[1] | 丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月23日 15時23分03秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
この異常な暑さ、あたかも「燃える世界」のようで、外は「危険」な領域。
冷房のある部屋でじっとしているのが一番安全。ただ、停電や渇水にならな
ければいいのですが……何か、「恐ろしい」という言葉が少しずつ現実味を
帯びてきました……。
昨日は、炎天下36℃の中で芝刈りをしました。冷たい水分、そして塩分
も補給頻繁に補給しましたので、熱中症にはかからず済みました。
本日は、昨日よりもさらに暑い感じがします――
新しいスレッド、ありがとうございます。集中力が戻りましたら、記した
いと思います――
[2] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月25日 14時58分37秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
『寛政重修諸家譜』にあるように、永井直勝の祖父にあたる長田喜八郎
廣正(政)は、故あって三河国大濱より遠江国山名郡(現磐田市)新貝村に移
り、長田(おさだ)を永田(ながた)と改めた。政吉はその息子であった。
廣正が移転して来た「新貝村」は、今は「ヤマハ」や「NTN」の工場
が建っておりますが、源義朝の家臣・鎌田正清の出身地の鎌田の1q程北
なります。鎌田は鎌田御厨があった所で、鎌田神明宮が今も残っておりま
す。
鎌田神明宮の500m北には、平重盛が建立したという「連城寺」という
寺が建っております。
長田廣正の十代前の長田親致・忠致の時、源義朝の暗殺があったとされ
ます。主犯は弟の忠致のようでありますが、その後、源氏の天下となり、
長田氏は源氏の仇敵とされ、逃れたり、身を隠さざるを得ない立場になり
ました(その辺のことは、長くなるので後にします)。
十代前の時と内容は全く違いますが、長田氏は、長田家最大の危機とい
う状況の中で、廣正の移動という事態になりました(ここの事情も長くな
りますので、後にします)。
さて、鎌田氏にとっても仇である長田氏の子孫が、何故鎌田氏の地元の
すぐ側に移動して来たのか――時代は経っておりますが、どう考えても、
おかしいと思わざるを得ません。
つまり、それは、「野間の事件」の喧伝された内容というものが、天下
の頼朝におもねた虚構であったということが指摘されております(これにつ
いての主張は、長田氏の子孫からなされておりますが、後にいたします)。
とにもかくにも、長田廣正は、ある時期、磐田の新貝村に居住し、政吉
という子息の一人をこの地に根付かせたということになります。
連城寺という寺へは、永田氏の墓を調査のため2度調査に行きましたが、
境内に「頌徳碑」が建てられており、こう書かれていました――
「三白山連城寺は、聖観世音菩薩を本尊とする曹洞宗の寺である。寺伝
によると、往古は天台宗で、平重盛が1179年に建立したと伝えら
れている。清盛は専制をもって平氏の政権を樹立した。長子・重盛は、
その後、報いを怖れ、諸国に寺を建立した。連城寺もその一つと言わ
れている。
のち、江戸時代に曹洞宗となったが、寺は荒廃した。これを再興し
たのが天領代官・大草太郎左衛門家三代・政信であった。大草太郎左
衛門家の祖・永田三郎次郎政吉は、太田川(磐田原台地の東裾野を流
れる)河畔に豪壮な邸宅を構えていた。政吉は、新貝村八幡宮の神職
を勤め、元亀元年、家康公に仕えてから、御厨庄の代官として、御厨
庄一七ケ村を支配、鎌田郷御厨番となった。その傍ら、橋梁建設、新
田開発等を成し遂げ、鎌田原一帯の発展や、住民の生活向上に寄与し
た。二代は、三河の譜代・大草次郎右衛門義正の嫡子・政次を迎え、
代官となった。家康の命により、永田姓を大草姓に改め、以後、代々
大草太郎左衛門と称した。以後略」
連城寺の墓地には、清盛と重盛の供養塔が片隅に建てられておりました
が、立派なものではなく、朽ち果てる寸前のようなものでありました。
源氏の天下となり、平家はもはやこの地方では崇められないものとなっ
てしまったのでしょぅか……。
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月26日 02時37分15秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
続きを楽しみにしていますね。
日本の歴史は悲しいですね。
家族を外国人(他部族=他人)に殺されたのなら単純に憎めますが
鎌田は娘婿なのに
そして鎌田と長田の間の子は両方の血を引いて and/or 親戚付き合いもしてたでしょうし
憎みに憎めない。
もの凄く重い話ですね。
[4] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月27日 06時23分37秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨日あたりから天気がやや崩れ、暑さも少し和らぎましたが、こんどは
台風12号が、明日の土曜日から日曜日にかけて、この日本列島のど真ん
中(フォッサマグナ)を縦貫しそうです。今正に過激になった天候との戦い
(サーバイパル)であります! 東京へ行くのも1週間先送りといたしまし
た。
さて、現在、永田(長田)・永井氏と服部氏の間に、次の地理的関係の
事実があります。
それは――
永田(長田)廣正の子政吉が神主をしていた新貝(磐田中心街より東へ
約3q)の八幡宮を中心として見た場合――
@北約3.5qの篠原に、大江氏直系の永田氏が神主を務める坂本神
社(日吉山山王権現社)があります。
A八幡宮から約1q南へ行くと、東西約500m離れて、東に鎌田
神明宮、西端に医王寺(鎌田)があります。
B医王寺の西約500mの貝塚(東)に東昌寺があり、ここには20
基以上の服部氏の墓があります。
C東昌寺の西南西約4qの所に宝珠寺があり、20基以上の永井氏
の墓があります。宝珠寺は三河大浜にもあり、永井氏の菩提寺で
あることを考えると、磐田の豊島にある宝珠寺も偶然の関係でな
く、何かつながりがあるものと推察されます。
D宝珠寺から北北西に約8キロの天竜川を越えた西岸に、清心寺が
あり、ここには10基程の服部氏の墓があります(大橋氏、中根氏
の墓もあります)。
E清心寺の北約4qの善地の東泉寺に、約30基の永井氏の墓と、約
10基の服部氏の墓、1基の長田氏の墓があります。
Fつまり、天竜川をはさんで、東西南北おおよそ10q四方の中に、
永井氏と服部氏のまとまった数の墓が点在しているということに
なります。これ以上まとまった墓石群は両氏とも他にはありません。
G永井氏について言えば、善地に30基以上、西隣の村にも20基
程ありますので、合せて50基程あるということになり、遠江で
はずば抜けて多いと言えると思います。
H服部氏の20基、10基単位というのも、ほかにはなく、特異な
存在だと思います。
永井直勝は元長田姓で、磐田新貝に来た永田(長田)廣正の孫であり、
最初松平信康に仕え、信康事件の後、浜松で家康に仕え、30貫の地を
もらい、長田より永井に名前を改めたということであります。
その30貫の土地がどこであったのか、ひょっとして善地や東美園の
あたりだった可能性もあるのかも知れません。
永井直勝の祖父が磐田に移住していて子孫もおり、直勝は家康の小姓
及び側近として浜松に住み、また磐田にも出かけた。坂本神社で祈願も
している。一言坂の戦いでは、伯父に当る正吉が、「鍋割」の名刀にて
大活躍もしています。
永井直勝は、宗良親王の血を遠く受け継いでおり、井伊直勝は宗良親王
の忠臣の家系でもあり、二人は南朝方で近くもライバルであったと思わ
れます。家康の遠江侵攻後、井伊谷3人衆に安堵された土地は、高薗の
あたりまで、すなわち善地の境あたりまでとなれば、永井氏も同じく土地
を安堵され、それが善地あたりであっても不思議ではありません。30貫
といえば、一貫=2.5石として75石でありますので、善地もそんなと
ころでしょう。
いずれにしても、永井家と仲の良かった服部家とはどの筋の服部であっ
たのか――ということになります。
しかも、善地に住む加藤光泰の親族は永井家と仲が良かった――という
事実があるかと申せば、直勝の弟・永井白元が加藤光泰に仕えていたとい
う事実があります。
善地の鈴木氏・松島氏は服部・永井と南朝つながりか……。善地の5
苗は、元武士、土豪、やがて百姓で対武田の警護のために天領に置かれ
た者たちであったと推察するのですが、その可能性は徐々に大きくなって
きました。当家本家の蔵には鎧や刀があったと言わていますし、加藤家に
は槍や刀もあったとも言われております。
では、この服部氏とはどの筋の服部氏であったのか――菩提寺は浄土宗
定明寺……江戸時代初期においては、浄土宗は上級武士しか帰依できなか
った。服部の本家筋は「服部さま」と呼ばれ、定明寺の約2000体ある
仏壇の最奥の最上位(大庄屋等の位置する場所)にある……残念ながら、
過去帳は大火により消失しています。
「永井氏と大変近しい関係にあった服部氏」……これが、我が服部家の
出自の謎を解く、まずは一つのキーワードであります――
本日は、磐田の貝塚・鎌田・東新屋あたりを見に行って来ます――
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月27日 15時04分49秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>最初松平信康に仕え、信康事件の後、浜松で家康に仕え、30貫の地をもらい、長田より永井に名前を改めたということであります。
>その30貫の土地がどこであったのか、ひょっとして善地や東美園のあたりだった可能性もあるのかも知れません。
これ、どこだったか分かると良いですね。
国立図書館に記録があると良いですね。
浜松の教育委員会の歴史編纂課では分からないのでしょうかねぇ。
>本日は、磐田の貝塚・鎌田・東新屋あたりを見に行って来ます――
ワクワク感が伝わって来ます。
「服部さま」の家紋は本来は何だったのでしょうね。
[6] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月28日 21時52分00秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
台風12号は、ただ今御前崎のすぐ沖を東から西に向けて向けてカーブ
して西へ進んでおります。この辺にはもうに30分でかすめて行くものと
思われます。今までとは逆の進路(右カーブでなく左カーブ)の台風であり
ますので、ちょっとどんな結果をもたらすのか予想がつきません。
昨日は、鎌田周辺に行って、改めて調査をして来ました。分析もできま
したので、とりあえずのご報告をさせていただきます。
@東昌寺(鎌田神明宮の西1q)
服部家の墓23基あり
10基―「丸に桔梗」
9基―「丸に違い鷹の羽」
3基―「丸に抱き茗荷」
1基―不明
A医王寺(鎌田神明宮の西500m)
服部家の墓1基あり―「丸に桔梗」
永田家の墓3基あり―全て「丸に抱き茗荷」
B連城寺(鎌田神明宮の北500m)
永田家の墓20基あり
5基―「丸に桔梗」
3基―「丸に違い鷹の羽」
3基―「丸に蔦」
2基―「丸に抱き沢瀉」
1基―「丸に木瓜」
1基―「丸に剣方喰」
1基―「丸に立ち沢瀉」
4基―不明
永井家の墓あり
2基―「丸に隅立て井筒」
1基―「丸に二つ引き」
1基―「丸に平四つ目」
大橋家の墓あり
1基―「太輪に梶の葉」
服部家の家紋は、その出自においてはよくわかりませんが、桔梗といえ
ば、土岐氏を思い浮かべます。清和源氏頼光流……?
永田家は元長田(おさだ)家と仮定すると、全く支離滅裂でありますが、
桔梗紋と違い鷹の羽が多めにありましたので、服部家と似た傾向にはある
のかと思いました。
しかしながら、家紋はたぶん宗家以外はあらぬ方向性に向かったのかな
あと思いました――
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月29日 03時12分12秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
家紋・・・
みごとにバラバラですね。
それだけアイデンティティの差があると言う事でしょうけど
差があり過ぎ!
哀しい背景があるのかな?と。
[8] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月29日 19時26分06秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
台風12号は浜松沖を通り過ぎて、尾鷲の方へ向かいました。風と雨は
結構ありましたが、菜園のキュウリやトマトの棚が少し傾く程度で終りま
したので、ホッとしました。
さて、東昌寺の南南西約4qの所に「宝珠寺」がありますが、碧南の大浜
の宝珠寺とは偶然に同じ名前?という解釈も何か違和感があるのですが、
ここに「永井家」の墓がたくさんあります。
・丸に永井の梨の切り口:27基
・丸に違い鷹の羽:4基
・丸に隅立て四つ目:1基
・不明:5基
なお、長田家:不明1基
そして、天竜川の西岸の服織神社の北2qの善地の東泉寺には、
永井家
・丸に永井の梨の切り口:約15基
・丸に三つ柏:約15基
服部家は
・丸に三つ柏:約10基
長田家は
・丸に蔦:1基
また、隣村にはやはり永井家の墓があり、
・丸に九枚笹:7基
・不明:1基
であります。
宝珠寺の永井家と、東泉寺の永井家は「永井梨の切り口」で共通して
おりますので、関係があるものと推察されます。
永井直勝には弟の白元(あきもと)がいて、やはり兄同様長田から永井に
名前を変えております。
この永井白元を調べますと、いろいろ興味深いことが出てまいります。
それは――
@元武田臣の辻弥兵衛盛昌の養子になって井伊直政に仕えた。
Aその後、「加藤遠江守光泰」に仕え、朝鮮出兵に従う。
B光泰朝鮮で死して後、浪人となる。
C光泰の子貞泰は減封になる。関ケ原の戦い前に永井直勝が窓口にな
り、豊臣方より徳川方に付く。
D白元の孫・茂虎の妻は「大草主膳正高盛」の娘。
E白元の曾孫の白弘の娘は、「服部中保房」の妻となっている。
つまり、永井白元家は、加藤光泰・貞泰と深く通じ、また服部中家と
は親戚となっている(永井―加藤―服部の関係の証明)――
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月29日 22時19分35秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>天竜川の西岸の服織神社の北2qの善地の東泉寺
さすが三つ柏さん系服部氏の地元ですね。
元は服織神社系だった?
秦系なのか?
服部貞信の呉服明神系なのか?
