 15時37分12秒 ) パスワード

三つ柏さん

>神服神社の神紋「丸に三つ柏」の謎を解いていただけると嬉しいのですが……。

ですね。

でも三つ柏さんが直接お訊ねになった時
「分からない」
が回答でしたよね。


   
ということで調べてみましたが

興味深いのは
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%81%AE%E7%A5%9E%E7%B4%8B/
神社の神紋 の  「呉服神社」の神紋


糸巻?
初めて見ました。
[36]三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月17日 08時38分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 糸巻の図柄は、切竹=「矢筈の部分を二つ上下に合体させた形」に似て
おり、糸巻は本来の服部=服織の職掌にふさわしいと、いつも心に抱いて
いるのですが……。
 わかっているようでわからないのが歴史の真実。我々の描く歴史とは、
ほとんど夢の世界といってもいいのではないかとさえ最近思います。
 伊賀の服部氏の根幹部分も、やはりある意味夢の結合であるとも思いま
す。いわゆるキーワード(イメージ)の有機結合の結果のようでもあります。
ただ、真実は一つなのですが……。

 「すべての根源は、出雲にあり」が、私の最近行き着いた日本の歴史の
結論であります。

 ということは、すべての根源は「スサノオ」ということになるかも知れ
ません。
 このスサノオには、実は「柏」にまつわる伝説が残されており、その
伝説を具現化した神紋=社紋を飾っている神社があります。
 その神社の名は、出雲の「日御碕(ひのみさき)神社であります。

 一旦ここで切ります――

 
 
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月17日 13時54分15秒 ) パスワード

三つ柏さん


>日御碕神社の三つ柏紋

葉っぱの縁の形状が、鋸葉つまりギザギザ、のところが我が家の庭のオークの葉っぱ
という感じで親近感を持ちました。


三つ柏さんのお宅の紋の柏の葉っぱの縁は  全縁=全く裂けていない葉っぱ=でしょ?


ただのデザインなのか?
こういうデザインにも意味があるのかな?
と。


今日見てたドラマの主人公の名字が「羽鳥」なんですが
某外国の地で「ハットリサン」と呼ばれて「服部じゃねぇわ」と怒鳴り返すシーンがあって
ハットリの方が圧倒的に多いんだろうけど出自は全く違うのかな?
と思いました。


ということで  羽鳥  とはそもそも何なのか?  を検索しました。

https://www.weblio.jp/content/%E3%83%8F%E3%83%88%E3%83%AA

執翳
読み方:ハトリ(hatori)
即位などの大礼で天皇が高御座にある時、左右8人ずつ並び、翳をさしかざして天皇の顔をおおう女嬬


服織
読み方:ハトリ(hatori)
機を織ること


服部
読み方:ハトリ(hatori)
機を織ること



地名
羽鳥
所在 福島県岩瀬郡鏡石町


羽鳥
所在 福島県岩瀬郡天栄村


羽鳥
所在 茨城県小美玉市


羽鳥
所在 神奈川県藤沢市


羽鳥
所在 静岡県静岡市葵区


駅名

羽鳥
所在 茨城県(JR常磐線)



全然関係ないけれど:

https://dictionary.goo.ne.jp/jn/3518/meaning/m0u/
あさは‐どり【浅羽鳥】
ホトトギスの別名。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%88%E3%83%88%E3%82%AE%E3%82%B9
ホトトギス
文学や芸術とホトトギス

故事

ホトトギスの異称のうち「杜宇」「蜀魂」「不如帰」は、中国の故事や伝説にもとづく。
長江流域に蜀という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。

後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。
望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。

また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。= 何よりも帰るのがいちばん)と鳴きながら血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、などと言い、ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようになった。



日本の芸術とホトトギス
古典文学

日本では、激情的ともいえるさえずりに仮託して、古今ホトトギスの和歌が数多く詠まれ、すでに『万葉集』では153例、『古今和歌集』では42例、『新古今和歌集』では46例が詠まれている。鳴き声が聞こえ始めるのとほぼ同時期に花を咲かせる橘や卯の花と取り合わせて詠まれることが多い。

ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明(ありあけ)の月ぞ残れる(後徳大寺左大臣『千載和歌集』)

目には青葉山ほととぎす初鰹(山口素堂)


他にも夜に鳴く鳥として珍重され、その年に初めて聞くホトトギスの鳴き声を忍音(しのびね)といい、これも珍重した。

『枕草子』ではホトトギスの初音を人より早く聞こうと夜を徹して待つ様が描かれる。


平安時代以降には「郭公」の字が当てられることも多い。

これはホトトギスとカッコウがよく似ていることからくる誤りによるものと考えられている。
松尾芭蕉もこの字を用いている。


宝井其角の句に「あの声で蜥蜴(とかげ)食らうか時鳥」がある。
ホトトギスは美しい声で鳴くが醜いトカゲなどの爬虫類や虫などを食べる、すなわち「人や物事は見かけによらない」ということを指す。


