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 投稿番号:101612 投稿日:2017年11月08日 05時00分36秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを
長上郡の服部氏族C(課題確認43):100到達
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101610_63.html
長上郡の服部氏族XC\(課題確認42)
スレッド99の続きです。

      つまり  100  到達です。😃


      自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
      最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


またもや仕切り直しの上、出直しです。
現場百回。
刑事になったつもりで聞き込み張り込み洗い直しです。


大久保の地代官、馬淵氏の末裔のお話:

 「私の住宅のある屋敷に、石高三千五十石の旗本服部仲様の陣屋がありまして、大久保・山崎・古人見・伊佐地と神ケ谷の一部、市野村・上石田・下石田を所領して居られました。

 服部家の祖先は、楠氏の一族にして足利尊氏征討の折、後醍醐天皇より給わりたる綸旨錦旗節刀だの菊水の旗印其の他徳川氏に至る迄歴戦の功績によりかち得たる種々高貴の品を家宝として伝えて居りました。

 湊川に正成卿の戦死以来、南風競わず足利氏の天下となるや楠公一族は婦女子に至るまで探求絶滅を企てしかば、服部家の祖先も一時韜晦のため、姓氏を変じて郷士となり転々、時期の到るを待ち続けるが、足利氏滅び、織田氏興るに及んで、客将として弐萬余石を領せしと云う。

 後、眞十郎殿に至り、徳川氏に与し、伝来の長槍を馬上に横へ毎戦奮戟突戦驍名隠れなく、身には幾十の創痕を残したる功名談を語り伝え、服部家秘蔵の絵巻物の拝観を得たる。

 旧臣である私の父より、毎度其の殿様が容貌魁偉の武者ぶりであったことを眼前に彷彿すると話されたことであります。

 服部家の中世に大和守従五位下に叙せられた英邁の方は、幕政に参与し功労が非常に多く、殊に武士道の振興に力を尽くされしと云う。

 江戸城西丸御留守居役御使番と云う役目、江戸の消防を主宰されたりした殿様方がある服部家には、数代伊賀守になられた方があります。

 維新前、東京の上屋敷が火災に罹り、宝物其の他烏有に帰し、史実の徴すべき物少なく詳細記述が出来ませんのは残念であります。

 不幸にも服部家に嗣なく近親もなく、大正三年八月未亡夫人逝去後、断絶し、由緒深き服部家の紋所のみ大久保尋常高等小学校の校紋に残ることとなりました。

 諸君は、諸君の先祖が長く服部家の治下の農民であって、色々の恩沢を蒙った関係からしても、校紋を仰ぐ度に、敬虔の道念を惹き起こし、旧領主の志を継承し万事いやしくもせざるの習慣を造るの覚悟があって然るべしと考えます。

 皆さん、東京へ行かれたならば、服部家の旧上屋敷であった牛込区市ケ谷加賀町壱丁目弐丁目だの、服部家の建設にかかる四ツ谷の湖雲寺などを訪れて、服部家の昔を忍び給ふも徒爾ならず事と思われます。」   

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月08日 06時18分26秒 ) パスワード

天の青海のあを様

 新しいスレッドありがとうございます。100回ですか、自分でもそこ
まだ行っているとは思っていませんでした……せいぜい60〜70回位か
なあと。
 これは、あを様の根気強いご指導のおかげと、心より感謝申し上げます。

 「現場100回」という捜査の基本精神に立ち返り、新たな気持ちで、
歴史の探求捜査に立ち向いたいと思います。
 引き続き、よろしくご教示の程、お願いいたします――
[2]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月09日 00時39分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 前レスよりの続き――

 @海部(あま)氏と、A海部(かいふ)氏……Aが三木氏の一族ということ
は、即ちAは忌部氏であるということになりますね。
 忌部氏は物部氏であり、物部氏は海部氏でありますので、@とAはゆる
やなか同類ということになりますか……?

 海部氏と尾張氏と物部氏――日本の源流を造った人々ではなかったかと
思っております。その上に、大和朝廷が、そしてその後の歴史があるのか
と思います。

 ダンプ山古墳、今ならダンプとユンボでしょぅけれど、昔は全て人力で
あった。その技術と人力と人心の統御の巧みさは、正に神業としか言いよ
うがありません。
 本当に、その時代に行って見てみたいものであります!
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月09日 09時12分54秒 ) パスワード

三つ柏さん

本当に現代から考えるからワケ分からないのですが

   @海部(あま)氏と、A海部(かいふ)氏……Aが三木氏の一族ということは、即ちAは忌部氏であるということになりますね。
   忌部氏は物部氏であり、物部氏は海部氏でありますので、@とAはゆるやかな同類ということになりますか……?

元々古代からの引っ張り合いがあったのでしょうね。

驚くことの連続でしたから書いておきます:



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E6%B0%8F#.E9.98.BF.E6.B3.A2.E4.B8.89.E6.9C.A8.E6.B0.8F

阿波三木氏
阿波忌部氏の後裔氏族。阿波国麻植郡三ツ木村に阿波三木氏が江戸時代に建築した三木家住宅 (美馬市)が残る。

                        麻績に似てますね

讃岐三木氏
神櫛王を祖とする讃岐国造の後裔氏族。室町時代、讃岐国三木郡に勢力を有していた。

播磨三木氏・・・・・・・・・・・・こちらは歴史的に有名ですね
室町時代、播磨国英賀に勢力を有し英賀城主であった。三木通秋などがいる。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E6%A4%8D%E6%B0%8F

麻植氏(おえし)

日本の武家の姓のひとつ。徳島県に特に多い。

忌部氏流 - 阿波国麻殖郡より起こる。
阿波の忌部氏の末裔の忌部神社大宮司家麻殖氏の事をいい、「麻植」とも記される。

共に読み方は「おえ」と読む。

一族には、麻殖持光がいる。→麻殖氏
清和源氏柿原氏流 - 阿波国阿波郡柿原村より起こる。一族には上楼の役にて活躍した柿原義長がいる。 → 麻植氏 (柿原氏)


桓武平氏流 - 1186年平康頼が阿波国麻殖保の保司として麻植郡に領地を拝領したことに始まるとする。 → 麻植氏 (平氏)

                       平康頼
                       安元3年(1177年)6月には、鹿ケ谷の山荘で藤原成親・西光・俊寛らの平家打倒の密議に参加。
                       しかし、多田行綱の密告により策謀が漏れて康頼も捕縛され、
                       俊寛・藤原成経と共に薩摩国鬼界ヶ島へ流された。(鹿ケ谷の陰謀)



清和源氏足利氏流 - 以下で解説する。

事蹟[編集]

足利泰氏の子・足利氏継が尾張国山田に住したといい、氏継の子の兼氏が、小笠原長久の娘と婚姻。孫の重氏が、尾張三郎と称し、小笠原氏と共に阿波国に移住し、阿波国大西城の城主となったという。さらに、重氏の子の俊氏は山田と改姓し、細川祐氏の娘と婚姻。1340年に阿波国美馬郡貞光に入部した。

一説には、初めの部分は明確ではないとしながら、清和天皇の曾孫・源満政の流れを汲む尾張の山田氏の出であるといい、小笠原氏と姻戚関係を結び、さらに細川氏とも縁組して、細川頼春が阿波国守護を得た際、随従して阿波国美馬郡貞光に入部した山田俊氏に始まるとしている(『系図研究の基礎知識−家系にみる日本の歴史−』より)。

山田俊氏の子山田重時は、美馬九郎右衛門と称し、民部少輔に任官され、細川頼之に仕えた。のちに麻殖郡飯尾村に移り、忌部神社の大宮司の麻殖氏の女婿となり、麻植重時と称したという。

累代、養父家の麻殖氏とともに阿波細川氏に仕え、麻植親氏から麻植重俊の代までほぼ志摩守を任官され、貞光・飯尾・森山村大字森藤など所領したが、阿波小笠原氏(三好氏)と婚姻関係が深くなり、また、戦国乱世の下克上によって三好氏が強勢となり、重時から8代のちの重俊は、三好氏の親族にして重臣の十河存保に仕えた。

しかし、重俊は、1579年に脇坂の戦いで討たれ、次代麻植重長(重俊の弟)も三好長治に属して中富川の戦いで討死し、さらに次代麻植成義(重長の子)は、十河存保の小姓をしていたが、後に主君・存保とは別に豊臣秀吉に臣従し、豊後戸次川の戦いで討ち死にした。3代に渡って戦で亡くなっている事からこの頃は大将格ではなく、中堅格の武家だった事が分かる。

また、成義の弟・麻植成経は、兄同様豊臣氏に仕え、1614年大坂冬の陣の在陣中大野主馬夜討が押し寄せた際、主馬を守る為に疵を受けたといい、1615年大坂夏の陣には、子の麻植成政と共に出陣したという。その後、戦いの中で生き長らえ、成政の弟の麻植重義の系統が、美馬郡森山地方で庄屋として幕末に至ったとしている。なお、末裔に麻植豊がいる。

分流としては、重時の6代後の麻植泰俊の子(一説に長男という)の麻植庄吉丈が阿波細川氏に仕え、勲功から貞光すつこ(現在の美馬郡つるぎ町貞光捨子)の所領を許され、岡田庄吉丈として岡田氏を起こして、やはりで庄屋として幕末に至っている。

系図[編集]

太田亮ほか通説的見解に従った系図を下記に記す。
清和天皇−(略)−足利泰氏−足利氏継−足利兼氏−山田従四位下阿波守重氏−山田民部大輔俊氏−麻植重時−右京大進氏重−志摩守親氏−同氏重−同氏直−同頼利−隠岐守泰俊−志摩守氏義−同重俊−重長(重俊の弟)−成義−成経(成義の弟)−成政−重義(成政の弟)

参考文献[編集]
大田亮『姓氏家系大辞典』(角川書店、1972年)
近藤安太郎『系図研究の基礎知識−家系にみる日本の歴史−』(近藤出版社、1989年)
志村有弘編『姓氏家系歴史伝説大事典』(勉誠出版、2003年)
奥富敬之『日本家系・系図大事典』(東京堂出版、2008年)


