[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月21日 12時52分58秒 ) | パスワード |
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1059.html
熱田神宮の謎を解く その1
名古屋の地図
懐かしかったです。
>日本においては蓬莱の地は三カ所あるとされます。
>すなわち、紀州熊野、尾州熱田、富士山麓です。 熱田のことは100%知らなかったです
>熊野と富士山の二カ所には徐福伝承と秦氏の存在が認められます。
>一方熱田神宮は蓬莱宮と称されるものの、徐福伝承は存在していません。
名古屋城のことを蓬左城と呼ぶのも100%知らなかったです。
http://housa.city.nagoya.jp/
蓬左文庫の歴史
蓬左文庫にとって、尾張藩の書物倉である「御文庫」の創設が、その歴史の始まりといえます。
元和2年(1616)、徳川家康の死去により、その遺品の多くが、尾張、紀伊、水戸の御三家に分譲されました。このうち、のちに駿河御譲本と呼ばれる家康の蔵書については、3千冊が尾張家に譲られ、これを契機に、尾張藩の御文庫は形成されました。
この後、御文庫の蔵書は、歴代藩主の書物収集を中心に、その蔵書を拡大し、幕末期の蔵書数は、5万点と推定されます。江戸時代を通じ、尾張藩の御文庫は、質量ともに我が国屈指の大名文庫でした。
明治維新後の混乱期には、払い出しなどにより蔵書の約三分の一が流出しています。残った御文庫の蔵書に、「御記録所」をはじめとする尾張藩の役所、別邸の蔵書の一部が加わり、尾張徳川家の蔵書として東京と名古屋の屋敷に保管されることになりました。
尾張徳川家が、財団法人の設立を構想し始めるのは、明治末から大正初期あたりですが、「蓬左文庫」の命名もこの頃のことです。19代当主徳川義親氏は、江戸時代以来の同家の蔵書にたいし、蓬左城(名古屋城)内にあった書物を伝える文庫という意味を込めて「蓬左文庫」と名付けました。
昭和10年、名古屋大曽根邸内に徳川美術館が開館したのと同時に、蓬左文庫は、東京目白の邸内に開館しました。明治維新から蓬左文庫の開館までにも旧尾張藩士の旧蔵書をはじめ、多くの資料が蔵書に加えられています。
公開文庫の道を歩み始めた蓬左文庫ですが、戦争により、10年足らずで、休館を余儀なくされます。本格的にその歩みを再開したのは、昭和25年の名古屋市移管後のことです。翌年から、旧尾張徳川家大曽根邸内の現在地において、一般公開が、始まりました。以後、名古屋市教育委員会の管轄下、図書館の分館をへて、名古屋市博物館開館にともない、昭和53年より、その分館にとなっています。
現在の蔵書数は約11万点。名古屋市移管後の収集書もすでに3万点を越え、蔵書内容の豊かさが蓬左文庫の特徴のひとつとなっています。
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月21日 13時40分15秒 ) | パスワード |
昨日見た「陸王」のハナシに友人がレスくれました:
ワタクシ:
1回目の放送を見ました。
舞台は埼玉県の行田市だそうで(千葉県内かと思ってた。方向音痴です)
驚いたのは 前方後円墳 が映ってたこと。 稲荷山古墳。
ま、アチコチに前方後円墳はあるでしょうけど。
それからお城の櫓?天守閣?も映ってた。 忍城。三成が城攻めで失敗したところ。
へ〜
友人:
稲荷山古墳ですけど,この古墳から鉄剣が見つかりました。
この古墳に,この古墳の主(名前は書いてありません)がワカタケル大王(雄略天皇で,宋書倭国伝にある,倭王武と言われています)の抜刀人(戦国時代の小姓です)をやっていたと書いてあります。
魏志倭人伝の後で,中国では,日本の記述が消えます。
そして,次に中国の史書に出てくるのが,倭王武です。
その中に,60余国を傘下に収めたと言う記述があります。
それで,日本は4世紀に統一されたと言われています。
この鉄剣ですけど,
4世紀に日本が統一されたことを裏付けるとともに,
雄略天皇は,関東まで傘下に収めていた証拠だとされて,考古学会で驚きを持って確認されました。
この雄略天皇ですけど,古事記には乱暴狼藉を書いてありません。
反対に,文学青年のように書いてありますけど,
日本書紀では,少しでも気に食わないと人を殺す天皇になっています。
古事記と日本書紀の参考資料が違うと言われる理由ですけど,
歴代天皇で,唯一,日本書紀に大悪天皇と書かれています。
それで,武烈天皇も暴君ですけど,武烈天皇は,皇統を長く見せるために,雄略天皇を基に作られた,架空天皇説もあります。
兎に角,日本書紀の雄略天皇は,信長も裸足で逃げ出す暴君に書かれています。殺す人がいなくなったら,罠を仕掛けて,無実の人を殺す。
北野刈上小僧みたいな天皇です。
それで,雄略天皇の死後,雄略朝は滅びたとする説もあります。
反対に,古事記は慈悲深い名君になっています。
日本書紀の評価と古事記の評価制反対ですから,架空天皇説もあります。
稲荷山古墳は,「さきたま古墳群」の一つです。
埼玉県の名前の由来が,「さきたま古墳群」です。
三成が忍城攻めたとき,本陣にしたのが丸墓古墳です。
日本最大の円墳で,高さ18mあります。
6階建てのビルくらいの高さです。
ですので,登るの大変ですけど,今「さきたま古墳群」に行く道が,三成が忍城の水攻めで作った堤防の跡です。
この水攻め,堤防が決壊して大失敗するのですけどね。
ここの領主が成田氏と言う豪族で,歴代,領民に慕われていたようで,
忍城の地形もありますけど,
領民が領主を慕っていたので,上杉謙信も忍城攻めに失敗しています。
三成25,000名を成田500が押し返しました。
北条の城で,秀吉に最後まで降伏しなかったのが,忍城でした。
それで,徳川家康が,成田氏滅亡後,高禄で成田氏の遺臣団を召し抱えます。
三成の堤防を決壊させたのは,成田氏の領民だったと言われています。
成田氏滅亡後,家康の四男松平(後に武田家を再興し,武田に改名)忠吉が入りますけど,忠吉は若死にします。
その後,しばらく家康の直轄地だったようです。
家康は,忠吉の死後,忍城周辺で鷹狩りを良くしたようです。
それで,来るたびに忍城を指さし,近臣に「見よ。忠吉が迎えに来ておるわ。」と言っていたようです。
忠吉は,秀忠の実弟ですけど,結構優秀だったようです。
その後,1639年に老中の阿部忠秋が入ります。
阿部氏が白川に移ると,奥平松平(家康の長女の嫁ぎ先)の松平忠堯が桑名から移ってきます。
そして,廃藩置県を迎えます。
廃藩置県後,忍城二の丸に,忍県の県庁がおかれますけど,
忍県が埼玉県に編入され,忍城の建物はすべて破却されました。
1988年に,御三層楼と言われた,天守のみが,コンクリートで復元されました。
多分,映っていたのは,この建物だと思います。
足袋ですけど,行田市に水運を利用して,江戸時代後期に足袋製作が始まり,現代に至るです。
万葉集に「さきたま津」と言う歌がありますけど,
この「さきたま津」が行田市と言われています。
「さきたま津」ですけど,当時,この辺りを流れていた,利根川にあった港と言われています。
行田市は,内水面の水上交通により栄えました。
その意味では,同じ埼玉県の川越市とよく似ています。
行田市は,ハスでも有名で,レンコンの産地でもあるそうです。
ただ,「さきたま古墳群」の古墳の主はわかっていません。
今の埼玉,東京,それに神奈川の大船から三浦半島周辺を,古代武蔵と言ったようです。
この武蔵ですけど,万葉仮名でも「むさし」と呼べません。
それで,武蔵の国にいたのは,蝦夷でないかと言われています。
日本書紀にも古事記にも,武蔵の国の主を書いてありません。
今の群馬,栃木,茨城あたりにいたと言われる,毛野氏の一族が,武蔵にもいたと言われています。
どうも毛野氏ですけど,白人系の人間だったらしく,
毛野氏の娘の安見児と言う女性がいます。
藤原不比等の母親と言われていますけど,
この女性,金髪で色が白く,碧眼だったようです。
それで,藤原不比等も,金髪碧眼だったと言う説もあります。
蝦夷ですけど,モンゴル系でなく,白人系だったと言う説が最近強くなってきています。
それで,アイヌとも蝦夷は違う民族とも言われています。
へ〜
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月21日 13時50分47秒 ) | パスワード |
http://manyou.plabot.michikusa.jp/warehamoya_yasumiko.html
万葉集入門
(解説:黒路よしひろさま)
内大臣藤原卿の采女安見児(うねめやすみこ)を娶(ま)きし時に作れる歌一首
われはもや安見児得(やすみこえ)たり皆人の得難(えかて)にすといふ安見児得たり
巻二(九五)
-----------------------------------------------
わたしは安見児を手に入れることができたよ。宮廷の人々が皆望んでも決して手に入れることの叶わなかった安見児をわがものとしたよ。
-----------------------------------------------
この歌は内大臣藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が采女安見児を妻にしたときに詠んだ一首です。
天智天皇(中大兄皇子)から采女安見児(うねめやすみこ)を妻とすることが許されました。
毛野氏が白人というのはどうなんでしょうね
シルクロード由来の目の青いアフガニスタン人あたりの血が混じってたのかな?
毛野氏について:
http://books.google.com/books?id=TvIGBAAAQBAJ&pg=PT104&lpg=PT104&dq=%E6%AF%9B%E9%87%8E%E6%B0%8F+%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=2XAq03AZ7o&sig=DdIubTr2Cdft3MXRl6Wcd-U5BsU&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiz5uel9IDXAhUowFQKHb6xAs8Q6AEIezAJ#v=onepage&q=%E6%AF%9B%E9%87%8E%E6%B0%8F%20%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%80%80%E3%81%AF&f=false
ヤマト王権と十大豪族の正体: 物部、蘇我、大伴、出雲国造家……
By 関裕二
[4] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月22日 01時24分52秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
@「ホノハヤヒ」とは――
「ホノアカリ」と「ニギハヤヒ」をミックスしたものなのでしょうか?
それとも、ホノアカリともニギハヤヒではまずいので、どちらをも匂
わせる「ホノハヤヒ」でカムフラージュしたのでしょぅか?
A「尾州熱田」が「蓬莱の地」とは――
熱田と鳳来山との関係から来るのでしょぅか? 点と点を結ぶ線を見
つけなけねばなりませんね。
B毛野(けの)が上毛野(かみつけの)と下毛野(しもつけの)に分れ、更に
上野(かみつけ)と下野(しもつけ)になった。
上毛野に渡来系豪族の「上毛野氏」がおり、「車持氏」はその後裔で
あります。そして、車持氏の娘が藤原不比等の妻となります。
ここまでは、群馬高崎に行った時に学習いたしました――
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月22日 04時19分28秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
考えれば考えるほど自分の考えが矛盾していくので困ります。
@ABともに同じように思います。
雄略天皇の父上は 允恭天皇 なので
織部司のことは雄略天皇の前の時代のハナシだったのか、と。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%81%E6%81%AD%E5%A4%A9%E7%9A%87
允恭天皇は中国の歴史書『宋書』・『梁書』に記される倭の五王中の倭王済に比定されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%84%E7%95%A5%E5%A4%A9%E7%9A%87
雄略天皇
雄略天皇元年は西暦458年
呉国(宋)から手工業者・漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招き、
また、分散していた秦民(秦氏の民)の統率を強化して養蚕業を奨励したことも知られる。
この、お2人の天皇の織物に対するテコ入れは興味深いですね。
不比等のことをちょっと調べてみました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B8%8D%E6%AF%94%E7%AD%89
11歳の時、父・鎌足が死去。
父の生前の関係から、近江朝に近い立場にいたが、
壬申の乱の時は、数えで13歳であったために何の関与もせず、
近江朝に対する処罰の対象にも天武朝に対する功績の対象にも入らなかった。
だが、中臣金をはじめとする鎌足の同族(中臣氏)の有力者が近江朝の要人として処罰を受けたこともあって、
天武朝の初期には中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃された形となっており
有力な後ろ盾を持たない不比等は
『日本書紀』の天武天皇2年(673年)5月条にある大舎人の登用制度によって
出仕して下級官人からの立身を余儀なくされたと考えられている。
へぇ〜
[6] | 酔石亭主さんからのコメント(2017年10月22日 06時34分17秒 ) | パスワード |
三つ柏服部さん、空の青海のあをさん
三つ柏服部さんがお調べになった『浜名史論』は面白そうですね。何しろ、私の書いたものが根底からひっくり返りそうなるのですから。こうした話は大好きです。あ、それと私は『三ケ日町史資料第二集 初生衣神社特集号』を読んでいませんよ。さて、『浜名史論』によると、
ア)神服部家は、美和(三輪)氏族であった。
イ)神服部家は明治になってその名を名乗ったのであって、鎌倉・室町時代は「神氏」を、徳川時代には「神目代」を名乗っていた。
とのこと。『浜名史論』の全体を読んでいないので何とも言えないのですが、この問題を根底から覆されない形になる筋道をちょっと考えてみたいと思います。
浜名郡には大神郷と新居郷があり、大神郷は明らかに三輪氏に由来する郷名です。新居郷には神直、神人部、和爾神人など三輪氏系の名前が非常に多くあります。例えば、神人部安麻呂、神直老田などですね。神直は多分(みわのあたい)と読むのだと思います。
一方、浜名県主が祖神の太田命を祀った浜名惣社神明宮の鎮座地は大輪山で、大和の三輪山に通じそうな名前です。太田命は大田田根子ともされ、浜名県主も三輪氏系(らしい)とされています。ここは神服部氏が伊勢神宮に奉献する初生衣の御清祓所でもあり、初生衣神社とは密接な関係があります。記憶が不鮮明で要確認なのですが、神服部氏が浜名惣社神明宮の宮司も務めていたはずです。
ただ神社の規模で見ると、浜名惣社神明宮が初生衣神社より圧倒的に大きく、社名からしても浜名郡を管轄している神社だったと理解されます。そして、浜名惣社神明宮が三輪氏(美和氏)系の神社だとすれば、鎌倉・室町時代は浜名惣社神明宮から初生衣神社に駐在員が出ていたため表向きは神氏となっていたのかもしれません。徳川時代の神目代は、力が衰えた浜名惣社神明宮の神氏が元に戻ったため、神服部氏が神氏に代行する立場として初生衣神社の運営に当たり、名前が神目代に変わったのではないかと推察されます。
問題は三輪氏がいつ頃浜名郡に流入したかです。新居町の二宮神社の由緒から長徳元年の995年頃かとも思いましたが、神人部安麻呂、神直老田は天平12年(740年)頃の人物なので、遅くとも740年以前となります。二宮神社は以下を参照しました。
http://naka-se.com/yogumi/sight/jinja/arai/ninomiya.htm
浜名郡の三輪氏は窯業が中心だったようで、神服部家の職掌とはマッチしません。従って、初生衣神社は鎌倉・室町時代には浜名惣社神明宮の強い影響を受けていたものの、宮司家は神服部氏であり続けたのだと思います。と言うことで、何とか私の書いたものが根底的に覆される事態は避けられましたが、これは情報量が不十分な現時点での見方なので暫定的な意見であり、『浜名史論』の詳細を知りたいところです。
[7] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月22日 10時13分39秒 ) | パスワード |
