[1] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月15日 10時01分14秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
南朝方が大橋家や津島神社と関係していることは、永井直勝の出自を通し
てわかっておりましたが、「なぜ津島なのか」についての探究までには至っ
ておりませんだした。
それが谷口克広氏の『天下人の父・織田信秀』を読んだ時、その中に津島
で栄えた人々がいて、それがほとんど浪合記にでてくる南朝臣だったので驚
き、大変興味を抱いた訳であります。(この本、送ります!)
Iの『津島を見守る良王さま物語』(漫画)を見ると、南朝臣と津島の関係
が漫画というイメージを通してよくわかります。一冊ほしいなと思っており
ますが、手に入りますかどうか……発行したのは、良王君の菩提寺の瑞泉寺
であります。
ついでながら言っておきますと、この瑞泉寺に行ってみましたところ、車
では、たどり着けなかった。道が昔のままの細さで、またわかりにくく、つ
まり区画整理されていないということであります。しかたないので、車を大
きなドラッグストアに留め、一応買い物もして、暫しの間車を置かせていた
だき、その間に徒歩であるいは走って、犬にほえられながらも、町中をぐる
ぐる回り、やっとのことでたどりつきました。しかしながら、寺の門はしっ
かりと閉じられておりました。ガックリしました。たぶん、お寺が幼稚園を
経営しており、防犯対策のためだろうと推察いたしました。それでもあきら
めきれずに裏手にまわると、路地があり、奥の方に墓が見えましたので、入
っていってみました。金網のしきりでお寺とは一応隔離されておりましたが、
入り口の戸は開けられるようになっていましたので、中に入りました。
そこで見たものは――
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月15日 11時13分56秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>『天下人の父・織田信秀』
ありがとうございます。
ぺこり
>瑞泉寺
残念ながら知らないです。
遠江国風土記伝
P317
http://books.google.com/books?id=XiWlHoM7MtwC&pg=PT356&lpg=PT356&dq=%E8%89%AF%E7%8E%8B%E5%90%9B%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=W4bsm0zUPf&sig=hBR-iKowzVl9AEbhLMFszDbr8pA&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjh6JaA56bZAhUJ2GMKHanfBkAQ6AEIUTAF#v=onepage&q=%E8%89%AF%E7%8E%8B%E5%90%9B%E3%80%80%E3%81%AF&f=false
右から6行目に 四家七名字 の家々が出てますね。
四家:大橋・岡本・常川(恒川)・山川
七名字:堀田・平野・服部・鈴木・真野・光賀・河村
五家の場合「藤原」が入ります。これは俗姓「伊藤」のことだと思います。
光賀さんは「こうが」って読むんですねぇ。知らなかったぁ〜
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%85%89%E8%B3%80
【名字】光賀
【読み】こうが
【全国順位】 27,325位
【全国人数】 およそ130人 滋賀・岐阜・長野に生息じゃない在住
織田家などを輩出した現愛知県である尾張国海東郡津島村が起源(ルーツ)である、菅原氏がある。
ほか紀氏(紀朝臣出が多い。竹内宿禰を祖とする。源平藤橘につぐ大姓)などにもみられる。
宮川藩にみられる。
近年、岐阜県に少数見られる。
へぇ〜
近江宮川藩
http://roadsite.road.jp/history/chishi/hanshi/omi-miyagawa.html
宮川藩は元禄11年(1698年)に堀田正休が、上野吉井から近江国甲賀、坂田、蒲生、愛知4郡内に領地を移され、坂田郡宮川に陣屋を構えて成立した藩である。
宮川藩堀田氏は堀田の宗家にあたり、先々代正盛は家光の寵臣として下総佐倉11万石にまで登りつめたが家光に殉死し、二代正信は無断帰国をして除封された。
正信は狂疾とされ、堀田家は正盛の忠義によって家名存続が認められ、正休に上野国吉井でで1万石が与えられ、さらに宮川に移された。
三代正陳は、延享2年(1745年)7月に若年寄、寛延元年(1748年)10月に西の丸若年寄となって近江国野洲郡、滋賀郡内で3千石を加増された。
最後の藩主正養は出羽亀田藩主岩城隆喜の子で堀田家に養子に入り、戊辰戦争では他の近江の小藩同様彦根藩の影響を強く受けて、新政府軍側に立った。
宮川藩というのは知らなかったです。
佐倉の堀田家は知ってました。
尾張藩現藩主(汗)のご出身の家ですし。
[3] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月15日 11時46分41秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
瑞泉寺の由来が書かれた看板がありました――
「瑞泉寺はかつては津島神社代々の神主邸内にありました。この屋敷は
中世城郭形式の構造で、屋敷地の周辺を外堀で囲み、邸内には内堀や池
を構えていたのです。
寺は屋敷地内南方の池のほとりに建てられ、その池は鏡のようなきれ
いな水面を持つことから、山号を「鏡池山」としてのでしょう。
寺の創建年代は、良王様逝去の2年後の1494年、神社境内の御前
大明神が創建された時、または御子良新様が神主になられた時(年代不詳)。
この2案が浮かびますが、いずれにしても1500年前後と考えられます。
神主邸から瑞泉寺が舟戸町に移動した年代は、良新様が神主になられ、
1代でその職を氷室氏に譲られた直後と思われます。
当寺には6基の宝篋印塔があり、1基が良王君の塔と伝えられています。
6基の内、1基は良王君、今1基が良新様、他の4基は家族と考えられて
います。
現在の御本尊様は、1751年春に大橋武左衛門の寄進によるもので、
京都の仏師駒井柳朝師作です。」
墓地には、墓はそんなに多くなく、次のような名前が見られました――
大橋、大野、宇佐美、澤村、三輪、阿倍、水野、津坂、後藤、安立、大山、
金田、そしてそして服部……1基でしたが家紋は「違い矢」でございました。
墓地の中心あたりに宝篋印塔の一画があり、次のような案内看板が建てられて
おりました――
「良王親王縁起
当寺は後醍醐天皇の曾孫、良王親王の菩提寺と言われ、父は尹良(ゆき
よし)親王で菩提寺は市内大龍寺です。菩提寺になった経緯は、江戸時代
に書かれていた『浪合記』『良王君伝』『信濃宮伝』に記載されています。
1334年 後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し、天皇が国政を掌握する建武
政権が成立。
1336年 足利尊氏が新しく光明天皇を推挙し、天皇家が2家に別れ
る。後醍醐天皇は吉野へ移り、南朝政権を、一方光明天皇
は北朝を名乗り南北朝時代が始まる。
1392年 南朝と北朝の講和が成立したが、それ以後も両者の対立が
続く。
1424年 尹良親王は、山梨県から三河へと向かう途中、長野県浪合
村で敵軍に囲まれ、自害される。
1428年 御子良王君は、上野国から信濃に向かわれるが、途中各所
で武士団の攻撃を受け、津島へお連れすることを決定。
津島の四家七党(しけしちとう)が主軸となり護衛し、津島
へ向かわれた。
1435年 12月29日に良王君を津島に迎え、奴野屋城(市内西芳寺)
に入御される。
1492年 3月5日逝去。御年78歳。瑞泉寺殿と号し奉る。 」
ここで私は、良王、その家族、大橋家・服部家などの家臣のために、般若
心経を2巻、唱え奉げさせていただきました。心がスッと晴れたような気が
いたしました――
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月15日 14時24分43秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
わたくしの分も般若心経をありがとうございました。
やっと良王君にも三つ柏さんんの般若心経が届いて安堵いたしました。
>1492年 3月5日逝去。御年78歳。瑞泉寺殿と号し奉る。
コロンブスのアメリカ大陸発見の年でしたか。
知らなかったです。
ありがとうございました。
やはり現地には足を運ばないといけませんね。
事実を知りたいですものね。
[5] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月16日 14時01分31秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
服部と海部についての良い論文を見つけました。一度ご覧ください――
伯耆の古代を考える会雑誌 > 伯耆の古代を考える会雑誌創刊号へ >
「 因幡国法美郡服部郷について――海部と服部の痕跡をたどる」(黒田一正)
http://houki.yonago-kodaisi.com/HK-Zassi2017-1.html
今日は集中力が戻りませんので、これから運動とウォーキングをして
こようと思います。例の本も送ります。
[6] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月17日 20時11分40秒 ) | パスワード |
天の青海のあを様
本日の午前中は、みぞれ交じりの風が吹きすさぶ中、浜名湖の焼き牡蠣
(蒸し焼き)を食べに行ってまいりました。
また、午後はテレビで羽生結弦のフリーの演技にくぎ付けになってしま
いました。
こういう訳で、なかなか集中力が戻ってまいりません。
明日には落ち着くと思いますので、雲居寺、及び服部一忠についての話
を書かせていただきます――
[7] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月18日 12時29分34秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨日は深夜まで寒風吹きすさび、身も心も震えておりましたが、本日は
風も止み、日の光も差して暖かな晴れ模様となっております。梅の花も三
分咲きとなっており、もうすぐ鴬の鳴く春がやって来る日も近いと感じま
す。
さて、今回の津島行きの目的は――
@津島服部氏一族の一人服部一忠(小平太)と服部中保次(はっとりなか
やすつぐ もう一人の小平太)との関係に関する情報
A服部一忠の「秀次事件」での「切腹」前後の一族の情報
の2点について探すことにありました。 残念ながら、これらの情報につ
いて、@については全くなく、Aについては、現行の歴史書の常識程度の
情報しかなく、歴史の闇を探ることはできませんでした。
一旦、ここで切ります――
[8] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月18日 17時15分55秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
歴史を調べるということは、大いに道草を食うということであります。一
つのことに関連して、次から次へと疑問点・不明点・謎が出て来ます。前へ
進めるためには、それらも調査をしていかなければなりません。それらを調
べ終わって初めて次のステップに進む、あるいは筆を進めることができると
いうことであります。
秀次事件を調べていましたら、秀次が高野山で切腹する時に、他に追い腹
をする人が五人おりましたが、最後の人の介錯をしたのが「服部吉兵衛」と
いう人でありました。この服部吉兵衛が何者であったのか、興味のあるとこ
ろではあります。
津島といえば「津島神社(津島牛頭天王社)」であります。全国の津島神社
の総本社で、御分霊社が約三千社程あるそうです。祭神は建速須佐之男命、
つまり「スサノオ」であります。津島はこの牛頭天王社の門前町として栄え
たということであります――
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月18日 19時19分32秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
服部吉兵衛について:
1. 杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引用だそうです
以下http://yourei.jp/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%90%89%E5%85%B5%E8%A1%9B より引用
服部吉兵衛
秀次に言いつけられるまでもなく、どこからか服部吉兵衛はま新しい菰を運び白砂を運び込んで、白州の上に平らに敷きつめた。
服部吉兵衛も小者ながら、あとを追って割腹しかけた。
隆西堂の介錯は、服部吉兵衛がした。
2.時代が下がりますが
http://www.e-sword.jp/sale/2014/1410_1054syousai.htm
日本刀 刀 下総大掾藤原兼正
越前住
katana [shimousa daijyo kanemasa]
兼正の本名は服部吉兵衛、濃州関兼法五代孫と云い、越前・江戸・彦根にて造る。
「下総大掾藤原兼正」「下総大掾藤原兼正越前住」「越前下総大掾藤原兼正近江彦根住」等と切る。
http://www.google.com/search?ei=eFCJWuufG5XAjwOZkIdw&q=%E4%B8%8B%E7%B7%8F%E5%A4%A7%E6%8E%BE%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%BC%E6%AD%A3%E3%80%80%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%AD%E3%81%AF&oq=%E4%B8%8B%E7%B7%8F%E5%A4%A7%E6%8E%BE%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%BC%E6%AD%A3%E3%80%80%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%AD%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.3...59476.81876.0.83179.44.40.4.0.0.0.157.5429.0j40.40.0....0...1c.1j4.64.psy-ab..0.1.154...35i39k1.0.VsIiy_13iIE
延宝(1673)越前下総大掾藤原兼正関兼法五代の孫。本刀は大変貴重な井伊家の城下町彦根打ちの名作です。地金は小杢目肌素晴しく良く詰み、当時大坂で津田越前守助廣が考案した濤乱刃を兼正独特の刃紋として焼き上げ成功しています。あたかも打ち寄せる波が大きく泡と散る様子が大胆に焼き上げており兼正最高傑作の名刀となってい
下総大掾藤原兼正。俗名を服部吉兵衛。濃州関兼法五代孫という。越前、江戸、彦根にて造る。銘は「下総大掾藤原兼正」「下総大掾藤原兼正越前住」「越前下総大掾藤原兼正近江彦根住」等と切る。 小板目杢交じりの肌立った地鉄に、破綻無き直刃を見事に焼き上げた作品。
へぇ〜
[10] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月19日 01時26分06秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
ビックリの続きがありました――
津島の図書館長の話では、服部小平太の子孫が半田にいて、小平太、及
び小藤太の刀を代々伝えているということで、その解説入野写真をいただ
きました。
今、その解説を読んでみますと、服部小平太の所持していた刀は「関
兼法」作で、その五代孫が「藤原兼正」(本名服部吉兵衛)ということにな
ります。
ちなみに小藤太の所持していた刀は、「兼定」であります。
正確なことはわかりませんが、『刀剣要覧』を調べますと、関孫六(兼元)
は、兼定と兄弟の約束をしたと書かれていました。
いずれにしても、美濃の関の刀工と服部氏が何らかの形でつながっている
ような気配がいたしますし、秀次事件での介錯者「服部吉兵衛」が刀工であ
ったのかどうか、少なくとも秀次に近い人であったのは間違いありません――
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月19日 03時24分51秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
本当にビックリですね。
服部小平太のご子孫が半田在住とは!
