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 投稿番号:101613 投稿日:2017年11月21日 03時18分24秒  パスワード
 お名前:三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族CI(課題確認44):101
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101612_50.html
長上郡の服部氏族C(課題確認43):100到達
の続きです。


      自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
      最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。



振り出しに戻って遠江国丸に三つ柏紋の服部氏について調査のし直しです。



伊賀甲賀への旅より帰宅した翌日、テレビの「地球便」という番組を見ておりましたら、シンガポールで「忍(shinobi)ソース」というソースを出している会社
経営者で、服部さんという社長(50歳)の紹介がありました。


この社長は、大手調味料会社のシンガポール支店撤退の跡を引き継ぎ(独立して)、顧客のため現地に残るという決断をされた、ということでありました。

この番組の司会者は、本人と日本のご両親との間を取り持ち、メッセージや品物を届けるということで、そのお父さんは京都で反物屋さんをしており、息子は11代目になるということで、当家で大事にしている「初代の描かれた掛け軸」を届けてほしいと、司会者に託されたわけであります。

その掛け軸の絵を見せてくれたのですが、そこには着物姿の侍風の人が、机に向かって筆で何かを書いている絵でありました。



         びっくりしたのは、
         その着物に描かれた家紋が「丸に三つ柏」だった
         ことであります!

そんなことで、「京都」「服部」「反物屋」をキーワードにして、インターネット検索してみると、こんな情報が出てまいりました――


         「西陣 服部織物 創業天明8年(1788) 
          初代服部勘兵衛 滋賀県塩野村出身」


つまり、服部織物の創業者は、甲賀の甲南の塩野村出身ということであり、それは甲賀53家の内の服部家に関係する一族であった可能性が大であります。


「地球便」の服部社長がなぜ「忍ソース」と命名したかは、たぶん祖先の出身が、この服部織物と同じ甲賀の甲南であったからだと推察いたしました。

11代遡りますと、服部織物の創業者とほぼ同じ時代になります。


甲賀の忍者も、情報収集のため、あるいは生活のため、色々な所へ散って行ったのでありましょぅか――

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月21日 19時24分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろな情報、ありがとうございます。甲賀に調査に行ったのは、今回
始めてなので、まだまだ何も掌握していません。土地勘もまだありません。
甲賀の服部氏の痕跡だけでもと思って、お寺も幾つかまわったのですが、
見つけた服部家の墓は一つだけでした。家紋は、「丸に隅立て四つ目」で
ありました。

 甲賀の歴史の中では、聖徳太子と織田信長がその痕跡を残しておりました。

 今回の伊賀・甲賀行きで時間を費やしたのは、各図書館で、資料探しをし
たことであります。史料も色々仕入れてきましたので、目新しい情報を探し
出して記したいと思います――
[2]A.AKECHIさんからのコメント(2017年11月21日 19時57分51秒 ) パスワード

 三つ柏服部様

 伊賀、甲賀の調査行。お疲れ様でした。
 伊賀の酒「半蔵」に巡り合うことは出来ましたでしょうか?

 スレッド100の[34]で「おんな城主 直虎」に触れられましたが、今回の46話は観る者の涙を誘う展開でしたね。服部半蔵を登場させれば、もっともっと「お涙頂戴」に出来たのに、と思うと、ちょっとだけ残念ではありました。
 まぁ「井伊」のドラマですから仕方ありませんか…
 12月の49話の「伊賀越え」でも、直政の活躍は描かれても半蔵は無視されてしまうようですし…

 「おんな城主 直虎」は、今後の「本能寺の変」をめぐる展開が画期的なものになるそうなので、(私が言う立場ではないのですが)大いにご期待下さい。
 48話「信長、浜松に来たいってよ」で、龍潭寺のあの井戸端に登場する男の子。これが、何と光秀の息子だと言うのですから… ただ惜しむらくは、その子の母親が「服部」の姫、との設定になっていないことですね。
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月22日 09時35分17秒 ) パスワード

A.AKECHI様

 私の前レスの訂正:始めて→初めて

 お久しぶりでございます。AKECHI様からレスをいただくと、気持ちとし
ては、戦国時代の最大の謎「本能寺の変」の中枢(原点)に回帰いたします。

 「おんな城主 直虎」ですが、正にAKECHI様の言われる通り、服部半蔵
の出番はなく、「信康」の自刃も一人で行ったように描かれておりました。
服部半蔵を出すと、ドラマ全体のバランスが崩れるからでしょか。半蔵は
主役級のインパクトがありますから、諜報担当の松下常慶の存在は薄れて
しまうし、総じてストーリー立てがややこしくなるからでありましょうか。

 「神君伊賀越え」にもいろいろな説があるようです。ここも「本能寺の
変」の謎にからんできます。
 今回、甲賀に行き、『甲賀市史 第2巻』を購入してきましたが、伊賀
越えには3つのケースが考えられるが、当時家康は信長と組んでいたので、
できるだけ安全な甲賀よりのコースを通っただろうということであります。
いずれにしても、「加太越え」の手前の柘植の「徳永寺」で休憩したこと
は間違いありません。前回伊賀の柘植に行った時に、この寺の住職さんか
ら話を聞かせていただきました。小和田教授も訪ねてきたそうであります。

 「おんな城主 直虎」――徳川家康を理解するための、ある意味、素晴
らしいツールとなりました。できれば、半蔵をだしてほしかった……。

 
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月22日 10時09分07秒 ) パスワード

A.AKECHI様

 先程、レスを書いて送りましたが、どこかへ飛んでしまったようです。
 処理上のタイムラグでしょうか……?
 これは、念のためのテスト送付です――
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月22日 12時32分58秒 ) パスワード

A.AKECHI様

 大丈夫でした。元サーバーの処理上のタイムラグだと思います。

 伊賀の酒、「半蔵」は今度行った時に買ってこようと思っています――
 
[6]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月22日 17時29分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今回の伊賀行きの目的の一つは、前回できなかったこと―即ち、平宗清
に関係する「日置神社」を訪ねること、でありました。

 名阪道路下柘植インターから、側道を東に1q程東に行き、名阪道路の
上に掛かる橋を渡ると、その突き当りが日置神社でありました。その側道
というのは、1車線ですれ違いができない細さなので、たぶん訪れる人は
地元の人だけではないかと思いました。伊賀・甲賀はそんなところが多い
のであります。

 日置神社は、思ったより立派な神社でありました。由緒碑には次のよう
に書かれておりました――
 「一、鎮座地 伊賀市下柘植2260番地
  一、御祭神 大日るめ貴命外10柱
  一、由緒  当神社は、主神大日るめ貴命外10柱を下柘植区、愛田
 区の氏神として祀る。
  『伊水温故』の下柘植村の条に、「三所大明神」氏社とあり、又『三
 国地誌』には、「柘植三所明神、慶長年中愛田より勧請す」とある。」

 ここで一旦切ります――
[7]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月22日 20時47分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 続きです――
 「言い伝えには、平宗清の長男、日置太郎家清が父の跡を継ぎ、下柘植
 に住みし時、この神社を創建。
  後、子孫が営々と奉祀するが、天正9年、伊賀兵乱により全焼した。
  その後、その子孫、住民等が協力して再建したと伝える。」

 御祭神:大日るめ貴命→大日霎貴命(おおひるめむちのみこと)
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月22日 22時22分25秒 ) パスワード

AKECHIさん

お久し振りでございます。
ぺこり


三つ柏さん

家清の情報をありがとうございます。

驚きました!
日置太郎家清というのが俗姓での名前ですか。


「日置」というのは鹿児島の市来のある所と思ってました。
                          日本の地名や名字は深過ぎる!


ということで

http://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E7%BD%AE%E6%B0%8F-1397579

日置部とは:

もともと日置氏は宮内省主殿寮殿部(とのもり)の負名氏(なおいのうじ)の一つで,
本拠は大和国葛上郡日置郷にあり,
地縁的にも職掌的にも同じ負名氏の鴨氏と類縁の関係にあったと考えられている。

葛城の鴨氏が阿治須岐託彦根(あじすきたかひこね)神をまつるのに対し,
日置氏はこの神の妻という阿麻乃弥加都比女(あまのみかつひめ)をまつっていた(《尾張国風土記》)


【主殿寮】

9世紀後半には負名氏以外からも殿部に任用されるようになった。

令制前には,
上毛野(かみつけぬ)氏の一族の車持氏は,天皇の乗物の挙行(くるまもち)に奉仕し,
笠取氏は行幸の際の蓋の挙持に奉仕し,
日置氏は灯燭等に奉仕した。

鴨氏は山城の葛野(かどの)の県主(鴨県主)で,
《下鴨系図》には舒明・皇極朝に久治良が〈殿寮〉に出仕したこと,
主水司水部に多数出仕したことが記されている。



なるほどね
日置とは鹿児島特有と思っていましたが
実は・・・
ということが奥に隠れていたのかもですね。





御祭神:大日霎貴命(おおひるめむちのみこと)


 http://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%AD%81%E8%B2%B4-450724

天照大神(あまてらすおおみかみ)の異称。別名。



【天照大神】より

…記紀神話に登場する太陽神的性格の女神。
天照大御神(あまてらすおおみかみ),大日孁貴(おおひるめのむち),天照大日孁尊(あまてらすおおひるめのみこと)などともよばれる。

皇室祖神として伊勢神宮にまつられている。…




【蛭児】より

…つまりはじめは失敗し,つぎに成功するという説話の型がふまれており,
以後,2神は順調に日本の島々を生み出していく筋立てとなっている。

《日本書紀》では,ヒルコは日の神=大日孁貴(おおひるめのむち)(天照大神),月の神=月読(つくよみ)尊と同時に生まれ,〈三年になるまで脚猶し立たず〉とある。

ヒルコ―ヒルメの音の類似から,いっしょにされたものであるらしい。


へぇ〜
別名有り過ぎ!
大日るめ貴命なんて知らないよっ!
と思ってました。
汗          


[9]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月23日 11時16分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今週の日・月と、厳島神社に行ってまいります。

 さて、伊賀市上野図書館を訪れるのは、2回目になりますが、昔と違って
情報入手の要領がわかって来ましたので、その郷土資料室を訪れ、「平宗清、
または平家長」に関する資料を探してほしい旨、司書にお願いいたしました。