万葉の時代から「ウグイスの巣に卵を産んで育てさせる」という託卵の習性が知られる一方、時代や地域によってはカッコウあるいはウグイスと混同されている例もある。

      ワタシも混同してた


下記「天下人」を詠んだ句では鳴き声を愛でる鳥すなわちウグイスであるとの考え方も一般的である。

従って作品中に「ホトトギス」とある場合でも、季節や時間帯によっては注意が必要となる。


近代文学

正岡子規は1895年(明治28年)4月に近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの予定通りにはゆかず同年5月には帰国の途につくはめになり、帰国の船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院し、結核と思われ、当時は結核は「不治の病」という位置づけであったので、自分に死・死期が迫っていると覚悟した。喀血した(血を吐いた)ことから、「鳴いて血を吐く」と言われているホトトギスと自分を重ね合わせ、ホトトギスにちなむ句を一晩で数十も作ったという。そして、ホトトギスの漢字表記のひとつの「子規」を自分の俳号とした。


文芸雑誌『ホトトギス』
徳富蘆花作『不如帰』




江戸時代から「厠(かわや)の中にいるときにホトトギスの声を聞くと不吉である」という言い伝え、迷信が日本各地に伝わっているが、この出典は『酉陽雑俎』および『太平広記』である。

夏目漱石が西園寺公望におくった有名な俳句「時鳥(ほととぎす)厠(かわや)半(なか)ばに出かねたり」も、この迷信をふまえる(加藤徹『怪力乱神』ISBN 978-4-12-003857-0)。


意味:
http://toilet-reformpro.com/toiletmame/%EF%BD%94-kotowaza/%E3%80%8E%E6%99%82%E9%B3%A5%E5%8E%A0%E5%8D%8A%E3%81%B0%E3%81%AB%E5%87%BA%E3%81%8B%E3%81%AD%E3%81%9F%E3%82%8A%E3%80%8F%EF%BC%88%E3%81%BB%E3%81%A8%E3%81%A8%E3%81%8E%E3%81%99%E3%81%8B%E3%82%8F%E3%82%84.html

人と人とのお付き合いは大切ですが、時として誘われても気が進まず、かといってどのように断れば角がたたないであろうか、と悩むことはありませんか。


明治40年に文豪夏目漱石は当時の総理大臣・西園寺公望が主催のサロン会、「雨声会」に文人たちを招待した時、漱石は誘いを断りました。その時の断りの句がこちら。

『時鳥厠半ばに出かねたり』



 ほととぎすが良い声で鳴いているが、トイレで用を足しているからすぐに出ていって聞くことができないという意味です。



西園寺総理は戊辰戦争の時に会津口征伐大参謀でした。
権力嫌いの漱石は西園寺が官軍の参謀であったことが気に入らなかったためこのようにすげなく断ったのであろう、というのが世間での解釈でした。

同じく招待されても断った人に二葉亭四迷や坪内逍遥がいたそうです。



しかし、よくよく調べてみればこの句にはもっと深い意味があるのです。

江戸時代には「厠に入っている時に時鳥の声を聴くと凶事がある。その場合は即座に犬のなき真似をすれば、禍を福に転換できる効果がある」そうです。(笠井俊彌著『犬たちの歳時記より』)



その意味から漱石の句を鑑賞すれば 『時鳥の初音のような貴重なご招待ではありますが、総理も時鳥と犬のなき真似の習俗はご存じですよね。

たまたま所用のためトイレにこもっておりましたところ、時鳥の初音を聞いてしまいました。

そのため即座に上を向いて犬の吠え声を演じましたところ肝心のモノが止まってしまい、そのようなわけで厠から出かねている状態なのです』という解釈ができるわけなのです。



この句に対して西園寺総理が怒ったという記述は残っていませんので、大臣も粋なシャレと解釈してくださったのでしょう。 厠(トイレ)はこのような俳句にも用いられているのです。


へぇ〜
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月18日 14時41分07秒 ) パスワード

>万葉の時代から「ウグイスの巣に卵を産んで育てさせる」という託卵の習性が知られる一方、時代や地域によってはカッコウあるいはウグイスと混同されている例もある。

今日から始まったドラマで「郭公」の文字が出て
「托卵」
についても(托卵から悲劇のドラマが始まったわけです)


最近はいろいろ次々に関連のことが出て来るのでちょっと鬱陶しいなと思い始めています。


あ、しらけ鳥の件は小松政夫と混乱したのかな?と、今、思います。
伊東四朗と清盛の関係から勝手に小松家のことを連想してたので小松政夫とこんがらがってしまったようです。
すみません

