[1] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月11日 23時57分20秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
新しいスレッドありがとうございます。
神服部家については、何となく近づきがたく感じられ、初生神社を何回
も訪れるも、直接接触する勇気が出ませんでした。それはちょぅど一門の
「服部さま」もそんな感じであったことを思い出します。
いずれ近い内に勇気を出して接触してみたいと思っています。
神服と神服部、及び服部連との関係、すべてが点と線で理路整然と説明
できておりませんので、もう少し時間をかけて古代史の謎の部分の解明に
時間をかけたいと思います。特に、海部氏の歴史の中に「神服連海部直」
が見出されていますので、そこがポイントかと推察しています。
[2] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月12日 11時04分55秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
柴田晴廣氏の『穂国幻史考』をご紹介下さり、ありがとうございました。
できれば本日豊川まで買いに行ってきたいと思います。
先日の東三河行き、野田城跡の西にある尾張大宮司家の松御前の墓を見に
行ってきました。インターネットの情報では、高圧線の電柱の側だというこ
とで、近辺を探してみました。おおよその見当をつけて行ってみたところ、
背丈ほどもある雑草の中に、いくつかの墓石が埋もれているのを見つけまし
た。草木を薙ぎ払って中にはいり、それらを確かめてみたところ、一つは
石灯篭、一つはよくわからないモニュメント、一つが歌碑のようなもの、も
う一つには「松御前の碑」と刻まれておりました。
ここで私は、般若心経を2巻唱え捧げました。
松前御前は大宮司家としての尾張家から藤原家に嫁に行き、その子藤原
季範が大宮氏職を引き継ぐ。
季範の娘(兄の娘を養女とする)を源義朝に嫁がせ、頼朝が生まれる。
季範の孫の清季からは「千秋氏」を名乗り、野田館に入る。
千秋氏のスタートを松御前の夫の藤原季兼とすると、千秋系は稲木に3代
82年、野田館と野田城に6代158年、合せて240年間、東三河にいた
ことになります。
また、季範の伯母が池禅尼であるそうで、清盛、頼朝、頼範、頼盛、宗清
あたりとは同時代人であったということ、いろいろな人のつながりが見えて
きます――
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月12日 14時41分23秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>一門の「服部さま」
あの方ですか?お元気でしょうかね?
一応神服部氏については京都の同業さんから聞いて知っていました。
でも遠江の神服部さんは頼政関係で遠州にいらっしゃったので、12世紀以降でしょうね。
神紋と家紋、両方知りたいところですね。
>いずれ近い内に勇気を出して接触してみたいと思っています。
はい、勇気を出してください。
神服部氏とか神麻績氏とか
伊勢神宮には
いらっしゃったのでしょうね。
この伊勢神宮の神服部氏と遠江の神服部氏の関係がハッキリすると良いですね。
遠江の神服部氏は伊勢にいたというハナシですから
頼政の知り合いが伊勢で神服部になって遠江の神服部氏になったのか?
何か良い質問を考えて接触なさってください。
わたくしの知りたい事は
1
織姫たちはあの暗い中で機を織っていたのでしょうか?
板の隙間から透る光で織っていたのでしょうか?
それともアマテラスの加護があって見えてたのでしょうか?
2
伊賀の呉服明神との関係はあったのか?(宇治田原に引っ越した貞信のことです)
>海部氏の歴史の中に「神服連海部直」が見出されています
海部直だったら壬申の乱の時に大海人皇子( 天武天皇 )を助けた人だったような。
神服連海部直は父方祖母の家が・・・名字からするとちょっと関係が・・・と思うのですが
祖母は謙虚な人なので「ただの尾張の百姓だがね」と言うでしょう。
でもやっぱり熱田神宮のことを考えると・・・
母はこの祖母のことを父の実家なんかよりずっと・・・と言ってました。
天武天皇の大海人皇子というお名前を考えると海部直との関係に思いが至ります。
古代は謎だらけですね。
だから楽しいです。
何者だったのでしょうね大海人皇子さん。
天智天皇より年上だったという説もありますものね。
たぶん生母が海部直関係だったかも。それで弟にされたのかも。
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月12日 14時54分24秒 ) | パスワード |
>背丈ほどもある雑草の中に、いくつかの墓石が埋もれているのを見つけました。
>草木を薙ぎ払って中にはいり、それらを確かめてみたところ、
>一つは石灯篭、一つはよくわからないモニュメント、一つが歌碑のようなもの、
>もう一つには「松御前の碑」と刻まれておりました。
忘れ去られているのですねぇ。
涙
わたくしの分も般若心経をありがとうございました。
>季範の伯母が池禅尼であるそうで
それで池禅尼が清盛に「頼朝の命乞い」をすることになったのかもですね。
もともと藤原一族ですし
近い親戚ですから頼朝と池禅尼の子の家盛とは姿形が似てたでしょうし。
>季範の孫の清季からは「千秋氏」を名乗り
戦国時代に千秋家とホンヤさんの先祖が結婚していることから
やっぱり父方祖母の家が気になって来ます。
ワタシは父方の祖父系祖母系両方と熱田さんとは御縁があるようです。
ただの百姓だがね
熱田さんがダンナになって新田開発をやったのを手伝っただけだがね
それで土地をたくさん貰っただけだがね
なんか祖母のそんな声が聞こえたような。
笑
[5] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月13日 00時09分45秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
三河、特に東三河はやはり「穂の国」と言われただけあって、歴史の
かけらがたくさん埋まっていそうです。そういった意味で、正に『柴田
晴廣氏の『穂国幻史考』は楽しみです。本日、注文をいたしました。
三河関係の歴史本(古代)には、前田豊氏の『古代神都東三河 日本の
源流』をはじめとする三冊のシリーズ、榊原康彦氏の『謎の古代三河と
大和 天武天皇の秘密と持統天皇の陰謀』といった本がありますが、い
ずれも驚きに満ちています。しかしながら、三河の歴史はまだメジャー
でなく、歴史の研究においても十分な検証が追い付いていないので、と
りあえずの仮説の状態であります。何か大きな発見があれば、三河の歴史
への注目度とその解明は、一気に進んで行くものと思われます。
早く柴田晴廣氏の『穂国幻史考』を呼んでみたいものです。
あを様の言われる大海人皇子、正に天武天皇のことであり、榊原氏の
本の中にこの東三河との関連が書かれております。
「大海(おおみ)」という地名が新城と長篠の間にあります。何でこんな
山奥に「大海」なんかがあるのかと随分不思議に思っておりましたが、
その謎は「大海人皇子」に関連しているのかも知れません。
次回は、東三河訪問の最後――ある古墳群について感じたこと、を書き
たいと思います――
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月13日 02時34分32秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>榊原康彦氏
まさに榊原康政ゆかりのお名前ですね。
後裔なのかしら?
>「大海(おおみ)」という地名が新城と長篠の間にあります。
>何でこんな山奥に「大海」なんかがあるのかと随分不思議に思っておりましたが、
>その謎は「大海人皇子」に関連しているのかも知れません。
ですね
それで持統天皇は亡くなる前に夫にゆかりの深い?三河に行ってるのかもですね。
何か秘密がありそうですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E7%B5%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87
大宝元年(701年)にしばらく絶っていた吉野行きを行った。
翌年には三河国まで足を伸ばす長旅に出て、壬申の乱で功労があった地方豪族をねぎらった。
>「大海(おおみ)」という地名が新城と長篠の間にあります。
おおみ=近江(おうみ)かと思いますが おおみ ですから 大きい海 ですね。
ということは天武天皇の母上は三河の人だったかもですね。
それである程度育つまで三河にいて舒明天皇に引き取られたのかもですね。
額田王を愛したということで
額田=三河 を連想します。
ただし
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%8D%E7%94%B0%E7%8E%8B
額田王(ぬかたのおおきみ、ぬかたのきみ、生没年不詳)
飛鳥時代の日本の皇族・歌人。天武天皇の妃(一説に采女や巫女)。
額田王(『万葉集』)の表記が一般的だが額田女王、額田姫王(『日本書紀』)、額田部姫王(『薬師寺縁起』)とも記される。
『日本書紀』には、鏡王の娘で大海人皇子(天武天皇)に嫁し十市皇女を生むとある。
鏡王は他史料に見えないが、「王」称から2世 - 5世の皇族(王族)と推定され一説に宣化天皇の曾孫という[1]。
また、近江国野洲郡鏡里の豪族で壬申の乱の際に戦死したともいう。
出生地に関しては大和国平群郡額田郷や島根県東部(出雲国意宇郡)に求める説がある。
王族のはずの額田王が朝臣姓を賜っている点はやや不審であり、
もしこの説が正しいとすると額田王は当時藤原氏一族の有力者であった藤原大嶋と再婚し80歳近くまで生きていたことになる。
額田部について
http://www.weblio.jp/content/%E9%A1%8D%E7%94%B0%E9%83%A8
ビックリ
推古天皇の諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。
和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、
『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)。
炊屋姫尊とも称される。
額田の地名
奈良県大和郡山市に額田部
という場所があるそうです。
ワタシには
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%8D%E7%94%B0%E9%83%A1
額田郡(ぬかたぐん)は、愛知県(三河国)の郡。
人口40,802人、面積56.72km²、人口密度719人/km²。(2017年8月1日、推計人口)
以下の1町を含む。
幸田町(こうたちょう)
ムカシの昔、1970年代なんかにソニーのテレビの工場がありました。
また
新幹線で名古屋に向かう時の最後のトンネルを出たあたりです。
郡名は出土木簡によると、
古代では各田・農多とも表記されている。
古代氏族の額田部(ぬかたのべ)に由来するという説のほか、
ぬかるみの多い土地を意味する古語が転じたという説など諸説ある。
戦国時代以降西三河における一大拠点のひとつとして台頭し、徳川家康の出身地となった。
江戸時代には岡崎藩をはじめ奥殿藩や西大平藩などが設置されたほか、東海道の宿場町も設けられ郡域は発展した。
ということは結構重要な立ち位置だった?
