[1] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月12日 11時40分44秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
新しいスレッド、ありがとうございます。また、川井氏、長谷川氏もお調
べいただき、ありがとうございます。
台風14号も直接の到来はないにしても、その影響は今週、雨という形で
もたらされそうです。
台風が、回転しながら勢力を高めて行くのと似て、歴史の探求も勢力(色
々な知識・情報)を得ながら、探究力を強めて行く……同じテーマでも、前
回より今回はより一層の知力をもって、一歩も二歩も踏み込んでいけるとい
う実感を覚えます。つまり、テーマを繰り返すとこは、決して無駄なことで
はないということ、繰り返すことにより、どんどん解釈が奥深く、また広が
って行きます。
さて、前レスで服部中保貞が田安家の家老になったのは、どういう由縁だ
ろうかということで調べたところ、驚くべき事実に遭遇したということ……
これは、ズバリ言って、「賀茂真淵」が田安家に強く関係していたというこ
とでありました。
以前、浜松史跡調査顕彰会発行(著者 寺田泰政)『賀茂真淵 生涯と業績』
という本を読んだ時、「田安家仕官時代」という項目がありましたが、その
時には特に気に留めず、そのままほぼ忘れてしまっておりました。
ところが、田安家の初代・徳川宗武を調べてみますと、幼少より聡明で、
荷田在満や賀茂真淵に、国学・歌学・万葉等を学んだようでありました。
そこで、賀茂真淵にについて、もう一度ふり帰ってみようと思い、『賀茂
真淵 生涯と業績』を紐解いてみたところ、今度は鮮烈に「田安家仕官時代」
が目に入って来た訳であります――
[2] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月12日 22時19分55秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
多少、天気が崩れ気味で、気温もピーク時より下がり、一息ついている
ところであります。知らない内に菜園の草が伸びてしまったので、草取り
に、また一汗かきました。
さて、賀茂真淵でありますが、説明し出すと長くなりますので、簡単に
記します。
真淵は、田安家の和学御用を、1746年に仰せつけられています。そ
して1760年に隠居しています。
一方、服部中保貞は、1751年に田安家の家老になり、1755年に
職を辞しております。
つまり同郷のよしみもあり、近しい仲になったと推察いたします。
保貞が何で田安家の附家老となったのかは、将軍引退後の吉宗の意向が
あったと考える方が自然かなとは思います。
それでは、真淵と保貞の出会いは、全くの偶然だったのだろうか……?
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月13日 02時45分36秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
吉宗:
生誕 貞享元年10月21日(1684年11月27日)
死没 寛延4年6月20日(1751年7月12日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E6%AD%A6
徳川 宗武(とくがわ むねたけ)
正徳5年12月27日(1716年1月21日) 〜 明和8年6月4日(1771年7月15日)
江戸幕府第8代将軍・吉宗の次男。官位は従三位権中納言。
松平定信の実父に当たる。江戸時代の御三卿・田安家の初代当主であり、田安 宗武とも呼ばれる。
徳川吉宗が紀州藩主時代の時に生まれた次男で、兄に第9代将軍の家重がいる。幼少より聡明で、
荷田在満や賀茂真淵に国学・歌学・万葉を学ぶ。
ココですね
21歳で真淵に教えられたのかもですね
兄・家重に代わり宗武を将軍後継者に推す者もあり[2]、
父・吉宗も一時は後継者にと考えたが、
第3代将軍家光・駿河大納言忠長以来の長幼の序を重視し、家重を後継者とした。
また、家重の嫡男・家治が聡明であったので、家治の将来に期待して家重を後継者にしたとも言われている。
将軍後継者問題はその後も尾を曳き、家重が将軍となった後、3年間登城停止処分を受ける。
弟の宗尹も同罪とみなされ不興を被った。
次期将軍に宗武を推した老中・松平乗邑も突如罷免された。
その後、第7代将軍家継の生母・月光院の斡旋により登城を赦され、表向きは和解したものの、以後、宗武は生涯にわたり家重と対面することはなかった。
また、宗武自身も将軍就任を望んでいたため、家重の欠点を列挙して諌奏した。
そのためかえって大御所となっていた父の吉宗に咎められ、延享4年(1747年)から3年間も謹慎の沙汰を受けた[1]。
また吉宗は、自分に反抗した徳川宗春に代えて尾張藩を継がせる所存であったが、尾張藩の抵抗により断念したと伝えられる。
学問を好み、荷田在満・賀茂真淵に師事した国学、和歌、有職故実の研究などで知られた。
ココですね
宗武21歳の年以降ですね
明和8年(1771年)6月4日に死去。享年57。田安徳川家は五男の治察が継いだ[3]。
>真淵と保貞の出会いは、全くの偶然だったのだろうか……?
これを調べていたら面白い記事に当たりました。
1番下に書きます。
賀茂真淵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E7%9C%9F%E6%B7%B5
別名
三四、衛士(通称)、県居(号)、春栖、淵満
生誕 元禄10年3月4日(1697年4月24日) 宗武より19歳年上ですね
遠江国敷智郡浜松庄伊庭村
死没 明和6年10月30日(1769年11月27日)
武蔵国江戸
両親
父:岡部政信
遠江の岡部氏といったら、今川に仕えた名家ですよね。
元禄10年(1697年)遠江国敷智郡浜松庄伊庭村(現在の静岡県浜松市)[2]に岡部政信の三男[5]として生まれた。
岡部家は賀茂神社の末社の神職を代々務める旧家で[2]、父政信は分家筋で農を業とした[* 1]。
宝永4年(1707年)、10歳のときに杉浦国頭(くにあきら)のもとで手習いを受ける[2][* 2]。国頭は江戸の国学者・荷田春満の弟子[6]で、春満の姪真崎(まさき)[2]を妻とし浜松で私塾を開いていた。真淵は享保8年[7](1723年)に結婚する[* 3]が翌年に妻を亡くし[8]、翌享保10年には浜松宿脇本陣[9]梅谷(うめや)家の養子になる[10]。30歳をすぎたころ[2][* 4]、家を捨てて京都に移り荷田春満を師として学んだ。元文元年(1736年)に春満が死去する[11]と浜松へ戻り、梅谷家に養子を迎える[要出典]。
翌元文2年(1737年)[2][* 5]には江戸に移り、師として遇せられ国学を講じた[* 6]。
田安家初代宗武に教えることになっていったということですね
延享3年(1746年)、50歳となっていた真淵は御三卿田安徳川家の和学御用掛となって徳川宗武に仕えた[12]。
宝暦13年(1763年)、本居宣長が、伊勢神宮の旅の途中伊勢松阪の旅籠に宿泊していた真淵を訪れ、生涯一度限りの教えを受けた(「松阪の一夜」)。宣長はのちに入門し、以後文通(『万葉集問目』)が続いた。1769年死去。
では驚きの服部中保貞について:
織田信寛
生没年:1725-1777
父:織田信政
義父:肥後守 織田信義
辰次郎
妻:(父:大和守 服部保貞)
維之助
娘
娘
娘(織田信彭妻)
ひょっとするとスケートの織田信成さんと関係するのかもですね。笑
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月13日 03時07分03秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
日本人ってホントに何重にも繋がりますね。
明治以前の日本は移住の自由が無かったし
戦国時代以降に増えに増えた足軽を含めたとしても武士の数は限られてたし
その小さな世界で 親戚 って手近で間に合わせたのですから
何重にも親戚関係なのは当たり前ですが
イヤァ、驚いた。
服部中家で織田家とまた繋がるなんて。
スケートの信成のことを(織田信長の織田じゃない、どこかのウマの骨の織田)なんて悪口を聞くと
何故か反発してましたが
ああ、ココに噂には同調できない原風景があったのか、と。
尾張服部家のホンヤさんの奥様が織田の出身とお聞きした時に
え?敵なのに?
と思いましたが
敵になる前に親戚だし
敵になった後にも親戚だし
最近も親戚だし
血や肉を分けた人間
ということなんでしょうね。
まさか服部中家でまたもや織田家と繋がってたのを今日も突き付けられるとは。
[5] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月13日 13時03分16秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
賀茂真淵の弟子に内山真龍がおります。今まで、賀茂真淵は私にとって
雲の上の存在で、身近ではありませんでしたが、田安家に仕えて、家老の
服部中保貞とも顔を合わせていた(家老より、十人扶持、十五人扶持の待遇
を伝えられるなどしている)ということで、一挙に身近な存在となりました。
あを様お調べの、服部中保貞の娘が織田信寛の妻であること……信寛の
家系を上に遡って行きますと、信政―信相―信当―信包(のぶかね)に行き
着きます。すなわち信長の弟であり、つまり「茶々(淀君)」や「お初」や
「お江」の叔父になるわけであります。
家康と信包との関係・政治バランスを、一度深掘りしてみたいものです
――
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月13日 14時13分14秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>家康と信包との関係・政治バランスを、一度深掘りしてみたいものです
https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%8C%85
信包
関ケ原では西軍だったんですよね
でも家康に許された
だから大坂の陣の時には家康と内通しているだろうと疑われてた。
それで暗殺されたんじゃないかという噂もありますね。
↓
慶長19年(1614年)、秀頼と家康の間で対立の機運が高まり、
また方広寺鐘銘問題などで秀頼が上洛するかどうかを豊臣家臣の中で議論している最中に信包は突然喀血して急死を遂げた[2]。
享年72[2]。
ただし享年67とする説もある(『東大寺雑事記』)。
変死のため、片桐且元による毒殺とする説もあるが[5]、詳細は不明。法名は心巖安公真珠院[3]。
墓所は京都府京都市右京区竜安寺の西源院[3]。
[7] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月13日 14時13分53秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
「紀伊家」がキーワードとなり、色々わかってまいりました。
服部中保次の長男・保正の妻は、紀伊家家臣川井刑部重長であるという
ことは寛政重修諸家譜第十八巻に書かれております。しかしながら、この
川井重長は一体どういう人なのかということがずっと気になっておりまし
た。たまたまこの諸家譜の第十八巻を手に入れましたので、あっちこっち
見ていましたところ、川井氏の項目があり、そこには正にこの川井重長が
掲載されているではありませんか!
