【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る | 使い方とお願い | 日子の島TOP
 投稿番号:101644 投稿日:2018年09月11日 10時18分54秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏紋の服部さんの代理
長上郡の服部氏族C]W(課題確認57):114服部中家の謎解明
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101643_49.html
長上郡の服部氏族C]V(課題確認56):113
の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


服部中家とはいったいどういう家だったのか、との謎が今夏浮かんで来ました。

桶狭間の戦いの後に徳川家康に仕えた旗本ということは分かっていましたが
実は関所の代官以上の名家だったと分かりました。

この謎の解明に三つ柏さんは挑戦しました。


<レス 26>
『寛政重修諸家譜』の記述は建前で、
本当は花井吉成とお八の娘が水野家の養女に入ったとして――

@花井家、もしくは茶阿(お八の母)と水野家、あるいは服部中家との関係は、どういうものであったのか?

A水野家と服部中家の関係は、どういうものであったのか?


<レス 29>
服部中家と水野正重家は親戚ということ……

長上郡(服織神社の南1qあたりに何軒かの水野家があり、南2qあたりに何軒かの服部家があり、
その服部家には水野家の「丸に立ち沢潟紋」を使用しているものがあります――

羽鳥の服織神社を中心にして、半径2qの円を描きますと、
北の服部家と永井家、東の長谷川家、西の花井家、南の水野家、川井家、さらに南の服部家という具合に、すべてがその円内に収まります。


ご先祖さまは皆さん錚々たるメンバーでした。


その中で思わぬ服部家が今川義元の討ち死にの後も引き続き仕え滅びて行ったことが分かりました。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月12日 06時56分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッドありがとうございます。元気と勇気が湧いてまいります。

 ただ今、充電をし直している最中であります。充電10パーセントくら
いでしょうか。これからもどんどん充電したいと思います。

 昨日も、新居(荒井)へ関所番をした服部党の痕跡を探しに行ってまいり
ました。
 帰りには、賀茂真淵記念館へ寄り、真淵と田安家の関係についての情報
がないか見て回りました。
 賀茂真淵の記述の中に「八咫烏」に関しての考察がありましたので、国
学や和歌で有名ではありますが、想像以上にその奥は深いのではないかと
想像しています。
 私にとって、賀茂真淵を理解する一番の窓口は、服部中保貞が家老に入
った田安家との関係だと考えでおります。

 いずれにしましても、もう少し時間をかけて充電したいと思いますので、
よろしくお願いします。ある程度充電できた段階で、紡ぎ始めます――


 >その中で思わぬ服部家が今川義元の討ち死にの後も引き続き仕え滅び
  て行ったことが分かりました。
という部分ははしょりすぎだと思いますので、こうさせて下さい――

 >今川義元が討ち取られた桶狭間の戦いを契機として、服部中家初代は
 織田信長から徳川家康に仕えるも、今川残党により暗殺される。
  その子孫も徳川家に仕え、貢献するも、次第に時代や環境の変化によ
 り、徐々にその存在性が薄れて行ったという事実も分りまりました。 
 

 
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2018年09月12日 09時10分00秒 ) パスワード

三つ柏さん

服部中の下手人について  ハタ!  と思うところがありました。
ま、今川方だろうな、というのは容易に想像できるところです。

では、今川方の誰?となると!

憎しみ恨み妬み、いわゆる怨恨の線が浮上します。
服部中ほどの人物が何故暗殺されるに至ったのか?
油断してたから、というのも容易に想像できます。


敵ではない、しかし、妬まれている
となると、あの今川方として滅びた服部系が下手人???


もともとは尾張の服部一族の出。
片や信長に仕え、片や信長憎し。


服部中保次、天正15年に刺客により非業のうちに没す。

この天正15年という年はいかなる背景だったか?
天正時代から書いていきます:コピペだけど(赤面)


●1573年 (天正元年) ■室町幕府滅亡
●1575年 (天正3年) ■長篠の戦い
●1580年 (天正8年) ■イギリス商船平戸に来航
●1582年 (天正10年) ■本能寺の変

●1584年 (天正12年) ■小牧・長久手の戦い
●1587年 (天正15年) ■バテレン追放令 ・秀吉、九州を平定・聚楽第完成。
            ココですね。秀吉の時代
●1588年 (天正16年) ■刀狩令

●1590年 (天正18年) ■家康江戸城に入る
●1592年 (文禄元年) ■文禄の役(〜1596)
●1597年 (慶長2年) ■慶長の役
●1600年 (慶長5年) ■関が原の戦い
●1603年 (慶長8年) ■江戸幕府開府



疑問:
時代的に天正15年に暗殺とは?


下手人の名前が分かるといいな、と思っています。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2018年09月14日 01時33分26秒 ) パスワード

三つ柏さん

思い出しました。

今川氏はもともとは西尾市役所のある今川町の出身です。
そこから駿府方向へ東征。

ということは今川氏は西三河に勢力があって当然だった。


つまり安城*安祥*出身で岡崎に進んだ徳川家*松平家*とは天敵関係だったかも。


信長と敵対する服部家ホンヤさん系の服部家の一部が今川氏の家来になってて当たり前、か?
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月14日 10時58分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ただ今、杜悠史氏の『三州錯乱 遠州忩劇』という本を読んでおりますが、
三河においてはかなり複雑な様相で、一度まとめ直さないと、すぐには理解・
記憶ができない程です。
 いずれにしても、家康が生き残って行ったということは、奇跡に近いもの
であったと思います。

 本日は、午後から、賀茂真淵記念館にて開催される高松亮太氏(県立広島
大学専任講師)の講座「賀茂真淵と田安宗武」の聴講に行ってまいります。
 また後で報告いたします――



[5]空の青海のあをさんからのコメント(2018年09月14日 14時49分31秒 ) パスワード

三つ柏さん


>『三州錯乱 遠州忩劇』

ホントに三河は複雑です。
要するに力の無い零細豪族たちがどんぐりの背くらべをしてたところへ
織田と今川が三河取りをしてたのでしょう。


松平家にしても奥三河の「松平」という条件の悪い貧しい場所である山から
日本のデンマークと呼ばれる平坦な安祥に出て
ここで芽を出し
松平家の譜代となった家々は<安祥時代から>ですから
それから岡崎に出て
家康の父の時代には潰れかけ
金持ちの今川家の後押しでなんとか名字だけ維持出来たあたりで
義元のお情けで家康は生きていられた

こんな感じでしょう。


西遠が大変だったことは「女城主 直虎」に描かれていました。


>「賀茂真淵と田安宗武」

書き込みを楽しみにしていますね。
[6]三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月16日 07時38分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 とりあえず、今回の講義でわかったことは、賀茂真淵の主著作は、田安
宗武との学問的やりとりの中から生まれているということがわかりました。
 代表作の『万葉考』は氏64歳の時に書いたもので、その年に田安家の
和学御用を引退しております。
 賀茂真淵についても、ただ今勉強中。彼に関係した服部氏としては、服部
保庵、服部南郭がおります――
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2018年09月17日 04時39分35秒 ) パスワード

三つ柏さん

今朝ジムのテレビをつけたらサッカーをやってて
「あれ?見た顔!」
と思ったら  大迫  でした。

大迫が交代で出たら直ぐに1点入れられて  1−1  でした。



>賀茂真淵の主著作は、田安宗武との学問的やりとりの中から生まれている

宗武は聡明、ということで知られた人物ですから
賀茂真淵も幸運なことでした。


>賀茂真淵についても、ただ今勉強中

服部中家との関係があったのかもですね。


内山眞龍との関係も知りたいところです。
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月17日 15時29分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 内山真竜は、真淵66才の時の門人。「真」は真淵の「真」をいただいた
もの。真淵に傾倒し、栗田土満と並んで遠江国学の中心人物となる。

 ということですが、66才の時ということは、真淵64才で隠居してから
2年後のこと。その翌年67才の時にはは松阪で本居宣長と会い、宣長はそ
の暮に真淵に入門しております。
 71才の時には、栗田土満が入門いたします。
 そして、真淵は73才にて没しております――
[9]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月18日 17時15分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 国学についての云々は止めておきますが、真淵は両親の影響が強かった
ようです。小さい時から万葉集などに触れ、視的感覚を磨いたようであり
ます。国学とは、いわば江戸時代の儒学・朱子学的硬直化した世界からの
ルネサンス運動だったのかも知れません。

 さて、田安家は江戸城の西の端にありましたが、現在は「日本武道館」
がほぼその跡に建っております。真淵も、服部中保貞も実際にそこにいた
わけでありますので、私も時代は違うけれど、同じ場所に一度行ってみて
実感したいと思っております――
 