酔石亭主様
書き進んだものが、調べものをしている間に消えてしまいました。
こういう欠点がありますので、コメントは時間をかけずに書かなければ
ならないという畏怖心が毎回あります。そのせいか、物事をはしょって書
いてしまう傾向にあります。
『三ケ日町史資料 第二集』につきまして、酔石亭主様が参考にしてい
るだろうと軽はずみな、かつ言葉足らずの表現をしてしまいましたこと、
謹んでお詫び申し上げ、訂正させていただきます。
言い訳がましくも、私が思ったのは、この資料集が、神服部家を始めと
して、可能な限りの資料・文献・口碑等を参考にしているおり、ひょっと
たら酔石亭主様の参考にされた文献等と、少なからずオーバーラップして
いるのかなあということでありました、それをうかつにもそのように表現
してしまったこと、後悔しております。表現には今後十分に気をつけたい
と思いますますので、どうぞお許し願いたいと存じます。
不思議なことに、この資料集は、静岡の県立図書館に寄贈されたものを
コピーしたものであったということでありました。また、後書きにも書い
てありましたが、新村出博士をはじめ、多数の方の教示を賜っているとい
うことや、三ケ日町からの公的な支援・指示を受けており、かなり確度は
高いものと思われました。
ちなみに『三ケ日町史資料 第二集』の参考にしている文献等とは――
@古事記
A日本書紀
B日本書紀通釈
C源平盛衰記
D蝶夢和尚文集
E遠江風土記伝
F古史伝
G東海道名所図絵
H蟇目妖化体顕法伝記
I小栗廣伴手記
J高林方朗手記
K夏目千尋手記
L日本対教の志明(山田観哉氏著)
M内山真龍の研究(小山哉氏著)
N静岡県史
O静岡県史料
P引佐郡史
Q五県□合神職会記念号(昭和二年) (口の部分は咲の偏を耳偏にした字)
R風俗通報
S大福寺古文書
21.浜名総社神明宮古文書
22.神服部家古文書
ほかであります。
[8] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月22日 11時07分44秒 ) | パスワード |
酔石亭主様
この三ケ日町資料集「初生衣神社特集号」は、主として菅沼夢渓(善輔)
氏の『初生拳母神社の研究』が主体となっております。それに加えて、
神服部家で行われた『御衣様の昔を語る 岡本故老の座談会』という記録
も記されております。資料集は内容的には、各種資料の紹介、比較という
ことにとどまっており、酔石亭主様のような点と線を結ぶ論及はあまりあ
りません。関連資料の抜粋集と言った方がいいかも知れませんが、それは
それで貴重な価値があると確信します。
酔石亭主様のように能力の高い人が見れば、さらにこの中に書かれてい
ることから新たな発見をされると思いますので、もし必要でしたらご連絡
下さい。
なお、『浜名史論』の方ですが、「全部否定」というのは、私も論理的
におかしいと感じております。「全部否定」というのは、今までの通説を
細目に到るまで根拠をもって否定しなければなりません。通説をそのまま
にして、自分の調べたこと、考えはこうであるので、そちらの説は間違い
であるとあるというのは、独りよがりの世界であります。何故「神服部」
と名乗ったのか、どのような経緯があったのか、根拠に基づいて点と線で
示さなくてはなりません。その点については少しおろそかであったような
印象をもっています(確かに、浜名史論は、大書でもありますし、立派な
本でもあります。それを否定するものではありません)。「浜名史論」と
いうからには「試論」ではないように思われますので、神服部家の口伝・
古文書等の調査もしてほしかった(されているならその旨を詳しく書いて
ほしかった)と思います――
[9] | 酔石亭主さんからのコメント(2017年10月22日 11時33分49秒 ) | パスワード |
三つ柏服部さん、
『三ケ日町史資料第二集 初生衣神社特集号』に関しては、愛知県在住なので当たれる資料が少ないのは仕方がないのですが、いずれにしても調査不足であった点を恥じ入っている次第です。なので、気になさらないでください。
デジタル化されている『遠江国風土記伝』によると神服部に関しては、
従五位下神服部称宿祢今世云目代
織造神衣者岡本村神氏世世服部也
と二つの記述がありました。一つ目に関しては、神服部家は仁寿(にんじゅ)元年(851年)に従五位下に叙せられ、神服部宿禰毛人女(かんはとりすくねもとめ)と称していますので、その通りで、今の世では目代と言っているのですから江戸時代は神服部目代になりそうです。二つ目は、神氏は代々服部だと書かれています。この場合、神氏=服部で神(みわ)氏が仮に三輪氏であれば、神服部氏=三輪氏になります。『浜名史論』はこうした流れから神服部氏を三輪氏としたのでしょうか?こうなったら、最終的には初生衣神社に行ってこの点の確認を取るしかなさそうです。何事も突き詰めようとすると、色々難しいですね。
三つ柏服部さんと空の青海のあをさんの過去記事を斜め読みさせていただきましたが、本当に膨大な資料に当たっておられ感服いたしました。尾張氏に関してもほとんど検討し尽くされているようなので、私の記事など読んでいただいてもあまり意味ないかなと思ってしまいました。
[10] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月22日 20時36分34秒 ) | パスワード |
酔石亭主様
ありがとうございます。歴史については、私は全くの素人でありました
が、「空の青海のあを」様のご指導・お導きによりまして、この3年半、
途中挫折もせず、今まで続けてこれました。
また、酔石亭主様の研究の成果・果実は、私にとっては暗い荒海を照ら
す「火明」(ほあかり)でありましたし、これからもあり続けます。
尾張氏については、まだまだ探求は足りておりませんので、酔石亭主様
のご指導も伺いながら、これからも更に進めて行きたいと考えます。
高橋祐吉氏の『浜名史論』の232頁目を見ますと、神服部氏は三輪氏
であろうという推測が述べられておりますが、江戸末期以前に神服部氏を
名乗ったことはないというのが、氏の拠り所となっております。でも、
それは全部否定の完全なる証明とはなり得ないと思うのですが……。
いずれにいたしましても、今後ともよろしくご指導の程、お願い申し上げ
ます――
[11] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月22日 22時27分01秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
台風が徐々に近づいて来ており、風も強まってまいりました。こちらに
接近、または上陸もありえるということですが、風雨のピークは明日の午前
3時前から5時過ぎまでと予測しております。
通勤時には通り過ぎていてくれることを願うとともに、全国に重大な被害
がもたらされないよう、心から祈りたいと思います。
来月末には厳島神社へ行く予定です。今回は日程的に無理ですが、本当は、
尾道から「しまなみ海道」を通って、大三島へ行って見たいと思っています。
明日送ります文庫本にも、しまなみ海道のことについて、興味深いことが
書かれています。お楽しみに!
[12] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月23日 01時29分46秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
>デジタル化されている『遠江国風土記伝』によると神服部に関しては、
>従五位下神服部称宿祢今世云目代
>織造神衣者岡本村神氏世世服部也
神服部についての記述が全く目に入っていませんでした。
恥
従五位下神服部称宿祢今世云目代とは 身分が高かったんですねぇ。
織造神衣者岡本村神氏世世服部也 つまり三輪氏=服部
ここで 三輪氏と服部氏の関係で思い出すのは
三つ柏さん
興和という製薬会社を思い出します。
製薬会社の興和のトップは三輪さんですが
元々は
1894年綿布問屋「服部兼三郎商店」だったのが自裁によって現在は製薬会社になっている。
服部兼三郎の旧姓は堀尾。
養子に入って服部姓に。
出生地は尾張国丹羽郡古知野村(愛知県江南市)
遠江国敷知郡山口村(現在の静岡県湖西市)出身の豊田佐吉に資金援助をした人。
堀尾氏というと秀吉の家来で知られているけれど
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/horio_k.html
出自は高階氏で
天武天皇の皇子高市親王の子・長屋王の後裔にあたる。
高階で思い出すのは清盛の最初の奥さんですね。
高階基章の娘で明子って名前でNHK大河には出てましたね。
コピペ:
高階業遠から十二代目の邦経が尾張国丹羽郡供御所村を領していたと伝えられ
早くから尾張に根をおろしていたようだ。
五代後の忠泰が斯波義重に仕えて勲功があり、 はじめて堀尾氏を称したという。
そのため守護斯波氏、守護代織田氏などの被官としてあったわけで、
吉晴のとき長浜時代の秀吉に仕えることになった。
そこに三輪さんが絡む。
瞬殺されるのがコワイのでここでアップ。
[13] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月23日 01時59分20秒 ) | パスワード |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E6%B8%85%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE
ここで思い出されるのが蜂須賀小六の奥さんの「おまつ」さんの実家の真清田神社。
「おまつ」さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8C%A0%E9%99%A2
大匠院(だいしょういん、? - 慶長16年4月23日(1611年6月4日))
戦国時代から江戸時代前期にかけての女性。
蜂須賀正勝の正室。名は松、まつ。
出自は不詳であるが、父は豊臣秀吉の家臣・三輪吉高、または尾張国の豪族・益田持正という説がある。
また三輪吉高が仕えていた北畠具教の側室であったとする説もある。
蜂須賀正勝の正室として嫁ぎ、永禄元年(1558年)に蜂須賀家政(徳島藩祖)を生む[1]。
真清田神社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E6%B8%85%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE
愛知県一宮市真清田1-2-1
主祭神は天火明命
愛知県北西部、一宮市の中心部に鎮座する。
創建は詳らかでないが、
古代に尾張地方を治めた尾張氏の奉斎に始まるとされ、
尾張氏祖神の天火明命を祭神とする。
中世には尾張国の一宮に位置づけられ、一帯の地名「一宮」はこの真清田神社の社格に由来する。
『真清田神社史』では、
尾張氏が大和葛城地方から尾張に進出し、
崇神天皇頃にあたる尾張氏一族の倭得玉彦命(『先代旧事本紀』「天孫本紀」に見える人物)の時期に神社が創祀されたと想定している[8]。
現在でも一宮市の市章は真清田神社の神宝がモチーフとされるように、古くから一宮地域の発展に関わってきた古社である。
真清田神社の五鈴鏡をかたどったもので、
明治42年、当時の小学校校長・服部康吉、原田清太郎、佐藤佐太郎、桜井義一の四氏によって作成され、
児童の校帽徽章として採用されたのが始まりで、
市制施行の翌年、大正11年10月2日、初代市長・日野常太郎氏のときに一宮市の市章として決定したものです。
この部分にも我が家の<一族系>の名字がいくつか・・・笑
真清田神社の創建について現在の真清田神社社伝では、
祭神の天火明命は大和国葛城地方(現・奈良県葛城地方)の高尾張邑を出て、
神武天皇33年3月3日に当地で鎮祭されたのが始まりとする[1]。
一方古文献では、
真清田神社の創建に関して初代神武天皇の時とする説、第10代崇神天皇の時とする説の2説が知られる[7]。
出自・創建ロンダリングでしょうね 笑
永万元年(1165年)の「神祇官諸社年貢注文」に「尾張国一宮 八丈五疋」とあるのを初見として、
平安時代末期以降に真清田神社は尾張国で一宮の地位にあったとされ[2]、
これは現在の一宮市の市名の由来にもなっている[5]。
一宮に次ぐ尾張国二宮は大縣神社(犬山市宮山)、
三宮は熱田神宮(名古屋市熱田区)とされるが[2]、
神階・格式の点では熱田神宮の方が尾張国で最高位にあり矛盾する[2]。
この点については古来諸説が挙げられているが、
今日では尾張国府との距離関係の反映とする説や、東海道における京からの位置関係の反映とする説が一般視されている[2]。
真清田神社は古来多くの社領を有したが、
それらは「真清田荘」として荘園化し、平安時代末には八条院領のうち安楽寿院領に含まれた[11]。
嘉禎元年(1235年)の文献によると、社領は水田129町9反300歩、うち定田は96町120歩で、
旧中島郡のほか葉栗郡・愛智郡・海東郡・海西郡一帯に分布したとされる[3]。
中世期の他の文書からも、社領が広範囲に渡った様子が指摘される[3]。
また天文年間(1532年-1555年)からは佐分氏が神職を務めるようになった(幕末まで世襲)[3]。
その後天正12年(1584年)には大地震で社殿が崩壊し、豊臣秀吉に社領も没収されて社勢は衰えたという[10]。
ちなみにここにある服織神社は昭和40年の創建です。
汗
こういう古い時代から服部と三輪が親しくなっていったのかな?と。
[14] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月23日 03時11分07秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ご本の到着を待っています。
楽しみです。
やはり日本人というのは大昔から何重にも結ばれているのだなと。
日本人はみんな多分ほんとうに親戚なんだろうなと。
これまでにいろいろな人と知り合って来たけど
中に
名字が尾張さんで
東京のお屋敷が高松宮家のすぐご近所で
ご自身は神戸の出身で大学が千家の先代さんと同級生で
娘が皇后さまと同じ学校で
と言う人がいましたが
全然反発も感じず「尾張さん」のお話をふんふんと聞いていました。
きっとこの人の先祖とわたくしの先祖は敵同士になったことが無いのかも。
従兄の顔が興和製薬の超優秀な息子の三輪さんにそっくりなのも従兄の母親の先祖がらみなのかなと。
今朝は浜名湖がらみでツラツラ空想が飛びました。
ニュースは選挙速報と台風情報ばっかり。
やっぱり自民党に神風が吹きましたね。
他の党については、台風が蹴散らした?
その前に
マスコミのフェイクニュースに一般日本人は踊らされてなかった?
世界的に今年の選挙は ホンネ 選挙だったのかも。国民はポリティカル・コレクトネスにはウンザリだったのかも。
それにしても墺国の31才の若者、この子、貴公子オーラがすごい。♡
小泉孝太郎も立候補したら弟を押さえて首相の座が転がり込むかもね。
基本的に外見「誠実そう」オーラがあるから・・・弟は「ヤンチャそう」だからね
5馬身差ぐらいで孝太郎が勝つんじゃないかな?
笑
[15] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月23日 10時24分44秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
三日前に図書館へ行き、昔の番地表示のわかる資料を探していましたら、
「○○村土地宝典」という資料を見つけました。それは昭和12年の番地
地図でありました。その中に書かれていました賛助員御芳名の中に、私の
父の名前と、大本家筋の名前が仲良く載っており、それは「服部兼三郎」
(医者)でありました。つまり、父(故人)とは同時代に生きていたということ
がわかりました。現当主から数えて4代前でありますので、たぶん父より
15歳位は年上だと思います。なぜこの名前を付けたのか……興和の服部
兼三郎とは2世代位違いますが、トヨタの後ろ盾となった兼三郎にあやか
ったのでしょぅか……?。
今回の「おんな城主直虎」は、「長篠の戦い」を中心に描かれ、「織田信
長」も本格的に登場……緊迫感もあり、面白くもあり、充実しておりました。
徳川家康の役柄・演技も大分落ち着いてきましたし、直政の役柄・演技も
今までオーバーアクション過ぎましたが、落ち着いてきました。
このところ、長篠や新城によく行っておりましたので、親近感を感じまし
た。
今後のドラマの方向性がどうなるのか、クライマックスに向けて盛り上が
って行くものと思いますが、秀忠の誕生やら信康の死、服部半蔵の介錯中断
なども描かれのでしょぅか? さてさて……どんな具合になるのやら?
