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 投稿番号:101624 投稿日:2018年02月08日 16時19分31秒  パスワード
 お名前:中村
美作官氏殿 教えて下さい。

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

☆前田氏 ―Wikipedia に「利家の系統が菅原姓を称するのは、系図上その出自が美作菅氏の支流原田氏だからである」とありますがこの根拠は? ご存知の方も教えて下さい。

[1]中村さんからのコメント(2018年03月03日 12時56分21秒 ) パスワード

 美作菅氏殿教えて下さい。で検索したら以下の回答でした。

• 質問者によって質問が取り消された。
• 回答者によって回答が取り消された。
• Yahoo! JAPANによって質問が削除された。
o 個人情報を掲載した投稿
o マルチポスト、連続投稿
o 質問趣旨や文意が不明な投稿・回答へのコメント
o 不特定多数に対する呼びかけのような投稿
o アダルトカテゴリ以外へのアダルトな内容を含む投稿
• 質問の掲載期間が過ぎ、質問が自動的に取り消された。

答えられないのは何故?美作菅氏の原田氏(前田氏)に関する系図はデタラメだから都合が悪いのです。かって鳥越俊太郎氏の偽系図がありましたが、これよりも根が深く悪質なのです。

[2]中村さんからのコメント(2018年03月05日 15時17分26秒 ) パスワード

  美作菅家系図が偽造とする根拠!
 科学ならば再現性の可否で証明できますが、歴史と言う怪物を退治するには、言い伝えや伝説の類を廃した質の良い資料が求められます。次の両家の系図はどちらも公的機関津山藩の要請で書かれ残されたいわば一級資料に近いものです。

「元禄年間(1684年頃)に津山藩森忠政(信長のそば小姓森蘭丸の弟)によって美作の古事を書き上げ、提出の要請を機に、京都で公家として続く(高辻、五条、唐橋)の元を訪ねて系図の照合と美作菅家一族の系図が間違いない事を確認している。この時、一族14人にカンパを働き、銀200目と言う多額の土産を持参している。   Web有元氏参照

当時とすれば100年も過ぎればもう不明です。ならば偽造しかないのです。
この時書かれた美作菅家七家の系図がこれです。

 ※「国会図書館アーカイブス」(新訂作陽誌 有元氏157コマ)より転載
美穂満佐の子   
 忠勝 筑後守   號有本 奈岐山城主弘安十丁亥年二月卒六十歳     
 佐友 廣戸豊前守 廣戸村矢櫃城主       
 周長 福光伊賀守前田氏         
 公興 植月豊後守 植月庄宮山城主
★忠門 原田日向守 原田郷稲荷山城主
 佐利 鷹取長門守 領鷹取庄
 資豊 江見丹後守 領江見庄

(注)満佐は天福二年(1234年)二月、52才で死去となっている。
   余談ですが、★忠門(1187〜1221)なので逆算すると、忠門は満佐5歳の
   時の子になります。
  
  同じく藩の要請で残された※「国会図書館アーカイブス」
 (作陽誌西作誌中巻25コマ)より転載の原田氏の系図

 家系畧伝  
平忠高 桓武帝七代胤上総介平忠常五男住二肥前原田一因號原田次郎一天喜五年春叙従五位下一任甞助源義家阿部貞任一康平二年出羽国杉谷戦中流矢隕命
                               (以下略)
 ◆原田氏について、平凡社『岡山の地名』 P238、に
 ◎『西幸との境界に稲荷山城跡あり、初名は狐山で、原田氏が代々居城したという(作陽誌)原田氏は平忠常の子忠高が肥前原田に住し、原田氏を称した。保安四年忠高曾孫興方が美作に流され、翌年許されて狐山に築城。以来元和七年に死去した同書)原田の北西に大谷城跡があり、これも原田氏の分城という(久米郡誌)。三河守貞佐は備前福岡(現邑久郡長船町)の戦いで左足に傷を受け、無足の三河といわれた。その子行佐は宇喜多に属した。行佐の子忠佐は朝鮮出兵に従うが騒擾を起こして豊臣秀吉の怒りに触れ帰国した。その子は父の遺命で出家し、誕生寺の住持となり、忠佐まで十七代四百七十年間美作に勢威を振るった。

(注) 忠佐は二十代で、「原田氏の武家としての歴史は(1597〜8年)には終っています」

 美作菅氏の系図について専門家は・・・

※「菅原氏系図」道真の末裔美穂満佐の子忠門が、美作国久米郡原田郷(岡山県美咲町原田)を領して原田氏呼称 はいささか信憑性に乏しい。
        「日本家系・系図大辞典」奥野敬之著(株)東京出版 P824
※「菅原氏から出た菅家党の諸系図を照合してみると、異説が多く混淆して収拾できない。「姓氏家系大辞典」に載せる「有元系図」が美穂満佐の子に、「有元・広戸・福光・植月・原田・鷹取・江見」これが菅家七流の祖としている説を根本的に覆している。各人の実名が、広戸豊前守佐友・鷹取長門守佐利以外は全く逸脱しており。そのまま信じられないのである」
               「系図研究の基礎知識」近藤出版社 P1067

以下は原田氏の縦系図です。 
(桓武平氏良文流) 【平忠常】―@忠高―A忠次―B忠仲―❹興方―D忠光―E光沖(光興)―❼忠門(改菅原姓)―G忠頼―H頼興―I頼勝―
J忠勝―K忠平―L政平―M政頼―N忠行―O忠武―P忠長―Q貞佐―R行佐―S忠佐

 美穂満佐の子として★忠門 原田日向守 原田郷稲荷山城主とあります。
この忠門は❼原田氏七代なのです。日向守?は❹原田四代興方初代稲荷山城主の弟沖春日向守とつないだのです。※沖春は前田氏の初代です。

■この菅家の偽系図で、問題が発生しました。
上記 平凡社『岡山の地名』P238の文中「忠佐まで十七代四百七十年間美作に勢威を振るった」とありますが菅家が原田四代興方を★忠門 原田日向守 原田郷稲荷山城主とすり替えたが為に@忠高―A忠次―B忠仲―❹興方・・・@〜Bのカウントがされいが為に「忠佐まで十七代四百七十年間美作に勢威を振るった」とありますが忠佐は2原田二十代です。

★前田氏の始祖は原田四代興方の弟沖春日向守です★

 四代 興 方(1141)
嘉承二年(1107)父忠沖カラ家督(かとく)ヲ嗣グ
尉ニ任ゼラル保安四年(1123)発(ミズノ)卯(トウ)二
月藤原之仲時等ニ命ジテ
高科(タカシナ)師(モロ)春(ハル)ヲ殺ス君ハ此ノ事ヲ
咎(トガ)メテ原田ヲ美作ノ国葛(クズ)虫(ムシ)ニ配セラル
コレカラ此ノ地ヲ原田村トシタ
保延五年(1139)己(ツチノ)卯(トウ)年先ノ罪ヲ免ゼラレ五月ニ
葛(クズ)虫庄(ムシショウ)ヲ給ワル同年
十一月ニ狐山下葛虫ニ住ム
稲荷山ト云ウノハ是山デアル永治元(1141)
年二月ニ死ス、弟ノ沖春日向守ハ
曾(カツ)テ肥前ノ国ニ住ンデイタ

次回は原田に戦後多くの歴史家が、菅家?とばかり尋ねてこられても系図を門外不出としたことについて、


 
[4]中村さんからのコメント(2018年03月06日 17時11分40秒 ) パスワード

■この菅家の偽系図で、問題が発生しました。の文中
―❹興方・・・@〜Bのカウントがされいが為に「忠佐まで十七代四百七十年間
               ➡されないが為に訂正して下さい。
美作に勢威を振るった」とありますが忠佐は原田二十代です。

     注)@〜Bとは―@忠高―A忠次―B忠仲のことです。
[5]中村さんからのコメント(2018年03月07日 17時34分29秒 ) パスワード


■原田に戦後多くの歴史家が、菅家?とばかり尋ねてこられても系図を門外不出                          としたことについて■
 明治時代から、「足利尊氏は逆賊」「楠正成は忠臣の鏡」とされ太平洋戦争がおわるまで、戦意高揚で人の心を操る宣伝(プロパガンダ)に使われ、戦時軍部の発表する「大本営発表」は信用できない情報の代名詞でした、当時の時世は

※1)足利尊氏と口にするのさえタブー視され、「太平記」には40巻の内、22巻  の欠落があり、はっきりしないが、天皇や武家方の不都合な事は削除され   たと考えられている。
※2)昭和5年(1934)時の商工大臣(古川電工・横浜ゴムの設立に尽力、社   長)の中島久万吉が“客観的に 「足利尊氏は人間的に優れた人物だ」と論  じたところ、当時の熱狂的な皇国史観に押し流され、商工大臣を辞任した。  これを菊池寛著「四條畷の戦」で、中島商相位に賞められてもいいのである  が、人間として純粋無垢な楠公父を相手にしなければならなかった所に、   彼の最大の不幸があると思う。と、大臣を庇う程度でした。
※3)軍隊では、足利の生まれと言っただけで往復ビンタされた。
※4)吉川英治「随筆 私本太平記」に足利出身の子が東京に徒弟に出ると逆賊  の土地ッ子かなんてよくいじめられたものですし、足利織物のレッテルでさ  え、逆賊織かと嫌われた。
※5)例えば「戦争は嫌だ」「日本は負ける」いった。当然、与謝野晶子の「君  死にたまうなかれ」こうした当時の世の流れに逆行した出版物も思想犯罪と  して特高(特別高等警察)に捕まり、拷問を受けた。
※6)「無声日記」講談社・徳川無声さんが父親から、先祖は足利尊氏の子供だ  が決して口外しないよう口止めされたと書かれていました。     
        --以上はほんの一例です。
訪ねてこられたのは太平記、菅家一族が船上山の戦で戦死の事績で、昭和七年
原田に対して恩賞があった。件で原田の文章系図の確認のためでした。
            つずきは次回に・・・

[6]中村さんからのコメント(2018年03月08日 09時39分27秒 ) パスワード

 つずき=× つづき=〇でした。

(太平記巻第八)一族の合戦の事績

美作国の住人、菅家の一族は、三百余騎の勢いで四条猪熊まで攻め入り、
武田兵庫介・糟谷・高橋の軍勢一千余騎と向かいあって、二時間余り戦ったが、
後陣の味方が退却してしまったのを見ながら、もともと退かない決心であったのか、また向かう敵に後を見せるのを恥と思ったからか、有本勘四郎左弘・同五郎佐光・同又三郎左吉の兄弟三騎は後にのこり、近づく敵に馬を並べて組討ちとなり、どうと地上に転がった。左弘は今朝の合戦に膝口を切られて、力が弱っていたのか、武田七郎に押さえこまれて首を切られ、左光はこの仇を返して武田二郎の首を取った。左吉は武田の家来のものと刺し違えてふたりながら死んだ。
敵二人も兄弟なら、味方の二人も兄弟だから、いまさら生き残って何になろう。さあともに勝負しようと 左光と武田七郎とは、持っていた首を両脇に投げ捨て、ふたたび組み討って刺し違えとなった。これを見て、福光彦次郎左長・植月彦五郎重左・原田彦三郎左秀・鷹取彦二郎種左らは同時に馬をひき返し、むずと組み合ってはどうと落ち、組み討っては刺し違え、二十七人の武士が同じところでみな討死にしてしまったので、菅家の陣営は敗れ去ってしまった。

「日本の古典 太平記」河出書房新社 訳者山崎正和
[7]中村さんからのコメント(2018年03月10日 13時44分00秒 ) パスワード

ここで一息、当時の本名に対する概念。

※当時本名という公文書に署名する場合や、亡くなった後に墓に刻まれるなど、極ごく限られたときにしか使われなかったのです。親しい友人でも本名を知らなということもよくありました。日本人は古来から個人の名前を直接言わないのが礼儀なのです。
       「学校では教えてくれない日本史の授業」 井沢元彦 PHP文庫

 後でも述べますがWebでの美作菅家系図は、忠門の時に改姓?
又千葉氏系図では【千葉】忠常ー忠高(美作菅家党)へ・・・作成された方のご苦労は理解できますが、歴史を学ぶ上で正しい系図を作成して欲しいものです。

法然誕生の地にある十八代 貞佐の墓碑は「原田三河守平貞佐」です。
これを見ても原田が菅家に改姓はない事が判明します。
[8]中村さんからのコメント(2018年03月17日 12時29分48秒 ) パスワード

   原田氏が系図を門外不出にしたか?の話に戻します。
 ★もし系図から下記系図の事が判明したら原田は逆賊で、非国民であり当時の 風潮からして決して國や世間から許されない家だったのです。