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2018年09月19日 06時37分55秒 ) パスワード

三つ柏さん

>日本武道館

ウイキよりコピペ:

日本武道館のあたりは、
元々太田道灌が江戸城を築城した際に、関東の守護神でもあった築土神社(旧・田安明神)が遷座したところで、

                       築土神社

                       天慶3年(940)に現在の大手町周辺の観音堂に平将門を祭り
                       津久戸大明神と称したのがはじまり


のち、徳川家康が入府した際に、関東代官であった内藤清成らの屋敷となったため、代官町と呼ばれていた。

その後、徳川忠長や徳川綱重らの屋敷を経て、
江戸時代中期以降は徳川氏の御三卿であった田安徳川家が屋敷を構えたが、
明治維新後取り壊され近衛師団の兵営地となった。



それで現在は「武道館」なのですね。


>真淵も、服部中保貞も実際にそこにいたわけでありますので、
>私も時代は違うけれど、
>同じ場所に一度行ってみて実感したいと思っております――

ですね。

あそこにいらっしゃったのですからね。
同じ空気を感じたいですよね。



静岡の岡部氏といえば元々は大昔から駿河の名家で
今川家の重臣の家。さらに武田の家臣となって高天神城を守り、さらに家康に仕え・・・

                       こういうのを見ていると松島家や内山家との関係は?と気になります


真淵は、学問の道での大成を目指したのかなと。生まれた時代が50年遅過ぎたから。

雅な京都賀茂家の血を受け継ぎ、また、武士の岡部家の血も受け継ぎ、
しかし物凄い葛藤があったのでしょうね。
どっちにしろ平安時代にも戦国時代にも生まれるのが遅過ぎたから諦めはついてたでしょうけど。

             宮本武蔵の葛藤と、武蔵は生まれたのが30年遅れたのと、似ているなと思います。


こういう天才たちのためにも般若心経を詠んであげてください。
[11]三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月19日 10時51分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:視的感覚→詩的感覚

 国学について無視できない流れというものがございました――

 賀茂真淵(50才)が田安家の和学御用を仰せつかった1746年より、
約100年後の1850年、彦根藩主井伊直弼は藩校の弘道館の国学方
として、長野主膳を召し抱えたということであります。
 つまり、井伊直弼は、藩主になる前の時代、彦根藩の藩校で和歌・国学
を本居宣長の弟子から学び、特にみの本居派の国学に関心を寄せていたと
いうことであります。一方の長野主膳は本居派の国学の講義で各地を旅し
ていたということで、国学者として名が通っていたということであります。

 賀茂真淵と本居宣長の出会いは「松坂の一夜」として有名ですが、井伊
直弼と長野主膳の出会いも「埋木舎の出会い」として同じように感動的な
ものであったようです。

 この賀茂真淵と井伊直弼の2つのケースについて、遠江が関係している
ことは間違いなく、改めて遠江国学というものを見直さなければならない
と感じました――
 


 

 
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2018年09月23日 15時18分29秒 ) パスワード

三つ柏さん

大坂なおみちゃんが負けてしまってガッカリです。


>遠江国学というものを見直さなければならない

幕末の日本人に覚醒を促すきっかけをつくりましたからね。
まさか徳川幕府が転覆することにまでなるとは思ってなかったでしょうね。


NHKの「西郷どん」はこれから西郷隆盛のますます冷徹な面を見せてくれるのでしょうね。
林真理子、すごい!

これまでの西郷隆盛像は「いい人」として描かれて来ましたが
      何かワケ分からない人
という西郷隆盛の二面性をちゃんと見せてくれそうですね。
[13]三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月23日 23時15分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、久しぶりに芝刈りに行ってリフレッシュしてまいりました。
 お彼岸といえ、30℃近い気温でありましたので、汗びっしょりとなり
ました。明日はお墓やお寺まいりに行こうと思っています。

 さて、国学でありますが、その流れは――
 @契沖(けいちゅう)
 A荷田春満(かだのあずままろ)
B賀茂真淵(かものまぶち)
C本居宣長(もとおりのりなが)・・・国学を大成 日本中心主義
 D平田篤胤(ひらたあつたね)・・・復古神道
へと流れ、幕末の尊王攘夷とつながっていきます。
 そして、攘夷か開国か、公武合体の挫折、討幕と佐幕……坂本龍馬や
西郷隆盛などが主役となります。最後は戊辰戦争で終結……といった流れ
になると思います。

 次回は、そんな中の井伊直弼についてまとめてみたいと思います――


[14]空の青海のあをさんからのコメント(2018年09月24日 02時51分53秒 ) パスワード

三つ柏さん

まだそんなに暑いのですか。

>明日はお墓やお寺まいりに行こうと思っています。

心を込めてご先祖さまに般若心経を唱えてあげてくださいね。


>井伊直弼

この人は安政の大獄をしなかったら良い人・先見の明のあった人で終わったんでしょうけど
御恩のある徳川幕府を続けたい一心が裏目に出たのかなぁ
と思います。


結局開国になって怒涛のように「西洋」が入って来て攘夷はどうなったの?
     後世のワタシは幕末の10年の激しい流れに(ええっ?)とついて行けない
     つまり日本人には幕末って消化しきれない日本の歴史、って思います。


ひょっとすると西郷隆盛も   この人は改革者・革命家であって  違う意味で井伊直弼みたいな存在なのかなと思います。
西郷隆盛は  幕府が倒れたら  もう要らない人  ということだったのだろうな。


井伊直弼とか西郷隆盛とかは一瞬パッと光を放つタイプの人なんだろうなと。
わたしは輝きもせず歯車にもなれず・・・便所の蔭のどくだみあたりだな、っと。
[15]三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月24日 10時36分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 どくだみ茶は薬効があり、健康にいいということで、飲まれております。
いわゆるデトックスということですが、価値ある植物であります。

 便所の陰というと、井伊直弼を暗殺した側の徳川斉昭は、便所の陰に潜ん
でいた井伊家家臣小西貞義に刺されて亡くなったようで、貞義は直弼の仇を
立派に討ったということであります。

 水戸対彦根の関係は、現代においても何か影響が残っているのではないか、
一度水戸を訪れてみたいと思っております――
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2018年09月24日 14時26分57秒 ) パスワード

三つ柏さん

徳川斉昭の死の真相は、実は暗殺で、下手人は井伊家家臣小西貞義ですか。
へぇ〜
名前が特定されているというところが(実は暗殺だった・・・)という信憑性を高めますね。


わたくしが驚いた「西郷どん」の暗殺話は
徳川(当時はまだ一橋なのかな?)慶喜が暗殺されかかったけれど  実は家老が暗殺され  そしてその犯人は水戸藩士だった  という部分です。


暗殺は
暗殺された方だって秘密裡に処理したいですよね
暗殺した方だって秘密にしたいだろうし
暗殺なんですから。


本日「西郷どん」の「慶喜の首」を見ました。
林真理子というか脚本家はうまくハナシを作るものだなと感心しました。

川口雪篷(かわぐち せっぽう)先生(石橋蓮司)が沖永良部から薩摩に戻る西郷に「革命!」の成功を叫んでましたが
今日は西郷が「絶対に慶喜の首をとる!」と叫んでました。

なるほど!フランス革命で貧しい庶民がルイ16世の首をちょんぎったハナシを西郷は知ってたのか、と。

伏線の回収も上手ですね。

西郷にとって、慶喜の首を取らない限り革命は達成されなかったのか、と。


水戸と名古屋と仙台は日本3大ブス県と言うそうです。
それに  夜も早いし。  夜8時になるとお店が閉まる  なんて言われてました。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2018年09月26日 05時20分30秒 ) パスワード

昨年の7月22日?の笑点で  ← 座布団運びが山田隆夫じゃなくて太った女の子の日

円楽さんが
「室町時代の先祖までに25代遡ると  3355万4432人の先祖が必要 
当時そんなに人口があったわけじゃないから  日本人はみんな親戚なんだ」
と言ってました。


             26代目はその倍だから27代目なんて数えたら・・・恐怖の数


日曜日に久し振りに「西郷どん」で北川景子を見たら
目とか鼻とかが母の姉にそっくりだった。

北川景子は高畑淳子と母方の親戚だそうだから
そうすると伯母が北川景子に似ててもおかしくないわけだと
妙に納得した。

伯母は若い時の八千草薫にそっくりで
話し方も伯母はそっくりで


母は草笛光子によく似てて気性はもっとビシッとしてる感じ。元軍国少女だから。笑
ワタシはどちらにも似ていない。残念っ(泣)