小松家は清盛の長男の家のことです。
さらに島津家の家老の家です。

この小松家の関係者の方が2月に行われる母方の先祖の南朝方の562周年のお祀りに参加してくださるのでこんがらがりまくりました。



でも小松政夫も実は同じ平家で南朝方のお仲間なのかも。
だから伊東四朗のことを書いてて出て来たのかも。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月18日 23時08分04秒 ) パスワード

「小松」さんから1つ思い出しました。


俳優の勝村政信が清盛の長男・重盛役に選ばれた時
「うちの奥さんが小松なんですよ。不思議な縁だ」
と言ってました。



清盛の最初の妻って「明子さん」だったのか、と。
高階基章の娘。
だから「章子」の方だと思ってた。

明子さんが清盛と結婚したのは  父親が「住吉っさんのご加護だから」と説得したんですって。
ヲイヲイ
住吉っさんってわたくしの母方が古代からご縁の深い神さまです。
落人で逃げた時に匿ってもらったりしてた。



で、清盛の後妻さんとの子の知盛さまの奥様も  明子  さんなんだって。

治部卿局と呼ばれる女性です。
(じぶきょうのつぼね、仁平2年(1152年)- 寛喜3年9月11日(1231年10月8日))

平安時代末期、鎌倉時代前期の女性。平知盛の正室。後高倉院(守貞親王)の乳母。子に平知章、平知忠、中納言局。


知盛さま最愛の女性で
彼女自身も貴族出身なのに人目もはばからず大泣きしたと記録されています。


明子さんお2人はともに音楽の才能のある人達で
ワタシは無芸大食なんだけど。


で、うちの、ま、近くにお住まいだった(笑)某有名作家さんが平家関連ということで
平家のお話を書くというようなことをおっしゃった時に

「だったら必ず明子{あきらけいこちゃん」という女の子を登場させてください」
と何度もお願いしてました。
「なんだか自分があきらけいこちゃんって呼ばれてた気がするから」
とお願いしてました。


ま、当時は明子ってのは非常に一般的な名前だったのかも。
戦後生まれの女性にやたらと和子ってのがいるみたいな?



ということで
ワタシが知盛さまが大好きでたまらないことや
知忠を育てた?面倒見た?記憶があるのは
こういうことだった?

と今朝4時に分かった。
で、ジムに7分遅刻。
急がなきゃ。
[40]三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月19日 06時26分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 健康体を維持することは、精神的にもいい影響与えます。健康な肉体が
あって健康な精神が保てるということは、この歳になると経験上良くわか
ります。私も、この頃では少しジョギングができるまで、関節や筋や筋肉
の状態が戻ってきました。ゴルフも、ドライバーの飛距離300ヤードは
無理ですが、250ヤードを目指して体を鍛えたいと、ようやく前向きな
気持ちが戻ってまいりました。自分でも嬉しく感じます。

 この4月には統一地方選挙があり、そちらも徐々にプレッシャーがかか
ってまいりますが、これからの2ケ月半ですので、うまく乗り切りたいと
は思っています。

 本日は、姉の四十九日の法要ということで、富士市まで行ってまいりま
すが、兄弟も歯がなくなるように半分いなくなってしまい、いずれ自分に
もお迎えが来る時が来ると、以前より切実さが増してまいりました。

 歴史のことも宗教のことも、知っているようで実は知らないという現実、
知っても簡単に忘れてしまうという現実を考えますと、脳の賞味期限が切
れる前に、できる限りの謎解きをしたいと考えております。最後の悪あが
きかも知れませんが、それが人生の最終章となりそうです。

 ここ遠江は、清盛の頃には平家の知行地でありました。北海道は除いて、
日本の国土の6割以上が平家の知行地になったようであります。
 池田(の宿)という天竜川の渡し場(宿)がありましたが、平氏にも源氏に
も関わり合いがありました。池田は、今は天竜川の東岸、つまり磐田側に
ありますが、今からおよそ520年前、西暦1500年の少し前には、池
田は東岸に、つまり浜松側、ほぼ長上郡同様の所にありました。
 つまり、私が住む所から、5〜6キロ南の所であります。そう考えます
と、俄然親近感も増し、平家との心的距離も近づきます。
 
 平家と南朝は約150年の時を隔てておりますが、平家の残滓は南朝に
引き継がれております。このへんのところを分析したいとは思いますが、
いずれにしろ、ここ遠江において、平家の落人狩り、南朝の落人狩りが行
われたようで、特に後者は激しかったと歴史書にも書かれております。

