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 投稿番号:101615 投稿日:2017年12月13日 03時18分41秒  パスワード
 お名前:三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族CU(課題確認45):102光秀公
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101613_68.html
長上郡の服部氏族CI(課題確認44):101
の続きです。


      自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
      最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。



前スレに於いて明智光秀と名張の服部家の関係が一歩進みました。

男子が名を挙げるには
学問だけではなくいろいろな土地を歩き友をたくさん得ることが必須ですね。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月13日 15時29分43秒 ) パスワード

天の青海のあを様

 新しいスレッド、ありがとうございます。
 また、和田惟政についてもお調べいただき、ありがとうございます。
 
 戦国時代は、情報戦でありましたので、まず第一に情報を入手する
ことが戦いを制するカギでありました。それも単発的に入手するので
はなく、情報ネットワークを張りめぐらせた上でのいろいろな角度か
らの、そして確度の高い情報が大事でありました。
 とすると、修験道ネットワーク、伊賀忍・甲賀忍のネットワークは
特に重要だったと思います。
 戦国武将で、諜報のために忍者を使わなかった人はなかったと思い
ます。明智光秀と忍者との関係、あまり表には出てきませんが、どこ
かにそんな情報が隠されているはずだと思っています……。
[2]A.AKECHIさんからのコメント(2017年12月13日 19時27分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様
三つ柏服部様

和田惟政についての情報、ありがとうございます。

>伊賀と明智光秀の関係は甲賀の和田氏が仲介になってたのかもですね。
>室町幕府であり足利将軍家であり もともと知らない仲ではなかった

まさに、そのとおりかも知れません。


Wikipedia「足利義昭」によれば、
 
 「(略)永禄8年(1565年)5月、興福寺に幽閉・監視された。(略)一色藤長、和田惟政、仁木義政、畠山尚誠、米田求政、三淵藤英、細川藤孝および大覚寺門跡・義俊(近衛尚通の子)らに助けられて7月28日に脱出し、奈良から木津川をさかのぼり伊賀国へ脱出した覚慶とその一行は、(略)和田惟政の居城にひとまず身を置き、ここで覚慶は足利将軍家の当主になる事を宣言した。
 (略)
 11月21日には和田惟政と仁木義政の斡旋により(略)野洲郡矢島村(守山市矢島町)に進出し、在所とした(矢島御所)。」

 この頃明智光秀は細川藤孝の中間でしたから、この頃に和田惟政の面識を得た可能性があります。
 そして、ご存知のように、

 「永禄9年(1566年)9月には若狭から越前国の朝倉義景のもとへ移り、上洛への助力を要請した。」
 
 この頃から明智光秀は、将軍となった義昭に(細川藤孝の推挙で)仕えましたので、和田惟政にもより近く接するようになったと思われます。
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月15日 14時52分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様

 細かな説明は長くなりますので省きますが、「和田惟政」と共に足利義昭
に仕え、「摂津国白井河原の合戦」で共に討死した「永井隼人(斎藤隼人佐
道利)」は、光秀に仕えた「斎藤利三」とは一門でありますが、斎藤家の内紛
により斎藤龍興側につき、それに反旗を翻している明智城を攻めた。結果、
光秀は城落ちとなりました。
 つまり、明智城を落城させ、光秀を城落ちさせ、そして信長とは徹底的に
戦った男は、最後には義昭について戦い、和田惟政とともに討死していると
いう事実があります。彼もまた、斎藤家の再興と土岐家の再興を望んでいた
のでありますが、明智光秀とは紆余曲折はありましたが、「思い」は一緒で
あったということになります。

 この斎藤隼人佐道利は、永井直勝の永井家とは遠祖ではつながりますが、
ほぼ別系ではあります。永井直勝は「おんな城主 直虎」には出て来ませ
んでしたが、井伊家同様、宗良親王にもつながる高貴な家系でありました。
 長田から永井に姓を変えたのは、家康の命によりますが、1580年のこ
とと推定されます――

 明智光秀をとりまく人間関係を調べると、いろいろなものが見えてまいり
ます。同時代に生きた多くの人間の関係を、ビビットに頭の中に思い浮かべ
ることができれば、碁石を打つように戦略が見えてきそうな感じがいたしま
す――
[4]A.AKECHIさんからのコメント(2017年12月15日 22時38分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様
三つ柏服部様

 皆様既にご存知かもしれませんが、(私は知りませんでしたので、こちらに書いておきます。)
 甲賀の和田氏は、「神君伊賀越え」でも家康を助けたのですね。
 
 Wikipedia「和田信維」によれば、
 「近江甲賀郡和田の地で生まれる。 (略) 本能寺の変後の徳川家康の伊賀越えを助けて功を為し、家康から血判の誓紙を与えられた。」

 この件、伊賀の服部氏との関わりはどうだったのでしょうか?

 
 更に、Wikipedia「和田信維」には、こんな問題提起もされています。
 「同族と思われる和田惟政との関係も今のところ分かっていない。また、経歴について似通っている点の多い和田定利との関係も今後の研究課題のひとつであろう。」
 
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月16日 07時21分34秒 ) パスワード

和田さんは
ワタクシ的には楠木正成一族の和田さんがアタマにあるので
甲賀出身で
足利義昭に仕えた
という和田氏がいまだにピンと来ないです。


足利義輝将軍に仕えた伊賀系の服部中とは知り合いだったでしょうね。
家康の伊賀越えは伊賀側から語る「神君伊賀越え」がうまく後世に伝わったけど
残念ながら甲賀側には気の利いたのがいなくて「神君甲賀越え」は「伊賀越え」の蔭に隠れてしまった。




近江和田氏

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%92%8C%E7%94%B0%E6%B0%8F
近江和田氏は日本の氏族のひとつ。

本姓は源氏で、六孫王・源経基の子・満正を祖とする。
代々、近江国甲賀郡和田谷に住していた。

戦国時代に和田惟政が出た。

惟政の父は和田惟助と伝わるが、惟政の前半生までは不詳な点が多い。

和田惟政は、永禄の変で暗殺された将軍足利義輝の弟の足利義昭に仕え、その将軍職就任に尽力する。


織田信長の援助により上洛を果たし、摂津の支配を任され池田氏、伊丹氏と共に摂津三守護と称された。


しかし国人衆の力が強い摂津国の支配は難渋を窮め、
惟政は池田氏の内紛を鎮めるため出陣したものの白井河原の戦いにおいて戦死する。


跡を継いだ和田惟長は家中の内紛により家臣の高山飛騨守、高山右近父子に追放され、和田氏は没落した。



惟長はそのまま死亡した説があるが、
子孫と称する江戸幕府旗本の和田氏に拠れば、
惟長は後に羽柴秀吉に仕えたが振るわず、のち徳川家康に仕え旗本として存続した。


http://www.geocities.jp/keizujp2011/oumiwada.html

近江和田氏系図:

善積惟顕の子、氏家を祖とする。


和田氏家 善積惟顕の子
 和田惟基 和田氏家の子
  和田惟秀 和田惟基の子
   和田惟頼 和田惟秀の子
    和田惟宣 和田惟頼の子
     和田惟助 和田惟宣の子
      和田惟政 和田惟助の子
       和田信維(惟長) わだのぶただ 和田惟政の子 生没年:天文4年(1535年) - 文禄元年(1592年) 没歳:58歳
        和田正信 わだまさのぶ 和田信維の子 生没年:生年不詳 - 元和2年(1616年)
         和田三正 わだただまさ 荒尾成房の三男 和田正信の養子 生没年:元和元年(1615年) - 寛永19年3月24日(1642年4月23日) 没歳:42歳
          和田三信 荒尾嵩就の次男 和田三正の養子
           和田真信 和田三信の子
            和田昭信 乾知長の長男 和田真信の養子
             和田時信 和田昭信の養子
              和田定信 池田定賢の次男 和田時信の養子
               和田信之 和田定信の子
                和田信成 和田信之の子
                 和田信古 池田仲雅の次男 和田信成の養子
                  和田信美 和田信古の子
                  和田信元 和田信古の子
                   和田信且 鵜殿長発の次男 和田信元の養子





   和田惟春 和田惟秀の子
    和田惟幸 和田惟春の子
     和田惟定 和田惟幸の子
      和田惟豊 和田惟定の子
       和田惟行 和田惟豊の子
      和田惟吉 和田惟定の子
     和田惟誠 和田惟幸の子
     和田正光 和田惟幸の子
      和田正則 和田正光の子
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月16日 07時44分16秒 ) パスワード

摂津国白井河原の合戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E4%BA%95%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84


白井河原の戦い(しらいかわらのたたかい)

元亀2年(1571年)8月28日に白井河原一帯で行われた戦い。

池田氏の一家臣であった荒木村重が、摂津国内で勢力を拡大するために起こした戦いと考えられている。
この戦いに勝利した荒木村重は織田信長からも一目おかれる存在となる。


                 これで明智光秀の娘が荒木村重の息子と結婚したのかも、ですね。


戦い迄:
永禄12年(1569年)、織田信長が足利義昭を擁立して上洛し摂津に入国、芥川山城主の三好長逸が阿波国に落ち延び、松永久秀が織田軍に与すると、久秀の家臣であった高山友照もそれに従った。高山友照は永禄11年(1568年)に摂津三守護に新たに抜擢された幕臣和田惟政より芥川山城を預けられ、国人から戦国大名に飛躍していったものと考えられている。

戦国時代初期の永正の錯乱以降、摂津は常に戦乱の地であり、信長の上洛以降は徐々に平定されていくとはいえ、この時はまだ1つにまとまっていなかった。永禄11年(1568年)8月の猪名寺の戦いは茨木重朝・伊丹親興連合軍と池田勝正軍の戦いであったが、その後の情勢は茨木重朝を支援する和田惟政と、池田城から勝正を追いだした荒木村重と中川清秀の連合との対立へ変化した。荒木村重は元亀元年(1571年)7月に阿波から再上陸した三好長逸の支援を受けており(野田城・福島城の戦い)、この対立は三好氏と幕府軍の勢力争いでもあった。

元亀2年(1571年)8月、西国街道上の白井河原を挟んで両軍が対峙することとなった。この時、茨木・和田連合軍は約500騎で耳原古墳の西側の糠塚(幣久良山)に陣どり、一方の荒木・中川連合軍は郡山の北側の馬塚に約2500騎で陣取った。


情況:
未だ陣形が整わない茨木・和田連合軍から、郡山城主郡正信が単身で荒木・中川連合軍の陣取る馬塚に出向き、「わが主人である茨木重朝、和田惟政は両名ともにわかに将軍の呼び出しで京にいっている。できれば大将が帰ってから戦端をひらきたい」と時間稼ぎをしようとした。惟政の息子和田惟長の軍が後続し、高槻城には高山友照らも居たため、それらの戦力を加えるための時間稼ぎの行動ではないかと推察されている。しかしこの計略は見破られ、逆に戦闘が開始された。

