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 投稿番号:101632 投稿日:2018年04月20日 10時04分50秒  パスワード
 お名前:三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族C[(課題確認51):108
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101629_55.html
長上郡の服部氏族CZ(課題確認50):107
の続きです。


      
      自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
      最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


大久保長安の死後に起きた江戸時代初期の大疑獄事件。

長安は池田家と親戚、花井家と親戚、服部半蔵家と親戚、服部正尚家と親戚、青山家と親戚、花井家と親戚…。
さらに、長安の妻は、本願寺の教如に仕えた坊官の下間(しもつま)氏の娘。

こうしてみると、花井吉成と大久保長安両家は、服部党とまんべんなく親戚であることがわかります。
さらには、青山家、松下家とも親戚ということで、いずれも猿楽師に関係する仲間、といってもいいかも知れません。

この辺の世界については、深い洞察力が必要です――


             興味深いご指摘です。

[1]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月20日 10時37分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッドありがとうございます。

 いよいよ春――というより初夏――というより夏か……に突入しました。
 いつもは五月初めに躑躅が満開になるのに、約十日も早く満開でありま
す、藤の花も同様、早くも盛りを過ぎております。明日、熊野の長藤を見
に行ってきたいと思っておりますが、さてどんなものか心配であります。

 かぐや姫については、興味はあったものの、深く突っ込んで考察するま
でのモチベーションは今までなかったのですが、昨日、筍を堀り、皮をむ
いているうちに「竹取の翁」って何なのだろうという疑問が湧いてきまし
た。もちろん、土中より頭を出したばかりの筍は、両掌に包まれる位の大
きさで、十二単か初衣(うぶぎぬ)のような衣装のようにも思われ、女の赤
ちゃんのようにも思われました。

 竹取の翁の話について、ここで記そうと思いましたが、新しいスレッド
の流れからいって、大久保長安と花井氏と服部氏等の探究を先に完成させ
たほうがいいと判断しました。
 いずれにしましても、六月には丹後半島に行ってかぐや姫の伝説等を調
べてきたいと思っておりますので、その準備としては今後言及して行きた
いと考えます――
[2]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月20日 15時26分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部中保次の次男保信の子、保重の妻は、大久保忠重の娘であり、松下
常慶の五男房利の妻も、大久保忠重の娘であり、服部中家と松下家は大久保
家つながりであります。

 花井吉成は本姓松下であり、松下常慶とどの程度の親しい関係であった
のか確認できませんが、吉成が家康の小姓組であったことを考えると、井伊
直政などと親しい関係にあったと思われますので、そうならば松下常慶他の
松下家とも二重に親しい仲ではなかったのかと推察されます。

 花井吉成は花井を名乗るも、実際は松下吉成という立ち位置を自覚してい
たのではないでしょうか。また、実際の関係者も、花井よりむしろ松下一族
として吉成を見ていたのではないでしょうか……?

 松下吉成は元猿楽師であったということでありますが、いつ、誰の下で
修行したのか……服部家との関係が見えてきそうです。松下家と服部家は近
しい関係にあったということ……神ケ谷・大久保の松下家の家紋が伊賀服部
家の家紋―「丸に並び矢」であることがそれを物語っております。


 
[3]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月20日 16時42分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大久保長安の子供達――

 @長男:長十郎            (享年37歳)

 A次男:藤二郎            (享年36歳)  
     妻は池田輝政の娘

 B三男:権之助(成国)         (享年30歳前後)  
     →青山成重(服部正尚の弟)の婿養子

 C四男:運十郎            (享年29歳)

 D五男:藤五郎(内藤)         (享年27歳)

 E六男:権六郎(右京) (享年23歳)
→妻は花井(松下)吉成の娘

 F七男:藤七郎(安寿) (享年15歳)

G長女:美香
     →夫は、服部半蔵正成の次男・正重

 H次女:楓  
     夫は、元武田臣・家康近習の三井吉正

 つまり、大久保長安家と花井(松下)吉成家は、服部半蔵家と服部正尚家
(青山家)、そして服部中家と親戚になっています。もちろん、大久保家と
花井家は親戚に――

 ここがヘソでありまして、「類は友を呼ぶ」の法則なのかと思われます
が、深層、特にほぼ共通する「猿楽師」について、さらに探究してみたい
と思います。
 またバックには、茶阿局、桂昌院、そして見えてくるのは、春日局……、
伊達政宗は、また別のベクトルかなと思われます――
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月21日 14時40分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


>神ケ谷・大久保の松下家の家紋が伊賀服部家の家紋―「丸に並び矢」であることがそれを物語っております。

へぇ〜
不思議ですね。

つまり松下家は実は思ってた以上に服部家と深い深い関係があったのでしょうね。
ビックリです。



こちらは4月というのに雨・雨・雨の日々で、湿気の中で生息する虫になったような気分です。


熊野のお話を楽しみにしていますね。
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月22日 07時34分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、池田の熊野(ゆや)へ行ってきました。「長藤まつり」という
ものをやっていて、たいへんな賑わい。藤の花は、豪華に咲き誇ってお
りました。ここは、藤の花だけの所ではなく、やはり「宗盛」と「熊野」
のロマンと悲話、プラス「重衡」と「熊野」の再会と悲話の「聖地」で
あります。その物語りを紙芝居でやっておりましたが、思わず涙が込み
上げてきたのは、その語り部の口調が「平家物語」の琵琶法師の口調に
似ていたからでしょうか……昔から、人々は悲しい物語を聞いては涙を
流し、ものの哀れとはかなさの向こうに、人間としての仏性と美を失わ
ないよう努めてきたのでしょぅか。
 熊野の命日は、5月2日であることがわかりました。熊野とその母の
宝篋印塔の前で、般若心経を2巻唱え捧げました――
 
 

 
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月22日 08時16分41秒 ) パスワード

三つ柏さん


「熊野の長藤」の画像を検索して見て来ました。

平家の公達のことは美しい話になりますね。
そこに「藤」という気高い花が絡んで
ますます「美しい」ドラマになります。

わたくしの分も般若心経をありがとうございました。


池田宿生まれの範頼のことはイマイチ美しさに欠けます。
何か泣けない。


やっぱり伊賀の平家の子孫が謡曲や能に込めた想いのせいかも。
[7]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月22日 12時25分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 猿楽師について――

 松下(後に花井)吉成が猿楽師であったということについて、どんな
流れであったのかといろいろ調べてみましたが、最終的な推論として、
松下氏は佐々木氏の出であり、佐々木氏の中に「佐々木道誉」という
ばさら大名がいて、猿楽(能・狂言)等の芸能を振興したといいます。
いわゆる「近江猿楽」と呼ばれ、発祥の地は「多賀」、代表的な猿楽
師に「道阿弥」がおります。道阿弥は観阿弥と並ぶ巨匠で、世阿弥に
影響を与えたということであります。

 大久保長安は、観阿弥―世阿弥―禅竹(金春八郎)―大蔵太夫十郎―
―二代目大蔵太夫十郎―大蔵太夫新蔵―大蔵太夫藤十郎(長安)
の流れであり、猿楽師として観阿弥、世阿弥、禅竹の血筋を継ぐ大和
猿楽の名流でありました。

 一方の松下吉成の祖先が、仮に近江猿楽の道阿弥につながるもので
あったなら、大和と近江の巨匠の流れを継ぐ者同士として、強い吸引
力で引き寄せられたことに違いありません――
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月22日 22時46分32秒 ) パスワード

三つ柏さん

>大和と近江の巨匠の流れを継ぐ者同士として、強い吸引力で引き寄せられたことに違いありません――

ココ、納得しました。


>一方の松下吉成の祖先が、仮に近江猿楽の道阿弥につながるものであったなら

ココ、どこかに書いてあるのが見つかると良いですね。



>大久保長安は、
>観阿弥―世阿弥―禅竹(金春八郎)―大蔵太夫十郎― ―二代目大蔵太夫十郎―大蔵太夫新蔵―大蔵太夫藤十郎(長安)の流れであり、
>猿楽師として観阿弥、世阿弥、禅竹の血筋を継ぐ大和猿楽の名流でありました。

やっぱり伊賀の服部氏とは繋がっていた、ですね。


>松下吉成の祖先
>神ケ谷・大久保の松下家の家紋が伊賀服部家の家紋―「丸に並び矢」

もともと伊賀の服部氏と繋がっていた
長安とも繋がっていた

家康と本多正信には脅威だったのかもですね。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月24日 08時31分36秒 ) パスワード

昨日の「西郷どん」の井伊さまの脳味噌の使い方
なかなかの策士でしたね。

そういうことで桜田門外の変になっていくのかとちょっと背景が分かりました。


朝廷もなかなかの文章を書くものですね。
何とでも取れるような。


眞子さまの2年延期の件もなかなかの表現でしたが
あれは
2年延期なんて  そんな結婚は土台からしてアリエナイ  って事だよ
と宮内庁は嗤ってるんでしょうね。
[10]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月24日 09時46分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日はやや体調不良(風邪気味)で、早く寝てしまいました。直弼も西郷
さんも深層を探れば色々あると思いますが、時代が幕末ということであり
ますので、とりあえずスルーしています。

 昨日の坂本龍一に関するNHKの「ファミリーヒストリー」という番組
はおもしろかったです。現在の坂本龍一があるのは、やはり祖先からの積
み重ねがあってのことというのが、よくわかりました。優秀な人材は、や
はり祖先からの、目に見えない意志とDNAの積み重ねがあって排出され
るのだということ……。