それによりますと――
「重長 川井弥兵衛久定の二男。母は鈴木三郎大夫某の娘。
慶長三年、召されて東照宮に仕え、のち紀伊頼宣卿に付属される。
寛永十六年十二月六日死す。法名衜見(どうけん)。
遠江国浜松の西来寺に葬る。」
となっておりました。つまり、袋井の川井村に定着した藤原氏の末裔の
川井氏。久定は今川義元死して後、徳川氏へ鞍替えする。久定の二男が
重長であります。
つまり、紀伊臣とはいうものの、元は浜松の家康に仕えていたというこ
とがわかりました――
[8] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月13日 15時56分28秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
おお!
なるほど!
前のスレッド
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101641_70.html
長上郡の服部氏族C]U(課題確認55):112赤堤系?
に書いたレス<56>
旗本-か-
www.harimaya.com/o_kamon1/hatamoto/hm_ka2.html
川井家, 石持ち地抜き酢漿草藤原氏通憲流といい、遠州川井に拠って川井氏となった。
川井久定は、三方ヶ三方ヶ原・長篠・長久手などに戦い、その孫久吉は関ヶ原で戦功を挙げた。
子孫の多くは大番に家名をとどめた。
この久定の次男でしたか。
>たまたまこの諸家譜の第十八巻を手に入れました
良い参考文献がありましたね。
感心!
それにしても みんな親戚 ですね。
こうやって思わぬ人と実は親戚回りだった、と分かるなんて
さすがご先祖さまからのお引き合わせかも。
良いご供養になります。
あ、そうそう、今日、偉人達の健康診断というNHKの番組に
島田の大草さん
が出てらっしゃいました。
目のキラキラした上品な男性です。
幕府が倒れて家臣が静岡に集まって
お茶栽培を始めた、という箇所だったと思います。
NHKのアナウンサーの旧姓久保田という女性
ひょっとすると料亭のお壤さんなのかしら?
徳川慶喜の屋敷跡
ということで久保田氏が出てたので。
今日は疑問が解決して楽しい日になりました。
感謝
[9] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月15日 01時22分39秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
前回、スレッドを間違えて、「長上郡〜112」の方へ打ってしまいました。
いずれにしても、川井氏の祖先は、藤原通憲、いわゆる「信西」であっ
たということで、この信西とは大物であった。
つまり『新説 保元・平治の乱』(小学館発行)によると――
「保元の乱で藤原頼長が死んだあと、宮廷で絶大な権力を振るったのは
信西(藤原通憲)だった。鳥羽院に仕えたものの官位は低く不遇だったが、
後白河天皇の乳母(めのと)の紀伊局の夫だったことから後白河天皇の信任
を得て側近になった。保元の乱で源義朝の夜襲の策を採用し実行させたの
は信西である。
〜略〜
保元の乱で大きな戦功をあげた平家一門に、信西は厚い恩賞を与えた」
とありました。
この中で、乳母の「紀伊局」の「紀伊」が何となく気になります。紀伊
という言葉には、何か人々を引き付ける秘密があるような――
(『寛政重修諸家譜』では、少納言藤原通憲(信西)の子として大納言藤原
宗忠としておりますが、この名前で有名な『中右記』を書いた宗忠は信西
より44年前に生まれておりますし、また信西の子の中にもその名はあり
ません。平治の乱後、遠江に配流された大納言宗忠とは、別腹でいたのか、
または子供の名前を間違えたのか、はたまた史実が間違っているのか、一
つの課題ではあります。)
[10] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月15日 13時07分33秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
原田和著『遠江資料集』(今から59年前に出版)の中に、「当院(長松院)
河井宗忠公事蹟畧(リャク)記」というものが載せられておりました。10頁
にわたって書かれておりますが、内容的には河井(川井)氏藤原説、及び源氏
説、その他諸説について白黒つける程のものではなく、長福寺松堂和尚の
「松堂録」に書かれてる「菊源氏成信侍中補庵宗忠庵主戦死す」をもって、
河井(川井)宗忠を源氏出とする方向に傾いてはいます。
この辺のことは、今の所はっきりとしませんので、河井(川井)宗忠は、
『寛政重修諸家譜』に取り上げられた信西の遠江に配流され川井村に住ん
で川井氏と名乗った子孫の支流(あるいは本流)であったと信じたいと思い
ます――
信西の末裔とすれば、信西の息子は清盛の娘を娶っておりますので、平家
方とみていいと思います。しからば、服部中家は平宗清を祖としております
ので、同じ平家方。服部保正が川井氏の娘を妻にしたというのは、一つには
正にその縁(えにし)の引力が働いていたとも推察できます――
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月15日 13時55分11秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
源氏説があっても良いのです。
ウチのホンヤさんが「うちは源氏」とおっしゃったのは
南北朝の時に後醍醐天皇から源氏姓を頂いてますから。
わたくしはそのような立派な家であるホンヤさんに比べたらウマの骨ですから
とても「源氏」とは言えません。
なのでどこかで川井氏が源氏との関わりを持った時に源氏姓を賜ったのかも。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E8%A5%BF
信西
改名
藤原通憲 → 高階通憲 → 藤原通憲 → 信西
7歳の通憲は縁戚であった高階経敏の養子となる
氏族
藤原氏(藤原南家貞嗣流) → 高階氏 → 藤原氏
鳥羽上皇は出家を思い止まらせようと康治2年(1143年)に正五位下、翌天養元年(1144年)には藤原姓への復姓を許して少納言に任命し、
更に息子・俊憲に文章博士・大学頭に就任するために必要な資格を得る試験である対策の受験を認める宣旨を与えたが、
通憲の意思は固く、同年7月22日(8月22日)に出家して信西と名乗った。
頑固オヤジ!