>9枚笹
三重県の秦系服部氏の本家さんは9枚笹だそうです。
久し振りに思い出しました。
>D白元の孫・茂虎の妻は「大草主膳正高盛」の娘。
>E白元の曾孫の白弘の娘は、「服部中保房」の妻となっている。
>つまり、永井白元家は、加藤光泰・貞泰と深く通じ、
>また服部中家とは親戚となっている
>(永井―加藤―服部の関係の証明)
家紋が並び矢系でなく三つ柏系というのが見えますね。
服部貞信系なら江戸に行ってるでしょうしね
途中で並び矢紋を捨てた服部中系なのかしらね
早く東京に行けますように。
江戸に丸に三つ柏系服部家がいたかどうか
早く知りたいものです。
[10] | 丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月30日 10時42分05秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
近々東京へは行けそうですが、時間的には赤堤訪問だけになります。
服部五家(半蔵家、中家、政光家、正尚家、貞信家)との関係を、家紋
だけで判断するのは、ちょっと難しいという気はいたします。
服部家宗家としての立場についてはわかりますが、支流、支流の支流
……もたくさん出たはずでありますし、伊賀出身というのは、元々のと
ころ、「悪党」という評価でありましたし、いわゆる「埒外の者」とい
う評価もあったと思います。もっとも、それらを払拭するために、伊賀
の人々は必至で頑張って来たとも言えるかもしれません。ある意味、反
骨精神の上の更なる反骨精神という強情なる精神があったのではないか
と思ったりもいたします。
また、戦国期や江戸時代初期くらいまでは、隠密性を帯びた情報収集
の任務を受けて土着した場合、例えば「矢」に関する紋は正体が伊賀出
身だとすぐばれてしまいますので、当然他の紋と替えたはずであります。
また、時代にもよりますが、ひょっとして菩提寺の紋に合わせたり、
氏神を祀る神主の助言に基づいたり、五人組制度や、檀家制度の中で寺の
助言もあったりしたかも知れません。
500年内外にも及ぶ時代の変遷の中で、中世的及び近世的合戦も頻繁
にありましたし、近代的戦争の被害は、空襲・艦砲射撃という手段で壊滅
的な状況と化しましたた。地震による倒壊・火災、天竜川の決壊による洪
水、冬の強風(空っ風)による大火もしばしばあったでしょぅし、結果と
して、特にこの浜松地方には紙面での記録というものが乏しいのでありま
す。
しかしながら、まだまだ私の探究は甘いものであります。調査も肝心な
中枢部を欠いております。
それは大本家筋の"服部さま"(今は2q程西で医院を経営している)の子
孫(3代目)とまだ接触していないこと(代替わりしてしまっている)。
菩提寺定明寺での聞き取り調査をしていないこと(昔の過去帳は焼けてし
まったとは聞いている)。
善地の明治中期以前の番地表示地図をまだ入手できていないこと(天満宮
の近くの善地6番地という所がどこか、昔の謄本での分家前の祖父の実家
の番地記載地であります)。
これらについての調査は、いずれ実行することになると思います。代替
わりしてしまっているということもあったり、なかなか難しいだろうとい
う先入観もあり、自分自身の迷いとなっておりました。本丸に乗り込む覚
悟をそろそろする時が来たかもしれません。それに向けて、情報の整理を
更にしていきたいと感じております――
[11] | 丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月30日 16時16分32秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
これは一般論になりますが、「長田(おさだ)氏」と「服部氏」がなぜ
近しい関係にあったのかの由縁でありますが、長田家の直系の「長田平
白赤(おさだたいらなおあか)氏」の『平氏長田家大河のごとく』によれ
ば(要約)――
「伊賀国長田郷は、現在は上野市(上野市長田区)に属しているが、
昔は長田村という単独の村であった。また、上代は伊賀郡なるも、
のちに阿拝郡となる。源平の時代には、平清盛の四男、池の大納言
頼盛の所領地でもあった。
この地は、伊勢国と京都、奈良を結ぶ交通の要所であり、さらに
昔、この地方に長田という豪族が住んで栄え、物資と貢物を長田に
集めて川舟を使って都に送っていたという。
長田家の家譜にも、この時代より親致の時代まで、150年以上
伊勢国に居住しており、伊賀上野の長田荘、飯野の長田荘、等が当
家の所領であり、平頼盛の所領云々は、恐らく後世の平親致が保元
の乱に敗れ、弟の平忠致の所に隠れたため、伊勢の地を放棄した結果、
これが後に平頼盛の所領とされ、代りに長田家は三河の高橋荘を貰
ったのではないかと思われます。」
つまり、長田氏は伊賀に所領があり、長田川の水利を開き、開拓し、
長田荘を造成したということになります。
もちろん、ここは服部党の勢力圏でありましたので、当然の帰結と
して、服部党と長田氏はシンパシィの通じ合える間柄になったと推察
いたします。
私も、伊賀の長田について、服部と何か関係があるのではないだろう
かと長らく疑問に思っていましたが、これでやっと解消されました――
[12] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月31日 16時09分32秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
東京の「歴史研究会(全国歴史研究会)」に興味を持ち、ホームページ
http://www.rekishikan.com/index.html
を見ておりましたら、電子版『歴史研究』特集に、「激動戦国を生き抜い
た明智光秀の長子光慶〜明智光秀の長子光慶は、鹿児島大崎に逃れた〜」
という直系子孫様よりの論文が載っておりましたので、嬉しくも拝読さ
せていただきました。
http://rekishikan.com/denshinban/kawara/kawara2017-05-31.html
要約しますと、光秀の長男光慶は、本能寺の変から逃れ、妙心寺に入り、
出家して「玄琳」と名乗った。数年後、九州琢磨・日向大隅に移動し、
鹿児島県大崎町柳別府を拠点とした。
恵林寺(光秀の師)の快川和尚の二人の弟子(龍雲和尚―大慈悲寺、南化
玄興―妙心寺)の庇護のもとで成長し、大隅と泉州・京を往還した。泉州
では、父光秀を弔うため、本徳寺を開基し、父と自分の墓を残して家康の
もとへ向かった。この光慶が、「天海」であったということであります。
さて、光慶が天海であったとして、光秀には先妻と後妻がいて、後妻
の方が正室となっている。二人の妻との間に、13人程の子供がいる。
但し、その子供たちが、先妻の子か後妻の子かははっきりとはしない。
橋場日月氏の『服部半蔵と影の一族』の中で――
「明智光秀の妻として一般的に知られるのは妻木(つまぎ)氏の煕子(ひ
ろこ)だが、可児(かに)市の郷土史家・所弓男氏によれば、伊勢志摩の
服部鳥羽守の長女・伏屋姫が先妻であり、彼女が死んだあとで後妻に入
ったのが煕子だという。」
そして、歴史読本編集部編の『ここまでわかった!明智光秀の謎』に
よれば――
「『明智系図』(続群書類従第5編下)の奥書には、この系図は寛永8
年(1631)に、妙心寺塔頭(この年65歳)が、喜多村弥兵衛に宛てて
書き記したものであると記される。その奥書中に、「慈父光秀尊霊
五十回忌為追福修善」の語があることから、この『明智系図』を書
き記したのは光秀の子であったことになる。
光秀の子には正室妻木氏から生まれた6人の男女氏以外に、側室
から生まれた子もあったようで、本系図を書き記した妙心寺塔頭は、
側室・喜多村出羽守保光の女(むすめ)を母とする僧玄琳だと思う。
僧となっていたため、死をまぬがれたのだろう。」
ということであります。
また、橋場日月氏の『服部半蔵と影の一族』によれば――
「保章(服部鳥羽守)は、その後近江の北村に隠棲して北村(喜多村)姓
に改姓し、婿の光秀が遺した幼い息子(つまり保章の孫)を息子と称し
て守り育てたという。幼い息子というからには、すでに死没した伏見
姫の子ではなく後妻の煕子の所生だったろうが、一族滅亡して頼るあ
てのない子を保章は見捨てられなかったのであろう。」
ということであります。
結局総合してみますと――
@明智光秀には、少なくとも二人の妻がいて、先妻は服部保章の娘で
後妻が妻木煕子であった。服部保章は後に喜多村と名前を変える。
(保章と保光の関係は、同人物かあるいは親子か、ちょっと情報が混
然としている面もある。)
A先妻の子に、妙心寺に入った僧玄琳がいて、喜多村弥平兵衛に『明智
系図』を送ることになる。
B僧玄琳は、九州に移動し、僧として鹿児島と泉州・京の間を往還し
た。
Cあるタイミングで、家康に呼ばれ、天海として登場することになる。
ということになります。
結論から言いますと、天海は「服部氏」と「明智氏」の血を引いてい
たということになります。
服部保章は服部正尚の従兄弟にあたります。
@正尚を通じて徳川家康の子・秀忠に通じた。
A光秀・斎藤利三・ふく(西郷局)を通じて家光に通じた。
B天海を通じてその中核を担った。
つまりは、極端な場合、徳川家そのものになったと言えます。
服部家の野望とは何だったのかを考える時、それは天下を制すること
であったと言えるということになります……それは南朝どころか、さら
にさらに、遠い遠い呼び声として聞こえて来るような気がしてなりませ
ん。その永遠なる謎は、「ハトリ」に収束するのではないかと想像して
います――
[13] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月01日 03時05分49秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
興味深いお話をありがとうございます。
ただしちょっと写し間違いがあると思います。
>源平の時代には、<<<平清盛の四男、池の大納言頼盛>>>の所領地でもあった。
この部分。
清盛の4男は知盛さまです。
乳兄弟の伊賀の服部家長と手に手をとって入水して死にます。
(実際は伊賀の家長は乳母の夫だったと思います)
頼盛の父は忠盛です。忠盛の5男が頼盛です。
知盛さまのお子さまの知忠は伊賀の北で育てられ「北」姓を名乗ります。
従5位下伊賀守。
たぶん北・喜多・喜多村姓などは、平知忠さま=平家がらみ=の姓と思います。
知忠さまは後に鎌倉幕府に対して反乱を起こし死にます。
享年17歳とか21歳とか言われています。
我が家の母方の先祖は17歳で男の子のパパになってますから、
知忠さまも子供を残している可能性はしっかりあります。
当然お相手は服部家がらみの女の子だったでしょう。
知忠さまの弟の知宗は対馬の宗家を興した人。
もう1人知忠さまの兄で僧だった人=増盛=は鎌倉幕府と親しかったようで
これは謎です。
恐らく頼朝の命を助けた平頼盛か頼盛の母(藤原宗子さま)か平宗清系に繋がる女性が母だったのでしょう。
知忠さまの長兄の知章は父を守って代わりに討ち死にしています。享年16。
光秀が伊賀にいたろうことは放浪時代があったから有り得ると思っています。
楽しいお話をありがとうございました。
[14] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月01日 10時26分00秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
私の手元に、長田平白赤氏(親致本家の末裔)の『平氏長田家大河のごとく』
と、長田一氏の『長田氏族の足跡』という本のコピーがあります。これは、
箱柳永田様からのご教示により、岡崎図書館にあるということで、岡崎へ行
ってコピーをして来たものであります。全部のコピーは著作権にからみ禁じ
られておりますので、主要部分のコピーのみをしてまいりました。
両方とも、永田一族の誇りと熱情あふれる労作・大作であり、また一般に
出回っている表面的で薄っぺらな歴史記述とは全く違い、表と裏の話、裏の
また裏の話など、二重三重に複雑ではありますが、真実が語られているよう
に思われます。
ややもすると、内のめりになる傾向もなきにしもあらずですが、それは、
長田氏が義朝事件で蒙った汚名をはらさんかなの意気込みであると解釈して
います。
あを様ご指摘のとおり、清盛の四男?(正式には三男)は知盛でした。この
間違いは、長田平白赤氏が参照した長田一氏の『長田氏族の足跡』から引用
した部分にありました。また、長田一氏はそれを『伊賀地誌』から引用して
いますので、元凶は『伊賀地誌』にありということになりますが、それを訂
正しないで本にしてしまうというのも、前のめりの姿勢にあったのかと推察
いたします。伊賀長田庄は、平頼盛には平家没後の没官領として、頼朝より
贈られております。
本日も、この『平氏長田家 大河のごとく』を読んでおりましたが、自身
の服部家を探求するのに、非常に役立つものと感じておりますし、長田・永
田・永井、大橋、酒井、水野、松平、本多、中根、成瀬、牧野、小沢、山本
……等、長田家に絡む氏族は多いので、関連の人間関係の綾が見えてまいり
ます。
できればこの本、二冊入手して一冊はあを様に送りたいと願っております
が、可能性はほとんどないように思われます。でも奇跡が起こることを強く
祈願しています。それほどに大変貴重な本であると考えます!
長田忠致は我らの遠江長上郡と関係しているようです。箱柳永田様によれ
ば、羽鳥の南西にある和田町は、忠致が開発した所であるということのよう
ですが、忠致の汚名を晴らす目的も合わせ、私もこの地にまつわる長田氏の
情報を何とか拾ってみたいと思っています――
[15] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月01日 14時01分12秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ありがとうございます。
長田家と保元の乱について読み直さねばと思います。
碧南の長田氏は野間の弟には敵方だったのですか。
兄は保元の乱で助けられたから後に弟一族を匿った?
そして長田弟は羽鳥の南西にある和田町を開発。
もともと長田氏は長田郡(長上長下両郡)に関係していた。
さらに長田氏はアチコチで土地を持っていた昔っからの名家。
秦氏とも、源氏とも、平氏とも、平家とも関係があったでしょうね。
戦国時代以降も徳川幕府政権下でも服部氏とつながってた
というのは十分に有り得ますね
なんせ大橋氏とも繋がってますから。
長田氏の中の永田家・永井家とも当然つながって
長上郡でも繋がっていた
その服部家が三つ柏さんのお家。
だから丸に三つ柏紋。
かな?
