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 投稿番号:101629 投稿日:2018年03月25日 02時30分43秒  パスワード
 お名前:三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族CZ(課題確認50):107
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101626_59.html
長上郡の服部氏族CY(課題確認49):106
の続きです。


      自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
      最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。



三つ柏さんの紀行文より:

「本統寺」。
教如(顕如の子)の開創。
開基は教如の息女、長姫。1596年創立。

ここに松尾芭蕉の句碑がありました。
『野ざらし紀行』の初旅の終りにこの寺に一泊し、句を詠んだそうです――

      「冬牡丹 千鳥よ雪の ほととぎす」


芭蕉の感性・イメージ力・観念力をほめたいと思います――

      牡丹の「赤」に雪の「白」。「花」と「鳥」。
      そして生命の咲きほこり、鳴きほこり、一瞬の「盛りの美」。

芭蕉流に解釈すれば、「不易」(変わらざるもの)と「流行」(かわりゆくもの)――というより、
順序としては「流行」と「不易」、 つまり「限りある生命」と「咲き誇る一瞬の美」、「必滅」(無常)と「永遠」(美学)……。

こんな世界観を、十七文字の極小の表現の中に描き出しているように思えます。


この句の解釈から見える三つ柏さんの感性もなかなか深いですね。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月25日 06時54分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッドありがとうございます。

 一つ訂正がございました。思い込みミスであります――

 「小池村」が「市野」を包含すると書きましたが、明治初頭の古文書の
「小作証書」というのを再度調べましたら、住所の表示が「長上郡市野村
小池」となっておりました。つまり、逆で、「市野村」が「小池」を包含
しておりました。
 いずれにしても、服部半蔵正成は浜松時代に大いに活躍しましたので、
褒美としての領地(石高)はどんどん増えたと思われます。小池だけにとど
まらず、最後には八千石になっているようです。その内訳を知りたいもの
です。

 「小池」というのは「市野」のすぐ西にあたります。西から姫街道(本
坂道)が東に向かって貫いております。そして「市野宿」あたりで「笠井
街道(南北に貫く)」と交差いたします。姫街道をさらに東に進むと、す
ぐに「下石田」に入ります。
 つまり、市野は東西と南北の道が交わる要所であり、その西の「小池」
と東の「下石田」は、「服部半蔵正成」の領地と「服部中保俊」の領地
で挟まれたいたということになります……。

 これから、芝刈りにでかけますので、帰宅後に続きを記します――
 
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月26日 05時30分29秒 ) パスワード

浜松の地図を見ていました。


姫街道から西に行って気賀とか都田川があって
そして奥山という所があって
と二次元旅行しました。笑


「女城主  直虎」の世界でした。


ここで直親が暗殺されたのかな、とか。


マックスバリューって結構アチコチにあるんですねぇ。
現実に引き戻されました。


[3]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月26日 07時07分12秒 ) パスワード

空の蒼海のあを様

 昨日は芝刈りで身心共疲れてしまいました。それにしても桜が満開に近く
なってきました。この一週間が山だと思います。来週は信州へ行きますので、
そちらの方は時間差で満開に近ずくでしょぅ。

 「点」と「線」を結びつける推理が歴史捜査の要だと思いますが、もう一
つ、「アリバイ」が大事でありました。この場合のアリバイとは、同時代の
平面キャンバス(カンバス)であります。過去の時代は何千枚ものキャンバス
が積み重なってできています。その内の同じキャンバスの上に同時に存在し
ていたかどうかを確認しなければなりません。そういった意味で、慎重さが
もとめられます。反省事項がたくさんあります――
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月28日 00時08分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 国会の証人喚問をずっと見てしまいましたが、真実のコアの部分はかたく
なに閉ざしておりました。国有地の払い下げの裏側にあるもの、そこには知
られたくない深い闇がありそうです……。

 さて、アリバイ――即ち同時代人(厳密には同じ時期に生存していた)であ
ったかどうかということのチェックを服部半蔵の系統と服部中保次の系統で、
見比べておりました。時間をくいましたと同時に深みにはまって行きました。

 それを今整理しているところでありますが、松平秀忠に服部氏がからむよ
うに、松平忠輝にも花井吉成を通じて服部氏がからんでおります。

 そこから見えてくるのは、猿楽師及び忍衆の流れ(ベクトル)が、天下の中枢
に渦巻いているということであります。

 まだうまく表現できませんが、もう少し熟成させたいと思っております――
 
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月28日 06時52分44秒 ) パスワード

三つ柏さん


>松平秀忠に服部氏がからむように、松平忠輝にも花井吉成を通じて服部氏がからんでおります。
>そこから見えてくるのは、猿楽師及び忍衆の流れ(ベクトル)が、天下の中枢に渦巻いているということであります。

WWWみたいですね。
情報を握っている。
必要とあればフェイクニュースも流す。


古代からそういう生き方をして来たのかもですね。

表稼業は織物業で裏稼業は情報収集。
失敗したら切り捨てられ死しても屍拾う者無し。


だから半蔵は8000石止まりだったのかな?と。
実行部隊は今で言うとブラック企業の従業員。「お前の代わりはいくらでもいるんだよ」と過労死させられる。


政信の家あたりは尾張に戻っても良さそうだったのに戻らなかったのは何故か?
ま、浜名湖の関所を守るほうが重要な役目だったのかな?


>時間をくいましたと同時に深みにはまって行きました。

はい
楽しい且つ苦しい空想に夢中になって時間が経つのを忘れいよいよ深みに嵌ってしまいますね。
ふふふ
[6]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月29日 01時04分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、一日大腸内視鏡検査を受けました。毎年のことですが、胃カメラ
より時間がかかりますし、疲れます。睡眠剤も胃カメラよりやや強いので、
平常にもどるのに時間がかかりました。

 さて、いろいろな情報(点)が出てきていますが、それをアリバイを確認し
ながら線で結ぶという論理立てがまだできておりません……。
 ただ、その中で、小池(服部半蔵)〜市野(市野氏)〜上石田(服部中)がキー
ポイントとなっているとの勘が働いております――

 もう少し頭の中を熟成させ、明日には――

 一つ訂正がございました。桑名での家紋でありましたが、「丸に互い旗指
物」と書いてしまいましたが、「丸に片桐違い鷹の羽」(鷹の羽が片切りにな
っている)でした。片桐氏が用いる家紋のようです。
[7]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月29日 11時34分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 芝刈り(山岳コース)の後遺症で左足が二〜三日痛く、それでもようやく
歩けるようになりましたので、本日よりウォーキングを再開してみようと
思っております。やはり、健康が一番であります。

