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 投稿番号:101621 投稿日:2018年01月22日 09時18分48秒  パスワード
 お名前:三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族CW(課題確認47):104
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101617_62.html
長上郡の服部氏族CV(課題確認46):103
の続きです。



      自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
      最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。



佐々木氏:

@佐々木定綱の第四子に「信綱」があり、信綱から は「泰綱」が出て「六角氏」初代となり、その支流に「松下氏」が出る。
A佐々木定綱の第五子に「広定」があり、「馬淵氏」初代となる。


遠江の馬淵氏は服部中家の家老です。


http://kotobank.jp/word/%E9%A6%AC%E6%B7%B5%E6%B0%8F-1208166
まぶちうじ【馬淵氏】



中世の武家。近江国蒲生郡馬淵(滋賀県近江八幡市)より起こる。佐々木氏一族。

佐々木氏系図によれば定綱の後裔である広定が初めて馬淵氏を称した。
代々近江の守護・戦国大名六角氏の有力家臣で,南北朝時代の初めから室町時代前半にかけては,守護六角氏の守護代として活躍した。

とくに広定の曾孫にあたる義綱は,延文・貞治年間(1356‐68)に活躍の跡が顕著であり,六角氏の領国政治を支えた重臣であったことがうかがえる。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月22日 22時48分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッド、ありがとうございます。
 私にとって、今年の課題は、地元に残る古文書の中から、決定的な証左
を見つけることであります。図書館のレベルではなく、古文書館のような
所でないとそういった資料はないと思います。
 善地はずっと天領が続きましたので、中泉の代官所の管轄でありました。
従って、中泉代官所の記録を探せば何か出ると思っています。ただ、その
記録がどこに保管されているのか……思い切って訊いてみることにいたし
ます――
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月24日 01時50分52秒 ) パスワード

三つ柏さん


中泉代官所の文書の閲覧は  磐田市  に問い合わせることでしょうか?
教育委員会  または  磐田市立図書館
このあたり?


[3]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月24日 09時31分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、会社創業者のお墓参りに行きました。浜松市の南部の寺ですが、
昔は天竜川がすぐ側を通っており、渡船場として賑わったということですが、
今は平野部となっており、全くその面影はありません。
 行って驚いたのは、嶋家のお墓が20基以上もあり、天竜川の上流の二俣
に逃れて来たというあの嶋左近の一統の流れかと思いました……!?。

 その後、今度は東へ向かい、磐田市の南部の竜洋にある市支所「歴史文書
(もんじょ)館」へ向かいました。ひょっとしたら、中泉代官所の古文書類が
あるのではないか……と内心期待を抱きながら。
 到着と同時に、「ちょっと教えていただきたいことがあります」と窓口に
伝えますと、担当の係員が出てきて親切に対応してくれました。過去に3回
程訪れたことはがありまして、その係の人とは一度話をしており、顔も覚え
ておりました。
 「中泉代官所の資料を見たいと思っているのですが」と切り出すと、その
N氏は「石高表」ならありますがと言って一冊の本を出してくれました。し
かしながらこの本はすでに見ており、「もっと地元に密着した資料はないで
しょぅか」と訊ねると、そういった資料はここにはなく、地元の庄屋・名主
のレベルに於いて存在した古文書類……たぶん、そうしたものは、浜松市の
博物館に集められているのではないかということで、そちらの担当官の名前
を教えてくれました。
 博物館へは、近日中に行ってみることにしました――
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月24日 10時05分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 その係りの人と30分程話を交す内、浜松の3500石の旗本であった
「服部中」について私が話をすると――

 「そういえば、戦国時代に掛塚に服部氏がいて、鍛冶屋をやっていたと
いう伝聞があります。実際昔は服部という名前で、今は川島と名乗ってい
るけれど、位牌には祖先は服部半蔵に由縁がある旨が書かれていたという
家がありました。その家の人の名前は平次郎といいましたが、今は奈良市
に引っ越してしまいました。」
 と、驚くべき話をしてくれました。

 そうなんだ、こういう話が大事なんだと内心喜びながら、私の知ってい
る範囲での話もさせていただきました。

 掛塚は湊でありましたので、船大工、あるいは材木の集積地でもありま
したので、材木を切る鋸なども生産していたようです。

 掛塚にいた服部正尚の話をしてみましたが、西郷の局の継父であったと
いう話は知っておられました。

 N氏が言うには、川島氏のお宅は、回船問屋をやっていた何軒かのうち
の一軒であったということ、また、菩提寺として「龍泉寺(りょうぜんじ)」
を開基したと思われるということを教えてくれました。

 そこで、私は、「帰りの道沿いにそのお寺があると思いますので寄って
みます。貴重なお話ありがとうございました」と感謝を伝え、歴史文書館
を後にしました――
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月25日 02時38分37秒 ) パスワード

三つ柏さん

ものスゴイ収穫があったのですねぇ。
そーだろーなー、という連想につながる情報ですね。


服部系の人物が鍛冶屋だかお鍋作りだか鋳掛屋だかやってたお話が数年前に出ましたよね。
商売人は情報収集に最適ですものね。

服部平次郎なんて伊勢平氏の平家バリバリの名です。
それが今は  川島さん  ですか。


http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%B7%9D%E5%B3%B6
現滋賀県である近江国高島郡川島村が起源(ルーツ)である、宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)。
ほか川島皇子の子孫、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)などにもみられる。

「島」は一定の小区画を表す。


川島さん、というと現在の超名家は紀子さまの御実家ですね。
川島さんはもともと平家であり南朝方ですから
このハナシも空想が合いますね。


但し、その川島さんが和歌山県じゃなくて奈良県にお住まいということはどういう経緯でしょうね。
でも和歌山も奈良も南朝がらみですから、ハナシとしては合ってますね。



では続きを楽しみにしております。
[6]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月25日 22時36分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は胃カメラを飲み、胃の定期検査をました。麻酔をかけてやるので、
苦痛もなく、アッという間に終わってしまいます。
 でも、麻酔のせいか頭がさえませんので、明朝に再度パソコンに向かい
ます――
[7]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月26日 08時55分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 掛塚の龍泉寺(臨済宗方廣寺派)には、過去に一度行ったことがありました。
その時は見落としていたのか、新しい墓と古い墓の服部家の墓が二基ありま
した。
 古い墓には、表書きは「先祖代々之墓」、側面には建立者の名前が掘られ
おりました。
 新しい墓は、最近建て替えられたか、または新規に造られたのかも知れま
せんが、「服部家之墓」と表に彫られておりました。
 家紋は、いずれも「丸に蔦」でありました。

 そして、その隣に「川島家」と「川嶋家」の墓が並んで建てられておりま
した。
 「川島家」の墓の家紋は多少驚きましたが、「丸に三つ柏」でありました。
 一方の「川嶋家」の方は、「丸に四つ目菱」か「丸に隅立て四つ目」か、
よく見れば四角がやや菱型に近いとは思いました。

 「川島家」の近くには、鈴木家の墓があり、「丸に三つ柏」でありました。
 その他には、松下家も多く、また馬渕家も三基程並んでおりましたし、
森田家もありました。

 いずれにしても、家紋は変遷するので、それだけで判断するのは難しいと
思いました――
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月26日 11時07分50秒 ) パスワード

三つ柏さん

すっごい不思議な発見でしたね。
ホントに名字(俗名・屋号)と家紋は複雑過ぎますね。


丸に三つ柏紋はいよいよ謎になって来ましたね。
どこでどう繋がるのか
ホントに不思議です。
[9]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月27日 16時46分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、浜北の図書館及び文化センターにて、地元の古文書等の資料に
ついて訊ねたところ、こちらの期待にそうような答えは返ってこなかった。
浜松市をコアにして、周辺の12市町村が吸収合併されたため、担当者も
流動的となり、今までよくわかっていた人が異動してしまったということ
もあるのでしょうか。

 浜松博物館に行ったところ、ここは2月初旬まで改装中で休館しており
ました。

 残るは、浜松図書館。郷土資料室にて聞いてみたところ、浜北の資料は
市史の編集後所有者に返してしまっているということでありましたが、私
の希望するのは未公開の古文書なり資料なので、そういうものがないか訊
ねたところ、現在市史に関連して編集中のものは二三のみあるがというこ
とで、期待はほぼ外れた感じでありました。残るは、浜松市博物館であり
ますので、2月初旬にはまた訪ねてみようと思っています。

 それでも、何回も来たこの郷土資料室で見落としているものはないかと
いろいろな棚を探していたところ、各種目録的なものがありました。以前
は、目録ではしょうがないなと思っておりましたが、目録の中に必要なも
のがあれば、それを出してもらえるということに、その時は気が回らなか
ったのでありました。
 この中央図書館に保存してあるもの、博物館に保存してあるもの、ある
いは賀茂真淵記念館に保存してあるもの……等の表題別のリストがあり、
いくつかを見てみました。
 
 その中に、興味を引くものがありました――

[10]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月28日 04時05分02秒 ) パスワード

三つ柏さん

>その時は気が回らなかった

そんなものですよ
目に入っていても、その時は価値が分からない、という事もありますしね。


ライフワークとして気長に構えるのが一番です。

[11]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月28日 21時06分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は久しぶりに芝刈りに行ってまいりました。ナイスショットもいくつ
か出ましたので、気分はまずまずいいです。

 さて、興味ある目録がいくつかありましたと書きましたが、その内のいく
つかについて記してみたいと思います。
 
 『浜松市古人見町自治会文書目録』(浜松市博物館)の中に、〜宛て、ある
いは、〜よりの文書(書状)の目録が以下のようにありました。
 @服部杢之助家老衆宛て
 A服部中様御内御代官宛て
B服部主殿内中村源左衛門ほか宛て
 C服部中内瀬尾政右衛門・瀬尾儀左衛門より
D大久保陣屋馬渕綾左衛門より

 @の服部杢之助は、服部政光の子政重(政信の弟)であります。
 Bの服部主殿は服部中保房であります。中村源左衛門は大河ドラマに出た
中村家の当主筋であります。
 Dの馬渕氏は服部中の地代官であります。
 
 Cの瀬尾氏については、次回に記したいと思います――
 
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月29日 05時10分06秒 ) パスワード

三つ柏さん

すごい!