ご先祖兄弟の刀を持っていらっしゃるということは正統系ということですね。
でも何故に半田!?!
>美濃の関の刀工と服部氏が何らかの形でつながっているような
刀は馬と共に武士の必需品ですから
繋がっていて当たり前なのでしょうね。
武士なら良い刀を作る人を抱えたいですものね。
本当に現地にはいかないといけませんね。
そして「人」に会う
これは基本ですね。
「知っている人」と知り合う大切さを痛感しました。
[12] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月19日 03時42分29秒 ) | パスワード |
隆西堂
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%8E%E5%B2%A9%E7%8E%84%E9%9A%86
虎岩玄隆(こげんげんりゅう、 永禄3年(1560年) -文禄4年7月15日(1595年8月20日))
戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗の僧。
字は虎岩、諱は玄隆。
僧階が「西堂」であって、隆西堂(または玄隆西堂)とは略称。
東福寺山内法雲寺(後の南昌院で廃寺)の開基であり、南昌院隆西堂や南昌院虎岩玄隆とも言う。
略歴
近江国の出身。
11歳で出家し、法煕春東堂の後を継ぐ。
玄隆は早くより英才として知られていたが、関白・豊臣秀次が彼に師事して帰依したことにより、その恩恵を最も受けた。
天正17年(1589年)に法雲寺を創立されて住職となり、寺領は500石。
天正19年(1591年)に真如寺位、禅興寺公領を与えられた。
文禄4年(1595年)に秀次が高野山蟄居となった際に請われて同行。
『大かうさまくんきのうち』によれば、
秀次が切腹する直前、目をかけて下さった恩義に報いるために彼岸の導きをすると言って、
名刀村雲を貰って見事に切腹して冥土に先に旅立ち、殉死を果たした。
享年35。
参考文献
井村眞栞編 国立国会図書館デジタルコレクション 『秀次公』 井村米太郎、1919年。
白石芳留 『東福寺誌』 東福禅寺、1930年、785-786頁。
小林千草 『太閤秀吉と秀次謀反』 筑摩書房、1996年、185-186, 192-193頁。ISBN 4480082999。
関連項目
秀次切腹事件
背筋がゾクゾクしました。
http://yourei.jp/%E9%9A%86%E8%A5%BF%E5%A0%82
それをつづめて、だれもが隆西堂と呼んでいる気さくな老体であった。
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』
東福寺の僧玄隆西堂げんりゆうさいどうをはじめ、近臣山本主殿とのもら五人が、これに殉じた。 …
桑田忠親『戦国史疑』より引用
大仏前から逃げ去ったはずの、玄隆西堂だったのだ。 …
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引用
秀次が池田秀氏を呼び立てたのは、隆西堂と縁者であることを承知していたからだった。
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引用
返す盃を、つぎに秀次は玄隆西堂に差し、つづいて山田三十郎、山本主殿の順に差した。
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引用
笑いながら、床とこの違い棚から玄隆西堂は将棊盤をおろした。
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引
ほうほうの態で二人は大仏の境内へ退散して行ったが、けろりとした表情で、玄隆西堂だけは輿脇こしわきを離れようとしなかった。
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引用
隆西堂の微笑には、一点の翳りもない。 …
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引用
手の土器を、秀次はまず、一つ干し、玄隆西堂に差そうとした。 …
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引用
下知げち一下、小姓どもに行列の外へ曳きずり出されて、玄隆西堂はしぶしぶのように、これも大仏殿の裏へ姿を消してしまった。
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引用
秀次の左どなりに雀部淡路、右に玄隆西堂、その次に山田三十郎、山本主殿、不破伴作の順序で居流れ、雛僧の酌で最後の酒宴がはじまった。 …
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引用
「5人」ですね。
秀次は、山本主殿とのも、山田三十郎、不破万作、東福寺隆西堂らの股肱ここうとともに、切腹して果てた。 …
柴田錬三郎『(柴錬立川文庫1) 猿飛佐助』より引用
隆西堂の介錯は、服部吉兵衛がした。 …
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引用
隆西堂が介添えに立つ。 …
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引用
以下に秀次や家臣の切腹シーンが書かれています:
豊臣秀次: 抹殺された秀吉の後継者
羽生道英 - 2011 - Literary Collections
http://books.google.com/books?id=BGvTYLxZpwUC&pg=PT144&lpg=PT144&dq=%E9%9A%86%E8%A5%BF%E5%A0%82%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=XlVozql0rg&sig=UgomFT_kL_WAycY2R1e0xhPzSTE&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiqtODwjbDZAhUJ2GMKHRXGCRcQ6AEIPzAD#v=onepage&q=%E9%9A%86%E8%A5%BF%E5%A0%82%E3%80%80%E3%81%AF&f=false
これがすむと、東福寺の長老・隆西堂が、「それがしの介錯は、近習頭の雀部淡路守どのにお願いいたすといたしましょうか」遠慮深げに淡路守に言った。
すると秀次が、「間塵の庁で将棋を対局せねばならぬご仁である。拙者が介錯してやろう」と言いながら、村雲の巨剣を与えたのである。
「勿体無くも、こんな嬉しいことはござらぬ」隆西堂は、秀次を ...
URLに行ってお読みください。
[13] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月19日 11時34分28秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
秀次事件は大事件であったのにもかかわらず、連座した大名や家臣の一族
がその後どうなったのかという研究がなく残念であります。
「服部一忠」家はその筆頭であります。今回の津島行きでは、新たな情報
は拾えませんでした。
「一柳可遊」はその次であります。先日、遠州宮口のお寺を訪れた時、「
一柳」家の墓を一基見つけました。加藤光泰とは妻と子とで二重に姻戚関係
となっておりますので、是非とも追跡したいと思っております。
「渡瀬繁詮」については、その子息が遠州にて身を隠し、帰農した所が
「渡瀬村」になったと読んだことがあります。
いずれにしても、秀吉と家康のパワーバランス争いのかけひきの中での
事件であり、秀吉側の内紛が豊臣の諸大名の心を家康側に向けさせるという
願ってもない成果をもたらせることになる。たぶん、これは家康の作戦であ
ったと考えます(作戦というより謀略であったのかも知れません)。
処分された武将達の家族等の情報がないのも、抹消された可能性があるの
ではないか。情報がないというのは、逆に漏れてはいけない秘密があるとい
うことの裏返しと考えた方がいいと思いますのですが――
[14] | 丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月19日 14時37分39秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
さて、服部小平太(一忠)ですが、津島では一介の武士から大名になった
ということで、よそからでは想像できない程尊敬されていることがわかり
ました。つまり、郷土のヒーローとして(悲劇のヒーローか)……。
また、併せて、南朝の良王の存在もこの地では大きい。津島では、浪合
へのバスツアーが組まれる程、南朝への関心が高い―と館長さんからも聞
きました。さらには関東の南朝関係跡にも関心があるような発展的雰囲気
がありました。
その服部小平太の菩提寺が「雲居寺(うんごうじ)」で、津島神社の北東
500mくらいの所にありました。
門前に出ていた小さな看板――
「雲居寺
山号は龍寶山。曹洞宗の寺院で本尊は阿弥陀如来です。永享元年(
1429)、服部伊賀守家継の創建と伝わり、戦国武将服部小平太(一忠)
ゆかりの寺として知られています。小平太は織田信長の武将で、桶
狭間の合戦で今川義元に一番槍を付ける奮戦を見せました。後に、
豊臣秀次の家臣として伊勢松坂城主となりましたが、秀次失脚に伴い
連座で切腹となりました。濃尾大震災後に再建された羅漢堂に色彩豊
かな五百羅漢の像があることも知られています。」
門を入って行くと、本道両脇に寺紋らしき「竜胆車紋」が2つ。そして
寺の由緒書き――
「龍寶山 雲居寺史
本尊 法界蔵身無量寿如来
開創 永享年間(1429)創建
開山 宝山玄珍禅師 宝徳元年三月(1449)寂
開基 服部伊賀守宗純 永享十二年(1440)寂
津島十一党の随一、服部伊賀守宗純、永享年中、良王親王家の北境に
一宇創建、服部家の菩提寺と為し、法諱を雲居寺殿蔵叟道珍庵主と号す。
九代の後裔、服部平左エ門一族郎党を率いて織田信長に従い、桶狭間
の役にて長子小平太槍を揮い、総師今川義元を突く。尓後、開基家の嘱
により、当寺に於いて今川氏の菩提を弔い、今に至る。 」
つまり、服部家継(宗純 むねすみ)が開基(パトロン)となってこの寺を
造り、1440年に没した。その9代孫の服部平左エ門は一族郎党を率い、
信長に付いて桶狭間の戦いに出陣した。長男の小平太は今川義元に一番早
く槍を突きつけた――ということであります。
実は、小平太にはもう一人の小平太がおり、それが「服部中保次」であ
りました。彼は忍者部隊の棟梁であり、情報力を駆使して義元の近くまで
皆を誘導したと思われます。一番槍の件では一忠と保次は混同されており
ますが、一忠の方が一番槍ということでいいのかと思います。
服部中保次は桶狭間の戦い後、家康につき、遠州へ攻め入った後、細江
町刑部にて今川方に暗殺されてしまいます。その墓が今も残っております
し、子孫は新居の関所番を経て、旗本(大身)として浜松市西区神ケ谷に陣
屋を持っておりました(明治になるまで)。江戸には下屋敷がありました。
次に、雲居寺の墓地を訪れました――
[15] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月19日 14時57分59秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
続きを楽しみにしています。
[16] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月20日 11時41分29秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
津島より帰って来てから、よく考えてみた――そういえば服部一忠の
墓がなかった……。もう一つ、大橋家の菩提寺はどこだったのだろう…
…?