 さて、いろいろなことがわかったと書きましたが、それは竜洋の古文書
館で見つけた岡野写月氏の『姫街道の宿 市野と周辺の歴史』に負う所が
大きいです。その中での大きな発見は――
 @市野家について
 A服部中家について
 B松島家について
であります。情報の量についてはばらつきはありますが、貴重な情報が拾
えました。

 これから用事がありますので、続きは本日中に再開いたします――
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月29日 13時47分45秒 ) パスワード

三つ柏さん


>岡野写月氏の『姫街道の宿 市野と周辺の歴史』

楽しみにしています。
[9]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月29日 21時30分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 岡野写月氏の『姫街道の宿 市野と周辺の歴史』でわかったこと。とりあ
えずは服部中家について――

 服部中家の代官屋敷は二つありました。即ち浜名湖に近い西部の「大久保」
の代官屋敷と、もう一つは市野の東隣の「上石田」にありました。
 実務的には、「大久保」は地代官の「藤田氏」が、「上石田」は地代官の
「馬渕氏」が務めました。
 まだ上石田の現地は確認しておりませんが、北東部の上河原という所に
「代官山」と「代官屋敷」と呼ばれている所があるといいます。近々、現地
確認に行ってまいります。

 今まで、大久保の方は領地の村々が隣接しておりましたので、代官屋敷は
大久保にあれば実務はできたと思っておりました。けれども、上石田・下石
田というと、大久保からはずいぶんと東に離れておりますので、大久保の地
代官が両方を兼務するというのは大変だろうなと思っておりました。
 上石田に第二の代官所があったということは、大変な発見でありました。
 私の頭の中では、いろいろな点と線がかなりつながりました。いずれ述べ
てみたいと思います――
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月30日 04時36分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


そうしますと服部中家の家老は馬淵氏だけでなく藤田氏もいたということですね。

藤田家についても何か分かると良いですね。

岡野写月氏に直接お会い出来るといいですね。
[11]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月30日 09時03分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 藤田家のルーツはわかっています。例の小野家(小野篁)であります。
 今は雄踏に多いですが、善地の南の石原にも分布しております。
 藤田家については、史料もありますので詳しく記す予定です。

 岡野写月さんは市野出身ということはわかっております。竜洋の古文
書館にもよく来ていたということですので、一度情報を訊いて、機会が
ありましたら会ってみます――
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月30日 12時47分30秒 ) パスワード

三つ柏さん

あらあら藤田家については資料をお持ちでしたか。
なんとなく何か良い情報が出て来そうな予感がします。

岡野さんにはお会い出来るといいですね。
[13]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月30日 14時48分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 この本は、市野についての歴史を残そうとして書かれておりますので、
当然「市野氏」についての記述は自然多くなります――

 「市野村の市野氏、袴田氏
  『市野家由緒』には、奥州藤原秀郷の臣で寺田某の遠孫は、美濃斎藤
 氏に仕える。織田氏と戦い、永禄10年(1567)稲葉山落城し、主家滅亡
 の後、寺田から袴田と改め、時の至るのを待ち、その後徳川家康に仕え
 るとある。
  市野家には、物部、浅井、寺田、袴田、市野となったという伝承があ
 る。今川氏の『諸家臣分限記』にある860石の浅井小四郎、840石
 の浅井新十郎、470石の寺田右京亮などが関係者なのかもしれない。

  近江国の浅井一族の袴田實久(市野惣大夫)は、永禄11年(1568)徳川
 家康が引間城に入ると召し出され、御馬の御用御付けられ、信州、関東
 所々馬の調達指上。元亀3年(1572)以後、近江(遠江の誤り)の代官御付。
 天正17年(1589)7月袴田を市野に改める。
  『寛政重修書家譜』には、眞久は遠江国の住人寺田右京進眞宗が男袴田
 利宗が男なり。眞久のとき市野にあらたむといふ。」
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月31日 08時38分14秒 ) パスワード

三つ柏さん

>天正17年(1589)7月袴田を市野に改める

これが遠江国の市野氏の発祥ですね。


こうやってハッキリ歴史に書かれているって、いいですね。
家康と共に歩んできたというのが分かっていて、いいです。

ウマ役ですから
今の物流担当、昔の輜重隊の大本。
平和な時代には活躍が制限されるけれど戦時には命綱です。


どうして服部家の小池村が市野村の中にあったのかなと疑問でしたが
ちょっと解けた気がしました。
[15]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月01日 00時51分06秒 ) パスワード

天の青海のあを様

 本日は、上石田の服部中(地代官馬渕氏)の代官屋敷跡を見に行ってきま
した。しかしながら、開発が進んでいて、その気配も感じられず、残念で
ありました。ただ一つ、その近くに八幡社があり、それは姉川の戦いの落
武者の犬塚徳右衛門藤原正平が創設したとのこと。1570年過ぎの話に
なります。服部中保俊の領地としては、1650年頃の話ですので、両者
に余り関係はなさそうです。

 それよりも、市野氏(袴田氏)は、美濃斎藤家に仕え、主家滅亡後に市野
に来たらしいこと、また加藤光泰も一時斎藤家に仕えておりましたし、
平野三郎右衛門重定も、斎藤・織田の戦乱を避けて、池田の東の加茂村に
やってきているということ、なにか因縁がありそうです――
[16]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月01日 23時55分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 家のパソコンの調子がややおかしくなりまして、スピードにストレスを感
じるようになりました。その原因が素人の私にはよくわからず、余分なデータ
等を削除して軽くしてみましたが、どうなるでしょうか。いずれにしてもそ
ろそろ買い替えの時期が近づいているのかも知れません。

 さて、市野氏というのは、1568年以前のことが実際は謎に包まれてい
ます。単純に美濃斎藤氏に仕えた寺田氏としても、どんな人物だったのであ
りましょうか……?

 家康の浜松時代には、馬の鑑定士(?)として重用されているように思われ
ますが、これも実際はいわゆる馬喰だったのか、それよりも馬は一種の武具
(戦車や装甲車)のようなものだったでしょうから、軍事秘密でもあったはず
であります。その情報を知るということは、戦力を知るということですから、
いざという時の作戦・戦術に貢献することは間違いないでしょう。いわば、
敵の戦力を偵察しに行く秘密諜報員であったのかもしれません。

 さらに不思議なのは、岡野写月氏の本の中で、こんな一文があったことで
あります――
 「徳川家康と袴田(市野)實久
  徳川家康は、(浜松時代)しばしば鷹狩に市野に来ていたようである。鷹
 狩と称して、市野家と万ごく村の大庄屋鈴木権衛門家で預かっていた茶阿
 局を寵愛していたようである。」
ということで、忠輝の母(連れ子に於八)を家に預かる程、通じていた関係だ
ったということになります。
 この於八が成長すると、花井吉成の正室になり、さらにその二人に三人の
娘と三人の息子が生まれる。
 その三人の娘の一人が、服部中保俊の後妻となる訳でありまして、これは
偶然などではなく、ある意味をもった必然だったのではないか……次回にそ
れらについて述べたいと思います――

[17]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月02日 03時49分10秒 ) パスワード

三つ柏さん

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%AF%BA%E7%94%B0


寺田氏についてビックリの情報:

現鹿児島県である薩摩国薩摩郡寺田村が起源(ルーツ)である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。

ほか中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)(現静岡県西部である遠江)、

服部氏など様々な流派がみられる。                        初耳


>於八が成長すると、花井吉成の正室になり、さらにその二人に三人の娘と三人の息子が生まれる。
>その三人の娘の一人が、服部中保俊の後妻となる

えっ?
とビックリ!


