【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る | 使い方とお願い | 日子の島TOP
 投稿番号:101637 投稿日:2018年06月16日 03時47分51秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏紋の服部さんの代理
長上郡の服部氏族C](課題確認53):110
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101633_67.html
長上郡の服部氏族C\(課題確認52):109
の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


前スレは紆余曲折の後に思わぬ発見が書かれました。
細江の蜂前神社は別名「羽鳥大明神」と分かったのです。


はとりの音は羽鳥であり服部でもある。


『遠江織物史稿』(山本又六著)
蜂前神社(はちさきじんじゃ)について:以下孫写し
 
「由緒 蜂前神社々掌・荻原元良調書抜粋(八田氏は萩原、荻原二家に分かれたと伝えられる。)

旧記に、応神天皇十一年(推定西暦390年)、私達祖・八田毛止恵と申す者、
敕(みことのり)を奉じ遠江国へ下向し、八田(祝田村の古名)四十五町、広田(刑部村の古名)七十町、岩瀬(瀬戸村の古名)八町三反、合わせて百廿三町三反を開墾し、八田郷字神出(此字祝田村にある)に居住、後孫代々氏神蜂前神社に奉仕す、とあり。

抑是を蜂前神社御鎮座の元始とする。

脇宮四柱の大神勧請は、
人皇十九代允恭天皇御宇(推定439〜460)、
熯速日(ひのはやひ)命十二世の孫・麿(麻羅)の宿祢、諸国の織部を惣領し、
服部の連と云うと『姓氏録』に見える。

此の宿祢、此の里に巡回し来たって、養蚕織工等の事業を郷党に教授して大いに此の郷を賑給した。

依って、御本社天照大御神、天上高天原で始め給うた養蚕織工の御神徳に基づき、
宿祢の祖・熯速日命御親子四柱の大神を脇宮に奉斎して、養蚕織工の事業を後世に奨励したと云う。

   〜中略〜 
  
以上、古文書其の他により、蜂前神社が由緒正しい織物に関係深い神社であることが明らかである。

服部の連麻羅の宿祢が指導して開いた織物生産の地域は、蜂前神社氏子の地域で、相当広く又多数の集団であったであろうと察せられる。

麻羅の宿祢が開発以前に此の地方に織物が出来たであろうことが想像せらる。

そう考えると、土地の開発者八田毛止恵の八田は秦氏の一族ではないか。
秦は波多、羽田、幡多等と書かれ、八田もその例であるとも考えられる。
果たして然りとすれば、八田氏が当地方を開発以来、殖桑機織の業をも扶植し、
後、
麻羅の宿祢によって、改良発展せしめられたことと成るが如何であろう。
  

以上、述べる所により、蜂前神社が遠州に於いて、最も古い織物の神社であり、
其の氏子は織物生産の大集団で、遠州織物の先駆者であったと云うべきである。

  〜中略〜

本社を中心として、付近の神社の摂社末社に織物の諸神を祀るものの多いことなどを考え合わせ、
又、今の浜松市豊西町羽鳥の服織神社のことも併せ考えて、
旧中川村、都田村から浜名平野北部にかけて、
庸調時代に養蚕、機織の盛んであったことを察することが出来る。

又、秦氏に関係ある地名の多いことも考え合わすべきである。」


以上を読むと、「酔石亭主」様の「水石の美を求めて 東三河の秦氏 その44
(http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/category43-8.html )」
に書かれている内容を思い出します。
  

なお、蜂前神社は別名「羽鳥大明神」であります。
南が三方原台地、
東へ行くと宮口に出て、
そこからは天竜川大平野であります――


ということで長上郡の服部氏のご先祖さまは秦氏系服織部の服部氏である可能性が見えて来ました。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月16日 23時17分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様、新しいスレッドありがとうございます。

 あを様にはいつも神がかり的なところがあると感じております。即ち、
物事の深奥を時空を超えて見抜く能力……見えないものを見る能力……
それは「霊感が強い」という月並みの言葉ではありますが、それが一番
無難な表現方法かなとも思います。
 
 私は過去二人の霊感の強い女性に出会っております。
 一人は、今から35年位前になりますが、今はときめく「松原照子」
さん(東日本大震災を予知したということで一躍有名になった)に、ここ
浜松のある会議室でお会いしました。経営コンサルタントである私の知人
のAさんが、松原さんの友達で、彼女の悩みごと・相談事を聞いてやって
いました。
 超能力者というのは、ある意味マージナルな人間であり、それは一歩間
違えば変人、頭の病人と誤解されてしまいます。見えないものが見えると
いうは凡人には見えませんので、その凡人の常識から考えればそれはおか
しいのであります。私も凡人でありましたので、ずっと疑っておりました。
ここ数年のことでありますが、彼女の能力は認められるようになり、メジ
ャーな存在になってきました。月刊『ムー』などでもコラムを連載してお
ります。
 もう一人は、高野山で修業した女性の行者さんであります。諸霊と交信
できるという能力を持っていました。私も5年くらい真言密教の修行をさ
せてもらいました。

 あを様が3人目ということになります。そして、あを様のここのところ
の天啓に近い洞察から、私も色々調べてみたところ、今まで全然つながら
なかったいくつかの点と点が、一本の線で結ばれました。

 それを、次回に書きます――
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月17日 03時48分36秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございます。


「羽鳥」について調べました:
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%BE%BD%E9%B3%A5


【名字】羽鳥
【読み】はとり,はっとり,はどり,はねとり,はねどり,うとり,しねとり
【全国順位】 1,209位
【全国人数】 およそ14,500人


現千葉県北部である下総国埴生郡羽鳥郷が起源(ルーツ)である、穂積氏族。
ほか、
現愛知県である尾張藩、
津山藩、現福島県東半と宮城県南部である磐城にみられる。


語源は「はたおりべ(機織部)」に従事する工人ともいわれる。

現在、群馬県、埼玉県、東京都、千葉県、茨城県、神奈川県、新潟県など関東に多くみられる。



ちなみに
服部
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%9C%8D%E9%83%A8


【名字】服部
【読み】はっとり,はとり,はとりべ,ふくべ,ふくい,はった
                            はった?八田・治田・八太・初田・服田
                            ふくい?「はった」は伊賀で見てるから分かるけど「ふくい」は何故に?


【全国順位】 125位
【全国人数】 およそ151,000人

古代の服部伴造の子孫が主流である。
ほかに源・平・藤・橘などの様々な流派がみられる。

著名な氏は現京都府である山城国、現奈良県である大和国、現大阪府、兵庫県である摂津国、現三重県である伊賀国、伊勢国、現愛知県である三河国、現在の東京、埼玉、神奈川の一部である武蔵国などにみられる。


語源は、古代の機織職業部から起こり、地名にも存在する。
服部の居住地が多く、衣類を織る職業姓に属す。

現在も愛知県、岐阜県、三重県に多くみられる。


家紋は矢筈車、菊など。  ← これは平家系伊賀伊勢の服部系ですね
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月17日 12時09分36秒 ) パスワード

横ですが
http://www.yomiuri.co.jp/national/20180617-OYT1T50029.html
服部貞信の引っ越し先の宇治田原の、(全く関係は無い?) お寺の話です。
以下部分コピペ:


「インスタ映え」ハート形の窓、参拝者10倍に
2018年06月17日 11時32分

京都府宇治田原町の正寿院しょうじゅいん客殿にあるハート形の「猪目窓いのめまど」が、若いカップルらの人気を集めている。

 猪目は福を招くと伝えられ、寺社で使われる伝統的なデザインの一つ。2015年に窓ができて以来、インスタグラムに見栄えのいい写真を投稿する「インスタ映え」で話題になり、昨年の参拝者は2万人と設置前の約10倍に。



 祭りがある7月1日〜9月18日以外は予約不要。問い合わせは同院(0774・88・3601)へ。


以上


機会がありましたら宇治田原にもいらっしゃってくださいね。


宇治田原のお寺と神社の案内サイト
http://www.jalan.net/kankou/cit_263440000/g1_20/



そのすぐ近くに家康の伊賀越えで休んだお寺が出ています。
ココ、アヤシイかも。

http://www.jalan.net/kankou/spt_26344ag2132014162/?screenId=OUW1701&influxKbn=0
遍照院

「伊賀超え」道中に家康が立ち寄ったという。
境内の鎌倉時代の無縫塔は町指定文化財。
3月下旬に紅梅の古木が咲く。                 桜かと思った。恥


※掲載されている情報や写真については最新の情報とは限りません。必ずご自身で事前にご確認の上、ご利用ください。


所在地
〒610-0211  京都府綴喜郡宇治田原町奥山田岳谷17 MAP
0774-88-3521

交通アクセス
(1)JR・京阪宇治駅からバスで30分(「維中前」で下車しタクシー利用か自家用車で)
(2)近鉄新田辺駅からバスで30分(「維中前」で下車しタクシー利用か自家用車で)



遍照院からの目安距離
約710m (徒歩約9分)
正寿院
宇治田原町(綴喜郡)奥山田/その他神社・神宮・寺院



今に至るも、いかにも家康が命からがら走ったような趣のある峠

松峠
http://www.jalan.net/kankou/spt_26344af2162046072/?partsScreenId=OUW3131&ccnt=kankou_rec_arnd_rnk&screenId=OUW2201&influxKbn=0
東西の信楽街道と南北の長尾道の交差点、付近は昔ながらの古道の姿をよく残している。

所在地
〒610-0211  京都府綴喜郡宇治田原町奥山田
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月17日 23時27分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、過去に勉強したことをもう一度復習し直し、概観力・統合力を
発揮すべく努力してみました。

 まずは、服部連が結んだであろう「摂津の神服神社」と「遠江の羽鳥大
明神(蜂前神社)」――この両神社の共通点は「熯速日(ノヒハヤヒ)命」を
祀っていることであります。

 「摂津の神服神社」は、服部連一族が創設し、そして神紋は「丸に三つ
柏」であります。
 私も、高槻(旧摂津国嶋上郡)の神服神社に行き、神主さんに何故「柏紋」
なのか訊いてみたのですが、神主さんはわからないと言う。戦乱の歴史も
あった、神主の交代もあったと言う。
 でも、何でこの神紋なのだろうと、今ままでずっと疑問を抱き続けてま
いりました。

 「丸に三つ柏」に関するあを様の推論もあり、私もこのモヤモヤの払拭
したいと思い、何かいいヒントはないものかとインターネットサイトをあ
たってみました。すると、ビックリする記述に巡り合いました。

 それは谷田茂氏の「古代出雲王国 スサノオの光と陰 25 スサノオ
ゆかりの神社・日御碕(ひのみさき)神社」でした。
 (http://blog.livedoor.jp/shig1/archives/117443.html )

 そこには、こうありました――
 「日御碕神社
  出雲の国造りをなされた素戔嗚尊は、根の国にわたり熊成の峰に登る
 と、「吾の神魂はこの柏葉の止る所に住まん」と仰せられ、柏の葉を投
 げ、占いをされた。すると柏の葉は風に舞い、やがて日御碕の現社地背後
 の「隠ケ丘」に止った。これにより素戔嗚命の五世の孫、天葺根(あめの
 ふきね)命は、ここを素戔嗚命の神魂の鎮まる処として斎き祀ったといわ
 れている。日御碕神社の神紋、三ツ柏もこれに由来し、神域の付近から
 は、柏の葉を印した「神紋石(ごもんせき)」と称される化石も出土して
 いる。」

 つまり、「三つ柏紋」は、日本の神々の一番古いところの出雲の国と関係
するスサノオに由来するということであります。

 これにより、いろいろなものの謎が解けてまいります。
 まず、「神服神社」の「丸に三つ柏」紋…熯速日はスサノオの左の足の
中から生まれました。即ちスサノオが祖となります。
 神服神社の神紋が何故「丸に三つ柏」紋なのか、これでわかりました。

 神々の系譜は誰の解説を信頼していいやらわかりませんので、ここで一旦
切ります――
 
[5]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月18日 13時03分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日通勤中の7時58分頃に大阪中心に地震があり、こちらでは震度3を
記録しました。大阪では震度6弱ということで、今後被害が報告されてくる
と思いますので心痛です。
 こちらには、いつか大きな地震が来ると思っておりますが、予知できない
のが難点です……。

 さて、私は、週に3回位、平均して4q位のウォーキングにでかけますが、
コースは、家から約1.5qの所にある羽鳥の「蛭子森古墳」の側を通り、
同じく約2qの所にある「服織神社」に参拝して帰ってきます。
 「服織神社」では、1300年の遠い昔から、この地に土着し、奉斎して
きた祖霊、そして祖神に向かって祈ります。
 気持的には、何回も心を一にしている内に、家族に包まれたような気分に
なってくるので不思議です。これからは更に欠かすことができなくなりそう
です。2qの道のりは、子供の頃はものすごく遠く感じ思いましたが、今歩
いてみるとさほど苦になりません。むしろ近い感じがいたします。ましてや、
昔の車のない脚に頼る時代では、我が庭同然の距離だったでしょう。

 今から思えば、もっと地域や祖先の歴史を色々訊いておけばよかったなあ
と後悔していますが、既に時遅しの感があります。
 ただ、私の家系が属する祖先については、状況証拠から言って、2つ位に
絞られてきたのかなあとは思っております。
 今までの経験から言って、家紋はその家の出自を証明する絶対的なもので
はありませんが、おおよそ今までの調査によって、当家の家紋の由来につい
ては次の2つに絞られそうな感じがしております。本当はまだ発表は早い
(道半ばで)のですが、あえて言えば、可能性として――
 @古代の摂津の神服神社の神主・氏子につながるもの。
 A戦国末期より江戸初期、服部中家の支族が永井(長田)家との通婚により
  もたらされたもの。
 いずれにしても、神主に関係していたのではないかと推測いております。

 今ここで状況証拠をあらんかぎり列挙しても、肯首できるまでには至らな
いと思いますので控えておきますが、いずれにしましても、今後も更に状況
証拠を発掘し、積み重ねて行くつもりであります。

 一つだけ気になっていることは、地元の鈴木氏、加藤氏、松島氏、永井氏
に比べてみますと、服部氏の個体数が少ないということであります。1世帯
は100年経てば、少なくとも5世帯位までには増えると思います。200
年でしたら少なくとも25世帯、300年でしたら100世帯以上に増える
はずなのですが、服部家は現在に至っても10世帯そこそこ……単純に言え
ば、分家として独立できた家が少なかった、男の子が少なく養子に行ったの
が多かった、分け与えられる田畑がどういう訳か少なかった……というよう
なことも考えられますが、真相は不明であります。
 特に古代系でしたら、大族になっていなければおかしいと思うのですが、
全国的に羽鳥・服部郷があっても服部氏は少ないという現象は、ここだけで
はなさそうです。名前を替えたのか?、それは何故?、ということも考えら
れます――

 いずれにしましても、決定的な証左はなく、状況証拠しかありません。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月18日 14時15分34秒 ) パスワード

三つ柏さん

服部哲夫宮司さんにお電話してみたら?