『陰徳太平記』によると、この時郡正信は惟政に「多勢に無勢、これでは勝目は無い。大将は強いだけが能ではなく、可をみて進み、不可を見て退き、無事をもって利をはかるのが名将なのである」と進言したようである。しかし惟政はこの申し出を全く聞き入れず、『日本史』によると、200騎を引き連れて馬塚に突撃したようである。また『陰徳太平記』によると、進言を聞き入れてもらえなかった正信は、「ここに至り仕方なし」とし名馬「金屋黒」にまたがり敵陣を縦横無尽に大暴れしたが、荒木・中川連合軍の武将山脇源太夫に討ち取られてしまった。

『中川史料集』によると、村重は「和田惟政の首を取ったものには呉羽台をやる」という陣礼を出し、清秀が見事惟政の首を取り、名をあげたようである。『茨木市史』によると、この呉羽台というのは現在の池田市旭丘2丁目周辺ではなかったかとされる。この呉羽台の石高は300石-500石程度で、この土地が恩賞として与えられたと考えられている。また茨木市南耳原2丁目周辺には、和田惟政の墓と伝わる五輪塔がある。

一方、清秀と惟政が激突している中、茨木軍は手薄となった村重の本陣に突進してきた。しかし『日本史』によると、山陰に隠れていた2000兵が茨木軍を囲い込み、鉄砲衆300兵を駆使して落としいれた。それでも茨木軍は奮闘し、最後には重朝自身が村重に傷を負わせるほど肉薄したが、村重自身に討ち取られたとされる。この時、将軍義昭の家臣となっていた長井道利も討死を遂げている。

司令官を2人とも失った茨木・和田連合軍の残兵は「主を討たれてどうして生き残れようか」と玉砕覚悟で討って出てほぼ全滅した。この時の様子を『陰徳太平記』では「白井河原は名のみにして、唐紅の流となる」と記している。

後続する和田惟長の軍は、敗戦の報を知るや高槻城に引き返し、高山友照・右近父子と城の守りを固めた。


戦後処理:
勢いに乗る荒木・中川連合軍は茨木城を攻め落とした。また郡山城等も手中に収めると、高槻城を攻囲した。松永久秀・久通父子と阿波三好家の重臣篠原長房も攻囲軍に加わり、『日本史』によると、高槻城の城下町を2日2晩かけてすべて焼き払い破壊したとされる。

ここで宣教師ルイス・フロイスが助け舟を出した。当時、高槻城周辺にはキリスト教会があり、和田氏、高山氏の庇護を受けていた。フロイスは事の成り行きを見守っていたが、ここに至って、ロレンソ了斎を織田信長のもとに派遣し戦況を報告させた。

自分の知らないところで戦が行われていたことを知った信長は、『尋憲記』によると、同年9月9日に佐久間信盛を使者として高槻城から撤兵を勧告した。しかし両軍は動かず、『言継卿記』によると、重ねて同年9月24日に明智光秀が1000兵を率いて調停に乗り出した。ここに至ってさすがの村重も撤兵を決意したものと考えられている。

その後、村重は池田城に、清秀は茨木城に入り、それぞれ威勢を誇った。また、三好勢は高槻を越えて京に迫り、『離宮八幡宮文書』によると翌元亀3年(1572年)12月に三好康長、篠原自遁、篠原長重が山城国大山崎の離宮八幡宮にそれぞれ禁制を発給している。一方の和田惟長は高槻城主となったが高山友照父子と対立。元亀4年(1573年)3月、村重と通じた高山父子によって高槻城から追放された。


どのような経緯を経て8月28日に白井河原で両軍が対峙したかは、未だ解明されていない。

しかし、茨木・和田連合軍が十分な戦力を整えないうちに戦端を開くことを強いられたのに対して、
荒木・中川連合軍は伏兵まで準備していた点から、荒木・中川連合軍の側から仕掛けた戦いではなかったかと考えられている。


この戦いを境に、信長によって任命された摂津三守護(池田勝正、伊丹親興、和田惟政)は勢力を失い、
荒木村重、中川清秀、高山友照・右近父子など、
以後摂津で活躍する武将が表舞台に登場してくる。

戦国時代から安土桃山時代初期への世代交代の戦いとも考えられている。


新屋坐天照御魂神社には、清秀が惟政の首を取ったと伝わる短刀が奉納されている。
それには「長サ一尺五寸、幅一寸三分、太刀作名、奉謝、中川瀬兵衛、作平増盛」と記載されている。




荒木村次:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E6%9D%91%E6%AC%A1

摂津池田氏の家臣・荒木村重の長男として誕生。元亀2年(1571年)8月28日の白井河原の戦いで茨木氏が滅亡すると、父から摂津国茨木城主に任命されたが、実質的な城主は荒木氏家臣の中川清秀で、天正5年(1577年)に清秀が正式に茨木城主となると、村次は尼崎城(大物城)に居を移した[4]。

天正6年(1578年)に父が織田信長に反逆した(有岡城の戦い)際、父に協力して有岡城を守っていたが(村次は、前述の通り、明智光秀の娘を正室に迎えていたが、この時に離別し[3]、後に倫子は明智秀満の正室となっている)、茨木城を守備していた中川清秀が信長に帰順したため、荒木方は不利となる。天正7年(1579年)9月2日、有岡城より逃れてきた父・村重を自身の尼崎城へ迎え入れる。11月19日に信長より「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を取り付け、説得に来た荒木久左衛門らを村重は受け入れなかったため、村重・村次父子は荒木元清のいる花隈城に移り(花隈城の戦い)、最後は毛利輝元を頼って逃亡した。

天正10年(1582年)の信長の死(本能寺の変)後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると、秀吉に昔の罪を許されて家臣に迎えられる。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに羽柴方として参戦したが、足を負傷して以後は戦場に出ることは無く、代わりに弟・村基が仕えた[1][5]。村次自身はその後も大坂に住み、秀吉には折に触れ謁した。秀吉死後は、徳川家康に召抱えられる最中に死去した[1][2]。

正確な没年は不詳だが、38歳で死去しており[1][2]、そこから逆算すると生年は永禄4年(1561年)頃と推定される。




明智秀満
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E7%A7%80%E6%BA%80

生誕
天文5年(1536年)?       ウッソー   明智光秀の娘は荒木村次よりずっと年上のヒトと再婚?  カワイソ―

死没
天正10年6月15日(1582年7月4日)
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月16日 08時55分53秒 ) パスワード

ちょっと整理してみます:


明智ガラシャ  生年永禄6年=1563年生まれ  夫の細川忠興と同い年
父光秀      享禄元年=1528年生まれ  又は  天文9年(1540年)

荒木村次    生年永禄4年=1561年生まれ
父村重      天文4年=1535年生まれ


白井河原の戦い  元亀2年=1571年に認められて荒木は織田家に仕える

ここで明智と荒木が婚姻を結ぶことになっていった?


天正10年6月13日(1582年7月2日) 明智光秀死去  A.AKECHIさんのご先祖さまが当歳ということで1582年生まれ。54歳の時の子。

光秀の妻:
煕子
生年不詳 - 天正4年(1576年)死没


煕子さんの後に妻を娶ったのも有り得たし、側室がいたのも有り得た、ということですね。

若い嫁を貰った、というのも充分考えられますね。
[8]A.AKECHIさんからのコメント(2017年12月16日 19時08分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明智の娘について書いて下さいましたので、(「服部」とは関わりはないのですが)「明智一族 三宅家の史料」収載の「三宅家系譜」(嘉永3年、筆者:三宅重存だそうです。)から該当箇所をご紹介いたします。

 女子1 丹波国桑田郡周山城主明智左馬助光俊の室 
    幼名は秀子 後にお岸の方
    天文21年9月2日生まれ 母は妻木勘解由左衛門尉範煕の娘 お牧の方
    天正10年6月15日近江国坂本城において生害 年31歳

 女子2 同国多記郡八上城主明智治右衛門光忠の室
    幼名は花子 後にお里の方
    天文23年12月24日生まれ 母は同婦
    天正10年6月16日丹州八上において生害 年29歳

 女子3 同国加佐郡田邊城主細川越中守忠興の室
    幼名は春子 後にお玉の方
    永禄7年正月に生まれる 母はお牧の方
    慶長5年7月17日大坂において生害 年37歳

 女子4 平右府信長の甥、摂州大坂城主織田七兵衛信澄の室
    幼名は繁子 後にお辰の方
    永禄9年3月生まれ 母は上に同じ
    文禄2年8月日病死 年28歳


 興味深いのは、一般に知られているのとは異なり、光秀の正室の名が「お牧の方」、長女の名は「お岸の方」となっていることです。
 なお、筆者の三宅重存は、「三宅藤兵衛」が光秀の息子と書かれていることに対して「誤り」と注釈を付けており、その文中で
 「重利母は、秀林院殿の御姉お岸の方と云う事は、世にも知れたる事にて、お岸の方始め荒木村安に嫁せられ、天正7年荒木家断滅の後、左馬助に再嫁有り、」と書いています。


 この「三宅家系譜」から、肝心の(? 何しろ「服部」の子‼ ですから}「内治麻呂」のところをご紹介しなければいけませんね。ただ、この記載には「光保」の名に始まり、「蓑笠之助」に終わる(?}幾つかの誤りが含まれています。

 
 光保 童名は内治丸 服部平太夫と云う
  天正10年壬午正月に生まれる、母は伊賀国名張郡柘植城主服部伊賀守保光の娘也、但し、同出羽守保章の妹也、服部保光・保章とも日向守に仕え、明智没落のみぎり、保章は妹並びに内治丸を伴いて、江州野洲郡北村に蟄居し、後に内治丸を養いて、我が子にて服部平太夫光保と名乗らしむ、その後関東に召し出され地の代官と成り、蓑笠之助と改む
 
 
 
[9]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月17日 07時14分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様

 年末でバタバタしており、なかなか集中する時間がとれません――
 
 AKECHI様の寄せられる情報は、明智家の身内だけに、大変貴重な
ものであり、感謝申し上げます。

 明智光秀にしろ、織田信長にしろ、徳川家康にしろ、わかっているよう
でわかっていない。つまり、見えない部分がたくさん隠されていると感じ
ています。

 隠された部分を見るのは、文献主義・実証主義では限界があり、やはり
「大胆な推理」が必要になってくるのではないかと思います。但し、それ
が正しいかまちがっているかの判断は、後世に任せざるを得ませんが……。

 明智光秀と伊賀の関係……これは解明すべき重要なポイントだと思って
おります。伊賀というよりも、伊賀甲賀と解釈した方が正しいと思います。

 そんな中で、「おんな城主 直虎」に出てきて、今やメジャーになりつつ
ある「松下常慶」――意外と影の中核的存在で、伊賀甲賀、修験等とのつな
ぎ役になっていたのではないかと、改めて調査を始めています。
 「伊賀越え」にも加わっていたと推察しています――
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月17日 10時10分37秒 ) パスワード

A.AKECHIさん


詳しい情報を丁寧に書いて下さいましてありがとうございました。


内治麻呂が蓑笠之助に化けた話は
三つ柏さんと初めの頃に語り合った人物の蓑笠之助とは別人でしょうね。
何かのハナシが抜けていて
「内治麻呂が蓑笠之助を名乗った」
となったのだと思いますから

この辺りのハナシを空想することにしますね。
わくわく
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月17日 15時24分27秒 ) パスワード

