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 投稿番号:101626 投稿日:2018年03月05日 07時36分51秒  パスワード
 お名前:三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族CY(課題確認49):106
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101625_56.html
長上郡の服部氏族CX(課題確認48):105
の続きです。



      自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
      最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。



>「神服部一族とは、いったいどのような氏族だったのでしょぅか。

>「延喜式」の皇位継承の大典について、見てみましょう。

>まず祭儀に要する神衣を織るについては、神服(カンハトリ)神社の神主一人を「参河国」につかわして織女六人、工人二人その長二人を定め、「参河国」の神服部の作った糸十絇(コ)を持って一緒に京都の斉場に帰り、そこに織殿を設けて織れとあります。

>そうしますと「参河国」のどこかに、神服部一族の主力がまとまって居住していて、糸を作ることから織ることまで行っていたということになり、これは、神宮の年毎の神衣を織った「御糸66郷」の人々とは違う一団だったということになります(従って、神宮の神衣を織ったから神服部を称したというのとは少し違うように思えます)。

>まあ、それはそれとして、「参河国」のそこは、どこだったのでしょぅか。現在の蒲郡市上郷の赤日子神社が神服部の祖神を祭るものといわれていますが、果たしてそのあたりだったのか。

>しかし、赤日子神社の祭神は、海人、豊玉彦と豊玉姫で、三河湾一帯を支配していた安曇一族の祖神です。

>では、神服部氏は安曇氏と関係ある氏族だったのでしょぅか。このことについては後に述べます。

>やがて、式典が近づくと式服が主要な列席者に支給されます。その中、76人もの神服部に青摺りの一重衣が下されるのです。式が始まって細目の籠に納められた神衣(にぎたえ・絹)が二人の神服部にかつがれて登場します。神衣を織った長二人が左右に付き添い、一族の長、神服部の宿祢が先頭に立ちます。神衣のあとには神服部の男72人、女50人がそれぞれ2列となって進むのです。それから、酒、稲、お膳などと続いて後に、阿波の国の忌部の負った神衣(あらたえ・麻)が4人の忌部にかつがれてでてきます。この祭りは麻績一族でなく、忌部氏が務めることになっています。忌部一族が、天皇家により近いゆかりがあったか
 らなのでしょぅか。

>神服部一族の男女が他に例のない121人も参列しているのは、彼らが天皇家にとっていかに重要な氏族であったかを物語っているではありませんか。さらに神服部の女4人がまず最初に舞いをまえと定めているなど、まさに神服部一族総出でこの一代の盛儀に参列するわけです。

  〜略〜

>最後に、神に衣服を奉るということは、季節による神の更衣としてではなく、古代の日本人は、神も太陽のように絶えず生まれ変わるものであり、生まれたばかりの神は衣服を必要とすると考えたのです。そこで、神衣を捧げて神の再生をうながし、神威の高揚を願ったのではないでしょうか。」
 


場面がよく描写されていますね。
神聖さが見えるようでした。

[1]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月05日 11時42分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッド有難うございます。上記「神服部」に関する記述は、
遠州の郷土史家・詩人・画家であります米田一夫氏(故人)の書かれた
『私説遠州風土記』の中から引用したものであります。古文書も解釈
によって活き活きと輝いてくることもあると、氏の感性に甚だ感じ入
っている次第であります。

 「神服を奉る」ということが、どういうことなのか疑問に思ってお
りましたが、「神の再生を促し、神威の高揚を図る」ものであったと
いう解釈には、なるほどと納得いたしました。

 「神の再生」ということは、「死と生の再生」ということであり、
人間の根源的問題ということになります。死んでしまえば終わりなの
か、あるいは死の向こうに何かあるのか……歴史の根底には、死生観、
宗教観が大きく横たわっています。

 天皇の大嘗祭の儀式は、誰がいつ決めたのでしょぅか、日本に渡来
する以前から、この儀式は行われていたのでしょうか。
 古代エジプトの死生観が根底にあるのでしょぅか?
 神服部がそこにからむ必然性は何なのでしょうか?


[2]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月06日 13時01分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 色々総合してみると、「服部」は「神服」に収束し、「神服」は「丹後
王国」に収束するのかなと推理しています……。

 さて、赤日子神社からの帰り、その近くにあると思われる安楽寺へ寄っ
てみようとナビで検索すると、安楽寺他数ケ寺のお寺がある。これは何と
効率がいいと、さっそく出発いたしました。安楽寺、玉泉院、報土院、光
養院、日曜院、光正院がありました。

 この「安楽寺」、地元の人に訊くと、数年前に火事で焼けてしまったと
いうことですが、大変な寺であることがわかりました。

 ここで一旦切ります――
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月06日 22時59分38秒 ) パスワード

三つ柏さん


>天皇の大嘗祭の儀式は、誰がいつ決めたのでしょぅか

http://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD-39450

天武天皇から
というのが回答のようです。


大嘗祭【だいじょうさい】

〈おおにえのまつり〉とも。天皇が即位の後,初めて行う新嘗(にいなめ)祭を呼ぶ。天武天皇の時から大嘗祭を例年の新嘗祭と区別したと伝える。その祭儀は絶えることが多かったが,18世紀中葉の桜町天皇以後は復活され,現代に至っている。



大嘗祭を「大嘗祭 始まり」で検索したら非常に面白いサイトがたくさん出て来て時間を忘れていました。

http://www.google.com/search?ei=LZueWsr8GYqD0wKO16jQAg&q=%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD+%E5%A7%8B%E3%81%BE%E3%82%8A&oq=%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.1.3.0i4k1j0i4i30k1l3.3629.3629.0.5398.1.1.0.0.0.0.131.131.0j1.1.0....0...1c..64.psy-ab..0.1.130....0.jQxxIPaofMw

大嘗祭
だいじょうさい

「おおにえのまつり」とも読み,大新嘗ともいう。天皇が即位後最初に皇祖および天神地祇 (てんしんちぎ) に新穀を供え,これを食べる儀式。一世一度の新嘗 (にいなめ) 。即位式が7月以前ならば年内に,8月以降ならば翌年に行うことが,平安時代に定められた。まず,神饌を出す国郡の卜定 (近江と丹波,備中は交互) が行われ,抜穂 (ぬきほ) 行事,御禊 (みそそぎ) などの準備を経て,悠紀 (ゆき) ,主基 (すき) ,回立 (かいりゅう) 殿から成る大嘗宮の儀,辰日,巳日,午日 (豊明節会 ) などが行われる。平安時代も,大極殿焼亡以前が最も盛んで,以後次第に衰え,後土御門天皇のときに行われてから 222年間中絶し,東山天皇のときに再興,中絶ののち,桜町天皇以後は代々行われた。



検索していると大嘗祭の秘密の部分も出て来たりして
総合的に考えるとしたらホントに無限の記事を読まないと立体的に見えてこないなと

昨日はずっと  狩猟採集時代 ⇔ 狩猟農耕時代 ⇔ 農耕時代  を考えてました。

農耕時代になったから人類は飛躍的に発達したのだなとか格差社会が生まれたのだなとか戦争が始まったのだなとか。

よしなし事で1日が終わりました。




安楽寺さんの件
楽しみに待ってますね。
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月06日 23時01分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 安楽寺――火災で焼けてしまって建物の跡形もない。広大な広場に、大き
な灯篭や石塔が二つ三つ。但し、墓地は無事に残ったようでありました。
 看板が出ていました。そは火災発生以前のものであります――

 「久松佐渡守俊勝は、尾州阿古居(現在の知多阿久比)の城主であったが、
 永禄五年(1562)上ノ郷城が徳川氏と戦って落城。その軍功により、西ノ郡
 城主となった。
  家康公の生母、於大の方を後妻とした。久松佐渡守は、天正十五年(1587)
三月十三日、岡崎城で六十四歳の生涯を閉じているが、墓を安楽寺に建て
 たのは、於大の方がこのお寺に二ケ年程住んだからで、その位牌もまつら
 れている。                 蒲郡市教育委員会   」

  於大の墓は見当たらなかったけれど、久松利勝の宝篋印塔は石柱の囲い
 の中に建てられておりました。側に一族と思われる十六基の墓が並んでお
 りました。
  ここで、私は般若心経を二巻唱え捧げました――
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月07日 06時33分03秒 ) パスワード

三つ柏さん


般若心経をありがとうございました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%9D%BE%E4%BF%8A%E5%8B%9D
久松佐渡守俊勝


家康の母を後妻とした人物が蒲郡にいたのですか。


驚いたところをコピペ:


松平元康は永禄6年(1563年)に「家康」と改名するが、
家康の"家"の字は継父である久松長家より一字を得たものであったが、
後年大名に成長した家康を憚って長家の方が「俊勝」と改名してしまったためにその由来が分からなくなってしまったとする説もある
(菊地浩之『徳川家臣団の謎』角川選書、2016年、101項)。


                       どこから【家】の字が来たのか不思議でした。
                       母上のお大さまの幸せを願って継父の【家】の字をもらったのかもですね。



織田信長から謀反の疑いをかけられた水野信元(家康には伯父、俊勝には義兄にあたる)が家康を頼ってくる。
家康は同盟を重視して信元を自害させる決断をするが、
義弟である俊勝が信元を助けるのを恐れて俊勝に事情を明かさずに信元召喚の使者を命じた。

後に事情を知って激怒した俊勝はそのまま西郡城に隠退してしまった。

                       こういう事情から蒲郡に住んだのかもですね。

晩年には三河一向一揆で追放された一向宗寺院の三河復帰に尽力したという。



俊勝隠遁の原因となった水野信元暗殺は、
佐久間信盛の讒言を受けたものであるとされているが、
庶長子の信俊も信盛の讒言を受け自害に追い込まれ、
居城の阿久比城は信盛の軍勢によって攻め落とされ、信俊の子供達も殺害されている。


>私は般若心経を二巻唱え捧げました

戦国時代の残酷さには身震いしますが平和な時代に暮らすワタシには「気の毒」という簡単な言葉しか浮かびませんけど
三つ柏さんの般若心経でちょっとは慰められたかも。

良いことをなさいました。
[6]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月07日 11時23分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一時間程書き溜めたものが、一瞬にして吹き飛んでしまいました。ショック
から立ち直るために、出掛けてきます――
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月07日 11時39分29秒 ) パスワード

三つ柏さん


飛んでしまいましたか。
悔しいですね。


窓8は不安定ですよね。
窓7は使い勝手が本当に良かったと思います。


本日「古代の技術を知れば日本書紀の謎が解ける」を頂きました。
ありがとうございました。


糸島
確かに「島」がついていますから昔は「島」だったのでしょうね。
現代人はこういう事すらスッカリ失念しているので古代が分かるわけがない


「托卵」って
郭公だけでなく

夫婦仲の良い鳥でさえ遺伝子的に調べると3割は実は「托卵」なんですってよ。


アメリカやヨーロッパの場合ですが
5%は遺伝子的に法的な夫婦の間の子供じゃないそうです。
なのでアメリカではスーパーマーケットで「お父さん確定キット」なるものを30ドルあたりで売っています。
                       もちろん検査してもらうのに更にお金を払わなきゃいけませんが。