 十代 平 ・忠(1274〜1341)
文永(1274)拾一年生ヲ受ク永仁(1296)四
年父・興ヨリ家督ヲ嗣ク元亨(ゲンコウ)
元年(1321)二月京ニ上ル後醍
醐天王(天皇)ノ御味方ニツキ
八月二八笠木(笠置)山に籠ル
九月天王(天皇)笠木カラ退去サレタ後
笠木ノ城モ落チ・忠モ西ニ逃ゲ十月美作ニ
立帰ル、翌正慶元年(1332)ヨリ    
自分ノ館(ヤカタ)トシテ菅原山
城ヲ築キ住ム天神山ト改名スル
建武二年(1335)高師
直(コウノモロナオ)使者ヲ以テ・忠ニ味方スルヲタノム
原田・忠尊氏ニ味方スルヲ決シ備中ニ
出向キ、尊氏ニ合流筑紫(九州の古称)ノ国ニ下ル
秋尊氏再ビ九州デ蹶起(ケッキ)ス
・忠尊氏ト共ニ京ニ上リ尊氏ニ職ス(家来トナッタカ)     
同年十二(1335)月従五位下ノ宮ニツキ
太郎ニ信任サル暦應四年(1341)死ス
   北朝暦(建武四年南朝暦)

 頼忠子 十一代 忠勝(1322〜1367)
母は足利次郎左右衛門氏夏ノ娘・・・この件について
「大日本地名辞書」吉田東吾 P103〜104に足利氏冬の女なり、
三村山城主秀仲を擊殺す。尊氏乃ち備中高松城与えて之を賞す。
尚、系図では二千貫ノ知行もらっています。二千貫とは何石?
 門外不出にした経緯は以上です。




[9]中村さんからのコメント(2018年04月11日 17時13分17秒 ) パスワード

◆ここで太平記の事績で恩賞にあずかった
原田左秀についての歴史家・郷土史家の検証について、

1)利家の出自について、原田彦三郎左秀が船上山の戦で戦死の後左秀の子孫は嘉吉の変(1441)で白旗落城後、尾張に移ったといい、利家を前田氏はこの後胤という。「系図研究の基礎知識」近藤安太郎著
2)美作の武士団 「系図研究の基礎知識」p1065~1075原田氏は、承久の乱のとき、三浦胤義とともに院方に属し、伊賀光季の館を襲って、弟前田又三郎と同時に討死した。知貞の子、右馬太郎知明はまた美作に帰任し、その孫 三河    守左房(入道祐念)は元弘三年(1333)船上山の合戦で疵を蒙り、その子彦三郎左秀・彦四郎佐延・彦五郎佐仲は同年四月、あいともに京都猪熊で討死した。佐秀の子孫は赤松に属したが、左秀の孫式部丞左広は、嘉吉の変で白旗城落城後、尾張の国に移ったといい、利家を出した前田氏はこの後胤と言う。
3)「美作古城史 二」寺坂五男著に、「原田氏に就いては異説がある。其れは勝田郡勝田町眞加部に上の山城址があり、これは原田氏の在城が傳へられて居るのであって、菅原系図に原田日向守及その後裔は此の眞加部城主であったとの説である。これを勤王の事実と見るときは、南朝の勤王の士原田彦三郎左秀は此の系統に属するのではないかとの説である。此の眞加部に原田氏の在城を立證するものとして、(中略)
・・・後年研究の資料にもと考えて茲に録して置く、」と、原田は事実と認識しています。



[10]中村さんからのコメント(2018年04月22日 11時18分16秒 ) パスワード

ここで「誕生寺と原田氏の因縁」について、

 誕生寺は、浄土宗開祖法然の生誕地に創建された寺院。浄土宗知恩院派特別寺院。建久4年(1193 )に法力房蓮生(熊谷直実)が、法然上人の旧宅を寺院としたのが始まりとされています。

 誕生寺御影堂に原田三河守像が安置されています。その説明文は、天正年間当地方の守護職(法然上人母方の後継者)にあった三河守は天正六年念仏を忌む宇喜多直家ら二百余名が当寺へ攻めよせた時裸馬に乗り加勢に来た人物

また境内にある三河守の墓の前にある説明文は、原田三河守貞佐の墓 原田氏は平安末期から十七代四九八を美作に居城す。十五代稲荷山城主、三河守は勢力回復保持し当寺 寺領百石を寄進 願誉和尚天正六年の羅災の際、裸馬にて馳せつけ助援の他、多大なる貢献者。原田十八代は当寺十三世願誉和尚である。
三河守は天正十四年十二月寂

(注)スレッド2と同じく@忠高―A忠次―B忠仲―❹菅家が興方を初代としたが為に@〜Bのカウントがされない故にズレが生じています。正しくは原田三河守貞佐は、十八代でです。

[11]中村さんからのコメント(2018年05月21日 10時50分48秒 ) パスワード

  贈正五位原田佐秀卿旌忠碑の事

戦意高揚で人の心操る宣伝(プロパガンダ)について付け加えます。
天皇は唯一崇高、その天皇と戦い勝利した足利尊氏は明治以降極悪非道な人物。許されざる者でした。天皇(後醍醐帝)に味方し原田左秀が討死にしたことで、贈位と、昭和七年久米郡加美町越尾に建立されたその碑文は、

贈正五位原田佐秀卿旌忠碑

題額 
陸軍大臣正三位勲一等功四級荒木貞夫閣下
美作国住人菅家ノ一党原田彦三郎佐秀ハ贈正一位大政大臣菅原道真公第十五世の孫ナリ其祖忠門久米郡原田ナル稲荷山二城キズキテ孫佐秀二至ルマデ三世此二居り武名アリ元弘三年閏二月二十八日後醍醐天皇天皇伯耆二幸シ土豪名和長年ニ憑り給フヤ長年天皇ヲ奉シテ船上山ニ籠リ激ヲ近国ノ諸豪ニ傳フ會々左秀ノ宗族有元佐光同國大山寺ニ詣テテ其ノ地二在り之ヲ聴キテ急遽國ニ帰り之ヲ兄佐弘ニ諗ク佐弘・・・
・・・・以下略・・・
うその情報の代名詞“大本営発表”そのものです。すべてを正当化するために「梅花余香」なる書物が(誕生寺S10年)から出版され、(梅花余香とは感心する題名です)文中原田佐秀は原田日向守忠門の子となっているそうです。

歴史家と称し、訪ねて来られた国の求めに応じて、原田系図を差し出していたら、原田氏や前田氏が美作菅家の支流とされていた事でしょう。
[12]中村さんからのコメント(2018年05月28日 14時00分56秒 ) パスワード

 Webに「前田利家の梅鉢家紋が意味するものとは」で、早速アクセスしましたが返事はありませんでした。内容は、

「武家の名門と言われた美作管氏の末裔だと前田家は自称します。
前田家が美作菅氏の分家など繋がりがあると示す資料はありませんので、
前田家が美作菅家の名門ぶりにあやかって末裔を自称したようです。
  ・・・と言うものです。

名門ぶりにあやかって末裔を自称したようです。と書かれていますが、これは真逆で原田・前田氏の名門ぶりに美作菅家の始祖美穂満佐の五男として捏造したのは既に述べた通り。

※天正二年三月十三日宇喜多直家起請文(「原田文書」『大日本資料』十編之二十一)この資料は、宇喜多直家と浦上宗景の決定的な決裂を示す根拠資料である。この事実を直家が原田氏に伝えているところをみると、原田氏は有力な見方になりうると、直家は判断したと考えられる。
            戦国期美作国における中小領主の特質(渡邊大門)
この時の石高は原田氏が3,000石。原田二十代忠佐の妻は宇喜多氏家老左京の娘。
    戦国歴史物語「稲荷山城主・原田氏の盛衰」 編集:直原 宣章参照

     同じく宇喜多に仕えていた菅家一族の石高等

慶長5年時(宇喜多家のお家騒動直前か)の宇喜田家分限帳が掲載されており、その中で将格にあるのは次の通り

 戸川肥後守25、600石、新免伊賀守3、600石、新免勝蔵1、302石、岡豊前守23、333石、長船吉兵衛24、084石、明石掃部守33、110石、浮田左京亮24、079石、花房志摩守14、860石、浮田主馬守4、360石、浮田官兵衛門4、360石、穴甘太郎兵衛1、200石、楢村監物3、000石、明石久兵衛2、000石、浮田河内守4、500石の以上14名で美作菅家と見られる姓名の組頭上位者は浮田河内守傘下の芦田作内800石が最高で福本氏、福光氏、鷹取氏、江見氏などは150石以下の30石取りが殆どです。いかに秀家が財政に窮していたかがわかります。
この中に組頭として有元氏の名はないので宇喜田家に仕官していたとしても下級であったと判ります。
                             Webより転載
近く。前田氏とコンタクトを取り共同研究が出来ればと思います。

[13]中村さんからのコメント(2018年06月06日 21時40分35秒 ) パスワード

このスレッドの内情を知っている友人が、歴史上の事実を書いても同調する人はいないと言うのです。そういえば、このスレッドを検索すると・・・

美作菅氏殿教えて下さい。 -日子の島
2018年3月3日-「元禄年間(1684年頃)に津山藩森忠政(信長のそば小姓森蘭丸の弟)によって
美作の古事を書き上げ、提出の要請を機に、京都で公家として続く(高辻、五条、唐橋)の元を訪ねて系図の照合と美作菅家一族の系図が間違いない事を確認している。この時、一族14人にカンパを働き、銀200目と言う多額の土産を持参している。Web有元氏参照 当時とすれば100年も過ぎればもう不明です。ならば偽造しかないのです。この時書かれた美作菅家七家の系図がこれです。
 ※「「国会図書館アーカイブス」(新訂...

また 美作菅氏殿教えて下さい。 -日子の島

2018年3月3日-美作菅氏の系図について専門家は・・・
※「菅原氏系図」道真の末裔美穂満佐の子忠門が、美作国久米郡原田郷(岡山県美咲町原田)を領して原田氏呼称 はいささか信憑性に乏しい。
        「日本家系・系図大辞典」奥野敬之著(株)東京出版 P824
※「菅原氏から出た菅家党の諸系図を照合してみると、異説が多く混淆して収拾できない。「姓氏家系大辞典」に載せる「有元系図」が美穂満佐の子に、「有元・広戸・福光・植月・原田・鷹取・江見」これが菅家七流の祖としている説を根本的に覆している。各人の実名が、広戸豊前守佐友・鷹取長門守佐利以外は全く逸脱しており。そのまま信じられないのである」

もう一件 Web Communication Board-平家物語を熱く語る!!美作菅氏殿
2018年2月8日・前田氏 ―Wikipedia に「利家の系統が菅原姓を称するのは、系図上その出自が美作菅氏の支流原田氏だからである」とありますがこの根拠は? ご存知の方も教えて下さい。
以上のような案内が出ましたが、すぐに削除されて、次の案内文になりました。

美作官氏殿 教えて下さい。 - 日子の島

www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101624_9.html - キャッシュ
2018年3月3日 - 美作菅氏殿教えて下さい。で検索したら以下の回答でした。 • 質問者によって質問が取り消された。 • 回答者によって回答が取り消された。 • Yahoo! JAPANによって質問が削除された。 o 個人情報を掲載した投稿 o マルチポスト、連続投稿

Yahoo! JAPANの全文を再掲

 美作菅氏殿教えて下さい。で検索したら以下の回答でした。

• 質問者によって質問が取り消された。
• 回答者によって回答が取り消された。
• Yahoo! JAPANによって質問が削除された。
o 個人情報を掲載した投稿
o マルチポスト、連続投稿
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同業者への忖度?本当の事は都合が悪い人、多いいのかな-----

   
[14]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月07日 07時04分48秒 ) パスワード

中村様 初めまして
こちらのスレッドを利用させて頂いています
「平川家について」の宮原と申します。

突然、横から御邪魔した事をお許し下さい。

私は美作国について、以前から大変興味を抱いていました。
私事ですが、宮原の先祖「橘公業」と、鎌倉幕府御家人の美作朝親との
関係から「美作国」を勉強する必要があると考えていました。
実は最近、先祖の調査の中で、高祖母の系と美作国が関係している事に
気が付き、少しずつですが、美作国について勉強を始めた所であります。

私は、美作国から遠く離れた場所に住んでいますので
主な頼りはネットでの調査になってしまうのですが
他サイト様には、詳しい記述が少なく
美作国について、勉強をするにあたって
様々な角度からのご検証をされていらっしゃる中村様の御調査を
しっかりと熟読させて頂こう!とそう考えています。

横から突然、お声掛けをさせて頂いて
申し訳ございませんでした。

最後に「本当の事は都合が悪い」
確かに、歴史って、その積み重ねで、解らなくなってしまった事が
多数あるのだと、私も感じていました。

おじゃま致しました。
球磨の地より 宮原
[15]中村さんからのコメント(2018年06月17日 13時17分09秒 ) パスワード

宮原さま
返事が遅くなりました。申し訳ありません。
宮原様のご先祖「橘公業」と、鎌倉幕府御家人の美作朝親との関係から「美作国」を勉強されるとの事ですが、予め白状しておきますが、お役に立てるかどうか?・・・と申しますと、私も現在は東海地方に住んでいると言う次第です。
「平川家について」は拝続させて頂いています。自家に関する事ゆえの詳しい記述にはいつも感心しています。お役に立つか否かは別として、これを機に宜しく御教示ください。