A.AKECHIさん


>何かのハナシが抜けて
>「内治麻呂が蓑笠之助を名乗った」

この部分ですが
内治麻呂が蓑笠之助を名乗ったのは
初代蓑笠之助=服部正尚=2代将軍秀忠の継祖父=がらみ
と思います。


服部正尚の父が服部平蔵正信で、その弟が保章。保章の娘が光秀の後妻。保章の息子が近江キタムラに住んで北村=喜多村を名乗った。


要するに内治麻呂は服部正尚=初代蓑笠之助=2代将軍秀忠の継祖父=家康の最
愛の妻であった西郷局の継岳父を後ろ盾にしてたということです。


だから「内治麻呂が蓑笠之助を名乗った」のは当然であり
A.AKECHIさんが存在することが出来たわけです。



伊賀越えで服部正尚が蓑と笠を家康に渡してから拝領した名前の蓑笠之助というのは世襲となり、いろいろな人がいますね。
特に宝生流や旗本で。


http://www.google.com/search?q=%E8%93%91%E7%AC%A0%E4%B9%8B%E5%8A%A9%E3%80%80%E3%81%AF&ei=RwU2WubPLoG4jAP4qL6ABw&start=10&sa=N&biw=1280&bih=607

蓑笠之助

蓑家の祖先は、元は徳川家康の天正の伊賀越えを助けた服部氏で、
その時の働きを賞されて「蓑 笠之助」の名を授かったと家伝にある[1]。
『新訂 寛政重修諸家譜』第十八 379頁

伊賀者であった服部正尚が家康を自分の蓑や笠で変装させ無事帰国させたという[2]。
                        つまり「ニンジャ」だった。

しかし、慶長18年(1613年)、4代目・笠之助正長の時、大久保長安の罪に連座させられ、一時士籍から離れる[18]。

赦免後は大和猿楽四座の宝生座に入れられて無役となり、
名は「蓑」を「巳野」と改め、「笠之助」は使わず謹慎の意を表した[2]。

以後は猿楽師となり、<猿楽師・蓑笠之助の3代目>正高の代までそれが続く[1]。

正高が幕臣となった際に「巳野」を「蓑」に戻す[1]。


まず初代の服部正尚は
2代目将軍秀忠の生母・西郷局の養父とも実父とも言われる人。



http://books.google.com/books?id=v7Wu2D-GDDYC&pg=PA92&lpg=PA92&dq=%E8%93%91%E7%AC%A0%E4%B9%8B%E5%8A%A9%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=Ynop4EsCMZ&sig=Laa8nbRcO5BO5V1VVvjfRdPifP8&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwj9vKHNqpDYAhVQ6mMKHUFGBt0Q6AEIdTAN#v=onepage&q=%E8%93%91%E7%AC%A0%E4%B9%8B%E5%8A%A9%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

八木書店
徳川諸家系譜 1  p152


徳川諸家系譜 1 - Page 92 - Google Books Result
http://books.google.com/books?isbn=4797102578

1967
御旗本に列し、所々御出陣供奉し、其後依一一鈞宝台院殿御舎弟たる御由緒を以て、東照宮へ被一|召:忠家戸塚四郎左衛門戸塚氏^蓑庄次郎〔 I 某-蓑庄之助厂某)蓑笠之助並に被|一仰付?子孫宝生大夫座に付、父隠居料百五拾俵を賜り、蓑笠之助と改号し、猿楽举服部平四郎某早世 I 五二 丁某早世下野守忠吉君へ奉仕、子孫今尾張家に在り、 ...



http://www.geocities.jp/onriedo_gongujodo/oai.html
お愛の方=西郷局

コピペガード付きでした。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月17日 15時40分00秒 ) パスワード

ということで  A.AKECHIさんのレス8の 

>この記載には「光保」の名に始まり、「蓑笠之助」に終わる(?)幾つかの誤りが含まれています。

というのは  いわゆる「誤り」というわけでなく  ハナシが飛んでる  ということです。


わたくしの記録では

内治麻呂は「光保」ではなく北村弥平衛保之になっていて(写し間違いか?)

そして内治麻呂の生母は北村保光の娘ともいうと書かれています。



昔の身分のある人は名前が一定ではなく、しょっちゅう名を替えたし
娘の出自ロンダリングは当たり前だったので、父の名前がいろいろ出て来るのです。

    例えば島津の分家から徳川将軍家定に嫁いだ天璋院は島津の本家の殿様の娘になって京都の公家の近衛家の娘になって結婚しました。


内治麻呂の母上も実は伊賀の服部家の一族の美しい娘が名張城主の娘へ身分ロンダリングしたのかも知れません。
[13]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月18日 15時20分43秒 ) パスワード

天の青海のあを様

 物事の本質を見抜くには、「総合力」と「直感力」が大事であると思っ
ています。

 「明智家」と「伊賀」の関係――単に服部保章の娘が光秀の継室だった
という表面的事象ではなく、もっと大きく時代を鳥瞰してみると、やはり
「始まり」は、後醍醐天皇を中心にした事件「正中の変」であったと推察
いたします。

 これについての展開は、頭の中の情報・論理が熟成次第、して行きたい
と考えます。

 今週が年末の最後の「あがき」、これが済めば集中力も戻ってくるかと
思っています――
[14]A.AKECHIさんからのコメント(2017年12月18日 18時47分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様
三つ柏服部様

 空の青海のあを様の「ハナシが飛んでる」こと、「身分ロンダリング」のこと、を考慮しないといけないことのご指摘、有難うございます。

 まことに仰る通りで、
 三つ柏服部様の
 >見えない部分がたくさん隠されている
 >「大胆な推理」が必要
   にも通じることかと思います。

 (文書化されているので)「推理」ではありませんが、「明智」と「伊賀」の関係については、[8]でご紹介しました
 >服部保光・保章とも日向守に仕え、
  たことも、重要か、と思います。

 
 そう言っておきながら、余談になりますが、「直虎」で「家康=豆狸」を見せてもらって思ったのが、
 家康の「人を見る目」の凄さ、でした。信玄の言と言われる
「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、あだは敵なり。」を体現しているように思えます。
 それが直政や家臣たちだけに留まらず、大げさに言えば日本中の人材に注がれていたように見えることです。
 
 「服部」関係で言えば(それなら「余談」にならずに済みそう…)、服部半蔵則直の次男・藤堂采女元則。
 伊予・板嶋(宇和島)で、藤堂高虎に兄とともに仕官した(服部半蔵則直の次男)保田元則に家康が謁見したのは慶長11(1606)年。
 その時家康は、「保田を改姓して藤堂にせよ。」と命じたそうです。
 その慶長11年は、高虎の伊勢・伊賀転封の2年前です。
 また、対豊臣の拠点(?)として高虎に伊賀上野城を改修させる5年前。
 更には、豊臣を滅ぼした大坂夏の陣の9年前。夏の陣で元則は「旗本士大将」でした。
 そしてそして、元則が伊賀上野城城代になる年からは、34年も前なのです。勿論(?)家康は、その24年も前に亡くなっています。
 家康は、伊賀の統治を円滑に進めるために、伊賀の服部家の出身である元則を将来(ご本人は「神君」となった後)上野城の「城主」とすべく「藤堂元則」にしたのではないでしょうか? だとすれば、やはり家康流の「人は石垣…」路線の一つなのでしょうね!?
 
 


[15]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月19日 15時54分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様

 このところのひどい冷え込みのせいか、バタバタと葬式が続きます。やは
り、「寒い」より「暑い」方がいいと思う今日この頃です。

 明智氏の前半生については、その証拠資料等が隠滅されているようで、正
しい出自がわかりません。その血筋によって、明智光秀に対する推論は随分
変わりますので、本当は最大限重要なのですが……。但し、色々な説は語ら
れてはおります。例えば若狭の刀鍛冶の系統だとか……。

 とりあえず、土岐氏族の流れで話を進めます――
 土岐氏は土岐に根付いたということで、土地勘を喚起してみます。

 「明智」という所を中心に時計周りに地名を言いますと(距離は直線距離
にて表現します。実際の距離は、その2割から5割増し)――

 @南南西の方向約20qの所に「足助」
 A南西の方向約20qの所に「猿投」
 B西北西の方向約30qの所に「多治見」
 C北西の方向約20qの所に「土岐」、同じく約30qの所に「可児」
 D北北東の方向約20qの所に「恵那」、同じく約30qの所に「蛭川」
 E北東の方向約10qの所に「岩村」、同じく約25qの所に「中津川」
 F東北東の方向約50qの所に「浪合」
 そして、不思議なことに、「蛭川」のすぐ西に標高1128mの「笠置山」(大和の笠置山と同じ名前)が鎮座しております。

ここまで書くと、これはもう「南朝」に関係が深いと気付かれる人が多い
はずであります。
 「足助」は「足助氏」
 「猿投」は「鈴木氏」
 「多治見」は「多治見氏」
 「蛭川」は「柘植氏」
 「浪合」は「宗良親王」・「尹良親王」……。
 「笠置山」(大和の)は、後醍醐天皇の旗揚げした所……。
こんな土地柄であります。

では、次に1324年の「正中の変」を見てみます。
 
 すみません、これから通夜に出かけますので、一旦切ります――
[16]A.AKECHIさんからのコメント(2017年12月19日 21時44分24秒 ) パスワード

三つ柏服部様

>明智氏の前半生については、その証拠資料等が隠滅されているようで、正
 しい出自がわかりません。

 これまでは、そうでした。

 一族の明智憲三郎さんが 「今まで不明とされてきた明智光秀の出自と前半生はすっきり解明された」と称する本を来年前半に上梓するそうです。
 大いに期待致しましょう。
[17]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月19日 23時42分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様

 戻ってまいりました……。

 さて、1324年の「正中の変」ですが、岡野錦弥・鈴木茂夫共著『南朝
秘史 足助一族と大塚掃部助 上巻』によりますと――

 「朝廷や公家の勢力の衰えは、皇位の継承にも幕府が干渉するようになっ
 た。後嵯峨天皇が譲位されると、皇統は持明院統と大覚寺統に分かれ、と
 もに自統から天皇をだすことを主張したので、幕府はこの解決策として、
 交互に皇位につくという方策を成立させた。この皇位継承問題は、所領の
 相続問題も含んでいて、容易に解決しないまま、大覚寺統の後醍醐天皇の
 即位となった。
  天皇は即位後、朝廷政治の刷新をくわだて、まず、それまでの上皇が政
 治を行うという院政を廃して、天皇親政をはじめ、記録所を再興して人材
 を登用するなど、著しく積極的な政策をとった。
  そのころ、北条高時は御家人の統率力を欠いて、幕府政治の実権は内管
 領ら移り、有力御家人との間に対立を生じていた。また、幕府の財政も困
 難となって、守護・地頭も幕府から離反するようになってきていた。そこ
 で、後醍醐天皇はこの機に乗じて討幕を実行しようとした。中納言日野資
 朝・蔵人日野俊基の二人が中心となり、山伏に姿を変えて諸国を廻り、味
 方する武士を募ったという。
  そして、京都で、資朝・俊基・花山院師賢・四条隆資らの朝臣と、土岐
 伯耆十郎頼貞・多治見四郎次郎国長・足助次郎重成などの武士が、「無礼
 講」と称して討幕の会合を行った。
  この討幕の計画は、正中元年(1324)、幕府の知るところとなって失
 敗し、頼貞・国長らは殺され、資朝が佐渡へ流されることとなった。この
 事件が、いわゆる正中の変である。足助次郎重成の処断については、伝え
 る史料が見あたらない。」

 この中で、「頼貞は殺され」となっておりますが、実は生き延び、殺され
たのは、息子の「頼兼」でありました。

 この文章の中に出て来る――
  @土岐伯耆十郎頼貞
  A多治見四郎次郎国長
  B足助次郎重成
は、揃いもそろって皆、東濃、奥三河の出身者ばかりではないですか! 変
の起った場所は京都。他の地域の武将もたくさんいて当然だと思うのですが、
何故東濃・奥三河のみ?