 最近の科学では、DNAが記憶するということがわかってきました。正
確には、それは、環境変化によりゲノム(遺伝子情報)にタグがついて、
遺伝子を制御するというものです。「エピゲノム記憶」というそうです。

 本能はDNAの記憶・記録だと思いますが、それは物理的にはわかりま
すが、感情的なもの、スピリチュアルなものも支配されているということ
でもありますので、そこは科学では統計的にしかわかりません。

 スピリチュアルなもの、それは宇宙の根源であるのかも知れません――
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月24日 12時47分38秒 ) パスワード

三つ柏さん


>スピリチュアルなもの、それは宇宙の根源であるのかも知れません

はい
重力波の研究が進んだら解明されると期待しています。


>坂本龍一

録画してある(と思いますから)楽しみに見ますね。
番組の初めの方の「親分だった」というところまでは見ていました。
その後、寝てしまい、ぐっすり眠ってしまって目が覚めたら4時過ぎで、慌ててジムに行きました。

では今から見て来ます。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月24日 14時33分27秒 ) パスワード

見て来ました。

なるほどねぇ〜


音楽性についての血は置いといて
浮気性というのは坂本家のおじいさんからの血でしたか。

          おじいさんのハナシで苦笑してた時に
          なるほど、そこからの浮気性だったのか、と思いましたよ。


おじいさんの事があったから父上は龍一のことは本当に許せなかったでしょうね。


ワタシはヒトの話を誤解して聞いてて矢野顕子<が>不倫してたと今日まで信じてました。
ごめんなさい、アッコちゃん。
逆だったのねぇ。


どうしょーもない浮気者は坂本龍一の方でしたか。
それもこれも龍一のおじいさんからの血でしたか。


龍一の父上は作家で言うと  立原正秋  のような人だったのですねぇ。
本物しか許せないタイプ。

そして三島由紀夫を育てたのは龍一の父上でしたか。
なるほどね。


      三島由紀夫は純文学
      松本清張は大衆文学

この違い。
龍一の父上は文学も純粋でなきゃいけないという人だったのですね。



いろいろ驚く内容でした。

例えば  足軽記録の中の上司に秀島氏の名前があったような?
秀島さんと言えば、秀島家のお嬢さんが女子学習院時代に
さる華族の人の親友で、
英彦山はものすごくスピリチュアルな場所だから是非行くように、とおっしゃっててドータラとか


三つ柏さんも「スピリチュアル」という言葉をお書きで
他にも2つ3つ
ドキッとするようなことが番組の中にありました。


もし日本に行くなら  英彦山  に行ってみたいなと思いました。
[13]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月25日 11時19分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 九州地域で色々な災害がかさなっていること、お見舞い申し上げます。
去年、大分を訪れた時にも、すでに耶馬溪にはいけませんでした。松島
十湖は、ある手紙の中で、耶馬溪が天下の公園だとほめておりましたの
で、一度見たいと思っていたのですが……。
 いずれにしましても、九州は「火の国」であること、火山の国、火山
灰の積もった国であることを、最近の火山の噴火の連動や災害で、改め
て認識させられました。

 英彦山には行ってみたかった―せめてその姿だけでも見たかったので
すが、ツアー旅行では、かないませんでした。
 でも、次の機会には……と考えております。

 英彦山は秦氏にからむということですが、秦氏については、いろいろ
取りざたされているものの、どうもはっきりとつかむことができません。
私も、古代史の探究は秦氏から入り、史料もたくさん集めたのですが、
主体となる人物が秦河勝以後、際立った人がなく、どうも漠としてつか
みようがありません。このスッキリしない状態がいつまでつづくのかと
思うと、つらいです……何か、決定打がほしいところであります。

 大久保長安ははっきりと「秦氏」を名乗っておりました。「世阿弥」と
もルーツが同じになり、服部氏とも関係しますが、秦氏にも関係している
ようであります――
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月25日 13時28分57秒 ) パスワード

三つ柏さん


英彦山と秦氏で検索すると秦氏の名も出てきますし。http://trakl.exblog.jp/17526965/


http://www.google.com/search?ei=M_rfWrOFCoe80wL53IWwDw&q=%E8%8B%B1%E5%BD%A6%E5%B1%B1+%E7%A7%A6%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E8%8B%B1%E5%BD%A6%E5%B1%B1+%E7%A7%A6%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.12...2983.6067.0.9650.3.3.0.0.0.0.331.567.0j2j0j1.3.0....0...1c.1.64.psy-ab..0.0.0....0.cH7VV-2zO9Q


耶馬溪

高校の時の修学旅行が九州一周でした。
とはいえあんまり記憶に無いのです。
地名は記憶の片隅にあります。

         耶馬渓、行ったはず。
         青の洞門、行ったはず。
         奇岩の数々、見ているはず。

でも「行ったけど、何にも印象に残って無い。今なら縄文人のDNAが騒ぐのに」と残念です。

今になってネットで画像を見ると自然の美しさに目を奪われます。
いつか時間をかけて九州に行ってみたいものです。

         日本人はどこから来たのかな?とか
         秦氏はどこに着いたのかな?とか
         縄文人は自然の中でどのようにして神話や伝説を作っていったのかな?とか
感じてみたいです。
[15]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月26日 23時29分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「類は友を呼ぶ」の法則……

 @天方道興(1517-1598):娘は青山忠成の妻(忠成と成重は義理のいとこ)
息子は松平信康の検使役 服部半蔵正成の代わ
             りに介錯。
 A青山忠重(1525?-1671):服部平大夫正尚の母(青山忠教の娘)といとこ
 B服部中保次(1526-1587):服部中保正の父、服部中保俊の祖父
 C水野忠重(1541-1600):妻は顕如の妹 家康の母於大の弟 家康の叔父  
 D徳川家康(1542-1616):
E服部半蔵正成(1542-1596):
F服部平大夫正尚(1545?-1607):西郷局の継父 秀忠の義理の祖父
G大久保長安(1545-1613):
H青山成重(1549-1615):服部平大夫正尚の弟 青山忠重の養子となる
I大久保忠隣(1553-1628):大久保長安の寄親
J茶阿局(1555?-1621):家康の側室 忠輝の母 娘は花井吉成の妻
K松下常慶(1558-1624):五男房利の継室は大久保忠重の娘
L服部中保正(1564-1615):保次の長男 保俊の兄 秀忠に仕える
M青山成国(1565?-1613):大久保長安の三男 青山成重の養子とにる
N花井吉成(1567-1613):長女は大久保長安の六男の妻
O服部正重(1580-1652):大久保長安の長女が妻
P服部中保俊(1590?-1651):花井吉成の次女が妻 寛政重修諸家譜では、
               水野太郎作清次の娘が妻となっている。

次回に続く――
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月27日 07時41分57秒 ) パスワード

三つ柏さん

錚々たるメンバーですね。
長安が存命中は皆さんすごい力を持っていたのでしょうね。

長安が死んだら粛清の嵐。

政治闘争はやはり恐ろしいです。
これが男の世界というのでしょうね。
今でも報復人事ってありますから。
[17]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月27日 08時51分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 類は友を呼ぶ……身分・血縁というものは、昔は人間関係をつなぐ太い
糸であった。身分というのは、士農工商という江戸時代に造られた制度の
ことだけではなく、士農工商に属さない古代からの埒外の人々もあった。
 この士農工商に属さない埒外の人々についての、最上のテキストは見つ
かりませんが、それでもこれは重要な要素でありますので、なんとかまと
めてみたいと思っております。

 その前に、大久保長安と花井吉成の子供達の結婚相手を、もう一度振り
返ってみたいと思います――

     
[18]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月28日 19時53分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日はゴールデンウィークの初日、ほとんど五月晴れといっていい天気
の空に、小さな白いボールが放物線を描いて飛んで行くのをずっと追い続
けておりましたが、結果は期待外れに終り、疲れだけが残った一日であり
ました。

 花井遠江守吉成の墓は、松代の「西念寺」にあるという。この寺の名前、
先日に東京へ服部半蔵正成のお墓参りに行きましたが、その墓のある寺の
名前が「西念寺」、奇しくも同じでありました。半蔵正成と吉成、どれ程
の人間関係であったのか、是非知りたいものであります。

 半蔵正成の次男・正重は、大久保長安の長女を室にしておりますが、そ
れは半蔵正成と長安との関係の親密さを物語っていると言ってもいいと
思います。
 正重は長安と共に、佐渡金山の差配などを担当しますが、それは家康の
命によるものだったと思われます。

 大久保長安事件に関しては、正重は長安の娘婿ではあるけれども、事件
とは関係なしと許されたところまではよかったのですが、その後、無許可
で佐渡を離れ、対岸の「出雲崎」に渡ったことを咎められ、越前村上藩主
「村上忠勝」に預けらています。(後に、この出雲崎へ松尾芭蕉は何故か
訪れております……!?)

 この村上忠勝の室は、「花井吉成」の娘。偶然のように見えるけれど、
それは必然の結果だったのでしょう。この人間関係の裏も知りたいもので
あります――


 
 
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月29日 02時08分25秒 ) パスワード

三つ柏さん

>村上忠勝の室は、「花井吉成」の娘。
>偶然のように見えるけれど、それは必然の結果だったのでしょう。
>この人間関係の裏も知りたいものであります――

ですよね
まことに不思議です。

どういう閨閥になっているのか?