保元の乱後
信西は薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑を復活させて、源為義らの武士を処断した。
平治の乱
信頼は源義朝を配下に治め、二条天皇に近い源光保も味方につけ、軍事的な力を有するようになっていく。
平治元年(1159年)12月、清盛が熊野詣に出かけ都に軍事的空白が生じた隙をついて、反信西派は院御所の三条殿を襲撃する[7]。
信西は事前に危機を察知して山城国の田原に避難し、
ヲイヲイ!宇治田原!!!ですよ
戦国時代に、呉服明神の服部貞信が引っ越した所ですよ
ココはどういう場所なのかマタマタ気になります
郎党に命じ、竹筒で空気穴をつけて土中に埋めた箱の中に隠れていたが、
郎党を尋問した追手に発見された。
掘り返された際に、自ら首を突いて自害した。
掘り起こした時には、目が動き息もしていたという[8]。
追っ手は信西の首を切って京に戻り、首はさらし首にされた[9]。
また、信西の息子たちも信頼の命令によって配流された[10]。
信西の息子達は流刑の宣告を受けた。
流刑地への護送は、二条親政派と手を結んだ平清盛によって
信頼ら後白河院政派が一掃された後に行われた。
その後、二条親政派の経宗と惟方が失脚すると、帰京を許されている。
コレですね。
で、信西の孫に有名な女性がいます。小督の局。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%9D%A3
小督(こごう、保元2年(1157年) - 没年不詳)
平安時代末期の女性。
本名は不明(角田文衞説では成子とされる)。
藤原通憲(信西)の孫。
桜町中納言・藤原成範の娘。
高倉天皇の後宮。
類稀な美貌の箏の名手であったと伝えられる。
始めは冷泉隆房の愛人だったが、
高倉天皇に見初められ寵姫となる。
しかし中宮の建礼門院徳子の父であり、隆房の舅でもあった平清盛の怒りに触れ、
治承元年11月(1177年12月)に坊門院範子内親王(高倉天皇第2皇女)を出産したのちに清閑寺で出家させられた。
元久2年(1205年)に藤原定家が嵯峨で彼女の病床を見舞った記録が残るが[1]、その後の消息は不明。
『平家物語』巻六や『たまきはる』に登場するほか、能の『小督』にも取り上げられている。
[12] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月15日 20時18分27秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
寛政重修諸家譜を信じれば、遠江に配流された宗忠の子の宗久は、頼朝
将軍に仕え、遠江国川井村に住したと書かれておりますので、源氏姓を賜
ったかも知れません。
さて、服部中保正の妻は、川井刑部重長の娘でありました。その重長の
父は久定、母は「鈴木三郎大夫某」の娘となっております。鈴木三郎大夫
を名乗ったのは、「鈴木重時」、即ち「井伊谷三人衆」の一人であります。
1569年の堀江城攻めにて討死しており、龍潭寺にその墓があります。
重時の子に「重好」がおりますが、保正と重好は重時を通じて義兄弟と
いうことになります。重好は、のちに水戸藩の家老となります。
明日は、服部中家の代々について、整理してみます――
[13] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月16日 01時59分06秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
「日本人」ですね。
でも後100年もせずに「日本人」は混血に混血の末、崩壊して
先祖のことがますますワケ分からなくなるでしょうね
今はその寸前の先祖捜しをしているのでしょうね。
全く赤の他人と思っていたのに実は赤い糸で結ばれていた
なんてね。
[14] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月16日 15時03分26秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
遠江の「服部中家」の主要な系譜について、まとめてみました――
(代) (氏名) (生没年 誕生年は逆算推測) (経歴・属性)
初代 服部保次 (1526〜1587) 桶狭間の戦いで戦功。信長下より家康下へ。 引佐郡刑部領主となるも暗殺さる。
2代 服部保正 (1565〜1616) 保次の長男。大阪夏の陣に出陣、翌年死す。
妻は、紀伊臣「川井刑部重長」の娘。
服部保信 (1582〜1640) 保次の次男。大阪夏の陣に出陣。
妻は、「内藤平右衛門某」の娘。
服部保光 (1589〜1615) 保正の長男。大阪夏の陣で天王寺にて討死。
3代 服部保俊 (1593前後〜1651)保正次男。1642年、荒井の関所番。
妻は「水野太郎作清次」の娘(実は、花井
吉成と茶阿局の子・お八との間の子と推定。
1613年の長安事件が背景にあり)
服部保久 ( 〜 ) 保正の三男。
服部保重 (1615前後〜1641)保俊の長男。
妻は「柴田筑後守康長」の娘―柴田康長と
「永井右近大夫直勝」の娘との間の子。
4代 服部保継 (1617前後〜1654)保俊の次男。
妻は「徳山(とくのやま)五兵衛直政」の娘。
徳山氏は清和源氏土岐氏族で明智氏共々
頼光が始祖。
5代 服部保秋 (1640〜1683) 保重の長男で保継へ養子に入る。
妻は、「長谷川久三郎正相」の娘。
6代 服部保房 (1659〜1719) 保秋の長男。
妻は「永井伝八郎茂虎(白元の曾孫)」の娘。
7代 服部保貞 (1693〜1759) 実は、保房へ養子に入った「長谷川久大夫
徳栄」の長男。
8代 服部保弘 (1713〜1789) 実は、保貞へ養子に入った「長谷川久大夫
徳栄」の六男。
次回には、これらの細かな説明に入ります――
[15] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月17日 16時54分48秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
保次と保正の背景として、部下としての伊賀同心が何人いたか、その数を
まとめておきます――
・1566年 保次 信長から家康に出仕後1年で、50人の同心(伊賀衆)
を預かる。
・1576年 保次 22人の同心を追加される(計72人)。
保正 家康に出仕する。
・1577年 保次 引佐郡刑部及び三河岡に、百貫文、二十貫文の領地を
与えられる。
保正 保次にもしもの時、遺領等の保証をされる。
・1582年 保次 鉄砲同心(伊賀衆)50人追加(計122人)。
・1587年 保次 刑部にて暗殺される。
保正 保次の跡を継ぐ。
・1596年 正成 死す(横死)。
正就 正成の跡を継ぐも、同心ストライキ。伊賀同心の支配
を罷免される。
結果、伊賀同心200人は、6組に分けられ、
@大久保甚左衛門忠直
A久永源兵衛重勝
保正 B服部中保正
C加藤勘右衛門正次
らに、附属される。
[16] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月18日 05時26分08秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
御庭番通史
https://books.google.com/books?id=ylQrbi_CTFIC&pg=PT7&lpg=PT7&dq=%E4%B9%85%E6%B0%B8%E6%BA%90%E5%85%B5%E8%A1%9B%E9%87%8D%E5%8B%9D%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=4mQ1gA7xoN&sig=xyaZ7BFSPg0iVd-figHJChtlqGI&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwjGna_D7_TcAhWDGnwKHetlDFwQ6AEwBXoECAkQAQ#v=onepage&q=%E4%B9%85%E6%B0%B8%E6%BA%90%E5%85%B5%E8%A1%9B%E9%87%8D%E5%8B%9D%E3%80%80%E3%81%AF&f=false
正就は伊賀組支配の役を解かれ、伊賀組は大久保彦左衛門忠直・久永源兵衛重勝・服部中保正・加藤喜左衛門正次に四分割して配属された。そのため、伊賀 ...
お暇な時にでもお読みください。
*****************************
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BF%A0%E7%9B%B4-1059993
大久保忠直
1551−1623*
織豊-江戸時代前期の武士。
天文(てんぶん)20年生まれ。
大久保忠俊の6男。
徳川家康につかえ,姉川の戦いで戦功をたて,荒之助の名をあたえられた。
小牧・長久手(ながくて)の戦い,大坂の陣などに従軍。
元和(げんな)5年駿河(するが)(静岡県)田中城代となった。
元和8年12月26日死去。
72歳。
三河(愛知県)出身。
通称は甚左衛門。
*****************************
http://milky.geocities.jp/yogototigi/gunma/azumamurasawa.htm
群馬県伊勢崎市(旧東村)
*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)
*参考サイト 城逢人
久永氏陣屋(伊勢崎市東小保方) コピペ女王の小保方さんのご出身地?
一部コピペ:
東小保方にある大東神社が久永氏陣屋の跡である。
神社の境内には案内板が立てられている。それによると久永氏陣屋は、旗本久永源兵衛重勝3300石の陣屋の跡であったという。
すごい!大身の旗本ですね
陣屋の規模は東西75m、南北120mほどであったというから、現在の神社の敷地とだいたい重なっているようだ。
南側には細長い大手の枡形が形成されていたという。確かに南西側には幅広の土橋が南側の道路と接続している。これがその細長い枡形の跡なのであろうか。枡形としたら出枡形のようなものであったかもしれない。この先端部分に大手の陣屋門が営まれていたと思われる。
https://sites.google.com/a/onodenkan.net/lie-dao-cheng-zhi-ji-xing/gunma/jiu-yong-shi-zhen-wu
久永氏は石見国(島根県)の出身で埼玉や茨城にも領地が点在する禄高3200石の旗本であった。
東小保方村は石高1182石の村であり、久永氏は村の支配の為、この地に陣屋を設けた。
**********************************
服部中保正
https://engawa.kakaku.com/userbbs/168/ThreadID=168-596/
撮る造さんの書き込みコピペ
江戸時代に入ってからの忍者について
家康は服部半蔵正成に伊賀組同心200人を率いさせます。
幕府の職制記録によると伊賀組同心の仕事は、江戸城西門(半蔵門)の警備、御広敷番(大奥の警備)小普請方(江戸城の屋根の修理)、明屋敷番(空き家になった大名屋敷の管理)、山里番(西ノ丸山里の門の警備などの任に当たったようです。
後に江戸に入った甲賀百人組は大手三之門の警備を主に担当しました。
又鉄砲百人組の中に一番甲賀組、二番根来組、三番伊賀組、四番青山組があるのでこちらにも鉄砲足軽として組み込まれたようですね。
大奥では、雪の日よく奥女中たちの雪合戦が行われました。その際警備の為、背を向けて警備に当っている伊賀組に対し、奥女中達は雪をぶつけたり背中に雪玉を押し込んだりして遊んでいたと言う話が残っています。
平和の時代、彼らの居場所はなく忍者の誇りさえ奪われていたのでしょうか。
後の島原の乱に際しては松平信綱が派遣された際、甲賀に残っていた(平和で仕事も収入も無い)忍者達が合戦に連れて行くように頼み、その一部10名ほどが軍勢に加わり原城探索や攪乱などに活躍しました。これが忍者としての最後の戦いといわれています。
服部半蔵正成の息子である服部半蔵正就は、父の後を告ぎ伊賀組頭領となりますが(部下をないがしろにして)部下が鉄砲を持って四谷の長善寺に立てこもった事件によって罷免されました。
その後彼は大阪夏の陣で行方不明(戦死?)になり服部半蔵の名は永久に失われることになりました。
なお正就罷免の際、配下の忍者は「大久保忠直、久永重勝、服部中保正、加藤正次などに分付した」と文献にあります。
このうち服部中保正は盗賊の取り締まり捕縛などに当たり、火附盗賊改のような仕事で活躍していたとの記録が残っていますので、彼に従った伊賀者は本来の仕事が出来たのかもしれませんね。
2010/8/24 00:02 [168-851]
(お庭番について)
お庭番というのが時代劇に良く出てきます。ただ水戸黄門や家光の時代を描いたものにも登場しますが、実際には8代将軍吉宗が紀州から連れてきた忍者が始まりです。
吉宗は将軍の座に着くと、紀伊藩からお供させた者たちを御家人に列させます。この中に紀伊藩薬込役たちがいました。
薬込役とは銃に弾を込める役目という意味ですが、これらの者たちの出自は甲賀者で、本当の任務は隠密でした。
そして従来の江戸城警備の広敷伊賀者などと名目上は同じながら、実際は将軍独自の情報機関としたのです。
なぜかといえば、(それまでの将軍と違い)御三家初の将軍として紀州からきた吉宗にとっては、老中以下の幕臣もそれほど信用するわけには行かず、彼らを通した情報のみではたんなる傀儡になってしまうので、自らの政治を行うためには余計なフィルターを通さぬ情報が必要だったのでは。
当然これら幕府重臣のコントロールのためのネガティブな情報も探っていたのでしょうが。そしてやがて大名などの探索などにも用いられるお庭番という正規職制となって行きます。
お庭番の内密御用には2種類があり、ひとつは江戸近郊探索の「江戸地廻り御用」でもうひとつが遠地の探索の「遠国御用」でした。後者が薩摩藩などの探索に当たっているもので、「蘇鉄問答」などの逸話は有名ですね。
(蘇鉄問答)
http://www.01.246.ne.jp/~reki127/index.r
ekitan-35.html
(お庭番Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E
5%BA%AD%E7%95%AA
2010/9/1 23:40 [168-870]
*******************************
俗姓加藤勘右衛門本姓藤原正次
https://books.google.com/books?id=rulMAQAAIAAJ&q=%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%8B%98%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80%E6%AD%A3%E6%AC%A1%E3%80%80%E3%81%AF&dq=%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%8B%98%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80%E6%AD%A3%E6%AC%A1%E3%80%80%E3%81%AF&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjvlZ2n9PTcAhUMK3wKHUNjDvUQ6AEIUzAG
御当家紀年録
児玉幸多
集英社, 1998 - History - 1133 pages
門外不出300余年、旧高田藩主・榊原家に代々秘蔵され続けた重要典籍。
江戸初期に記され、ついに初公開される徳川幕府創業の年代記。
Page 292
今春、松平上総介忠輝賜,一信州川中嶋;今年、兩君御上洛、秀忠公路次供奉次第、一
番榊原式部大輔康政,佐野修理大夫,仙石越前守秀久, ... 巿撟小兵衛、
御鉄炮頭服部石見
丄ニ技平右衛門,森川金右衛門,矢代左衛門,
服部中,
加藤勘右衛門,
钿井金兵衛、
御弓頭久永源兵衛,
青木五 ... 大番、其次土屋民部少輔忠直,高木主水佑正次,柴田七九
郎,阿部弥市郎信盛,内藤新五郎,牧野九右衛門、次内藤若挾守,土方河内守,藤堂内匠
助, ...