 私の本家筋の当主は37代目ということでありますので、私の計算では
我が服部家の初代が生まれたのは1150年前後だろうと推測いたします。
その頃は、平家の勃興の頃であり、この地も平家の知行地となりました。
 初代が生まれ育ったのがこの地かどうかの確証はありません。どこか別
の地域であった可能性も大いにあります。何をもって初代となったのかも
わかっておりません。ある土地に定着した、名前を変えた・賜った、分家
として分かれたということになるのかと思います。
 源平の時代にこの地に住んでいたとするなら、その後の平家狩り、南朝
狩りを避けるための必死の努力をしたのかと推察されます。その努力とは、
目立たないようにすること、僻地へ移動すること、武士から帰農すること、
家紋を変えること、あるいは思い切って名前を変えてしまうことだと思い
ます。

 家紋はあるパーセンテージで引き継がれて行くとは思いますが、現代の
家紋でもってその家のそもそものルーツを決定づける程の確率は有してお
りません。特に、明治後の家紋の混沌も大きいと思います。
 我が服部系統の家紋は、明治後に一斉に付けたものとは思われません。
ただ、「三つ柏」に何らかの「思い・思わく」が込められているのかとは
推察いたしております。
 家紋だけにこだわるなら、それは永井(長田)家との通婚によるものか、
神職系筋によるものか、あるいは、葛西、牧野系によるものなのか、ある
いは……かすかではありますが、「出雲」の匂いもなきにしもあらずであ
ります。
 
 出雲は「柏の葉」の初源でもあります。それが、スサノオと柏の葉の関
経、即ち日御碕神社の神紋{丸に三つ柏」であります。さらには出雲と摂津
との関係、即ち神服神社の「丸に三つ柏」にもひょっとして関係している
かも知れません。

 この地と出雲との関係を調べたいと思います――
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月19日 15時15分35秒 ) パスワード

エンエンとグダグダと3時間ほど書いてたのを瞬殺してしまいました。

お姉さまの49日でしたか。
しっかり送ってあげてください。


我が家の母方37代前はまさに保元元年1156年生まれで
平家から送られて来た代官の横暴さにツッパッてしまって
その勢いで頼朝と相婿になりました。北条時政の娘を嫁にしたということです。


服部保長(半蔵)の家が  ほのはやひのみこと  の末裔を称しているのは
「浜松の秦氏」で
要するに  織物の服部姓をパクったから  でしょうね。


呉服明神の服部貞信の家が服部家長の家をパクったのは
ほのはやひのみことなんか胡散臭いと思ってたから
家長の子孫ということにしたのかな?
この家の方が合理的?笑



わたくしの前世の記憶的には  服部中保次系が  ワタクシの家なのかな?
でも中保次が宗清の子孫の家というのがイマイチ納得できない。

家長の3代目の柘植宗清なら納得するのですが、
この人は頼盛さまの家老だった柘植宗清と同一人物なのかな?と
そこのところがイマイチ消化できないでいる。


ムカシは人間関係が複雑にからんでいるからワタクシにはほどけないです。


三つ柏さんのお家の37代前が保元時代あたりの生まれというのは我が家の37代前と照らして「でしょうね」と思います。


平安時代の終わりということは
源頼政の口利きで神服部さんが浜松に来たころに三つ柏さんのお家が関係するのかな
とも思います。


いろいろ可能性がありすぎて分かりません。
[42]三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月20日 00時13分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様のご祖先の37代前の年代と、私の試算による当家筋37代前=
初代の年代とが、ほぼピッタリと合致したということは、大変うれしいニュ
ースであります。祖先探求の一つの足がかりができたと心底喜んでおります。
ありがとうございました。

 太田亮博士の「長上郡に服部氏の名族あり」の意図するところが、今もっ
てわからないままにあります。名族と呼ばれるような服部氏とは誰をいうの
か。この地域の「名族」と言えば、例えば藤原氏系の井伊氏くらいを言う。

 宗清、そして宗純を祖と称している服部中保次は、足利義輝に仕え、服部
の惣領職に相違なしとの判物を賜ったと言われています。桶狭間の戦いで大
いなる軍功を上げ、子孫は敷智郡と長上郡に3500石を賜り、明治になる
まで旗本家として続いています。
 太田博士の言う長上郡の名族服部氏と言えば、この人しかいないように思
われます。長上郡の上石田・下石田は市野の側で、羽鳥ともそう遠くありま
せん。

 問題は家紋ということになるのですが、中保次の暗殺された細江の刑部の
墓には、「源氏車に2つ切竹」が刻まれております。これは宗家の紋章とし
て考えることができるかと思います。庶子の場合には変化があったのではな
いかとも考えます。それが三つ柏に結びつくかどうかがキモとなる訳であり
ます。

 三つ柏が「出雲系」であるということは、前レスにも少し記しましたが、
出雲については今色々読み直しておりますが、日本の歴史のキモであります
ので、ちょっと時間がかかります。
 それよりも、平氏系の中に服部でかつ三つ柏の2条件を満たす人はいない
か……?
 これらの点について、ある程度近い状況証拠的な情報がありましたので、
次回記します――

