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 投稿番号:101617 投稿日:2017年12月29日 05時07分27秒  パスワード
 お名前:三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族CV(課題確認46):103
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101615_56.html
長上郡の服部氏族CU(課題確認45):102
の続きです。


      自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
      最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。



長上郡の服部氏族CU(課題確認45):102はスゴイ発見がありましたね。

A.AKECHIさんよりの情報で
明智光秀公と伊賀の服部家の繋がりが見えました。
新たな課題は
明智家の重臣だった斎藤利三の娘の春日局と服部家の繋がり
の究明ですね。


そして磯田先生が関の服部家の古文書に関心をお持ちだという情報。
関の服部家も信長の伊賀侵攻で幼子1人を残して一族が殲滅されたこと。
この子は宝飯郡に落ちて助かったということでした。

スゴイ展開になりました。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月29日 05時14分52秒 ) パスワード

A.AKECHIさんからご紹介された
「喜多村家傳   明智家譜 及び 明智系圖」
http://www.shinshindoh.com/akechi.html


明智光秀公と伊賀の服部家との関係の部分をコピペ:

一、光秀北室者伊賀國柘植城主喜多村出羽守保光女也此腹天正十年壬午元日午刻男子誕生号明
      智内治麻呂於園城寺鎮守新羅社有氏■(参)儀式氏先祖新羅三郎義光社■(参)任古例神楽催
       烏楽等叮嚀執行之


一、坂本落城之節内治麻呂當城也母室乳母侍女共迷煙中佐々木義郷旗頭鯰江左近嫡同帯刀入城
      中節桔梗箭車之両紋以紅染入着諫単衣有女性桔梗明智箭車喜多村紋 帯刀兼而辨知故考可為
      光秀北室虜躰而圍出城外相副警固士欲送伊賀時於于水口邊出羽守長臣服部蛇鬼破行合請取
      之此時光秀室内麻呂乳母侍女共致出羽守館
  
  
一、出羽守嫡子喜多村伊賀守早世二男遂出家号傳廓大僧正江州敏満寺住職并兼■多賀別當此節
      敏満寺領貮萬石多賀社領五萬石都而七萬石為傳廓大僧正領知於于敏満寺構城郭衆徒有八百
      八坊武士數輩抱之於于諸方雖有戦功太畧也

一、右之外出羽守無男子家督為相續以内治麻呂為養子故号喜多村源馬成長後改喜多村弥平兵衛
      保之

             明智正統系圖并當家傳来之舊譜者去天正壬午季夏于江州
             志賀城因焚失吾累葉析木不知華實栄枯熈也于茲予適雖生
             弓馬家捨家業■(人偏に次-よろこぶ)出離居住洛陽妙心寺
             塔頭視親彼形勢寔以當氏之家鑑於此時永絶事有悲猶餘自
             往古傳来系圖之寫舊書有數巻予其中粗選之述畧編二巻其
             所謂者慈父光秀尊霊五十廻忌為追福修善乃至類孫譲與之
             者也

              于時寛永八辛未六月十有三日
                                妙心寺塔頭六十五歳
                                       玄琳
                 喜多村弥平兵衛殿
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月29日 05時26分20秒 ) パスワード

[43] 三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月25日 15時10分38秒 )



10月25日に発売されたばかりの、磯田道史の『日本史の内幕』という新書版の本がベストセラーになっています。


その中に関の「関の戸」の服部さんについての記述がありましたので、ご紹介いたします――


 「〜この先の関という宿場の餅屋さんが「服部」といい、忍者の子孫で、古文書があるという。「行く!」と私は叫んだ。


  行ってみれば、服部家は「関の戸」という餅で有名な餅屋さんであった。

 2階にあがれば、本居宣長、佐々木弘綱、信綱など伊勢国学の大家の自筆本が山ほどある。

さらに探すと、服部家の歴史を記した古文書があった。


 なんと1581年の信長の伊賀虐殺(天正伊賀の乱)の前後のことが書いてある。

  当時の服部家は信長の手が伊賀に及べば一大事と、
まず伊勢長島の一向一揆に参加して信長に抵抗。

ところが信長は大軍で伊賀を攻め、服部家の当主や成人男子は悉く虐殺された。
生き残ったのは2歳児のみ。

そこで、服部家の家来9人はこの嬰児を抱えて、
「宝飯郡西方村(今の愛知県豊川市)に落行、この所にて暫く潜居」
したという。


ここは家康の領地、やは家康は伊賀者を保護していたのだ。


私はその証拠をみつけてうれしくなった。


  その後、服部家は故郷に戻り、庄屋ののち餅屋をはじめた。


  江戸後期の服部家の日記があった。
  見て、びっくりした。
  福井県の敦賀まで旅行して北前船の船員から聞いたのか、アイヌ語の辞書を作っていた。


  さすがに、忍者の子孫だ! 

  その辞書の写真を撮らせてもらい、売り物の餅をたべさせてもらって、上機嫌で家に帰った。」




この関の服部さんの家の家紋は、「源氏輪に横並び切竹」でありましたので、
遠州気賀の刑部で暗殺された服部中保次の家紋と同じであり、
ひょっとしたらつながっているのかなと「勘」じています――


わたくしよりのレス:

「源氏輪に横並び切竹」
まさしく正統服部家の古い家紋です。
ホンヤさんのお家の古い家紋もコレです。
鳴海(有松)の服部家もこの紋です。


時代が江戸時代になり平和になって文化が洗練されるに連れて意匠が垢抜けた源氏輪に竪の並び矢紋に変わっていきました。 
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月29日 08時24分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日で仕事納めとなり、また大掃除も終り(家庭も)、後は年末の買い出しに
もう一度行くだけとなりました。今年は血圧のことも考えて、年末から正月に
かけて飲む「日本酒」と、その肴である「数の子」は控えたいと思っておりま
す。

 新しいスレッドありがとうございます。
 明智光秀に関しても、春日局に関しても、諸先輩方を含めて、実は知ってい
るようで知らないことが一杯だと思っています。
 それは何故かといえば、歴史は裏の世界があるからです。目に見えない裏の
世界、ここで本当の歴史は作られるからであります。一般的に、人は表の事象
をもって物事の真実と捉えますが、顕在意識と潜在意識の関係のように、顕在
する事実は氷山の一角であるということを認識すべきであります。時代が古く
なればなるほどそうであると思っています。現在から100年くらい前のこと
でしたらかなりのことは把握できるでしょぅ。これが300年前、500年前
となれば、やはり顕在している史料というものは、歴史事実にとっては氷山の
一角でしょぅ。
 裏というのは、単に隠れて見えない事実だけではありません。人は勝つため
には、必ず裏で作戦を描いたはずであります。つまり、秘密の人間関係を結ん
だり、秘密に作戦を進めたということであります。忍者働きはその代表の一つ
であり、象徴であると思います。
 そういった考察なしに語られた歴史は、「絵に描いた餅」かも知れません。
私達は、随分この「絵に描いた餅」を食べさせられ、また今後も食べ続けされ
て行くのでしょう。

 春日局と服部家の関係は?―ということですが、つまり斎藤福と服部家とい
うことになりますが、この斎藤利三家は永井家でもあります。つまり、別称で
斎藤永井家とも呼ばれます。永井家は大江氏に遡ります。そして大江氏の活動
拠点は、伊賀でありました。時は、悪党と呼ばれる服部氏の跋扈する時代。そ
こにおいて、大江氏と服部氏は近縁関係となったのではないかと推察しますの
ですが、あを様いかがでしょぅか……。

 明智光秀と服部家の関係は?―これについては、光秀の後妻が服部氏の娘で
あったという「点」でなく、過去からの「線」で捉えなければ本当の真実は見
えてこないと思います。
 では、その「線」とは何か?―でありますが、それには2つの線があると思
います―
 @土岐家の祖先に関係する「線」
 A光秀と正室の出自に関係する「線」

 これから、その線について、記述したいと思いますが、少々休憩を――



 
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月30日 09時02分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「絵にかいた餅」というのは、少し言い過ぎでありました。言いたかった
のは、描かれるのは「表層の歴史」が多く、「深層」の歴史はなかなか描か
れないということでありました。もっとも、それは学術論文的には難しいの
かも知れません。ここがそもそものジレンマであり、モヤモヤであります。

 明智光秀(坂本城主)に関して、忍術(幻術)使いとのやり取りを記したもの
がありました。清水昇氏の『戦国忍者は歴史をどう動かしたのか?』の中で
ありますが、次のような「果心居士」(忍術・幻術使い)との間のエピソード
が掲載されております――
 「〜明智光秀に呼ばれ、幻術を披露したこともある。このときは、光秀の
 目の前に近江八景を出現させ、琵琶湖に浮かべた小舟を漕いでゆうゆうと
 消えたという。」

 忍者が一番活躍したのは、やはり「戦国時代」でありました。どの殿様も
忍者を活用した、あるいは特殊部隊を作ったはずです。伊賀の上忍達は、あ
る意味「忍者という人材派遣会社」の社長だったのかも知れません。その実
態についてはまとめてはおりませんが、テーマとしては、今後取り組んで行
きたいものの一つであります。

 明智光秀も忍者を使った――これは戦国の世で、戦いに勝つためには、忍
者を備え、活用するということが絶対的必要条件であったというところから
推測されるのですが、あを様いかがでしょうか?
 
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月30日 10時14分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私は、伊賀上野のある店で販売している「日野菜の糠漬け」が漬物の中で
一番うまいと思っています。今年の11月に伊賀へ行った時、その店に買い
に立ち寄りましたが、今年は「日野菜」の生育が悪く、まだ作れていないと
のことでありました。
 この「日野菜」とは、甲賀の北に隣接する日野町(蒲生郡)の原産でありま
す。1470年代に蒲生貞秀が当地で発見し栽培させ漬物にし、公家を通し
て天皇に送ったところ、大変お喜びになり、和歌を創られ贈ったとのこと。
また、後の彦根藩井伊家は、この野菜を「御殿野菜」として門外不出にした
というから、そのすごさがわかります。
 12月にはたぶんできているよとの店主の言葉、車で行くには雪や凍結が
心配され、ちょっともよってしまいます。

 日野といえば、日野氏を思い浮かべますが、この日野氏の出身は、近江の
日野でなく、宇治の日野ということでありました。この日野氏から勘解由小路
(かでのこうじ)家が出ていますが、それは比較的新しく、それとは別に、賀茂
氏系の勘解由小路家というものがあり、明智光秀の正妻の妻木氏は、この賀茂
氏系勘解由小路家の流れであるらしいとのこと。

 この賀茂系勘解由小路家は、最大級の奥深い謎を秘めています。その謎を
解くことができれは、明智光秀の謎を解くことができるかも知れません――
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月30日 11時42分41秒 ) パスワード

三つ柏さん


賀茂氏系 勘解由小路家
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%98%E8%A7%A3%E7%94%B1%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%AE%B6

陰陽道の宗家のひとつ。

天文道を伝える安倍氏に対し、暦道を伝えるのが賀茂氏である。

本来、賀茂氏は安倍氏の師匠筋であり、古代にあっては安倍氏より優位にあった。
室町時代に賀茂在方の子在貞・在長(在豊・在成とも)が勘解由小路を称した。

室町時代の終わり在富の没後には家業の暦道を安倍氏に奪われて衰退し、戦国時代には断絶した。

一説によれば、在富の嫡男・在昌がキリスト教の洗礼を受けた事を知った在富がこれを廃嫡し、
続いて甥の在種を養子とするが、
後に在富自身がこれを暗殺して自ら家名を絶ったとも言われている。
                        スゴイ!
                        何かあったのでしょうね
                        もしかすると  在富が  精神疾患を持ってたかもですね



江戸時代に賀茂氏の庶流である幸徳井家が再興し、
安倍氏の後裔である土御門家とともに陰陽道の管理を任されたが、
土御門家との争いに負けて再び衰退した。



http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%8B%98%E8%A7%A3%E7%94%B1%E5%B0%8F%E8%B7%AF


【名字】勘解由小路                  今日日本の戸籍に記載される姓では最長のものである。
【読み】かでのこうじ
【全国順位】 94,586位
【全国人数】 およそ10人                            絶滅の危機ですね