古代なんて「托卵」はフツーだったのかもですね。
江戸時代や明治時代は密通は大罪だったでしょうけど
今はまたもやフツーの時代かも。

実は宿した女性も相手が誰の子か分からなかったりして。
赤面

では最初っから拝見しますね。
ありがとうございました。
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月07日 22時46分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 岩水寺の奥の冨士見平に登ってきました。いつもの六キロ坂道コースです。
 あいにく、このところ富士山の雄姿は見えませんが、ここは展望がいいの
で、気分爽快になります。富士山はこの辺より東に行けば行くほど大きく見
えるようになりますが、高天神城から見る富士と、蓬莱橋の上から見る富士
は、ちょうどいい大きさ、ちょうどいい距離かなと思います。昔の人も富士
山を見て、いつまでも見とれていただろうと想像すると、時間と空間の存在
はいつの間にかフラットになります。

 本日は、集中力が戻りませんので、明日にしたいと思います――


[9]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月08日 10時51分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊奈森太郎氏が書いた『三河のお祭』(昭和二十八年発行)の中に、御衣祭
と神服部に関する記述がありましたので、その要約を記します。
 昔のことというのは、解説者によって随分捉え方が変わるものだと思いま
す。ちょうどそれは「翻訳」という作業に似ているようにも感じられます。
即ち、直訳か意訳かの問題にもなりますが……翻訳者(解説者)がどこまでそ
の本質・事実を総合的につかんで表現するかにかかってきます――

 「(伊良湖神社の御衣(おんぞ)祭りについて――)

 @垂仁天皇の御世に、神宮を大和から伊勢へ遷(うつ)した。その時、
   三河国の神戸が渥美郡に設けられた。よって渥美郡の各地及び三河に
   は神宮領が多く、伊勢神宮との関係は深い。従って、上代から織物を
   献納したことが推察される。

A桓武天皇の御世に、八名郡大野の服部宮(はっとりのみや)の神主で
   あった鈴木伊兵衛から、渥美郡の三河神戸の名によって、神御衣料の
   糸を献納した。大野には、今も服部神社があり、鈴木伊兵衛の名を冠
   した伊兵衛沢(いべざわ)という地名もある。

   B清和天皇の御世に、伊良湖神社に奉斎して、ここで荒妙に織って、
   伊良湖から別仕立の御衣船で伊勢神宮に献納した。

   C近衛天皇の久寿二年(1155)に、神服部宿祢毛人女安詮が、大和から
   遠江神戸庄(ごんどのしょう)岡本村に移り住み、神御衣調進の命を受
   けてより、伊良湖で調進することが廃止された。

   D三河国大野で調製した糸は、国境の峠を超えた麓にある遠江国岡本
   の神機織殿(かみはたおりどの)で織り、これを一旦伊良湖神社に供え、
   修祓の上、神宮に奉献されるようになった。今、岡本村は静岡県引佐
郡三ヶ日町の大字となり、ここに初生衣神社があり、静岡県史蹟とし
   てその織殿が保存されている。

   Eその後、六百年を経て、後桜町天皇の明和年間になると、現在豊橋
   市である吉田港から出船して伊勢に直行するようになった。 」

 ある意味、分かりやすい解説ではあります。もっとも、この解説も正確で
ないところもあり、またアバウトなところもあると言えます。
 Cの大和は→山城国であるとか、御衣の献納が中断した時期があったとか、
……過去のことを正確に把握することは至難の業ですね。いずれにしても、
三河・遠江の神服部、御衣の歴史については、一度はっきりとその歴史経過
を整理し確立しなければなりません―つまり、C前と、C後の、歴史経過で
あります――


  
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月09日 05時58分10秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございます。
東三河=豊橋というイメージでしたが、最近は、豊橋に代わって新城が脳裏に焼き付いています。


>A桓武天皇の御世に、八名郡大野の服部宮(はっとりのみや)の神主であった鈴木伊兵衛から、渥美郡の三河神戸の名によって、神御衣料の糸を献納した。

                       鈴木と服部の関係が見えますね


>大野には、今も服部神社があり、鈴木伊兵衛の名を冠した伊兵衛沢(いべざわ)という地名もある。

                       今でもあるといいですね。 



>鈴木伊兵衛

お名前的に非常に最近のような感じがします。戦国時代にはあったろうな、と。

「伊兵衛」というのはどういう役職名を指したのでしょうね。
伊勢出身の武士?
桓武天皇の時代に 伊兵衛  という名称呼称があったのかな?など。                   

愛知県八名郡大野町

廃止日
1956年4月1日

廃止理由
新設合併
大野町・七郷村・長篠村・鳳来寺村 → 鳳来町

現在の自治体
新城市


大野町(おおのちょう)は、愛知県八名郡にかつて存在した町である。

豊川の支流宇連川の左岸を町の範囲とした。
1889年(明治22年)の町村制施行により大野村として発足、1892年(明治25年)に町制を施行し大野町となった。

1956年(昭和31年)に周囲の自治体と合併して鳳来町の一部となり、消滅した[2]。
2005年(平成17年)に鳳来町が新城市に編入されたため、現在では同市の一部である。

鳳来寺と秋葉山本宮秋葉神社を結ぶ秋葉街道と、豊橋と別所を結ぶ別所街道が交差する宿場として栄え、明治時代には養蚕の集散地となった。
 
                       ですね


また、1896年(明治29年)に東三河初の民間金融機関として大野銀行(東海銀行、三菱東京UFJ銀行の前身の一つ)が設立されたを背景に東三河の金融の中心地としても発展した[2]。

現在も古い町並みが残り、旧大野銀行本店の店舗も「鳳来館」というレトロ喫茶店として運用されている。

2016年(平成28年)3月時点で、約400世帯・約1,200人が居住している[2]。
[11]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月09日 12時49分35秒 ) パスワード

空のあお海のあを様

 先日、鈴木喜三郎の調査に大野に行った時、旧大野銀行の店舗をそのまま
レトロな喫茶店にした「鳳来館」に立ち寄りました。建物も立派で、内部は
とてもゆったりして情緒があり、コーヒーも特別おいしかったです。ただ、
田舎の町でありますので(失礼かも知れませんが)、はたしてどの程度のお客
様が来られるのか、採算はどうなのかの点については、心配になりました。
 
 さて、大野の「服部」や「赤引の糸」については、「酔石亭主」様の――
 「水石の美を求めて 東三河の秦氏 その37 養蚕と機織り」
  http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1370.html
にしっかりと解説されておりました。とても信頼性がある論述だと思います。
私が先週訪れた「赤日子神社」についての見解も、最期に出ておりました。100の根拠のない論文を読むより、1の信頼性のある論文をよむほうがいい……惑わされるばかりでありますし、時間を浪費してしまいますので。

 次回は、「瞬殺された部分」を再現させます(お陰様で、やっとモチベーシ
ョンが戻ってまいりました)――
[12]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月09日 22時19分38秒 ) パスワード

天の青海のあを様


 歴史は「点」と「線」で成り立っておりますが、実際は「無数の点と線」
の組み合わせが複雑に絡み合ってで成り立っているといったほうが正しいの
かも知れません。

 桶狭間の戦いは、織田信長を一躍有名にしましたが、同時に松平元康にと
って、それは武将として一人前に脱皮するきっかけとなりました。そして、
服部党にとっては、信長方、今川方、元康側と敵味方で戦いましたが、大
活躍できた時代であったのではないかと思われます。

 二年後の「上ノ郷城の戦い」……これは家康の下で義父の久松俊勝、及び
甲賀の忍者と一緒になって伊賀の服部半蔵正成が大活躍した。そこで俊勝と
服部半蔵とのあいだの絆ができたのかなあと思います。

 何年後かに、正成の長男正就、そして次男の正重、それぞれ事件で失脚
するところを、久松俊勝の四男の定勝に拾われ、助けられる。過去からの点
と線がつながっていたことの証明であります。

 少し、はしょりました。やはり、一度瞬殺されるとトラウマが残ります。
 次回は、桑名での話をいたします――
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月09日 23時01分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「酔石亭主」様の―― 「水石の美を求めて 東三河の秦氏 その37 養蚕と機織り」

これは2015年あたりに何度か読ませて頂いていたのにスッカリ忘れていました。
歳ですね
でも秦氏と織物業の考えの基礎にはなっていますから助かっています。


桑名でのお話を楽しみにしています。
[14]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月10日 06時01分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 前レスでは「天(そら)の青」様になっておりました。パソコンも時々
ご主人様の意志に反して、「変」・「乱」を起こすようです!?

 FUJITSU製のノートパソコンを使っていますが、もう何年になるでしょ
うか、一度も故障することなく来ております。パソコン底面と机の間に
空間を設けて、熱が逃げるようにしているのが多少貢献しているのでし
ょぅか……。

 この「平熱」に投稿し出して、今度の4月15日で満4年を迎えます。
これもひとえにあを様のお導きのおかげと、感謝申し上げます。こんな
私にお付き合いしていただきまして、さぞかしお疲れだとは思いますが、
そこは「さすがあを様!」とリスペクト申し上げます。

 4年というと、4年制の大学で勉強したのと同じ位の価値があります。
プロフェッサーあを様のゼミを、4年間受けたということになります。
自分自身の知識も客観的にみれば、飛躍的に蓄積されたと思われます。
古代も、中世も、近世も、ある程度でありますが幅広く理解できるよう
になりました。フィールドワークのおかげで、現実的な空気感にも触れ
られ、バーチャル歴史空間に想像力をはばたかせることが少しはできる
ようになりました。

 今の常識とは違う当時の常識……ただ、人間の「心」は基本的には同
じであると信じています。私が過去の世界に紛れ込んだとしても、人と
心を通わすことはできるものと信じております。
 できれば、服部半蔵正成や服部中保次、家康や秀忠、西郷局や春日局
とお会いして、話をしてみたいものです……!

 本日は、これから用事で名古屋に行きます。桑名の話は、返って来て
からにいたします――
[15]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月10日 22時48分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 磯田道史氏の『日本史の内幕 戦国女性の素顔から幕末・近代の謎まで』
という本の中に、家康の「上ノ郷城攻め」について書かれている部分があ
りましたので、それを記します――

 「しかし、この結婚(家柄も容姿もそろった、人もうらやむ今川一族の女
 ・築山殿との結婚)は織田信長が桶狭間の戦いで、今川義元を討ち取ると、
 一変してしまった。家康は人質になっていた駿府に帰らず、故郷・岡崎城
 に入り、松平(徳川)家独立運動をはじめた。その時、築山殿は娘を生んだ
 ばかり。息子の信康と親子三人で人質として駿府の今川の元に放置された。
 家康は冷徹。妻子に構わず、今川の敵・織田信長に、どんどん接近してい
 った。当然、築山殿たちの命は危なくなった。

  みかねた家臣が一計を案じた。甲賀忍者を呼び寄せ、今川の親類(鵜殿
 長照)の城(上ノ郷城)を急襲。今川の親類の二人の子どもを生け捕りにし
 て今川義元のあとつぎ、今川氏真に人質交換を迫った。築山殿の父・関口
 も孫は可愛い。この人質解放交渉に口添えした。「子を返してやれば家康
 は恩を感じて今川方に戻る」といったらしい。氏真はこれを信じ、家康の
 二子を解放。ところが、家康は人質を返還され、ますます織田方についた。
 氏真は激怒。築山殿の父に切腹を命じた。」
ということであります。

 この後の話も興味深いものがありますので、この本送ります――
[16]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月10日 23時20分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 桑名行きの第一の目的は、一言で言うならば、服部半蔵正成の子孫の墓を
見ることにありました。その他にも「七里の渡跡」「桑名城跡」等を見るこ
と、そして「その手は桑名の」焼き蛤を食べること、そんな目的がありまし
た。
 津島へ行った時は、名古屋インターから名古屋第二環状線を通り、東名阪
道の蟹江インターを下りて北上というルートを取りましたが、今回は、豊田
ジャンクションから伊勢湾岸道に入り、弥富、木曽岬、長島を経て、湾岸桑
名インターで下りて北上するというルートを選択しました。