ひょっとすると磯田先生あたりが既に借りていらっしゃるかもですね。
ふふふ



瀬尾氏ですか・・・
瀬尾氏はまさに平家方で南朝方ですね。

   瀬尾・妹尾・瀬ノ尾・瀬野尾・脊尾その他
   岡山の名家中の名家ですね。


http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%80%AC%E5%B0%BE
【名字】瀬尾
【読み】せお,せのお,せのう
【全国順位】 807位
【全国人数】 およそ23,900人


妹尾とかわるがわる用いられる。

現岡山県西部である備中国都宇郡妹尾村が起源(ルーツ)である、
桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)を名のったとされる。

ほか清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)武田氏流がある。

「尾」は接頭語か、小さい開発地の意味。「瀬」は流水が浅く流れているところを表す。



http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%A6%B9%E5%B0%BE

【名字】妹尾
【読み】せのお,せお,いもお,せいお,せのう,せおう
【全国順位】 865位
【全国人数】 およそ21,700人

現岡山県西部である備中国都宇郡妹尾村が起源(ルーツ)である、
桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)を名のったとされる。

ほか清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)武田氏流がある。

「尾」は接頭語か、小さい開発地の意味。
[13]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月29日 13時10分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 平家方で南朝方、瀬尾氏が正にそうでありました。服部中家の臣下には
ふさわしい関係者であります。
 電話帳で調べると、浜松地区には数軒の瀬尾姓のお宅が存在しておりま
す。

 インターネットサイト「武家家伝」には、妹尾氏に関して、こんなエピ
ソードが書かれておりました(要約)――

 @ 卜部氏は中臣鎌足を祖としている。卜部氏六代目の「康遠」は、備
  前・備中・備後の領主となり、備中瀬野(せのお)城に拠り、地名に因
  んで瀬尾氏を名乗った。
   しかしながら、その子「兼門」は平治の乱に「源義朝」方となり、
  敗れて賊軍となってしまった。
   戦後、鳥羽上皇から発せられた院宣により、「瀬尾」姓は使用禁止
  になる。

 A 兼門の「妹」は、「白河天皇」の寵愛を受けて、天皇の男子を生ん
  だ。
   生まれた子は朝敵瀬尾氏の血を引くということで、平家の手で養育
  されることになり、無事に成長し、平家の有力武将の一人となった。
  これが有名な「妹尾太郎兼康」で、廃された瀬尾姓を「妹尾」と替え
  て名乗ったと伝わる。

 A 平家は長門国壇ノ浦で滅亡するが、この時、三種の神器の一つであ
  る「鏡」を拾い上げたのが「妹尾太郎兼康」だという言い伝えがある。
  が、しかし、年代を考えると、兼康の子(長男宗康以外の)か、または
  宗康の子(兼康の孫)であったのではないかと思われる。

 つまり、服部中、服部政信、いずれの系統も平宗清にルーツを持つので、
瀬尾(妹尾)氏とは戦友・味方・同志であったということになります――
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月29日 16時19分11秒 ) パスワード

三つ柏さん

瀬尾氏も源平戦の終わりにはいろいろありましたから
伊賀の服部系の女を娶った瀬尾氏が
後世に服部中家に仕えたのかも
ですね。

瀬尾氏も本当にいろいろな事が起きて
それに耐えて
絶望する中で岡山には戻りたくなかった人もいたのでしょうね。
ドラマですね。


瀬尾姓について:コピペ
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1268980972

岡山市の資料などには妹尾太郎兼康の苗字から地名が付いたとするものもあるようですが、
事実は地名のほうが先で、ここに存在した古城・瀬尾城に兼康の祖父である卜部康遠が入城したのを契機に妹尾姓を名乗ったものです。



卜部(妹尾)康遠の出自は藤原氏で中臣鎌足に始まるとされます。
これに関しての詳細は
@http://www2.harimaya.com/sengoku/html/bz_senoo.html
Ahttp://gos.but.jp/seno.htm
などのHPを資料として閲覧して下さい。


「桓武平氏を称す」の解説に関しては
@のHPに平家方として戦に参加したことからの記述でしょう。



「清和源氏武田氏流」に関しては、
甲斐源氏の庶流、武田義清の子、清光の四男、義成が甲斐国青島荘浅利郷に居住して浅利姓を称し、浅利氏の祖となっています。

この浅利氏は鎌倉期、陸奥国比内地方の地頭職を任ぜられ、一族家臣団を引き連れて秋田に移動しています。

この浅利氏の家臣に妹尾嘉左衛門という人物が居り、秋田郡七日市村の集落を望む南東の台地上に「妹尾館(せおだて)」と呼ばれる城館を建築、 現在も「妹尾館」の字名が残っています。



また、秋田県にはその後、清和源氏武田氏流の佐竹氏が常陸国より秋田藩に入っています。

横手市に残る伝説に登場し、稀代の怪力として横手市周辺で語り継がれる妹尾(せお)兼忠という人物が、この佐竹氏に従って横手に移ってきた家臣で、佐竹氏の庶流とされています。


インターネットで色々と資料を探しているうちに、 以下のようなHPを発見しました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101029_52.html

かなり参考になりそうですよ。
ご一読されてみて下さい。



あらあらあら

[15]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月29日 16時42分19秒 ) パスワード

以下はわたくしの空想:妄想でもいいけど



瀬尾氏妹尾氏は

卜部氏の前に
岡山という土地自体が
吉備真備の出身地であり
彼の兄上の一族がらみの御子孫でしょう。


吉備真備の活躍した聖武天皇の御世よりももっと前の時代
その辺りから岡山の瀬尾氏妹尾氏は語らないといけないでしょうね。


吉備真備は日本史上初の何でも屋の天才ですから
1つには「占い」を体系化したりしているのじゃないかな?

そこから卜部氏が岡山に来て
瀬尾氏や妹尾氏になっていった
ということでしょう。


まず
人皇第7代孝霊天皇の子孫関係で既に岡山が宗教的に特別な場所で(吉備津彦神社)
人皇第15代応神天皇の時代には岡山が産業的に需要な場所となり(織物)


卜部氏から貴族化して藤原氏に変わり


さらに平家の時代に一門として平姓をもらったのでしょう。
そこに南朝方というのも絡んで来る。


遠江に瀬尾氏がいたというのは以上のような流れで服部中家に仕えたのじゃないかな?

[16]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月30日 03時48分14秒 ) パスワード

ということで吉備国に詳しい方より教えて頂きました:

地図:
http://www.google.co.jp/maps/place/%E5%90%89%E5%82%99%E7%9C%9F%E5%82%99%E5%85%AC%E5%9C%92/ @34.6283806,133.6443852,3016m/data=!3m1!1e3!4m6!3m5!1s0x0:0xafb3b125a37391e!4b1!8m2!3d34.6169524!4d133.6347509   

この地図の妹山が「妋山」  ← 妋=女扁に夫
この南端の尾根が「妋尾」です。


吉備真備公園の裏山のトンネルですが、
鉄道の開通時点は「妹尾トンネル」と呼ばれて地図にも記載されていました。

「妋山」ここから東側の妋地域(南北に広がる谷から南の山も含まれる)がまさしく「下道(しもつみち)氏」の本拠地の中心地一帯です。


                       下道氏
                       つまり吉備真備のご実家
                       吉備の豪族

下道氏の墓地や吉備真備神社・吉備真備公園の裏山一帯ですね。



吉備氏族で奈良時代の吉備真備の7代後に分かれた一族が妹尾太郎兼康のご先祖です。
吉備真備の神社の裏山の地名が名字です。



足利尊氏が九州より上洛の途中でもこの土地で合戦をしていますね。
古来より城館の築かれた所です。


妹尾氏は大藩にも小藩に居られますね。
農家や商家としても明治を迎えてもいますね。


北条早雲との親戚関係で越前松平の家臣と成った大身の家筋も存在して居ます。
幕臣系列に属した筋も多く有るみたいです。
もちろん女性の嫁ぎ先もかなり有るようです。



平清盛の家臣として平家物語に出てきます。
どうも清盛とは異母兄弟。父親は白河院ですね。


以上
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月30日 04時07分44秒 ) パスワード

吉備真備:吉備の国の真備くん、ということですね

下道:
下道(かとう、しもつみち、したみち)
下道郡(しもつみち・かとう) - 備中国・岡山県にあった郡。
下道氏(しもつみち) - 古代備中国・吉備国の豪族。吉備氏の系統。 下道真備 - 古代の豪族・政治家。 ⇒ 吉備真備のこと