 伊賀の図書館では、郷土に関する資料はガラス戸棚の中に入れられて、
自由に触れなくなっている。たぶん、持って行ってしまう人間がいるのであ
りましょう。それにしても、忍者の里として、その郷土資料は見た所そんな
に多くない。浜松の方がよっぽど多い。市の予算の関係なのだろうか。でき
れば、服部氏に関する資料は、日本一たくさん収集してくれたらいいのにと
思う。でも、伊賀から見れば、半蔵は三河の人なのか……。服部氏に関して
は、橋場日月氏の『服部半蔵と影の一族』1冊に匹敵する程の資料もないの
でありましょうか。伊賀は伊賀忍者のメッカなのに、まこと残念であります。
 但し、最近三重大学が忍者研究に乗り出して来て、「国際忍者研究センタ
ー」が伊賀駅の南側のビル内に開設され、研究発表や講座等を開催している
ということで、いいことであります。でももっと早くやってほしかった。

 司書が出してくれた書籍は、次の通りであります――
 @『伊賀町地誌要領』
 A『伊賀町のあゆみ』
 B『伊賀市概説 上巻』
 C『伊賀史叢考』
 D『伊賀町史』

 次回は、これらの主要なコピー・メモの中から、これはといった情報を拾
ってみます――
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月23日 16時06分13秒 ) パスワード

三つ柏さん

厳島神社は本当に美しい建物です(って、ソコか!   ですが)

お近くですから下関の赤間神宮の七盛塚(実際には数十の塚があるのですが)にも是非いらっしゃって欲しいです。

とはいえ、そういうワケにもいきませんね。


七盛塚は江戸時代に篤志家が立ててくださったものですが
木が鬱蒼として日を通さないとすごく不思議な世界になります。
すごい体験をしました。
帰路の新幹線の中でもすごい体験をしました。

ご当地の方によりますとやはり平家がらみのパワーが来てたそうです。



2回目に行った時は木が剪定されていて太陽光線がしっかり射していたので
アッケラカーンとしてて
ただの興味本位の観光地風でした。
[11]A.AKECHIさんからのコメント(2017年11月23日 16時16分24秒 ) パスワード

 三つ柏服部様
 空の青海のあを様

 伊賀上野の生まれで上野城には何度も訪れたというのに、恥かしながら上野図書館にはただの一度も行ったことがないAKECHIです。

 三つ柏服部様はご覧になっているかも知れませんが、「伊貸市史」では「神君伊賀越え」のルートを、3つの可能性のうち下記「忍者・忍術学講座」の記録の@桜峠越えルートが「最も可能性が高く」、「甲賀市史」のルート(下記B油日超えルートと思われます。)の可能性は「かなり低いが」「否定はできない」と書いています。
 http://www.human.mie-u.ac.jp/kenkyu/ken-prj/iga/kouza/2015/2015-1.html
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月23日 17時24分56秒 ) パスワード

AKECHIさん

読んで来ました。


>なぜ「伊賀越え」といわれたのか、
>なぜ伊賀者の活躍が強調されてきたのかが問われねばならない
>これを解くカギが、江戸時代の中・後期における江戸の伊賀者の困窮にあることを指摘した。

何が指摘されたのか分かりませんが
江戸時代の中・後期における江戸の伊賀者の困窮についてワタクシの想像を書きます:


1.
大久保長安事件の結果


2.
太平の世になったから


3.
ほぼ伊賀者独占だった諜報活動が
競合他者の出現により
また草として地元民にうまく潜り込んだ手先もいて
伊賀者の需要が激減した


4.
幕府自体が財政困難になり伊賀者を高給で抱えることが出来なくなった
それで安売り専門の諜報活動者を採用するようになった


5.
幕府・伊賀者・各藩主・各藩士
日本の特権社会全体が
米基盤経済によって物価の上昇により
生活が困窮した


こんな感じで江戸時代の中・後期における江戸の伊賀者の困窮と零落があったのでは?
と想像してみました。
[13]A.AKECHIさんからのコメント(2017年11月23日 19時52分10秒 ) パスワード

〔11〕の訂正
 伊貸市史→伊賀市史、 油日超え→油日越え
  でした。失礼しました。


 空の青海のあを様

 「江戸時代の中・後期における江戸の伊賀者の困窮について」丁寧に考察して下さり、有難うございます。 藤田先生の説は、困窮した伊賀者の失地回復のために「神君伊賀越え」での伊賀者の貢献を喧伝するために話を「盛った」のでは? というもののようです。
 この時は「忍者・忍術学講座」ですから触れられていませんが、そもそも「神君伊賀越え」話は、家康の「神君」化のための話なのですが…
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月23日 21時10分09秒 ) パスワード

AKECHIさん


>藤田先生の説は、
>困窮した伊賀者の失地回復のために「神君伊賀越え」での伊賀者の貢献を喧伝するために話を「盛った」のでは? 
>というもののようです。

なるほど!
丁度、大久保彦左衛門が「三河物語」を書いたような  ウラミツラミ  のお話でしたか。


「何でこんなことになるんだよっ!あんなに貢献してやったのに、これが
ご褒美ってか?」


困窮と不遇に対する不満
家康と伊賀者の関係
あの時、無事に三河に帰してやったのに!


ベースアップ要求の自画自賛交渉文でしたか。


後世に残って良かったね
以って瞑すべし。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月23日 21時15分20秒 ) パスワード

「神君伊賀越え話」は怪文書でしたか。

キャハキャハ笑ってしまいました。
で、年収はアップしてもらえたんでしょうかねぇ。


                       でも伊賀者にもアタマのいいヤツがいたって事ですね。
                       飛んだり跳ねたり盗み聞きばっかりが得意じゃなかったようですね。


ワタシもハナシを盛る傾向があるけど
「神君伊賀越え話」
ほどの名作は書けないや。
[16]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月24日 15時06分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様

 三重大学の講座について、ありがとうございました。最新の情報が載せら
れており、今後、役に立ちます。

 神君伊賀越えに関しては、家にある関連の書籍十冊余を振り返って見て
みましたが、本当の謎解きはまだ終わっておりません。幕府と伊賀衆のそ
れぞれの都合にあわせた脚色が行われているようです。それらはある意味
"陽動作戦"であったのかも知れません。「神君伊賀越え」は「本能寺の変」
とセットで推理しないといけないものだと思っています。

 私が"感じ"ているのは、「甲賀」について妙に伏せられているということ
であります。甲賀関係に何か秘密があるように"感じ"ています。"勘"であり
ますが……。私がここでいう甲賀とは、伊賀と隣接する「柘植」も含んだ地
帯を言います……。

 ところで、近江の北村とは、具体的に現在のどこにあたるのでしょうか?
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月25日 02時35分19秒 ) パスワード

三つ柏さん


方向音痴のワタクシからの情報として:

近江国野洲郡北村(現滋賀県野洲市)



面白いのがありました:深過ぎる!
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/61-70/kitamura.html


 北村の地名は、西村などと同じで村の位置、とくに本村からの方角を表わす。


  姓氏はこれによるが、西日本に多い。


近江から3流の北村氏が出ている。
高島郡北村発祥の清和源氏新田氏族大館氏の流れ、
野洲郡北村からは藤原姓の北村氏、
そして近江源氏佐々木氏族高島氏から出た北村氏だ。



各地の北村氏の由来

■桓武平氏柘植氏族
柘植系図、江戸系図共に「柘植弥平兵衛尉 宗清の子 某、北村を称す」と。
   家紋、三頭右巴、丸内二引。


■清和源氏大館氏流
近江国高島郡北村より起こると云う。
清和源氏大館氏の族なりと。
家紋、井筒。


■藤原姓
近江国野洲郡北村より起こる。


■丹波の北村氏
天田郡にあり。
近江野洲郡より起こると云う。

丹波志に「北村氏、子孫は筈巻村、庄屋の家なり。帯刀。本国 近江」と。


■息長姓
摂津国住吉郡喜連村の名家なり。
家に家記を蔵す。

家伝に「日本武尊の子息 長田別王をその娘 黒姫に配し奉り、杭俣長日子王を挙ぐ、これより息長の姓を賜う。

その裔 後醍醐天皇の朝、息長北村あり。

その子 息長治良麻呂、父の名を氏として北村氏と云う」と。


へぇ〜
深いですね。

[18]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月25日 12時06分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様
 
 「神君伊賀越え」と「甲賀」に関する謎、昨夜来ずっと調べておりました
が、やっと結論に達しました。

 その結論について述べる前に、「明智光秀」は、どのような経緯・関係に
て、「服部保章」の娘を側室にしたのか?という問題をクリアにしたいと思
いますのですが……。

 服部保章がどのような人であったか、色々な情報があります――
 @服部出羽守保章 伊賀名張城主
 A服部鳥羽守 その長女伏屋媛は光秀の「先妻」
 B服部出羽守保章 柘植城主
 C喜多村出羽守保光

 服部保章は、服部平大夫正尚の従兄弟であるようです。

 北村家といえば、平宗清の三男系服部氏であります。
 北村氏城跡・館は中柘植にあり、倉部側を挟んで向かい合わせにあります。
 北村氏は、伊賀柘植郷を代表する国人であります。
 柘植は、甲賀地区と隣接しており、どちらかと言えば甲賀と言っても間違
いではないくらいの所であります。

 服部平大夫が北村系と濃い親戚だとすると、その関係はどこでつながって
いるのでありましょぅか?

 光秀と服部系とのつながり、これは本能寺の変の謎を解く、最大の鍵かも
知れません!
[19]A.AKECHIさんからのコメント(2017年11月25日 16時29分05秒 ) パスワード

 三つ柏服部様

 >光秀と服部系とのつながり、これは本能寺の変の謎を解く、最大の鍵かも
  知れません!