 インターを下りてから、まず向かったのは「「顕本寺」でありました。

 詳細は次回に――
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月11日 09時09分28秒 ) パスワード

三つ柏さん

もう4年ですか。
早いものですね。



築山殿の父上が人質交換で切腹を命じられた件はピンと来なかったです。


難しい時代ですね

ワタシは「だろう・だろう」という推定話は好きじゃなくて断定が好みですが
ああいう時代にあって空気を読めなんて無茶。
幼い頃から世話してやって娘婿にまで取り立てた竹千代がまさか今川を裏切るなんてと関口親永は死ぬに死ねない思いだったでしょうね。

                       良家の育ちだから甘かったのかもですね。

                       この父上がもともと瀬名家の人だから築山殿は「瀬名姫」って呼ばれていたのですねぇ。


                        http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%8F%A3%E8%A6%AA%E6%B0%B8

                       今川一門の瀬名氏貞の次男で、一族の関口氏縁の養子となって関口家の家督を相続した。


機会がありましたら関口親永の墓前に般若心経を唱えてあげてください。
気の毒過ぎます。



ご本
楽しみに待ってますね。
[18]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月11日 11時37分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 静岡市に「瀬名」という地名の場所がありますので、瀬名氏とどういう
関係があるか、一度調べてみたいと思います。

 「瞬殺」のトラウマにより、再度書く際に、はしょってしまった部分等
がありましたので、この際記しておきます。いずれにしましても、松平元
康(家康)の青き時代の体験として、「桶狭間の戦い」から「上ノ郷城攻め」
までは、心に強くまた深く刻まれた出来事だったことは確かだと思います。

 牧野春蔵氏は、その著書『東西の接点・三河』の中で、「桶狭間の戦い」
後の情勢について、次のように述べております――

 「永禄三年(1560)五月の桶狭間の戦いの頃、鵜殿長照は「大高城将」であ
 ったが、鷲津・丸根の攻撃を義元の命で応援した。丸根の砦は松平元康が、
 鷲津の砦は朝比奈泰能が攻撃していた。この時、元康が大高城へ食糧を搬
 入して功のあったことは有名な話である。」
  (実際に食糧を搬入したのは、服部権大夫政秀であります。)

 「義元の敗死によって、三河における今川勢は急速に瓦解した。」
  (義元の首を取るのに功のあったのは服部小平太一忠、そしてさらには
 服部党の服部中保次(小平太)も活躍しております。)

 「義元の死後四日目に当る五月二十三日、今川氏の岡崎城代は駿河へ逃げ
 帰り、元康は岡崎城に入った。
  氏真に忠告しても聞き入れられずと見た元康は、やがて織田信長と提携
 して、連合体制を固めた。
  蒲郡地区にあっても、竹の谷松平氏を初めとして三河の在地豪族の多く
 が松平宗家のもとに走った。」

 「義元の嗣子今川氏真は大いに怒って、竹の谷・形原など三河の豪族の人
 質十三人を吉田の竜拈寺で「串刺し」の慘刑に処した。」

 「鵜殿一族の中でも、柏原の鵜殿長忠や、下ノ郷城主鵜殿長竜らは、竹の
 谷・形原らの松平氏と行動をともにしたので、なお今川氏に孤忠を尽す鵜殿
 長照との間には、永禄三〜五年(1560〜1562)まで、松平元康との争いが展開
 されることになった。」

 「かくて、義元の死後わずかに二年足らずの永禄五年(1562)二月四日、上
 ノ郷城は落城し、長照は討死した。」
 (ここで活躍したのが服部半蔵正成であった。) 

 「上ノ郷城落城後、西郡城はこれを攻討した「久松佐渡守俊勝」にくださ
 れた。上ノ郷落城に際して、長照の二子、氏長と氏次は松平家の捕虜とな
 ったが、元康の嫡子竹千代(信康)が駿府に人質としてあったので、石川数正
 の尽力により長照の二子は駿府へ、築山殿と信康は岡崎城へ迎えとられて、
 人質交換という形で解決された。」

 「これで、松平元康(家康)と今川氏真とは、完全に断交ということになっ
 た。」

 それにしても、見せしめのために「串刺し」にするとは、信長の岩村城で
の伯母に対する処刑も残忍でしたが、今川氏真もまた残忍であった。裏返せ
ば度量が小さかったと言えるかも知れません。

 服部半蔵正成と久松家との間にできた信頼関係・依存関係について、もう
少し深く探求したいと考えます。久松家は菅原氏の出身であるということで
すが――
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月11日 20時42分08秒 ) パスワード

三つ柏さん


瀬名についてちょっと調べました:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E5%90%8D

瀬名 - 静岡県静岡市葵区(旧西奈村)の地名。駿河国庵原郡瀬名郷に由来する。

                       庵原って今川氏に必ず出て来る重臣の名字と同じですね
                       確か直政のドラマの時に新野左馬之助の三女が今川家重臣・庵原助右衛門に嫁ぎましたよね
                       変なクセがあるとか、って。笑


                       http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%82%93%E3%81%AA%E5%9F%8E%E4%B8%BB_%E7%9B%B4%E8%99%8E
                       庵原助右衛門(いはら すけえもん)
                       今川家重臣。太原雪斎の一族。桜の夫となる。
                       縁談にあたり、直虎と面談し直虎が今川界隈で領主として評価されていることを伝え、
                       また衰退する今川にあっても最後まで忠義を貫くことが庵原としての生き残る道と覚悟を定めていることなどから、
                       桜の夫として直虎や南渓から好ましい人物と評価されている。

                       のちに織田家に仕え、その滅亡後は徳川家に仕えることとなり、終盤では直政の配下に任命される。

                                    これは放送されましたね




瀬名氏 - 上記の瀬名郷を本貫とする氏族。
駿河守護今川氏の一族である堀越氏の分流。
堀越氏#瀬名氏を参照。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sena_kz.html
瀬名/堀越氏

ややこし過ぎ。



>義元の嗣子今川氏真は大いに怒って、竹の谷・形原など三河の豪族の人質十三人を吉田の竜拈寺で「串刺し」の慘刑に処した

(古今東西)人間の歴史は残酷な面も持っていますね。


頼朝もわたくしの母方の先祖も「一寸刻みの刑」をやってますしね。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月11日 20時50分55秒 ) パスワード

>服部半蔵正成と久松家との間にできた信頼関係・依存関係

久松氏:
http://kakei-joukaku.la.coocan.jp/Japan/koutai/hisamatu.htm
以下コピペ


久松氏は菅原道真の末裔といわれています。
弾正左衛門尉道定の時に、尾張知多郡阿古居七千貫を領しましたが、この地は先祖菅原雅規が配流された所であり、雅規の幼名が久松丸であることから、久松を称号としたそうです。

その後は代々斯波氏に仕え、定俊(俊勝)の時に、徳川家康の実母於大(伝通院、水野忠政の娘)を室にし、於大から生まれた康元・康俊・定勝の三子は家康の異父弟であることから、同姓に准じられ松平の称号を賜りました。

二男康俊の子孫は下総多古藩主となり、三男定勝の子孫は伊予松山藩主・伊勢桑名藩主・伊予今治藩主となっています。



 この松平(久松)家は、長男康元の子孫になります。この家も、前回の菅沼家と同じで一時大名となりながら改易となり、旗本となっています。

 しかも、この松平(久松)家は、五万石まで達しながら、その後2回除封となり交代寄合となっていますし、初代康元は家康の異父弟三人の内の一番年上ですから、いわば久松系松平家の宗家ともいうべき系統ですが、三兄弟の子孫のうちでは一番小禄となってしまい、どうも運の悪い家系(?)のようです。

 以前から、不思議に思っていたのですが、久松系松平家三系統の内、なぜ末弟である定勝の子孫が繁栄したんでしょう?

 康元系が5万石(のち6000石)、康俊系が1万2000石に対し、定勝系は15万石の本家松山藩・同じく15万石の桑名藩・3万5000石の今治藩と3家も大名を出してます。

 康俊は天正十四(1584)年に没してますし、康元も慶長八(1603)年に没しているので、残った末弟定勝の系統が本家格になったと言うことなんでしょうか?

 いずれにしても、初期は将軍家の養女となって福島・毛利・黒田などの大大名と縁組みするほどの家が、何だか尻すぼみになってしまい、印象の薄い家系ですね」

以上


人生は本当に不思議ですね。「運」ということでしょうか?
[21]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月13日 14時36分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は花粉症のせいで目、頭が痛く、集中力がありませんでした。但
し、久松氏について、何か秘密がないかいろいろ調べておりました。

 久松氏は、菅原氏の出であります。家康の母が再婚した久松俊勝は、
菅原道真から数えて23世孫になります。当然、天満宮を氏神として信
仰していただろうと推察いたします。具体的にその天満宮がどこにあった
かは、未だ調べておりませんが、蒲郡にある菩提寺「安楽寺」にもヒン
トが隠さているような感じがいたします。

 あの「大宰府天満宮」は、もともとは安楽寺(九州にある)という寺の
中に造られたといいます。即ち、安楽寺は天満宮でもあるということに
なります。神仏習合で考えれはいいのでしょぅか。
 道真から数えて、6・7・9・10・11世孫が「安楽寺別当」を務
めております。

 蒲郡の上ノ郷城の近くにある安楽寺に関しては、たまたま九州の安楽
寺と名前が同じだったのか、大宰府天満宮(安楽寺天満宮)から名前をと
ったのか、何か関連があるのではないかと推察しております――

 久松氏は菅原氏の出で、菅原氏は土師氏の出であります。永井直勝の
永井氏も土師氏の出でもあります。これは偶然なのか、久松俊勝から4
代孫の康尚は、永井尚政の娘を娶っております。

 「類は友を呼ぶ」……DNAは忘れないということでしょぅか?

 久松氏については、これはといった秘密は発掘できませんでした――
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月13日 23時03分23秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「類は友を呼ぶ」……DNAは忘れないということでしょぅか?