Page 293
矢代左衛鬥,服部中,加藤勘右衛門,钿井金兵衛、御弓頭久永源兵衛,青木五左衛門,佐橋甚兵衛,倉橋内匠、御 89 奉行近藤石 0 ^ ... 次に土屋民部少輔もんどのすけ本木 本本忠直,高木主水佑正次,柴田七九郎,阿部弥市郎信盛,内藤新五郎,牧野九右衛門、
次に ...
Page 1120
加藝明成(式部少輔) 375 加鐮則雜(伊織) 411 加藤則之(久次郎) 411 加藝平左衛門 467 加藏正方(右馬允) 467 加藤正次(彦助) 109 加藤正次(喜助,喜左衛鬥) 151,269 加藤正次(勘右衛門) 293 加藝』ト:次(美作) 467 加藤正長(丹後) 467 加藝正信(伝兵衛) ...
こうして眺めていますと名前の羅列に過ぎないけれど
やがて
生き生きと動き出すように見えて来ます。
[17] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月18日 05時28分03秒 ) | パスワード |
来週いっぱいロスに行って来ます。
8月最終週には戻っていますので書き込みの方
よろしくお願いします。
拝読を楽しみにしていますね。
[18] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月18日 07時41分13秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
『御庭番通史』のご紹介、ありがとうございます。これを読みますと、
「松阪コネクション」というものがあり、また興味深々の新たな謎に遭遇
です!
さて、服部中家の系譜を分析しますと――
2代目の保正を解くキーワードは、「大阪夏の陣」であります。
3代目の保俊を解くキーワードは、「水野・花井氏」であります。
4代目の保継を解くキーワードは、「徳山氏」であります。
5・7・8代目を解くキーワードは、「長谷川氏」であります。
6代目と3代目の長男を解くキーワードは、「永井氏」であります。
これについて、書いて行きたいと思います――
[19] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月18日 14時53分22秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
暫くは、一人でボチボチと書いておりますので、お気をつけて行ってきて
下さい!
[20] | 丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月20日 13時30分40秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
朝晩は急激に涼しくなり、季節の変わり目かなという感じがいたします。
それでも、台風は当たり年、次から次へと発生し、やって来ます。今は
19号と20号、ダブルで近づいて来ております――
大阪の陣というものに対して、今まで余り関心がなかったのですが、い
わゆる戦国時代に完全にピリオドを打つ、いわば総仕上げの戦いというこ
とで興味を持ちました。関ヶ原よりも、ある意味壮絶な戦い(豊臣臣にとっ
ては死に場所を求めた戦い)であったような感じがいたします。
忍び軍団を擁する棟梁(武将)で、服部半蔵正成と肩を並べた服部中保次
の長男保正(服部中家2代目)、同じく次男保信、また保正の長男保光が徳
川方として出陣し、保正は夏の陣の翌年、保光は夏の陣の天王寺口の戦い
(最終決戦)にて討死しております。
彼らが具体的にどのような働きをしたのか、忍衆を引き連れるといって
も、鉄砲が勝負を決する主役でありましたので、鉄砲の扱いに長じた忍衆
鉄砲隊を引き連れての戦いだったのではないかと想像しています――
[21] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月21日 14時59分38秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
武将の姻戚関係を調べると、その武将の立ち位置・背景が見えて来ま
す。
服部中家2代目・保正の場合――
@妻は、紀伊家の臣・「川井刑部重長」の娘。
Aそして、川井重長の母は、「鈴木重時」の娘。
B川井重成の父は、「川井久定」
C(川井久定の妻は鈴木重時の娘)
『寛政重修諸家譜』によりますと――
「川井久定 今川義元に仕え、義元死後浪人となり、川井村に帰る。
元亀2年(1571 3年説あり)、召されて家康に仕え、三方原の合戦
(1572)、長篠の戦い(1575)、長久手の戦い(1584)に供奉し、軍功を上
げる。妻は鈴木重時の娘。文禄3年(1594)11月15日死す。62歳」
とあります。
また、その子・重長については――
「川井重長 刑部。川井弥兵衛久定の次男。母は鈴木重時の娘。
慶長3年(1598)、召されて家康に仕える。のち、紀伊家頼宣に附属
せらる。寛永16年(1639)12月6日死す。遠江国浜松の西来寺に葬
る」
とあります。
「鈴木重時」は、徳川家康の遠州侵攻(1568)の先導役を務めたいわゆ
る「井伊谷3人衆」のひとり・鈴木重勝の息子。重勝の娘(重時の妹)は、
井伊直政の祖母。また、重時の妻の妹は、直政の母。
武藤全裕氏の『遠江井伊氏物語』によりますと――
「山吉田鈴木氏の系譜によると、重時の父重勝は三河国足助庄酒呑(
しゃちのみ)郷に生まれたとある。1524年、掛川に移り、ほどなく
同国二俣に移り、三河に転じ、宇利庄吉田郷を領し、上吉田の白倉に
城を築いた。1532年、山吉田の東麓に満光寺を建立する。」
また――
「鈴木重時は重勝の嫡子、永禄年間に家督をつぎ山吉田に住むと系図
にある。井伊氏の一族である奥山朝利の娘を妻としている。
1568年秋、井伊領が井伊家家老小野但馬に押領されると、龍潭
寺の南渓和尚は、8歳の虎松(直政)を三河鳳来寺に入れる。その時、
奥山六左衛門朝宗を付き添わせ、途中山吉田城に立ち寄り宿泊してい
る。鳳来寺における直政の生活を示す資料は残っていない。恐らく、
鳳来寺にほど近い山吉田の有力な土豪の鈴木重勝・重時親子が、血縁
深い直政の鳳来寺生活を陰より支えていたものと私は推測している。
重時は、永禄11年(1568)、徳川家康の遠州侵攻の先導役を務め、
翌年の2月、家康の堀江城攻めに従軍、2月5日城兵の不意の突出を反
撃し、近藤康用と先を争い城門に迫ったが、城櫓よりの鉄砲2丁で両
人は狙撃され、康用は難をのがれたが、三郎大夫重時は討死した。享年
42歳であった。」
一方、服部中保正の方の経緯を追ってみると――
父の保次は、織田信長に仕えて1560年の桶狭間で最大級の戦功を
上げる。その5年後の1565年、保次40歳の時より、松平家康に仕
える。この時に、保正生れている。
保次は、翌年1566年、50人の同心を預かる。家康は、松平から
徳川に名を改める。
1568年、鈴木重時など「井伊谷3人衆」の先導により、家康は遠州
に侵攻し、引馬城に入城。
1569年の2月、堀江城攻めで鈴木重時は討死。同3月、堀川城攻
め。5月にはに、前年の12月に武田信玄に攻められて掛川城に逃れた
今川氏真が家康に攻められて北条氏を頼って落ちて行った(今川氏の滅亡)。
この頃、服部中保次はどんな活躍をしていたか……たぶん、対今川の
の諜報活動・破壊活動、今川氏滅亡後は対武田への諜報活動・警備活動を
していたと思われます(具体的には、いくつかありますが、それはそれで
いずれ別途に拾ってみます)。
その後、武田軍の遠江侵攻、三方ヶ原の戦い、三河野田城攻めがあり、
病気(?)による信玄の死、信長の足利義昭の京よりの追放(室町幕府滅亡)、
長篠の戦いがあり、1576年、服部中保正12歳の時、家康に出仕いた
します。
翌年の1577年には、父の保次は引佐郡刑部と東三河岡の地を家康
から与えられています。
それからは1579年に三男の徳川秀忠が生まれ、正室築山殿の殺害、
及び長男の松平信康の切腹という事件があり、天正伊賀の乱、高天神城
の戦いがあり、1582年には武田勝頼の討死があり(武田氏滅亡)、さ
らには本能寺の変があり、織田信長の死、そして「伊賀越え」があった。
保次・保正の生きたのは、このように家康の壮年期での激動の真っただ
中の時代(特に浜松時代)であったということになります。
この激動の時代に、鈴木重時の娘が川井久定の妻になり、その子であ
る川井重長がもうけた娘が服部中保正の妻になったということ、絶え間
ない戦乱の激動の中で、血縁を結ぶという行為は、信頼関係を固めるた
めには当然の成り行きであったと思われます――
[22] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月22日 14時03分20秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
二代目保正でありますが、「大阪夏の陣」においてその命を落としてしま
います(実際に死んだのは、夏の陣の翌年)。この夏の陣においては、不幸に
も、保正の長男の保光も天王寺にて討死してしまいます。二男の保俊につい
ては、どうも出陣した記録がみつかりません。三男の保久は大阪夏の陣には
供奉しております。
徳川家康も夏の陣の翌年(1616年)の四月に亡くなりますので、保正はその
ことを知り包む、一つの大きな時代が終わったと感じながら、十一月に追う
ように亡くなったということになります。
夏の陣については、保正達がどのように戦ったのか、今後いろいろ調べて
みたいと思っております。
保正の妻は、川井重長の娘であります。重長は家康に仕え、その後、頼宣
に附属せられたということであります。頼宣も大阪両陣には出陣しておりま