[16]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月17日 15時34分55秒 ) パスワード

中村様
突然、横から御邪魔致しまして申し訳ございませんでした。
お返事頂き、ありがとうございます。

現在、東海地方にお住まいとの事ですが
美作国についての様々な文献、古文書、資料等からの御調査
敬服致しておりました。
実は、私、中村様の前スレッド「美作菅家の支流にあらず」から拝読させて頂いていました。
中村様の御調査を拝読して、国立国会図書館デジタルコレクションで「作陽誌」が
閲覧出来る事も勉強させて頂きました。


私の調査をご覧下さって頂き、ありがとうございます。

私の場合は、突然ひらめいた事から調査を始めたり、それまでの文脈からは
全く異なる事を書いたりと
全く、お恥ずかしい限りです。
ただ、そのようにして、調べて来た事が、ようやく、最近になって
少しずつですが、意味を成してきたのでは?と感じています。
ここまで、来るのに何年もかかりました。

家の場合は「本当の事は都合が悪い」まさしく、おっしゃる通りだと
痛感しております。

高祖母の実家「久保本家」のお話をさせて頂くと、
実は、中村様の御調査を拝読させて頂いていたお陰で、すぐにピンと来る事がありました。
昭和15年発行の球磨郡誌に記載の旧宮原村鎮座の神社の中に
麓久保「久保天神社」とあったのですが、この麓久保「久保天神社」こそが
高祖母の実家の敷地内に御鎮座の神社様でした。
麓久保「久保天神社」は後に岡原霧島神社に合祀となり、神社跡地には久保本家がお堂を建てていました。
太田亮博士の姓氏家系大辞典に記載の美作の久保本氏の記述を読んだ時に
中村様の御調査がすぐに頭に浮かび、高祖母の先祖は「そういう地域」に住んでいたのだな・・とピンと来たのであります。
家の場合は、久保本家が一体どう言う出自の家であったのかは、未だ全く解りませんが
中村様の御調査を拝読させて頂く事は、私にとって、美作国を理解する上でとても勉強になります。
自分の事ばかり、書きまして申し訳ございませんでした。

私こそ、これを機によろしくお願い申し上げます。
御調査、今後もしっかりと拝読して勉強させて頂きます。

宮原
[17]右手うてさんからのコメント(2018年09月17日 18時46分00秒 ) パスワード

中村さま
美作菅家の子孫に近いかと伝えられている右手というものです。家紋も梅なのですが、以前、夢で先祖からの伝言で、平家の功績を世に知らせてほしいと伝えられる夢を見ました。これから少しずつ関係性を調べたいと右手
[18]kuranukiさんからのコメント(2018年11月19日 17時26分36秒 ) パスワード

私は山梨県の者です。神社の棟札に長享三年(1489年)に旦那平忠行と書いてあります。調べているのですが、もしかして美作国15代原田忠行ではないかと思うようになりました。古文書によると家臣と落ちのびてきてこの地で亡くなった書いてあります。そして自分が死んだら熊野権現を代々祀れと言い残しました。ですからたいへん篤く熊野権現を信仰していた人物だと考えられます。家系図では1486年に亡くなったと書いてありますが、甲斐に落ちのびてきたのではないでしょうか。年代としてはぴったり合います。しかし、岡山県からわざわざ山梨県まで来ますかね。詳しい方がおりましたら教えて下さい。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2018年11月20日 14時52分21秒 ) パスワード

kuranukiさん

全く詳しくないし全く分かりません。
山梨県教育委員会に問い合わせるとか山梨県立図書館に行くとかで郷土史をたくさんお読みになりますように。


でもいろいろなキイワードには反応します:


>神社の棟札に長享三年(1489年)に旦那平忠行

時代が全く合わないけれど  平家の平忠度の息子が平忠行


>美作国  原田忠行

この人物のことは岡山に問い合わせるのが良いでしょう

美作というと  平家がらみで
原田氏も平家がらみ
そして平家がらみの人は  平姓  も使っていた


さらに後の時代の南朝方?も絡む???



>熊野権現

まさに平忠度がらみ


>岡山県からわざわざ山梨県まで来ますかね

南朝がらみだったら有り得るかも。

そして長享三年当時は後土御門天皇と足利義尚=足利義政と日野富子=の時代で
将軍職をめぐって日本が混乱になっていく時代ですから
いろいろな戦さで山梨まで落ちて行った?


是非是非岡山と山梨の歴史をたくさんお読みください。
そして源平時代 〜 南北朝時代 〜 応仁の乱時代 をお読みください。
平家・原田家などについてもお調べになってください。


この山梨の原田氏は後に三河の原田氏と関係あるのかしら?と空想が飛びます。
久し振りに歴史のロマンを味わいました。
[20]中村さんからのコメント(2018年12月24日 13時48分07秒 ) パスワード
URL=http://.

ミヤハラ様
ご返事大変遅くなりました。「美作菅家の支流にあらず」から注目して頂き有り
難うございます。

国会図書館の閲覧について、感謝頂きうれしく思います。いつでも国会図書館の蔵書が利用できれば、

ミヤハラ様の今後の研究の大きな味方になると思います。今後とも宜しくお願い致します。

右手様

始めまして、右手様は美作菅家のご子孫に近いとのことですが、原田氏は桓武平氏で菅家でも菅家の支流でもありません。

美作菅家に問い合わされては如何でしようか。納得のいくご返事がいただけるのを祈ります。 では失礼します。
[21]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年12月25日 23時36分00秒 ) パスワード

中村様 お久しぶりです。
私は今、ブログの方で『本当の事は都合が悪い』事と健闘中であります。

以前から気になる事がありまして、もし、ご参考になればと思い書かせて頂きます。
私の住む集落内に「前田」と言う地区があるのですが、この地区にお住まいの方は
代々「土屋家」の方です。(江戸時代の古地図にも家が描かれています)

『前田』地区に千葉氏と同族の「土屋家」でございます・・・
中村様の御調査を拝読していて、何か「同じ流れ」を感じました。
(直感なのですが・・)
[22]中村さんからのコメント(2019年02月26日 20時31分28秒 ) パスワード

            美作菅家有元氏の考察

※美作菅家が自家の系図を装飾せんがために、平姓原田氏の祖先の名や、官位をパクって、情報を錯綜(さくそう)させ、多くの歴史家を欺(あざむ)いた。その罪は国賊に値するとは友人の言葉です。

このスレッドを菅家の皆さんが、大いなる関心を以ておられるのは、以下の投稿で判明します。

• 質問者によって質問が取り消された。
• 回答者によって回答が取り消された。
• Yahoo! JAPANによって質問が削除された。
o 個人情報を掲載した投稿
o マルチポスト、連続投稿
o 質問趣旨や文意が不明な投稿・回答へのコメント
o 不特定多数に対する呼びかけのような投稿
o アダルトカテゴリ以外へのアダルトな内容を含む投稿
• 質問の掲載期間が過ぎ、質問が自動的に取り消された。

「美作太平記」皆木保実著のご子孫で、有名ホテル・新潟・岡山社長を歴任され、現在は貫徹の教えを信念に「美作郷土史家」として多数の著書も書かれています。ぜひご教示頂きたいものです。

美作菅家の筆頭有元氏とは何者?

美作菅家の筆頭・有本氏の系図が偽系図であることは既に述べました。藩の要請で有元氏が提出された系図は、「美穂満佐の *五男 忠門 原田日向守 原田郷稲荷山城主」とされています。

             美作菅家の系図の攪乱

❶五男 忠門 原田日向守 原田郷稲荷山城主」について、信憑性・整合性のなさが、歴史家から指摘されると、
❷「五男の忠門の時。菅原に改姓」ときた、さらに、
❸利家の系統が菅原姓を称するのは、系図上その出自が美作菅氏の支流原田氏だからであると来た!
有元氏の本姓は?

※出自を研究するに、系図の現物で検証する!のが、筋なので、原田系図・有元氏系図を対比して、偽系図と断定しました。では有元氏の本姓は大江氏。 

※ノーベル賞本庶佑氏「教科書に書いてあることをすべて信じてはいけない。疑うことが大切。」さて、「姓氏家系大辞典」は菅家一族美作の大族にして菅原道真の後胤と証す。書かれていますが、いかなる大家も美作菅家のゴミの史料に騙されました。

          有元氏は菅原氏支流の大江氏

菅原道真の三代前に菅原古人、その弟の真仲が延暦九年に大枝(大江)姓を賜った。子孫の大江匡房の三男に大江有元(文章博士・従四位下・式部少)がいる。その子孫が有元を名乗った。と思われます。大江氏は菅原道真の子孫ではなく、菅原氏の支流なのです。

大江氏の子孫(有元氏)は名家ですが、系図を捏造した時から、武家の品格を捨てたのです。有元氏が藩の要請で古事を提出した時点で、80年もまえに、帰農した原田氏が古事を書き、藩に提出する事は100%無いとして捏造したのです。           「群書類従」 第四号 大江氏― 216P―参照

※大江匡房の子孫に、頼朝の死後北条氏と共に幕政を固めた大江広元、後の毛利氏も子孫です。大江匡房が美作乃守であつたその縁で、有元氏も美作に行き着いた?と考えられる。

※大江有元の子孫が有元の名を初代とした。こんな例として、平家全盛時代に、「平家にあらずんば人にあらず」を遺した清盛の義弟平時忠が能登に流された、時忠の子時国の子孫が、大江有元と同じように、時国の名を初代とした例がある。
       書き始めると長くなるので今日はこのあたりで、・・・・




[25]中村さんからのコメント(2019年05月18日 17時43分35秒 ) パスワード

“まるこ”さんから次の投稿が10年前にありました
Web Communication Board-平家物語を熱く語る!!
「桓武平氏?原田三河守?と母方のことが知りたい」
母から『うちは桓武平氏から続いている家だから』と聞かされて育ちました。色々調べて、母方の家紋が、亀甲に梅鉢・五七の桐であることや、原田三河守に縁があるらしいことまで分かりました。
母方は、岡山県久米郡美咲町原田の池上です。私は見た事がないのですが、家系図に原田三河守と言う人物がいて、誕生寺に石碑があると母から聞きました。
原田三河守家老に池上姓を見付けたのですが、家老職の池上家の先祖になりえるのでしょうか?
その家系が母には自慢らしいのですが、私には良く解らないので、どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら教えていただけないでしょうか?

※このスレッドには多く方のコメントとがありましたので。少しご紹介致します。

[21]シュウさんからのコメント(2009年03月09日03時12分58秒)
教えて下
岡山神社庁の諏訪神社のページに
城主原田三河守貞佐の祖先が、甲斐国磯山城に居住の時に信仰した。信濃の諏訪明神の分霊を奉祀して諏訪八幡宮と称して崇敬した。と書いてあります。
ここで質問になります。
・原田三河守貞佐の祖先というのは誰ですか。
・なぜ甲斐国磯山城に居住していたのですか。
・甲斐国磯山城とはどこにあったのすか。
よろしくおねがいします。
[29] 兵庫の池上さん からのコメント(2009年08月11日 00時38分42秒 )
まるこさんはじめまして。 私は、池上槌五郎の曾孫の池上です。 
遠い親戚になるんですかね、誕生寺の池上静五郎は槌五郎の兄で、
うちの墓には、静五郎さんが作った、池上家の歴史が彫られた石碑がありますよ!そこには、平忠常から池上になるまでの話があるのですが、ボロボロになってちゃんと読めないのが、残念ですけどね。
[31] 池上さん からのコメント(2010年11月12日 00時42分48秒 )
池上さんおじゃまします
久米郡の池上は、三つ別々とお聞きしてますが新城とは係わりはないのですか? 一応新城系であり家はどこから来てその地で根をはって田畑耕したのか?分かりません。
[40]原田さん からのコメント(2011年02月11日 08時12分51秒 )
磯山様
縁はありませんが
>原田三河守貞佐の縁戚に磯山氏があり、その磯山氏は諏訪神社の社職を務める名跡です。平頼邦が甲斐国磯山城に住し磯山氏を称す等の文章が岡山神社庁ホームページや美作古城史に出てきます。
久米郡美咲町原田918 にある諏訪神社には、城主原田三河守貞佐の祖先が、甲斐国磯山城に居住の時に信仰した。信濃の諏訪明神の分霊を奉祀して諏訪八幡宮と称して崇敬した。とありました。
つまり平頼邦が甲斐の磯山城にいて磯山氏となり、原田三河守貞佐の先祖も甲斐国磯山城にいた。甲斐の諏訪信仰は当然のものとして、疑問は平頼邦は何者か、なぜ磯山氏と原田氏は甲斐にいたのか。
名字ではなく平姓としていて美作以前の話のようですので、平安時代でしょうか。甲斐国にいた、常陸(茨城県)に磯山姓が多いということから連想して、甲斐の武田氏自体が
発祥を義光の子である源義清(武田冠者)が常陸国那珂郡武田郷(現・茨城県ひたちなか市武田、旧勝田市)を本貫として武田姓を名乗ったとする説が提唱され定説となる。1130年に義清の嫡男清光の乱暴が原因で父子は常陸を追放され、甲斐国へ配流されたという。
ということで、平安、鎌倉時代ごろに平頼邦なる常陸国磯山氏も武田氏と同じように甲斐に移って常陸にちなむ磯山姓を使ったのだろうか。
常陸原田氏は『新編常陸国誌』に「原田・真髪部氏なり」とあるようで、常陸国真壁郡は古代物部一族の後裔があり、真壁郡は平安時代には桓武平氏常陸大掾一族真壁氏が栄えた。原田氏は物部一族真髪部氏(神道系)だが、そこで栄えて千葉氏とも関係がある常陸平氏大掾一族に合流?
一方磯山氏は平性ということから、常陸国だとすると平氏常陸大掾氏族の可能性もある。仮説にあった塙氏も桓武平氏常陸大掾氏族と云われるという情報もあるようで、尾張群書系図部集の塙氏は平氏にして先祖塙二郎盛幹(幹=朝-月+夸)より、代々常陸の国塙村の城に住すとある。「幹」の字は常陸国大掾・多気氏が維幹-為幹-繁幹-致幹と「幹」を使うので平姓大掾氏族のようにも思えます。
[42]原田さん からのコメント(2011年02月11日 09時39分14秒 )
間違えましたので削除しました
千葉一族であるという原田忠高であれば源義家に従い奥州征伐は千葉一族であれば参加も自然か。甲斐・諏訪神社関係の磯山氏とどうやって絡んでくるのだろうか。平安から鎌倉にかけての動きがなかなか合致しません。甲斐には磯山氏がいたというだけで、原田三河守先祖がいたという伝承は正しいのだろうか。
[49]磯山さん からのコメント(2011年02月20日 13時32分39秒 )
日本の苗字七千流様へ
なるほどねえ、それで三浦氏出身の秀家母のおふく様は湯治の陣所として原田監物の原田故宮を選んだのですね。貞佐の原田氏再興に直家が手を貸すのも納得です。
久米郡はどうか知りませんが、勝田郡では森氏や有元氏の評判は非常に悪いのですよ。何処かのホームページに有元満佐は観光資源にならない為、奈義町などの町史に記述が少ないと書いてあったのですが実情は上記理由なのです。磯山氏も森氏にかなり優遇されていた様なので申し上げ難いのですが。歴史は勝ったものが書くが本道なので眉唾と考えているのです。
[70]中村さん からのコメント(2011年03月11日 00時21分20秒 )