後で気が付く×××とはこういうことである。でもこれは次回の課題
としたいと思います。
「雲居寺」は服部宗純が開基で、その子孫の服部小平太一忠(春安)の
菩提寺となっている。ここをもう少し深く追求する必要があった。でき
れば地元の歴史研究者に訊けば一番良かった……。
その墓地には、それなりの苗字の人々の墓が並んでいました――
@服部家 源氏輪に並び矢…三基 + 古い墓三基
丸に並び矢…一基
家紋のないもの…一基
判別不能のもの…一基
A大橋家 抱き茗荷
その他の墓…三輪、松下、宇佐美、永井、鈴木、大杉、水野、伊藤、
柏原、江上、柴田…等
ここで、服部家の墓群に向かって般若心経を二巻、唱え捧げました。
次に、良王が尹良親王の菩提を弔うために建立したという「大龍寺」に
向かいました。
次のような墓がありました――
@服部家 丸に並び矢
A長井家 三つ盛亀甲に花菱
B眞野
C山岡
D中野
E佐脇
F藤本
G大野
H市野
I早川
J井上
その他
ここでも尹良親王の墓には巡り合いませんでした。やはり、地元の詳し
い人に訊かなければいけない……。次回はテーマを決めて、深く探るとい
う方針で臨もうと思っています――
[17] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月20日 11時44分08秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
前レスの訂正:長井家→永井家
[18] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月20日 18時58分44秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
わたくしの分も般若心経をありがとうございました。
服部家
源氏輪に並び矢… これは服部宗家のような家ですね。その土地土地の頭の家ですね。
丸に並び矢… これは本家から独立した格の下がった家ですね。
服部一忠の墓は
たぶん
越後にはあるのでしょうね。
上杉家に預けられて切腹してるから。
で、こんな興味深い書き込みを見つけました:
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1023180405
Q
今川義元に一番槍を突きつけた服部小平太は上杉家にお預けとなり後に自刃したとする説?刑部村で襲われたとする説?
A
「服部小平太春安(一忠)」は、桶狭間の後順調に出世し秀吉政権下では大名でした。
しかし、晩年に豊臣秀次事件に連座して死んでいます。
この時、上杉景勝にお預けとなり、その後に切腹させられています。
浜松の姫街道にある服部小平太の墓は、織田信長の分家筋にあたる赤見系服部氏が代々名乗った「服部小平太」の方の墓と推測され、
おそらくは「服部小平太忠次」の物です。
この人物は、本能寺の変の後に徳川家康に仕えたとされます。
刑部村で襲われた人物も恐らくこの人物で、浜松の姫街道の小平太の最期の地は両者を混同してしまっています。
ちなみに服部小平太の相棒の毛利新助は、ずっと織田信長の側近で、本能寺の変の時に本能寺で死んでいます。
ということで赤見氏:
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E8%B5%A4%E8%A6%8B
【名字】赤見
【読み】あかみ
【全国順位】 9,912位
【全国人数】 およそ750人
現栃木県である下野国安蘇郡赤見村が起源(ルーツ)である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)秀郷流がある。
織田家などを輩出した現愛知県である尾張国丹羽郡赤見村が起源(ルーツ)である、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)織田氏族。
赤く見える川や土地が語源。
へぇ〜
[19] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月21日 01時19分12秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
刑部の服部中保次の墓は、間違いなく服部中保次の墓であると思います。
それだけの説明資料もあります。
「小平太」という諱は人気があるらしく、たくさんのの人がつけておりま
すので、それだけでは決め手とはなりません。
織田系の服部氏については、情報が少なすぎて推測のしようがありません
が、情報があれば知りたいですね。平忠正―長盛系の服部氏(中根氏と同族)
についても情報が少なく、こちらも情報があれば知りたいですね。。
[20] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月21日 01時33分14秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
今回、津島へ行って見て、津島は美濃かなと間違えてしまいますが、尾張
なのですね。
この「津島」と「熱田」と遠江の「池田」はつながっているということを
強く感じております。
たぶん、源平〜南北朝を通してのつながりだと思います(それ以前からかも
知れません)。
たぶん、昔は水運が主でありましたから、津島と熱田と池田(掛塚)は、海
の道(ハイウェイのようなもの)でつながっていたのでしょぅね。行き来は、
かなり活発であったのだと推察いたします――
平野氏について、次回は述べてみます――
[21] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月21日 02時33分17秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>長盛
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%95%B7%E7%9B%9B
平長盛(たいら の ながもり)は、平安時代末期の武将。
平忠正の長男。
弟に忠綱、正綱、通正がある。
長盛のみ父の偏諱が含まれない名前だが、「長」の字は父が仕えていた藤原頼長からの偏諱(「盛」は平氏の通字)と考えられる。
崇徳上皇に親しく仕え、その北面・蔵人となり、新院蔵人と呼ばれた。
保元元年(1156年)の保元の乱においては、父や三人の弟とともに上皇方として参戦。
敗戦に伴い、一家全員捕虜となり、従兄弟の平清盛の手によって処刑された。
一女は宇都宮業綱に嫁ぎ、頼綱の母となったという(『系図纂要』)。
また後世、江戸幕府幕臣の服部氏は、伊賀国に住んだ長盛の一子長光の後裔を称している。
ということは、やはり母が平貞能(6男が伊賀の服部家になった)の娘あたりだったから一命を助けられたのかもですね。
宇都宮家は平家に仕えていたから
なるほどね。
[22] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月21日 02時37分19秒 ) | パスワード |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E9%A0%BC%E7%B6%B1
宇都宮 頼綱(うつのみや よりつな)
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武士・御家人・歌人。藤原姓宇都宮氏5代当主。伊予国守護を歴任。歌人としても著名で藤原定家との親交が厚く京都歌壇、鎌倉歌壇に並ぶ宇都宮歌壇を築いた。
治承2年(1178年)頃、宇都宮業綱の子として誕生。その後、源頼朝の乳母であった寒河尼に預けられ、その夫・小山政光の猶子となった。文治5年(1189年)の奥州合戦に紀清両党を従えて従軍し功績を立てる。建久5年(1194年)2月には北条義時の嫡男金剛(後の泰時)の元服の儀に参列する。
公田掠領騒動[編集]
建久5年(1194年)5月、祖父・宇都宮朝綱が下野国司の野呂行房より公田掠領(百余町)を訴えられ、朝廷によって豊後国国府預かりの身と裁定されてしまう。これは、征夷大将軍でもなかった源頼朝が、名目上では自身のみの采配では配下への扶持等を決裁できなかった時期に、朝廷の決裁を仰がず頼朝が単独で部下の所領配分を行ってしまったために起きた騒動であり、頼朝はこの件を大変憂慮したと云われている。鎌倉の勢力と行動を共にしていた頼綱ら関東の武人達は、名目上は朝廷に直接仕える身であったとはいえ、実際には源頼朝勢の意向に従って行動しており、実質、朝廷の命令であってもそれに実効力を与えていたのは源頼朝であったことから、一説によると頼綱らは頼朝の意向に従い配流地には赴かなかったとも云われている。
何れにせよ、頼朝の働きかけにより頼綱は早々に赦免され、同じく赦免された祖父・朝綱は出家して下野尾羽[1]にて隠居生活を送ることとなり、このとき頼綱が宇都宮家を継いだものと考えられる。頼朝の死後、頼綱は正治元年(1199年)6月に夭逝した頼朝の次女・乙姫の葬儀に供奉し、その10月には他の有力御家人と共に梶原景時の変で景時弾劾に参加している。
牧氏の変[編集]
元久2年(1205年)6月22日、畠山重忠の乱(畠山事件)が起きる。この際、頼綱は北条氏側に与して功を挙げた。しかし同年閏7月、頼綱の姑にあたる牧の方と北条時政が3代将軍・源実朝の殺害を謀った牧氏の変が発生し、翌8月には頼綱自身に謀反の嫌疑をかけられる。8月7日、頼綱が一族郎従を率いて鎌倉参上を擬し謀反を企てているとの風聞があり、北条義時、大江広元、安達景盛らが北条政子邸に合し、小山朝政を召し出して評議が行われた。その席で大江広元は頼綱の非道と将軍家に対する不忠について指摘し、小山朝政に頼綱を追討するよう主張したが、朝政は頼綱と義理の兄弟である事を理由にその追討を断ったため、頼綱は鎌倉政庁による追討からは逃れられた。8月11日、頼綱は朝政を介して鎌倉政庁に書状を送り謀反の意が無いことを陳述、その後の8月16日には下野において出家するに至った。この折、一族郎従60余人も出家したと伝えられている。8月17日、頼綱は宇都宮を発って鎌倉に向かい、8月19日に鎌倉に到着、北条得宗家に面会を求めるが一度は拒絶される。そこで一族の結城朝光を介して献髪し陳謝の意を表して実信房蓮生(じっしんぼうれんじょう)と号し、京嵯峨野の小倉山麓に庵を設けて隠遁したと云われる。頼綱出家の後、頼綱の子等は全て幼少であったため、弟・宇都宮朝業が宇都宮家を代表して幕府に出仕することとなる。
出家後[編集]
頼綱はその後法然の弟子証空に師事したが、建保2年(1214年)頃までには鎌倉政庁の許しを得、5月には園城寺改修を拝命、山王社及び拝殿の修復に努めている。浄土宗に帰依した頃よりその潤沢な財力をもって京常盤や宇都宮、桐生などに念仏堂(庵)を建て、その由緒は現在もそれぞれ光明寺流「西方寺」、宇都宮「清巌寺」、桐生「西方寺」として受け継がれていると云われる。建保4年(1216年)、頼綱が伊賀国壬生庄の地頭を称し春日大社領を押領していると、興福寺の僧信賢が朝廷を介して鎌倉政庁に訴えて来たが、幕府の訴訟の範疇でないため記録所で示談された。
承久3年(1221年)6月、 承久の乱が起きたが、頼綱は鎌倉留守居を務め、その功績から戦後、伊予国の守護職を与えられた。建長2年(1250年)3月、京の閑院殿の改築に際し、その造営雑掌の西二封の当番となる。
嘉禄3年(1227年)に発生した嘉禄の法難の際には、延暦寺の僧兵から法然の遺骸を守るために、蓮生(頼綱)の他、弟である信生(塩谷朝業)、法阿(東胤頼)、道弁(渋谷七郎)などの出家者や六波羅探題の武士団らと共に、東山の法然廟所から二尊院までの遺骸移送の護衛にあたった。
また、同族である藤原定家と親交が厚く、娘をその嫡男である為家に嫁がせている。為家が安貞元年(1227年)信濃国の知行国主になると、東国の事情に明るい頼綱が定家・為家親子の相談役として信濃国統治に関する助言を行っている[2]。
正元元年(1259年)11月12日、京にて死去。享年88。その遺言により京西山三鈷寺の証空の墓の側に葬られたとされる。現在、この善峯寺のほか、栃木県宇都宮市清巌寺と同芳賀郡益子町地蔵院にも墓碑がある。
歌人[編集]
頼綱は父譲りで歌人としても優れており、同族である藤原定家と親交を深め、宇都宮歌壇を京都歌壇、鎌倉歌壇に比肩するほどの地位に引き上げ、これらを合わせて日本三大歌壇と謂わしめる礎を築いた。百人一首は京の別荘小倉山荘に住まった折に、定家に選定してもらった和歌98首をその襖絵として飾ったことに始まるといわれている。十三代集に頼綱の作品が多数修められている。
[23] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月21日 15時01分15秒 ) | パスワード |
教えて頂きました:
赤見
「新人物社」吉田茂樹著によれば、藤郷流と桓武平氏については同じ記述でした。
地名としては、下記の通りでした。
赤見・明見は西日本にやや多くみられる地名。
「神名帳」近江の国伊香郡赤見神社、「和名抄」近江国野洲郡赤見(アカミ)郷など、一般に低湿地に立地する。「アクミ(飽水)」の転化で、
水の停滞する湿地をいったものか、
単に赤褐色の土地の意もあろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
赤田とか赤野なども色から来た地名ですね。
赤土とか真砂土とか言われる花崗岩の風化土ですね。
鉄分が多い・・・・砂鉄の元原料にも成りますね。
鉄分の含有の多少は土地柄によって相違があると思います。
ローム層などの火山灰系列とは違いますね。
芥・アクアなどの仏教用語で寺院関連も紛れて居るのも有る様です。