海部俊樹の「俊」の漢字は先祖の名残りだったのかもですね。
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月10日 00時54分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 来週の金・土と、伊賀・甲賀へ行くことにいたしました。
 甲賀には、2000軒の薬屋があったといいますので、その辺と忍者との
からみを探りたいと思っています。
 服部城跡にも行ってみたいと思います。
 でも甲賀の方は、総合的に情報が少ないので、まず図書館に行って調
べてみます――
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月10日 05時25分14秒 ) パスワード

三つ柏さん

>甲賀には、2000軒の薬屋があったといいます

って、
甲賀の人の生計ってことだったのかもですね。


表家業は薬屋さん。
裏家業は全国へ薬を売り売り情報収集。

ま、山の中ですから、薬草で食べて行くよりしょうがなかったんでしょうね。
あ、名張毒ぶどう酒事件を思い出してしまいました。


甲賀にはニンジャ村があった記憶です。

http://koka.ninpou.jp/
甲賀の里 忍術村


楽しんで来てくださいね。

[6]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月10日 15時40分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今、「平家」とは何だったのか、そのいわゆる『平家物語』に謳われ
た「滅びの美学」というものは、一体何だったのだろうということに心
囚われております。
 「滅びの美学」とは、満開に咲き誇った桜が、惜しんでいる間もない
くらいに一斉にほろほろと散ってしまう、表面的な「はかなさ」だけを
言うのではないように思います。もっともっと深いものがある――それ
をつき止めて行きたいと思っております。

 平宗清は平家滅亡後、伊賀の柘植というところに隠棲したようです。
実際、柘植に行くとその痕跡は残っております。でもやはり平家に対す
る落武者狩りというものがあり、無関係という訳にはいかなかったのか
と推察いたします。それは、池禅尼なき後の平頼盛にも少し状況は違う
けれどあったのではないでしょうか。

 宗清の子孫は、柘植、福地、北村となりますが、さらに山川、西川、
松尾、北川と広がって行き、やがて日置という名字にもなります。
 日置弾正という弓の名手が1500年前後に現れます。出自はよく
わかっていないということですが、宗清系日置氏と関係しているので
はないかと推察しています。

 いずれにしましても、伊賀・甲賀へ行って「現場100回」で当って
みたいと思っております――
 
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月11日 00時53分14秒 ) パスワード

三つ柏さん


平家の「滅びの美学」についてはいずれまた。

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100427.html
宗清寺


今日は弁護士に会いに行って来ます。
名字からすると、ひょっとすると、 源平時代 「平家物語」 関連の人のご子孫かも。

不思議ですね。
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月12日 00時08分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明日の御前崎沖の釣り行きは強風のため中止となってしまいました。
今年はことごとく天気にたたられます!

 さて、「平宗清」に関することで訂正→「日置氏」は「宗清」の息子
の「家清」が名乗っていました。
 この「家清」は、「宗清」と「平惟綱の娘」(妾)との間の子でありま
す。

 「宗清」については、大分わかって来ました。ただ、「服部中家」が
「家長系」なのに、何故「宗清系」を名乗っているかがわかりません。

 それから、「服部宗純」に関する情報が少ないので、何とか探してみ
たいと思います――

 
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月12日 01時13分37秒 ) パスワード

三つ柏さん

釣りがキャンセルになりましたか。
残念でしたね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%B6%AD%E7%B6%B1

平 維綱(たいら の これつな)

平安時代末期の武将。
伊勢平氏の傍流、平清綱の子。父清綱は平正度の四男貞衡の孫。では清盛にかなり近い平家一門ですねぇ。
別名:桑名三郎

平忠盛の家人。
平家盛の乳母父。・・・・・・・・・・なるほどね。家盛の乳母父なら、宗清にとって家盛に似た頼朝にはよくしてあげたかったワケですね。
鷲尾、桑名を称す。


保安4年(1123年)頃に誕生した忠盛の次男・家盛の乳母父となる。

保延元年(1135年)8月、平忠盛の海賊討伐の賞により、右兵衛尉に叙任。
天養の頃、院領(最勝寺領)の信濃国小河荘に下司の清原家兼からの譲り状と文書があると称して介入しようとし、
鳥羽院庁がそれを禁ずる院庁下文を天養2年(1145年)7月に出す(鳥羽院庁下文)[2]など、
院領を中心とした平氏の勢力拡大の役割を担っている。

久安5年(1149年)3月、家盛が鳥羽法皇の熊野参詣に加わった道中で病により急逝すると、
駆けつけた維綱は哀しみのあまりその場で出家した。

子の良平(桑名九郎)の子で、維綱の孫にあたる平桓平は早くから鎌倉の源頼朝傘下に入り、奥州合戦に参陣したという。



                       平家もいろいろだったんですねぇ。
                       源平戦で平家が負けて、頼朝から宗清が感謝されても
                       源氏には従えない組と頼朝傘下に入った組に分かれたのですねぇ。


なんか泣ける。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月12日 01時53分46秒 ) パスワード

>「服部中家」が「家長系」なのに、何故「宗清系」を名乗っているかがわかりません。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%97%E6%B8%85

平宗清=別名を弥平兵衛尉、弥平左衛門尉、柘植彌平二とも言う。

平宗清は平正度(=清盛の祖父)の次男貞季の後裔にあたり、叔父に平家貞、従兄弟に平四郎家継・嫡男貞能・六郎家長らがいる。


                       家長と宗清は従兄弟関係です。


まず平家=伊勢伊賀平氏=は平貞盛の子孫が伊賀伊勢にやって来て「平家」と呼ばれるようになった。

次に平家の人間関係はみんな一族。
伊勢伊賀平氏の中で突出したのが父・忠盛と子・清盛の血筋で
伊勢伊賀の平家はみんな忠盛と清盛に仕えた。


そこで服部(伊賀)家長の子が家清で、家長の孫が宗清(!)で柘植を名乗った。
ということは本物の平宗清はノイローゼになったし子の宗清の子は家清(!)で三日平氏の戦いで源氏には従わなかったし、孫が柘植宗清を称して家を継いだ。


つまり家長と宗清はもともと伊賀を支配した従兄弟同士で
家長は壇の浦で入水して亡くなったけれど
宗清は頼朝から伊賀に許されて柘植に住み続けた。



ここで「家清」ですが、この人物が2人いたのか1人いたのかが分からないけれど(服部家清と柘植家清は同一人物?別人?)

家長の子の家清が宗清の養子に行って家清の名で「宗清」という名の男の子を儲けた?

だから伊賀の服部家長と平宗清は伊賀で家が合体しているのじゃないかな?
宗清が頼朝に許されたから服部家長の孫が柘植を継いで平宗清を称したのじゃないかな?

                       ムカシの人間関係はイマの戸籍の人間関係とは違うから
                       一族の中でお互いに子のやりとりをして家を守っていったのじゃないかな?


だから服部中家が家長の子孫であり平宗清の子孫=柘植宗清=でも有り得るわけですよ。

                      どうせ母方も一族の者でしょうし。


みんな親戚なんですよ。
うちでも尾張南西部に600年住んで来ましたから
思わぬ親戚がいたりします。

アラバマで射殺された超優秀な旭丘高校の生徒だった服部君の母上の名古屋弁はまさしく「タモリの名古屋弁」ですが

服部君の父上の名古屋弁はタモリの名古屋弁ではありません。上(かみ)の名古屋弁と思います。

それで服部君の服部姓は父上が養子に入ったのかなぁ、と想像しています。


服部君の母上はたぶん我が家に近い家の出だと思います。言葉から分かっちゃった。



平家=伊賀伊勢の平氏=はみんな血で繋がってますよ。
特に柘植なんか伊賀だし
伊賀って言ったら服部家だし
平宗清だった子は殆ど亡くなってるでしょうし
そうすると家長の家から養子を貰いますよ。

それに伊賀と言ったら
頼朝に良くした柘植宗清の家より
平家として滅亡した服部家長の方が地元には受けが良かったと思います。
[11]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月12日 21時13分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 簡単に言うと、家長と宗清が従兄弟であり、この二家は合体したという
ことで、服部中家の言うことは筋は通っていたということになりますね。
 地元受けする家長より、現実的には、源頼朝と縁で通じていた宗清の方
を祖先と称した…もっとも姓を柘植と変えて隠棲するけれど。

 この辺の部分は、よっぽど服部氏を探求した人でないとわからない部分
であります。さすがあを様――であります。

 さて、本日は、「おんな城主 直虎」でございました。信康と瀬名がい
よいよ断末魔に巻き込まれて行きます。ドラマで見ると、要約的ではあり
ますが、ことの経過がよくわかります。
 武士として「お家」を守らねばならぬ―今の我々の常識ではとても考え
られないことであります――
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月13日 02時37分30秒 ) パスワード

三つ柏さん


家清という人物は恐らく同一人物でしょうね。
宗清の子が家長の家に養子に入ったのじゃないかな?

     どうせ「父方で従兄弟関係」の家ですし「母方」も親戚筋でしょうし。

父の宗清が頼朝を助けて平家が滅亡していくさまに、
父の宗清に腹を立てた家清が家長の意思を継いで源氏に対抗し負けて戦死。
その家清の子達の中で頼朝に赦された子が宗清の名を名乗ったのじゃないかな?


そして源氏による落武者狩りのサンクチュアリー(駆け込み場所)として柘植の宗清が保護したのじゃないかな?