日本人というのは異郷にあっても(この人は日本人だな。こっちの人は違うな)と思うのがやっぱり血のせいかな?
[18]三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月26日 06時49分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 草笛光子は老人のイメージを超越していてビックリしました。精神力が
肉体の隅々まで及んで、今を生きているといった感じで、尊敬に値します。

 さて、桜田門外の変の原因となった由縁は、ピンポイントでここにあり
ました。即ち、井伊直弼の兄であった井伊直亮の考え方の推移であります。
 
 時間の都合により、後で記します――
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2018年09月26日 12時11分01秒 ) パスワード

三つ柏さん

>桜田門外の変の原因となった由縁は、
>井伊直弼の兄であった井伊直亮の考え方の推移であります。

教えてくださいね。
 

下記にウイキからのコピペをします:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E4%BA%AE
井伊直亮

生誕
寛政6年6月11日(1794年7月7日)

死没
嘉永3年10月1日(1850年11月4日)

改名
弁之助(幼名)、直亮

戒名
天徳院真竜廓性

墓所
滋賀県彦根市の清涼寺

官位
正四位上、左近衛権中将兼掃部頭

幕府
江戸幕府大老

主君
徳川家斉→家慶

父母
父:井伊直中、母:南部利正の娘

兄弟
直清、穠姫、(直亮)、中顕、中川久教、内藤政成、松平勝権、直元、内藤政優、直弼、内藤政義


正室:松平頼起の娘
継室:粲(井伊直朗の娘)   なおあきらは分家の越後与板藩の第6代藩主


実子:なし
養子:直元、直弼
養女:南部利用の娘(南部利義正室)


井伊 直亮(いい なおあき)は、近江彦根藩の第14代藩主(15代藩主、12代当主という数え方もある→参照 彦根藩)。江戸幕府の大老である。

井伊直弼の兄で養父でもある。          ← こういう家庭の事情が後世の我々には思いつかないですね



寛政6年(1794年)6月11日、第13代藩主・井伊直中の三男として江戸で生まれた。兄の直清が病弱だったため、文化2年(1805年)に直中から嗣子に指名され、文化9年(1812年)2月5日の父の隠居により家督を継いで第14代藩主となる。

文化12年(1815年)には将軍・徳川家斉の名代として日光東照宮に参拝し、天保6年(1835年)からは大老に任じられた。しかし天保12年(1841年)5月15日に自ら職を辞している。この年の閏1月に家斉が死去し、将軍・徳川家慶や老中首座・水野忠邦によって旧家斉派は次々と粛清されていたため、直亮は巻き込まれるのを恐れて自ら辞任したと思われる。

藩に戻ってからは洋書を買い入れたり蘭学者を登用したりと開明的な政策をとったが、守旧派の家臣には理解されず「むつかしき殿様」と皮肉られた。その後、幕府から相模国の海岸の警衛を命じられると、直亮は西洋式軍隊の練成に努め、列強の強引な開国要求に対応しようとした。また、藩内の国友一貫斎が反射望遠鏡を発明したと聞くと非常に喜んだという。

直亮には実子がなく、弟(直中の十一男)の直元を養嗣子にしていたが、弘化3年(1846年)に早世したため、その弟(直中の十四男)で国元にいた直弼を代わって養嗣子とした。

嘉永3年(1850年)10月1日、彦根で死去した。享年57。跡を直弼が継いだ。
[20]三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月27日 11時32分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 井伊直亮についてありがとうございます。
 直亮は直弼の兄にあたり、嫡子がなかったことから弟で十一男の直元を
養嫡子とするも早世。次に十四男の直弼を養嫡子といたしました。

 桜田門外の変は、「開国vs.尊皇攘夷」、「幕府vs.水戸」の構図でありま
す。日本は本来的に尊皇(=攘夷―外敵から国体を守る)の風土でありました。

 弓削徳介氏の『水戸城考』によりますと――
 「彦根藩主であり、幕府の大老であった井伊直亮(直弼の兄、養父)は、既
 に浦賀湾にやって来た外国船に対して、極度の神経を使っていた。
  直亮は、オランダ船モリソン号を砲撃したことから大老を辞職した。こ
 の間、直亮は自分の無知を恥じて、盛んに洋学書を購入して外国の知識を
 得ようと努力した。
  そして、直亮は以前とは全く変わった外国崇拝者となり、開国を主張し
 た。」
ということであります。つまり、直亮が開国に転じたということが、桜田門
外の変が発生することになった一連の流れの起点・原点であると推測いたし
ます。

 話は変わりますが、最近出た本で、目からウロコの本がありますので、送
ります。本の名は『信長はなぜ葬られたのか 世界史の中の本能寺の変』で
あります。著者は安部龍太郎であります。読みやすい本なので、一度読んで
みていただけましたらと思います――

  
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2018年09月27日 15時50分57秒 ) パスワード

三つ柏さん


>直亮は、オランダ船モリソン号を砲撃したことから大老を辞職した。

モリソン号は軍艦じゃなかったですからね。
イギリス船でもなくアメリカの船だったし
日本人の漂流者も乗せてたし。

こういうことが分かって幕府に対して批判が激しくなって渡辺崋山や高野長英が逮捕される蛮社の獄になりましたね。

                西三河の友人宅の寝室の襖には渡辺崋山の絵が描かれてました。
                男の子がたくさん生まれてたのでかなりもったいないことになってました。
                今では大切に保存してあるのか、「モリソン号事件」を思い出すと、気になります。
                

>桜田門外の変は、「開国vs.尊皇攘夷」、「幕府vs.水戸」の構図であります。

この整理の仕方はスッキリしてて分かり易いですね。


結局日本は後に「開国」するのですから井伊直弼は気の毒ですよね。
水戸は水戸で、尊王攘夷だったのに、吹き飛んでしまいましたね。
歴史は皮肉だな、と思います。

こういう時代に生を受けなくてラッキーでした。
不運のうちに亡くなった人達に般若心経を詠んであげてください。


>『信長はなぜ葬られたのか 世界史の中の本能寺の変』

楽しみにしています。
「世界史」から謎解きする信長の死ですか。
あの時代のスペインとカソリックはアチコチで悪いことをたくさんやってますからね。
でも信長はキリスト教を仏教よりは保護してたのにね。
不思議ですね。

楽しみにまっています。
[22]三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月28日 10時13分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日、例の本、送りました。
 この本の最終章に、キリシタンの糸で結ばれていたのではないかという千
姫―忠輝―長安―政宗の関係と大阪の陣ということが書かれており、実は私
はそこに興味を引かれて購入したいきさつがあります。
 この本、よく読むと、いわゆる徳川時代に創られた歴史観、即ち鎖国史観、
身分差別史観、農本史観、儒教史観等の呪縛を解いてくれ、新たな風が吹く
歴史のパースペクティブが見えてまいります。
 信長殺しの犯人捜しというよりも、今までよく見えなかった戦国時代にお
ける時代背景(大航海時代・キリスト教)がよく見えてくる本であります。
 但し、歴史学者の論文でないので、ある程度のアバウトさはあります――
 
[23]三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月29日 13時05分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 渡辺崋山について、ありがとうございます。実は、五年ほど前、田原町の
教育委員会の発行する『渡辺崋山』という本を入手していたのですが、その
時は興味がわかず、本棚にずっと放ってあったのですが、今回その本を本棚
から引っ張り出して読んでみると、スラスラと読めてしまい、かつ理解が進
みました。つまり、それだけの迎え入れ体制=歴史環境知識と興味=モチベ
ーションが私の中で創生されていたということでもありました。

 渡辺崋山は絵描きなのか、それとも学者なのか、それとも武士なのかとい
う問題ですが、いずれも当たっております。ただ、絵描きとしては、あの谷
文晁も一目を置き、弟子というよりも友達として付き合いたいと云わせた程
でありますので、かなりの力量だったと思われます。

 あを様の言われるように、モリソン号をきっかけとして、蛮社の獄に至っ
てしまったのは、崋山にとっては時の宿命でありました。細かな説明は避け
ますが、いわゆる幕政守旧派によって、海外文明・知識を積極的に取り入れ
ようとする厄介者の進取革新派は陥れられ、そして、死罪は免れるものの、
最後も更に足を引っ張られ、武士のけじめとして自害してしまいます。
 この辺の流れは大変無念であり、何とも言い難い空虚感に襲われてしまい
ます。

 近々一度、田原を訪れ、崋山の痕跡を探ってみたいと思います――
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2018年09月29日 15時16分22秒 ) パスワード