日本の苗字七千傑様

横レスで失礼します。

>千葉氏も源平騒乱以降は平姓を避けて大蔵姓原田を名乗ったのでしょう。

@ 大蔵姓の原田氏と平姓の原田氏とは全く出自が違います。
A 千葉氏は平忠常の子常将の子孫、平姓原田氏は常将の異母弟忠高です。
  「日本の苗字七千傑」千葉氏系図参照

>源平争乱後は平姓を避けて、、、、とのお言葉ですが、あたかも平清盛に加勢したかに思われます、千葉氏も原田氏も頼朝に加勢しています。大蔵系の原田氏は平清盛方です。源氏に加勢したいきさつは平忠常の乱の、戦後処理に有ります。本来なら一族も罪に問われるべきを子の常将等は許され、この寛大な恩顧に後々報いています。余談になりますが、平忠常を説得の為に源頼信に同行した法師(男の子)は原田氏初代忠高です。忠高は忠常が藤原道長の子で内大臣の藤原教道と主従関係があり、都に出仕していた時に出来た子供です。源頼信に同行した法師のことは「石母田正著作集」に有ります。尚、忠高(妻は大江匡房の娘)は「前九年合戦」では源(八幡太郎)義家に加わって戦死しています。
[71]日本の苗字七千傑さん からのコメント(2011年03月11日 22時37分27秒 )
>千葉氏も源平騒乱以降は平姓を避けて大蔵姓原田を名乗ったのでしょう。
わざわざ千葉忠高の子孫が北部九州の名族の原田を名乗ったのには理由があるのですよ。
1.原田種直が平家方なのに、後に頼朝が赦免して厚遇したこと。
2.鎌倉時代の九州守護職は、鎌倉幕府の下り衆(主に源氏と藤姓)で占められる。
3.また平安末期は招婿婚から嫁入婚への過渡期であり、あくまで推測だが忠高が九州在地時に招婿婚で原田を名乗った可能性が高い。(良文流・良茂流・良兼流の尊卑分脈系譜が錯綜しているのは、後世、男系系譜に再編したのが原因)
諸般の情勢から名族の原田(大蔵姓)を名乗ったまで。子孫は美作に移り忠門が養子に入り菅原姓に改姓。
まあ、言ってみれば実態は下野の藤姓足利と源姓足利の関係に近いのかも知れない。
もともと良文流は源氏方(千葉氏ほか)が多く、後に渋谷・畠山・江戸・河越も源氏方に寝返っているからね。
その功績で渋谷氏一族は、相模から薩摩に下向している。
[72]中村さん からのコメント(2011年03月13日 23時16分43秒 )
>わざわざ千葉忠高の子孫が北部名族の原田を名乗ったには理由があるのですよ
@ 原田忠高(?〜1059)の人、 原田種直(生没年不詳)は平治 1159〜  治承 1181年ごろ活躍した?ので忠高とは時代がのでは?原田種直と同時代に生きたのは五代 原田忠光(?〜1178)です。
A 原田氏は平忠常の子忠高が肥前原田に住し、原田氏を称した。保安四年忠高が曾孫
興方が美作に流され、翌年ゆるされて狐山に築城。以来元和七年に死去した忠佐まで、十七代四七〇年間美作に勢威を振るった。「岡山の地名」平凡社
また「姓氏家系大辞典」大田 亮著では、上総介平忠常の五男、肥前国高来郡原田に住し、原田次郎忠高と号す。いずれも(作陽誌)
B お言葉のように当時は男性が女性のもとに通う妻問い婚が通例で、生まれた子供は女性のもとで育てられ、所領を含む財産を引き継いだと考えられます。
*当時平氏といっても区別がつかないので原田と号し、あだ名で識別したのだと思います。例えば伊勢平氏、千葉氏、坂東平氏等々。
  大蔵系の原田氏との関わりはないのでは?と考えます。
[73]磯山さん からのコメント(2011年03月14日 07時39分17秒 )
日本の名字七千傑様へ
スレ71で原田氏は忠門が養子に入って菅原姓に改姓と述べられていますが、
その様な文書があるのでしょうか?そもそも有元氏系図は東作誌に掲載されて
おり、その編纂の経緯は松平氏の正式な地誌ではないと聞いているのですが。
東作誌の有元氏系図に有元満佐の後、5番目に「原田日向守忠門 稲荷山城
主」と明記されてはいるのですが、作陽誌に「平忠廉 光興 子」とも明記さ
れているのです。久米郡史において忠門=忠廉か?と述べられたのは読みが共
に「ただかど」であるという理由なのです。不勉強ですが貞佐以外で菅原姓を
使った人がいるならば教えて頂きたい。
[74]磯山さん からのコメント(2011年03月14日 08時41分19秒
原田佐秀について
原田佐秀の子孫が前田利家であることについて、東作誌の有元氏系図にはその
様な傍流は掲載されていない。可能性として、佐弘、佐光、佐吉3兄弟ー佐顕
ー佐久ー佐国と某(美濃へ)の某ぐらいか?久米郡史では佐秀は原田忠廉の孫
あるいは傍流の人か?となっている。仮に菅原姓原田氏が存在するとして、そ
の後裔らしき人物は天正7年(1579年)後藤氏の三星城落城の際に籠城方
として出ている「原田與五惣」位かと思う。この人物平姓原田氏の縁者で浦上
方に残った人だと思うのだが。詳細教えてください。
[76]磯山さん からのコメント(2011年03月16日 14時40分55秒 )
立石定夫著「戦国宇喜田一族」叶V人物往来社(昭和63年発行)によると
慶長5年時(宇喜多家のお家騒動直前か)の宇喜田家分限帳が掲載されており、その中で将格にあるのは次の通り
 戸川肥後守25、600石、新免伊賀守3、600石、新免勝蔵1、302石、岡豊前守23、333石、長船吉兵衛24、084石、明石掃部守33、110石、浮田左京亮24、079石、花房志摩守14、860石、浮田主馬守4、360石、浮田官兵衛門4、360石、穴甘太郎兵衛1、200石、楢村監物3、000石、明石久兵衛2、000石、浮田河内守4、500石の以上14名で美作菅家と見られる姓名の組頭上位者は浮田河内守傘下の芦田作内800石が最高で福本氏、福光氏、鷹取氏、江見氏などは150石以下の30石取りが殆どです。いかに秀家が財政に窮していたかがわかります。
 この中に組頭として有元氏の名はないので宇喜田家に仕官していたとしても下級であったと判ります。ちなみに、有元氏と共に森氏の美作入領に反対し切腹した難波氏の組頭最上位者は浮田河内守傘下の難波平治の902石です。
 明石全登の33、110石がいかに高級なことか!中村次郎兵衛や長船紀伊守の政治手腕を評価していたと言ってもこの程度です。
 原田氏の改易理由が経済上の理由以外に中村次郎兵衛の企みと考えたくなります。
(注)宇喜多氏に仕えていた原田氏の当時の石高は3、600石(中村注記)
[84]磯山さん からのコメント(2011年03月30日 14時37分16秒 )
大蔵姓と菅原姓についての一考察
 八色の姓においての朝臣は元々皇別の氏に賜る姓で、その意味では平姓は真人から朝臣に下った姓である。一方、大蔵姓は忌寸から宿禰を経て朝臣へ上った姓、菅原姓も元々野見宿禰から土師を経て菅原と宿禰から朝臣へ上った姓と云う点にもっと留意すべきである。この意味合いから云って4代忠廉(1198〜1222の当主)以前に平姓原田氏が大蔵姓や菅原姓を名乗る必然性が感じられない。次に有元満佐の官職であるが玄バの頭と言う治部省に属する外国使節の接待饗応を掌る役所の長官であるから武家ではなく官吏である。菅家七流なる武士団は太平記(1370頃)から出た過ぎた表現と考える訳です。
 大蔵姓原田氏と平姓原田氏が関係あったとするならば、むしろ平姓原田氏から原田の氏名を賜ったと考えるべきと思う。
※大蔵姓原田氏と平姓原田氏は全く関係はありませんが、以下のスレッドをご紹介します。
投稿日:2004年02月03日 05時07分58秒  
お名前:Yoshida-K
大蔵系原田氏家紋:平系+菅系原田氏+塙氏
[16]ときおさんからのコメント(2004年02月07日 02時02分11秒 )
Yoshida-K様
小林雅成様

 家紋については分かりませんが、小林雅成様の言われていました、岡山の原田氏はれっきとした「平氏」として有名です。

 子孫には菅家(有元氏)と縁組みから菅家七党の原田氏として後醍醐天皇の船上山の直後元弘3年4月京都の「四条猪熊の戦い」で壮絶な戦死をしています。大正年間に贈位の恩典がなされています。

知られている系図では、「桓武天皇の七代胤上総介平忠常五男の忠高・忠次・忠仲・興方と続き「興方」が作州葛虫の庄に謫せられ狐山に築城したのが始まりである。」と言われています。これが久米郡原田に在る稲荷山城址です。
文禄年中に平(原田)弥右衛門衛門忠佐の退城の時まで17代の470年に亘る存在です。この様なことですので、子孫の方や原田氏に属した関係諸氏が多く居られます。

岡山は児島高徳などもしかりでして南朝・・・平熱でしょうか・・・ギャンブラー様。    [17]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月07日 02時22分55秒 )小林さま
引越し、大変ですが頑張ってください。
ときおさま
>岡山は児島高徳などもしかりでして南朝・・・平熱でしょうか・・・ギャンブラー様。
岡山は南朝の勢力が莫大だったように感じます。
でも尾張でも南朝方の根拠地「津島神社」の目と鼻の先に「妙興寺だったかしら北朝方の根拠地」がありました。
これに気がついてから「目と鼻の距離で敵と対抗してたんだなあ」と思いました。(適切な表現が分からないです)

まるでヤクザのシマ争いみたいだったというのが現状だったのかしら?と。
で、時おり、チャンチャンバラバラやってたのかしら?と。
こんな風にイメージが変わりました。

>桓武天皇の七代胤上総介平忠常五男の忠高・忠次・忠仲・興方と続き
>「興方」が作州葛虫の庄に謫せられ狐山に築城したのが始まりである。」と言われています。
>これが久米郡原田に在る稲荷山城址です。
バリバリの平氏ですね。
そうしますと大蔵氏系とは異なるようですね。

でも原田種直のママは頼盛の娘ですから半分は平家。
この関係が分かるといいですね。

※原田種直?平姓原田氏とは何ら関係なし!(注記)中村
[18]ときおさんからのコメント(2004年02月07日 03時46分31秒 )
ギャンブラー様
上記の平忠常五男の「忠高」ですが、
 