 明日は、浜名湖の焼き牡蠣を食べに行ってまいります。
[43]酔石亭主さんからのコメント(2019年01月20日 13時34分07秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青海のあをさん

こんにちは

>太田亮博士の「長上郡に服部氏の名族あり」の意図するところが、今もっ
てわからないままにあります。

三つ柏服部さんの上記コメントを拝見してびっくりしました。
実は私も三つ柏さんより少し早い19日の朝に、「浜松の秦氏 その41」で
同じ問題を取り上げていたからです。

三つ柏さんは服部中保次が服部氏の名族になればと期待されているようですが、
無理があると思います。上記は太田博士の姓氏家系大辞典第5巻コマ番号127に
書かれており、他の例で分かるように人物が判明している場合、博士は必ず名前を書き入れています。加えて、コマ番号130の54織田氏族の項には服部中保次が書かれているので、これらを踏まえると長上郡の名族には該当しないと思われます。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123956

私見に関しては以下の「その41」に書きましたのでご参照ください。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-2792.html

三つ柏さんの疑問がこれで解消されればいいのですが……。
[44]三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月20日 23時46分46秒 ) パスワード

酔石亭主様
空の青海のあを様

  酔石亭主様、ありがとうございます。開けてビックリの何よりのプレゼ
ントであります。積年の喉のつかえが取り除かれた感じであります。

 ただ、今、書き込んでいたものが、一瞬にして消えてしまい、落胆してお
りまして、これから仕切り直しをしなければなりません。

 明日は出社もひかえておりますので、この辺で就寝とさせていただきたい
と思いますが、明日中には、私の感想プラスアルファを書かせていただきま
すので、どうぞよろしくお願い申し上げます――
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月21日 03時14分58秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ありがとうございました。
さっそく姓氏家系5巻を拝見しました。

     そうか・・・
     うちは・・・伊勢系になるのか・・・

ということで自分の出自改正に努めます。



三つ柏さん

姓氏家系を読んで
ワタシが・・・このワタシが・・・お嬢様・・・と「一門」に思われてたのはホントだったの・・・とビックリ仰天でした。

     今日から俺はお嬢様!!


ホンヤさんの事はそりゃあ尾張新藩主がご挨拶に出向くんだから当たり前と思ってたけど
「一門」にとってはワタシはそういう立ち位置だった?
と  イヤイヤイヤ  大汗



若君さまが(本物の、時代的、若君さまの方ね)イヨイヨ身近になってしまいました。
若君さまのおばちゃんのご実家または関係者あたり?
改めて森本某とは一体何者なのだ?



御器所ごきその服部将監のことも一段と身近になってしまいました。
元は清盛さまの父上の土地だったんだから、やっぱり家老の服部家が采配してたのか・・・と。

イヤイヤイヤイヤ


そして三つ柏さんが「平忠正の子孫じゃ?」との最初の忠正流発言にワタシがバッサリやったのも
答えが129の49に出てましたね。

祖父ちゃんやパパ達一族が清盛に処分されて   すまん(鈴鹿の海軍父子が戦後アルゼンチンに移民した田中の真似)
太郎三郎長光が母と共に伊賀に行き
服部姓になった

家紋は五本矢車・丸に鳩酸草かたばみ



太郎三郎長光のママが伊賀の服部の女だろうというのは想像してた。
    伊賀で保護された
    服部姓に変えた


ということで  ワタクシの勘は当たってましたね。
でも
家紋は全く想像してなかった。100%思いもしなかった。



これからは伊勢国のあの辺りだけで有効の「伊勢のお嬢様の」勘と枕詞を付けるかな?
キャハハ   
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月21日 15時21分05秒 ) パスワード

全然関係の無いバカ話です。

若君さまのお城の件を調べていたら
とんでもない現在の人物の名前が出て来て・・・
その人はワタシに人生初の思わぬ<悪い>評価をくれた人でした。
ヲイヲイ
ワタシってすっごく良い子で、出来は悪いけどいい子だから、と常に実力以上の良い評価をアチコチから貰ってたのに
この教官だけは  実力の点数をつけた人  でした。

      まだご存命ということで  若君さまのことを語り合いたい・・・


永禄元年の11月に信長は出来の良い弟を暗殺し織田家中をまとめ
若君さまのお家が永禄2年に滅びたというハナシがキャンセルになって
永禄3年5月19日に今川義元を倒し
永禄3年の11月?の満月の夜に若君さまは
というハナシになって

この時には信長さまの家来がアッチもコッチも抑えてみんな結局信長の支配下になっていくのを
若君さまのお家は父上の母君のご実家に身を寄せて生き残り
明治まで続く
というハナシの流れで

    ワタシは、あの城はあそこで、あのなんとか城はあそこで

と捜しているうちに   

若君さまのお城の名に似たのを見つけました:

             ↓

https://nitibotu.exblog.jp/9812720/


尾張名所図会を巡る    ← ホンヤさんのこともココに書かれています(でも内容を忘れた)
nitibotu.exblog.jp
日没さんのブログを引っ張って来ました。
勝手にごめんなさい、日没さん。


『尾張名所図会』の加藤図書助順盛
 加藤氏は長く熱田の地侍として、精進川の東南の岸である羽城(はじょ)に邸宅を構えていた。徳川家康が幼年の頃、この加藤順盛の屋敷に幽閉されていたのは有名な話である。

 徳川幕府が始まると加藤氏は知多郡加家に知行地を得ている。この加藤を東加藤と呼んでいる。



『名古屋市史』の羽城
 「むかしのカキアケ城の跡を加藤図書第宅とす、故に羽城と云う」(『尾張徇行記』)とある。
  また、羽城は『長州志略』に葉上とあり『尾張地名考』には端所や端瀬などとも記すとある。  ← 意味わからない



精進川が無くなり、羽城は当時の面影が全くない。
しかし、現在でも東加藤の屋敷跡の地が残っている。
以前は、このあたりは羽城町といっていたが、現在では伝馬2丁目となってしまい、歴史的な「羽城」という地名は無くなった。



『尾張名所図会』の実相院
中道町(現在の伝馬一丁目)にあって、真言宗の寺院である。
長野村(現在の稲沢市)の万徳寺の末で、永禄十二年(一五六九)に加藤図書助順政(かとうずしょのすけのぶまさ)が建立した。  ← 本当は順盛らしい
本尊は不動明王で、脇壇に如意輪観音を安置する。
この尊像はもとここにあった如意輪寺の本尊であった。
この寺は延享四年(一七四七)に知多郡平島村(現在の東海市)に移った。


当時は熱田が海岸線でしたからね。
森本某は元は尾張の人じゃないのかなと。


再びコピペ:

桶狭間合戦の時、織田信長が熱田の宝前で願文を捧げ戦勝を祈願した。

そして、信長は加藤順盛を呼んで、酒のお酌をさせた。
その際、信長は「この戦に勝とう(加藤)」といったといわれる。
そして、出陣の時に信長は順盛に人々を呼び竹竿を持って付いてくるようにと命じた。
(人数を多く見せる計略)
初めは七十人ほどだったが、最後には二百人ほどになっていた。
しかし、到着した頃には今川義元は討ち死にしていた。

この部分もね、若君さまのお話に・・・
[47]三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月21日 21時27分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様
酔石亭主様

 加藤図書助順盛(ずしょのすけのぶもり)の羽城(はじょ)の邸宅に、幼い頃の
徳川家康が幽閉されていたということ、深く追求すれば色々出て来そうな感じ
がいたしますが、今後追及してみたいと思います。

 さて、「服部連」と「神服神社」についてと思いましたが、疲れと眠気によ
り、頭が混濁気味でありますので、明日にいたします――
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月21日 22時59分55秒 ) パスワード

一晩寝てアタマがスッキリしたら  あの厳しかった教官の家のことが分かった。

白石の子孫・・・・
だから  我が家の御威光にも遠慮せず  厳しかったんだぁ  と分かった

一族が医者になってるのは直接知ってたけど、学者になってたのもいたのかと。


あの時は心の中で恨んでたのが申し訳ない。
なるほど厳しいはずだ。


      渡辺紳一郎さんだってワタシにはすっごくヤサシかったのに。
      この人がワタシをアメリカに送ってくれたんだよ〜


で、もう1家、納得した家があった。

西郷家が滅んだ時の侍大将で服部左京だったか右京だったか(この名前のところはホンヤさんの先祖と反対だからいつも混乱)

南北朝の戦いの時に懐良親王に従って九州に行った時の人の子孫だな
とは思ってたけど
やっぱりそうだった。この時の胤が幕末に実を結ぶわけというのも納得出来た。

イマイチ自信が無かった。1980年代には(だろうな、だったらいいな、の希望的段階だった)


それで三河の西郷家と服部家の関係が出来て

幕末の会津の家老の西郷さんが島津の西郷さんに赦しを乞うた話になっていくのかと。


「八重の桜」の時に、だろ〜な〜、だったらいいな〜、と思ってたことが
やっぱり、と確信になった。


だから武士にとって家名とか先祖とか系図とかを命を懸けて守る守ってきたんだと言うのが良く分かった。


もう4時なのでジムに行って来ます。
[49]三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月22日 15時31分19秒 ) パスワード