京都の小路の名称であり勘解由使庁の所在地からきている。
ここに屋敷を構え地名を称号したとされ、現在は山口県に少数みられる。
京都府京都市に地名が残っている。


へぇ〜
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月30日 12時16分25秒 ) パスワード

光秀と勘解由小路家との関係を検索しました:

http://ameblo.jp/mikehide-1582/entry-11904307157.html

一部コピペ:


光秀の妻熙子(ひろこ)夫人の出自が書かれたものとして、「細川家記」「妻木系図」などがあります。

「妻木系図」によると熙子の父は妻木氏第七代妻木広忠(通称・藤右衛門 勘解由左衛門尉)であるとされます。

「細川家記」には妻木藤右衛門広忠(勘解由左衛門範熙)と記されています。


妻木氏というのは土岐氏の支続である明智氏から分かれた氏族だとする研究者が多いのですが、
実は妻木氏の本姓は土岐氏の本姓である源ではなく勘解由(かでゆ)であり、朝臣は賀茂。

妻木氏は「賀茂朝臣(かもあそみ)勘解由」が正しいとする説があります。


この説が事実だとすると、光秀は名門の公家である勘解由小路(かでのこうじ)家と繋がったことになります。

古代豪族の一つに賀茂氏がありました。

室町時代になりその賀茂氏の一人が勘解由小路を称しました。
賀茂氏は大陰陽師・安倍晴明の安倍氏と並ぶ陰陽道宗家の一つです。


勘解由小路家は諜報部門を司る勘解由使(かげゆし)の家だとされるので、

                                       ココですね


光秀はひょっとするとそのあたりの力が欲しくて妻木氏と結びついたのかな?などと想像してしまいます。


へぇ〜




勘解由使
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%98%E8%A7%A3%E7%94%B1%E4%BD%BF

勘解由使(かげゆし)は、日本の律令制下の令外官の一つ。
平安時代初期、地方行政を監査するために設置された。

その後、監査の対象は内官(京都の各官職)へと拡大した。

勘解由使の官庁である勘解由使庁は、太政官の北西、中務省の南に位置した。
和名は「とくるよしかんがふるのつかさ」。

%%%%%%%%%%%%%%%  挿入部分   %%%%%%%%%%%%%%%%%%

解由で「とくるよし」でしょうね
http://kotobank.jp/word/%E5%8B%98%E8%A7%A3%E7%94%B1%E4%BD%BF-43946

平安初期,国司交替を円滑にするために設置された令外官(りょうげのかん)。

新旧両官の事務引継ぎの際に不正や争いが絶えず,
その対策として設置された人事監督官だが,
平安末期には有名無実化した。


勘で「かんがふる」かなと。
http://kotobank.jp/word/%E5%8B%98-48405

こんな意味があるのは知らなかったです

                          罪を調べただす
                          よく調べて考えること。


%%%%%%%%%%%  挿入部分終り   %%%%%%%%%%%%%

奈良後期(8世紀後期)ごろになると、国司行政に公廨稲収入などの利得権が生じていたため、前任・後任間で利得をめぐる紛争が発生するようになり、交替時の事務引継ぎが不調となるケースも出てきていた。

8世紀末期に登場した桓武天皇は、王威を国内にあまねく拡げるために、弛緩しつつあった地方行政の再構築に取り組んだ。その結果、地方行政を監査・監督する勘解由使の職が新設されることとなった。


勘解由使が設置されたのは、797年(延暦16年)ころとされている。
824年(天長元年)、勘解由使が再置されることとなった。



勘解由使は、中央行政と地方行政を監査・監督する重要な職となった。職務には、不与解由状が発行されたときの紛争処理、官吏の交替に関する法規集である交替式(こうたいしき)の編纂などがあった。当時、勘解由使による監査を勘判と呼んでおり、政務の参考書籍として編まれた『政事要略』に勘判の記録(勘解由使勘判抄)が所載されている。

平安中期〜後期頃から、ある官職を特定の家系が相伝する「官司の家職化」が進行していき、勘解由使の存在意義は次第に薄れていったとする見解がある一方で、同時期には受領が事実上の地方官として積極的な収奪活動を展開しており、そうした受領を監督することが勘解由使の主要な役割となっていったとする見解もある。勘解由使は、受領の活躍が見られた平安末期ごろまで、監査機関としての機能を担い続けたと考えられている。


監査機関ですか
今の「監査」みたいにコワイ存在
お目付け役
ですかね。


ムカシ銀行で働いていた時に「監査」が来て
職場の雰囲気は緊張しまくり
監査の人達は一様に黒い背広の上下で厳しさがオーラになっていました。
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月31日 16時00分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明智光秀と関係する、あるいは関係すると思われる人々を、光秀を挟んで
年代順に列挙し、それらの関係をみてみたいと思います――

 @和田惟政  1510(?)〜1571
 A服部中保次 1526 〜 1587
 B柳生宗厳 1527 〜 1606
 C明智光秀 1528(?)〜1582
 D足利義昭 1537 〜 1597
 E松下之綱  1538 〜 1598
 F島 左近 1540(?)〜1600
 G徳川家康 1542 〜 1616
 H服部半蔵 1542 〜 1596
 I藤堂高虎 1556 〜 1630
 J松下常慶 1558 〜 1624
 K柳生宗矩 1571 〜 1646

 この中で、明らかに祖先が南朝側の人は――
 A、B、G、H、Kで、Cも一応入れておきます。後の人については、
じっくりと調べて行きたいと思います。

 本日は、大晦日でありますので、何かと忙しく、ここで中断します――
 
[9]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月01日 12時18分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様

 新年明けましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願い申し上げます。

 元旦は晴天で、すがすがしい朝を迎えました。きっと海も穏やかで、紺碧
色に輝いていることでしょう。

 新年早々、土岐信吉氏の『陰陽師 信長』という長編小説を紐解いてみま
した。「土岐」氏の子孫が「信長」の物語を書くという因縁に、大変興味を
抱いた訳であります。

 私も、信長に対し「大悪人」の意識があったのですが、土岐氏の言によれ
ば、これもまた次の権力者達によって都合よく操作された情報であったとい
うことで、私も「信長悪者説」を一歩見直さなければならないと思いました。

 明智光秀も信長同様、反逆者として情報操作をされたということで、一番
の被害を被ったのではないか……山崎の合戦後の「明智狩り」が、凄まじい
ものであったということは、逆に明智が無実であったことを隠蔽するもので
あったとも言っています。

 明智光秀の謎、少しでも解きたい思いが募る本年であります。どうぞまた
よろしくご指導の程、お願い申し上げる次第であります―― 
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月02日 03時09分03秒 ) パスワード

三つ柏さん
  

明けましておめでとうございます


昨日録画してあった小栗旬の「信長コンチェルト」という映画を飛ばし飛ばし見ました。

     こういうファンタジー的なものは苦手でちゃんと見ていられないのです。


若い子が信長の時代にタイムスリップして信長と顔がソックリなので入れ替わり
信長はミッチ―(=光秀)になって織田家に仕える


サル君(秀吉)は子供の時に信長に村を襲われ親を殺され
信長憎しで

最終的にはサル君(秀吉)がミッチ―(=光秀)(実は信長)をそそのかして偽信長(若い子)を襲わせ
最終的にサル君(秀吉)が本物の信長を殺す

そこで若い子は現代に戻る


                       家康も出てましたが、どういう立ち位置か巻き戻して確認する気は起きませんでした


こんなお話ですが
ナカナカなかなか中々の作品でしたよ
我々がここでア〜だコ〜だ言ってるような内容でした。


歴史と正史と小説といろいろあっても「事実」はほんのちょっとで
正史は時の権力者側によって捻じ曲げられて記録されますし
小説は書く人の希望だし

実は真実がどこかの家でひっそり語り継がれているとしても学者からは認められないし


だから後世の我々がいろいろ思うのでしょうね
それは先祖の知っていたことがちゃんとDNAに刷り込まれているから(いや、そうじゃない)と受け入れられないのでしょうね。


とにかく長上郡の服部氏の正体が見つかりますように!


2018年は健康に気を付けてくださいね。
働いているヒトはそれだけでどこかを壊しているのかもしれないですから。


昨年ワタクシでも歯ぎしりで右上奥歯が1本欠けました。
ストレスが溜まっているね、と言われました。
今はデンタルガードをしていますからこの1本で済みそうです。

オットの従妹は下の奥歯4本がストレスで金歯になっています。
ハイソサエティに属する彼女ですから一体どんなストレスがあるの?と訊きたいぐらい裕福で幸せな生活をしているものと思っていましたのに。


起きている時は歯ぎしりや奥歯をくしばることはしないように済みますが
寝ていると知らず知らずに歯を悪くしてしまうようです。


本当に意外なところで健康は脅かされているようですよ。
[11]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月03日 12時33分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 元日には、初詣に「秋葉神社」に行ってまいりました。標高800m余の
高さにあるこの神社は、特に火防(ぶ)せの神を祀ることで、江戸時代には、
伊勢参りと同じ位の参拝客が詣でたということでありますが、今の状態を見
る限りでは、ちょっと信じられないことではあります。
 
 さて、秋葉神社と徳川家康を結ぶものは何かといえば、「修験道」の僧の
「茂林光幡(もりん こうは)」でありますが、天野氏の犬居城攻略に功があ
ったという事実がありますが、謎の修験僧であります。
 もう一人、秋葉神社にからむ修験者に、あの「おんな城主 直虎」に出て
きた「松下常慶」がおります。

 この「常慶」についてレス[8]に挙げましたが、明智光秀と関係があった
と推察しています。それについて述べたいと思いますが、これから井伊谷宮
へ参拝にでかけますので、帰って来てからといたします――
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月03日 13時16分57秒 ) パスワード

三つ柏さん


検索して来ました:http://akihakodo.web.fc2.com/zatsu/rekijyu.html


かつて秋葉山には、大登山秋葉寺という、神仏混淆の寺院がありました。
秋葉寺は701年(大宝元年)に行基が開いたと言われています。
(この創建時期には、諸説があるようです。)


秋葉寺は、戦国時代までは真言密教寺院でしたが、戦国時代に戦乱でいったん荒廃し、それを、徳川家康と関係の深かった茂林光幡3)が、復興させました。 

寛永2年(1625年)に、徳川幕府は、秋葉寺を曹洞宗可睡斎4)の直末寺院とし、真言密教から曹洞宗へ宗旨替えを行ないました。

以降、秋葉寺は、次第に勢いを盛り返し、江戸時代中期〜後期には、秋葉信仰が全国的に大流行しました。 

静岡県発行「秋葉街道」に書かれている真言密教から曹洞禅へと宗勢が移っていった経緯というのは、(非常に大雑把な説明ではありますが)上に述べたような経緯を指しています。 

慶応4年(1868年)の神仏分離・廃仏毀釈によって、大登山秋葉寺は「住職の居ない寺」という理由で、明治6年(1873年)廃寺となりました。


それまで秋葉寺があった場所には、火之迦具土大神を祭神とする神道の秋葉神社がおかれました。 
秋葉寺にあった本尊や、仏像・仏具の主なものは袋井の可睡斎に運ばれ、残りは廃棄されました。5)

明治13年に秋葉寺は再建を許されましたが、すでに山頂には秋葉神社が鎮座されていたため、現在地の表参道中腹、杉ノ平に再建されました。

このような経緯によって、秋葉寺歴代住職の墓は、現在の秋葉寺の場所からはずいぶん離れて、秋葉神社の敷地内に遺っています。 

また、墓石の形ですが、まるい卵型の石は卵塔(らんとう)といって、禅宗6)の住職の墓だそうです。



3)茂林光幡は徳川家康と縁が深かった僧で、家康のもとで交渉や諜報のような活動をしていたと言われています。

その後、光幡は秋葉山の別当に任じられ、戦乱で荒廃していた秋葉寺の復興に尽力したとされています。

現在、浜松市三組町にある秋葉神社は、この光幡が住持していた叶坊(かのうぼう)があった場所といわれています。


4)可睡斎は袋井に現存する曹洞宗の寺で、徳川家康と縁が深かったため、江戸時代に大きく発展しました。

江戸時代前期より、秋葉寺は可睡斎の末寺であるとされ、明治維新後、秋葉寺が廃寺となった際には、秋葉権現などの本尊をはじめ、仏像・仏具や奥の院の建物等が、可睡斎に運ばれました。