[16] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月23日 15時07分14秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
不思議ですね
服部兼三郎と同名でしたか。
何かあったのかもですね。
やはり 何か不思議なものが 存在しているのかもですね。
本日の回の いじわる小姓の酒井小五郎 というのは
酒井家の嫡男の幼名のようで 酒井家次 のことのようです。
http://senjp.com/iethugu/
酒井家次:古参の譜代名門で徳川四天王筆頭の子
酒井家次(さかい-いえつぐ)
1564年、酒井忠次の嫡男として生まれた。 (ちなみに井伊直政は1561年生まれで年上だから 悔しさ倍増だったんですね)
母は正室である松平清康の娘・碓井姫(徳川家康の叔母)。 (家康のイトコでは身分が違い過ぎますね。本多正信の言う通りでした)
この頃、父・酒井忠次は徳川四天王のひとりとされ、徳川家康の重臣として活躍しており、小原鎮実を破って、吉田城主となっている。
(酒井忠次役のみのすけさんはピッタリの体形ですね)
兄弟:
本多康俊 三河国宝飯郡伊奈郷の伊奈城主の本多忠次の養子になった
小笠原信之 信濃国伊那郡の松尾小笠原氏当主・伊那郡松尾城城主・ 小笠原信嶺の養子になった
酒井家次(酒井左衛門尉家次)の幼名は小五郎で、 ← 代々小五郎なんでしょうね
幼いころから徳川家康に仕えたとされ、
1575年、武田勝頼との長篠の戦いにも父と共に参戦。 ← 12歳の年ですね。15歳の直政が悔しかったのは、なるほど!
1588年に父・酒井忠次(62歳)が隠居すると、25歳で家督を継ぎ、1589年には、従五位下宮内大輔となった。
正室は榊原政吉の娘。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めでは、本多忠勝・榊原康政・平岩親吉・鳥居元忠・大久保忠世・井伊直政と七組で徳川家の先鋒を務めた。
徳川家康が関東に移封となり江戸城に入ると、下総国臼井に37000石(4万石とも)を与えられ、下総・臼井城主となっている。
なお、この時の酒井家の約4万石は、本多忠勝、榊原康政、井伊直政らよりも半分以下の評価であったため、父・酒井忠次は徳川家康に抗議をしたと言う。
しかし「お前でも我が子が可愛いか」と言われ、酒井忠次は引き下がったとされる。
つまり出来が悪かったということでしょうね。
大河ドラマの酒井小五郎は実像だったのかも。
1600年、石田三成との関ヶ原の戦いでは、中山道を徳川秀忠に従って進み、上田城の戦いにて真田昌幸勢とも戦うが、
この時、酒井家次の軍勢は、真田勢を城壁まで追い散らす活躍したとされる。(軍記違反をし撤退したともされる。)
また、与力に朝比奈常陸泰朝という武将が見受けられる。
1604年、酒井家次(41歳)は上野・高崎藩5万石に加増・移封されて、高崎城主となると、内政と兵農分離を進めた。
1616年、越後・高田藩10万石に加増移封されたが、これは徳川家臣の譜代では屈指の大身でもあり、徳川秀忠の信頼も厚かった事が伺える。
1618年3月15日に死去。享年55歳。
家督は長男・酒井忠勝が継ぎ、1622年には138000石となっている。
[17] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月23日 15時30分30秒 ) | パスワード |
先週の「直虎」で
草履用の棚を作って御家来衆の名前を貼った時、気付きましたか?
「服部半蔵正成」でしたよ。
今回のは忘れました。
あの鷹匠のノブは本多正信だった
というのは
もっと前に鷹匠役で「相棒」の米沢さんが出た時には 全く気づきませんでした。
米沢さんでも大河ではチョイ役なのか、と思ってました。
で、先週、え?じゃ、ノブはあの家康の参謀の 本多正信 のことだったの?!
とビックリしました。
本多正信は酒井家を嫌ってましたね。
何か理由があるんでしょうね。
http://books.google.com/books?id=D0rCELMQ71YC&pg=PA444&lpg=PA444&dq=%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%AE%B6%E3%81%A8%E9%85%92%E4%BA%95%E5%AE%B6%E3%80%80%E7%A2%BA%E5%9F%B7%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=V9ikmqFLA8&sig=LGHW5LkwCKkzBA2xC793W3U77Qs&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiumNvAjobXAhXEw1QKHWp1D8gQ6AEIMDAB#v=onepage&q=%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%AE%B6%E3%81%A8%E9%85%92%E4%BA%95%E5%AE%B6%E3%80%80%E7%A2%BA%E5%9F%B7%E3%80%80%E3%81%AF&f=false
徳川四天王: 家康に天下を取らせた男たち
By 川村真二
以下コピペ:
これを知った軍監・本多正信は怒り、模敗の責任 ... では
本多正信と榊原康政、大久保忠隣、酒井家次らとの間に強烈な確執が生じた。
案外一向一揆のあたりに本多正信と酒井家の確執があったのかもですね。
[18] | 酔石亭主さんからのコメント(2017年10月23日 19時52分09秒 ) | パスワード |
空の青海のあをさん
私自身は神服部家は独立した家系であり、三輪氏ではないと考えています。ただ、この周辺地域には三輪氏系の神人、神直などの名前が多く存在していました。それに『遠江国風土記伝』の神氏は代々服部だとの記事を重ねると、神服部氏=三輪氏で論理の筋は一定程度通ってしまいます。こうした筋立ては私自身よくやっているので、理解できる面もあります。
神服部家は独立した家系のはずだが三輪氏と考えても筋は通るとなると、最後は初生衣神社の神服部宮司さんに聞くしかないと…。少し気になるのは、私が以前お話を伺った神服部さんが今もご健在かどうかですが…。
空の青海のあをさんが取り上げられた真清田神社は一見すると尾張氏の神社かと思えますが、旧美和郷内に鎮座しており、中身をあれこれ見ていくと本来は三輪氏系の神社と言ってもよさそうな状態です。同じ一宮市内に鎮座する大神神社(グーグル地図では尾張国一之宮大神神社とあります)や真清田神社の別宮・三明神社などに絡めて見ていくと、そうした部分が浮き彫りになってきます。
大神神社の南には多氏系の大神社が鎮座し、元伊勢の酒見神社もあって、大和から多くの氏族が流入した模様。他には伊福部氏系の神社もあり、また継体天皇の伝説などもあって歴史探求には楽しい場所ですよ。史料を見るなら一宮の駅ビルに図書館がありますし、駅前のレンタサイクルは無料なのでとても便利です。
[19] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月23日 21時09分16秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
ありがとうございます。
>最後は初生衣神社の神服部宮司さんに聞くしかないと…。
>少し気になるのは、私が以前お話を伺った神服部さんが今もご健在かどうかですが…。
ご本人が下記の番組に出ていらっしゃった記憶です。
50歳代だったような?
http://www4.nhk.or.jp/onamae/x/2017-09-07/21/22023/2291019/
9月7日(木) 午後7時30分
人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ!
【部のつく名字】昔は○部が9割?
「部」サマの“ある歴史的事実”とは?
じつは1400年前の庶民のうち、最大で9割が「部」を名乗っていた。
古代日本に実在した“ユニークな職業”を一挙公開。
渡部、綾部、澤部などの名字で目にする「○部」サマ!
テーマは、最新研究でわかった“ある歴史的事実”!
1400年前の庶民のうち最大で9割が「部」を名乗っていた。
しかも日本人の“名字のルーツ”だった。
さらに「部」サマを見れば、古代日本に実在した“ユニークな職業”が丸わかり。
毎年夏にミラクルを起こす職業、“天皇のオンザロック”と呼ばれる高級リキュールを作る職業、
神様専属のアパレル集団など ← ココで出てました
盛りだくさん。
[20] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月23日 21時36分32秒 ) | パスワード |
「神様専属のアパレル集団」
ということで
浜松の神服部さん?が系図を紹介していらっしゃった記憶です。
ものすごく古い書物で
それこそ1400年分という感じでした。
何代目、ということは紹介してなかった記憶です。
わたくしは母方で84代目なので(遠〜い一族では87代目がいる感じ)
神服部家1400年分なのかな?と見ていました(先入観まるまる入ってます)
では源頼政によって遠江に送られたあの占い師?が赴任する前の代々の神服部さんの分も書かれているのか
と見ていました。
この録画は最近消してしまいました。
今春からプロバイダー契約が変わって
慣れていないので手違いにより違う録画番組をチョクチョク消してしまうので
(直近では綾瀬はるかの「ギャラクシー街道」を見ようと思ったら消してしまってました)
録画は見たら消すことに決めているので、神服部さんのも消してしまいました。
残念っ
[21] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月23日 22時16分16秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
徳川四天王について簡単に纏めてあったサイトをご紹介。
これを読むと本多正信の立ち位置が良く分かります。
ドラマでは皆さん中年のオジサン達が演じているので「直虎」の中での役とギャップが有り過ぎて、へぇ〜、でしたから:
http://usefultopic.com/archives/2959.html
徳川四天王とは酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政
徳川四天王とは、徳川家康が艱難辛苦の時代から江戸幕府を創設する頃までに徳川家を支えた前述の4人の武将です。
徳川四天王の言葉がいつ生まれたのかははっきりとはしていませんが、有力なのは4人の武将が叙位任官されたとき。
この説が正しければそれは1586年頃になります。
織田信長が本能寺の変で倒れたのが1582年。
豊臣秀吉が小田原征伐で後北条氏を倒し天下統一を果たしたのが1590年。
豊臣秀吉が亡くなり関ヶ原の戦いが起こったのが1600年。
そして徳川家康が江戸幕府を開府したのが1603年。
徳川家康が天下を取るはるか以前に、徳川四天王の言葉は生まれていた。そのように考える事ができそうです。
四天王については、他にも武田四天王や上杉四天王が知られています。
しかし、武田四天王や上杉四天王は、そこにあげられる4人の武将が確定していなかったり、実在が疑われている人物もいます。
それに対して、徳川四天王は4人の武将も、その事績もある程度はっきりしているのが特徴的と言えそうです。
なお、徳川四天王を生年順にご案内すると、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政。
徳川四天王 1 酒井忠次(さかいただつぐ)
酒井忠次の生年は1527年、没年は1596年になります。
徳川四天王の中では一番の年長。
また、主君である徳川家康の生年が1543年、没年が1616年なので、酒井忠次は徳川家康よりもずっと年長であることがわかります。
酒井忠次は徳川家康の父である松平広忠の時代から松平家(後の徳川家)に仕えます。
しかし松平広忠が家臣に殺されると、松平家の運命は風前の灯。
松平氏は隣国の今川氏に従属する道を選び、嫡男である(後の)徳川家康を人質に出すことになります。
このとき徳川家康に随行した家臣の一人が酒井忠次。
この時点で酒井忠次は重要な立場であったことがわかります。
1560年に桶狭間の戦いが終わると徳川家康は人質生活から解き放たれて岡崎城に帰還。
酒井忠次も家老の一人に取り立てられます。
その後は、今川氏を倒すための駿河侵攻で武田氏と外交交渉をしたり、
浅井長政・朝倉義景と対戦した姉川の戦い、
武田信玄と対戦した三方が原の戦いなど徳川氏の重要な戦いに参陣をしています。
酒井忠次は、交渉ごとや戦いの場、どの場面においても徳川家康にとっては欠かせない人材であったと言えるでしょう。
しかし、酒井忠次の運命の歯車は少しずつ狂ってきます。
それは1579年に徳川家康の嫡男である徳川信康が織田信長に謀叛の疑いをかけられたときのことです。
織田信長は酒井忠次を呼び出し、ことの真偽を確かめます。
このとき酒井忠次は主筋である徳川信康をかばうよりも、むしろ織田信長に同調。
結果として徳川信康は切腹に追い込まれ、酒井忠次自身も徳川家康の不興をかっています。
(最近では徳川家康と徳川信康の間に深い対立があり、徳川家康自身が嫡男の徳川信康を疎ましく思っていた。そのため織田信長や酒井忠次の協力を得て徳川信康を廃嫡に追い込んだとも言われています)
徳川信康が切腹して後も酒井忠次は徳川家において重要な地位を占めます。
この当時の、徳川家で重要な立場であったのは酒井忠次と石川数正。
しかし、1585年に石川数正が豊臣秀吉の元に出奔。
この事件で酒井忠次は徳川家の筆頭家老となります。
酒井忠次は1588年に加齢と病気を理由に嫡男の酒井家次に家督を譲ります。
そして1596年、京都でその生涯を閉じます。
ところで豊臣秀吉が後北条氏を攻め滅ぼした1590年の小田原征伐の後、豊臣秀吉の命で徳川家康は関東に移ります。
このとき、徳川四天王である本多忠勝、榊原康政、井伊直政には10万石以上が与えられたのに対し、酒井家次には僅か3万石。
そこで隠居をしていた酒井忠次が徳川家康に文句を言ったとき、徳川家康に「そなたでも子がかわいいか」と言われた逸話はとりわけ有名です。
しかし、徳川信康を切腹に追い込んだのは徳川家康の策略によるものだとしたら、このような言葉はでてこないはず。
この逸話は有名ですが、最近ではフィクションではないかとも考えられています。
徳川四天王 2 本多忠勝(ほんだただかつ)
本多忠勝の生年は1548年、没年は1610年になります。徳川家康よりは約5歳の年少になります。
本多氏は本多忠勝以前から松平氏の譜代です。
もっとも徳川家康の名参謀と言われた本多正信とは同じ本多一族ではあっても別の家系。
本多忠勝は本多正信を嫌っていたと言われています。
本多忠勝については多くの逸話があります。
1560年の桶狭間の戦い、本多忠勝は13歳で初陣を果たします。
そのとき叔父が敵兵を討ち取り、その手柄を本多忠勝に譲ろうとしたところ、
本多忠勝は手柄は自分の力でとるとその申し出を断り、実際に自らの力で戦功をあげています。
1570年の姉川の戦いでは敵兵1万人の前を単騎で駆け抜け、敵の意表をつき味方の危機を救っています。
1582年本能寺の変の時、徳川家康は堺を遊覧。
明智光秀から逃れられないと考えた徳川家康は切腹しようとします。
それを押しとどめたのが本多忠勝。
結果、伊賀越えを果たした徳川家康は生き延びることができています。
1584年の小牧長久手の戦いでは、敵の軍勢数万人の前を僅か500名で敵に対峙。
敵であった豊臣秀吉もその豪胆ぶりに感動し、本多忠勝に攻撃を仕掛けることを禁じます。
また、本多忠勝には他にも逸話が残っています。
本多忠勝の持つ槍は蜻蛉切といわれています。
これは、本多忠勝の槍の穂先に蜻蛉がとまったところ、蜻蛉が真っ二つになってしまったことからつけられたものです。
本多忠勝が武田氏と戦ったとき敵である武田氏の家臣から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と讃えられています。
唐の頭とは、当時の武将の間で流行った兜で高価なことで知られていました。
本多忠勝はその他にも織田信長や豊臣秀吉から称賛をされています。
本多忠勝の何よりの自慢は戦上手だったこと。
本多忠勝は生涯で57回の戦に臨んでいますが、1回もかすり傷さえ負うことがなかった。
そのため、徳川家康が戦いに臨むに際して最も頼りにしたのが本多忠勝。
そうした戦功の数々もあって1590年上総国で10万石、さらに1601年には伊勢国桑名に移封されています。
本多忠勝が本多忠政に家督を譲ったのは1609年。
翌年1610年に病死をしています。
徳川四天王 3 榊原康政(さかきばらやすまさ)