すので、川井氏も当然出陣しているものと考えられます。
頼宣は1619年に駿府藩より紀伊和歌山藩へ移っておりますので、その
時に川井重長も家臣としてついていったと思われます。
重長の子の重次、そしてまたその子の重矩、またその子の重光も紀伊家に
仕え、重光の弟・重興、その子の久局(ひさちか)は吉宗に仕えております。
服部中家の7代目の保貞が田安家(吉宗の子宗武より始まる)の付け家老
となったのは、この大阪夏の陣以来の、また川井家との縁戚関係が大きく
影響したと推察されます――
[23] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月23日 14時05分12秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
前レス訂正:知り包む→しりつつ
第三代目の服部中保俊でありますが、兄(長男)の保光が、父と共に大阪
夏の陣に出陣、たぶん双方とも青山忠俊の下で戦ったと思われます。保光
は討死、保正は翌年死している(夏の陣での傷が原因と思われる)。弟の保
久も夏の陣に出陣しており、こちらは無事に帰っております。まさに親子
共々、大阪夏の陣に命を張ったということになります。保俊は出陣してい
ないようでありますが、その辺の情報がないのは謎めいております。とり
あえずは分りませんので、お留守居役であったとしておきましょう……。
その謎めいたというところですが、それは保俊の妻が誰の娘であったか
という点において正に表れます。つまり『寛政重修諸家譜』においては、
保俊の妻は水野太郎作清次の娘とされていますが、『断家譜 巻三 服部
(平氏)』においては、(保俊の長男)某、三九郎、の母は花井遠江守の娘で
あるとなっているのです。この裏に何があるのかということでありますが、
ここには大事件がからんでいたのであります――
て
[24] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月24日 06時37分20秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
その大事件とは、@「大久保長安事件」であります。
そしてもう一つの事件があります。A「松平忠輝大坂夏の陣遅参事件」で
あります。
この@とAは、流れとしてつながっているのであります。
[25] | 丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月27日 16時31分26秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
『寛政重修諸家譜』によれば、服部中保俊の妻は、「水野太郎作清次」の
娘となっています。しかしながら、『断家譜』には、保俊の子・某(保重)の
母は、「花井遠江守吉成」の娘であると書かれております。それは言い換え
れば、保俊の妻は花井遠江守吉成の娘ということになり、『寛政重修諸家譜』
と『断家譜』の記述は、真っ向から対立することになります。
どちらが正しいのかということになりますが、ただ、こういう相違が何故
生じたかということを推察するに、吉成は、自分・花井吉成の娘であるとい
うことはまずい、これを消したかった。なぜならば……ここは説明するのに
長くなりますので簡略に述べますが、吉成は松平忠輝の義兄であり、また忠
輝の家老として、また大久保長安事件との関係等々、全ての点において責任
追及を免れ得ない追い詰めらた立場になってしまった。そして死人に口なし
のように自らの命の火を人にわからないように吹き消してしまった。
ただし、娘には自分の立場上から生ずる迷惑をかけたくなかったので、一
旦水野家の養女としてもらい、その後保俊と結婚させた。いわゆる出自ロン
ダリング……。
保俊が吉成の娘と結婚に至るまでの関係・縁が、そもそもどういう具合に
創成されていたかについては、大変興味を抱くところでありますが、これは
今後の課題としたいと思います。
いずれにしましても、これはあくまで私の推論ではあります――
[26] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月29日 06時32分51秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
さて、『寛政重修諸家譜』の記述は建前で、本当は花井吉成とお八の娘が
水野家の養女に入ったとして――
@花井家、もしくは茶阿(お八の母)と水野家、あるいは服部中家との関係
は、どういうものであったのか?
A水野家と服部中家の関係は、どういうものであったのか?
@について――
この時点(推定1614年)において、茶阿は家康の側室であり、お八は家康の
義理の娘でありました。
花井吉成は、花井家に婿養子に入る前は、松下氏でありました。
水野家は徳川家康の母お大の実家であり、その母の伯父の系統に、お八は
養女として入ったことになります。
用事のため、一時中断いたします。続きは復帰後――
[27] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月29日 09時16分13秒 ) | パスワード |
帰布して
用事を済ませ
やっと精神的余裕が出来ました。
これからしっかり読ませて頂きます。
昨日始まったテニスの全米オープン
波乱含みの始まりで
そして夕方からエンゼルスの試合があって(その前にマー君の試合があった)
8回の裏の最後の打席で大谷が満塁ホームランを打てなかったのが残念でした。
あれは絶対審判ミス
大谷も(信じられない)と暫しバッターボックスにいたけど
ま、勝ったから、いいか。
8回の裏で逆転の機会を作った ぶんぶん丸 には申し訳ない ← しっかり悪口を言ってたのです
勝敗って予想がつかないものですね。
徳川家康ってホント運が良かった。
人材をしっかり集めてたからでしょうね。
[28] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月29日 19時34分56秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
おかえりなさい! お元気で何よりです。リフレッシュ&チャージという
ことで、私も朝霧高原でリフレッシュしてまいりました。
しかしながら、また猛暑復活……冷たいものを飲まずにいられない、喉の
渇きがおさまらないといった症状……自律神経が狂いつつあるのかも知れま
せん。早く、涼しい季節が来ないか、待ち遠しいです!
さて、今、水野氏に興味を抱いております。水野氏には何か大きな秘密が
あるような感じがします。少し深掘りしてみたいと思っております――
[29] | 丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月30日 16時38分23秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
服部中家と水野家とは、どういう関係であったかを調べてみますと、
それは、織田信長に仕えたというところから始まるようであります。
@服部中保次(中家初代) (1526-1587)
A水野信元(家康の母・お大の兄) (推定1535-1575)
B水野忠重(信元の弟) (1537-1596)
C水野正重(信元の従兄弟の子) (1545-1617)
この四人とも、織田信長に仕えておりました。
@とAとCは、桶狭間の戦いに参陣しており、@は最大級の戦功を残し
ております。
@とBは、桶狭間の戦いの後、徳川家康に仕えております。
@とBとCは、今川氏真のこもった掛川城を攻めております。
@とAとBとCは、その後の姉川の戦い、及び三方ヶ原の戦いに参陣し
ております。
Aは、長篠の戦いの前に、織田・徳川により暗殺されてしますます。
Cは、長篠の戦いの後に、徳川家康に仕えます。
@とBは、長篠の戦いに参陣しています。
具体的なエピソードはまだ拾っておりませんが、いずれにしても、この
4人は同じ釜の飯を食った戦友として、強い絆で結ばれていたと思われま
す。
結果として、@の孫の服部中保俊が、Cの孫娘(推定:花井吉成と茶々の
子お八との間に生まれた娘、水野家の養女)をもらうことになった……その
背景となった人間関係は、十分すぎる程創成されたいたということになり
ます。
さらに、服部中保俊の次男・服部中保継はCの子の水野清次の養子とな
ります。但し、その後嫡男・清定が生まれたため、実家へ帰ります。
さらに、この清定に服部中保俊の三男・清氏が養子に入ります。
但し、嫡男なく、この水野家は絶えてしまいます。
しかしながら、この水野正重の系統は、まさに服部中の系統に乗り変わ
られたと言ってもいいほど、一体化いたしました。
服部中家と水野正重家は親戚ということ……長上郡(服織神社の南1q
あたりに何軒かの水野家があり、南2qあたりに何軒かの服部家があり、
その服部家には水野家の「丸に立ち沢潟紋」を使用しているものがありま
す――
[30] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月31日 22時33分12秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>服部中家と水野正重家は親戚
服部中と水野はもともと「尾張の織田家」の配下だった
というのを完全に失念していました。
水野と松平(徳川)が親戚というのは「家康の母のお大さまの実家」で分かっていましたが
日本の歴史ってホントに「親戚」だらけの背景というのを考えないといけませんね。
>その服部家には水野家の「丸に立ち沢潟紋」を使用しているものがあります
これにもビックリ!