「服部家」もありそうですね。
[7] | 柴田晴廣さんからのコメント(2017年10月13日 06時58分15秒 ) | パスワード |
URL=http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/ |
空の青海のあをさん
はじめまして
拙著注文していただきありがとうございます。
『穂国幻史考』の概要をブログに投稿し始めました。
http://tokosabu.dosugoi.net/
参考になれば、幸甚です。
榊原康彦さんは、『穂国幻史考』の読者です。会ったこともあります。
前田豊は、おどろきというより、完全な疑似科学ですね。
『牛窪考増補版』の拾遺5は、「検証 東三河の徐福伝説」です。
先日削除しましたが、「牛窪考増補版の概要」では、東三河の徐福伝説など四半世紀前に突如として現れた都市伝説のようなものであり、根拠は全くありません。
その根拠のない都市伝説を前提に話を展開しております。
戦後の豊川市の三浦天皇の弟子筋が石巻山付近におり、その影響があったようですね。
[8] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月13日 08時26分32秒 ) | パスワード |
柴田晴廣さん
こちらでは初めまして。
>三浦天皇
戦後日本各地で天皇と称する人達が出現した時のお1人ですね。
ものすごい数の南朝方の 「「天皇」」 が存在したのでしょうね。
後醍醐天皇は一体何人のお子さまがいたのやら
女子だけで20人+
男子も20人+
記録にないお子さまもいらっしゃったでしょうし。
無事に育ったのが半数あたりとして
男子系で10人あたり、女子系で10人あたり?
その子孫としたら?
記録のある家でも「我こそは後醍醐天皇の皇子さまの遺児の子孫」とは名乗っていない家が結構ありますから。
尾張南西部でしたら大橋さんがダントツですね。
みんな知ってるけど大橋さんが言わないから・・・これ以上書いてはいけないですね(笑)
熊沢さんの出現に尾張南西部の住人としては
(いえ、ウチとしては大橋さんの方に正当性の軍配を挙げたい)と
思うでしょう。
(なんで一宮なんかにおった人を南朝方の正当な天皇と認めなあかん?
あんなトコ、北朝方の巣窟じゃないか)
と妙興寺憎さに絶対に認めたくないでしょう。
笑
だけどホント
今でもいらっしゃいますね
南朝方の子孫で今も直垂や狩衣が似合う雅なお方。
でも彼は決して自称なさらない。
たぶん彼は(知る人は分かっている)と思っていると思います。
なかなか男子誕生の報が無いので彼の家も今世紀には消えるのでしょう。
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月13日 08時35分44秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
上記の「彼」から「神服部家」のことを初めて知らされました。
[10] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月13日 15時12分11秒 ) | パスワード |
録画してあった「ファミリーヒストリー」の山中伸弥さんの回を見ました。
山中先生のご先祖さま関係地が大阪府枚岡市「額田」という地名でビックリ。 ← 現東大阪市
なんという偶然。
でも「額田」という意味がイマイチ納得出来ないでいます。
思ったのは額田王の額田は三河は関係無かったのだろうなと。
[11] | 柴田晴廣さんからのコメント(2017年10月13日 18時06分26秒 ) | パスワード |
URL=http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/ |
空の青海のあをさん
注文いただいたのは、三つ柏さんでしたね。
ごめんなさい。
改めて、三つ柏さん
はじめまして
ご注文いただきありがとうございました。
三つ柏というと、牛久保ゆかりの牧野氏の家紋が三つ柏です。
また野田の富永氏は、母の在所が野田の富永の後裔になります。
もっとも、一般に流布しているように、千若丸の夭逝により、断絶したのではなく、菅沼に乗っ取られ、首を刎ねられ、以降、千若丸に近い血筋は、富の点を取り、「首なしの冨永」としました。
『穂国幻史考』の第二話は、上記の「首なしの冨永」等の母方祖父の伝承をもとに検証したものです。
[12] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月13日 21時46分09秒 ) | パスワード |
柴田晴廣様
はじめまして。三つ柏服部です。柴田様の『穂国幻史考』というご本、
今まで情報を得ておりませんでした。空の青海のあを様の引用紹介によっ
てはっきりと知ることができ、幸運でした。ご指定の本屋さんに郵送をお
願いしましてので、到着するのが待ち遠しいです。
私の勤め先の所有する豊橋の山に古墳(二基)があり、誰の古墳か調べて
いる内に、前田豊氏のシリーズ本や榊原康彦氏の著作に出会いました。
前田氏によれば、その古墳はスサノオと大国主らしいですが、その根拠
性については確かなものがありません。
榊原氏の本については一度読了して、いい本だなと思っていますが、
10年以上も前でありましたので、改めて読み直そうと思っています。
それよりも、柴田様のご本、早く読みたいです。
私の興味は、東三河から遠江にわたる養蚕ベルト地帯の関係の解明、そ
れはとりもなおさず服部氏族の解明でもあります――
[13] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月14日 09時24分02秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
服部郷や羽鳥郷に「服部氏」がいない、あるいは少ないといった現象は、
東三河大野の服部郷、遠江羽鳥庄だけの現象でありましょうか?
仮にそうだとして、では一体その原因=真実は何なのでしょぅか?