もう亡くなった某旧華族が言うには「絶対に悪口はしない」。
つまり、みんな繋がっているから、XX家の悪口を言うことは自分の顔に唾を吐くこと、と言ってました。



そして西念寺さん
ここも不思議ですよね。


                        とはいえ、うちの母方ご先祖さまの戒名は  XX寺殿XXXXXX西念大居士  ですから
                        「西念」は 仏教上のフツー名詞なのかも。笑


西念寺さんの情報について以下コピペ:

http://4travel.jp/domestic/area/koushinetsu/nagano/nagano/nagano/temple/11559264/
長野県長野市松代町松代898


寺の境内の入口に「花井吉成」の墓とあったので、気になって入ってみて住職に聞いてみました。すると、真田家が来る前の松代城の城主だった方だそう。誰でも自由に墓参りができます。松代といえば真田一色ですが、ある意味、この寺は真田以前の松代を感じられる場所でした。



真田家松代藩初代藩主・真田信之の側室・右京の墓がある梅翁院から、真田信之の御霊屋がある長国寺に行く途中西念寺に立ち寄りました。

四代目境川を継いだ松代藩お抱えの相撲力士の墓があります。
いわゆる観光名所ではないので他に訪れる方はいなく境内はとても静かでした。時間があれば立ち寄ってもいいかなと言った感じです。



西念寺の境内には、江戸時代の相撲力士、君ヶ嶽助三郎の碑があります。最高位は前頭筆頭で、小兵ながら大関や小結を倒す活躍。境川の養子となり、四代目境川という年寄となり、現役力士と年寄を兼ねた人物だったということです。




http://www.grn.janis.or.jp/~ma-vol/rekishi-bunka/tera.htm

送経山西念寺(浄土宗)  

西念寺ははじめ西応寺といい、
正平20(1365)年、海津城の大手門南の辺りに建立されていたが、
慶長5(1600)年に現在地に寺領15石を与えられて移された浄土宗の寺である。


慶長8(1603)年には徳川家康の6男松平忠輝(1592〜1683)が松代城主になったが、
このとき忠輝を補佐したのが花井遠江守吉成である。

この吉成が当寺を再興したので、中興開基とされている。


忠輝が越後高田城に移った後も、吉成は海津城代として、約10年間に北国街道の改修・伝馬宿の設置・裾花川のはんらんを防ぎ、
川中島に用水路を引くなどこの地方の開発に大きく貢献した。

吉成の墓は西念寺墓地にあり、
江戸時代初期に建立されたと思われる宝篋印塔で市指定の文化財となっている。
 

また松代宿の問屋で、町年寄と検断をも勤めていた杭全家の墓地があり、
寺への入り口の右手には江戸時代末期に江戸相撲で活躍した、東寺尾出身の「君が嶽」の供養塔もある。

以上


どうして寺の名前が変わってしまったのでしょうね。
謎ですね。



タマが飛ばなかったのは、まだ体が冷えて固まっているからでしょうか?
ふふふ
[20]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月29日 12時34分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松尾芭蕉は、奥の細道の旅の後半、日本海側を回り、新潟県の出雲崎に
泊まっています。この時に「荒海や 佐渡に横たふ 天の川」という句を
創ったとされます。
 この時の芭蕉のシチュエーションを想像しますと、出雲崎と日本海と、
その向こう横たわる佐渡ヶ島、つまり「出雲崎 vs. 佐渡ヶ島」の構図
になります。

 それはまた、「出雲崎に立った服部正重 vs. 佐渡ヶ島の大久保長安
(祖先は世阿弥)」の構図とも重なります。

 更にまた、それは「出雲崎に立った松尾芭蕉(祖先は服部氏) vs.佐渡に
流された世阿弥(祖先は服部氏)」の構図ともなります。

 天の川は織姫で有名ですが、これは機織女=服部氏を想起させますし、
何よりも芭蕉が出雲崎を訪ねたのは七月、即ち七夕の時期……織姫と彦星
は年に一度、七夕の時に会うことができるという……つまり、芭蕉は祖先
を前にした場所に立ち、祖先にやっと会えたとの嬉しさと、祖先の霊への
慈しみと、その冥福への祈りに満ち満ちていたのではないだろうか……と
思うのですが、あを様いかがでしょうか。私の勝手な妄想でしょぅか?

 
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月29日 15時02分42秒 ) パスワード

三つ柏さん

>芭蕉は祖先を前にした場所に立ち、
>祖先にやっと会えたとの嬉しさと、祖先の霊への慈しみと、その冥福への祈りに満ち満ちていたのではないだろうか

いいですね。
ロマンに満ちています。

一族の興亡を芭蕉はヒシヒシと感じたかもですね。


ちょうど昨日ジム仲間の日系人が
母上が新潟の出身で
佐渡に行って金を掬う遊びをしてどーたら
と言ってました。

まさかココでも佐渡の話が出るとは思いませんでした。


彼女とは結構気が合うのですが
ひょっとすると  佐渡  あたりで繋がっているのかも。

いろいろな事が合うのです。

安楽死を望んでいることとか
遺体を寄贈したいこととか
寝たきりで介護にお金を払い続けるのがバカらしいこととか

                      自宅介護で看護師に1日来てもらうと最大で1日600ドルかかりますから。
                      1か月1万8000ドルですよ。


今は彼女の娘さんを再婚させる話をし出していて
私はRさんがいいと思うよ、と言ってRさんの電話番号をあげたら
実は彼女もRさんを考えてて「でも電話番号を失くしてしまった」と言い

ホントにまるで自分の分身のようです。
言葉の選び方までソックリなのです。向こうは英語ですが。

DNAで繋がっているのかも。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月30日 03時20分58秒 ) パスワード

越<前>村上藩主「村上忠勝」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E5%BF%A0%E5%8B%9D



死没
元和9年9月26日(1623年11月18日)

墓所
兵庫県篠山市黒岡の村上周防守供養塔 (改易になったから)

官位
従五位下、周防守



越後村上藩主

氏族
戸田氏→信濃村上氏

父母
父:戸田内記、母:村上頼勝の娘
養父:村上頼勝


正室:花井吉成の娘


村上 忠勝(むらかみ ただかつ)
江戸時代前期の大名。越後国村上藩主。


戸田氏繁(戸田勝成か)の末子とも言われるが、おそらくは戸田内記の長男である。
母は村上頼勝の娘(妹とも)。
外祖父・頼勝の養嗣子となる。

元和2年(1616年)、家督を継ぐ。

元和4年(1618年)、家臣の魚住角兵衛が暗殺されると、その黒幕が家老高野権兵衛ではとの風評が立ち、論争となる。

幕府に報告して3月6日に裁決されたが騒動が収まらず、4月9日に家中の論争が多いとの理由で改易された。


大坂の陣に前後して、幕府寄りだった高野派と豊臣氏に味方すべきと主張する家老・冨田次郎左衛門派の抗争があったとする見解もある[1]。

捨扶持300石を与えられて丹波国篠山に流罪とされ、松平康重に預けられた。
林八郎右衛門ら家臣二十数名が同地に従った。

元和9年(1623年)に死去した。享年は25とも28ともいう。


[1]
大場喜代司、別冊歴史読本『御家断絶 改易大名の末路』



花井吉成の娘はどうなったのでしょうね。
普通は実家に戻るとしたものですが。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月30日 03時33分39秒 ) パスワード

戸田内記(以下は村上忠勝の父についてです)祖父の最期につては1番下にURLを書きました。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E7%94%B0%E5%86%85%E8%A8%98


戸田 内記(とだ ないき、生年不詳 - 慶長5年9月15日(1600年10月21日))

戦国時代の武将。戸田勝成の子。名は重典か。


石田三成に仕え、衆道の関係にあった。

慶長4年(1599年)、石田三成が藤原惺窩を佐和山城に招くための使いとして惺窩のもとに赴き快諾してもらったが、
関ヶ原の戦いが勃発し惺窩が佐和山に下ることはなかった。


慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて父とともに西軍方につき、北国口を守備していたが、東軍が迫るとともに美濃方面へと陣を移した。

本戦においては、大谷吉継隊に属して奮戦したが、松尾山に陣を張る小早川秀秋に続く脇坂安治・朽木元綱・赤座直保・小川祐忠ら四隊の寝返りにあい壊滅、織田長孝の部隊の攻撃を受けて父とともに討死した。


妻は村上頼勝の娘で、藤五郎という子供をもうける。

藤五郎と同一人かどうかは不明だが、
内記の子は村上周防守(村上頼勝)の養子となり、同じ官途の周防守(村上忠勝)を称したと「武家事紀」にある。

しかし、他に諸説あり。

頼勝の娘は内記討死後に織田忠辰に嫁したという。



http://sekigaharamap.com/toda-kathushige/
村上忠勝の祖父である戸田勝成の関ケ原の最期が載っています。
コピペガードつき。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月30日 04時06分15秒 ) パスワード

養父というか母方のおじいちゃんの村上頼勝は信玄と仲の悪かった村上義清の関係者のようです。一族なんでしょうね。


で、ここかがらビックリで


村上義清の乳母が出浦の妻だったそうで、この女性の孫になるのが、なんと!!!出浦盛清でした。

出浦氏はもともとが清和源氏の信濃村上一族で
出浦家の孫はNHK大河の「真田丸」で忍者の頭領の出浦盛清=寺島進が演じた=で
1546年生まれで1623年に78歳で亡くなっているそうです。   え゛???