人間関係とは本当にヤヤコシイですね。
思わぬところと思わぬところが結ばれている。


服部中保俊は保次の孫の次男になりますね。
秀忠に仕え
1550石を頂き、500石を弟の保久に分け与えたという人。
新居の奉行になって3050石になり
采地を遠江国敷知長上2郡の内に移された。

妻は水野太郎作清次の娘。


この後に後妻さんを貰ったのですか。
へぇ〜          
[18]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月02日 11時06分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『断家譜 巻三 服部(平氏)』によると、服部中保俊の子は「某」と
なっておりますが、名前は「保重」だと思われます。その「某」の母が
「花井遠江守女」となっております。
 ということは、「某」の父親は保俊でありますので、保俊の妻は花井
遠江守女ということになります。

 『寛政重修諸家譜』によると、保俊の妻は「水野太郎作清次の女」と
なっておりますので、こちらが正妻であることは間違いありません。
 従って、花井吉成の娘は保俊の側室か後妻ということになると思いま
す。断家譜には載せられて、寛政重修諸家譜には記載がないということ
は、どういうことなのでしょうか?
 たぶんそれは、花井吉成が大久保長安の死後に、忠輝と共に連座責任
により切腹したということが負い目となったからでしょうか?
 この事件は伊達政宗もからみ、キリシタンもからみ、いろいろな渦の
中の出来事でありまして、詳細は探究中であります。

 『服部半蔵と影の一族』(橋場日月)によれば、「服部中保次」の後妻
が花井吉成の娘としております。どの資料から拾ったものかわかりませ
んが、確か「服部中保の後妻」という表現は、どこかの資料に出ており
ました。「服部中保」――「服部中の保」なのか、「服部の中保」なの
か、たぶん「服部中」には間違いないと思われます。
 
 服部中保俊は、新居の関所奉行もやり、1651年までこの地に生き
ておりましたので、ひょっとしたら後妻との間に子供ができていたかも
知れません。その子供とは……?

 服部中保俊の正妻は水野氏であり、上石田の東の常光町の清心寺には、
家紋が「沢潟」の服部家の墓がありますので、服部氏と水野氏が混淆し
た可能性が高いと思われます。

 その清心寺は羽鳥神社の隣の源長院の末寺で、善地の東泉寺も源長院の
末寺、源長院の約2キロ北と南に東泉寺と清心寺を作ったということであ
りまして、両方に服部一族の墓があり、住民もおります……。
 花井氏は善地の南西のほぼ隣村に多いというのも気になります。

 花井吉成の娘が、服部中保次の長男・服部保正やその子(両方とも大阪
夏の陣で討死)の妻であったという可能性も除外できませんので、今後も
この件については究明して行きたいと思っております――
 
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月02日 12時29分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


よくお調べになりました。
拍手


断家譜
本当に面白いですね。
こういうのも見ないと人間は立て前だけで生きているわけじゃないですからね。
どこかに事実や真実があったりしますね。


>花井吉成の娘が、服部中保次の長男・服部保正やその子(両方とも大阪夏の陣で討死)の妻であったという可能性も除外できない

はい
昔は嫡男が亡くなって次男が嫡男の妻を家督相続で貰い受けるということがありましたしね。


歴史は面白いですね。
[20]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月03日 11時51分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 どうも花井吉成の三女と服部仲保との結婚についてスッキリしないので
いろいろ調べてみました。
 『徳川諸家系譜 第一 柳営婦女伝系 五 朝覚院殿」の茶阿方につい
ての記述の中に、そもそもの「服部仲保後妻」という記述がありました。
 具体的には――
 「於八の娘(三女) 服部仲保後妻」となっております。

 この件についてじっくり考えてみました。たしか以前に「宗」と「家」
という字が、崩し字で書くと見わけがつかないという話にでくわしたこと
があることを思い出しました。そこで思ったのは、ひょっとして「俊」と
「後」も崩し字では見分けがつかないのではないか、と思い、「崩し字
辞典」で調べてみた所、場合によっては全く見わけがつかないこともあり
得ることがわかりました。

 従って、「服部仲保後妻」は「服部仲保俊妻」の読み違いの確立が非常
に高いと推察されます。ということは、『断家譜』における保俊息子「某
ノ母 花井遠江守女」の記述は、やはり正しいということになります。

 その他、いろいろ調べてみましたところ、花井吉成は1567年生れと
いうことがわかりました。とすると、その三女は吉成25から30歳位に
生れた可能性が高いと思います。ということは、早い方で見積もって、
1567+25=1592年前後の生まれかと推察できます。
 服部中保俊は1590年生れでありますので、この二人はちょぅどいい
年齢差となります。
 花井遠江守吉成が切腹したのは、大久保長安の死の1613年でありま
すので、保俊24歳、三女は22歳(生まれたのを遅い方で見積もれば、
17歳)の時であります。
 つまり、ここから導き出されることは、三女は前妻であり、長安事件に
関連した切腹という一大事により、離縁かそれに類する処置をとられたの
ではないかと想像いたします。
 その後、保俊は水野清次の娘と結婚し、長男の保重を設けます。保重が
家光に初めてま見えたのは1632年でありますので、その時を15歳と
して計算すると、1518年生れとなり、後妻の水野氏の娘との間の子と
して生まれたという整合性は取れます。

 ここで問題なのは、先妻(花井氏の娘)との間に子供が出来ていたのか、
またその先妻はその後どうなったのか、子供がいたとしたらどうなったか
ということであります……?