下ツ道(しもつみち) - 古代日本の官道のひとつ。
下道(したみち) - 高速道路・有料道路以外の道路。 ⇒ 一般道路



「人類誕生から大和朝廷までの700万年史」By 日本博学倶楽部

日本で4番目に大きな古墳が吉備にあるのは何故か?
http://books.google.com/books?id=FLXLAwAAQBAJ&pg=PT211&lpg=PT211&dq=%E4%B8%8B%E9%81%93%EF%BC%88%E3%81%97%E3%82%82%E3%81%A4%E3%81%BF%E3%81%A1%EF%BC%89%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=8DxX8M8YPU&sig=FrCJ52-ZxbEJruYTBhrN8iLYCpM&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiU7v7i6_3YAhVJw2MKHUhpDMMQ6AEIZTAI#v=onepage&q=%E4%B8%8B%E9%81%93%EF%BC%88%E3%81%97%E3%82%82%E3%81%A4%E3%81%BF%E3%81%A1%EF%BC%89%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


三つ柏さんのお好きなデッカイ!デカ過ぎるおハナシですね。
700万年史だって




造山古墳 (岡山市)  ← 岡山県総社市にある同音の「作山古墳」とは異なります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A0%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3_ (%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E5%B8%82)


造山古墳(つくりやまこふん)は、岡山県岡山市北区新庄下にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。

岡山県では最大、全国では第4位の規模の巨大古墳で、5世紀前半(古墳時代中期)の築造とされる[3]。墳丘に立ち入りできる古墳としては全国最大の規模になる。


岡山市西部、足守川右岸において丘陵を切断して築造された巨大前方後円墳である。墳丘は3段築成で、前方部の頂は壇状の高まりをなす。墳丘長は約350メートルを測り、大仙陵古墳(大阪府堺市、約486メートル)、誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市、約420メートル)、上石津ミサンザイ古墳(大阪府堺市、約360メートル)に次ぐ全国第4位の規模を誇る。周囲には榊山古墳(造山第1号墳)や千足装飾古墳(造山第5号墳)など6基の陪塚がある。現在に至るまで本格的な学術調査は行われておらず、内部は未発掘である。特徴として、墳丘の長さに対して後円部の割合が大きいことが挙げられる。

大きさから古代吉備にヤマト王権に対抗しうる、または、拮抗した強力な王権(吉備政権)があったとする見解がある。天皇陵に比定されている上位3古墳をはじめ近畿地方の巨大古墳が宮内庁により国民はもちろん学者・専門家も内部への立ち入りが禁止されているのに対し、ここは立ち入り出来る古墳では国内最大のものであり、全国的に見ても貴重である。

なお、総社市にも同音の作山古墳(つくりやまこふん)があり、地元では造山古墳は「ぞうざん」、作山古墳は「さくざん」と区別して呼んでいる。

前方部の墳丘は破壊されており、その跡に造山集落の荒(こう)神社が建てられている。同神社の鐘突堂の脇に置かれている手水鉢は、阿蘇凝灰岩製の刳抜(くりぬき)式の長持型石棺の身部分であり、風雨に晒されている。また、社の右横側後ろに石棺の蓋の破片が放置されている。この石棺はある時期に盗掘、乱掘されたものだと推測され、新庄車塚古墳より運ばれたものであるという伝承がある。この前方部の頂に祭祀に使用された台形壇があったと想定され、後円部への埋葬が終わってから作られたものであると考えられる。その大きさは、台形の短辺(下底)が約70メートル、長辺(上底)は約40メートル、両辺の間(高さ)約50メートルという大規模なものである。後円部へ向かうと広場と呼ぶに相応しい平坦部がある。墳丘上には3列に巡らされている円筒埴輪列が存在しているが、現在では地表に表れた埴輪片はほとんど拾いつくされ、見つけることが困難になっている。


後円部には隆起斜道(後円部に登る道)や掘割墓道(墓壙に至る道)が設けられていたと推定されるが、中世末には城砦となっていたため、相当の部分が作り直されていると推測される。後円部の頂は平坦で斜面の傾斜が強く、三段三斜面の築成であり、上斜面の傾斜が特に急になっている。それは禁忌(きんき)あるいは畏忌(いき)の考え方と結びついていたと考えられている。なお、後円部から直弧文楯、靭(ゆき)、蓋(きぬがさ)、家などの形象埴輪と円筒埴輪が多数採集されており、墳丘には葺石が葺かれていたとみられている。平坦部は羽柴秀吉の毛利攻めの際、毛利方が陣地を設けるために頂上を平らにしたことによるものと考えられている。このとき、後円部の周囲に土塁を築き、さらに郭を2カ所、竪堀を3カ所設けている。


造出は、元は左右対称の位置にあったものと推定されている。現在、左造出が残っており、右造出がないが元はあったと推定されている。左造出は前方部側面の括れ部に接して元は長方形であったと考えられ、上面で幅10メートル強、長さ約30メートル、高さ約2メートル強となっている。

周濠は長い間発見されず、有無をめぐって議論があったが2010年(平成22年)に行われた岡山大学文学部考古学研究室の試掘調査で存在が確認された。幅約20メートルと推定されている。また、葺石は角礫のごく一部が現れている。


墳丘の現在の形状、これまで出土した埴輪の制作時期などから考えて、本古墳の築造時期は5世紀前葉末から中葉はじめ頃と推定されている[5]。

記紀に現れる吉備津彦の陵墓は、足守川を挟んで西に5km弱ほど離れた岡山県内の中山茶臼山古墳(明治7年に宮内庁指定陵、築造は3世紀後半から4世紀)に比定され、現在はそれ以降の築造と考えられている。

古墳の被葬者について文献からは発見されておらず不詳である。宮内庁の陵墓参考地には指定されていないが、本格的な墳丘内部の学術的調査は不十分であり、考古学的にも被葬者について具体的には解明されていない。

足守川一帯は遺跡や古墳が多く(上東遺跡 - 弥生時代、楯築遺跡 - 2世紀後半から3世紀 、上述の中山茶臼山古墳、作山古墳 - 5世紀中葉、王墓山古墳 -6世紀後半 など、日幡城も古墳跡といわれる)、古来からの一帯を支配した勢力の首長級の陵墓、さらには、現在大阪府に残る陵墓以外では最大の規模の陵墓であることから、ヤマト王権に拮抗する勢力首長の陵墓とも考えられている。

一方で、吉備単独勢力の首長ではなく、ヤマト王権と連合した倭王のうちの一人の陵墓ではないかと見ている研究者[6]もいる。


現状は前述のとおり、前方部には社が建っており、後円部には戦国時代に改変されたと考えられる平坦部が存在し、さらには墳丘南東端に集落が形成されているなど、築造当時の状態からは破壊が進んでしまっている。このため築造当時の規模はまだ明らかになっていない。

2009年(平成21年)より岡山大学の調査チームによって築造当時の規模の特定、周濠の有無や築造年代を推定する遺物の確認を目的として、史跡指定地外の発掘調査が3年計画で行われた。その結果、後円部東側の調査区から周濠の存在が確認された[7]。

陪塚とされる6基の中小古墳(国の史跡)のうち、千足古墳では2009年10月に石障に描かれている呪術文様の剥落が発見されており、更に2010年5月には調査のため普段はほぼ水没した状態だった石室の水を抜いた際に白カビが発生する新たな問題も起こっている[8]。このため岡山市教育委員会は、石障部分を取り外して保存する方針を決めた[9]。実現すれば、高松塚古墳、キトラ古墳に次ぎ、国内3例目の事態となる。

2015年(平成27年)からは、10年程度をかけた墳丘周辺部での発掘調査が実施されている[3]。なお2016年(平成28年)には、大雨で墳丘斜面が崩れる被害が生じている[10]。



こうやっていろいろ調べていると
父方でセノオ氏と服部氏の関係
母方で孝霊天皇を介して同じ子孫であることが分かり
日本人ってホントに何重にも何世代にも何千年もの間しっかり繋がっていたのだなと。

700万年とまでは言わないけど。

ま、同じアフリカ生まれの猿人グループだったのは確かかもね。



[18]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月30日 04時11分24秒 ) パスワード

吉備真備公園の地図がうまく出なかったので改めてアップ:
http://www.navitime.co.jp/maps/poi?code=00011-070163349
[19]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月30日 21時21分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 妹尾兼門の妹と白河天皇との間にできた子が妹尾太郎兼康と言われており
ますが、この白河天皇の子に「敦文親王」がいて、どういう訳か遠州大久保
にて三歳で疱瘡にて亡くなっており、そのため、白河法王は1120年に、
白河山妙香城寺を創建しております。そこは、後の服部中の大久保陣屋の近
くであります。
 その寺は明治初年に廃寺となり、過去帳は休耕寺という寺に移管されてお
ります。
 でも、何であの白河天皇の皇子が遠州大久保に来たのでしょぅか? いろ
いろ不思議な巡り合わせがあるものです。ちょっと調べてみます――
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月30日 23時09分04秒 ) パスワード

三つ柏さん


>何であの白河天皇の皇子が遠州大久保に来たのでしょぅか?