[16] | A.AKECHIさんからのコメント(2018年08月01日 22時16分12秒 ) | パスワード |
皆様、お久しぶりでございます。
「明智」を採り上げて下さいましたので、一言…
〔12〕に
「明智光秀には、少なくとも二人の妻がいて、先妻は服部保章の娘で
後妻が妻木煕子であった。服部保章は後に喜多村と名前を変える。」
と、ありますが、
(以前ご紹介したことがあるかと思いますが)「明智一族 三宅家の史料」にある「喜多村家 家系付録」には、こうあります。
「先祖喜多村弥平兵衛事、明智日向守殿末子にて、光秀の後妻伊賀国喜多村出羽守娘腹に出生仕り、… 」
すなわち、妻木煕子様は先妻で、喜多村こと服部出羽守娘が後妻だと思われます。
[17] | 小野正親子孫さんからのコメント(2018年08月01日 22時52分45秒 ) | パスワード |
はじめまして。
今夜初めてこちらのボードを拝見しています。
時々話題に出ています「小野篁と遠州小野一族」に出てきている小野です。
正親の子孫の1人です。当然姓は小野です。
わたしの一族のことなどを話題にしていただきありがとうございます。
いろいろお調べになっているのには感心いたしました。
ここではあまりプライベイト情報を載せては不味いようですので詳しくは書きませんが曽祖父の代まで長上郡内の村の庄屋でした。
「小野篁と遠州小野一族」は著者の方にお会いして冊子を頂戴して読ませていただきました。
概ねわたしが家で聞かされてきたことと合っていました。
冊子の内容が事実かどうかを検証することを続けています。
現在のところわたしの一族が小野篁の子孫である可能性はありますが確証は全くありません。
浜北区尾野に室町時代以前から住んでいるのであろうと推測されるだけです。
また「井伊家伝記」や「寛政重修諸家譜」などの井伊家系図には整合できない箇所がありまして苦慮しています。
先日市野家の本家が実家とおっしゃる女性がお見えになって市野家のことを調べているがよくわからないとおっしゃっておられました。
こちらのボードでも話題になっておりますが市野惣太夫の妹が羽鳥村の松島家に嫁に行き次代へ小野から嫁に行きその娘の1人が別の小野へ嫁に来ています。
ですから市野家とわたしは縁戚ということになります。
そこでご意見をいただければと思い投稿をいたしました。
@市野家は長上郡市野村に子孫が住んでいらっしゃるのでしょうか?
いらっしゃるとして市野村に住んでおられる方と旗本の市野家との関係はどうなってるのでしょうか?
A市野家は浅井氏の子孫云々と書かれているようですが寺田家の息子が袴田になりその息子が初代市野惣太夫だと「寛政重修諸家譜」にはでています。
市野の姓は家康が名乗らせたと思うのですがいかがお考えでしょうか?
B「家譜 市野家物語」をまだ拝見していないのですが作者の市野康彦さんという方は旗本家のご子孫なんでしょうか?
C千葉県流山市に市野谷というところがあって市野家が馬を飼っていたところという説があります。このあたりの情報はお持ちでしょうか?
D市野家は宗安寺に葬られた初代から四代の後、江戸駒込勝林寺を葬地としていますがお寺のHPには市野家は百俵取りと出てきてます。
つまり市野家は知行地を持っていなかったことになります。
このあたりはどう思われますでしょうか?
よろしくお願いいたします。
[18] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月02日 06時52分29秒 ) | パスワード |
A.AKECHI様
お久しぶりでございます。本に頼るということは、その本に信憑性がある
ものと信じて引用するわけですが、本当のところの確証がある訳ではありま
せん。煕子後妻説は可児市の郷土史家・所弓男氏の説ということですが、確
かめようもありません。
A.AKECHI様の言われる三宅説の方が正しいとして、その確証性についての
ストーリーを考えてみます――
[19] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月02日 06時56分08秒 ) | パスワード |
小野正親子孫様
申し訳ないですが、ただ今対処している時間がありませんので、少し時間
を下さいませ。
[20] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月03日 07時29分52秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨日は仕事で、一日中冷房の効かない部屋で会議でありました。この地方
では36℃くらいの気温で、また湿度が高く、熱中症が続出したと思われま
す。現に関係するビジネスパートナーさんも救急車で運ばれました。夜も引
き続きサウナ+蒸し風呂状態はおさまらず、冷房を低めにして体温を下げる
努力?をいたしました。
本朝も、すでに暑い……です。昨日よりも暑くなりそうですが、オフなの
で自宅でクーラーの冷気に浸る予定です。
まあ、「殺人猛暑」といわれておりますが、江戸時代なら作物が枯れ、大
飢饉は間違いないでしょう!
東京に出かける予定ですが、あちらはコンクリートジャングルですので、
こちらよりもはるかに暑いと予想されます。
いずれにしても、毎日がサーバイパルゲームになりました――
[21] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月03日 07時33分15秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
訂正:サーバイパルと打ったつもりが、サーバイパルになっておりました。
[22] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月03日 09時58分39秒 ) | パスワード |
A.AKECHI様
恵那市明智町に調べに行った時、明智城跡の麓に、「旧三宅家」のお屋敷
(茅葺)があったことを覚えています。可児市の明智荘ではなく、恵那市明智
町というところがミソではありますが……。これらの謎は、そう難しくはな
いとは思います……。
細かな話(各論)はさまざまな説があり、混沌としてしまいますが、大きな
流れ(概観力)で見れば、極論で服部党と明智党は表裏一体で、天下を取った
――というよりも、政治の中枢を掌握した……それは服部家の野望でもなく、
明智家の野望でもなく、陰に「秦氏」と「賀茂氏」の「ベクトル」が働いて
いたと見るのですが……たぶん調べて行けば、そう検証できるものと信じて
ています。明智氏と服部氏の謎、今後も遥かなる長い旅――
[23] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月03日 10時08分48秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
確認テスト:「サーバイパル(さーばいばる)」と打ちました、結果が
「さーばいばる(サーバイパル)」であればパソコンは正常
で、私の打鍵ミスであります――
[24] | 小野正親子孫さんからのコメント(2018年08月03日 10時38分31秒 ) | パスワード |
三つ柏服部様
お忙しいところ申し訳ありません。
お時間が取れるときにご見解をいただければ結構です。
それから一気にいくつも疑問を書いてしまいましたが一つずつでも構いませんのでよろしくお願いします。
[25] | A.AKECHIさんからのコメント(2018年08月03日 10時40分06秒 ) | パスワード |
三つ柏服部様
>服部党と明智党は表裏一体
ご所見、ありがとうございます。
今後とも、
>明智氏と服部氏の謎、今後も遥かなる長い旅
ご健闘を願っております。
さて、「服部党と明智党」とのかかわりの一つを、「明智一族伝承の会」に投稿しましたので、転載致します。ご参考までに。
弘前ねぷたまつり」に注目してみましょう。 今週水曜日、8月1日から始まっています。
皆様ご存知かも知れませんが、「ねぷた」の由来は、定説では「七夕流し」、「眠り流し」、お盆の「灯籠流し」etc.が融合したものとされています。ところが「本能寺の変」ばかりか(?)どうやらこの定説も「変」のようです。
そんな中、(余り有力とは言えませんが)伊賀出身の津軽藩家老・服部康成が関わったという異説もあります。康成の名は、家康から「康」、半蔵正成から「成」を戴いたとも言われています。
津軽藩祖・津軽為信が近衛家に取入るため文禄二年(1593年)の盂蘭盆会で大燈籠を披露したのですが、これが「ねぷた」の由来だと言う説です。この年為信は文禄の役で肥前に出陣していましたから、大燈籠を作ったのは京にいた服部康成だったそうです。だとすると、その年は「本能寺の変」から僅か(?)11年後なので、康成が盆燈籠を作るにあたって、密かに光秀様への想いも忍ばせていたのかも知れません。
何と言っても明智家と服部家には、光秀様の継室が服部家出身だったという深い御縁がありますから……
[26] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月03日 12時13分16秒 ) | パスワード |
小野正親子孫様
お待たせいたしました。昨夜は暑さ疲れの中で、クーラーの気持ち良さ
のため、調べものの途中で眠り続けてしまいました。その調べものとは、
小野家と市野家と浅井家、松島家、松下家、井伊家でありました。
過去に調べたファイルや資料があるのですが、半分は記憶が薄れており
困った症状であります。もっとも歴史全体に網をかけている状況なので、
スーパーコンピュータでも利用しなければ、無理な話ではありますが……。
さて、小野様は私にとっても身近な存在であります。高畑にお住まいの
、県会議員をやられた故利貞氏は、私の姉の仲人で、代替わりしましたが、
今もお付き合いがあります。「小野正親子孫」様の方が「鐘鋳場小野家」
で、こちらが「若宮小野家」、と解釈しています。
どちらも小野五郎正親を親とする、嫡男正勝(宗家)と二男正房の二つの
流れであります。
いずれにしても、ルーツは小野篁(孫に小野道風)、更に言えば小野妹子、
更にさかのぼれば、琵琶湖西岸の近江「和爾氏」であります。
そうそう、私の一番興味のあるのは、小野正親(井伊家家老政直の子、
但馬守政次の弟)の先妻が「松下常慶安綱」の娘であったことと、後妻が
「中村源左衛門正吉」の娘であったということ。とりわけ、常慶は服部
党とも陰働きの点でからんでくるので、追跡対象であります。
一度、ここで切ります――
[27] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月03日 12時51分29秒 ) | パスワード |
「保元物語」を読んでいました。
名前がいっぱい出てて「長田兄」には出会いませんでした。
鎌田は出てました。
視力検査のような名前のオンパレードに眼精疲労。
笑
A.Akechiさんお書きの服部康成:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%BA%B7%E6%88%90
まるで数年前にやってたドラマの内容にそっくりでした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%B6%E3%81%8D%E8%80%85_%E6%85%B6%E6%AC%A1
「かぶき者 慶次」
火坂雅志の原案で、かぶき者で知られる戦国武将・前田慶次の晩年を描いた作品。
石田三成の子を前田慶次がわが子として育てるお話。
では服部康成についてコピペします:
服部長門守康成(はっとり やすなり) ← 長門は服部家と縁の深かった知盛さまの国でしたしね
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。
陸奥弘前藩の家老。
康成は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける大垣城の戦いで、攻撃軍の武将である津軽為信に300石で召し抱えられ、武功を挙げたという。
その後は1,000石に加増され、奉行職(家老)となった。
慶長12年(1607年)12月、為信が死去し、幕府より二代信枚の後見人として、弘前藩から2,000石、幕府から1,000石を与えられ、都合3,000石で弘前藩筆頭家老となり藩政を統括した。
「無類の良臣」と讃えられたといわれている。
慶長14年(1609年)5月より、弘前城築城計画に参加。元和9年(1623年)7月、将軍・徳川秀忠が家光と共に、家光の征夷大将軍宣下のために上洛するに際し、信枚がこれに供奉し、康成も手勢36名を率いて参加した。
寛永2年(1625年)、青森港開港に際し、町割りの責任者を務めた。
寛永7年(1630年)、岩木山百沢寺(現・岩木山神社)山門、寛永8年(1631年)、大平山長勝寺山門の新築の惣奉行を務めた。
寛永11年(1634年)、藩内に船橋騒動が発生し、筆頭家老として解決を試みるが、決着の前に病死した。
長男の成昌が後を継ぐが、船橋騒動に幕府が介入し、喧嘩両成敗の裁定が下り双方に処分者が出ると、成昌はこれを不服として離藩。
その後は加賀藩前田氏に仕官したとされる。
弟の安昌は弘前藩に残留した。
出自
大垣城の戦いまでの康成の経歴は史料的に不明。
徳川家康に仕えて「鬼半蔵」と称された服部正成の庶長子とも、同族ともいわれている。
出身は伊賀と伝わり、服部姓並びに半蔵(正成)の「成」を名乗っていることから、正成と近しい血縁関係にあったとも推測されている。
家康の長門守の名乗りを与えられたり、
「康」の字に関しても、家康から一字を賜ったものではないかという推測もなされている。
美濃岐阜城主織田秀信に仕えたが、 尾張の服部家ホンヤさん系のニオイがします
のちに浪人して三河に住み、
その後関が原の戦いに従軍する為信の軍勢に参加した、とも伝わる。
いずれにせよ、津軽氏に仕えるまでの経歴に確たる史料はない。
「津軽藩旧記伝類」には、文禄・慶長の役の際に、肥前名護屋への使者としてその名が既に確認できる。
大垣城攻略戦で功績を挙げたとはいえ、藩政を任されるほど重用された理由に関しては、
津軽家は石田三成と親しく、 ← 前田慶次に似てる
三成滅亡後にはその遺児を庇護していることなどから、 ←前田慶次のドラマにそっくり
家康が弘前藩を警戒して監視役・付家老として康成を送り込んだ結果、
いわば徳川政権の指令の伝達者として、藩政の中枢に置かれることとなったのではないかとする説がある[1]。
【1】幕府からも禄を受けているから
以上コピペ
[28] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月03日 13時01分43秒 ) | パスワード |
A.AKECHI様
小野正親御子孫様
考えてみれば、ここにおいて、明智さまと小野様、そして服部・松下(私の
姉は神ヶ谷の松下。家紋は丸に並び矢=服部党の家紋。神ヶ谷には、服部中
保次の陣屋・屋敷が戦国末期から明治初期まであり、また之綱か常慶の松下
家と服部中家が同化したものと推察しています)が揃いましたこと、何と不思
議な邂逅ではございませんか――!
これもご先祖様の思し召しと感謝申し上げ、知りうる限りの情報・推理を
ご提供(この表現は失礼かもしれません。逆にご提供される方が多いかも知
れません)させていただきたいと思います!
小野家にしろ、明智家にしろ、いわゆる主君に背いたという逆賊的なイメ
ージ操作かどうかは知りませんが、そんな汚名をかぶってしまった。小野
但馬守政次については、やっと「おんな城主 直虎」において、その本意
を伝えてくれたので、少しは和らいだ。光秀も最後の方に息子と共に登場
し、その本意は多少なりとも伝わった。でもテレビドラマの中の数コマの
シーン。歴史そのものの評価を正しくしたいですね。義朝殺しの長田家も
そう。考えてみれば、永井(長田)直勝も小野家や明智家とも接触していた
かも知れません。いやしていたはずであります。家康の側近でありました
ので――
[29] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月03日 13時18分40秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
A.AKECHI様
服部康成の情報、ありがとうございます。津軽の地にまで服部党の一員
が行っていたとは、何とさみしくもよくがんばったものだといたわってや
たくなります。
私も、近い内に津軽を訪れたいと考えております――
[30] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月03日 13時22分34秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ちょっとゴチャゴチャ考えました:
服部伊賀守 呉服明神の服部貞信系の家に
服部石見守 半蔵系の家に
服部長門守 津軽の家老系の家に
半蔵の家はなぜ石見守だったのか?