 肥前原田因号原田次郎
 天喜五年春叙五位下
 任肥後守嘗助源義家征伐安信(部?)貞任 
 康平二年出羽国杉谷戦中流矢損命

「忠次」は 忠高長子康和元年卒

「忠仲」は 忠次二男嘉承二年与平正盛討対馬守源義親
 有功同年4月卒

「興方」 忠次三男嘉承二年任左衛門尉
 保安四年二月藤原仲時殺高科師春
 仲時被収繋座連及興方遂配作州
 保安五年遇赦然没収旧領賜作州葛虫庄

(作陽誌からの転載の記述と同じ物の様です。)

*以上の様に記述が有ります。大蔵氏との関わりはどうなんでしょうか。
※―注記―関わりはありません。中村
[20]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月07日 08時27分59秒 )岡山の原田氏はバリバリの桓武平氏ですね。
平忠常は歴史に名を残した千葉の人ですね。

でも岡山の原田氏は千葉から肥前に下向した一族なんですねえ。
その後源義家に従い奥州征伐。その後平正盛に従い義親追討。

ここで伊勢の平家と親しくなって後には南朝方。
分かり易いです。

それに塙氏のように「原田備中守」の名乗りを織田信長に頂いたように原田備中守は名門なんですね。岡山の原田氏はバリバリの桓武平氏ですね。

平忠常は歴史に名を残した千葉の人ですね。

でも岡山の原田氏は千葉から肥前に下向した一族なんですねえ。
その後源義家に従い奥州征伐。その後平正盛に従い義親追討。

ここで伊勢の平家と親しくなって後には南朝方。分かり易いです。

それに塙氏のように「原田備中守」の名乗りを織田信長に頂いたように原田備中守は名門なんですね。素性がハッキリしている。

でも九州にいたから大蔵姓原田氏とも関係があったでしょうね。
ちょっと調べに行ってきます

[76]ミッサンさん からのコメント(2005年11月15日 20時05分32秒 )
小林雅成様

早速返事有難う御座いました。このWeb の開設から拝見してました。
今後とも宜しくご教授ください。

以前静岡人さんの原田氏の家紋ついてコメントなさっておりましたが、
原田の家紋は亀甲に梅鉢です。
原田系図の最初に 「家之紋梅鉢〇〇九曜亀甲」とあります。
(〇〇は折枝のようですが、、、)
余談ですが原田の当主33代?神戸で健在です。私はいとこです。
[80]ミッサンさん からのコメント(2005年11月18日 23時02分05秒 )
小林雅成様

 早速のご返事有難う御座いました。
●このWebの開設から、、、ご指摘の通りです。平にご勘弁ください。

 いつもお気に入り”美作菅家”で呼び出しています。
 この範疇の”美作菅家党”Webで先生のお名前があり、このWebもその頃
 からのものと勘違いした次第です。まえのコメントでも、Yosida-Kから
 としたり、失礼の程反省してます。
 この程度の者ですが今後とも切にご指導下さい。
[81]小林雅成さんからのコメント(2005年11月20日 20時52分59秒 )
ミッサン様

怒ってはいませんぞえ(^^;、血圧が高くなることはシナイ主義ですから。
Yosida-K氏のことは、本人おらへんし、ええんとちゃう?
ヘボン式ちゃうだけでしょ。美作菅家好きゆうたら、ご親族とか?
[82]ミッサンさん からのコメント(2005年11月21日 21時07分20秒 )
小林雅成様

”平家物語を熱く語る”熱くなったのでしょうか、己の性のつたなさを泣き」ます。ご推察の通り母の実家は原田です。話が前後しましたが。「新訂 作陽誌」の閲覧場所のご教示有難う御座いました。

子供の頃、亡き母に”すりこみ”された。後遺症の為に困っています。
その(1)、(2)

(1)作陽誌(元禄四年成)のオリジナル原田所有の系図ではないか?
 (手元にコピーあり)かっては門外不出。毛筆の古いものです。

(2)原田の寺に菅家七代の石の墓、隣の観音扉の小さい墓が平家の落ち武者と聞いています。菩提寺は少林寺だと聞いています。
  誕生寺?(過去帳面白いかも)

  近年での記録は太平記にある勤皇の成果としての贈位の恩典(大正十三年
  二月十一日)原田の諏訪神社に収められている。
  昭和九年四月誕生寺境内に南朝作州忠魂碑が建立。(大井西村誌)に当時  の原田関係百数十人の参画者に、叔父や分家の名あり。
  
  (1)、(2)急ぐ必要もないので、現状のままにする。
※平成原田氏に関するスレッドは機会があればご紹介します。

※上記ミッサンは 中村です。

次回は
美作菅氏・有元氏―Webilio辞書 に、加賀の前田氏は美作菅家原田氏の家系を自認し、家紋は菅家の梅鉢紋を使用している。

前田氏―Wikipediaに、利家の系統が菅原姓を称するのは、系図上その出自が美作管氏の支流原田氏だからである。

※是等の疑惑について検証をしたく思います。美作菅家の方が
[26]中村さんからのコメント(2019年09月18日 16時41分01秒 ) パスワード

梅紋・梅鉢紋は何時から使われた?

鎌倉時代北野天満宮が梅紋・梅鉢紋を神紋としたが、これより、300年も前に、梅鉢紋や梅花紋も、星の九曜・六曜などの変形したもので、平氏良文流千葉氏、及、その一族専用の家紋としている。                          日本紋章学参照

梅紋・梅鉢を菅原道真は家紋として使用した確証はない。

◇鎌倉時代(1333年〜)に北野天満宮が道真の「東風吹かば  匂いおこせよ  梅の花  主なしとて  春を忘るな」の愛梅の故事に因みて梅紋を神紋とし、菅家の一門たる高辻・唐橋・及び
天神信仰もつたものがこの梅鉢紋を用いた。 日本紋章学参照

〇祖先を記念せんがため特に定めたる家紋 

※公家の家紋は、或は車の文様より来たり、或いは衣服の文様より転ぜるもの多かるかるべきもの、亦記念的意義に本づきて、家紋を定めたるものなきにあらざるべし。例えば菅原氏即ち菅家の一門たる高辻・唐橋・清岡・桑原の諸家が、いずれも梅鉢紋を用ゐるが如きは、菅原氏の祖先たる道真が、その生前梅を好み給える記念的意義に本ものの如し。官公が生前梅を愛し給ひしことは、その書屋を紅梅殿と名づけたるが如き、又東風吹かばの歌詠のありしが如き、いずれもこれを證することを得べし。されば(*そうであるから)官公の後と稱するものが、その祖先の觀賞せる梅花に象(かたど)りて、これを家紋に定むるに至れるは、記念的意義に本づけることを知るべし。 日本紋章学  29P

梅を天満宮の神紋とせる理由

抑々(よくよく)梅を天満宮の神紋として擇びしは、官公が、平素梅を鑑賞し給ひし事蹟に因めるものにして、是等の事は、彼の紅梅殿の命名、東風吹かばの歌詠等に就きて、容易にこれを知ることを得べし。而して、そのこれを天満宮の神紋として用ゐ始しことの鎌倉時代にありしことは、北野天満宮縁起中、官公の著用し給える衣服、及、輿車等に、
特にこの文様を畫けるを以ってこれを知るべし。      日本紋章学 488P

梅 紋

梅紋は,他の紋章の如く従来流行せる文様より移れるものならんも、これを持ちゐしものは官公の子孫に係るものか、若しくは天満宮を信仰せしものなるより考ふれば、尚美的意義より持ちゐられたるものと云はむよりは、寧ろ記念的若しくは信仰的の意義に本づけるものと云うべし。梅を家紋として用ゐたることは、其始を鮮にせずといへども、その始めてこれを用ゐしは、天満宮の神紋としてこい給いし事蹟に因めるものにして是等の事は、彼の紅梅殿の命名、東風吹かばの歌詠等に尽きて、容易にこれを知ることを得べし               

                    日本紋章学  P484〜5
             梅   紋
〇菅原氏橘氏の家紋が恰も姓の目標たるが如き觀を呈せし理由
橘氏・菅原氏等の如き餘り繁衍せざりし氏族の名字にありては、〜然れども是等は決して橘氏・菅原氏が賜姓當時よりその家紋を用ゐたるものにあらずして、後世に至りてこれを用ゐたるものなるも、橘氏は聖武天皇賜姓の故事に因みて橘門を用ゐ、菅原氏は道真愛梅の故事に因みて梅紋を用ゐしより、かくて橘氏の出自(すいじ)に係る諸氏は大概橘紋を用ゐ、菅原氏の出自に係る諸氏は大概梅紋を用ゐるに至りしものとす。ー後略ー       日本紋章学・沼田頼輔 5P

      梅紋(梅鉢紋)は平氏一門の専属だった。

※「千葉氏の嫡流は月星をかたどって家紋とし、庶流は七曜、九曜などの諸星をもって家紋とした。・・梅鉢紋や梅花紋も、星の九曜・六曜などの変形したものであろう。                     日本紋章学

※平良文の流れから出た秩父氏の諸流は、先祖の良兼・良文等が国香に攻められた
時、北斗七星・妙現菩薩がその前に現れて危難を救ってくれたとの由緒に基づき、みなその移住地に妙見菩薩を勧請して、延命長寿・怨敵退散を祈った。世継ぎの元服式も妙見の祠の前で行い、紋様にも星を用いた。『羽継原合戦記』に、「月に九曜は千葉介、八曜は上総介、九曜星は標葉氏」と見える。この場合、千葉介の嫡流は月星をかたどって家紋とし、庶流は七曜、九曜などの諸星をもって家紋とした。―略―梅鉢紋や梅花紋も、星の九曜、六曜などの変形したものであろう。
「         家 系」豊田 武著 P247

★月星紋、及、七曜・九曜・十曜等の紋章は、平氏良文流千葉氏、及、その一族専用の家紋とす。即ち、嫡流は月星を用ゐ、その一門は六曜・七曜・九曜・八曜・九曜・十曜の諸星を用ゐたり 
                  「日本紋章学」沼田頼輔P297

※九曜紋を用ゐるものは、主として平氏良文流の出なる千葉氏なるを以って、この分布は前の月星紋と、略、同一の経路を辿れり、六星紋は六個の星形より成れる。*形状は九曜七曜の如し。⁂星辰崇拝の妙見信仰よりこれを用ゐたる。梅鉢紋と伝うは、六曜星を混同せりものなりいへ
九曜 歴史 九曜紋は、鎌倉時代既に用いられたることは無論なるも・・・月ニ九曜ㇵ千葉介當時はこれを月星紋と呼びたるが如し。                   日本紋章学  P309〜310

七曜・九曜・十曜等の紋章は、平氏良文流千葉氏、及、その一族専用の家紋とす。

□梅鉢紋や梅花紋も、星の九曜、六曜などの変形したものであろう。平忠常の五男平(號原田)忠高を祖とする原田の家紋は「家之紋梅鉢折枝九曜亀甲」=「亀甲に梅鉢」です。前田氏が梅鉢紋を使用しているのには整合性があります。
「家 系」豊田 武著 等参照

以上の事から、梅鉢紋は菅家よりも300年も前から良文流平氏が使用していたのです。

以下ご参考までに・・・・・・。
日本の苗字七千傑さんからのコメント (2006年06月11日)
前田家は公式的には菅原氏です。厳密には藤原氏利仁流斎藤氏裔で藤原氏とも言えます。菅原氏裔の原田仲光の男仲利が、斎藤氏裔の前田利倫の娘婿となり前田を称したことに拠ります。通字に利の字が多用されていることが物語っています。

※或人曰はく、前田は元は藤氏なるべし。左大臣藤原魚名の末葉、北陸道七國の押領使、
の追捕使齋藤權介爲?が後、六波羅の奉公人齋藤伊豫房玄基が孫、前田孫四郎利世が孫にあ
らずや、(*ないであろうか)玄基が事太平記に見えたりといふ。家に傅へぬ事、外より論
ずべきにあらず。
 この説に據れば、前田氏も堀氏と同じく、その祖先は同じく利仁将軍の後に出で、齋藤氏
の庶流に出でたるものの如し。
 以上説き來れる所を通覽するに、二氏いずれもこの國に居住して堀・前田の如き名字の地を有せるのみならず。殊に前田氏の如きは、齋藤氏と同じく、その通諱に利の字を用ゐるが如きより考ふるも、齋藤氏の庶流に係ることは、これを想像するに難からず。其他、前田氏が菅原氏の出自に係るものにあらざることを旁證すべきは、前田侯爵家所藏に係る利家の生父利春の畫像には、平朝臣と記し、加邦録には徳川家光嘗て和歌をもって、前田光高が、
その姓を菅原氏に改めたることを?