ちらっと不確かな知識で書きますと


日本の歴史では
各土地土地の有力豪族は見目麗しき一族の女の子を朝廷に差し出したのです。

そして皇室の男達は手を出しましたから
子が生まれ
でも母の実家がたいしたことがないと・・・

後ろ盾にたいした力が無いと彼女は恋敵の皆さんによって朝廷を追い出されましたからね。



俗に言う「あんぱん」ですね。
「拝領妻」事件。

身分の高い皇室の男の手がついて
懐妊した女性は手ごろな男に下げ渡された
清盛もそうでしたね。


まだ他にも考えられますね。

現代の   #me too運動  とは違って
女性は長きに亘ってそういう理不尽な目に遭ってきた
ということですね。


なので白河天皇の子の「敦文親王」の


母上がどの豪族の娘だったのか?


どの人が乳母(乳母の夫)として遠江で育てたのか?


どの豪族に拝領妻として下げ渡されたのか?


そういうのが分かると謎がかなり解明されるのかもですね。


おそらく「敦文親王」の母上は長田家あたりかもですね。
当時の遠江あたりの豪族でしょう。
長田家が絡んでいるのかも。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月01日 02時39分42秒 ) パスワード

白河天皇:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87


女性関係

不遇な状況にある東宮の王子であったため、
治暦元年(1065年)に13歳で元服したが、妃の参入はなかった。
延久元年(1069年)に立太子した後、同年義理の従姉にあたる藤原道子が(女御)参入し、
同3年(1071年)には関白藤原師実の養女・藤原賢子(中宮)が参入した。


中宮となった賢子との仲は非常に睦まじく、
賢子の生前で白河天皇と関係を持っていたと記録に残る女性は、
女御となった道子の他は典侍・藤原経子程度であり、
数は必ずしも多くない。


↘ここから狂っていったのね

賢子の死後は正式な后や女御を入れず、
側近に仕える多数の女官・女房らと関係を持った。

晩年の寵妃となり権勢を持った祇園女御など、下級貴族の生まれでも公然と寵愛した。


↘これね

加えて関係を持った女性を次々と寵臣に与えたことから、
崇徳天皇や平清盛が「白河法皇の御落胤」であるという噂が当時から広く信じられる原因ともなった。


↘あらあら

また奔放な女性関係と併せて男色も好む傾向があり、
近臣として権勢を誇った藤原宗通、あるいは北面武士の藤原盛重、平為俊はいずれも男色関係における愛人出身といわれる。



だから
思わぬ地方あたりに「先祖」は「都の貴族」とか「なんとか天皇」の「ご落胤」という話があっても
必ずしもウソというワケじゃなくて
有り得たハナシだと思います。


続く
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月01日 02時44分35秒 ) パスワード

敦文親王
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A6%E6%96%87%E8%A6%AA%E7%8E%8B

(あつふみしんのう、承保元年12月26日(1075年1月15日) - 承保4年9月16日(1077年9月25日))

平安時代後期の皇族。白河天皇の第一皇子。母は中宮藤原賢子(藤原師実養女、源顕房女)。



生涯

承保元年12月、白河天皇の第一皇子として生まれる。
母は同年6月に立后した中宮・賢子であり、嫡子として期待された。

承保2年、親王宣下を受ける。

しかし、承保4年(1077年)9月6日、当時流行していた痘瘡に罹患し、4歳で夭折。翌7日に大谷山に葬られた(『永昌記』)。



ということで遠江のお話は  分骨  でしょうか?
恐らく  乳母の関係  でしょうか?

乳母の夫が遠江あたりの出身の豪族だった?
有力豪族として思い浮かぶのは長田氏あたり?

それで平家一門に長田氏が入っている???
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月01日 08時28分54秒 ) パスワード

PCの調子が悪くて今から入院します。
[24]三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月01日 13時29分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろお調べいただきありがとうございます。
 少し調べものをしていて遅れております。
 PCの調子が悪いということ、治るまでぼちぼち書いております……
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月01日 14時02分05秒 ) パスワード

三つ柏さん

戻りました。
さすがプロ、チャッチャッと直してくれました。
人間相手の医者よりは  マシ  でした。



敦文親王
(あつふみしんのう、承保元年12月26日(1075年1月15日) - 承保4年9月16日(1077年9月25日))

平安時代後期の皇族。白河天皇の第一皇子。母は中宮藤原賢子(藤原師実養女、源顕房女)。


実祖父は源顕房

村上源氏ですって!村上源氏だったら戦国時代は信濃が有名ですよね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A1%95%E6%88%BF

源 顕房(みなもと の あきふさ、長暦元年(1037年) - 嘉保元年9月5日(1094年10月16日))

平安時代後期の公卿・歌人。
村上源氏。
右大臣源師房の次男。
兄は源俊房。
妻は源隆俊の娘・隆子。子に賢子、雅実、顕仲、雅俊、国信、師子、顕雅、雅兼などがいる。
六条右大臣とも称される。
生年は1026年説もある。


ここからが面白いです:

娘の賢子が白河天皇との間に生んだ善仁親王が天皇に即位する(堀河天皇)と
村上源氏の主流となった。

                       要するに村上源氏の氏の長者に上り詰めた、ですね。


なお、顕房は久我に別荘を造営したことから、その後の久我家の家名の由来となった。

1094年(嘉保元年)、赤痢のため自邸(六条大路北・室町西)で薨去。後に正一位が追贈された。



村上源氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%BA%90%E6%B0%8F

第62代村上天皇の皇子を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。

支流・分家:
久我家 (公家)
中院家 (公家)
久世家 (公家)
東久世家(公家)
植松家 (公家)
六条家 (公家)
梅渓家 (公家)
愛宕家 (公家)
千種家 (公家)  もろ南朝ですね
岩倉家 (公家)
北畠家 (地下家のち武家)もろ南朝ですね
赤松家 (武家)
など


源氏には祖とする天皇別に二十一の流派(源氏二十一流)があり、
村上源氏はそのうちの一つで村上天皇から分かれた氏族である。

     こちらは堂上源氏で有名、ということですね
     武家源氏ですと清和源氏が超有名ですね

致平親王、為平親王、具平親王の各皇子を祖とする3つの流派がある。

その中でも具平親王の子孫の中院流が最も栄え、
久我家(嫡流)や中院家を始めとして10家の堂上家を輩出し、
源氏系の公卿では筆頭を占めた。


村上源氏の中でも最も栄えたのは、具平親王の子・資定王(のち源師房)の中院流の流れである。資定王は2歳で父親と死に別れ、姉である隆姫女王に育てられた。隆姫が後に摂政藤原頼通の正室となると、子供のなかった頼通は養子縁組をするために資定王を臣籍降下させ、源師房と名を改めた。頼通の父・藤原道長も師房を寵愛して娘の尊子を嫁がせた上に、頼通に男子が生まれなければ師房を藤原氏に改姓させて摂関家を相続させても構わないと言ったとされている。

師房が摂家を継ぐことはなかったものの、師房の娘・麗子は藤原師実、師房の次男である 源顕房の娘・師子は藤原忠実の正室となり、藤原頼長が「彼の右府(師房)外戚先祖と為す」[1]と記すなど結びつきは強く、子孫からは多くの大臣を輩出した。顕房の娘・賢子が産んだ堀河天皇の治世では、「左右大臣、左右大将、源氏同時に相並ぶ例、未だ此の事あらず」[2]、「近代公卿廿四人、源氏の人半ばを過ぎるか、未だ此の如き事あらんか」[3]とあるように天皇の外戚として隆盛を極めた。源顕房長男・源雅実は源氏として初めて太政大臣となる。その後、天皇の外戚の地位は藤原氏閑院流に奪われて源氏の勢力は後退する。

鎌倉時代になり、中院流嫡流の源通親は九条家に対抗し後白河法皇・後鳥羽上皇の院政下で活躍し、土御門天皇の外祖父として権勢を振るった。

通親の子・源通光以降は久我を家名とした。足利義満が太政大臣となるまでは清華家である久我家・堀川・土御門・中院の4家が交互に源氏長者を世襲したが、室町時代に堀川・土御門両家が断絶し[4]、久我・中院両家の世襲となる。