現在でも、可睡斎には秋葉権現が祀られ「秋葉総本殿 可睡斎」を掲げています。



すごいハナシに飛びます:
http://haruno21.hamazo.tv/e2066532.html

犬居城と天野氏 第17話 1569年〜1570年 「偽装工作」


犬居城と天野氏 第17話 1569年〜1570年 「偽装工作」
1570年の様子 
今川氏真(32)徳川家康(29)織田信長(38)武田信虎(77)武田信玄(49)
 景貞(没)− 天野景泰(与四郎・安芸守)(70歳?)−七郎
 景虎(没)− 天野藤秀(小四郎・篠ヶ嶺城・宮内右衛門尉・惣領)(40歳?)−景貫(小四郎)

 一方で武田信玄本隊は、輸送部隊が襲われ、大宮城も苦戦したため、1569年4月、穴山信君を残し、一時甲斐に戻った。

 この頃か、天野氏は、被官である花嶋氏を呼び寄せる。花嶋氏は馬が大好きで、天野氏が馬を見せたいと誘い出した。不動川の下流まで来たときに、突然襲いかかり、処分した。表向きは「天野家が武田氏に内通の事」を徳川方に密告したとされる。ただし、家康には「花嶋氏今川氏内通」、今川氏真及び武田信玄あてにはそれぞれ三者三様の理由をつけて報告している。


 (さて、いつの頃か定かでないが北遠の国人、奥山定之には四人の息子がいて、現在の佐久間から水窪を分割して治めていた。この内三男の奥山美濃守定茂が、信州の遠山土佐守と組み、攻め落とした。この奥山氏は武田氏に従うことになる。)

 5月20日、家康から天野宮内右衛門尉の同心に知行安堵の判物がでる。
渡辺三左衛門 気多之内上石切・河内・竹之内、熊切之内伊佐賀
尾上彦十郎  熊切之内牧野・葛沢・田口之内・堀之内・くつす、気田之内里原
鱸源六郎   家山之内 しろ前山

 6月、家康は従わない飯田城を攻撃し、城主山内氏は主従もろともほぼ全滅。天方城の天方通興(母方が天野氏)もよく防戦したがついに力尽きて降伏した。これにより、遠江南部は家康により平定された。

 7月24日、家康から天野宮内右衛門尉の同心に知行安堵の判物がでる。
天野八郎左衛門 杉村
 7月29日、家康より、同心花島氏の掛川への内通による成敗を賞され、その跡職を安堵される。

 8月、秋葉寺別当、茂林光幡は、天野氏を徳川氏に帰順させた功により、秋葉寺25世住職になる。ただし、秋葉山は秋葉城もあった戦略拠点であり、光幡は浜松にいたと考えられている。



                                         ビックリ!
[13]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月03日 23時33分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日のビックリは、井伊谷宮の裏にあるる「宗良親王」の墓所が、宮内庁の
の許可の下、一般に公開されておりましたことであります。つまり、一般の者
が、宮内庁管轄の宗良親王の墓所敷地内に足を入れ、宗良親王の墓に直接おま
いりすることができたということであります。当然ながら、私も中に入って、
宗良親王の「宝篋印塔」に向かい、心の中であを様の分も含めてお祈りを捧げ
てまいりました。
 今まで、何回も来ていたのに、一度も門より中へは入れなかった。今回、こ
うして中へ入れたのは、偶然ではありましたが、何か通じるものがあったのか
も知れません。
 南朝への切なる思いが、この幸運をもたらしたのかも知れません――
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月04日 04時29分48秒 ) パスワード

三つ柏さん


全身が震えました。

良かったですね。「直虎」効果ですね。

わたくしの分も般若心経をありがとうございました。
ご先祖回りですものね。


>南朝への切なる思いが、この幸運をもたらしたのかも知れません

はい
まさに!
[15]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月04日 10時37分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私の考える「おんな城主 直虎」効果は、龍潭寺を一流に押し上げたこと
と、井伊家及びその親族氏族達の名前をも一流にしたということが、まず挙
げられます。その内の小野家――全く知られていなかった、知られていても
井伊家の逆賊のように捉えられていた小野家――が、高橋一生氏のおかげで
一躍注目され、また氏族の汚名を晴らしてくれました。

 小野家については、本当はもっともっと深い歴史があるのです。つまり、
小野家の祖先は、地獄の番人とも言われたあの「小野篁」であります。福遣
唐使を断ったということで、流罪になるという不幸な目にもあっていますが、
その罪を許された後は、学者として文徳天皇に仕えました。病没の後、その
遺言によって、骨蔵器は「遠江赤狭郡小野村」に移されたということであり
ます。何故「遠江」であったのか――小野家のルーツは和爾氏と言われてお
りますので、いわゆる海人族の時代にすでに遠江に進出していたのか、その
辺のことは、今後調べていきたいと思っています。
 小野篁は、848年、例の「勘解由長官」にもなっております!!

 遠江遠州浜松の歴史、徳川家康の浜松城在城17年間の歴史は深く眠らさ
れておりましたが、「おんな城主 直虎」のおかげで、ようやく眠りから覚
めることができました。物づくり一辺倒の町から、歴史・文化・芸術・観光
の町へと今後開かれて行くのでしょうか?……そうあってほしいと思います!

 さて、松下常慶についての話が遅れ遅れになっております。次回は、この
松下常慶を中心にして話を進めて行きたいと思います――
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月04日 14時41分27秒 ) パスワード

消えた!泣

[17]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月05日 16時34分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 お疲れ様です。落胆の底から気力は立ち直りましたでしょうか?

 私の方は、お正月モードから仕事モードに切り替え中で、まだ集中力
が戻っておりません。お正月の食べ過ぎ飲み過ぎで、1キロ太ったため、
呼吸も乱れます。やはり、お腹はへっこみ気味の方が、腹式呼吸ができ
て頭に血が行きますね!

 さて、長いこと歴史を追及していると、見えなかったものが段々見え
てきます。知識・情報を豊富に持つことにより、ものごとを色々な角度
から見ることができるようになり、その結果見えなかったものが見えて
くるのだと思います。
 
 「おんな城主 直虎」で一躍有名になった松下常慶ですが、正式名は
松下常慶安綱――松下加兵衛之綱とは、はとこの子同士、また同時に義
兄弟でもあります。井伊直政の義理の叔父にもなります。

 この松下家を追っていくうち、いろいろなものがぼんやりとではあり
ますが見えてまいりました――

 
 

 
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月06日 10時25分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


窓8は不安定ですね。
同じことをやっても消えない時もあるのに。



「直虎」の松下常慶で思ったことは
余裕のある家は忍者を≪プロを≫雇う
余裕のない家は一族の誰かがアマ仕事で汗水垂らして頑張る
のかしら?と。

遠江や三河あたりで情報収集するのなら松下常慶で間に合ったのかしら?と。


でも松下常慶は彼なりに修験道仲間とか他の宗教や職業の人との交際で情報を得ていたのでしょうね。


力の有る家はアチコチに駐在員を派遣していたのでしょうね。


でも江戸時代に「転居の禁止」があって
そういうアタマの使い方はしなくなったのでしょうね。

特に身近なところで婚姻するようになっては世間が狭くなって小さく纏まった人間に落ち着いてしまったでしょうね。
[19]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月06日 23時41分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日の仕事を終え、やっと年始バタバタモードから普通静寂モードに戻
りました。

 さて、秋葉神社から松下氏へと述べていきたいのですが、頭の中の情報
の熟成具合がまだ低く、モチベーションも同じく低迷しておりますので、
一晩寝て、頭の冴えた状態になりましたらスタートしたいと思います――
[20]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月07日 11時34分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 様々な「点」の情報を、まずは列挙してみます。「線」による「論理」の
組み立てはその後にと考えております――

 @秋葉山は、諏訪―掛塚の天竜川水系の途上(諏訪より行程的に3/4の
 所)にあり、南信濃と遠江の境界である兵越峠や青崩峠からやや下がった所
 に位置しています。
 
 A同時にそれは信州街道・秋葉街道の途上にあり、甲斐武田が駿府の今川
 を避けて遠江に攻め込む場合の、唯一といってもいいほどのルート・攻め
 口であります。

 Bこのルートは、古くから「塩の道」、そして「諏訪信仰の道」、あるい
  は後に「秋葉信仰の道」等としてその役割を果たしてきました。
 
 Cとりたてていえば、秋葉山や龍頭山は、「修験」の地でありました。

 D徳川家康は、武田軍等の北からの侵入に対し、これらの修験者や僧兵を
  懐柔し、味方につけ守備させました。

 E茂林光幡は、それを担当した代表者でありました。1569年に、家康
  より秋葉山の別当(統括者)に任命されております。

 F松下情景安綱は、秋葉神社の神札を配りながら、各地を巡歴していたと
  いいます。つまり、「秋葉山」を共通のキーとして、茂林光幡ともつな
  がっていたと推察されます。つまり、修験・山伏のネットワークを利用
  できたのだと思います。

 G徳川家康が、浜松で最も信頼したのが、加賀白山先達の「松下常慶安綱」
  であるといいます。家康は、浜松在城の頃から、白山修験道の崇信あつ
  く、本山派に属する修験道場「二諦坊」に住む松下常慶を寵し、堂宇を
  建立して、毎月十八日には必ず参拝したといいます。

 H松下常慶は、遠州浅羽庄松下村の郷士であった松下連昌の子で、非常に
  闊達で大度の人だったらしく、その上に賦税に精通していたところから、
  特に家康は浜松に在る間は、陣中に従えて、兵糧を奉行させたり、祈祷
  祓禊の祭事を司らせたという。

 I常慶は、政略にもその能力を発揮し、曳馬城の攻略に際し、家老の江間
  兄弟を離間させ、曳馬城を陥落させたという。
 
 J徳川家康が、駿府に移ってからは、常慶は租税・厨房のことにあたり、
  また土木工事にも手を出したり、吏才に長じた人であったという。

 K駿府城下には、「常慶町」と名付けられた町があります。
          (川島幸雄著『私説 遠州堀江氏盛衰記』等を参考)

 ここで、一旦切りますが、次につづきます――
  
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月08日 04時10分56秒 ) パスワード

三つ柏さん


常慶
すごい才能の持ち主だったんですねぇ。


ウイキを見て来ました:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E5%B8%B8%E6%85%B6

松下 常慶(永禄元年(1558年) - 寛永元年7月13日(1624年8月26日)[1])

戦国時代、遠江国浜松にて活動した武将・修験者。



兄松下清景と共に徳川家康に仕えた。

「二諦坊」の主と徳川実記では述べられているが、これは、あくまでも後世の伝聞で、実際は家康に近侍した奥勤めであり、身辺警護を任された家康直近の武将である。

名は安綱(やすつな)。


徳川家康が遠州に進攻する前に、飯尾連竜なきあとの曳馬(浜松)城の開城工作に活躍するなど諜報活動に従事した(『井伊家伝記』)という伝承もあるが、松下家系譜によれば三河岡崎城にて、徳川家康に初めて御目見、遠州浜松城部屋住みより始めて、小姓に取り立てられ、勘定頭と奥勤を兼ねた。


若い頃は修験者として三河・遠江・駿河の白山先達職を任じられた者として記録されている。

三河・遠江に徳川氏の支配が確立するまでは、秋葉山の御師に変装して三河・遠江・駿河など各地を巡歴し、情報を徳川家康や井伊氏に報告した。

井伊(松下)直政(虎松)の、徳川家康への初お目見にも活躍したとみられる。

松下連昌の四男、
母は松下長尹の娘[1]。
妻は落合蔵人の娘。

子に重綱、仙誉、昌俊、貞綱(養子)、房利、氏秀、梶勝成(本多忠勝家臣)の妻、小島良庵の妻、大塩五郎兵衛の妻らがいる[1]。


天正18年(1590年)、家康が関東に入国した後、武蔵国都筑郡・多摩郡・常陸国鹿島郡の三郡で740石を与えられた。

寛永元年(1624年)、67歳で死去。

(ただし、没年・没歳には疑問が残る。なぜなら、67歳没とするのならば、徳川家康の遠州入場前夜、家康の命で曳馬城の調略を行った時はわずか10歳に過ぎない。)