大久保長安も石見守でしたよね。
松下之綱も石見守。
石見守という名乗りを与えられた背景がイマイチ分かりません。
伊賀守(伊勢守)だったら平家子孫の服部家には非常に名誉です。それが呉服明神系に?
長門守も伊賀出身の服部家の者には嬉しい名乗りです。
ちなみにワタクシの母方先祖も大坂の役の頃には「長門守」を名乗っていました。
石見国の一の宮は 物部神社 (大田市川合町) だそうです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E9%83%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE_ (%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%B8%82)
御神紋は「ひおい鶴」
祭神の宇摩志麻遅命が石見国に鶴に乗って降臨したとも伝えることから、当社の神紋は赤い太陽を背負った鶴の「日負鶴(ひおいづる)」となっている。また、宇摩志麻遅命は大日本帝国海軍の戦艦石見の守護神とされ、神像が艦内に祀られていた。この神像は後に当社へ奉納されている。
社伝によれば、饒速日命の御子の宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて美濃国・越国を平定した後に石見国で歿したという。宇摩志麻遅命は現在の社殿の背後にある八百山に葬られ、継体天皇8年(514年?)、天皇の命によって八百山の南麓に社殿が創建されたと伝えられる。
神階は貞観11年(869年)に正五位下に叙され、同17年(875年)に正五位上に、元慶元年(879年)に従4位下に[1]、天慶4年(941年)に従四位上に[2]昇叙した。延喜式神名帳では小社に列し、石見国一宮として歴代領主の崇敬を受けた。
社家については、景行天皇の時代に(紀元前13年〜紀元後130年に)物部竹子連が石見国造に任ぜられ、
その子孫は川合長田公を名乗り 長田氏はこの時代から?スゴイ!
代々祭祀を行っていたというが、
文治4年(1184年)金子家忠が安濃郡の地頭として赴いたときに子の道美が取って代わって当社の神主となり、
以降金子氏が代々の祭祀を行うようになったという[3]。
戦前に金子氏は出雲大社の千家・北島両家や、日御碕神社社家(島根県出雲市大社町)の「小野家」と並び、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。
主祭神
宇摩志麻遅命 - 物部氏初代 物部氏のご先祖さま
相殿神(右座)
饒速日命 - 物部氏祖神で宇摩志麻遅命の父神
布都霊神 - 所有していた剣の霊神
相殿神(左座)
天御中主大神
天照皇大神
客座
別天津神と見られる5柱の神
鎮魂八神
長田氏ってものすごく古い名家だったのですねぇ。
[31] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月03日 14時47分47秒 ) | パスワード |
小野正親御子孫様
さて、肝心な「市野氏」についてですが、私の持っている情報は、「松島
家」がらみの情報と、市野家御子孫様の書かれた『家譜 市野家物語』のコ
ピーであります。この本は、浜松中央図書館の郷土資料室にありますので、
閲覧・コピーが可能であります。
市野氏は私にとっても、徳川家康との関係を知る上において、また長上郡
における武将たちの人間関係においても、その関係と謎を解明するための最
大のキーマンであると思っております。
市野氏がわかれば、松島一族もわかる、服部一族(党)もわかるはずであり
ます。
小野様の知りたいと思っておられる5つの課題は、『家譜〜』を読んでい
ただければわかります。私のような素人がそれについて説明するのは、市野
家にとっては迷惑かなと思います。是非コピーをとってみて下さい。もしコ
ピーをとってくれということであれば、私のコピーはゴチャゴチャ書き込ん
でありますので、原版の方をコピーしてきてお送りすることも厭いません。
ご連絡下さい。
ただ、これらを基にしても、市野氏の根本的な「謎」は解けていません。
市野氏と浅井氏との関係が一番の謎というか、わかっておりません。浅井
氏も大族でありますので、特定するのは難しい面もありますが、それに加え
て袴田氏や寺田氏を名乗っていたということが、より謎を深めております。
松島氏についても、出自はわかりましたが、市野惣大夫の娘(妹と娘の崩し
字の混同から妹としたか)が松島忠兵衛源宗吉(幼名 対助)の妻となるという
事実がサラッと書き添えられているだけで、一体どのような状況・関係だっ
たのかがわかりません。
小野氏の支流に猪俣氏があり、そのまた支流に藤田氏がありますが、この
藤田氏は神ヶ谷の服部中家の地代官になっております。
つまり、市野氏、松島氏、小野氏、藤田氏、服部氏、松下氏はつながって
いると考えられます。また、家康がほぼ天下を手中にするまで、特に今川の
地である遠江を侵略し、その後武田に攻められるまで、遠江は戦略上の最前
線でありましたので、子飼いの、あるいは息のかかった武将をポイントポイ
ントの要衝に置いたと言われております。市野はそういう意味での要衝であ
り、まわりは服部半蔵や服部中の領地でありました(時間軸はずれますが)。
市野氏は、はたして何者であったのか……浅井長政の一族ということなら
推理はしやすいのですが、たぷん、はっきりしないのは、隠密性を帯びてい
たからだと思います。服部系も隠密性がありましたので、表面的な情報は残
っているにしても、本当のところは隠されていると考えています。
とりあえずこのように書かせていただきましたが、本日はまた36℃を超
えてまいりました。一歩外へでれば、灼熱地獄です。殺人猛暑でもあります。
菜園に水をかけ、野菜を守ろうと思います。
市野氏と馬の関係につきまして、次回触れてみたいと思います――
[32] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月03日 14時59分39秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
クロスオーバーのレスになります。
長田氏についての情報、ありがとうございます。じっくり読ませていた
だきます。歴史の真実はどこにあるのか、すべての表面的情報を、一応疑
った方がいいと感じています。
長田氏が桓武平氏の出であるのか、それとも古代系長田氏であるのかと
いう問題が根本的にあります。系図系の話は創作・詐称があると考えた方
がいいということを感じるようになってきました。
長田氏はやはり古代系の長田氏につながるのかなあと感じております――
[33] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月03日 16時43分45秒 ) | パスワード |
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%B8%82%E9%87%8E
市野姓
現静岡県西部である遠江国長上郡市野が起源(ルーツ)である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。
つまり 市野惣大夫さん系 ですね
ほか中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)公季流、三枝氏などにもみられる。
現島根県西半部である石見にもみられる。
まさかココ、このレス<33>でちょっと前に書いた長田氏について出て来た石見国でも市野さんが出て来たとは(驚)
まるでオールスターですね。
みんな繋がってしまいますね。
さすが日本!
[34] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月03日 20時57分52秒 ) | パスワード |
小野正親御子孫様
電話帳及びゼンリン住宅地図で調べると、現在、市野町には4軒の市野家
が存在しています。それが市野惣大夫の子孫家かどうかはわかりませんが、
市野家の菩提寺の宗安寺のすぐ北に1軒、すぐ南に2軒、旧市野宿に1軒
ありました。400年以上の歳月が経っておりますので、変わってしまいま
すね。
市野氏と馬の関係も見逃せませんが、馬というのは近世までにおいては、
現代のトマホークのようなもので、戦略上、重要な戦闘具でありました。
騎馬の数で戦力の高さ・強さが決まりますので、正に機密事項であったと思
われます。市野氏が実際にどのような動きをしていたのか、本当のところは
わかりませんが、馬に絡んだ話はいくつかあります。
馬に関する情報を集めてはいますので、その内、何か重要な秘密がわか
るかも知れません――
[35] | 小野正親子孫さんからのコメント(2018年08月04日 13時05分14秒 ) | パスワード |
三つ柏服部様
空の青海のあを様
A.AKECHI様
たくさんの投稿ありがとうございます。
どうも「家譜 市野家物語」を読むことがまず大事なのだということがわかりました。
わたしのところへ市野氏のことを聞きに来られた方はどうも市野町の4軒のお身内の方だとおっしゃっていましたが、なんでも明治になるとき旦那寺と縁を切って神道になったため明治以前のことがわからないとおっしゃっていました。
市野町のご実家には市野家に関する文書があったのだが従兄弟の方が持ち出して無くなってしまったとのこと。
その方のお持ちの情報に期待していたのですがお持ちになったのは宗安寺に葬られている初代から四代までの市のホームページに記載されているレベルことと区役所から入手した除籍謄本だけでした。
市野惣太夫家は家康に従い江戸に下ったわけですがもし今の市野町に移ったのであれば「寛政重修諸家譜」に残っているはずです。分家にしてもそうです。
だからまず「寛政重修諸家譜」を読まれることをお勧めしてあります。
それと市野氏は旗本ですから親戚関係も庄屋クラスか大名の家臣クラスと婚姻関係があるはずですが除籍謄本を拝見しましたが本百姓クラスのお宅とは婚姻関係があるようでしたがらしいお宅との婚姻関係はありませんでした。
それで市野町の4軒の市野姓のお宅について知りたかったのです。
わたしの市野氏についての見解を申し上げます。
「寛政重修諸家譜」の市野氏の項の最初に記載されていますが市野氏初代の実久(真久)は寺田右京進真宗の息子の袴田利宗の息子とあり、市野に改めたのは実久(真久)の時とあります。
これは事実なのでしょう。
家康は浜松(曳馬)に拠点を岡崎から移した後、笠井の繁栄を見て市を兼ねた宿場を本坂道に設置し宿場を市野にしました。そこの代官を命ぜられたのが市野氏初代の実久だったと思います。それで家康から市野の姓と家紋をもらうことになったのだと思います。
おそらく笠井へ物資を運ぶなど為馬の扱いに長けた人が実久(真久)で有能だったので家康の直臣になったものと思います。
おそらくは寺田または袴田の家は笠井周辺の馬喰だったのではないかと思っています。
ですから先祖が浅井氏というのは仮冒だと思っています。
また市野町の市野姓のお宅は旗本市野惣太夫家のご子孫ではなく、市野村に残った旗本家の財産を管理していたお宅ではないかと思っています。
場合によっては明治になって勝手に市野姓を名乗ったのではないかと思っています。
旗本市野惣太夫家のご子孫が他におられるのであれば市野町の4軒のお宅との関係を知りたいのです。
[36] | 小野正親子孫さんからのコメント(2018年08月04日 14時11分12秒 ) | パスワード |
わたしの家についての記述がありました。
わたしの家は高畑ではありません。
東区の西ヶ崎にあります。
わたしの家は「本田(ほんでん)」と呼ばれ「鐘鋳場」の分家になります。
もっともわたしの家は曽祖父が明治後期に本田から隠居した家ですので正確には本田の隠居家ということになります。
わたしの家も本家同様に本田と言われてますが西ヶ崎には他に分家として本屋敷と松屋敷という家があります。
小野の宗家は現在も浜北区尾野にあります。
宗家は今川氏が遠江の守護になったころから寄親寄子に組み入れられ井伊家と同じ軍団というか部隊になったものと思われます。
室町後期、和泉政直の祖父か父のころ井伊谷南西端に宗家から分家に出ます。
分家の理由は井伊谷への小野宗家の出先だったのではないかと思うのです。
小野は井伊家の家老になったと言われていますがそれはおそらく違うと思います。家老という表現は井伊家伝記など江戸時代になってからのものですし。
小野は井伊に合力して今川の一部隊を構成したと思うのです。
永禄11年家康軍の遠州進撃で正親の長兄政次は近藤氏の手で殺され正賢以下井伊谷小野にいた親族一党は岩水寺の境内の鐘鋳場に移り住んだのだと思います。
鐘鋳場で中心になっていた正賢は一旗揚げるため西国の毛利加勢のため遠州を離れ正親に後を託します。
毛利は秀吉に敗れるなどして正賢は鐘鋳場などにいる親族一党を呼び寄せることができなくなり正賢の子孫は備中浅口郡に定住することになって鐘鋳場とは別家となります。
鐘鋳場を継いだ正親には鐘鋳場を後に継ぐ正勝、西村を起こす正房、山神を起こす利兵衛、そして本田を起こす三郎四郎がいます。
わたしは三郎四郎から17代目になります。
鐘鋳場の西側に西村の家ができ、鐘鋳場から見て西村のずっと先に西ヶ崎(本田)があったのだと思います。
今の浜北区、東区、南区の多くは家康が遠州に来て小天竜をせき止めるなどして地盤が安定して来て田畑が広がるようになったと思います。
ですから家康が浜松に来る前から住んでいた家はあまり多くなかったと思います。
今の浜北区、東区、南区に古くから住んでいる家も多くは小天竜を家康がせき止めてから天竜川の上流や周辺部から入植した家がほとんどではないかと思います。
浜北区の宮口から広がる扇状地などと天竜川群の中州状の島だっただった笠井や蒲などはかなり前から人が住んでいたと思いますが…。
それから同じ苗字だからルーツが同じだという方だよくいらっしゃいます。
わたしはそれは同じかどうか確認が必要だと思います。
江戸初期に大名や旗本になった家でそれ以前のご先祖がはっきりしている家はたいへん少ないのです。
多くは源平藤橘に権威づけのためご先祖をもとめて強引に結び付けているケースがとても多いのです。
例えば徳川家が松平から改姓したのも源氏に結びつけたかったのは明らかですし島津家も源頼朝の庶子がルーツだと主張もしてる。
雄踏の中村家はわたしのご先祖様の実家ですが源範頼の子孫と呼ばれていますがどこまで本当でしょうか?