久我家からは大臣家となる中院家やその分家筋である北畠家、岩倉家、六条家の分家である千種家のほか、合計10家の堂上家を輩出した。南北朝期の北畠親房と顕家父子と千種忠顕、幕末の岩倉具視も村上源氏の支流にあたる。

その一方、村上源氏雅兼流と自称した名和氏や、同じく村上源氏季房流と自称した室町時代の守護大名赤松氏(および奥平氏)など、村上源氏の後裔と称する武家も数多く存在する。


へぇ〜
面白いですね


こうなるとますます  乳母の夫は長田氏?  と妄想が進みます。
長田家はもともとは(清和)源氏に仕えていたのを平家に鞍替えした記憶。

そして遠江で有名な源氏の武将というと頼朝の弟の蒲の冠者・源範頼ですね。
蒲御厨(浜松)で育ってますね。


ということは  何等かの関係があった  と連想が行きますね。

歴史って面白いですね。  

[26]三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月03日 00時33分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大正三年に編纂された『・名郡史 上』には、敦文親王を祀る「妙香寺」
について、次のように書かれておりました――

 「白河院御勅願の観音 神久呂村大久保に在り。往時、白河院御勅願の
 ため御建立の御観音を奉祀せる御堂あり。御勅使、東海道より志都呂を
 経て、御参向相成り、その都度志都呂まで御勅使を出迎えたるは、当地
 に御勅使の松・御船森の古跡あるを見ても知らる。同院第一皇子敦文親王、
 承暦元年(1077)八月六日、当地御勅願に御勅使として御参向中、重き痘瘡
 に御悩み給ひ、遂に御薨去あらせられたるを以て、御勅願観音奉祀の側
 に、御墓所を定め給ひ、石の唐櫃に朱詰として此処に御埋棺せられたる
 古墳あり。同皇子の菩提を弔うために、妙香寺を建立せり。
  白河や流れもたえで久しきを 帝のめぐみ今ぞあらわす
 との御詠歌を額に掲げ、往時を偲ばせらる。維新当時、同寺は廃滅とな
 り、その額、今は同地新福寺に存す。御埋棺の霊地としては、皇子の名
 と共に、一基の石塔を遺すのみ。」
ということであります。信憑性については、完全でないにしてもある程度
の事実は伝えているものと思われます――

 白河天皇と平家、そして遠江、掘り下げればいろいろ出て来そうです。
 長田氏もたしかに何らかの関係があるかもしれません……今、調べてお
ります――
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月03日 02時00分59秒 ) パスワード

三つ柏さん


わたくしの予想はみごとに外れましたね。



>信憑性については、完全でないにしてもある程度の事実は伝えているものと思われます――


信憑性
これに尽きますね


>同院第一皇子敦文親王、承暦元年(1077)八月六日、当地御勅願に御勅使として御参向中、重き痘瘡に御悩み給ひ、遂に御薨去あらせられたる

今の年齢にして2歳8か月で  御勅使????
京都からはるばる遠江まで遠足???

敦文親王の「代理」が御勅使として遠江に来てその間に敦文親王が疱瘡で亡くなっていたから、同皇子の菩提を弔うために妙香寺を建立せり、というハナシなら納得なんですが。


日本の歴史の記載って  ホント  どこまで何の話なのか?  というのが分かりません。


大筋に於いてはそうなんだろう   1077年に第一皇子が亡くなった  その時に御勅使が遠江に来てた

しかし

御勅使とは第一皇子自らなのか?
第一皇子の代理で来てたのか?


だって第一皇子ですから将来の天皇候補の筆頭ですよ
今でいう2歳8か月あたりで遠江まで出掛ける?


ホント!
歴史って謎だらけ


改竄・捏造・でっち上げ・伝聞・願望


>同院第一皇子敦文親王、承暦元年(1077)八月六日、当地御勅願に御勅使として御参向中、重き痘瘡に御悩み給ひ、遂に御薨去あらせられたる

この文章には「何」が欠けて書かれたのか?
真相は藪の中ですね。
[28]三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月04日 14時46分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:濱名郡史=浜名郡史 「濱」が「・」になっておりました。

 昨日は「てっさ・てっちり」を食し、「ひれ酒」をたらふく飲みました。
冬の季節ならではの味覚と贅沢でありますが、やや二日酔い……。

 さて、白河天皇の子が何故遠江大久保に?という疑問でありますが、三歳
の子を皇后の賢子が遠くへ派遣するであろうかということを考えると、大久
保の妙香城寺にあったという過去帳に記された「白河院の一皇子、疱瘡で崩
す」という文はいいにしても、この地で薨去されたという説明については、
どうも疑わしいような気がします。それよりも、妹尾兼門の妹と白河天皇の
間に子ができ、それが妹尾太郎兼康であったというようなことの線から、何
か新たな事実が出てこないかなあと勘ぐっているのですが……?
 近い内に、大久保へ行って、今は休耕寺に残されているという証左を見て
きたいと思います――

 それにしても、白河天皇を取り巻く人間環境は動きがとれませんねえ!
天皇家、摂関家、源氏、平氏……たいへんでした!
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月05日 03時53分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


>近い内に、大久保へ行って、今は休耕寺に残されているという証左を見てきたいと思います

はい
和尚さんにお話を聞けると良いですね
どんなハナシが伝わっているのか。


きっと
    勅使が遠江に来ている間に敦文親王が亡くなって
    その菩提を弔った
    それが妙香寺さんだった
という話だと思うのです。

なので妙香寺さんが「建立された」というハナシは「伝説」だと思います。


神話の好きな日本人ですから伝説も好きなのだと思います。
    神話は「神様」のお話で
    伝説は「人間」のお話です。

ということで
こういうメンタリティが日本人の歴史なのだと思います。
ホントのことも確かに存在しているのです。(確かにその時、親王が亡くなった件)
でも尾鰭がつくのが日本人のメンタリティ。
そこには「幼くして亡くなった。かわいそうに」という人々の気持ちが込められている。

だから真偽は問わない。


良いハナシは追い詰めない
これが日本人だと思います。


実は昨日ある人にコテンパテンにやられたのです。
   100回語ればホントらしく聞こえる
   1000年語り続ければホントのハナシになる
あはは


そう言えば子供の時、ある医者に
ワタシ:それってホントのホント?
某医者:ホントのホントってあるのか?ホントのウソとかさ
と言われたのを思い出しました。


以来、ハナシとはどこまで事実を伝えているのか、そういう事に興味が行きました。その事実とは真理なのかとか。

ジャーナリズムの授業で
「これは事実」「これは主観」
という区別をやりました。
ファクト・チェックですね。


だからいろいろな方向から調べないといけない、ということですね。
で、迷子になる。




>天皇家、摂関家、源氏、平氏……たいへんでした!

はい
孫の鳥羽天皇がねぇ
この人がとんでもない人だったから天下が乱れることになりました。
[30]三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月06日 00時24分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 白河法王、鳥羽上皇、崇徳天皇の関係……白河法王の崩御にて崩れます。
 
 どういう訳か、私は学生の頃、京都の金閣寺のすぐ側のアパートに住ん
でおりましたが、そこはあるお寺さんが経営しており、名前は「崇徳洗心
寮」といいました。そのお寺は千本通りにあるお寺でしたが、その頃は歴史
には興味はなく、崇徳という名前も聞き流しておりました。
 今から思うと、もっと訊いておけばよかったと思います。崇徳天皇といえ
ば――
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月06日 02時36分53秒 ) パスワード

三つ柏さん


金閣寺の南の方に白河法皇を火葬した場所があるのですよね。
                        衣笠西馬場町
                        もう少し南には後朱雀天皇の火葬塚もある
白河法王は自分の死後に遺体に狼藉されないように結局は荼毘に付させた
とか。


ホントに今頃(え?)ですよね
すぐ近くに下宿してたのに、って。
残念でした。
ふふふ

ま、そんなものですよね。
一応土地勘はお有りですから、いつか京都にお出かけになってご覧になって下さい。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月06日 09時34分50秒 ) パスワード

三つ柏さん


え?そうだったの!
ビックリのお話をコピペ:
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54373


そもそも  「大 麻」とは何か?日本がいま考えるべき「マジメな使い方」
世界における乱用の実態と規制の現状


「大 麻」とはどのような薬物なのだろうか。

よく耳にはするものの、どんな薬物でどんな作用あるのか、実際よくわからないという人も多いのではないだろうか。



そもそも「大 麻」とは、アサ科の植物、大 麻 草 のことであり、この葉や花穂などを乾燥させたり、樹脂化したりしたものを吸引する。

マリ ファナは葉を乾燥させたもので、これをタバコのようにして吸煙する。樹脂化されたものは ハ シ シ と呼ばれる。


「大 麻」に含まれる「有効成分」は、テトラヒドロカンナビノール(THC)と呼ばれる物質で、
これが脳にあるカンナビノイド受容体に結合することで、幻覚作用や多幸感をもたらす。