有間ー高槻断層がズレたんじゃないかと?
高槻の話題を出してて高槻断層の名前が出るなんて
なんたる一致。関係無いのにドキッとしました。

神戸の方たちはドキッとしたでしょうね。怖かったでしょうね。
皆さん、あの時の恐怖が蘇ったのでは?と思います。


服織神社(はたおりじんじゃ、はとりじんじゃ)

服織神社 (浜松市) - 静岡県浜松市にある神社
服織神社 (豊川市) - 愛知県豊川市にある神社     豊川って  まさに「穂」の国ですよね
服織神社 - 愛知県一宮市にある真清田神社の摂社   真清田神社は蜂須賀小六の奥さんの実家ですね
服織神社 (鈴鹿市) - 三重県鈴鹿市にある神社     ヲイヲイって感じ。うちのご先祖は伊勢国奄芸郡(津とか鈴鹿あたり)出身の服部宗純だから  笑


服織神社 (鈴鹿市)
〒510-0261 三重県ミエケン鈴鹿市スズカシ御薗町ミソノチョウ2019


http://www.jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=63804
宮司さんは  服部 哲夫さんですって!
059-372-0748(宮司宅)

主祭神
《主》栲機千千姫命 たくはたちぢひめのみこと
《合》息長帯姫命,天児屋根命,国狭槌之命,木花開耶姫命,武御名方命,須佐之男命,大山祇命,大己貴命,伊弉冉命,速玉男命,事解男命,五男三女神,誉田別命,菅原道真,武内宿禰,



由緒
当社の創祀については詳かにし難いが、
江戸時代には八幡社あるいは神明の社と称され近郷の崇敬を集めていた。

社伝及び昭和二七年(一九五二)神社明細帳の由緒欄には、
本社が延喜式内社で、元は神明の社と称し、
また服織神社と申し伝へて来たので、
旧和歌山藩において神社調査が行われた際、 その旨を上申したところ、その後調査されて
式内社服部神社の社号を用いるに至ったとされており、

さらに「古記ニ曰ク」として大永八年(一五二八)の記文を掲げ
「明治八年一二月元教部省二於テ、本社式内ノ社二御確定二相成候旨御達有之候、其他来歴不詳」
と述べられている。

明治四〇年、氏子区域内の無格b社日吉神社以下一一社、同四四十三年には八柱神社他一社合祀している。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月18日 14時30分04秒 ) パスワード

神明神社(しんめいじんじゃ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%98%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE

天照大御神を主祭神とし、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社である。

神明社(しんめいしゃ)、神明宮(しんめいぐう)、皇大神社(こうたいじんじゃ)、天祖神社(てんそじんじゃ)などともいい、
通称として「お伊勢さん」と呼ばれることが多い。



旧和歌山藩

三重県の一部はムカシ和歌山藩だったのですよね。
有名なところでは  吉宗と大岡越前の出会い  でよく語られますね。忠相が吉宗を捕縛したんでしたっけ?
当時は幕府領の伊勢山田と紀州藩の境のことでしょっちゅう訴訟になってたとかで。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月18日 14時59分15秒 ) パスワード

ネットサーフィンしてたら興味深いサイトに出会いました。
それで無断コピペ:


ファットバイクの管理人さん、ごめんなさい。


http://www.morimakoto.com/tag/%E5%A5%84%E8%8A%B8%E9%83%A1
名古屋発! 町の神さま考 奄芸郡

2016年11月16日09:00
【FATBIKE古社巡礼!】伊勢國奄藝郡・服織神社


伊勢国奄藝郡の服織神社とされる神社は鈴鹿市御薗町と津市河芸町にそれぞれ存在する。

                      へぇ〜
                      ビックリ


僕にはどちらが正統な神社かどうかを論ずる資格はないけど、
酒井神社という
両社とは別の神社の境内にまで「服織神社旧跡」碑があるのを見てしまったので、
とても複雑な経緯を経て今日に至っているのだろうなと思った。


                      おそらく機織り部の工人達の神社?


御薗町の集落の端、山際に服織神社は鎮座する。

鳥居の前で写真を撮ろうとしたら、車でやってきた氏子さんが参道の落ち葉掃除を始めた。


                       三つ柏さんも会えるといいですね

「写真の邪魔にならんかったかな」

FATBIKEを押して境内に向かうと優しく声をかけてくださった。
拝殿までは110歩。
まずは参拝。


社名の服織は「はとり」と読む。
金達寿氏は著書のなかで、伊勢国の隣、伊賀国の服部氏について「呉織(くれはとり)」から出たもので、呉織の呉とは高句麗(고구려・コグリョ)のことではないかと書いている。

「呉=句麗」というわけだ。

同じく「はとり」である当社も伊賀のように機織りを業としていた渡来人と関係があるのかもしれない。

しかし境内を歩いてみても現在では機織りを思わせるものは見られない。


なお、拝殿の右手には多くの山神碑がまとめられまつられていた。
由緒によればとても霊験あらたかであるというから、僕も迷わず手を合わせた。



日本の中の朝鮮文化(4) (講談社文庫) [Kindle版]
金達寿
講談社
2015-02-13
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月18日 15時05分10秒 ) パスワード

ということで  酒井神社  を検索しましたが文字化けしています。
鈴鹿サーキットの近くのようです。


http://www.geocities.jp/engisiki/ise/bun/is080706-01.html




窓7の時は文字化けしててもちょっと手を加えると読めたのに
窓8はそれが出来ません。
[10]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月18日 16時27分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 太田亮博士が「長上郡に服部氏の名族あり」と書いたのは、その膨大な
史料の中で確証があったので記載したのだと思います。

 長上郡の服部氏の「名族」とはどんな服部氏であるのか・あったのか…
…古代の中央政府に所属した人、あるいは源平藤橘の出身の著名な服部氏
……。
 この地方に土着した有名な服部氏というと、ちょっと思いつきませんが、
強いて言えば、「服部連」の後裔の服部氏、そして平宗清の後裔である服部
氏ということになるでしょぅか。他には見当りません。
 名族が誰でどの筋であったのか、太田博士の意図した所がわかれば、この
モヤモヤはすっ飛びますのですが――
[11]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月18日 17時17分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 遠江の西遠地区に『はぎ原』という郷土史研究の雑誌がかつてありまし
たのですが、その第21号に松島静雄氏の論文で次のような記述がありま
した――
 「羽鳥には豪華な構え、広大な農地を持った大地主、即ち豪農が数戸
 あった。その一部である服織神社の神主の家の如き、恐らく寺社奉行の
 厚き庇護を受けて荘園が与えられていたのであろうが、それが明治のご
 一新と共に、農地は明治政府に没収され、今までの豪華な生活が一変し
 た哀話は、祖母や母からしばしば耳にした。」

 江戸時代の終盤にでは、羽鳥神社の神主が松島氏であったことは私の
入手した資料の中で特定できます。ただ、松島氏がどこまで神主として遡
れるのかは不明です。1500年代後半に伊奈から下向して来たと推察さ
れますので。

 また――
 「服部(はとりべ)は、大和朝廷に機織の技術を世襲して仕えた人々であ
 るが、大化改新で廃止になったとある。」

 明治初年での土地没収や、大化改新での服部(はとりべ・他?)の廃止に
ついては、ほぼ初耳に近いものでありますので、あを様わかりましたら教
えてください! ――戦後の農地解放はわかるのですが。

 それにしても、松島氏は松島城主の武将の出でありますが、知久氏のよ
うにその行動が歴史に残されていません。また、市野氏もどちらかと言え
は謎に包まれています。両者は羽鳥を中心にして関係していたことは間違
いないことだと思われるのですが、ある意味、謎の氏族であります――
[12]酔石亭主さんからのコメント(2018年06月18日 20時24分28秒 ) パスワード

空の青海のあおさん 丸三つ柏服部さん 

ご無沙汰しております。前スレの

>三つ柏さんのご先祖さまは秦氏系が色濃いということでしょうね。
それで聖徳太子のお子様などの話が関連する。
つまり聖徳太子の時代6世紀の終わり〜7世紀前半には遠江にいたということでしょうね。
ということでもともと遠江の服部一族でしょうね。
で、住んでたのは  都田川〜細江〜羽鳥  あたり?

から今まで分を大変興味深く拝見しました。私が以前検討した部分にも関係してきますので、三つ柏さんのご先祖の動きをエイヤで復元してみます。鍵となるのは聖徳太子、秦川勝、秦楽寺の千手観音、神服神社の服部連、可能性は低いが聖徳太子の子供などですね。

聖徳太子や秦川勝が亡くなって後、秦氏は船で東国に向かいました。行った先は何か所かあり、まず現在のテーマと関係する浜松の馬込川、次が静岡の久能山から安倍川、最後が神奈川の大磯に上陸し金目川を遡り秦野に至りさらに丹沢の山麓に行き着きます。

なぜこの三か所かと言うと、これらの場所は秦氏と関係があり、さらにいずれも千手観音の出現伝承があるからです。秦氏の氏寺・秦楽寺の千手観音は、聖徳太子が百済王から献上されており、あくまで伝説ですが西天竺の仏師毘首羯磨(びしゅかつま、実在の人物ではない)の作とされています。聖徳太子は千手観音を秦川勝に下賜し、秦楽寺に収められて本尊になりました。この千手観音を模したものを幾体か造り秦氏が持ち込んだことから、各地に千手観音出現伝承が成立したと推定されます。またこの船旅には神服神社の服部氏が同行していたはずです。

馬込川に入った船は現在の浜松市中区龍禅寺町辺りに到着します。ここの龍禅寺には593年に聖徳太子が馬込川河畔で千手観世音菩薩出現のお告げを受けた、千手観音が海から出現したと言った伝説があります。ただ593年は推古元年で聖徳太子が摂政に就任した年となり、聖徳太子自身が浜松に行くのはとても無理なことから、伝承はやはり秦氏が持ち運んだものとするしかありません。聖徳太子伝説・信仰は秦氏と秦氏系の木工業者が広めたものであり、この話はその一環とも言えそうです。

龍禅寺町付近から川を遡ると半田山(半田は秦氏地名)となりますが、旧名は舟岡山で京都の船岡山の地名を持ち運んだと思われ、船岡山(京都)の麓には秦氏系の命婦稲荷社、義照稲荷神社などがあります。鎮座場所が不明確な朝日波多加神社に関しては、六所神社が論社かどうかは別として、半田山周辺にあったと推定されます。波多加は秦家の転化で、秦氏の集中する東京の久我山には「はだか稲荷」があり本来の名前は秦家稲荷とされ、これと同パターンでしょう。

半田山までくれば蜂前神社まではすぐの距離となります。『遠江織物史稿』にある同社の由来はほぼ間違いなく神服神社のコペピです。蜂前神社の応神天皇11年に八田毛止恵が東国に下向云々は、神服神社の、応神天皇の御代(14年から16年頃)、弓月君に率いられた渡来人の中に祭神の祖・麻羅氏がいたと言う話の変形でしょう。八田が秦の転じた名前だとして、秦氏の渡来以前の11年に八田の名前の人物が登場できるはずがありません。

弓月君に率いられた主力は秦氏ですから、麻羅氏と秦氏は密接なはずで、神服神社の服部連が麻羅氏を媒介として秦氏に近い存在(秦氏配下)になったとしても違和感はありません。また蜂前神社の允恭天皇云々は神服神社の由緒内容と同じになります。秦氏と服部連の関係及び両者が聖徳太子や秦川勝の死後に東国に向かった前提で考えると、蜂前神社の実際の創建は彼らが浜松に来た時点以降と推定され、大化元年の645年辺りかと思われます。日本各地に神社が建てられ始めたのもこの頃ですから、その意味でも整合性はあります。(秦川勝が603年に創建した蜂岡寺(広隆寺の前身)にも蜂があり、何となく関係性が匂います)

馬込川の東側は聖徳太子の王子を匿った伝承のある貴平の八幡神社や、織物の中心地笠井観音(伝承は龍禅寺のイメージを取り込んでいるように思えます)、服織神社などがあり、結局それらすべての中心軸に馬込川があるのではないでしょうか?