三つ柏さんが紹介していた鳥取の服部氏のULRプリントアウトしたものの、まだ読んでいません。
最近は読むよりPCで読む・・・・見ることがほとんどです。字も小っちゃいしね。
同じ一覧には弥生時代の超有名な遺跡が記載されて居ましたね。
特異な時代の代表ですね。また後ほど紹介しますね。
追加する別の遺跡二つも併せて・・・。
[24] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月21日 23時17分50秒 ) | パスワード |
続き:
服部神社の位置:
鳥取県鳥取市福部町海士・・・ 鳥取県の東部です。
鳥取砂丘の東に3キロくらいの所に有りました。
神社の裏は、古代は内湾でしょうね。当時は港湾集落だったかも。
弥生や古墳時代は、青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡=先進地ながら虐殺された痕跡有り。
鳥取の中央部の土地のように内湾の集落ですね。平和な時や騒乱の時期もあったのではと想像します。
http://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92689-0106+%E9%B3%A5%E5%8F%96%E7%9C%8C%E9%B3%A5%E5%8F%96%E5%B8%82%E7%A6%8F%E9%83%A8%E7%94%BA%E6%B5%B7%E5%A3%AB/ @35.545318,134.2723275,445a,35y,332.63h,44.81t/data=!3m1!1e3!4m5!3m4!1s0x3555866bfcc7f483:0x1c40d2683331adb7!8m2!3d35.5463835!4d134.2783952
*下記の「田和山遺跡」「妻木晩田遺跡」「青谷上寺地遺跡 」の三つとも見学に行って居ます。古代の歴史の缶詰みたいです。
[1]「田和山遺跡」・・・ 出雲大社の祖形とも
*個人感想、まさしく山城風に感じられ、鳥肌が立つほど感激しましたよ。
http://ameblo.jp/sanin-department-store/entry-12153475001.html
国指定史跡「田和山遺跡」は、宍道湖南側、松江市乃白町にある弥生時代前期末(紀元前200年頃)から中期後半(紀元前50年頃)にかけての三重環濠集落遺跡です。
祭祀遺跡か砦か。出雲大社の祖形とも言われています。
[2] 「妻木晩田遺跡」(むきばんだいせき)」・・・妻木を「むき」と読むのか不明です。岐阜の妻木城の妻木氏とは関係無さそうです。
http://www.tms-j.co.jp/iseki/index.htm
国内最大級の弥生集落遺跡
・孝霊山から続く丘陵(通称「晩田山」)上に位置し、美保湾(日本海)を一望できる。
吉野ヶ里遺跡の5倍にもおよぶ大規模なものである。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
ブログ古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねての内の「50 鳥取県大仙町の妻木晩田遺跡を見学しました。古代出雲王国内の大集落跡」です。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/60e94d921090b4decd6eda5f2a067bf7
孝霊山:別名で瓦山(からやま)、韓山(からやま)
吉備評定でも出てくる孝霊天皇にちなんでいますね。
半島から航海の目印にもしていたとも言われる山です。
[3]「青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡 」 出土の木製品類
伯耆国の東端で因幡国に接して居る地域。鳥取県の中部ですね。
http://www.fuwaiin.com/jyoumon-iseki/tottoriken/04.aoyakamijitiiseki-yayoi-mokusei/mokusei.html
http://shosuzki.blog.jp/archives/67800468.html
2016年12月06日
古代出雲のトロイ戦争か
むきばんだ東方に集団虐殺の跡
典型的な低地型の弥生遺跡
港湾集落だった可能性もあり、古代中国や朝鮮半島製の金属器や、西日本を中心とした国内各地の土器が発見されている。
高度な木工技術の木製品・編み物・高度の漆製品・箱の琴・準構造船からも目を見張るものが有ります。
世界でも三例しか無い「脳みそ」の出土でも有名です。
青谷上寺地遺跡では、弥生時代後期後半(紀元2世紀後半)の溝から大量の人骨(約90体以上)が散乱した状態で発見されました。
この中には、鋭い武器で刺されたり切られたりした傷跡の残る人骨もあります。また、人骨から性別や年齢を調べた結果、女性や10歳ぐらいの子供も含まれていることがわかりました。女性や子供までもまきこまれるような激しい争いですね。
外傷は背中や左半身に多く、矢じりが突き刺さった骨もあった。このため処刑されたというよりは闘いによるものと推定される。
人骨は溝に捨てられたりしたのでなく、戦闘の後に一カ所に集めて埋葬された後、人為的に掘り起こされた可能性が高い。
弥生時代の争いを現代に伝える貴重な遺跡です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[4]のもとのHPです。
「ブログ古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて」
九州物部(徐福ら)の東征とする論説です。2200年前。
450年後にも、神功皇后の息子の東征は応神…卑弥呼の後の豊の時代がA.D.250前後ですね東征は2回はあったと言うことですね。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
九州物部群の東征は瀬戸内海を東進して吉備王国を攻めましたが、別働隊は日本海を東進して出雲王家を滅ぼしました。
徐福らに殺害された第八代副王事代主の后の沼川姫は事代主亡き後皇子のタテミナカタを連れて越の国の実家へ戻られます。その越の国の沼川神社を訪ねました。
*これだと、出雲の国譲りは弥生前期のお話ですね。
800年後の藤原の不比等が書く歴史書ははまさに神話の世界でしょうね。
今から800年まえの平家物語以上に話は作られて切り貼りされて居るでしょうね。
[25] | 丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月22日 15時19分34秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
今、長野正孝氏の『古代の技術を知れば『日本書紀』の謎が解ける』(PHP
新書)を読んでいます。
古代史はそもそも根本的に土台を正しく理解しないと、全ての推論が砂上
の楼閣になってしまいます。土台は『日本書紀』なのかも知れません。
長野氏は海洋の専門家でありますので、海の現実というものをよく知って
おられる。その実体験に基づいて判断することができる。日本書紀に書かれ
ている内容を検証してみると、海を知らない人が書いた、現実とは乖離した
部分が多々ある――つまり、その部分は創作なのではないかと推察されてお
られます。
まだ読み始めたばかりですが、目からうろこがとれるおもしろさがありま
すので、近日中に送ろうと思っております――
津島と熱田と池田(掛塚)を結ぶ海の道……こんなテーマを頭に描きながら
考察を進めます。
津島に、「平野氏」と「大橋氏」が栄えています。池田にも「平野氏」と
「大橋氏」が栄えています。どちらも源平、南北朝、信長・家康の強い影響
下にあったのは間違いありません。
池田の平野氏について、『ふるさと豊田』(豊田町教育委員会発行)の中に
その出自が書かれておりました。その内容は――
「永禄年中(1558〜1569)に、美濃国安八郡平野荘の住人平野重定
公、同牧村住人藤大夫等が斎藤・織田両氏の戦乱を避けて賀茂村に帰農し
た。そして大淵寺弁財天に祈願して新田開発に努力し、大いに成功して、
当地随一の豪農に成長した。
元亀年中(1570〜1572)に重定公は家康に見出されて、当地方の
給八代官(徳川幕府の官制ができる以前に家康が臨時の処置で任命した在地
有力者出身の代官のこと)に任命されている。」
ということであります。
賀茂村というのは、池田荘の東端になります。天竜川は暴れ天竜といい、
その流れは1450より1500年の頃に、西の方に移動したので、池田村
も天竜川の東側(磐田原台地の西側ふもと)になってしまっております。
津島の平野氏と池田の平野氏、たぶん関係があるのではないか……具体的
にはまだ調査は終わっていませんが、そんな「勘」がします。
次回は大橋氏について記します――
[26] | 丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月22日 17時28分45秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
津島と安八郡は国は違っておりますが、地域としてはどうなんでしょうか。
少し、土地勘が狂っておりますでしょうか?
[27] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月22日 22時29分05秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
尾張南西部の津島
美濃の安八郡
なのですが
実は安八郡は美濃と尾張の両方に支配されていますから国境線の入り乱れた場所ということでしょうね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%85%AB%E9%83%A1
明治4年 7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が大垣県、名古屋県、今尾県、犬山県、岩村県となる。
11月22日(1872年1月2日) - 第1次府県統合により、全域が岐阜県の管轄となる。
これで安八郡は岐阜県という今の行政上の認識の元が出来たのか(へぇ〜)
『日本書紀』壬申紀に、安八磨郡(あはちまのこおり)として現れる。
この時期の評を書紀は郡に書き改めているので、当時の呼び名は安八磨評である。
672年の安八磨郡には大海人皇子(後の天武天皇)の湯沐令として多品治がおり、郡全体が大海人皇子の湯沐邑だったと考えられる。
壬申の乱では皇子のために真っ先に兵を挙げた。
大宝2年(702年)の戸籍には味蜂間郡のものがあり、これも同じ郡を指す。
その戸籍にある味蜂間郡の春部里は、後の池田郡の春日とみられ、古い味蜂間郡(安八磨郡)は後の池田郡をもあわせた領域だったと推測される。
10世紀の和名類聚抄成立までに池田郡が分離した。
「あんぱちぐん」と呼ばれるようになったのは明治以降といわれている。
近代以前の沿革
江戸時代初期 - 中郷村の南で新田開発が行われ、中郷新田ができる。
1615年(元和元年) - 西橋村の一部が尾張藩領となり、西ノ橋村[1]として分立。
1622年(元和8年) - 海松新田が開発される。
1645年(正保元年) 禾森村の南で新田開発が行われ、築捨新田が成立。後に築捨村に改称。
外花村の東側で新田開発が行われ、南外渕新田と一本木新田ができる。
1646年(正保2年) - 釜笛村の新田として、浅草新田が出来る。
1665年(寛文5年) - 南外渕新田は外渕村に改称する。
1679年(延宝7年) - 外野村で新田開発が行われ、外渕村新田ができる。
1701年(元禄14年) 築捨村が東築捨村と西築捨村に分立する。
浅草新田が浅草東村、浅草中村、浅草西村に分立する。
1804年(文化元年) - 西橋村は尾張藩領となる。
1817年(文化14年) - 外渕村新田は外渕新田となる。
江戸時代末期 外渕新田は外花村の一部となる。
北方村は一つの村であったが、村内に岩村藩領(通称:岩村領北方村)と旗本の名取家領(通称:名取領北方村)があり、実質2つの村であった。
[28] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月23日 22時48分10秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は、寒風吹きすさぶ中、芝刈りに行ってまいりました。ガタガタの
成績となりましたが、ただ一つお土産ができたのは、590ヤードのロング
ホールで、一打目が風に乗って300ヤードを記録し、2打目、三打目、
そしてパットもよく、結果バーディーが一つ取れたことであります。それが
なかったら、本当に身も心もボロボロになっていたと思います……。
さて、安八郡から海部郡あたりは木曽川、長良川、揖斐川の合流間近の
所でありますので、洪水により、結構地形は変わったと思います。天竜川
も洪水のたびに川筋が変わっておりました。
四家七党の時代は今から約600年余前のことでありますので、その後
平野、大橋家の子孫があちらこちらに広がっているはずですので、津島の
平野、大橋氏と遠江池田の平野、大橋氏が関係している可能性はあると信
じています。安八郡大垣市にも大橋氏という庄屋がいました……。
池田の大橋氏はもともとは藤原氏であった(熊野で有名)のですが、どう
いう訳か大橋氏になっております。
今は池田の対岸にある羽鳥ですが、その南側にある清心寺には、服部、
大橋、中根の墓がありましたし、これもどうも尾張・美濃、あるいは東三河