 保俊の次男の保継は、水野家の養子になり、また戻って来ていますので、
このへんの事情というのも何だか気になります。

 水野清次(保俊の妻の父)は、水野信元のハトコ清久の子でありました。
信元といえば、徳川家康の母於大の兄で、弟に忠重がおります。

 我々の捉えている正史の表面には出てこない、見えない糸が少し見えた
ような気がいたします――
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月03日 12時17分13秒 ) パスワード

三つ柏さん

すごい調べをなさいましたね。
拍手

わたくしの方は「後妻」と「花井」で調べてみましたが残念でした。



昔の記録は
字がテキトーに使われ
その上に明朝体の活字ではないし
楷書で書いてくれる人はめったにいないし
中には全くの誤字もあったし

後世、そんな人物は存在しない、なんて方向で確定されたりもあったでしょうね。


>我々の捉えている正史の表面には出てこない、見えない糸が少し見えたような気がいたします

はい、そうですね。
[22]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月03日 23時28分58秒 ) パスワード

天の青海のあを様

前レス訂正:「1518年生れとなり」→「1618年生れとなり」

 本日は、花井氏の墓がたくさんある近隣の村―寺島の西隠寺へ行って
まいりました。
 花井氏の墓は――
 「五つ瓜に釘(くぎ)抜」:二十基
 「丸に三つ引き」:九基
 「丸に橘」:一基
がありました。

 花井吉成家の家紋はわかっておりませんが、松代藩におりましたので、
そちらの方の花井神社に行けば、系図もあるということですので、家紋
もきっとわかるでしょう。一度、長野へ行った時に寄ってみたいと思い
ます。

 服部家の墓が一基、「丸に三つ柏」でありますが、以前よりあります。
同門と思われます。線香と般若心経をあげてまいりました――

 追伸:本日、『忍者の兵法』(中島篤巳)、『歴史を変えた水軍の謎』
(高野澄)、両方とも文庫本ですが送りました。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月04日 02時28分02秒 ) パスワード

三つ柏さん


長野の花井神社の神紋は  葵  になってました。
http://www.genbu.net/data/sinano/hanai_title.htm?print=on

コピペ
花井遠江守吉成とその子・花井主水正義雄を祀る神社。

戦国時代が末期の慶長年間、
松代藩城代であった花井遠江守吉成は領内を巡察し、
戦乱によって荒廃し、犀川の乱流に苦しんでいた領民のため大規模な土木工事を決意した。


鬼無里戸隠を源流とする裾花川が、現在の長野市の東に横断乱流していたものを、中郷所九反から犀川の新流を開き、市の東南方に数千町の肥沃な水田を開発。


さらに川中島三堰を改修して川中島一帯を良好な水田とし、
さらに更級郡の南端村上・力石・上山田地域の「六ケ郷用水」を改築して千曲川水系の灌漑を計った。


また北国街道の改修・新道の開削、駅通の新設など、數多くの公共事業を推進し、慶長十八年(1613)に没した。



花井遠江守吉成の子・花井主水正義雄も父の遺業を継ぎ川中島平一帯の開発・振興に力を注いだが、元和二年(1616)主君の改易・流罪に伴い、松代を去った。

                        へぇ〜
                        大久保長安の娘婿でしたからね
                        後に斬首ですか・・・




いらい、川中島平の人々は花井親子を善光寺川中島平の産業開発の基礎を築いた恩人として崇敬し、昭和四十四年、有志の人々によって現在地に創建された。


境内に立派な社号標が建っており、三つ葉葵の紋が刻まれていた。
花井家の家紋だろうか。


コピペ以上


で、面白いものを見つけました:http://www.google.com/search?ei=6rbDWv3SIciJ0wLHhbW4Ag&q=%E8%8A%B1%E4%BA%95%E4%B8%BB%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E9%9B%84%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E8%8A%B1%E4%BA%95%E4%B8%BB%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E9%9B%84%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.12...2390.2390.0.4066.1.1.0.0.0.0.141.141.0j1.1.0....0...1c..64.psy-ab..0.0.0....0.vyrV9zTM8Z0



徳川諸家系譜 1 - Page 103 - Google Books Result
http://books.google.com/books?isbn=4797102578

1967

... 二年丙辰六月廿三日松本,居ュ城之一為一|長臣ー我意多、忠輝君御轧明の時、松平上総介忠輝君家臣、領こ一一万六千石 I 預- 1 於信州母同上)義雄花井主水正母同上 1 ! ^服部仲保後妻、称 II お^院 I で母同上了女大久保右京長清妻石見守長安末子母一-女村上周防守義明室 柳営婦女伝系五朝覚院殿厂女花井左京亮義虎室主水正義雄 ...

                       ここに服部仲保後妻と出てますね



http://tikugo.com/osaka/busho/matudaira/b-hanai-yosi.html
以下コピペ

花井義雄(はない よしたけ)

生没年:?〜1616年/ 身分:越後松平家の家臣/ 官位(通称、号):主水正

松平忠輝の姉婿で松代城代を務めた花井吉成の息子。

武田家の遺臣で南蛮の精錬・採掘技術を利用して全国の金銀山の産出量を大幅に増やしたことで知られる大久保長安の娘婿にあたる。

1613年に父・吉成が亡くなると跡を継ぎ、松代城代となった。


大坂の陣では越後松平軍の先鋒を務める。

陣後、忠輝が夏の陣での遅参を問われて改易されると、義雄も失策を問われて1616年に松平康長に預けられ、やがて斬首された。

                       斬首でしたか
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月04日 02時35分02秒 ) パスワード

>服部家の墓が一基、「丸に三つ柏」でありますが、以前よりあります。
>同門と思われます。線香と般若心経をあげてまいりました――


                       思わぬところにもありましたね。
                       花井家がらみの服部家?
                       そうしますと  半蔵に近い  服部家?


寺島の西隠寺さんに、この服部家について何か訊けると良いですね。
思わぬ方向に行きましたね。


そうしますと小田原藩大久保家の家老だった服部家の家紋が知りたいですね。



>追伸:本日、『忍者の兵法』(中島篤巳)、『歴史を変えた水軍の謎』(高野澄)、両方とも文庫本ですが送りました。

ありがとうございます。
楽しみに待っています。
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月04日 12時36分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今年も庭に植えた藤の花のつぼみが膨らみ始め、今にも咲きそうな気配と
なってまいりました。藤の花には、桜と違って、すがすがしさと気品と優し
さがあり、その美空間は見ていて時の経つのを忘れさせます。何とも言い難
い法悦感に包まれます。
 樹齢850年といわれる池田の「熊野の長藤」、今年も早く見たいもので
す。この池田という所、「池田の宿」で有名でありますが、古来より、天龍
川のたもとにての宿場町、また池田は松尾大社の荘園として、いろいろな歴
史のページが刻まれてきております。それは、ある意味、歴史の「ヘソノウ」
のようなものかも知れません。熊野御前の話は、その最たるものであります
が、平清盛の三男「宗盛」とのロマンと悲恋、何故か平家との関係が色濃く
残っております。遠江は平家寄りだったようであります。やがて源氏に闊歩
されるわけですが、源氏もまた池田の宿とは大いに関係を持ちます。
 ということで、池田の歴史というものを、日本の歴史の中でどうであった
のかということを総括してみたいと考えます。東西の分岐点であり渡し場で
あり、歴史の目撃者であった……。
[26]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月04日 13時13分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 池田庄の北にあったのが羽鳥庄と善地であります。善地は今は小さいです
けれども、江戸後期まで「天領」でありました。そして、謎めいているのは、
正保年間(1644〜1648)以後、善地、上善地、中善地、末島の4村に分けられ
たということが、『遠江風土記伝』には書かれております。そんな大きな出
来事であっても、経緯等の中身はほとんど記録に残されておりません。その
当時、村を4つに分けるということは、どういうことだったんでしょぅ。謎
です――
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月05日 05時31分13秒 ) パスワード