一時期問題になった「危険ドラッグ」の多くは、合成カンナビノイドを主成分としたものであった。



神道とは切り離せない関係

「大 麻」は広くわが国にも自生する植物である。

10年前、網走刑務所の構内に 大 麻 が自生しているのが見つかって大騒ぎになるという「事件」があった。
その植物を毎日目にしていた刑務官は、それが 大 麻 だとは気づかず、気づいたのは受刑者だったという笑い話のような顛末だった。


大 麻 は日本の神道とは切り離せない関係にあり、古くから神事に用いられてきた。
その薬理作用ゆえか、古来、大 麻 は神の宿る神聖な植物であるとして注連縄に用いられたリ、
その繊維を用いて「あらたえ」と呼ばれる布を織り、神々に献上されたりしていた。


大 麻 を司っていた豪族は忌部(いんべ)氏であり、
忌部氏が権勢を誇った徳島県吉野川流域には、大 麻に関連する地名が多く残る。

たとえば、鳴門市には 大 麻(おおあさ)山という山の麓に「大 麻 比 古(おおあさひこ)神社」という由緒正しい神社がある。

その神社のすぐそばには、四国八十八か所の一番札所である霊山寺(りょうぜんじ)がある。まさに、四国で一番スピリチュアルな場所だと言えるだろう。


また、そこから吉野川を上流に遡った所には、平成の市町村大合併まで、「麻植(おえ)郡」という地名もあった(現吉野川市)。
ここも忌部一族が権勢を振るった地域であったという。


現在アメリカで盛んに 大 麻 製剤を開発・販売している大塚製薬は、鳴門市を発祥の地としており、
忌部氏との繋がりを彷彿とさせるものがある。


もしも、その繋がりが本当だとすると、古墳時代にまで遡ることのできる 大 麻 の物語に歴史的ロマンを感じるのは私だけではないだろう。


以下略


ビックリですね。

良い子の刑務官はそもそもマリ ファナなんて見たことが無いから現物を目の前にしても分からない。


アメリカでも子供が栽培してて母親に「トマトの苗だ」と言って母親がすんなり信じた
なんて話もあります。


母子留学でなくて単身留学の子供が時々捕まって日本に送還されたりします。
一生ビザ無しでアメリカに入国することが出来ないです。
せっかく英語を習得してても。


北海道は確かに マリ ファナが自生しているとは聞いていました。
新月の夜に車のライトを点けずに採取に行く、なんて話を聞いたことがあります。
パトロールに見つからないように。



四国で老婆達が 大 麻 を栽培して吸ってて逮捕された事件も記憶しています。
老婆達は「疲れがとれる」なんて言ってたとか。
それで「忌部氏」の名が出てて、ヲヲッとなりました。



わたくしも渡米当時は某アメリカ人の家の植物のポスターで「プラントパワー」と書かれている意味が分かりませんでした。


そうか
 大 麻 と日本人は切っても切れない間柄だったのか。


知らないもんですね。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月06日 09時49分06秒 ) パスワード

最後の「5」の最後の部分のコピペ:

病気の根絶や不老不死が、叶わない願いであることは誰もがわかっている。しかし、せめて人間らしく、尊厳をもって死にたいという願いもまた、贅沢で非現実的な願いなのだろうか。

日本人が古の時代から神に捧げてきた不思議な力を持つ植物が、その願いを叶える力を備えているというのなら、それはまさに神からの授かりものなのではないだろうか。

以上


そうか古代人の「万能薬」だったのか。
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月06日 12時04分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様、歴史の裂け目を覗くと、そういった秘密=真実が出て来るので
すね。
 正常、通常、表面的な歴史からは、本当の真実は窺えません。

 忌部氏の「麻」に服部氏の「絹」――どちらも神に奉げる、あるいは近
づくために作られた?

 麻の薬効は「神がかり」のために? 絹は「死と再生」の象徴として?

 歴史へのアプローチは、こうしたある種の「宗教」的観点から見ると、
また新たな真実が見えて来ると思います。私も大変興味を抱いておるとこ
ろであります……。

[35]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月06日 14時31分16秒 ) パスワード

三つ柏さん

本当に驚きの情報でございました。


>歴史へのアプローチは、こうしたある種の「宗教」的観点から見ると、また新たな真実が見えて来ると思います。


はい。

一応・・・中東の・・・・宗教儀式で男の人達がグルグル回転する神事は知っていました。
そして  ハ シ シ  というのをやって神と一体化するというハナシも知っていました。


でも樹脂のことは全く知らなかったです。
そして  日本の神事についても  まさか  大 麻  が関わっているとは知りませんでした。

素材が麻の衣類は知ってます
昔の日本は綿の前は麻を着ていたし
夏の衣類として最高です
すぐに乾くし洗った後シャンと繊維がするし。


だいたい   衣類の麻はラミーだと思ってました  吸引用の 大 麻 とは種類が異なる  と思ってました。


忍者の訓練に  麻を植えて  育つのに合わせて高く飛ぶ練習をする  というのは知ってました。成長が早いから。


大 麻  はものすごく大きく育つ植物で
恐らく普通の日本人には想像出来ないサイズの葉っぱだと思います。
日本の植栽の葉っぱは結構小ぶりですから。


「宗教」って・・・
日本の古代宗教のイメージがガラガラと崩れました。


あ、アメリカのネイティブもある種の 麻 薬 効果のある物を使用し、この場合は合法です。


国連が非合法としている以上、日本は「国際なんちゃら」というのが好きですから宗教行為でも使わないようになってるのでしょうね。


特攻が出撃の時に何やらの  麻 薬  を服用すると聞いていましたが
戦後は一斉に一応禁止方向になって来たのでしょうね。


そうか・・・
巫女さんの神おろしとか神様からのご託宣とかは  麻 薬 効果だったのかもですね。

なるほどねぇ〜
知らないものですね
気づかなかったです。
[36]三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月08日 00時05分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ここ二日程は、早朝の気温がマイナスであります。今年は極寒の冬となって
おり、早く暖かになってほしいと願うばかりであります。気分も体も縮んでし
まっております。

 現場100回というか、郷土を中心にして、もう一度見直し作業を推し進め
ております。近場を回ったり、郷土史の本を開いたりしております。

 調べれは、また今までには出てこなかったことが出てまいります。今それに
ついて述べられないのは、理解のハードルが高いからであります。その内に、
手がかりをつかめると思っております。

 いずれにしても充電中です――
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月08日 02時46分23秒 ) パスワード

三つ柏さん


寒いですね
さすがにワタクシも長袖を着ています。



こういう寒い時の芝刈りは脳卒中を起こすかも知れないのでお気を付けください。


現場100回
時々頭の中を空っぽにする為に違う方向に飛んだりして
また現場に戻ってください。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月10日 07時08分25秒 ) パスワード

ここの所、日本の歴史を紐解いてました。
先祖への感謝ばかりです。
過酷な日々をよくぞ耐えた、と。


そして眞子さまのご結婚のことも考えてみました。
去年の5月あたりにNHKがバラしたんでしたっけ?

それでバタバタと結婚するってハナシになって
眞子さまは結婚しなくてはならなくなっていったのかな?
なんて。

流れで結婚をする方向になって行くって
庶民じゃあるまいし
よくぞ立ち止まった
とその勇気に驚きました。


NHKに垂れ込んだ人物がいたのでしょうね。
ま、トクになる人でしょうね。


そして もう一度よくよく  「勢い」や「気持ち」だけじゃなくて
結婚とは何か 自分の結婚で回りに影響を及ぼさないか


こういう事って私達の先祖にもあったのだろうなと。
自分の名字の古さを考えると千年を超える日々戸惑って来たのだろうなと。

噂や政治だけじゃなくて天候にも左右されて来たし。
どれだけ泣いて来たのかな、と。

自分が今こうして息をしているというのが奇跡だなって。
先祖には感謝しなくてはね。
[39]三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月10日 19時26分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 寒さがいくぶんゆるぎました。
 胃カメラの結果もOKです。
 血圧もヒハツ(サプリ)のおかげで安定しています。
 その他、いくつかのプレッシャーから解放されまして、気持ちが楽になり、
山登り(低い山)へ行ってまいりました。

 そこは、浜北原人の骨の出た岩水寺の奥にある山ですが、上ると南には天
竜川の大扇状地、その奥に遠州灘、東には遠く富士山が望めます。大パノラ
マでありますが、古代の人は、三河から三ケ日、気賀、都田、そして浜北の
宮口、岩水寺と一筋の道をたどり、小高い所から同じような光景を目にして
感激したであろうと想像できました。
 
 地形から、この地域の歴史を振り返ってみたいと思っています――
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月11日 03時27分24秒 ) パスワード

三つ柏さん


>浜北人

1960年〜1962年にかけて、根堅洞窟の堆積より、 脳頭蓋、下顎智歯、脛骨片、鎖骨、上腕骨、尺骨、腸骨の骨片からなる20代女性のものと推測される同一個体の化石が鈴木尚、高井冬二、長谷川善和らの手により発見された。