三つ柏さん

我々は本当に幸せな時代に生きていますね。
先人達の無念の涙と不条理な血でこの我々の幸せが築かれているのをヒシヒシと思います。


友人宅の襖の絵を見た時には
(貧しい藩の武士だった崋山はこうやってお金持ちの家にお礼の絵を描いて旅の途中、寝泊りしたのだな)
なんて思いました。


同じ本が、興味のある時とない時の違いって、大きいですよね。
読めなかった本、読み難かった本がスラスラ読めたりして不思議ですよね。

是非是非渡辺登崋山さんにも般若心経を詠んであげてください。
泣けて来ます。
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月30日 21時56分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日の夜は、台風二十四号が日本を縦断して襲来して来ています。
 テレビでは、世界女子バレーで日本がオランダと戦っております。

 井伊直弼と水野家の関係が次のようにありました。
 @紀州藩附家老の水野忠央は、井伊直弼の歌道の師という関係で近い関係
  にあった。
 A沼津藩主の水野忠寛は井伊直弼の側用人であった。
 B井伊直弼は反水戸である。
 C水野忠央は、将軍継嗣問題で、紀伊家の慶福(家茂)を推す。
 D一橋派は水戸の徳川斉昭の実子慶喜を推す。
 E井伊直弼が大老になると、紀伊家の慶福が将軍となり、家茂と称す。

 井伊家と水野家との過去からの関係、深掘りしてみなけれはならないと思
いました――
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2018年10月01日 03時34分14秒 ) パスワード

三つ柏さん

>井伊直弼と水野家の関係

なるほど!
それで次期将軍争いが  水戸 vs 紀州+井伊直弼  で繰り広げられたのですね。

こういう背景が分かっていたら幕末ドラマがもっと楽しめたのに。
どうしてなのかな?
と思ってました。

せいぜい  紀伊家の慶福は幼いから井伊直弼は自由に操れるから  だろうと踏んでました。

いえいえ
そうじゃなかったのですねぇ。

恐らく水野忠央から「紀伊家の慶福どのは賢い子だ」など聞いてたのかもですね。


やはり奥行きを知らないとドラマ上の流れしか掴めませんね。

ありがとうございました。



東京の「日本橋」のあの文字は徳川慶喜が書いたというのをテレビで見ました。
美しい文字ですよね。
感心しました。


それにしても面長の松田翔太さんは殿さま役がぴったりですね。
今日は台風24号の影響で「はじっこ革命」に差し替えられるそうで
残念です。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2018年10月03日 14時48分49秒 ) パスワード

三つ柏さん

本日、ご本を頂きました。
ありがとうございました。

浜松は停電が続いている?とのニュースを見ましたが復旧しましたか?


こちらはしょっちゅう停電やら断水があって
7月からちょくちょく大変です。

また台風が来るようで、来過ぎですね
アメリカ軍の発表進路とヨーロッパの発表進路はちょっと違うようですが
今頃の台風なのに日本の西の進路で日本海へ行くなんて不思議ですね。

ふつうこの時期でしたら黒潮に押されて日本のずっと東に進路を取りますのにね。


あ、最近のニュースでは
12族のユダヤのうちの失われた10族の1つがオアフのワイアラエのあたりに上陸している
というのがありました。

痕跡を探している人がいるんだそうです。

ワイアラエなんて  紗栄子とかいう人の別荘がある  ってハナシは知ってたけど。
[28]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年10月03日 16時17分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 台風二十四号は、"風"台風で、怖い程でありました。電線が直接切れ
たり、木が倒れて電線を切ったり、電柱が折れたり根こそぎ倒れたりで、
北海道地震の時のようなブラックアウトまではいきませんが、大停電で
ありました。当方の地域では、約半日、停電が続きました。所によって
は、まだ停電が続いている所があります。

 今回は、いかに我々が電気に依存し、それによる安楽な生活に浸り切
っているかということと、一旦電気の供給が止まると、にっちもさっち
もいかなくなるという現実を、再認識させられました。

 台風でこうですから、大地震に襲われた時にはどうなるのでしょう。
どうにもこうにもお手上げ(グリコ)でしょう。せいぜい、一粒三百m走
れるというグリコキャラメルを沢山用意しておくことにいたします――
[29]三つ柏服部さんからのコメント(2018年10月04日 12時43分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 グリコキャラメル1粒で、300m走れるということは、仮に歩いた場合
はそのエネルギー消費率を1/2として、距離は2倍の600mとなるとい
うことになります。

 グリコ1粒のカロリー数は16キロカロリーということであります。
 従って、1,000m(1q)のウォーキングのエネルギー消費量は、
  16÷600×1,000 即ち、約27キロカロリーとなります。

 6q(一万歩)歩く場合には、27×6=162キロカロリー、つまり1日
の必要カロリー数(1500〜1600キロカロリー)の約10%に相当する
ということなので、やせるためには、毎日1万歩歩くことが一応の目安にな
るのかも知れません。でも毎日はエライですね。週2回位ならできるかも知
れませんが――結局、やせないってことか、しからば食べる物を減らすしか
ない……!?

 さて、服部政光(友定の兄、初め政秀、右京進、権大夫)の家康から賜った
遠江の3千貫(3百町歩)の地についてですが、「河の庄」と寛政重修諸家譜
には書かれいることは既に承知のことでありますが、それがどこであるかと
いうことで、たぶん「河輪(川勾、河曲)」荘ではないかと推論しておりまし
た。
 たまたま旧河輪荘立野町の記念誌が出たので取り寄せていろいろ考えてい
る内に、そうだ遠州弁のなまりでは、「かわわ」は「かあわ、か〜わ」にな
るということに気づきました。「かわわのしょぅ」は「か〜わのしょぅ」と
なり、ひょっとして文字に直すときに遠州人でない幕僚が「河の庄」と記し
たのかも知れないと、今回思いました。これは私の勝手な思い付きなので、
確証はありませんが――
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2018年10月04日 13時40分23秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「河の庄」=「河輪(川勾、河曲)」荘ではないか

すごい!
これで三つ柏さんも「郷土史家」ですね。


もし戦国時代あたりに「河の庄」は存在してなかったと証明されたら
三つ柏さんのお説は採用されるかもですね。

どなたか学者で遠江の研究をなさっていらっしゃる方が見つかると良いですね。



今回の「風」台風は海から吹いたから塩害で電線が切れたらしいハナシをニュースでやってました。
まだ停電の地域がありますか。
気の毒ですね。
[31]三つ柏服部さんからのコメント(2018年10月05日 10時14分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 史実を語る「歴史のかけら」に、ある日突然出くわすことがあります。
 ちょうど、どこかの倉や土蔵の中から価値ある古文書が発見されるよう
な感じであります。出くわす確率は大変低いと言わざるをえません。

 それほどの発見ではありませんが、最近発行された『立野の歴史 椎の
木と共に五百年』という旧河輪荘立野(たての)の郷土史をまとめた冊子で
ありますが、この中に「歴史のかけら」を発見いたしました。

 それは、「長田氏」に関するものでありました。それに関する箇所を抜
き書きいたしますと――

 @当村(立野、旧長下郡)開拓者・島六郎右衛門は、平氏執権總田氏の末
 孫に、源氏を怖れて犬居に隠れしが、世代の変遷と共に、出でて当国川
 東堂裏の郷に住居せしが、天文二年三月、此の里に来りて、平野に小松
 の栄ゆるを見て、弟三左衛門並びに甥姪を誘い来り開墾、百貫文の地を
 得て府に訴え、立野村と号し、川匂(勾の誤用)庄四十九郷の一とされ、
 庄屋に重用さる。この時、總田姓を改め、島姓とせり。

 A立野村方先祖家系調之控(安政六載巳未正月)(1857年)には、立野町芝
 切の「長田氏」は、桓武平氏の流れをくむ家系であり、平家没落により、
 信州を経て、遠州に定住した。
  時勢がすでに源氏の世となった故、總田の姓を氏神に返納し、「嶋」
 の姓を名乗った。

 ➂家康在城(浜松城)中は、下街道(掛塚街道)守りとして、「長田家次」
 (長田廣政の弟、永田家の祖)を立野村の長として、川東(掛塚)へ徳川の
 物資・人馬等を運び、主に公儀の御用を務めた。

 「長田廣政」は、三河国大浜の人ではありますが、謎も多い――
「(故あって)遠江国山名郡新貝(磐田市内)に移って、長田を永田と改めた。
 その子政吉は同村八幡宮の神主を務めていたが、、家康の浜松入国にあた
 り、召されて仕え、鎌田の南の和口郷において、知行1,000石を賜り、御
 厨庄の代官に取り立てられた」
と、磐田市発行の『中泉代官』には書かれています。

 その廣政の弟が、天竜川を挟んでその西岸にいたということは、色々な
情報を総合すると、事実のように思われます。
 平氏執権總田氏について調べてみましたが、情報を得ておりません。
あを様わかりましたら教えて下さい。

 箱柳永田様に読んでいただけたら幸いなのですが――
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2018年10月05日 14時00分02秒 ) パスワード

三つ柏さん

>總田     ← 中はカタカナの「タ」みたいですね →http://kakijun.com/kanji/name/7e3d.html

みつからないですね。


https://name-power.net/fn/%E7%B8%BD%E7%94%B0.html
【總田】名字の由来と語源
大阪府大阪市平野区。
総田の異形。



>時勢がすでに源氏の世となった故、總田の姓を氏神に返納し、「嶋」の姓を名乗った。

この行も、我々現代人には  え?  ですよね。
姓を氏神に返納?