ということで  柘植も服部も同じ血を分けた親戚であり  滅びた家長の家を継いで再興した者もいたでしょうし
後の世でも柘植と服部はその他の一族と共存したでしょうね。


戦国時代になって
湯舟の藤林や名張の百地なんかも千賀地の服部と同じように頑張ったのでしょうね。
自分が伊賀を支配したい、と。


有力な男性には子がたくさんいたでしょうから、伊賀各地に散って土地の名を称していたでしょうから
我々現代人には名字が異なるから  他人の関係  と思ってしまうけれど
実は日本をほぼ支配した平家の一族の子孫なんですよ。

子孫はみんな  服部伊賀守を名乗りたかったと思いますよ。


そこで南北朝時代に堂々と  服部伊賀守宗純  が登場したのですよ。
この人は後醍醐天皇に召されたから  合法的な  服部伊賀守  というわけです。


現代に於いて  服部伊賀守  を名乗る資格があるのは  ホンヤさんと思います。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月13日 03時11分35秒 ) パスワード

ということで

・ホンヤさんの家は「下服部」出身だけど後醍醐天皇の臣下として格上げして「伊賀守宗純」の子孫の家

・服部中保次の家は同じく下服部出身の宗純子孫でもホンヤさんの家に遠慮して伊賀守は名乗れないから
  「中服部」に格上げして→略して「中」となり

・服部政信の家も下服部出身の伊賀守宗純の子孫ということで下服部を名乗るべきかと忖度したけど
でも「下」では中保次の家の「格下」みたいだから「権太夫」を名乗ることになったのだと思いますよ。



・服部半蔵の家は石見守になったけど
  もともとが千賀地服部家出身で、ホンヤさん宅に遠慮して「伊賀守」は名乗れないから
  伊賀平内左衛門家長の子孫だけど
  石見守=島根県・出雲大社=として  ホノハヤヒ命の子孫だとか允恭天皇の命で織部の司を命じられ服部連だった
  という家柄ロンダリングをしたのだと思います。


半蔵の家は伊賀国阿拝郡服部の地に昔いて、
平家の子孫で家長の末裔だけど、
伊賀の西端の千賀地に住む事情があって、地名の千賀地を名乗っていたけど
岡崎の松平家に仕えることになって
伊賀と言ったら服部家長の子孫であるべきで
     確かに服部一族だから
千賀地姓を服部姓に戻したわけです。


で、家康の御覚え目出度く、石見守、を正式に名乗ることになったというわけです。


     でも本当は「伊賀守」を名乗りたかったでしょうね。

     ホンヤさんの家は今川と組んで潰れてしまったから自分が伊賀守を名乗りたかったけど
     そうすると「服部伊賀守宗純」の子孫ではない半蔵家だから、(家康の許には宗純の子孫が2家仕えているから)

     伊賀守のタイトルはとうてい名乗れなかったわけです。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月13日 03時30分42秒 ) パスワード

三つ柏さん

>武士として「お家」を守らねばならぬ―
>今の我々の常識ではとても考えられないことであります――


これはね
日本人は太平洋戦争でボコボコに負けて軍人の立場が地に堕ち
とにかく「命が一番大事」  に国民全体がなったから
日本人には命に替えて  家を守るとか国を守るとか  いう考えが吹き飛んだのですよ。


ただただ  平和  を希求するようになり
とにかく安定した生活を望み
とにかく「命あってのものだね」
お金と命とどっちが大切か
という方向に走ったのですよ。


これは農民と同じ。


でも武士は違います。
武士には「守るもの」があります。「命」に替えても「守らなきゃならないもの」があったのです。

経済的には「土地」
そして名誉=プライド

この2つを守るために命を投げ出したのです。


江戸時代になって儒教の世界に行ってしまい「主君」のために自分の命を投げ出した。

それが明治維新後の日本政府によって日本人は命に替えても「玉体」を守らなくてはならない
と洗脳されていったのです。


そして太平洋戦争でボコボコにされて目が覚めて生きてる方がいいとなったわけです。


その後、土地神話が始まって、これも崩壊。
経済的には会社のために命を懸けたけど、構造改革で「会社」は自分を守ってくれないと分かって目が覚め

            現在はこの段階でしょうね

さぁ、この次はどうなるでしょう?


平和でいて欲しい
命が一番大事
でも北野刈上小僧が日本を海の下に沈めてやると言い出している。


さぁ、この次はどうなるのでしょうね?


人間にとって一番大事なモノは何?
大河ドラマは日本人に突き付けているのですよ。
自分はどう生きるのか?


ワタシは大河ドラマを見て来て一体何回犬死にしたのかな?

大河ドラマを見ながら先祖について考えるのです。
「あの時」「あの状況」
自分の先祖の選択。

あぁ、こうして自分が存在しているのだな、と。
[15]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月13日 06時54分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今回のレス、久しぶりに鳥肌が立ち、身震いが起こりました。

 何か、今までのモヤモヤがすうーっと消えて、心の中が晴れやかになり
ました。ありがとうございました。感謝申し上げます。

 あを様のように深い知識があれば、一冊の本を書かれるのは可能なこと
だと思います。平家―南朝を視点とする服部家の歴史を、できれば本とし
てまとめていただきたいと希望します。私も少しでも多くの情報を収集し、
お役に立てるよう、更に頑張って行きたいと考えます。

 昨日、○○農園という地元の苗屋さん(野菜から花まで)に行きましたら、
陳列棚の上に「源平かずら」という花のポットがたくさん置かれていまし
て、「赤と白」のピュアな色がとても印象的でした。白い大きな花びらに
囲まれて、その真ん中に赤いつぼみのような花弁が咲いております。
 まずは鮮烈な「赤」が目に入って来ます。り、そしてやさしい「白」に
目が移ります。「赤と白」……俗的ですが「紅白歌合戦」を思い浮かべま
した。さらに「日本国旗の赤と白」……そして「平家と源氏(源平と言い、
平源とは言わない)のシンボルカラー」に行き着きました。

 「赤と白」は、日本人の心の中に無意識の内に刻み込まれているという
ことを、また「平家と源氏」は日本の霊性の基本的二軸構造の上に乗り、
さらに究極を究めたのかと改めて認識した次第であります――

 
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月13日 09時13分33秒 ) パスワード

三つ柏さん


「源平かずら」
ウイキで調べて、画像も見て来ました。

清楚な、可憐な、それでいて上品で
素敵なお花ですね。


それにしても「源平かずら」に目が行った
ということはヤッパリ源氏と平家のことなら何でも知りたいお気持ちに
パワーが来て気づかせてくれたのでしょうね。


こちらは  ドテッとした花が多く
日本のような小さな華奢なという花じゃないです。

葉も大きいし。

枝ぶりなんて  品が無い  に尽きます。
きっと南方の気候に育ち過ぎたのでしょうね。

日本は姿形風情に丹精込めて来たから  中国のドテッと大きな派手なのは嫌って  小さな小ぶりの花に矯めて来たのかもですね。
[17]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月13日 15時45分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 "都はるみ"の歌に、吉岡治作詞の『千年の古都』がありますが、私
は昔この歌を"おはこ"にしていた時期がありました。この作詞家はなか
なかの人で、本当にうまく京都情緒をつかんでおります。
 この歌詞の中で、特に好きな部分は――
 「約束もなく 日が昏れて
  衣笠山に 一番星です
  蚊柱を追う 蝙蝠も
  機織る音も 変わらないですね
      〜
  母が唄った 星の歌
  あの星は あの星は
  あなたにとって 何ですか
      〜
  これほど星が 多いとは
  玻璃(ガラス)の街で 忘れていました
  根付の鈴を 嬉しさに
  地蔵の辻で 鳴らしてみました
      〜
  母が祈った 流れ星
  陽は昇り 陽は昇り
  別離と出会い 繰り返す
      〜        」

 この歌詞の中で、「母が唄った星の歌」「母が祈った 流れ星」とい
う部分がありますが、さてその母が唄った歌とは、一体何という曲でし
ょうか?
 また、流れ星に願掛けをするという風習は、京都、あるいは一般的に
あったのでしょぅか?
 ということで、ここで唄われたという曲を探してみたのですが、日本
の童謡の中には、「一番星見つけた」「キラキラ星」「たなばたさま」
位しかありません。その歌詞の内容を吟味してみますと、母が唄った歌
とは、どうやら「たなばたさま」のようであり、それは夜空の星々に
「織姫と彦星」の壮大なロマンを投影し、そして永劫回帰に近い悠久の
時空間を感じさせてくれます。

 また、「機織る音」(京都の西陣の街に漏れる)は織姫を連想させます
し、「衣笠山に一番星」は「金閣寺」の大文字の「大」(五芒星)の上に
輝く「金星」を思い浮かべさせてくれます(何か得体のしれない謎があり
そうな雰囲気です)。歌詞の中に、枕詞のようになものがいくつもちりば
められていて、その糸をたぐると、いろいろな伝説やら歴史物語やらが
出てきそうな、奥深く暗示的な歌詞であります。

 さて、「星」がキーワードということで、あを様こんな星を御存じで
しょぅか――
 「平家星
 「源氏星」

 この話の続きは、次回にしたいと思います――
   
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月14日 01時52分52秒 ) パスワード

三つ柏さん


「千年の古都」
聴いて来ました。

京都にいたことのある人には郷愁をそそられる歌でしょうね。


http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13177683683
Q
都はるみ様の「千年の古都」の歌詞に「母が唄った 星の歌」とありますが、
この星の歌とは具体的に曲名は何というのでしょうか?


A1
もしかすると菊池章子が歌った「星の流れに 」かもしれませんが、
http://www.youtube.com/watch?v=Xa0Jl71N7ag

                   こんな女に誰がした、の歌でしたか。

この曲は戦争という大きな時代に運命を奔走され、
人に騙されて何時しか身を落とさざるを得なくなったひとりの女性の想いを綴った悲哀に満ちた曲です。

そうだとすると、「あの星は あの星は あなたにとって何ですか」と続く歌詞の意味が戦争という時代はお母さんの運命をどう変えたのですか
という意味になってきます

いずれにしましても都はるみ様の歌われた「千年の古都」の歌の意味を解釈する上で星の歌の曲を見極める事は欠かせません。


A2
「星めぐりの歌」であって欲しいなと思います。
この歌が 哀愁をおびて好きなんです。

http://www.youtube.com/watch?v=FWvTXc34-ZU    こちらが歌詞が聞き易いです
http://www.youtube.com/watch?v=HHNEhT2Ckck



A1の歌の方が深いですね。
この歌のことだったかなと思います。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月14日 02時14分05秒 ) パスワード

>「平家星」                  一瞬、平屋星 と読んでしまった。バカ
>「源氏星」


検索して来ました:
http://www.geocities.jp/north_tail_kk/genjiboshi.html


「源氏星」と「平家星」(岐阜県揖斐郡横蔵村)

旗の色、源氏(白)、平家(赤)にもとづいて、リゲルを源氏星、ベテルギウスを平家星と考えがちで、多くのホームページや本にもそのようになっている。

しかし、実際の調査記録は反対で、野尻抱影氏著『日本星名辞典』に、次のような香田壽男氏の手紙が紹介されている(注1)。



「村の古老に尋ねると、炉の灰の上にシダの葉柄で、三つ星とα・βを示す図を描いて説明してくれました。
  子供の時からいいなれた名だということで、ただし説明は、右が平家星、左が源氏星とあべこベでした」