榊原康政の生年は1548年、没年は1606年になります。
徳川四天王の一人としてご紹介した本多忠勝とは同い年になります。
榊原康政の出自ははっきりとしない部分があるものの松平氏にとっては家臣の家臣。
つまり陪臣であったと考えられています。
それが徳川家康の目に留まり、桶狭間の戦いの後に徳川家康の小姓を務めています。
榊原康政自身は多くの戦に参加をしています。
その数は前述の本多忠勝と大きく変わることはありませんし、
実際にそれぞれの戦場で武功も挙げています。ただ、
本多忠勝ほどの逸話はあまり聞こえてこないようです。
榊原康政の知名度がとりわけあがったのが1584年の小牧長久手の戦い。
小牧長久手の戦いは織田信長の後継者争いの戦いで、具体的には豊臣秀吉と織田信長の三男である織田信雄がぶつかった戦いです。
もっとも豊臣秀吉対織田信雄というよりも、
実質は豊臣秀吉と織田信雄を支援した徳川家康が唯一直接にぶつかった戦いとして有名です。
小牧長久手の戦いで榊原康政は豊臣秀吉を馬鹿にしたような立札をたて豊臣秀吉を挑発します。
戦力的にははるかに勝る豊臣秀吉。
その豊臣秀吉を怒らせて、戦術の失敗を誘い出そうとした立札と考えられていますが、案の定豊臣秀吉は立札に激怒。
小牧長久手の戦いは戦だけを見れば徳川家康の勝利と言われていますが、
その戦功の一部は豊臣秀吉を怒らせ判断を誤らせることに成功した榊原家康にあるとされています。
その後、徳川家康が豊臣秀吉に臣従することになり、榊原康政は徳川家康に随行し上洛を果たします。
豊臣秀吉を激怒させた榊原康政。
榊原康政は大きな処分を受けても不思議ではありませんでしたが、榊原康政に面会した豊臣秀吉はむしろ称賛。
榊原康政は面目を施したと伝えられています。
榊原康政は1590年に上州館林で10万石の大名になります。
そして1606年に病死をします。
榊原康政は戦場での武功は本多忠勝に劣ると言われていたようです。
しかし、一軍の将としては本多忠勝よりも優れているとされていました。
なお、徳川四天王の中で酒井忠次を除いた3人は比較的年齢が近かったため、
榊原康政は本多忠勝とも井伊直政とも仲が良かったと伝えられています。
徳川四天王 4 井伊直政(いいなおまさ)
井伊直政の生年は1561年、没年は1602年になります。
井伊家は松平氏の家臣ではなく、小さいながらも井伊谷という地域を治める領主でした。
もっとも独立して他と戦うほどの力はなく、井伊直政が生まれたころはまだ今川氏に従属する立場でした。
しかし、1560年桶狭間の戦いで今川義元が討死するとその関係に変化が生じます。
井伊家は徳川家康に接近をすることを画策します。
そして、1575年に井伊直政は徳川家康の小姓になることに成功します。
井伊直政は徳川家康の元で順調に出世をしていきます。
その井伊直政を一躍有名にしたのはいわゆる「赤備え」。
戦国最強の軍団と言われていたのは武田氏です。
その武田氏の中でとりわけ勇猛で知られていたのは山県昌景。
山県昌景の部隊は全身朱色の軍装をすることで知られていました。
武田氏は1582年で滅亡をします。
当然、武田家の家臣は牢人の身分となりますが、それを積極的に採用したのが徳川家康。
また、山県昌景の赤備えを引き継いだのは井伊直政。
井伊直政の赤備えが初めて戦場に現れたのは1584年の小牧長久手の戦いと言われていますが、
その勇猛ぶりから「井伊の赤鬼」と恐れられるようになります。
井伊直政の領地が大幅に増えたのは、本多忠勝や榊原康政と同じように1590年。
ただこの2人と異なっていたのは本多忠勝や榊原康政が10万石であったのに対して、井伊直政は上野国箕輪12万石を与えられたこと。
井伊直政は徳川四天王の中で最も年少。
また、武功はあったとはいえ戦歴を考えたら本多忠勝や榊原康政よりは劣ります。
徳川四天王の中でどうして井伊直政が優遇されたのかはわかりません。
ただ出自を考えると元々の身分は小さいとはいえ井伊氏は井伊谷を治める領主。さらに井伊直政は井伊家第24代の当主と、由緒ある家柄を誇る。
こうした点が考慮された可能性は否定できません。
実際、井伊直政は関ヶ原の戦い後18万石で移封。
移封された彦根で井伊氏は幕末まで生き延びています。
井伊直政は関ヶ原の戦いで鉄砲傷を負います。
その鉄砲傷が原因で1602年に亡くなります。
徳川四天王の他の3人が病死であったのに対して、井伊直政は戦場で受けたケガにより死を迎えています。
さいごに 徳川四天王の役割とは
徳川四天王は徳川家康が関ヶ原の戦いで天下を取るまで活躍した武将と言えそうです。
徳川四天王の中で酒井忠次だけは関ヶ原の戦い以前に隠居していますがこれは加齢によるもの。
それ以外の3人も関ヶ原の戦い以降の活躍はそれほど知られていません。
これは徳川家康の状況によるものと考えられます。
徳川家康が関ヶ原の戦いで勝つまでは、何といっても武力が重要だった。
そのため戦うことに優秀であった4人が徳川四天王として存在した。
しかし関ヶ原の戦いで勝利し、1603年に江戸幕府を開くころには武で治めるよりも、
むしろ外交で政治を進めることが多くなった。
そうなるといわゆる武断派よりも文治派の方が徳川家康にとっては重要になった。
その代表が本多正信です。
徳川家康の立場が変わることで、徳川四天王の役割の重要性も失われていった。
それが徳川四天王であったように思われます。
よく纏めてあって「直虎」の井伊万千代の現在が なるほどねぇ〜 と分かり易かったです。
今後の「直虎」が楽しみ易くなりました。
なるほどね
本多正信は秀吉政権の石田三成のような存在だったのですねぇ。
オトコ世界の妬みや嫉妬やプライドや器が立体的になって来ました。
本多正信が一向一揆で家康に盾突いて離反して戻ったというところや
家康が再雇用したというところや
秀吉が器の大きい人物だったことなど
思い出し易かったです。
サイト主さん
ありがとうございました。
ぺこり
[22] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月24日 01時27分01秒 ) | パスワード |
今日は7時半から胃癌と大腸癌の内視鏡検査の日です。
4時半からは 水も飲んではいけない そうです。
歯磨き時のうがいの水も飲みこまないように だそうです。
父方母方の祖父達が胃潰瘍になってたので胃癌検査もお願いしました。
勝手に 胃癌だったんだろうな と解釈しているので。
胃癌は日本人の国民病で大腸癌は最近のハヤリだそうで早期発見に期待することにしました。
友人が大腸癌を心配して検査を受けたらポリープが出来てて検査でとって貰ってたので2人で安心してたら
なんと胃癌になってて75%切除で
お蔭で糖尿病の入り口だったのが正常になりました。食べられないからね。
その後
肺癌の初期なのが見つかって
今年の冬は風邪を引いて肺炎にしないように
と言われているそうです。
大腸癌をやると膀胱に転移して
女性の場合は
更に子宮癌とか卵巣癌に転移するんじゃないかなと。
運がいいと?
大腸癌から手っ取り早く肝臓に転移して3か月未満で
サヨナラサヨナラサヨナラ。
早期発見ならストーマにしなくて済むかもね。随分改良されてるという話です。
もっと運が良くて
大腸癌でもヒゲキの出口に近い所じゃなくて
小腸の近くならフツーに生きていけるし。
朝比奈系の友人が大腸癌じゃなくて大腸憩室だったそうで
1年ストーマで暮らしていた時に
突然!
袋が満杯になって溢れた悲劇を経験したそうです。
ストーマはコレがオソロシイです。
だから内視鏡検査を受けようと思ったのです。
つい最近「ためしてガッテン」で胃癌の内視鏡検査の様子を放送してたので
父方母方祖父達をダシに「胃癌検査の方がもっともっとずっと希望です」と言ったのです。
[23] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月24日 10時53分20秒 ) | パスワード |
酔石亭主様
特に古代史を考える時、いつも「何が真実なのか」というテーゼにぶつ
かってしまいます。諸説紛々で、同じ主張はありませんし、同じようなも
のでも微妙に違っている。こんな中で、より確度の高い「点」と「線」を
求めて行かなくてはなりません。それは、危険な岩礁地帯の海を航海する
のに似ています。どこにあるかわからない暗礁を、行きつ戻りつ掉さしな
がら慎重に進まざるをえません。
ということで、海部氏の祖神「天火明」について、「鏡説」という新し
いテーゼと出会いましたので、ただ今「籠神社」中心に見直し作業を進め
出したところであります。
一般的に、神社に行くと、たしかに祭壇の中心近くに「鏡」が飾って
あるのを見かけます。それは単なる「物」「物体」ではなく、「御神体」
に近いものだとは推察できます。
ただ、その「鏡」という「点」が、「天火明」とどのような「線」(説明)
で結ばれるのか、そこの論理展開が重要だと思っています。最終的には、
天火明は、祖先(ヒューマンビーイング)として存在したのかしなかったの
か……ここが一番知りたいところであります。
酔石亭主様の「尾張氏の謎を解く」については、今パート24から26、
及び68を打ち出して読んでいます。全パートのすべてが一冊の本になり、
手に取って読むことができれば、一番正しく理解できるのですが……。
来年、丹後半島へもう一度行ってきたいと思っております。その目的は、
「卑弥呼」と「火明命」を中心とした謎解きであります――
[24] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月24日 11時16分15秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
テレビで見るドラマの四天王の概念は、その役者の顔でほとんどすべて
が決まってしまいます。そこが怖いところでもありますね。
そういう意味で言えば、百人の役者が直政を演じれば、百人の直政像が
できてしまうということになります。
もっとも、台本・演出によるところも大きいですが……。
健康であること、これに勝るものはありませんね。ちょっと痛い、ちょっ
とおかしい……それだけで、人間は悩むもの。全くデリケートな存在です。
私もそういった意味では小心者で、毎年カメラに上と下とあわせて2回
お世話になっています。その時、麻酔(精神安定剤)で「仮死」を味わいま
す。いきなりストンと意識が落ちてしまいますので、その過程を意識する
ことができないのが残念です。
人生の最期は、霊だけでも生き延びようと、往生際の悪い私になりそう
です――
[25] | 酒井ともさんからのコメント(2017年10月24日 14時51分32秒 ) | パスワード |
みなさま、こんにちは。
サイトには毎日、おじゃましては勉強をさせて頂いています。
横レスですが、よろしくお願いします。
こちらでは度々に伊勢の内宮・外宮関連の
お話を拝見しますので、記憶の片隅とサイトに残して頂ければと、書き込みます。
実は戸籍によれば、私の家族には母系を通じて「度会氏」の血が流れております。
戸籍の記載を正式に書けば「渡會氏」になります。
個人的には歴史好きを自称しておりますので、子供達にも少しは伝承せねばと
「長上郡の服部氏族」のお二人の見解を自分なりに解釈し、少しづつですが、調べました。
ただ、優良・無良サイトでの解説ですので、眉唾もあるかと思います。
「伊勢国の伊良虜の島(愛知県渥美郡伊良湖岬)」
大神宮諸雑事記によれば、初代伊勢神宮の斎宮「倭姫」の渥美半島への渡来。
渥美半島の中央部には伊勢神宮の神領(神戸領)
ついで、伊良湖岬の先端に鎮座する「伊良湖神社」の祭事「御衣祭」
伊良湖神社「伊良久大明神」
http://www.taharakankou.gr.jp/event/000004.html
伊良湖神社の草創は貞観17年(875)頃のようです。
そして御衣祭などの神事は代々の外宮禰宜が執り行っていました。
草創から永い間は「伊良久大明神」と称した伊良湖神社を営みに携わった
一流が渡會氏のようです。
伊良湖神社草創の頃に伊勢神宮の伊良湖御厨(神戸領?)を加護するべく伊勢中村の地を
出立した渡會(度會)氏も実は氏神の子孫を称したようです。
その後は代々伊良湖神社を信奉し、その周辺に土着し次第に氏子化したようです。
当家の母系の出自はその「渡會氏」なのですが、外宮の世襲社家は「度會氏」ですので、
伊勢中村より海を渡って、渥美へ移住した折りに苗字にも「さんずい」が付いたのかなと
勝手な解釈をしております。
機殿神社の由来や度会氏の南朝への貢献など40歳を過ぎて初めて知りました。
しかして、度会禰宜の南朝への傾斜にて、伊勢神宮の内宮がさらに優勢になったのかなとも感じました。
数年前ですが、初めて外宮に参宮し、度会國御神社に参拝しました。
仕事と母親の介護が落ち着きましたら、節目節目には参宮したいと思うこの頃です。
[26] | 酔石亭主さんからのコメント(2017年10月24日 18時58分35秒 ) | パスワード |
三つ柏服部さん
>「鏡」という「点」が、「天火明」とどのような「線」(説明)で結ばれるのか、そこの論理展開が重要だと思っています。
正にご指摘の通りです。なので、尾張氏の謎解きも誰かが火明命(=鏡)を奉じて大和を出、各地を巡回しながら尾張に入ったと言った筋立てでストーリー化している訳です。籠神社は海部氏の検討では最終到達地点となり、それ以前の場所から追って行く必要があります。久美浜町海士にいた海部氏は養老3年に現在の籠神社鎮座地に移住し、それが勘注系図に彦火明命の天下りとして書かれています。
一方、それよりずっと前に海士にいた海部氏の一部は峰山町五箇に移住し、神服連海部直の子となる笛連王がここに国府を造ります。この場所の近辺が豊鍬入姫命の元伊勢与謝宮になり、後代の海部氏の一部はその情報を持って移動し、現在の籠神社摂社に当たる真名井神社にて祀ったと考えられ、ここが元伊勢・与謝宮と称せられることになりました。つまり、籠神社と真名井神社は同じ海部氏でも由来や時代が全く異なるものとなります。
詳しく書くと長くなり過ぎますし興を削ぐかもしれませんので、ここまでとして参考になる資料を幾つがご紹介します。
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/ooe/ttangicidx.html
上記は丹後の地理や歴史に何の知識もなかった私にとって、ほとんどバイブルのようなものでした。特に五箇・峰山町や久次・峰山町は謎解きのカギともなりそうな場所なので重要です。事前にお読みいただければと思います。また各神社も網羅され実に詳しい内容となっています。私の記事の場合自分の独断的な考え方で書き進めていますので、むしろ上記ホームページを参照して三つ柏服部さんの考えを纏めた方がいいようにも思えます。その上で検証のため「尾張氏の謎を解く」シリーズを見て頂いた方がベターかも…。
書籍では学生社の『古代海部氏の系図』、籠神社が発刊した『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』あたりでしょうか。同社の社務所tel:0772 227 0006にお問い合わせされれば両方とも手に入ると思います。
丹後方面に行かれたら元伊勢も検討の俎上に上がってくるかと思いますが、元伊勢内宮皇大神社は愛知などでは見られないほどの神域感を持つ神社です。時間が許すなら必見です。
最近パソコンが絶不調なので、もし質問を頂いても返事がないような場合は、壊れてしまったためとご理解ください。
[27] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月25日 15時25分58秒 ) | パスワード |
酔石亭主様
酒井とも様
空の青海のあを様
昨夜来、ずっと思考を重ねておりました。約20冊ほどの書籍に目を
通しておりました。何について探求しておりましたのかと申しますと、
「天火明」を中心に、「饒速日」、「卑弥呼」、「天照大神」等につい
てでありました。
まだ論述ができる所までは至っておりませんが(長くなります)、おお
よその対立軸、そして同一軸が見えてまいりました。
その対立軸とは――
@ 海人族 vs. 天孫族
A ヒルコ vs. ヒルメ
B 銅鐸 vs. 銅鏡
C スサノオ vs. アマテラス
D 饒速日 vs. 瓊瓊杵
その同一軸とは――
@ ヒルコ=スサノオ
A スサノオ―五十猛(親子)
B 五十猛=饒速日(神名)
C 饒速日=天火明
D 天照大神=卑弥呼
E 卑弥呼=日女命(倭迹々日百襲姫命)
酒井様が今回、このタイミング顔をのぞかせてくれましたこと、天か
らのお思し召しのように感じます。
それは何かと申しますと、酒井様の祖先の中の「度会(渡会)氏」は、
まさに伊勢神宮の中心にいて(国造であり神官でもあった)、その他の
伊勢海人族(宇治土公氏等)と共に、正に「アマテラス」の神話・創出に
関係していたからであります(宮廷において、天語連と猿女氏)。
古代史を解明するには、「アマテラス」の謎を解くことが、最大の
「突破口」になると直感いたしました!