法名は松林院殿仙壽笑安大居士。

墓所は高野山聖無動院[1]。

直系の子孫は、治安維持の役職を踏襲し、火付け盗賊改め方や駿府町奉行を務めた者もいる。

静岡市内にはかつて常慶町という町名があった。

駿府城の東門は常慶門とも呼ばれる。子孫は現在に至る。


『東照宮御実紀附録巻十九』の記録[編集]

『東照宮御実紀附録巻十九』[2]には「本氏は松下にて蔵主安綱と称し。

はじめ浜松の二諦坊の住職にてありしが。天性賦税の事に精しければ。駿府租税の事を司り。

御廚の事をも沙汰し。年久しくつかへたる老人にて。今も松下といへる御家人は此坊が後胤なり。」と記されている。



『井伊家伝記』の記録 [編集]

『井伊家伝記』[3]によれば「秋葉山の札抔」をくばり「物見」をしたと記されている。



秋葉修験[編集]

『井伊家伝記』には秋葉権現を祀る秋葉修験と記され浜松市中区三組町の秋葉神社(近世の名称は秋葉不動堂)を勧請したとあるが、吉田俊英は二諦坊を秋葉修験と断定する史料はないと指摘し[4]、また河村忠伸[5]は秋葉不動堂の勧請は叶坊であり、叶坊と二諦坊の事蹟が混同されて記録された可能性を指摘している。
[22]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月08日 16時40分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 確かに松下常慶の生誕年については、1558年でなく、もう少し早い
年代ではなかろうかと、私も感じております。

 さて、さらに川島幸雄著『私説 遠州堀江氏盛衰記』、冨永公文著『松下
加兵衛と豊臣秀吉』等より、松下氏に関する情報(「点」)を抽出してみたい
と思います――

 @長上郡頭陀寺の松下館に住していた松下加兵衛長則も嫡子の加兵衛之綱
  も、白山修験道を通じて、奈良の大峯山で修験した柳生但馬守家と姻戚
  関係にあった。
 
 A柳生但馬守宗矩が、松下之綱の娘「おりん」と結婚したのは、おおよそ
  1598年前後(関ケ原の戦いの前)と思われる。

 B1560年の桶狭間の戦いで今川氏は敗れるが、松下氏は、その家臣で
  あった。

 C1563年、松下氏の頭陀寺城は、飯尾豊前守にそそのかされた氏真に
  攻められ炎上した。

 Dこの時期、松下家は流浪せざるを得なかった。

 E松下加兵衛之綱の三女おりんと柳生宗矩が結婚したという発端となった
  のは、この時期の流浪からではないでしょうか。
 
 Fつまり、島左近の屋敷におりんが武家奉公していたという。そして、そ
  こを訪れた柳生宗矩が、おりんをみそめて結婚したということでありま
  す。
 
 G松下家と柳生家が松下之綱の前、つまり石舟斎以前の時代から近い関係
  にあったのかも知れませんが、秀吉の家臣としての松下之綱、石田三成
  の家臣であった島左近、そして筒井氏の下にいたことのある柳生氏と島
  氏、つまり柳生氏、島氏、松下氏は、豊臣秀吉の下で近しい関係にあっ
  たと言えます。

 ここで、一休み――


 
 
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月09日 11時48分50秒 ) パスワード

三つ柏さん

すごい!

>1563年、松下氏の頭陀寺城は、飯尾豊前守にそそのかされた氏真に攻められ炎上した。
>この時期、松下家は流浪せざるを得なかった。

おりんさんと柳生宗矩の結婚裏話をよくぞ推理なさいました。

島左近家に奉公に出た背景がバッチリですね。


>柳生氏、島氏、松下氏は、豊臣秀吉の下で近しい関係にあったと言えます。


島左近にしても秀吉の恩人の娘なら2つ返事で迎えたいですものね。

なるほどねぇ〜
うまく解明なさいました。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月09日 11時51分16秒 ) パスワード

そういう背景が分かりますと秀次事件で加藤家が遠江に落ちて来たのも納得ですね。


人と地との関係って切ってはいけないですね。
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月11日 06時59分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 この2日間は、「スケジュール」と「頭の冴え」と「モチベーション」が
うまくかみ合いませんでした。本日の午後からはなんとか戻るはずです。

 松下氏について探求してみると、その祖先は歴史の中でしっかりと「根」
を張っていることがわかりました――

 
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月11日 09時30分02秒 ) パスワード

ではワタクシの出番ですね。

http://www.google.com/search?ei=Rq5WWrOiEIXwjwPlkYbACQ&q=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%B0%8F%E3%80%80%E5%8D%97%E6%9C%9D%E6%96%B9%EF%BC%9F%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%B0%8F%E3%80%80%E5%8D%97%E6%9C%9D%E6%96%B9%EF%BC%9F%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.3...2454.39381.0.40061.71.57.11.0.0.0.458.8607.0j21j15j3j1.40.0....0...1c.1j4.64.psy-ab..28.23.3570...0i4k1j0i4i30k1j0i4i10i30k1j35i39k1j0i67k1j0i4i10i30i42k1j0i5i4i30k1j0i8i4i30k1j0i7i4i30k1.0.qpKVokYcMfM

謎の山伏・松下常慶(安綱)とは?
家康のボディガードも務めたれっきとした ...

宇多天皇─敦実親王・・・佐々木氏綱─松下高長(遠州松下氏の祖) 「高長、始、山門之衆徒ニ御座候所、明徳三年壬申十月二日 南朝、北朝御和睦之時、高長、南朝方ニ属シ、遠州笠原之内ニテ還俗。ソノ後、三州碧海郡松下ノ所ニ退居仕、松下ヲ以家名仕候。」(『松下系図』). しかし、一族の中には三河国に戻らず、遠江国に ...


えっ?!
とビックリでした。


佐々木源氏なら絶対に  北朝方  でしょ
と思っていたら

松下高長(遠州松下氏の祖) 「高長、始、山門之衆徒ニ御座候所、明徳三年壬申十月二日 南朝、北朝御和睦之時、高長、南朝方ニ属シ、遠州笠原之内ニテ還俗。ソノ後、三州碧海郡松下ノ所ニ退居仕、松下ヲ以家名仕候。」(『松下系図』)

ちょっとクリックに行ってきます。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月11日 09時34分45秒 ) パスワード

http://bushoojapan.com/iinaotora/2017/02/01/93514


松下氏の起源について書かれています。
コピペガードつきです。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月11日 09時40分17秒 ) パスワード

なるほどねぇ
南朝方なら家康も信じられたでしょうね。


それに「しのさん」の再婚相手の家として「納得」出来るし。


松下家も「南朝方の輪っ」の一員だったんですねぇ。


この情報でストンと腑に落ちました。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月11日 10時14分07秒 ) パスワード

三つ柏さんお書きの
>松下氏について探求してみると、その祖先は歴史の中でしっかりと「根」を張っていることがわかりました
を読み返している内に泣けて来ました。


過去に勝手に想像で「細いエニシを頼って」加藤家が遠江に落ちて来たのじゃないかと書きましたが

島左近や松下家との直接の関わりがあってのことだったのでしょうね


その事を考えていたら泣けて来ました。


我々現代人は何百年も昔の先祖のお蔭でこうして生きているのですねぇ。
[30]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月12日 00時04分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松下氏の祖「松下九郎左衛門高長」が南朝方であったということを発見して
いただき、感謝申し上げます。なお、「山門」の宗徒とは「比叡山」の宗徒と
いうことになります。つまり天台宗系修験ということになりますか……確か、
「宗良親王」も「比叡山の座主」になられていたと思いましたが、あを様どう
でしょうか?
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月12日 05時57分46秒 ) パスワード

<31>の書き直し:


三つ柏さん

>「宗良親王」も「比叡山の座主」になられていたと思いましたが

はい
18歳で座主ですね。


鎌倉時代末期〜南北朝時代の歌人。後醍醐天皇の皇子。正しくは「むねよし」と読む。信濃宮・信州中書王。母は二条為世の女,贈従三位為子。早く出家して妙法院に入り,18歳で天台座主。翌年元弘の乱で讃岐へ流され,建武中興で帰京して,再び天台座主。延元2=建武4 (1337) 年還俗。南北朝の争乱の激化に伴い,吉野へ落ち,以後南朝の中心として信州を本拠に遠江,越後,越中などに転戦,文中3=応安7 (74) 年には 35年ぶりに吉野へ帰り,南朝歌壇の中心として弘和1=永徳1 (81) 年『新葉和歌集』を撰集。その後再び信州に下り,元中6=康応1 (89) 年以前に没。家集『李花集』に 899首。



護良親王も
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
天台座主
と書かれています。



比叡山:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E5%8F%A1%E5%B1%B1

古事記では比叡山は日枝山(ひえのやま)と表記され、大山咋神が近江国の日枝山に鎮座し、鳴鏑を神体とすると記されている。

平安遷都後、最澄が堂塔を建て天台宗を開いて以来、王城の鬼門を抑える国家鎮護の寺地となった[2]。

京都の鬼門にあたる北東に位置することもあり、比叡山は王城鎮護の山とされた。


新田義貞が勾当内侍との後朝の別れが出来ずにグズグズやって義貞が破滅していく現場じゃなかったですか?



さてさて驚きのお話です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B


長野県大鹿村大河原釜沢にある宝篋印塔は宗良親王の墓と伝えられており、
静岡県の井伊谷宮も宗良親王を祀っており、墳墓が残されている。

また

美濃国恵那郡高山(現・岐阜県中津川市)にも墓がある。

                                      ココ!


つまり恵那ってソーユー場所だった!?
                                    コ〜なると思い出すのは  恵那 →  光秀  ← 恵那=南朝方範囲


光秀は南朝方と何らかの関係があった?
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月12日 06時00分00秒 ) パスワード

ということで   美濃国恵那郡高山(現・岐阜県中津川市)   というのを検索してみました。

名墓録:
http://www.hugyou.jp/meibo/index.cgi?start=9110&pre=1&acto=html&typed=&pages=500

8722です
尹良親王がらみでした。
なるほどね。


十三塚
後醍醐天皇皇子宗良親王ノ子尹良親王ト南朝方将士ガ木曽路デ追撃サレ敗死
将士埋葬
岐阜県中津川市高山 


というのが載ってましたし


他にも面白いのがたくさん載ってます。
楠正成の妻の久子さんとか


加藤光員が南朝方だっただろうなという状況証拠(承久の変で京方だったから)とか。

8694 明智光秀  武将・織田信長重臣・明智光綱ノ子・生母お牧の方・丹波亀山城主・本能寺変・直垂九条衣伝承・御霊廟・供養塔 岐阜県恵那市明智町東山町   長存寺殿明窓玄智大禅定門  龍護寺 アケチミツヒデ,,


8695 加藤光員 一族 武将・加藤景員長男・鎌倉御家人・西面武士・検非違使・承久乱ニ京方デ所領没収 岐阜県恵那市明智町   カトウミツカズ,,


                                     まさに母方先祖のお仲間です。鎌倉御家人に西面武士だし承久の変の京方だし
                                     母方先祖が戦国時代に光秀の厄介になれそうだった背景がここに出てるのかも



8696 お牧の方 明智光綱室・明智光秀生母・波多野氏トノ和議ニ八上城ニ人質磔 岐阜県恵那市本町 日本大正村 オマキノカタ,,


まだまだ興味深いお墓や塚が載っています。




ワタクシ的にはまさかこの名墓録で母方と明智光秀が南朝方の尹良親王で繋がるとは思っていませんでした。


尹良親王と津島神社の大橋の娘の間のお子さまの良王君よしたかのきみはホンヤさん宅で亡くなってるし。

大橋と服部はもとは平家の兄弟だし。



つまり父方母方で明智光秀とまた繋がってしまいました。


本当に日本人って何重にも繋がってしまうのですねぇ。


楠木正成夫人の久子さんもご近所でお弔いされているし。





マツシマ氏:


5519 松島詩子 (内海シマ) 歌手・「マロニエの木陰」「銀座行進曲」・夫内海一郎同墓 東京都東村山市萩山一丁目・小平市美園町 小平霊園 2区3側19 マツシマウタコ,,


8495 松島王 敏達天皇皇子・頼勝親王 長野県上伊那郡箕輪町中箕輪王墓 松島神社境内 マツシマオウ,,

                                        あらら、もともとはこの方からの名字?