三つ柏さん

ロスの我が家にも藤を植えてましたよ。
楓も梅もありました。

                       梅は11月から咲き始めて12月に満開状態。笑


藤は5月に重い房を垂らしていました。


梅の香りも美しいですけど藤の香りの上品さは奥深いというか日本文学の神髄に流れるものと共通しているなと思いました。



善地が4つに分割されたのはどうしてなのでしょうね?
おそらく浜松市教育委員会か図書館あたりで分かりそうですが。


                      明治以降だったら新政府がらみのせいかと思いますが17世紀では本当に謎ですね。
                      善地には何があったのでしょう?
[28]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月05日 09時22分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 我々は、知っているようでほとんど知っていないということを痛感いたし
ます。150年前(明治前)以前の江戸時代ことは、知っているのは氷山の一
角であるということを謙虚に認識しておいた方がいいのかと思っております。
 歴史は掘れば掘るほど知らなかったことが現出して来ます。自分の住む「
善地」という村についても、実は深い謎がありそうです。それは「善氏」と
いう氏族がからんでいるという説がありましたが、正史の中では全く出てき
ません。内野にも関係しているようです。今後、時間をかけてじっくり調べ
てみるつもりです――
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月05日 11時01分05秒 ) パスワード

三つ柏さん


「善氏」ですか?
全く知らないのですが

検索してみたら  由良氏が出て来て  横瀬とか  おやおや松島氏の亡霊がまたまた出て来たな  と思いました。


http://www.google.com/search?ei=OYHFWs__NoiG0wKtq6iwDA&q=%E5%96%84%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E5%96%84%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.12...2572.2572.0.3917.1.1.0.0.0.0.133.133.0j1.1.0....0...1c..64.psy-ab..0.0.0....0.nTFhtqmnTPI



善氏の膳城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%86%B3%E5%9F%8E

武家家伝  善氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/3yo_zen.html


http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%96%84

【名字】善
【読み】ぜん
【全国順位】 9,849位
【全国人数】 およそ760人

漢族に善氏がある。
三善氏を略して善を称するもの多くみられる。
現大分県中南部である豊後、現愛媛県である伊予、現群馬県である上野などにみられる。

などなど
[30]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月06日 21時06分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨夜は夜会があり、深夜からはゴルフの「マスターズ」があり、早朝から
も続きがあり、集中力ははるか遠くにとんでしまいました。ゴルフの練習に
も行き、また今晩もマスターズ、明日もマスターズ、あさってもマスターズ
で、落ち着く暇がありません――

 善地の善はどうも内野の赤門上古墳を築いた「東漢人(善)」と関係がある
ような白石氏の説でありました。論文といっても箇条書きのような論文なの
で、論旨がよくわかりません。ちなみに、テーマは「浜北区"善"地名他と古代
の仕事」でした。今後、更に探求してみます。古代の地形と今の地形は、全
く違う風景だったと思いますし、想像も及びません――

 

 
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月07日 12時51分42秒 ) パスワード

三つ柏さん

わたくしはここ最近エンゼルスの試合を再放送で見てました。


漢族善氏ですか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%96%84%E6%B0%8F#%E6%BC%A2%E6%97%8F%E7%B3%BB%E4%B8%89%E5%96%84%E6%B0%8F

コピペ:

三善氏(みよしし)は、日本の姓氏の1つ。
元は渡来人系の一族であるが、実際には百済系の一族と漢族系の一族の2系統が存在する。
ただし、後世において2つの系統が結び付けられているものがある。


百済系
『新撰姓氏録』によれば、元は百済の速古大王の末裔で錦部首、後に錦部連を名乗った。延暦年間の桓武天皇後宮に、錦部姉継・同弟姉という女官がいた。同24年(805年)頃にその一族が三善宿禰を授けられた。醍醐天皇の時代に三善清行が大学頭・文章博士を務めて参議まで至り、延喜3年(903年)頃には姓を宿禰から朝臣に改められた。子として文章博士文江や式部少輔文明、僧侶の浄蔵・日蔵が知られるが、文明の子・道統が文章博士になったのを最後に歴史から姿を消す。


漢族系
『類聚符宣抄』によれば、元は漢の東海王の末裔であった波能志(はのし)の子孫で錦部村首、後に錦宿禰を名乗った。

貞元2年(977年)頃に三善朝臣の姓が授けられ、その1人であった三善茂明が主税頭兼算博士に就任し、その子孫は代々算博士を継いだ。茂明の孫の三善為長は、越中国出身の門人射水為康を養子に迎えた。三善為康は算道・紀伝道に通じた学者として多くの著作を残している。その子孫である三善長衡以後、代々西園寺家家司を務めた。地下官人の今小路家はその子孫とされる。

また、鎌倉幕府の初代問注所執事となった三善康信もこの一族とされ、子孫として町野氏・太田氏・飯尾氏・布施氏らが挙げられる。彼らは鎌倉幕府引付衆あるいは室町幕府奉行衆として活躍した。


赤門上古墳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E9%96%80%E4%B8%8A%E5%8F%A4%E5%A2%B3

築造は4世紀後半または末(古墳時代前期)と推定される。誰の墓なのかは分かっていないが、ロケーションの良さや埋蔵品から有力な豪族のものと推定される。

古墳の名称は、古墳南側に位置する竜泉院(通称赤門寺)に由来する。


古墳の所在地は三方原台地の東端、姥ヶ谷段丘に位置し、古墳からは松林越しに浜北面と言われる低地、さらには天竜川の東に位置する磐田原台地を望むことができる。

赤門上古墳の南側、東側は竜泉院の裏山とされ、開発はされていない一方、古墳の北側、西側は内野台として宅地開発が行われた。赤門山古墳の北東数百メートルの所には稲荷山古墳、山の上古墳(いずれも未発掘)が存在する。