 こういった環境・状況下にあって、土岐頼兼を祖に持つ明智光秀の系統が
南朝へのシンパシィを持っていたということは、かなり確度の高いことだと
推測されます。明智町の龍護寺に書かれていた土岐明智氏系の系譜は、それ
を物語っています。
 即ち、その系譜とは――
 「土岐頼兼――光明――頼重――頼篤――頼秋――頼秀――頼秀――頼弘
 ――頼定――頼尚――頼典(光継)――光隆(光綱)――光秀 」
 (もっとも、この系譜について、異論もあることとは思いますが……。)

 次回は、隠の人物のつながりといったものについて考察してみます――


 

 
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月20日 13時51分43秒 ) パスワード

またもや「直虎」の最終回を見ました。

http://samurai-hi.com/naotora-jinenn-2-8543

コピペ:
龍潭寺には「悦岫永怡(えっしゅうえいい)」という住職が実在しています。



史実での悦岫永怡(えっしゅうえいい)と天目茶碗

悦岫永怡(えっしゅうえいい)は、龍潭寺四世住職。1622年に死去。
ちなみに、二世住職が南渓瑞聞、三世住職が傑山宗俊、五世住職が昊天宗建。

                                      ええっ?昊天さんよりも前に?


五世住職『昊天』の名は、この悦岫永怡(えっしゅうえいい)から与えられた。
                                      逆みたいだけど

また、悦岫永怡(えっしゅうえいい)は織田信長の子であったとされ、
信長から悦岫永怡に与えられた建蓋禾目天目茶碗が町指定文化財となっている。
                                       あらあらあら


驚くことは、悦岫永怡(えっしゅうえいい)が信長の子であったと龍潭寺HPに普通に書いてあること
http://www.ryotanji.com/annai/bunkazai.html

かなりビックリしました。

そして、実際?は信長から悦岫永怡(えっしゅうえいい)に与えられたようですが、大河ドラマ直虎の中で、中野直之と奥山六左衛門が信長からもらった「天目茶碗」が、本当にあったことも驚きました。

以上コピペ


驚木
桃の木
山椒の木


歴史って?
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月20日 13時58分31秒 ) パスワード

現在
http://www.ryotanji.com/annai/bunkazai.html

龍潭寺四世住職悦岫永怡は、削除になってますね。
[20]箱柳永田さんからのコメント(2017年12月20日 17時03分31秒 ) パスワード

 あを様
 南朝方で見るのなら、その奥にある、奥山半僧房(後醍醐天皇の皇子無文元選禅師により開創された「深奥山方広萬寿禅寺」)も視野に入れると
 >http://www.houkouji.or.jp/ (今は深奥山方広寺=臨済宗)
 宗良親王が留まった理由と考えているのです。
なお、龍潭寺本堂の一角(左方)には、宗良親王が祀られています。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月20日 23時02分15秒 ) パスワード

箱柳永田さん

ありがとうございました。


三世住職傑山宗俊、五世住職昊天宗建
ということで  お2人の通字「宗」はどこから来たのかな?  と考えていました。

                                        (井伊家がらみの通字じゃないし・・)と。

「宗」だから後醍醐天皇のお子様を敬愛してアタマに「宗」を持って来たのでしょうね。

結局は井伊谷は南朝方でガッチリ纏まってたのですねぇ。


三世住職傑山宗俊も五世住職昊天宗建も後醍醐天皇系ご子孫でしょうね。

                                  


ということで引っ張って来ました。
以下コピペ:

http://www.houkouji.or.jp/about.html

1371年、無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)は、
当地を治めていた豪族奥山六郎次郎朝藤(おくやまろくろうじろうともふじ)の招きにより、
奥山家の治めていた所領のうちから60町歩の土地と建物を寄進され、ここに方広寺を開かれました。


                                        奥山家=つまり直政の母方ということですね=井伊家の一族


無文元選禅師を御開山と称し、奥山六郎次郎朝藤を開基と称します。



無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ/1323〜1390)

元亨(げんこう)3年(1323)2月15日、後醍醐天皇の皇子として、京都において誕生されました。
母は昭慶門院と称されます。

7歳の時、乳母が亡くなった事をことのほか悲しまれたと伝えられております。

父後醍醐天皇が崩御(ほうぎょ、亡くなること)された翌年、暦応(りゃくおう)3年(1340)、
18歳の時、京都の建仁寺において出家されました。


貞和(ていわ)元年(1345)、元王朝末期の中国に渡られ、
大覚妙智寺に古梅正友(こばいしょうゆう)禅師を訪ね、ここで修行を積み重ね、大悟して、正友禅師の法を継がれました。

観応(かんおう)元年(1350)秋、日本に帰国され、応安(おうあん)4年(1371)、奥山六郎次郎朝藤の招きにより、方広寺を開かれました。


禅師のもとには、その名を聞いて、多くの修行僧が集まり、日夜修行に励んだと伝えられております。

明徳(めいとく)元年(1390)、閏(うるう)3月22日、方広寺で亡くなられました。68歳でした。

嗣法(しほう)の弟子に 東隠院開基の悦翁建・(えつおうけんぎん)、臥雲院開基の空谷建幢(くうこくけんどう)、三生院開基の在徳建頴(ざいとくけんえい)、蔵龍院開基の仲翁建澄(ちゅうおうけんちょう)、虎洞院開基の休卜守仲(きゅうぼくしゅちゅう)の5人がおられます。

なるほどね。



まだ「直虎」の最終回の影響下にあって何も考えられません。
やっぱり家康アヤシイ。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月21日 09時24分32秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「明智家」と「伊賀」の関係――
>単に服部保章の娘が光秀の継室だったという表面的事象ではなく、
>もっと大きく時代を鳥瞰してみると、
>やはり「始まり」は、後醍醐天皇を中心にした事件「正中の変」であったと推察いたします。



>京都で、資朝・俊基・花山院師賢・四条隆資らの朝臣と、
>土岐伯耆十郎頼貞・多治見四郎次郎国長・足助次郎重成などの武士が、
>「無礼講」と称して討幕の会合を行った。


倒幕に @土岐伯耆十郎頼貞   A多治見四郎次郎国長   B足助次郎重成 の面々が揃って
やがて舞台は遠江の井伊谷に移る
というのが分かりますね。

やっぱり明智光秀は南朝方贔屓だったかもですね。

 

直政が家康に重宝されて戦国時代が収束するのに後醍醐天皇の南朝方武士団というのも背景にあったのだなと
改めて思いました。

「直虎」の中で
北条との和睦に「上野は北条に」という譲歩は地理的に上野が遠いから?
または
新田系の武士は弱いから
戦国時代を代表する強い信玄の武士団出身である信濃と甲斐をもらう方が良いという戦略的理由からだったのかなとか?


でも家康が新田源氏の子孫を標榜するなら上野は絶対に譲れないけど
「真田が裏切った」
という台詞がありましたよね

真田は絶対に上野が欲しかったし。
                                       ここから真田vs徳川の争いになっていくのかな?と思いました
   上野で真田と諍いを起こすのは家康は面倒だったのかなとか?

                                            どっちにしろ戦国時代の陣地取りはヨソモノにはイマイチ分かりません


近藤康用が三河衆として直政の家来になりましたね。
ビックリでした。
不満だったでしょうね。


それにしても直政って本当に北条との和睦使者に立ってたのですか?
知らなかった。
若造なのに。

それを逆手に家康は自分を使者に抜擢してくれた
と信濃甲斐の武士団を説得して北条に信濃甲斐を諦めさせた手腕

本当に直政がやった?
若いのに。

すごい!
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月21日 09時56分38秒 ) パスワード

A.AKECHIさん


>興味深いのは、一般に知られているのとは異なり、
>光秀の正室の名が「お牧の方」となっていることです。


光秀の正室の名が煕子というのは父が妻木勘解由左衛門尉範<煕>の娘だからです。
だから本当の名はお牧の方。


日本は古来から女子はヒトに自分の名前を言う習慣がありませんでした。
イスラムの女性が少女を経るとベールを被るように顔を隠すのと同じです。
日本の女性が自分の名前をヒトに言うとかイスラムの女性が顔を公開するのは家族以外はオットだけ。


だから日本の歴史上女性の名前はだいたい伝わっていません。

伝わっているように思われても
父の名から子をつけて正式名として用いるわけです。

例えば  平頼盛の生母の宗子さまも父が藤原<宗>兼だったから。
平清盛の最初の妻が あきこ  なのも父親が  高階基章  だったから。
平清盛の2番目の妻が時子なのも父が  平時信  だったから。

こういうのが日本の過去の女性の名前のしきたりなのです。


ムカシ「将軍」というアメリカのテレビドラマ(三船敏郎主演)があって
その中でリチャード・チェンバレンが老女の女中に名前を尋ねるシーンがあって
その老女はとまどうのです。

             まさか自分の家族が家の中で自分を呼ぶ名を他人には教えられないから
             この老女は「お・ん・な」と答えます。
             彼女にな「公的な名」は無いわけです。


身分の高い女性に名前で呼び掛けるのも許されない日本でしたしね。
勿論男性にも身分のある人には名前では呼べず、官職名で呼ぶわけです。
「石見守どの」とか「丹波守どの」とか。

今は民主主義の時代だから  名前  で呼びますけど
アメリカでも上流社会の女性は知らないヒトにファーストネームで呼び掛けられるのは実はイヤなんですってよ。


日本の皇室の女性には「さま」をつけることになってますが
カコさまは本当に「かこって呼んで」とおっしゃって
ご学友は「かこ」って呼び捨てにしてると「某ご学友の父上」から直接聞きました。

今は民主主義の時代だからカコさまにバッタリ出会ったらうっかり「カコ様」と言いそうですが
日本人でしたら「秋篠宮内親王さま」と呼び掛ける方がベターなんでしょうね。


ということで「煕子」というのが歴史的な公称でしょうね。
「お牧の方」
というのは光秀が身分を得て
彼女の身分上の呼び名と思います。

本当の名前=家の中でお父上やお母上から呼ばれていた名=は秘密だと思っています。



>「重利母は、秀林院殿の御姉お岸の方と云う事は、世にも知れたる事にて、お岸の方  始め荒木村安に嫁せられ、天正7年荒木家断滅の後、左馬助に再嫁有り、」と書いています。

荒木村安という名も
当時の武将にたくさんあった名前の1つなんでしょうね。
ワタクシ的には  「村次」の方が馴染みが有ります。NHK大河の「官兵衛」の影響で。


わたくしもご幼少の砌のD家庭内でのお名前は「凸助」でございます。
中学以来の学校時代の名前は「めい」でした。
でも戸籍上の名前は「あを」ということで・・・
まだ他にもございます。
なんちゃって
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月21日 10時40分22秒 ) パスワード

A.AKECHIさん

しつこく

>「三宅家系譜」から、
>「光保」の名に始まり、
>「蓑笠之助」に終わる

>光保 童名は内治丸 服部平太夫と云う

>天正10年壬午正月に生まれる、
>母は伊賀国名張郡柘植城主服部伊賀守保光の娘也、
>但し、
>同出羽守保章の妹也、

保光という人物には心当たりがありませんが


おそらく
服部正尚が明智の子を保護していたから?平太夫とか蓑笠之助という名を服部正尚から貰ったのだと思います。

その保護の理由は  
彼女が光秀の後妻になる時に服部平太夫正尚=蓑笠之助=が仲介をしたのじゃないかな?