なぜ反対に、源氏星がベテルギウス(赤)、平家星がリゲル(青白)となったかについては、次の2つの可能性を考えた。

@話者の記憶が定かでない。
A自分たちが平家と知られたくないためにあえて反対に伝承された。


香田氏に確認したところ、源氏星と平家星の色の違いは、当時(1956年頃)60歳ぐらいの老人から指で、はっきりと星を指されて教えられたものであり、

西美濃では、「赤は源氏の色」と広く伝えられていることがわかった。
単に一人の話者の記憶違いではなかったのである。

そして、「わざと反対に伝承するというのは面白いご指摘で、もとはそうしたものであったかとも思います」と、香田氏は書いておられた。


リゲル(青白)が平家星、ベテルギウス(赤)が源氏星と、暮らしのなかで逆に語られたことの重みを感じさせられた(注2)。





(1)野尻抱影『日本星名辞典』東京堂出版、1973、pp.154-155。
(2)増田正之氏は、富山県高岡市で、へイケボシ(べテルギウス)、ゲンジボシ(リゲル)と記録している。

     1985年に行なった富山県高岡市の伏木小学校6年生へのアンケート調査によるものである。
     増田氏のケースは逆になっていないが、直接伝承者に確認しているかどうか不明である。

野尻氏は1977年にオリオン霊園に昇天されており、増田氏の記録を知ることはできなかった。


 (増田正之『ふるさとの星―続越中の星ものがたり―』1992、pp.15-16。)



なお、香田氏によると、「源氏星」と「平家星」の名前があまりにも出来すぎているというので、
当初、野尻氏は警戒され、
香田氏との手紙のやりとりが四桁になって信用していただけるようになったというエピソードがあり、
このことからも野尻氏の「源氏星」と「平家星」は香田氏のみが情報源であったと推測することができる。


写真も載ってます。
なるほど赤と白ですね。
知らなかった〜



数年前にアメリカ人の従弟一家が来た時にプラネタリウムに行ったのですが
こちらはどちらかと言うと
北半球の最南端あたりなので
星の場所が日本とは違う訳です。


解説者が観客に「この北を指す星は何か分かる人はいますか?」と訊いて
ワタシは「カシオペア」と自信を持って大声で言ったような。

「惜しい!」
と言われました。


方向音痴だけど、「北」を指す星って言ったらアレしか無いのに。



従弟一家はずっと離れた席にいたので
ワタシが間違えたとは、多分、思わなかったと思います。
恥かし〜ぃ
[20]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月14日 19時30分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、「平家パイ」を買ってきました。あを様ご存知の「源氏パイ」
の姉妹編で、浜松の三立製菓が作っております。三立製菓は松島十湖の
子孫が起こした会社であります。
 「源氏パイ」が何で「源氏」なのか、どこが「源氏」なのかという疑問
ですが、私なりの解釈では――
@「光源氏」の「源氏」を意味する……つまり、パイの形態が「ハート型」
であり、「もてもて」になるようにとの願いを籠めた。
A源氏の「兜の角」を表わしている……つまり、パイの形態が源氏の武将
が被る兜の角の「V字型」であり、「元気で、勝つ」という願いを籠めた。
 でも、本当の所は、わからない……。

 「平家パイ」はというと、形は四角でありまして、中央部分にに洋酒漬
けレーズンが8粒程ちりばめられている。なんでこれが「平家」なの?
強いて言えば、平家の船上の「楯」か……?

 源氏パイがあったからこそ、この平家パイは成り立つ。味では後発の
平家パイの方が洋酒付けレーズン分だけ上であります。

 ここで1句――
 「浜松は、源氏パイより 平家パイ」……浜松には源範頼がおりました
が、押しなべて平家の方にシンパシィが厚い風土でありました。

 さて、平家星と源氏星でありますが、「赤く光る」と「白く光る」とい
うことから例えられたのだと思いますが、実はこの平家星(ベテルギウス)
の近くには、オリオン座のリゲル、こいぬ座のプロキオン、おおいぬ座の
シリウスがあり、いずれも意味深な星々であります。

 昔の賢者はこの星々に何を投影したのでしょぅか?
 また、平家とはどういう関係なのでしょぅか?

 ここで一度切ります――
[21]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月15日 04時51分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 星の話となると、古代ギリシャ神話や民俗学、そして天文学の知識・情報
が必要になってきますので、深みにはまらないようにしたいと思います。

 平家星(ペテルギウス)と源氏星(リゲル)が逆転していたという話ですが、
その謎はよくわかりません。たぶんリゲルの隣の星「シリウス」がベテル
ギウスよりももっと赤く燃えるように光った時代があったようです。肉眼
ではリゲルもシリウスも一緒に見え、従ってリゲルはべテルギウスより赤
かったということで平家星とされたのかも知れません。

 平家星については、今月の『ムー』誌の付録の小冊子に、オリオン座と
プロキオン、シリウスとの関係のことが、安徳天皇の三種の神器にからめ
て述べられています……が、ここで云々するのは止めておきます。

 大事なことは、日本においてシリウス・オリオン座、北極星・北斗七星、
スバル等の星辰信仰が、古代よりシルクロード(陸・海)を伝って情報伝達
されたであろう、ということに注目したいと思います。
 
 それでも、何で「平氏」が「赤」で、「源氏」が「白」なのかという根源
的問題が残っております。一説によれば、平氏は朝廷の象徴である「錦の
御旗」ち同じ「赤字に金丸の旗」を、源氏が「白地に赤丸の旗」を掲げて
戦ったことということですが、それでも根源的謎の解明までには至りません。
たぶん百済や新羅に遡らないと見えてこないのかも知れません。
 この問題については、今後の懸案課題としたいと思います――
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月15日 08時32分13秒 ) パスワード

三つ柏さん


>洋酒漬けレーズン

今はシーズン物かもしれないですが
「ラミーチョコ」というロッテのチョコレートがあって
ワタシは子供の時から中毒でした。


これを食べないと学校に行けないぐらい中毒で
アメリカに来てからは日本から送ってもらって食べてました。
その内に期間限定になりました。


ラム酒は好きじゃないですけど
ラミーのレイズンが美味しかったです。

     夫は「レイズンは蛆虫を食べてるみたいだから嫌い」と言いますが。


ラムじゃなくてボンベイサファイアにレイズンを漬けて食べると何やらに良いということで試しましたが
3本目で飽きました。
ラミーチョコには負ける。


[23]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月16日 10時45分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ラミーチョコは、昔、私もよく食べました。今は、糖分・カロリー・アル
コールを気にして、食べなくなりました。
 昔は、ウィスキー等強い酒をストレートで飲んでいましたが、今は食道・
胃を気にして、日本酒レベルまでアルコールの濃度を下げるようになりまし
た。
 何も気にせず、飲んだり食ったりできた時代が、今はなつかしく思います。
 でも、このボンベイスピリットの壜の色が素敵ですね。ブルーには本能的
な反応をしてしまいます。
 
 明朝、伊賀・甲賀へ出発いたします。伊賀には何回も行っておりますが、
甲賀に本格的に調査に行くのは今回が初めてです。忍者屋敷や忍者村は既
に訪れていて、観光的、あるいは表面的にものを見ても意味がないので、
とにかく「謎・謎・謎…」そして謎解きの「ヒント・ヒント・ヒント…」
の発掘をして来たいと思っております。

 一番ほしいのは、「服部氏族の新たな情報」であります。泊まる所は、
伊賀服部村のビジネスホテルであります。
 実は、この辺に服部氏は少ないのです。服部村に服部氏が少ないという
謎の最終結論に到れるヒントを探し出さなければなりません。伊賀における
服部氏の分布も調べてみる必要があります――
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月16日 14時18分41秒 ) パスワード

三つ柏さん


釣果を期待しています。


http://kojodan.jp/castle/1139/
服部城


服部城は甲賀郡中惣を組織した甲賀五十三家のひとつで、荘内三家に数えられた有力土豪・服部氏の居城として知られています。伊賀服部氏とも一族になり、服部一族本貫の地でもあります。南東約200mの位置に新宮城と新宮支城があり、連携して防衛を図ったと考えられます。服部城も甲賀特有の単郭方形居館形式の城で、主郭部を囲う高さ2mほどの土塁と空堀の遺構を確認することができます。


クチコミ(レビュー)

 ゆずあんこ 主郭は結構藪ってました。(2017/11/12)

T.ウッズ 神社から更に登りきった手前に路駐。かなりこじんまりながら土塁等は見て取れます。(2017/05/05)

 おっちゃん <34.919690, 136.159712>から登り反時計回りに西側に回り込むと入口。西側の土塁は破壊されたのか、開けていたので、ちょっと戸惑ってしまった。(2017/01/22)

 弥一左衛門 甲賀流の方形単郭式城郭。本郭には近隣住民の作業の跡が残ってました。(2017/01/03)

 トーダイ 新宮神社表門(重要文化財)近くのスペースに駐車、神社横の道から攻城、単郭の城らしくシンプルだ。(2016/11/29)
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月16日 14時25分58秒 ) パスワード

三つ柏さん


>このボンベイスピリットの壜の色が素敵ですね。ブルーには本能的な反応をしてしまいます。

端正でしょ?
オトコマエの女性って感じ。


炭酸で割ったら美味しいでしょうか?