>総田

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%B7%8F%E7%94%B0

【名字】総田
【読み】そうだ,そうた
【全国順位】 56,449位
【全国人数】 およそ30人

関連姓は宋田、惣田。
現富山県である越中の豪族にみられた。 ← 越中なんてまさに平家の活躍の場です
近年、大阪府、石川県などに少数。


分からないですね。
[33]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年10月06日 16時45分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 郷土の歴史を後世のために残すということは、大事なことだと思います。
 専門家でない素人の人達が、一生懸命努力してまとめた『立野の歴史 
椎の木と共に五百年』には、最大限の敬意を表したいと思います。

 最近、井伊家関係でも新たなる資料が見つかり、それを郷土の方がまとめ
た冊子が出ました。今月の半ばに井伊谷のずっと奥の方のお寺まで受け取り
に行ってまいりますが、それについてはまたその時に報告いたしたいと思い
ます。

 私の祖先探しの旅は、あを様の御指導の下、5年目に入っておりますが、
探求のレベル・フェイズは第2段階に入っております。つまり、恥ずかし
いとか怖いとかを乗り越えて、必要な所へは勇気をもって伺うということ。
 先週は、「定明寺」の和尚さんを訪ねて色々訊いてみました。第2段階
のレベルに足を踏み込むことができたという、自分自身への安堵感があり
ます。結果としては、得るものはほとんど失われてありませんでしたが、
今後、定明寺さんとのお付き合いの中で、いろいろな情報を収集して行き
たいと考えております。浄土宗の総本山知恩院への団参(清掃奉仕)にも参加
する予定であります。

 話は変わりますが、水野家と紀伊家との深い関係がわかりました。次回
はそれについて記したいと思います――
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2018年10月07日 03時48分39秒 ) パスワード

三つ柏さん

今のうちに出掛けられる処には行った方が良いですね。
あちらも代が替わって全く知らない人が継ぐということがありますから。
三つ柏さんご自身が体力が続くうちに。そして懐具合も。


知恩院の清掃でお仲間になるであろう人達の中に思わぬ方と知り合いになれるかも知れませんしね。


>水野家と紀伊家との深い関係がわかりました。
>次回はそれについて記したいと思います。

よろしくお願いいたします。
楽しみです。
[35]三つ柏服部さんからのコメント(2018年10月08日 22時09分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は伊良湖と田原へ行ってきました。

 伊良湖では、焼き大アサリを久しぶりに味わいました。
 伊良湖海岸には、超望遠レンズをカメラに付けた人々がたくさんいたので、
何をしているのかと思って観察をしていましたら、伊良湖岬は小高い山がず
っと張り出していて、その上から鳥たちが風に向かって飛び出しておりまし
た。それをたくさんのカメラマンが写真に撮っていたのでした。ヒヨドリや
サシバ―芭蕉が句に詠んだ鷹―が、風に乗って旋回しながら空高く舞い上が
って行くのも見られました。

 芭蕉の句碑は伊良湖岬の北側にありましたが、「鷹ひとつ 見つけてうれし
いらご崎」というもので、その句碑の場所からも、サシバが天高く舞い上が
る風景を見ることができ、たいへん満足いたしました。(もちろんこの句は、
この地にいる弟子の杜国を鷹にかけて詠ったものでありますが……。)

伊良湖岬の海岸線は、すっかりきれいに整備されていて、グルっと歩いて
一周できるようになっており、海に浮かぶフェリーや漁船やヨットを見なが
ら、心地よい海からの風に当たっていましたら、大変心が癒されました――

[36]空の青海のあをさんからのコメント(2018年10月09日 07時26分01秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「鷹ひとつ 見つけてうれし  いらご崎」

良い句ですね。
良い弟子を得られるってホント嬉しいですよね。



[37]三つ柏服部さんからのコメント(2018年10月09日 11時45分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 渥美半島の中でも、伊良湖岬は別天地であります。三河湾、伊勢湾、遠州
灘から熊野灘、三方をこれらの海に囲まれ、湾の中には、佐久島、日間賀島、
篠島、神島、答志島等が見え、大パノラマの絶景であります。
 また南側の海岸線は弓なりの砂浜で恋路が浜と呼ばれ、ゆったりした散策
ができます。

 この伊良湖岬には麻績王の伝説もあり、歴史の謎とロマンを感じさせてく
れます。古代はもっと海進があったようで、今の風景・地形とは異なったも
のだったと思います。ただ、目に映る空の青、海のあを、山の緑、そして耳
に響く波の音、鳥たちの鳴き声は今と同じであった……。

 伊良湖町はまた、"田原市"伊良湖町でもあります。
 市役所所在地の田原市田原町というと、もっとずっと東の豊橋に近い方な
のであります。
 今回は、渡辺崋山の遺蹟が残る田原町に行ってみようと思いました。
 まずは、伊良湖より田原町の田原市博物館へ向かいました――
[38]三つ柏服部さんからのコメント(2018年10月10日 06時56分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 田原町の散策は初めてでありましたが、静かでまた奇麗に整備された町で
ありました。きっとトヨタ等の工場の誘致で、税収が豊富なのではないかと
思いました。
 田原市博物館は、田原城跡の中にありました。立派な博物館でありました。
今回は、渡辺崋山の特別展が開かれていて、約100点の絵画が展示されて
おり、ほぼ主要な作品が網羅されていたのではないかと思います――
 
 
 
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2018年10月10日 15時03分36秒 ) パスワード

三つ柏さん


田原1万石の貧しい藩でも今はトヨタのお蔭で豊かそうでしたか?
なによりです。

        ワタクシが田原に行った時は  電照菊  を作ってた記憶です


田原の殿さまの娘は家康の継母になっているから「松平姓」を拝領出来たし
幼い時の家康を信長に売り飛ばしていたからこそ家康は将軍にもなれたのでしょうし
その上に
戸田家は多くの近世大名・旗本・大藩重臣を輩出することが出来ました。

        戸田家が今川を裏切って信長にすり寄ったから戸田家は滅びてしまいましたからね
        家康が戸田氏を再興してやったのは当然でしょうね。

               それにしても人間の運とか縁とかって不思議ですね

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E7%94%B0%E6%B0%8F
ちょっとだけコピペ:


戸田氏ってひょっとすると中世には我が家とも関係があったかも。
宗良親王が出て来ます!
それに尾張の戸田の出身だそうですし。
ヲイヲイ


三河戸田氏

家紋は六星。松本藩主となる宗家は六星以外に徳川将軍家拝領紋である三つ葉葵が許されていた。

大垣藩主の系統を引く一族は六星ではなく、九曜の紋を用いた。

三河国渥美郡二連木城(愛知県豊橋市)や田原城(愛知県田原市)によった国人領主。


尾張国海部郡戸田(現・愛知県名古屋市中川区戸田一帯)によって戸田氏を称したという[1]。朝倉川南岸の二連木城や渥美郡一帯[注釈 1]を支配した。 徳川氏の家臣に組み込まれた。戸田氏の嫡流は徳川家康の異父妹と婚姻して松平姓を授けられた松平康長以降、松平丹波守の称号を継承し、葵の紋所を許されるなど江戸幕府より厚遇され江戸十八松平のひとつとして数えられた。嫡流は主に松本藩(松本城参照。)を与えられている。支流には主に宇都宮藩として7万石を与えられていた光忠系、主に美濃国大垣藩主として美濃に10万石を許されていた一西系などがある。譜代大名としては6家が幕末に至った。そのほか旗本となった家や、甲府藩、水戸藩に仕えた者もいる。