私が推察するに、その原因=真実は色々考えられます――
@元々、服部と名乗った、あるいは名乗れる者は少なかった。後世、服部
という場所に住んでいるということで、服部と名乗る者が現れはしたけ
れども……。
A絹織物に関する技術(蚕を育てる技術、糸を作る技術、織る技術、織機
を作る技術)は、元々門外不出の封印されたものであった。絹は金より
も高価なものであり、神・天皇・朝廷・権力者に直結するものであった。
つまり他の者には許されなかった。つまり、閉鎖的な仕組みの中で、
肝心なところ、中枢の部分の人間は、一握りの者で少なかった。
B絹生産の技術、あるいは絹そのものは、高度で特別なもので得難いもの
であったので、戦乱時には特に狙われ、略奪され、技術者は拉致された。
その民は逃亡し、部落は破壊された。
C絹の必要性、あるいは需要は、時代と共に変遷した。特に律令制の崩壊、
綿の生産拡大により衰退。明治になり、絹織物は輸出用に大規模工場生
産されるも、やがて化学繊維にとって代わられる。このような変遷に、
絹にかかわる人々も変遷=衰退・移動を余儀なくされた。
D「服部」という名前は、狙われる名前であった。即ち、隠さざる、隠れ
ざるを得なかった。従って人里離れた所に隠棲した。名前を変えた。あ
るいは家紋も変えた。勝てば官軍であるが、負ければ落武者狩りにあっ
た。源平の戦い、南北朝の戦い、あるいは戦国時代……。
以上、これらはあくまで私の推測であって、裏付けの証左は、今のところ
はっきりとしたものはありません。
もう一つ、別の視点から見ますと、やはり「秦氏」との関係があります。
秦氏という氏族、なかなかしかとは捉えられません。秦氏の興隆・衰退
と服部氏は同調しているのかも知れません。
いずれにしましても、これらの点について、今後も更に追及して行きたい
と考えております――
[14] | 柴田晴廣さんからのコメント(2017年10月14日 09時56分53秒 ) | パスワード |
URL=http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/ |
三つ柏服部さん
服部は、秦より火明との関連を考えるべきでしょう。
火明=アマテル神という点。服部=機織という点。
この二点からいえば、筑紫申真さんの『アマテラスの誕生』が基本書になります。
そして『アマテラスの誕生』は折口信夫さんの『水の女』を基にしていますから、この『水の女』も目を通しておくべきでしょう。
それと周辺氏族としては、伊予橘氏なども調べる必要があると思います。
そしてそうしたものを調べる際の基本となるのは、太田亮著『姓氏家系大辞典』です。
東三河の歴史の基本書となるのは、この太田亮さんが編纂した『神社を中心としたる寶飯郡史』です。
[15] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月14日 12時13分05秒 ) | パスワード |
柴田晴廣様
さっそくのご回答ありがとうございます。ご教示に従って調査をしてみま
す。
ところで、ただ今榊原氏の『謎の古代三河と大和 天武天皇の秘密と持統
天皇の陰謀』を読み返しておりまして、ちょうど柴田様の『穂国幻史考』か
らの引用部分を見つけたところでありました。
それは「第4章 三河とは」の157頁でありますが――
「火明命とは、饒速日命のフルネーム天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の
天火明に由来するものであり、饒速日命と御炊屋姫との子・宇麻志麻治
を祖とする物部氏が、饒速日命の裔を称するのに対し、饒速日命と天道
姫との子・天香語山命を祖とする尾張氏及び海部氏は、火明命の裔を称
する。この火明命は、丹後半島の沖の冠島に天降ったと伝えられる。冠
島の対岸の舟屋で有名な伊根町には、徐福(徐市)伝説が残る。火明命=
饒速日命は、江南に源流を持つ海人であったと考えられる。」
という部分であります。つまり――
@饒速日命=火明命=天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(=海人族)
A饒速日命+御炊屋姫=子・宇麻志麻治=物部氏の祖
B饒速日命+天道姫=子・天香語山命=尾張氏&海部氏の祖
C故に、饒速日命=火明命=物部氏・尾張氏・海部氏の祖
D故に、物部氏≒尾張氏≒海部氏(=同根で同族とも言える)
という定理になりますね。ありがとうございます。これで三河・遠江の古代の"地層"ばかりか、古代史のおおもとや古代史全体についての解釈を、理路
整然と進めることができますね。納得です――
[16] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月14日 12時45分14秒 ) | パスワード |
柴田晴廣様
たった今、ご本が届きました(12時30分)、注文より48時間後で
あります。
750頁にも及ぶ立派なご本、文体と言い、内容といい、レベルの高
さを感じ、名刀を目の前にしたような緊張感が漂います。
さっそく読ませていただきます――
[17] | 柴田晴廣さんからのコメント(2017年10月14日 17時38分54秒 ) | パスワード |
URL=http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/ |
三つ柏服部さん
私は火明命=ニギハヤヒとは考えていません。
これは、『先代旧事本書紀』巻五「天孫本紀」の記載ですが、私は石上麻呂あたりが火明命系=海人の伝承を剽窃し、それが「天孫本紀」で結実したと考えています。
海人といえば、『隋書』に倭王の姓は阿毎とありますが、この阿毎は海人のことであり、具体的には、甘樫の丘に邸宅を構えていた蘇我宗家こそが倭王だったと考えています。
甘樫の丘は阿毎ヶ氏のことです。
当然、この時代は母系制であり、蘇我氏が倭王だった時代の天皇など、蘇我宗家の入り婿にすぎません。
記紀の系図も母系の観点から再構築するといろいろと見えてきます。
[18] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月14日 21時26分34秒 ) | パスワード |
柴田晴廣様
貴重なるご教示、ありがとうございます。今回ご指摘いただきました
大事な部分についての探求は、ゆうに半年はかかりそうな気がいたしま
す。
いずれにしましても、『穂国幻史考』とあわせ、じっくり時間をかけ
て理解・考察して行きたいと考えます――
[19] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月15日 08時33分11秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
柴田晴廣氏の『穂国幻史考』は期待通りの書籍でした。膨大なデータ
ベースの中での比較考察により、真実を絞り出し浮き上がらせて行くと
いう、途方もない労力・時間を要する作業であったと思われすが、氏の
能力の高さからしてみれば、そんなことは朝飯前のことだよと言われる
のかも知れません。いずれにしても、ハイレベルの素晴らしい書籍であ
ることは間違いありません。私は信頼性のある書籍には「テキスト」と
いうシールを張りますが、この本にはもちろん張ることになります。
[20] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月15日 17時32分11秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
東三河のお寺巡りの最後は、ナビに出て来た「長慶寺」でありました。
ここは、後醍醐天皇の孫の長慶天皇と関係があるようです。また、旗頭山
古墳群が近くにあるというので、ついでに見てみようと思った次第であり
ました。
長慶寺は八名井にあり、そこを中心とすると、北東約3qの所に野田城
跡、北西約7qの所に本宮山、また南西約4qの所に砥鹿(とが)神社があ
ります。
一旦ここで切ります――
[21] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月16日 00時22分29秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
「吉祥山長慶禅寺」は後醍醐天皇の孫の「長慶天皇」に関係があると言
われているようですが、その具体的な内容についてはわかりません。ただ、
弘法大師が根本中堂を建てたという立派なお寺であり、また背後には広大
な霊園をかかえておりました。
その霊園で見つけたものは――
鈴木氏の墓:家紋は「丸に三つ柏」のものと「丸に剣片喰」のものが
がありました。
服部家の墓:家紋は「抱き茗荷」でありました。
ここで、般若心経を二巻唱え捧げました。
一応、その他のほとんどの墓は見て回りましたが、特筆する発見はあり
ませんでした。
それよりも、この霊園のさらにその奥の裏山に、「旗頭山尾根古墳群」と
いうものがありました。前もってその存在自体は知っていたのですが、具体
的にそれがどこにあるかについては知りませんでした。
せっかく見つけた古墳群ということで、見に行ってみることにいたしまし
た。
次回へ――
[22] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月16日 15時21分46秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
長慶禅寺の裏の坂道を登って行くと左右に霊園が続き、やがて坂道はジグ
ザグになり、標高は上がって行く。一段と険しくなった所に柵で囲まれた入
り口があり、一見したところ中へは入れないようである。でもよく見ると、
柵には戸が付いており、錠の類はないけれど、紐で結ばれておりました。
そこには小さな看板があり、「利用者は、帰る際に戸締りを!」と書かれ
ていました。つまり中へ入れるということであります。少し迷いましたが、
せっかくここまで来たのだから、勇気を出して行ってみようと自分に言い聞
かせ、戸を開けて中へ入って行きました。未知の所へ行くのはいつも危険性
が伴います。かつて伊賀では山の中で迷ってしまい、怖い想いをしたことが
ありました。また、草むらにマムシはつきものでありますし、イノシシ、熊
とも遭遇する可能性もあります……。
この旗頭山は普通の山と地質が違っておりました。溶岩のようなあるいは
玄武岩なのか、ゴツゴツした小ぶりな岩だらけで、その岩を覆うように灌木
や柔らかな草が生えていました。
坂道は急峻で、しかも獣道同然でありました。石で足をくじかないように
気を付けながら登って行きました。あたりの眺めは登るほどによくなって行
きます。中腹にさしかかると、白い看板を取り付けた杭に出くわしました。
そこには、『旗頭山尾根3号墳」と書かれておりました。特に古墳らしき
ふくらみはない。土葬に近いと思いました。登るにつれ、次から次へと杭
が目に入り、「6号墳」、「7号墳」、「10号墳」、「13号墳」……
と続き、頂上付近では「24号墳」となりました。
地上では30℃近く暑かったのですが、ここは四方さえぎるものもなく、
風が吹き抜けておりましたので、汗も引き実に爽やかでありました。