ジンフィズ:《ジンに砂糖・レモン汁・炭酸水を加えたカクテル》
ということは男性にはツマラナイですね。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月16日 14時40分14秒 ) パスワード

http://www.kakeisi.com/survey/survey_mie.html

三重県のご先祖調べ:以下コピペ


令制国の伊勢国、伊賀国、志摩国と紀伊国牟婁郡の一部に相当します。


■戦国期以前の三重県と名字

 平安時代、桓武平氏平維衡の子孫が伊勢国に基盤をつくり、伊勢平氏と呼ばれるようになります。 平正盛は白河院に近侍すると、伊勢平氏は院や朝廷で重用されることとなります。平清盛は正盛の孫です。

 伊勢平氏の流れを汲むものに、庄田・伊勢・鷲尾・桑名・三重・杉原・焼野・本郷・本梨などの諸氏があります。


 「伊勢の藤原氏」から名乗った伊藤氏は伊勢平氏の郎党として活躍します。この他、加藤氏・近藤氏の藤原氏族も進出しています。


 伊賀国にも伊勢平氏が進出し、土豪服部氏は平姓を称しています。この一族から伊賀忍者の頭領・服部氏が出て、徳川家康に仕えています。



 南北朝時代になると、伊勢国は南朝方の拠点となります。村上源氏久我家流の北畠親房は後醍醐天皇の信任も篤く、神宮禰宜らの支援をとりつけ、多気城(津市)を居城に勢力を拡大します。

 北畠氏の庶流に、坂内・木造・大河内・星合・田丸・岩内・藤方・大坂・阿坂・波瀬・八下・瀧川氏などがあります。
 配下の愛洲氏は甲斐武田氏流とされ、水軍を率いました。



 南北朝の争乱が収まると、伊勢国は北半分は土岐・仁木氏が守護となり、南半分は北畠氏が守護として領地します。


 伊勢神宮の禰宜家も大きな勢力を持ちます。


 内宮(皇大神宮)の荒木田氏は中臣氏と同族の大貫連とされ、成務天皇のとき荒木田神主の姓を下賜されたといいます。

  主な荒木田氏族・・・沢村・鳥居・薗田・沢田・庄・中村・井面(いのも)・出雲・井向・稲木・岡田・山幡・宇治・長岑・中川・船江・野辺・栗野・矢乃・浦田・三津・家田・納木・船橋・藤並・岩波


 外宮(豊受大神宮)の度会(わたらい)氏は天日別命を祖とし、初め石部(磯部)氏と称し、改めて渡相神主の姓を下賜されたといいます。
  主な渡会氏族・・・横知・川田・岩淵・久志本・赤畝(あかうね)・蒜田(ひるた)・牛草・小須・今西・櫟木・須原・四瀬・大世古・村松・吹上・曽禰・松原・尾上・西河原・蓑曲(みのわ)・上田・津辺・藤本・池町・泉・河崎・横橋・松木・桧垣・田中・排田(はいだ)・出口・尾崎・川辺



 戦国時代になると、伊勢国はほぼ三分されて抗争が続きます。

 南部は変わらず北畠氏が中心でしたが、
  中部は藤原南家工藤氏流の長野氏と桓武平氏とされる関氏が中心となります。
 
長野氏は安濃郡・奄芸郡を支配し、草生(くさわ)・所・細野・分部・林・川北・中尾・丸山・平岡・島の諸氏を分出しています。

関氏は鈴鹿郡・河曲郡に勢力を拡大させ、峯氏・神戸氏・賀太氏が分かれます。

神戸氏は伊勢国司北畠材親の子・具盛を養嗣子にしたことにより、北畠氏と結んで北伊勢に勢力を伸張し、本家関氏と並ぶ勢力を築き上げています。



 北部は北勢四十八家と呼ばれた土豪が割拠していたましたが、織田信長の北伊勢侵攻により滅びます。

  主な北勢四十八家・・・千種・赤堀・楠・稲生・矢田・田丸・後藤・沼木・大矢知・片岡・水谷・栗田・高井・小串・草薙・横瀬・江見・毛利・富永・保々・多度・治田・片山・西野・野村・浜田・小阪・近藤・安藤・西松・森・片岡・南部・朝倉・松岡・種村・田原・春日部・伊藤


 伊賀国では桓武平氏の一族が勢力を張ります。
 服部氏からは荒木・菊山・中林・高畑・千才(せんざい)の諸氏が分出します。
 その他、平田氏・伊賀氏・柘植氏・川合氏が出て、
 川合氏からは岩島・木津・磯矢・岩田・伊室の諸氏が分出します。



 藤原姓では伊賀氏があります。
 その他、宮川・安田・榎並・吉富・菊永・永浜・藤林・川崎・耳須(みみす)・三矢・福永などの諸氏がありますが、出自は明らかでありません。


 志摩国は伊勢神宮の御厨で占められ、伊勢の一部とみなされていました。
海岸近くまで山が迫り、海上交通が発達したことから土豪は水軍として成長しました。
その中から藤原氏流という九鬼氏が登場して北畠氏に仕え、織田・豊臣氏の水軍として活躍します。

その他、古和・安楽島・千賀・青山・御座・越賀・武田・入鹿・曽根・有馬・的矢・三木・尾呂志・三鬼の土豪が出ますが、出自は明らかでありません。



 三重県の苗字トップ20位をあげると、以下の通りです。

1伊藤 2山本 3中村 4田中 5鈴木 6加藤 7小林 8水谷 9森 10山口
11佐藤 12西村 13中西 14服部 15前田 16中川 17山下 18林 19渡辺 20松本


 東日本と西日本の分岐点とされる三重県は名字でも東西の特徴が混じりあっています。

鈴木・加藤・小林など東日本型と
山本・中村・田中の西日本型がトップ10に入っています。


第1位の伊藤氏は、伊勢国に領地を得た藤原氏流の武士が「伊勢の藤原」を意味から名乗ったといいます。



■江戸時代の三重県
 廃藩置県時に三重県に存在した藩は以下の通りです。

藩名 城下町 主な藩主の変遷
桑名藩 桑名市 松平久松氏
長島藩 桑名市長島町 増山氏
伊勢亀山藩 亀山市 板倉氏→石川氏
神戸藩 鈴鹿市 石川氏→本多氏
菰野藩 菰野町 土方氏
津藩 津市 藤堂氏
鳥羽藩 鳥羽市 稲垣氏
伊勢国・伊賀国を支配した津藩が最大22万石で、残りを小藩で分割しています。

また紀伊藩の領地があり、
支城として付家老久野氏の田丸城(度会郡玉城町)や松阪城(松阪市)があります。
その他、津藩支藩の久居藩、同支城伊賀上野城が成立しています。


一方、志摩国は鳥羽藩が支配しています。


 藩庁が置かれた城下町には、大名家の移動にともない家臣や町人、寺院も移動します。よって前の領地との関係も考える必要があります。


「江戸時代は武士」との伝承があれば、まずは藩士名簿である「分限帳」を確認することをお勧めします。



■三重県の家紋
 三重県の使用家紋をみてみましょう。
『都道府県別姓氏家紋大事典』によると、三重県の家紋トップ10は次の通りです。

1位 片喰 2位 柏 3位 桐 4位 木瓜 5位 鷹の羽 6位 藤 7位 梅鉢 8位 橘 9位 蔦 10位 目結

 日本の十大家紋と比べると、沢潟紋と茗荷紋がランク外となり、かわりに梅鉢紋と目結紋がランク入りしています。


 三重県は伊勢平氏、藤原氏の勃興地であり、その関係からか藤紋や蝶紋が見られます。


南北朝時代に伊勢国司として勢力を持ち戦国大名となった北畠氏は、村上源氏中院家庶流で笹竜胆紋です。



■三重県の寺院
 三重県の寺院をみてみましょう。
『全国寺院名鑑』(全日本仏教会寺院名鑑刊行会)によると、三重県の宗派別の割合は以下の通りです。

  北勢(桑名・鈴鹿など) 中勢・伊賀(津・伊賀) 南勢(鳥羽・尾鷲)
天台宗 2% 17% 1%
真言宗 7% 13% 3%
曹洞宗 6% 15% 55%
臨済宗 8% 4% 19%
浄土宗 10% 18% 9%
浄土真宗 63% 29% 9%
日蓮宗 2% 2% 1%
その他 2% 2% 3%


 三重県は地域で寺院分布の傾向が異なります。

 北勢は浄土真宗の寺院が多くありますが、禅宗・真言宗が少ない。これは織田軍を戦った伊勢長島一向衆の一大拠点であったことと関係しています。 また真宗高田派の本山専修寺(津市)に近い地域は高田派寺院が多くあります。

 中勢は浄土真宗も多くありますが、他地域では少数派の天台宗寺院が多くあります。なかでも伊勢国出身の真盛上人が開いた天台真盛派が多く、真盛上人開基の寺や所縁の寺が数多くあるといわれています。

 南勢は禅宗系寺院が多くあり、他地域では多数派の真宗寺院が極端に少ない傾向にあります。



■三重県の神社
 皇室の祖神天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)を祀る皇大神宮(内宮)と、衣食住の守り神である豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀る豊受大神宮(外宮)があります。

「伊勢神宮」は通称で、正式には地名の付かない「神宮」といいます。


 伊勢国一之宮は椿大神社(つばきおおかみやしろ)で鈴鹿市にあります。
 主祭神は猿田彦大神です。
 この神様は、天孫降臨に際してニニギノミコトを道案内した国津神です。
 このことから「道の神」「旅人の神」として崇敬されています。
 よって猿田彦大本宮とも呼ばれ、猿田彦大神を祀る神社の総本社です。


 伊賀国一之宮は敢國神社(あえくにじんじゃ)です。伊賀市にあります。
 主祭神は第8代孝元天皇の第一皇子大彦命(おおひこのみこと)です。
 社伝では、四道将軍として北陸地方を平定した大彦命の子孫は伊賀国阿拝郡一帯に居住して阿閇氏(あへし)を称し、大彦命を祖神として祀ったといいます。


 志摩国一之宮は伊勢神宮別宮の伊雑宮(いざわみや)と伊射波神社(いさわじんじゃ)です。
 伊雑宮は磯部町、伊射波神社は鳥羽市にあります。
 伊雑宮は内宮の別宮で、主祭神は天照坐皇大御神御魂です。
 伊射波神社の主祭神は稚日女尊(わかひめのみこと)・伊佐波登美命(いざわとみのみこと)・玉柱屋姫命(たまはしらやひめのみこと)・狭依姫命 (さよりひめのみこと)の四柱になります。
 稚日女尊は天照大神に仕えた神様で、志摩国の海上守護神として崇敬されています。

[27]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月16日 16時04分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ラミーチョコレートを食べてみました。食べ出したらやめられなくなり
ました。やみつきになりそうです。たぶん、最近、甘いものはなるべく
控えているので、「糖」に対する体のスイッチが入ったのと、食べると
アルコールが効いてきて、ほんわりとしたいい気分になるからだと思いま
した。このまま食べ続けれは、まちがいなく××病、○○依存症に一直線
だと思いました……。