そのための第一歩は、筑紫申真氏の『アマテラスの誕生』(講談社学術
文庫)を読むことである、ということを実感しつつあります!
赤引きの糸の伊勢神宮への奉納も、その延長線上にあります――
[28] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月26日 22時00分37秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
また台風の発生、そして接近の可能性ありです。二日後に芝刈りの大会が
あり、幹事でもありますので、気が気でなかったのですが、どうやら台風の
スピードが遅く、この辺への接近は月曜日になるということで、ひとまずは
胸をなで下ろしております。
でも、この秋は随分長雨と遅い台風に悩まされております。やはり地球全
体の気候変動が起こっている――これは間違いないように思います。
さて、『アマテラスの誕生』を読んでみました。その結果感じたことは、
猿女氏を中心としたアマテラスの偶像神話の創作といったような、今まで
にない所見が多々ありましたが、歴史論文というより、民俗学的読み物と
いった感じでありました。
でも、新たな視点が開けた感じはしております―が、それはそれとして、
他の説を根本から覆す程のインパクトはなく、あくまで一つの説として捉
えておきたいと思います。
また、持統天皇については語られていても、藤原不比等の関与・影響と
いうものにはほとんど触れられていないので、ちょっとがっかりもしまし
た。あえて、ややこしくなるので避けた―と推測しております。
いずれにしても、古代史は色々な角度から、色々な情報・説を見聞し、
より確度の高い情報の集合体にして行く、という方法しか道はないように
思われます――その一方で、頭の中からデータが消えて行き、堂々巡りが
反復されるというようなことのないよう、できるだけメモに残すという
ことを心がけたいと思っております――
[29] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月26日 22時28分02秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
『アマテラスの誕生』は一読する価値ありと思いますので、近い内に送り
ます。
『アマテラスの誕生』を人体で言えば、骨格のない肉の部分であります。
一方、たまたま見つけた千田稔氏の『王権の海』は、その骨格―つまり理論
敵実証がなされており、正に骨格と言えます。ここにも「天火明」や「アマ
テラス」の誕生について述べられております。
いずれにしても、ややこしいことに間違いありません。つまり、数式で表
すのが難しい―ということは、歴史は数学の世界ではなく、文学の世界なの
かなあと思ったりもします――
[30] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月26日 23時25分38秒 ) | パスワード |
酔石亭主様
「京丹後市の地名・資料索引」のサイト、お教えいただきましてありが
とうございます。来年、また丹後半島へ行こうと考えております。地図を
買っても、肝心な案内は付いておりませんので、このサイトは助かります。
特に行きたい所は、古墳―蛭子山古墳であります。というのは、我が家
から南へ1.6q行った所に「蛭子森古墳」があり、さらにその400m南
に「服織神社」があります。
この「蛭子森古墳」にはこんな言い伝えが残されております。即ち、秦
川勝の息子の貴平が、蘇我入鹿の乱を避け、聖徳太子の皇子三人を連れて
ここに避難して来たということです。やがて秦氏は姓を「内藤」と改め、
一村を開拓した。つまり、「蛭子森古墳」は、秦貴平かその三人の皇子か
が葬られていた古墳ではないかということであります。内藤家はまだ現存
しております。
聖徳太子の母は「穴穂部間人皇女」と言われておりますが、丹後半島に
「間人」という所があり、間人皇女の像も建てられております通り、丹後
半島との縁は深いようであります。また、そこには羽衣伝説もあり、絹織物
とも関係が深いように思われます。つまりは、海部氏や秦氏との関係が深
いものと推察いたします。
こちら遠江長上郡の「羽鳥」も、秦氏との関係が深い所であり、更には
海部氏―海人族と関係があるようであります(近くに安間町等あり)。
ということで、遠江と丹後をつなぐ「線」を見つけたいと思っておりま
すのですが、さてどうなりますか……。
[31] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月27日 09時40分07秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ご本を楽しみに待っていますね。
>『アマテラスの誕生』を人体で言えば、骨格のない肉の部分
>『王権の海』は、その骨格―つまり理論的実証がなされており、正に骨格と言えます。
面白そうですね。
神代の時代のことは迷路に入り込むばかりで
でも日本って「記録」の好きな民族性なので
そうするとヤッパリ「伝えているのだろうな」と思い
自分に読み解く力の無いのが情けないです。
ホノハヤヒとはどの神様なのか?
今は 「穂の国」の速日 なのかなと。
穂の国にいた 饒速日のような人物 という事なのかな
などと楽しく空想しています。
もう10月も終わりで、寒い寒い日ですよね
それなのに台風が来るって。呆
草刈り大会の日は強い風が吹かないといいですね。
笑
[32] | 酔石亭主さんからのコメント(2017年10月27日 18時49分14秒 ) | パスワード |
三つ柏服部さん
>C 饒速日=天火明
D 天照大神=卑弥呼
E 卑弥呼=日女命(倭迹々日百襲姫命)
に関して私なりの視点で読み替えてみます。
九州にあった女王国の女王で太陽を祭祀する巫女=卑弥呼=日巫女=オオヒルメムチ。
卑弥呼の死去→太陽祭祀の呪具である鏡と共に墓(=天岩戸)に葬られる。
卑弥呼の宗女である台与が墓から鏡を取り出す→『日本書紀』に日神が磐戸を開けて出たとき、鏡が戸に触れて小瑕がついたが、その傷は今もなおあり、それが伊勢に斎祀る大神(=天照大神)とある。
この時の心的・観念的操作により、太陽を祭祀する巫女・卑弥呼は太陽を象徴する呪具・鏡=太陽神天照大神に変容した。従って、卑弥呼は天照大神の原型とは言えるがイコールではない。では、なぜ九州にあるはずの天照大神(=鏡)が崇神天の時代になると大和の宮中にて祀られているのか?これが謎解きのキモだが、答えは簡単で、誰かが九州から大和に持ち運んだ、となる。
続いて舞台を大和に移し、天照大神(=鏡)を誰が大和に遷したのかを考えてみる。崇神天皇の時代は3世紀の終わり頃から4世紀の初め頃。それ以前に天照大神(=鏡)が大和に遷されたとしたら、担ったのは台与以外にない。よって、天照大神(=鏡)は卑弥呼の死後台与によって大和に遷された。大和(邪馬台国)の伝承では天照大神は第5代・考昭天皇の御代に宮中にて祀られ始めた。なぜか?
大和において新参者の台与は天照大神(=鏡)を大和勢力に献上せざるを得なかったからと推定される。台与が卑弥呼の宗女であり、太陽を祭祀する巫女だったとすれば、『日本書紀』に記された倭迹々日百襲姫命が台与となる。台与の都が魏志倭人伝に書かれた「女王の都とする所・邪馬台国」=纏向となる。箸墓古墳は台与の墓で、その築造には大物主神勢力(後の物部氏)も協力した。
纏向の人々は大和勢力(第10代・崇神天皇)に天照大神(=鏡)の返還を求めた。崇神天皇は三輪山周辺から去ることを条件に返還に応じた。このため台与の宗女である豊鋤入姫命は纏向の地を出ざるを得なかった。天照大神(=鏡)の奉斎と移動は倭姫命に引き継がれ、各地を流浪した末、伊勢の地にて祀られ、後の伊勢神宮となった。つまり、卑弥呼の女王国は最後には伊勢神宮になったと言うこと。
宮中から鏡がなくなり太陽祭祀ができず困った崇神天皇は、鏡作坐天照御魂神社(その時点で神社があったとは考えられない)の鏡作部に新たな鏡を作らせ、その試作品が天照国照彦火明命(火明命)と称せられたことになる。その名前の後にニギハヤヒが付けば天照国照彦火明櫛玉饒速日命となる。
ニギハヤヒは遠賀川流域にいた贄田物部(にぎたもののべ)の首長と推定されるが、190年頃鏡を携え大和に移住した。ニギハヤヒが持ち込んだ鏡も火明命と考えれば、両者が同体のように書かれるのも頷ける。また、尾張においては尾張氏の領域の北側が物部氏の領域となっており、両者は融合したような雰囲気さえある。だから両者の祖神が同じ名前で書かれたのかもしれない。
ニギハヤヒは人間として詳しく描かれているが、火明命の場合ほとんど存在感がないのも、それが鏡だからと考えれば理解できる。熱田神宮において火明命を祀るのは孫若御子神社だが、社名からして天照大神の孫神のような雰囲気で尾張氏の祖神としての位置付けもない。そもそも、尾張氏の祖神なら本宮で相殿神として祀られるべきなのに祀られてはいない。
時代は下り持統天皇の御代。彼女は天照大神を皇祖神として祀ることにした。そして自分自身をも天照大神に擬そうとした。天照大神は心的モチーフとしては、太陽を祭祀した巫女が死に太陽神・天照大神として再生したもの。すなわち死と再生である。秦氏は死と再生を司る一族。持統上皇が死の直前に三河行幸を決行したのは、東三河の秦氏から死と再生の秘儀を教示してもらうためだった。(注:持統上皇と秦氏を結ぶものは今のところ見当たらないので、これは私の希望的観測です)
Cを私なりに解釈してみました。別にこれが正しいと主張している訳でもなく、論理的整合性や時代性を考慮すると上記のようになるのでは、と言った程度の推測です。富士山に登るルートが幾つもあるように、異なる側面・観点から幾らでも検討可能と思うので、頑張ってください。
『アマテラスの誕生』だけでなく、その他の解説本も大して役には立たずかえって混乱を招きかねないので、現地訪問・調査と基本的な史料の読み込みだけをして、後はご自分であれこれ考えられた方が楽しいし、いいと思います。
蛭子森古墳に秦氏が関係しているとは知りませんでした。蛭子山古墳は行きましたよ。ただ、古墳内に何らかの文字資料が残されている訳ではなく、秦氏との関連は窺えません。
[33] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月27日 21時34分45秒 ) | パスワード |
酔石亭主様
貴重なる論及をいただき、感謝申し上げます。
ただ今より、集中して読ませていただきます――
[34] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月28日 06時47分51秒 ) | パスワード |
酔石亭主様
無駄のない凝縮された文章の中で、一連の流れ(点と線)が、よくわか
りました。
これを基に、私なりに肉付けして理解を深めて行きたいと思います。
「死と再生」のテーマは、酔石亭主様の「東三河の秦氏」を改めて読
みながら、その根源的成り立ちに向けて、総合的に探求してみようと考
えています。
また、特に、古代の宗教観と祭祀について、例えば巨大古墳は何のた
めに造られ、どんな祭祀が行われていたのか。
時代を下って、「服部神社」はどんな成り行きで造られ、どんな祭祀
が行われていたのか。
…等々を考えて行きたいと思います――
[35] | 酔石亭主さんからのコメント(2017年10月28日 18時53分00秒 ) | パスワード |
三つ柏服部さん
>これを基に、私なりに肉付けして理解を深めて行きたいと思います。
私の論考は独自の視点で書こうと言う気持ちが強く、独善的になりがちです。
なので、こうした見方もあるのか程度に見ていただければと思います。
解説本も大して役には立たないと書きましたが、私の記事も解説本と変わらない部分が多く、自分で自分を批判しているようなものです。(笑)
急ぐ必要はないので、じっくりご自分の軸を定めて取り組んでください。
[36] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月28日 20時59分41秒 ) | パスワード |
酔石亭主様
重ね重ねの御教示、ありがたく感謝申し上げます。
古代史の森は、一歩踏み込むと正に迷宮でありますので、その中に迷
い込んで余り時間を費やしたくないといのが本音です。なので、"数学の
ようにわかる"古代史の本はないかなといつも探しております。
そういった意味では、酔石亭主様の論及はわかりやすく、私には数学
に近いように感じられます。つまり数学=論理的であるということです。
持統天皇の三河行幸は、「岩戸隠れから天孫降臨に到るまでの神話全体
を現実世界で具現化する目的であった」というテーゼは実に壮大で、鳥肌
が立ちます。私も「国見岩」の上に上って(本当はいけない)、遠く三河湾
までの眺望を見た一人でありますので。
この三河行幸の謎解きも、数学を解くような論理追及がなされていて、
実に爽快です。これからさらに深く読み込んでみたいと思っております―
[37] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月28日 22時16分53秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
天気はあまりにも無情な結果となりそうです。芝刈り大会は明日の朝、
現地にて中止の発表の方向となりました。天候についての奇跡は起こり
そうもありません。
さて、また古代史の迷宮にまた足を突っ込んでしまいましたが、それは
実は「服部」「服織」「羽鳥」等の探求目的でもあります。
今回、古代におけるアマテラスに見られるような「機織女」「巫女」
の基本パターンについて、「服部」との関係を探そうとしましたが、
依然、「服部氏」は近くて遠い存在に終始しております。
服部氏が出て来るのは、「服部連」の頃からですが、本当は「ハトリ」
という言葉はその前からずっと存続していたのかも知れません。何語か
はわかりませんが、「ハ」「ト」「リ」のそれぞれに意味があるのだと
思っています。あるいは「ハト」+「リ」なのか、「ハ」+「トリ」な
のかも知れませんが……。
いずれにしても「絹」+「機織」+「巫女(織女)」の基本パターンの
向こうにある謎の探求を続けたいと思っています――
[38] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月29日 01時33分04秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ご本をありがとうございました。
昨日頂きました。
今日は出掛けますが、そちらで、まとまった長時間の待ち時間が出来ましたので
一気に読み通したいと思っています。
楽しみです。
岡山はどういうわけか「呼ばれる」感じがあるので
どういう経緯か分かるといいなと期待しています。
>また古代史の迷宮にまた足を突っ込んでしまいました
本当に!