はい
初対面でも  「!!!」   と思う  でしょうね。



>久松氏については、これはといった秘密は発掘できませんでした――

わたくしは逆に久松氏のことにすごく拘ってました。
(あぁ、こうして先祖の大変な体験があって我々は今ここに生きているのだな)という感情に捕らわれていました。


久松氏は家康と親戚になって脚光を浴びた家ですから
その前というのは、その土地の有力者、というあたりの家だったんでしょうね。


安楽寺=安楽死゛
いい名前ですよね。
[23]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月14日 10時39分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私も久松氏に拘っておりますが、それは後の服部半蔵の子供達が久松氏にお
世話になるからであります。
 菅原氏の出である久松氏、プラス清和源氏出である水野氏、家康にとっては、
その生母於大のバックボーン的親戚筋であり、最も信頼できる身内であったの
ではないかと推察いたします。
 歴史の表面にはあまりでてきませんが、たぶん家康の親族として参加した戦
陣の中で、彼らは服部党、なかんずく服部半蔵正成を中心とした忍者部隊を随
所に使い、戦功をあげたのではないか、そこには強い信頼関係が創生されてい
たのではないか……久松松平定勝、水野忠重は、半蔵正成と並んで徳川二十将に入る同じ釜の飯を食った同志でありました。

 そこで「桑名」ですが、服部半蔵の長男服部正就、次男服部正重が、それぞ
れ桑名藩主久松松平定勝、久松松平定綱(定勝の子)にピンチを救われていると
いうことで、その痕跡である墓を見に行った訳であります。

 伊勢湾岸高速道の湾岸桑名インターチェンジを下り、桑名市街の方向=北に
向かいました。道順でお寺等訪問して行きました。

 まずは、萱町の道沿いにある「顕本寺」に寄りました。
 ここには、服部正重、服部正義の墓があるということを調べておりました。
 寺自体は小さな寺ではありましたが、墓地に入ってびっくりしました。江戸
時代かそれ以前か、古いお墓がたくさんありました。歴史のあるお寺さんへ行
くとそうであります。巨大な墓碑や五輪塔、宝篋印塔がそういう寺にはありま
す。
 まずは墓地の西の端に、二メートル弱の大きな墓碑が並んでいるのに心を魅
かれました。行ってみると、その一つは「服部伊豆守半蔵正重之墓」と案内板
に書いてありました。家紋は見られませんでした。
 さっそく、線香と共に、般若心経を二巻唱え捧げました。

 少し東の奥まった所に、「服部半蔵正綏(十一代目)」「服部正義(十二代目)
及び「服部正禮」の墓がありました。家紋は「十桁の源氏輪に八葉矢車」の
ように何とか読み取れました。
 ここでもまた線香と般若心経を捧げました――
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月14日 12時56分07秒 ) パスワード

三つ柏さん


ケンポン寺さんに行けて良かったですね。
今でも桑名藩士のお墓が残っているのですか。
へぇ〜



ワタシも行ってみたいと思いました、松平定勝の娘の松尾の夫が服部正就ですからね


今、気が付きましたが、娘の名は「松尾」なんですね。
今頃、松尾芭蕉の連想が行きました。
伊賀と関係でもあったのかしら?
彼女の母上が伊賀の人でもあったのかな?とか。


もう連想と空想が果てしないです。


わたくしの分も般若心経をありがとうございました。
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月14日 21時50分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松尾芭蕉……桑名にも来ていました!

 顕本寺の東側に隣接して寺がありました。その名前は「真如寺」。後で
調べたら、悲しいエピソードが潜んでいました。この話は後で触れます。

 次に向かったのが「本統寺」。教如(顕如の子)の開創。開基は教如の息
女、長姫。1596年創立。

 あを様、ここに松尾芭蕉の句碑がありました。『野ざらし紀行』の初旅
の終りにこの寺に一泊し、句を詠んだそうです――
 「冬牡丹 千鳥よ雪の ほととぎす」
 あを様、どういう意味なのでしょぅか? ほととぎすは意味深な言葉?
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月15日 02時07分49秒 ) パスワード

三つ柏さん


歴史の謎に足を突っ込むと果てしない泥沼にもがく我が身を見る思いですね。



>「冬牡丹 千鳥よ雪の ほととぎす」

ほととぎすだけが夏ですね。


冬の季語だらけですね。
季語は1個にしておけと、お師匠さんに叱られますよね。



ということで検索に頼りました:
http://www.basho.jp/senjin/s0712-1/index.html


以下引用:


名高い芭蕉の句ながら、季語をいくつも並べたようなこの句をどう受け入れたらよいのか、晴れない靄に包まれているような気分である。それで句作の背景を知りたいと思い桑名に出かけた。


車窓から美しい富士の見える日、桑名駅に降りるのは初めてである。市内循環バスの乗客は私一人、寺町で下車する。門前の商店街は休日でひっそりと暗いが、本当寺の門を入ると急に明るく、麗らかな小春日和に満ちている。日溜まりのベンチにいる人に句碑を尋ねるとすぐに案内してくれた。それは池のほとりに立つ2メートル余りの大きな自然石で、縁が黒ずんでいるのは戦災にあったからとのことである。

        芭蕉「野ざらし紀行」跡
        冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす    はせを


                                      「はせを」って何?


松尾芭蕉が貞享元年(1684)「野ざらし紀行」の旅のおり、本当寺で詠んだ句である。

    本当寺住職大谷琢恵は古益の俳号をもつ芭蕉と同門の俳人であったので句会が催された
    と思われる。

句碑は江戸時代に既に建立されていたが失われていたため、昭和十二年に(中略)表門に建てられた。しかし戦災によって境内が灰燼に帰したので焼け残った句碑は現在地に移された。 桑名市教育委員会


寺務所に立ち寄り、この句碑の謂われを伺う。


すると「あれは大谷家、つまり古益こと琢恵の家紋が牡丹なので、それを挨拶句にしたと考えています」と意外な説明である。

私は驚いて先ほどのベンチの人にこの話しをすると「いや冬牡丹はあったでしょう、私達はそう信じて毎年咲かせています」とそこに案内してくれた。

来るときは気づかなかったが門の外の両側に牡丹が二十株余り植えられ、もう冬の花芽がつき始めている。


後日、谷地先生のご指摘で、赤羽学氏の論文「『野晒紀行』の桑名の条の成立」(『俳文藝』35号)により、本当寺の紋章が牡丹で、句は古益への挨拶としていることを知った。


しかし『野ざらし紀行』全体の句の作り方からみて、詠作の直接的な契機が実際に咲いていた冬牡丹であることは間違いないと思う。


冬牡丹はほとんどが春の蕾を摘み取って冬に咲かせており、人の手で作り出すものである。

雪の中で菰を被って咲く姿はとても可憐で、また珍しい。


芭蕉はこの季節はずれの牡丹に驚き、古益のもてなしに感謝し、興じて、挨拶句としたのであろう。


その意味は「冬牡丹が咲き、遠くには千鳥の声も聞こえる。牡丹は本来夏の花であるから、あの千鳥の声も珍しい雪中のほととぎすに聞きなされることよ」となろう。
                                       そーゆーことか



芭蕉、古益の二人は北村季吟の同門で、年譜を突き合わせると、この時芭蕉四十二歳、古益四十三歳である。

おそらく気のおけない間柄であったろう。そう考えるとこの句にも、貞門として共通の素養を持つ二人の、軽くて知的な空気が流れているような気がした。

(文) 根本文子


以上

なるほど
それで季語だらけの句になっていたのですか。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月15日 02時19分07秒 ) パスワード

その他:以下コピペ   「はせを」とは芭蕉のことでした(恥)


これは逐語訳という感じで素直な訳です。

http://www.ict.ne.jp/~sasa-mi/miekuhi68.htm

冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす

        貞享一年(一六八四) 四十一歳の作である



句意

 雪の庭に咲く冬牡丹が見事だ。この珍しい花を眺めていると、海辺を鳴きわ

たるあの千鳥もこの世では得がたい雪中の時鳥のように思われる。



 「桑名本統寺にて」との前詞があり、本統寺での句会で吟じた亭主への挨拶

句である。

冬牡丹は牡丹の一種で、花の直径が十センチ前後と小さく、珍しい花とされて

いる。

主題は冬牡丹の賞美である。牡丹から時鳥を連想し、千鳥(冬)を夏随一の景

色である時鳥になぞらえて「雪中の時鳥」と作意した技巧句である。



「はせを」について学びました:
http://blogs.yahoo.co.jp/n6211umu/63278869.html

冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす   はせお

桑名市に、東本願寺の別院(桑名御坊・・・みんな、ごぼさん、と親しみをこめてよんでいる=正しくは本統寺)があり、その境内に、芭蕉の句碑がある。その岩に刻まれたものが上の句だ。


はせおとは芭蕉のこと。この旅でここに芭蕉は立ち寄っている。



冬、牡丹、千鳥、雪、ほととぎす、と季語になりそうな言葉がいくつもあり、またその句の意味もわかりづらく、これを見た人の多くは不思議に思っていた。


調べてみると、こういうことらしい。



当時の別院の住職(琢恵)が芭蕉とおなじ俳諧のグループ=貞門で北村季吟の一門のためこのお寺に立ち寄った。
この住職の家紋が牡丹で、境内にもぼたんがうえられていたようだ。
見ると普通は初夏に咲く牡丹の花が咲いている。
冬咲かせることもできるらしい。


そこで、
             これは珍しい、冬の牡丹だ。
             千鳥が鳴いているが、ではこれを、雪の中のほととぎすの音と聞くことにしましょう。
という解釈になるようだ。


気を利かせて冬、牡丹を咲かせてくれた友人へのあいさつの句という見方もある。

コピペ以上


すっごい!
まるで千利休が朝顔の花を1つだけ残して全部捨てたあのハナシに通じますね。

千利休のわびさびの逆バージョンですか。
なかなか地頭力の優れた住職(琢恵)ですね。

そしてそれに気づいてシャレで返した芭蕉もスゴイ。


ワタシなんか3か所ブログサーフィンしてやっとストンと腑に落ちました。
アタマ悪いのバレバレ
[28]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月15日 10時22分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 なるほど、よくわかりました。でも私としては、表面的解釈より、芭蕉の
感性・イメージ力・観念力をほめたいと思います――

 牡丹の「赤」に雪の「白」。「花」と「鳥」。
 そして生命の咲きほこり、鳴きほこり、一瞬の「盛りの美」。

 芭蕉流に解釈すれば、「不易」(変わらざるもの)と「流行」(かわりゆくも
の)――というより、順序としては「流行」と「不易」、 つまり「限りある
生命」と「咲き誇る一瞬の美」、「必滅」(無常)と「永遠」(美学)……。

 こんな世界観を、十七文字の極小の表現の中に描き出しているように思えま
す。解釈は受ける側の感性で変わるもの、それでいいと思いますのですが、い
かがでしょうか?
[29]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月15日 14時12分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本統寺は大きな立派なお寺でした。そのすぐ東側に寺町商店街があり、
そこで「焼き蛤」を食べてみました。昔は蛤はアサリと一緒に採れたも
のですが、今は希少価値。従って値段も高い。
 焼き蛤を食べてみて、何だこれが焼き蛤かと疑った。いわゆる網焼き
でなく、蒸焼きなのか、蛤汁のようでもある。蛤自体はそんなにおいし
いとは感じられなかったけれど、確かにだしはよく出ていると思いまし
た。お吸い物にした方が合うのかなと思ったりもしました。これなら、
伊良湖岬の焼大あさりの方がうまいとも思いました。
 もっとも、蛤づくしの料亭もあるようなので、いろいろ味わってみな
いと評価は下せないなあとも思いました。

 寺町をさらに東に行くと水路があり、昔は水路で物資を運んだのだと
いうことが想像されました――
[30]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月15日 14時40分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 水路は揖斐川から続いていて、そこには有名な「七里の渡し跡」があ
り、伊勢神宮の方向を向いた鳥居がありました。ここから船で伊勢まで行
ったり、また熱田へも行き交った。熱田との距離がちょうど「七里」で
あったので「七里の渡し」になったという。
 そして、桑名城跡、今はほとんど広場になっていますが、昔は水城で
あった。たしか、服部一忠が最初に城を作ったと記憶しておりますが、
初代の桑名藩主は本多平八郎忠勝、槍を手にした忠勝の鎧姿像がありま
した。

 本多忠勝といえば、何と言っても「蜻蛉切り」の槍が有名であります。
島田博物館で実物をみましたが、そりのない長刀を背中合わせでくっつ
けたような穂先でありました。
 その忠勝の菩提寺が、本統寺の西北にありました。「浄土寺」という
名前のお寺でした――
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月15日 22時41分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


句の解釈
おみごと!でした。


本多忠勝
ビックリでしたよ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%BF%A0%E5%8B%9D


父母
父:本多忠高
母:小夜(植村氏義娘)


兄弟
妹:栄子(長束正家室)
異父妹:女(中根忠実室)



正室:於久の方(阿知和玄鉄娘・見星院)
側室:乙女の方(松下弥一娘・月量院)                ←  松下弥一って?