誰が植ゑし種とはなくて賤が屋のおのずからなる梅の花垣

と詠じ、又武蔵野燭談には、大将軍家光の世、彼の寛永諸家系圖傳の撰?ありし時、在る人利長公に前田家の出自を尋ねしに、利家以前は余これを知らず、此の頃林道春をして之を調べしめ居れば軈て(*やがて)これを定めて出すべしと應(*こたえ)ければ、その人大に
赤面せしとなんとあり。前の平朝臣の記名と云ひ、家光の歌詠といひ、今此の利長の答えといひ、是等を思ひ合するときは前田氏改姓の真相眞相は、これを想像するに難からず。
 梅鉢を用いたる関係によりて、菅原氏に改姓せるものは堀・前田二氏のみならず、深尾氏・佐左氏・竹腰氏の如き、亦、いずれも梅鉢紋を用ゐたる関係に依りて、菅原氏に改めたるものの如し。深尾系圖の記する所に據れば據れば、深尾氏は宇田源氏に出で、その祖を眞野太郎貞義と云ふ。貞義の子高義近江深尾

                     日本紋章学 P495

※原田佐秀の子孫は金沢藩主前田利家で父の利昌は平家を名乗っていた。「姓氏家系大辞典」

※徳川家光嘗て和歌をもって、前田光高が、その姓を菅原氏に改めたることを和歌で述べていますが。「源平交代」説から平氏とは言えなかったのです。
前田氏と藤原利仁とは無関係では?と私は考えています。

         〇齋藤氏は天満宮を崇拝す

※夫齊藤氏ハ利仁将軍ノ後胤ニシテ、子細有リテ聖廟(道真の廟)ヲ崇メ奉ル。昔加州富樫・越中井口ノ輩越前斎藤氏の面面、何レモ菅家ノ霊ヲ崇シテ加州敷地ノ天神ヲ、此ノ三氏ノ氏神トス。此故ニ齊藤氏暫モ住セシ所ニハ、此神多ク勧請セズト云事ナシ。加納・岐阜・長良・文珠・關・北方・白樫・堀津・
加賀井・三井・八神、此所所ハ、皆齋藤氏ノ面面住シケル故、彼社ヲ立テ今ニ何レニモ在リ。齊藤家ノ紋ハ、梅鉢ヲ付ケル故、菅原氏ト云フ事誤ナルベシ。−後略―      
                         日本紋章学 495P

※日本人の心情として「判官びいき」があり、当時の絶える事のない戦乱の日々に、悲劇的英雄であった「菅原道真」に偶像を求めたのです。七五三でのお宮参り、近年での受験でのお宮参り、その都度道真は学問の神様!と刷り込まれたのです。・

[27]中村さんからのコメント(2019年09月18日 16時55分23秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2020年07月23日 09時23分37秒
[29]中村光成さんからのコメント(2019年10月26日 17時55分08秒 ) パスワード

前回の関連で、 “ヤフ―知恵袋・前田利家以前の前田家“で検索したら、

kyo********さん                                 2014/9/1521:00:35

前田利家以前の前田家 (尾張国の土豪時代の前田家) の家紋が「梅鉢紋ではなく、六曜星に類似の紋であった」というのは、あまり広く知られていない説 or 支持されていない説なのでしょうか?20年以上も前に購入した本ですが、『あなたのルーツを解き明かす家紋の秘密』 (能坂利雄著、ワニ文庫) という本の中に、・前田氏は美濃の生まれだが、有名な前田利家が「利」の通じを用いていることからも、斉藤庶流と推測されるゆえん・前田氏は梅鉢紋を用いた背景には、多分に政治的意図が含まれていた・北陸で前田氏が勢力を拡大するまで、はっきりと梅鉢紋を使用していない。初代利家のかたびらなどの衣服を見ても、六曜星タイプのデザインで真ん中が小さいだけのものでしかない・ちゃんとした梅鉢紋になるのは、2代利長になってから。利家の晩年にあたる・梅鉢の形になっていったのは菅原氏の子孫を名乗るほうが、都合がよかったから・天神信仰の広まる北陸地方を治めるには、菅原氏の子孫であることをほのめかす方が、統治しやすかったなどとあります。尾張国の土豪出身で、正確にその先祖を突き止めることも難しいほどの家だった前田家が、「どうして菅原氏」を称したのか?」、著名な古代の氏がたくさんある中で、「なぜ菅原氏を選んで、その末流を名乗ったのか?」について、その理由はとても興味深いことであり、また「菅原氏」を称したのが僭称に過ぎないのであれば、「本来はどんな家紋であったのか?」なども意義のある研究の対象になりそうです (なっていても不思議には思いません)

能坂先生が20年も前の時点で、本書ではっきりと、「利家以前の前田家において、同家の家紋は梅鉢紋ではなかった」と否定していることは、歴史研究者の中ではあまり支持されておらず、結果として時代劇・大河ドラマなどにおいても、「あの有名な前田利家 (およびその父、祖父などの世代も含めて) の前田家の家紋といえば、梅鉢紋である」と、当然のこととして描かれているのでしょうか?

ベストアンサーに選ばれた回答

p93********さん                                 2014/9/1522:52:33

能坂利雄という人の本は読んだこともありませんが、家紋の本を書いている人には、いわゆる似非歴史家が多いですね。この方も失礼ですが、そうじやないかと思います。というのは、前田家が美濃の生まれというのは、岐阜県安八郡の郷土史家其氏が、前田という地名が町内にあfることから唱え始めた仮説で、岐阜県内の歴史家でも信じている人はいませんよ。地名以外に何の根拠も無いからです。私も其氏の仮説は読みましたが、郷土史家らしい誇大妄想だなと思いました。ただ余りにも馬鹿らしいかせつなので強烈に覚えています。論証も何もしていないその論文
の記述を、検証もせずに、公然の事実であるかのように自分の著書に書いているのは、能坂利雄という人は似非歴史家だと断ぜざるを得ません。当然、専門の歴史家なら、この人が述べていることは、問題外として処理するでしょうね。

※以上の事で、口をはさむのはおこがましいのですが、ベストアンサーに選ばれた方も、書かれた方も単なる思い込みで、書かれたように思われます。何らかの思い込みがあるとご自分の都合の良い方に仕上げる傾向を感じますが、如何なものでしよう。専門家は私のような素人の話などは問題にしない傾向があります。話は前後しますがこの“平熱”の管理者方には色々と御配慮頂いていると感じ感謝しています。それは話の根拠となる説を引用しながら述べているからか、と考えます。話を戻して。能坂先生の「前田氏の家紋が「梅鉢紋ではなく、六曜星に類似の紋であった」この説は

梅紋(梅鉢紋)は平氏一門の専属だった。
※原田氏初代平(原田)忠高は千葉氏初代常将の弟です。
平忠常―Wikipedia ⇒https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%B8%B8

■「千葉氏の嫡流は月星をかたどって家紋とし、庶流は七曜、九曜などの諸星をもって家紋とした。・・梅鉢紋や梅花紋も、星の九曜・六曜などの変形したものであろう。    日本紋章学

※原田の家紋は『家之紋梅鉢折枝九旺亀甲』家の紋は九曜(千葉氏)から分かれた支流(原田氏)梅鉢を亀甲で囲み『亀甲に梅鉢』とでも申すすのでしょうか。
以上の事から、私は、「あなたのルーツを解き明かす家紋の秘密」熊坂利雄説を支持します。

次回 ※「系図研究の基礎知識」近藤出版社・近藤安太郎著を参考に、今、改めて原田系図の特徴を考察してみますと、⓵〜Bの特徴があります。

@ 原田系図は系図の初源的形態を表した『文章系図』である。
A 母は誰々の娘。
B 歴代の事績が書かれている。

今後どなたかのご参考になると考え「初代・平忠高」から「二十代・平忠左」までの系図を素人の検証ですがこれをたたき台にご意見を賜りたいと思います。

[30]中村光成さんからのコメント(2019年11月12日 17時57分47秒 ) パスワード

 数年前に、従姉が、「原田は旧家と聞くが300年くらい?」身内との、温度差に驚きながら、原田は平氏である事等の話をしたら、早速実家から、系図のコピー・「美作古城史二」・「原田の墓歴」などが送られてきた。系図を判読せんとしましたが、まず贅沢な崩し字で書いてある。しかも今では使わない字がくずしてある。時代特有の言い回し。これにはお手上げの状態で忘れたころに、  判読、読下しのコピーが送られてきました。
 その後、当の従姉が田舎に帰省の折に、先祖の原田三河守の墓参りに法然ゆかりの誕生寺に参拝、ご先祖の墓や本堂に安置されている原田三河守の像の写真、住職より進呈された郷土史家の書かれた『原田氏の盛衰』、別冊太陽「法然」が送られてきた。『原田氏の盛衰』は、以前から原田が帰農したいきさつを知りたいと思っていましたが、この冊子で理解できました。出来ればこの冊子の全文を後にご紹介したいと思います。
 系図を読めるように判読され、価値あるものにして頂き、御尽力いただいた 従姉の叔父様は故人となられ、判読者のお名前を聞けず残念でした。一族の総意として感謝しています。

        家之紋梅鉢折枝九曜亀甲

忠 高      初代 忠( ?〜) 高(1059)
桓武天皇五代後職            桓武天皇ノ五代後、
正五位上上総助平忠常 正五位上ノ官職、上総(カズサノ)助(スケ)平ノ忠常ノ
五男初而原田次郎忠 五男ハ初メテ原田次郎忠
高号天喜五年二月肥 高ト号ス、天喜(10)五年(57)二月肥後(ひご)ノ国
州之原田立而洛ニ上同三 原田ヲ出テ京ニ上リ同三
月下旬勅請従五位下 月下旬勅(ミコトノリ)ヲ請ケ従(ジュ)五位(イノ)下( ゲ)ノ官
職肥後守任ス同十月兵 職肥後守ニ任ス同十月兵ヲ
進テ奥州下源義家加テ 進メテ奥州ニ下ル源義家ニ加ハッテ
安部定任等ト挑戦高科 安部定任(サダトウ)ト戦ウ、高科 (*前九年の役)
常春張吉興等キソウテ 常春、張吉興等キソウテ
忠高ヲ助其ニ義家ニ職爰 忠高ヲ助ケ、義家ニツトメル、爰(ココ)ニ
出光祐光沖時忠時興 出テ光祐光沖時忠時興ト
皆討故軍ス康平二年 戦ツテ討ツ、康( 1 0)平( 5 9)二年
二月羽州杉谷之城責 二月出羽(では)ノ国杉谷城ヲ攻メル
日野時益殺於爰時益 日野時益ヲ殺ス爰(ココ)ニ於テ時益
カ長子時安兵士二十余軍ヲ ノ長子時安兵士二十余人引連レ
引出テ軍門ニ討死ト挑戦 戦ツテイサギヨク討死セント決戦ヲイドム
忠高ヲ討殺時安モ又討死 忠高ヲ討チ取ルモ時安自ラモ討死ス

■桓武天皇(在位781〜806)■  天智天皇系の天皇。794年平安京を造営し遷都した、その後1000年、都として続いたが、こんな例は世界にない。天皇は仏教と政治を分離し、旧仏教勢力を排除しようとし、最澄・空海の宗派を奨励し両者にそれぞれ広大な敷地と特権を与えた。最澄は比叡山に「延暦寺」を建立。空海は高野山に「金剛峯寺」を創建した。

  天皇は坂上田村麻呂に蝦夷を制圧させ、律令政治の再建に努力。この時代が最も天皇の皇威があったと言われる。百済系帰化人を母とした天皇の血統は見劣りしたが、母と同じ外祖母の土師氏の大江・菅原・秋篠の改姓を認めることで、埋葬に携わる土師氏のイメージを一新した。天皇は母の出雲土師一族で居住地大江の地の実家で生まれてそこで青年時代を育まれている。天皇は正史や「本朝皇胤招運録」によれば27人の后がいた。この時から、后に女御という身分が呼称された。桓武天皇は平安神宮に、母高野新笠(祖は百済聖明王)は平野神社に祭られている。
      「昭和天皇の教科書」 白鳥庫吉著・「日本の仏教を知る辞典」
         奈良康明編者・「日本史資料集」山川出版社・「百寺巡礼」                       五木寛之(DVD)等参照

            ■平(原田)忠高の誕生■
 平安時代、土着の子弟は、都に出仕し、しかるべき上級貴族と主従関係を結び位階・官職を手に入れるのが一般的で、忠常の母方の祖父将門も若い頃、都に出仕して藤原忠平(880〜949)摂政関白・太政大臣を主君としていたが、931年父良持の死去で遺領を受け継ぐために下総国に帰っている。
平忠常は、藤原教通に仕えた。兄の藤原頼道は関白を50年も務めた強力な人物で、父道長は『この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば』 と恵まれた幸せを謳歌している。
妻子を残して、教通に仕えた忠常は貴種(高い血筋)として尊ばれた。当時の貴種という概念は非常に大切で、外から訪れた身分の高い人々は歓迎され、酒や肴のほかは、夜伽(女性による性的な奉仕)も含まれている様子が『今昔物語』にもあると言う。平(原田)忠高はこの時生まれたので、
千葉常将等とは異母兄弟です。
当時は男性が女性のもとに通う妻問い婚が通例で、生まれた忠高は其の女性のもとで育てられ、所領を含む財産を引き継いだと考えられている。