聖徳太子の子には波止利(はとり)女王と言う女性、羽鳥、服部、秦とイメージが重なっているような雰囲気もあります。とは言え、貴平の八幡神社の伝承は秦氏が持ち込んだものと推定され、事実である可能性は低く、これも聖徳太子伝説の一つになりそうです。

以上から三つ柏さんのご先祖は、弓月君に率いられてきた麻羅氏子孫の麻羅宿祢より技術指導を受け、秦氏の配下だった神服神社の服部連が聖徳太子と秦川勝の死後に秦氏と共に浜松に来て馬込川を遡り、600年代の前半頃羽鳥庄に定着された方となります。これでモヤモヤは消えましたか?

ややこしい部分は、麻羅宿祢と秦氏、服部連の関係です。高槻市の郷土史家は弓月君に率いられた人々の一人が麻羅氏で、彼の子孫の麻羅宿祢は秦氏をとなえるようになり、秦氏が服部連の姓を朝廷から授かったと書き、麻羅宿祢=秦氏=服部連としています。

そういう見方も可能でしょうが、現実的には麻羅氏から機織り技術を指導された地元民が服部を称し、麻羅氏は秦氏と同じ渡来伝承を持つことから、服部連は秦氏に親近感があり、秦氏配下の服部連となって、東国への船旅にも同行した、と言ったところでしょうか。この辺は微妙なので解明はお任せします。郷土史家の論考は以下を参照ください。誤りもありますが、よく書けています。
http://sokemuku.lolipop.jp/furusato_qing_shui_de_quno_li_shi/shen_fu_shen_sheto_ji_li.html

さて、馬込川を遡って定着したのは秦氏本隊の一部(及び服部氏)と推定され、本隊はさらに東に向かいます。龍禅寺と似たような千手観音の出現譚が秦久能(秦川勝の二男或いは孫)の久能山付近にもあり、安倍川沿いに羽鳥や麻機の地名、木枯神社などがあります。さらに東に行くと神奈川の大磯にも出現譚があって、最終的には大磯から金目川をさかのぼった秦野の宝蓮寺(秦川勝の石碑がある)へと繋がっていき、いずれも秦氏の関係地となります。

「駿国雑志」には秦久能の伝説が掲載され、一方宝蓮寺の縁起には秦の始皇帝の子孫の話から始まり、秦久能から秦野に至るまでの伝説が記載されています。かなり雑ですが「大磯・高麗山の秦氏 その7」でこれらに関連する記事を書いていますのでご参照ください。

上記した浜松における殆どの神社やお寺はお二人とも既に熟知されているでしょうが、私は全体のストーリーの中で位置付けしていますので、三つ柏さんのご先祖探求の一助になれば幸いです。ただ本記事は大雑把なものなので、是非地元情報やその他の関連情報をもっと集め、肉付けしていただければと期待しています。

なお、新城市大野の服部神社(赤引きの糸関連)に関して、解説板にはこの地が大化元年の645年頃に服部郷と称されたとあり、年代的に秦氏が馬込川に行った時期と合致しています。また、豊川の河口は秦氏が多いので、こちらも浜松の前に秦氏と服部氏ご一行が船で訪問した可能性はありますが、千手観音出現譚がないため一応外した次第です。

>「服部(はとりべ)は、大和朝廷に機織の技術を世襲して仕えた人々であ
 るが、大化改新で廃止になったとある。」

???私も初耳。朝廷に仕えることが廃止になったので秦氏に頼み込んで各地に散ったのかも…。朝廷に仕えなくなっても機織りの職能民服部氏は存在し続けて活躍したのでしょうから問題はないのでは?


[13]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月19日 00時53分17秒 ) パスワード

酔石亭主様
空の青海のあを様

 酔石亭主様、お久しぶりです。こちらのサイトも時々見ていただき、
心強い限りであります。酔石亭主様のレベルはすごく高い(深い)ので、
浅薄雑多な知識のわたくしには、天の声のように感じられます。

 本日6.18は、正に忘れられない日となりました。神服神社と地震
と酔石亭主様の服部連に関するご教示が、正にクロスオーバーした日
ということで、激しさと驚きと、天啓と悲哀の一日でありました。

 高槻市の例のブロック倒壊の寿栄小学校は、神服神社のほぼ真南4.5
qの所にあります。
 高槻には4年前に車で行き、神服神社を訪れ、宮司さんにお話を聞い
たり、服部連塚へ行って祈りを捧げたり、今城塚古墳、高槻城跡、野見
神社、永井神社等を見てまいりました。私にとっては、高槻は何か故郷
のような感じがしていました。
 そんな高槻に地震が来るなんて夢にだに思いませんでした。亡くなっ
た方々にはこころからお悔やみ申し上げ、被害に遭った人々には心から
お見舞い申し上げたいと思います。

 酔石亭主様には、とりあえず御礼申し上げ、本日いただきましたご教示
を何度も読んで理解し、さらに想像をふくらめたいと思います――
 
[14]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月19日 23時27分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様
酔石亭主様

 6月18日…6.18…618…魔法陣みたいな数字になりました。私に
とっても、ある意味激震の日になりました。ポイントは服部連と神服神社
の神主か一族・氏族でしょう。酔石亭主様の言われるように、「流れ」を
より深く把握することができれば、一つ一つのコマがつながって来て、そ
れぞれがそれなりの意味を持ち始めるという可能性が出て来ます。今まで
つながらなかったものが、納得できるストーリーとして立ち上がる……。

 そんな感じがしてきました。一度それらを整理してみます。

 ――サッカーワールドカップを見ながら、いろいろ考えていました……。 
 
 
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月20日 02時03分56秒 ) パスワード

酔石亭主さん

このところの数年、大変お世話になっております。
高度な知識の公開をありがとうございます。


>大化改新で廃止になったとある

これは多分  「部」の廃止  のお話だと思います。

Q
中大兄皇子と中臣鎌足が大化の改新で何をしたか?

A
1つには「部」の廃止

このことかなと。
氏姓制度を廃止したり豪族の力を削いだり????だったような。

学生時代にこの辺りの授業をやったもののサッパリ記憶に無し。
班田収授の法とか口分田とかの単語は記憶にあるけれど  中身はサッパリ記憶に無し。

まさか21世紀に大化の改新は豪族や民にどんな縛りが行われたのかを思い出す機会が出て来るとは。
全く思い出せない。
テキトーに聞き流してたから。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月20日 03時13分32秒 ) パスワード

ということで  大化の改新  をウイキで見て来ました。
これで  古墳時代の終わり  という政治的背景もハッキリしました。

                       どーしてなのかなー、と思っていたので。
                       ワタシ的には現在の冠婚葬祭の質素化が古代にも行われていて
                       経費削減贅沢禁止で古墳は造りたくても作れない時代になっていた
                       と思ってました。バカ


メンバーもすっかり忘れていました:

天皇     孝徳天皇、
皇太子    中大兄皇子
左大臣    阿部内麻呂臣(あべのうちまろのおみ)、
右大臣    蘇我倉山田石川麻呂、
内臣     中臣鎌足
国博士    高向玄理、
国博士    旻


鐘櫃(かねひつ)の制を定める。また、男女の法を定め、良民・奴婢の子の帰属を決める。

                       そうそう、奴婢なんて忘れてた


9月には、古人大兄皇子を謀反の罪で処刑した。
古人大兄皇子は蘇我氏の血を引いていて、入鹿によって次期天皇と期待されていたが、乙巳の変の後に出家し吉野へ逃れていた。


                       古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ、
                       生年不詳 - 大化元年9月12日(645年10月7日))

                       飛鳥時代の皇族。
                       舒明天皇の第一皇子。
                       母は蘇我馬子の娘・蘇我法提郎女(ほほてのいらつめ)で
                       大臣・蘇我入鹿とは従兄弟に当たる。

12月に都を飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮へ遷都。


すっかり忘れていたのでコピペ:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8C%96%E3%81%AE%E6%94%B9%E6%96%B0

大化の改新

飛鳥時代の孝徳天皇2年(大化2年)春正月甲子朔(西暦646年)に発布された改新の詔に基づく政治的改革。

改新の詔は、ヤマト政権の土地・人民支配の体制(氏姓制度)を廃止し、天皇を中心とする律令国家成立を目指す内容となっている。


この政治改革は、皇極天皇の皇居における蘇我入鹿暗殺により、当時天皇を次々と擁立したり廃したりするほど権勢を誇っていた蘇我氏を滅亡させた乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)から始まった。

当初、飛鳥から難波への形式上の遷都が行われたが、改革そのものは、天皇ではなく、皇極太上天皇とその親友とされる中臣鎌足(内臣)の主導のもと、年若い両皇子(中大兄、大海人)の協力によって推進された。

                       へぇ〜

この改革によって豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされている。

また「大化」は日本最初の元号である。

この改革により、「日本」という国号と「天皇」という称号の使用が始まったとされる。
                       
                      へぇ〜
                      全く覚えていなかった

以下もビックリでした:

大化2年(646年)1月に改新の詔を出した。
この改新の詔を以て大化の改新の始まりとする。

ただし、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が1967年12月に掘り出され郡評論争に決着が付けられたとともに、改新の詔の文書は『日本書紀』編纂に際し書き替えられたことが明らかになり、大化の改新の諸政策は後世の潤色であることが判明した。

                      あら、そう
                      ビックリ


この時代に改革に向けた動きがあったことは確かとはされているものの、
律令国家建設と天皇への中央集権化は乙巳の変以前の推古天皇、聖徳太子・蘇我馬子の功績であり、

                      これも忘れてた

書かれていることは史実ではないことに注意する必要がある。[1][2]。



詔として出された主な内容は以下の四条である。

1.
それまでの天皇の直属民(名代・子代)や直轄地(屯倉)、さらに豪族の私地(田荘)や私民(部民)もすべて廃止し、公のものとする。(公地公民制)

2.
初めて首都を定め、畿内の四至を確定させた。また今まであった国(くに)、'県(あがた)、郡(こおり)などを整理し、令制国とそれに付随する郡に整備しなおした。

国郡制度に関しては、旧来の豪族の勢力圏であった国や県(あがた)などを整備し直し、後の令制国の姿に整えられていった。

実際にこの変化が始まるのは詔から出されてから数年後であった。


3.
戸籍と計帳を作成し、公地を公民に貸し与える。(班田収授の法)

4.
公民に税や労役を負担させる制度の改革。(租・庸・調)


また詔の四か条に無いが、その他の制度に対しても大きな改革が行われている。


薄葬令
今まで陵墓は自由に作ることができたが、作ることの出来る陵墓を身分に合わせて規定し直した。殉死の禁止や、天皇陵の造営に費やす時間を7日以内に制限するなど、さまざまな合理化・簡素化が進められた。この薄葬令によって事実上、古墳時代は終わりを告げることになる。


習俗の改革
男女の法の整理
交通問題の解決


伴造、品部の廃止と八省百官の制定
従来の世襲制の役職であった伴造や品部を廃止し、特定の氏族が特定の役職を世襲する制度を廃止した(たとえば、物部氏であれば軍事を司り、中臣氏であれば祭祀を司る、など)。これと八省百官の制定によって、より能力主義的な官僚制への移行が行われた(しかし祭祀などの面では、中臣氏がこれを行うというように世襲制が残った役職もあったようである)。


大臣、大連の廃止
大臣・大連は、廃止になり、代わりに太政官が置かれ、左大臣・右大臣に置き換わった。大臣は臣の姓(かばね)から、大連は連の姓から出されることになっていたが、左大臣・右大臣(後に付け加わる太政大臣)などでは、臣・連の制約が無くなった。


冠位制度の改訂
聖徳太子の制定した冠位十二階を改定し、大化3年(647年)冠位十三階→大化5年(649年)十九階→天智3年(664年)二十六階へと改めた。これは従来、冠位十二階に含まれなかった、大臣・大連などを輩出する有力氏族を冠位制度へ組み込み、天皇を頂点とした中央集権的な序列をつける為の改革だと思われる。冠位の数が年々増加していったのは、膨大な人員を必要とする官僚制への切り替えにより、行政実務を担う下級官僚に与える冠位が不足したからと推測できる。(冠位・位階制度の変遷)


礼法の策定
職位に応じた冠、衣服、礼儀作法を制定した。冠位により身につけることの出来る衣服や礼法が決められた。

冠位のない一般の良民は白い衣を身につける事とされ、これは白丁と呼ばれた。
                       韓流ドラマの ペクチョン 見たい
   

大化の改新には、遣唐使の持ってきた情報をもとに唐の官僚制と儒教を積極的に受容した部分が見られる。しかしながら、従来の氏族制度を一挙に改変することは現実的ではないため、日本流にかなり変更されている部分が見受けられる。