関東東北によくみられる小野の姓のお宅と遠州にいるわたしの一族が遠縁であるというのは伝説の世界だと思っています。
わたしの小野についても古くから遠州に住み着いたとは思いますが小野篁や妹子、小町、道風などとどこまで関係があるかわかりません。
関係しているという事績が全く見られないからです。
[37] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月04日 23時06分36秒 ) | パスワード |
小野正親御子孫様
貴重なお話、ありがとうございます。私も視野が広がりました。
川島幸雄氏の『小野篁と遠州小野一族』と、同じく『馬郡町 藤田権十郎
家の華麗なる系譜』という本は、浜北図書館にあり、そのコピーを私は持っ
ております。
川島氏は郷土史家の域をはるかに超えた人だと尊敬しております。
小野様は『馬郡町 藤田権十郎家の華麗なる系譜』はご存知ですか?
この本の中には、遠州小野氏のルーツ(篁)関係について、詳しく書かれて
おりますので、一度ご覧になってみたらいかがでしょぅか。
『小野篁と遠州小野一族』の方には、その点がどういう訳か詳しく書かれて
おりませんし、この本を一度見ていただくと関連氏族の綾もさらに見えて来
ると思われます――
本日の夜は、この2冊の本(コピー)に改めて目を通しておりました――
[38] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月04日 23時26分27秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は、東京へ行ってまいりました。昨日は浜松市内で37℃を超えまし
た。本日、東京では、36℃を超えました。コンクリートやアサファルトの
街ですので輻射熱もあり、緑も少なく、風通しも悪い中、排気ガスややエア
コンからの排出熱も加わって、気温以上に暑く感じられました。街を歩くの
は途中で止め、タクシーに乗りました。
さて、第一報をご報告いたします――
赤堤にある服部貞信の菩提寺「西福寺」の寺紋は「源氏輪に並び矢」であ
りました――
本夜は、疲れもあり眠気が襲ってきましたので、続きはまた明日――
[39] | 小野正親子孫さんからのコメント(2018年08月05日 01時31分19秒 ) | パスワード |
三つ柏服部様
ありがとうございます。
最初の投稿のところでも書きましたがわたしは10年ほど前に著者の川島幸雄様にお会いして直接お話を伺いました。
その際「小野の篁と遠州小野一族」「馬郡町 藤田権十郎家の華麗なる系譜」「井伊氏家系史考」の3冊をいただき拝読しております。
川島様にどういう経緯でわたしの一族のことを調べることになったのかを教えていただきました。
川島様は理容業の傍ら古代史に興味があって勉強を始められたのだそうです。
そのうち引佐町の井村修様というかたと知り合い一緒に井伊家の歴史を調べることになったそうです。
井村様は自費出版で井伊家に関する著書を何冊か出版しておられます。
川島様が小野について研究されるようになった経緯は「小野篁と遠州小野一族」のあとがきに詳しく出ています。
一方川島様は父方のご自身のルーツを調べておられました。それはお父様が藤田さんというお宅から川島さんへ婿養子に入られたのですが若くして落命されて父方とは疎遠になりわからなかったからです。
「馬郡町 藤田権十郎家の華麗なる系譜」はご自身のルーツ調査をまとめられたご本という事です。
川島様がおいでにならなかったらわたしの家で言い伝えられていることが正しいかどうかも分かりませんでした。
西遠地域の様子も分からないままのことが多かったと思います。
現代にいたるまで結婚とか移住とか言う事には必ず理由があるはずです。
特に近隣の地区間の結婚や移住ならともかく10km20kmと距離が離れてくればそれなりの理由が必要になります。
江戸期まででしたら家格とかその家の経済力とか家を守るための理由があります。
川島様の著作もそうでしょうけど江戸明治の各家系図は信頼できるものが多いと思っています。
それは嫁いだり養子に入ったりを双方の家の系図に記載してあるから双方の家や親戚の家の史料を見れば裏付けられるからです。
ところが「寛永諸家系図伝」に出ている大名旗本でもそうですが豊臣時代までの記述には裏付けるものが少ないのが現状です。
こと遠祖についてはかなり怪しいのです。
例えば藤田家のルーツは武蔵七党の横山党となっています。
しかしWikipediaの横山党の項にも出ていますが小野篁の子孫であることに異論がある研究者がいます。
太田亮さんという戦前から姓氏研究をされていた方も早いうちから疑問に思っておられるようです。
また「寛政重修諸家譜」の井伊氏の項は直勝、直孝以降については信頼がおけるのでしょうけど直政以前のことについてはかなり創作されています。
大河ドラマになった直虎の記述は一切ありません。
「寛政重修諸家譜」の直親の項にでてくる小野但馬道好という名前は遠州小野一族の史料には一切出てきません。
九州の太宰府天満宮(旧名称 安楽寺天満宮)の社家に小野加賀家があります。
その史料の中に小野但馬とか小野道好がでてくるのです。
この小野加賀家のご先祖様は道風で ”道”を代々通字としています。
一方遠州小野一族では”正””政”を通字にしています。
おそらく彦根井伊家は大宰府の史料の中に小野但馬という名前を見つけて捜索したものと思います。
家系図の江戸時代より前の部分については立派なものが残っていたとしても信頼性が低いのです。
家系図のとおりである可能性は十分にありますが傍証が一方では必要と考えます。
わたしは真実を知りたいと思います。
三つ柏服部様も真実をお知りになりたいのではないかと思います。
家系図など史料は真実を探る重要な情報です。
二次史料については真実探求の出発点と思っています。
[40] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月05日 13時50分38秒 ) | パスワード |
小野正親御子孫様
貴重なお話、ございますありがとうございます。イメージと視野が広が
りました。
過去の書かれた資料で、完全なるもの、百パーセント正しいものはない
と考えております。従って、引用元を書いておくように習慣づけておりま
すが、ついつい急いでいる場合は、面倒くさいので省いてしまうことがあ
りますが、気をつけるようにしたいと思います。
『寛政重修諸家譜』はいい本です。こんな本を残しておいてくれて、実
にうれしいです。完璧でないにしても(間違った部分があるにしても)、大
変貴重な資料であります。
市野氏の部分は、『寛政重修諸家譜』では、一系でサラリと記しており
ますが、市野氏の子孫の『家譜 市野家物語』では、宗家・分家が入り乱
れ(跡目相続)、騒動もあって複雑です。
市野惣大夫として天領代官職につきますが、それまでの経緯がよくわか
りません。
寛政重修諸家譜には、2ページとんで、近江浅井氏族が市野に来て市野
を名乗ったとしい「市野氏」が掲載されています。浅井氏といえば、伊賀
忍者も仕えておりましたし、ひょっとすると馬の市野氏と諜報の市野氏の
両系が一群となり、表と裏の働きをしたのかも知れません。何せ、諜報力
こそ戦国時代を制す最大の要因でありましたので――
[41] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月05日 15時38分48秒 ) | パスワード |
天の青海のあを様
赤堤の六所神社、及び西福寺に行ってきました。以前から抱いていた
イメージとは大分違っておりました。京王線下高井戸からタクシーでと
思っていましたが、そんなスペースは駅前にはなく、しかたなくカンカ
ン照りの中、歩いて行きました。私の中では、小高い丘の上というイメ
ージがあったのですが、そうではなかった。もっとも、「堤」というく
らいですので、昔は川べりということだったのでしょぅ。だから平地に
近い、あるいはゆるい勾配の平地という地形は正しいということになり
ます。
六所神社の由緒書きは、時代と人名がマッチしませんでした。天正
12年に服部貞殷(さだたか)が勧請したとなっており、貞信ならマッチ
するのにと思いました。その他に特段、発見するものはありませんでし
た。
西福寺は、そこから500m程西へ行った所にありました。立派なお
寺でありました。寺の正面左側に石碑が建っており、「故伊賀守服部君
墓碑銘」と題字が刻まれており、「文政甲申三月七日没従五位下伊賀守
服部君卒五十六歳云々〜」と続いておりました。文字は先ほど解読して
みようとトライしましたが、こけがかったり何やらでよく読めませんで
した。いずれにしても、文政といえば1818年からの12年間であり
ます。
墓地には、「服部氏貞徳公墓」と読める古い墓がありました。大きな
墓地で、暑い中サーっと全体を回ったつもりですが、他に服部家の墓は
見つかりませんでした。但し、水汲みの桶で「服部家 丸に立ち沢瀉紋」
のものが一つ見つかっております。寺自体は「源氏輪に並び矢」の紋で
ございました。これは間違いございません――
[42] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月05日 17時16分11秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
待ってました!やっと読めました!感動
暑い中をお疲れさまでした。
さてさて天正12年とは 本能寺の変の2年後で 小牧長久手の戦いのあった年になりますね。
つまり秀吉vs家康の戦さ。
1590年 (天正18年) 家康江戸城に入る
天正18年(1590年)7月5日の北条氏降伏後、
秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の5ヶ国を召し上げられ、
北条氏の旧領、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・
下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封された。
>「服部家 丸に立ち沢瀉紋」
へぇ〜
1つ前のスレッド http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101640_62.html で
江戸などの服部家がらみのお寺さんなどをレス<57>以降に記しましたが
六所神社の、天正12年に服部貞殷勧請、というこの人物はどなたでしょうね?
家康の転封前に江戸にいた人物???
通字の「貞」からすると呉服明神の貞信系ですね
秀吉が家康を関東に追い払おうとした噂は天正18年より早くからあったそうなので
前以て捜していた????
>文政甲申三月七日没従五位下伊賀守服部君卒五十六歳云々〜
これはどなたでしょうね?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E8%B2%9E%E5%8B%9D
服部 貞勝
宝暦11年(1761年[1]) - 文政7年5月22日(1824年6月18日)
ではないようですね。
1824年= 甲申 文政 7 年 とは 同じ年に亡くなってますね。
>墓地には、「服部氏貞徳公墓」と読める古い墓がありました。
この方は服部貞勝の父上です。寛政8年に56歳で亡くなっています。
情報が
齟齬をきたしている?
錯綜している?
でもわざわざこの暑いなかを浜松から世田谷の服部貞信系の神社やお寺に来てもらって喜んでいるでしょうね。
良いことをなさいました。
[43] | 丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月06日 11時50分18秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
東京は、言葉のアクセントが静岡県とほとんど同じなので、故郷にいる
ように感じます。考えてみれば、徳川家康が岡崎から東進して浜松・駿府、
そして江戸に入ったわけで、言葉も徳川軍団の影響を受けていることは
間違いないでありましょう。地名にしても、言葉と一緒で故郷の地名をつ
けてたりしておりますので、よけい親近感を感じる訳であります。
私の心の中では、かつて「服部半蔵正成」は偉大な存在でありましたが、
今はそれほどに思わなくなってしまいました。ただ、本当のところは隠さ
れている可能性もありますので、何とも言えませんが。450年前の真実
は、表面的には取り繕われていますが、本当は"藪の中"だと思っています。
甲州街道は、江戸城の「半蔵門」から西に向かい、府中あたりから北へ
曲がり、甲府へ向かいます(正式には日本橋が起点で、下諏訪が終着点)。
下高井戸宿は、半蔵門より、四ツ谷(2q)、内藤新宿(4q)を経て、次が
下高井戸宿。半蔵門より約11qの地点であります。その少し南の赤堤の
服部貞信の陣屋から半蔵門までは、約12qとなります。速足で歩いて約
2時間というところでしょぅか。
450年前の地形、山や森や道の様態がわかりませんので、甲州街道が
なぜ家康の逃避道に設定されていたのか、一度調べてみたいと思います――
[44] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月06日 12時42分10秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
> 私の心の中では、かつて「服部半蔵正成」は偉大な存在でありましたが、
今はそれほどに思わなくなってしまいました。
恐らく あの大疑獄事件の後、3男だった半蔵一族は分解して桑名や四国に散ってしまったから でしょうか?
保長の家は長男系と次男系が幕末まで続いたものの華々しい出世はしていない
というところに 謎 があります。
千代田のお城の忍者系の頭領にでもなったのかもですね。
中には1000石取りの家もありますが
300石とか
300俵とか
これでは貞信の家には圧倒的に負けてますね。
>本当のところは隠されている可能性もあり
はい
秘密のお仕事を任されてたかもですね。
赤堤と半蔵門では12qも離れているのですか。
仲が悪かったのかしら?
謎
[45] | 丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月06日 13時52分47秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
猫好きのあを様にとっておきの話を!
赤堤の六所神社から更に南へ500mくらいでしょうか、「あるもの」
で有名なお寺がありました。これは、下高井戸駅から赤堤の六所神社まで、
道案内でご一緒して下さった70代の親切な女性の方より耳にしたお寺で
あります。寺の名前は「豪徳寺」であります。「あるもの」とは、「招き
猫」でありました。
私は、猫には引っかかれたり、食いつかれたり、いい思い出がなく、や
はり犬派なのですが(例の秋田犬も小学生の頃、父にねだって飼っており
ました)、本日インターネットで調べてみますと、何と「井伊大老」の墓
があるではないですか。つまり、井伊家の菩提寺でもありました。かわい
い招き猫のフィギュア―が一杯ありますが、その由来は、井伊直孝がその
寺の前を通りかかったら、猫に招き入れられ、雷雨を避けることができた
という故事にちなむものでありました。
ここでは、招き猫を「招福猫児」と書くそうです――
[46] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月06日 23時01分28秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ビックリ!
やっぱり三つ柏さんの真心とお人なりの良さが受け入れられたのかもですね。
良かったですね。
500mあたりなんて、スグ、ですよね。
我が家からドンキよりずっと近いし、我が家から虹屋あたりの距離かな?
そうすると当時は 見える 距離でしょうね。今は見えなくても。
これまた 謎 が浮いて来ました!