 さて、「服部姓」の三重県・滋賀県における世帯数を、2000年の
電話帳データ登録で見たところ――

 1位 四日市市 695
 2位 鈴鹿市  251
 3位 桑名市  214
4位 大津市  198
 5位 津市   176
6位 亀山市  162
 7位 菰野町  102
8位 長島町   85
9位 松阪市   73
10位 上野市   68
11位 久居市   63

 :
19位 名張市   19

となっておりました。つまりは、伊賀盆地には「服部姓」は意外に少なく、
伊勢湾岸沿いに多い。また、名古屋〜美濃、そして西三河まで広がって
いるということになります。
 同じ氏族が増えるということは、子孫に分け与えられる田んぼが多かっ
た、あるいは開拓できたということになります。それさえずっとできれば、
1世帯の本家が分家も含めて10世帯になるのに100年はかかりません。200年なら100世帯を超えるでしょう。
 伊勢湾岸に「服部氏ベルト」があるということ、もっと精緻な分析をし
て行く必要があります――
[28]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月16日 21時15分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明朝6時、伊賀へ向けて出発です。天気予報では急に寒くなるという。
あさって甲賀では雨模様。今年は天気には本当に翻弄させられますが、
さてどんな発見がありますか、ご期待下さい……?!
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月17日 05時38分43秒 ) パスワード

三つ柏さん


>ラミーチョコレートを食べてみました。
>食べ出したらやめられなくなりました。
>やみつきになりそうです。

>たぶん、最近、甘いものはなるべく控えているので、「糖」に対する体のスイッチが入ったのと、
>食べるとアルコールが効いてきて、ほんわりとしたいい気分になるからだと思いました。

>このまま食べ続けれは、まちがいなく××病、○○依存症に一直線だと思いました……。

ワタシは  ラミーチョコ依存症  でした。

レイズンのかすかなラム酒の味わいにウットリしてました。

就職して歓迎会で日本酒を飲んでガッカリしました。
まずかった〜


ブランデーとかワインとかは  高いからオシャレ  って感覚で
別に美味しいとも思いませんでした。


      ワインはユダヤ系の?イスラエルの?赤ワインは安いのにものすごく美味しかったんですが
      不凍液が入ってるとかいう噂でした。
      だから2回目は無かったです。
      笑


ということでワタクシにとっての「お酒」は「ラミーチョコ」です。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月17日 05時45分38秒 ) パスワード

>伊賀盆地には「服部姓」は意外に少なく、
>伊勢湾岸沿いに多い。
>また、名古屋〜美濃、そして西三河まで広がっているということになります。

「伊勢湾岸沿いに多い」ですか
すごく上手な表現ですね。

服部氏が広がったのは徳川幕府に雇われた戦国時代以降でしょうね。
で、伊賀盆地に少ない、というのは徳川幕府がらみで移動したからでしょうね。

伊賀盆地に残っている服部氏は  もともとの服部氏系かも。
秦氏系とか織物系とか。


武士系の平家系や南朝方系が移動したのかも。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月17日 05時46分38秒 ) パスワード

せっかくの伊賀甲賀行きですからお天気になりますように。
寒いから風邪を引いたりなさいませんように!
[32]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月18日 19時51分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 無事行ってまいりました。今回は、行きも帰りも、鈴鹿あたりの渋滞
には巻き込まれず、スムースに行きました。こんなことは初めてであり
ます。その代わり、二日目は雨で、傘なしでは歩けない状態が続きまし
たので、行動力をそがれました。
 今回の成果というものがどんなものであったのか、これから整理して
みるところですが、往復600qの旅、まずは風呂に入ってゆっくりと
休みたいと思います――
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月18日 23時08分24秒 ) パスワード

三つ柏さん


お帰りなさい。
ご無事で何よりでした。

収穫のご報告、楽しみにしております。
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月19日 22時32分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日の「おんな城主 直虎」は、築山殿と信康事件を扱っており、実質、
直政に主役が移ってからの第一のクライマックスでありました。また、私
も一番気になっていた局面でしたので、それなりに心がいたみ、また直政
の言動にも感動いたしました。「敗戦は次に勝つためにある」(暗に信長
を打倒すること)ということを直政が家康に諭すところでした。この場面は
私にも身震いを起こさせました。

 さて、今回の旅をしてみて感じたことをまず述べますと、今まで「伊賀」
・「甲賀」=「忍者」という仕切りでものごとを捉えようとしてまいりま
したが、それは今の行政単位であって、実際の歴史の中では、伊賀で言え
ば、北・中・南の地域、甲賀については、西・中・東という地域によって
それぞれに特色があったように思いました。いわゆる各地に土豪が割拠し
ていたということであります。

 伊賀と言うと、思い浮かべるのは「伊賀上野」であると思います。そこ
に上野城があり、伊賀の中心であるからであります。
 でも、そこにあの有名な「服部半蔵」はいなかった。もちろん親の代から
三河に活躍の場を移しておりましたからでありますが。その祖先も、伊賀
上野よりずっと南の「余野」におりました。

 また、上野城は実質的には藤堂高虎が1611年より大改築したもので
ありますし、藤堂高虎は伊賀に転封された以降、忍者を「無足人」(士分)
として登録し、組織の中に組み込んで行きました。

 つまり、「伊賀と忍者」と言っても、伊賀上野に実際の具体的な忍者像
はありません。ただ観光政策上の忍者イメージの中で、人は遊ばされ、そ
してそれを楽しんでいるのであります。

 甲賀は伊賀と比べると、更に忍者のイメージは希薄になります。甲賀と
言っても、伊賀の北東部の柘植の北に「油日」そしてそこから西に向かう
と「甲賀」、さらに西へ行くと「甲南」、さらに西に「水口」・「甲西」
というふうに郷が点在しております。

 甲賀で一番有名な「望月氏」の本拠地は甲南であります。甲賀の服部
氏も甲南であります……。

 つまり、何を言いたいのかということですが、伊賀や甲賀は、「一つの
点」を理解すればいいのではなく、それぞれがかかえる「たくさんの点」
を理解する必要がある。つまり、「たくさんの点」が「惣」という「線」
で結ばれていたということであります――

 今回のレスは、自分でも余りできがよろしくないと感じておりますので、
この辺で止めておきます。
 次回は、個別テーマで具体的に述べたいと思います――
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月20日 04時06分26秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「敗戦は次に勝つためにある」
>(暗に信長を打倒すること)ということを直政が家康に諭すところでした。
>この場面は私にも身震いを起こさせました。

いいですね。
「失敗は成功のもと」。
発想の転換ですね。

完璧主義のワタクシは1回負けたらソコで終わってしまいます。
打たれ弱いワタシ。



>今回のレスは、自分でも余りできがよろしくないと感じておりますので、
>この辺で止めておきます。

いえいえ、良く分析なさっていらっしゃいます。


伊賀が弱小領主達の土地になってしまったのは
平家が負けて纏める大黒柱が消えたからでしょうね。

「どんぐりの背比べ」になってしまった。

どんぐり達がせいぜい出来たのは鎌倉幕府の役人をゲリラ戦でいやがらせする辺りだったでしょうね。

それ故に戦国時代に突入しても大局が見えないままだったのでしょうね。

でも伊賀の人達にしてみれば回りはみんな何らかの身内関係
になるから
それだけで結構生きていけたのでしょうね。


どんぐり達であっただけに村単位のような「惣ですか」の主導権争いレベルの小競り合いがあったのだと思います。


「予野の桜」は見に行きました。

芭蕉: 一里はみな花守の子孫かや


http://www.7kamado.net/hanagaki.html

花垣神社
はながきじんじゃ

鎮座地 三重県伊賀市予野194            
                          伊賀上野から名張に行く途中ですね
                          東南に伊賀神戸があるので信長の息子が貰った名字の元になった地名かしら?


御祭神 天兒屋根、經津主命、 武甕槌命、比賣大神

合 祀 乎美彌神、大日ルメ貴神、五男三女神、譽田別命、安閑天皇、木花咲夜姫命、宇迦能御魂神、八衢比古神、八衢比賣神、久那戸神、 建速須佐之男命、 市杵嶋姫命、菅原道眞、大山祇神、火産靈神、三筒男神、大己貴神

例 祭 十月十八日


当神社は往古より現在地に鎮座ましまし、御祭神経津主神・武甕槌神・天児屋根命・姫大神を大字予野字花前に春日大神と称し、

神社明細帳に其の由緒「右社ノ義ハ人皇第六十六代一条院ノ御宇、当村地名花ケ谷ニ一株ノ名樹アリ、是レ八重桜ナリ。即チ此ノ木ヲ上献ス。而ルニ帝叡覧アツテ深ク賞讃感悦シ給ヒ、宮門内ニ植置給フ。

故ニ其ノ後年々当村ノ民族ヲ徴サレ八重桜周囲ニ垣ヲ造ラセ給ヒ、亦花ノ満開七日ノ間宿直ヲ命セラレ是ヲ守衛奉ル。

此賞典トシテ以テ公事ノ賦役ヲ許サレ、花垣ノ庄ト地名ヲ賜フ。而後其樹跡ヨリ又一本八重桜生出シテ、数百年ノ今日ニ至リテ尚存セリ。

其ノ所縁ヲ以テ寛弘元年(1004)ニ方リテ、南都春日ノ神爾勧請ヲ乞ヒ奉リシニ、速ニ勅許アリテ同年花垣ノ里ニ奉遷シ、則チ当村産土神ト崇敬シ祭祀ノ礼典闕怠ナク重ナリ奉事シテ聯綿歴然タリ。最モ地名五ケ庄トモ又予野トモ称シテ、乃チ予野、治田、白樫、大滝、桂五ケ村ノ冠タル所以ハ、已ニ花垣ノ名称アルヲ以テ也。故今変セス右等ノ邑ヨリ尊崇敬事ス」とある。


後明治四十一年(1908)九月十九日許可を得て三郷神社と改称、更に大正十三年(1924)十一月十二日許可を得て花垣神社と改称現在に至る。

なお社地の伊賀の八重桜は、昭和十二年(1937)十一月二十六日三重県天然記念物に指定せられ、元禄三年(1690)の春、松尾芭蕉はこの里に遊んで ひとさとはなもり一里は皆花守の子孫かやの句を残し、その句碑は参道入口の朱塗りの大鳥居の西側に建っている。