 このご指摘、有難うございます。大いに賛同致します。 

 ある明智一族の方の説によれば、明智と服部の子=内治麻呂 が我が家の初代(私は15代目です。)だそうですから、「明智と服部系とのつながり」は私個人にとっても重大なテーマな筈です。

 さて、試みに「北村、近江、明智」を検索してみますと、勿論こちらのスレッド
 http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100338.html  がヒット致します。

 それより(と言っては失礼千万?)興味深かったのは、こちらのページ
 http://www.sunrise-pub.co.jp/%E9%96%80%E5%A4%96%E6%BC%A2%E3%81%AE%E8%BF%91%E6%B1%9F%E6%96%87%E5%AD%A6%E5%8F%B2%E3%80%80%E3%81%9D%E3%81%AE%EF%BC%91/   
 に、明智光秀と松尾芭蕉(の関係)が書いてあることです。
 本題からは外れますが、芭蕉さんが「『ずるい奴』と言われる」とあるのが面白いです。

 
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月25日 17時55分09秒 ) パスワード

AKECHIさん


http://www.sunrise-pub.co.jp/%E9%96%80%E5%A4%96%E6%BC%A2%E3%81%AE%E8%BF%91%E6%B1%9F%E6%96%87%E5%AD%A6%E5%8F%B2%E3%80%80%E3%81%9D%E3%81%AE%EF%BC%91/   拝見しました。

このブログ主さんはスゴイ!アタマいい!

宇宙飛行士のマスグレーブ博士に会った時、夫がディズニーの副社長に売った「自爆装置」について、
サラッと説明してくれて
アタマのいい人って簡潔に説明が出来るんだな
と感動したことを思い出しました。


特に下記の部分が面白かったです: 


>北村季吟の門人となった時期もあって石山の幻住庵で『源氏物語』を愛読書としつつ、
>豊富な古典の教養(=自分の俳句の元ネタ)をオモテにださなかったために「ずるい奴」と言われることもあるのが松尾芭蕉。


???自分の俳句の元ネタをオモテに出さなかった???
そうなんですか???
例えばどの句のことだったのか?
高度過ぎて分からないです =  教養の浅さに涙


>俳諧連歌師として創作活動を始め、『源氏物語』のパロディ『好色一代男』で一躍人気作家となったのが、井原西鶴。

これはスンナリ分かります。


>それまでの先人による膨大な『源氏物語』の註釈をコンパクトにまとめた北村季吟の業績には敬意を表しつつ、
>宗祇も含めた先人の説教臭い註釈をこきおろしたのが、国学者・本居宣長。

へぇ〜
本居宣長ってそういう立ち位置でしたか。
知らなかった
本居宣長ってイヤミなヤツだったんですねぇ。
[21]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月25日 23時03分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様

 「柘植」と「名張」――
 「観阿弥」は「柘植」の「服部氏」。
 「名張」は猿楽師「観阿弥」の本拠地。

 服部平大夫正尚の祖父「正清」は「猿楽師」。つまり、「名張」と関係する。

 「正尚」の伯父は「喜多村氏」、その子が「保章」。つまり名張と関係する。

 
 名張市の市章は「桔梗」。
 名張の藤堂高吉(丹羽長秀の子)家の家紋は「桔梗」。

 名張と明智は「桔梗」でもつながっている……?

 光秀と喜多村保章の娘は、どこで、どんな関係で知り合い、夫婦になった
のだろうか?


 明日の早朝、厳島神社へ向けて出発します。

 甲賀と神君伊賀越え関係の謎、帰って来てから記します――
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月26日 04時37分46秒 ) パスワード

市の花が桔梗のようですよ。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月26日 04時51分16秒 ) パスワード

質問には全く答えていませんが
面白い記事を見つけました:


http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13150293173

Q
名張藤堂家の初代藤堂高吉について質問します。

この家系は2万石、のち5千石没収され、1万5千石で、明治維新を迎えますが・・・。

高吉は、本来であるならば、藤堂高虎の跡を継ぐはずだったのに、実子の高次が生まれたため、2万石にとどめられましたが、このことを、高吉は恨んでいたのでしょうか?

名張藤堂家は、何代目かの当主まで、藤堂家の一族が名乗る高の字を名乗らず、高吉の実家丹羽家の長を名乗っています。また、家紋も違います。

最初は今治城という城持ちだったのに、名張陣屋に押し込められて、さらにあくまでも家来と思い知らせるかのように、参勤を許さず、江戸の将軍にも拝謁させなかったそうです。

養父である高虎は、どうしてここまで、高吉に辛く当たったのでしょうか?



A
高吉が、かなり優秀で、大御所にも受けが良かったこと、また、藤堂高虎の関が原以前のことまで知っている、藤堂高虎のことは、おそらく何でも知っていたでしょう。

こういう人間は、トップにとって煙たい存在ではないでしょうか?

高虎の跡を継いだ高次も、かなり高吉に警戒感を持ちます。

今よりも、大禄をあたえられて、独立した大名に取り立てられるのではないか?そのため、将軍に拝謁させないように、江戸に参勤をさせません。

さらに、2万石は最初幕府から与えられたものだったのに、藤堂家の領内からまかなうことまでして、臣下と扱っています。

これに対し、名張家でも、質問中にもあるように、高の字を用いなかったり、家紋も違うものを用いています。

さらに、何代目かの名張家の当主は、丹羽家を通じて、幕府に独立運動を起こしますが、本家に露見し潰えています。



http://colorfl.net/niwanagahidekamon/
丹羽氏の家紋   X   ☚ 丹羽直違紋にわすじかいもん  死者を封じる・家を守る

丹羽さんって?

とにかく藤堂家よりは出自がハッキリしているってことでしょうね。

でもなぜ桔梗紋?



お気を付けていってらっしゃぁ〜い!
[24]A.AKECHIさんからのコメント(2017年11月26日 14時52分07秒 ) パスワード

 空の青海のあを様


 >丹羽さんって?

 名張藤堂家初代の藤堂高吉は、丹羽長秀の三男。母は杉若無心の娘。
  「杉若無心」は、スレッド58の〔24〕に
   >田辺(泊山城→上野山城):杉若無心・氏宗(1万9千石、1585年〜1600年} 関ヶ原の戦いの後に改易。
    と、出ていますね。

 >でもなぜ桔梗紋?

 これは、誰でも抱く疑問です。私も幾十年久しく疑問として抱えています。
 数年前、名張市教育委員会に照会したところ、藤堂高吉が家紋に桔梗を採用した経緯は判明しましたが、桔梗にした理由は不明のままでした。
 というのは、「経緯」= 朝倉義景→(義景家臣の)北島勘助→(勘助の息子)堀江平兵衛→堀江平兵衛が藤堂高吉の小姓に採用→ と、伝わった刀のはばきに桔梗紋が付いていた。その刀を平兵衛が高吉に献上した。 ということですが、
 肝心の、高吉が桔梗を家紋にした理由、(その解明のカギになるかも知れない)朝倉義景が誰から(土岐頼武?頼純?)貰った刀なのかが不明のままなのです。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月27日 02時31分03秒 ) パスワード

AKECHIさん

この経緯、面白いですね。
>朝倉義景→北島勘助→堀江平兵衛→堀江平兵衛が藤堂高吉の小姓に→伝わった刀のはばきに桔梗紋が付いていた。
>その刀を平兵衛が高吉に献上した。

つまり家紋で「藤堂家より朝倉家の方が圧倒的に格が上だ。ざまぁ〜」
って感じだったのかしら?
ふふふ


>朝倉義景が誰から(土岐頼武?頼純?)貰った刀なのか

土岐頼芸も考えられるかも。


丹羽家の主人というと斯波家も考えられるので
桔梗の家紋で「うちは正統な足利将軍家の家臣」というのを言いたかったかも
「藤堂なんて朝倉より格下の浅井のそのまた家来じゃないか」というのが入ってたのかな?と。

こういうところで溜飲を下げたのでしょうか?

[26]A.AKECHIさんからのコメント(2017年11月27日 18時05分16秒 ) パスワード

 空の青海のあを様

 さすが! です。
 三つ柏服部様が常々空の青海のあを様の見識の高さを讃えておられるのが、納得できました。


 足利幕府との関わりだけでなく、朝廷から「惟住」姓を賜った丹羽様でもあるのですから、「『藤堂』の養子になってやったんだ」くらいの気概(?)を抱いていたかも知れませんね。

 それを知れば、我が家の先祖たちの場合は、土岐→明智→AKECHI(仮) と伝わった由緒正しい桔梗紋の家だったにも拘わらず、城主の藤堂采女様から折に触れて戴いた蔦紋の付いた什器類(現存しません。)を有難がっていた(我々子孫の誤解なら良いのですが、)ようで、情けないものです。

 その藤堂采女家の場合は、皆様と同じく立派な家=「服部家」の出であるにも拘らず、ご本人の意を挟む余地なく家康様(何しろ「神君」!ですからね)の命で蔦紋の「藤堂」の名字を賜ったのでしたね。 だからなのか、「徳川の世」が終わると同時に「藤堂」から「保田」に復姓されました。家紋も変えたのかは、寡聞にして存じません。
[27]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月27日 23時25分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様
 
 厳島神社から無事戻ってまいりました。厳島神社の裏に「弥山(みせん)」
という山があり、そこに登って(ケーブルカー+徒歩)まいりました。今、
気分は爽やかでありますが、本日は15q程歩きましたので、そろそろ瞼
が重くなってきました。
 明日に、名張や甲賀、そして厳島神社等について記したいと思います――
 
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月28日 02時30分17秒 ) パスワード

AKECHIさん

>朝廷から「惟住」姓を賜った丹羽様でもあるのですから、「『藤堂』の養子になってやったんだ」くらいの気概(?)を抱いていたかも知れませんね。

はい
丹羽家にしてみれば格下の藤堂家に養子に行ってやった
あたりの気持ちだったでしょうね。


こういう人間のプライドの確執は永遠のテーマですから小説になりますね。



三つ柏さん

お帰りなさい。
ご無事で何よりでした。

ご報告、楽しみにしていますね。
[29]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月28日 06時57分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様

 本日はJ日でありますので、切れ切れに記すことになりそうです。

 明智光秀関係で、色々と記すことはたくさんあるのですが、その前に
今回の旅の最大の「サプライズ」について、時間も今ありませんので、
あるインターネットサイトを紹介し、その画像――特に獅子岩に刻まれ
た「ペトログラフ(岩刻文字)」を見ていただきたいと思います――

 →「宮島の弥山〜登山するための弥山七不思議など厳島の御神体」
http://www.earthkeeperh3.com/truth/misen.html
 
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月28日 10時02分10秒 ) パスワード

のうが高原のことは全く知らなかったです。
「磐座」ですね。

弥山やのうが高原のブログに岩に神を見た古代人から受け継いだ血が騒ぎました。
[31]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月28日 12時36分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「のうが高原」については見落としておりました。ありがとうございます。
さらに調べてみます。
 弥山の頂上から四方を見渡すと、確かにあちらこちらの山々の頂上や中腹に、大きな岩、あるいは岩肌がむき出しになっている所がありました。
 弥山で見た岩からすると、たぶんそれらは花崗岩だと思います。巨岩を並
べ替えた気配もありますので、太古の巨石文明の時代には、今では失われて
しまっている特殊能力――「波動」に根ざした第三(?)の能力があったもの
と推察いたします。波動・振動・共鳴により、宇宙に潜んでいるパワーを引
き出すということ……現代科学の最前線でも、そういったものが見えてきた
のではないでしょうか?
[32]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月29日 10時02分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 厳島神社に行っての「おまけ」が、「弥山(みせん)」でした。太古のシュ
メールのペトログラフが刻まれた岩……つまり、シュメール人が日本に来て
いたということ。そして、磐座信仰を営んでいたということ。
 それと「平家」は関係するのか?
 平清盛の創建した「厳島神社」とこの弥山の磐座とは関係するのか、単な
る偶然なのか……これが最大の疑問となりました。

 私が、本州側と宮島を結ぶフェリーの中で不思議に感じたこと――それは
厳島神社の「大鳥居」がコンパスで測って「真北」を向いていたことであり
ます。つまりひょっとしてこれは「北斗信仰」か?と感じました。

 「平家」と「北斗信仰」――新たな検証のテーマとなりました!