と関係するのではないかと思っています。清心寺は、羽鳥の源長院の末寺で、
同じく我々の芳泉寺も、羽鳥の北側でやはり源長院の末寺でありました
ので、何らかのつながりがあるはずであります。そういえば松島右衛門の
墓が清心寺にありました……。500年も前のことは、こちなが思うように
はなかなか見えて来ません。
池田宿あたりは、どうも昔から色々な人が来る、あるいは避難してきて
周辺に居ついてしまう場所であったように思われます。その主な入り口は、
掛塚湊であったと思います。
いずれにいたしましても、池田を中心として、今後深掘りをして行きた
いと考えております。
津島行きは、時間切れとなって弥富の服部家屋敷にはいけませんだした。
後で調べると、あらかじめ予約が必要とのこと。またの機会にいたします。
近日中に「桑名」に行ってみます。服部半蔵の子孫の墓があるということ
ですので――
[29] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月24日 02時52分06秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
頑張って桑名に行って代々の半蔵の墓を見て来てください。
弥冨の服部家ホンヤさんは、そのお屋敷が生活の場で、日々お住まいですからね。
ご近所にもすごい茅葺のお宅がありますよ。
300ヤードとはラッキーでしたね。
[37] | 三つ柏さんの代理さんからのコメント(2018年02月27日 02時27分03秒 ) | パスワード |
訂正:
[30] 三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月25日 16時06分23秒 )
空の青海のあを様
色々な本を、同時進行的に読んで(必要な所をつまみ食い)おります。それら
の中からほんの少しずつではありますが、歴史のリアリティのかけらを拾うこ
とができます。蟻の一歩の連続ですが、それが頭の中で統合され論理が組み立
てられて行くと思っています。500年前の世界というと、ほとんど別世界の
ようなものですので、すべてがわからないことだらけ―今の常識とは全然違う
ということ認識しなければなりません。500年前の世界へのリアルな想像力
を磨いていかなければ、と思っております。
時代はどんどん未来へ向かって変化して行く中で、過去へ遡る作業というの
はますます難しくなって行きます。町の風景も田園の風景も、利便性という名
の元に、過去の歴史をどんどん消し去って行きます。人もまた……。
さて、歴史というのは、人それぞれの解釈によっても随分違うものだなと感
じます。たとえば、「消えた神服部一族」について地元の郷土史家・米田一夫
氏の解釈が『私説 遠州風土記』の中にありました――
「(現在の三ケ日・初生衣神社の神主・神服部氏が、1155年に山城から
やって来る以前の)神服部氏一族とは、いったいどのような氏族だったのでし
ょぅか。残念ながら今日では、神に献じる絹織物を織っていた一族としか、は
っきりしたことはわかっていません。どれくらい重要な立場にあった氏族だっ
たかを「延喜式」(905年)の皇位継承の大典について、見てみましょう。
ここで一旦切ります――
[31] 三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月25日 21時37分08秒 )
空の青海のあを様
前レスの続き(延喜式に規定された神服部氏について)――
「神服部一族とは、いったいどのような氏族だったのでしょぅか。残念な
がら今日では、神に献じる絹織物を織っていた一族としか、はっきりした
ことはわかっていませんが、どれくらい重要な立場にあった氏族だったか
を「延喜式」の皇位継承の大典について、見てみましょう。
まず祭儀に要する神衣を織るについては、神服(カンハトリ)神社の神主
一人を「参河国」につかわして織女六人、工人二人その長二人を定め、
「参河国」の神服部の作った糸十絇(コ)を持って一緒に京都の斉場に帰り、
そこに織殿を設けて織れとあります。そうしますと「参河国」のどこかに、
神服部一族の主力がまとまって居住していて、糸を作ることから織ること
まで行っていたということになり、これは、神宮の年毎の神衣を織った
「御糸66郷」の人々とは違う一団だったということになります(従って、
神宮の神衣を織ったから神服部を称したというのとは少し違うように思え
ます)。まあ、それはそれとして、「参河国」のそこは、どこだったので
しょぅか。現在の蒲郡市上郷の赤日子神社が神服部の祖神を祭るものとい
われていますが、果たしてそのあたりだったのか。しかし、赤日子神社の
祭神は、海人、豊玉彦と豊玉姫で、三河湾一帯を支配していた安曇一族の
祖神です。
では、神服部氏は安曇氏と関係ある氏族だったのでしょぅか。このこと
については後に述べます。
やがて、式典が近づくと式服が主要な列席者に支給されます。その中、
76人もの神服部に青摺りの一重衣が下されるのです。
式が始まって細目の籠に納められた神衣(にぎたえ・絹)が二人の神服部
にかつがれて登場します。神衣を織った長二人が左右に付き添い、一族
の長、神服部の宿祢が先頭に立ちます。神衣のあとには神服部の男72人、
女50人がそれぞれ2列となって進むのです。それから、酒、稲、お膳
などと続いて後に、阿波の国の忌部の負った神衣(あらたえ・麻)が4人の
忌部にかつがれてでてきます。この祭りは麻績一族でなく、忌部氏が務め
ることになっています。忌部一族が、天皇家により近いゆかりがあったか
らなのでしょぅか。
神服部一族の男女が他に例のない121人も参列しているのは、彼らが
天皇家にとっていかに重要な氏族であったかを物語っているではありませ
んか。さらさらに神服部の女4人がまず最初に舞いをまえと定めているな
ど、まさに神服部一族総出でこの一代の盛儀に参列するわけです。
〜略〜
最後に、神に衣服を奉るということは、季節による神の更衣としてでは
なく、古代の日本人は、神も太陽のように絶えず生まれ変わるものであり、
生まれたばかりの神は衣服を必要とすると考えたのです。そこで、神衣を
捧げて神の再生をうながし、神威の高揚を願ったのではないでしょうか。」
[33] 丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月26日 10時36分17秒 )
空の青海のあを様
現在の初生衣神社の神服部氏は、1155年に山城から三ヶ日にやって
来た神服部氏であります。この神服部氏は伊勢神宮と関係しています。
その前のある期間、三ヶ日にも東三河にも神服部氏の存在は一時不明の
時期があったということであります。こちらの神服部氏は延喜式で規定さ
れた大嘗祭に関係する神服部氏であります。
この時代に神服部氏が東三河にいたか、三ヶ日にいたか、その他の所に
いたかについては、議論の余地が残るところであります。東三河を中心と
して、絹の生産が量的にも地域的にも広がったということもあります。
但し、質の良い赤引糸は東三河の大野地区特産でありますので、神服部
氏族はこの辺りを中心にして分布していたのだろう言えるとは思います。
この神服部氏族がいなくなってしまったので、後に三ヶ日の初生衣神社
に神服部氏がやってくることになります(何で三ヶ日かという疑問について
は、別途考察といたします)。
いなくなった理由について、米田一夫氏はこう書いておられます――
「しかし、鎌倉時代の史書『百錬抄』には、寿永元年(1182)、大嘗祭に
ついての三河の国へ遣わした神服使が空しく帰洛したという記事があり
ます。「源平合戦」の騒ぎの中で、神服部一族に何事かが起こったので
しょうか。
また『大神宮儀式解』によると、神宮の神衣祭も室町時代の1450
年頃、兵乱により廃れたとあり、こうして神衣を奉る行事は後、元禄時
代になるまで中断し、神服部氏もいつの間にか姿を消してしまいました。
ではここで、何故「参河国」が出てくるのか考えてみましょう。『令
義解』(リョウノギゲ―大宝令の官選注釈書 833年)に神宮の神衣祭の
ことが「神服部ら斎戒潔清にして、参河の赤引神調(アカヒキカンツギ)
の糸を以て織り作り」とあります。古くから「参河国」は良質の生糸を
生産したようです。赤引糸を、極めて良質の糸とする説や、蚕の蛹のこ
と、赤日子神社のあたりを赤孫(アカヒコ)郷と称したという説、また三
ヶ日町神服部家の場合は三河大野の糸を使って織っていますが、現在、
飯田線三河大野駅の近くに「赤引温泉」があり、昔、赤引という字(あざ)
があったという地名説もあります。しかし、当時「伊勢国」からも赤引
糸は生産されていますから(『延喜式主計』による)、地名ではないでし
ょう。
赤日子神社は、神服部の祖神とした説と、安曇一族の氏神で神服部の
神とするのは当らないとする説がありますが、古代日本海沿岸の海部
を支配していた海部直の根拠地は現京都府下の久美浜町といわれ、そこは
また、神服部の連(ムラジ)が住んでいたという伝承もあり(『旦後旧事記
』)、更に『天孫本紀』には「建田背命、神服部連、海部直らの祖」と出
ていますから、同じ一族だったのかも知れません。」
神服部氏のルーツは、総じて丹後王国につながって行くのかも知れません。
ただ、大和朝廷のことを考えますと、「大和」でなくなぜ「丹後」なのかと
いう疑問が生じます。
それは、日本書紀のベールをはがないと見えてこないのかも知れません。
そのベールの向こうには、日本海王国文明があったということになります。
このテーマについては、ただ今情報整理中であります――
[38] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月27日 02時38分27秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
にっこり
やはり 高槻関係と源頼政 で良かったようですね。
それにしても良く纏められましたね
大変な作業でしたね。
こんがらがっちゃいますよね。
ありがとうございました。
[39] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月27日 09時19分01秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
服部氏のルーツについて、少しずつわかってきました。ただ、摂津と大和
の服部氏が、祖神をそれぞれヒノハヤヒとアメノミナカヌシとしていること
について、成り立ちが全く違うのかという点、まだわかっておりません。
また、服部と服部神社、羽鳥と服織神社の組み合わせの違いについての謎、
これは後者が秦氏色が強いのかなあと勘ぐっております。
いずれにしても、服部氏は海部氏と共存したことは確かなようです。
いったん、ここで切ります――
[40] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月27日 10時39分45秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
長野正孝氏の『古代の技術を知れば"日本書紀"の謎が解ける』を本日送り
ます。これで古代史の謎を解く@「海路」と、A「鉄」、B「技術」の三部
作が出揃うことになります――
[41] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月27日 16時42分16秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
本日月曜日、ご本を頂きました。
ありがとうございました。
>長野正孝氏の『古代の技術を知れば"日本書紀"の謎が解ける』
楽しみにしていますね。
>摂津と大和の服部氏が、祖神をそれぞれヒノハヤヒとアメノミナカヌシとしている
>成り立ちが全く違うのか
本当に神様方についてどんどんワケが分からなくなります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B9%8B%E5%BE%A1%E4%B8%AD%E4%B8%BB%E7%A5%9E
天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)
日本神話の神。天地開闢に関わった五柱の別天津神(ことあまつかみ)の一柱。
『古事記』では、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神であるとしている。
その後
高御産巣日神(たかみむすび)、神産巣日神(かみむすび)が現れ、すぐに姿を隠したとしている。
この三柱の神を造化三神といい、性別のない「独神」(ひとりがみ)という。
ここですが「性別が無い」という件
性染色体でしたっけ?女性はXYで男性はXXと1対 つまり2個
ところが人間の約1%には X しか持ってない人がいるんだそうです。
なので、「古事記、すごい!」と思ってしまいます。
『日本書紀』本文には記述はなく、
第一段で6つ書かれている一書のうちの第四の一書にのみ登場する。
そこでは、まず国常立尊、次に国狭槌尊が表れたと書き、
その次に「また、高天原においでになる神の名を天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)という」と書かれている。
この記述からは、前に書かれた二神とどちらが先に現れたのかはわからない。
なお、他の一書では、最初に現れた神は国常立尊(本文、第一、第四、第五)、可美葦牙彦舅尊(第二、第三)、天常立尊(第六)としている。
神名は、天(高天原)の中央に座する主宰神という意味である。
宇宙の根源の神であり、宇宙そのものであるともされる。
すごい!