頂上付近からの眺めは抜群で、それ故、死者の霊を祀るにふさわしいも
のであったのかと想像いたしました。
その眺めというのは、眼下に豊川が流れ、その扇状地が両側に広がり、
南西の方向には、神々しい「本宮山」がそびえている。南方には、照山が
ポツリと存在し、さらにその向こうには権現山……。つまり、高い山の頂
上が全部見えるのではないかと思いました。たぶん、鳳来山も見えている
のでしょう……私には識別できませんでした。
この頂上にて、たくさんの遺跡に眠る古代の人々の霊に向けて、般若心
経を2巻、大きな声で唱え奉げました。その声は、風と共に旗頭山の尾根
に並ぶ古墳群の上を流れ、やがて空中に消えて行きました――
[23] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月16日 17時23分43秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
旗頭山古墳群保存会が制作したパンフレットを入手して来ました。それ
によりますと――
「愛知県指定史跡 旗頭山尾根古墳群
古墳宝庫の地
愛知県には、約2700基の古墳がある。その内の半数程が東三河地方
に分布しており、一宮町には約330基、新城市には約170基が存在
している。この2市を合わせると県内の20%近くに及ぶ。
旗頭山古墳群の特徴
この古墳群の特徴は「積石塚古墳」と呼ばれるもので、墳丘を盛土の
代りに石積をもって構築する特殊な形態を見せていることである。県内
では東三河地方にだけ見られる比類のない貴重な存在である。
ここの24基の墳墓では、19〜24号墳が積石塚古墳であり、1〜
18号墳は石材と土とを併用した「半積石塚古墳」となっている。
こうした様式の墳墓は、朝鮮半島において発達した墓制で、このこと
から、この古墳群の近くには、朝鮮の文化をもたらした渡来人が多く住
んでいたのではないかと考えられている。しかし、土より石を得やすい
環境から積石塚にしたという考えもあり、議論の分かれるところである。
古墳群の造営は、6〜7世紀とみられ、古墳時代後期の群集墳の中で
も特殊なものである。
旗頭山の名称の由来
旗頭山の名称は、昔、秦氏・服部氏等渡来・帰化人系によるとの説が
あり、そうした人々の集団や末裔の墓域とも考えられるが、確証はない。
また、一説には、元亀元年(1573)の「野田城の戦い」の折、徳川家康が
一時陣を敷いたからだとのいわれもある。 」
秦氏や服部氏の影がチラホラと見えてきます――
[24] | 柴田晴廣さんからのコメント(2017年10月16日 19時27分51秒 ) | パスワード |
URL=http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/ |
三つ柏服部さん
系図の大家・太田亮氏の『姓氏家系大辞典』をみれば、わかると思いますが、東三河に秦氏の影はありません。
また考古学のまずいところは、技術を氏族の移動に安直に結び付けることです。
たとえば、中東や東南アジアに日本の技術が結晶された施設が建設されていますが、中東や東南アジアに日本人が定住していますか?
また戦後、日本の看板には、横文字があふれ、トイレなども急速に様式化しましたが、これを現在の考古学の見解から説明すれば、第二次世界大戦で、日本列島から日本人は消え、代わりにアメリカ人が入って来たからとなるかと思います。
東三河の秦氏については、『穂国幻史考』の続編『牛窪考増補版』の拾遺5で十分に検証して、否定してあります。東三河の羽田野及び波多野氏は、鳥取氏あるいは日下部氏の後裔氏族と考えられます。
服部氏も「天孫本紀」の火明命系で考えるべきだと思いますし、棚機つ女として考えるべきでしょう。鳥取氏は、棚機つ女が神衣を織った湯川板挙と関係してきます。
加えておけば、旗頭山は、明治以降に出てくる表記で、それ以前は笠置山です。
[25] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月16日 21時05分44秒 ) | パスワード |
柴田晴廣様
ご教示、誠にありがとうございます。おかげさまで、方向性が見えて
来ました。火明命=海人の方向に向けて探求して行きたいと思います。
『穂国幻史考』も2割程度読みました。論証がしっかりしていて、本当
にすごいなあと感じております。
私もいつの日にか、古代からの歴史が数学のようにきっちり語られる
時代が早く来ないかなあと望んでいます――
[26] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月17日 03時07分49秒 ) | パスワード |
ごめんなさい
また消えました。
今のプロバイダーに変えてから
よその家は接続になっているのに我が家だけは落ちているとか再接続出来なかったり
突然消えたり
ちょっと疲れました。
消える直前は中国の「露田」のことを参照してました。
[27] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月17日 07時09分02秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
今まで積み上げたものが突然消えてしまうのは、気力をそぎますね。
ショックが大きいですね。私も、できるだけ被害がすくなくて済む
ように、小刻みにしていますが、それ以前の問題として、自分自身の
集中力をコントロールして行くのも、なかなか難しいですね。
さて、古代史はちょっとわかったつもりでも、論理として頭に残ら
ない。それはややこしいということが一番の原因ですが、たぶん点と
線がはっきりと結ばれていないのが原因かと思います。特に、土台
の部分、即ち古代の天皇の存在とその正確な在任期間が余りにも非
科学的であるというところが一番の問題です。建築物と同じように
土台がしっかりしてなければ、いくら上物を積み上げてもすぐ崩れて
しまいます。第10代崇神天皇からは実在した可能性が大きいという
ことですが、それでも記紀で示される生存期間は第15代応神天皇
まで信頼性に欠けます。
ということで、私はインターネットで引っ張って来た「古代天皇
と実年代」というものを参考にしていますが、正式に認められたも
のではないので、いつもダブルスタンダードで古代史を見ておりま
す。
以前に購入した八木莊司氏の『古代天皇はなぜ殺されたのか』と
いう本、これは正に古代天皇の実在したかいなかのタブーに真摯に
挑んだものですが、今になってその必要性を感じていますので、こ
れから再度目を通してみたいと思います――
[28] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月17日 08時39分30秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
私はど「ある程度の証左」を元に、「直感(勘)」と「仮説(ストーリー
立て)」に基づいて「調査」をして行くやり方をとっています。直感です
ので、外れることが多いのですが、そもそも古代については諸説紛々で、
本当の所はどうなのか、よりどころとなる説が間違っていれば、間違った
説の上塗りをしていることになりますし、またそれを信じて永遠と上塗り
の厚化粧が続いて行くことになります。だから、直感が正しければ、それ
に越したことはないと思うのですが……。
さて、旗頭山で見た遺跡――墓群、実際はゴツゴツとした岩山の墓地で
あるということですが、今は草に覆われ、しかと見ることはできません。
尾根の一番高い所に初代の墓が造られ、年代を経るにつれ下へ下へと造
られて行った。
尾根の頂上に向かい、三方の視界を遮る物はありません。遠くの山々、
豊川の扇状地、そして大空、太陽、風……実際に行ってみないとわからな
いでしょうが、空を飛ぶ鳥が上から見降ろす感じ、いわゆる「鳥瞰」する
如き眺めでありました。
この時、私の「直感」として、「鳥葬」のイメージが湧きました。古代
出雲でも超葬が行われていたと書かれているものがありましたが、正に、
この岩山でも鳥葬が行われていたのではないか。鳥は鷲や鷹でしょう。
鳥に乗り移った霊は、空高く舞い上がり、さらに祖霊の地へ戻って行く―
そんなイメージを抱かせる場所でありました。
鳥葬については、別途調べてみたいと思っております――
[29] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月17日 09時31分16秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
「神服部家」について調べようと思い、先日、初生衣神社の地元の
三ケ日町図書館に行き、何か資料はないかと探したところ、三ケ日町
郷土文化研究会編の『三ケ日町史資料 第二集 初生衣神社特集号』
というものがありましたので、コピーして持ってまいりました。
この中には、今まで知られていないことも出ておりますので、次回
以降に記したいと思います――
[30] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月19日 00時06分28秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
@ WEBサイト「水石の美を求めて」には、神服部家のことが丁寧に調
べられて述べられております。
A これと『三ケ日町史資料第二集 初生衣神社特集号』を比べて見ます
と、こちらは昭和27年に完成をみておりまして、古い資料であります。
引用している文献・資料は、記紀をはじめ神服部家古文書まで22にも
及びます。
@とAは、提示されている内容が、ほぼ似かよっておりますので、@は
Aを参考にしているものと推察いたしました。
但し、@はAを参考にするも、本人なりの推論を述べておられますので、
そこは素晴らしいところであります。
B 地元三ケ日の高橋祐吉氏の書いた『浜名史論』は、800頁に及ぶ郷土
の歴史についての本ですが、神服部家、そして初生衣神社について、か
なり突っ込んで書いておられます。
このBの『浜名史論』をもう一度詳しく読んでみましたら、@とAとを、
根底から覆すような論述にぶち当たりました。
それは何かと申しますと(要約)――
ア)神服部家は、美和(三輪)氏族であった。
イ)神服部家は明治になってその名を名乗ったのであって、鎌倉・室町時
代は「神氏」を、徳川時代には「神目代」を名乗っていた。
ということで、いろいろな疑問点がでてきてしまいました。
従って、これについては、もう少し時間をかけて探求して行くことに
したいと思います――
本日、筑紫申真氏の『アマテラスの誕生』という文庫本に目を通しまし
た。持統天皇の願望(陰謀)がよくわかりました。但し、アマテラスとヒミ
コの関係については触れられていないようで、残念でした。私の食指は、
ムクムクと「卑弥呼」の方に向いてきました――
[31] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月19日 01時42分40秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
1.