 「明智光秀」と「平家」は関係ないと思われますが、実は関係してくるの
であります――
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月29日 15時24分30秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「明智光秀」と「平家」は関係ないと思われますが、実は関係してくるのであります――

源平交代説しか思い出せないです。
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月30日 15時26分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 厳島神社には、初日(日曜日)と2日目(月曜日)と続けて行きましたが、
初日は観光客でごった返しておりました。海の色は「あを」色でありま
した。
 外人の観光客が多く、いたる所で外国語が聞こえてきました。ガイド
さんによると、フランス人が一番多く訪れるということで、その理由を
知りたく思いました。厳島神社はある意味聖地エルサレムのようなもの
かなあと思ったりしました。我々は厳島神社のことを名前だけは知って
いますが(世界遺産にもなった)、その実、成り立ちや歴史を深くは知ら
ない。神社にも気の利いた歴史書の類は置いてなく、写真集のようなも
のが2点置いてあるだけでした。
 それでも、来年2018年が「平清盛生誕900年祭」ということで、
のぼり旗がたくさん立てられ、パタパタと風になびいておりました。
清盛公が生まれてから900年、つまり1118年生れということ――

 2日目に訪れた時には、ちょうど干潮となっており、鳥居まで歩いて
行けました。鳥居に触ってみて、その太さに驚きを覚えました。フジツボ
がビッシリ着いていて、その隙間にお賽銭がはめ込まれておりましたので、
私も同様にしてまいりました。
 昼食は牡蠣三昧、夕食は広島名物「お好み焼き」をいただきました――
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月30日 16時22分29秒 ) パスワード

三つ柏さん

>牡蠣

フランス人が厳島神社に多い外国人ということは「牡蠣」のせいかも?


フランス人は「牡蠣」が好きなようですよ
ただし生にレモンをかけてですが。


アメリカ人はカール・セイガンの「コスモス」のハナシから
平家と蟹のハナシで厳島神社が好きかな
と思います。

でも真相は分かりません
単純に海に浮かぶ神殿の美しさに惹かれて
かも。
[36]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月01日 00時40分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 下記の記述について、取り下げます。

 >「明智光秀」と「平家」は関係ないと思われますが、実は関係して
  くるのであります――

 ある本の記述に関して、ハヤトチリの解釈をしてしまいました。お詫び
申し上げます。

 平氏はセム系で親天皇家氏族であるという。信長は平氏と名乗っていた
けれど、現実は反天皇氏族であり、ハム系カナン人の忌部氏の血脈であっ
た。この信長に対し、光秀には皇室を守ろうとする義侠心が根本にあった
――という「ある人」の説がありました。そこで、不覚にも、光秀と平氏
との間に関係あり――としてしまいました……。

 この「ある人」とは、鷲見紹陽氏で、『シュメールの天皇家』という本
を書かれています。
 ここには、「シュメール史観」(この言葉がいいかどうかわかりません
が)による歴史の解釈がみられ、強引ではありますが、色々な発見をさせ
てくれます。

 その中の興味深い点について、今後いくつかまとめて報告させていただ
きます――
 
[37]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月03日 21時14分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様

 ここ二日間は、忘年会での飲み過ぎや、年末にむけての仕事の忙しさで
集中力がありませんでした。

 そんな中で、ただ今「おんな城主 直虎」を見終えたばかりであります! AKECHI様が前に言われておられましたとおり、小説にも歴史書にもなかった
ような緊急事態が発生しました!

 それは、「本能寺の変」のいわば"前夜"のシチュエーションであります。
 今までになかった設定とは――明智光秀の幼子が井伊谷に突然迷ったよ
うに現れたのであります!

 実は、このことは、私がこの数日来ずっと調べていた明智家と服部家の
関係の調査とマッチしておりますので、ちょうどいいタイミングでありま
す!

 一旦ここで切りますが、続きます――
[38]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月04日 12時14分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「おんな城主 直虎」の時代考証は小和田哲男氏であります。史実は
何かという問題に対し、ドラマではどの説を採用するのか、あるいは、
ドラマ独自の説を打ち出すのか……興味ある所であります。

 「信康事件」もこちらの予想を覆されました。服部半蔵や天方道綱は
出てまいりませんでした。
 今回、「本能寺の変」においても、服部半蔵や伊賀・甲賀の忍者は出
さないのでありましょうか?

 「本能寺の変」を徳川家康の信長への意趣返しとするのは、一番わか
りやすい筋書きではあります。ただ、実行犯を明智光秀一人にかぶせて
しまうとしたら、ドラマとしては時代遅れであります。

 実行犯は伊賀・甲賀の忍者たちの特殊部隊であった(事実、そうであっ
た)としていただければ、甲賀や伊賀、比叡山、高野山、長島や一向一揆
で惨殺された者たちの霊を慰めることができるのですが(復讐劇として)…
…。 
[39]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月04日 12時53分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「おんな城主 直虎」に出て来た「明智光秀」の子供の名前は「ジネン」
でありました。これは知る人にはわかるシチュエーションであります。
 つまり、このドラマでは、正室の子でなく、わかっていて側室の子を出
したということであります。それは何のために?

 私が推測するに、その側室は「服部(北村、喜多村)保章」の娘である可能
性大であります。つまりは、忍者服部党につながる子供をドラマに出して、
暗に服部党がからんでいるというヒントにしているのではないでしょうか?

 「服部家は明智家の外戚であった」ということの「重み」……、2代将軍
秀忠は服部家、3代将軍家光は、服部家と明智家に関係する……。
 両将軍より「秀」と「光」を採り、並べ替えると「光秀」……謎解きのヒ
ントをうまく表示してくれています……。

 「ジネン」とは「自然」――光秀の11番目の子であります。上から7人
の子供は、正室熙子の子供達、8番目から12番目が側室の子供達か。ちな
みに12番目の子の名前は「内治麻呂」。母(側室)は喜多村出羽守保章の娘。

 いずれにしても、色々な説があり、また謎が多い――
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月04日 16時12分09秒 ) パスワード

今回の「直虎」
全然消化できてないです。

でも本能寺の変の謎解きの1つとしては興味深く見ました。




「自然」という子について:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80

五男:自然= 『明智軍記』における十次郎の幼名= 坂本城落城の際に死亡。
自然は津田宗久の茶会記で確認される。


六男:喜多村保之




『明智軍記』では3男4女がいたとする。

長女:明智光春の妻[注釈 35]
次女:明智光忠の妻
三女:細川忠興の妻(細川ガラシャ)
四女:津田信澄の妻
長男:光慶[注釈 36]
次男:光泰(十次郎)
三男:乙寿丸[注釈 37]




『鈴木叢書』所収の「明智系図」では側室の子も含めて6男7女があったとする。

長女:菅沼定盈の妻 - 養女(実父・三宅長閑)
次女:桜井家次の妻 - 養女(実父・三宅長閑)
三女:織田信澄の妻
四女:細川忠興の妻
五女:筒井定次の妻[注釈 38]
六女:川勝丹波守の妻
長男:玄琳[注釈 39] - 妙心寺に入る。
次男:安古丸 - 山崎の戦いで戦死。
三男:不立 - 天龍寺に入る。
七女:井戸三十郎の妻
四男:十内[注釈 40] - 坂本城落城の際に死亡。
五男:自然[注釈 41] - 坂本城落城の際に死亡。
六男:喜多村保之
不明:定頼

[41]A.AKECHIさんからのコメント(2017年12月04日 18時49分45秒 ) パスワード

 三つ柏服部様

 >「本能寺の変」においても、服部半蔵や伊賀・甲賀の忍者は出さないので
  ありましょうか?

