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前田氏―Wikipedia に「利家の系統が菅原姓を称するのは、系図上その出自が美作菅氏の支流原田氏
だからである」 は美作菅氏の系図は捏造です。
原田氏(前田氏)・美作菅家の系図の書かれた経緯を平凡社『岡山の地名』 P237〜239に、
◎『西幸との境界に稲荷山城跡あり、初名は狐山で、原田氏が代々居城したという(作陽誌)原田氏は平忠常の子忠高が肥前原田に住し、原田氏を称した。保安四年忠高曾孫興方が美作に流され、翌年許されて狐山に築城。以来元和七年に死去した同書)原田の北西に大谷城跡があり、これも原田氏の分城という(久米郡誌)。三河守貞佐は備前福岡(現邑久郡長船町)の戦いで左足に傷を受け、無足の三河といわれた。その子行佐は宇喜多に属した。行佐の子忠佐は朝鮮出兵に従うが騒擾を起こして豊臣秀吉の怒りに触れ帰国した。その子は父の遺命で出家し、誕生寺の住持となり、忠佐まで十七代四百七十年間美作に勢威を振るった。(注) 「原田氏の武家としての歴史は(1597〜8年)には終っています」
原田が帰農(1597年)して87年も後に・・・
※事の発端は、元禄年間(1684年頃)に津山藩森忠政(信長のそば小姓森蘭丸の弟)によって美作の古事を書き上げ、提出の要請を機に、京都で公家として続く(高辻、五条、唐橋)の元を訪ねて系図の照合と美作菅家一族の系図が間違いない事を確認している。この時、一族14人にカンパを働き、銀200目と言う多額の土産を持参している。 Web有元氏参照
☆確認されたのは結局わからなかった!で作成されたのが次の系図です。
※「国会図書館アーカイブス」(作陽誌)美作官家の筆頭有元氏の系図です。
美穂満佐の子
忠勝 筑後守 號有本 奈岐山城主弘安十丁亥年二月卒六十歳
佐友 廣戸豊前守 廣戸村矢櫃城主
周長 福光伊賀守
公興 植月豊後守 植月庄宮山城主
★忠門 原田日向守 原田郷稲荷山城主
佐利 鷹取長門守 領鷹取庄
資豊 江見丹後守 領江見庄
(注)満佐は天福二年(1234年)二月、52才で死去。 逆算すると★忠門は美穂満佐5歳の子になる。
※「菅原氏系図」道真の末裔美穂満佐の子忠門が、美作国久米郡原田郷(岡山県美咲町原田)を領して原田氏呼称 はいささか信憑性に乏しい。「日本家系・系図大辞典」奥野敬之著(株)東京出版 P824
※「菅原氏から出た菅家党の諸系図を照合してみると、異説が多く混淆して収拾できない。「姓氏家系大辞典」に載せる「有元系図」が美穂満佐の子に、「有元・広戸・福光・植月・原田・鷹取・江見」これが菅家七流の祖としている説を根本的に覆している。各人の実名が、広戸豊前守佐友・鷹取長門守佐利以外は全く逸脱しており。そのまま信じられないのである」 「系図研究の基礎知識」近藤出版社 P1067
【平家物語を熱く語る!!にある原田に関する記事の一部
[16]ときおさんからのコメント(2004年02月07日 02時02分11秒 )
Yoshida-K様
小林雅成様
家紋については分かりませんが、小林雅成様の言われていました、岡山の原田氏はれっきとした「平氏」として有名です。
子孫には菅家(有元氏)と縁組みから菅家七党の原田氏として後醍醐天皇の船上山の直後元弘3年4月京都の「四条猪熊の戦い」で壮絶な戦死をしています。大正年間に贈位の恩典がなされています。
知られている系図では、「桓武天皇の七代胤上総介平忠常五男の忠高・忠次・忠仲・興方と続き「興方」が作州葛虫の庄に謫せられ狐山に築城したのが始まりである。」と言われています。これが久米郡原田に在る稲荷山城址です。
文禄年中に平(原田)弥右衛門衛門忠佐の退城の時まで17代の470年に亘る存在です。この様なことですので、子孫の方や原田氏に属した関係諸氏が多く居られます。
岡山は児島高徳などもしかりでして南朝・・・平熱でしょうか・・・ギャンブラー様。
17] 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月07日 02時22分55秒 )