13589 松島剛蔵 長州藩士・西洋軍学者 山口県萩市椿東 東光寺 マツシマゴウゾウ,,


8496 松島氏 土着豪族 長野県上伊那郡箕輪町中箕輪 明音寺 マツシマシ,,
[37]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月12日 16時24分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松下氏の系図を、その祖からたどりますと――
 @宇多天皇
 A敦実親王
 B源雅信
 C扶義(佐々木系図は扶義を以て親王の子となす)
 D成瀬(初めて近江国佐々木に住む)
E章経(兵部丞・従五位下)
F経方(佐々木宮神主)
 G佐々木源次大夫季定(式部丞・従五位下・追捕使・号常恵冠者)
 H佐々木三郎秀義
 I佐々木太郎定綱(1142〜1205 近江守護)
J佐々木信綱(遠江国守)
K佐々木泰綱(壱岐守)
 L佐々木長綱(壱岐守)
 M壱岐三郎氏綱
 N松下九郎左門尉高長(遠州松下氏祖)
ということであります。

 次に、遠州の地で始まる高長氏からは――

[38]A.AKECHIさんからのコメント(2018年01月12日 21時53分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様
三つ柏服部様

 (江戸での)「松が明け」た今頃になってしまい、遅ればせではありますが、本年もよろしくお願い致します。


 家康様の時代より昔のことは皆目見当が付きませんが、元禄の頃には松下家と明智家の御縁ができました。
 明智助九郎という人の孫娘が嫁いだのが、松下之綱の孫・源太左衛門で、その子供が中瀬助九郎です。
 http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/901d90ffc3b8b554503410530687473f


 昨年ご紹介した「喜多村家伝 明智家譜」は、この中瀬助九郎家に伝承されたものだそうです。

 中瀬助九郎の次男は住江家の養子に入り、住江滄浪となりました。住江滄浪は、荻生徂徠に学び、兄弟子に服部南郭という人がいます。この服部さんは、どの(?)服部さんなのでしょうか?
 
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月12日 23時58分36秒 ) パスワード

A.AKECHIさん

今年もよろしくお願い致します。


で、服部南郭ですが

京都の裕福な町人 服部元矩(もとちか)の次男として生まれる。

母は蒔絵師の山本春正の娘吟子(ぎんこ)。
父元矩は北村季吟に師事したこともあり、南郭は和歌や連歌など文雅の教養豊かな家庭で育ち、歌や絵の手ほどき以外にも「四書」や「三体詩」などを教えられる。
                                        北村季吟=出身は近江国野洲郡北村で門人に柳沢吉保・松尾芭蕉・山岡元隣・山口素堂・田捨女など


13歳の時、父を亡くすと縁故を頼りに江戸に下る。17歳の頃、甲府藩主 柳沢侯に歌と画業を認められ、これより18年間仕えることとなる。

柳沢家には多くの優れた学者(細井広沢、志村禎幹、荻生徂徠、鞍岡蘚山、渡辺幹など)が仕えていたが、

このうち荻生徂徠を慕い、やがて漢学に転向する。

柳沢吉保が死去して4年後の享保3年(1718年)、跡を継いだ柳沢吉里に疎んぜられ職を退く。

南郭は不忍池の畔に居を構え、塾を開くが、ここを芙蕖館と名づけた。以来、幾度も転居するが芙蕖館と名乗り続ける。徂徠の蘐園学派の双璧とされた南郭の門には多数の門人が列をなし、たいへん盛んだった。

南郭は温順な性格であり、十数年来の友 高野蘭亭は南郭が人と争うことを見たことがなく、人の悪口を言ったことがなく、さらには怒ったり喜んだりしたことさえ見たことがないと伝えている。養子の元雄(服部白賁)は、南郭が家族に対しても自らの履歴を隠し誕生日さえ伝えてこなかったと墓誌銘に寄せている。 このような甚だしい自己韜晦に南郭の文人としての隠逸志向が見て取れる。

享年77。東海寺(東京都品川区)に墓がある。
[40]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月13日 00時20分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 高長氏からは――
 @高長
 A長信
 B国長
 CA 国綱―定綱―長尹―長則―「之綱」
  B 連長―安秀―連昌―a 清景
            b 安綱
  C 長範
と続きます。

 前レスにおけるKの「佐々木泰綱」は正に「六角氏」を名乗った初代で
あります。Lの「佐々木長綱」の代、兄の「頼綱」系から「六角承禎」が
出ています。
 つまり、松下氏は、佐々木氏から出ており、六角氏や京極氏はその一族
の分れであったということになります。
 つまり、松下氏は、近江を中心として、人脈及び頼ることのできる勢力
基盤を持っていたということになります!
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月13日 00時32分51秒 ) パスワード

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E4%B8%AD%E7%80%AC


【名字】中瀬
【読み】なかせ,なかぜ
【全国順位】 1,607位
【全国人数】 およそ10,000人

織田家などを輩出した現愛知県である尾張国愛知郡の有名氏族。
                                     いや、知らない


現京都府の日本海側である丹後国丹波郡の豪族、子孫は熊本藩。大村藩にもみられる。

                                     なるほど!

「中」は中心、なかを表す。「瀬」は流水が浅く流れているところを表す。



>北村季吟=出身は近江国野洲郡北村で門人に柳沢吉保・松尾芭蕉・山岡元隣・山口素堂・田捨女など

この北村季吟は伊賀系の北村氏の可能性がありますね。


[42]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月13日 01時30分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 何故、松下氏を追っているかといいますと、今までは目に見えなかった
松下氏の存在が、明智氏ともからんでくることがわかったからであります。

 つまり、明智氏は信長に仕え、松永久秀の信貴山城攻めの時、筒井氏を
統括下においておりました。その筒井氏の兵を統率していたのは「島左近」。
そしてその島左近は、秀吉や石田三成を仲介にして「松下之綱」と通じて
おりました。
 つまり、明智氏と松下氏は知らない仲ではなかったということになりま
す。

 その証拠に、インターネットサイト「二つの明智系図」
 http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/ffddcd99a361118d173f4e41ce16ad52
にはこう書かれておりました――

 「喜多村家〜この系図は光秀の子・洛陽妙心寺住職玄林によってつくら
 れたもので、喜多村弥平兵衛(内治麻呂)に宛てられている。そしてこれ
 が明智光秀の姪の子だという明智助九郎家の後胤「中瀬助之進」の許に
 あって、これが書き残されていた。この「中瀬家」はさきに紹介したが
 木下藤吉郎の旧臣・「松下加兵衛之綱」の後胤でもある。源太左衛門(松下
 長則、之綱の父)は、幼い頃「秀林院(ガラシャ)様御側に御養育」された
 という。」

 松下氏の活動がうっすらと見え、また明智家や服部家(中家、半蔵家)、
そして柳生家、島家と藤堂家などがつながっているという関係も見えてま
いります――

 次回は、さらに「南朝」をキーワードに探ってみます――
 
[43]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月13日 01時49分49秒 ) パスワード

A.AKECHI様

 奇しくも「中瀬助之進」のインターネットサイトの紹介が重なっており
ました。「中瀬氏」に関する情報を私は持っておりませんので、真実を確
かめようがありません。
 また、「源太左衛門」という屋号は、松下之綱の父の長則にて知られて
おりまして、その孫で源太左衛門を名乗ったという者については、手元に
ある資料には載っておりませんので、確かめようがありません。
 ただ、ガラシャに養育されたということでしたら、松下之綱の孫くらい
が正解かなと思います。従ってその点については訂正させていただきます。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月13日 07時13分58秒 ) パスワード

三つ柏さん


茫然自失。


戦国時代の友達の輪っは今の我々には想像もつかないですね
これは江戸時代の260余年間に移動の自由が無かったからですが
思えば日本の武家社会は人口の数%の世界で
地理も非常に限られた範囲ですから
友達の輪っは想像を絶する密度の濃い繋がりだったのですねぇ。


そこに1人の男性がたくさんの子女を儲けて繋がろうとした。
子供の数は10人20人という感じでしょうし。


今の人間関係なんて希薄も希薄
そういう現代人が戦国時代の武家社会の人間関係を想像するなんて
無理なんですよね。



昔の人間関係というのは
1度でもお目通りがかなえばそれが「箔」になりましたから
それで良い家に就職したり婚姻を結べたりして
「えにし」を結んでいったんでしょうね。


松下家も秀吉を通して明智家とは知り合いになってたんでしょうね。



      音の単純な日本人が複雑怪奇な英語の発音を習得しようなんて
      10歳あたりの日本人でも無理なのかと
      オートンと一緒に英語で遊ぼうという番組で
      日本人には子供でも無理なんだねぇ
      と驚いています。

      我々がいくら戦国時代の人間関係を調べまくっても
      やっぱり  分かってないなぁ  と溜息です。

      そこには  名字の複雑さが壁になって立ちはだかっていますしね。

      やっぱり  大きな家紋でもつけておかないと   当時の日本人でも難しかったのかもですね。

      
今日は名字のややこしさと出自を明確にする家紋の価値を改めて思いました。
中瀬なんてね。

聞いたことが無かったのですが
それはワタクシが無知なだけで
「実は」
という名家だったのを知らなかっただけなんでしょうね。

で、検索したら  愛知県名古屋市熱田区中瀬町  ですって。
ヲイヲイ
すっごい格式の高いエリアじゃあありませんか。
http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=35.12205909&lon=136.90631104&ac=23109&az=42&z=16&fa=pa&ei=utf8&p=%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%B8%82%E7%86%B1%E7%94%B0%E5%8C%BA%E4%B8%AD%E7%80%AC%E7%94%BA


それどころかうちの父の母親の一族が持ってた広大な土地のすぐ近く!
あっちゃぁ〜
でした。


大学の1年の時に全くのヨソモノの男の子からその父方の土地のことを聞いて
その時もピンと来なかったし
今日もつい今しがたまでピンと来なかった。

                       なんせウチは600年住んでてみんな親戚というか、代替わりで、他人の関係の顔にしてるし。


えっ?!
中瀬ってワタシの遠い親戚だった?
です。





>「源太左衛門」

常に  松島家  に連想が飛んでました。
[45]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月13日 09時31分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様の言われるとおりだと思います。
 我々の常識というものは、文明開化といわれる明治維新より始まっている
のかなあと思います。
 それ以前の江戸時代については、いろいろな形でかなりの情報を得てはい
るものの、江戸時代の初期以前、つまり1700年以前については、今の常
識では考えられない常識というものがたくさんあったのだ思います。
 その今とは違った常識を知ることは、歴史の謎を解く一つの有力な鍵を得
ることにもなります。

 婚姻関係については、正にその通りで、氏族間の協力関係を作るためには、
最も有力な方法であった(閨閥に代表される)。これは古代よりそうであり、
現代にも通じることではあります。
 但し、江戸時代には、地域移動の制約や身分制度の問題等、狭い領域の中
でのやむを得ない婚姻関係というものが常識であったというありま一面もあ
ります。

 さて、島左近と柳生宗厳とは、筒井配下で近しい関係になっておりました。
 また、島左近は筒井順慶軍の長として、松永久秀の信貴山攻め等もありま
したが、明智光秀を尊敬しておりました。本能寺の変の時も、島左近は明智
軍に援軍を出すよう催促していたようですが、筒井氏の決断がそうならなか
った。島左近としては、痛恨の極みを味わったのではないかと思われます。

 この島左近と柳生宗厳は、同じ筒井配下で通じておりました。
 また、島左近と藤堂高虎は、木下秀長配下で通じていたと考えられます。

 ですから、歴史とは、色々なものが「偶然」に起こった結果ではなくて、
色々なものの色々なつながりから生まれた「必然」の結果が歴史なのだと
思っています。「本能寺の変」も、偶然の結果であったというのはあり得
ないと思っています!