この縁組には  案外  家康からハナシが出たのかも。



彼女の父は
服部出羽守保章のようにワタクシのメモには書いていますが
北村=服部=伊賀守保光の娘ともいう
というのは別人か同一人物かも知れないですね

「伊賀守」保光というのは伊賀でかなりの実力者、たぶん、当時の伊賀で一番の実力者だったのでしょうね。

だから  「服部伊賀守保光」という名が使えた   のだと思います。


>服部保光・保章とも日向守に仕え、
>明智没落のみぎり、保章は妹並びに内治丸を伴いて、江州野洲郡北村に蟄居し、

                                         大筋ではその通りと思います


>後に内治丸を養いて、
>我が子にて服部平太夫光保と名乗らしむ、

                                       服部平太夫は妥当ですね。<光>保というのも父が光秀ですから当然ですね

   でもワタクシの記録では  北村弥兵衛保之  になっている。
   通字の「保」というのは千賀地にいた服部家が使ってますね。
   同じく千賀地出身の半蔵家は三河に引っ越して?から「正」の字を使うようになりましたね。



>その後関東に召し出され地の代官と成り、蓑笠之助と改む
                                        服部平太夫正尚=蓑笠之助の引退後、正尚の子供は蓑笠之助を名乗った
    ということで
    光秀の子も家康に恩を着せられる「蓑笠之助」を使ったのでしょうね

蓑笠之助という名前の意味は幕府の上の方は知ってたでしょうから使い勝手が良かったかも。


いろいろ思う事が堂々巡りですがグルグル駆け巡ります。
空想するのに楽しい場面です。
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月21日 22時23分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 やっと株主総会も終えて、後はほぼ年末大掃除を残すだけとなりました。
 ここへきて血圧が上がってしまい、血圧はどうも遺伝的要素が強いのか
と、一過性の考えを改めなくてはならないと感じ始めた今日この頃であり
ます。医者はすぐ薬を勧めますが、自然系で直したいと「サプリ」を注文
いたしました。このサプリ、名前を聞いてビックリです。「ヒハス」とい
います。どこかで聞いたことがある名前ですね。そう、あの垂仁天皇の皇后
「日葉酢媛命」の「ヒバス」ではなかろうかと思うのですが。
 ところで、この「ヒハス」は、東南アジアに分布するコショウ科の植物
だそうです。ヒハツに含まれるピペリンという成分に、血圧を改善する作用
があるということであります。

 明朝に、明智光秀を中心とした人間関係の糸をたぐってみたいと思いま
す――
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月22日 05時51分43秒 ) パスワード

三つ柏さん

これからどんどん寒くなるのに血圧が高くてはいけませんね。


http://www.taisho.co.jp/livita/lineup/naturalcare_hihatsu/

調べてみました:
ヒハツ由来ピペリンが、血管を緩める信号を送る物質に働きかけて血圧を低下させる。

ヒハツはインドネシアなど東南アジアに自生しているコショウ科でツル性の常緑植物。

                        黒胡椒のあのピリッと辛い成分の素のようですね。


その果実は香辛料として用いられ、調味料などとして古くから国内外で食されてきた。



うちのオットは血圧が低いのに(過去の記録に高い時があったから)
今夏、看護婦に強制的に降下剤を服用させられて  70/40  になってしまい  大騒ぎ。


ワタクシも低い方で  90/60  。
でも母に言わせると「75歳にもなったら高血圧になるからね」だそうです。


とにかく食生活では塩をヒマラヤのピンクソルトに替えたり藻塩にしたり頑張ってください。



イギリスは塩の摂取量を1日3g以下にするようにという国家指導が成功してるそうです。
(だからイギリスの食べ物はマズイ)

日本は10g以下あたりでしょうか?


わたくしの家は「塩なんてあったっけ?」という家庭でしたが
母は高血圧になってますから
加齢で血圧が上がっていくのはどうしようもないようです。


あれ?
と思う事があったら「しゃがむ」ようになさってください。
これで倒れるのを阻止したヒトを知っています。


明智光秀の人間関係の解明に頑張ってください。
[27]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月22日 09時05分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 御心配、ありがとうございます。コレステロールがたまっている訳ではな
いのに血圧が上がる。特に早朝に高い。たぶん神経系からの指令が出てしま
うようです。いずれにしても、一過性ではないということがわかりましたの
で、あを様から受けたまわりましたサジェスチョンを大事にして、日頃から
対策を怠らないように心がけいたします。――低血圧も気をつけて下さいね。

 さて、「明智光秀」と「伊賀(・甲賀)」の関係――「家康」と「伊賀(・甲
賀)」程の関係ではないにしろ、かなり底流では関係があったのではないかと
推察しております。但し、その関係で表に顔をのぞかせるのは、柘植城主と
いわれる「服部保章」だけであります。

 柘植といえば、平家長と並ぶ服部氏の祖―平宗清が隠棲土着し、柘植、福
地、北村、日置等々の子孫を残した土地であります。伊賀でも甲賀寄りの油
日に近い所で、天正伊賀の乱では、伊賀を裏切り織田・家康側に付いた柘植
氏、福地氏等がいます。油日には、和田惟政が居館を構えておりました。

 その系統から出た服部氏は、後醍醐天皇の皇子―宗良親王、その皇子尹良
親王、その皇子良王親王に仕えた「服部伊賀守宗純」が歴史に名をとどめて
おります。そして宗純をはじめとする吉野十一党(四家七名字)他の南朝方の
家臣団、彼らの終着の場所は、東美濃、奥三河、東三河、遠江そしてどうい
う訳か、尾張の「津島」、等々でありました。

 服部保章の出自は、たぶん服部伊賀守宗純の系統ではないかと推察するの
でありますが、同じ系統に「服部要介(中保次)」がおります。「保」という
通字も共通しております。

 服部中保次は、前スレッドで言及したように、「和田惟政(甲賀)」に仕え、
その和田は「足利義昭」に仕えました。明智光秀も細川藤孝の下、義昭に仕
え、そしてやがて信長に従属しますが、服部中保次も同じ道を選択しており
ます。

つまり、明智光秀と服部中保次は通じ合っていた。そして、信長の配下にあ
っても、つうつうの中であった。従って、中保次をはじめとする服部党、そ
して伊賀・甲賀忍団とも気脈を通じていたと推察いたします。

 津島では、織田信長の父信秀の保護・支援もあって、落ちて来た南朝臣は
土着して繁栄します。例えば、大橋家、服部家、堀田家、恒川家、平野家、
河村家、野々村家等は富裕な商家となっております。

 津島の服部家については、あを様の専門分野なので、ここでは記載するの
は控えさせていただきます。

 ここで一休みといたします。次回は、南朝に仕えた光秀の祖立達について、
「驚くべきこと」がわかりましたので、それを記します。
[28]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月22日 09時09分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:祖立達→祖達
[29]A.AKECHIさんからのコメント(2017年12月22日 22時46分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様
三つ柏服部様

 「明智光秀の人間関係の解明」追究、有難うございます。
 今後ともよろしくお願いいたします。

 先日、「明智一族 三宅家の史料」からご紹介しました「内治麻呂」関係。
 すっかり忘れていましたが、同じ内容の中瀬家伝承の「喜多村家伝 明智系図」が公開されていましたので、こちらもご参照下さい。
 http://www.shinshindoh.com/akechi.html

 その「内治麻呂 改め喜多村弥平兵衛」は、江戸町年寄の喜多村弥兵衛のことなのでしょうか? 内治麻呂は天正10年生まれなので、天正18年の家康の江戸入りの時には8歳ですから、町年寄・喜多村弥兵衛とは別人の筈ですが…
 町年寄・喜多村弥兵衛は、遠江の出との説もあるようですが、ご存知でしょうか?
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月23日 05時47分33秒 ) パスワード

三つ柏さん


後でゆっくりアタマを休めてから書き込みます。



A.AKECHIさん

http://www.shinshindoh.com/akechi.html
ご紹介、ありがとうございます。
なかなか興味深かったです。


ただし日本語なのに漢字ばっかりで読み難かったです。



 一、光秀北室者伊賀國柘植城主喜多村出羽守保光女也

               保光が父になってますね。
               そうすると出羽守保光と伊賀守保章は兄弟かもですね。

   此腹天正十年壬午元日午刻男子誕生 
                    天正10年1月1日の正午にうじまろさんの誕生ですね

   号明智内治麻呂於園城寺                          園城寺で命名ということですかね

   鎮守新羅社有氏■(参)儀式氏先祖新羅三郎義光社■(参)任
   古例神楽催烏楽等叮嚀執行之                        ご先祖さまの新羅三郎義光のお社でご加護を祈念して古式ゆかしく神楽をド派手に丁寧に催してお祝いをした



一、坂本落城之節内治麻呂當城也母室乳母侍女共迷煙中佐々木義郷旗頭鯰江左近嫡同帯刀入城

                       これはスゴイ話が書かれていますね


                       鯰江さんは滋賀県に多い苗字で
                       http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E9%AF%B0%E6%B1%9F
                       近江国愛智郡鯰江村が起源。宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする宇多源氏の佐々木氏族。

                       佐々木義郷の旗頭だった鯰江父子が入って来て捕まった?

                       この佐々木義郷という人は宇多源氏佐々木氏流六角氏で、母は信長の姪(養女)で養父が足利義昭ですって!

                      http://blogs.yahoo.co.jp/me468646/63464063.html
                                    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%A7%92%E7%BE%A9%E9%83%B7

                        すっごいドラマ!


      中節桔梗箭車之両紋以紅染入着諫単衣有女性桔梗明智箭車喜多村紋 帯刀兼而辨知故考可為
      光秀北室虜躰而圍出城外相副警固士欲送伊賀時於于水口邊出羽守長臣服部蛇鬼破行合請取
                     
                        囚われの身で伊賀に送られる時に水口で服部出羽守の家老の服部蛇鬼破に引き渡された

      之此時光秀室内麻呂乳母侍女共致出羽守館
                        こうして光秀の妻と内麻呂と乳母や侍女が服部出羽守の屋敷に到着した
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月23日 07時12分35秒 ) パスワード

一、出羽守嫡子喜多村伊賀守早世二男遂出家号傳廓大僧正江州敏満寺住職并兼■多賀別當


もう、ごちゃごちゃになっています。日本語なのに読めない。


服部出羽守(保章?)の嫡子の北村伊賀守(保光?)は息子2人を若くして亡くしたので
とうとう傳廓大僧正と名乗って江州敏満寺の住職となり多賀大社の別當も兼ねた。

              犬上郡多賀町の敏満寺(みまじ)

ココから  ↓  がスゴイ!