『古事記』、『日本書紀』とも、その後の事績は全く書かれておらず、中国の天帝の思想の影響によって机上で作られた神であると解釈されてきた[1]。
しかし天之御中主神には倫理的な面は全く無く、中国の思想の影響を受けたとは考え難い[2]。
天空神が至高の存在として認められながらも、その宗教的現実性を喪失して「暇な神」となる現象は、世界中で多くの例がある[3]。
中世に伊勢で発達した伊勢神道においては、神道五部書などで、伊勢神宮外宮の祭神である豊受大神の本体が天之御中主神であるとされた。
これは、伊勢神道の主唱者が外宮の神職度会氏であったため、外宮を始原神である天之御中主神であると位置づけることで、内宮に対する優位を主張するものであった。
伊勢神道を中心とする中世神話において、天之御中主神は重要な位置を占める神格である。
平田篤胤は禁書であったキリスト教関係の書籍を読み、その万物の創造神という観念の影響を強く受けた[4]。
そして『霊之御柱』において、この世界の姿が確定する天孫降臨以前の万物の創造を天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神の造化三神によるものとした。
この三神は復古神道においては究極神とされ、なかでも天御中主神は最高位に位置づけられている。
日本神話の中空構造を指摘した河合隼雄は、月読命(つくよみ)、火須勢理命(ほすせり)と同様、無為の神(重要な三神の一柱として登場するが他の二柱と違って何もしない神)として天之御中主神を挙げている[5]。
神社[編集]
現在、主にこの神を祭る神社には、妙見社系、水天宮系と、近代創建の3系統がある。
1.妙見社系の端緒は、道教における天の中央の至高神(天皇大帝)信仰にある。
北極星・北斗七星信仰、さらに仏教の妙見信仰(妙見菩薩・妙見さん)と習合され、
熊本県の八代神社、千葉氏ゆかりの千葉神社、九戸氏ゆかりの九戸神社、埼玉県の秩父神社などは妙見信仰のつながりで天之御中主神を祀る妙見社である。
妙見社は千葉県では宗教法人登録をしているものだけでも50社以上もある。全国の小祠は数知れない。
2.水天宮は、元々は天之御中主神とは無関係だったが、幕末維新の前後に、新たに主祭神として追加された。
3.明治初期に大教院の祭神とされ、東京大神宮や四柱神社などいくつかの神社が祭神に天之御中主神を加えた。
出雲大社では別天津神の祭祀が古い時代から行われていた。
現在も御客座五神として本殿に祀られている。
出雲大社が古くは高層建築であったことは別天神の祭儀と関係があるとする説がある[2]。
[42] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月27日 16時54分16秒 ) | パスワード |
ヒノハヤヒについて面白いブログを見つけました:
http://ameblo.jp/ufjtmb26/entry-12271132116.html
以下コピペ:
大和岩雄の「日本古代王権試論(名著出版)」(以下「大和論文@」という)は、ヒノハヤヒについて、以下のようにいう。
「「ヒノハヤヒ」を祖とする摂津国の服部連は、三島郡服部・勝部」「現在の豊中市服部・勝部」「が本拠であ」り、「高槻市服部の式内社神服神社はヒノハヤヒを祭っている」
納得
「「ヒ」の郷の郡家は、大原郡の郡家であるが、大原郡の大領」は勝部臣である。
「出雲の郡領のうち、国造兼意宇郡大領出雲臣と、大原郡大領勝部臣のみが、「出雲国風土記」によると、正六位上であ」り、「出雲臣が外正六位上なのに、勝部臣は正真正銘の正六位上である」ので、勝部臣は「中央政権から重要視されていた」と考えられる。
「因幡国の勝部郷には式内社幡井神社があり、幡屋明神というが、出雲の勝部臣が大領をする大原郡にも幡屋神社があり、「出雲国風土記」にも幡屋の社として載っている」
「つまり服部と勝部は出雲の大原郡でも摂津の三島郡でも対になっており、両地にヒノハヤヒが登場している」
出雲が出て来ちゃいました
「服部はハタ氏に関係あるが、勝部も雄略紀には秦酒公が率いたとある」
「摂津の勝部の北に「和名抄」の秦上郷・秦下郷もあり、そこにも、穴織社、呉服社がある」が、「これらの地は新羅から渡来したと「書紀」にある猪名部の名をとった猪名川の流域にある」
「このように新羅系の秦氏に摂津の勝部が縁のあるように、出雲でも飯石郡の「鉄有り」と「出雲国風土記」にある川は、波多の小川といい、波多郷がある」
「門脇禎二氏はこの波多を秦と推測して、大原郡の勝部臣も秦氏系とみている」
「スサノヲの「出雲国風土記」の伝承は四つあるが、
そのうち三つは飯石郡の須佐郷と大原郡の佐世郷と御室山であ」り、「スサノヲの新羅的性格と秦氏は無縁ではない」
「大原郡の勝部臣、樋速日子神は、新羅系的要素があり、スサノヲの性格と一致する」
大和論文@の指摘から、出雲国の砂鉄文化圏である大原郡、飯石郡、仁多郡には、秦氏が大きな勢力を占めており、ヒノハヤヒは彼らが奉斎した鍛冶神であったと考えられる。
え?
スミス君だったの?
そして、新羅的性格の神ということで、
スサノヲとヒノハヤヒは同質性を持っていたので、
スサノヲを出雲国に持ち込むときに、斐伊川の川上に天下ったとされ、ヤマタノオロチ退治やイナダヒメとの結婚などのスサノヲが活躍する伝承の舞台として斐伊川の流域が設定された、と考えられる。
新羅人って粗暴だったの?
スサノヲを祀る須佐神社が斐伊川の流域ではなく、下流では神戸川となる須佐川の流域に創建されたのは、斐伊川中流部の大原郡斐伊郷にはヒノハヤヒが斐伊神社で、斐伊郷の斐伊川を挟んで対岸にある飯石郡熊谷郷にはすでにイナダヒメが河辺神社で祀られていたからであり、スサノヲの登場する出雲神話の舞台である斐伊川流域と須佐神社が鎮座する飯石郡須佐郷は、離れている。
出雲国の外部から持ち込まれたオオクニヌシが出雲国で祀られた場所が、出雲臣の拠点で出雲国府がおかれた意宇郡ではなく、当時は神戸川の下流の湿地帯で人が住むには適してはいなかった出雲郡のはずれの杵築大社であったのと同じように、スサノヲも、勝部臣の拠点であった斐伊郷ではなく、飯石郡の西のはずれの須佐郷の須佐神社で祀られた。
ここからも、出雲国の在地では先にヒノハヤヒが信仰されていて、後からスサノヲが持ち込まれたと考えられる。
へぇ〜
大和論文@によれば、ヒノハヤヒには、下記のように、天神と天孫の二種類の神がいる。
「イザナギが火神カグツチを斬ったとき化生した樋速日神」は天神で、
「アマテラスとスサノヲの誓約のときに」、「スサノヲの左足から化生し」た「熯之速日命」は天孫となる。
「アマテラスとスサノヲの誓約によって生れた神の中で、スサノヲの生める児として記す神は、一書の三のみが、ヒノハヤヒがスサノヲの左足から化生したとある」が、「「書紀」の本文、他の一書、及び「古事記」は、すべて五神なのに、一書の三のみ、ヒノハヤヒが入って六神になっていることからして、ヒノハヤヒは付加された神であることがわかる」
「なぜ付加されたかというと、ヒノ川のスサノヲ伝承を登場させる以上」、スサノヲを「本来のヒノ川の神ヒノハヤヒと関与させる必要があったこと」と、「出雲臣の祖のアマノホヒが、この五神の中に入っているので」、勝部臣の祖神が「アマノホヒの兄弟神になろうとしたためであ」ると考えられる。
「しかし、この付加は「日本書紀」にはわりこめたが、一般にはみとめられなかったらしく、平安朝初期の「新撰姓氏録」では、アマノホヒを祖とする出雲臣は「天孫」に入っているが、ヒノハヤヒを祖とする服部連は「天神」になっている」
大和論文@によると、勝部臣や服部連の本拠であった摂津国三島郡は、中臣連の拠点でもあり、三島郡は島上郡と島下郡に分かれるが、島下郡には藤原不比等やその子の所領があったので、勝部臣から情報提供を受けて、藤原不比等によって、「スサノヲの左足から化生した」ヒノハヤヒの伝承が創作され、日本書紀に書き込まれた、という。
こうした大和論文@の指摘から、スサノヲが出雲国に持ち込まれたのは、藤原不比等が日本書紀の編纂の実質的な責任者となっていた、持統天皇の時代であったと考えられる。
西條勉の「古事記と王家の系譜学(笠間書院)」(以下「西條論文」という)によれば、直木幸次郎が指摘するように、「古事記の降臨神話は五種類の資料から成り立っており、それぞれの資料はバラバラに分断されてひと続きの文脈に再編成されている」という。
その資料とは、日本書紀の一書の一と二であった。
日本書紀の「一書一は、国譲り〜降臨(第九段)の全体にわたって古事記によく似ており、書紀のなかではただひとつサルタピコーウズメの要素を含む所伝である」が、これは、古事記から伊勢神宮に関する記述を除いたものである。
日本書紀の一書二の「神鏡奉斎・同床共殿」は、「随伴する諸神を列挙せず、またサルタビコーウズメの要素をもたない」が、古事記の神勅についての記述は、この方と深い関係にある。
「古事記は一書・二によりつつ、これらを変形させながら独自に伊勢神宮の起源を織り込んでいるのである」
「古事記と書紀の本書・一書一・二・四・六の所伝を、それぞれ「司令神」「降臨神二。降臨神の容姿」「降臨地」「随伴神」「神器」「神勅」の要素で比較」すると、「本書・一書四・六がタカミムスヒを司令神とし、一書一・二はアマテラス大神を司令神にしていることが分か」り、「書紀の所伝は、司令神をタカミムスヒとするものとアマアラス大神とするものに二分される」
「古事記が高木神(タカミムスヒ)とアマテラス大神を並べて司令神にするのは、これらふたつの系統を結合したかたちである」
「随伴神についても、古事記は総勢で十柱の神になるが」、「これらは」「書紀の一書一・二・四の随伴神をすべて寄せ集めた神々である」
「降臨神話には、司令神を軸にして言えばタカミムスヒ系とアマテラス系の二種類があって、古事記はこれらの二系を統合している」
「古事記に登場するオモヒカネータヂカラヲーイハトワケも神宮に関係するとも思われるが、これらは随伴神として記されている」が、「この随伴神に関しては、すでに指摘のある通りほとんどは石屋戸神話に登場する神々である」
「しかし一書四と古事記に記されているアメノオシヒとアマツクメは、大伴氏の伝えた初代天皇東征の伝承から出たものと思われる」ので、「随伴神の要素も、石屋戸系と東征系のふたつの系統に分かれる」
「古事記の降臨条に「そのをきし八尺勾璁・鏡また草薙剱、亦常世思金神・手力男神・大石門別神を副へ賜ひて」とある「其遠岐斯」(原文)は、天照大神を天石屋戸から招ぎ出したことを意味するのであって、石屋戸条と降臨条が、出雲系の神話か挿入される前の段階では、ひとつづきの文脈でつながっていたことを示す痕跡である」