[47] | 小野正親子孫さんからのコメント(2018年08月07日 05時05分00秒 ) | パスワード |
三つ柏服部様
「家譜 市野家物語」の一端をご紹介いただきありがとうございました。
系譜で4代まで一子相続になっているのは不思議に思っていました。
その間に分家があったり養子に出た人がいたりしていたことが省略されているというか書きたくなかったのかもしれんせん。
昨日、訪ねてこられた市野家の関係の方に電話でお話ししましたところ著者の康彦さんはその方の従兄弟の方とのことでした。
関係の方がおっしゃるには叔父様のご子息になるのだそうでご実家のすぐの分家の方とのこと。
著者の方がご実家にあった史料を持ち出して返してくれないともおっしゃっていました。
従兄弟同士でお話をされていないのはかなりびっくりです。
とすると著者の方は旗本を継承し続けた家のご子孫ではなさそうですね。
また跡目相続である意味お家騒動があったということが代官職から小普請になったことも関係あるかもしれません。
わたしも「家譜 市野家物語」を折を見て拝見したいと思っています。
どうもそれがわたしの市野家に関する疑問を解消に一番の有効と思います。
[48] | 小野正親子孫さんからのコメント(2018年08月07日 05時55分50秒 ) | パスワード |
三つ柏服部様
” そうそう、私の一番興味のあるのは、小野正親(井伊家家老政直の子、
但馬守政次の弟)の先妻が「松下常慶安綱」の娘であったことと、後妻が
「中村源左衛門正吉」の娘であったということ。とりわけ、常慶は服部
党とも陰働きの点でからんでくるので、追跡対象であります。 ”
のことについてお答えします。
「小野篁と遠州小野一族」には正親には二人の妻がいて一人は松下安綱(常慶)の妹、もう一人が中村正吉の娘とありますが、安綱の妹と言われている女性は残念ながらあくまでも著者が戒名などから推測したことに過ぎません。
一切傍証はありません。
中村正吉の娘が正親の妻で三郎四郎(わたしの先祖)の母であることは「高林方朗の研究」という本の高林氏系譜にも出てきてますので間違いはないと思います。
高林氏系譜には中村氏とわが小野との重縁について但し書きがされています。
中村正吉の妻は頭陀寺松下長則の娘と冨永公文さんの松下家に関する著作にも出てきますので小野三郎四郎の母は松下の血を引いている可能性はかなり高いと思っています。
松下、中村、小野は家康浜松在城時期に交流があったことは想像できます。
松下分家の安綱の妹と鐘鋳場の正親が縁付いていても全く不思議ではありません。
松下氏に関しては冨永公文さんの著書に詳しいことは譲りますが松下という姓の一族は遠州でも駿河湾沿いの地域から天竜川下流部にかけて広くいらっしゃいますし、愛知県の豊川上流部から信州にかけてもいらっしゃるようです。
松下氏の姓は三河国碧海郡松下郷(現在の愛知県豊田市枡塚地区・矢作川の西岸)に由来があるとか、出自は近江源氏佐々木氏一族の庶流や秦氏とすることが広く言われていますがわたしはそのあたりはかなり疑問に思っています。
松下氏は頭陀寺の寺侍とか頭陀寺で交易をしていたとかいろいろな見方や想像されます。ですから安綱が忍びと関係があったかもしれませんがそのあたりわたしはわかりません。いずれにせよ武家は武家、商人は商人と職業が決まっていたわけではない時代のことなのでいろいろありだとは思いますが…。
三つ柏服部様は「正親の先妻後妻」とされていましたが没年や子供の年齢などを見ますと同時期に鐘鋳場で生活していると思えますので二人妻が同時期にいたと思われます。
[49] | 丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月07日 11時00分46秒 ) | パスワード |
小野正親御子孫様
いろいろな情報、ありがとうございます。いずれにしましても、1550
年くらいから1600年くらいまでの50年間の出来事・人間・及び人間関
係を、集中的にかつ克明に知りたいものであります。
市野氏と松下氏はそのへんを明らかにする手がかりとしてのキーマンであ
ります――
[50] | 丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月07日 16時32分14秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
また台風がやってきます。明後日には伊豆半島をかすめ、東京をはじめ
として関東方面にやって来そうな気配であります。明日は箱根に行く予定
をしておりましたが、さてどうなりますやら?
いずれにしても、猛暑とそれに伴う台風の多さ、「蜂の予言」は当りそ
うな感じがします……。
「半蔵門」という名を残したということで、服部半蔵正成は確かに歴史
に名を残しました。江戸時代の地図が私の所にありますが、半蔵門は内堀
に沿った西の出入り口の門で、半蔵門から西へ向かって甲州街道が伸びて
います。その付け根に甲州街道を挟むように「番町」が六番町までありま
すが、囲い込むように固まっております。譜代大名や旗本が警護のために
おかれたようです。
半蔵門のすぐ南に「井伊直弼」の屋敷がありました。
「田安家」の屋敷は、内掘の中の西端にありました。
また、半蔵門から何キロか甲州街道を行くと、百人組が二つ並んでおり
ます。これは、伊賀と甲賀の同心が、それぞれ百人ずつ置かれた所である
と思います。服部正就にからむエピソードの真相は、今まで言われている
ようなことで正就に非があったのかどうか……私は、実際のところはわか
らないと思っております。
服部中家から田安家に家老が就任しておりますが、田安家の初代の宗武
の子供の松平定国は、久松松平家(伊予松山)へ養子に入り、もう一人の息
子の松平定信は、久松松平家(桑名)へ養子に入っております。
久松松平家に服部正就・正重はお世話になっておりますので、何か田安
家には服部家とからむ秘密がありそうです――
[51] | 小野正親子孫さんからのコメント(2018年08月07日 23時00分34秒 ) | パスワード |
丸三つ柏服部様
そうですね。
1550年ころから1600年ころまでの出来事・人間・及び人間関係をわたしも知りたいです。
応仁の乱、明応の政変などを経ていわゆる戦国時代が始まります。
戦国時代というのは幕府という中央集権国家が弱体化して地方で無名だった者などが勢力を伸ばして守護大名に変わって戦国大名として統治を始めます。
守護大名が戦国大名化して家柄がわかるいえもあるのでしょうが当然家柄とか由緒などわからないものが実権を持つことで自らの権威づけを始めます。
遠州では1508年それまでの斯波氏に代わって今川氏が守護になり寄親寄子制を使って統治はじめます。
寄親寄子の多くは遠州の地で小規模ながら勢力を持っていたわけですが1560年桶狭間の戦いを機に混沌とします。
織田・徳川になびくもの、武田になびくもの、今川を頼るものいろいろいました。
1569年徳川家康が遠州を勢力下におくことで状況はさらに変化します。
特に浜松城のある西遠地域では徳川家臣と在地の有力者との婚姻させたり、徳川氏にとってメリットのある野武士や農民などを取り立てて家臣化しています。
頭陀寺の松下氏本家(長則、之綱)は今川時代飯尾氏を寄親とする寄子でしたが豊臣家臣になり大名になります。
一族は安綱のように徳川家臣なるもの清景のように井伊家臣になるものいろいろだったのでしょう。
袴田家は馬喰や伝馬などしていたお宅だったのでしょう。市野氏初代實久は家康から手腕を認められて市野宿の代官をすることになったのだと思います。
それで市野の姓や家紋などをもらい武士化したのだと思います。
わたしは寺田家とか袴田家は笠井の市とか織物に関係した家だったと想像してます。
市野氏、松下氏とも家康が駿府や江戸に移るに従い遠州地域との婚姻関係を含め縁が薄くなっていったと思います。
そうでなければ家康が浜松を去ってからも市野氏や松下氏のことがもっといろいろ語られてるはずです。
「家譜 市野家物語」にどのように書いてあるかわかりませんが…。
松下氏は今川時代からの事績や伝説が残っていますが市野氏のことは良く分かりません。
むしろ今川時代から江戸時代を通じて遠州に住む家の史料を探る方が出来事・人間・及び人間関係がわかるように思います。
浜松藩には古独礼庄屋といわれる家がありましてどちらも家康が浜松城主になるころから住む家です。
古独礼庄屋には史料があるでしょうし、その他家にある史料とも関連付けられることが多いのでわたしは古独礼庄屋と雄踏の中村家の方が西遠地域の歴史を探る下地になると思っています。
本当は堀江の大澤家と五近藤家の史料があればもっといろいろわかるのでしょうけど大澤家は明治になって没落して史料は失われているようですし五近藤家も遠州を離れていて史料はほとんど見つかっていません。
[52] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月08日 02時59分40秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
田安家に家老で行ったのは
服部中保次の長男の家系で
嫡男保正は上総国夷隅郡に1550石を頂き
数々の武勇を挙げ
妻は紀伊家家臣の 川井刑部重長の娘で !!! ココかも ですね
その嫡男三十郎保光←仮名 は青山伯耆守忠俊の配下で天王寺口で討ち死に。
27歳。
この弟 三九郎中保俊 が新居の奉行になり3050石に。
妻は水野太郎作清次の娘。
別途、甲斐国巨摩郡に頂いた500石は弟の保久に。
長上郡の服部保俊には4人の子がいて
長男の保重は父より先に亡くなり
保重の子・保秋は叔父の保継の養子になって服部中家を継ぐ。
次男の保継は水野清次の養子になって
妻は徳山五兵衛直次の娘で
父・保俊のもとに戻って服部中家の後継者になり
お兄さんの子の保秋が養子になって服部中家を継ぐ。
笑
ややこしい
この保秋の妻は長谷川久三郎正相の娘
第3子の娘さんは中根に嫁ぐ
3男の服部太郎作清氏は水野太郎作清定の養子になる。
で、保秋の子の保房の妻は永井伝八郎茂虎の娘。
この保房の3男=実は長谷川久大夫徳栄家からの養子で保貞。
服部久太郎中保貞は日光奉行になって従5位下大和守。
で、田安家の家老になりました。
田安の家老!!!!
この流れですね。
[53] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月08日 03時09分13秒 ) | パスワード |
こういうのを見ていると「死」は有効に迎え
(殿の御馬前での討ち死にが最高の死に方)
結婚も良い家と結び
なんとか男子を得て
家を繁栄させるのが先祖に対する最高の恩返しかと。
カワイさんってどこかで出て来ましたよね。
川井・河合・川合・河井・川相・・・・・
芭蕉の弟子の河合曽良。
みぃ〜んな繋がりますね。
[54] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月09日 14時19分09秒 ) | パスワード |
小野正親御子孫様
いろいろ調べると、やはり市野氏は単純でなく、その裏に最大の謎を
秘めています。いわば表と裏の顔のようなものがあるかのように見えま
す。
寺田系市野氏と浅井系市野氏の関係がはっきりわかれば、さらにその
内容ははっきりとして来るのですが……。
市野氏の最大の秘密は、まずは小早川秀秋との関係にあったのではな
いだろうか。
つまり、小早川秀秋にに仕えた「伊岐真利」が「市野真利」とすると、
「秀秋」―「北政所 ねね」―「秀吉」―「茶々」―「お江」―「秀忠」
の線が一つにつながって来る。
また、
「寺田」―「河野水軍」―「小早川水軍」―「秀秋」の線もつながる。
「浅井」―「お江」―「秀忠」―「ねね」―「秀秋」の線もつながる。
詳しいことは、長くなりますので今回は記しませんが、豊臣秀吉と
徳川家康のせめぎ合いの渦の中に、市野氏は蠢いていたように感じられ
ます――
[55] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月09日 14時42分31秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨日は、台風13号の来襲の危ぶまれる中、箱根大涌谷に行って、念願
の「黒卵」を食べてまいりました。1個食べると7年長生きできるという
とで、3つ食べてしまいましたので、21年長生きできることになってし
まいました。黄身が独特の濃い味がします。また食べたくなります。
さて、レス[52]は、図らずも私が考える我がの服部家の謎解きの関係図
ということで、今まで温めておりましたものでもありました。
我が一族の長老が遺した文書に、「川井家」が親戚になると書かれてお
りました(もちろん、どの川井家かが問題になるのですが)。
状協証拠として、我が「服部さま」の東の隣村に「長谷川さま」、西南
の隣町に「花井一族」、そして同じ村に「永井一族」が存在し、それらの
関係を全てつなげることができるのは、「服部保次」―「保正」―「保重」
―「保継」―「保秋」―「保房」―「保貞」の流れの中にあります。
詳しいことは、次回に述べさせていただきます――
田安家の別邸が、百人組の隣にありました。これは田安家と伊賀・甲賀
の関係を物語っていると思います――
[56] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月09日 16時10分37秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