1615年の大坂夏の陣で真田幸村と一緒に死んだのかと思ってました。
「真田丸」の中で、幸村と一緒に死んだと描かれていたのは猿飛佐助だけでしたが。

そうか、あの喰えない出浦の爺さんはしぶとく生き残ってたのか。
で、この爺さんは幸村の兄に仕えて、子孫は真田家の家老になっていたんですって。



戦国時代の武家の名字はゴチャゴチャしてるし親戚だらけだし名前に至ってはみんな通字を用いるから誰が誰やらこんがらがりまくります。


小さな人口の枠の中で、さらに隣近所と敵味方になり、情報戦やゲリラ戦をするから親戚になって技術の交換もしたのでしょうね。


昨年の「直虎」は背景の南朝方だったというのが分かってましたから
細かいハナシにピンと来ましたよね。



人間関係がもっと分かっていたらNHK大河はもっと楽しめたのに。
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月30日 09時29分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私は「長野郷土史研究会」にも入会しておりますが、そこから定期的に
論文集『長野』が送られてきまして、今回は第309号。その中に「村上
氏・栗田氏と山王信仰」という草間律氏の論文が掲載されていました。

 あを様の出浦氏に関する話を読み、実はこの論文集にも出浦氏のことが
載っておりましたので、お知らせしようかなと思っていたところで、偶然
の一致でありました。

 村上氏については、「村上水軍」が最も有名でありますので、そちらの
関係の本『村上水軍全史』(森本繁著)にも再度目を通してみました。
 ―となると、河野氏も関係して来るということにもなります……が、細
かくやり始めると、きりがないので、この本より村上氏の系図関係だけ参
考とさせていただきます――
 
[26]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月01日 00時55分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 清和源氏「頼信」の次男「頼清」の嫡男「仲宗」は村上氏の祖となる。
 仲宗には四人の男子があり、長男の「惟清」が白河上皇を呪詛したと
いう嫌疑で伊豆大島へ配流となり、これに連座して、父の仲宗が周防国
へ、次男の「顕清」が越前国、四男の「盛清」が信濃国へ配流となった。
この盛清は、すでに長男惟清の養子となっていたので、越前国へ配流に
なった顕清の子の「為国」「定国」を自分の養子とし、宗家を守った。
兄の為国が信濃村上氏の祖、弟の定国は保元の乱の頃、瀬戸内海へ進出
し、伊予村上氏の祖となったということであります。

 村上義明と忠勝……信濃村上氏の庶流でありますが、詳細は不明。
 忠勝が花井吉成の娘を室にしたということの由縁は何であったのか?
……ひょっとしたら、「山王信仰」であったかも知れない。それについ
ては、ただ今調査中――
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月01日 03時01分12秒 ) パスワード

三つ柏さん


>忠勝が花井吉成の娘を室にしたということの由縁は何であったのか?

探し出すのは大変でしょうね。

でも手掛かりの空想としては
   反武田
というのも考えられますね。

反武田ということから  出浦なんかが信濃の忍者の補強に松下常慶の知恵を得たかった  ということも連想が行きますし。


ヒバリさんのブログからは随分前から伊賀と関係があったようで
望月家と服部家は関係があったろうし
さらに出浦と松下も関係がもともとあったのかも。

信濃と遠江は古から交流があったわけで村上家と花井家が婚姻を結ぶ素地はもともとあった、ということかも。


こういうハナシは楽しいですね。
[28]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月02日 00時43分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 イメージの狩人であり、言葉の魔術師であった松尾芭蕉には、佐渡ヶ島
はどう映ったかの問題ですが、俳聖とよばれた芭蕉の句を芸術的・哲学的
に、また技巧の云々で捉えるのは正道ではありましょう。でも芭蕉本人の
心の中を誰も覗き込んだ訳でもない。それぞれがそれぞれに解釈している
だけなののであります。

 私の勝手な解釈を続けるならば、佐渡ヶ島を前にして、芭蕉は究極的に
は、「世阿弥」と「大久保長安」をオーバーラップさせたのではないかと
考えております。
 佐渡に配流になった世阿弥、佐渡金山を手がけた長安、どちらも悲劇的
な最後ではありました。佐渡は金山として輝き、天の川は金をちりばめた
天蓋に見えたかも知れません。

 それよりも、大久保長安は、禅竹の曾孫、禅竹は世阿弥の娘婿でありま
した。佐渡を前にした芭蕉には、世阿弥と長安、つまり高祖父と玄孫のオ
ーバーラップした笑顔が見え、荒海の中に浮かぶ島影から一斉に夜空に向
けて放たれた金砂がまぶしかった……それは芭蕉の縁者の猿楽師たちの残
した芸術であり、掘り出した金であった。

 そもそも、芭蕉が芭蕉と名乗ったのは、深川の庵の側に芭蕉という植物
が生えていたからというのが正論なのでしょぅが、実は、禅竹はその昔に
「芭蕉」という能の謡曲を作っておりました。松尾芭蕉は、その謡曲を何
気なく人にわからないように自分のペンネームにしたのではないか。つま
り、猿楽師禅竹の心を、自分のものとして大事に受け継いだのではないか
……というのが私の考えであります――

[29]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月03日 01時45分24秒 ) パスワード

三つ柏さん

>実は、禅竹はその昔に「芭蕉」という能の謡曲を作っておりました。

よくぞここまでお調べになりました。
拍手

これはビックリでした。
ものすごい説得力!


>深川の庵の側に芭蕉という植物が生えていた

この場所に決めたのは「縁」を感じたからなのかも、ですね。
[30]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月03日 05時41分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は舞阪で夜会があり、初鰹の、しかも「もち鰹」(死後硬直しない内に
持ち帰り、刺身で食するもの)を堪能いたしました。初鰹というと、思い浮か
べるのは、次の句です――

 @松島十湖作「浜松は 出世城なり 初鰹」

 A山口素堂作「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」

 松島十湖は今芭蕉とも言われる浜松の俳人で、芭蕉をこよなく尊崇し、生
涯に6000句以上(10,000句に近い)の俳句を作っております。
 山口素堂は、芭蕉とはきわめて早い時期から友人関係にあったと言われて
おります。

また、山口素堂は、芭蕉の秘密を知る一人でもあります。この辺のことは、
近い内にまとめてみたいと思います――

 

 
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月03日 08時21分07秒 ) パスワード

三つ柏さん

山口 素堂
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E7%B4%A0%E5%A0%82

寛永19年5月5日(1642年6月1日) - 享保元年8月15日(1716年9月30日)

家業として甲府魚町で酒造業を営む家庭に生まれ、幼少時に甲府へ移る。

20歳頃に家業の酒造業を弟に譲り江戸に出て林鵞峰に漢学を学び、一時は仕官もしている。

俳諧は寛文8年(1668年)に刊行された『伊勢踊』に句が入集しているのが初見。

延宝2年(1674年)、京都で北村季吟と会吟し和歌や茶道、書道なども修める。翌延宝3年(1675年)、江戸で初めて松尾芭蕉と一座し深川芭蕉庵に近い上野不忍池や葛飾安宅に退隠し、
門弟ではなく友人として以後互いに親しく交流した。晩年には「とくとくの句合」を撰している。

                       この人物もアヤシイですね。並みの酒屋の人間じゃないですね。↓

元禄8年(1695年)には甲斐を旅し翌元禄9年(1696年)には甲府代官櫻井政能に濁川の開削について依頼され、山口堤と呼ばれる堤防を築いたという伝承がある。


伝承の実のところはどういうハナシだったのでしょうね?
酒屋だったから金持ちだったから工事費を出したというなら納得しますが
実は
酒屋は表の商売で裏稼業は金掘りだった?
[32]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月03日 10時31分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「酒屋は表の商売で裏稼業は金掘りだった?」……このご指摘、ある意味
で当たっております。

 これらの秘密について、詳しく解説している本(単行本)があります。それ
は光田和伸著『芭蕉 めざめる』という本です。近い内に送ります。芭蕉の
秘密もよくわかります。

 俳聖芭蕉を汚したくないので、忍者説や隠密説については云々せずにおこ
うと思います。
 ただ、世阿弥や禅竹等の猿楽師との関係については、深く考察して行きた
いと思っております――
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月03日 13時59分16秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございます。楽しみに待っています。


こうやって考えて行きますと
大久保長安は甲斐で武田の家臣をやっていた。
甲斐は「金」があって日本有数の最強軍団だった。

家康にしてみれば大久保長安には感謝はしたけれど実は恐れてもいたというのが分かって来ますね。

いずれ自分に対抗する勢力が生まれるのじゃないか
その可能性が大久保家を中心とした同心円を描く武家じゃないか。
せっかく豊臣家を潰したのに・・・


だから服部家は大名には成れなかったのかな?