「司令神を基準にして二系に分けられた降臨神話は、他の要素との関係においても、石屋戸神話と没交渉のタカミムスヒ系と、石屋戸神話と連続するアマテラス系にはっきりと区別することができる」
「アマテラス系の降臨神話は、タカミムスヒ系を呑み込むようなかたちで編成されている」が、「このことは、アマテラス系のもともとの母体は石屋戸神話であって、それがタカミムスヒ系で成り立っていた降臨神話の文脈に割り込んでくるように膨張してきたことを示すものである」
以上のような西條論文の指摘から、降臨指令神は当初のタカミムスヒからその後にアマテラス大神に変更されたと考えられるが、それは、685年頃から病気がちの天武天皇の皇后として共同統治者となり、686年に称制し、690年に即位して女帝となった持統天皇が、689年に皇太子の草壁皇子が夭折したという状況下で、大津皇子など有力な天武天皇の皇子たちを排除して皇位を孫に継承させるために、行われたと考えられる。
だから、659年(斉明5年)の杵築大社の創建とそれと前後した国譲り神話の構想は、アマテラス大神の登場に先行し、その段階では、スサノヲが活躍する出雲神話は構想されてはいなかった。
山尾幸久の「日本古代王権形成史論(岩波書店)」(以下「山尾論文@」という)によれば、国譲り神話については、以下のとおりである。
「令制国大倭の国魂神は」、「山辺郡大和郷(大倭里。もと城下郡に属す)の大和坐大国魂神社の祭神であ」るが、日本書紀に記された「倭大国魂神についての知見は、決して令制国のそれと同じで」はない。
倭大国魂神社は、令制大和国の成立に前後して城下郡から山辺郡に遷座しているが、遷座前の倭国魂神社は、三輪山山麓の狭井神社であった、と考えられる。
「三輪山そのものを「境内地」とするところの、奈良県桜井市三輪に鎮坐する、城上郡「狭井坐大神荒魂神社五座」(延喜神名帳)の主神は「狭井者。大神之麁御霊」(神祗令集解所引古記・令釈)といわれ、「すなわち延喜四時祭式鎮花祭条にいう「狭井社一座」がこの神である」。
オオクニヌシ神の別名は、「紀第六の一書の書出しには「大国主神、亦名大物主神、亦号国作大己貴命。亦日葦原醜男。亦日二八千戈神。亦曰大国玉神。亦日顕国玉神」と七つの間が列記されてい」るが、狭井神社の祭神の「固有の神名は上記第六の一書に見える「大国玉神」であ」る。
そこで、遷座前の倭国魂神社の祭神を大国玉神とする。
「大国玉神は、「先是、天照大神・倭大国魂二神、並二祭於天皇大殿之内」とか、「以天照大神「託豊鍬入姫命、……以日本大国魂神、託淳名城入姫命」のように、天照大神と並びこれと一対として扱われる存在であ」り、「「日本大国魂神」の用字」などから、「この大国玉神が令制国大倭の国魂神でなく、天上の至高神に対応する総国魂・大地主の神である」と考えられる。
「垂仁紀二五年条注引一云」には、「是時、倭大神、著穂積臣遠祖大水口宿禰、而誨之日、「太初之時、期日、「天照大神、悉治天原。皇御孫尊、専治葦原中国之八十魂神。我親治大地官」者。言已訖焉。……」」と書かれているが、「我親治大地官」の「我」は、「倭大神……梅之日」の「倭大神」以外にはな」く、而誨之日に続く「 」の部分は、「大国玉神が天孫降臨に際して天照大神との間にかわした契期である」
この伝承は、「天孫への「国譲り」を三輪山の大国玉神が行なったという伝承」であり、「天皇が「治葦原中国之八十魂神」、「定奉天神地祇之社」、「祭八十万群神、仍定天社・国社、及神地・神戸」というのは、いずれも天皇による全国支配権の確立の宗教的表現に他ならず、それが大国玉神の自主的契期により実現したというのであるから、これは、天孫に対する、大国玉神の祭祀上での「国譲り」神話、天皇が葦原中国の祭祀権を掌握した起源説明に他ならない」
「大地官」は、「オホツチノツカサ」であり、「地霊・農耕神でもある国作りの神であ」るので、「要するに「大地官」は総国魂・大地主の神と解され」、「この神が元来各地の国魂を吸収し統合した象徴的神格なればこそ、かかる「国譲り」神話が語られるのである」
「出雲杵築大社の祭神やその神話」は、「出雲地方に独自の信仰と祭祀との所産でな」く、「大己貴・大国主と出雲との関係は「国譲り」後の隠栖地というのが根本であ」る。
「大国主または大己貴は、皇都から「八十隈」に、天皇の大内裏に匹敵する「日隅宮」を造営してもらい、ここに永遠に隠れ去って、天皇の「顕露」の事には一切関与せず、ただその平安ならんがために八十国魂を率いて「幽事」を主るため、出雲を選んだのであ」り、それは「いわば神としての活動の永遠の停止、神の死なのであって、いわば出雲は、諸地域定礎神の天皇自らによる一括埋葬の地にほかならない」
「七世紀後半の律令国家の「現神天皇―天下公民体制」形成の祭祀上の準備措置として、三輪山の大国玉神は出雲杵築で祭られることになる」が、「それは、全土の地域的政治世界の定礎神の象徴的統合神が、その活動を永遠に停止して、王畿の神山を退き西北僻阪に隠栖したことを意味し」、「三輪山の主神が大朝朝臣(三輪君)氏の祖神大物主一柱となり、大倭忌寸(倭直)氏が大倭神社で令制国大倭の国魂を祭祀するようになるのも、七世紀末に始まることである」
山尾論文@の指摘から、当初の「国譲り」神話は、出雲神話を介在させないものであり、そこには・・・・
以下略
だんだんワケ分からなくなっていて
記憶が吹き飛びました。
でも興味深いブログですよね。
このブログ主さんは学者なんでしょうかねぇ?
[43] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月28日 12時24分02秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
この二三日前より、気温も10℃を超えるようになり、春の気配を感じま
す。河津桜もここ遠州では咲き出し、今度の日曜日には三分咲き位になるか
と思います。但し、花粉が舞うようになり、風邪症状のようでうっとうしく
なりました。
さて、大和岩雄氏の『日本古代王権試論』(名著出版)は一度目を通したい
と思っています。その中に出て来る「勝部氏」という氏族がどのような役廻
りを果たしたのかよくわかりませんが、「勝」という字に意味があるのでは
ないかと思っています。秦川勝にも「勝」が入っていますし、「勝氏」も秦
氏の一族のようですし、神様の名前にも「カチ」が入った神様がいます。何
かのキーマンであれば、しっかりと調べたいと思いますが、今のところ漠然
とした感じを抱いております。
三ケ日の神服部氏ですが、「神服部」を名乗れるのは、宗家のみで、分家
は服部に戻る訳であります。従って、神服部氏一族という特別な氏族が増え
ることはなかったと思われます。つまり「神」は、特別な職種に付けられる
敬称のようなものだと推察いたします。それは、天皇家か伊勢神宮、つまり
は天皇の皇祖神天照大神に直にかかわる者ということでありましょうか。
三ケ日の初生衣神社の神服部氏のルーツは、「建羽槌神」ということです
から、天岩戸の天照大神神話に関係しています。ヒノハヤヒやアメノミナカ
ヌシとどう関係するのでしょぅか――
[44] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月28日 14時59分34秒 ) | パスワード |
訂正
女性はXXで男性がXYでしたね。
赤っ恥
三つ柏さん
>三ケ日の初生衣神社の神服部氏のルーツは、「建羽槌神」ということですから、天岩戸の天照大神神話に関係しています。
>ヒノハヤヒやアメノミナカヌシとどう関係するのでしょぅか
http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/haduti.html
文字化けしてて読めません。
こんな内容らしいです:
天羽槌雄神
別称:倭文神(シズノカミ)、建葉槌命(タケハヅチノミコト)、天羽雷命(アメノハヅチノミコト)性別:♀系譜:
天岩戸の前に集まった神々の一柱神格:
織物の神、機織りの祖神神社:倭文神社、静神社、服部神社
天羽槌雄神は、機織りの祖神として信仰されている神である。
名前の「羽」は布帛(フハク=木綿や絹織物)を表している。
神話では、天岩戸隠れ ...
この部分でしょうか?
別の情報
http://nihonsinwa.com/page/156.html
アメノハヅチオ
漢字・読み 天羽鎚雄神
別名 建葉鎚命・天羽雷命・倭文神
●機織りの神。
●同時に武神の性質もある。
●記紀神話には登場しない。
物語・由来
スサノオが高天原で乱暴狼藉を働いたショックで、アマテラスが天の岩戸に籠った時に、オモイカネ神の提案で、玉串を作ることになった。
その玉串に飾る布を織ったのがこのアメノハヅチオ神です。
コレでしょうね
記紀神話には登場しない。
タケミカヅチが平定できなかった星の神アマツミカボシ(天津甕星神)を平定した。
機織りの男?
漠然と機織り=女の仕事、と思っていてアメノハヅチオも女神なのかと思っていたら、雄という字が当てられているように、「男神」。
しかもタケハヅチ命(建葉槌命)やアマハヅチ命(天羽雷命)という異名からすると、布関係の神というだけでなく、雷神・武神というイメージも。
天の岩戸で使用した布は楮(コウゾ)や麻から作った「倭文(シズ)の綾織」というもの。そのために異名に「倭文神(シズ神・シドリ神)」というのもあります。
神社や関連する土地
倭文神社
静神社
服部神社
へぇ〜
こんな所でいかがでしょうか?
神様のことは読めば読むほどこんがらがって行きます。
お名前が似てるし。別名があるし。兼業だし。
[45] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月28日 15時16分20秒 ) | パスワード |
>三ケ日の初生衣神社の神服部氏のルーツは、「建羽槌神」ということですから、天岩戸の天照大神神話に関係しています。
>ヒノハヤヒやアメノミナカヌシとどう関係するのでしょぅか――
ヒノハヤヒはスサノオの左足から生まれたからアマテラスとは伯母甥の関係?
アメノミナカヌシは高天原に最初に現れた神だからアマテラスやスサノオのご先祖さま?
アメノミナカヌシは『古事記』では、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神であるとしている
ゆえに
アマテラスのご機嫌を直すために布を織った建羽槌神はアマテラスやスサノオの一族の長老
つまり 建羽槌神・ヒノハヤヒ・アメノミナカヌシ は皆さん一族で、神服部一族のご先祖さま達。
これで、「建羽槌神」「ヒノハヤヒ」「アメノミナカヌシ」の関係は解になるでしょうか?