遠江の神服部氏はもともとは京都の占い師だった?
当時の名字は賀茂氏あたりだった?
伊勢には正当な神服部氏と神麻績氏がいた?
古代のハトリ部を束ねる長は「神服部」と呼ばれた?それでどこにでも結構「神服部」職が存在した?
神服部というのは固有名詞(名字)ではなく普通名詞(名字)だった?
京都の占い師が浜松に来て神服部を名乗った?
2.
『浜名史論』
ア)神服部家は、美和(三輪)氏族であった。
イ)神服部家は明治になってその名を名乗ったのであって、
鎌倉・室町時代は「神氏」を、徳川時代には「神目代」を名乗っていた。
3.
「日本人のお名前」(古館というよく喋りまくる人の番組)で遠江の神服部氏の系図をちらっと見せていました。
すっごく古くから続く家のような印象でした。
それでワタクシは
いわゆる遠江の神服部家は、古代から存在していた神服部家の名字と立場を、源頼政を介してゲットしたのかな?と。
推測として
遠江の頼政の領地内の神服部家が当時途切れていたのではないかな?と。
都を追われた占い師が、その空いた職を伊勢神宮でちょっと修行して、遠江に赴任したのではないかな?と。
[32] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月19日 01時52分29秒 ) | パスワード |
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%A5%9E
【名字】神
【読み】かみ,かなえ,じん,しん,こう,みわ,こお,かん
【全国順位】 1,241位
【全国人数】 およそ14,100人
すごいね、日本には八百万の神と14,100人の神さまがいらっしゃるのか。
ブルゾンちえみ風に。笑
【解説】
出雲大社から出た諏訪神家の子孫。
三輪氏と起源をともにする。
三輪氏族の子孫が神氏を呼称。
神の鎮座地などが由来。
後世には中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)の神氏もみられる。
なるほどね。
分布図?生息地?では
青森県がダントツで神さまがいらっしゃるようです。
なるほど
それでイタコ?霊媒師が多いのか?
その他にも神さまは東北地方に多いようです。
やっぱり弥生人(神武東征)による追われた縄文人の存在を意識してしまいました。
[33] | 柴田晴廣さんからのコメント(2017年10月19日 07時07分55秒 ) | パスワード |
URL=http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/ |
三つ柏服部さん
WEBサイト「水石の美を求めて」は、前田豊並みの首をひねるような記述が満載です。
『浜名史論』は、太田亮さんの著作からの引用等はありますか?
なければ、『姓氏家系大辞典』や太田亮著の遠州に関する著作などに当たるべきです。
『アマテラスの誕生』ですが、皇祖神アマテラスに至るまでの変遷が丁寧に書かれていると思います。
ヒミコなんていうのは、神衣を織る棚機つ女に毛が生えた程度の存在ですから、『アマテラスの誕生』では、触れる必要もない存在っていうことになります。
むしろ『アマテラスの誕生』でも丁寧に説明してあるアマテル神=火明命に着目する方が、神服部の出自の解明にもつながります。
[34] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月19日 10時55分16秒 ) | パスワード |
柴田晴廣様
シャープな御教示、ありがとうございます。
「水石〜」の中で、ただ一つ、拾いものをしたと思っていることが
あります。それは、「延喜式」の中の「神祇官関係の式 第七巻 践祚
大嘗祭」についての紹介でありました。
その中で、「神服神社」(摂津高槻 服部連の本拠地)より、地方各地
の服部郷へ出張指導がなされていたということがありました。東三河に
も来ていたとのことでありますので、遠江の羽鳥とも関係があったのか
と推察しております。
摂津の「神服神社」にも行って来まして、神主さんとも話をしてみま
したが、各種戦乱を経て記録等は失われてしまったという嘆き話を聞く
のみでありました。ただ、神文が「丸に三つ柏」だったのが、目に焼き
ついております。もちろん、「服部連塚」にも行って拝んでまいりまし
た。
卑弥呼については、"本場"九州の宇佐神宮でもあまり情報がありません
でしたが、宇佐神宮の下に卑弥呼の墓があるというような話は耳にしま
した。「卑弥呼」というのは、過大になり過ぎたブーム的人物像なのでし
ょうか。
火明命は籠神社・海部氏の祖、ここにも行って来ておりますので、より
親近感があります。海部氏の中に「神服部」を冠する宿祢がいますので、
ここを中心に調べたいとは思っているのですが、情報が出てきません……。
『アマテラスの誕生』は内容も文体も分かりやすく、いい本だと思います
ので、完読いたします――
[35] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月19日 11時17分46秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
あを様の御推察、あたっているものと思います。神服部家の系図につい
ては、高橋氏によると、後日作られたもので付会があったのではないかと
いう疑念を表せられております。
高橋氏は例の「三ヶ日原人」の発見・確定に功のあった人でもあります。
教師として、歴史研究者として真摯な方でありますが、こと神服部家に関
しましては、厳しい見かたをされており、こちらの熱も冷めそうです。
従って、初生絹神社の神服部家については、「仕切り直し」といたした
いと思います。
但し、東三河の大野の鈴木神主他、鈴木氏については更に深く探究して
行きたいと考えます。
[36] | 柴田晴廣さんからのコメント(2017年10月19日 17時44分37秒 ) | パスワード |
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三つ柏の服部さん
その三つ柏の服部さんが拾いものをしたと思っている個所も私が首を傾げる理由の一つです。
東三河の服部関連といえば、足山田の服織神社になりますが、寶飯郡の歴史を語る上での基本資料となる『神社を中心としたる寶飯郡史』にも、『三河國寶飯郡誌』にも、出張に来たことなど書かれていません。また大林卯一郎著『三河絹の道』でも服織神社について詳しく言及してありますが、やはりそんなことは書いてありません。
ヒミコについては、たとえば愚者の骨頂・後醍醐の息子の懐良が明から日本國王に命じられていますが、懐良なんて九州のほんの一部を支配していたに過ぎません。ヒミコもこんな程度のものです。ヒミコの謎が解明されても、日本の古代史に大した影響はないと私は考えています。
籠神社もあまり信頼できるものではありません。国宝指定の系図自体、系図の専門家からは、否定的な見解がだされており、私もそれが妥当な見解だと思っております。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/amabe/amabe-k1.htm
特に籠神社の主張は、より疑問の多い勘注系図によっています。
[37] | 酔石亭主さんからのコメント(2017年10月19日 20時46分26秒 ) | パスワード |
三つ柏服部さん、空の青海のあをさん
初めまして。
私が以前に書いた神服部関連記事をご評価頂き有難うございます。また、過去に私の記事を引用して、その感想を書かれた過去レスなども拝見しましたが、感動された様子がありありと伝わって来てブログ主冥利に尽きると思いました。
なお、海部氏の神服部海部直に関しては「尾張氏の謎を解く その68」で詳しく書いていますのでご参照ください。天孫本紀にはニギハヤヒの六世孫・建田背命が神服連、海部直の祖とあり、それを元ネタにしたと推察される「丹後舊事記」が、神服連海部の直は皇孫六世旦波国造、但馬国造等の祖也、と書いたものと思われます。ただこれは、建田背命と神服連海部の直をごっちゃにしています。この系図は尾張氏系図なので、天孫本紀に従えば神服連は尾張氏系になってしまいます。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1911.html
と、ここまでは幸せ気分でしたが、柴田氏が私のブログに関して、前田豊並みの首をひねるような記述が満載です。などと書いておられ、一転して不快になってしまいました。