 ちなみに、柳生氏の祖は、バリバリの南朝の中枢臣でありました。
 明智氏の祖も、同じくバリバリの南朝の中枢臣でありました(但し、建武
の新政後は、後醍醐天皇よりも尊氏側についてしまった者が多かったよう
ではありますが)。
 和田惟政を通じて、明智光秀とも通じた服部中保次(要介)の祖も、やは
りバリバリの南朝中枢臣でありました。
 松下氏はどうかというと、元は佐々木氏ではありましたが、あを様が調
べていただいたように、松下氏の祖となった高長は、南朝側についており
ました。

 つまり、明智氏もまた南朝の誇りとこころざしを胸に秘めた武将だった
のではなかったのか……これは歴史の常識には浮上してきておりませんが、
服部家より後妻をもらったのが事実とすれば、単に甲賀・伊賀との関係か
らというのではなく、深く南朝からの仲間・身内意識がそうさせたのだと
推察いたしますのですが、あを様、AKECHI様、いかがでしょぅか――

 今後、さらに甲賀を中心にして探求を深めて行きたいと思っています。
[46]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月15日 11時09分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松下氏のルーツ佐々木氏というのは、想像以上の氏族であることがわか
って来ました。
 その一つとして、佐々木氏は宇多源氏といわれるように、皇統としては
宇多天皇をルーツにしております。

 この宇多天皇は、なかなかの人で、藤原基経が亡くなると関白を置かず、
律令国家のために親政を行った。そして天皇は、親政のために「菅原道真」
を抜擢し、重用した。
 また、地方にも心を配り、諸国に博士や医師を置いたり、防衛にも力を
入れたりした。学問にも熱心で、この時代にさまざまな文化が栄えたとい
うことであります。

 菅原道真を重用したということ、この背景には目に見えない何かがある
ような「勘」がします――
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月17日 04時12分21秒 ) パスワード

三つ柏さん


宇多天皇は・・・
日本史上では評価の高い天皇のお一人ですね
摂関政治をする藤原氏の横暴を抑えようとし
道真を重用し
天皇親政をやろうとした
だから「評価」は高い

しかし

実際には藤原貴族に負け
道真は失脚し

そして逆に民衆の涙を誘って  名君・良い天皇(道真は怨霊となり国民の神に昇華)  に化けた。

と、ワタクシにはイマイチどう評価して良いのか分かりません。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月17日 04時29分18秒 ) パスワード

宇多天皇が戦前高く評価されたのは
明治政府によって  天皇に権力と富を集中させ  さらに  天皇の神格化を図る過程で  
明治政府の役人達が日本史の中から拾い出して来た天皇ということじゃないのか?


と。


佐々木源氏の件も子供が多過ぎて養いきれないから臣籍降下で処分した、と。
この宇多天皇自身が天皇になる前は「いらない子」でしたものね。

佐々木源氏が歴史に出て来るのは源平合戦からで、その後、南北朝の争いで再び頭角を現し、戦国時代に消えて行ったから
桓武平氏とか清和源氏に比べたら日本史上ではどうってことない、と。


三つ柏さんの興味がお有りの
密教と修験道については
この宇多天皇の功績は大きいですね。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月17日 04時49分32秒 ) パスワード

http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=35.12205909&lon=136.90631104&ac=23109&az=42&z=16&fa=pa&ei=utf8&p=%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%B8%82%E7%86%B1%E7%94%B0%E5%8C%BA%E4%B8%AD%E7%80%AC%E7%94%BA


熱田区中瀬あたりの地図をツラツラ眺めていると
日本史  また  名古屋のモノ作り  の歴史が見えて来ます。

中瀬の近くに尾頭橋という場所があり名古屋の木材業の中心で
木曽川を利用して降りて来る木曽檜を江戸時代に堀川を作って運び集めました。


この尾頭橋の「尾頭」ですが
思い出すのは  秀吉の親戚の福島正則です。幼名  市  。(清正の幼名は  虎  )

                        名古屋では加藤鬼頭は太閤さん以来の名家と言います。




福島正則の母が子連れ再婚して「福島姓」になりましたが  その前は「鬼頭」でその鬼頭の前は「尾頭」でした。
ものすごい家の尾頭さんです。


名古屋で福島と言えば  南朝方  です。
秀吉の母上は平家の土地の御器所出身ですし
秀吉も信長も南朝方の武士が北朝方の武士を捉えた津島神社の祭りを楽しんだそうです。
ということは  みんな南朝方  ということです。



詳しくは知恵袋に書かれています:

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1438104904


Q
愛知県には鬼頭という姓の人が多いような気がするのですが何か由来でも?


A
中区の闇之森八幡社の社伝では、「島に生まれた為朝の子が家人の手引きで島を脱出、尾張国愛知郡古渡に来たり。」とされている。境内には「尾頭塚」と呼ばれる碑がある。これは「為朝塚」とも言われ、「鎧塚」もかっては為朝愛用の甲冑を埋めたとされている。
為朝の子とされる尾頭次郎義次も幼い頃から豪腕で、産まれた時に蛇が首に巻きつき、頭と尾を後ろに垂れていたという日本霊異記の道場法師にちなみ「尾頭」姓を名乗った。当初は「おがしら」と呼び、やがて「おとう」となった。古渡橋から400メートル位の尾頭橋は佐屋街道の起点でもある。また、源氏の御曹司・頼朝は古渡から1Km程南の熱田・誓願寺で産まれている。これは母が父・義朝の正室であり、熱田大宮司・千秋氏の出身であったからである。

さて、成長した義次の豪傑ぶりは都にまで聞こえ、当時、紀州「鬼党」を称する悪党集団があり、土御門天皇は義次に討伐を命じられた。これは共倒れを狙った策略であったといわれる。義次は喜び勇んで勅命を遂行し見事「鬼党」を退治し、その首領の首を持ち帰った。恩賞として古渡の地を安堵され、鬼の首を討ち取ったことから「鬼頭」の姓を賜った

とのこと。
なので、愛知県に多いのかもしれません。



http://www.a-namo.com/ku_info/roman/kito.htm

尾頭義次伝説の形成とその「記憶」-近世尾張の氏祖伝説-
という論文があるようです

概要は

尾頭義次は、平安末期の武将鎮西八郎源為朝の落胤であり、尾張鬼頭氏の氏祖として、近世の系図や随筆・地誌に記録された伝説上の人物である。鬼頭氏のこの氏祖伝説は、(1)源為朝の落胤(尾張国古渡村への潜居)、(2)尾頭義次の鬼退治(勅命による紀伊国の悪鬼退治)、(3)その結果として鬼頭氏の苗字が成立(鬼の頭を献上)、という三つの要素から成る。本稿では、この伝説の具体的な形成過程について近世尾張の随筆・地誌から検証し、18世紀前期の尾張藩知識人・子孫を称した豪農の鬼頭一族・虚実の間にある「事実」に新たな物語性を付加する好事家、という三者の存在を措定しつつ、再構成される「歴史」とその「記憶」のあり方について考察した。

https://nzn.jim.nanzan-u.ac.jp/rd/search/researcher/019323/articles...
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月17日 05時08分17秒 ) パスワード

http://www.a-namo.com/ku_info/roman/kito.htm

これ、スゴイです。

ホントに「鬼頭さん」というと名古屋のお金持ちという感じ。

戦国末期、子孫の鬼頭匠内義直は信長の子・信雄に仕えていたが、信雄が秀吉に追放されると八田村に居を構え、鬼頭家の菩提寺の烏森禅養寺を再興し武士を捨てた。


江戸時代にはいると、義次から22代目の景義が産まれている。鬼頭吉兵衛景義は新田開発を思い立ち、寛永元年(1631)から明暦三年(1657)までの26年間に、尾張の海東、海西、愛知、知多、春日井の五郡と美濃の安八郡にわたり、二十七ヶ所およそ三千八百町歩、二万二千石の新田を開発している。


こうした功績が高く評価され藩主から苗字帯刀を許された。

灌漑用の木津用水も萱津用水も景義が資材を投じて掘削したものです。景義は福田新田(港区南陽町)を開拓すると、この地に住居を移した。また、春日井にあった廃寺を持ってきて再興、今も残る「空雲寺」である。


景義の子孫は勘兵衛を名乗り、屋敷は「かんべいの森」と言われ、明治天皇が京都へ向かう折り、ここで休憩されました。

現在は南陽神社の北側に門だけを残し、敷地は南陽中学になっている。また、熱田から下之一色に至るまでの間に三十三観音があるが、これは三十三に区切られた開墾地の守護仏として祭られたものである。

(ぶらっと中村・舟橋武志著)   ← 舟橋って言ったらこの家も名家で(タシカ)南朝方だったような




>三千八百町歩、二万二千石の新田開発

って、岡崎が4万石ですよ。

その半分ですもの
さすが鬼頭さん。



地元の人間には名前を聞けば  (ああ、あそこのアイツ)  ってピンと来ます。
家のこともバレバレだしね。


ワタクシは古渡城のすぐ南の那古野なごや城のところに住んでました。
ずっと南に熱田神宮があります。
那古野の南に沢上という場所があって服部病院というのがあって
名古屋だと名字を聞くとスグに自分の先祖との距離感なんかが分かります。


明智光秀公の忘れ形見の内治麻呂さまの御子孫はどうして  中瀬  を名字にしたのか
何か出て来ないかな
と思いつつネット三昧です。汗

[51]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月17日 08時44分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「鬼頭」氏というと、一時有名になった弁護士の鬼頭さんを思いだします。
 名前自体が強烈な印象だったので覚えています。
 また、「中瀬」は伊賀にもあり、我が遠州にもありで、中洲の意味だと思
いますが、興味深いです。

 用事ができましたので――
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月17日 14時35分06秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「鬼頭」氏というと、一時有名になった弁護士の鬼頭さん

いえいえ
弁護士ではありません。
裁判官です。正確には  判事補  かな?


この人はお騒がせ法曹人でした。
一躍全国的な有名人になりましたが、その前にも、いろいろ事件?事案!を引き起こしています。


ある意味、福島正則の血を受け継いでいるのかも、ですね。
福島正則は名古屋人には珍しいアル中でしたからね。


新田開発の鬼頭吉兵衛景義もある意味豪傑タイプだったのでしょうね。
数十年のうちに2万石の実力者になってしまったというのは物凄い能力と意志の持ち主だったんでしょうね。
熱田神宮や十一屋さん(丸栄百貨店)が新田開発をしたのはもともと財力があったからですが
織田家に仕えてた鬼頭さんって
もし織田信雄が失脚してなかったらどんな家になってたのかなと空想が飛びます。

                       信長によって信雄付きにされたのかな?とか。


名古屋では鬼頭さんという弁護士さん、結構、いらっしゃいます。
やっぱり優秀な一族です。


裁判官って言ったら司法試験に通った超優秀なレベルの法曹人だけど
暴走する人もいるもんですねぇ。
珍しい名字の人はワカリ易いから一族の為にも襟を正して欲しいものでしょうね。
[53]A.AKECHIさんからのコメント(2018年01月17日 19時23分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様
三つ柏服部様

 >内治麻呂さまの御子孫はどうして  中瀬  を名字にしたのか

 これは、勘違いされておられます。
 内治麻呂の子孫を名乗っているのは、喜多村家と高橋家の2家で、中瀬助九郎の曾祖父・明智助九郎は、光秀の姪の子、即ち内治麻呂の従姉妹の子(「従甥」というそうです。)と伝わります。


 >「中瀬助之進」のインターネットサイト
 
 これは、熊本の「津々堂」という方のブログで、そちらで以前拙文を紹介して下さったことがあります。
 内治麻呂の姉たちに関わる話で、内治麻呂本人(?)ではない=「服部」とは関わりがないので、余りご参考にはならないと思いますが、もし気が向いたらご覧下さい。「AA」、「AN]と書かれているのが私です。
      
http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/s/%E6%96%87%E4%B9%85%E8%88%AA%E6%B5%B7%E8%A8%98

http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/31ef6e4a63fe0e71d955d19dd877306f
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月17日 23時01分18秒 ) パスワード