で、いろいろネットで検索して読んでいますと面白くて止められないし。
古代史は真相が分からないからこそ、いろいろな人が異なった方向から考えを発表してくださるので
「なるほどなァ〜」
と感心して
そしていよいよ藪の中へ迷い込んでしまいます。
いろいろな外国の古代も参考にしますと日本のあの風習はあそこの地域が発祥なのかな
と思いますし。
古代史は分からないこそ面白いです。
今から出掛けます。
笑
[39] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月30日 00時33分04秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
『アマテラスの誕生』(筑紫申真著)においては、『日本書紀』における
藤原不比等の関与は書かれておらず、持統天皇の関与ばかりが強調されて
おりました。そんなはずはないと思いましたので、何冊かの本を調べてみ
ました。
大山誠一氏の『天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト』では、藤原
不比等の願望と『日本書紀』への関与を、時系列的に論及しております。
それらの内容については後回しにして、とりあえず藤原鎌足と、持統天
皇、藤原不比等の年齢関係、及び古事記・日本書紀の完成時期、その他主
だった出来事との関係について整理いたします。
・614年 「鎌足」生る。
・645年 「乙巳の変」
「鎌足」32歳、「持統」生る。
・646年 「大化の改新の詔」
・659年 「鎌足」46歳、「持統」15歳、「不比等」生る。
・663年 「白村江の戦い」、敗北
・669年 「鎌足」56歳没、「持統」25歳、「不比等」11歳。
・672年 「壬申の乱」
・679年 「吉野の盟約」
持統(35歳)政治主導、不比等(21歳)出仕。
・692年 「持統」伊勢行幸。
・702年 「持統」三河行幸。
・703年 「持統」59歳没、「不比等」45歳。
・712年 「古事記」完成。
・720年 「日本書紀」完成。「不比等」62歳没。
[40] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月30日 03時18分51秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
時系列をありがとうございました。
こういうのからして把握してなかったことを思い知りました。
>659年 「鎌足」46歳、「持統」15歳、「不比等」生る。
歴史上の人物の年齢関係をさっぱり掴んでいなかったです。
不比等は持統の3歳ぐらい年下と思ってました。
・703年 「持統」59歳没
・712年 「古事記」完成。
・720年 「日本書紀」完成。「不比等」62歳没。
時系列を拝見して、
大物が皆さん鬼籍に入って自分の天下が来て、自分と自分の家が日本のナンバー1という正当性を
古事記と日本書紀にまとめたわけか?と。
今の=当時の=天皇家が日本を支配する存在であることはゆるぎない
そして
天皇家を支えるのは自分の子孫だ、と。
自分の家を脅かす存在は徹底的に叩くか無視するか。
へぇ〜
[41] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月31日 10時35分11秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
書いている途中でしばらく間を置くと、書いたものがどこかに消えてしま
うという変なシステムがはたらいていて、とても困っています(二回ありまし
た)。従って、間を置かずに入力し続けなくてはなりません……。
台風一過、急に冬のように寒くなりました。まだ、身心共その心構えがで
きておりませんので、右往左往しております。やはり、寒くない方がいいで
す。もっとも暑過ぎても困りますが……。
さて、やはり持統と不比等が同時代人であり、またその近しい関係を見ま
すと、持統天皇の意向と藤原不比等の願望とが合致し、文武天皇の擁立と
いった政治面でも、また天孫降臨神話等の皇族の大局的な歴史理念の創作面
においでも、二人による相乗効果が発揮された……と推察いたします。
持統の全幅の信頼を得、また娘を入内させ、不比等は着々と足場を固め、
やがて天皇家の外戚として不動の地位と権力を得、いわゆる"藤原王朝"を
築いて行きます……。
『日本書紀』という包装を解くことによって、真の歴史が現れる。それは
正に「籠の鳥の―いついつ出や〜る」とも言えるのではないでしょぅか?
[42] | 酒井ともさんからのコメント(2017年10月31日 11時20分33秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは。
宜しくお願いします。
神服部氏の成り立ちが議論されております。とても興味深く拝読しております。
ところで当家の母系の渡會氏より、神服部氏に関わりが深いと思われる苗字について記載します。
「安曇・麻績・神麻」
皆さま見識で紐解けば、良質な蚕糸を欲する伊勢神宮の要望に応える為に、
渥美半島より信濃の安曇地方まで繋げたのが海人族の安曇氏で
その後裔に当たるのが麻績氏で宜しいのでしょうか?
地図を拡げて、その距離を考えれば、伊勢神宮へ納める絹の原料を求めて志向した
人々の苦労の足跡が残されているんだと感じます。
>麻績氏(小見氏)は、信濃国筑摩郡麻績郷(現・長野県東筑摩郡麻績村)の豪族。
>その始まりは鎌倉時代に遡り、小笠原長親が麻績の地頭となり麻績氏を称した。
ところで、本人の許可を貰ったので記載します。
私の友達は産まれながらに「神麻 じんま」姓を名乗っております。
珍しい苗字でサイト等で調べた限りですと、全国にもほんの十数軒が確認されているようです。
元々は森町の出で、祖父の代に森町を離れたようです。
ただ本姓は「あんま 安間?」氏で幕末期に現在の神麻姓を名乗ったとのことです。
家の謂れでは武家との係わりがあったようですが、あまり詳しく伝わっておわず、
私に調べて欲しいとの話があったので、これも数年前ですが、調べました。
私の拙い推測ですが、もしかしたら「遠州報国隊」に関係した方々の子孫?
慶応の頃に勤王の御旗に鼓舞されて、東海道筋でも神官等による各隊が結成されました。
そして各隊は江戸まで進行し、江戸幕府瓦解に貢献したとのことです。
ところが、維新後に駿遠に帰郷すれば、一大名に落とされた徳川宗家とその家臣団の領地となっていました。
すると駿府藩家臣団としては仇敵にも等しいと、勤王に連なった隊士を闇討ちで襲ったようです。
その窮状に心を痛めた大村益次郎が国事殉難者の慰霊を祀る招魂社、のちの靖国神社を創建して、
駿遠の勤王隊士に慰霊祭事奉仕の名目で移住をさせました。
また、昔歴史家より駿府藩よりの迫害から逃れる為に姓を変えた方々もいるとの話を聞いた憶えもあります。
ただ、どのような理由で改姓したのかは憶えていませんので、間違いかもしれません。
あと、森町の昔話には「狒々の生贄」になる神麻家の娘を助けた武家の存在が伝わっています。
「あんま 安間?」氏が所縁の「神麻」氏を継承したのか、
遠州報国隊員が駿府藩の迫害を逃れる為に改姓したのか、私では判りかねる話です。
その「神麻氏」を社家方面で調べると、森町の「小国神社」の社家に「神麻氏」がいたようです。
名字別資料によれば、「神麻氏=一宮の小国神社の神主に東京時代にあった」と記されております。
さらに「小国神社」を調べると「神麻久 しんまく」なる祭事があるようです。
社家由来の姓で考えると伊勢の「神麻續機殿神社」の関係で「神麻」氏なのか、
小国神社の「神麻久」の関係で「神麻氏」なのか、これまた謎ばかりです。
個人的には「神麻」氏は武家よりも社家に近い、それも字の通りに麻(織物)に
志向した氏性だと解釈していましたが、毎日お二人の記述を読んでいると、
伝承をふまえて、武家の麻績氏に関係があるのかもと考えてもおります。
ともかくも、遠州でも大変に珍しく、本人よりは自虐を含めて、たびたび苦労話を聞かされます。
武家にしろ、社家にしろ、確たる出自が判れば中々に尊重される苗字だと考えます。
よろしくお願いします。
[43] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月01日 16時56分29秒 ) | パスワード |
酒井とも様
色々調べてみましたが、酒井様の把握されていることは大筋正しいの
ではないかと推察いたします――
神麻氏については、情報が見つかりません。
安間氏でしたら、海人系であると思います。
麻績氏と服部氏は、斎藤氏の『古語拾遺』にも出てきますし、近しい
中であります。長野県東筑摩郡麻績村(伊勢神宮の御厨)に、応仁の乱後、
服部伊賀の守が地頭として派遣されたというのは、麻績城主に服部氏が
いることを考えれば、可能性大ではないかと推察しております――
[44] | 酔石亭主さんからのコメント(2017年11月01日 19時18分31秒 ) | パスワード |
酒井ともさん
>「安曇・麻績・神麻」
>皆さま見識で紐解けば、良質な蚕糸を欲する伊勢神宮の要望に応える為に、
>渥美半島より信濃の安曇地方まで繋げたのが海人族の安曇氏で
>その後裔に当たるのが麻績氏で宜しいのでしょうか?
以前『信濃国の秦氏 その13』を書きましたが、多少関係しそうな内容も含まれていますので、ご参照ください。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-934.html#cm
長野県東筑摩郡麻績村は安曇野のお隣で、すぐの距離です。上記は安曇野の秦氏を追いかける途中で立ち寄った場所です。麻績王は万葉集によると伊良湖に流されており、伊勢神宮の神領である伊良湖は渥美半島の先端部にあって、渥美=安曇です。麻績王の麻績はコトバンクによると、麻(お)を細く裂いて、より合わせて糸にすること。また、それを職とする人。だそうです。従って、製糸や機織りに関係する麻績氏と海人系の安曇は何らかの繋がりがありそうです。
作務衣博物館によれば、五世紀の後半に大陸から紡織の技術を持った集団が渡来。その一部は吉野川をさかのぼり、伊勢に定住。やがて“伊勢の衣縫い(きぬぬい)”と呼ばれ、中央政府から公認されるほどの大きな職能集団に成長していた。とのこと。松坂には漢織、呉織、衣縫などが多く定住し、彼らが後の麻績連や服部連(織部の管理者)となり、神麻續機殿神社や神服織機殿神社に繋がっていったと思われます。
以上から、麻績氏、安曇族、伊勢神宮は複雑な絡み合いが見られます。一方で、安曇族は海人系で麻績氏は渡来系の機織り集団となり職掌的には別の存在だと思われます。この両者を接合させるには、例えば安曇族が各地に移住する際の船に同乗した機織り集団が、安曇族の定着地近辺に定住したと言う視点で見るしかなさそうです。秦氏と安曇族の関係も同様で、安曇族に関係する和田の地名の近くには秦氏の存在が認められます。
>元々は森町の出で、祖父の代に森町を離れたようです。
>ただ本姓は「あんま 安間?」氏で幕末期に現在の神麻姓を名乗ったとのことです。
安間氏の名前は浜松市の安間町と関係するのでしょうか?以下コペピ。
安間町(あんまちょう)
和田地区の東部に位置するこの町は、北側に隣接している安新町の町域がくさびを打ち込んだように南に張り出している関係から、複雑な地形をしており、薬新町から中野町にむかって県道中野町子安線(旧東海道)を東進すると、まず安間町に入り、すぐ安新町を横切り、ふたたび安間町となり、中野町に入るようになる。金原明善の生家や明善記念館はこの町にある。
安間という地名は既に鎌倉時代から郷名として古文書にみえており、往古は蒲御厨の一角であった。つまり、伊勢神宮の神領であった。その後、南北朝時代になると伊勢神宮の影響力が次第にうすれていったようだが、この関係の史料がなく、明確なことが判らない。
『遠江国風土記伝』によると、「安間了願住于此所屋敷跡凡三段歩・・・」とみえ、南北朝の頃、安間了願という者がこの地に来往して開発にあたった・・・と記されている。この安間了願については『太平記』にその記述がみられ、南朝の臣として有名な楠木正行(まさつら)の家臣として、貞和4年(1348年)摂津国(兵庫県)の阿倍野合戦に臨んで大いに活躍した、とある。槍の名手として聞こえた法師武者であったようである。その了願によって芝切りされた村であるので、安間村と名づけられたとする説もあるが、すでにそれ以前の鎌倉期の文書に、安間の郷名がみえているから、氏姓が村名となったとする説はあたらない。
安間(あんま、あま)氏は海氏で安曇族と推定されます。色々複雑に絡んでいるようですが、安間氏が神麻氏に改姓したのは以下の要素がありそうです。
蒲御厨(遠州織物の発祥地)は伊勢神宮の神領。
神麻續機殿神社は伊勢神宮の所管社。
伊勢神宮の大麻草のお札に「神宮大麻」があり、神麻はこれに由来すると考えても伊勢神宮関連。
上記から推測すれば、神麻氏はやはり伊勢神宮に関連する可能性があります。伊勢神宮の御師が森町に来て安間氏とあれこれ話しているうちに、改姓するなら神麻がいいねとなったのかも…。
>「小国神社」を調べると「神麻久 しんまく」なる祭事があるようです。
「神麻」、「神麻久」、「狒々の生贄」と並べるとあるストーリーが浮き彫りになってきます。以下は純粋に学術的、民俗学的観点から書いている点お含み置きください。
小国神社の狒々退治に関しては以下に詳細がありますので参照ください。ここには、毎年お宮へ人身御供の19の娘を出さにゃならなんだ。と書かれています。
http://www.chuen.net/mukashi/mukashi_025.html
さて、各項目を整理します。
神麻=神様の大麻草。
神麻久=巫女舞(神楽)で十二段舞楽の第六番。(注:現在は子供が舞う)
狒々(しょうじょう)の生贄=小国神社に人身御供(神への生贄)すること。
狒々の生贄とは要するに巫女を神主に供したり、中央官僚が神社に来た際の接待に供したりするもので、性的な意味が含まれます。そうした行為をやり易くするために「大麻」=神麻が使われる場合があります。「神麻久」は大麻によって神憑り状態・性的興奮状態となった巫女の舞でしょう。宮代の大場新右衛門が神麻家の娘を娶った以上、二人の間に出来た娘は当然巫女として神社に供せざるを得なくなります。
こうしたことは古代から日常的に行われており、例えば延暦17年(798年)の太政官符には、代々出雲大社の祭祀を行う出雲国造が神事に託して多くの百姓の女子を妾にするのでそれを禁じ、今後、一夜妻は国司が占って定める女子一人だけに限る、などと書かれています。
十二段舞楽の第七番は「安摩(あま)」となります。安摩は安間と通じるところがありそうにも思えてきます。
後半部分は学術的・民俗学的に書いたつもりですが、対象となる個人からすれば不快で不適切と思われかねないので、どう扱うかは酒井さんにお任せします。
[45] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月02日 08時51分27秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
http://www.huffingtonpost.jp/2017/11/01/kodai-history_a_23262970/
教科書が変わる大発見? 「縄文人」の食生活に、常識破りの新仮説
「狩猟・採集民」ではなく「狩猟・栽培民」だったかもしれない。
2017年11月01日
11月1日、日本の古代史に関する優れた書籍を表彰する「古代歴史文化賞」の選定委員会が開かれ、第5回大賞に小畑弘己・熊本大教授の『タネをまく縄文人: 最新科学が覆す農耕の起源』(吉川弘文館)が選ばれた。
受賞作の内容は、これまで縄文人に対して抱いてきた「狩猟・採集民」のイメージに新風を吹かせるものだった。
小畑氏は、縄文土器に残る植物の種や昆虫の圧痕を調べることで、日本列島でいつ頃から農耕が始まったのか検証を試みた。これには土器が作られた際に粘土の中に紛れ込んだコクゾウムシや大豆(ダイズ)の痕跡が手がかりになった。
その結果、小畑氏は「縄文時代前期には小豆(アズキ)や大豆(ダイズ)の栽培が始まり、晩期には粟(アワ)・黍(キビ)・稲(イネ)がすでに伝来していた可能性が高い」と説明。
縄文人は「狩猟・採集民」ではなく、「狩猟・栽培民」だったという仮説を提唱し、縄文人を「豊かな狩猟・採集民」だとする日本の研究者の定説とは異なる説を唱えた。
この他、優秀作品賞には以下の4作品が選ばれた。
高田貫太『海の向こうからみた倭国』
(講談社)
概要:
日本列島と朝鮮半島の関係について、半島側からの視点で再検討する。
古墳時代の6世紀まで朝鮮半島と日本列島の間には、国家対国家の一元的な外交関係や交易関係はなく、朝鮮半島側と日本列島側それぞれ個別の地域ごとに対外交渉をする「錯綜した関係」が基本であったと説明。
古墳時代の日韓の対外交易が多元的であったことを示唆する。
海野聡『古建築を復元する 過去と現在の架け橋』
(吉川弘文館)
概要:
登呂遺跡や平城宮大極殿などの古建築について、構造や形式などを豊富な写真・図版などを用いてわかりやすく説明。
現代に蘇った古建築が、どのような学問的手続きを踏んで復元されたかを述べた。
また、遺跡から古建築を復元する際の試行錯誤や移設の存在など、復元の難しさや面白さとともに「復元学」を提唱する。
松本直樹『神話で読み解く古代日本 ―古事記・日本書紀・風土記―』
(筑摩書房)
概要:
古代社会にあった神話を前提とし、それを踏まえて王権や国家の成り立ちを説明する神話が形成された過程について『古事記』『日本書紀』の神話分析を通して明らかにした。
また『出雲国風土記』の神話は、記紀の神話と聖堂の図られた古代国家のもとでの新しい出雲神話であると評価した。
吉田一彦『「日本書紀」の呪縛』
(集英社)
概要:
『日本書紀』が編纂された時代背景や編纂体制を丁寧に分析・紹介。
その本質が、7世紀後半の古代国家形勢の中心となった天皇や貴族層の正当性を文章化にしたもので、歴史認識の規範となったことを示す。
その影響は、現代の歴史研究にもうかがえると指摘する。
[46] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月02日 12時01分35秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
『日本書紀の呪縛』は読んでみたいと思います。本当の所、その「呪縛」
を解いてもらいたいものです……。
聖徳太子もその呪縛の一端でありますが、関裕二氏の『天武天皇 隠され
た正体』を読んでおりましたら、「聖徳太子を中心とする関係系図」という
ものがあり、その中に、太子と刀自古郎女の間の子(4人兄弟 長男は山背
大兄王)ではなくて、菩岐岐美郎女との間の子(8人)の中に、「波止利女王」
という娘が書かれておりました。
「波止利」は当て字で、「服部」・「服織」・「羽鳥」、その他色々な書
き方がありますが、いずれにしても「ハトリ」と関係があったことは否め
ません。
一旦ここで切ります――
[47] | 酒井ともさんからのコメント(2017年11月02日 13時48分11秒 ) | パスワード |
こんにちは。
皆さま、お世話になります。
三つ柏服部さま、酔石亭主さま、丁寧な回答ありがとうございます。
「服部氏」
>麻績氏と服部氏は、斎藤氏の『古語拾遺』にも出てきますし、近しい
>中であります。長野県東筑摩郡麻績村(伊勢神宮の御厨)に、応仁の乱後、
>服部伊賀の守が地頭として派遣されたというのは、麻績城主に服部氏が
>いることを考えれば、可能性大ではないかと推察しております――
三つ柏服部さま、お世話になります。
服部氏は麻績村の地頭を務めたということは、所縁のある地を治めたことになりますね。
「現田原市」
>渥美=安曇です。
酔石亭主さま、お世話になります。
私の母系の渡會の実家は旧渥美町に在ります。
史実ですと、800年近く前より、あの海風の強い地に根付たようです。
本家は現在も居住しておりますが、新家する身内は豊橋方面へ移住するようです。
安間村=安間氏
>了願によって芝切りされた村であるので、安間村と名づけられたとする説もあるが、
>すでにそれ以前の鎌倉期の文書に、安間の郷名がみえているから、氏姓が村名となったとする説はあたらない。
安間村は安間了願の立村との記憶でしたので、鎌倉時代からある郷名なのですね。
その安間村は往古は蒲御厨の一角にあった。
蒲御厨は伊勢神宮の神領。
蒲御厨は遠州織物の発祥地。
なるほど、古代史を探究されている方の見解は疎い私にも浸透します。
拝読していますと、安間了願が南朝方なのは、もしかしたら伊勢神宮の外宮にも関係がありそうですね。
明治以前は神仏混合が末村まで行き渡る生活なので、安間法師はその関係が色濃い方なのかもしれません。
書きながら思い出したのが、横須賀藩内の豪商のお屋敷を訪ねた折り、ご当主の祖母が安間氏だそうで、
確かご実家が井伊氏の三嶽城の近くの生まれで、嫁入り箪笥の家紋が「丸に三つ扇」でした。
初め家紋の様子が判らなく、ご当主に尋ねてよりは成る程、扇が三つある事が判った次第でした。
ところで今度、神麻家の家紋を聞いてみようと思います。
神麻氏
>神麻=神様の大麻草。
>神麻久=巫女舞(神楽)で十二段舞楽の第六番。(注:現在は子供が舞う)
>狒々(しょうじょう)の生贄=小国神社に人身御供(神への生贄)すること。
これは現在の舞台上のような場面を想像しました。
紅蓮の炎を侍らした闇夜をその施薬(大麻)にて高揚した巫女の乱舞の舞に
御神酒にて清められた神官に乗り移った御神体が儀礼儀式を執り行ったのでしょうか。
これは今でも各神社の御祭典にて行われる神楽舞の尊い式典を感じられます。
また、田舎に出張った、中央の下級貴族との恋愛の想像をかき立てられます!