出自

『寛政重修諸家譜』によれば、正親町三条公治の子・実興が下向し、その子・実光のとき戸田氏を称したと家伝にあるという。ただし『寛政重修諸家譜』は実光の子・宗光が三条公治と同時代だと指摘しこの出自に疑問を呈している[2]。

また別の資料では、清和源氏の流れである河内源氏の棟梁、鎮守府将軍・八幡太郎源義家の5世・戸田信義(森頼定の十男)の血筋とされ、清和源氏の一家系 河内源氏 森氏の支流である[3]。宗光(全久)の父綱光が正親町三条家(藤原氏の傍流)より養子に入ったという。ただしこの三条家末裔説は仮冒ともされる[1]。

義家から戸田信義までの系譜
源義家━陸奥七郎義隆(源姓毛利氏の祖)━若槻頼隆(若槻氏の祖)━森頼定(森氏の祖)━戸田信義(戸田氏の祖)
戸田信義から宗光までの系譜(誓願寺文書に所収される系譜による)戸田信義┳義成
    ┣頼重
    ┗義房━頼方━頼房━宗忠━綱光━宗光



中世の三河戸田氏[編集]

尾張国海部郡の戸田荘を支配したとみられ、鎌倉時代の建保年間には、戸田十郎信義が御家人として同地の地頭となった旨が当時の記録から確認できる。

                 ココ ↓

南北朝時代は戸田弾正忠宗忠という武将が、南朝に属して信濃宮宗良親王に供奉し、信濃を転戦したという記録が残されている。

その後、宗忠は族党を率いて信濃国大河内城を出て、尾張国海部郡に至ったとあり、旧領に帰参したものと考えられる。

室町時代は幕府政所執事の伊勢氏の被官であった豪族として確認されている。ただしこれらの戸田姓の人物と後代の戸田氏の系譜関係は不明である[4]。


戸田宗光の登場

確証ある三河戸田氏としてみえるのは、戸田宗光(全久)からである。彼は文安年間(1444年 - 1449年)、代官を務める碧海郡上野(愛知県豊田市)に上野の古城を築城したといわれる[要出典]。文明7年(1475年)には戸田宗光が、三河国渥美郡大津村(大津城)に入った。さらに、文明11年(1479年)には一色氏の一族である一色政照を追って田原に入っている。のちに政照の養子となる。応仁の乱の折には松平氏(後の徳川氏)とともに東軍に味方して勢力を広げ一族の支配基盤を確立していった。


応永年間には田原城をはじめ、上野城や朝倉川南岸の二連木城などを築城するなど渥美郡での勢力基盤を固めていった。室町時代を通して三河国の守護は足利氏一門である一色氏や細川氏が務めてきたが、守護の支配力は弱体化していく。その一方、戦国時代初期には、独自路線を歩む渥美の戸田氏に今川氏との協調路線を歩む宝飯郡の牧野氏が対抗する。今橋城の争奪戦に代表される、両氏による度重なる争いが繰り広げられると、これに西三河の雄・松平氏が絡むという、三つ巴の拮抗状態に陥っていく。やがて、同国における松平氏の台頭が顕著になるにつれ、戸田憲光は駿河守護の今川氏との関係を凍結し、一時的に松平氏の配下となるなど戸田氏は、今川氏や尾張の織田氏・松平氏の勢力の中で従属先を変転していった。


戸田康光の滅亡と徳川氏家臣化

戸田氏の運命が大きく揺れたのは、松平氏の勢力が弱まった戦国中期である。戸田氏や牧野氏を抑え、三河を統一しかけていた松平清康の急死により、同氏の隆盛には陰りが見えはじめていた。清康の跡を継いでいた松平広忠は織田氏の圧迫を受け、嫡男の竹千代(後の徳川家康)を今川氏の人質に出すことを条件に後援を申し入れていた。この時、竹千代の今川領・駿河国までの護衛を命じられていたのが戸田氏である。護衛役を命ぜられた戸田家の当主・戸田康光は、三河における今川方の有力な戦国武将であったが先年今川義元に一門の戸田宣成が滅ぼされたことを深く恨み、同じ末路をたどることを恐れて尾張の織田氏に寝返ろうとした。康光は竹千代を駿河に送ると見せかけ、今川氏の仇敵・織田氏に届けたため、今川氏の追討を受け康光・尭光は討ち死にした。分家して仁連木戸田家を立てていた康光次男・宣光は今川方についてその命脈を保ち、宣光系の嫡流が戸田宗家となった。


今川義元が桶狭間の戦いにて織田信長に討たれると、宜光の跡を継ぎ仁連木城主となっていた重貞は義元嫡男・今川氏真から離反し、今川から自立した西三河の徳川家康に従った。彼は東三河の国人に対して徳川に味方する様に周旋するものの、今川方の吉田城を攻略の途上にて討死した。重貞には子がなかった為、家康は重貞弟・戸田忠重の子・康長を以って跡目となした。伯父同様、父・戸田忠重も徳川家に仕え功ある武将であったが早くに没した為、不憫に思った家康は康長をして所領を与え、異父妹の婿となし松平姓を授けた。一方、康光弟 光忠の子・戸田忠次は三河一向一揆に加わっていたが、一揆軍が徳川氏と争った折は、一揆勢のうちに忠次がかつて徳川家と数代にわたって縁戚及び主従関係にあったことから内通を疑われ、ついに忠次は徳川方に寝返って一揆鎮圧に功を挙げた。これにより戸田氏は仁連木戸田家(戸田宗家)、田原戸田家ともども徳川家の譜代家臣となった。田原戸田家は江戸時代に老中を輩出している[5]。

         宗光
      ┏━━━┻━━━┓
     憲光      玄蕃(玄蕃系)
      ┣━━━━┳━━━━┳━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━┓
     政光   宣成   親光(河和戸田家)吉光(波上戸田家)  氏一
      ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━┳━━┓    ┃
     康光                忠政  光忠 政重   氏輝
  ┏━━━╋━━━━━━┳━━━┓      ┃ (七内系)┃ (大垣戸田家)
 尭光  宣光     重真  松平広忠継室  忠次     信光
  ┏━━━╋━━━┓(重真系)        ┃      ┃
 重貞  忠重  重政            尊次     光忠
      ┃ (重政系)        (田原戸田家)   ┃
     康長                       信定
   (戸田宗家)


江戸時代

上記のように大きく分かれ、譜代大名・旗本となった。また諸藩に仕えた家もある。



康長の家系(戸田松平氏、宗家)

三河戸田氏の嫡流で、戸田宗家である(特に戸田宣光以降を指して、仁連木戸田家と称する)。江戸時代には康長が松平を称することを許されたため、戸田松平家ともいわれる。信濃国松本藩→播磨国明石藩→美濃国加納藩→山城国淀藩→信濃国松本藩と転封された。

支藩はなく、光永の相続時に弟2人(孫十郎光正、内蔵助光直)に5000石ずつ分知し、分家の旗本家2家が続いた。孫十郎光正の家を文殊戸田家、内蔵助光直の家を北方戸田家という[6]。

明治時代には本家の大名家が子爵となった。最後の信濃国松本藩主光則は、勅命により戸田に復姓している。


明治以後の旧大名家当主来歴は以下の通り。

戸田康泰(やすひろ) 子爵。三条実美らと北海道雨竜郡に華族組合農場経営。
戸田康保(やすもち) 子爵。東京帝国大学理学部卒。理学士。
戸田康英(やすひで) 東京帝国大学文学部卒。文学士。東宮侍従。
凡例 太線は実子(細線は養子)

       康長
  ┏━━┳━━┫
 永兼 忠光 庸直
     ┃  |
    光重 光重
        ┣━━━━━━━━━┳━━━━━━━┓
       光永       孫十郎光正   内蔵助光直
        ┣━━┓      ┃       ┃
       光煕 光規     光輝      光言
        ┣━━┳━━┓   ┣━━┓    |
       光慈 光清 光雄  光政 光典   光清
        |         |       ┣━━┓
       光雄        光典      光為 光智
        ┣━━┳━━┓   |       ┣━━┳━━┓
       光徳 光和 光悌  光智      光一 光行 光陽
        |         |       ┃
       光和        光陽      光大
        |         ┃       ┃
       光悌        光逸      光武(光遠)
        |━━┓      ┃       ┃
       光行 光年     光天(光田)  内蔵助
        |━━┓      ┃
       光年 光庸     光利
        |━━┓      |
       光庸 光領     光顕
   ┏━━━━╋━━━┳━━━━┓
小笠原長国  光則 内藤政恒 松平康載
        ┣━━━┓
       康泰  氏懿(大垣新田藩家へ)
        ┣━━━┓
       康保  氏徳(大垣新田藩家へ)
        ┃
       康英
        |
       英冠