>桓武天皇の七代胤上総介平忠常五男の忠高・忠次・忠仲・興方と続き
>「興方」が作州葛虫の庄に謫せられ狐山に築城したのが始まりである。」と言われています。
>これが久米郡原田に在る稲荷山城址です。 バリバリの平氏ですね。
[18] ときおさんからのコメント(2004年02月07日 03時46分31秒 )
岡山の原田氏はバリバリの桓武平氏ですね。
平忠常は歴史に名を残した千葉の人ですね。
でも岡山の原田氏は千葉から肥前に下向した一族なんですねえ。
その後源義家に従い奥州征伐。
その後平正盛に従い義親追討。
[18]ときおさんからのコメント(2004年02月07日 03時46分31秒 )
ギャンブラー様
上記の平忠常五男の「忠高」ですが、
肥前原田因号原田次郎
天喜五年春叙五位下
任肥後守嘗助源義家征伐安信(部?)貞任
康平二年出羽国杉谷戦中流矢損命
「忠次」は
忠高長子康和元年卒
「忠仲」は
忠次二男嘉承二年与平正盛討対馬守源義親
有功同年4月卒
「興方」
忠次三男嘉承二年任左衛門尉
保安四年二月藤原仲時殺高科師春
仲時被収繋座連及興方遂配作州
保安五年遇赦然没収旧領賜作州葛虫庄
(作陽誌からの転載の記述と同じ物の様です。)
17] 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月07日 02時22分55秒 ) パスワード
小林さま
引越し、大変ですが頑張ってください。
ときおさま
>岡山は児島高徳などもしかりでして南朝・・・平熱でしょうか・・・ギャンブラー様。
岡山は南朝の勢力が莫大だったように感じます。
でも尾張でも南朝方の根拠地「津島神社」の目と鼻の先に「妙興寺だったかしら北朝方の根拠地」がありました。
これに気がついてから「目と鼻の距離で敵と対抗してたんだなあ」と思いました。(適切な表現が分からないです)
まるでヤクザのシマ争いみたいだったというのが現状だったのかしら?と。
で、時おり、チャンチャンバラバラやってたのかしら?と。
こんな風にイメージが変わりました。
>桓武天皇の七代胤上総介平忠常五男の忠高・忠次・忠仲・興方と続き
>「興方」が作州葛虫の庄に謫せられ狐山に築城したのが始まりである。」と言われています。
>これが久米郡原田に在る稲荷山城址です。
バリバリの平氏ですね。
そうしますと大蔵氏系とは異なるようですね。
でも原田種直のママは頼盛の娘ですから半分は平家。
この関係が分かるといいですね。
[18]ときおさんからのコメント(2004年02月07日 03時46分31秒 )
ギャンブラー様
上記の平忠常五男の「忠高」ですが、
肥前原田因号原田次郎
天喜五年春叙五位下
任肥後守嘗助源義家征伐安信(部?)貞任
康平二年出羽国杉谷戦中流矢損命
「忠次」は
忠高長子康和元年卒
「忠仲」は
忠次二男嘉承二年与平正盛討対馬守源義親
有功同年4月卒
「興方」
忠次三男嘉承二年任左衛門尉
保安四年二月藤原仲時殺高科師春
仲時被収繋座連及興方遂配作州
保安五年遇赦然没収旧領賜作州葛虫庄
(作陽誌からの転載の記述と同じ物の様です。)
*以上の様に記述が有ります。大蔵氏との関わりはどうなんでしょうか。
[20] 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月07日 08時27分59秒 ) パスワード
岡山の原田氏はバリバリの桓武平氏ですね。平忠常は歴史に名を残した千葉の人ですね。
でも岡山の原田氏は千葉から肥前に下向した一族なんですねえ。
その後源義家に従い奥州征伐。
その後平正盛に従い義親追討。
ここで伊勢の平家と親しくなって後には南朝方。
分かり易いです。
それに塙氏のように「原田備中守」の名乗りを織田信長に頂いたように原田備中守は名門なんですね。
素性がハッキリしている。
でも九州にいたから大蔵姓原田氏とも関係があったでしょうね。
ちょっと調べに行ってきます。
(注)大蔵系原田氏とは全く関係ありません。中村
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