小松姫(真田信之正室)、もり姫(奥平家昌正室)、忠政、忠朝、女(本多信之室)、女(松下重綱室)、女(蒲生瀬兵衛室)

                                      松下重綱室ということは何重にも松下一族と親戚?


人間関係は複雑ですね。こうして「家」が栄えるのですね。



因みにワタクシはアオヤギ(バカ貝)の佃煮が好きです。千葉の人が羨ましい!
おむすびの具にはアサリの佃煮が好きです。その次が昆布の佃煮。

蛤は子供の頃に海水浴に行った野間の海で採りました。家で焼いて食べましたが子供心には分からなかったです。日本酒には合うのでしょうね。笑


野間の海には誰もいなくて、毎夏、我が家だけが遊んでいました。
一般名古屋人の家族連れには新舞子とか内海が人気で、こちらは「芋を洗うような」賑やかさでした。

野間の海の水の清らかさは記憶にしっかり残っていて、絶対にワイキキの水には入りたくないです。


野間と言ったら
源義朝のお墓のある処です。

愛知県知多郡美浜町野間東畠ケ50番地

野間大坊
http://nomadaibou.jp/
[32]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月16日 00時04分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 佃煮とおにぎりは合いますねえ。急にお腹が減ってしまいました!

 ワイキキより野間の海の方がキレイ……ビックリです。

 野間には、近い内に行くつもりです。刈谷の水野氏の城址も見たいと
思っています。

 本多忠勝の菩提寺・浄土寺はそんなに大きな寺ではなかったですが、
一角に忠勝の霊廟がありました。忠勝は、桑名の街づくり、水路の整備
等を行い、現在の街並みの基礎を作ったということです。
 また、この寺には「幽霊飴」の話が伝えられているということですが、
何なのでしょうか?
 
 本多忠勝の墓前にて、線香と般若心経を二巻上げさせてもらいました
ことはもちろんのことであります――
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月16日 02時39分38秒 ) パスワード

三つ柏さん


ワイキキのビーチはヤバいですよ。
汚い危ない。
観光地なので黙っていないといけないことですが。
皆さん喜んで遊んでいるのだから水を差してはいけないですね。


名古屋港は「コーラ色の海」と夫の親戚の者が言ってました。
京大を出た子です。
だって名古屋港は人間が泳ぐ水じゃないですものね、あそこはあくまで船が泳ぐ水。


とはいえプールもね。
フェルプス君が「プールでおしっこ?みんな誰だってフツーにやってるぜ」と言って大騒ぎになりました「いちいち便所なんか行くか」笑


うちのマンションのプールはたまぁに「大」のせいで閉鎖になって大掃除が行われたりしています。
犯人は年寄りなのか赤ん坊なのか?
浮いてるのは目で分かるけど処理水がうまく処理できなくて放出された時はニュースになってビーチが閉鎖になるけど
発覚するには時間がかかるからね。


そしてクラゲはもうスゴイです。
日本はお盆が過ぎたらなんて言われるけどコッチはいつも強風が吹いてますからね。

それからリップカレント。離岸流。
うちの従兄も連れていかれそうになったと言ってました。

そうかと言って人里離れた誰も来ないビーチではサンゴ礁で足を切ったらなかなか治らないし。
これはうちの夫。


ワタシの遊び場はもっぱらタイドプール(潮だまり)です。
でも手を突っ込んで遊んでいたら毒のある魚に刺されたりするので最近はやらないです。


「幽霊飴」は日本のアチコチに伝承がありますね。

子育て幽霊でスゴイ!と思ったのは1つだけあります。
小夜の中山のあの石はホントすごかったです。

テレビでこぶ平がペタペタ触ってるのを見てビックリしました。
何十人ものスタッフがいっしょにいるはずなのに誰も気が付かないの?と。

翌日の放送でこぶ平が「あんな風に触っちゃいけなかったんですねぇ」なんて殊勝な顔をして語ってました。

私にはちゃんと見えてましたよ。
スタッフには誰にも見えてなかったのかな?とそっちにビックリしました。



>本多忠勝の墓前にて、線香と般若心経を二巻上げさせてもらいました

わたくしの分もありがとうございました。


刈谷には是非野間のついでにいらっしゃってください。
西三河で超優秀な県立高校というと刈谷(と岡崎)です。

こういうのって江戸時代からの影響が今に至っているんでしょうかねぇ。
権力に近い所は教育も熱心だったり優秀な頭脳が集まるんでしょうかね。
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月16日 11時28分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 蓄積された技能・技術・知識=文化の中で、人はより高度なレベルに浮
上できるのだと思います。城下町等は、そういった意味で、より高度な文
化が創生されて行きますので、その結果は当然現在まで続いているのだと
思います。そういった環境で育てば、色々な刺激を受け・興味も涌き、当
然競争も激しくなりますので、レベルの高い子供達が育っていくのではな
いでしょうか。
 
 さて、本多忠勝の娘が松下家や真田家等に嫁いだということ、特に小松
姫は有名ですね。この辺も深堀りすると何か秘密が拾えるかもしれません。
今後、取り組んでみたいと思います。

 浄土寺の次に向かったのは、「照源寺」であります。この寺の由来は、
その門前の看板によると次の通りです――

 「当寺は、元和三年(1617)桑名城主となった松平(久松)隠岐守定勝の
 菩提のため、その子定行が寛永元年(1624)創建し崇源寺と号したが、
 後に照源寺と改称した。
  境内には、県の文化財に指定されている松平家一統の墓所として、
 定勝を初め、藩祖定綱夫婦以下おおよそ二十五基の墓や、市の文化財
 に指定されている寛永元年(1624)に建てられた山門、両株の根元から
 ほぼ水平に出ているそれぞれの太い側根が互いに癒着して連立してい
 るクロマツの巨樹「夫婦マツ(別名連立の松)」等多数の文化財や金龍
 桜が見どころです。」

 この寺の西側の山裾は中腹まで墓地となっていて、なおかつ寺に隣接
した一角に「松平(久松)定綱及び一統之墓所 二十六基」という看板が
出ておりました。その内容は――

 「当寺は、徳川家康公の異父弟松平定勝のために創建された菩提寺で、
 桑名城主定勝を初めとして定綱、定儀、定輝、定信、定永、定和、猷
 の歴代諸侯及びその一統二十六基が建てられている。」

 門扉を開けて中に入って行くと、墓の案内看板が建てられていて、そ
こには、墓の位置と誰の墓かが書かれておりました。墓の数は二十六基
でなく、四十一基ありました。一統プラス家臣か何かだと推察いたしま
した。

 よく見ると「服部」の文字がいくつか見えました―― 
 
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月16日 12時37分24秒 ) パスワード

三つ柏さん


>よく見ると「服部」の文字がいくつか見えました―― 

家老になってますからね。


この服部家一族はややこしいんですよね
どっちがどっちか分かりませんが  大服部・小服部  と2つあるそうです。
[36]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月17日 08時27分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 芭蕉と北村季吟が出たついでに、一度振り返ってみました――

 推測@ 
     ・芭蕉の父は松尾家、即ち福地家、即ち服部家、即ち祖は平宗清。
     ・芭蕉の母は、藤堂高虎の母方の従兄弟の藤堂良勝の娘。
     ・藤堂良勝家は、新七郎家と呼ばれ、上野城代の藤堂采女家に次
      ぐ家格であった。
     ・北村季吟の北村は、平宗清の子孫の北村家。
     ・服部保章は元々北村家か、妻・母が北村家。
     ・服部保章の娘は明智光秀の後妻。
     ・服部保章、その孫(光秀の子)は北村と称した。
    ・松尾芭蕉は、北村季吟に師事した。

 推測A
     ・芭蕉が江戸に出て、庵をむすんだのは深川。
     ・その芭蕉庵は、後に松平遠江守の下屋敷となる。

 途中ですが、用事で――
 
 
[37]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月17日 11時56分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様


推測A
     ・芭蕉が江戸に出て、庵をむすんだのは深川。
     ・その芭蕉庵は、後に松平遠江守の下屋敷となる。
     ・松平遠江守は桜井松平家。
     ・桜井松平家は、信定より四代目の忠正の時、正室を久松松平
      家(俊勝)より迎えている。
     ・また忠正は、継室として明智光秀の娘の綾乃を迎えている。
     ・忠正の子忠吉もまた、正室を久松家(俊勝)より迎えている。
     ・結果、桜井松平家と久松松平家は兄弟同然の濃い親類。

 推測B
     ・久松松平定勝の母は、徳川家康の母でもある於大。
     ・服部正就は、江戸での事件で改易。久松松平定勝の預かりと
      なる。
     ・服部正就は、久松松平定勝の娘・松尾を正室としている。
     ・服部半蔵正成の長男・服部正就は、大阪夏の陣で戦死(不明)。
     ・服部半蔵正就の弟服部正重は、正就の死後(一応)、半蔵家を
      継ぐ。
     ・藤堂新七郎良勝(芭蕉の母の父)も、大阪夏の陣で戦死。
     ・服部正重は、舅の大久保長安事件のあおりをくらって領地没収。
     ・正重はその五年後、兄正就の妻・松尾の実家・松平定綱(定勝
      の子)に召し抱えられ、桑名藩家老となる。

 つまり、何を言いたかったのかというと――
「徳川家康の母・於大を根として、松平宗家・桜井松平家・久松松平家、
服部半蔵家・服部保章家・服部正尚家、明智家、藤堂家、松尾芭蕉はつな
がっていたということ……。 」 

    参考資料:光田和伸『芭蕉めざめる』、阿部喜三男『松尾芭蕉』、
         橋場日月『服部半蔵と影の一族』、他




[38]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月18日 03時54分56秒 ) パスワード

三つ柏さん

整理、ありがとうございました。

ホント!
日本人って、みんな繋がってしまうんですよね


なんとかかんとか言っても結局は繋がってしまう。
芭蕉が義仲を好きだった理由も何かあったんですよね。
敵の敵は結局は味方ですしね。



こうして深く掘り下げて行く作業って楽しいですね。
あ、そうだったのか!という鉱脈に突き当たると、もう、嬉しさ倍増ですね。


やはり三つ柏さんの般若心経効果はスゴイ!
拍手
[39]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月18日 07時17分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 考えてみれば、今は金さえあればなんでもでき、一人でも生きていける
時代であります。でも昔はそんな便利で自由な時代ではなかった(ここで
いう昔とは、江戸時代から前をいいます)。頼りにできるのは、人間関係
であった。それも血のつながり。血はつながっていなくても縁つながり。
 正に、「人間関係の綾」が「歴史」であった。言い変えると、歴史は
「人間関係の履歴」ということになると思います。
 さらに逆に言えば、「人間関係」がわかれば、歴史の謎は解けてくると
いうことになるのではないでしょうか。

 さて、桑名の「照源寺」の久松松平家の墓所でありますが、四十一基の
墓があり、看板には番号がふってありました。それはどうやら中心人物
から関係が濃い順にふってあるようでした。
 @松平定勝
 A松平定勝夫人(奥平貞友の息女)
 B松尾(服部半蔵正就の夫人 松平定勝の息女)
 C服部瀬兵衛正治(服部半蔵正就の子)
 D服部主水正家(服部瀬兵衛正治の子)

 :

 これを見ると、服部半蔵正就(半蔵正成の長男)の墓がない。大阪夏の陣
で討死したということであるが、死体がみつからなかったということであ
ります。どこかで生き延びたという説もいくつかある訳でありますが、墓
を造らなかったのは、一縷の可能性を期待したからでしょぅか?