コミケに若者たちがハマるのが分かります。
狒々(しょうじょう)=生贄ですか。
小国神社の狒々退治は生贄の逸話なのですか・・・
これはダメですね。人の娘をなんだと思ってるんだと感じます。
ですので、それを助けるヒーロー仕立てのドラマが成立するわけですね。
ドラマ「水戸黄門」に凝縮されてます。
先月まで西村黄門さまを録画して楽しんでいました。
>神麻久=巫女舞(神楽)で十二段舞楽の第六番。
>十二段舞楽の第七番は「安摩(あま)」となります。安摩は安間と通じるところがありそうにも思えてきます。
小国社の十二段舞楽の第六番は「神麻久(しんまく)」第七番は「安摩(あま)」
神麻氏の口伝に結びつけたくなるような演目内容ですね。
>以前『信濃国の秦氏 その13』を書きましたが、多少関係しそうな内容も含まれていますので、ご参照ください。
>http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-934.html#cm
このサイトが私のPCでは開けません。図書館かスマホでゆっくりと読ませて頂きます。
しかし出会った時からまさか今まで仲良く付き合えると思っていなかった
神麻君が神社や南北朝時代の縁があったのかもと考えるようになりました。
なお、お許し頂けるならWardに纏めて神麻君に渡そうと思います。
すみません、長々とありがとうございました。
[48] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月02日 15時09分06秒 ) | パスワード |
酒井とも様
「伊勢神宮」に関する謎を解くこと、『日本書紀』の謎を解くこと、
共通するのは「アマテラス」の謎を解くこと……つまりこれが古代史の謎
を解く突破口ではないかと思っています。
そういった意味では、神主「渡会氏」は特に重要なカギを握っていると
いうことになります。
酒井様の中には、渡会氏の血が流れているということ……是非今後とも
伊勢神宮を中心とした謎解きに力を貸して下さい!
もっとも私の一番興味あるところは、「絹」と「機織り」と「巫女」の
部分でありますが――
[49] | 酔石亭主さんからのコメント(2017年11月02日 18時46分56秒 ) | パスワード |
酒井ともさん
神麻さんの参考になるのであれば、私のコメントをご自由にお使いください。
ただ内容は私の推測に過ぎず、正しいかどうかは何とも言えない点ご理解ください。
[50] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月02日 23時04分05秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>『日本書紀』が編纂された時代背景や編纂体制を丁寧に分析・紹介。
>その本質が、7世紀後半の古代国家形勢の中心となった天皇や貴族層の正当性を文章化にしたもの
まさに!不比等の陰謀ですね。
自分の家の正当化!
>で、歴史認識の規範となったことを示す。
>その影響は、現代の歴史研究にもうかがえると指摘する。
結局現在の我々も不比等の呪縛から解放されていませんね。
紀子さまについては 国母になるべき ご出身!
平熱でも、もう随分古くから、書かれていますね。
平家+南朝方
http://www.dailyshincho.jp/article/2017/10171230/?all=1
清盛の娘たちは、
たとえば花山院兼雅妻となった娘の、やしゃごにあたる談天門院忠子は、後宇多天皇との間に皇子をもうけ、
その子が後醍醐天皇。
また、その他の娘の血筋からも、複数天皇が誕生していて、それは今上天皇にまでたどりつきます。
21世紀でもやっぱり不比等に縛られています。
母や伯母達からは、おばば様は藤原貴族の出身なんだから悪口を言うな、と叱られ続けて来ましたが
やっぱりワタシも日本人だから不比等にはしっかり縛られています。
[51] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月03日 14時56分48秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨日『アマテラスの誕生』(講談社文庫)を送りました。何かの一助になれ
ば幸いです。
古代史の探求に、大上段に振り被って立ち向かうのはやはりやめておきま
す――余りにも複雑で、理解と記憶がついて行きません。私には、偉大なる
時間の浪費、それよりは識者の皆さんに、これが真実であるという統一見解
を早く出していただきたい、それにこしたことはない……。
ということで、単発のテーマに戻りたいと思います。
長野県の麻績城の服部城主の祖先は、「伊賀守」であったと言われており
ますが、戦国〜江戸時代に「伊賀守」と言えば、「服部中保次」に代表され
る「服部中家」のことでありました。その祖は「平宗清」と言われておりま
す。
承久の変(1221)後に、麻績に派遣された服部伊賀守はこの平宗清と関係す
るのかどうか、いずれにしても近い筋であることには間違いないと推測され
ます。
さて、先日図書館へ行き調べものをしていた時に、郷土資料室に、大久保
村出身の「馬淵氏」(祖先は旗本服部中家の地代官をしていた)の小冊子を見
つけました。その中には、「服部伊賀守」についての記述がありましたので、
少し長くなりますが、書き出してみます。
一度ここで切ります――
[52] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月03日 22時14分53秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
それでは、大久保の地代官、馬淵氏の末裔が語った話です――
「私の住宅のある屋敷に、石高三千五十石の旗本服部仲様の陣屋があり
まして、大久保・山崎・古人見・伊佐地と神ケ谷の一部、市野村・上石田・
下石田を所領して居られました。
服部家の祖先は、楠氏の一族にして足利尊氏征討の折、後醍醐天皇より
給わりたる綸旨錦旗節刀だの菊水の旗印其の他徳川氏に至る迄歴戦の功績
によりかち得たる種々高貴の品を家宝として伝えて居りました。
湊川に正成卿の戦死以来、南風競わず足利氏の天下となるや楠公一族は
婦女子に至るまで探求絶滅を企てしかば、服部家の祖先も一時韜晦のため、
姓氏を変じて郷士となり転々、時期の到るを待ち続けるが、足利氏滅び、
織田氏興るに及んで、客将として弐萬余石を領せしと云う。
後、眞十郎殿に至り、徳川氏に与し、伝来の長槍を馬上に横へ毎戦奮戟
突戦驍名隠れなく、身には幾十の創痕を残したる功名談を語り伝え、服部
家秘蔵の絵巻物の拝観を得たる。旧臣である私の父より、毎度其の殿様が
容貌魁偉の武者ぶりであったことを眼前に彷彿すると話されたことであり
ます。
服部家の中世に大和守従五位下に叙せられた英邁の方は、幕政に参与し
功労が非常に多く、殊に武士道の振興に力を尽くされしと云う。
江戸城西丸御留守居役御使番と云う役目、江戸の消防を主宰されたりし
た殿様方がある服部家には、数代伊賀守になられた方があります。
維新前、東京の上屋敷が火災に罹り、宝物其の他烏有に帰し、史実の
徴すべき物少なく詳細記述が出来ませんのは残念であります。
不幸にも服部家に嗣なく近親もなく、大正三年八月未亡夫人逝去後、断絶
し、由緒深き服部家の紋所のみ大久保尋常高等小学校の校紋に残ることと
なりました。
諸君は、諸君の先祖が長く服部家の治下の農民であって、色々の恩沢を
蒙った関係からしても、校紋を仰ぐ度に、敬虔の道念を惹き起こし、旧領主
の志を継承し万事いやしくもせざるの習慣を造るの覚悟があって然るべし
と考えます。
皆さん、東京へ行かれたならば、服部家の旧上屋敷であった牛込区市ケ
谷加賀町壱丁目弐丁目だの、服部家の建設にかかる四ツ谷の湖雲寺などを
訪れて、服部家の昔を忍び給ふも徒爾ならず事と思われます。」
[53] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月04日 04時09分08秒 ) | パスワード |
近々続きのスレッドを立てますね。
三つ柏さん
服部仲家のご紹介をありがとうございました。
馬淵家のことは数年前に送ってくださった印刷物で知りましたが
こうやって記録に残してくださった馬淵家には感謝です。
>服部家の祖先は、
>楠氏の一族にして足利尊氏征討の折、
>後醍醐天皇より給わりたる綸旨錦旗節刀だの菊水の旗印其の他
上記レス<50>に書いたように
服部家は平家ゆえに後醍醐天皇のお召しにより
吉野に駆け付け
楠正成のシスターが服部氏に嫁いでいた (お姉さんだった記憶)
というのはホンヤさん経由で知っていました。
>古代史の探求に、大上段に振り被って立ち向かうのはやはりやめておきます
はい
それが良いと思います。
素人が、
入り口に立ったばかりの素人なのですから
先人達のご意見を拝見して感動しているのが良いと思います。
全く知識の無いことを、どこかから引っ張り出して来ても、底の浅さは見えてしまいます。
それよりも、
早い話が 我々のご先祖さまは東アフリカのケニアあたりにいたサル というのが<かなり>確実の<よう>
です。
もっともっと前は、海の中にいた、かな?