         ■平 忠常(?〜1031)の乱■
東で将門の乱・西で藤原純友の乱があった。その100年後将門の孫である忠常が乱を起したのは、藤原道長の死後、半年後です。追捕使平直方が命じられたが、長元三年(1030年9月)直方が解任され、甲斐守源頼信(義家の父)が追捕使に命じられる。
 この時、叛乱を通じて頼信に従って法師が甲斐国に下向したことが『左経記』長元四年六月十一条)にある。石母田 正 著作集 第七巻 岩波書店は忠常子法師(名称不詳)としていますが、まぎれなく法師は平忠高です。
長期にわたる戦で、疲弊しきった忠常は捕らえられ、子供二人と従者を連れて都に戻る途中で病死した。忠常の首ははねられ、京で晒し首とされたが、降参した人を晒すべきでないと、首は一族に返され、子の常将と常近も許されています。(以来一族は、源氏に恩義を感じ、前九年の役では源義家に加わり加勢。また、頼朝が石橋山で敗れ房総に逃れた時、千葉常将等と合流しています)

 平将門についての伝記・書物は多いいが、古くは『平忠常の乱の研究』が唯一学問的研究と見るべきものであるが、以後は史家の真剣な研究対象とはなっていない。とありますが、しかし平忠常の乱が、母方の祖父将門の乱に比しその後発のすさまじさが『小右記』『左経記』で分かります。
この乱による荒廃は将門の乱比では無かった事が、史料の上から確認できる。長元四年(1031)三月には、忠常のために安房・上総・下総が亡国となり(『小右記』)同年六月には、相模国も「衰老殊に甚だし」という状態であった(『佐経記』)。更に次の史料でその荒廃の凄まじさがわかる。
長元五年十月二十四日、上総守藤原辰重(よししげ)が『左経記』の筆者源経頼(つねより)を訪れて、言うには、「将門の乱の時の衰退も甚だしかったが、忠常による荒廃はもっと激しく、約二万三千町あった。上総国の田は、前上総介平維時(これとき)の時にはわずか十八町までに激減し、自分が赴任した時にはわずか五十町ほどであった。しかし、現在は少しずつ回復し、他国に逃げ散っていた人民も多く帰国するようになり、今年は一千二百町までに回復した」とあります。

[31]中村光成さんからのコメント(2019年11月12日 19時22分56秒 ) パスワード

 数年前に、従姉が、「原田は旧家と聞くが300年くらい?」身内との、温度差に驚きながら、原田は平氏である事等の話をしたら、早速実家から、系図のコピー・「美作古城史二」・「原田の墓歴」などが送られてきた。系図を判読せんとしましたが、まず贅沢な崩し字で書いてある。しかも今では使わない字がくずしてある。時代特有の言い回し。これにはお手上げの状態で忘れたころに、  判読、読下しのコピーが送られてきました。
 その後、当の従姉が田舎に帰省の折に、先祖の原田三河守の墓参りに法然ゆかりの誕生寺に参拝、ご先祖の墓や本堂に安置されている原田三河守の像の写真、住職より進呈された郷土史家の書かれた『原田氏の盛衰』、別冊太陽「法然」が送られてきた。『原田氏の盛衰』は、以前から原田が帰農したいきさつを知りたいと思っていましたが、この冊子で理解できました。出来ればこの冊子の全文を後にご紹介したいと思います。
 系図を読めるように判読され、価値あるものにして頂き、御尽力いただいた 従姉の叔父様は故人となられ、判読者のお名前を聞けず残念でした。一族の総意として感謝しています。

        家之紋梅鉢折枝九曜亀甲
       
初代忠 高 桓武天皇ノ五代後、正五位上ノ官職、上総(カズサノ)助(スケ)平ノ忠常五男

ハ初メテ原田次郎忠高ト号ス、天喜五年(1057)二月肥後ノ國原田二出テ京二上り三月

下旬勅請ケ従五位ノ下官ノ職肥後守ニ任ス同十月兵ヲ進メテ奥州ニ下ル源義家ニ加ハッテ安部定

任ト戦ウ、高科(*前九年の役)常春、張吉興等キソウテ忠高ヲ助ケ、義家ニツトメル、爰(ココ)

ニ出テ光祐光沖時忠時興ト戦ツテ討ツ、康平二年(1059年) 二月出羽ノ国杉谷城ヲ攻メル 

日野時益ヲ殺ス爰ニ於テ時益ノ長子時安兵士二十余人引連レ戦ツテイサギヨク討死セント決戦ヲイ

ドム忠高ヲ討チ取ルモ時安自ラモ討死ス

■桓武天皇(在位781〜806)■  天智天皇系の天皇。794年平安京を造営し遷都した、その後1000年、都として続いたが、こんな例は世界にない。天皇は仏教と政治を分離し、旧仏教勢力を排除しようとし、最澄・空海の宗派を奨励し両者にそれぞれ広大な敷地と特権を与えた。最澄は比叡山に「延暦寺」を建立。空海は高野山に「金剛峯寺」を創建した。

  天皇は坂上田村麻呂に蝦夷を制圧させ、律令政治の再建に努力。この時代が最も天皇の皇威があったと言われる。百済系帰化人を母とした天皇の血統は見劣りしたが、母と同じ外祖母の土師氏の大江・菅原・秋篠の改姓を認めることで、埋葬に携わる土師氏のイメージを一新した。天皇は母の出雲土師一族で居住地大江の地の実家で生まれてそこで青年時代を育まれている。天皇は正史や「本朝皇胤招運録」によれば27人の后がいた。この時から、后に女御という身分が呼称された。桓武天皇は平安神宮に、母高野新笠(祖は百済聖明王)は平野神社に祭られている。
      「昭和天皇の教科書」 白鳥庫吉著・「日本の仏教を知る辞典」
         奈良康明編者・「日本史資料集」山川出版社・「百寺巡礼」                       五木寛之(DVD)等参照

            ■平(原田)忠高の誕生■
 平安時代、土着の子弟は、都に出仕し、しかるべき上級貴族と主従関係を結び位階・官職を手に入れるのが一般的で、忠常の母方の祖父将門も若い頃、都に出仕して藤原忠平(880〜949)摂政関白・太政大臣を主君としていたが、931年父良持の死去で遺領を受け継ぐために下総国に帰っている。
平忠常は、藤原教通に仕えた。兄の藤原頼道は関白を50年も務めた強力な人物で、父道長は『この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば』 と恵まれた幸せを謳歌している。
妻子を残して、教通に仕えた忠常は貴種(高い血筋)として尊ばれた。当時の貴種という概念は非常に大切で、外から訪れた身分の高い人々は歓迎され、酒や肴のほかは、夜伽(女性による性的な奉仕)も含まれている様子が『今昔物語』にもあると言う。平(原田)忠高はこの時生まれたので、
千葉常将等とは異母兄弟です。
当時は男性が女性のもとに通う妻問い婚が通例で、生まれた忠高は其の女性のもとで育てられ、所領を含む財産を引き継いだと考えられている。

         ■平 忠常(?〜1031)の乱■
東で将門の乱・西で藤原純友の乱があった。その100年後将門の孫である忠常が乱を起したのは、藤原道長の死後、半年後です。追捕使平直方が命じられたが、長元三年(1030年9月)直方が解任され、甲斐守源頼信(義家の父)が追捕使に命じられる。
 この時、叛乱を通じて頼信に従って法師が甲斐国に下向したことが『左経記』長元四年六月十一条)にある。石母田 正 著作集 第七巻 岩波書店は忠常子法師(名称不詳)としていますが、まぎれなく法師は平忠高です。
長期にわたる戦で、疲弊しきった忠常は捕らえられ、子供二人と従者を連れて都に戻る途中で病死した。忠常の首ははねられ、京で晒し首とされたが、降参した人を晒すべきでないと、首は一族に返され、子の常将と常近も許されています。(以来一族は、源氏に恩義を感じ、前九年の役では源義家に加わり加勢。また、頼朝が石橋山で敗れ房総に逃れた時、千葉常将等と合流しています)

 平将門についての伝記・書物は多いいが、古くは『平忠常の乱の研究』が唯一学問的研究と見るべきものであるが、以後は史家の真剣な研究対象とはなっていない。とありますが、しかし平忠常の乱が、母方の祖父将門の乱に比しその後発のすさまじさが『小右記』『左経記』で分かります。
この乱による荒廃は将門の乱比では無かった事が、史料の上から確認できる。長元四年(1031)三月には、忠常のために安房・上総・下総が亡国となり(『小右記』)同年六月には、相模国も「衰老殊に甚だし」という状態であった(『佐経記』)。更に次の史料でその荒廃の凄まじさがわかる。
長元五年十月二十四日、上総守藤原辰重(よししげ)が『左経記』の筆者源経頼(つねより)を訪れて、言うには、「将門の乱の時の衰退も甚だしかったが、忠常による荒廃はもっと激しく、約二万三千町あった。上総国の田は、前上総介平維時(これとき)の時にはわずか十八町までに激減し、自分が赴任した時にはわずか五十町ほどであった。しかし、現在は少しずつ回復し、他国に逃げ散っていた人民も多く帰国するようになり、今年は一千二百町までに回復した」とあります。

[32]中村さんからのコメント(2019年12月08日 11時26分30秒 ) パスワード

※前回書き忘れたので追記します。

◎忠常の子の法師『名前不詳(実は平忠高)』が叛乱を通じて京都にいた事。法師(忠高)が頼信に従って甲斐国に下向したこと前記「左経記」で知られている。また忠常自身の屋敷が京都にあり、長元二年検非違使によって家宅捜索を受けた事実は
(日本記略、長元二年六月十三日条)によって知られる。

◎平忠高の父の官職は正五位上。子の忠高は従五位下ノ官職。従五位下以上が 平安貴族としての資格で、位階による年収。

位階による年収

■位階・・・・・・・・・米換算・・・・・・・・・現在の貨幣価値(円)
正一位・・・・・・・・・3645石・・・・・・・・・・・・2億7338万
従一位・・・・・・・・・3286石・・・・・・・・・・・・2億4645万
正二位・・・・・・・・・2548石・・・・・・・・・・・・1億9110万
従二位・・・・・・・・・2250石・・・・・・・・・・・・1億6875万
正三位・・・・・・・・・1687石・・・・・・・・・・・・1億2653万
従三位・・・・・・・・・1364石・・・・・・・・・・・・1億0230万
正四位上・下・・・・・・ 662石・・・・・・・・・・・   4965万
従四位上・下・・・・・・ 552石・・・・・・・・・・・   4140万
正五位上・下・・・・・・ 362石・・・・・・・・・・・   2715万
従五位上・下・・・・・・ 255石・・・・・・・・・・・・  1913万
正六位上・下・・・・・・  22石・・・・・・・・・・・・   165万
従六位上・下・・・・・・  20石・・・・・・・・・・・・   150万
正七位上・下・・・・・・  17石・・・・・・・・・・・・   128万
従七位上・下・・・・・・  15石・・・・・・・・・・・・   113万
正八位上・下・・・・・・  12石・・・・・・・・・・・     90万
従八位上・下・・・・・・  11石・・・・・・・・・・・     83万
大初位上・下・・・・・・   9石・・・・・・・・・・・     68万
少初位上・下・・・・・・   8石・・・・・・・・・・・・    60万
(出典)『週刊再現日本史  原始・奈良G』(講談社)
位階は30階あって、三位(さんみ)三位以上を「貴(き)」四位・五位以上を「通貴(つうき)」五位以上が貴族階級とされ、150人前後いた。どれほどの名家・名門の出で、有能な人物でもこの位階を授からない限り特定の官職に就くことは出来なかった。
日本史から学ぶ「人事」の教訓◇宝島社 遠山美都男、関幸彦、山本博文著参照

[33]中村さんからのコメント(2020年01月18日 13時28分31秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2020年01月23日 12時01分51秒
[34]中村さんからのコメント(2020年01月23日 13時07分36秒 ) パスワード

 原田氏の系図の記載を続ける前に、原田の縦系図と、地誌を書き上げる為に、藩の要請で、提出された原田氏の「家系略伝」と・「美作菅家」が提出された系図を併せ記載いたします。このように両家の系図が同じ趣旨で書かれる例は先ずないことで、後の研究資料として併記致します。

(桓武平氏良文流) 【平忠常】⇀@忠高(號原田)⇀A忠次⇀B忠仲⇀C興方⇀D忠光⇀E光沖(光興)⇀F忠廉(忠門)G忠頼⇀H頼興⇀I頼忠⇀J忠勝⇀K忠平⇀L平正⇀M政頼⇀N忠行⇀O忠氏⇀P忠長⇀Q貞佐⇀R行佐⇀S忠佐⇀

              □家系略伝□
平忠高 桓武帝七代胤上総介平忠常五男住[二]肥前原田[一]因號[二]
    原田次郎天喜五年春叙従五位下[一]任[二]肥後守[一]嘗助   [二]源義家征[一]阿部貞任[一]康平二年出羽国杉谷戦中[二]流矢
[一]隕[レ]命