「一里<ひとさと>は 皆花守の子孫かや」 
元禄三年(1690)芭蕉四七歳の作。

季語「花守」で春。
芭蕉真跡懐紙に「この国花垣の庄は、そのかみならの八重桜の料に備へられ侍りけるとかや、ものにも書つたへられ侍れば」と前書する。

奈良の八重桜は、伊勢大輔の「いにしへの奈良のみやこの八重ざくらけふ九重ににほひぬるかな」(『詞花集』)の歌にも有名な桜。


『沙石集』等の説話集に、平安の昔、一条天皇の后上東門院が奈良興福寺の八重桜を京に移そうとしたところ、僧徒らが強く反対、后はその風雅心に感心し、伊賀国余野<よの>の庄を興福寺領に寄進、花垣庄となづけた。


これより、里人は毎年奈良に赴き花垣を結い、花の盛り七日間は宿直<とのい>を置き守らせた、との話がある。


 三月下旬頃、芭蕉はここ花垣庄を訪れ、古の風雅を偲び、土地の人に挨拶の意を込めた即興句。

句意は、「ここ花垣の庄は、その昔、奈良の八重桜の咲く頃は花垣を結い、里人が宿直をして桜の花守をしたという由緒深いところである。今でも、この一里の人たちは皆、花守の子孫なのであろうか。」

                 「案内板より」

石碑の後方にも、手入れの行き届いた花壇がありました。


地図:http://map.yahoo.co.jp/maps?p=%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E4%BC%8A%E8%B3%80%E5%B8%82%E4%BA%88%E9%87%8E&lat=34.70364809&lon=136.09705503&ei=utf-8&sc=3&datum=wgs&gov=24216212000&ac=24216&az=212.194&layer=pa&v=3
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月20日 04時24分48秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%B3%80%E5%9C%B0%E6%B0%8F%E5%9F%8E

千賀地氏城

三重県伊賀市予野にあった日本の城(丘城)。
別名、千賀地城とも呼ばれている。


千賀地氏城は、国道368号から西へ1kmほど行くと予野という集落になる。
集落の両側に丘陵がありその谷状地となっている。
この両側の丘陵の14もの小城が群立しており、その中の一つが千賀地氏城となる。
予野集落に入った右手最初の城が千賀地氏城で、旧字で近地谷(千賀地谷)といっていた。


服部家長の流れを汲む服部保長は足利義晴に仕えていたが、当地に移り住み、地名の千賀地を姓として当地に城を築いたと言われている。

しかし服部保長の子服部正成は伊賀国を出国、徳川家康に仕え1582年(天正10年)本能寺の変が起こると徳川家康を助け、伊賀山中から四日市に移し、そこから海路で岡崎城へ送った(伊賀越え)。

服部正成は後に与力150騎、伊賀同心300名を支配下に置く旗本8千石となり、江戸城半蔵門に名を残している。

服部正成は1596年(慶長元年)に死去、服部正就が跡を継いだが、家臣の統率を乱し1605年(慶長10年)に失脚した。

他の一族としては、藤堂藩城代の藤堂采女、津軽藩家老服部長門、桑名松平藩服部石見等がいる。



    「 知賀地氏堡 按 千賀地半蔵則直之を保つ 」 — 三国地誌


とあるが、城に関する伝承はない。



城跡は20m四方の平地で、東、西、北の三方に土塁を巡らし、北側の段丘には堀を切って独立させている。

また東、西、北の三方は急崖となっている要害の地となっている。

北側土塁上には7×4mの櫓台か見張り台があったと思われる一段高い台地が設けられている。

本郭内は、服部半蔵、藤堂采女(伊賀上野城家老)誕生の地として石碑が建てられ、同地区の公園として保存されている。


城跡へのアクセス[編集]
電車でのアクセス 伊賀鉄道 上野市駅 三重交通 予野線 上出下車


車でのアクセス 名阪国道 上野IC → 国道368号 → 三重県道687号治田山出線 周辺に駐車場なし



参考文献[編集]
創史社『日本城郭大系』第10巻 三重・奈良・和歌山、新人物往来社、1980年8月、232頁。
伊賀中世城館調査会『伊賀の中世城館』伊賀中世城館調査会、1997年3月、133頁。
福井健二『三重の城』三重県良書出版会、1979年2月、199頁。

関連項目[編集]
日本の城一覧
伊賀流忍者博物館

外部リンク[編集]

ウィキメディア・コモンズには、千賀地氏城に関連するカテゴリがあります。
千賀地氏城/伊賀流忍者博物館公式ホームページ    みつからなかった
千賀地城周辺地図/http://map.yahoo.co.jp/maps?type=scroll&lat=34.709114662297196&lon=136.10249903244158&z=18&mode=map&pointer=on&fa=ks&home=on&hlat=34.70780052&hlon=136.10141542&ei=utf-8


1993年だったか、千賀地の城跡に行きました。

ムカシずっとムカシ、前世の子供の時に榊原温泉のあたりから山田の平田城経由でココに行ったのでしょうね
先祖のパワーに導かれてココに行きました。

現世の自分は千賀地なんて全く知らなかったのに
でもやっぱりDNAに刷り込まれているのでしょうね。



ココに行く途中の橋?(予野川)のたもとに
一緒に花垣神社の桜を見に行った藤原清忠の息子が立ってました。
「待ってたよ」って。


方向音痴なので全くワケ分からなかったけど
その夜、不思議な経験をしました。
翌朝、旅館の窓?から、ムカシ2人で一緒に歩いた畦道があって、ビックリしました。


やっぱりワタシは伊賀の子なんだと思います。
[37]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月20日 06時46分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 出来のあまりよろしくなかったレスをほめていただき、ホッとしました。
 伊賀に行っても、甲賀に行っても、やはりいわゆる忍者関係の歴史は
霞がかかって見えないという現実に、いささかモヤモヤした気持ちがつの
っておりました。
 もっとも、忍者は形跡を残してはならないわけで、残っている歴史は、
伝説のようなものになるということになります。
 服部半蔵は、武将として家康に仕えましたので、記録はある程度残って
いますが、十分ではありません。やはり、人に知られてはまずい影の仕事
を担っていたからだと思います。

 さて、今回の伊賀・甲賀行きの目的とその結果について、テーマ別に
述べてみたいと思います。

 ここで一旦切ります――
[38]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月20日 09時23分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 目的の一つ:甲賀の服部氏の痕跡を探ること

 旅の最期に組んでいたスケジュールとして、甲賀の服部城跡を訪ねる
こと―がありました。
 甲賀五十三家の服部氏の居城跡、これは甲南地区にありました。甲賀
流忍術屋敷(望月出雲守)のある場所も、甲南であります。

 ここで都合のため、再び切ります――

 
[39]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月20日 12時54分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部城跡には、つい行きそびれてしまいました。というのは、近くまで
は行ったのですが、地元の人の情報により、他の城跡へいってしまったの
であります。とは言っても、1qも離れておりませんでしたので、支城と
いっても差支えないと思いました。狭い道が多いので、バイクでなら見つけ
だせたと、心残りではあります。

 つづく――
[40]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月20日 17時12分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 この話には、後日譚として――

 帰宅した翌日、テレビの「地球便」という番組を見ておりましたら、
シンガポールで「忍(shinobi)ソース」というソースを出している会社
経営者で、服部さんという社長(50歳)の紹介がありました。

 この社長は、大手調味料会社のシンガポール支店撤退の跡を引き継ぎ
(独立して)、顧客のため現地に残るという決断をされた、ということで
ありました。

 この番組の司会者は、本人と日本のご両親との間を取り持ち、メッセ
ージや品物を届けるということで、そのお父さんは京都で反物屋さんを
しており、息子は11代目になるということで、当家で大事にしている
「初代の描かれた掛け軸」を届けてほしいと、司会者に託されたわけで
あります。

 その掛け軸の絵を見せてくれたのですが、そこには着物姿の侍風の
人が、机に向かって筆で何かを書いている絵でありました。
 びっくりしたのは、その着物に描かれた家紋が「丸に三つ柏」だった
ことであります!

 そんなことで、「京都」「服部」「反物屋」をキーワードにして、
インターネット検索してみると、こんな情報が出てまいりました――
 「西陣 服部織物 創業天明8年(1788) 初代服部勘兵衛 滋賀県
 塩野村出身」
つまり、服部織物の創業者は、甲賀の甲南の塩野村出身ということで
あり、それは甲賀53家の内の服部家に関係する一族であった可能性
が大であります。

 「地球便」の服部社長がなぜ「忍ソース」と命名したかは、たぶん
祖先の出身が、この服部織物と同じ甲賀の甲南であったからだと推察
いたしました。11代遡りますと、服部織物の創業者とほぼ同じ時代
になります。

 甲賀の忍者も、情報収集のため、あるいは生活のため、色々な所へ
散って行ったのでありましょぅか――
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月21日 01時31分24秒 ) パスワード

三つ柏さん


ビックリしました。
甲賀系だったの?!
です。


だから車や矢系の紋じゃないのかしら?