      

敏満寺領貮萬石多賀社領五萬石都而七萬石為

        敏満寺で2万石、多賀社で5万石、つごう7万石となって


傳廓大僧正領知於于敏満寺構城郭衆徒有八百八坊

        傳廓大僧正の敏満寺の城郭は808坊に達する僧侶を有し    


武士數輩抱之於于諸方雖有戦功太畧也
       
        武士の数はかなりの数を抱え、あちこちに戦さがあったが、たいした戦功は無かった?

        だろうね、知らないもん。



一、右之外出羽守無男子家督為相續以内治麻呂為養子故号喜多村源馬成長後改喜多村弥平兵衛保之

服部出羽守には上記の子供達の他には男子がいなかったので内治麻呂を養子にして喜多村源馬と名乗らせ家督を相続させた。

成長後、喜多村弥平兵衛保之と名を改めた。

       ここには「保之」となってますね。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月23日 08時08分27秒 ) パスワード

ヲイヲイヲイですよ。
これを書いた妙心寺玄琳さんって光秀の長男ではありませんか。6男の内麻呂保之さんの長兄さんじゃあ、ありませんか。
今、気が付いた!


気付かなかったのは
明智お玉さま=細川ガラシャ夫人=の関係で肥後に移った子孫の方がお書きになった(持っていた)
というバイアスがかかってたからでしょうね。恥

コピーが肥後細川家にも行ってたということですねぇ。




明智正統系圖并當家傳来之舊譜者去天正壬午季夏于江州志賀城因焚失

                正統な系図はあの時に焼けちゃって無いよ


吾累葉析木不知華實栄枯熈也于茲予適雖生弓馬家捨家業■(人偏に次-よろこぶ)出離

                うちの家のことは詳しくは知らないけど栄枯盛衰については明らかにしたい
                武門の家に生まれたとはいえ自ら家を棄てて出家し

居住洛陽妙心寺塔頭

                京の都の妙心寺の塔頭に住み

視親彼形勢寔以當氏之家鑑於此時永絶事

                我が家の家のことを、今、鑑みるに滅びたことは



有悲猶餘

                いまも尚、悲しみは尽きることを知らずにいる


自往古傳来系圖之寫舊書有數巻予其中粗選之述
                
                代々の系図の写しはいくらでもあるけれど
                自分自身でざっと書いてみたいと思った


畧編二巻其所謂者慈父光秀尊霊五十廻忌為追福修善乃至類孫譲與之者也

                2巻にざっと書いたのは
                お優しかった父上の光秀公の50回忌の追善供養の為、
                そして我らの子孫に遺すためでもある。
             


于時寛永八辛未六月十有三日      1631年ですね  光秀公50回忌の年ですね

                                妙心寺塔頭六十五歳
                                       玄琳(ということは1567年生まれですか)

                 喜多村弥平兵衛殿   (1582年生まれの数えで50歳の時ですね)



弥平兵衛さんというと  平宗清=柘植の人  の正当な系統なのかな?



なんか泣けて来ますね。
玄琳さんが書き残しておいてくださって良かったですね > A.AKECHIさん
[33]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月23日 09時31分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 漢文表記をよく解いて下さり、見通しが明るくなりました。この中から
幾つかの重要なヒントが得られますので、並行して追跡してみます。
 歴史は表層だけで判断はできない。真実はその深層にあり――というこ
とで、それを見つけて証明することは、難しいけれど一番の冥利でありま
すね! 私流に言えば、大魚を釣った時の冥利と似ています!
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月23日 11時15分58秒 ) パスワード

三つ柏さん


過分なお褒めのお言葉
恐縮至極に存じます
ぺこり
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月23日 11時38分50秒 ) パスワード

服部出羽守保章が父で
服部伊賀守保光が子


                 父子関係がハッキリしてスッキリ2018年を迎えられます(笑)


        保光の娘が明智光秀の後妻
        その2人の間の子が内治麻呂


服部伊賀守保光には男子が2人いたがそれぞれ若死にしてしまい
娘の生んだ子を養子にして北村を名乗らせた。



この事を妙心寺の僧になっていた光秀の長男が明智家の家譜として記録
明智光秀の50回忌
寛永八年六月十三日   1631年6月13日  の法要に内治麻呂に渡した。


おそらく内治麻呂は徳川幕府で定職を得るのに
伊賀の親戚の服部正尚=蓑笠之助=母のまた従兄の後ろ盾を得て養子になって蓑笠之助の名を名乗ったのでしょうね。
初代蓑笠之助は2代将軍の継祖父ですから幕府の中で大きな顔が出来たでしょうね。

実の父が明智光秀ですから
徳川家が征夷大将軍になれたのは光秀の御蔭でもありますから
大久保長安事件はあったものの
結構安定した暮らしが保証されてたでしょうね。


http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E8%93%91

【名字】蓑
【読み】みの
【全国順位】 15,068位
【全国人数】 およそ370人

徳川家に仕える幕臣蓑氏は清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)義家流服部氏族という。

へ〜


分布は福島・富山・石川・福井・岐阜・静岡・大分・宮崎に多いのですねぇ。


全国の蓑さん
どんなお気持ちでしょうね
まさか光秀とか伊賀服部とか甲賀とかと関係してるなんて
思ってらっしゃらないでしょうね。
[36]A.AKECHIさんからのコメント(2017年12月23日 16時19分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様
三つ柏服部様

 「喜多村家伝 明智系図」についても、追究して下さり、ありがとうございます。

 明智一族・明智憲三郎さんの考察がありますので、こちらもご参考になさって下さい。
        http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/d01afa5b3cc0d0b069e1be22e89bd24d
 http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/c29d5539d0e00ed7148e94a813e13b34
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月24日 15時26分32秒 ) パスワード

A.AKECHIさん


明智一族・明智憲三郎さんの考察
拝見しました。


ご自分の家に伝わるお話がA.AKECHIさんのお家のアイデンティティですから自信をお持ちになってご子孫にお伝えください。


明智一族の明智憲三郎さんのおっしゃることは
言ったもん勝ちで
他の光秀の子孫の方達は動揺なさっているかも知れませんが


ご自分の家に伝わるお話がその家のアイデンティティです。


だって  記録にあるから・記録にないから「うちに伝わる話」を変えない方が良いです。


ネットの功罪で  今はいろいろな情報が氾濫してて  ネットに出てたことに動揺するのは
自分の家のアイデンティティを疑うことになってしまいます。



春日局は斎藤利三の子で
そりゃあ辛酸を舐めたでしょう
でも明智の子達がどうなったかも伝わっていたはずです。


                       だから妙心寺の玄琳さんのことも情報が入ってたはずですし
                       明智一党については将軍家に仕えるようになって以降将軍家の力を以てして明智家の話を収集してたはずです。


なのでワタクシは玄琳さんを信じるし
内治麻呂のことも信じます


ただ事件があったのは玄琳さんが15歳の時のことですから
いろいろな書き物を参考にした
というのは認めます。


玄琳さんが仏門に入ったのは  自分の意志で喜んで  というように思いました。
妙心寺だって玄琳さんがウソを書いたとしたら幕府に「お懼れながら」と告発したでしょうし。


いろいろ情報はあってもご自分の家に伝わるお話が「その家の」アイデンティティということです。


A.Akechiさんのお家は明智憲三郎さんの家とは流れが違うということです。
それで良いのです。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月24日 15時41分09秒 ) パスワード

                       と申しますのは

我が家は南朝方です
でも
現地の教育委員会の纏めた史料と照らし合わせたら
先祖の名前の「しま」という漢字が


我が家の家書では「鳴」が使用してあり
教育委員会のでは「嶋」が使われていました。


それで家書を一族の者、皆、にコピーして郵送した時に「鳴」の字を「嶋」に変えました。


ところがところが!


その後、手に入れた教育委員会の他の史料に「南朝方は鳴るの字を使用する」と書かれていて

                       アッチャ―!

でした。



先祖が子孫の為に書き残してくれた家書は正しかったのです。
                       ごめんなさい、ご先祖さま(号泣)  でした。



こんなもんです
家に伝わる話は「アイデンティティ」なのです。


だから情報に左右されず自分の家のアイデンティティは自信を持って子孫に伝えるべきだと思います。


A.AKECHIさんのお家のアイデンティティは   春日局も知っていること  ですから自信を持ってください。

春日局も(ま、こんなトコだわね)と思ったと思いますよ。


つまり  A.AKECHIさんのお家は   春日局も納得  ということです。
[40]A.AKECHIさんからのコメント(2017年12月24日 23時21分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 大変暖かいお言葉を賜り、ありがとうございます。

 ただ、我が家の伝承をこれまでお伝えしていなかったためか、我が家については誤解があるようです。

 我が家は「喜多村家」でも「蓑家」でもありませんし、「三宅家」でも、まして(?)「服部家」、「藤堂家」、「細川家」でもありません。
 「自信を」持とうにも、我が家の伝承には、天正10年6月以前のものは(光秀の子のうち誰なのかも)何もなく、また、天正12年から慶長13年の間の20年間も全く欠けているのです。
 ですから(?)、憲三郎さんを始め一族の方々には、日頃から教えられることばかりで、我が家の「アイデンティティ」を否定されたということはありません。(どうぞご安心を)

 (前にも書きましたが、)我が家の初代が「明智内治麻呂」ではないか? と言うのは、我が家の伝承にあるわけではなく、ある明智一族の方の説なのです。

 何れにしましても、お心遣い、誠に有難うございます。

 もしも我が家の初代が「明智内治麻呂」だとすると、我が家の先祖は「明智の子」であると同時に「服部の子」でもある訳で、服部一族の皆様には、今後ともご厚誼を賜れのであれば、望外の喜びとするものであります。どうぞよろしくお願いいたします。
[41]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月25日 00時20分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 このところのレス、大変勉強になりました。
 ただし、私は年末でいろいろバタバタしておりまして、もう二〜三日、
そんな日が続きそうです。
 
 明朝早くに、できれば記してみたいと思います――
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月25日 01時59分40秒 ) パスワード

A.AKECHIさん


いえいえ自信を持ってください。


と申しますのは
   
                       わたくしの母方ではワタクシは84代目です。(父方については自称「馬の骨の服部」です)


また名字というのは
本姓があって俗姓があって屋号があって
というかんじに1つの家にはいろいろあります。(家紋も1つではありません)
こういう変化こそ日本には名字がゴマンとあるわけです。



       例えば上記のURLから知ったものからお話ししますと
       本姓源みなもと  俗姓明智   屋号明田   こんな感じでしょうか。
       現在3400人ほど使用しているそうで、その内、明智系の人はどのぐらいいるでしょうね?


http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%98%8E%E7%94%B0
語源
泥の湿地帯。                 ドキッとしますね。

京都市東九条明田町起源とも言われている。
近年、京都府や近畿に多数みられる。 


【名字】明田
【読み】あきた,あきだ,あかだ,ともだ,みょうだ,めいだ,あけた,あけだ
【全国順位】 3,658位
【全国人数】 およそ3,400人



話を戻します:

母方には、13世紀の50代目に、地名から「XXX殿」と呼ばれた人物がいて当時名字を一時XXとしていた者がいます。

                       XXX殿は3文字ですが屋号ではXXの2文字です。


で、
16世紀終わりの大坂の役で負けて、先祖の長門守は落人となって名字を変え紋を替えました。

本姓でも俗姓でも屋号のXXでもありません。
俗姓を走り書きするとこうなるな、という名字にしました。これは家書に書かれた4つ目の名字です。

暫く住吉大社に庇護を受け
その後、
大坂城で4つ目の名字で働き
更に更に
幕末近くにやっと「本姓●俗姓◎」に戻ることが出来ました。
ただし家紋は戻せませんでした。

                       両方許可したら老中のXさんの家より格上になってしまいますからね(笑)


こうしてしつこくA.AKECHIさんに絡んでいるのは
実は  母方先祖が  明智光秀の裏書を貰っていたからです。

つまりワタクシはA.AKECHIさんとは父方母方の両方でご縁があるのです。



ということで
A.AKECHIさんの現在の名字は知りませんが
明智家の方達があの事件以降身を隠すのに皆さんいろいろな名字に変えた
というのはものすごく分かります。

明智でも北村でも喜多村でも三宅でも藤堂でも細川でも服部でも蓑でもない明田でもない名字
素性を隠すために
全く知られていない名字を名乗った
これこそA.AKECHIさんが現在存在している根拠なのです。


どなたかがA.AKECHIさんのお家は内治麻呂の子孫らしいとおっしゃったことも
内密に話したその経緯は分かります。
だって明智光秀=弑逆=主殺し=日本では堂々とは口に出来ない人物

だけど明智光秀の子孫という話は伝わって来た
それで良いではありませんか。


明智光秀の子孫ということは日本では肩身の狭いことは今でも同じです。
肩身が狭くなかった処は
春日局さんがらみの稲葉家や堀田家の家中でしょう。
細川家も春日局以降は歓迎されたかも。


日本の武門の家にとって「家」とか「名字」とかは物凄く重いわけです。
明治維新後に名字を登録する時にA.AKECHIさんのご先祖さまはお悩みになったでしょうね。

明智としたいけど、やっぱりマズイよなぁ
と逡巡なさったでしょうね。


住んでる土地の名が  松平とか楠木とか  こういうのを名字に登録した人はラッキーでしたね。
名乗っちゃったもん勝ち。


でもやっぱり日本ですから松平とか楠木とかの名字で登録したらご近所さん達がうるさかったかも。
みんなで名乗れば何も怖くない
とうことで一村まるごと松平とか楠木とか名乗ったのもあったでしょうね。

名乗っちゃったもん勝ちですよ。



どなたかが明智光秀の忘れ形見「らしい」とおっしゃったことは
実は16世紀あたりからホソボソと語られてはきたけど
公の文書には記載出来なかった事態があったということです。

例えば村でしたら村役場が人間を管理してましたからね。

その村役場の人はまさか
キリシタンが何名いる  とか  非日本人が何人いるとか  明智の子孫が何人いるとか
(そんなのワシは書けんぞ!)
と知ってても書かなかったこともあります。


A.AKECHIさんがお持ちのお家の史料に抜けてる部分があるというのは
何かの事情があって抜けているのでしょう。
それは今となっては取り返しがつかないけれど  どこかのどなたかが  (明智の遺児の子孫)「らしい」
という形で残ったのだと思います。

この「らしい」というのが重要なのです。


なので「伝承」はやはり語り継ぐのが良いと思います。
いつか埋める情報が出て来ることに期待しましょう。

いつか将来のご子孫が埋めてくれるかもですよ。
それには語り継がないとね。
[43]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月25日 15時10分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 10月25日に発売されたばかりの、磯田道史の『日本史の内幕』という
新書版の本がベストセラーになっています。その中に関の「関の戸」の服部
さんについての記述がありましたので、ご紹介いたします――

 「〜この先の関という宿場の餅屋さんが「服部」といい、忍者の子孫で、
 古文書があるという。「行く!」と私は叫んだ。
  行ってみれば、服部家は「関の戸」という餅で有名な餅屋さんであった。
 2階にあがれば、本居宣長、佐々木弘綱、信綱など伊勢国学の大家の自筆
 本が山ほどある。さらに探すと、服部家の歴史を記した古文書があった。
 なんと1581年の信長の伊賀虐殺(天正伊賀の乱)の前後のことが書いて
 ある。
  当時の服部家は信長の手が伊賀に及べば一大事と、まず伊勢長島の一向
 一揆に参加して信長に抵抗。ところが信長は大軍で伊賀を攻め、服部家の
 当主や成人男子は悉く虐殺された。生き残ったのは2歳児のみ。そこで、
 服部家の家来9人はこの嬰児を抱えて、「宝飯郡西方村(今の愛知県豊川
 市)に落行、この所にて暫く潜居」したという。ここは家康の領地、やは
 り家康は伊賀者を保護していたのだ。私はその証拠をみつけてうれしくな
 った。
  その後、服部家は故郷に戻り、庄屋ののち餅屋をはじめた。江戸後期の
 服部家の日記があった。見て、びっくりした。福井県の敦賀まで旅行して
 北前船の船員から聞いたのか、アイヌ語の辞書を作っていた。さすがに、
 忍者の子孫だ! その辞書の写真を撮らせてもらい、売り物の餅をたべさ
 せてもらって、上機嫌で家に帰った。」

 関の服部さんには、去年訪問して話を伺ったことがございます。確かに、
古文書が一杯あるので、それを整理してくれる人があれば助かると言ってお
られましたので、磯田先生に出会ったことは最高の出会いになったのではな
いかと思います。
 先日、伊賀へ行く途中の亀山SAで、「関の戸」を購入しましたか、やは
り伝統の味はちっとも落ちていませんでした。茶道向けの和菓子で、お茶に
とってもよく合います。あを様に、一度味わっていただきたいなあと思って
おります。

 この関の服部さんの家の家紋は、「源氏輪に横並び切竹」でありましたの
で、遠州気賀の刑部で暗殺された服部中保次の家紋と同じであり、ひょっと
したらつながっているのかなと「勘」じています――
[44]A.AKECHIさんからのコメント(2017年12月25日 22時03分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 またも大変温かいお言葉。
 いたみいります。

 (これも以前書いたかと思いますが、)我が家が伊賀で暮らした300年余り、中でも上野での長き歳月を温かく護り支えて下さった代々の藤堂采女家の皆様の御恩は末代まで忘れることのできるものではありません。そして、藤堂采女様の属する(?)服部一族の皆様(勿論、「服部」系以外の伊賀の皆々様も)にも筆舌に尽くせぬお世話になりました。とても有難く、感謝の念に耐えません。


 >大坂の役で負けて、先祖の長門守は落人となって
 のお言葉で思い出しましたが、 光秀の子・孫の中にも同じような定めの人がいました。
 先日ご紹介しました光秀の「女子4」=お辰の方、とその息子の芦田庄九郎こと織田昌澄(もしくは信重)です。
 この母子は(母の方は本意ではなく徳川の意向で千姫付きにされたため)、大坂の陣では豊臣方でしたが、戦の後藤堂高虎のとりなしで助名され、昌澄は後に秀忠の旗本になったのでした。
 
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月25日 23時08分32秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございます。
磯田先生が纏めて世に出してくれると良いです。

磯田先生はもとは岡山のご出身ですから
平家以来のご縁かも
ですね。

ということは先祖のパワーが来たのかも。
ふふふ



A.AKECHIさん

藤堂采女でしたら
まさに!千賀地の服部系!=半蔵の家や正尚の家や出羽守保章伊賀守歩光の家です。
藤堂采女家が庇護してくれて当たり前。だって一族ですから。

やっぱり内治麻呂さまのご子孫らしいというのは、内治麻呂さまに関係する筋なのですよ。


わたくしもA.AKECHIさんには感謝でございます。
長い間  保章 → 「保光」 → 光秀の後妻  の流れが分からなかったのですから。
思ってたのは  保章は正信の歳のう〜んと離れた弟だったのだろうな  でした。

でも正清さんのお子さま達=正信・保章=はフツーの兄弟だったのかと分かってスッキリしました。

本当に御陰様でスッキリしました。
ありがとうございました。


必ず「継ぐ者」は出て来るのだなと思いました。
A.AKECHIさんのお家も「らしい」が「だった」になると良いですね。
[46]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月26日 08時10分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様

 やっと年末のバタバタから抜け出すことができました。後は、大掃除を待
つだけ、及び年末の買い出しに行くのみで、平穏なお正月を迎えることがで
きそうです。けれど、本日より、北海道、東北、北陸で猛吹雪が吹き荒れる
ということ、気がかりであります。

 あを様と交信始めて3年8ケ月になります。毎日書き込むというのは至難
の技かなと思っておりましたが、深く、広く歴史を捉えることにより、連鎖
的に話題は見つかって行くということを実感しました。話題がなくなったら
旅に出ればいい。必ず話題は見つかる。来年も、また旅に出たいと思ってお
ります。

 先日、甲賀を調べに行きましたが、ほんの入門編でありましたので、来年
は甲賀でT泊2日の調査をしてきたいと思っております。

 A.AKECHI様の情報は大変貴重なものであります。歴史というのは
「人間関係の軌跡」であるということ、一人の歴史というのはあり得ない。
必ず人間関係の綾があり、その綾がどのようなものであったかを見つけたい
ですね。
 服部半蔵が余りにもドラマティックに描かれ過ぎて来たせいで、他の者の
存在は片隅に追いやられております。忍者系は特にそうで、他の者がスポッ
トライトを当てられることはあまりありません。半蔵正成と肩を並べられる
実力者「服部中保次」がそうでありますし、「服部友定」もそうでありまし
ょう。「服部平大夫」もそうであります。遡れは、「服部宗純」もそうでし
ょう。藤堂高虎と藤堂采女もそうであります。もっともっとスポットライト
が当てられていいと思っています。

 戦国の世と忍者、つまり戦いに勝つためには、表の作戦より裏の作戦の方
が大事であります。これは今もそうであります。裏の作戦の象徴が忍者であ
りました。戦乱が終り、平和な世の中になると忍者は消えて行かざるを得な
い運命にあった。
 服部半蔵(上忍)は、一番忍者の活躍できる時代に、それも後に天下を取る
家康という人間に仕えたということで歴史にも残された。非常にラッキーで
ありました!