その他にも周辺にはいくつかの古墳が残されており、染地台の開発と平行して調査が行われた。

古墳は、台地の端に築かれた前方後円墳で、後円部が北に築造されている。墳丘の全長は56.3m、後円部の直径は36.2m、高さ4.9m、前方部は幅14.7m、高さ1.15m。

発掘時に、盗掘の跡が発見された。また、戦時中に防空壕が掘られたため、破損した部分もあった。

後円部より、全長5.58mのクスノキ製の木棺が発見されたほか、副葬品として内部より京都府の椿井大塚山古墳や奈良県の佐味田宝塚古墳と同范関係にある華紋日月天王四神四獣鏡(三角縁神獣鏡・静岡県指定有形文化財)、銅製の鏃、剣、直刀、鉄製の斧頭、鉄製の鍬、鉈など金属製品が多数、管玉6個などが発掘されている。

銅鏡と銅製の鏃は編み物に覆われていた。銅鏃は絹布、銅鏡は網祖品で覆われていたと推定される。


へぇ〜

百済か漢族か
ということでしたら
百済に住んでた数百年住んでた漢人ということもあるし。

                       例えば  秦氏は百済に500年あたり住んでたので。


善氏のもともとは  秦氏  かな?と  空想が行きました。
[32]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月08日 00時41分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、木曽駒高原と伊那に行ってきました。歴史の探索目的ではなか
ったのでお土産話はありませんが、桜が満開でありました。標高が高いだ
けあって、一週間位下界よりは遅いようです。高遠の桜は混んでいますの
で行くのは止めました。信州は至る所に桜、みやまつつじ、水仙、その他
の花が咲いておりました。

 あを様の推測の「秦氏」は正解に近いと思います。歴史の論文も諸説あ
りまして、本当にそれに信憑性があるのかどうか、見極めるのは大変であ
ります――
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月08日 02時43分19秒 ) パスワード

中国の「善」氏についてバイドゥで検索してみました。
漢姓100には入ってなかったので。

             朝鮮の姓氏にも入ってなかったです。


htt://baike.baidu.com/item/%E5%96%84%E5%A7%93
pを付けてくださいね。
変な書き込みが来るようになるのが嫌なのでpは抜きました。


善姓

善姓为罕有姓氏,汉唐之际在河南一带发展,以河内郡为郡望。如今在江苏等地有少量分布。目前善姓人口没有进入全国前三百位。

得姓始祖

                       以下、漢字なだけに、ちんぷんかんぷん。珍紛漢紛。何が言いたいのかわからない(恥)

善卷,远古尧舜时代人。古籍《庄子》、《吕氏春秋》记载了他的主要事迹。善卷居枉人山(或称枉山),即今常・・山。尧帝南巡北归时途经此地,以“北面而问”的大礼向善卷求教。随行人员不理解:尧是天子,善卷是平民,为什么这样过分地礼遇他呢?尧帝解释说:因为善卷是得道的人。对于得道的人,不可傲视。我的・行智谋不及善卷,所以向他行弟子拜师的大礼。从此,善卷以“帝者师”的美称名闻天下。离・山不远有一个地方自古就名尧天坪,相传尧帝就是经那里到・山的。舜继位后,听到很多关于“帝者师”善卷的事迹,也在南巡的途中专程到枉人山拜会了善卷。经过交谈,由衷佩服,要将天下禅让善卷。善卷力辞:“我立身于宇宙之中,冬天穿着皮衣御寒,夏天穿着精细葛布能够防暑。春天耕耘播种,身体能够劳动;秋天获得丰收,粮食足够一年的食用。每天日出而作,日入而息。优哉游哉,怡然自得。我哪里会去想承担治理天下的大任呀!哎呀,您真是太不理解我了!”说罢,善卷为避免舜帝的再三恳请,躲进深山之中去了。



中文名 善姓
外文名 无
分布  江苏地区                江蘇省のこと。日本に近い!

                       http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E8%98%87%E7%9C%81
                       江蘇省(こうそしょう、中国語: 江苏省、拼音: Jiāngsū Shěng、英語: Jiangsu)
                       中国東部にある行政区。
                       長江の河口域であり、北部は淮河が流れ黄海に面する。
                       名称は江寧(現南京市)の江、蘇州の蘇による。
                       省都は南京市(中華民国政府が公表している省都は鎮江市)。
                       略称は蘇。



                       春秋戦国時代には呉、楚などに属し、秦は東海郡、会稽郡などを設置した。


対岸が(笑)朝鮮半島の百済ですよ。


そうしますと  秦氏との関係もあるし  朝鮮経由で当然日本にも来てますよね。
なるほどね。                  
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月08日 02時57分49秒 ) パスワード

无 というのは  ノー とか ノット   no not  などの否定ということです。

要するに善という名字の外国語表記は存在しないということ。



秦   外文名 qin    (日本語だったら  シン ですね)


李   外文名 Lee,Li,이  (最後のは朝鮮語表記)(日本語だったら  リ  ですね)
[35]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月10日 08時52分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 マスターズでの日本選手の活躍、そしてエンゼルスの大谷選手の活躍、
期待感が膨らんだり、また縮んだりで、落ち着きません。一方、政治と
行政については、全く期待感が持てません。こちらこそ、新しい波を起
こすようなムーブメントがあってほしいものであります。

 さて、善氏関係で古代を探究するには、情報不足で歯が立ちませんの
で、ペンディンクとさせていただきます。こちらにもたくさん古墳があ
りますので、これらが誰のもであったかが推察できれば、信憑性のある
推論ができるとは思います。
 古墳に関する最新の考古学的資料を、今後入手して行きたいと思って
おります。

 花井遠江守吉成を中心とする人間関係について、もう少し検証したい
と思います。工藤章興氏の『秘 独眼龍軍記 一 決断』という本を読
みまして、新たな情報を得ましたので、今後報告して行きたいと考えて
おります――
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月10日 10時03分02秒 ) パスワード

三つ柏さん


大谷はベーブルースの再来と言われていて
本当にスタンディングオベーションでアメリカ人を喜ばせています。


善氏は上記の中国語文によると  絶滅の危機  の姓だと書かれているように
中国でも善氏については分からなくなっていくのでしょうね。

で、善氏の子孫が日本に辿り着いていた、
なんてね。笑


>工藤章興氏の『秘 独眼龍軍記 一 決断』

まさに政宗の陰謀でしょうね。
忠輝を巻き込み
ここに花井氏が関わる。

何か面白い記述がありましたか?
楽しみにしていますね。
[37]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月11日 09時29分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 戦国時代末期から徳川時代初期にかけて起こった、不条理な三大残酷事件
(悲劇)として、私は次のものを挙げたいと思います――
@1579年の「信康事件」
 A1595年の「秀次事件」
 B1613年の「大久保長安事件」
いずれも身内を殺す・身内が殺されるという情容赦ない異常な事件でありま
した。
 その内、花井遠江守吉成に関係するのは、Bの「大久保長安事件」であり
ます――
 