政治制度の改革が進められる一方で、外交面では高向玄理を新羅へ派遣して人質を取る代わりに、すでに形骸化していた任那の調を廃止して朝鮮三国(高句麗、百済、新羅)との外交問題を整理して緊張を和らげた。唐へは遣唐使を派遣して友好関係を保ちつつ、中華文明の先進的な法制度や文化の輸入に努めた。また、越に渟足柵と磐舟柵を設けて、東北地方の蝦夷に備えた。

ただ、改革は決して順調とは言えなかった。大化4年(648年)の冠位十三階の施行の際に左右両大臣が新制の冠の着用を拒んだと『日本書紀』にあることがそれを物語っている。翌大化5年(649年)左大臣阿倍内麻呂が死去し、その直後に右大臣蘇我倉山田石川麻呂が謀反の嫌疑がかけられ、山田寺で自殺する。後に無実であることが明らかとなるが、政情は不安定化し、このころから大胆な政治改革の動きは少なくなる。650年に年号が白雉と改められ、この改元をもって大化の改新の終わりとされた。


1割ぐらいしか記憶になかった・・・
[17]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月20日 14時15分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私のテーブルの上に、「百年の孤独」という宮崎県の轄楓リ本店の焼酎
があります。長い間熟成させたやや琥珀色のまろやかなお酒であります。
最近ではプレミアがついてちょっと手に入らない程になってしまいました。

 「百年の孤独」――これは日本の歴史の暗闇(くらやみ)にも例えられる
かも知れません。

 この日本の歴史の暗部の100年とは――
 ・622年 聖徳太子没
 ・643年 蘇我入鹿による山背大兄王殺害
 ・645年 「乙巳の変」のクーデターによる入鹿の殺害
 ・646年 「大化の改新」の詔
 ・672年 「壬申の乱」による政変
 ・690年 持統天皇の即位
 ・701年 「大宝律令」による律令制強化
 ・712年 『古事記』選上 
 ・713年 『風土記』
 ・720年 『日本書紀』選上
のことであります。

つまり、この100年間の流れというものはすべて関連しており、中臣
(藤原)鎌足から藤原不比等の2代にわたっての、日本の支配体制の確立と
歴史の塗り替えであったと言えます。

 最後のフィニッシュは、何といっても『日本書紀』でしょぅ。「100
年の孤独」どころか、その後日本の歴史を「1300年の孤独」に陥れて
しまいました。

 詳細についてはとてつもなく長くなるので止めておきますが、中見利男
氏の『出雲大社と千家氏の秘密』他を本日読み直してみたところ、不比等
による日本の歴史の大々的かつ巧妙な塗り替えがよくわかりました。

 これを良しとするか否とするか、これも評価はわかれますが、私として
は、ただ真実・真理を知りたい(これは人間の本性でしょぅか?)―いつも
切に願っています――
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月20日 14時58分08秒 ) パスワード

三つ柏さん

「百年の孤独」
いいネーミングですね。

こんなの飲みながら「百年の孤独かぁ・・・」などとしんみりしたら
アル中街道まっしぐらでしょうね。
ふふふ
お酒は泣きながら飲んではいけないですよ、楽しく楽しく飲まなきゃ。
あはは


わたくしも中見利男さんのご本を読み直してみますね。
明日はトラストの書き直しの件で弁護士と会う予定で、その後は銀行に行って暫くバタバタするので落ち着いてからですが。



ワタクシの場合は大化の改新の部分を読み返して
なるほどな〜
日本の慣習の基礎がこの時に確定したのか
と、そういう思いに耽っていました。

例えば
薄葬令の「天皇陵の造営に費やす時間を7日以内に制限する」なんて
まるで「庶民のお前達も忌中は7日を目途とせよ。7x7の49日までに」と言ってるようじゃありませんか。

      神道の喪って1年、なんて話で
      喪が明けるまでの1年間はおめでたい事は禁止
      という縛りで秋篠宮ご夫妻の婚約やら結婚が叩かれてました。


そうか・・・初七日の 7 って・・・薄葬礼から出てるのかな、と。


今日はそんなことを考えていました。
[19]酔石亭主さんからのコメント(2018年06月20日 20時57分06秒 ) パスワード

空の青海のあをさん 丸三つ柏服部さん

『神服神社の服部連が麻羅氏を媒介として秦氏に近い存在(秦氏配下)』などと書いてしまいましたが、服部連は各国の織部を総領し朝廷に織物を納める立場でしょうから、彼らが秦氏に近いにせよ配下にはならないはずで、私の勇み足です。今で言えば服部連の顧問か社外取締役と言ったところでしょうか。

秦氏と服部氏の関係は以前に東三河の秦氏でも書いたように、色々なパターンが想定されるので確実なことは言えません。いずれにしても、混乱を招いたかもしれない記述をお詫びします。

[20]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月20日 22時59分29秒 ) パスワード

酔石亭主さん

>色々なパターンが想定される

はい、可能性の幅が大きいですよね



>混乱を招いたかも

いえいえ
三つ柏さんには  捜す情報がかなり見えて来て  情報の入手先が絞り易くなったということだと思います。


大化の改新までに職業の開放が起きていて
工人が(織物業の就業者が)一般化してて
秦氏の専売ではなくなっていて
日本ではどこでも誰でも開業就業できるようになっていたのかもですね。

そして後の平安京の造営に力を貸して後に忽然と日本史から消える秦氏。


歴史の流れの中でそこら中に服部という地名が名付けられそこに住む人は服部と称してわけわからなくなっていったのでしょうね。


酔石亭主さんに捜す方向性を書いて頂いて三つ柏さんは原点がハッキリ見えて来た
ということですよ。


わたくしも紆余曲折で迷子になってましたから。
感謝です。
[21]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月21日 12時35分37秒 ) パスワード

酔石亭主様
空の青海のあを様

 お心遣いに感謝申し上げます。

 私も秦氏については随分調べておりますが、その結果として、あらゆる
可能性を排除しないという心構えはできております。

 昨日は、久しぶりに大和岩雄氏の『秦氏の研究』と、高槻の古藤幸雄氏
の『近世摂津國嶋上郡 服部村の研究』等に改めて目を通しておりました。

 ただ、秦氏も古代史と同じで、調べれば調べるほど諸説が出てきて、結
局はわからなくなります。その岐路は、秦氏を単なる渡来人とみるか、あ
るいは「ある目的を持った」渡来人とみるかという点であります。いわゆ
る、"モードやグラデーション"により、秦氏に対する表現・解釈が全然変
わってしまうということです。

 ただ、酔石亭主様のようなフィールドワークの研究資料は少ないので、
大変貴重に思っております。できれば酔石亭主様の秦氏に関する記述が全
部閲覧できることを願っております(インターネットでは検索できないもの
もたくさんありますので)。あるいは、本にしていただければ一番に購入さ
せていただきたいと思います。

 古藤氏の摂津高槻の服部村についての研究は、特に服部氏に関する研究
ではなく、いわゆる「村史」であります。麻羅、麻羅宿祢、服部連につい
ての記述もありますが、常識を超えるほどのものではありません。
 わかりやすい表現が多いですが、果たして本当なのか―と思う所もあり
ます。

 しかしながら、「服部村」についての研究は他にはないでしょぅし、大変
貴重な労作であります。できれば、「服部連についての研究」に絞って研究
していただきたいと思います。国会図書館かどこかにそんな研究論文があれ
ば、是非見たいものです。

 服部連は姓(かばね)でありますので、いわゆる世襲制か……一族の呼び名
としての姓(せい)になったのだと思いますのですが。従って、複数の服部連
は分家筋として存在した……?
 一方、役職としては、「織部司」、こちらは中央統括官みたいなものか、
従ってトップとしては一人のみの存在であったか……?

 やがて、服部連氏は「神服部」氏と呼ばれ、「神服」とも表記され、また
どういう訳か、神服神社については「しんぷくじんじゃ」と呼ばれるように
なった。
 ここら辺の経過、その背景・状況というものは、是非明らかにしたいもの
だと思っています――
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月21日 13時18分53秒 ) パスワード

三つ柏さん


法というのは日々作られ、その割に抜け穴があり、結局、法って?



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8_ (%E5%93%81%E9%83%A8)

品部の服部の中にこんなのが1番下に書かれていました:

「服部」などの部は、大化の改新によって大半が解放されたが、
律令体制において、渡来人系の一部の「部」は引き続き拘束され、大蔵省の被官である織部司などに属した。


                       結局、なんなのさっ!笑


ということで以下に全文コピペ:



服部 (品部)

服部(はとりべ)は、大化の改新以前に機織の技術をもって朝廷に仕えた品部。

「機織部」(はたおりべ)が転訛したもの。
のちに「部」(べ)の音がとれ、「促音」が入って、「はっとり」とも発音されるようになる。


概要

「服織」(はとり)とは、「機織(はたおり)」の約言で、機(はた)を織ること、および、それを生業とする人を指す。

服部首のような地方の伴造に統率され、
「服部」全体を中央の「服部連氏」が伴造氏族として管掌し、朝廷に織物を納めた。

『新撰姓氏録』では、摂津国の「服部連」は允恭天皇の時代に織部司に任じられ、諸国の織部を総領した、となっている。


                       つまり高槻の神服神社が1番位が上?


『和名類聚抄』によると、「服部」の住む「服部郷」は西海道(九州)を除いて日本全土に広く散在している。

                       へぇ〜
                       これまた何で?



和銅6年(713年)まで調を納めてなかった武蔵国、および延喜式の制定時まで同じく調を貢納していなかった安房国、佐渡国を含むことから[1]、絹ではなく麻布などの植物繊維の製品を生産したことが推察される。


朝廷の織部としては他に、
神服部(かんはとりべ)、
殿服部(とのはとりべ)、
倭文部(しとりべ)、
長幡部(ながはたべ)などがあり、

伊勢国の神服部は伊勢神宮に奉納する秋冬の神衣(かんみそ)を担当するなど、特定の職務に従事した。

のちに渡来人系統の呉服部(くれはとりべ)、衣縫部(きぬぬいべ)などが設置された。


記録

『古事記』によると、
開化天皇の皇子、日子坐王(ひこいます の おおきみ)の子供である神大根王(かむおおね の おおきみ)には、
「三野国の本巣国造・長幡部連の祖」という注があげられている。

また、応神天皇の御世に、
百済より「手人韓鍛(てひと からかぬち)、名は卓素(たくそ)、亦呉服(くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上(たてまつ)りき」とある[2]。


『日本書紀』巻第十によると、
応神天皇は妃である兄媛が親を思って悲しんでいるのを気の毒に思い、
吉備国の実家へ帰らせた[3]。

その後、様子をうかがおうと半年後に狩猟にかこつけて淡路島から吉備へおいでになり、小豆島へ旅行した天皇一行は、葉田葦守宮(はだ の あしもり の みや)にやってきた。

そこで吉備臣の祖先である御友別(みともわけ)一家の歓待を受けた天皇はその恩に報いるために、彼の息子らに吉備国を分割して授け、
御友別の妹である兄媛には「織部」(はとりべ)を与えた、とある[4]。


応神天皇の時代には、
阿知使主(あち の おみ)父子が南朝に使いをして、兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)・呉織(くれはとり)・漢織(あやはとり)の4人の工女を連れ帰っている[5]が、
このことからも、大陸の文明によって機織の技術が進歩したことが窺われる。


染織史研究者の太田英蔵の研究によると、
5世紀の古墳から出土した絹布は、筬(おさ)を使って織られたものではなく、
漢代の画像石に見られるような古い布機か、
それ以前の道具を使ったと考えられる。

ところが、6世紀の中頃の古墳から出土したものでは、筬が用いられたことが分かり、六朝時代の絹機や布機によって織り上げられたものだと思われる。


機織り機の進歩により生産性も良くなり、原始機では一月に一疋だったものが、十数疋を織り上げられるようになったようである。

そして、余ったものは支配者へ貢納され、さらに残されたものが交易に用いられたのではないか、と推定される[6]。



その後の経緯
「服部」などの部は、大化の改新によって大半が解放されたが、律令体制において、渡来人系の一部の「部」は引き続き拘束され、大蔵省の被官である織部司などに属した。

                        技術があるというのも哀しいものなのですねぇ。


脚注
1.^ 平城宮木簡には「上総国阿波郡片岡里服織部……」とある。
2.^ 『古事記』中巻、開化天皇条、応神天皇条
3.^ 『日本書紀』応神天皇22年3月14日条、4月条
4.^ 『日本書紀』応神天皇22年9月6日、10日条
5.^ 『日本書紀』応神天皇37年2月1日条
6.^ 『日本の歴史1 神話から歴史へ』p422 - 423、井上光貞:著、中央公論社、1965年


参考文献
『角川第二版日本史辞典』p778、高柳光寿・竹内理三:編、角川書店、1966年
『岩波日本史辞典』p943、監修:永原慶二、岩波書店、1999年
『姓氏家系大辞典』第三巻p4795、太田亮:著、角川書店、1974年
『古事記』完訳日本の古典1、小学館、1983年
『日本書紀』(二)、岩波文庫、1994年
『日本書紀』全現代語訳(上)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
『日本の歴史1 神話から歴史へ』、井上光貞:著、中央公論社、1965年


関連項目

部民制
呉織
応神天皇
雄略天皇
長幡部神社 (常陸太田市)
[23]酔石亭主さんからのコメント(2018年06月21日 20時40分20秒 ) パスワード

三つ柏服部さん

>できれば酔石亭主様の秦氏に関する記述が全部閲覧できることを願っております(インターネットでは検索できないものもたくさんありますので)。

えっ、私の書いたものはブログが全てで、全部閲覧できますよ。左端のコラムにカテゴリ分けしていますので、クリック頂けば全部見られます。できますれば、秦氏関係の前に「人類進化の謎を解く」から読み進めていただければと思います。宇宙の開闢、生命の発祥、人類の発祥、日本人の特殊性の発祥にはすべて同じ構造があり、それらが秦氏のありようにリンクしていくと言った構成になっていますから…。その上で、各地の秦氏をご覧ください。

まあ、前段(総論)部分は一応論理的に書いてはいますが、トンデモファンタジーかもしれませんし、各論となる各地の秦氏も大した内容ではありません。後で読み返すと間違っていると思うこともしばしばです。単に個人的な興味(趣味)で書いたものに過ぎませんが、多少のご参考になれば幸いです。
[24]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月21日 23時01分36秒 ) パスワード

酔石亭主様

 ありがとうございました。すべて閲覧できました。

 私の無知無能さを恥ずかしく思います。5つのスクリプトのブロックごと
に、フラッシュバック形式で遡って行く……この形式を私は理解していなか
った。ここに私の思い違いと失敗の原因がありました。

 それにしましても膨大な研究資料、驚嘆いたしております。
 その貴重な資料をふんだんに読ませていただくこと、恐れ多くも有り難く
感謝申し上げます。

 それでは、これから拝読させていただきます――
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月22日 13時40分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 古日本の古代の国の支配体制と宗教形態の関係、大変参考になりました。
 ありがとうございました。アナログ思考かデジタル思考かの違いにも似て
いるような気もいたしました。日本の外から見ていると、日本の特徴がよく
わかるのではないですか? また教えて下さい!