 
 
 
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月18日 18時42分14秒 ) パスワード

三つ柏さん


>墓を造らなかったのは、一縷の可能性を期待したからでしょぅか?

きっと正就の死も遺体も桑名の人々には秘密だったかもですね。
問題の多かった人物だからご公儀をはばかって行方不明としたのかも。

今でいうADHDとかアスペルガーとかサイコパスとかの面倒な性格だったからか
服部家の存続には大坂の陣の戦いで行方不明になったという大義の方が都合が良かったのかも。

それで服部家は四国伊予の各藩でも結構良い身分にいられたのかも。


ドサクサに紛れて暗殺処分されたのかもですね。


問題の無い人物でしたら謎解き小説の主人公に成り得たかもですね。
身から出た錆、かも。


般若心経で救ってあげてください。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月18日 19時04分16秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%AD%A3%E5%B0%B1

服部 正就(はっとり まさなり)

天正4年(1576年)[1] - 慶長20年5月7日(1615年6月3日)


安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。
通称は半三(はんぞう)、あるいは源左衛門で、一般に服部半蔵(半三)の名で知られている服部正成の長男。

正室は松平定勝(久松松平氏)の長女松尾、
子は服部正幸、服部正辰、服部正治。
官位は石見守。

生年については天正4年(1576年)[1]と永禄8年(1565年)の説がある。



家督継承から行方不明になるまで

父である服部正成の病死により、21歳の時[1]、服部家の家督、服部半蔵の名と御先手鉄砲頭[1][2]、与力7騎・伊賀同心200人の支配を引継いだ。

・慶長5年(1600年)6月18日、石部宿に到着した家康が長束正家の策謀を疑い、夜間ひそかに水口城下を通り抜けた際、本多忠勝、渡邉守綱、水野正重らと共に護衛にあたった。正就ら鉄砲頭は火縄に火をつけ警戒した。[3][4]



・慶長5年(1600年)6月22日、上杉景勝の押さえのため、白川小峰城(白河城)に向け派遣された。

大田原晴清の援軍として皆川広照、皆川隆庸と共に大田原城へ入り、家康より預かった鉄砲の配備と宇都宮の守備にあたる。[3][4][5][6][7][8]

この時大田原城に運び込まれた鉄砲の数については、史料により「鉄砲100挺」[3]「長筒の鉄砲10挺」[4][7]「大砲10挺」などの差異がある。


・慶長5年(1600年)9月15日の関ケ原の合戦の時は黒羽根城にて先に入城していた親族の服部市郎右衛門保英(伊賀衆100人)、岡部内膳長盛(甲賀衆100人)、黒羽根城主大関左衛門佐資増、千本義貞(那須衆)と共に警護防衛に籠っている。[1][9][10]

甲賀衆が出てますね


8月に白川城の偵察に伊賀者を3人送り込み[3][11]、その報告の結果、岡部長盛とともに「速やかに白川城を攻めるべし」と総大将の結城秀康に進言するも「今は形勢に従う」とされて白川城攻めは中止となる。[3]


・慶長6年(1601年)7月、正就は鉄砲3挺と玉薬を城付武具として残し、大田原城を退去した。[11]


・正室である松尾は家康の母であるお大の方に侍女として仕えていた。

                        へぇ〜

縁組が決まった際に松尾は家康の養女とされ祝言の際に正就は家康から秋廣の刀を賜っている。[1][12]

                        へぇ〜


・慶長9年(1604年)に江戸城半蔵門内の服部屋敷が類焼で焼失した。

その際、普請の手伝いを申しつけられた伊賀同心の一部が「自分たちが正就の家の普請を行うのは道理に合わない」と目安で訴えたため、正就は幕府から詮議を受けることになった。

詮議の結果、「同心どもには理が無く、石見守に理がある」とされ、伊賀同心達は残らず取り調べられ、目安を投じた張本人である7人が処罰を受けた。[1][13]


伊賀同心達の取り調べの間に正就の身内に病人が出る。

将軍とのお目見えを控えていた正就は密かに見舞いに出かけ、夜更けに帰宅の途についた。

その折、夜道を行く彼らの前から来た者が正就の家来を突き倒し、罵詈雑言を吐きながら刀を抜いて向かってきたため、正就はやむを得ず相手を斬り殺した。

この斬り殺した相手が伊奈忠次配下の足軽であったことが判明し、翌日老中から取り調べを受けた際「狼藉者を成敗したのはもっともな事であり、先日の同心の訴えについても正就に理がある。

とはいえ、いまだ将軍にお目見えが無いにも関わらず私用で夜中に外出したことは不届きである」と12月2日に改易を申しつけられた。[1][13][14][15][12]

                        厳し〜ぃ!


(慶長10年(1605年)に江戸衆の鉄砲奉行として将軍の上洛にお供し、同年12月に改易とする史料もある。)[4][14][16][17]


改易後、正就は舅である松平定勝の預かりとなり掛川で蟄居となった。

この間に秋廣の刀を正就・松尾の夫婦連名で掛川の神社に納めている。[15]

                        今でも掛川にあるんでしょうかねぇ?


・慶長12年(1607年)に松平定勝が伏見城代に就任するのに伴い正就も伏見で蟄居を続ける。


・慶長19年(1614年)に大阪の陣が始まると軍功に励み己の不始末を詫びて働きたいと思うようになり、正就は松平定勝に願い出て先手の松平忠輝の陣に加わる事になる。

                        忠輝では相手を間違えましたね
                        家康は忠輝を嫌ってましたから


翌年の慶長20年(1615年)5月7日の天王寺口の戦いで正就もその従者も全て討ち死にし遺体も埋葬場所も見つからなかったため[15]紀州高野山山中成源寺にて葬儀が行われた。


法号は「了義院殿前石州禅室参公大居士」。[1][15]法号は伏見の三宝寺に残されているが、墓や供養塔はないという。[18]

                        あらあら



その後の服部家

正就の討死により弟の服部正重が服部半蔵を襲名する。

正重は大久保長安の娘婿であったが、慶長18年(1613年)に起きた大久保長安事件では「関わりなし」として咎を受けなかった。

しかし、幕府の目付を佐渡で待てという命に反し対岸の出雲崎で出迎えた事により改易となり、村上義明に身柄を預けられた。[3][19]

                       息子の事件でしたか
                       正就と混同してました



村上家の没落後、堀直寄が村上藩主になると正重も預け替えとなり、堀家に三千石で仕えた。[1]

                        仕えた、と書いてありますね。
                        これにも驚き


寛永16年(1639年)、堀直定の夭折により村上藩が廃藩になると正重も暇を出されたが、甲州に引きこもっていたところ、桑名藩主・松平定綱(定勝の子)に二千石の年寄の身分で召し抱えられ、桑名藩で服部半蔵家は存続する(大服部家)。

                       これが大服部家でしたか


その後、大服部家は明治時代まで続き、桑名藩家老・三重県の区長等を務めた十二代服部半蔵正義を最後に断絶した。



一方、正就の妻松尾は桑名藩主松平定綱の姉である事から、その子・正辰も桑名藩に仕えている。

血統から藩主一族の扱いを受け、服部半蔵家(大服部家)以上に優遇されている(小服部家)。

                       小服部が大服部より優遇されていたのですか
                       それでワタクシは混乱したのですね




死への異説

元・伊賀同心支配役(一般的には、伊賀忍者の頭領として知られる)が行方不明になった事から異説も生まれている。

                       ですよね


1.密かに伊賀国花垣荘与野庄に隠れ住み、花垣柏尾城主である本田武兵衛安房守栄斉の娘を妻として、服部保良(伊賀国で上島家養子となる)、服部保久(越後国で保田家養子となる)、服部保蔵、服部弥三左衛門をもうけた。[18][20]

                        ここでも花垣の与野(予野)が出て来ましたね
                        芭蕉もここに出掛けて句を詠んでいますし

                        ということは「生存してた」のかもですね


その後、縁戚を頼り越前・越中を経て妻子と共に村上藩へのがれ、当地を開拓して75歳まで農民として生きた。

慶安4年(1651年)9月20日に没し「慈天法性院暁信日道大居士」の法号で集落の菩提寺に葬られた。[18]


2.伊賀へと逃げ延び与野の地にて妻子と隠棲していた正就は、あるとき僧の姿に変装して一人で姿を消した。(伊賀地方の伝説)


3.大坂の陣で武勲を立てて再び幕府に召抱えられる事で、自分達に言い掛かりを付けて処罰しにかかろうとすると勘繰った伊賀の同心達によって暗殺された。

等の説がある。



笹寺の事件(伊賀の皆さんのストライキ事件のことですね)

寛保元年(1741年)に成立した「武徳編年集成」以降の史料から「服部正就の改易は笹寺で起きた同心の立て籠り事件が原因である」との記述が見られるようになる。

その内容は概ね

『徳川家から指揮権を預けられたに過ぎない配下の伊賀同心を、さながら自分の家来であるかのようにふるまった。私的な自宅の修繕までも申し付け、従わない者は扶持米を差し押さえるなど手ひどく扱った。そのため伊賀同心達は反発し、慶長10年(1605年)12月、四谷長善寺(笹寺)に200人の伊賀同心が武装して籠り、正就の解任と与力への昇格を要求する騒ぎに至った。このため幕府は同心らに非はなく正就に問題があったとして、同心の要求通り伊賀同心二百人組頭の役を解き、新たに四人の組頭が置かれた。 正就は逆恨みし、幕府に対し伊賀同心の首謀者10名に死罪を要望。そのうち、逃亡し江戸市中に潜んだ2名中1名を探し出して白昼に門前で斬り捨てた。しかし、斬り捨てたのは伊賀同心と全く関わりのない別人であり、当時の関東総代官・伊奈忠次の家の使いである事が分かった。正就は見誤って人違いで斬ったと陳謝したが、当時頻発していた辻斬り事件の影響もあり、江戸市民に正就が辻斬りの犯人であるという噂を立てられたため、これを重く見た幕府より改易蟄居を命じられた。』[3][4][17][21][22]

というものである。


伊賀同心の笹寺立て籠りについては1644年成立の「当代記」や1663年に幕府に提出された「服部源右衛門訴詔覚」には見られない記述であり改易に至る経緯が大きく異なる。


笹寺の立て籠り事件の内容が全て真実であるのか、今後の研究を待ちたい。



登場する作品
『最後の伊賀者』(司馬遼太郎、短編小説)
『徳川秀忠』(戸部新十郎、小説)
『兵馬地獄旅』(横山光輝、漫画)
『サスケ』(白土三平、漫画):「服部半蔵」の名で登場。


以上こぴぺ


波乱万丈の人生だった人物ですね。
こういう人を夫に持って松尾さまも大変ご苦労なさったでしょうね。

でも正就がもう少し早く生まれていたのなら恐らく戦国時代に豪傑として活躍出来たのでしょうね。

生まれたのがちょっと遅かったですね。
[42]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月19日 10時56分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 生まれた時期の問題は、確かにその人の人生に大きく影響しますね。
 下剋上の戦国時代を脱して、安定政権になると、「諜報力・情報力」
が重視されるようになり、忍者のような「特殊戦闘能力」は必要でなく
なる。そして、剣に関する考え方も、百八十度変わって来る。
 服部党は退場して行き、柳生家が中核に座るようになる……。