庄右衛門忠政(光忠)の家系(田原戸田家、下野国宇都宮藩主)

戸田康光の弟・戸田庄右衛門忠政(光忠)[7]の系統。

忠政の子・忠次が家康に仕え、忠次の子・尊次のとき三河国田原藩主となった。以後、下総国佐倉藩、肥前国島原藩などを経て、下野国宇都宮藩主となり幕末に至った。

支藩は2家(足利藩、高徳藩)。足利藩は初代田原藩主忠能の弟・忠次に始まる家系である。忠次は200俵取の旗本であったが、その子・忠時のとき加増され宝永2年(1705年)下野国足利郡・河内郡・都賀郡1万1000石を領して、足利藩を立藩した。なお忠時の三男・忠義は分家し旗本となっている。一方で高徳藩は、宇都宮藩が元治元年(1864年)の天狗党の乱への関与を疑われた際に朝廷へ働きかけ事態打開に功があった一門の家老・戸田忠至に、1万石が分与されて立藩されたものである。藩主の血筋だが当初は200石の家臣であった。

また支藩でない尊次系の分家には、忠真の弟の忠章が3,150石を分知され旗本になった家と、もう一人の弟・忠恒が本家の家臣となった戸田三左衛門家の2つがある。忠章系はのち7,000石となり忠友のとき本家を継ぐが、忠友の養子・・蔵が上野戦争で戦死したため断絶した[8]。

明治維新後、支藩を含め大名だった3家はすべて子爵となった。

忠能・忠次以外の尊次子息3名(正次、生勝、忠高)の系統も旗本となった。正次は300石、生勝は1,200石(のち分知により600石。分家は全て1代で絶家)、徳川綱重に仕えた忠高は2,570石を知行した。忠高の次男・忠重は分家し新たに600石を知行した。

また、忠次以外の忠政の子たち(清勝、勝則、忠勝)も旗本となった。清勝の家は200石のち400石、勝則は700石で嫡孫の貞吉のとき2,080石余となった。貞吉の嫡孫・正吉のとき弟・義陳に580石余を分知し1,500石となった。また貞吉の弟・吉連は150俵を知行している。忠勝はその子・政次が300石を得ている。なお忠勝の孫・恭光(茂睡)は歌人として名を馳せた。家臣となった者もあり、忠勝の子・宗勝の戸田小膳家が宇都宮藩の家老となっている。

一方、尊次の兄・三九郎清光の子・清堅は紀伊藩主徳川頼宣に仕官し3,000石を知行した[8]。


以下略
[40]三つ柏服部さんからのコメント(2018年10月11日 05時45分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 戸田氏の件、ありがとうございます。竹千代を"かどわかした"戸田氏と
いうことで思い出しました。田原に関係していたということが明確になっ
て、歴史探索の面白さを感じています。
 
 水野氏との関係は、明後日以降に記します――


[41]三つ柏服部さんからのコメント(2018年10月12日 22時23分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一泊二日で、姫路城―有馬温泉―一休寺(京田辺市)―宇治へ行ってきまし
た。ツアー観光旅行でしたが、想定外の歴史の"かけら"をいくつか拾いまし
た。
 それらについて、また水野氏についても明日より記したいと思います――
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2018年10月13日 05時05分28秒 ) パスワード

三つ柏さん

>一泊二日で、姫路城―有馬温泉―一休寺(京田辺市)―宇治へ行ってきました。

すごい!

さすがツアーですね、無駄の無い観光が出来たようですね。


アニメの「オトナの一休さん」を毎週見ています。
「コドモの一休さん」からは全く想像出来ないお方でした。


姫路城は新しくお色直しをして美しい白の城だったのでしょうね。


水野氏について、楽しみにしていますね。
[43]三つ柏服部さんからのコメント(2018年10月13日 14時24分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 まずは水野家でありますが、紀伊家との親密な関係はどういう経過であっ
たかということですが――

 @家康の母於大の弟である水野忠重(家康の叔父)の娘(兄に水野勝成あり)
 は、家康の養女となり、加藤清正の後妻として嫁がされた(1599年)。
  この二人の間に、八十姫が誕生(1601年)。
  八十姫は、母の兄の水野勝成の養女になり、徳川頼宣と婚約(1609年)、
そして嫁いだ(1617年)。

  つまり、水野忠重の娘であり、また家康の養女でもある清浄院、その娘
 八十姫は水野勝成の姪でもありかつ養女でもあります。紀州家初代の徳川
 頼宣は、この八十姫を正室としたということ。

  この結合は、水野家と紀州松平家との親戚としてのがっちりとした関係
 の原点であると思います。

 水野家と紀伊家との関係は、さらに――

 A水野忠重の兄の忠分(ただちか)の三男である水野重央は、1606年、家康
 より徳川頼宣の後見を託され、1608年には頼宣の家老となっています。
  また、頼宣が紀州藩を任された時には、重央は附家老としてついて行き、
 そして水野家は紀州藩の代々附家老を務めております。

 つまり、紀伊家と水野家は、一心同体の関係であったと言えるのではない
でしょぅか――
 
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2018年10月13日 15時21分47秒 ) パスワード

三つ柏さん

なるほど尾張藩から将軍が出なかったわけだ、と思いました。


それにしてもムカシは「守るためには」がんじがらめの鉄壁の家の関係を築いたのだなと。


今は縁あって結婚した後に結婚に使ったエネルギーの何倍ものエネルギーで離婚して
そのずっと後に何故結婚をしたのかの関係を知ってガクゼンとする
という無駄なエネルギーをマタマタ消費するけど

ムカシのように結婚相手はどういう家なのか互いにちゃんと調べていたら縁はカルイ表現のご縁じゃなくて
日本人同士の結婚だったら先祖がらみだろうし
離婚は避けることが出来たのかなと。


日本人はホント世界的にも稀有な民族だなと。
[45]三つ柏服部さんからのコメント(2018年10月14日 17時03分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 水野家の誇りは、「自分たちの家は、徳川家康を産んだ於大の実家である」
ということであったであろうか。

 先日刈谷に行って、於大の生きた痕跡を見て来ました。於大が離婚後に住
んだという「椎の木屋敷跡」にも行って来ましたが、そこには於大の塑像が
あり、それを眺めながら、幼くして(竹千代三歳)別れざるをえなかった母の
つらさや、十六年後に再会した時の喜びはどんなものであったかということ
を、しばしの間想像しておりました。

 水野家といえば「忠重」、そしてその子の「勝成」、忠重の従兄弟清信の
子の「正重」……彼らはいわゆる猛将でありました。
 服部中保次・保正親子もまたかれらとほぼ行動を共にし、猛将でありまし
た。
 保正の子「保俊」が正重の孫娘を嫁にしているということ(ここには謎が
秘められておりますが)。
 保俊の次男の「保継」が一旦はこの水野太郎作家に養子に入っているとい
うこと(実子の清定が生まれて解消)。
 保俊の三男が・清定の養子に入って、太郎作家を継いでいるということ。
これらのことを考えると、紀州藩五家の一つ「水野太郎作家」は、最後には
服部中家の血が濃くなっていたということになります。
 
 その後、保俊より五代目の保貞が、紀伊田安家の附家老になったというの
も頷けます――


[46]空の青海のあをさんからのコメント(2018年10月15日 03時26分21秒 ) パスワード

三つ柏さん

>水野太郎作家

作家ですか。

ワタシのコピーでは  水野太郎作  で、切れてて
何か変
と思っていました。


保次の長男の家は
保次  保正   保信   保教   保光   保久  などの名があり

保俊=新居の奉行になり、妻は水野太郎作清次の娘で

保俊の弟が保久で母親が紀伊家の川井重長の娘で(笑   出ました!紀伊家!)

保俊の次男の保継(母は柴田康長の娘)が水野太郎作清次の養子になって実子が生まれたために保俊の元に戻り妻は徳山五兵衛直次の娘

保俊の三男の太郎作清氏は水野太郎作清定の養子に(視力検査ですね  笑)


保継の養子の保秋=保重の息子で最初は保重の家を継いで、妻は長谷川久三郎正相の娘


保秋の子の保房の妻は永井伝八郎茂虎の娘


保房の養子の保貞は長谷川久大夫徳栄の長男で母は佐々木半左エ門長定の娘でトントン拍子で出世して従5位下大和守となり日光奉行になり  田安家の家老に!