[38]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月11日 21時42分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 花井遠江守吉成の出自について、『徳川諸家系譜』の中の「柳営婦女伝系
巻之五 朝覚院殿御由緒伝系」では――
 「花井遠江守は唐人八官が子にて、謡鼓に達し猿楽の列也〜」
と書かれています。

 この「唐人八官」というのがわからなかったのでありますが、関係する
大久保長安を調べて見ますと――
 「韃靼人(タタール人)の八宦という名前の人物が、キリスト教を広める
 ために、日本人の女に生ませた子が長安である。」
 「父が唐人、つまり中国人で三官といい、音曲算法の名人であった。」
というような、異国人的に関係する出自説がありました。

「唐人」、「韃靼人」、「八宦」、「三官」……何やら、異様な雰囲気が
漂いますが、二人に共通するものは、「猿楽師」であったということであ
ります――
 
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月11日 22時57分46秒 ) パスワード

三つ柏さん

ビックリです!


長安は出自がアヤシイというハナシは、そういう事だったのですか。

だからこそ、棺桶はゴールドで、なんて日本人には無い発想の遺言書を書いたのかもですね。
ゴールドが好き、ということで世界レベルで考えると、中国人とかインド人とか、アッチの方の民族の傾向ですから
やっぱり純日本人じゃなかったのかもですね。


家康が長安の死後に長安関係者を極刑に処した、というのもナルホドなと思いました。


西ヨーロッパではロシア人は一皮剥いたら韃靼人と言います。タタール人のこと。
東の方の正体不明の奴ら、という感じでしょうか。


長安も非日本人的な人だったのかもですね。当時の日本人には有り得ないような考えられないような。
うまく言えば  オールマイティ  の人。なんでも屋。マルチ秀才。
悪く言えば  得体の知れないヤツ。


日本人には見掛けない能力のたくさんある人間だから
徳川幕府にとって
長安の血を引いた長安のような人間が日本にウヨウヨするようになっては危険と思われたのもあったのかなと。
それで根絶やしにされたのかなと。


本多正信のようなアタマの良い人間にとってアタマの良い自分に似ているからこそ長安を危険視し目の仇にしてたのかも。


空想がドンドン膨らみます。
貴重な情報をありがとうございました。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月12日 03時29分16秒 ) パスワード

620年、聖徳太子と蘇我馬子により「天皇記」「国記」が編纂され
645年、乙巳の変で蝦夷と共に「天皇記」は消失、「国記」は火中より取り出されて船史恵尺(ふねのふびとえさか)によって中大兄皇子に献上され・・・た・・・ものの

結局、「日本書紀」が編纂されて


つまり日本史の改竄ですね。


中国は前の王朝の悪いことを次の王朝の記録係がバンバン書きまくる民族だけど
日本は不都合な真実は書き換えるという忖度が働く。


室町時代から始まったとか言われる「談合」とか日本書紀に始まる「改竄」とかは日本のお家芸かも。
日本人のメンタリティなのかも。

ワタシなんか談合は必要悪だと思ってるし。
[41]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月12日 08時18分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は芝刈りに――

 花井吉成の花井氏は、宇多源氏佐々木氏の支流という可能性が高いです
が、一説によると秦氏系とする説もあるようです。出自とはほんと難しい
ものですね。結局は夫婦二系が混淆して伝わって行くので、いいとこ取り
して行くのが常。本当の所、純粋な氏族などないわけで(クローンでない)、
自己満足・自己正当化の賜物であるのかも知れません。

 仮に花井吉成が秦氏系であったとすると、大久保長安も秦氏系で、秦氏
は外来種、猿楽の祖でありますので完全に一致いたします。
 また、服部氏も秦氏と近く、能楽の観阿弥、世阿弥、禅竹も服部氏と秦氏
の混淆でありますので、同類・同族に近いものとなります。

また、秦氏は原始キリスト教徒であったといわれますので、その子孫達と
伊達政宗の親キリスト教政策とは、融合できる余地があったということに
もなります。

 花井氏の親戚関係について、次回記してみます――
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月12日 17時12分18秒 ) パスワード

三つ柏さん

本日本を2冊頂きました。
ありがとうございました。


水軍の話は母方先祖の件が大きく扱われていて嬉しかったです。
ついつい読み耽ってしまいお礼が遅れてしまいました。


花井吉成ーーー大久保長安ーーー服部氏

どうしてこの関係が?と思っていましたが  秦氏  でしっかり結ばれていたのでしょうね。

背筋がゾクゾクします。



本当にありがとうございました。
ぺこり
[43]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月13日 06時37分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 花井吉成と松平忠輝、そして伊達政宗……この延長線に松尾芭蕉がいます。

 五月の終りに「奥の細道」の中の「羽黒山」「鶴岡」「酒田」へ行ってま
いります。

 河野亮著『松尾芭蕉の謎』という新書版の本があります。近日中に送りま
す。

 花井吉成と松尾芭蕉をつなぐ線、これについて挑んでみます――
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月13日 18時16分28秒 ) パスワード

三つ柏さん

>花井吉成と松平忠輝、そして伊達政宗……この延長線に松尾芭蕉がいます。

そうかっ!

芭蕉がなぜ「奥の細道」を書いたかの謎に迫れそうですね。



>河野亮著『松尾芭蕉の謎』という新書版

ありがとうございます。
楽しみにしていますね。
[45]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月14日 23時33分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、図書館へ行き、花井吉成、あるいは花井家について調べてみる
ことにいたしました。ところが、行って見て、花井吉成、あるいはその系
の花井氏に関する資料が全くない……大きく期待を裏切られてしまいまし
た。やはり、長安事件に関係した逆賊とされたのかも知れません。そのせ
いで資料がない、あるいは少ないのかも知れません……?
 しょうがないので、隆慶一郎の『捨て童子・松平忠輝 上』を買って読
んでみました―この中には花井吉成について何か書かれているはずですの
で。案の定、書かれておりました。小説とはいえ、史実をよく調べた上で
書かれているので、とても参考になりました。花井吉成の人間関係の中で
の立ち位置が、イメージとしてよくわかるようになりました。