 ということは、柳生と濃い姻戚関係のある松下之綱・松下常慶を中心
とした松下家も、追い風を受けるようになったはずでありますが……。

 桑名へ行って、照源寺の久松松平家の墓地の中に、大阪夏の陣後に不
明となっている服部正就の墓はなかったけれど、妻・松尾(久松松平定勝
の娘)、その子、及び孫の墓があったことは、寂しいけれど、何かホッと
した思いがいたしました。
 また、顕本寺に服部半蔵政重(桑名藩家老)の大きな墓があったことは、
それなりによかったなと感じられました。
 いずれにしても、服部半蔵の一族、一度総括する必要があると感じて
います。石原新太郎の祖先も服部半蔵につながっているということであ
りますので、こちらも興味あるところであります。

 今週、東京へいきますので、服部半蔵の墓参りをして来ます。
 寺は、四谷寄りの新宿にある「西念寺」であります。
 服部中保次一統の墓があるという麻布の「湖雲寺」は、住職が悪徳業者
に謀られて、土地を失ってしまったようです。但し、三十程の墓だけは保存
されるようですが……。このように、歴史のかけらはどんどん失われて行
きます――
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月19日 12時27分15秒 ) パスワード

三つ柏さん

もし間に合いましたら   国会図書館  に是非社会見学をなさってください。



断家譜1 - Volume 1 - Page 15 - Google Books Result


こんなのがありました:

https://books.google.com/books?id=ZYnE99OizPkC&pg=RA2-PA15&lpg=RA2-PA15&dq=%E9%BA%BB%E5%B8%83%E3%80%8C%E6%B9%96%E9%9B%B2%E5%AF%BA%E3%80%8D%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=SGN_2dogBO&sig=Db0iq88Y_368BDlfwtS8_vymNes&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjb5caTt_fZAhUrslQKHb20DrYQ6AEIajAL#v=onepage&q=%E9%BA%BB%E5%B8%83%E3%80%8C%E6%B9%96%E9%9B%B2%E5%AF%BA%E3%80%8D%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

平氏で伊賀系の服部氏の家がいろいろ出ています。
なかなか面白いですよ。
[44]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月19日 15時03分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『断家譜』ありがとうございます。

 橋場日月氏の『服部半蔵と影の一族』によりますと、「服部中保次」の
妻は、家康の六男・「松平忠輝」の家老となった「花井遠江守吉成」の娘
で、生まれた子は三九郎といったとありました。

 しかしながら、あを様ご紹介の『断家譜』によりますと、服部中保次の
孫の「保俊」(今切関所奉行)の妻が花井遠江守の娘となっています。

 花井吉成の生まれた年代から言って、『断家譜』の方が正しいものと推
察されます。

 吉成は猿楽師。母は「茶阿局」―忠輝の母。忠輝には元猿楽師の大久保
長安が後見人となっています。

 服部半蔵正就は、大阪夏の陣で忠輝の旗下に入ったということでありま
した。やはり、服部党と猿楽師はつながっているのが見えてきそうです。
また、花井氏は元々松下氏であります。

 ちなみに、花井氏は現在私の村の隣村あたりに多いです――
 

[45]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月20日 03時23分08秒 ) パスワード

三つ柏さん

またまた矢張り回り回って強固な関係が分かりますね。

人口数%の、武士の限られた世界の関係、ですから当然ですが。


>ちなみに、花井氏は現在私の村の隣村あたりに多いです

ということは遠い親戚関係というのが分かるかもですね。

いとこ・はとこあたりでは分からないけど、
そのもっと向こうの「みいとこ」とかもう少し向こうになったら実は江戸時代には、
という話があるのかもですね。

明治維新後、戦争後、高度成長を経て「そういえば隣村にそういう名字の人がいるな」ぐらいに思っていたのが、実は、親戚だったかも、なんて。

家が栄えて末広がりに広まり過ぎて末端からでは要の部分や軸が分からなくなってしまった、ということがあるんでしょうね。

昔の知り合いに隣村の花井氏関係の人がいたらいいですね。
[46]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月20日 09時24分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一昨日は、彼岸の入りで、墓参りと菩提寺にお参りに行ってきました。
 人はなぜ祖先の墓に詣でるのか……たぶんそれは表面的には肉親たちへ
の「愛しさ」から来る行為であると思いますが、無意識の世界では霊的に
つながっているのではないかと想像いたします。霊感の強い人、あるいは
修行した僧には霊の声が聞こえたりします。私はそういう行者さんに師事
したこともあり、見ております。まだまだ科学では実証できない世界があ
り、信仰心もそこに根差しているのかも知れません……。

 お墓では、五十年ぶりに氏類(じるい 一門)の人に会いました。会いた
いなと常々思っていた想念が通じたのかなとも思いました。
 また、菩提寺(定明寺)では、大本家筋の大きな位牌が、千体以上もある
位牌堂の最奥、最上段(観音様の隣)にあることを再認識いたしました。
 昔、「服部さま」と呼ばれておりましたことの謎解きが、祖先のルーツ
の解明の鍵であること再認識した次第であります。それでも日々少しずつ
ではありますが、ルーツ探求も進んで来ておりますこと、あを様に感謝申
し上げます。四年前とは雲泥の差であります!

 さて、桑名で見て来た中で、服部半蔵正就・正重一族以外の服部氏の墓
も十基以上ありましたのでご報告しておきます――

 顕本寺:服部家 二基 丸に八葉矢車
     服部家 一基 家紋表示なし
 真如寺:服部家 一基 丸に違い鷹の羽
     服部家 一基 家紋表示なし
 本統寺:服部家 一基 丸に八葉矢車
     服部家 一基 丸に横並び切竹
     服部家 一基 互い旗指物
 照源寺:服部家 一基 下り藤
     服部家 一基 丸に縦並び切竹
     服部家 二基 丸に並び矢
     服部家 二基 丸に違い矢
     服部家 一基 源氏輪に縦並び切竹
     服部家 一基 家紋表示なし

 なお、真如寺は、掛川の真如寺の和尚が、久松松平定吉の弟定綱が桑名
へ移された時に招かれて開いた寺であります。掛川の真如寺は、山内一豊
が開創、久松松平定吉が開基。定吉が自刃した時、引導及び葬儀を行った
のがその和尚だそうです――
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月20日 14時44分05秒 ) パスワード

三つ柏さん

ワタクシ的には石や山や滝などに何か感じます。
非常に  縄文人のような  感覚に捉われます。

でも人間らしき存在については気のせいにしています。

                       夫の亡き父親はオカルトかかったドイツ人らしく
                       この人のことは2回感じました。
                       夫の亡き母親はラスベガスの家に何度か来てました。
                       夫の亡き兄は全く感じませんでした。
                       夫がラスベガスで入院した夜は眷属が屋根の上で暴れていて夫に無理やり退院してもらいました。
                       この時は怖さの余り夫が退院して車で日本の友人達と喋ってました。


                           ベッド使用代と行きの救急車使用代で40万円ほど払った記憶です。


1年に数回ぐらい一族で集まって先祖語りするのは非常に良いことだと思います。
定期的にやっておかないと子孫に伝わりませんから。



>服部家 一基 互い旗指物

これは珍しいですね。


実は昨日「断家譜」を見つけた時に、こんな紹介文を見たのです:以下コピペ
しかし意味不明部分についてです。


断家譜1 - Volume 1 - Page 15 - Google Books Result

入御小性組加々爪甲斐守組賜三百俵、同十八年辛:八月五日病没、葬麻布湖雲寺、法名月孭浄江、権之助本家嗣宽永十八年辛巳十二月四日跡目三百俵、承応三年甲午本家中保継養子、三百俵上納、 1^

                                子孫相続平氏服部本国伊賀  紋うき束  
                                        この部分の  「紋  うき束」  って何なのか?謎です。これが紹介文に突然出てて「意味不明」なのです。


服部新兵衛.和氏.小普^組島田庄五郎支配、宝暦九年己卯正月病某-某- 平三郎は-リ延享三年丙寅八月 ...

コピペ以上


そうしましたら本日
本統寺:服部家 一基 互い旗指物
と三つ柏さんがお書きなので  またまた  驚きました。こういう紋なのですか?


あとは、まぁ、馴染みの紋ばかりなのに。


家紋の世界も名字と同じくワケ分からないです。


服部家も家紋からいろいろな事情が読み取れるのでしょうね。


「服部さま」とお呼びするお方はどなたなのでしょうね。
なんとなく今切のお奉行だったお家のような気がします。

(保長系の半蔵家でしたら桑名か愛媛県でしょうから)


「服部さま」にお会い出来ると良いですね。

恐らく遠江での中心となる服部総本家のお方なのかな?
という感じがします。

謎ですね。
[48]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月20日 23時01分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 家康が浜松城に居城とした17年間(1570〜1587,家康29歳〜46歳)、服部
半蔵正成もまた家康に供奉し、この地で領地を賜り、居住したことは間違い
ないところであります。
 服部中保次ままた、桶狭間の戦い後に信長を離れ、家康の配下になり同様
に浜松にやって来ています。
 服部中保次は、引佐郡刑部で今川の残党に暗殺されてしまいますが、子孫
は浜名湖の東の大久保に陣屋を設け、3500石の旗本として、明治までこ
の地に存続しましたので、信憑性のある確実な情報がある程度は残りました。
 一方、服部半蔵正成の方は、この地における独立した信憑性のある情報は
残っていない。但し、寛政重修諸家譜や講談話のような話としてはいくつか
残されてはいます。

 あを様が以前調べていただきました服部半蔵の領地ですが、小池村がそれ
に含まれるようであります。最近、服部半蔵について「Wikiwand」を見
ましたら、半蔵の知行地として――
 「遠州布引山麓の村、遠州イサシ村、サハマ村。天正の頃は、遠州長上郡
 小池村であったといわれる。」
という解説がありました。

 服部中保次の孫である保俊の知行地は、大久保、神ヶ谷、山崎、小人見、
伊左地、下石田、上石田であります。

 半蔵のイサシは中保俊の伊左地と同じだと思いました。
 半蔵の小池村は、古文書を読むと例の市野も含まれるようです。
 中保俊の上石田・下石田は小池の東側であります。

 これらのことから窺えることは、家康は、忍衆系の服部氏を警護のために
浜松の西と東の要所に配置したということであります。警護の相手は、西は
豊臣、東は今川から武田へと、と言っていいと思います。

 本日は、まだ未調査の伊左地、古人見(小人見)、大人見、佐浜あたりの寺
を回ってみました。
 結論からいいますと、服部に関する歴史情報のかけらは拾えませんでした。
ただ一つの「おまけ」として、伊左地の西江院で、作詞家の「清水みのる」
の墓を見つけました。この清水氏は、私の姉の夫の父の高校時代のの同級生
で、仲がよかったと聞いています。ちなみに姉の嫁ぎ先は、神ヶ谷の松下家
であります。

 清水みのるの作詞した曲は、田端義男の「かえり船」「別れ船」「かよい
舟」などで有名です。「星の流れに」「月がとっても青いから」は斬新な表
現のとてもいい作だと思います。
 
 明日は、服部半蔵正成に会いに行きます。信康のことも含めて、何か感じ
られるといいのですが――

 
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月21日 09時45分54秒 ) パスワード

三つ柏さん


あらあら
そうしますと半蔵系も「服部さま」の可能性がありますね。

菩提寺の夥しい数の御位牌を考えると  戦国時代  からの位牌かも知れないですね。


定明寺さんのおっさまとお話が出来るといいですね。
とても「服部さま」にお会いしたいなんて言い出せませんものね。


そんなに古くから伝わる「服部さま」ってホント一体どなたなのでしょうね。
馬淵さんなんかご存じ無いでしょうかねぇ。


清水みのるの歌はたくさん記憶にあります。
意外なところで身近な作詞家だったんですねぇ。

このように意外なところから「服部さま」のことも分かって来るかもですね。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月21日 13時05分05秒 ) パスワード