この後の子孫も名家とご縁があって



この服部家の家紋は  
16桁車の内横矢筈  むかひ蝶   揚羽むかひ蝶の内に16葉菊を使用。

ということはやっぱり平家の子孫ですね。
[47]三つ柏服部さんからのコメント(2018年10月17日 13時26分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、引佐町渋川にある「東光禅院(通称は東光院)」へ行って、『當寺
古記 御由緒書 注解』という本をほとんど紙代だけで頂いてきました。
住職他三人の郷土の研究家で解読し、注釈をつけたもので、十年かかったと
いうことです。
 東光院は、亀之丞(直親)が信州の松源寺へ逃げ、足掛け十二年後に井伊谷
に戻って来る途中に、いずれも寄宿した所であります。
 また、同じく、虎松(直政)が鳳来寺へ逃げ、足掛け七年後に龍潭寺に戻っ
て来る途中に、いずれも寄宿した所でもあります。
 いろいろ新たな情報を得ましたので、いずれ記したいと思っております。

 また、午後からは賀茂真淵記念館へ行き、元浜松市博物館文化財課職員の
方による「浜松宿探訪」というテーマの講座を聞いてまいりました。
 これにも新しい情報を得ましたので、いずれ記したいと思います。

 さて、水野家についてはそろそろ終わろうと思いますが、一人異色の人物
がおります。この人なしでは水野家を語ったとは言えないでしょう。
 その人とは、即ち「水野忠邦」であります。

 松島十湖の俳句に、「浜松は 出世城なり 初がつお」というものがあり
ますが、浜松城主となった者の多くが出世したといいます。
 家康(浜松城主初代)は別として、その後二十四人の浜松城主がいるわけで
ありますが、その内の六人が「老中」となっております。

 水野忠邦もその出世組の典型な一人でありますが、浜松城主として、1817
年より1845年まで、足掛け29年間、存続しております。
 水野忠邦といえば、「享保の改革」で有名でありますが、これも浜松城主
であった時のことであります。もっとも、忠邦は江戸詰めが多かったので、
浜松の地でのエピソードは少ない。その少ないエピソードを今後拾って行き
たいと思っております。
 田原藩の渡辺崋山とは、全くの同時代人で、不幸にも、1839年の蛮社の獄
では、忠邦は老中として崋山を逮捕する立場にありました。
 崋山も不幸な命運にありましたが、水野忠邦も不幸な命運にありました。
時代が悪かった。しかも、どちらにとっても、幕臣(目付)の「鳥居耀蔵」と
の巡り合わせが、一番の不幸の原因でありました。
 この「鳥居耀蔵」については、別途考察いたしたいと思います。

 昨日の講座の中で、渡辺崋山が泊まった浜松宿の「川口次郎兵衛本陣跡」
というものがどこにあったかがわかりました。浜松城の大手門から東海道を
南に下って200m位の西側でありました――

[48]空の青海のあをさんからのコメント(2018年10月17日 13時58分14秒 ) パスワード

録画してあった歴史ヒストリアの「水野勝成」の番組を見ました。

家康の22歳下の従弟に当たるそうです。父親が家康の母のお大さまの弟なので。

それで秀忠の乳兄弟だったそうです。
ヲイヲイですね。笑


この勝成が放浪中に備中の国で転がり込んでいた先の娘に35歳の時に嫡男が生まれたものの
この生母は藤井道斎の娘・お登久で、(香源院)、側室。


勝成の正室は備中三村氏の娘の良樹院(お珊。三村家親の娘。三村親成の養女)

            三村家親と親成は兄弟。


            三村 家親(みむら いえちか)は、戦国時代の備中国の大名。
            成羽城(鶴首城)主のちに備中松山城主。



     
            三村 親成 は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。
            備中国成羽(鶴首城)主、のち備後福山藩家老三村家始祖。
            通称は孫兵衛、紀伊守。
            子孫に伝わる系図では「親重」とも
           (同じく備中三村氏の縁者に「三村親重」もいるが、これとは別人)。


ヤヤコシイ。

だいたい想像は尽きますね。
好きになった女性が藤井お登久さんで子が出来




勝成の3男の成貞の子がカブキ者の成之(水野十郎左衛門)なんですって。
ビックリ!

旗本奴として著名であるが、父親の成貞も傾奇者・初期の旗本奴として行動していた、とされている。

奇抜な髪型をして髑髏の模様の服を着用し、刀の柄を棕梠で巻いたもので揃えた仲間達と街を闊歩した、とされている。

成貞の正室となる萬の方はその姿に惚れ込んでしまい、ゆえに婚儀がまとまった、とする巷説もある。

お萬の方は徳島藩初代藩主蜂須賀至鎮=蜂須賀小六の孫=の娘、正徳院、ですって。



水野 成之(みずの なりゆき)は、江戸時代前期の旗本。通称の十郎左衛門(じゅうろうざえもん)で知られ、旗本奴の代表的人物の一人に挙げられる。

                  今でいう「トンガってる男子」ってことでしょうね。

慶長8年(1603年)、備後福山藩主・水野勝成の三男として生まれる。元和5年(1619年)6月、徳川家光の小姓となり、寛永元年(1624年)12月、1000石を賜り、翌年2年9月に加増され3000石を領し、小姓から寄合となる。

慶安3年(1650年)10月20日に死去。享年48。長男・成之が跡を継いだ。



ま、勝成の血を良くも悪くも代々受け継いだのでしょうね。
お大さまの弟の水野忠重は自分のひ孫がソッチに行っちゃったのかと草葉の蔭で嘆いたのかもですね。


水野忠重
生誕
天文10年(1541年)

死没
慶長5年7月19日(1600年8月27日)

改名
忠勝[1](勝成[1]) → 忠重

別名
通称:藤十郎、惣兵衛(宗兵衛[1])、和泉守
道号:勇心、法諱(法名):賢忠

戒名
瑞源院殿前泉州太守勇心賢忠大禅定門

墓所
楞厳寺(愛知県刈谷市)
賢忠寺(広島県福山市)

官位
従五位下和泉守

主君
水野信元(織田信長)→ 徳川家康→ 信長 → 信忠 → 信雄 → 豊臣秀吉 → 家康

氏族
水野氏(豊臣氏)

父母
父:水野忠政、母:華陽院(大河内元綱の養女の華陽院さまという噂=年齢的にムリだから)
義父:水野信元[3]


兄弟
近守、信元、女(松平家広室[4])、信近、忠守、於大の方(松平広忠室)、女(石川清兼室)、女(水野豊信室)、近信、忠勝、藤助、女(中山勝時室)、女(水野忠守室)、忠分、忠重 ← 末っ子だったのか


正室:都筑吉豊の娘
側室:宇川氏、某氏ほか


勝成、忠胤、弥十郎、忠清、清浄院(加藤清正室)、忠直、女(安部信勝室)、女(森本右近室)


ややこしくてこんがらがってしまう。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2018年10月17日 14時16分04秒 ) パスワード

三つ柏さん


>引佐町渋川にある「東光禅院(通称は東光院)」へ行って、
>『當寺古記 御由緒書 注解』という本をほとんど紙代だけで頂いてきました。
>住職他三人の郷土の研究家で解読し、注釈をつけたもので、十年かかったということです。

お4人さまでご研究なさったから10年で仕上がったのでしょう。
1人で、でしたら  一生かかります。

大変な作業を紙代で頂けたなんてラッキーでしたね。


>水野忠邦

時代が経済的に行き詰まった困窮時代ですからね。
締め付けがああいう形になってしまったのでしょうね。


>鳥居耀蔵

本人は一生懸命仕事をしたつもりでしょうし。


現在は資本主義の終焉の時代なんでしょうね
既に借金は経済活性化のエネルギーではなくなってしまっている。
そういう時代に我々は生活している。


子供を大学にやれない時代
大学に行きたかったら自分で借金して行け

ということでその借金が返せない時代。


ムカシの農民の逃散とか近代の小作とか
そういう絶対的貧困に突入していく人が続出する時代なんでしょうね。


ムリに改革しようとするとヒズミが生じる。
それがどういう形か、まだ、確定しないけど
文書改竄とか数値ごまかしとか
アチコチで時代の終わりが噴出しつつあるのでしょうね。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2018年10月17日 14時37分13秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101647.html に続きのスレッド
長上郡の服部氏族C]X(課題確認58):115
をご用意致しました。


つくづく子はたくさんの方が「家」は栄えるって思います。
最近は「国」も。


ムカシ「英国病」とか「イタリア病」とかありましたが
今や「日本病」は末期症状だな
っと思うようになりました。


是非是非、歴史に学んで欲しい、と思います。
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.25 Rapah.