 そのようです。
 「井伊」のドラマなので仕方ないのですが、「神君伊賀越え」にあたっても直政の活躍はあっても服部半蔵や伊賀者の姿は見えないようです。

 >12番目の子の名前は「内治麻呂」。母(側室)は喜多村出羽守保章の娘。

 (前にも述べましたが、)ある明智一族の方の説によれば、この「内治麻呂」が我が家の先祖だそうです。
 山崎の戦の後、伊賀に逃れた我が家の先祖には、兄がいて共に行動していたそうです。この兄が「自然」なのでしょうか?
 なお、内治麻呂の母(服部出羽守保章の娘)は、光秀様の「側室」ではなく、正室・妻木煕子様が亡くなられた後に嫁がれた「継室」だと思います。

[42]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月05日 03時44分24秒 ) パスワード

AKECHIさん


>兄がいて共に行動していたそうです

この方が  「不明:定頼」  という人物かもですね。
この人自身が「謎」の人物として自身を歴史から「消した」のかもですね。



ムカシは力のある人にはたくさんの子供がいましたから
記録に残って無い子供達というのは結構いたと思います。
光秀ほどの人物ならたくさん子供がいたでしょうね。

「定頼」という人物がどういう人だったかロマンですね。
[43]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月05日 10時57分47秒 ) パスワード

A.AKECHI様
空の青海のあを様

 明智家の子孫であるAKECHI様からの情報――内治麻呂の母(服部
出羽守保章の娘)は、光秀様の「側室」ではなく、正室・妻木煕子様が亡
くなられた後に嫁がれた「継室」――これは、まずもって明智家・服部家
の関係の謎を解く鍵であります。

 正室と言われる「熙子(ひろこ)」は妻木(土岐家の分れ)勘解由左衛門
範熙の娘であります。
 羽生道英氏の『明智左馬助』によれば――

   明智光秀:1526年生
     熙子:1535年生

    <結婚>:1550年  (光秀23歳、熙子16歳)

 長女  碧子:1554年生
 次女  光子:1556年正
 3女  玉 :1563年正
 4女  潔子:1566年生
 嫡男 十五郎:1570年生
 次男 十次郎:1573年生
 3男 乙寿丸:1575年生 

 つまり、熙子との間に7人の子をもうけたということであります。
 名前は、あを様ご紹介の「明智系図」とは違っておりますが、い
ずれにしても、たくさんの子供達がいたということは間違いないと
思います。

 AKECHI様の言われるように、服部保章の娘と言われる方は、
側室でなく継室であったということ。一説によりますと、明智光秀
は側室をとらなかったとも言われております。

 熙子の亡くなったのは――

  <熙子死去>:1576年(天正4年)

でありますので、1576年後に服部保章の娘が継室として入っ
たということになります。

 その3年後と5年後に――

 天正伊賀の乱:1579年(第1次)
 天正伊賀の乱:1581年(第2次)

が発生いたします。

 両伊賀の乱後――

  内治麻呂:1582年生
  本能寺の変:1582年 

ということになります。

 服部家は「天正伊賀の乱(第1次)」の前に明智家の外戚になったの
か、あるいは第1次と第2次の間だったのか、あるいは「第2次天正
伊賀の乱」後で「本能寺の変」の前であったのか……?

 服部保章は喜多村(北村)という姓でもあり、柘植城主であったとい
うことなので、伊賀の柘植に隠棲した平宗清(家長と並ぶ服部家の祖)
の子孫ということになります。

では、何故「服部家」の娘が「明智光秀」の妻になったのか……この
理由を今後いろいろと推察していきたいと思います――
 
[44]A.AKECHIさんからのコメント(2017年12月05日 19時58分42秒 ) パスワード

 空の青海のあを様

 >この方が  「不明:定頼」  という人物かもですね。

 とは言え、「定頼」が出ている『鈴木叢書』所収の「明智系図」は、信憑性がほぼゼロのものです。それは、1番目、2番目の子供(娘)を見ただけでも明らかです。その上(?)「内治麻呂」が出ていないのですから…

 「自然」か「定頼」かはさて置いても、我が家の先祖の兄の場合は、

 >「謎」の人物として自身を歴史から「消した」のかもですね。

 ということはなさそうです。
 「我が家の先祖は内治麻呂」説を唱えている方の説では、我が家の先祖の兄は、何と天理教教祖の実家の先祖だそうなのです!?


 
 三つ柏服部様

 >何故「服部家」の娘が「明智光秀」の妻になったのか……
  この理由を今後いろいろと推察していきたいと思います

 是非お願いいたします。大いに期待しております。
 

  
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月06日 06時50分55秒 ) パスワード

AKECHIさん

>「我が家の先祖は内治麻呂」説を唱えている方の説では、
>我が家の先祖の兄は、何と天理教教祖の実家の先祖だそうなのです!?

あらあら
でも、地理的には  奈良ですから  伊賀に近いので  可能性は無きにしもあらず  ですよね。


前川さん宅は浄土宗だったかな?

ということで内治麻呂の兄の可能性として:

    長男:玄琳 - 妙心寺に入る。    臨済宗:浴室は「明智風呂」だそうです
    三男:不立 - 天龍寺に入る。    臨済宗:モロに足利尊氏系ですよね

宗教的にも  可能性は無きにしもあらず  ですよね。


前川家は何らかの理由があって江戸時代末期までに浄土宗に改宗してたのでしょうね。



明智光秀という噂のある天海僧正は  天台宗ですけど  足利将軍のご落胤説もありますね。


興味深いですね。
本当に中山みきさんに至ったのかもですね。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月06日 07時07分24秒 ) パスワード

歴史の謎をあれこれ追い求めていると時間の経つのが速いです。


今回の「直虎」だけ明智光秀の実年齢に近い容貌ですよね。


生年:享禄元年(1528年)又は天文9年(1540年)
没年:天正10年6月13日(1582年7月2日)

享年  54歳?42歳?


細川 ガラシャ
生誕:永禄6年(1563年)

細川忠興
生誕:永禄6年11月13日(1563年)

これからすると  本能寺の変は54歳の時じゃないかな  と思います。
42歳では  若い時にアチコチ歩いた その後  結婚した というハナシが
 あれ?  になるので。


いろいろ歩き回って、アチコチに知り合いを作ってたんじゃないかな?伊賀にも奈良にも。


こういう空想をしているとホント時間が矢のごとくミサイルのごとく飛んで行きます。
時々、北野刈上小僧の開発中のミサイルのごとく墜落したり。
[48]A.AKECHIさんからのコメント(2017年12月06日 22時26分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

>奈良ですから 伊賀に近いので 可能性は無きにしもあらず ですよね。

その通り です。
Wikipediaで「中山みき」を見ていただけばお分かりのように、
「伊賀に近い」だけでなく、伊賀と同じ藤堂藩の領地なのです。
Wikipediaには「津藩」と書いてありますが、伊賀の人は決して「津藩」とはいいませんよ。何故って、津は伊勢にありますが、ご存知のように藤堂藩の領地は、伊勢、伊賀、山城、大和…にまたがっているのですから。
中山みきは、その「藤堂藩城和領」の中の山辺郡三昧田(さんまいでん)村の生まれです。


>前川さん宅は浄土宗だったかな?

お察しの通り(?)我が家の菩提寺は浄土宗です。
 こちらです。→http://daityouji.com/tera.html
[49]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月07日 01時40分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明智家と服部家の関係を色々調べていたら、こんな深夜になってしま
いました。
 
 関係の発端は、ひょっとして南北朝時代からあるかも知れません――
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月07日 03時50分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


>関係の発端は、ひょっとして南北朝時代からあるかも知れません――

否定できないのですよね。

1つの家の中で南北に分かれて戦いましたから。


南朝方の土岐舩木は足利軍に敗れてますし。
この時に楠の子を連れて逃げたようですし

http://minogenji.html.xdomain.jp/page066.html


以下コピペ
全文はURLへ:

5月23日(日)山梨県の小菅村山沢地区の長老田中氏(舩木家出身)宅をRyuko、源秀、源臣の3名で訪問。
小菅村舩木集落についての話を聞く。
以下にその内容を源臣風にまとめる。

小菅村に舩木一族がいつから住したかその年代は定かではない。
正中の変(1324年)以降、元弘の乱〜(1331年、楠木正成、笠置・赤坂城)、
湊川の戦(1336年)あたりの事であろうか。

千早城の砦(出城)に舟木砦があったという。
この舟木砦を守った武将が誰かは判らぬが小菅舩木の祖であろう人物と思われる。

南朝方についた土岐舟木の一党は、敗戦の色濃い戦場から楠木の子を連れて忽然と姿を消したそうだ。
時は足利の世、光明天皇(北朝)をたて、後醍醐帝は吉野に退く。

足利軍に敗れた南朝方の土岐舩木の一党は、何処をどう巡り塩山まで来たかは判らぬが、
塩山から青梅街道(当時は富士街道か下野・上野に通じた道)を通り途中より南へ下るか、
あるいは東へ直進して大菩薩峠を超え小菅村(山梨県北都留郡)へ入るかのいずれかであったろう。

山奥とはいえ尊氏のお膝元下野の地に近く、出所・経歴をひた隠しに隠し、息を潜めて暮らし始めたという。



金山の話もあったりして
三つ柏さんにはご興味あるところと思います。


人間のすることはややこしいですから
どこでどう繋がってるのか
明智光秀は若い時にアチコチ先祖がらみの土地も歩いているでしょうね。


お上によって「逆賊」扱いされた人物を我々が素直に憎めないのは
我々のDNAがホントのところを知ってるからでしょうね。
「何か?」と言われたら困るけど「いや、そうじゃない」というのをなんとなく肌で記憶しているから。


光秀が若い時にアチコチ歩き回ったのは昔の先祖とのご縁とかよしみとかを尋ね歩いてたのかも。


我が家は母方でも光秀と関係があったので、どんな人物だったのか、弑逆の輩というヒトコトでは片づけたくないです。
[51]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月07日 15時08分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様

 今月1日の忘年会の後遺症よりやっと立ち直りまして、すこぶる快調と
なりました――

 さて、あを様ご指摘のとおり、光秀にはいろいろなものがからんでい
るようです。それはちょうど秦氏が多種多芸であったことを思い出させ
ます。

 私の頭の中の情報は、まだ熟成しておりませんが、ヌーボーもまたい
いかも知れませんので、注いでみたいと思います――

 まず、明智光秀が生まれたと言われる場所ですが(いずれも美濃)――
 @恵那市明智町
 A可児市瀬田
 B山県市美山
 C大垣市上石津町多良

 この内、@の明智町には2回行きました。
 Aの可児市は何回も通過しておりますが、実際には現地を正式に訪ね歩
いたことはありません。
 Bの美山は、2回行きました。
 Cの多良には、まだ行っておりません。

 「明智光秀」だから、「明智城」のある「明智」というのが一番わかり
やすくふさわしいのでありますが、実際は@とAがそうであります。
 但し、@を訪れた時、説明看板には「明智遠山氏」と「土岐明智氏(A)」
の関係が書かれており、それを読みますと(実際、土岐氏・明智氏の系図は、
読み解くのに並大抵ではない)――

 簡単に言いますと、土岐家の支流、即ち「斎藤・加藤・遠山系明智氏」
と「土岐明智氏」とが合体したということになります。いずれの城も落城
しています。
 Aの可児市の方は、1556年に落城。
 @の明智町の方は、1572年に落城。

 光秀が落城時に一族を連れて脱出したのは、1556年でありますので、
Aの可児市の明知城となります。

 つまり、Aの土岐明智氏は、落城したため@の明智遠山氏を頼ったとい
うことになります。
 「遠山景行」は「明智光安」であると看板には書かれておりますので、
秀の伯父さんという立場になります(光秀の父・光隆(光綱、光国)と本当の
兄弟である伯父なのか、あるいは婚姻上での伯父に当たるのかは、しかと
はわかりません)。

 いずれにしても、明智市も可児市も奥濃地区で、そこは「南朝」の勢力
の強い地域であり、それぞれも1日歩けば到着できる距離にあります
 例えば――
 「明智町」から「可児市」まで約30q。
 「明智町」から「浪合村」まで約35q。
 「明智町」から「蛭川村」まで約35q。

 この「蛭川村」には、伊賀の柘植氏(服部氏)一族が南朝戦士として土着
しているのです。
 そして、土岐明智氏の祖は、看板によりますと、「土岐頼兼」となって
います。他の系図で調べますと、「頼兼」は「光秀」から数えて12代前
の「頼基」の兄となっております。この系図が正しいのか、看板の系図が
正しいのか……いずれにしても、祖先に「頼兼」がいたことは、間違いあ
りません。

 その「頼兼」でありますが、正に「後醍醐天皇」に仕え、「正中の変」
でなくなった南朝中枢臣だったのであります。

 柘植氏も平宗清を祖として後醍醐天皇臣下服部宗純に至りますが、楠木
正成につながる南朝中枢臣でありました。

 光秀には南朝のナの字の表現も見つかりませんが、光秀は南朝臣のDNA
をしっかりと持っていた――それが、服部氏とも家康とも結ばれた要因の
一つではなかったかと思うのですが、いかがでしょぅか?