笑
海から上がって、足がある故に移動しまくって、アチコチウロウロした末に日本列島ににたどり着いた
そこから神話が語り継がれた。
やがて記録として確立したのは「政治」であった。
不比等ってスゴイ!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%98%BF%E5%BC%A5
観阿弥の出自
観阿弥の息子、世阿弥の『世子六十以後申楽談儀』には、
観阿弥の祖父が伊賀の服部氏一族から宇陀の中家に養子にいき、
その人が京都の女性と関係して生まれた子が観阿弥の父であるという記述がある。
この観阿弥の父は、大和の山田猿楽の一座に養子にいき、観阿弥の母は同じく大和猿楽の一座、外山の座の出身であるという。
なおこの記述によると、観阿弥の長兄は宝生大夫、次兄は生市とあり、いずれも大和猿楽に関係していたと思われる。
また曾孫に当たる観世小次郎信光の肖像に書かれた讃には、
伊賀の服部氏一族の武士であった観阿弥の父が、
あるとき春日神社より「子を楽人として神に仕えさせよ」との神託を受け、
三男である観阿弥に結崎氏を名乗らせ春日神社に捧げた、
という伝説的なエピソードが記されている。
一方、1962年(昭和37年)三重県上野市(現・伊賀市)の旧家から発見された上嶋家文書(江戸時代末期の写本)によると、
伊賀・服部氏族の上嶋元成の三男が観阿弥で、その母は楠木正成の姉妹であるという。
この記載に従えば、観阿弥は正成の甥ということになる。
後に発見された播州の永富家文書を傍証に、この記載を真とする意見もあり、
1975年に永富家子孫によって、伊賀市に観阿弥の妻(世阿弥の母)の彫像が立てられた。
しかしこの文書の信憑性を巡っては議論が分かれており、
この説は研究者の間では広く受け入れられているとは言い難い[1][2]。
しかし梅原猛は、『うつぼ舟II 観阿弥と正成』(2009)で観阿弥と正成の関係を主張し、表章に挑戦した。
表はこれを受けて『昭和の創作「伊賀観世系譜」―梅原猛の挑発に応えて』(2010)を上梓し、詳細に反論した。
人間は足があるから、移動しますからね。
[54] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月05日 09時05分34秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
>観阿弥の祖父が伊賀の服部氏一族から宇陀の中家に養子にいき―
つまり、観阿弥の祖父は伊賀の服部氏の一族の出身でで、宇陀の中家に
養子に入ったということでありますが――
実は、私が「名張」に行った時に入手した名張市発行の『幽玄のふるさ
と なばり』という小冊子には、観阿弥のことが書かれており、諸説ある
中でも、最新の「上嶋家文書」や「観世福田系図」に基づく伊賀の郷土史
家の久保文雄氏の論文を紹介されておりました。
その解説によりますと――
「観阿弥の父系は、伊賀の豪族・服部一族の出身だという。『申楽談儀』
に「伊賀の国服部の杉の木といふ人の子息……」とある点や、前述の久保
氏が提起した上嶋家所蔵の「元和元年伊賀國阿閉郡淺宇田庄田畑改帳」
に「杉の内東」の地名が残っていること、付近に「観世田」「杉之木塚」
と呼ぶ場所のあることなどからうかがえる。
さらに久保氏は、上嶋本観世系図や観世福田系図から「観阿弥は伊賀
国阿蘇田杉の内(現在の伊賀市守田町附近)の豪族・服部元成の三男とし
て誕生。その後、長谷の猿楽法師に預けられ、山田小美濃大夫の跡を継
いだ太田家光の養子になった。母は、河内国玉櫛庄楠入道正遠の娘で、
楠正成の姉妹だとも強調している。
また、観阿弥の妻の実家は竹原氏で、山田郡竹原郷(現伊賀市鳳凰寺)
の出身。小波多に移住し在地領主として成長したという中貞夫氏の指摘
もある。」
ということであります。
いずれにせよ、観阿弥の出自に関しては、本人の書き物や信頼に値する
証言が少なく、真の姿に触れるには、まだまだ今後の研究に負うところが
多いということであります。
服部中保次の祖先は「名張」の出身であるという情報、「中」をあえて
入れているのは、服部の「上」「中」「下」ではなく、ひょっとして先程
の宇陀の「中家」を表わしているのではないか、その居住地の宇陀という
所は、何か奥深い謎を秘めているような感じがいたします――
[55] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月05日 12時07分56秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
服部<中>保次の <中>って何? と思ってましたが
>観阿弥の祖父が伊賀の服部氏一族から宇陀の<<中家>>に養子にいき
この<<中>>のことかも、ですね。
なるほどね〜
[56] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月05日 12時22分00秒 ) | パスワード |
観世のご先祖さまの服部家ですが
服部時定の孫の宗保が服部季宗の子孫の家に養子に行ったのですが
養家の服部家は
服部右兵衛尉季宗の子が柘植宗清(いわゆる頼朝を助けた人で頼盛の家の家老)
宗清の子の家清は三日平氏の戦いで死亡
家清の子が家俊(弟達が福地清春と北村俊忠を名乗る。北村って名張の城主の先祖かも)
家俊の養子が時定の孫の宗保が養子に入って服部清正を称し
清正の子達が
山川宗政
柘植宗成 この人の子が元成で観世の父
西川正俊
松尾宗広
北川清俊
こんな流れです。
とにかく一族の中で養子に行ったり来たり屋号を名乗って名字が変わるしワケ分からなくなります。
[57] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月05日 12時43分14秒 ) | パスワード |
次に服部中保次は
服部時定の孫の宗保の弟の平内左衛門尉保俊(実の父?養父?が服部公清で)の子が保行で
保行の子が4人いて
その内3人が上中下を称し
上服部保正
中服部保親・・・・・・・・・・・服部半蔵や青山成重や服部正尚子や千賀地保元(藤堂采女の家へ)のご先祖さま
服部保広
下服部保長・・・・・・・・・・・服部中保次のご先祖さま
その経緯:
第4子の下服部保長の子孫が服部伊賀守宗純で後醍醐天皇に仕え
そのまた子孫が
ホンヤさん先祖
服部政信(遠江奉行)
服部中保次
こんな流れ。
すると服部中保次の服部<<中>>は半蔵や青山成重や服部正尚の先祖の中服部家の名乗りを譲られたのかもですね。
または
>>観阿弥の祖父が伊賀の服部氏一族から宇陀の<<中家>>に養子にいき
ということかも。
とにかく 一族 ですから養子に行ったり来たりで <<中>> を称したところにはヤヤコシイ事情があったのでしょう。
と誤魔化しておきます。
[58] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月05日 13時10分12秒 ) | パスワード |
>宗清の子の家清は三日平氏の戦いで死亡
泣けます。
宗清の子は父を恥じて
平家のプライドをかけて鎌倉に一矢報いたのかなと。
三日平氏の乱(みっかへいしのらん)
1
第一次三日平氏の乱 (平安時代) - 平安時代末期、伊勢・伊賀国での平氏残党平家継が起こした反乱。
わたくしの前世の父です。服部(伊賀)家長の兄。
今でも平静な気持ちでこの事件を考えることができないです。
お仲間は
平信兼(山木兼隆(山木判官代)の父上。・・・・・山木兼隆は北条政子の結婚予定者でした。政子は頼朝を選んだ)
藤原(伊藤・平)忠清・・・・・・清盛の刎頸の友である藤原(古市)景綱の息子で景清の父。
『平家物語』では「三日平氏の乱」と記されているが、
本来3日間で鎮圧され「三日平氏の乱」と称されたのは、この20年後の元久元年(1204年)に発生した事件であって、
この1184年の平氏反乱は長期間にわたり大規模なものであった[1]。
2
第二次三日平氏の乱 (鎌倉時代) - 鎌倉時代初期、伊勢・伊賀国での平氏残党若菜五郎が起こした反乱。
鎌倉時代初期、伊勢国と伊賀国で平家の残党が蜂起した事件。
建仁3年(1203年)12月に伊勢平氏の若菜盛高らが蜂起し、
討伐に向かった鎌倉幕府軍の平賀朝雅が、元久元年(1204年)4月10日から12日の間に反乱軍を鎮圧した事から「三日平氏の乱」と称された。
つくづく思うのは百姓と武士の違い。
百姓は今の日本人同様「何よりも命が一番大事」。
武士は「命よりも大事な守る物がある」と考える人々。そのためには犬死にも辞さない。
泣ける。
[59] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月05日 13時13分18秒 ) | パスワード |
書き忘れ:
三日平氏の乱
こちらを参照のこと
http://www.google.com/search?ei=hI_-WcvnAsO2jwPM9q6gDA&q=%E4%B8%89%E6%97%A5%E5%B9%B3%E6%B0%8F%E3%81%AE%E4%B9%B1%EF%BC%88%E3%81%BF%E3%81%A3%E3%81%8B%E3%81%B8%E3%81%84%E3%81%97%E3%81%AE%E3%82%89%E3%82%93%EF%BC%89%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E4%B8%89%E6%97%A5%E5%B9%B3%E6%B0%8F%E3%81%AE%E4%B9%B1%EF%BC%88%E3%81%BF%E3%81%A3%E3%81%8B%E3%81%B8%E3%81%84%E3%81%97%E3%81%AE%E3%82%89%E3%82%93%EF%BC%89%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.12...2541.2541.0.4134.1.1.0.0.0.0.192.192.0j1.1.0....0...1..64.psy-ab..0.0.0....0.z95oFUvJeOw
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%97%A5%E5%B9%B3%E6%B0%8F%E3%81%AE%E4%B9%B1_ (%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3)
[60] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月06日 17時29分56秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
さすがに平家、及び服部氏についてお詳しいあを様であります。
宗清についての情報、近々伊賀・甲賀へ一泊二日で行って調べて
来たいと思っています。
伊賀の図書館の郷土資料室で半日位費やせば、何か拾えるものと
思っております。宗清と家長や服部連、服部伊賀守……、どんな
小さな情報でも、あれば行った甲斐ありです。また、伊賀の歴史研
究グループがあるはずなので、それらの資料等も入手したいと思っ
ております――
[61] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月07日 03時31分49秒 ) | パスワード |
三つ柏さま
お金がたくさんかかりますね。
やっぱり親戚が多いと宿代が助かりますねぇ。
笑
>>観阿弥の祖父が伊賀の服部氏一族から宇陀の<<中家>>に養子にいき
この<<中家>>というのが
宇陀にあった<<<<中服部家>>>>かもですね。
[62] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月07日 19時20分14秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
「中家」について調べてみようと思ったとたん、そういえば「神服神社」
の宮司さんに会った時、名刺をいただいており、たしか「中家(なかや)」
であったことを思い出しました。実際、名刺を取り出してみると、そうであ
りました。
中家は「中(なか)」家なのか、「中家(なかや)」家なのか、いずれにして
も服部と関係していることに間違いないと思います――
[63] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月08日 03時31分58秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
「中家」は「なかや」かも知れないのですか。
ビックリ
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E4%B8%AD%E5%AE%B6
【名字】中家
【読み】なかいえ,なかや,なかうち
【全国順位】 2,943位
【全国人数】 およそ4,600人
現京都南部である山城が起源(ルーツ)である、秦氏ともいわれる。
ほか現大阪府南西部である和泉の古族は倭漢氏族。
徳川家などを輩出した現愛知県東部である三河、志摩などにもみられる。
「中」は中心、なかを表す。
では「秦氏」の亡霊が出て来ても当たり前ですね。
三河で中家さんって聞いたことが無かったのですが
へぇ〜
やっぱり名字は難しい。
分布図では岩手と和歌山にダントツで多いですね。
[64] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月08日 05時01分31秒 ) | パスワード |
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101612.html
スレッド100をご用意いたしました。
キリの良いところでどうぞ。
[65] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月08日 07時24分42秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
「中家」氏についてお調べいただき、ありがとうございます。
山背出身の秦氏の一族である可能性が高いと思います。何故ならば、
高槻は京都に隣接して、すぐ隣ですから。確かに今は大阪圏にはなって
おりますが、高槻は元々民族や文化が違うのではないだろうかと感じて
おります。
不思議なことに、高槻はヤマトに並ぶ重要な地域であります。行って
みてビックリしたことは、@継体天皇と推定される古墳があったこと。
そして、中臣鎌足と推定される古墳があったこと。そしてもちろん、
B服部連と推定される古墳があったこと……であります。
高森明勅監修の『歴代天皇事典』を見ますと、継体天皇についての
説明に、こんなことが書かれておりました。気になるところをピック
アップしますと――
「異名:男大迹王(おおどのおおきみ) 皇妃:目子媛(尾張連草香の娘)
継体天皇は壮年になると、人を愛し賢人を敬い、心広く豊かな人柄
だったという。また、倭彦王が逃げてしまったあと、金村は群臣に、
男大迹王は情け深く、親孝行であり、皇位を継がれるにふさわしいと
言い、群臣もまた、子孫の内、賢者は男大迹王のみだと言った。
天皇は、農業や養蚕を怠っては、富み栄えることはできないと考え、
自ら耕作し、皇妃も自ら養蚕した。」
気になっているのは、「尾張連草香の娘」というところと、「養蚕」
というところであります。
服部連は摂津高槻の人でありました。服部村もここにありました。
尾張氏も関係していた、ひょっとして海部氏か――
[66] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月08日 09時46分05秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
男大迹王=継体天皇
子孫の内、賢者は男大迹王のみ
謎の人物ですね。
死についても謎ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%99%E4%BD%93%E5%A4%A9%E7%9A%87
継体が育ったとされる越前、生まれた土地とされる近江、宮廷があったとされる山城・河内、陵墓が設けられた摂津は
日本海ー琵琶湖ー宇治川ー淀川ー瀬戸内海の水上交通を中心とした交通路によって結び付けられており、
継体が地方出身ながら大王位を継げた背景にはこの交通路を掌握して強大な政治力・経済力を維持していたことにあり、
大和に対して圧倒的に優位にあったからだとする(当然、本拠地を離れて大和入りする動機も弱くなる)見方もある[1]。
531年に、皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。
『日本書紀』では、『百済本記』(「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」)を引用して、
天皇及び太子と皇子が同時に亡くなったとし、
政変で継体以下が殺害された可能性(辛亥の変説)を示唆している。
死去年に関しては、『古事記』では継体の没年を527年としており、そうであれば都を立てた翌年に死去したことになる。
『古事記』では没年齢は約40歳だが、『日本書紀』に従うと約80歳の長寿であった。
品太(ほむだ)王の五世(いつせ)の孫(みこ)、袁本杼(をほどの)命、伊波禮(いわれ)の玉穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき(この後は、何人かの妻を娶って産ませた子供が19人でこれらの子から後の3人の天皇が出たことを書いている。即ち欽明、安閑、宣化 の3天皇である)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E8%8D%89%E9%A6%99
尾張連草香(おわり の くさか、生没年不詳)
古代の地方豪族・尾張氏の首長。姓は連。
尾張岐閉(黄畔)の子とする系図がある[1]。
継体天皇の最初の妃であったとされる目子媛(めのこひめ)の父親で、
安閑・宣化両天皇の外祖父にあたる。
断夫山だんぷやま古墳が彼の墓であるとの説がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%AD%E5%A4%AB%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
断夫山古墳(だんぷさんこふん/だんぷやまこふん)
愛知県名古屋市熱田区旗屋町にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。
熱田神宮では「陀武夫御墓」と称するほか[1]、古くは「鷲峰山」「団浮山」「段峰山」などとも表記された[2][3]。
愛知県では最大規模の古墳で、6世紀前半(古墳時代後期)の築造と推定される。
愛知県名古屋市熱田区旗屋町 ← はたや町!
位置
北緯35度7分51.33秒
東経136度54分11.27秒
形状
前方後円墳
規模
墳丘長151m(推定復元約160m?)
高さ16m(前方部)
築造年代
6世紀前半
埋葬施設
不明
被葬者
(伝)宮簀媛命(日本武尊妃)
(推定)尾張氏首長 (一説に尾張連草香や目子媛)
出土品
円筒埴輪・須恵器
昔の、海岸線のすぐ近くですね。
ワタシは「だんぷやま?ダンプで土砂を運んで作った山?」と思ってました。
前方後円墳だったとは。
知らないものですね。
前方後円墳って日本中にあったのだ、というのをこのサイトで勉強したクチです。
前方後円墳ということは物凄い力を持った豪族だったということでしょうね。
ただの山林と思ってた自分を改めて糾弾!
愛知県の西の端に海部あま郡というのがあって
古代は尾張さんと張り合ってたのかな?
と思うようになりました。
海部かいふ俊樹の方は元は三木武夫と同じ徳島出身だと聞いています。
だから海部俊樹は三木首相のお気に入りだったって。
つまり アマとカイフは漢字は同じでも全く別の出身 と。
でも海部家は尾張藩に仕えてたのです。
不思議。
ノーベル物理学賞を受賞した小林誠先生は海部俊樹の親戚だそうです。
(小林益川理論)
で、小林先生が卒業した明和高校は昔の尾張藩の藩校で
ここの校長が海部俊樹の先祖の海部昂蔵さん。つまり小林先生の母方のご先祖さま。
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%B5%B7%E9%83%A8
【名字】海部
【読み】かいふ,かいべ,うみべ,あま
【全国順位】 7,475位
【全国人数】 およそ1,200人
現徳島県である阿波国海部郡が起源(ルーツ)である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。
現愛知県である尾張藩、徳島藩などにみられる。
つまり愛知県のアマ氏と徳島県のカイフ氏は実は古代からの一衣帯水関係だった?。
http://www.google.com/search?ei=gFMCWu6nFZCyjwP5kpjACA&q=%E4%B8%80%E8%A1%A3%E5%B8%AF%E6%B0%B4%E3%80%80%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E4%B8%80%E8%A1%A3%E5%B8%AF%E6%B0%B4%E3%80%80%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.12...3023.4203.0.6117.2.2.0.0.0.0.160.317.0j2.2.0....0...1.1j4.64.psy-ab..0.0.0....0.LEU3AO082JQ
【一衣帯水】
ひとすじの帯のような狭い川、または海。
また、そのような狭い水をへだてて近接しているさまを言う。
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