ご自分のことは棚に上げて随分失礼な話なので、削除されるよう願います。
この方は東三河の徐福伝説に関して、最近の都市伝説に過ぎず、医師の大島信雄さんが書いた「愛知県宝飯地方の徐福伝説」により根拠なしとの結論が出ているとして、私や他の方のブログなどを否定しようとされました。
ところが大島氏の記事には、徐福伝説のことは地元で無視され続けてきたが、根拠のないように見える単なる伝承でも、それなりの意義はあるはずで、そのもつ意義を正当に評価する必要があると、柴田氏の言い分とは真逆な内容が書かれています。
大島氏の記事は一般では手に入らないものであり、チェックしようがない記事を盾に取って都市伝説だの根拠なしなどと言い募り、相手の言論をねじ伏せ封殺するような柴田氏のやり口は郷土史家としていかがなものかと思いますし、大島氏に対しても大変失礼です。
徐福に関連する記事が書かれた地元史に「牛窪記」があります。今はどうだか知りませんが、同氏は徐氏古座次郎(正しくは古座侍郎)が徐福の孫だと言う記載は「牛窪記」はないと主張されていました。ところが、「牛窪記」には徐福の孫の古座侍郎が三州に移り来たと明確に書かれています。内容をチェックもせずそう主張した、或いは知っていたが意図的にそうした記載がないと主張したのなら、いずれにしてもおかしなことです。なお「牛窪記」はデジタル化されておりネット上で見られますが、その内容の信憑性自体には十分注意を払う必要があります。
柴田氏のスレッド24には「系図の大家・太田亮氏の『姓氏家系大辞典』をみれば、わかると思いますが、東三河に秦氏の影はありません。東三河の秦氏については、『穂国幻史考』の続編『牛窪考増補版』の拾遺5で十分に検証して、否定してあります。」と書かれており、いかにも同氏らしくこの問題に触れるなと言いたげな断定の仕方です。
どうしても東三河における秦氏の存在を否定されたいようですが、「牛窪記」には徐福の孫の古座侍郎が三州に移り来た故に、本宮山下に秦氏が多い、と書かれています。そして、「同姓同名探しと名前ランキング」で愛知県の秦姓をチェックすると、全部で133人に対し、豊橋市、豊川市の合計が32人で突出して多く、「牛窪記」の本宮山下に秦氏が多いとの内容にもきちんと整合し、この一点だけを見ても東三河における秦氏の存在を否定できない現実があります。
要するに、それぞれの方がブログや掲示板であれこれ楽しく議論しているのを一方的に封殺するような同氏の姿勢には疑問を呈さざるを得ず、そんな方から首をひねるような記述が満載などと言われる筋合いはないのです。もちろん同氏の博識ぶりには敬意を表しますが…。
柴田氏のコメント36も驚き呆れました。私は延喜式に以下のように書かれていた内容を紹介し、推論も加え簡単な記事に纏めただけです。
およそ神服(かんみそ)を織るは、九月上旬に神祇官、神服社(かむはとりのやしろ)神主一人を差わし、驛鈴一口を給ひて、参河国に遣わし、神戸を召し集めて、神服を織る長(おさ)を二人、織女六人、工手二人を卜定せよ。終わりて長以下十人を率い、当国の神服部(かむはとりべ)つくるところの調糸十絇をもて京の斎場に帰り向かひ、先ず織屋を祭り、しかる後始めて織れ。
柴田氏は地元史に書かれていないから延喜式の内容は嘘だとでも言われるのでしょうか?私には全く理解できません。
服部氏の謎を追求する掲示板において本来こんなことは書くべきではなく申し訳ありませんが、柴田氏の失礼な言い分があったので書いてしまいました。お見苦しいところが多々あった点は、平にご容赦ください。古代史の議論は自由にオープンに楽しく戦わせましょう。
[38] | 柴田晴廣さんからのコメント(2017年10月20日 07時09分07秒 ) | パスワード |
URL=http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/ |
わざわざ書く必要もないことですが、徐福の子孫が秦氏を称するのか?
徐福は田齋の人です。そしてこの田齋は秦に滅ぼされます。
その滅ぼされた田齋の人が、滅ぼした秦を名乗るのか?
『義楚六帖』が、わざわざ日本の僧侶から聞いた話としているのも、中国人なら、徐福の子孫が秦を名乗ることなどあり得ないからであり、東夷の連中はこんなことも知らないという笑い話として紹介しているだけです。
大島氏も私も、伝承の成立過程を否定しているわけではありません。伝説や伝承は、民俗学での研究分野です。
この伝承の成立過程を検証したのが、『検証 東三河の徐福伝説』です。
ただ、伝説を史実と誤解して、伝説を前提に歴史を語ってはだめだといっているのです。
また逵志保さんが、以前愛知大学で講演をされたことがありましたが、このときの質疑応答で、菟足神社のねぎ様はじめ、菟足神社前の説明板は、突如として建てられたものとの指摘があり、逵さんも当時の小坂井町教育委員会の担当者から聞き取りしており、一九八九年発行の『弥生の使者徐福――稲作渡来と有明のみち――』の読者から問い合わせがあり、急遽建てたものと認識しておりました。
そして私は、この説明版について検証しているわけですが、『牛窪記』の記述は、長山熊野権現のものであり、菟足神社とは関係ないものです。
そして徐氏古座侍郎の成立背景には、熊野権現の神主・本姓唯宗の神保氏が関わっていた旨を検証しています。
神保氏は、上州の神保に住したことから神保を称しています。永享の乱で一色時家とともに寶飯郡に入ったと思われます。
長山熊野権現の元々の縁起は「欽明の丙寅の歳、天下に疫病が流行り、多くの死者が出た。このとき、村中に怪異が三つ起きた。一つ目は、社内の大木の梢に三光があった。二つ目は、花を一枝持った神人が現れ、『さきにほふ ことしのはなを なかめみて たみのくるしみ そらにしらるる』と歌を詠んだ。三つ目は、村の童子が神懸かりし、『われは、紀州牟呂郡熊野本宮なり、疫病を除き、村人を助けよとの神託を得た。われはここに長く留まるから祀れ』といった。これがこの地に熊野權現を祀った謂れだ」というもので、徐氏など出てきません。
寶永二(一七〇五)年、牧野成春が吉田藩主となりますが、神保氏はたびたび呼び出され、尋問を受けております。寶飯の土豪の牧野氏からみれば、神保氏が熊野権現の神主と根拠は怪しいものとの認識からでしょう。牧野氏が正徳二(一七一二)年に日向延岡に転封になっていなければ、徐氏伝説など、江戸時代の時点で否定されていたでしょう。
徐氏が着いたという六本松の比定地の一つに、竹谷があります。ここは熊野秦氏ともいわれる鵜殿氏の拠点です。実際の寶飯への熊野信仰の伝播は平安末、御津の佐脇を拠点に広まります。竹谷と並び、六本松の比定地でより有力な御津の御馬に波多野がいることから、徐氏伝説は、神保氏が一七世紀後半に創作したと考えられます。
東三河で生まれ育っていれば、苗字を聞けば、どこ出身かはわかるものです。たとえば、壁谷、牧原といえば、形原、佐津川といえば新城。ただ秦といわれても、秦が多い昔からの集落って?なるわけです。
本宮山麓もしかりです。上長山は大谷と権田、足山田なら大竹。秦は見当たりません。
東三河で秦関連といえば、羽田野と波多野。いずれも秀郷流といわれていますから、本姓は鳥取氏になります。佐脇の羽田野氏は、日下部系を称しております。
『和名抄』の二十巻本に幡多郷も記載されておりますが、寶飯ではなく、渥美です。渥美の羽田村が有力です。ただ二十巻本は後世に付け加えられたものといわれています。
秀郷流ということを考えれば、将門の乱の平定の功績から伊勢神宮に渥美郡の神領が与えられます。羽田村辺りにも神領になりましたが、将門の乱の功労者・秀郷にもこの辺りに領地が与えられ、後裔の秦野氏が住んだことは十分考えられることです。そのように考えれば、幡多郷の名は、古代からのものではないことになります。
服織神社も、この神領との関係から考えるべきでしょう。渥美郡は奥郡といわれた僻地でした。上述の「和名抄」の郷数、「延喜式神名帳」や「三河國内神名帳」の神社の数からみても、僻地ぶりが窺えます。
神領だったことから、御衣も献上していたわけですが、これといった産業がない僻地の地では、無理なことで寶飯の服織神社などで糸を紡ぎ、機を織ったのです。ですから、これも秦氏より、伊勢の長白羽の神との関連で考えるべきです。
[39] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月20日 10時19分29秒 ) | パスワード |
酔石亭主様
酔石亭主様、はじめまして!