酔石亭主様
空の青海のあを様

 4年前に、高槻市の「神服神社」の神主に会いに行ってきました。中家
(なかや)さんという名前の気さくな方でありました。何か意味のありそう
な名前だなと感じました。

 訪問の1週間程前にこの中家さんに電話し、インターネットで見た神服
神社の神紋が「丸に三つ柏」と思われたので、そのことについて質問した
ところ、そうだと言う。当家の家紋も「丸に三つ柏」でそのいきさつを調
べていたところでありましたので、ビックリと同時に感激、さっそく訪問
の許可をいただいた訳であります。このことを、直ぐにあを様に報告した
ところ、驚きの声がありました。

 訪問の当日は、こちら遠江長上郡の「服織神社」の70頁ほどの由緒書
等を載せた『服織神社創建千三百年記念誌』を手渡し、神服神社と服織神
社との間に何か関係があるかどうかを聞いてみました。

 その答えは、期待していた私にとっては残念な結果となりました。中家
さんは、お茶も入れてくれ、同時に「参拝のしおり」を持ってきてくれま
した。氏の言うには――
 「わかっていることは、この「参拝のしおり」に書かれている内容くら
 いであります。実は、織田信長にこの辺りが攻められ、その兵火により、
 神社や資料がすべて焼失してしまいました。」
とのことでありました。

 後で調べたことでありますが、永禄11年(1568)に、織田信長は、芥川
に進軍、芥川平城、同山城、今城、高槻城等を攻略。細川、三好勢力を一
掃。神服神社、安岡寺、大蔵寺、霊山寺等兵火により焼失。信長は芥川城
に入城。芥川、高槻城主に和田惟政を配置したということがわかりました。
これは、地元の郷土史家である古藤幸雄氏の『近世摂津國嶋上郡む服部村
の研究』に書かれておりました。この方の先祖は、神服神社の神職の系統、
服部氏の系統であります。酔石亭主様が引用されたように、ホームページ
も開設されております。

 さて、私にとってのもう一つの疑問、「丸に三つ柏」の神紋であります
が、中家神主もどういう由縁なのかわからないと言う。神社固有の神主さ
んがわからないのに私がわかるはずがない……ということになりますが、
私の推測するところ、柏紋はどうやら「出雲」、あるいは「スサノオ」に
由縁がある、そういう事例が現実にあるからであります。
 レス[40]にも記しましたが、出雲の日御碕神社の神紋が「丸に三つ柏」。
その由来は、スサノオが根の国にて柏の葉を投げて占ったことによります。
 柏の大きな葉は、いわゆる食器の代わりに神前で使われたり、紙の代わ
りとして、文字を書くのに使用されたといいます。

 「柏」、あるいは「柏紋」について深く調べれは、古代の歴史の一面が
見えてくるものと思います。
 例えば、日御碕神社の神紋がスサノオに関係している点で言いますと、
前田豊氏は『徐福とと日本神話の神々』の中で、「スサノオは、元々秦氏
が信奉していた神の名称」と言っております(これについての根拠は、今
の所まだ見い出しておりません)。「秦氏」がスサノオと関係し、従って
柏紋とも関係する?
 また、久慈力氏は『封印された日本古代ミステリー』の中で、「(山口
県長門市油谷の「二尊院」のお墓に「三つ柏」の家紋があった。これは平
氏系秦氏の家紋である。」と言っておられます(これについても、根拠は
見い出しておりません)。平氏・平家と秦氏が関係?、秦氏が「三つ柏」
に関係?……久慈氏は柏はユダヤ教の燭台(メノラー)を表現していると言
うのですが、これについての検証はどうなのであろうか。七支刀もメノラ
ーになるのでしょうか、この辺の答えは、はっきりとしてほしいものです。


 神服神社の由緒書きは、中家神主さんよりいただいておりますので、次回
に掲載いたします――
[50]酔石亭主さんからのコメント(2019年01月22日 20時42分40秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青海のあをさん

神服神社の神主さんは中家さんとのことですが、秦氏の可能性があります。
同社のありようからして、秦氏であっても不思議ではありませんが…。
具体的には稲荷大社の秦公伊侶具を遠祖とする人物で秦中家忌寸がいます。
神服神社の中家さんはこの系統かもしれないので、お聞きになられたら
どうでしょう?