歴史って面白いですね。
  もしも「たられば」じゃなくて
  「何故だめだったのか?」
その原因を考えてみるのも面白いですね。
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月05日 10時45分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 気候が落ち着かず、寒暖の差があり過ぎ、体調も狂い気味、頭も冴えま
せん――

 「まつろわぬ人々」「埒外の人」「陰の側の住民」「マージナル・マン」
「公界往来人」「道々の者」「まれ人」等と呼ばれるアウトサイダーにつ
いていろいろな本を読み直しておりました。しかしながら、色々な意味と
表現があり、それらを論理的にすっきりした形ではまとめるまでには至りま
せんでした。

 そういう中で、大久保長安は、猿楽師から兵站・土木・鉱山・民政等の
経営の中枢を担うまでになりますが、ある意味でその生涯は「逆エポック
メーキング的」でりました。「逆」というのは、いい方に発展ではなく、
世の中は悪い方に向かったということであります。

 それはどういうことかと言いますと、徳川の世の初期には、「代官制」
や「奉行制」は「請負制」、つまり「入札・管理委託」のようなもので、
一定の収入を前提に、経営を請け負い、もし不足すれば自分の責任で補い、
余れば自分の収入にしたということです。『中泉代官所』という本を読み
ましても、そのことがよくわかります。佐渡や土肥の金山奉行についても、
請負制でありました。

 それが、ある時期より、そういう仕組みは排除され、幕府側の人間―即
ち官僚が担当する仕組みとなりました。
 大久保長安も全国の天領の代官頭の一人でありましたし、金山奉行であ
りましたが、死後、そんな個人に任せる形はほとんど消滅したようです。

 つまり、このあたりから近世の政治運営方式が確立されて行く――「組
織化」と「法制化」であります。江戸時代の身分制度の厳しい考え方も、
ここらから形成されて行ったのだと推察いたします。

 猿楽師と鉱山師と忍者……大久保長安と忍者の関係については表面には
出てきませんが、逆に忍者は猿楽師に化けて諸国に侵入したことを思えば、
大久保長安もその一人と言っていいかも知れません。そして長安の人脈を
見れば、服部党との関係を築いています。
 そして、大久保長安事件の前後あたりから、服部一族の没落が始まるの
は、やはりいわゆる官僚制に整備して行く中で、それとそぐわなかったか
らではないでしょぅか……?

 芭蕉は1644年生れ、三代将軍家光の時代、春日局の死の翌年であり
ました。まだまだ戦国から江戸初期についての色々な情報・知識・空気感
はそんなに狂わず残っていた、かなりビビットに残っていたと推察いたし
ます――
[35]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月05日 18時53分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日、ハワイ島で地震があったということですが、ご無事でしょうか?
 キラウエア火山の噴火ということで、ハワイもまた火山列島ですので、
活動が活発化しているのでしょうか?
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月06日 04時38分42秒 ) パスワード

三つ柏さん

お見舞いをありがとうございます。

椅子に座っていたのですが、揺れている間、気持ち悪かったです。
我が家はタワマンなので、船酔いみたいな感じでした。
地震だと思いつかなかった最初は眩暈かな?貧血かな?低血糖かな?なんて考えてました。



>大久保長安事件の前後あたりから、服部一族の没落が始まるのは、
>やはりいわゆる官僚制に整備して行く中で、それとそぐわなかったからではないでしょぅか……?

ちょうど秀吉の政権が三成に動いていく時のような混乱を思い出しました。


今の時代と我々の時代を一緒に考えていては時代に乗り遅れているんですよね。
ビットコインなんてさっぱり分からないのですが
あれで大儲けをした人がいたりして
私には虚構の世界なのにそんなで良いのか?とついて行けてないです。

大久保長安方で処分された人々には理解が出来なかったでしょうね。
[37]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月06日 15時13分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 火山活動について勉強してはおりませんが、全般的に火山活動が活発化
しているようで心配です……。

 さて、『浜北市史 通史上巻』を読んでおりましたら、小和田哲男氏担当
の章に「山王信仰と秋葉信仰」という項目があり、浜北の「寺島」(私の住む
村のほぼ隣村)に、山王という名前の付く小字がまとまってある一区があり、
そこには「山王日吉神社」があったのだろうと述べています。
 日吉神社といえば、比叡山の東麓にある「日吉大社」が本社であります。

 小和田哲男氏は、この山王日吉神社についてこう述べています――

 「現在の感覚だと、人々は家を構え、ある一定の場所に定住して生活を
 するというのがあたりまえであるが、中世、定住せず、"わたり"と呼ば
 れる人々がたくさんいた。さきの木地氏はその典型であるが、金掘りな
 どもそうであった。山王日吉神社は、どちらかと言えば、そうした非農
 業民によって祀られた神だったのである。」

 寺島の西に位置する万斛(まんごく)という所に、鈴木権衛門家(大庄屋)
があり、家康は「茶阿局」をそこに預け、鷹狩りの度に訪れていたという
ことであります。
 そして、寺島には「花井氏」が多く住んでおり、家紋から推測すると、
花井吉成の花井氏系統であることが濃厚であります。
 茶阿局は、本名を於久といい、本姓は河村。もとは、遠江金谷の鋳物師
・山田某の妻でありました。茶阿は家康の側室となり、忠輝を生む訳です
が、前夫との間に於八という娘があり、その娘の夫になったのが花井吉成
であります。
 花井氏が何故寺島に住んだかについては不明ですが、日吉神社の山王信仰
とすぐ結びつけられるものではありませんが、山王信仰が先ほどの"わたり"
の民の信仰に結びついていたいうところにヒントがあると考えています――

  
 
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月07日 02時56分59秒 ) パスワード

三つ柏さん

>茶阿局は、本名を於久といい、本姓は河村。
>もとは、遠江金谷の鋳物師・山田某の妻でありました。
>茶阿は家康の側室となり、忠輝を生む訳ですが、
>前夫との間に於八という娘があり、その娘の夫になったのが花井吉成であります。


茶阿局は鋳物師の女房でしたか。
ヲイヲイという感じ。

西郷局の養父の服部正尚を思い出します。
鍛冶屋職人とか猿楽師をやってたとか言われる服部正尚が思い浮かび
やっぱりアヤシイ。


アヤシイついでにいろいろアヤシイと思うようになりました。


花井吉成についてもう1度ウイキを見てみます:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E4%BA%95%E5%90%89%E6%88%90


? - 慶長18年8月21日(1613年9月25日)

江戸時代初期の武将。
松平忠輝の家老。
通称三九郎、後に松平遠江守の名を許される。

室は徳川家康の側室茶阿局の前夫との子於八(忠輝の異父姉)。
子に
娘(村上忠勝室)、
娘(大久保長安六男の大久保権六郎(右京長清)室)、
玄芳院(服部仲保後妻)、
花井義雄(主水正、よしたけ)、
花井義賢(のちに松下に復姓)、
花井義房。


三河国東部に松下氏傍流の家に生まれる。             ここで「わたり者」とか「エタ」とか「非人」とか言われる秀吉
                                松下家と縁のあった秀吉の関係を思い出します


若くして徳川家康の近習として仕えた。
関東転封(1590年)の直前、家康が遠江の鷹狩で見初めた茶阿には当時3歳になる娘(於八)がおり、これを後に妻とした。

慶長8年(1608年)、家康の命により家康と茶阿の子である六男の忠輝が、川中島藩主で海津城(のちの松代城)城主松平忠輝の家臣となる。

慶長15年に忠輝は加増され、越後国高田藩主となったが、松代を含む北信四郡もそのまま領したので、吉成が城代を務めた。

吉成父子は北国街道の改修や、裾花川の瀬直しおよび犀川より川中島平へ用水路を引き水田開発をするなどの政策を行った。

そして、これらの土木事業は領民に感謝され、今でも花井神社として祀られている。


1614年(慶長19年)松平忠輝配下の海津城主の花井吉成に宛がい与力分として6千石が与えられた中に桑原村、若宮村、内川村の名が見られる。
他に更級郡の四ツ屋村、二柳村、とふくじ(東福寺)村、今井村、水内郡のなかごい(中越)村、高井郡の沼目村が列記されている(花井家文書)


慶長18年8月21日に死去、法名は摩尼宝殿覚月照徹大禅定門。
墓所は長野市松代町松代の西念寺。

吉成の没後、子の義雄が待城の城代となる。



苗字あれこれ
http://komabajitiku-kosumosu.jimdo.com/%E9%A7%92%E5%A0%B4%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E8%8B%97%E5%AD%97%E3%81%82%E3%82%8C%E3%81%93%E3%82%8C/

以下コピペ:

花井=清和源氏酒井氏氏流である。        ここもアヤシイ。家康の親戚も酒井氏ですよね。

名古屋市緑区鳴海町花井をルーツに        ここもアヤシイ。鳴海の服部家を思い出します

中世、土岐氏の老臣、知多の吉川城を居城。


花井氏の先祖は花井播磨守信忠、
子孫清捨の墓、位牌は天性寺にある。


ということは  日本人はみんな繋がってしまいますね。
酒井家や家康にまで繋がってしまった。

元は南朝方繋がりなんでしょうけど。

秀吉の家だって南朝方に決まってるし。母が平家の土地だった御器所出身ですから。で、秀吉の幼名が日吉丸。

もう笑っちゃいます。
日本人、すご過ぎ。
[39]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月07日 17時00分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「山王信仰」というものに、何か重大な秘密が隠されているような気が
いたします。
 マイペディアで調べますと――

 山王信仰: 比叡山の麓にある「日吉大社」の祭神「山王権現」に対す
      る信仰。「最澄」が比叡山を開いた時、唐の天台山国清寺に
      祀られている山王祠の例にならい、地主神「大山咋(おおやま
      くい)神」を「山王神」として祀り、延暦寺の守護神としたの
      に起こる。
       後に、「賀茂」・「春日」・「白山」の諸神を勧請、上・
      中・下各7社の社を建て、山王二十一社とした。
       天台宗の興隆とともに朝野の信仰を受け、全国に普及した。
      ことに「サル」を「神の使い」とするので、「庚申信仰」と
      集合し、安産・子育て・縁結びの神として信仰された。

 山王一実信仰:日吉(ひよし/ひえ)神道、一実神道、天台神道とも。天台
      宗側から出た神道説で、法華経に基礎を置き、比叡山延暦寺
      の地主神たる日吉神を山王としてあがめる。平安後期か鎌倉
      初期に興ったと考えられ、江戸時代まで広く行われ、全国各
      地の山王社分布のもととなった。
       さらに江戸時代初期、「天海」の出現によってとみに流行
      した。

 上記のカギカッコで囲った部分に、秘密が隠されていると思います。一度
比叡山の麓の日吉大社を訪れてみたいと思っています――   
[40]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月08日 13時48分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日、『松尾芭蕉の謎』、『芭蕉 めざめる』を送りました。
 「芭蕉めざめる」というのはどういう意味かと申しますと、深川での
禅僧仏頂との出会いにより、芭蕉は自分の俳句創りの神髄にめざめたと
いうことであります。ぜひご一読下さい!
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月09日 02時20分54秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございます。
楽しみにしています。


「芭蕉」が「めざめた」とは?
芭蕉にも 覚醒=アウエイクニング があった、とは!