あはは
[46] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月28日 23時51分10秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
米田一夫氏の『私説 遠州風土記』には――
「赤日子神社は、神服部の祖神とした説と、安曇一族の氏神で神服部の神
とするのは当らないとする説がありますが、古代日本海沿岸の海部を支配
していた海部直の根拠地は現京都府下の久美浜町といわれ、そこはまた、
神服部の連(ムラジ)が住んでいたという伝承もあり(『旦後旧事記』)、更
に『天孫本紀』には「建田背命、神服部連、海部直らの祖」と出ています
から、同じ一族だったのかも知れません。」
とありました。米田氏はかなりいい線を突いているのではないかと思いま
すのですが、かなりアバウトでもあります。
海部氏については、今後更に追及して行きたいと思いますので、今年中に
是非とも丹後を訪ねたいと思っております。久美浜、木津、網野、丹後あた
りです。
本日は、蒲郡の赤日子神社及びその周辺に行ってきました。次回報告をい
たしたいと思います――
[47] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月01日 23時41分39秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨夜来の風雨、台風並みでありまして、この地方は夜があけてからは風だ
けになりましたが、北陸・東北・北海道等大変であります。気候が極端にな
りつつあります。
さて、昨日は午後から蒲郡へ行ってきました。東名高速で約30分、距離
にして50q。遠いといえば遠いのですが、近いといえば近いです。これも
高速道路のおかげ、距離と時間の感覚が驚異的に変わってしまいました。
これは、いいことではありますが、昔の常識から大きく乖離しているとい
うこと、昔の人の考え方・気持ちがわからなくなるという弊害もあるという
ことを、頭に入れておく必要があると自分には言い聞かせております。
今回の目的は、「赤日子神社」――赤日子が赤引がなまったものではない
か、神服部の本拠地ではないか――ということを確かめたいと思ったからで
あります。住所はわかっておりましたので、ナビの誘導にまかせましたが、
最後の詰めの所でエライ目に遇ってしまいました。つまり、田舎ではよくあ
ることで、王道がない。即ち、まっすぐ正面から入る道がない、あるいは
複雑な道路形態で見つからないということがよくあります。軽自動車ならま
だしも、普通車では昔の細い道(いわゆるリヤカー道)を通るのは、冷や汗も
のであります。今回、命が縮まる思いで、細い道を奇跡的に車にキズ一つつ
けることなく、また溝にはまることもなく、目的地に着くことができました
が、寿命はかなり縮まった感じがいたします。
赤日子神社に着き、境内に入ってみました。確かに「三河養蚕祖神の石碑」
なるものがありました。「赤引の糸」あるいは「神服部」との関係を示すも
のとしては、「御由緒標」が建てられておりました――
「愛知県宝飯郡蒲郡町大字神ノ郷 鎮座 県社 赤日子神社
祭神:彦火火出見命 豊玉彦命 豊玉姫命
沿革:(ちょっと長くなりますので、主要部分のみを)
往古、当社より年々伊勢大御神の神服を織奉る赤引の糸の調物を
奉献りしにより其名著し
当社は雨乞に霊験顕芳なりとて、伊勢の多度神社と併称せられ、
又養蚕の守護神として其名高し
……云々 」
これは、平成7年の神社本庁の調査によるものであると書かれておりました。
「赤引の糸と神服部」は、「大野」か「神ノ郷」か……赤日子神社の祭神
は海部系の神でありますので、服部とは直な関係でないような気もいたしま
す。今後も引き続きケアしていきたいと思います。
赤日子神社の次は、スゴイ所へ行きました。次回に――
[48] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月02日 03時09分02秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ご無事で何よりでした。
カーナビでスイスイ行けたと思ったら最後に迷子になったりもしますが
お怪我もレッカーの面倒にもならずに済んで良かったですね。
守られたのかもですね。
>年々伊勢大御神の神服を織奉る赤引の糸の調物を奉献りしにより其名著し
ハッキリ知りたいですね。
蒲郡市役所か市の図書館に記録があるといいですね。
でも神社本庁の調査だったら、あれ以上の記録は無いのかもですね。
それ以上を調べるのが郷土史家の仕事かに、ですよ。
応援してます。
頂いた信秀(信長の父上)のご本
面白いですが
何分にも みんな「信」がついて混乱します。
その上に信長の弟の信行が信勝で書かれているのでますます混乱。
この弟は通称勘十郎で、信行・信勝・達成・信成と名前がいくつもあるので
お父さんの信秀の弟達の名とも混乱して
あれ?あれ?あれ?
信成って?
誰だっけ?
どこかで聞いたような?
スケートの織田信成が出て来てなかなかスンナリとは読み進めなかったです。笑
信長の父上の信秀はもともと勝幡城主だったんですねぇ。
勝幡というと尾張南西部で丹羽さんの本拠地に近いのか
と
丹羽長秀を検索すると
桓武天皇と百済永継ながつぐの間に生まれた良岑安世を始祖とする良岑氏流丹羽氏の出だそうです。
この百済永継という女性は非常に身分が低かったそうです。
要するに どーでもいい子 だったわけですね。
でも丹羽家が織田家の重臣だった理由になんとなく納得。(もう1つの重臣というと柴田家ですね)(他にも林さんなんかありますが)
信長の重臣の池田恒興は信長の乳兄弟とは知ってたけど
後家になった母親が信秀の側室になってたとは。
人間関係は一筋縄ではいかないですね。
神様関係はもっと複雑。
信秀でこんがらがってるワタシには古代の神様のお名前も役職も場所もなかなか記憶に残らないです。
頑張って纏めてくださいね。
と、丸投げぇ〜
[49] | 丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月02日 12時55分08秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
記憶のメカニズムをよく研究すると、記憶はされているのだけれど、それ
を取り出すメカニズムの劣化により、取り出せるものが取り出せない。神経
細胞間の伝達物質といった細胞生理学的な問題も大きいのかも知れません。
でも、その日の調子にもよって頭の性能が変わるのということもあり、睡眠
リズムの狂いだとか、運動不足、飽食、病気、ストレスが大いに関係している
ような気がします。私にとっては花粉症は一番の敵ですね―これから5月まで、頭が冴えません!
頭を活性化させること……そのためには、興味分野にはまることが一番だ
と思います――
[50] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月02日 22時02分23秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日はレトロなお店で夜会があり、適度な料理に適度な酒、グッドなおもて
なしで、ご機嫌な気分で帰ってまいりました。タケノコの初物も食しましたし、
大阪の「秋鹿」(あいかと読むのだと思いますが)という吟醸酒も飲みました。
大阪の酒というのはイメージ的にどうかと思いましたが、それなりにいける酒
でありました。
レトロな雰囲気の店に、レトロなジャズは合いますね。でもお酒は日本酒が
いい。まろやかで、ウィスキーのようにストレートな感覚でないところがいい
と思います。日本人の性格はやはり日本酒、即ち米文化によって形成されてい
るのかなあと感じます――
[51] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月03日 09時31分12秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
さて、酔いも醒めました――
赤日子神社の創建は、天智天皇の頃という。その後、天武→持統→文武
と続く訳でありますが、持統の三河行幸というものがあります。この行幸
にもなんらかの関係があったのではないかと勘ぐるところであります。
遠州、羽鳥の服織神社は持統の子の文武天皇の終り頃に勧請されており
すので、三河からその東の遠州へ養蚕の流れが伝わって行ったのかとも
推察されます。
いずれにしても、赤日子神社は三河のキーポジションに位置しておりま
す。それは、すぐ裏手に「神ノ郷城」があったことでもそう感じられます。
私が、寿命の縮まる思いですり抜けた山道、これが神ノ郷城跡へ登る道
でありました。赤彦神社から150m前後北西の丘に位置します。
この「神ノ郷城」は、ある意味エポックメーキングな城でありました。
それは、この城が「忍者による城攻めの記録が残る最古の事例」というこ
とになっているからであります。
ここで一旦切ります――
[52] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月03日 14時48分52秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>「神ノ郷城」は、ある意味エポックメーキングな城でありました。
>それは、この城が「忍者による城攻めの記録が残る最古の事例」
これですね
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E3%83%8E%E9%83%B7%E5%9F%8E
永禄5年(1562年)に徳川家康と松平清善らの攻撃を受けるが、堅城である上ノ郷城はなかなか落城しなかった。
そのため家康は甲賀衆を用いて城内に火を放ち、その混乱の中から攻め入られ、同城は落城した。
その際、鵜殿長照は討死にし、長照の子・鵜殿氏長、鵜殿氏次は捕らえられた。
以下全文コピペ:
上ノ郷城(かみのごうじょう)
かつて愛知県蒲郡市神ノ郷町にあった日本の城である。別名「西之郡之城」、「宇土城」、「鵜殿城」、「神ノ郷城」。
昭和32年(1957年)1月10日に、蒲郡市指定史跡に指定されている[1]。
歴史[編集]
築城年代は「平安時代末期に五男十郎と言う者が壇ノ浦の戦いで勝った褒美として当地をもらい、城を建てた」と言うものや、
「戦国時代になって建てられた」など諸説あるが、
正しい年代ははっきりとしていない。ただ鵜殿長将の頃には鵜殿氏の居城となっていたようで、
この城を拠点として鵜殿氏は、現在の蒲郡市のほぼ全域と幸田町の一部を勢力下に治めていた。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで、鵜殿氏の主君である今川義元が討たれると、周辺の諸将が徳川家康に服属。
しかし中、上ノ郷城主鵜殿長照は義元の妹の子であり、今川方に留まったため、同城は孤立した。
永禄5年(1562年)に徳川家康と松平清善らの攻撃を受けるが、堅城である上ノ郷城はなかなか落城しなかった。
そのため家康は甲賀衆を用いて城内に火を放ち、その混乱の中から攻め入られ、同城は落城した。
その際、鵜殿長照は討死にし、長照の子・鵜殿氏長、鵜殿氏次は捕らえられた。
その後は攻め手に加わっていた久松俊勝の居城となり、子の松平康元に継がれ、家康が関東に移封となると池田輝政が有し、のちに廃城となった。
現在は大部分が私有地のミカン畑となっており、郭や空堀、土塁、井戸などが残存している他、城があったことを示す石碑が建てられている。
へぇ〜
甲賀はこの時には家康の旗下に入ってる人達もいたのですねぇ。
もっと後の時代かと思ってました。
分からないものですね。
[53] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月03日 23時20分21秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
上ノ郷城址は赤日子神社からは近く、またそこからの標高差も3〜4階ま
での高さぐらいであろうか。正面の土塁の上に石碑があり、「上郷城址 愛
知県」と刻まれている。
その裏を見た。そこにはこう彫られていた――
「鵜殿藤太郎之に居す。松平氏の為に攻められ、一族全滅して、遂に陥れ
らる。」
橋場日月氏は『服部半蔵と影の一族』の中において、7頁もこの神ノ郷城
について言及しています。それを要約しますと――
@寛政重修諸家譜によると、服部半蔵正成は16歳の時、三河国西郡宇土
城夜討において、伊賀の忍び60〜70人を率いて城内に忍び入り、戦功
をは げます。
A寛政譜の表現は間違っていて、16歳でなく、21歳の時である。
B60〜70人を率いてでなく、その内の一人として参加した。
C元康(家康)は、甲賀衆の組織と上手に連携し、忍者の臨時雇用の要請を
行い、合戦に投入している。
D甲賀からは、80余人がやって来て城攻めを行った。
E半蔵の兄・保俊を除く3人の兄も参加していた。
F半蔵は手柄を立て、槍を頂戴している。
G半蔵にとって、元康とはここで初めての顔合わせであった。
H鵜殿親子は討たれ、長照の子二人が生け捕られ、後に駿府に残されていた
瀬名・竹千代・亀姫との人質交換が行われる。
I翌年、竹千代と信長の娘・お五徳との婚約成立。
J元康から家康に改名し、身も心も今川氏の呪縛から解き放たれた。
つまり、これらを総合して、エポックメーキングな城攻めであったというこ
とが言えるのではないかと思います――
[54] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月04日 15時13分09秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
すっかり失念していました。
H鵜殿親子は討たれ、長照の子二人が生け捕られ、
後に駿府に残されていた瀬名・竹千代・亀姫との人質交換が行われる。
これで思い出しました。
「鵜殿」という固有名詞は記憶の片隅にありましたが霧の中でした。
恥
駿府に残されていた瀬名・竹千代・亀姫との人質交換が行われる
で、思い出しました。
>D甲賀からは、80余人がやって来て城攻めを行った。
そんなに来てましたか。
いよいよ改めて驚きました。
天下人にもなろうという人物は「友達の輪」がスゴイもんですね。
やっぱり世間は広くしておかないといけませんね。
ワタシには too late ですが。
[55] | 三つ柏服部さんからのコメント(2018年03月04日 22時10分20秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は、桑名へ行ってきました。不思議なことに、蒲郡の上ノ郷城と
ある関係でつながっていることがわかりました。次回以降に、それらの
ことについて記して行きたいと思います。念願の「焼き蛤」も食してき
ました――
[57] | 空の青海のあをさんからのコメント(2018年03月05日 07時39分28秒 ) | パスワード |
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101626.html に
長上郡の服部氏族CY(課題確認49):106
をご用意致しました。
キリの良いところでどうぞ。
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