A.AKECHIさん

訂正をありがとうございます。


>内治麻呂の子孫を名乗っているのは、
>喜多村家と高橋家の2家で、
>中瀬助九郎の曾祖父・明智助九郎は、光秀の姪の子、即ち内治麻呂の従姉妹の子(「従甥」というそうです。)と伝わります。


従甥とは内治麻呂の5親等になるのかな?
確かイトコの孫が6親等で
6親等までが現代の日本では法律上の「親族」とかの記憶。


     アタマ回らない・・・


つまり当時では内治麻呂の従甥ということは  バリバリの親族・一族  ですね。


中瀬という名字も
名古屋のナカセ、
三重の中之瀬
浜松の天竜川右岸の中瀬
     1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、中瀬村、豊保村、上島村が合併して豊田郡中瀬村

どこからとったのでしょうね。
この3つの中で最初に外れるのは名古屋のナカセかもですね。

三重か浜松か?
天竜川右岸も三重も可能性は高いですね。


http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/s/%E6%96%87%E4%B9%85%E8%88%AA%E6%B5%B7%E8%A8%98
http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/31ef6e4a63fe0e71d955d19dd877306f

ゆっくり拝見させて頂きます。






[55]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月18日 11時17分47秒 ) パスワード

光秀方として滅びた三箇さん
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E4%B8%89%E7%AE%87

【名字】三箇
【読み】さんが,さんか,さか,さんこ,みか,みこ
【全国順位】 8,440位
【全国人数】 およそ960人

現富山県である越中国射水郡下村三箇が起源(ルーツ)である。
ほか清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)宇野氏族(現奈良県である大和国宇智郡)等がある。



http://www2.harimaya.com/sengoku/html/saka_k.html

三箇氏
源氏車
(伝秀郷流佐藤忠信後裔)

 戦国時代の歴史を知る一級史料の一つに、宣教師ルイス・フロイスの残した『日本史』がある。 そのなかに、「飯盛城で七十三人の武士が集団で洗礼を受けた」と記されている。その一人が、 河内三箇城主の三箇伯耆守頼照(洗礼名サンチョ)であった。 飯盛山城址 三箇氏は、当時、河内飯盛城を拠点として畿内一円に威勢を振るった三好長慶の被官で、 三箇城は飯盛城の西方を固める支城の一つであった。


 中世の河内は大和川の氾濫原で、現代からは想像の難しい一大湿原をなしていた。三箇は深野池の中にあった いくつかの島が、水量の加減によって三つに見えることから起こった地名だという。 そして、平安時代後期には、河内国讃良郡三箇庄として三箇、灰塚、氷野の集落が成立していた。 飯盛山西麓の北条は、かつての条里制の名残を伝えた地名である。

 また、平安時代の女流歌人清少納言が 『ないりそ(勿入)の淵』と記したところは、深野池の出口が絞られて新開池へ注ぐ地点だったところといい、 淵跡の碑が建立されている。三箇は京と河内国府を結ぶ官道が通り、河内でも古くから開けたところであった。

 官道は東高野街道とも呼ばれ一帯は戦略上重要な場所であったことから、南北朝時代には 四条畷の合戦が行われ、戦国時代には飯盛城を舞台に数多の戦いが繰り広げられた。また、摂河泉と大和を繋ぐ 水上交通の要衝でもあったため、要地を押える三箇氏は三箇城主として重要な存在であったことがうかがわれる。

 三箇城はフロイスが書簡の中で「湖」と記したほど広大な深野池に築かれた城で、池を天然の惣濠とした要害であった。



その出自を探る

 備後福山藩主阿部氏に仕えた『三箇氏系図』によれば、三箇氏は藤原氏秀郷流で、源義経に仕え四天王の一人である 佐藤四郎兵衛尉忠信の後裔となっている。

 忠信は奥州藤原秀衡の家臣で、兄の三郎兵衛継信とともに義経に付けられて 平泉から出陣した。二人の活躍は『吾妻鏡』や『源平盛衰記』に詳しいが、継信は屋島の合戦で討死、忠信は義経の 身代わりとなって京で討死したと伝えられている。佐藤氏の菩提寺である医王寺の石塔には忠信の享年三十四歳とあり (源平盛衰記では二十六歳)、子の義信は吉野に近い大和国宇智郡今井庄小山の地に住したという。


 義信の孫信之は小山城主井上氏の反乱の討伐戦に参加、その功によって宇智郡内に所領を与えられ、子頼之は大和に 立ち寄った前執権北条時頼から一字を賜った。そして、次ぎの包頼が河内国讃良郡三箇村に移住し、佐藤から三箇に 改めたのだという。やがて、南北朝時代を迎えると、後醍醐天皇に味方した頼繁は大和国十市郡にも所領を与えられ、 宇野、秋山氏らと姻戚関係を結ぶなどして勢力を広げていったらしい。


 一方、『姓氏家系大辞典』には、三箇氏は清和源氏宇野氏族で「サカ」と称し、宇智郡の豪族であったと 記されている。実際、大和の中世における宇智郡の国人領主で、今井庄三箇城主三箇氏がいた。応仁の乱の一因 ともなった畠山氏の内訌がつづいたとき、宇智郡の武士たちは政長派と義就派に分かれて戦った。 三箇氏は宇野・坂合部・野原・大岡氏らとともに政長に味方し、二見・嶋野・栄山氏らは義就に味方して両派の争いが 続けられた。



 弘治三年(1557)、大和国宇知郡の国人一揆が分郡守護畠山氏の被官平氏に宛てた申し入れ状には、国人一揆の 一人として三箇治部左衛門尉頼盛が二見氏、宇野氏らとともに署名、花押を書いている。宇智郡は河内守護である 畠山氏が分郡守護であったことから、三箇氏らは一揆で取り決めたことを郡代平氏に申し入れ、心得させているので ある。かつて対立した宇智郡の国人たちは、十六世紀のなかば大同団結して一揆を結び、みずからの生活と権益を乱世から 守ろうとしたのであろう。


 三箇氏の子孫はいまも五條市に続き、大和武士の数少ない中世文書を伝えている。それによれば、畠山政長は誉田城の 戦いにおいて戦死した三箇与五郎の忠節への感状を与え、さらに、与五郎の跡を春熊に安堵している。三箇氏は 畠山政長に属して、懸命の働きをなしていたのであった。また、さきの春熊への所領安堵に際して、野原弥五郎宛にも文書が発給されているが「舎弟春熊丸為」とあることから三箇氏と野原氏とが親戚関係にあったことが知られる。


 三箇氏系図は江戸時代後期に作成されたもので、その内容を鵜呑みにすることはできない。 河内三箇氏は、フロイスの『日本史』に頼照が登場する永禄年間(1558〜69)以前のことは不詳というしかないようだ。 おそらく、河内守護畠山氏の被官となった大和宇智郡の三箇氏の一族が、 畠山氏との関係から河内に移住したのではなかろうか。清和源氏宇野氏は頼親流で、 代々の三箇氏の名乗りに「頼」の字が用いられていることも宇野氏の後裔を思わせるものがある。 また、頼照の娘は平盛長、坂合部延宗に嫁いだとあるが、いずれも宇智郡に関わる武士と思われ、 三箇氏には大和との関係をにおわせることが多い。



敬虔なキリシタン、三箇氏

 さて、三好長慶に仕えた頼照は、永禄六年(1563)、飯盛山城で日本人修道士ロレンソの説教に接して改宗を決意し、 翌年、宣教師ガスパル・ヴィレラを招いて受洗した。一族や家臣の多くも共に改宗し、妻もルシアという洗礼名を持つ キリシタンとなった。頼照は熱心な信徒となり、宣教師の生活にも保護を与えた。

 日本に初めて西洋医学を持ち込んだといわれるルイス・デ・アルメイダは「予が日本で見た最も信仰厚きキリシタンに 属す」と評し、 フロイスは「イエズス会士に対して真の父の如き庇護を与えた人」と評すなど、それぞれ頼照を高く評価している。 アルメイダはのちに大和の沢・十市を訪れ、同地では一時的にキリスト教が栄えた。その背景には三箇氏と 大和との関係があり、アルメイダの布教をカゲから支えたのではなかろうか。

 また、永禄十一年にはロレンソやフランシスコ・カブラルらの前でキリスト教と日本人の宗教観に関する演説を行い、 これに感銘を受けたカブラルは演説の内容を当時ポルトガル領であったインドのゴアに送って 日本人の聡明さについて喧伝している。カブラルはのちにゴアでインド管区長を務めた人物で、 頼照が相当に明晰な人物であったことがうかがわれる。 このように頼照は西洋の文物目当ての俄キリシタンではなく、敬虔な信仰心を持ったキリシタン武将であった。しかし、 その信仰心が行き過ぎた結果、領内の寺院をことごことく破壊するという行為も行っている。

 永禄七年、三好長慶が病死したのちは三好義継に属した。永禄十一年、足利義昭を奉じた織田信長が尾張から上洛 してくると、義継は信長に降り北河内を安堵され若江城に拠った。ところが、のちに三好三人衆と結んで信長と対立、 天正元年(1573)、信長の攻撃を受けた若江城は落ち義継は自害した。ここに 三好氏が滅亡すると、頼照は織田信長に属して所領を安堵され、佐久間信盛の指揮下に入った。

 頼照は摂津・河内の本願寺勢力と戦う先兵の任を担いながら、キリシタンを保護して領内に千五百人のキリシタンを 擁した。そして、高槻城の高山右近、若江城の池田丹後守、岡山城の結城ジョアンらと並んで城下を近畿キリシタンの 一大拠点とし、頼照が築いた教会は「五畿内で最も大にして美麗」と称えられた。教会はJR住道駅前に建っていたようで、 教会付近を角堂と呼んでいたことから住道の地名が起こったといわれる。


乱世を生きる

 天正五年(1577)、信長と本願寺との戦いが激化、本願寺の一揆勢が船に分乗して大和川を逆登り三箇城に 押し寄せることもあったが、よく城を保った。一方、先述のように信仰心から領内の社寺を全て 破壊するという行為があり、これを見たキリシタン嫌いの河内国人の一人多羅尾常陸介は頼照が毛利氏に通じていると信長に讒訴した。 近江永原に幽閉され窮地に陥った頼照は、息子頼連の弁明と信盛の執り成しによって疑いを晴らすことができたのち、 家督を頼連に譲ると信仰に没頭したという。

 家督を継いだ頼連もマンショの洗礼名を持ち、フロイスによれば「非常に器用で、甚だしく武技を好んだ」とあり、 さきの父頼照への弁明といい、父に劣らぬひとかどの人物であったようだ。

 天正八年(1580)、織田信長と本願寺との間に講和が成立、本願寺は大坂石山から退いていった。 以後、領内はしばしの平穏を迎え、頼連は信仰と治世に過ごし三箇氏は最盛期を迎えた。ところが天正十年六月、 明智光秀の謀反によって織田信長が京都本能寺で戦死した。頼連は明智光秀に加担したため、光秀が山崎の合戦で 羽柴秀吉に敗れると、三箇城は秀吉方の諸将に攻撃され一族とともに大和の筒井順慶のもとに逃れた。 三箇氏は筒井氏との間にはかねてより交流があったようで、ここにも、三箇氏が大和と浅からぬ関係を持っていたことがうかがわれる。


 頼連の敗亡によって、城は落ち、教会は焼き払われ、保護者を失ったキリシタン領民も四散し、三箇は廃墟と化したという。イエズス会年報には、三箇一帯が「収穫後のブドウ園のごとく、一房の実も残らず」という状態であったことが記録されている。足場固めに忙しい秀吉は大和に奔った頼連を深く追求することもなく、筒井定次に仕えることを黙許したようだ。以後、頼連は振るわず、文禄の役に従軍したのち浪人、同じキリシタンである小西行長に仕えて上津浦に所領を与えられたが、関ヶ原の敗戦で小西家も滅亡してしまった。