 さて、以前、山梨県のある山間ゴルフ場でプレイしたことがありますが、
その日は霧が一面に垂れ込んで、10m先が見えない。キャディさんに打
つべき方向と距離だけ教えてもらい、ボールを霧の中に打ち込む。そして
打った方向に歩いて行ってボール探す。見つかればしめたもの、なければ
OBといった具合でヒヤヒヤものでした。 
 古代史の探求もまるで同じようなものだと思いました。霧の中の手探り
であります。霧が深ければ深い程、探す時間もOBの数も多くなってしま
います。

 そんなことを思いながら、この地域の歴史を概観してみました――

 東国というと、関東・東北のイメージがありますが、中世までは三河、
そして地つながりで遠江、つまり浜名湖や天竜川という障害が東へ行くの
を遮るというマージナルな地帯だったのではないでしょぅか。

 @この地域には、まず安曇族・海人族が足を踏み入れました。
 A続いて、出雲族、また土師部がやって来ました。
 B続いて、物部族の到来。
 Cさらには、秦氏・漢氏の到来がありました。
 以上は、『静岡県郷土研究』第8巻によるものです。

 まだ始めたばかりですが、用事で中断いたします――
[26]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月23日 06時38分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、半田山といわれる三方原台地の南東端のふもとにある六所神社に
始めて行って来ました。ここ半田山には、浜松医科大学ができていて、その
登り口に鎮座しております。
 境内への階段を上ると、木陰から平野部が見渡せました。鳥居の扁額には、
「朝日宮」と書かれておりました。つまり、ここが昔の式内社朝日羽多加神
社だろうという説が有力であります。
ここから北へ2q程行くと内野の「赤門上古墳」という前方後円墳その他が
ありますが、ここからは「三角縁神獣鏡」が出て、大和朝廷との関係が濃厚
であったと言われております。
 前レスで書きましたが、この辺にやってきた渡来人はいろいろあって、内
野の方は一説によれば東漢氏なのかも知れません。ここ半田山にも古墳があ
り、秦氏か土師氏か、ここから東へ6q程行くと、羽鳥の蛭子森古墳、服織
神社がありますので、秦氏色が濃くなります。羽鳥の南東の池田庄は、秦氏
の松尾大社の荘園でありましたので、なおさらであります。
 もっとも、これはとりあえずの心象風景のようなものでありますので、古墳
の情報を元に推測するのが確かな方法だとは思います。
 私的には、川原の微高地にあっただろう蛭子森古墳――これが不思議な存在
として、私の謎解きのテーマの一つであります。たぶん丹後王国につながる
のではないかと推察しております――
がありますので、
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月23日 13時10分44秒 ) パスワード

三つ柏さん

     今日はPCが不調で瞬殺されそうでオソロシイ


>式内社朝日羽多加神社

http://books.google.com/books?id=r90tAAAAYAAJ&pg=RA10-PA39&lpg=RA10-PA39&dq=%E6%9C%9D%E6%97%A5%E7%BE%BD%E5%A4%9A%E5%8A%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=0X7WMJIGrF&sig=r2HDWpQbFqHRf9IXgA9yn5o1JQw&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjL37iL8ujbAhXmjFQKHXNKAyEQ6AEIKTAA#v=onepage&q=%E6%9C%9D%E6%97%A5%E7%BE%BD%E5%A4%9A%E5%8A%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

朝日羽多加神社の前に羽鳥の服織神社=波登利と読む=が紹介されてて面白い記事が出てます。

今若一王子権現と称す
豊田郡に属す

大和国城下郡服部神社の條  見合すべし

オソロシイのでここでアップ
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月23日 13時13分14秒 ) パスワード

つまり 羽鳥の服織神社について知りたかったら 大和国城下郡服部神社 を調べろ、と?

ここでアップ
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月23日 13時29分28秒 ) パスワード

大和国城下郡服部神社
http://www.y-tohara.com/nara-hatori.html


管理人さん
無断コピペ
ごめんなさい。



服 部 神 社

村屋坐弥富都比売神社境内摂社

奈良県磯城郡田原本町蔵堂

祭神−−天御中主神 天御鉾神
                                   2014.03.27参詣



 延喜式神名帳に、『大和国城下郡 服部神社二座 鍬靱』とある式内社だが、今は村屋坐弥富都比売神社の摂社として、境内の左奥(本殿域西側)に鎮座する。

 服部は“ハトリ”と読むことが多いが、当社では“ハットリ”と呼んでいる。


※由緒

 社頭に掲げる案内には、
  「服飾関係を司る神である。

 これより西2kmばかりの所に、大安寺村字神来森(カキノモリ)という土地がある。そこに鎮座して波登里村(ハトリ)・阿刀村(アト)の氏神であった。


                      弘法大師の母上のご実家の氏神?
                      ヲイヲイ、ですね

                      佐伯真魚
                      宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)で生まれた。
                      父は郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、
                      母は阿刀大足の娘(あるいは妹)[2][3]、
                      幼名は真魚。


                                 わたくしの母の母方に繋がる???



 祭礼には、氏子が盆に綿を盛り、その上に十二祷を乗せてお参りした風習があった。
今は、綿の栽培がなくなったので、此の風習はなくなった。


 元弘年間(1331--34・南北朝)の兵火に遭い社地を没収される。
更に天正年間(1573--92・織田信長)にも兵火に罹り、神主が御神体を背負い本社(式内・村屋坐弥富都比売神社)境内に遷したと言われている。


 この頃、波登里・阿刀村も消滅して、神社の経営成り立たず、そのまま本社境内末摂社となる。
と同時に、壬申の乱の神功を称えるお渡りも中断するに至り、未だ復興することができない。 

文・村屋坐弥富都比売神社 守屋広尚 宮司」
とある。


 当社に関する資料として

 ・大和志(1734・江戸中期)に
  「大安寺村に在り、波都里神と称す」
とあり、これによれば、江戸中期には大安寺村にあったととれるが、

 ・大和志料(1914・大正初年)には
  「延喜神名帳に服部神社二座と、志に在大安寺村今称波都里神と見ゆ。
 村屋神主家記には、本と大安寺村にありしを天正中社殿兵火に罹り、後に村屋坐社(村屋坐弥富都比売神社)の境内に遷し祭る。今川東村大安寺に“ハトリカミ”と称する田地あり、是其の旧趾なりと云ふ。之に拠れば志に謂ふ処は旧趾を指せるものに似たり。

 祭神詳ならず。姓氏録大和神別に服部連は天之御中主神十一世孫天御鉾命之後也とあれば、古へ此地に服部氏の住するありて、其の祖神を祭れるにあらずや」
とあり、

大和志の在大安寺村とは旧鎮座地の地名を指すという(磯城郡誌にも略同文あり)。

 なお、大和志料がいうハトリカミとは、現田原本町大安寺にある森市神社の北にある小字・ハツリカミ(波都里神)の地を指し、そこに服部神社があったと考えられるという(式内社調査報告・1982)。


 また、神社明細帳(1879)には、
  「当社は天之御鉾命。旧事記に建田背命(タケダセノミコト)神服連(カムハトリノムラジ)祖と云ふ、姓氏録に大和国神別服部連天之御中主命の十一世孫天之御鉾の後也と云ふ。

 崇神天皇の7年之創立にして、既に式下郡村屋郷大安寺に服部神社二座、其の神地に本宮の御旅御幸の時の御休所なり。


 天正の度国乱のために社頭衰微し、故に天正癸酉元年(1573)正月十三日神主森屋斎宮太夫物部通明誠敬し、謹んで服部神社を背に負い奉り、本社(式内・村屋坐弥富都比売神社)に社殿を設け遷社す。故に、旧神地字波都里神と云ふ。


 天正2年(1574)8月15日、神殿一社相殿に齋鎮せり。宝永2年(1705)・寛政9年(1797)に改装せり。然るに元亀・天正の度兵火ありて大安寺・阿刀の民家亡ぶと云時に当社の旧記失なへり。


 古史伝に平篤胤大人(平田篤胤・1776--1843)云へり、服部神社は式下郡大安寺村にありと、其地今字波都里神(ハツリカミ)と称す是なりと云ふ。

今、本社村屋坐弥富都比売神社社地瑞籬(ミズガキ)の西側の神社是ぞ服部神社なり・・・」
とあり、当社の沿革をやや詳しく記している。



 ここで、当社創建を崇神7年としているが、これは崇神紀7年条にある、
  「(大物主神と大国魂神を祀ったとき)別に八百万の群神を祀った。よって天つ社・国つ社・神地・神戸を定めた」
との記述によるものだが、

これは我が国における神マツリの始まりを崇神朝に求める書紀の方針に基づくもので、史実とは受け取れない。


 また、古墳前期(4世記)とされる崇神朝での神マツリは、その都度神籬(ヒモロギ)を設けてのものであって、恒常的な祭祀施設としての神社はなかったと思われる(弥生時代の遺跡から神殿らしき建物跡が何カ所か出土しているが、当地にそれらしき遺構はない)。


 なお、当社の創建が延喜式神名帳(927)編纂以前であるのは確かだが、当社に対する神階・封戸など綬叙記録はみえず、当社の創建時期が何時頃まで遡及できるかは不明。


※祭神
 今、当社の祭神は天御中主神(アメノミナカヌシ)・天御鉾命(アメノミホコ)となっているが、

 ・磯城郡誌(1915・大正初年)−−式内服部神社に天御鉾命・誉田別命(ホムタワケ・応神天皇)を祭る 

 ・大和名所旧跡案内(刊行年不明)−−村社服部神社二座鍬靱 祭神天御拝(鉾の誤字)命・誉田別命

 ・式内社調査報告(1982)−−神社明細帳(1879・明治12)に『祭神・天之御中主命・天之御鉾命』とありしを、明治19年(1886)8月27日祭神の誤りを大阪府庁へ更正願許可されている
とあり、一座を誉田別命という。


 ただ、上記由緒等からみて、当社に誉田別命を祀る由縁はなく、また、当社を八幡宮と呼んだとの資料もなく、誉田別命とする根拠は不明。


 天御鉾命とは記紀等には見えない神だが、神宮雑例集(13世記初頭頃、上古から鎌倉初頭までの伊勢神宮に関する雑記録集)に、

  「天照大神が高天原に坐せし時、神部(カムハトリベ)等の遠祖・天御鉾命を以て司とし、八千々姫を織女と為して織物を奉る」(漢文意訳)

とあるように、

機織・織物を司る神とされ(足利市にある神部神社では、天御鉾命・八千々姫を七夕伝説の牽牛・織女に充てている)、


 また、新撰姓氏録(815)に
  「大和国神別(天神) 服部連(ハトリノムラジ) 天御中主命十一世孫天御鉾命之後也」
とあることから、
当社は、大安寺村の辺りに住んでいた服部氏が、その祖神・天御鉾命を祀ったのではないかという(式内社調査報告)。



 また、姓氏録に
  「摂津国神別(天神) 服部連  熯之速日命(ヒノハヤヒ)十二世孫麻羅宿祢(マラスクネ)之後也
                       允恭天皇の御世、織部司に任じられて諸国織部を統領し、服部連と号す」


とあるように、出自は異なるものの同じ服部連を名乗り(熿之速日命は尾張氏系の祖神−先代旧事本紀)、諸国の織部を統括した氏族があることから、当地の服部連も同じく織物に関係した氏族と思われる。


 天御中主神が当社に祀られるのは天御鉾命の遠祖ということからだろうが、この神は、古事記冒頭の天地開闢に際して、混沌のなかから最初に成り出た造化三神の中心神だが、成り出るとともに身を隠した神でその事績は記されていない。


 これが中世になっての記紀神話の再解釈のなかで、この神を天地創造の主宰神とする思想が生まれ、神仏習合の進展とあいまって、北極星を宇宙の中心神とする星辰信仰(妙見信仰)と習合して“妙見さん”として信仰され、明治の神仏分離により神道系妙見信仰の主祭神へと展開している(仏教系では北辰妙見菩薩という)。


 妙見信仰の根源が星辰信仰・北極星信仰であり、それが七夕信仰・棚機姫(タナバタツメ)信仰へと変遷していったことから、当社の天御中主神は、天御鉾命の遠祖であると共に、機織りの神としても祀られたともいえる。


※社殿
式内・村屋坐弥富都比売神社の境内左奥(本殿域の左隣)簡単な門をもつ板塀の奥に鎮座する。

 門の左に
 「延喜式内社 蔵堂 服部神社 
     祭神・天之御中主神 天之御鉾神」
と刻した石標が立つ。

 案内に、「社殿 切妻造・妻入り・庇付きカラー鉄板葺」とあるが、春日造の変形ともとれる。


以上コピペでした。


いろいろ三つ柏さんが、お心の中に抱いていらっしゃる事の裏付けがここに書かれているように感じました。


                       管理人さん
                       ありがとうございました。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月23日 13時58分02秒 ) パスワード

http://www.genbu.net/data/yamato/muraya_title.htm

村屋坐弥冨都比売神社
むらやにますみふつひめじんじゃ

奈良県磯城郡田原本町大字蔵堂字大宮426


神紋が  なんと!  十六菊  です!!!