 次回は、いよいよその人間関係について記述いたします――
 
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月15日 08時07分42秒 ) パスワード

三つ柏さん

花井氏については  将軍家案件で、忖度の上、改竄  ということでしょうね。

人間関係について楽しみに待っていますね。
[47]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月15日 17時17分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 花井吉成)は本姓松下で、碧海市松下郷生れ。「花井氏」の娘と結婚し、
一女二男をもうける。
 妻の死去により、「茶阿」の娘を後妻とし、二女一男をもうける。
 
 これを並べると、
 @長女
 A長男
 B次男
 C次女
 D三女
 E三男
となります。

 急な用事にて、一時中断します――
[48]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月15日 23時44分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 花井吉成の子――

 ➀長女:「大久保長安」の六男、権六郎(右京長清)の室

 A長男:花井義雄(主水正、よしたけ)
忠輝の大阪夏の陣での遅参にて改易、斬首

 ➂次男:花井義賢。後に松下に復姓。
     室は五代将軍「綱吉」の生母「桂昌院」の姉

 C次女:越後村上藩二代目藩主「村上忠勝」の室

 ➄三女:「服部中保俊」の室(先妻と思われる 玄芳院)

 E三男:花井義房

つまり、ここでわかるのは、➀の大久保長安と親戚、➄の服部中保俊と
親戚、B綱吉の生母・桂昌院とも親戚、ということになります。これを
どう評価するか……この推理は最後に総合的にしてみたいと思います。

 花井吉成と大久保長安は猿楽師であり、娘と息子の結婚により親戚と
なった。
 では、大久保長安の子について記したいと思いますが、次回にいたし
ます。

 あを様、今日はレス交信丸四年達成の記念日でありますので、これか
ら、養命酒で乾杯いたします――
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月16日 15時28分46秒 ) パスワード

三つ柏さん

では、乾杯!


>B綱吉の生母・桂昌院とも親戚

これにはビックリです。
将軍家一族と親戚ですか。

本当に分からないものですね。


男系ばかりで考えていると「半分、青い」じゃなくて「半分、真っ黒」ですね。
はぁ〜
[50]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月16日 16時13分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さて、「大久保長安」でありますが、子に七男二女があります――

 @長男:長十郎

 A次男:藤二郎 妻は「池田輝政」の娘 
         池田輝政の妻は家康の次女督姫

 B三男:権之助(成国) 「青山成重」の婿養子
             成重は「服部正信の次男
             長男は「服部正尚」(秀忠の養祖父)

 C四男:運十郎

 D五男:藤五郎(内藤)

E六男:権六郎(右京) 妻は「花井吉成」の娘

 F七男:藤七郎(安寿)

G長女:美香 夫は「服部正重」 正重は「服部半蔵正成」の次男

 H次女:楓 夫は「三井吉正」

つまり、長安は池田家と親戚、花井家と親戚、服部半蔵家と親戚、服部
正尚家と親戚、青山家と親戚、花井家と親戚…。
 さらに、長安の妻は、本願寺の教如に仕えた坊官の下間(しもつま)氏
の娘。

 こうしてみると、花井吉成と大久保長安両家は、服部党とまんべんな
く親戚であることがわかります。さらには、青山家、松下家とも親戚と
いうことで、いずれも猿楽師に関係する仲間、といってもいいかも知れ
ません。

 この辺の世界については、深い洞察力が必要です――
 
[51]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月18日 10時41分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日4月17日は、徳川家康の命日でありました。家康は1616年に
亡くなっておりますので、没後402年となります。

 この年に、本多正信、市野惣大夫も亡くなっております。
 徳川秀忠は1605年に征夷大将軍となっておりましたが、実際は家康
が采配を振るっておりましたので、11年後の家康の死により、ようやく
秀忠の天下となりました。

 なお、大久保長安の死は家康の死の3年前、1613年でありました。
その後一族、特に長安の息子7人全員が粛清されるわけですが、娘二人の
嫁ぎ先にも影響が及びました。

 これらの全貌について記すには根気がいりますので、次回にいたします。
それにしても、色々複雑な糸がからまっております――
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月18日 22時38分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


昨日17日は夫の誕生日でした。
知らない人から、全く知らない声で、ハッピーバースデイらしきメッセージが留守電に入ってました。
と言いますのは声がボヤァ〜としてて  黄泉の国からの声  という感じで速攻で消しました。


わたくしの誕生日は信長の命日です。



>大久保長安の死は家康の死の3年前、1613年でありました

家康は自分が生きている内に長安を始末しておきたかったのかな?と思いました。



>長安の妻は、本願寺の教如に仕えた坊官の下間(しもつま)氏の娘。

これは全く知らなかったです。


下間氏と言えば  伊勢長嶋の戦い  関係者ですから
服部家ホンヤさんとも関係します。

そしてわたくしの知り合いが下間家と関係する子孫です。


本当に日本人って何代か遡りますとみんな繋がりますね。
[53]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月19日 08時47分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 北島藤次郎氏の『史実 大久保石見守長安』によれば、大久保長安の
妻は下間頼龍の四女であったが、この頼龍の寄親は大久保忠隣であり、
大久保長安の寄親もまた忠隣であったということです。また、頼龍は、
松平忠輝とも親交の仲であったということです。
 つまり、忠隣を介して長安と頼龍は近づいたということになるのかと
推察されます――

 これから筍掘りのため中断します――
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月19日 12時00分24秒 ) パスワード

三つ柏さん


なるほどね
本多正信が焦ったな
というのは分かった気がしました。

一向宗勢力が再び力を得て暴れるのを避けたかったでしょうし。
でも本多正信は家康に反抗した一向宗方だったんですよね。
家康に許されて再び仕えるようになりましたが。


人間関係は複雑ですね。
[55]三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月20日 01時28分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、収穫した筍(タケノコ)の皮を剥きながら、「竹取の翁」になっ
た気持ちになりました。それは、筍の皮は十二単衣のように感じられたか
らであります。竹の中からかぐや姫が生まれるということ、不思議な話で
すが、桃太郎も桃から生れるということで、竹と桃には何かいわくがある
のでしょぅか。一度調べてみたいと思っております。

 それにしても、何で「竹取の翁」という職業的な名前がつけられたのか
不思議に思い、かぐや姫についての本を見てみましたら、大変興味深い話
がたくさん出てまいりましたので、大久保長安の話の途中ですが、一時寄
り道をしてみたいと思います――
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月20日 10時07分00秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101632.html
長上郡の服部氏族C[(課題確認51):108
を立てました。

キリの良いところでどうぞ。


[57]空の青海のあをさんからのコメント(2018年04月20日 10時11分33秒 ) パスワード

「竹取の翁」は讃岐造ということで、身分の低い老人、というわけじゃないですよね。
そうしますとかぐや姫が貴公子達から求婚されても全く違和感が無いですよね。

一体どういうお話だったのか
改めて考えさせられてしまいました。
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