水野家との関係で(家格が上になった)水野家の家紋を使うようになったのでしょうね。
そうしますと
長上郡の服部家が丸に三つ柏紋を使用するようになったのは長田=永井=永田家との関係からだったのかも
ですね。
丸に三つ柏さんが家紋からすると長田=永井=永田家との関係に何かあるのでは?と引っ張られてきた心象風景が見えて来ますね。
なるほどんね・・・
[31] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月01日 05時20分54秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
近い内に「刈谷」に行ってきたいと思います。水野家の信元・お大・忠重・
勝成・正重の残存エネルギー(霊)を慰めようと思います。家康の身内であり、
家康にも肉親としての愛をもって支援、力を発揮しながら、信元は暗殺され、
忠重も暗殺の憂き目、お大は離縁という悲劇……ただ、松平家も暗殺が多か
った。つまり、家康の回りは「無念の霊」が多く漂っているということ。
水野信元の伯父系の子孫・正重は存分に活躍すれど、たかだか千石の旗本
止まり。その息子・清次は大坂夏の陣に出陣後、翌年六月に亡くなってしま
います。これは、服部中保正も同じで、息子・保光を夏の陣で亡くし、本人
も翌年十二月に亡くなっております。
その正重の子・清次の娘を服部中保正の子・保俊が嫁にもらっているのも、
何かものすごい因縁(霊的な引力)を感じます――
水野勝成も波瀾万丈の人生を送り、最後は福山城主として成功裡に終わっ
ておりますが、家康の水野家に対する愛は、勝成において評価されるのかと
推察いたしますが、家康の内心や思いはどのようなものであったか知りたい
ものです。
次回は、保俊の息子・保重以下について考察してみたいと思います。
東京の国立博物館で縄文文化の展示会がありますので、見に行ってきます。
またご報告いたします――
[32] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年09月01日 22時38分13秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
お大さまの輿入れの時
水野家の従者達は敵側三河との国境の「境川」=?=漢字が分からない=に来て
輿を置いて逃げ帰った
と聞いています。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57247
なぜ現代人は「縄文」に魅せられるのか? 一大ブームを考察
縄文と土偶へのまなざし
岡本 亮輔
北海道大学准教授
最近、土偶とか縄文とか、人気ですね。
羅府に行ってる間に放送になった土偶の番組を録画してあります。
まだ見る時間的余裕がありません。
しかし人間の才能とは素晴らしいですね。
ワタシは外れてるのが残念っ
今は全米テニスオープンを毎日放送してますが、こういう体育会系の才能もスゴイし
明日午後2時からエンゼル戦があります。大谷のピッチングが見られるといいけど
土偶だけでなく縄文土器もすごい才能・美意識だと感動するし。
こういう先祖に対するブームって日本民族が崩壊していく予兆なのかな、と。
[33] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月02日 10時01分26秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
先祖返りというのは、日本人が今の時代に限界を感じている証拠でもあり、
また縄文時代が考古学の発掘調査により、文化的にも大変進んでいたことが
次々とわかってきており、人々のワンダーと興味を喚起しているといえるか
も知れません。
私的には、「縄文時代」という時代の表現は、その時代全体を表わす言葉
としてはもはやそぐわなくなったのではないかと思っています。
同じ時代に、エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明
等(これらの表現も古いか)が生まれておりますし、決して「原始時代」では
ありません。
実際、1万年、2万年の単位で人類史を総括するのは無理があるのではな
いかと思います。最低でも百万年、2百万年の単位で人類を見直す必要があ
ると思います。
東京国立博物館での「縄文―1万年の美の鼓動」特別展は、昨日が最終日
の1日前(土曜日)、中に入るのに50分待ちでありました。火焔型土器や縄
文のヴィーナス像(土偶)や、遮光器土偶(宇宙服を着ているような)を実際に
見て、正にリアリティーと感動を覚えた次第です。
縄文土器にもみられる「渦巻き模様・ゼンマイ模様」と「蕨模様」につい
ては、永遠のテーマとして、これからも探求し続けたいと思います。
ちょっと用事にて一度切ります――
[34] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月03日 06時46分58秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
『寛政重修諸家譜』によると、水野勝成の母は、「都筑右京進吉豊の娘」
となっていますが、Wikiによると、「本願寺光佐の妹」となっている。つ
まり、「顕如」の妹ということになります。
顕如の妻は、三条公頼の娘で、その姉は武田信玄の正室・三条夫人となっ
ております。
水野勝成の母=水野忠重の妻ということになりますので、忠重が何ゆえに
顕如の妹を妻にしたのか、ひとつの謎であります。
当服部家にもひとつの謎があり、長女が母から聞いた話ということですが、
祖母は「水野家の殿様の末裔の乳母」をやっていたという話があります。
これがどういう由縁であったのか、今は知る由もありませんが、偶然の仕業
であったとしても、不思議なご縁であると思っております――
[35] | 丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月03日 13時24分19秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
服部中保俊は字(あざな)として「三九郎」を名乗りました。これは花井
吉成の字を引き継いだものと思われます。保俊は嫡子の保重にも「三九郎」
を付けております。
さて、保重の妻は「柴田筑後守康長の娘」であります。『寛政重修諸家
譜』によれば、柴田康長は、父・康忠を亡くした幼少の頃、家臣によって
土地を略奪されたため、改易の処分を受け、下野国足利に住む。大坂の両
陣で秘かに「伊達政宗」軍に加わり、元和九年、勘気を解かれ、寛永元年、
武蔵国足立郡のうちに三千石を賜ったとあります。
ここで何故「伊達政宗」がでてくるのかということですが、保重の母親
(服部中保俊の妻)の父が「花井吉成」、母が「茶阿の娘」とすれば、吉成
は徳川忠輝の家老でもありましたし(長安事件ではまずい立場でありました
が)、茶阿の局は家康の側室でもありますし、伊達政宗も付家老として忠輝
に付けられておりましたので、それらのルートにより康長が伊達政宗軍の
下に入るということはできたと考えられます。
その他の点で、私が柴田康長に対し興味を引かれるものは、康長の妻が
あの家康の側近の「永井直勝」の娘であるということであります。
つまり、永井直勝の娘と柴田康長が結婚し、その二人の子(娘)が服部中
保重と結婚した。そしてまたその二人の間に服部中保秋が生まれた。
服部中保俊にとってみれば、永井直勝は息子・保重の妻方の祖父がとな
ります。
服部中保秋にとってみれば、永井直勝は曾祖父となります――
[36] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年09月03日 22時10分40秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ホント!すごいですね。
わたくしの母方の家譜に
○如(略字なので顕如なのか教如なのか判断がつかない)の名前が出て来ます。
幕末・明治維新時には明如(大谷光尊)のお名前が
当然信長に敵対した伊勢長嶋一揆の時の尾張の服部家も関係しますし。
>顕如の妻は、三条公頼の娘で、その姉は武田信玄の正室・三条夫人
春日局に繋がっていきますね。
日本はホントすごいですね。
自分に関係の無いと思っていた歴史上の人物が実は多いに関係があったと分かります。
三つ柏さんのお祖母さまの「水野家の殿さまの乳母だった」というお話は
どういう関係から乳母に上がったのでしょうね?