三つ柏さん


本日磯田先生のご本を頂きました。
ありがとうございました。
ものすごく新しい本ですね。
感謝です。



早速秀頼の父の項を読みました。
アヤシイ、ですか。


ワタクシとしては「石田三成」か「大野治長」か
と思っています。


秀吉は政権を信長さまのお血筋に、と考えて「秀頼」を守ろうとしたのじゃないかなと。
それには三成が一番守ってくれるのじゃないかな、と。
例え三成の子でも構わない、と。


治長じゃないかなと思うのは2人とも1569年あたりの生まれだから治長が乳母の子というより「実のきょうだい=双子」のように育っているから
たぶん淀殿は治長を好きだったんじゃないかな、と。


では、ご本を読ませて頂きます。
本当にありがとうございました。
[51]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月22日 11時36分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日の東京は、雨混じりの雪(重たいみぞれ)が降り続きました。その中
で、用事を済ませた後の午後の2時間位でありましたが、四谷の西念寺へ
行ってまいりました。

 四谷には、過去2回、真言宗のあるお寺を訪ねたことがありましたが、
歩いて行って見れば、西念寺もその近辺でありました。
 服部半蔵の墓があるということは、以前から知っていましたが、さりと
てどうしても見たいという強い意欲は湧いてこず、そのままになっており
ました。それは何故かと言うと、半蔵の話は何かフィクションめいていて、
しかも信憑性のある、リアリティを証明する資料がない。その辺が影響し
たのかなと思います。二俣城で家康の長男信康の首をはねる役であったが、
刀を振り下ろせなかったというのも、たしかにお涙頂戴物のフィクション
ぽく感じる部分ではあります。

 先日、半蔵正成の長男の正就及び二男の正重と久松松平定勝との関係を
桑名に調べに行きましたが、それが今回の西念寺行きの後押しとなったと
感じております――
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月22日 12時55分02秒 ) パスワード

三つ柏さん

春分の日に雪なんて(みぞれだったとは)まるで北陸みたいですね。
再び寒そうですね。

こういう時は風邪に注意なさってくださいね。


実際には西念寺で何かお感じになりましたか?
続き、待ってます。
[53]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月22日 14時13分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 お彼岸のお中日に、半蔵の墓参りをすることになったということに、ひ
ょっとしたら意味があったのかも知れません。

 西念寺は、浄土宗のお寺で、寺自体はそんな大きな寺ではありのせんが、
さすが江戸時代からの立派なお墓がたくさんありました。住職に聞いたり、
何か関連の資料があるかないか探すのは、時間の都合でできませんでして
が、又次の機会には…と思っています。
 西念寺は東に下る小高い丘陵地のはずれにありましたが、服部半蔵正成
の墓は敷地の中央の東のはずれ、本堂の右側にありました。それは、2m
前後の宝篋印塔でありました。そして、その北側に、3m前後の圧倒する
五輪塔がありました。それが松平信康の墓であります。つまり、大きな
信康の墓の隣に、遠慮がちの服部半蔵正成の墓があったという訳であり
ます。

 色々な姓氏の墓の写真は写してまいりましたが、まだ分析はできており
ません。寺と半蔵と信康については、新宿区教育委員会による案内看板が
それぞれ建てられておりました――
 @門前にあった案内看板
 「服部半蔵と西念寺
  服部半蔵は、徳川家康の旧臣で、槍の名手として、また伊賀者の指導
 者として知られている。
  主君家康の長男信康が切腹のおり、半蔵は介錯を命ぜられたが、つい
 に果たすことができず、後に半蔵は信康の冥福を祈るため仏門に入った。
  天正18年(1590)家康に従い江戸に入国し、麹町清水谷に庵居を設け、
 信康の遺髪をここに埋め、霊を弔った。文禄2年(1592)家康より寺院を
 建立するよう内命を受けたが、これを果たせず、慶長元年(1596)11月
 14日、55歳で死去した。 
  その後、同所に寺院の建立が成り、山号、寺号は法名から「専称山安
 養院西念寺」となった。
  寛永11年(1634)江戸城外郭拡張に伴う外堀建設のため、西念寺は、
 現在地に移転した。
  境内には、服部半蔵の墓と信康の供養塔がある。(共に、区指定史跡)」
[54]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月22日 15時14分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 A服部半蔵の墓の案内板――
 「服部半蔵の墓
  服部半蔵(1542〜1596)は、本名を正成といい、徳川家康の三河以来の
 旧臣で、家康16将の一人に数えられる武将である。
 「鬼の半蔵」として知られ、元亀3年(1572)三方ヶ原の戦い、天正18
 年(1590)小田原攻めで功をあげ、知行8000石を賜り、同年の家康の
 江戸入府後は、江戸城西門近くに居を構え、城の警備等にあたった。半
 蔵門の名は、彼の名に由来する。
  半蔵は、天正7年(1579)家康の長男信康が切腹する際、介錯役を命じ
 られた。しかし、これを果たせず、晩年、信康の菩提を弔うため麹町清
 水谷に庵を建て、西念と号し、仏門に帰依した。
  文禄2年(1593)には家康から寺院を建立するよう内命を受けたが、慶
 長元年(1596)11月、55歳で没した。
  西念寺は、半蔵の没後完成し、寛永11年(1634)江戸城の外堀拡張・
 新設の際、現在地に移動したものである。」

 B松平信康の墓――
 「岡崎三郎信康供養塔
  西念寺を開山した服部半蔵が、徳川家康の長男信康(岡崎三郎信康)の
 菩提をとむらうため、文禄2年(1593)に建立した五輪塔形の供養塔で、
 高さは2.69mである。
  信康は、永禄2年(1559)に生まれ、幼少時は今川氏の人質として駿府
 で過ごした。永禄10年(1567)に岡崎に帰り、織田信長の娘を娶り、元亀
 元年(1570)に岡崎城主となったが、天正7年(1579)に武田信玄と内通し
 たとの嫌疑により、家康から切腹を命じられた。
  服部半蔵は、この時介錯を果たせず、後に信康の供養のため出家した。
  なお、西念寺には「岡崎信康廟修補記」が残されており、文化11年
 (1814)に補修が行われたことがわかる。」

ということで、いずれも通常の説明書きを覆すような新事実についての記載
はなく、静かな落ち着いたものでありました。まだまだ私も服部半蔵につい
ては研究不足でこちら側の迎え入れ体制ができないのだと思います。信康の
墓については、二俣の霊廟には何回も行ってお祈りもしていたせいでしょぅ
か、暗さは感じられず、むしろ笑顔のような、太陽のような明るさを感じま
した。
 ここで、私は半蔵と信康の墓前で、それぞれ線香二本と般若心経二巻を捧
げました――
 
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月22日 23時00分49秒 ) パスワード

三つ柏さん

お二人への般若心経をありがとうございました。


半蔵が病没だというのは知ってましたが
鬱になっていたのかも知れないですね。

半蔵の最期の時に対する感じ方が変わりました。


「これまで書かれなかった事情」を想像したい気持ちになっています。
[56]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月23日 08時39分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「三寒四温」も「春の嵐」も、徐々に安定に向かって収束して行きそうで
す。
 
 さて、「半三は忍者でなく武将だ」というテーゼがありますが、これは、
半蔵の反面(表面)だけを捉えたものだと思います。やはり半蔵を理解するに
は、武将としての表面でなく、その裏・背景・実態を見ないとだめだ、との
確信に至りました。

 しばらくは、半蔵について探求してみるつもりですが、世阿弥から半蔵、
そして半蔵から芭蕉まで――は何か一本の線でつながっているような気がい
たしております。
 それは何かと言えば、世阿弥の「秘すれば花」であります。この言葉、な
かなか理解が出来ないのですが、「忍(意味:たえる。しのぶ)」という言葉
と併せてを考えてみますと、少し謎が解けてくるような気がいたします。
 つまり、物事には表と裏、表層と深層、現在と過去があり、裏、深層、
過去には花=実=真があるといった哲学なのではないか……。
 世阿弥の能、半蔵の忍、芭蕉の俳諧……すべて深層でつながっているよう
な気がいたします。
 こんなことを、私の考えるテーゼとして、今後探求してみたいと思ってお
ります。

 昨年に出版された中島篤巳氏の『忍者の兵法 三大秘伝書を読む』という
文庫本、忍術の何たるかがわかる本ですので、近々送ります。

 それにしても、服部半蔵家の系図もやや疑わしいものがあるようです。そ
れは通字の「保」と「正」の混合です――

 
[57]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月24日 08時07分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 西念寺に服部半蔵正成と信康の墓がありましたが、この西念寺は半蔵の
死後に造られたものでありました。
 もともと半蔵は、麹町の清水谷に「安養院」という庵を創建し、信康の
供養塔を建てて菩提を弔っていました。半蔵は、死後、戒名として「〜西念
大禅定門」をつけられてこの庵に葬られました。
 その後に江戸城の拡張工事のため、安養院は現在地に移されることにな
り、半蔵の戒名にちなんだ「西念寺」という名前の寺として新築されたと
いうことであります。
 
 この「安養院」ですが、確か同じような名前の寺が市野付近にあったな
と思い、地図で調べた所、確かに市野に「安養寺」がありました。
 今までは、市野と小池は別の村という観念がありましたので、小池村を
領する半蔵と市野とは結び付きませんでしたが、ある古文書に書かれてい
た「小池村市野」という住所書きにより、小池村は市野を包含する大きな
村であったことがわかり、市野も当然半蔵の支配下にあったと確信するに
至りました。
 これにより、安養院と安養院は半蔵を通じて関係があるものと確信いた
しました。

 さらに、色々なことがわかってきました。
 
 ここで、用事にて一旦中断いたします――
[59]三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月24日 20時51分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、集中力が戻りませんので、次回にします――
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月25日 02時33分54秒 ) パスワード

続きをご用意致しました。

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101629.html
長上郡の服部氏族CZ(課題確認50):107

キリの良いところでどうぞ。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月25日 14時09分33秒 ) パスワード

レス107に書かれた三つ柏さんの訂正文コピペ:


                       一つ訂正がございました。思い込みミスであります――

「小池村」が「市野」を包含すると書きましたが、
明治初頭の古文書の「小作証書」というのを再度調べましたら、

住所の表示が「長上郡市野村小池」となっておりました。
つまり、逆で、「市野村」が「小池」を包含しておりました。


いずれにしても、服部半蔵正成は浜松時代に大いに活躍しましたので、褒美としての領地(石高)はどんどん増えたと思われます。


小池だけにとどまらず、最後には八千石になっているようです。
その内訳を知りたいものです。



「小池」というのは「市野」のすぐ西にあたります。
西から姫街道(本坂道)が東に向かって貫いております。
そして「市野宿」あたりで「笠井街道(南北に貫く)」と交差いたします。
姫街道をさらに東に進むと、すぐに「下石田」に入ります。


つまり、市野は東西と南北の道が交わる要所であり、
その西の「小池」と東の「下石田」は、
「服部半蔵正成」の領地と「服部中保俊」の領地で挟まれたいたということになります……。

以上コピペ


ということでワタクシのレスは削除します。
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月29日 13時46分07秒 ) パスワード

三つ柏さんからの訂正:


桑名での家紋でありましたが、
「丸に互い旗指物」と書いてしまいましたが、
「丸に片桐違い鷹の羽」(鷹の羽が片切りになっている)でした。片桐氏が用いる家紋のようです。
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