 さらに、いろいろな状況証拠について言及して行きたいと思います――
 
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月08日 04時45分37秒 ) パスワード

三つ柏さん

>光秀は南朝臣のDNAをしっかりと持っていた――それが、服部氏とも家康とも結ばれた要因の一つではなかったかと思うのですが、
>いかがでしょぅか?

でしょうね。
実は裏で南朝がらみの仲良しグループだったかも。


遠山と明智の系図の難しさの件は

ムカシは「家」を守るのが武門のツトメでしたから
とにかく  交錯  しまくっていると思います。


取り敢えず  血  で繋がりがあれば、
ということで
アッチに婿に行き、コッチに婿に入り、

本姓は源氏で俗姓は土地の名というか屋号ですから  ヨソ者には全く別の家のハナシのようですけど
当人達にはちゃんと繋がっていたのだと思います。


系図ロンダリングで
もっと濃い関係にしたいから
父の代や祖父の代にまで遡って系図を操作したり。


こういうのって、現代の我々にはワケ分からないけど
当時の人には源氏グループということでフツーに行われていたのかも。

ひょっとすると家康と光秀だって系図上でガッチリ組んでいたかも。
だけど
このハナシは正式には記録出来ないでしょ。
光秀が勝手に信長を暗殺した
としたいから。
慌てて明智=土岐との関係を消したという改竄も行われたかも。

       こういう空想って楽しいですね。


秀吉だってどこかで光秀と繋がってたかも知れないけど
弑逆の罪を光秀1人に被せたのかも知れないし。


       秀吉が実母の出自を貴族の何とかの血が流れていると言い出したことで
       有り得る
       と思いますしね。

               なんせ実母さんの実家のある所は平家の不動産の1つでしたから。


       光秀がジャマになれば赤の他人のフリをしますから。



京都の西陣の織物の服部家のことも
今となると非常にプライバシーのことですが  ナルホド!そういうことだったのか!  というのがあるし。
       残念ながらネットには書けないことですが。


こういう事ってたくさんあるんでしょう。
実は!実は!実は!
ってこと。


あの「自然じねん」はどういうことになるんでしょうね。
坂本で殺されるんでしょうか?
生き延びるのでしょうか?


「直虎」のストーリーは視点がものすごく斬新で驚かされてばかりいます。
明智と徳川は  新田系源氏で繋がってて  実はものすごく密接だったかもですね。
[53]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月08日 15時16分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明智光秀は「逆賊」でなく、真の「ヒーロー」であると手をたたいた人は
多かったのではないでしょぅか。
 いくら戦国時代とはいえ、信長の殺戮方法が人間としてどうかということ
は、みんな感じていたことと思います……?

 でも、歴史の本当の真実は、直接その時代にワープしてみないとわからな
いものだと思います……いいことも、悪いことも、誇張されたり、削除され
たり、創作されたりしていて……。

 さて、「明智家と服部家のつながり探し」、次は歴史小説の中で拾ってみ
たいと思います。
 歴史小説の書き方は、「史実部分」を骨格として、「想像」で肉付けをし
て行く。この骨格部分は、信憑性・可能性が高くなければいけないのが鉄則
だと思います。
 そういった観点から見ますと、小説であっても全くのでたらめということ
はないと思います。少なくとも、色々調べた上で、可能性のあることを書い
ていると推察いたします。

 『明智左馬助』(羽生道英著 PHP文庫)より――

@「伊賀の服部氏は、明智の外戚なるゆえ、乙寿丸さまをそこに預けたいと
 存ずる。義母上(ははうえ 熙子)、いかがでありましょうか」(左馬之助)

A「後世の話になるが、乙寿丸は、しばらく服部半蔵正成に育てられたのち、
 近江の北村氏の養子になったという説がある。もしかすると俳人北村季吟
 の父であったかもしれない。」

 @について、この小説は具体的にどうのこうのとの説明をしていない。い
きなりこの表現である。服部保章の娘が光秀の妻であったことは、当時から
秘密ではなく、公開されていた事実であったのでしょぅか?

 Aについては、服部半蔵と明智光秀は、ずっと前より深い関係が創成され
ていたということになります。近江の「北村家」が「北村季吟」の生まれた
家であったとすると、後に「松尾芭蕉」は「北村季吟」の弟子になっており
ますので、随分うまく出来上がった関係であるように思われます。芭蕉は、
平宗清の3人の子―柘植、福地、北村氏の福地系統。北村とは同族関係とな
ります。

 いずれにしましても、「北村保章」は伊賀の北東部の柘植と関係している
ようであります。つまり「平宗清(家長と並ぶ服部家の祖)」の三男系統の子
孫の北村家と関係しているということです。

 一方、この保章は「服部平大夫正尚」とは従兄弟になるという系図もあり
ます。それはつまり、保章の父親、あるいは正尚の父親は、服部半蔵正成と
は従兄弟同士ということになります。

 問題は、なぜ「明智家」に「服部家」から嫁に行ったかであります。柳生
宗矩と松下之綱の娘・おりんの関係を思い出します。おりんは、嶋左近家に
行儀見習いに行っていた。そこを、宗矩に見初められたということですが、
光秀の場合はどういうシチュエーションだったのでしょぅか?

 この問題の探求は、さらに続きます――

[54]A.AKECHIさんからのコメント(2017年12月08日 22時42分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

>「直虎」のストーリーは視点がものすごく斬新で驚かされてばかりいます。

実は、その「『直虎』のストーリー」は、2か月も前にNHKから発表されているのです。
「本能寺の変」も、大河ドラマの歴史上初めて「明智軍記」を離れた「ものすごく斬新」な完全オリジナルストーリーで描かれますので、どうぞお楽しみに!

>あの「自然じねん」はどういうことになるんでしょうね。
 坂本で殺されるんでしょうか?

「どういうこと」かも発表されていますが、
ここでそれを明かしてしまうと、TVで観る楽しみが半減してしまいますので、ご遠慮しておきます。
その代わり(?)解くのがかなり難しいヒントをお示ししましょう。
 ヒントは、こちらです。→http://www.ryotanji.com/history/jyusyoku.html


私たち「明智」の子孫にとって、「本能寺の変」を「史実」に近いストーリーで描いてくれただけでも大感謝なのですが、「直虎」の最終回で家康が直虎に語り掛ける台詞で「明智の子が……」と言ってくれるのを聞けることで「かたじけなさに 涙こぼるる」に違いありません。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月09日 15時51分04秒 ) パスワード

A.AKECHIさん


http://www.ryotanji.com/history/jyusyoku.html
分からなかったです
自然じねんは龍潭寺に預けられて後に住職になったのでしょうか?
浜松でなくても彦根の住職になった可能性もあるでしょうし
なんせ光秀の坂本城に近いから彦根に行きたかったでしょうし。


ますます「本能寺の変」が謎になって来ました。

一体首謀者は誰だったのか?
実行者が光秀だったのは確かなようですが。


信長の暗殺は容疑者が多過ぎて首謀者が絞れません。

朝廷関係者でも十分アヤシイし。
堺の町衆だってアヤシイし。
滅ぼされた側の生き残りが容疑者というのは多過ぎて絞れないし。


実は伊賀あたりのニンジャが明智光秀の名を騙ったかも知れないし。
伊賀忍者の陰謀を知って慌てて本能寺に駆け付けた光秀が遅すぎて信長を助けられず犯人ということになかったのかも知れないし。


秀吉だったら充分にアリバイ工作して信長を殺したということも考えられるし。



日本は長く自白主義の国だったから、犯人は光秀で、という形で歴史が収まって来たのかも知れないし。
日本史上最大の冤罪事件だったかも。



もう2話で終わってしまうのですねぇ。
近い将来たぶん直政の大河ドラマも作られそうですね。
直政役は菅田将暉で。
[56]A.AKECHIさんからのコメント(2017年12月09日 19時15分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様
三つ柏服部様

>分からなかったです

いえいえ、さすがです。
正解は、「直虎」最終回でお確かめを。



さてその前に、いよいよ明日。
「直虎」は、「本能寺の変」です。

光秀が「敵は本能寺にあり」と叫ぶところは(これまでの大河ドラマと同じく)「明智軍記」のまま(=史実ではありません。)ですが、ストーリー自体は「ものすごく斬新」なオリジナルです。 お楽しみに!