>服部中保秋にとってみれば、永井直勝は曾祖父となります
三つ柏さんが気になさってた人物ですね。
ホント!人間関係を洗い直すととんでもない人物が浮かび上がって来ますね。
気になる人物だったはずです。
これが「日本」なんですね。
[37] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月04日 10時24分54秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
服部中保俊の長男・保重の妻は永井直勝の娘の娘(孫娘)。
従って、服部中保重の子・保秋は、正に永井直勝の「曾孫」となります。
服部中保秋の父・服部中保重は20代後半で死したため、保秋が家督を
継ぎますが、幼少のため保重の弟・服部中保継の養子となります。
この保継の妻は徳山(とくのやま)直政の娘でありました。
ちなみに、この徳山直政は大坂の両陣では御使番を務めております。
その孫・徳山重俊は盗賊奉行、曾孫の重舊(しげもと)は「火付盗賊改方」
になり、日本左衛門一味の捕縛に功績を挙げております。
服部中保秋は、「長谷川正相」の娘を妻にします。ここで何故長谷川家
が突然現れて来るのか、これからその辺を探ってみたいと思います――
[38] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年09月04日 14時30分42秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>保継の妻は徳山(とくのやま)直政の娘でありました
え?徳山(とくのやま)
とくやま、じゃないのですか。 とくやま、と思ってました。
徳山とくのやまは
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%BE%B3%E5%B1%B1
現岐阜県である美濃国池田郡徳之山村が起源(ルーツ)である、坂上氏、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)頼光流がある。
現愛知県である尾張藩、津山藩にみられる。
http://www.tokuyama.net/edo.htm
以下コピペ
3.江戸の幕臣徳山氏
この徳山氏は、「2.清和源氏土岐氏族徳山氏」で紹介した徳山貞孝の子、五兵衛則秀に続くものです。
徳山五兵衛則秀−「とくのやま」と称す
徳山一族の中で、歴史上最も波乱に満ちた生涯を送ったのは、貞孝の子五兵衛則秀であり、徳山一族を語るのに最大級の人物です。則秀は、幕臣徳山氏の初代であるのみならず、苗字の読みや家紋も改めるなど、影響力の大きな人物です。(家伝に、「はじめ『とこのやま』と称せしを、則秀がときより『とくのやま』と唱う。」とあります。)
五兵衛則秀は、織田信長に従い、浅井、朝倉討伐や長篠合戦などに参加、その後柴田勝家の与力となって加賀の攻略に加わり、天正4年(1576年)御幸塚城(石川県小松市)を陥し、信長から御幸塚城主に任命されます。次いで、小松城に移った後、天正8年(1580年)の加賀平定後は松任4万石の領主となります。その後も、則秀は娘婿佐久間玄蕃盛政との縁もあり、柴田勝家配下として能登、越中方面で戦っています。天正10年(1582年)6月の本能寺の変の際には、魚津城(富山県魚津市)攻略に参加していました。
本能寺の変の後も則秀は柴田勝家に従っています。天正11年の賤ヶ岳の合戦にも柴田側として参加、有名な大岩山砦の奇襲にも先鋒として活躍し、「賤ヶ岳合戦図屏風」にもその姿が描かれています。賤ヶ岳の合戦は秀吉の迅速な帰還と前田利家の戦場離脱により柴田側は敗戦。則秀は秀吉に降り、高野山に蟄居しますが、後に出て丹羽長秀に仕えて8千石を得、次いで前田利家に仕えます。前田利家の死後、慶長5年、徳川家康に召し出され、以後幕臣となっています。
五兵衛則秀は「徳山村史」に「勇邁にして機智策謀にたけ、隠忍長久の人生観を持ち」とあるように、魅力的な人物であったようです。勇敢なだけでなく、御幸塚城攻略では調略を廻らして城将を内応させるなど戦略面でも有能だったようで、戦国の世を生き抜いています。また、家康公の生涯や思想、人柄に似通うものが多かったのでしょう、晩年には家康公の御噺衆に列し、本領美濃徳山及び更木5千石を賜り、厚遇を受けています。
以上コピペ
ということは
徳山氏はもともとは信長に仕えてた?
ということで服部家とも縁があった?
長谷川氏については数年前にも話題になりましたね。
すっかり忘れましたが。
期待していますね。
[39] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月05日 14時12分25秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
長谷川氏の出自については、色々な説があるものの、渡辺三義氏の『静岡
県の名字』が簡潔にまとめていますので、まずはそれを記してみます――
「焼津市小川村の長谷川氏の先祖は、藤原秀郷10代孫、小河次郎政平から
3代後裔の小川次郎左衛門正宣といい、正宣は大和国長谷川村に居住して、
長谷川を姓としたともいわれている。
正宣は、後に小川(焼津市)に移住して長谷川長重の女婿となり、今川範忠、
義忠に歴任して義忠の子竜王丸(氏親)の擁立に尽くし、林叟院を開基し法栄
(永)長者と呼ばれた。正宣の子藤九郎元長は今川氏親、氏輝、義元3代に仕
え藤枝城主。元長の子紀伊守正長は義元に仕えて徳一色城(田中城)を築くが、
永禄12年(1569)、武田勢に攻められて遠江に退き、今川氏没落後徳川家康
に従い、三方原合戦で弟の藤九郎政久と共に討死した。
正長の子、長男藤九郎正成、次男修理宣次は徳川家康に仕え、子孫は幕臣、
三男の久三郎正吉も徳川秀忠に仕えた。」
とあります。
大和国長谷川村というのは初瀬川の周辺をいうのでしょぅか、何故正宣が
そこにいて長谷川を名乗ったのか、知りたいものです。いわゆる長谷川党に
近い存在になったということであれば、服部党のルーツもその辺と関係して
おりましたので、古くから理解できる間柄であったのかも知れません――
[40] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月06日 06時54分28秒 ) | パスワード |
空野青海のあを様
細かく説明すると長くなりますので、簡略化いたしますが、1560年の
桶狭間の戦いから始まって、家康が浜松城に居城するくらいまでを、「三州
錯乱・遠州忩劇」と呼んでおります。今川義元が討たれ、元康(家康)が織田
と結び今川から独立する過程で、今川方との戦いと今川方の徳川方への寝返
りといった大転換の時代がありました。
また、それに続いて、武田信玄の駿府攻め、遠江攻めも始まりました。
「長谷川正長(小川長者法永・正宣の孫)」の時代は、まさにその時代であ
ました。
柏木英夫氏の『駿遠卍戦記』の中に――
「永禄十三年(1570)の一月末。
武田軍は花沢城を落とした翌日、徳之一色城を目標として侵攻した。
この城は当時としては珍しい平地の城で、元は一色氏の館だったが、今川
家の命令により、一色信茂が拡張増強して城にしたと伝えられる。
当時の城主は、小川の法永長者と呼ばれた長谷川正宣の孫・長谷川正長で
あった。
長谷川正長は一族二十余人、総勢三百余人でこの城を守っていたが、武田
軍の来襲を見ると、いち早く徳之一色城(田中城)を捨て、瀬戸川の西、志太
の金比羅山で武田軍の動静ほ窺っていたが、やがて徳川領の遠江へと逃げて
行った。長谷川氏としては、武田氏に恐怖を感じ、以前は人質として駿府に
居住した家康に親近感を持っていたのであろう。後に(二年後)、長谷川正長、
弟の正久らは徳川軍に組み入れられ、三方原の合戦において戦死したのであ
る。」
と書かれております。
さて、長谷川正長とその一団がが家康の元へ走った訳でありますが、家康
のいた遠州浜松の様子はどうなっていたかというと、細かく説明すると長く
なりますので、ポイントだけ述べます。
遠江、そして遠州浜松においても、以前は今川方だった武将が次々と徳川
方に寝返って行きました。寝返るということばはあまりいい意味ではありま
せんが、土豪が上司を選ぶという行為は戦国時代では意外と冷静に行われた
ようであります(この点は別途考察してみたいと思います)。
その中でも、高薗城の浅原主殿助(とのものすけ)は注目に値します――
[41] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年09月06日 08時45分53秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
幕臣の長谷川氏について分かり易く纏めてくださって有難うございます。
長谷川氏は錯綜しててナカナカ掴めませんでした。
>高薗城の浅原主殿助
永禄11年(1568) 4月15日
二俣城二俣左衛門尉・高薗城浅原主殿・頭陀寺城松下嘉兵衛之綱32歳・西ヶ崎領松下源太郎清景・都築秀綱・門奈直友、家康に属す。
へぇ〜
この情報源:下記URLは是非参考になさってください。すっごく整然と調べてありますよ。
永禄11年(1568)
http://www.geocities.jp/senakamikutu/ed.htm
永禄12年(1569)
http://www.geocities.jp/senakamikutu/ee.htm
高薗城って浜北区に在ったのですか?