早速仏頂について検索してみました:

芭蕉の禅修行
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/hpohta/fl-bashou/basho-shugyou.htm
文字化けしてて読めません:

                       芭蕉は仏頂禅師に参禅し、悟りの印可を得たと伝えられている。
                       芭蕉の俳句が人々の心を打つのは、禅、仏教、
                       すなわち、人間の真実が秘められているからであろう。

これを読みたかったのですが。


そうか、これまで芭蕉の句を表層でしか見てなかったのか。


楽しみにしていますね。
[42]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月09日 13時48分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 仏頂と芭蕉の関係の解説サイトのご紹介、ありがとうございました。世
の中にはいろいろ調べている人がいるのですね。なかなかいい論文だと思
います(おしむらくは、文責者の名前がわからない……文字化けのせいで
しょぅか?)

 『芭蕉 めざめる』(光田和伸著)はすごくいい本です。芭蕉研究には、
必読本であると思います。到着までには十日間位かかると思いますので、
それまでは、ゆっくりと論考を進めて行きたいと思います。

 本日、『芭蕉全句集』を通読いたしましたところ、やはりスケールの
大きい俳句は、芭蕉41歳から51歳(没年)までの10年間に書かれて
おります。中でも圧巻は『奥の細道』でありました。その次に『猿蓑』。
次に『更科紀行』。次に『野ざらし紀行』の順でスケール感のある作品
がありました。

 17文字という小宇宙が、瞬く間に大宇宙に拡がる……「17文字の
ビッグバン」と言ってもいいと思います。

 その最初の一歩は、「古池や 蛙飛びこむ 水のおと」だと思います。
この句は、我々を「一瞬」にして「無限」の時空間に引き込み、そして
時間が止まります。いつまでもその余韻(羊水)に浸っていたい感じが続
きます……。

 いずれにしましても、俳句よりも芭蕉の背景の人間関係の謎の方が、
探求課題でありますので、踏み外さないようにいたします――

[43]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月09日 14時25分01秒 ) パスワード

三つ柏さん


>その最初の一歩は、「古池や 蛙飛びこむ 水のおと」だと思います。

>この句は、我々を「一瞬」にして「無限」の時空間に引き込み、そして時間が止まります。
>いつまでもその余韻(羊水)に浸っていたい感じが続きます……。


これは、いいですね。

この句に  対で良いなと思う句に   「閑さや岩にしみ入る蝉の声」  があります。


こういう世界を「いいな」と思う日本の心は、そうか、芭蕉から来てたのか、と。
その芭蕉は禅宗の世界に我々を誘っていたのか、と。


宇宙の果てしない広さとか突き詰めた根源の奥深さとかの二元性を感じますね。

久し振りでこの2つの句を思い出しました。
[44]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月10日 12時57分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 歴史のダークサイド(陰)の部分は、ミステリアスなアトモスフェアと
してずっとついてまわっています。
 私が三十代に購入した(させられた)分厚いD本は、幾度となく読んで
おりますが、今回改めて読んでみて、スラスラとわかるようになりまし
た。それは、ここ四年間で歴史の知識が深くなったということでもあり
ます……。このD本、疑っておりましたが、やはりその分野での専門的
な研究の結集でもあり、最上のテキストであることは間違いないと思い
ました。日本の歴史の、古代から近世までのダークサイド全般にわたっ
て、総合的に述べられております。 

 徳川家を中心に集まった人々、「類は友を呼ぶ」の法則が適用できる
のではないか……それがミステリアスなアトモスフェアであります。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月10日 15時01分57秒 ) パスワード

三つ柏さん

>徳川家を中心に集まった人々、「類は友を呼ぶ」の法則が適用できるのではないか……
>それがミステリアスなアトモスフェアであります。

はい。
「類は友を呼ぶ」
そして後に「粛清」が起きる。



>日本の歴史の、古代から近世までのダークサイド全般にわたって、総合的に述べられております。 

教科書では絶対に教えないこと。
こういうの、面白いですよね。


最近、銀貨を売りに行きました。
    アメリカの1ドル銀貨
    オーストリアのマリアテレジア女帝の銀貨
    それから銀貨を使った紙幣挟み


銀は現在1オンス=28グラムが16ドルちょっと
金は1オンス1300ドルあたり。

でも日本の幕末の金と銀の割合は  6:1でしたっけ?


だから幕末の日本から金が大量に流出した。


ここでその犯人は誰か?
と考えると  坂本龍馬  がアヤシイ。

なぜ彼に高価なイギリスの蒸気軍艦が買えたのか?


長州は近代兵器が欲しいが手に入れられない
薩摩は米が欲しい
それで竜馬は薩長の利害関係を調整して薩長から金を引き出す。


ここで当時の日本人の知らない「西洋の金と銀の関係」の知識があれば、いくらでもお金は調達出来た。
日本人はどんどん銀を購入。坂本龍馬にはバブル到来。
明治政府が始まって政府にはお金が無い。バブルがバーストしちゃってました。
さぁ、どうするか?
喰えない人間は海外に棄民。
今年は布哇移民150周年です。「元年者」ってハワイでは言います。


だけど坂本龍馬のこのダークな秘密は国家機密。

「いろは丸沈没事件」で大金を紀州藩からせしめたことも
「万国公法」を持ち出すように知恵をつけた陰の協力者がいたのでしょうね。

坂本龍馬って凄いワルだったんだろうな。
だけどそこまでに行けたのは彼は最近ハヤリの表現で言うと「発達障害」だったのだろうなと。


坂本龍馬は悪く言われないからラッキーな人だなと。
でも彼が暗殺されるに至った事件には  容疑者  が多過ぎ。

長州や薩摩にしても坂本龍馬には内心消えて貰いたかったのだろうなと。
               薩長に土佐が加わったら  日本人の習性としては主導権を握るのに  2:1  で組みたがるから
               土佐の存在は出来る限り抑えたい。


実のところは何だったのだろう?


中国はいろんな民族が次々にとって替わる歴史だから
前の王朝について悪口をさんざん書きまくるけど
日本人とは穏やかな民族だなと思います。
ハッキリ書かないものね。


銀を売りに行った1つの理由に
経済チャンネルで「セールです。1ドル銀貨が今なら50ドルで手に入りますよ」とやってたから
ということは、10ドルで売れるってことか、と。
それでたくさんある銀貨の中から、3枚、どんな値段で売れるのか試しに持って行ったのです。

ドンピシャでした。
オーオー、ワタシって、なかなかスゴイじゃん!と自画自賛しました。


それで徳川幕府を潰した坂本龍馬って・・・実は・・・すっごいワルだったんだろうな、と。
良く言えば  優れた商人  ですね。(そこへ行くと岩崎弥太郎なんかレベルが小さいな、と)

              弥太郎さんとは謙虚に語って2重の縁で繋がるので言わせてもらいました。             

[46]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月11日 14時19分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 金さん銀さんという長寿のおばあちゃんが名古屋におられましたが、さ
ながら大久保長安の「佐渡金山」と「石見銀山」というところでしょうか。

 日本には金銀の鉱脈が豊富にあり、でもそれを見つけ、採掘し、精錬す
る技術というのは、大変レベルの高いものであると想像いたします。
 大久保長安は猿楽師であり、同時に鉱山師でもあった。というか秦氏で
もあったので、鉱山経営に必要ないわゆる金山衆のネットワークを活用で
きた……。猿楽師と鉱山師、猿楽師と忍者、忍者と修験道……あを様言わ
れるところの「アヤシイ(mysterious)人々」、そして「類は類で行動する」
という第2法則を見ることができます。

 つまり、歴史の第1法則「類は友を呼ぶ」、第2法則「類は類で行動す
る」……は動物社会の本能的行動とよく似ております。結束性が強いとい
うこと、そして自己保存的機密性が高いということ……。

 大久保長安は大蔵姓でありますが、その前は金春姓でありました。秦河
勝の直系筋と言われております。「金春」というのは、正に「金」に関係
していたということの証拠であります。「金」を「貼る」という職業か、
「金」を「墾る」という職業か、いずれにしても金を扱う職業であったの
ではないかと推察されます。柳生石州斎がかわいがった弟子の中に、金春
という姓の猿楽師がいましたが、柳生氏も同じ「類」でありそうです。

  
[47]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月11日 14時45分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私は寅年で、申(猿)には縁がありませんが、今、「猿」という言葉に
取りつかれております。

 狐猿という狐と猿をミックスした生き門がおります。見れば顔・尻尾
は狐様、手足・胴は猿様……一体どっちなのだ……狐の類か、猿の類か?
 あを様わかります?