 (先日も書きましたように、残念ながら)「神君伊賀越え」での服部半蔵をはじめ「服部」の皆様の活躍は取り上げられないようです。
 その代わり(?)、ここに「明智一族 三宅家の史料」から「伊賀越え」について書かれた箇所をご紹介いたしましょう。
「高橋閈吾」という我が家と同じく(?)内治麻呂の子孫と称する方の「喜多村家 家系付録」という文書の中から、です。ここには、出羽守のほか「服部兵部」という方の活躍(?)も書かれています。


 権現様への出羽守御忠節は、信長公御滅亡の刻、泉州より伊賀路を経られ三河へ御披きの節、一揆起こり、相支え候砌御援合申し上げ、自身も相働き、家老にて五千石遣わし置き候服部兵部と申す者、伊賀路御退口の御前にて討ち死に仕り候につき、筒井順慶殿より出羽守への書翰にも兵部討ち死、さてさて惜しき事と載せられ候段、 (略)
 権現様(略)白子より御自筆をもって今度の厚恩御忘れ成されまじきと御誓言を加えられ候御書に、(略)

 そして、家康の「御書」には、こう書かれています。

 先年伊賀越え仕り候節、一揆起こり道路取り塞ぎ、軍兵差し置き、はなはだもって敵と成り、難儀により、御介抱の儀貴様頼み入り候ところ、急ぎ速やかに御人数召し連れられ御出馬、道中所々において御防戦遂げられ、なかんずく、伊勢・堺・鹿伏兎山越えにて大勢支え候ところ、合戦に及び、首数多く討ち捕え、御家来あまた討ち死にせしめ、あまつさえ、御自身御手を砕きつくされ、粉骨敵を追い崩し、比類なき御働き故、大事を遁れ帰国せしめ候事、偏に御深志筆紙に懸け難く候、 
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月10日 02時12分59秒 ) パスワード

A.AKECHIさん


>服部兵部

服部兵部の討ち死にの件は全く知らなかったです。
ありがとうございました。


つくづく思うのですが
人件費が安かったということもあったのかも知れないのですが
当時はそこら中にヒトを配していたのだろうな
と。

当然ヒトをたくさん配していないと連絡に差し支えます。
有事の際には特に充分にヒトがいないと。


家康は安土城見物に大勢引き連れて行ったのだなと。
思ってたより多くの人数だったのだなと。

    テレビで見る分には  エキストラの数  が制限されますから
    それを見て勝手に数を考えていました。


    従う方も一族のオトコ総出だったのでしょうね。
[58]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月10日 02時42分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様

 深夜をまわってしまいました。昨日は、一色まで「ひつまぶし」を食べ
に行ってきました。その後、6qのウォーキングをして、一杯飲んで、ひ
と眠りして、それから明智光秀の関係の考察に入りました。

 「おんな城主 直虎」での「本能寺の変」は、本日起こるということで、
心が落ち着きません。どのような筋書きで決着するのかという点、今まで
の諸説のモヤモヤが一度に吹き飛んでしまうような大胆な結論は出さない
だろう、つまり謎は謎として残すのだろうと推察するのですが……。

 ドラマでは、前回まででは、光秀の子が浜松に来てかくまわれる。氏真
が光秀と密談をした。それは、家康謀殺の企てが信長にあるということ。
そして、光秀はそれを信長謀殺のチャンスに変えようと……。
 家康は、そこで信長の誘いにのったふりをして安土へ行く。
 そしてその後、詳細的にはどうなるのか……興味深々のところでありま
す。

 明智光秀の子供についても色々調べてみましたが、もちろん私にそれが
整然とわかるはずはないのですが、熙子が亡くなるのは1576年11月
ということらしいので、本能寺の変の6年前。それから継室を娶り、子供
ができたとして、正味5年の間に何人の子供が生めるかというようなこと
まで計算し、「明智系図」に記された12人ないしは13人の子供達につ
いて分析をしておりました。

 その中で、継室の子は最後の内治丸についてはそうであろう。「自然」
はドラマでは5歳くらいだから、可能性はあるだろうと思いました。ドラ
マでは井伊家にかくまわれますが、服部半蔵もその当時は浜松にいました
ので、半蔵家にかくまわれてたとしても、筋は通ると思いました。
 ま、これはドラマのことですので、何とも言えないのですが。
 
 AKECHI様からの貴重な情報、ありがとうございます。「服部兵部」
という柘植城(?)の家老について、今後探索してみます。
 服部中保次は、神君伊賀越えにも名を連ねている服部半蔵と並ぶ上忍で
すが、甲賀や名張と縁があります。
 この件については、ひと眠りしてからの朝、記すことにいたします――
[59]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月11日 10時21分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明智憲三郎氏の『本能寺の変 427年目の真実』を読みますと、ほぼ
これが「おんな城主 直虎」の本能寺の変の筋書となっているような気が
いたします――但し、直虎関係の動きは別にして。
 @信長には、家康謀殺の意図があったかどうか?……信長の甲斐への出撃
  は将来の家康領侵略のための視察であった。
 A家康は、事前にそれを知っていたのかどうか?……光秀より聞かされ、
  知っていた。むしろ信長謀殺への方向決定をした。
 B家康の無防備な上洛は、どういう計算だったのか?……明智光秀の策
  を信じた。
この辺のことは、少なくとも説明されています。

 憲三郎氏は、理科系的な論理証明方法で、理路整然と各種の謎解きをさ
れていますが、中には論理で割り切れないものもあり、それはさらに探究
されて行かれるのでしょう。シリーズ3作までありますので、そちらも読
まなくてはと思います。
 例えば、穴山梅雪の伊賀越えでの扱いは、もう一つわからない――
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月11日 11時11分01秒 ) パスワード

三つ柏さん


たった今、見終わったところです。

なんだか釈然としません。


だいたい本日の回の台詞に「うむ」というのが多くはなかったですか?
直虎もそうですが
他の人もわざとらしい「うむ」と言ってて
なんかみんな変な言い方でした。

まるで本日の回をクランクイン直後に撮影でもしたかのような下手糞な台詞まわし。
柴咲コウって大根だったの?
でした。


設定もわざとらしかったですよね。
あれは本多正信が野武士や土民に穴山梅雪を殺させたということだった?
消化不良の回でした。
特に雲龍丸とのからみ。
[61]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月11日 15時56分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 史実とドラマの関係、つまりどこまでが本当で、どこが創作なのかとい
う問題――骨格と肉付けのバランスだと思いますが、雲龍丸は全くの創作
部分であると思いますし、もう過去の人。

 直虎ももう過去の人になりつつあり、代って直虎が主人公と思いきや、
家康が主人公化、さらに明智光秀が主人公化しそうに思いきや、三河への
逃避劇のドタバタと、たくさんの視点と事項がダイジェストのように描か
れ、中途半端に終わっているせいか、何か違和感がありました。

 さてさて、最後のクライマックスはどこにもって行くのでありましょう
か? 

 でも、「おんな城主 直虎」、新たな歴史観の扉を開けた名作(迷作?の
部分もあり)でありましたことは、確かであります!
[62]A.AKECHIさんからのコメント(2017年12月11日 19時06分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様
三つ柏服部様

「直虎」の「本能寺の変」は、「敦盛」も何もなく、「神君伊賀越え」ともどもアッサリカットされていましたね。

その代わり(?)の第二弾として、ここに「明智一族 三宅家の史料」から内治麻呂の伊賀越え(?)のところをご紹介いたしましょう。
「服部邪鬼破」という服部さんが登場されますよ。


光秀の後妻伊賀国喜多村出羽守娘腹に出生仕り、幼名を内治と申し候、信長公御滅亡の節、(略) 内治当歳にて、乳母に懐居られ候を、(略) 光秀の内室ともに隠し置き城外に出し、山越えにて伊賀へ落ち行き候ところ、途中にて服部邪鬼破と申す侍に行き逢い、出羽守館に送り届け候、
[63]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月11日 20時34分44秒 ) パスワード

A.AKECHI様

 またまた貴重な情報ありがとうございます。半年前位に柘植へ行って来
ました。出羽守館というのは柘植城ということだと思います。正確には、
福地城であります。今は福地城跡となっており、芭蕉公園が併設されて
おりました(芭蕉の家系は松尾の前は福地氏)。

 柘植は油日にも近く、甲賀と言ってもいいくらいだと思いました。服部
氏も、天正伊賀の乱で亡くなったり、脱出したりした人が多かったと思い
ます。甲賀の新治というところに服部城がありますが、甲賀四十三家の中
に服部藤太夫という人の名前が見えます。伊賀より甲賀の方が、服部氏は
多くなってしまったようです。

 服部氏と明智氏、つまり明智氏と伊賀・甲賀の関係……その「つなぎ」
は、足利義輝と足利義昭だと思います。もちろんその上の足利義晴の関係
もあると思います。

 服部氏と明智氏のベクトルが一致した。そのベクトルとは何だったので
しょう。その謎をぜひ解明してみたい――というのが私の願望であります。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月12日 11時13分27秒 ) パスワード

A.AKECHIさん
三つ柏さん


>服部邪鬼破

どう読むのでしょうね?
じゃくは?じゃきは?

邪鬼破=じゃくわり?
鬼破=おにわり?
邪鬼破=よこしまなおにわり?


この人は名張の服部家の一族だったのでしょうね。
光秀の後室の兄か弟あたり?
[65]三つ柏服部さんからのコメント(2017年12月12日 22時07分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 色々調べておりますが、光秀と伊賀との関係の濃さをまだつかめており
ません。実際は、信長暗殺の実行部隊として同じベクトルであったと思い
ます。光秀としても、伊賀忍を取り込むことは戦略的に大事であることは
わかっていたと思います。ただ、具体的な動きとしてそれらを捉えられな
いというのが今の私のジレンマがあります。ただ、服部保章がどんな立ち
位置にあったのかがわかれば、推理はしやすくなります。つまり、信長公
認の人であったのか、全くの影の人であったのか――

 保章とは直接の関係はないかも知れませんが、服部要介(中保次)につい
て、徳永真一郎氏はその歴史小説『明智光秀』の中で、こう描いておりま
す。
 それは本能寺の変より16年前のことでありますが、足利義秋(義昭)を
野洲の矢島御所より、若狭の武田氏の元に船で逃がすという局面――
 「義秋、藤孝、藤長それに三淵藤英、飯河信堅、智光院智頼慶、服部
要介の7人を乗せた船は、木の浜の湖岸から、暗夜の湖上をすべり出した。
 藤孝の声に答えて頭を下げたのは、和田惟政であった。船上の一人、
服部要介は、彼の部下で忍びの術を心得た者であった。」

 また、若狭にて武田義統に支援を断られた局面――
 「藤孝は、武田義統に見離されて、がっかりする義秋をはげまして、朝
倉義景あてに世話になりたいとの御内書を書かせて、一乗谷へ使者を走ら
せた。
 使者に立ったのは忍者服部要介、義秋の御内書と藤孝の密書を受け取っ
たのは、安養寺の門前で待機していた明智光秀であった。」