永禄11年(1568)12月12日の今川方討死者
服部又右衛門(日比野弥七討取)
このお名前からすると実は知ってる家のご先祖さまみたい。
ドッキリ
同じ服部氏でも今川方に残った服部氏なんだなぁと感慨深いです。
泣
[42] | 丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月06日 12時54分41秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
台風二十一号の爪痕をまざまざと見せつけられている時に、本日の早
朝(深夜)に北海道で大地震(だと思います)が起こりました。
まだその災害の全貌は見えておりませんが、いずれにしても災害列島
と化した日本、これらの災害にで亡くなった方には深くお悔み申し上げ、
また被害を受けられた方々には、心よりお見舞い申し上げます――
[43] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月07日 06時40分38秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
浅原氏について、渡辺三義氏の『静岡県の名字』では――
「駿河の浅原氏は清和源氏小笠原流といい、鎌倉幕府執権の北条時頼に
仕えた下野国大須城浅原八郎源為成の後裔で、甲斐国巨摩郡浅原村より
起こる。子孫の浅原安近は今川氏に仕え、今川氏没落後、志太郡伊久美
村(島田市)に蟄居して一時武田信玄に属したが、徳川家康が駿河入国の
時、家康に仕えて伊久美村を領し、後に岡崎信康に仕えた。」
とありますが、たぶん高薗城の浅原主殿助もこの一族で、今川氏の家臣と
して、遠江の高薗城とその周辺を領していたのだと思われます。
ある講師のセミナーで聞いた話によると、高薗城の浅原氏は徳川勢にと
って相当手ごわい相手であったということですが、その根拠となる資料が
どこにあるのかは聞いておりません。
高薗城は現在は形跡もありませんが、たぶん館であっただろうというこ
とであります。おおよその場所は推定されており、覚園寺の近くでありま
す。そしてそこに長谷川一族が住んでおります。
次回は浅原氏と長谷川氏のリンクについて記してみます――
[44] | 丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月07日 17時26分42秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
長谷川正長一団は、元禄十三年=元亀元年に家康を頼ってやって来た。
遠州には、元今川方・現徳川方の武将達がいたわけでありますが、その
中でも、高薗城にいた浅原氏は今川の忠臣であり、徳川家に付いてからは
特に1569年の掛川城開城の交渉役として功績をあげております。
長谷川氏も今川方の忠臣でありましたので、きっとこの浅原氏の下か、
あるいは近くに居住したのではないかと推察いたします。
この長谷川氏が、高薗の「長谷川さま」であると確信いたします。
この長谷川さまの遠州でのルーツは、元亀年間まで遡ると家伝に言い伝
えられているそうです。即ち、徳之一色城を追われ、遠州に逃れて来たと
いうことになると思います――
[45] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年09月08日 07時04分42秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>元禄十三年 ← 永禄13年のことですね
これはアリエナイですね。元禄13年は1700年ですから。
分かり易いので直ぐに気づきました。
つまり永禄13年=元亀元年=1570年ですね。
https://academy3.5ch.net/test/read.cgi/history/1068656151/l50
ここの <600>に
元亀元年1570年1月27日
花沢城小原鎮実・三浦義鎮3千を武田軍攻める。
武田方孕石泰時1番槍。
城兵小原氏・井伊氏・杉原氏・弓桁氏・原氏ら討って出る。
(滝吉之、強弓で岡部長秋・落合氏ら多数討つ。岩崎直重・鈴木氏討死)
923名降服。
伊丹康直、武田軍海賊衆となる。
小原鎮実・三浦義鎮、高天神城頼る。
四宮屋敷で小笠原氏より追手妻子家臣75名自害。
徳の一色城長谷川正長一族21人、3百、武田軍の攻撃で降服。
ということで
長谷川正長を検索しました:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%AD%A3%E9%95%B7
長谷川 正長(はせがわ まさなが)
戦国時代の武将。
駿河国小川城主、一色城主長谷川氏当主、紀伊守。
生誕 天文5年(1536年)
死没 元亀3年12月22日(1573年1月25日)
主君 今川義元、今川氏真、徳川家康
今川義元に仕えていたが、桶狭間の戦いで義元と父元長が戦死すると、今川氏真に仕えたが、
永禄13年(1570年)に甲斐の武田信玄に駿河を攻められると遠江に逃れ、
三河から進出してきた徳川家康に仕えるようになった。
元亀3年(1572年)12月22日の三方ヶ原の戦いに参加、
徳川軍が大敗すると父同様、奮戦して討死にした。
享年37。墓所は焼津市の信香院。
次男の伊兵衛宣次は天正10年(1582年)から家康の小姓を務めると、やがて別家を興したという。
その子孫が江戸時代に活躍した火付盗賊改方の長谷川宣以という。
正長の父上・長谷川元長について:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%85%83%E9%95%B7
長谷川 元長(はせがわ もとなが)
戦国時代の武将。
駿河国小川(焼津市)小川城主長谷川氏当主、伊賀守。
今川氏家臣。今川義元に仕えた。
1560年の桶狭間の戦いにおいて今川本陣を織田信長に襲われ主君義元とともに討死したという。[要出典]
家督は長谷川正長が継いだ。
コピペ以上
長谷川家も大変だったんですねぇ。
[46] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月08日 09時30分08秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
その通り、永禄です。頭では永禄と認識していたのですが、頭の論理回路
と運動回路が乖離、その後のチェックもおろそかでありました。
さて、長谷川正長でありますが、正長を初代(@)とすると、その後の系譜
は――
@正長:三方原合戦にて討死。
政久:正長の弟。三方原合戦にて討死。
A正吉:正長の三男。1579年徳川秀忠に附属さる。1608年没。
正成:正長の長男。
宣次:正長の次男。 "鬼の平蔵"長谷川平蔵宣以(のぶため)は8代孫。
B正信:正吉の嫡子。実は正成(正長の長男)の長男。
C正相:正信の長男。娘は「服部中保秋」の妻で「服部中保房」の母。
D徳栄(たかよし):正相の次男(妹は保秋の妻で保房の母)。
E正栄(まさよし):徳栄の三男。
保貞:徳栄の長男。「服部中保房」の養子に入る。保貞は田安家の家老に。
服部中保房の妻は「永井白元の孫・永井茂虎の娘」。
保弘:徳栄の六男。「服部大和守保貞」の養子に入る。
E正清
F正房
G正中
・
・
・
という系譜でありまして、その後の系はミッシングリンクとなります。
高薗の「長谷川さま」を逆にたどっていきますと――
正栄(まさよし)→重栄→馺栄→榮三郎…となります。つまり、「栄」が通字、
榮三郎は、徳栄の兄正明(まさあきら)からの五代孫に「榮三郎」が出ており
ます。
ちなみにこちらの榮三郎の本名は正満で、その後妻は大岡越前守忠宜の娘。
また、長谷川平蔵宣以の次男を養子としております。
いずれにしても、長谷川正長〜徳栄の系統の一部は、服部中家そのものに
入り込んでしまい、服部中家=長谷川家(の血)となってしまいました。
高薗の長谷川さまの過去をつなぐ古文書・系図の類は、度重なる天竜川の
洪水や偶発的な火災によって消失してしまったということ、残念ではありま
すが、西1qの善地の服部さま同様、状況証拠を積み重ね、その失われてし
まった「リンク」を推定するしか方法はありません。
羽鳥の服織神社を中心にして、半径2qの円を描きますと、北の服部家と
永井家、東の長谷川家、西の花井家、南の水野家、川井家、さらに南の服部
家という具合に、すべてがその円内に収まります。
これらは偶然の賜物なのでしょうか……でも偶然から必然が見えて来るよ
うな気がします。約400年の時の流れが、真実を覆い隠してしまいました
けれど、ところどころにその真実は見えてまいりました……。
まだまだ、これからも私の先祖を探す旅は続きます――
[47] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年09月08日 12時26分38秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>羽鳥の服織神社を中心にして、半径2qの円
ということは 皆さん血で繋がった気心の知れた一族 なのでしょうね。
非常に日本的ですね。It's so Japanese!
明治維新と太平洋戦争での敗戦ですっかり他人の関係のようになってしまったのでしょうね。
終戦から73年ですものね。
もうムカシのことを知っている我々世代は殆どいないのでしょうね。
30年も前だったら除籍謄本を各家の皆さんが取得して突き合せたらどの家がどの家と親戚で更にどの家と親戚か
ハッキリ分かったのでしょうけど今では明治の初めの除籍謄本は取れないのでしょうね。
なんとか戸籍の原簿の取得法が分かると良いのですが too late でしょうね。
三つ柏さんの世代で上記のお家の方達と交流会を持てると良いですね。
でないとますます他人の関係が進んでしまいます。
かならずどなたか三つ柏さんと同じく孤軍奮闘なさっている方がいらっしゃると思います。
[48] | 丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年09月10日 11時41分50秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
服部中家についての考察が終り、頭も心も空っぽになってしまいました。
昨日は、「お大」、「信元」、「忠重」のお墓のおまいりに刈谷へ行って
まいりました。
気候が安定せず、睡眠リズムも狂いがちで頭脳もスッキリしませんので、
その話は、次回にとさせていただきます――
[49] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年09月10日 13時22分38秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>服部中家についての考察が終り、頭も心も空っぽになってしまいました。
すっごく頑張りましたものね。
「空の巣症候群」というのですね。バーンアウト。
今日やっとUSオープンが終了して、久し振りに片づけなんぞしてみました。
処分したものは衣類1点ですが。赤面
大坂なおみが優勝して本当に良かったです。
彼女を拾った日本のテニス協会?は正解でした。
振ったアメリカは彼女が成績を上げてきたらすり寄って来たそうですが断ったそうで、これまた、正解。
それにしてもハイチ人の父上はテニスは素人だそうなのによく育てたものです。
お姉さんについては失敗したのかもですね。
コーチのサーシャは選手としては大成しなかったそうですが
セリーナを育てなおみを育て
先取を育てるコーチとしては優れた人なのでしょうね。
本日のデルポトロの応援団は「♪オーレ!オレオレ〜!♪」なんて歌ってましたよ。
笑
セリーナは罰金だそうです。「この嘘つきヤロー!」って感じで主審を怒鳴りまくってましたからね。
セリーナのコーチは認めてたそうですよ
「いつもやってるよ。他の人達だってやってるよ。なんで(昨日の主審だけ)ダメって言うんだ?」
とインタビューに答えてたそうです。
わたしはシャラポワがサーブを空振りするのを楽しみに待ってたけど成功しててチョッと残念。
1週間ほど前の試合でセリーナのウイルソンのバッグの裏がウイルソンと書かれてなくて
別名 ”クイーン”
と書かれてるのを見ました。ふふふ本当にテニスの女王だからね。
それから ヒヨコの帽子が欲しい 。ピヨピヨ
[51] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年09月11日 13時52分25秒 ) | パスワード |
長上郡の服部氏族C]W(課題確認57):114服部中家の謎解明
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101644.html
に続きのスレッドを立てました。
引き続き頑張って長上郡の服部家の謎の解明をしていきましょう。
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