Shinobi Sauce Pte Ltd

1 Senoko Ave #05-04 Singapore 758297



 6694 0185

 6694 2410



http://www.facebook.com/shinobisauce/


Our company will be broadcast on Japanese TV !
YOMIURI TV「グっと!地球便」
It is mainly broadcast in Kansai area ( OSAKA area )
22 October 2017(Sun)10:25〜

http://www.ytv.co.jp/chikyubin/oa/next.html

コピペできないけど   服部由博さん(50)  の紹介が出てますね。


コンタクト出来ると良いですね。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月21日 01時46分03秒 ) パスワード

そう言えば北海道の八雲には醤油を造っている服部さんという方がいらっしゃいます。

八雲は尾張藩の佐幕系の武士達が入植したところです。
イカ飯駅弁で有名な森駅の近くです。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月21日 02時02分01秒 ) パスワード

http://kimono-hattori.net/
きものさろん服部


東京エリアです。
ここを見てた時の紋は  丸に並び矢紋  でした。
ところが戻ったら消えてました。
不思議
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月21日 02時04分05秒 ) パスワード

見つかりました。
無断でコピペ:

[45]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月21日 02時08分11秒 ) パスワード

丸に並び矢紋とはこちらを考えていました。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月21日 02時15分12秒 ) パスワード

3回目の書き直し:


naverの忍者のまとめサイトより

半蔵の家紋が見られます。

我が家の「服」の字は半蔵のと同じです。
きっと「俗字」というものかも。


画像
http://rr.img.naver.jp/mig?src=http%3A%2F%2Fimgcc.naver.jp%2Fkaze%2Fmission%2FUSER%2F20150204%2F77%2F7007637%2F1%2F298x321xcac7c21ef49dcf7dec8db446.jpg&twidth=1000&theight=0&qlt=80&res_format=jpg&op=r
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月21日 02時31分15秒 ) パスワード

忍者のまとめサイトより:


藤林長門守


戦国時代の忍者。
伊賀の上忍三家の一つ藤林氏の当主であり、伊賀北部で甲賀に境を接する湯舟郷を支配していた。

甲賀側にも多くの配下がおり、伊賀甲賀双方に影響力を持っていたとされる。

服部氏の服部半蔵、百地氏の百地丹波と並び伊賀の三大上忍と呼ばれる。


伊賀流の頭目という立場でありながら記録はほとんど残っておらず、その生涯は謎に包まれている。
第二次天正伊賀の乱では甲賀の多羅尾氏ともに、織田氏の手引きをして生き残ったという説もあれば、織田の軍勢と最後まで戦い抜いた百地丹波と同一人物とする説もある。


長門守の子孫、藤林佐武次保武が今に忍者の姿を伝える貴重な資料と呼ばれる『万川集海』を著している。




青山虎之助

                          この人は服部家と親戚になる、あの、青山系の人でしょうかねぇ。
                          百々とか出て来ると連想します。


甲賀流忍者。
徳川家康に仕えた。

永禄7年(1564年)に起きた三河一向一揆鎮圧の際、家康の命により、一揆側の立て籠もる碧海郡佐々木の上宮寺へ同行した深津九八郎とともに放火して味方をひきいれるため忍び込んだが、発見され斬首になった。



鵜飼孫六

甲賀忍者。
甲賀五十三家鵜飼源八郎の一族か。

松平元康(徳川家康)が今川方鵜殿長持の拠る三河上郷城攻めの際、戸田三郎四郎の要請に応じ甲賀忍者二百名を統率して城に忍び込み、城内を混乱させ落城させたという記録がある。




神戸小南

戦国期の伊賀国神戸郷の下忍。            ← 伊賀神戸ですね

その忍びの技術は各国の忍者たちの間でも高く評価され、怖れられたという。



高山太郎次郎

姓は「甲山」とも書く。
戦国期の伊賀国上野郷の下忍。

その忍びの技術は各国の忍者たちの間でも高く評価され、怖れられたという。

高山太郎次郎の屋敷跡が現在、上野公園内の「伊賀忍者屋敷」として現存している。

                      下忍でも立派な家に住んでたのですねぇ。





篠山理兵衛

名は景春。
甲賀五十三家の一つ大原氏の一族で、篠山監物の弟。

徳川家康が上杉討伐に向けての帰国時に、豊臣家五奉行の長束正家が居城の近江水口(岡山)城下で家康暗殺を企てたが、いち早くこれを察知し家康は難を逃れた。

関ヶ原の際に伏見城に籠もり、一族とともに討死した。



望月出雲守

甲賀五十三家中もっとも勢力があった上忍のうちの一つ、近江国甲賀郡竜法師郷に居を構える望月家の当主。

出自は信濃国の名族・滋野三家のひとつである望月氏の流れといわれ、煙術を駆使した「甲賀三郎」の名で有名。


望月氏の屋敷跡が現在「甲賀流忍術屋敷」として残っている。




柘植清広

伊賀流忍者。
鉄砲に秀で威風流砲術を開く。

天正伊賀の乱に際し、徳川家康に接近する。

本能寺の変発生時、堺にいた家康が伊賀越えを決行すると、信楽と伊勢国白子間を一族で警護した。

後に幕府旗本となる1629年に90歳で死去した。




山田八右衛門

戦国期の伊賀国山田郷のいわゆる下忍。          山田郷は平田家継の領地です。


仲間内からは「ハッチョモン」と呼ばれ、普段は伊賀一の宮敢国神社の世話人であったと伝えられる。

双忍術など高度な変装術を使うことで知られたという。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月21日 02時56分11秒 ) パスワード

またもや振り出しに戻りましたね。


高槻の神服神社の神紋と同じ。


神服神社(かむはとりじんじゃ)は、大阪府高槻市宮之川原元町に鎮座する神社。
現在は、”しんぷくじんじゃ”と呼ばれている。



http://www.geocities.jp/engisiki/settu/bun/st060403-01.html

【延喜式神名帳】神服神社 摂津国 島上郡鎮座

   【現社名】神服神社
   【住所】大阪府高槻市宮之川原町
       北緯34度51分59秒,東経135度36分0秒

   【祭神】素盞嗚命・ひの速日命・麻羅宿祢
       『神社覈録』『神祇志料』服部連がその祖神を祀つた


                  「ひの速日命」「服部連」ですって。
                  半蔵のご先祖さまの「ほのはやひの命」や織部の司の服部連のことでしょうね。(!)



   【例祭】5月5日 例祭
   【社格】
   【由緒】19代允恭天皇の頃創始
       延喜年中神服神社と改める
       天正頃兵火で焼失

   【関係氏族】服部連
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【公式HP】 神服神社
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所・手水舎・絵馬所
   【境内社】春日神社・稻荷神社・上宮神社・若宮神社
   【神宮寺】安岡寺

清水小学校の北隣に鎮座する。

もとは「服部神社」と称していたが、延喜年中に「部」を除き、上に「神」を付して「神服神社」と改め、「カムハトリ」と呼ぶようになつた。


この地は織部司として諸国の織部を統括していた服部連の本貫であり、その祖神を祀つた社である。

維新前は、社僧として服部安岡寺の僧侶が社務をとつていたが、明治の初めにこれを廃し、同5年郷社に列した。

祭神の素盞嗚命は織田信長が素盞嗚命・天照大神以外を祀る神社を破壊したので加えたという。

神社の北西塚脇の竹林の間には、大小14の古墳が群がり、いづれも当時の機織部の墳墓という。



http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/daionokuni/1327736986638.html

49.南山 安岡寺

安岡寺(高槻市浦堂本町41-1)
電話 072-687-0727

江戸時代の観光ガイド『摂津名所図会』に描かれた安岡寺は、長い参道から続く山腹にある境内に、ひっそりとたたずむように建っています。

昭和7年発行の清水村誌には「安岡寺ハ安岡寺山ノ半腹ニアリ、南山ト号シ般若院ト称ス。
(中略)
境内ハ一三八五坪ヲ有シ本堂、庫裏、宝蔵、水屋、鐘楼、土蔵、薬医門、仁王門ヲ存ス。

外二開山堂、阿弥陀堂、薬師堂アリ堂後ニ般若塚アリ。」と記され、その頃の様子を伝えています。


今は住宅が張りつき、安岡寺山の面影は見る影もありませんが、境内のたたずまいに当時の風情を残しています。


安岡寺は5世紀前半に諸国の織部の総領として「服部連」の姓を賜ったという古い歴史をもつ旧服部村を見渡せる山腹にあり、古くから多くの人々の信仰を集めていました。


また、服部地区にある大蔵司遺跡(弥生時代〜鎌倉時代)からは12世紀後半頃のものと思われる阿形の仁王像の頭部片が発見されています。

資料からは、当時、「大蔵司」という地名の元となった「大蔵寺」というお寺があったことがうかがえ、仁王像はその山門のものと考えられています。


平安時代末から鎌倉時代にかけては山岳仏教の興隆期で、三島地域においても多くの天台宗寺院が営まれていました。

この「大蔵寺」もその状況から天台宗山門派の寺院と考えられており、当時の山岳密教寺院の特徴が本院・奥の院の関係をなすように建てられるという特徴をもつことから、神峯山寺・本山寺と同様に、大蔵寺は安岡寺と対をなす寺であると読み取ることができます。


また、安岡寺は、神峯山寺・本山寺と同じく、宝亀年間(770年頃)に光仁天皇の子、開成皇子(かいじょうおうじ)が創建したと伝えられている山岳寺院のひとつでもあります。



安岡寺の本尊は秘仏で開成皇子の作と伝えられる如意輪観音。
本堂の背後の山には、開成皇子の弟子であった開智(かいち)が一字一石の大般若経を書写した般若塚があります。

この大般若経を本堂の背後の岡に安置したことから、安岡寺般若院と呼ばれるようになったと伝えられています。

現在も石塔が祀られており、仲秋の名月の日には、万燈供養が行われ、参詣の人々のとなえる般若心経が周囲に響きわたります。

また、節分の先がけとして2月1日には、大護摩供養が行われ、周辺から多くの参詣者が訪れます。


この大護摩供養では、本堂の東側に祀られている弘紹不動明王を本尊とし、大勢の大峰山の行者が大護摩を焚き、火渡り式を行います。



一段とアヤシクなった。
う〜む・・・
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月21日 03時35分41秒 ) パスワード

長上郡の服部氏族CI(課題確認44):101
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101613.html
をご用意致しました。


キリの良いところでどうぞ。


織物、それも高級品でしたら、御所に出入りして朝廷の動向や情報を収集するのに都合が良かったでしょうね。

呉服問屋を隠れ蓑に京都所司代の手先として出入りしていた可能性がありますよね。


>服部城跡には、つい行きそびれてしまいました。
>というのは、近くまでは行ったのですが、
>地元の人の情報により、他の城跡へいってしまったのであります。      ← よくあることです
>とは言っても、1qも離れておりませんでした。

はい
伊勢伊賀は砦=城がそこら中にあることで知られています。

「もうちょっと向う」と言われても、その1km先の見当がヨソ者にはつかない。


また次回いらっしゃい、ということでしょう。


三つ柏さんは年明けにでもまた甲賀と京都にいらっしゃるのでは?


伊勢伊賀の服部氏が並び矢紋系で
甲賀の服部氏は三つ柏紋かも知れないですね。これは現地に行かないと分からないですよね。



そして
近江の甲賀
市野氏の出身地
この関係。


三つ柏さんが「うちは伊勢伊賀出身の服部ではないような」という違和感の源が見えて来たのかも。


甲賀の服部城あたりのお寺のお墓紋調査が視野に入って来たのでは?

来年の目標の目途が立って来ましたね。
にっこり
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