文字化けしてわたくしには読めませんが、このような記事があるようですが
是非お読みください。
旗本-か-
www.harimaya.com/o_kamon1/hatamoto/hm_ka2.html
川井家, 石持ち地抜き酢漿草藤原氏通憲流といい、遠州川井に拠って川井氏となった。川井久定は、三方ヶ三方ヶ原・長篠・長久手などに戦い、その孫久吉は関ヶ原で戦功を挙げた。子孫の多くは大番に家名をとどめた。 川勝家, 鳳凰に桐帰化人の子孫とされる泰氏。
[57] | 小野正親子孫さんからのコメント(2018年08月10日 01時09分31秒 ) | パスワード |
三つ柏服部様
8月5日に
「 市野惣大夫として天領代官職につきますが、それまでの経緯がよくわか
りません。
寛政重修諸家譜には、2ページとんで、近江浅井氏族が市野に来て市野
を名乗ったとしい「市野氏」が掲載されています。浅井氏といえば、伊賀
忍者も仕えておりましたし、ひょっとすると馬の市野氏と諜報の市野氏の
両系が一群となり、表と裏の働きをしたのかも知れません。何せ、諜報力
こそ戦国時代を制す最大の要因でありましたので――」
と投稿されたことについて。
「寛政重修諸家譜」の巻二十一 頁八二を図書館で見てきました。
こちらに出ている (浅井氏の族)市野氏 は巻十五 頁三五四にでてくる 市野(惣太夫)氏 とは全く別の家です。
理由は以下の通りです。
@惣太夫家は初代實久のところに「東照宮市野村に放鷹したまふとき、在名市野を称号とし、丸に一文字をもって家紋とすべきむね仰を蒙る」とあります。
一方、浅井氏の族家の方は「長上郡市野に住むが故に家号とす」とあります。
どちらが先に市野に住み始めたかは不明ですが、惣太夫家は袴田から市野に変えさせたのは家康と明確に記述されています。市野を名乗った理由が全く異なります。
こんな名誉なことは一族であれば必ず記述しますよね。
A家紋が違います。
惣太夫家は丸に一文字、浅井氏の族家の方は井桁の内鷹羽 抱橘です。
B惣太夫家は馬の関係のことをしていますが浅井氏の族家の方は作事のことをしています。
分野が全く違います。
市野村は家康が浜松に来て天竜川の治水をする中で土地が安定化してきたところです。特に市野より東側は市野宿ができてからも本坂通(通称姫街道)は安定した道ができませんでした。
市野宿は天竜川を東にわたる際大雨とかで渡船が出せないときに宿泊する意味を持った宿場だったのです。
今も市野宿のすぐ東側には安間川が流れ、その安間川の東側は現在水害対策のため遊水地を建設中です。市野宿から北側の安間川すぐ上流あたりは上石田、すぐ下流あたりを下石田と言います。江戸時代初期までは河原が広がっていました。
安間川は家康の天竜川治水以降も水害に悩まされたところで、たくさんの逸話が残されています。
本坂通は家康時代の天正年間に本多作左衛門によって新宿が設けられ、街道として整備されました。つまり宿場を作ることで、大工とか石工などの建築、建設関係の職人が集まったと想像できます。
浅井氏の族家の方はこの時代に市野村に住み着いて家康の出世とともに江戸へ移っていったのでしょう。最初は職人頭のような存在だったのかもしれません。江戸へ行った初代茂左衛門義久は幕府の御家人になり5代目の義茂は延享4年(1747年)になって旗本になったと思われます。
浅井氏の族家の方は別の姓だったのが江戸に移ったときに市野に住んでいたことに由来して市野を名乗ったと思います。御家人で由緒書きなどがほとんどなかったので旗本になって提出したものが「寛政重修諸家譜」に収められたのだと思います。
浅井氏がいた近江は穴太衆など石工集団がいたところとして有名です。浅井氏の族家の方は浅井氏の子孫とはわたし的には思えませんが土木建設関連の職人だったのではないかと思います。
惣太夫家のご先祖は市野宿ができるより前からこの地域に住んでいました。
寺田も袴田も浜松市東区には普通にある苗字です。
市野宿には笠井村にあった市場を家康は動かしたので市場のある宿場ということで「市野宿」としたと思われます。
宿場に欠かせないのは伝馬です。伝馬を含め物資の流通のことを中心に任せたのが地元出身の惣太夫實久だったのでしょう。それが代官だったという意味です。
家康が浜松にいたころからいくつかの村の運営を任せる代官がいました。
笠井には山下家、有玉には高林家、万斛には鈴木家がいて代官でした。
忍者のことを記述されていますが両方の市野家とも全く関係ないと思います。
忍者などしなくても両方とも家康や幕府に認められるような家で忍者をやるよりずっと収入があったはずです。増してリスクを負ってまで忍者することの意味はありません。
[58] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月10日 04時52分47秒 ) | パスワード |
小野正親御子孫様
ご意見丁重に承っておきますが、市野家の子孫・市野康彦氏の書かれた
『家譜 市野家物語』は是非読んでみて下さい。市野家に関する頼れる情報
は、余り多くはありませんので(といっても、それで謎や混迷がすべて解ける
わけではありません。逆に余計混迷が深まるかも知れません)。
その中に書かれている市野家家系図は、袴田(市野)惣大夫眞久を市野家初
代としております。その説明書きとして、「三方原御陣(1572年)の節、御馬
御用仰せつけられ、御調馬御用承り、信陽関東処所にてお馬を調べ、鹿毛馬
を差し上げた。云々」とあります。眞久には兄・袴田五郎右衛門がおり、そ
して彼らの父・袴田利宗、祖父・寺田右京之進眞宗を実質の初代としており
ます。太田亮博士も『新編 姓氏家系辞書』の中で「袴田氏:遠江。藤原氏
を称す。寺田眞宗の男を袴田利宗と云う」と記しております。
ただ、市野康彦氏は、家伝(口伝)では、祖先が近江の浅井氏であったとい
う説が代々伝えられているとも書いております。近江の代官も拝命している
とも。
戦国時代(大きな枠で捉えると、大阪の両陣が終わるまで)は毎日が戦いの日々、つまり死ぬか生きるかという緊張した時代でありました。市野氏の先
祖も含めて、彼らがどのような指示命令が下され、どのように行動したかと
いうことは、今の我々の常識をはるかに超えたものであったと思います。
今川、武田、織田、それに北条、上杉……攻めたり攻められたり、武力も
大事だが、それよりも素早く的確な「情報収集」が一番大事であります。
忍者とは近代に創られた活劇的イメージが大きいですが、それには私も拒
否反応があります。ただ、情報収集という大きな枠で捉えますと、徳川家康
は最大の忍者―上忍であったと例えて言うこともできるかも知れません。
ということで、市野氏が忍者であったという表現があったとしたら、それ
は究極の例え話で、歴史的表現としては適切ではないと思っております――
[59] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月10日 05時37分26秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
前レスで述べましたが、私の祖先について追及・言及しております中で、
その関係において他家の個人的情報に及ぶ可能性もありますので、気をつけ
たいと改めて思っております。
その代表格は「長谷川さま」でありまして、当「服部さま」の真東1q弱
の所に居宅があります。代々の庄屋家で、何代かの名前の通字から察するに、
長谷川徳栄の子孫ではないかと推察しております。その根拠もある程度推理
しておりますが、確たる資料は天竜川の洪水や火事などの災害の彼方に消え
てしまっておりますということになります。
服部中家の系譜の中で、花井、川井、永井、長谷川家との婚姻関係、これ
らの関係氏族がこの地区においてすべて揃うということは、たまたまの偶然
が集まったというより、それが現実であったという確率の方がより高いよう
に感じられてきております。
来週は同級生の花井さん(中学校の同級生)に会います。仮に祖先のつなが
りが事実だとしたら、それを知らない子孫達が知らない同士として話をして
いる風景というのは、悲しくもあり、しかし逆にそれを知る者は歴史の愉快
さを感じて静かにほくそ笑むことでしょぅ――
[60] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月10日 10時40分54秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>長谷川徳栄
が出て来ると
またまた服部中系がご先祖さまだったのかな
と。
伊賀
服部貞信系?
伊賀→伊勢→尾張
服部中保次系?
服部政信系?
伊賀
服部半蔵系?
服部正尚系?
この5つの家のどれなのか?とウロウロ行きつ戻りつなかなか決定打が出ませんね。
今は中保次系が1馬身呉服明神系を抜いてますね。
でも鞭が入ると(服織神社を考慮すると)鼻の差で貞信系が並ぶし。
ダークホースとして三つ柏に蔓の医家の服部家がアヤシイ動きを見せるし。
何故丸に三つ柏紋なのか?
こうして考えていると神服神社が追い上げて来るし。
これという決定的な証拠が見つからないから
世田谷の服部家の記録も微妙にいろいろ違うし え゛っと驚きましたよ
捜すのは暗唱に乗り上げるけど
今ではムリ無限大です
でも「辿る」のは楽しいですね。
先祖の足跡を辿るのが大事と割り切ってライフワークとしてボチボチ捜していくのが良いでしょうね。
幕末の服部伊賀守貞勝の周りの人もああいう感じにユルーく解釈してたのでしょうね。
我が家の母方祖父の名前は活字使用になって市役所の役人の勘違いで漢字を間違えられたけど
これを訂正するにはものすごく大変な法的手続きが必要で
大坂や尾張県の記録を目の前に突き付けて「おたくの市だけが間違ってる」と
証拠を突き付けても
「当市ではコレなんだ」で開き直られてしまう。
裁判所に訴えるほどのことでもないし。
それで貞勝家の記録というのもわたくしなりに「そういうのもアリ」と解釈します。
三つ柏さんが世田谷まで直接調べていらっしゃったのですから
「世田谷の赤堤ではそうなんだ」
と楽しみが倍になった
と喜んでいます。
やっぱり万巻の書を読み万里の道を往くを「自分で」やらなきゃね。
[61] | 丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月10日 14時12分01秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
NHKも時々いい番組を放送します。「NHKスペシャル」というもの
で、今回は「アインシュタイン 消えた天才脳を追え」でありました。
これは、アインシュタインの脳が取り出されて200を超える(正式には
240? 260?)のブロックに細分され、研究者の手に渡っていたとい
うものでありました。
そんな話は過去、確かに聞いたことがありましたが、半信半疑というよ
りも、ブラックジョークかと思っておりました。今回この番組を見て、あ
る程度のショックを受けたのは、やはり、それが合法的に行われはしたもの
の、人間の尊厳、特にあの天才的理論物理学者アインシュタインの人格と
いうものを考えると、その頭蓋骨が大きく分解され、丸ごと脳を取り出さ
れ、多数の小片に分断され、しかもそれを特殊樹脂で固めて、結果的に何人
かの研究者の元に送られたということに、科学の持つフランケンシュタイ
ン性を感じざるを得なかったことであります。
ま、それはともかくとして、アインシュタインの脳には、一般の人には
見られない発達した特徴があったということであります。それは、具体的
には、視空間認識や数学的思考に関与する左頭頂葉下部が大きく発達して
おり、かつその部分のグリア細胞密度が非常に大きく、アインシュタイン
の脳全体の平均を著しく上回っていたということであります。
さて、自分の脳を考える時、今からでは遅いわけでありが、少なくとも
も考える力を持ち続け、考えられなくなった時は年齢に関係なくそれが終
わりの時かなと思っています――
[62] | 丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月10日 14時39分15秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
江戸の地図の中で、一つ報告するのを忘れたいたことがあります。それ
は、半蔵門から甲州街道を西に行った「百人組」の屋敷のある所ですが、
その東隣に田安家の別邸があったということであります。
田安家と言えば、徳川吉宗にからむ。吉宗と言えば、紀州根来衆が有名
ですが、「御庭番」というものができたのも吉宗の時代からだったのでし
ょうか。もっと早い時期にできていたと思っていたのですが……。
[63] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月10日 15時28分21秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>半蔵門から甲州街道を西に行った「百人組」の屋敷のある所ですが、
>その東隣に田安家の別邸があったということであります。
これには驚きました。
田安家の家老・・・百人組・・・半蔵門
こうやって書くと 服部中の家と半蔵の家は「近い」関係にあったのかしら?