 さて、本題に入りますが、「明智光秀」と「伊賀(甲賀も含む)」の関係と
いうものは、今まで服部保章の娘が継室であるというある意味非公式情報が
チラッと顔をのぞかせていたものの、テーマとして探求されたことはなかっ
たように思われます。でも考えてみれば、本能寺の変、神君伊賀越えばかり
が最大の謎ではなく、あの明智光秀が、忍者系服部氏と婚姻という絆でしっ
かりとつながっていた――これこそ最大の謎で、場合によっては天地がひっ
くりかえることもあり得る謎であります!?
 A.AKECHI様におかれましては、明智と服部の両方の血を受け継い
でおられる訳でありますので、この謎を解くことこそ、先祖への何よりの慰
めと供養となるのかと確信いたします。
 私共服部にとっても、関連先祖に何があったのかを明らかにすることは、
長年蓄積された霊的鬱憤を晴らすことになると思いますので、果敢に挑戦し
て行きたと決意します――

 
[47]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月26日 09時52分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様

 明智光秀と人間関係の綾――当然、同時代人との関係、「横糸」の関係とい
うことになります。先祖からの関係――つまり、「縦糸」の関係は当然ついて
まわりますが、後でまとめて申し上げたいと思います。

 では、明智光秀と関係する「横糸にあたる人物」を次に並べてみたいと思い
ます。
 
 突然ですが、雑用が入りましたので、ちょっと中断します。午後には再開い
たします――
[48]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月26日 18時03分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 残念、消えてしまいました! 
 立ち向かう気力・パワーが落ちてしまいました……。
 気分転換をして、気力を立て直します――
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月26日 18時10分39秒 ) パスワード

アタマの中を整理したくて紆余曲折をやっています。今、ココに嵌ってる感じ(笑)空想の世界を飛び回ってます。


>藤堂采女でしたら
>まさに!千賀地の服部系!=半蔵の家や正尚の家や出羽守保章伊賀守保光の家です。
>藤堂采女家が庇護してくれて当たり前。だって一族ですから。



藤堂采女になった人の元々は千賀地服部家で
家康の父上の松平清康に仕えた服部(千賀地)半三保長の流れです。


服部半三保長の子で有名な2人の内の1人が保長の曾孫の代で千賀地服部から藤堂采女になり
もう1人が服部半蔵正成。

保長の子供達は
千賀地系が通字に「保」を使い、藤堂采女の祖父に当たる保元とか大叔父に当たる保俊とか保正とか
三河後の子供達が「正」の字を用いているなと系図を見て思います。半蔵正成とか正成の弟の正刻とか。



で、保長の弟の正清の方は
長男が服部平蔵正信で子供達が青山成重と服部正尚(蓑笠之助)
次男が服部出羽守保章で保章の子が伊賀守保光で保章の孫が明智内治麻呂あらため喜多山保之(蓑笠之助)


明智内治麻呂あらため喜多山保之(蓑笠之助)の子孫は例えば明田などの屋号を名乗っている


明智内治麻呂あらため喜多山弥平兵衛保之を服部正尚(蓑笠之助)が後見人になったのは充分考えられるし蓑笠之助を名乗ったのも考えられる。


ただし大久保長安事件で青山成重が蟄居させられて兄の服部正尚(蓑笠之助)もヤバイ立場になったでしょうね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%91%E6%AD%A3%E9%AB%98

蓑家の祖先は、元は徳川家康の天正の伊賀越えを助けた服部氏で、
その時の働きを賞されて「蓑 笠之助」の名を授かったと家伝にある[1]。

伊賀者であった服部正尚が家康を自分の蓑や笠で変装させ無事帰国させたという[2]。

しかし、慶長18年(1613年)、4代目(間違い?2代目のこと?)蓑笠之助正長の時、大久保長安の罪に連座させられ、一時士籍から離れる[18]。

赦免後は大和猿楽四座の宝生座に入れられて無役となり、
名は「蓑」を「巳野」と改め、「笠之助」は使わず謹慎の意を表した[2]。

以後は猿楽師となり、3代目[19]の正高の代までそれが続く[1]。
正高が幕臣となった際に「巳野」を「蓑」に戻す[1]。

           享保14年(1729年)8月、在方普請役格になった時?
           享保17年(1732年)6月、支配勘定格に昇進した時?

正高の後、蓑家は4代にわたり代官職を受け継ぐ。




明田姓の人は大久保長安事件の時から「明田」と名乗るようになったのかな?



わたくしの調べでは  明智内治麻呂あらため喜多山弥平兵衛保之が蓑笠之助を名乗った  という記事にまだヒットしていません。


ま、こんな事をゴチャゴチャ調べたり考えたりしています。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月26日 18時17分37秒 ) パスワード

三つ柏さん


窓8は不安定ですよね。

わたくしも同時間帯に入力していましたが内心ハラハラしてました。
たいした事は書いていないので落ちたらそのままにするかなと考えていました。

わたくしの駄文が無事で貴重な三つ柏さんのレスが消えたのが残念です。
[51]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月27日 09時41分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様

 一晩の睡眠後、気力はまた蘇りました――

 私が知りたいのは、明智家と服部家との婚姻の背景に、どんな関係が醸成
されていたのか、そしてその結婚にはどんな目的・意味があったのかを探り
たいということであります。

 一番大事なのは、光秀の出自であります。
 第二には、母系先祖の出自であります。
 この辺の情報に、残念ながら確たるものがない。
 つまり、推論する「根」がない。「根無し草」の推論に終わってしまう。

 色々考えました――そして今、突然ヒラメキました、仰天です!

 明智光秀は、最初から負けるつもりで、突然「本能寺の変」を起こし、そ
の後の山崎の戦いに至ったのでしょうか。小説の世界では可能でしょぅが、
一族郎党、万の兵士を玉砕させるという無謀な考えはなかったと推察いたし
ます。光秀程頭の切れる人間なら、当然勝算ありと踏んだ……つまり、勝利
後は天下をとれると計算した。仮に自分が天下人にならなくても、家康でも
いいと考えた……。
 とすると――です。ここでよく考えてみると、光秀が仮に天下人となれば、
その妻の子は当然将軍となる。つまり、継室である服部保章の子か孫かが、
一番将軍になる確率が高いであろう。
 一方、服部平大夫正尚の子西郷局は家康の側室となり秀忠を生んだ。正尚
は養父と言われるけれど、実際は実父の可能性が高いと推察する。
 つまり、光秀と家康と両方に服部家の血筋を入れ込んだということになり
ます! これは何を意味するか……悪く言えば乗っ取り、パラサイトであり
ます。良く言えば、「貴種」の血の再興である。服部家がどのような「貴種」
であったかは、ひょっとしたらシュメールまで遡らなければわからないかも
知れませんが、今後の探求の課題として行きます――

 今回、いきなりショートカットの結論に至ってしまいましたが、次回は、
再びオーソドックスな推論に戻したいと考えます。
[52]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月27日 09時47分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様

 訂正:服部保章の子か孫→孫か曾孫
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月27日 13時55分16秒 ) パスワード

三つ柏さん


光秀の妻についてちょっと調べてみましたが
たぶん  地元の娘  でしょうね。
名のある豪族の娘だったら実家の父親の情報があったかも。


>つまり、光秀と家康と両方に服部家の血筋を入れ込んだということになり
ます!

なかなか興味深い推理ですね。


ムカシは親子関係が流動的でしたから
本当の父親・本当の生母のことは分からないですね。
名前もコロコロ変わるし。


光秀の子と家康の子のどちらかが日本国の支配者を継いだかも知れないというのはなかなか良い発想ですね。 
[55]A.AKECHIさんからのコメント(2017年12月27日 20時08分50秒 ) パスワード

三つ柏服部様

 >明智光秀が、忍者系服部氏と婚姻という絆でしっかりとつながっていた――

 >明智と服部の両方の血を受け継いでおられる訳でありますので、この謎を解くことこそ、先祖への何よりの慰めと供養となるのかと確信いたします。

 お言葉、有り難く、肝に銘じさせていただきます。
 とは言え(?)、実際は業務繁多につき「謎を解く」作業に取り組むことができません。私の仕事の同僚(本当に偶々なのですが)でもある加賀乙彦先生のように「二足の草鞋を履く」力が自分には無いことを嘆くばかりです。


 
 三つ柏服部様
 空の青海のあを様

 >光秀と家康と両方に服部家の血筋を入れ込んだということになります!

 >光秀の子と家康の子のどちらかが日本国の支配者を継いだかも知れないというのはなかなか良い発想ですね。

 まさしくそうなのではないでしょうか? 
 そう思えてなりません。

 そう言えば、九州大学・福田教授の「春日局=家光の生母」説は、ご紹介しましたでしょうか?(もしご紹介済みなら、繰り返しになってしまうのをお許し下さい。)
 https://bushoojapan.com/scandal/2017/05/05/98852

 家光の父が秀忠なら家光も「服部の血筋」ということになりますね。
 家光の母方、春日局→家光 の方は、「服部の血筋」は絡んでいるのでしょうか? 
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月28日 03時11分23秒 ) パスワード

A.AKECHIさん

>そう言えば、九州大学・福田教授の「春日局=家光の生母」説は、ご紹介しましたでしょうか?
>家光の母方、春日局→家光 の方は、「服部の血筋」は絡んでいるのでしょうか? 


            家光の出生スキャンダルは秀忠と春日局の間のことでしたか。
            勘違いしてました。恥をかかずに済みました。感謝です。

            ワタシは家康と春日局の間の子だったとばかり思いこんでいました。


春日局の父は斎藤利三で母方は三条家につながりますから血統的には ○ ですね。


斎藤利三の母は蜷川親順の娘なのです!
ビックリでしょ?!

新右衛門さんのご子孫です!
「一休さん」に出てくる足利幕府の寺社奉行の蜷川さん。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%B7%E5%B7%9D%E6%B0%8F             
                       プロレスラーの「武蔵」のご先祖さまでもあります。
                       「武蔵」の父方の家はご先祖さまは超優秀な人達で
                       「武蔵」にも血統的にいろいろ立派な有名なご先祖さまが並んでいます。




ということは春日局は四方で一族・親族、皆さん、超賢い名門の出身の血を受け継いだ女性だったのですねぇ。


思い出しました
家康が秀忠に侍女を寝屋に送ったけど手つかずで下がらせた話があるという話。

でも春日局はそういう秀忠をその気にさせる能力があったのかもですね。
もう1人、秀忠は、手をつけて保科正之を生ませていますからね。


コピペ:

蜷川氏は丹波国船井郡を所領としていたことと、
伊勢貞興が明智光秀の家臣にとなったこともあり、

蜷川貞栄・蜷川貞房父子等の一族が光秀に仕えた。

山崎の戦いで明智氏が滅亡した後は、長曾我部元親のもとへ落ちのびた一族もおり、丹波で暮らし続けた一族もいる。

長宗我部氏滅亡後、親長は徳川家康の御伽衆として仕えた。
その後、蜷川氏は旗本として続き、明治維新に至る。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%B7%E5%B7%9D%E6%B0%8F   (蜷川氏)


なるほどね
家康にとって斎藤利三の親族は欲しい人材の1つだったわけですね。
もちろん春日局の「お願い」もあったでしょうし。


ワタクシは春日局とは母方で何重にも繋がります。
日本人ですから遡れば殆どの人と繋がって当たり前ですが

春日局も直接の血ではなくても服部氏と繋がるのかもですね
明智光秀を通じて春日局は繋がりますから。


武士の世界は絶対的に人口が少なく
その上に
近畿や中部あたりの狭い土地の話ですし
時代が足利将軍家や幕府に仕えた人達の世界の人間関係ですから
知らないだけで
春日局と服部家はどこかで繋がりますね。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月29日 05時09分00秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101617.html
新しく  長上郡の服部氏族CV(課題確認46):103  を立てました。
キリの良いところでどうぞ。
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