 いずれにしましても、猿も狐も「神の使い」と宗教上されている例が
あります。「狐」は賢いのでわかりますが、猿は何で神の使いなのでし
ょう?
 猿田彦という神様がありましたが、猿田彦に由来するのでしょうか。
 昔、サール王という王がおりましたが、さーる王に由来するのでしょ
ぅか。
 芭蕉には、「猿蓑」という俳句集があります。今の私たちにはわから
ないニュアンスが、猿にはありそうです――
 
[48]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月11日 15時59分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 前レス訂正:生き門→生き物

 豊臣秀吉が「猿」と呼ばれたのは顔だけではなかった。
 豊臣秀吉が浜松の松下之綱に仕えたのは、偶然ではなく、そこに何らかの
宗教的、あるいは信仰的、あるいは出自的共通因子があった。

 伊勢神宮の側に、陰宮と呼ばれる「松下社(まつしたやしろ)」というのが
あるのを、昨日知りました。この松下社、佐々木源氏・松下氏とも関係あ
るのではないかと「勘」ぐっています……。

 松下氏は婚姻で柳生氏とつながっております。。松下氏はまた婚姻で大久
保氏とつながっておりますが、大久保忠隣は寄親・寄子として大久保長安と
つながっております。あと、花井氏や長安の子供達の姻戚、その中には服部
三家、村上家も入っております。服部氏は青山氏・天方氏とつながっており
ます。南朝の縁もありますが、もっとベイシックなところでつながっている
ような気がいたします。

 信濃村上氏は、「大山祇神」を信仰していました。伊予村上氏も、大三島
には大山祇神社がありますので、同様だと思います。大久保長安は佐渡金山
に大山祇神社を勧請しました。
 大山祇神は日吉大社の祖神であります。「大山祇神」は「猿」なので
しょぅか。あるいは「猿田彦」なのでしょぅか? その辺を調べてみよう
と思っています――

[49]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月11日 16時07分38秒 ) パスワード

三つ柏さん

>歴史の第1法則「類は友を呼ぶ」、第2法則「類は類で行動する」……は動物社会の本能的行動とよく似ております。
>結束性が強いということ、そして自己保存的機密性が高いということ……。

はい
まさに!

秦氏の中に特に見られる性分でしょうね。

秦氏は平安時代にはすっかり日本の表舞台から姿を消しましたが
実は
深く深く日本人の民族性と文化を作っていたのでしょうね。

               大きく出たな>ワタシ


庶民の田楽を能にまで高め音楽も洗練させた。
それでいて
裏活動としてはハニトラも仕掛けて情報収集で実は政治の世界にも参加していた。。


金さん銀さんというと
思い出すのは是川銀蔵。

菱刈金鉱山の発見で住友金属鉱山株の買い占めの仕手戦で大儲けをした人。


徐福の日本行きは  実は金鉱山捜し  だったのかなと空想が飛びます。


うちは「鉱山」株をいろいろ持ってますが   
                       ウランとかね(笑)
金の鉱山株の会社は南北アメリカ大陸で金銀銅鉛亜鉛を掘ってるのですが効率が悪い。                        つまりお金にはならない株。

そこにいくと菱刈鉱山の金産出率は世界トップクラスで
日本はやっぱり「黄金の国 ZIPANGU」だなと思います。


                        うちの金鉱山株の会社はチコちゃん流に表現すると「ボーっと石ころ掘ってんじゃねえよ!」です。
                        リーマンショックからまだ立ち直れてない。泣



徐福の真実はこんなあたりでしょうか?

紀元前3世紀の徐福の夢は1981年の菱刈鉱山の発見で果たされた、と。



秦氏とはすごい氏族だったのだなと思います。

平安時代以降には表舞台から姿を消すけれど
田楽を能にまで高め音楽も洗練させて日本の教養文化を担い
そうかと思うと
ひっそりと情報収集操作を行って日本の政治を左右した。


ロマンですねぇ・・・
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月11日 16時22分39秒 ) パスワード

面白かったですよ。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%BF%E7%A5%9E
猿神(さるがみ)

日吉神などの太陽神の使者とされるサルの化身、および中世の日本の説話に登場するサルの妖怪。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%83%AB# 山神としてのニホンザル




http://blog.goo.ne.jp/tudukimituo1028/e/0c7e34198a1cabedefbb1435d91e0262

「猿は世界各地で神の使い」について考える 



http://www.yamatofuji.com/blog/2016/08/post-653.html
「山」には「神」という意味があり、大山祇大神は産土神の総大将であり海神大神でもある


もう寝なくっちゃ。
いろいろ検索していると面白くって止まらなくなってしまいます。
[51]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月12日 05時33分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 猿が神であるということに、どうも満足できませんのですが、たぶん
日本猿=エテ公というイメージ、猿蟹合戦での良くないイメージ、「去
る・落ちる・すべる」という忌み言葉のイメージ…等からそう感じるの
でしょうか?

 もう少し、「猿」について」深く考察してみようと思い、ただ今『猿
田彦と秦氏の謎』(清川理一郎著)を読み直しております。この本、今ま
で読んでもどうも頭に入らなかった……今回、猿に対するモチベーショ
ンが高まっておりますので、きっとよく理解できるのではないかと思い、
再挑戦してみます。これについてのまとめは、若干の時間をいただきた
いと思います。またご報告申し上げます。

 「猿投」という地名も、どうも心に引っかかるのですが、これについ
ても、合せてもう一度その意味を解明してみたいと思っております。

 この「猿投」の「猿」、芭蕉の「猿蓑」の「猿」、「猿楽師」の「猿」
……どうも私の感性に、遥か遠くの時空から訴えかけてくるようです。
 日本猿やエテ公、あるいは類人猿のレベルとは違った、もっと高遠で
孤高なイメージ・感覚、「ネイチャー コール ミイ」かも知れません
――
[52]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月12日 06時20分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今、話題となっている獣医学部の「今治」、この地については、タオル
のブランド「今治タオル」位しか知らなかった。もっとも服部半蔵正成の
長男の正就の子孫たちが、久松松平家の御縁で、今治藩の家老を務めたと
いうことは知っておりましたが……。

 改めて、地図上で今治を調べてみました。そしたら、それなりの要所で
あることがよくわかりました。安芸の国の尾道と伊予の国の今治の間には、
瀬戸内海が大河のように、しかも干満により東西の方向に交互に「流れて」
います。
 その2点間に島々が点在しております。今は「しまなみ海道」という道
が、素晴らしすぎる程の橋梁(ブリッジ)の連続体をもって島々をつないで
おります。

 安芸の国尾道側から南下しますと――
 @向島
 A因島
 B生口島
 C大三島
 D伯方島
 E大島
 F武志島
 G馬島
そして、伊予今治に着きます。

 今の県境でいいますと、Cの大三島伊南が伊予(愛媛県 今治)となります。

 この地理からいいますと、「今治」の要所としての価値がわかります。
即ち、「村上水軍」であります。
 水軍を管理する、統治するという使命が今治藩にあったのではないかと
思います。

 「今治藩」というものを調べてみますと、1600年に、「藤堂高虎」
が今治藩を立藩しております。1608年からは、高虎の子「高吉(丹羽
長秀から養子)」が藩主を務め、1635年よりは、久松松平家がずっと
藩主をつとめ、服部伊織家(正就の孫以降)が家老を務めております。

 藤堂家と服部家は服部宗家筋の服部采女を介してつながっておりますし、
久松松平家は家康の母の再婚先で、子孫たちは家康の親族。いずれにしま
しても、徳川家康の人事采配でありますので、その意志で動き、差配した
ということであります。

 藤堂高虎と水軍というのは、イメージがなかなかできませんが、秀吉
の朝鮮出兵の時の高虎の活躍をみると、よくわかります。
 この辺の関係、また少しまとめてみます――
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月13日 11時45分50秒 ) パスワード

三つ柏さん


芭蕉のご本を2冊本日土曜日に頂きました。
ありがとうございました。

「何者だったのか?」

考えながら拝見しますね。
わくわく

本当にありがとうございました。

[54]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月13日 12時07分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「ネイチャー コールズ ミイ」は、書いた後でその隠語的意味を思い
出し、赤面してしまいました。言わんとしたところは「遠い祖先からの呼
び声」という意味でありました……。

 藤堂高虎の話に及びましたが、藤堂家については、わかっているようで
意外とわかっていません。つまり、何か控えめでモヤっとしたアトモスフ
ェアに包まれています。明智光秀や大久保長安のような主演男優賞的なと
ころの表現が余りなされておりません。いろいろ重要なことを成し遂げて
いるのですが。大久保長安が家康の右腕ならば、高虎は左腕と言ってもい
いくらいなのですが……。

 藤堂家は芭蕉ともつながっているのですが、これはしばらく後に論じる
として、小林久三氏は『異説の日本史』の中で、藤堂氏についてこう書い
ております(推理作家の目と探求心をもって、歴史を深く掘り下げていま
す。歴史学者ではないので、大まかなところはありますが、本筋は鋭い目
で洞察されています)――
 「藤堂高虎の出自にまつわる謎。藤堂高虎は、近江甲良郡藤堂村に出生。
 平安時代には、甲良荘という荘園に属したが、十二世紀初めの記録によ
 ると、荘長は、秦吉則であった。甲良荘は、現在の甲良町であるが、秦
 荘町に隣接している。秦荘町は、古代に秦氏の影響が圧倒的に強いとこ
 ろだったといわれるから、甲良荘も秦氏が切り開いた地域だったのだろ
 う。」