平忠次 忠高長子康和元年卒

平忠仲 忠次二男嘉永二年興[二]平正盛[一]討[二]對馬守源義親[一]
    有[レ]功同年四月卒

平興方 忠次三男嘉永二年任[二]佐衛門尉[一]保安四年二月藤原仲時殺
    [二]高科師春[一]仲時被[二]収繫[一]坐連及[二]興方
    [一]遂配[二]作州[一]保安五年遇[レ]赦然没[二]収奮領
    [一]賜[二]作州葛虫庄[一]同年十一月興方相[二]攸狐山下
    [一]開[二]此葛虫[一]今原田村狐山今稲荷山是也

平忠光 興方子治承二年二月卒
平光興 忠光子建久九年七月卒[二]
平忠廉* 光興子承久三年五月為[二]佐々木陸奥守[一]所[レ]殺
平忠? 忠廉三男嘗修[二]繕豊樂寺[一]建長五年七月卒
平?興 忠?子文永年中靖[二]赤松家亂[一]有[レ]功永仁四年七月卒
    葬[二]顯密寺[一]

平?勝 ?興一男元弘元年属[二]官軍[一]入[二]笠置城[一]九月帝出
    [レ]城?勝還[二]千作州[一]正慶元年城[二]菅原山[一]建
    武三年従[二]尊氏[一]有[二]戦功[一]同四年卒

平忠勝 ?勝次男號[二]左京助[一]母足利次郎佐衛門氏夏女建武四年承
    [二]将軍命[一]討[二]備中國三村山城主秀仲[一]斬之因 
    [二]其功[一]領[二]高松庄[一]貞治六年十二月興[二]山名右
     京大夫[一]戦[二]千備中[一]不[レ]克而死號[二]宗見院
    [一]

平忠平 忠勝次男[二]號河内守[一]母有元菅四郎女慶安元年興[二]関本佐
     馬次郎豊田右馬頭新免備中守[一]相戦得[レ]利同年冬修[二]
     澤村瑞泉寺[一]慶永八年四月卒葬[二]神實山慈恩寺[一]

平政平 原田式部少輔持近子也忠平養為[レ]嗣號[二]伊賀守[一]警慶永
    二十九年攻[二]備前國伊佐岡城[一]同年三十三年四月卒葬[二]
    青龍山慈福寺[一]

平政? 政平一男號[二]讃岐守[一]寳徳二年三月卒葬[二]長法寺[一]

平忠行 政?子[二]號[二]安芸守[一]母山名主計頭氏冬女文明三年興
    [二]田中山城守[一]相戦同十八年卒[二]千洛[一]葬[二]嵯峨
    念佛寺[一]

平忠武 忠行子永正十六年卒

平忠長 忠武一男號[二]播磨守[一]享禄三年七月[二]営佛教寺[一]天文
    七年五月撃[二]神楽尾城主山名右京大夫氏兼[一]走[レ]之同十二
    年氏兼復起[レ]兵襲[二]忠長[一]忠長自殺

平貞佐 忠長子初號[二]小次郎[一]後改[二]三河守[一]晩備前國
    福岡之戰傷[二]左足[一]世日[二]無足三河[一]者繇[レ]
    此天正十四年十二月卒法韓傳徳院月山道源誕生寺有[レ]墳

平行佐 貞佐子號[二]三郎佐衛門[一]属[二]宇喜多摩下[一]天正二十年
    四月卒法韓西方院山之巌宋徳稲荷山麓有[レ]墳

平忠佐 行佐子號[二]彌右衛門[一]朝鮮之役家奴因[レ]酔相闘撃
    行隊騒擾秀吉怒[レ]犯[二]軍禁[レ]責[二]忠佐[一]卒使
    [レ]放[二]作州[一]忠佐失[レ]志没[レ]世不[二]復出
    [一]元和七年九月卒法韓寂静院月窓浄教西幸村有[レ]墳忠佐子依
    [二]父遺命[一]出家称願誉[二]住持誕生寺[一]三河守家司池上
     内蔵之助子池上十右衛門妻者貞佐娘也十右衛門末成[レ]農在[二]
     此村[一]傳[二]系譜[一]文義繁多其間有[二]少疑者[一]今
     摘[二]其要[一]書[レ]此

 ※上記原田氏の略伝(文章系図)故事として、藩の要請で地誌を作成の為に
  提出したもです。同じく美作菅家が提出されたのは以下の系図です。

     「美作菅家」の筆頭有本氏の系図美穂満佐の子 
  
 忠勝 筑後守   號有本 奈岐山城主弘安十丁亥年二月卒六十歳     
 佐友 廣戸豊前守 廣戸村矢櫃城主       
 周長 福光伊賀守前田氏         
 公興 植月豊後守 植月庄宮山城主
★忠門 原田日向守 原田郷稲荷山城主
 佐利 鷹取長門守 領鷹取庄
 資豊 江見丹後守 領江見庄

★忠門 原田日向守 原田郷稲荷山城主 
 ※稲荷山城は原田四代平興方が築城。忠門(忠廉トモ)は原田七代で、日向守の
 官職は四代興方の弟、沖春の官職です。有本氏は美穂満佐の子としていま
 すが、父は平光沖。母は藤原朝宗(頼朝の従兄弟で伊達氏の始祖)の娘です。
   

     
[35]中村 さんからのコメント(2020年12月06日 16時38分15秒 ) パスワード


●美作菅氏-Wikipediaでは加賀藩の前田氏は美作菅家原田氏の家系を自認し、

 家紋は菅家の梅鉢紋を称している。

系図研究で@『姓氏家系大辞典』A『日本紋章学』B『大日本地名辞書』の三冊

が根本資料とされています。上記で原田が菅家の梅鉢紋を使用しているのは事実

を意図的に歪曲している事が判明します。美作菅家の無知!としか思えない。 

原田の家紋は「家之紋梅鉢折枝九曜亀甲」で、原田氏は菅家より300年〜400年も

前から梅紋・梅鉢紋を使用している事が以下判明します。


◆梅紋・梅鉢紋を菅原道真は家紋として使用した確証はない。鎌倉時代(1333年

〜)に北野天満宮が道真の「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて春

を和するな」愛梅の故事に因で梅紋を神紋とし、菅家の一門たる高辻・唐橋・及

び天神信仰をもったものがこの梅鉢紋を用いた。先祖を記念せんがために特に定

めたる家紋。
                             日本紋章学

◆梅を天満宮の神紋とせる理由

抑々(よくよく)梅を天満宮の神門として擇びしは、官公が、平素梅を鑑賞し給

ひし事蹟に因める。ものにして、是等の事は、彼の紅梅殿の命名、東風吹かばの

歌詠等に就きて、容易にこれを知ることを得べし、而して、そのこれを天満宮の

神紋として用ゐ始めしことの鎌倉時代にありしことは、北野天満宮縁起中、官公

の着用し給える衣服、及、神輿等に、特にこの文様を晝けるを以ってこれを知る

べし。                日本紋章学 沼田頼輔著 P488

◆菅原氏即ち菅家の一門たる高辻・唐橋・清岡・桑原の諸家が、いずれも梅鉢紋

を用ゐるが如きは、菅原氏の祖先たる道真が、その生前梅を好み給える記念的意

義に本ものの如し、官公が生前梅を愛し給ひ、又東風吹かばの歌詠ありしが如

き、いずれもこれを證することを得べし。されば(そうであるから)官公の後と

稱するものが、その祖先の鑑賞せる梅花に象(かた)どりて、記念的意義に本づけ

ることを知るべし。             日本紋章学 沼田頼輔著 

◎鎌倉時代北野天満宮が梅紋・梅鉢紋を神紋としたが、これより、300年も前

に、梅鉢紋や梅花紋も、星の九曜・六曜などの変形したもので、平良文流千葉

氏、及び、その一族専用の家紋としている。
                      日本紋章学」 沼田頼輔著


◎原田文章系図の文頭に、「家之紋梅鉢折枝九曜亀甲」原田の家紋は「亀甲に梅

鉢」で、一族専用の家紋。前田氏が梅鉢としたのには整合性があります。


◎七曜・九曜・十曜等の家紋は千葉氏、及、その一族専用の家紋とす。

梅鉢紋や梅花紋も、星の九曜、六曜などの変形したものであろう。

                      「家系」豊田 武 著

「以上の事から、良文流平氏一族は梅鉢紋を300年前から使用していたのです」

◎梅紋(梅鉢紋)は平氏一門の専属だった。

千葉氏の嫡流は月星をかたどって家紋とし、庶流は七曜、九曜などの諸星をもっ

て家紋とした。梅鉢紋や梅花紋も、星の九曜。六曜などの変形したものであろ

う。                   日本紋章学 沼田頼輔著


◎平良文の流れから出た秩父氏の諸流は、先祖の良兼・良文等が国香に攻められ

た時北斗七星・妙現菩薩がその前に現れて危機を救ってくれたとの由緒に基づ

き、みなその移住地に勧請して、延命長寿・怨敵退散を祈った。

世継ぎの元服式も妙味の祠の前で行い、紋様にも星を用いた。『羽継原合戦記』

に、「月に九曜は千葉介、八曜は上総介、九曜星は標葉氏」と見える。この場

合、千葉介の嫡流は月星をかたどって家紋とし、庶流は七曜、九曜などの諸星も

って家紋とした。-略-梅鉢紋や梅花紋も、星の九曜、六曜などの変形したもので

あろう。

                      「家系」豊田武著 P247

◎九曜紋を用ゐるものは、主として平氏良文流の出なる千葉氏なるを以って、こ

の分布は前の月星数と、-略-同一の経路を辿れり、六星紋は六個の星形より成れ

る。*形状は九曜七曜の如し。⁂星辰崇拝の妙味信仰よりこれを用ゐたる。梅鉢

紋と伝うは、六曜性を混同せりものなり、九曜紋は、鎌倉時代既に用いられたる

ことは無論なるも・・・月ニ九曜ハ千葉介當時はこれを月星と呼びたるが如し、

                     日本紋章学

  美作菅家の見識を疑います。「美作菅家殿教えて下さいの画像」と攪乱する

 品性を悲しみ同情すら禁じえません。

















[36]どごさんからのコメント(2021年02月25日 15時54分18秒 ) パスワード

平川より来ました

私の考えでは
菅原家について一度 菅家としては
とにかく苗字(表記)を戻したという印象であり
いにしえより菅原を一文字の姓に名乗り続けたという認識は
誤りと訂正するつもりでおります

原田は調べてみますが
東氏を調査中ですので
宜しければご教示ください
どうも原田の話に近づくという勘であるのです
[37]中村 さんからのコメント(2021年04月01日 20時11分33秒 ) パスワード

どご様

 初めまして、東氏(とうし)についてお尋ねですが、私もWebで以前検索しま

したところ、以下のようでした。

 ※ 東氏(とうし)は、日本の氏族で、千葉氏の庶族。桓武平氏。古今伝授の

家として有名。鎌倉時代の初めに千葉常胤の六男胤頼(たねより)が下総国東荘

(とうのしょう)、現在の千葉県東庄町)に住み、東大社の神官(本来の東氏)

より名前を譲り受け、東六郎大夫(とうのろくろうだゆう)と称したのに始ま

る。子の重胤、孫の胤行は歌道に優れ、ともに鎌倉幕府3代将軍源実朝に重んじ

られた。胤行は、承久の乱の戦功により美濃国山田荘(現在の岐阜県郡上市)の

地頭となり、篠脇城を居城とした。子の行氏がこの地に土着し、以後、子孫は在

京人として六波羅探題のもとで活躍した。室町時代には室町幕府奉公衆となる。

室町時代中期の当主東常縁は古今伝授を受けた歌人として有名である。応仁の乱

が勃発すると、東氏は山名氏の西軍に味方し、細川氏の東軍に味方した美濃守護

の土岐氏と対立する。戦国時代に入ると衰退し、永禄2年(1559年)、東常慶は

一族(異説あり)の遠藤氏と対立し、娘婿の遠藤盛数に攻められ滅亡した。以後

は遠藤氏が東氏の家督も継承した。一方で家督を奪われた常慶の子の常尭は飛騨

の内ヶ島氏理の庇護を受けたものの、天正大地震で内ヶ島氏と運命を共にした。

盛数の子で常慶の外孫である遠藤慶隆は戦国時代、安土桃山時代を乗り切り、江

戸時代には美濃郡上藩主となり、その後子孫は近江三上藩(滋賀県野洲市)へ移

封されて存続した。最後の藩主である遠藤胤城は明治維新後に縁のある東氏に改

姓し、子爵を授けられている。郡上市大和町には東氏の館の庭園跡がある[1]。


 以上はWeb「東氏(とうし)」の検索結果です。私もこのWebで知った程度で

すのでご容赦下さい。ぜひご自分で検索してご確認して下さい。

 白洲次郎が「所詮歴史というものは、今生きている人が自の都合のよいように

解釈して利用するものだ」と申していますが、そういう一面もあるでしょう、

例えば「菅原道真」の子孫と称する「美作菅家」は歴史家が系図の歪曲を指摘さ

れて、これに関連して「美作菅家殿教えて下さい」とすると、早速来た返事は

スレッド[1]の回答でした。説明責任を求めても出来ないのは、自家の歴史が

自ら歪曲・捏造されているのを自覚しているからです。



 

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