服部中保次の嫡流の家の家紋の1つが  16葉菊紋  です。



以下コピペ


式内社 大和國城下郡 村屋坐弥富都比賣神社 大 月次相嘗新嘗
旧県社

村屋坐弥冨都比売神社公式サイトを開く

御祭神
彌富都比賣神 大物主命

境内社 式内社
大和國城下郡 服部神社二座 鍬靫
境内摂社服部神社
天之御中主命 天之御鉾命

大和國城下郡 村屋神社二座
境内摂社村屋神社
経津主神 室屋大連神 武甕槌神 大伴健持大連

大和國城下郡 久須々美神社
境内久須々美神社
天之久之比命 事代主命


奈良県田原本町にある。大和川の側に鎮座。
境内は広く、境内社も数社あり、
その幾つかも式内社とされている。

本殿は、二棟並んだ朱塗りで美しい。

通称、「守屋の宮」「森屋の宮」「森屋明神」。

天武天皇元年(673)。壬申の乱の時、村屋神が、神官に神懸り、
「わが杜の中を敵が来る。社の中の道を防げ」と
軍備に対する助言をした。
その功績により、天皇より位階を引き上げられたと、
日本書紀に記されている。

式内社・村屋坐弥富都比賣神社に比定されている古社で、
延喜の制では、大社であった。

境内摂社の服部神社は、式内社・服部神社に比定されている。
元は、大安寺の波津里神にあったが、
天正の兵火にかかり焼失し、現在地に遷座。
大安寺に服部氏が居住しており、その祖神を祀ったもの。

境内摂社の村屋神社は、式内社・村屋神社に比定されている。
元は、当社の東の宮山に鎮座していたが、
天正の兵火にかかり焼失し、現在地に遷座。
本来の祭神は、武甕槌神と経津主神の二座であったらしい。

境内摂社の久須々美神社は、式内社・久須々美神社に比定されている。
元は、字宮ノ山という古木の茂みの恵比須井付近に鎮座していたが
洪水のため、天正十二年、森屋垣内に遷座し、
その後、当社境内へ奉遷したという。

「神社名鑑」には神紋・五七の桐とあるが、菊しか確認できなかった。


以上コピペ終わり
[31]酔石亭主さんからのコメント(2018年06月23日 18時28分14秒 ) パスワード

三つ柏服部さん

半田山は岡山市北区津島にもあり、備前の地誌である「和気絹」に「秦氏の人が山中に松を数十本植えたので秦山という」と言った趣旨で書かれていました。ここからも、半田山=秦山と理解されます。愛知県の瀬戸市には秦氏の存在は確認できないものの、下半田川町に秦川城があります。なお、「和気絹」はデジタル化されています。以下の中巻、コマ番号32の最後を参照ください。
http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/waso/0002118750/pageframe.htm

>羽鳥の南東の池田庄は、秦氏の松尾大社の荘園で

どうもよくわからないのは池田庄に鎮座する大甕神社です。既にご存知のように祭神は松尾大社と同じ大山咋神。江戸時代までは松尾大明神(秦氏の松尾大社に関係する社名)などと称されていました。大甕は酒を入れるための大きな瓶と考えれば松尾大社のありようと整合性はあるのですが、一般的には大甕神社(例えば日立市鎮座の大甕神社)の祭神は天日鷲命の御子神となる建葉槌命のはずで、織物や機織の祖神です。服部神社も建葉槌命が祭神となるケースがあります。(例えば山代温泉の服部神社、読みは「はとり」)

同じ織物、機織り部族でも、樋速日命や麻羅宿爾を祭神とする服部連と、建葉槌命を祀る倭文氏の系統は別グループになるので、元々は建葉槌命を祀っていた大甕神社が当地に進出した秦氏系に乗っ取られ祭神も変えられてしまったのかもしれません。推定シナリオとしては、秦氏と同行した服部氏にとって別グループの織物系の存在はうっとうしかった。700年代前半(注:松尾大社の創建は701年)に秦氏が当地を松尾大社の荘園にしたので、服部氏が秦氏に乗っ取りをそそのかした。秦氏は首尾よく乗っ取り、社名は建葉槌命系統なのに祭神は松尾大社の神に変え、建葉槌命系を追い払った、と言ったところでしょうか?この辺の事情がもし地元で分かるようであればお教えください。

空の青海のあをさん

村屋坐弥冨都比売神社に関連するのですが、「尾張氏の謎を解く その30、31」にて、秦氏の秦楽寺門前にあったとされる金春屋敷の所在地に関し幾つかの説があるので検討しました。その一つになりますが、田原本町ホームページには以下のように書かれています。

「観世系譜」によると、観阿弥の嫡流は「蔵堂」の名がつくことから、観阿弥・世阿弥は、もともと「杜屋」の人ともいい、「秦楽寺」や金春屋敷ももとは村屋神社にあったという説もあります。

その30は以下を参照ください。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1761.html

金春屋敷の所在地に関してあれこれ検討した結果、村屋神社周辺には秦氏の楽人が住む楽戸があったのは間違いなさそうです。けれども、秦楽寺や金春屋敷はこの場所ではないとの結論に至りました。村屋神社境内社の服部神社はかつて大安寺村にあり、一方奈良の大安寺は秦氏系のお寺と思われ、空海に「虚空蔵菩薩求聞持法」を空海に授けた勤操は秦氏です。従って、大安寺村は大安寺の寺領だったのかもしれません。これらから大和国服部連の周囲には秦氏がいると確認され、両者の関係性が見て取れます。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月23日 23時01分30秒 ) パスワード

酔石亭主さん

>村屋神社境内社の服部神社はかつて大安寺村にあり、
>一方奈良の大安寺は秦氏系のお寺と思われ、
>空海に「虚空蔵菩薩求聞持法」を空海に授けた勤操は秦氏です。
>従って、大安寺村は大安寺の寺領だったのかもしれません。
>これらから大和国服部連の周囲には秦氏がいると確認され、
>両者の関係性が見て取れます。

ありがとうございます。
もうクラクラしています。


日本人が縁を結ぶのには遺伝子が引き合って血湧き肉躍るのではないかと思っていましたが
父と母が結婚したのも何となく分かっていましたが
空海のお名前が出て来て(この時代からか)とイヨイヨ確信になりました。
[33]酔石亭主さんからのコメント(2018年06月24日 20時01分38秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青梅のあをさん

大甕神社に関して…。

中区元魚町の松尾神社は、和銅年間に浜松神社が創建され、明徳二年(1391年)に松尾信濃守が曳馬城に入城するに当たり鎮守として山城の松尾の諸神を勧請。家康が松尾諸神を浜松神社と合祀して松尾神社に改称したとのことで、大甕神社も似たようなケースなのかと思ってしまいましたが…。

でも、調べたところ池田荘が松尾大社領になったのは嘉応3年(1171年)なので、松尾信濃守よりは200年以上早いし、仮に1171年以降に大甕神社の祭神が変えられたとしたら、秦氏と服部氏の乗っ取りではないし、もうよくわかりません。難しすぎますね。

大甕神社だけでなく服織神社もよくわかりません…。なぜ出雲で天穂日命なの??遠江国造の祖が建比良鳥命で天穂日命の子となるから??服部氏が服織神社を創建してその後遠江国造が大祖先を祭神にするよう命じた??
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月24日 22時09分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様
酔石亭主様

 昨日は用事で東京へ行っておりまして、帰って来てレスを読み始め、理解
に努めましたが、疲れのせいとワールドカップ戦の誘惑とで、集中できませ
んでした。

 遠江羽鳥の服織神社の主祭神についてですが、一応「天穂日(天菩比)」と
いうのが定説になっております。摂津の神服神社、細江の蜂前神社の主祭神
が「熯速日」であり、それとは異なっていることになります。

 また、大和の服部神社は、「天御鉾」ということでありますので、こちら
とも異なっているということになります。

 但し、これらのことが、すべて真実に基づいたことなのかどうかは、本当
のところ100パーセントの確証はないと考えます。

 遠江の服織神社は、摂津の神服神社系なのか、それとも大和の服部神社系
なのか……の問題でありますが、そもそもまったく出自の違う「服部連」が
同時存在するはずがありません。あるとすれば、同じ出自の「服部連」の系
統が縦軸で広がるか、横軸で広がるか、子孫が3か所に根付いて、それぞれ
地域の豪族との関係より、血縁的に、あるいは政治的にその出自・由縁を混
淆して行ったのではないかと推察いたします。

 これについては参考論文としては、菅田正昭氏の『秦氏の秘教 シルクロ
ードから来た謎の渡来人』の中の「第15章 服部としての秦氏」の236頁か
ら247頁にいろいろ書かれておりますが、それらは数学のようにはどうも割り
切れないものありまして、結果としてうまく要約できません。
 それは要するに、服部氏は特には秦氏、そして忌部氏や物部氏等と近しい
関係にあり、相互に影響を受け、また及ぼし合って生きてきたということだ
と思います。その結果がそれぞれの出自をわかりにくくしているということ
ではないでしょぅか。
 なお、『新撰姓氏録』も何回も見ておりますが、これに書かれていること
がすべて正しいということではなく、その時の氏族の最大ベクトルと望まし
い方向性を表現している――ということを頭に入れて解釈した方がいいので
はないかと思います。

 仮に、羽鳥の服織神社の主祭神が、本当に創設当時から「天穂日」であっ
たとしますと、これは意外にも時代的背景にマッチしていることになります。
あるいはその時の支配者に、忖度したものであったと言えるかも知れません。
 何故ならば、天穂日の子・建比良鳥命(出雲臣)は、当時遠江の国造にもな
っておりますので、それにおもねたか……。
 大和朝廷に対しては、物部の「饒速日」は絶対タブーであったと思います。
では「熯速日」ならよかったのではないか……そこのところがよくわかりま
せん。「熯速日」とは一体何者であったのか、実在した人物はあったのか?
摂津の服部連と、河内の服部連の最大の謎は、正にそこにあります。

 ところで、天穂日は土師氏である菅原道真の祖でもあるとされております。
 羽鳥庄の北部にある我が善地の村社は「天満宮」なのであります。他の村
では「八幡宮」や「諏訪神社」を村社としているのに、大変珍しいことであ
ります。
 ここには、羽鳥の服織神社の祭神・天穂日にちなんだ神社を造ろう――と
いう何らかの意思が働いたのではないかと私はみております。

 この件については、次回に持論を記してみます。なお、「熯速日」につき
ましても、菅田正昭氏の『秦氏の秘教 シルクロードから来た謎の渡来人』
の中に、その成り立ちについての参考になる説明書きがありますので、次回
に記してみます――

 ※レス[26]訂正:始めて→初めて


[35]酔石亭主さんからのコメント(2018年06月25日 20時35分59秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青海のあをさん

建比良鳥命は神話上の人物で遠江国造の祖ですから、実際に国造であったわけではありません。『国造本紀』によれば物部氏の祖・伊香色雄命の子となる印岐美命が成務朝に遠淡海国造に任じられたことになりますが、これも国造制度成立時期(不明だが、5末〜6世紀頃)よりずっと早いので有り得ません。

服織神社の創建は和銅元年(708年)ですから、秦氏や服部氏は既に現地入りしている訳で、600年代に服部氏が創建した神社に708年、出雲から天穂日命を勧請したのではないかと推察されます。なお、太田亮氏の「遠江」によれば、「穂日命とあれど服織ははたおりの同義にて服部と同じ。大和城下郡服部神社祭神天御桙命といえばこの神も同神なるべし、」とあります。記事は「遠江」のコマ番号151を参照ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176478/151?tocOpened=1

服織神社の問題は社名と祭神の間に矛盾がある点です。矛盾があるとしたら、それがないように再構成すれば真相に迫れるはずで、太田氏の場合は多分周辺環境も勘案して社名に祭神を合わせ矛盾がない形に再構成したのでしょう。けれども、由緒に出雲からの勧請とある以上天御桙命にはなり得ません。

社名と祭神をそのままで再構成すれば、当初服部氏が服織神社を創建した。それに何らかの圧力が加わって社名はそのままで祭神が変更になった、となります。私は当初この圧力を出雲系の遠江国造によるものと考えましたが、同社の創建は708年なので国造制度は既に廃止されており、国司に代わっています。よってそれ以外の可能性を探るしかなくなります。出雲に服織神社に相当する神社はなさそうなので、出雲大社からの勧請が考えられます。出雲大社の実質的創建は708年頃とされていますので、創建とほぼ同時に各地に神様を分祀し、遠江国では服織神社に白羽の矢が立ったのかもしれません。まあ、これもあくまで想像に過ぎず、実際はどうだったかわかりませんが…。

実は「東海の秦氏」シリーズを書いたとき浜松だけ訪問しておらず、気になっていました。いつか浜松分を書き加えてみたいと思っていたところ、有難いことに浜松の秦氏関連エリアは三つ柏さんの地元ですから、色々お聞きし、また議論もできればと思った次第です。そんな訳でついあれこれお尋ねしてしまいました。お手を煩わせて申し訳ありません。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月25日 22時50分59秒 ) パスワード

酔石亭主さん


ありがとうございます。
とてもアタマが回りませんでした。


三つ柏さん

いつか酔石亭主さんとお会いできると良いですね。
[37]酔石亭主さんからのコメント(2018年06月26日 20時55分37秒 ) パスワード

空の青海のあをさん 三つ柏服部さん

えっ、書き方が悪かったのか何か誤解されてしまったでしょうか?