 つまり、藤堂高虎は秦氏であったということであります。左腕の高虎が
秦氏、そした右腕の大久保長安もれっきとした秦氏でありました。

 つづく――

 

 
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月13日 14時51分00秒 ) パスワード

三つ柏さん

>荘長は、秦吉則であった

すごい発見ですね。


藤堂家はもともと秦氏の土木技術を受け継いでいたから高虎は築城能力が優れていたのかもですね。


ここには書けないですが  (メールでないとマズイ内容   笑)
秦氏は日本史の中に深く静かに潜っていたのですねぇ。
[56]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月13日 22時18分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 藤堂高虎が秦氏の血をうけついでいるかどうか、これについて検証して
みようと色々調べてみましたが、藤堂高虎が秦氏であると特定できるもの
は、今のところ見つかっておりません……。
 小林久三氏はさらに言います――
 「高虎は、二十一歳のときに羽柴秀長に仕え、三百石を与えられている。
  天正八年、秀吉は播磨を平定し、姫路城を普請して、自分の城とした。
  同時に秀長に但馬攻略を命じた。
  秀長は但馬を平定し、出石を根拠地にして十二万石を領したが、秀吉
 と秀長の狙いは、但馬の生野銀山にあった。
  生野銀山は、江戸期に全国一の銀産出量を誇ったように、豊富な埋蔵
 量で知られる銀山だったが、この銀山を支配下においた秀長は、直ちに
 高虎に銀の増産を命じた。
  高虎は、新たな銀山開発に乗り出し、数カ所の大鉱床を発見したが、
 その銀は、秀吉が次に行った鳥取城攻略や備中高松城の水攻めの軍資金
 として非常に役立った。」

 「高虎が、生野銀山で果たした役割は、佐渡金山と大久保長安との関係
 に瓜二つである。
  ついでに言っておくと、大久保長安は、鉱山開発、金銀吹(製錬)はも
 ちろん、縄張り(設計)、振矩(測量)、普請、算勘(計理)、治山治水、新
 田開発などにも精通していただけでなく、情報収集や人心収攬といった
 スパイ術も心得ていた。
  その意味で、高虎と長安とは、同じ秦一族出身者として、好一対をな
 す人材だったと言える。その後、高虎は縄張りの専門家として、築城の
 名人になって行き、長安は鉱山経営のエキスパートとして、家康を支え
 て行く。」

 ちなみに、藤堂高虎は、大久保長安より11歳年下であります。高虎と
長安の交流は、どの程度あったものか知りたいものです――
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月14日 03時23分57秒 ) パスワード

三つ柏さん

はぁあ〜〜〜
溜息


藤堂高虎は一体どういう出なのでしょうね。
伊賀にも近いし
秦氏の影響下のエリアでもあったし

状況証拠は揃っているのに
ハッキリ
藤堂高虎が先祖について語っている書式が欲しいですね。


http://senjp.com/takatora/
高虎パパについて書かれています。

以下コピペ:

父の三井虎高は、若くして近江から甲斐・武田信虎(武田信玄の父)の家臣となり「虎」の字を賜るほどの有能な武将であったが、他の家臣に嫉妬され武田家を離れると、近江犬上郡藤堂村に戻り、藤堂忠高の娘と結婚して養子に入った。そして、京極氏、後に浅井氏に仕えたとされる。

そんな折り、1556年1月6日、近江国犬上郡藤堂村にて藤堂高虎は次男として生まれたが、藤堂家は先祖代々の小領主ではあっても没落しており、農民にまで身を落としていたとされる。幼名は与吉。

成長すると父や兄と共に、浅井長政の軍勢に加わったようで、1569年に北近江で一揆が発生し、父と兄が出陣した際には、まだ13歳と幼かった事から同行を許されなかったが、手製の刀と竹槍を持って、後を追いかけ一揆衆の田部熊蔵を討ち取った為、浅井長政は活躍を褒め称えて、備前兼光の刀と黄金一枚を与えたとされる。



ということは高虎パパは甲斐でいろいろあったということですね。
アヤシイ

案外パパは高虎を大久保長安に学ばせているかも。
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月14日 04時02分54秒 ) パスワード

今、ふっと思ったのですが
当時武田は最強国のトップでしたから
それなりの有能な人材が集まっていたでしょうね。

そういう国に留学したり招聘したり会いに行ったり


高虎パパは高虎にどのような教育を受けさせたのでしょうね。


浅井家が滅びてからアチコチ流れて苦労して
ここの所は明智光秀を彷彿とさせますね。


藤堂高虎が自分の経歴を粉飾していないところにこの人の生きざまが表れていますね。
皆さん功成り遂げた後は自分の先祖を飾り立てますけど
高虎は徹底して実利主義だったのでしょうね。
それか
自分が申告しなくても、皆、分かっている事だし「甲良の土豪の末裔だ。それで充分」と?


自信があったんでしょうね。だから見栄なんて張らなくたって、いい、と。
[59]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月14日 17時16分19秒 ) パスワード

空の青海のあわ様

 藤堂高虎は築城の名手と言われています。小林久三氏によると――

 「高虎が最初に築城にかかわったのは、安土城といわれる。秀長の
 配下だった高虎は、信長による安土城築城ら人夫の監督として動員
された。安土城の天守閣の建築設計を担当していたのは、高虎の出身
地の甲良郡藤堂村の隣の法養寺村出身の甲良光広。光広のルーツも、
おそらく秦氏だろう。城の石垣を担当したのは、安太(あのう)衆であ
った。
   〜略〜
 安土城築城のとき、高虎は甲良光広や穴太衆と知り合い、以後、彼
らの協力と支援を受けて、戦国随一の城郭建築家にのし上がって行く。
 ちなみに、安土城の縄張り(設計)をしたのは、明智光秀だった。光秀
は近江坂本城の城主だったばかりでなく、丹波亀山城の城主も兼ね、
丹波では井戸掘りや治水工事といった土木事業をしている。」

ということで、明智光秀も秦氏である可能性を示唆しております。
[60]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月14日 17時29分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 前レス訂正:〜あわ様→〜あを様 失礼いたしました!
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月15日 04時22分23秒 ) パスワード

三つ柏さん


石垣の「あのう積み」は日本城郭史上有名ですね。
そして
鉄砲の国友衆。

近江が戦国時代に生き生きとしていたのが見えるようですね。


やっぱり千里の道を行き万巻の書を読み友をたくさん作るのが人間には大事ですね。
ワタシは too late ですが。笑


戦国時代の人間像のさまざまを知ると   もう遅いけど   次回生まれ変わって来た時にはどういう方向にするか指針になります。
[62]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月15日 23時29分50秒 ) パスワード

天の青海のあを様

 藤堂高虎については、今回で終りといたします。その後、藤堂家と芭蕉
の関係に移りたいと思います。

 小林久三氏は、藤堂高虎が伊勢・松坂に配置された理由として――
 「家康は、高虎が秦氏一族の有力者を先祖にもっていることを見抜いて、
 古代から秦氏一族が支配していた伊賀や津の領主の領主にしたのではな
 いか。
  事実、津を中心とした伊勢には、八田、八太、治田、八対野、波多、
 畑毛、服部といった秦氏にちなむ地名が多い。また現在の四日市市には、
 聖徳太子ゆかりの斑鳩(伊賀留我)という土地もある。一方の伊賀は、伊
 賀忍の頭領の服部氏が、その名が示すように、また、ハタオリベ(機織
 部)に起源があるように、秦氏一族の地である。同時に、伊賀忍のルー
 ツが、猿楽の軽業にあるといわれている。聖徳太子が、すでに飛鳥時代
 に志能便(しのび)を使っていたことは、よく知られている。
   〜中略〜
  一方、松坂近くの多気郡勢和村は、古代から有名な水銀の産地であっ
 た。水銀は、金を作る場合に欠かせない。家康は、「金銀は政務第一の
 軍事なり」と言ったが、金製錬に欠かせない水銀を確保するという目的
 もあって、高虎を津の領主に据えたのだろう。秦氏出身者なら、金銀の
 精錬技術にも精通しているからだ。
  秦氏は、七世紀中ごろ、中央政権から疎外され、地方に放逐された。
 大部分は、まつろわぬ民となって、吉野や伊賀の山中で暮らしていた。
 吉野や伊賀が政治的敗北者の逃走ルートになったのは、そのためだが、
 高虎は戦国時代、ようやく秦氏復権の時代がきたとみて、慎重に時代の
 覇者を見定めようとした。それが風見鶏といわれる生き方になったので
 あろう。」
小林氏の指摘、大筋では合っているのではないでしょぅか――
[63]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月15日 23時33分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様
 
 前レス訂正:天の→空の 
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月16日 02時08分57秒 ) パスワード

三つ柏さん

藤堂高虎の情報をありがとうございます。
もう驚きでいっぱいでございます。


皇后さまがなさっている「養蚕」。
絹織物。

天皇家にとって養蚕と織物の大切さが今に至っている、ということでしょうね。
あらためて古代の日本の様子が伝わっているのだな
そして
アマテラスの存在と織物も天皇家の皇后にとっては大事な勤めなのだなと。
皇后=アマテラスに比されるのだろうなと。


あ、細かい入力違いについてはお気になさらないように願います。
年号とか
大事な部分はお知らせ願いたいですが。
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月16日 02時22分22秒 ) パスワード

新しく
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101633.html
長上郡の服部氏族C\(課題確認52):109
をご用意致しました。

藤堂家と芭蕉の関係を新しいスレッドにお願い致します。
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