家紋や神紋に関しての知識はほとんどありませんが、スサノオの神紋は
一般的には木瓜紋で氷川神社系は雲紋となっています。日御碕神社の神紋が
「三つ柏」であるのは独自の伝承によるものなのかもしれません。
神服神社の祭神が素戔嗚尊なので「丸に三つ柏」になると確定させるには
もう少し調査が必要かもしれませんね。例えば、秦氏系中家神主家の家紋が
「丸に三つ柏」と言う可能性はありませんか?
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月24日 09時58分17秒 ) パスワード

新しいスレッド
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101652.html
長上郡の服部氏族C][:118:酔石亭主様ご降臨
を立てました。

キリの良いところでどうぞ。


酔石亭主様ご降臨により「姓氏家系大辞典. 第5巻」のご紹介を頂きました。
コマ番号126左頁よりどうぞ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123956
是非コピーの上、保存なさってください。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月24日 23時05分48秒 ) パスワード

あ〜
恥ずかしい

何を勘違いしたのやら
余りにもおバカレスなので4時過ぎたけど削除の上証拠隠滅。


ということでジムから戻ったら中家さんについて書きます。

>山城系は秦氏ともいわれる。
>和泉系は倭漢氏族。

だそうです。

5分遅刻。
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月25日 01時42分28秒 ) パスワード

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E4%B8%AD%E5%AE%B6


【名字】中家
【読み】なかいえ,なかや,なかうち
【全国順位】 2,942位
【全国人数】 およそ4,600人


現京都南部である山城が起源(ルーツ)である、秦氏ともいわれる。
ほか現大阪府南西部である和泉の古族は倭漢氏族。

徳川家などを輩出した現愛知県東部である三河、志摩などにもみられる。
「中」は中心、なかを表す。


へぇ〜
なるほどね。

秦氏で神服神社の神職さんならバッチリ整合性が満たされてますね。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月27日 06時15分40秒 ) パスワード

https://www.youtube.com/watch?v=9QoVBJ_wCIY

【衝撃】出雲で発見された考古学的発見によって『神話』が『史実』に?裏付ける発見がとんでもなく凄い。

2分30秒あたりから見てください。

経島から黒島に向け人工の海中洞窟および人工の玉砂利が残る参道や参内がある。
日御碕にも同じ海中遺跡が存在する[1]。日御碕海底遺跡調査 (PDF) (2004年11月9日時点のアーカイブ)


日御碕神社
創建539年BC    は?え?

   「日の本の昼を守る」アマテラスと
   「日の本の夜を守る」スサノオを
    出雲大社の祖神さまとして祀る
     だって。



http://www.shinbutsu.jp/51.html
コピペガードあり
残念



ということでウイキへ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%BE%A1%E7%A2%95%E7%A5%9E%E7%A4%BE

下の本社(日沈の宮・日沉の宮、ひしずみのみや)は天暦2年(948年)、村上天皇勅命により祀り、上の本社(神の宮)は安寧天皇13年(紀元前536年)、勅命により祀られ、総称して日御碕大神宮とされた。出雲國神仏霊場20番。

「日沈の宮」の名前の由来は、創建の由緒が、伊勢神宮が「日の本の昼を守る」のに対し、日御碕神社は「日の本の夜を守れ」 との「勅命」を受けた神社、である事による。

現在の社殿は3代将軍・徳川家光の命により幕府直轄工事として日光東照宮完成直後の寛永十一年から二十一年までの期間を掛けて造営されたものであり、権現造様式が採用されている。

祭神
下の本社/日沈の宮 天照大御神
上の本社/神の宮 神素盞嗚尊


ここのところ出雲大社に引っ掛かってます。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月27日 16時09分51秒 ) パスワード

三つ柏さん


少し前に送って頂いた「寺社が語る秦氏の正体」の中にお稲荷さんのことが書かれていて
ふぅ〜ん?
とお稲荷さんのことを思っていたあたりですが

https://www.youtube.com/watch?v=886njPS1dZw
稲荷が争う家に江原啓之が訪れた

を見てビックリ。


お稲荷さんってそういう神様だったのかと。
知らなかった。

「寺社が語る秦氏の正体」の書きたかったことが1つ分かったように思います。


人間は勝手だな、と。

そして
やっぱり日本・日本人が衰えていくのは、もう、宿命なんだなと思いました。
もう始まっているんだなと。
国も国民を大事にしてないし。
国民も日本の神様を大事にしてないし。
衰えて当然か、と。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月28日 07時46分29秒 ) パスワード

お稲荷さん  続き

https://www.youtube.com/watch?v=qg-9hzSGJgg

【呪い】本当に怖い…日本の神社や神域で絶対にやってはいけないタブー3選。

半分しか知らなかった。


5:05から「お稲荷さまと狐」。
ヒンドゥ教も混じってたのか。
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月28日 07時53分08秒 ) パスワード

https://www.youtube.com/watch?v=RmpX-Of_EOA

【行ってはいけないパワースポット?】稲荷神社の怖い話、祟られないためには?


飢饉は弥生時代の稲作文明以降稲作ゆえに発生。
何でも食べた狩猟採取の縄文時代には無かった。


なのに  稲荷のこと  全然知らなかった。
祟りの話も何にも知らなかった。
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月28日 08時01分58秒 ) パスワード

https://www.youtube.com/watch?v=CHwa-FtbONg
【衝撃】稲荷神社でお願い事をするとヤバイ…?!〜鳥居・キツネのナゾ〜


面白かった。
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