本日は、「開けてビックリ〜」の朝となりました。酔石亭主様といえ
ば、私が何年来尊敬してまいりました憧れのお方であります。まさかこ
こで"巡り合える"とはつゆぞだに想像しておりませんでした。
私は、酔石様の記述の全ては読んでおりませんが(膨大でありますので)、
こと「東三河の秦氏」、「日本の秘められた謎を解く」につきましては、
可能な限りプリントアウトして一冊の"本"のようにして携えております。
できれば全体のすべてをプリントアウトして、何冊かの"本"にしたいと
思う程、読者の私にとっても分かりやすく、実によく研究された内容で
あり、しかも文体も心地良いものだと思っております。
歴史の真実とは何かといえば、極論でいえば最終的には「藪の中」に
なってしまうのかなあと思っています。何故ならば、人の見方、考え方が
それぞれ違っておりますので。
数学の定理のように最終結論の一点に収束することはあまりないですね。
私はいつも歴史を数学のように理路整然とあきらかにしてもらえないかな
と思っております。日本人の英知を以ってすれば、何事も必ずや最終結論
に到達できると思うのですが、歴史学の世界は、そういった意味では未だ
"戦国時代"の状態の中にあるのかも知れませんね。
従って、色々な論述があって当然なことと自覚しておりますが、歴史も
古くなればなるほど諸説紛々となりますので、頭がパンクしてしまいます。
それでも、何が正しいのかということになりますと、最終的には自分の
正しいだろうと判断したものの積み重ねに、感性(好き嫌い)や直感、勘を
よりどころとして次に進んて行く……その繰り返しだと思います。
歴史の真実の探求の道は、論述者にとって、孤独な闘いであると思いま
すし、文責は重いものだと思いますが、それを取捨選択し判断するのは、
読者の自由だと自覚しております。そのために、色々比較して判断をして
行きたいと思っております。
いずれにしましても、このような形でありますが、"巡り合えまして"
光栄でした。今後ともよろしくお願いいたします――
[40] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月20日 12時35分35秒 ) | パスワード |
柴田晴廣様
緻密なご教示、尊崇の念をもってありがたく読解させていただいており
ます。「事実はこうだよ、よく見てごらん」と諭されているようで、私の
今までの常識が、いかに淡いものであったかを痛感させられます。
『穂国幻史考』につきましては、もっと早く出合っていればよかったと
思っております。私の知りたかったことが、正に満載されておりますと同時
に、そこに論理的な考証方法の極致を見るからであります。
ただ、私のような者から言うのも誠にせんえつであり、怒られるかも知
れませんが、ご本で書かれる場合の格調高さを、インターネットで語られ
る場合においても是非保っていただけましたなら、なお一層尊崇の念は
高まるものと宣言させていただきます。個人の評価にかかわる表現部分に
関しましては、抗議・要望もございますので、紳士・君子の対応を平に
お願い申し上げる次第でございます。
いずれにいたしましても、『穂国幻史考』は、私にとって「座右の書」
にかわりありませんし、本日も集中して読み込むために、これから図書館
へ行くところであります!――
[41] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月20日 15時49分19秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
初めまして。
ぺこり
三つ柏さんとわたくしの歴史探訪の旅の1歩を踏み出させて頂きました。
親切な文をありがとうございます。
例えば
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-category-18.html
紀元前1300年頃、エジプトの圧政に苦しむイスラエルの民は、モーセの指導の元エジプトを脱出します。
脱出後の放浪生活において、神はモーセを介してイスラエルの民に『契約の聖櫃』を授けました。
聖櫃の中にはモーセの石板、マナの壺、アロンの杖が収められています。 これこそが、ヤハウェ神とイスラエルの民との契約の証しでした。
「石板」しか記憶に無かったです。
ジョークで「我々はラッキーだ。モーゼは神から石板を15枚授かったが躓いて5枚割ったから」
この部分だけが記憶に残ってて、マナやアーロンの杖のことはすっかり忘れていました。
歴史は学校の授業で習ったとはいえ、知らない事・記憶に残っていない事ばかりです。
知らないことを知る・忘れていたことを懐かしく思い出すというのは実にワクワクします。
三つ柏さんもわたくしも歴史の階段の1段目2段目あたりでこんがらがって途方に暮れているところです。
これからも参考にさせていただきますね。
よろしくお願い致します。
[42] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月20日 16時28分09秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>火明命 ホアカリノミコト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%81%AB%E6%98%8E%E5%91%BD
『新撰姓氏録』では、天火明命の子孫を「天孫族」としている。
天孫族は大和国葛城の高尾張から尾張国に移り、
子の天香山命(あめのかぐやまのみこと)の時に定住し、
真清田神社(愛知県一宮市)に天火明命を祀ったとしている。
尾張氏(尾張連)・津守氏 ・ 海部氏など多くの氏族の祖神であり、海部氏系図(あまべしけいず)にも始祖としてその名が記されている。
穂積氏、物部氏の祖であるニギハヤヒと同一ともいわれる[3][4]。
神さまのお名前はやっぱりついていけません。
ホアカリノミコトからホノハヤヒノミコトを連想し
思い出しました:
寛政重修諸家譜 第1168
ここに服部石見守半三保長が出ていて
ホノハヤヒノミコトの末裔なり。
允恭天皇の御時に織部司に任じ諸国の織部を拾領。服部連を号す。
その子孫伊賀国阿拝郡服部の郷を領し、今、諸国に遊仕と記す
平氏にして葛原親皇の後胤伊賀平内左衛門が末孫なり
ホノハヤヒノミコトって誰?
やっぱりワケ分からなくなりました。
[43] | 酔石亭主さんからのコメント(2017年10月20日 19時20分22秒 ) | パスワード |
柴田さん
私の指摘に対して何一つお答えになっておられませんね。徐福の子孫が秦氏を称するのか?などとこれまた失礼な書きぶりですが、この問題はこんどう史科医院さんのブログのコメント欄であなたと議論した際きちんと書いています。それに対し何ら反論もないのでご理解いただいたと思っていましたが、もうこのやり取りをお忘れですか?
大島氏も私も、伝承の成立過程を否定しているわけではありません。とのことですが、最初からそう書かれたなら何の問題もありません。問題はあなたが一貫して、徐福伝説は近年の都市伝説に過ぎず大島氏によって根拠なしとされている、と主張されていたことです。全く違う形であなたにより利用された大島氏に対しても、反論ができないその他の方々に対しても失礼ではありませんか?
逵志保さんに関して書かれていますが、この方に対して東三河の徐福伝説など都市伝説で大島氏が根拠なしとしていると、厳しくねじ伏せられたのは一体どなたなのでしょう?よもや忘れたなどとは言わないでください。
神保氏に関して、熊野権現の神主・本姓唯宗の神保氏が関わっていた、とのことですが…。以前あなたは、私に対し太田亮氏の「神社を中心としたる寶飯郡史」には秦氏関連の記載は出てきません。と書かれました。ところが他の方に対しては、もう削除されたと思いますが以下の内容を書かれています。
ちなみに太田亮編著『神社を中心としたる寶飯郡史』にも「神主神保氏の祖は熊野秦氏なり」(国書刊行会復刻版五五一頁)とあります。
これはダブルスタンダードではありませんか?