これらは更新世後期のものと推定され、骨の形態から新人に属するという。


縄文人と類似した形質から、その祖形と推測される。
このほかにもトラなどの動物が発見され発掘された。


現在は東京大学の総合資料館に保管されている。


年代の特定

年代の特定は化石人骨では全国初となる炭素14法によって実施され、約1万4000年〜1万8000年前のものであるとの測定結果が出されており、旧石器時代の化石人骨である事が確認された。


ビックリですね。
縄文人より古いんですから。


そんな前から住んでたんですねぇ。しみじみ


20代ということは既に老婆の域だったんでしょうね。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月11日 08時27分56秒 ) パスワード

本日見た「サイエンスZERO」は面白かったです。
見えないものが見える
というのです。


例えばピラミッドの女王の間・王の間はこれまで知られていたけど
今回
王の間に行く回廊の隣に200人乗りジェット機サイズの空間が発見されて
ひょっとするとクフ王のミイラがあるんじゃないか
なんて期待されているとか。


例えばヒッタイトの鉄の武器。
ヒッタイトは鉄器を用いてエジプトを襲っていた件
ところが中東は土に塩分が多いから鉄は錆びて形が残らない
だからヒッタイトの鉄器とか鉄の武器というのが存在しない
そこへ今回
岡山の青銅器の剣の中の柄の芯がなんと鉄だった
というのが分かったのだそうです。

初めは鉄器だったものを鉄は錆びてボロボロになるから青銅で剣の部分を作り
柄の部分も青銅で保護した
そういうのが分かるようになったのだそうです。


例えば土器。
縄文時代の土器の圧痕を調べると
その穴にシリコンを流せば圧痕が何によって出来たのかが分かって
蜘蛛の死骸だったり
ゴキブリの卵の鞘だったり
大豆の変化が8000年前から4000年前までの間に大きさが改良されてきたこと
つまり
縄文時代とは「狩猟採取時代」ではなく「狩猟栽培時代」だったことが分かる

などなど目からウロコでした。


歴史って目がする確認だけでは何とも言えないこと
    記録に書かれていないから「無かった」とは限らず
    「書かれているから」存在してたとも言えず
でも
これまで明らかではなかったことがこれからは分かる時代が来る
そういう時代に我々は生きているのです。


三つ柏さんもご先祖さまの「手掛かり」が見つかるといいですね。
いえいえ実は見つかっているのかも知れないですね。
ただ単に明かりが灯らないだけかも。

ま、ボチボチ頑張っていきましょう。
[42]三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月11日 11時29分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いい話、ありがとうございます。歴史の検証方法も、科学技術の進歩と
共に、発掘現場ではどんどん進んでいる。我々の常識は、常に更新してい
かないと、どんどん的外れになってしまうということ。常に新しい情報を
仕入れていかないといけないですね。

 歴史の解釈も、やはり最先端の説に変えていかないといけないですね。
何十年も前の歴史本を正しいと思って理論立てしても、そもそもそれが間
違っていることはおおいにあるということですから。
 その辺の判断は、我々素人にはなかなか難しいことではありますが。

 歴史の謎と興味は、超古代へ行くに従って高くなります。それは、超文
明、超能力、超技術がそこにあるからだ思います。歴史の井戸は、深く掘
れば掘るほど、穴の底は広くなっている―これが事実だと思います。
 つまり、失われてしまった超文明があり、我々はその残滓をたどりなが
らもまた技術を発展させて行く。アナログ技術とデジタル技術の違いかも
知れませんが、アナログの方が強い場合もある。福島の原子炉の中の様子
を見ようとしても、デジタル機器は放射線に弱く、アナログ機器の方が強
いということが今再認識されています。
 
 人間の持つアナログパワーには、まだまだ計り知れないものがあるよう
な気がします。大麻や水銀を使ってまでもそれを追求してきた呪術的宗教
的歴史をみれば、やはりそれなりの世界がある。アナログパワーの追及は
未完ながらも、永遠のテーマであると思います。

 古代人の感じ方・考え方を、古代人と同じ状況を想定して捉える必要が
あると思っています。
 自然、地形、道(水陸)、移動手段、食料、部族集団、言葉、宗教感、権
力、支配体制等、すべてが今と違っております……。

 歴史の想像力の根底におかなければならないのは、まずは地形と道であ
ると思います。今は自動車による移動・運搬が常識となってしまっており
ますが、自動車のなかった過去の世界においては、地形もままならなかっ
たでしょぅし、道もなかった。そして自動車はもちろんなかった。あるの
は海、海岸、川、湖、原野、山であった。そして、移動は人自ら、馬、舟
であったと思います。このなかでも、舟は今の車と同じ価値があり、利用
されたのだと思います。小さなカヌー並みの舟であったと思います。実は
その方が、危険からの回避が容易であるからであります。海の危険性は、
風と波であります。小舟ならば、すぐに海岸に寄せ、陸揚げすることも容
易であります。大きな船はコントロールが効かない。従って座礁してしま
う確率が高い。
 ということを頭に置くと、ヨットのように風上方向にも進める帆船の出
現は後の時代にしても、少なくとも人力の「櫂」、プラス「帆」くらいは
利用していたのではないか。想像以上に舟は使われていたのではないか…
…歴史書の中で、一度確認してみたいと思っております――

 
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月12日 08時35分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


>想像以上に舟は使われていたのではないか

「舟」
これが凄いんですよね

     物を1度に大量に運べる
     人が1人で運ぶのは限られますから。
     すごい知恵ですよね。


大昔の人々は舟でヨソの土地に移動した
これを現代人が同じようにやろうとしても
現代人が失敗する。

一体古代人にはどんな知恵があったのか?


最近も舟で九州に渡ろうと実験航海に出た学者達がいましたが
黒潮がとてもとても渡れなかった。
どんどん流された。
命の危険にさらされて結局は実験を断念した。


古代人の移動を紹介した歴史書には舟で(簡単に)大陸から九州に渡れたかのように書いてあるものの
実は現代人には想定外の知恵が古代人にはあったらしい。

             星を頼りに、とか
             風に吹かれて、とか
             そんなのは後付けでしか無いのか?
 
             一体どうやって渡るkとが出来たんでしょうね?



浜北人の女性のDNAが採取出来たらいいのにね。
現代の浜北あたりの女性の中に彼女の遺伝子を持った人が見つかったらモノスゴイ発見ですよね。
もうとっくに取り出そうとしたのかな?        
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月12日 13時09分44秒 ) パスワード

岡山の青銅の剣について書きましたが
岡山って古い時代からの土地だと思って来て
ヒッタイトの話をテレビで見てた時につくづくそう思いました。


で以下は友人からの話です。


敦賀の金ケ崎城ですが,
この城,平維盛が北陸行くときに築城したと言う事になってますけど,
敦賀市教育委員会が発掘したところ,5世紀には確実に存在していたようです。

それで,維盛は金ケ崎城を築城したのでなく,改修したのだと言われています。


では,誰が金ケ崎城を築城したかと言うと,最近,応神天皇か応神天皇と戦ったツヌガノアラヒト説が強くなってきています。
いずれも5世紀初頭の人物で,ツヌガノアラヒトは,気比神宮の神様ですし,敦賀の地名の由来になった人物です。

日本書紀によると,新羅からの渡来人で,気比神宮あたりにいた。
そして,大和の応神天皇と対立して,応神天皇が敦賀に攻め込んだ。
ところが,日本書紀はぼかしてますけど,応神の方が負けて,ツヌガノアラヒトが,応神朝を乗っ取り天皇になったようです。

日本書紀に,応神と名前を交換したと言う記述があるからです。
古代,戦争に負けたら,命だけでなく,名前も取られたようです。
日本武尊は,最初からこの名前でなく,スクナビコノミコトと言いましたが,
キクチタケルノミコトを殺しました。
その時,キクチタケルノミコトの名前を奪って,日本武尊と改名したと日本書紀にあります。


金ケ崎城の小ささに驚かされますけど,これ5世紀に築城されたとしたら,この時代,人口が少ないですから,500名でも大軍でした。
ですので,金ケ崎城も,500名くらいの兵士を収容できれば良いわけで,大きな城造る必要がないわけです。
因みに,金ケ崎城は,今のところ,日本で二番目に古い城と言われています。



日本最古の城は,岡山県の鬼城だと言われています。
桃太郎の鬼が島になった城ですけど,
この城も発掘してみたら,3世紀後半〜4世紀に存在していたらしいと言う事が分かりました。

3世紀は,卑弥呼の時代です。
4世紀は,日本が統一された世紀です。


それで,鬼城ですけど、出雲と吉備の鉄の道の奪い合いで,築城された城ではないかとされています。

以上
[45]三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月13日 00時34分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 鬼城は近々ツアーで行く予定でしたが、人が集まらず没。残念であります。