なんだか 半蔵の家と貞信の家は「伊賀」での対立でもあったのかしら?と 勘繰ってしまいます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%BA%BA%E7%B5%84
百人組(ひゃくにんくみ)は、江戸幕府における組織の一つ。
解説
抱席・二十五騎組、伊賀組、譜代席・根来組、甲賀組の4組からなり、各組に100人ずつの鉄砲足軽が配された。組頭は、その鉄砲隊の頭領である。
通常、鉄砲隊は先手組のように一隊につき20人から50人が備に配属されるのが一般的である。しかし、百人組は文字通り100人で構成され、その人員も編成当初は組名の通り、伊賀・甲賀・根来といった、鉄砲の扱いに優れた地域の者を召抱えている。ちなみに伊賀組と二十五騎組が編成されたのは1601年だが、伊賀同心が召抱えられ服部正成組下に置かれたのはそれ以前、1590年の関東入部時である。また甲賀組は1597年に、根来組は1585年に編成され成瀬正成(← 尾張藩の家老で犬山城主ですね)を組頭とした。二十五騎組については史料が乏しく、由来は諸説ある。
このことから百人組は、備に配される通常の鉄砲組とは異なり、高い火力を有した独立部隊として編成されたと考えられる。
平時は主に江戸城大手三之門に詰め(番所は現存)、将軍が寛永寺や増上寺に参拝する際は山門前を警備した。
また徳川家康は、江戸城が万一落ちた場合、内藤新宿から甲州街道を通り、八王子を経て甲斐の甲府城に逃れるという構想を立てていた。鉄砲百人組とは、その非常時に動員される鉄砲隊のことであり、四谷に配されたという。
*****************************
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%BA%AD%E7%95%AA
御庭番(おにわばん)は、江戸時代の第8代将軍・徳川吉宗が設けた幕府の役職。将軍から直接の命令を受けて秘密裡に諜報活動を行った隠密をさした。
諜報活動といっても、実際には時々命令を受け、江戸市中の情報を将軍に報告したり、身分を隠して地方におもむき情勢を視察したりしていた程度だといわれている。その実態としては、大目付や目付を補う将軍直属の監察官に相当する職であることがうかがえるが、一般にはいわゆる間者や忍者の類だったとする御庭番像が広まっており、時代劇や時代小説などではそのような描写が数多くなされている。
略
↓ ココ 面白かったですよ
吉宗が御庭番を新設した理由としては、家康以来幕府に仕えてきた伊賀者や甲賀者が忍者としての機能を失い、間諜として使い物にならなくなったことや、傍流の紀州家から将軍家を継いだ吉宗が代々自分の家に仕えてきて信頼のおける者を間諜に用いようとしたことが、理由として挙げられる。また、幕府の公式の監察官だった大目付が後代には伝令を主たる職務とする儀礼官になったこともあり、将軍直属の監察能力が形骸化したため、これを補って将軍権力を強化する意味あいもあった。
略
身分と家柄
御庭番は、吉宗のとき紀州藩で薬込役と呼ばれていた隠密任務に就いていたものを幕府に編入され、最終的に17名が初代の御庭番に任命された。以後の御庭番はこの子孫17家の世襲からなり、さらに分家9家が生まれて合計26家となり、歴史の中で4家が解任され、幕末には22家が残った。彼らは、世襲によってまかなわれる御庭番の家筋としての団結を保ち、御庭番の職務を協同して行っていた。[2]
御庭番の家筋の諸家は、当初はすべてが下級の御家人だったが、幕末までに大半の家が下級の旗本にまで上昇した。御庭番出身の者が出世すれば、当然に軽輩の職務である御庭番からは離れることになるが、その子が新たに幕府に出仕するときは御庭番となるのが定めで、旗本に出世した御庭番の子は旗本格の御庭番になった。
彼らは当時の武鑑に御庭番として収録されており、間諜でありながら氏名、住居はもとより収入や経歴に至るまで公開されていた。
[64] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月11日 14時39分55秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
服部中保貞(保次―保正―保俊―保継―保秋―保房―保貞)が、何故、田安家
の家老となったのか、田安家とどういう関係・縁があったのかということが、
頭に引っかかっておりました。
色々調べて行く内に、何と何との事実を見つけました。
ちょっと用事で中断いたします。また後で――
[65] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月12日 03時23分41秒 ) | パスワード |
新たに
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101643.html
長上郡の服部氏族C]V(課題確認56):113
を立てました。
キリの良いところでどうぞ。
[66] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月12日 03時35分33秒 ) | パスワード |
https://folklore2017.com/264.htm
旗本の川井家は遠江国豊田郡川井(静岡県袋井市)をルーツとし、藤原南家の出。
https://folklore2017.com/gouzoku/010.htm
藤原南家(ふじわらなんけ)
・ 右大臣の藤原不比等(ふじわら ふひと)の長男の、藤原武智麻呂を祖とする。
武智麻呂の屋敷が弟の房前(藤原北家の祖)の屋敷より南にあったため「南家」と名付けられた。
# 工藤氏: 工藤氏からでた名字。
二階堂、河津、伊東、狩野(かのう)、入江、岡部、天野、船越、吉川(きっかわ)。
# 伊東氏からでた名字。
早川、三石、田島、門川、木脇、稲用。
・ 和泉国の岸和田藩主の岡部家も工藤氏の末裔の船越氏の一族。
室町時代には今川家に仕え、
今川家が滅亡後には徳川家に仕えた。
【名字でわかるあなたのルーツ 森岡浩 小学館】
[67] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月12日 03時39分35秒 ) | パスワード |
http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%B7%9D%E4%BA%95
川井(かわい)とは、日本の苗字、地名である。
苗字としては日本全国に広く分布している。九州ではあまり見られない。
常陸国には、
戦国大名佐竹氏の家臣に川井氏があった。
下野国の川井氏は那須郡川井村発祥。那須氏の一族とされる。
遠江国には、
清和源氏吉見氏庶流の川井氏と、
藤原南家流川井氏が存在した。
吉見氏庶流の川井氏は遠江国磐田郡川井村発祥。
藤原南家流の川井氏は遠江国豊田郡川井(静岡県袋井市川井)発祥。
今川氏の家臣。
江戸時代には旗本となった。
へぇ〜
[69] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月12日 04時59分35秒 ) | パスワード |
日本語になりきってなかったので書き直し
汗
面白かったので足跡を残しておきます:
http://chuukyuu.info/who/edo/2008/07/post_bfb3.html
管理人さん、勝手にコピーの上、編集もして、ごめんなさい。
ちゅうすけのひとり言(20)より
さて、2008年7月9日の[宣雄に片目が入った] (5)に、長谷川一門から、服部家(3050余石)へ養子に入った久太郎保貞(やすさだ)・主殿保弘(やすひろ)兄弟を紹介した。
長谷川一族と服部一門とのつながりは、
納戸町の長谷川正相(まさすけ 4070余石)の長女が、服部中(あたる)保秋(やすあき)に嫁いだものの、
次の当主に男子が得られなかったことによる。
1)
徳川家に仕えた服部というと、ぼくたちは、伊賀国阿拝郡(あへこおり)服部郷の出て三河国へ来て、松平(徳川)清康(きよやす)・広忠(ひろただ)・家康(いえやす)に仕えた一族を、連想する。
とくに、家康の下で活躍した服部半三(はんぞう 『寛政譜』は、あるいは半蔵ともと)石見守(いわみのかみ)がよく知られている。
『寛政譜』で、
父に継いで東照宮につかへたてまつり、三河国西郡宇土城夜討の時、正成(半蔵)十六歳にして伊賀の忍びのものもの六、七十人を率ゐて城内に忍び入、戦功をはげます。
【参照】服部半蔵と宇土城
宮城野昌光さん『古城の風景 1』(新潮文庫) p121[上郷城]。
とか、
元亀三年十二月二十二日、三方ヶ原の役に供奉し戦功あり。浜松城にをいて御槍一筋を賜ひ、かつ、伊賀の者、百五十人を預けらる
とか。
【ちゅうすけ注】この槍は、半蔵が開基した西念寺が秘蔵していると『四谷区史』(1934刊 1985復刻)にある。
寺は、麹町から新宿区若葉町2丁目9。
(天正十年 11582)六月、和泉の堺より伊賀路を渡御の時従ひたてまつり、仰せうけたまわりて郷導したてまつる。
息・石見守正就(まさなり)は、なにか不都合があったらしく、その雪辱に大坂夏の陣に討死し、
弟・正重(まさしげ)が後継するが、彼も大久保長安(ながやす)がらみの事件で領地を没収され流浪したのち、松平越中守定綱(さだつな)の臣となる。
半蔵の家系で幕臣として残ったのは5家。
2)
織物の神を祭祀した呉服明神の神職で、半蔵の呼びかけで、家康の伊賀越えを助けた左兵衛貞信(さだのぶ)
の系統の幕臣が5家。
3)
織田信長(のぶなが)に仕えていて、徳川へ来た血筋のが3家。
ちょっと省略が激しいですね
信長のパパの時代に娘も貰って、その後、織田家と決別したのが尾張のホンヤさん系
確かに津島の服部さん系は信長に仕えていた
3つ、と書かれると
政信の家と中保次の家と、あと誰?
そして、いよいよ、長谷川家から養子に入って服部一門になるのだが、
掲げた家譜の2段目に記されているように、
当家も服部郷の出であるが、
祖・小平太保次(やすつぐ)は、足利義輝(よしてる)から信長に仕え、桶狭間では先陣となって今川義元の本陣へ討ちこんでいる。
信長の死後、家康の下へつき、合戦のたびに敵地の境を警衛すとあるから、やはり、忍びの配下をしたがえていたのであろう。
3代目の中保俊(やすとし)の時には3050余石の大身になっている。
服部を名のる幕臣ではもっとも大身で、
この流れの服部家ほかに3家。
3つ目の家が思い浮かばない。
4)
あと、今川方から徳川へ移った系統の服部が2家。
(6)に記しますね
5)
武田方からの服部が1家。
川越の服部さんの一族でしょうね
6)
綱吉の時に召されたのが1家
このハナシは(4)と(6)に重なります。
服部和泉守正吉(重好)が蘆田信蕃に仕えた後に家康に仕え
子の服部正長(重長)は本多正信父子に属した
孫の正次(重明)とともに駿河大納言忠長卿に仕えた後に処仕。
曾孫=正久=の時に出世して御蔵奉行になって長崎の天草代官になったりしたが
この人の次男が喧嘩して切腹し、この家はダメになっていく。
家紋は源氏車内両矢筈2本・向かひ蝶・
寛永系図では鳩酢草かたばみを家紋とす
菩提寺は市ヶ谷の万昌院で吉良家の菩提寺でもある。
(伊賀で人を殺めて今川家に逐電した服部康信もここが菩提寺 笑
家紋も源氏車内両矢筈2本・向かひ蝶)
服部長次(正長の次男)も忠長卿に仕えて処仕。
この人の次男の長勝が綱吉に仕えてお世継ぎの徳松殿にお仕えしたけれど徳松殿が死んでしまって
長勝の長男の長富の嫡男である 長よし が田安の近習番になる。
この家の家紋は源氏車の内両矢筈2本・九曜
へぇ〜
つまり三つ柏さんのご先祖さまの可能性のある家が2つ増えてしまいました。
特にこの2つの家は今川家に仕えてたから。
[70] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月12日 05時08分05秒 ) | パスワード |
https://books.google.com/books?id=QuCHGPApd9kC&pg=PP1018&lpg=PP1018&dq=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E4%B8%AD%E4%BF%9D%E8%B2%9E%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=mCOdKWbtY_&sig=OS5eR4jtXuruZa_oP-fVoe8WLmQ&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwjplt_55eXcAhXLsVQKHS6lBSoQ6AEwAHoECAYQAQ#v=onepage&q=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E4%B8%AD%E4%BF%9D%E8%B2%9E%E3%80%80%E3%81%AF&f=false
続国史大系: 第13巻
ここに 服部中保貞 の名が出てるらしい。
読めない。
[71] | 小野正親子孫さんからのコメント(2018年08月14日 08時13分04秒 ) | パスワード |
三つ柏服部様
何はともあれ「家譜 市野家物語」を拝読してからなんでしょうね。
疑問が解消するか深まるかわかりませんが。
ただ、わたしがわたしと連絡を取っている女性の方のおっしゃってることと「寛政重修諸家譜」が正しいとすると次のことが言えます。
@「家譜 市野家物語」の著者市野康彦さんは市野町の市野本家の史料を持ち出した分家(康彦さんのお父さんが分家してる)で市野家史料本来の持ち主ではなくて返却もしていません。「家譜 市野家物語」を出版したことも本家はわたしが連絡するまで知らなかった。
A市野家がご実家という女性には家伝というものが全くなくご実家を継いでおられるご兄弟もご存じないという事でした。
B宗安寺が市野町の市野家の旦那寺では無くなっている。また市野町の市野家は江戸時代から市野町に定住していることから旗本になった惣太夫家の直系子孫ではありません。
C浅井氏の族家の方は家康のころから仕えていたが江戸中期になって「寛政重修諸家譜」に記載される家になったわけで惣太夫家と関係があるのならその記載があっていいはずです。「寛政重修諸家譜」の巻が全く違うところに記載されていますので 氏 も異なっています。
もし「家譜 市野家物語」に”浅井氏…云々””近江の代官…云々”の記述があるのでしたら傍証もあるでしょう。
家伝を継承する立場にない方が家伝だけでそのことを記述してるとしたらそれこそ畏れ多いことです。「寛政重修諸家譜」を否定することになるのですから。
「寛政重修諸家譜」はご存知の通りかなり信頼度の高い大名旗本の系譜です。
歴史学者がみんな頼りにするものですから「寛政重修諸家譜」が間違っているということは現在解明されている歴史が否定されることになります。
人はだれも自分や自分の出自を良く言いたいものです。
家伝こそ傍証が必要です。
いくら調べてもわからないというのも歴史的事実です。
どこかと関連付けたり結びつけてしまうのはあまりにも危険です。
三つ柏服部様の投稿を否定するつもりはありませんが「家譜 市野家物語」も検証する必要があると思います。
「家譜 市野家物語」をなるべく早く拝読しようと思いますがしばらくお時間をください。
[72] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月14日 14時15分06秒 ) | パスワード |
小野正親御子孫様
私も、市野氏についてはこれ以上話を進めるだけの根拠を持っておりま
せん。新たなる情報が入手できました場合にはまたご報告させていただき
たいと思いますので、悪しからずご了承下さいませ。
[73] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月14日 15時14分53秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
川井氏にちなみ、かつて訪れたことのある掛川市の倉真(くらみ)にある
「松葉城跡」を思い出しました。市村昭子氏の『ふるさとを見直そう 掛
川史跡散歩』によれば、城主の「河合(川井)宗忠は、勝間田播磨守と鶴見
因幡の守に攻められ滅亡したということであります。
『掛川市史 上巻』によりますと――
「川井を苗字の地として、川井に住んでいた川井氏が松葉城を本拠とす
るようになった契機はよくわからない。ただ、"中遠一揆"の盟主であった
遠江今川氏の範将が、川井を自分の所領としており、遠江今川氏が、その
地域に根を下ろして行く過程で、川井氏は追い出された可能性は考えられ
る。
室町時代末には、川井氏は松葉城を本城とし、初馬城を支城とし、国人
領主制を展開していたが、1496年9月、今川氏親・北条早雲によって
攻められ没落した。
なお、そのときの当主・川井成信であるが、「河合家系譜」では、宗忠
とし、「初め成信」としている。成信を名乗っていた者が、のち宗忠と改
名したという解釈である。しかし、この宗忠は、成信が出家してからの法
号だったのではなかろうか」
『寛政重修諸家譜 巻第千二百一』の川井項によれば――
「今の呈譜にいう。藤原氏にして武智麿呂の後裔なり。中納言宗忠その
父少納言通憲がが平治の乱に興せしことにより、遠江国に配流される。
宗忠が男・平衛尉宗久、頼朝につかえ、遠江国川井村に住せしより、
称号とす。宗久より九代・丹後守忠俊、丹波守忠吉父子、今川家につかう。
その子を次郎兵衛久成という」
と冒頭に記しております。
この中の「宗忠」と、松葉城で自刃した「宗忠」とを最初は混同してお
りましたが、祖と後裔の関係かと思われます。即ち、松葉城の河合(川井)
宗忠もいわゆる川井一統であると思われ、松葉城址を訪れ般若心経を捧げ
たことを改めてよかったとしみじみ思いました。
なお、『寛政重修諸家譜』では、「中納言宗忠」から「川井刑部重長」
までのつながりが確認でき、重長は宗忠の13代孫となります――
[74] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月14日 16時07分08秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>中納言宗忠その父少納言通憲がが平治の乱に興せしことにより、遠江国に配流される。
>宗忠が男・平衛尉宗久、頼朝につかえ、遠江国川井村に住せしより、 称号とす。
>松葉城の河合(川井)宗忠もいわゆる川井一統であると思われ、松葉城址を訪れ般若心経を捧げ たことを改めてよかったとしみじみ思いました。
>『寛政重修諸家譜』では、「中納言宗忠」から「川井刑部重長」までのつながりが確認でき、重長は宗忠の13代孫となります
すごい!
「遠江の川井姓」の方がこのレス<73>をご覧になったら感動ものですね。
平治の乱=平治元年12月9日(1160年1月19日)=の後からだよ
なんて知ったら泣けるでしょうね。
自分の先祖の足跡をハッキリ捉えられるなんてラッキーですよね。
三つ柏さんはホント良いお仕事をなさいました。
服部中家に比重がまたまた傾きました。
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