 その後の頼連の行動は知れないが、一説に武士を捨てて三箇に隠棲したとも伝えられる。頼連ののちの三箇氏はキリスト教を改宗し、孫の重武・重則らは備後福山藩主水野氏に仕えた。水野氏も元禄十一年(1698)、嗣子なくして改易、浪人となった三箇氏は大坂に移住したといわれている。


その後のこと

 頼連の甥頼稙は河内三箇出身の「三箇アントニオ」という人物と同一人思われ、安土セミナリヨに入学し、さらに 遠く有馬セミナリヨに移った。キリシタン禁教令が発せられたあとも信仰を捨てず、江戸幕府が禁教令を発布した後も 修道士として布教に励んだという。棄教すれば助命すると幕吏に持ちかけられたが拒絶し、元和八年(1622)、長崎の 立山において妻マグダレナや他の信者55名とともに殉教を遂げた。三箇マティアスは頼稙の弟頼成といわれ、 敬虔なキリシタンとして行動したが、慶長十九年(1614)、高山右近らとともに国外追放となりマニラで没した。

 一方、江戸時代の宝永元年(1704)に大和川付替工事が行われ、さらに深野池の埋め立てなどによって、かつての 地形はまったく一変した。戦国時代、フロイスの報告によって遠くヨーロッパにまでその名を知られた三箇城と周辺の 水景は失われ、三箇氏の遺跡もまったく消え失せてしまった。余談ながら、大和の国人領主であった三箇氏の子孫は、 江戸時代には郷士級の家として続き一族から旗本能勢氏の家臣となった者もいたと伝えられている 。・2010年01月28日

【主な参考資料:wolfpacさまのサイト・大和武士・大東市史・五條市史 など】

へぇ〜
全然知らなかった。
[56]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月19日 11時39分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 歴史というのは、「根」が深いものであります。掘れば必ずといっていい
程、次の知られていない新しい史実が出て来るものであります。

 土岐氏と佐々木氏についても、新たな発見がありましたので、とりあえず
簡単にまとめます――

 @土岐氏の支流で、南朝に仕えた船木氏ですが、船木氏のルーツは想像を
 はるかに超えたものでありました。
  インターネットサイト「建国に貢献した船木氏の真相」によりますと、
(http://www.nihoncity.com/journal/main/journal_main_160331.asp )
 船木氏のルーツは、古代イスラエルからの渡来者に至るということで、
 このように具体的な氏族の古代イスラエルとの関係について詳しく言及さ
 れたものは見たことがなかったので驚きました。
  一度、このサイトをご覧いただきたいと思います。
  太田亮氏の『新編 姓氏家系辞書』によりますと、舟(船)木氏には、
 大きく二流あり、阿倍氏族・佐々木氏流と土岐氏族流だそうですが、現実
 てきには二者は混淆しているようです。

 A松下氏の祖の佐々木氏ですが、宝賀寿男氏の『古代氏族の研究B阿倍氏』
 によりますと、佐々木一族は武家の多くがそうであるように、源氏に系譜
 仮冒してたいるが、もとは阿倍氏にほかならないと言っています。

 つまり、@もAもずっと古代につながっているということでありますが、
両方とも古代「阿倍氏族」につながっているというところが謎を解く鍵であ
ります――

 
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月20日 08時27分18秒 ) パスワード

三つ柏さん


フナキ氏は美濃というイメージがあるので美濃源氏のように連想します。
結局は時代の流れで源氏方に組み込まれたでしょうしね。
この辺りはそう空想します。
「仮冒」というより「組み込まれた」と思っています。


     だってウチだって後醍醐源氏ですもんね。
     ホントは平家なんだから桓武平氏でいいじゃないかと思うけれど
     歴史的に南北朝の戦いで後醍醐天皇に仕えて源姓を頂いたのですから
     仮冒ではなく拝領の源姓源氏です。
     笑
     14世紀からは平氏と併せて源氏でもあるのです。
     あはは



古代以前のハナシは分かりません。
古代さえ分からないのに。


語源らしきことを読まされても、その言語を知らないし、その言語の変遷も知らないし
                       ふぅ〜ん
                       あら、そうなの?
としか言えないです。



1000年も2000年も前の外国の言語を(で)解説されても
日本語でさえ
500年とか1000年とか前の日本語が辞書や解説無しにはとても理解出来ないワタクシには
(実は理解もしてない段階だよ、こんなんかな?あたりのレベルだよ)
です。

                        日本の中世が難無く読めるような読解力のある日本人なら
                        1000年前2000年前の中東の古代言語もなんとか分かるのかも知れないけど
                        そんな人、そんな学者、が存在するのか?です。

                        そういう人物は象牙の塔に籠っていてネットには書かないんじゃない?と。


確かに大昔の日本にはいろいろな国の人間が来てたことは知ってるけど
そのまま今に至ってその言語を死守して自由に操ってる日本人っているのか?
です。


中東でも、途中でイスラムの乱暴狼藉があって、
言語が2000年前のとは違っているのではないか?


もしそのまま2000年死守して操って来た民族がいるとしても既に死語の域じゃないのか?
この人達が東の果てでフナキなんて音や名に変化したと知っているのだろうか?


ロスには  アラム語  なんかの少数民族がいるってハナシです。
世界中の死語になった言語がアメリカではいまだに話されていると言われているけど

そういう希少古代イスラエル人が日本のフナキさんの名前の由来を語れるのだろうか?と非常に疑問です。


この人達だって2000年前の単語なんか知らんよ
と言うんじゃないかな?


ワタシは2000年前の日本人がどんな言葉を話していたかさっぱり知らないから。



日本人の出自のロンダリングに
明治政府によって  こじつけ  が行われたのではないか?
と思ったりします。


箔付けとして世界各国各民族の神話とか伝説とかを明治以降日本に輸入したのじゃないか?
なんて。


確かに知り合い一族は日本人だけど  顔は全く中東系  です。
濃い血縁関係による先祖返り?
かもね。
近親結婚をしているとそういうのが出て来るかもね。
中東人もビックリの中東顔かも。


ということでフナキという姓を古代イスラエルに遡りたいのは  箔付け  じゃないのか?

日本人は  神代の時代にイスラエルからも来た  と箔付けしたのじゃないのか?


明治以降熱心に神代の神々のブランド化が行われたのじゃないのか?


つまり日本人は古代よりずっと前から舶来物信仰やブランド好き民族だったのかなと。


ま、夢があっていいんじゃない?と。


日本人ってユダヤ人もビックリの選民思想民族なんだなと。
[58]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月20日 12時50分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古代史は、いわゆる諸説紛々、「ラビリンスの森」でありますので、また
迷い込むのは、この際控えておきたいと思います。

 中世以降でしたら、各種史料の確度は高くなりますので、ある程度ホッと
いたしますね。

 宝賀寿男氏の著書は、確かにデータ的にはすごいものがありますが、結論
的には荒削りであり、却って混迷の中に取り残されてしまう場合が多々あり
ます。一度、宝賀氏の評価というものを、客観的に見てみたいと思います。

 阿倍氏については、遠江における古代氏族の裔の小野氏と比べて、と身近
な存在ではありません。ただ、安倍晴明でしたら、郷土史関係の資料に出て
まいりますので、いわゆる陰陽師師について探究してみたいと思います。ひ
ょっとして勘解由氏ともつながるのかと思っています――
 
 
[59]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月20日 15時13分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 先日、甲賀へ行った時、ここは「聖徳太子」と随分関係のある地域だな
と思いました。
 六角佐々木氏の初代は六角泰綱、父は佐々木信綱で、泰綱はその三男で
あります。
 信綱の死後、泰綱は宗家を継ぎ、「近江守護」に就き、近江南六郷と
京都六角の館を与えられ、「六角氏」を名乗ったということであります。
  
 私も若い頃、六角堂の近くに勤務しておりましたので、「六角」という
言葉は、大変親近感をもよおすわけでございますが、六角と言えばやはり
「六角堂」に尽きます。「聖徳太子」の創建ということで、何やら甲賀の
六角氏ともつながるような気配がします。

 一度、改めて京都へ行き、六角堂及びその近辺の歴史を拾ってみたいと
考えます。六角堂は京都の「ヘソ」かも知れません――
[60]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月21日 11時16分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 佐々木氏を調べて行くと、次の関係がわかってきました――

 @佐々木定綱の第四子に「信綱」があり、信綱から は「泰綱」が出て
 「六角氏」初代となり、その支流に「松下氏」が出る。

 A佐々木定綱の第五子に「広定」があり、「馬淵氏」初代となる。

 遠江大久保陣代官「服部中家」に仕えた家人(地代官)は「馬淵氏」で、
何で馬淵氏が?と思っていましたが、大久保陣屋の周りには服部家の家紋
「丸に並び矢」を継ぐ「松下家」が存在しており、色々調べて行く内に、
この松下家は松下之綱、あるいは松下常慶の松下一族につながるもので
あると推察され、従って、馬淵氏と松下氏は近江佐々木氏の出、即ち即ち
同族であり、共に服部陣屋に関係したのだと推察できました。
 服部中保次の暗殺された刑部にも、松下家が存在し、松下常慶につなが
る子孫であることがわかっております。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月22日 06時39分32秒 ) パスワード

三つ柏さん


> A佐々木定綱の第五子に「広定」があり、「馬淵氏」初代となる。

これはスゴイ発見ですね。



服部氏   ⇔  馬淵氏  ⇔   松下氏   ⇔  井伊氏

結局繋がりました。
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月22日 09時09分25秒 ) パスワード

歴史トリビアからの受け売り:


石田三成には秀頼さまの小姓をしていた次男がいて
関ヶ原で敗れたから
三成に恩義を感じていた津軽公が津軽に匿い

この次男は姓を杉山に変え

杉山家はのちには津軽藩の家老になって新政府軍に付き
幕府軍に勝ち津軽家への恩義を果たしたのだそうです。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E9%87%8D%E6%88%90

石田 重成(いしだ しげなり)

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての人物。
石田三成の次男。
諱は吉成(よしなり)ともする[1]。


生涯

石田三成の次男として誕生。母は皎月院。

慶長4年(1599年)より豊臣秀頼に小姓として仕えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで父・三成を初めとする西軍が東軍に大敗して、一族の居城佐和山城も落城したことを知ると、大坂から津軽信建の助けで乳母の父・津山甚内らと共に陸奥国津軽に逃れた。

                        津軽信建は秀吉の大名は喧嘩せずの命を破って近隣大名と争い
                        秀吉にバレた時に三成にお願いして罰を受けずに済んだ


その後は杉山源吾を名乗り、津軽氏の保護のもと深味村(現・板柳町)に隠棲する。または杉山八兵衛と名を変えて津軽家に家人として仕えて侍大将になったとも言う[1]。


                       杉山姓なのは
                       重成の持っていた土地が甲賀の杉山だった!
                       もう1つの説は秀吉から像を拝領した土地の名が杉山だった


                                     甲賀!
                                     また杉山家は忍者を統括してたそうです


慶長15年(1610年)4月28日に若死したという説があるが、慶長15年ごろまで隠棲しその後出府して寛永18年(1641年)に53歳で死去したという説も有力である。

三男の成保系『杉山系図』には藤堂高虎に仕え伊勢で死去したという記述があるが真偽は不明。

長男・吉成は弘前藩主・津軽信枚の娘を妻として家老職についており、子孫の杉山家は弘前藩重臣として存続した。

また、弘前藩の忍者を統括していたという伝承もある[2]。



石田三成が豊臣を名乗ることを許されていたという記録は無いが、宗徳寺(青森県弘前市)にある重成以下杉山家の代々の墓には豊臣の姓が刻まれている[3](江戸時代に豊臣氏を正式に名乗っていたのは北政所の実家木下家のみである)。

                        氏の長者である秀吉が豊臣恩顧の武将に豊姓を与えたって有り得るでしょう。
                        特に三成には。


三成の子の生き延びたハナシは結構あるようです。
有名なところでは(笑)
前田慶次郎に引き取られた三成の忘れ形見。
慶次郎と三成の子を匿ったのは  上杉家
そういうおハナシなんか。
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2018年01月22日 09時20分02秒 ) パスワード

新たに
長上郡の服部氏族CW(課題確認47):104
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101621.html
を立てました。

キリの良いところでどうぞ。
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