 応神天皇と敦賀の関係、敦賀がどれだけ栄えていたのか、一度調べてみた
いと思っています。『古代史の謎は海路で解ける』(長野正孝著)の中に応神
天皇と敦賀のことが載っています。

 船について調べてみましたが、明治以前の鉄道や自動車のない時代には、
舟はやはり一番の移動・運搬具であったのは間違いありません。記録には
余りにも多すぎて、ちょっとまとめようがありません。
 縄文時代は海進があって、海岸線はいたる所、入江になっていたであり
ましょうから、まずは丸木舟が発達、大いに利用されたと推察いたします。
 どの時期にどんな舟ができたかは、今後世界的な問題として考えて行き
たいと思います――
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月13日 08時00分53秒 ) パスワード

三つ柏さん


>鬼城は近々ツアーで行く予定でしたが、人が集まらず没。

残念でした。
これは岡山の宣伝不足ですね。
「桃太郎」のお話に甘え過ぎて地元が努力をしてないってことでしょうね。

戦後「桃太郎」のお話は侵略主義のお話ということで禁止されてたそうです。
侵略主義?
へぇ〜


岡山が磯田先生を手放したのは残念でした。
あはっ
[47]三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月13日 16時12分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部氏族関係の調査で、まだやり残していることがありました。

 それは、津島の服部氏関係、及び南朝関係であります。

 近日中に行こうと考えております。

 行く所は――

 @津島図書館………服部一忠等の津島服部氏・大橋氏に関する資料探し
 A津島神社   
 B雲居寺……………服部宗純開基 服部小平太の菩提寺
 C海善寺……………路地裏奥に良王神社(熊野神社)
 D成信坊……………一向一揆・教如の身代わり
 E大龍寺……………良王が尹良親王の菩提を弔うために建立
 F瑞泉寺……………良王菩提寺
 G龍渕寺……………賤ヶ岳七本槍の平野遠江守長泰が開基
 H弥富の服部家住宅

等であります。
 
 服部一忠に対して、二つの点で気になっております――
 
 @服部中保次との関係・行動が、現実的にどんなものであったのか。
 A服部一忠一統の、秀次事件での衝撃と離散はどうであったのか。

 秀次事件の裏では、家康の情報組織がうごめいていたようです。豊臣方
の家臣を寝返らせて、徳川方に引っ張り込もうという策略……。
 事件前後、一忠の家族が遠州の服部中家を頼って逃避して来た可能性も
なきにしもあらずと考えられます。何せ、遠州浜松は徳川の傘の下のサン
クチュアリでありました――
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月14日 03時47分57秒 ) パスワード

三つ柏さん

>賤ヶ岳七本槍の平野遠江守長泰

名字からすると南朝方ですね。



父親が平野氏に養子に入ったそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8E%E9%95%B7%E6%B3%B0


平野氏は桓武平氏直方流と称した鎌倉幕府の執権北条氏の庶流横井氏の流れを汲むという。

                       泰時の孫の子孫が尾張に来て横江を横井に変えて尾張藩の重臣になりました。
                       現在泰時の孫の子孫は35代目36代目37代目あたりで存続。


尾張国海東郡津島の住人となり、中島郡平野村を領したことから村名を姓とした。

ただし父平野長治[5]は元は船橋右京進と名乗り、

                       舟橋さんは南朝方

                       楠正成の配下に平野将監重吉がいます。大阪の人だけど
                        http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8E%E9%87%8D%E5%90%89
                       

 
長泰の外祖父平野萬久入道[6][7]の婿養子となった人物で、
長泰自身は父系としての北条氏の血筋ではなく、母系の系統に過ぎない。


                       父:平野長治、母:堀田道悦(正定)の 娘
                       堀田さんも南朝方
                       兄弟姉妹:長時[1]、長景[2]、(長泰)、長重、長和、武右衛門、女(真野興次[3]の養女)
                       真野さんも南朝方


永禄2年(1559年)、長泰はこの長治の三男として生まれた。通称を権平、諱は初めは長勝と言った。



天正10年(1582年)の本能寺の変の後、秀吉と柴田勝家が対立し、天正11年(1583年)に賤ヶ岳の戦いで決戦をした際に、福島正則、片桐且元らと共に格別の働きをして一番槍の巧名を顕したと賞され、賤ヶ岳の七本槍と称えられた。その功績によって河内国で3,000石の知行を与えられた。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、4月9日、長久手で羽柴秀次が敗走した時に長泰は敵に突進して首級を挙げ、5月1日、二重堀砦の戦いでも奮闘した。

文禄4年8月に2,000石の加増となり、大和国十市郡田原本近隣七ヶ村において5千石の知行を与えられた。

慶長3年(1597年)3月15日、従五位下遠江守に叙任され、豊臣姓を下賜された。

慶長5年(1600年)、徳川家康の会津征伐に従軍して、関ヶ原の戦いでは東軍に属した。徳川秀忠に従って中山道隊に加わったが、これは関ヶ原の本戦には間に合わなかったために目立った手柄を立てることはできなかった。

しかし以後も秀忠に仕え、慶長17年(1612年)、二条城の御殿の普請に加わり、その功を賞された。

ところが、慶長20年(1615年)の大坂の陣では一転して旧恩に報いようと豊臣方に合流しようと奔走し、家康に直訴したが、許されずに江戸留守居役を命じられた。

以後は波風を立てず、旗本として、秀忠の安西衆の1人に取り立てられて、3代将軍家光の代まで長寿を全うした。享年70。
子孫は3代の長政の代で早くも血統は途切れ、他家より養子が入るが、9代続いて明治まで存続し、明治新政府の高直しにより大名・田原本藩となった。


1. 五郎左衛門。加藤清正の家臣。
2. 九郎右衛門。豊臣秀頼に仕え、大坂城落城の際に討ち死。


へぇ〜

人間の一生とは不思議ですね。
[49]三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月14日 07時43分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 とりあえず、本日は天気も良く、若干暖かそうなので、行って見ることに
いたします。
 今回、日程的にどこまで回れるかわかりませんが、また行くという手もあ
ると思っています。
 それでも、何らかのお土産話は拾ってくるつもりです――
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月14日 15時02分57秒 ) パスワード

三つ柏さん


>また行くという手もあると思っています。

はい
無理せず次回の楽しみに
ということでご無事のご帰還を。

インフルエンザなんか拾わないように!
あはは
[51]三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月14日 22時00分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 家を8時30分に出て、第二東名浜北ICまで5分。
 そこから岡崎SAまで40分。
 そこから名古屋ICまで20分。
 そこから蟹江ICまで20分。
 インターを下りて、津島市立図書館まで20分。10時15分到着。
 合計1時間45分。
 距離では、130q、でありました。
 イメージより、意外と近く感じました。
 蟹江では、田園風景がみられました。
 田んぼがあると、何かホッといたします。
 気温は、5℃でした――

 

[52]三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月14日 23時17分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今回、行ってよかったと思っています。人間のイメージ力なんて全然ダメ
だということが、やはり現地へ行ってみてよくわかりました。現場100回
ということ、つまり現地の時空間の中に身を沈めるということ、頭だけでな
く、体全体でものを感じるということ……正解です。

 津島市立図書館では、10時30分より午後の3時まで、資料にあたりま
した。それらを列挙しますと――

 @『津島ゆかりの素晴らしき人々 津島人物伝』
 A『津島叢書 張州雑志抄』
 B『津島歴史紀行』
 C『近世の津島を考える』
 D『海部・津島の歴史とくらし』
 E『知る見る歩く つしま街道浪漫』
 F『つし丸・マッキ―・ふじかの歴史探検隊』
 G『浪合記天野信景戯作説弁駁』
 H『南朝秘史』
 I『津島を見守る良王さま物語』(漫画)

でありました。司書の方が、館長さんを紹介してくれましたので、館長さん
と有意義な話ができ、貴重な資料もいただきました。Aの『津島叢書 張州
雑志抄』は、館長さんが服部小平太関係に関する資料ということで、探して
くれたものであります。私一人では探し出せなかったと思います。よかった
よかったです。
 館長さんと話をしてみて、津島は南朝と大いに関係しているということが、
よくわかりました。それは、つまり宗良―尹良―良王で遠州浜松・井伊谷と
つながっている、両地域ともコアが一緒であるということを強く認識いたし
ました。嬉しくなりました。

 本日の報告はここまでにしておきます――


 
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月15日 02時11分58秒 ) パスワード

三つ柏さん

すごい!
津島の歴史がバッチリじゃないですか。
これが分かると尾張の南朝方が分かりますし三河の南朝方も分かって来ますし当然遠江の南朝方も分かります。

                       戦争って
                       現代的には  経済  が活性化しますが
                       あの当時は敗者復活戦だったというのが分かりますね。
                       信長 → 秀吉 → 家康  の流れが必然だったのかと小一時間。

わたくしも感動しております。
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月15日 02時24分06秒 ) パスワード

新しくスレッドを立てました。
キリの良いところでどうぞ。

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101625.html
長上郡の服部氏族CX(課題確認48):105
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