 服部要介(中保次)は、既に足利義輝・信長に仕え、1560年の桶狭間
の戦いでは、今川義元を討ち取るのに貢献している。1565年に義輝が
暗殺された後は、しばらく義秋を支援する。つまりは、和田惟政の下に仕
えた結果であったのでしょぅ。明智光秀とは、とりあえず仲間内の立場で
はあったと推察されます。
 その後しばらくして、服部中保次は、徳川家康にヘッドハンティング
されるのであります――
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月13日 02時59分02秒 ) パスワード

三つ柏さん

和田惟政:ビックリですよ!甲賀の有力者でした!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E6%83%9F%E6%94%BF


和田 惟政(わだ これまさ)
戦国時代の武将。室町幕府末期の幕臣。父は和田宗立(惟助)。


和田氏は近江国甲賀郡和田村(現在の滋賀県甲賀市甲賀町和田)の有力豪族で甲賀武士53家のうち特に有力な21家[2]に数えられ、

特に山南七家[3]とも称される家柄で油日神社と深く関係していた。

                                    ヲイヲイ、ですね


初めは六角氏の被官であったが、惟政の父の代に室町幕府13代将軍・足利義輝の幕臣として仕える。

天文22年(1553年)に三好長慶に追われた足利義輝が六角氏を頼って近江に逃れており、
その時期に和田氏と足利将軍家の関係が生じて幕府の奉公衆化したと推定されている[4]。


永禄8年(1565年)、義輝が家臣の三好三人衆らによって暗殺される(永禄の変)。


当時、和田家の家伝では、当時の惟政は義輝の不興を買って和田で謹慎を命じられていたため事件に巻き込まれずに済んだという。


事件を知った惟政は興福寺に軟禁されていた義輝の弟・覚慶(足利義昭)を細川藤孝、三淵藤英、一色藤長、仁木義政、米田求政らと共に一乗院より救い出して甲賀の自邸に匿った。


仁木義政は伊賀を、和田惟政は甲賀を拠点としていることから、義昭を奈良から伊賀を経由して甲賀に脱出させ、近江の六角氏を説得して上洛する計画であったとみられている。


実際、惟政は六角義賢を味方につけ、更に義賢と共に織田信長・浅井長政・斎藤龍興を自陣営に引き込もうとしており、
実際に義昭が惟政に対して自分の使者として信長と会うように命じた永禄9年(推定)6月11日付の自筆書状が残されている[4]。

ところが、六角氏・斎藤氏の離反が明らかになったことで近江にいられなくなった義昭は放浪することになり、惟政も義昭に付き従っている。


尾張国の織田信長の援助を得て義昭が15代将軍に就任すると、信長によって摂津国芥川山城、のちに高槻城を与えられ、足利義昭からは池田勝正、伊丹親興と共に摂津守護の1人として任命され「摂津三守護」と称された(『足利季世記』)。


以後、足利幕臣として京都周辺の外交・政治に大きく関与しながら、織田氏家臣としても信長の政治や合戦に関わるという義昭と信長の橋渡し的役割を務めている。


特に永禄12年(1569年)10月には、信長に援軍を要請した播磨国の赤松氏の援軍として、備前国の浦上氏攻めに参加している。


その後、惟政は所用で美濃国にいる信長の許へ向かう途中、信長から蟄居を命じられた報を受け取る。

ルイス・フロイスによれば他に「引見の不許可」「惟政が近江に持っていた城の破壊」「収入のうち2万クルザードの没収」という厳しい処分だった。

フロイスはこれを朝山日乗が信長に讒言したためと記しているが、同時期に信長と足利義昭の関係が悪化している事が大きな原因と推測されている(惟政は幕臣)。
惟政はこれに剃髪して抗議した。


元亀元年(1570年)、惟政は京で越前攻めに向かおうとしている信長に謁見すると、信長はその地位を回復した。


フロイスによれば3万クルザードの俸禄を加増されるなど、非常に厚遇されたという。
6月28日の姉川の戦いには織田氏方として参加したようである[5]。


11月、多方面に敵を抱える形となった信長は将軍・義昭の権威を利用して六角氏と和睦をしているが、この際に、三雲成持・三雲定持宛てに惟政が宛てた書状(福田寺文書)があり、かつて六角氏の影響下で同じ甲賀の土豪であった三雲氏との繋がりから、この六角氏との和睦にも一役買っていたものらしい。


元亀2年(1571年)、三好長逸と手を結んだ池田知正を討つため伊丹氏や茨木氏と軍勢を共にするが、摂津国白井河原の戦い(茨木川畔)で池田氏家臣の荒木村重に敗れ戦死。

多くの貫通銃創・刀傷を受けた上、首を取ろうとした相手にも傷を負わせて死んだという、壮絶な最期であった[6]。


惟政の没後まもなく、子・惟長は高山友照、右近父子により追放され、まもなく死亡し[7]、和田氏は没落することになる。


惟政はキリスト教を自領内において手厚く保護したことが、『フロイス日本史』に詳細に書かれている。フロイスが織田信長と会見するときに仲介役を務めたほか、教会に兵を宿泊させないよう他の武士たちに働きかけたり、内裏が伴天連追放の綸旨を出すとそれを撤回させようとしたり、宣教師をむりやりにでも自分の上座に座らせたりと、大変な熱意だったようである。


畿内におけるキリスト教の布教にも積極的に協力した。

しかし、惟政自身は洗礼の儀式を受ける前に戦死したために、その死をフロイスは大変嘆いた。
なお、キリスト教と出会う前は禅宗に属していたといわれる。


墓所は大阪府高槻市の伊勢寺。
享保年間(1716 - 36年)に高槻城を改修したときに墓石が発見され、移されたといわれている。


思わぬ所に飛びました!
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月13日 03時03分20秒 ) パスワード

和田氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/wada_k.html



 清和源氏源満政の二男忠隆の孫惟家は近江国高島郡善積に拠り、善積氏を称した。

惟家の子忠頼が近江和田氏の祖になるという。
太郎左衛門氏家のとき近江国甲賀郡和田村に住し和田氏を称した。


 惟助は天文十五年、高槻城の荒木山城守との戦いで戦死。
その子が惟政で、将軍足利義輝に仕えると伝えるが、中央の記録では義昭以後のことしか判明しない。


 永禄八年、三好三人衆・松永久秀らは義輝を殺害し、義輝の弟覚慶も奈良に幽閉されたが、細川藤孝ら幕府近習の手引きで脱出、甲賀の和田惟政の館へ逃れた。

覚慶は還俗して義昭と名乗り、このとき惟政は義昭の直臣となった。
その後の義昭の流寓に従い、義昭が信長の尽力で入京を果たしたとき、信長からその忠節を認められて、摂津半国を与えられ、芥川城主となった。


 惟政はキリスト教に帰依し、永禄八年入京した宣教師フロイスを庇護し、キリスト教の近畿普及に重要な役割を果たした。
また同年三好三人衆が反撃してきたときには、明智光秀らとこれを撃退している。



 天正元年、義昭が信長と対立して京都に反旗を翻すや、惟政は義昭に属して、信長に抗した。

信長は義昭を降伏させた返す刀で、荒木村重をして惟政を攻撃させ、摂津馬塚・糠塚等で惟政と村重は交戦、結局、惟政は敗れて処刑された。

惟政の弟定利は信長に仕え、同定教は本能寺の変のとき、家康の甲賀越えを助け、のち召し抱えられている。


 惟政の子惟長は父敗死のとき伏見に逃げ、のち秀吉に仕えた。
秀吉の紀州雑賀攻めに従い、敵城水攻めの任を負っていたが、堤が破れて大失敗し、秀吉の下から離れた。

関ヶ原の役後になって、はじめて家康にまみえて、旧領和田を与えられて徳川旗本となった。
………


●歴史の町さんに紹介された和田惟政

 惟政は和田の人で、応和年間(961〜963)甲賀郡の郡司であった源満政17世の孫という。甲賀21家の一つで、他の甲賀武士同様佐々木六角氏に仕え、その縁で足利義輝の供衆となっていたが、永禄8年(1565)5月19日、惟政が和田城に帰っていた時に松永久秀が二条城に義輝を襲って殺し、更にその弟覚慶にもその魔手が及ぼうとした。覚慶は興福寺一乗院の住職をしていたが、松永勢に囲まれているところを細川藤孝らに助け出され春日山を越えて上柘植から和田惟政の屋敷にかくまわれた。

 その後惟政は六角義賢の助けを得て覚慶を矢島(現守山市)の少林寺境内に建てた館に移した。覚慶はここで名前を義秋と変え還俗したが、義賢の子の義弼が三好方と内通したため危険を避けるため妹婿で若狭の守護大名である武田義統を頼り、更に越前の朝倉義景の庇護を受けた。義秋は義景に上洛を促すがなかなか応じようとしない。そのうちに義栄が将軍に宣下されて義秋の落胆と焦燥は募るばかりであった。名も秋の字は縁起が悪いと「昭」にかえ義昭と名乗った。

 丁度その頃信長は岐阜の統一に成功したので、側近の藤孝は、その頃義昭に仕えていた明智光秀に密書を持たせて信長の所にやり上洛を促した。信長は渡りに船とばかりに直ちに応諾し、使者を義昭に出してまず岐阜に来るように勧めたが、その使者のなかに和田惟政も入っており、信長とのつながりがこの頃から始まっていることが分かる。

 和田氏はそれから信長にしたがい畿内の掃討戦に加わり摂津の芥川城主、更に高槻城主ともなり京都所司代にもなった。しかし、元亀2年摂津の池田氏と荒木村重の連合軍と白井河原で戦い戦死する。享年37歳であった。  



 近江国甲賀郡和田村に住した和田氏には、佐々木六角氏から分かれたとする説があり、 その子孫がいまに近江国の旧家として続いているのである。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月13日 03時06分51秒 ) パスワード

三つ柏さん


伊賀と明智光秀の関係は甲賀の和田氏が仲介になってたのかもですね。
その前に忘れてならないのが   室町幕府であり足利将軍家であり   もともと知らない仲ではなかった、ということですね。


ならば光秀の後室が名張の服部氏というのも有り得たのですね。


一応これで  友達の輪  は見つかりましたね。
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月13日 03時19分44秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101615.html
スレッド102をご用意致しました。
キリの良いところでどうぞ。
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