私はブログのコメント欄か掲示板での公開の意見交換・情報交換以上のことは一切しない考えで、どなたであれお目にかかることも個人的なメールをやりとりすることも致しません。(ブログを始めた当初、趣味の水石関連でお目にかかることはありました)

歴史の謎解きブログを書いていると、たまに個人的なコミュニケーションを求められる方がおられますが、お断りしている次第です。この点ご理解いただければと思っています。
[38]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月26日 22時22分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一昨日(正確には昨日)の深夜3時までサッカーワールドカップ「セネガ
ル戦」をテレビで見ておりましたせいで、睡眠不足、及びすっかりリズム
が狂ってしまいました。

 セネガルについては、別の角度からですが、「相撲」という伝統がある
ということを初めて知りました。モンゴルの相撲とよく似ていますが、叩
き合いもできるという激しいものでした。相撲の起源は、どこまで遡るこ
とができるのか……日本では、「野見宿祢」が有名。摂津高槻に野見神社
がありましたのですが、何で摂津高槻に? 服部連と何か関係があるので
しょぅか?
 
 酔石亭主様、太田博士の『遠江』の国会図書館デジタル版のご紹介、あ
りがとうございました。地元の図書館に一冊ありますが、「禁貸出」で、
不便さを感じておりました。ご紹介のシステムは、プリントアウトもでき、
願ったりかなったりであります。

 さて、服織神社の祭神が何で天穂日なのか……という問題ですが、酔石
亭主様の明晰な推理と論理は、正に言い当てているのかと思います。
 私も色々調べてみましたが、まだ頭の中で熟成不足ですので、一晩寝か
せてみますこと、ご容赦下さい―― 
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月26日 22時49分59秒 ) パスワード

酔石亭主さん

了解です。
早とちり、ご容赦を。
ぺこり
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月27日 10時00分42秒 ) パスワード

メールで頂きました。
以下コピペ:


三つ柏さんのお話  詳しくは読み解け無いですが読ませていただいております。


やはり、古代吉備と深く関連しているようですね。
吉備真備の故郷の地にも呉が在り
隣接地に「秦」地区のそのものが今も存在しています。

法然上人の生母が秦の氏君と言われて居ます。
秦氏の娘と言う意味だと思うのですが、氏君と言われています。
またその根拠地は久米と言われる地域です。
また倭文荘(しとりのしょう)とも被さっています。

方言にもかなり似たものが多くあるようですね。



下記のを開いて見てください。私もTVで見て居ました。

取っ組み合いを描写した青銅器が古代メソポタミアから発掘されている
初代王朝時代の今から約5,000年前のものとされる。

つまり、『相撲』の発祥の地は古代メソポタミアであり、そこから各地に伝播したという事か?



エジプトはベニ・ハッサンのバケト3世岩窟墓に約4,000年前に描かれたという壁画である。

http://midomidotacnet.blog.fc2.com/blog-entry-330.html


かの国は相撲も自国が起源と言いたいようで・・・すが。
以下のコピペを貼り付けておきます。

http://cova-nekosuki.cocolog-nifty.com/blog/2017/05/post-de23.html   

やはり相撲は中東起源。


『相撲』の発祥の地は古代メソポタミアと見られているが、
エジプトはベニ・ハッサンのバケト3世岩窟墓には、なんと、相撲の技一覧図としか言いようのない壁画があるのです。

圧巻なのは、王墓の狭い方の面とは言え、一つの壁面が丸ごとその一覧図に充てられていること。


狭いと言ったって、壁面にはかなりの広さがあるので、視野が技の一覧図で丸ごと占領されるだけの迫力ある壁画です。


まわしをして組み合う二人の取り組みが実に見事に描かれているその壁画は、うっちゃり、外掛け、内掛け、首投げ、足取りなどなど、
相撲のほとんど全ての技がそっくりそのままと言っていいほど表現されていると言います。



メソポタミアの遺物でも相撲を表現したとしか思えないものはあるが、
王墓の壁面一つ丸ごと相撲の技一覧図って、
エジプト人どれだけ相撲好きだったんですか。



吉村作治教授は神社の原型はピラミッドコンプレックスと言うが、やはり、日本の原点は中東ってことなんでしょうか。

狛犬も元をたどればピラミッドコンプレックスのスフインクスと、吉村作治教授は指摘しています。



そう言えば、日本には古代中東の遺伝子もあるのですよね。



神話の体系も、太陽神を頂点とする三神構造と動物を含む八百万の神が織りなす神界を日本と古代エジプトは共有です。



日本人の足に多いのがエジプトタイプで、味の好みも日本とエジプトは似てるのです。

                       白人系はギリシャタイプですね

バケト3世王墓の壁画がもし相撲であるなら、古代エジプトでも相撲は重要な競技だったことになるでしょうね。



韓国人は相撲も自国が起源と言いたいようだが、メソポタミアや古代エジプト発祥の相撲の伝播の中継点の一つと見るのが妥当でしょう。


朝鮮半島では高句麗の壁画が確認される最古の相撲を描いたものと言うが、
百済、新羅、高句麗はいずれも日本に亡命しているので、
その後の新羅滅亡後の高麗壁画にある相撲は
亡命しきれないで残っていた人達から伝わったものが記録された可能性があるでしょうね。



恐らく天孫族の日本渡来で朝鮮半島を通過した際、行われていた名残が今もかろうじてあるに過ぎないかもしれません。
[41]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月27日 12時35分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 素晴らしい内容のお友達のメールのご紹介、ありがとうございます。
 この方は歴史のことをいろいろ深く研究・洞察されている方だと推察い
たします。「古代吉備」、「法然」に触れられたのにはびっくりしました。
私もその辺の謎を探っておりましたので(秦氏はまるで二十面相のようで
す)。

 日本はシルクロードの東の果てで、正にシルクロード(陸と海)を通って
さまざまな民族が移動してきた。それと一緒に「相撲」も伝わったという
ことは、まずは間違いないことだと思われます。
日本の相撲は、最終の完成型というか、ある意味アウヘーベン(美しく様
式化・規律化され、また理論付けされたという意味で)されたもののよう
な気がいたします。

 蹴鞠(けまり)も、ひょっとしたら古代の"フットボール"から来ているの
でしょうか? これはたぶん南米発でしょうか……?

 さて、古代については調べれば調べるほど、多種多様な情報にぶつかり、
頭の中が混沌となり、混沌こそが歴史の現実かと妙な逆説に陥ったりしま
す。こと、神話や神々の話となりますと、民俗的レベルでの集合的無意識
や永劫回帰の問題までも考えさせられてしまいます。
 
 遠江長上郡羽鳥「服織神社」の歴史に潜む深い謎……、どのように切り
出そうか、まだそのヒラメキが湧いて来ません。もう少しお待ちを――
[42]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月27日 20時54分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日、久しぶりに地元の図書館へ行き、何か新しい発見はないかと本を
あさっておりましたところ、『全国神社名鑑(上)』という本の中に、三ケ日
の「初生衣神社」の神紋が「梶の葉」であることが載っておりました。
 諏訪大社が「梶の葉」でありますので、諏訪系ともと思ったりしましたが、ちょっと想像が及びません――
[43]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月28日 03時18分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「服織神社」について、祭神の「天穂日命」から始めようと思っていたと
ころ、昨日(6/26 現時点では一昨日)の新聞に、「高円宮絢子さま婚約へ」
というニュースが掲載されました。
 高円宮家といえば、4年前に次女の典子さまが、出雲大社の権宮司である
千家国麿さんと結婚されました。つい昨日のように、めでたい気分に浸って
おりましたが、もうすでに4年も前のことになります。
 その千家家の出自は「出雲国造家」であり、祖神(先祖)は「天穂日命」で
あります。

 この天穂日命について革新的論考をしているのが、中見利男氏の『出雲
大社と千家家の秘密』であります。出雲の謎=天穂日命の謎と言ってもいい
ほど、天穂日命は鍵を握っております。その存在は大きいと言えます。
 この一冊を読めば、出雲と天穂日のことが、おおよそわかるはずでありま
す。
 内容的には――
 第1章 出雲大社の謎
 第2章 出雲国造と千家氏とは
 第3章 出雲国造家と神魂(かもす)神社の秘密を解く
 第4章 大国主の国譲り神話の秘密を解く
 第5章 天孫降臨の秘密
 第6章 天孫降臨に隠された不比等のクーデター
 終 章 不比等の陰謀「国譲り8策」
であります。

 服織神社は、本来ならば、祖神として「ハトリの神」を祀るはずであると
私は推理します。
 摂津服部連系であれば、「熯速日」でありましょぅ。それが、何故出雲系
の天穂日命ということになったのか……(但し、この由緒は古老の言い伝え
による、いわゆる伝承ということでありますので、100パーセントの確証
はないということでもあります)。

 原初から天穂日命であったのか、それとも途中で書き換えられたか……そ
の謎を解く鍵は、やはり天穂日命にあると推察いたします。

 次回に続く――
[44]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月28日 14時22分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、引佐町中川で花火工場の爆発がありました。このところ、浜松に
絡む事件のニュースが多い。中川といえば、例の「蜂前神社」が鎮座する所
であります。

 高槻の神服神社、引佐町の蜂前神社、両社とも主祭神は「熯速日」であり
ます。高槻では地震、細江では爆発と、熯速日が何かメッセージを送って来
ているのでしょぅか? 一体、「熯速日」ってどういういわくがあり、何で
養蚕や機織りの神としても祀られているのでしょう?
 
 同じことは、「天穂日」にも言えます。こちらの神様は具体性があるので、
まだましでありますが、何で養蚕や機織りの神様でもあるのでしょう?

 蜂前神社の脇神として、「天穂日」が祀られていたのは、「服織神社」の
祭神が天穂日でありますので、両社のつながりがうかがえました。

 では「熯速日」と「天穂日」は一体どういう関係にあるのでしょうか――

 次回へ続く――
[46]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月28日 16時44分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 こちらでは、今夜の11時から「ポーランド戦」であります。若干早い
時刻でありますので、夜中の2時までには就寝でき、睡眠のリズムは何と
か狂わずに済みそうです。

 大国主……何でそんなに名前がたくさんあるの……恣意的なものではな
いかと思います。わかってほしくない、つまり隠したい神様には、色々な
名前を付けたり、似たような神を創ったりで、わからなくしてしまう。そ
の創作能力には驚きます。そんな能力をどこから携えて来たのでしょう?

 古代人は知力が低かったというのは幻想で、古代へ遡れば遡るほど、能
力が高くなるのではないかとも思う今日この頃であります――
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月29日 14時33分32秒 ) パスワード

三つ柏さん


頓珍漢なことを書いたので削除の上、書き直し。
大恥


神様のお名前は、
当時は記憶に頼ってたから、きちんと伝わってなかったでしょうし統一するって発想も無かったでしょうし

「熯速日」と「天穂日」が同一神だった、という記事が見つかるといいですね。
[49]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月29日 15時50分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 次の試合は、「ベルギー戦」ですね。期待いたしましょう。

 古代について、いろいろ調べて、いろいろ考えております。

 それらは―一

 @養蚕は、全国的に政策的に古代から盛んであったのに、「桑」の葉が
 家紋 ・社紋・神紋になっている例は一件もない。何故、桑の葉は嫌わ
 れたのでしょぅか? 桑の代わりに何かが使われたのでしょうか?

 A「熯速日(ひのはやひ)」は織物の神であるという根拠は何か。ひょっ
 として織物の道具に、「杼(ひ)」(シャトル)というものがありますが、
 それは縦糸に対して、横糸を左右に走らせる小道具であります。両先端
 が尖っていて、神話の世界では、機織り女がホトを「杼」で突いて死ん
 でしまうというようなシチュエーションでも使われております。
 「ひ」のはやひの「ひ」が、この「杼」なら、正に織物と関係するので、
 織物の神として納得ができるのですが……。


 B服部氏の祖神の「熯速日(ひのはやひ)」の古墳(墓)が、名張から奈良
 に行く途中の神野山にあります。まだ行ったことはないのですが、これ
 は古墳でありますので、具体的な人物がいて、その人を葬ったというこ
 とになり、その人物とは誰なのか……?

 まだまだいろいろな疑問・謎を抽出しておりますが、次回に――
[50]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月30日 08時31分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 天穂日でありますが、日本書紀によると――
 
 @イザナギがカグツチを斬った時、剣から垂れる血から神々が次々と出現
  されたが、その時、甕速日(みかはやひ)神の後に生まれたのが熯速日(ひ
  のはやひ)神であった。        「神代上第五段(一書第六)」

 Aスサノオは、自分の物実の「五百個の統の瓊(たま)」から次の6神を出
  現させた。正哉吾勝勝速日天忍穂根命、天穂日命、天津彦根命、活目津
  彦根命、熯速日命、熊野大角命の6神である。
                    「神代上第七段(一書第三)」

 これは二通りの出生事跡を言っている訳で、矛盾しております。
 Aの方をとれば、天穂日は熯速日の兄となり、兄弟ということになる。

 天穂日と熯速日は兄弟――
 天穂日の14代孫が「野見宿祢」。土師氏〜大江氏・菅原氏・秋篠氏の祖。  熯速日の12世孫が「麻羅宿祢」。摂津の服部連の祖。
 つまり、土師氏と服部連氏は同族となります。

 大江氏からは長井(永井)氏が出ていますので、服部連(服部)氏と永井氏は
同族となります。また、同時に菅原氏、秋篠氏とも同族になります。

 これは、極論の推論でありますので、事実かどうかは『日本書紀』他の信
憑性にかかっております。そういえば、菅原道真は"羽鳥庄"を領地として持
っていたと記憶にありますし、その羽鳥庄をなつかしんだようです。
 我が善地(遠江羽鳥庄の最北部)に天満宮(祭神 菅原道真)があり、永井氏
一族と近しい関係で暮らしているのは、そういう由縁があったからかも知れ
ません――
   
[51]酔石亭主さんからのコメント(2018年06月30日 10時28分52秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青海のあをさん

>「熯速日(ひのはやひ)」は織物の神であるという根拠は何か。ひょっ
として織物の道具に、「杼(ひ)」(シャトル)というものがありますが、
それは縦糸に対して、横糸を左右に走らせる小道具であります。両先端
が尖っていて、神話の世界では、機織り女がホトを「杼」で突いて死ん
でしまうというようなシチュエーションでも使われております。
「ひ」のはやひの「ひ」が、この「杼」なら、正に織物と関係するので、
織物の神として納得ができるのですが……。

かなり真相に肉迫されましたね。熯速日は名前、字義、その出自、また
他社で焼速日命と表記されることからしても、火の属性を持つ神となり
ます。その神を織物の神とするために極めて巧妙な仕掛けが施されて
おり、そうした部分を解析して初めて納得できるものとなります。
何かを仕組んだのはもちろん秦氏(と服部連)でしょう。

彼らが祖神を設定するに際しては、できる限り古い神で、他の氏族の神と
重複しない神(文句の出る恐れのない自然神)で、音で織物に関係できる
神を考えたのだと思われます。そうした条件に適合するのが熯速日でした。

機織り女がホトを「杼」で突いて死ぬ話の「杼」は、実は男根に見立てら
れており、死んだ機織り女が天岩戸に籠って後天照大神となって出現する
死と再生の神話になっています。(この部分は大和岩雄氏の見解)
熯速日は女神のようですから機織り女に擬せられ、同時に男根に見立て
られる「杼」を音で表せるので、機織り関連の最古の神話の中に位置づけ
でき、機織りの祖神とするにはぴったりの形となってしまいます。

もちろんそうした仕掛けの意味は後世になってわからなくなってしまう
ので、12世孫に「杼」の持つ裏の意味に通じる麻羅宿祢(マラで男根
を意味する)を持ってきて祖神の設定を完了させました。以上の操作で、
本来は火の神だった熯速日がそうとはわからないように織物の祖神に
仕立て上げられた訳です。裏でいろいろ操る秦氏の面目躍如と言った
ところでしょうか。

秦氏は自分たちの祖を始皇帝や徐福だと言上し「姓氏録」にそのまま
記載させてしまうほどですから、この程度の裏技は簡単だったと思い
ます。従って、神服神社の熯速日と麻羅宿祢までは実在ではなく造作
された祖神であり、実態としては応神天皇期に秦氏と彼らに近しい
機織技術者が渡来し、摂津国で技術者が地元民に機織技術を教え、
次第に地元民とも融合し、後代に彼らが服部を称し服部連を賜った
となりそうです。
[52]三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月01日 00時34分50秒 ) パスワード

酔石亭主様

 奥深いご洞察、また今回は熯速日と麻羅宿祢が祖神として造られたものと
する御見解、確かにマラという言葉には何か特別な意味があると感じており
ましたので、心底感動いたしました。ちょうど梅雨明けの空のように、一点
の曇りもない青空が、今出現したような感じがいたしております。

 とり急ぎの御礼を申し上げさせていただきます――

 
 
 
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月01日 02時34分26秒 ) パスワード

酔石亭主さん


分かり易い説明をありがとうございました。

古代の神様やご先祖さま伝説には一体どういう意味が隠されているのかな
都合の良いようにハナシを盛っているんだろうな
とは思いつつ
まったく見当もつかず
酔石亭主さんのご説明で目からウロコでした。



三つ柏さん

フランスとアルゼンチンの試合は凄かったですね。
決勝戦の価値がありました。

ユニフォームからフランスもアルゼンチンも選手がピッチにいるだけで国名が分かって良かったです。

アルゼンチンもすぐにアルゼンチンだと分かったし
フランスの三色旗の色はピッチ中にフランス国旗が翻っているみたいで
フランスのセンスってスゴイって思いました。

    最初、選手の上のユニフォームの濃いめの青には(趣味、ワルゥ〜)と思いましたが
    遠くから選手を見れば、まさに、フランス国旗のバランスそのものでで
    ヲヲッ!
    フランス国旗そのものじゃないか、って良くわかりました。

                あれ、デザインした人、スゴイ!

    それにしても趣味の悪いユニフォームの国、多過ぎ!
[54]三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月01日 04時01分05秒 ) パスワード

酔石亭主様
空の青海のあを様

 秦氏研究の第一人者であられます酔石亭主様に、教えていただきたいこと
が今一つございます。

 それは、秦氏一族の中で、秦河勝が活躍するのは6世紀(500年代)の終
り頃でありますが、聖徳太子の入滅後、あるいは乙巳の変あたりから、秦氏
は表舞台から消えてしまいます。その背後では中臣鎌足〜藤原不比等が暗躍
し続けて行きます。
 しかしながら、794年の桓武天皇の平安京造営にあたっては、秦氏は最
大限の協力をしています。
 死んだ(衰退した)はずの秦氏が、また復活して来るということ……どうも
不思議でなりません(秦河勝と聖徳太子の話は関裕二氏の一連の著作を読む
と裏の色々なことが書かれておますが、ちょっと収集がつかなくなるので
関氏説については止めておきます)。いずれにしても、この辺が歴史のヘソ
であると思われます。
 私の勘ではありますが、聖徳太子はもちろんのこと、秦河勝も虚像(ある
いは象徴)であった、伝承・神話化の賜物であった、というような感じがす
るのですが―それは創作の名手秦氏によるものか、同じく藤原氏によるもの
かはわかりませんが……。この考え、ちょっと大胆過ぎますでしょうか……?

 秦氏の謎を解くことは、歴史の奥深くに眠っている真実・真相を明らか
にすることだと強く感じています――

[55]酔石亭主さんからのコメント(2018年07月01日 14時46分54秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青海のあをさん

いやぁ、なかなか正解が得られない難しいご質問ですね。

想像を交えずに書けば、秦川勝以降も平安時代初期以降も秦氏の名前
は色々な史料に下級官僚や技能工として見られるので、別に消えた
わけでもないとなります。秦氏は基本的に血脈集団と思われ、以前に
徐福子孫を自称される秦氏(現在は羽田氏)のお年寄りのお方にお聞き
した際、自分たちは血を大切にするので同族婚が多いとおっしゃって
おられました。そのためかどうかはわかりませんが、現在でも秦氏は一定
地域に集中する傾向があり、「秦さんはどこにいる?」で各地の秦氏を
大雑把に取り上げています。

次に比較で見ていきます。苗字ランキングでチェックすると古代の大族
である物部氏の物部姓は現在345件、尾張氏の尾張姓は現在347件で
非常に少なく、一方秦姓は5480件と圧倒的に多くなっています。
物部氏の物部姓は武士(もののふ)の語源ともされ、うんと簡単に言えば
職能集団なので名前があまり残らなかったのでしょうね。
この比較を見ただけでも、秦氏が消えたとは言えないことになります。

それが消えたように見えるのは、ある時期以降摩訶不思議な一族としての
秦氏の存在感が薄くなってしまうように感じられてしまうからです。
その理由などに関しては目一杯想像(妄想)を交えてブログで書いています
ので、ご参照ください。

年内にも「東海の秦氏」の続きみたいな形で浜松を取り上げたいと思って、
関連しそうな事柄をあれこれ頭の体操的に考え始めたのですが、想像以上
に手強そうです。例えば、ハタ郷は二つあるみたいだとか、郡域と郷域の
変遷がわかりにくいとか、東海地方で秦氏の関与する川は大河ばかりの
はずなのになぜ馬込川なのかとか、持統上皇は三河行幸で曳馬まで行った
のかとか…。

馬込川に関して少し調べてみたら、ここが古代には天竜川の本流だった
ようでびっくり…。ハタ郷は以下でいいのでしょうか。

麁玉郡覇多郷→長上郡覇多郷 浜松市半田町
長下郡幡多郷→長上郡幡多郷 浜松市富屋町(富屋敷)

浜松には私では知り得ないような多くの地元情報が眠っているはずなので、
是非集中的に深堀して掲示板にアップしていただければと期待しています。
[56]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月02日 14時26分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 この2日間は蒸し暑く、またワールドカップによる睡眠リズムの狂いで
心身ともダウン気味。早く梅雨が明けてほしと、金魚のようにあっぷあっ
ぷで願っております。

 酔石亭主様

 秦氏についてのご教示、ありがとうございます。私の地域における秦氏
の広がりと活躍が、どのようなものであったのか、興味深々のところであ
ります。酔石亭主様のご指摘を機会に、今後、秦氏の探究も服部氏と同じ
くらいのレベルまで引き上げ、探究したいと考えております。


 @麁玉郡覇多郷→長上郡覇多郷 浜松市半田町
A長下郡幡多郷→長上郡幡多郷 浜松市富屋町(富屋敷)
 
 @についてはその通りだと思いますが、半田についての解釈は別の意見
をとなえる人もおります。次回、それを記したいと思います。
 Aについては、いままで素通りしていましたので、近々行ってこようと
思っています――
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月02日 15時28分01秒 ) パスワード

三つ柏さん


いよいよですね
落ち着きません。

新しいスレッドを立てようと思いつつ集中できません。
そわそわして、しなくて良いことをしたり。


スペインが負けたのが信じられないです。


これが「戦い」というものなんでしょうね。
私が戦争に巻き込まれたらやっぱり最初に討ち死にだなと今日も思いました。
読めない絶対に読めない。


サポーターのロシア人が万歳をすると  顔も腕も真っ白  生っちろい  ほんとに寒い世界の人達なんだなと
でも、あれだけ白くて太陽照らなくて、骨粗鬆症にならないのは
美しい花の盛りの16歳を過ぎるととてつもない肥満体にまっしぐらだからだろーなー
なんて思ってました。

明日はジムで体を動かしながらブラジルvsメキシコを見て
帰宅してご飯食べてネットして
またジムに行って日本戦を応援します。今度は自転車漕ぎしながら。2時間はキツイかな?
[58]三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月02日 20時49分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様がそんなにサッカーファンだったとは知りませんでした。でも、
やはりワールドカップの試合は特別なものですね。90分がすべて真剣
勝負で一瞬たりとも目が離せない。
 本日は、早めに寝て、真夜中の2時半頃起きて、ベルギーを見ます――
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月03日 02時41分57秒 ) パスワード

三つ柏さん

今からジムへ見に行きます。
ドキドキしています。
選手でもないのに。
あはは

ブラジルは始まりの辺りは焦りの蹴りで点にならなかったのに
後半
協力し合う態勢になって
素晴らしい得点の入れ方でしたね。

やっぱネイマールスゴイわ。


ではサポート行ってきます。
って?
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月04日 05時32分34秒 ) パスワード

気を取り直して
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101640.html
に新しいスレッドを立てました。
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.25 Rapah.