長山熊野権現に徐氏など出てこないとのことですが、「牛窪記」を読まれていないのですか?同書の最初には、往古秦氏熊野権現を常左府長山の郷に勧請す。徐氏は秦国の姓。その子孫秦をもって氏とす。長山の神は常に天地久き護り給う。故に庄の名も常左府と言えり。と書かれています。誤解がないように言っておきますが、私はこの内容が正しいかどうかを提起しているのではありません。長山熊野権現に徐氏など出てこないとの言説に対し、単に出ているでしょ、と書いているだけです。
またご自身のブログには、「長山熊野権現の徐氏古座侍郎の話は、長山熊野権現の神主で本姓唯宗の神保氏が、一七世紀末ごろに創作したものと考えられます。」と書かれていますね。ご自分で書いたものをご自分で否定されたのではこれ以上議論になりません。あなたの言いたいことを忖度するなら、長山熊野権現の元々の縁起には徐氏など書かれてはいないが、「牛窪記」には記載ある、とでもなりましょうか?こうした議論はほとほと疲れるので打ち止めにして、次は私の指摘に対しきちんと回答ください。
あなたは私のブログに関して、前田豊並みの首をひねるような記述が満載です。と書かれ、その一例として三つ柏服部さんが取り上げた、「延喜式」の中の「神祇官関係の式 第七巻 践祚大嘗祭」について、神服神社から三河に出張指導がなされていたという点に関しても、首を傾けるような内容とされていますね。あなたの主張を文章にすると、地元史の中に三河に出張指導したなど書かれていない、だからたとえ延喜式に書かれていても、それは首を傾げる理由の一つ、と言うことになります。さてはて、首を傾げるあなたなのでしょうか、それとも私なのでしょうか?まあ、別に回答されなくてもいいですよ。これを読まれた方はどちらがどうかはっきりわかるでしょうから…。
次は東三河に秦氏は影もなく、否定しています。と書かれた点です。こちらも、三つ柏服部さんの、秦氏や服部氏の影がチラホラと見えてきます―の直後に書かれていることから、自由な議論を制限しようとされる意図が透けて見えます。私に対しては、あれこれごちゃごちゃ書かれて逃げを打っておられるようですが、私の言っているのは単純な事実関係のみです。すなわち、「牛窪記」には本宮山下に秦氏が多いと書かれている事実。愛知県の秦姓は全部で133人に対し、豊橋市、豊川市の合計が32人で突出して多い事実です。但し人数に関しては多分電話帳から拾ったものだと思われ、実人数ではなく、実際にはもっと多いはずですが、いずれにしてもおおよその傾向は出てきます。上記した二つの事実は対応していますので、東三河に秦氏はいる、となります。柴田さんにおかれては、この二つの相互に関連する事実のみをきちんと否定してください。
あれこれ書いて申し訳ありませんが、歴史の探求は肩ひじを張らずもっとリラックスして議論されたらいかがでしょう?他の追随を許さないほど膨大な知識を持っておられる方なのですから、他者の意見の全体を論断するのではなく、丁寧に個々の部分を寛容の精神でもってお教えする姿勢を持っていただければと願っています。
[44] | 酔石亭主さんからのコメント(2017年10月20日 19時24分39秒 ) | パスワード |
三つ柏服部さん
いやあ、私の拙いブログにこんなお褒めの言葉を頂いたら、舞い上がって木に登ってしまいますよ。
おっしゃられる通り、歴史の特に古代史の真実は「藪の中」なのかもしれませんね。でも、わずかな手掛かりから一歩一歩積み重ねていくと、突然視界が開ける気分になったことは何度かあります。と思ったら、実は大間違いだったとか、ブログにアップした後で間違いに気が付き、慌てて書き直すのもよくあります。あと、自分で記事を書いていて穴があるなと感じることも多々あります。なので、私の書いた内容をそのまま鵜呑みにはされず、踏み台にしてご自分の考えを展開してください。
三つ柏服部さんはアマテラスや卑弥呼、火明命などの検討にご興味があるようですが、「尾張氏の謎を解く」、「邪馬台国と大和王権の謎を解く」などで詳しく書きましたのでご参照いただければ幸いです。尾張氏に関しては、彼らは高尾張邑の出身ではないことを証明しようと思って書き始めたのですが、想定外の長いものになってしまいました。話があちこちに飛び、纏まりがないので読みにくいと思います。邪馬台国関連は「その13」辺りから謎解きを始めていますが、こちらは比較的短く書いているうちに新しい発見もあったので、是非お読みいただければと思っています。
今後ともよろしくお願いします。
[45] | 酔石亭主さんからのコメント(2017年10月20日 20時03分00秒 ) | パスワード |
空の青海のあをさん
こちらこそよろしくお願いします。
私の拙文が参考になるのなら幸甚です。どんどん利用いただいて結構ですよ。
空の青海のあをさんは火明命を検討課題の一つとされておられるのですね。私は火明命に関してある考えを持っています。ここに書いたら絶対トンデモ説と言われそうなのですが書いちゃいますね。実は、火明命は人間ではありません。鏡です。それは鏡作坐天照御魂神社の社伝に書かれてもいます。具体的内容は以下の「尾張氏の謎を解く その24」を参照ください。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1754.html
ただ、ここだけ読まれてもなお疑問は残るでしょうから、やたら長いので申し訳ないのですが、「その1」からお読みいただければと思います。空の青海のあをさんが[42]で書かれた点は、ほぼ尾張氏の謎解きの中で検討しています。三つ柏服部さんに書いたように、尾張氏の本貫地は大和国葛城の高尾張邑ではないと言うことを証明するため、このシリーズを書き始めました。
さて、火明命は鏡ですが天照大神も鏡です。天照大神が鏡である点は、「日本書紀」の神代上第七段に一書に曰くで書かれています。こう理解すると卑弥呼や邪馬台国の謎に筋道が付けられそうになってきます。そこで、「邪馬台国と大和王権の謎を解く」シリーズを書いた訳です。内容が正しいかどうかはともかく、皆さんの議論の踏台程度にはなると思いますので、お時間があればお読みください。
今後ともよろしく。
[46] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月20日 23時02分44秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
ありがとうございます。
ぺこり
>火明命は人間ではありません。鏡です
方向を示していただけたので 迷子にならず http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1754.html 読み進められそうです。
本当にありがとうございました。
[47] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月21日 00時12分44秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
久振りに訪れた浜松中央図書館の郷土資料室において、いくつかの収穫
がありました。これについては順次報告をいたします。
それとは別に、今は色々な考えで頭の中が一杯で、その糸をうまく紡ぎ
出せる統合力(判断力・構成力)が湧いて来ません。少し頭の中で睡眠とと
もに熟成・発酵させたいと思います。
また本日、文庫本で関裕二氏の『消えた海洋王国 吉備物部一族の正体』
という本に目を通しました。平家研究にも役立つと思いますので、近日中
にあを様宛送ります。
醉石亭主様の「尾張氏の謎を解く」をじっくり楽しみながら読ませて
いただきたいと思います――
[48] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月21日 02時05分32秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
では近々99をご用意致しますね。
今、うちのジムのことで大問題発生中なのです。
ジムの機械などの不具合を報告する用紙にセキュリティの誰かが
「なんでコイツら、いっつも文句ばっかり書きやがるんだ」
と書いたのです。
例えばジムのトイレの洗面台のペーパータオルの機械が既に4日にわたって使えなくなっているなど
ちっとも修理されていないから「早く直してくれ」と要望を出していることに
「なんでコイツら、いっつも文句ばっかり書きやがるんだ」
という回答なわけです。
どこかの大統領の言うように「雇う前にIQテストをしろ」とこちらは思っているわけです。
例えばトイレの便座用敷紙ディスペンサーがお掃除の人によって前後逆に設置してあるので
敷き紙を1枚抜こうとしても抜けず
ディスペンサーに100枚入ってるとすると
20枚が使えない状態になってゴミ箱に捨てられるわけです。
笑
そういう事を報告すると「なんでコイツら、いっつも文句ばっかり書きやがるんだ」とセキュリティが反応を書くワケです。
いえいえ
掃除の人に「前後逆に設置してありますよ」と言えばいいだけなのに
とコッチは思うわけです。
今春いろいろ変更になって
プロバイダーが変わって電話とネットとテレビに不具合続出で管理マネージャーが5月に亡くなったり
新しく雇われたセキュリティ会社の人達はお金を払っている入居者に
「なんでコイツら、いっつも文句ばっかり言いやがるんだ」
とエバッてるし
新しいコンシュアージ(受付案内係)が9月一杯で首になった件で
態度が悪いからと首になったのを
ワタシが首にしたとこの人は怒ってて
ヲイヲイ私にはそんな権限は無いのに
今はアッチもコッチもグチャグチャで
こうして書いてると入力スペースに文字が入れられなくなるし検索も出来なくなるし
これもその内に瞬殺されそうです。
そうそう大井川あたりに定着したご子孫のあの大阪大学の医者は
風間俊介にソックリ
です。
昨日録画してあった「陸王」のドラマを見てて、やっと気が付きました。
あの大阪大学の医者に数日前の火曜日に会って(誰かに似てる)
昨日「陸王」を見てて(風間俊介って)誰かに似てる
誰?誰?
と思ってて やっと昨夜 繋がりました。
ひょっとすると2人は先祖が共通しているのかもですね。
そろそろ危ないので逃げます。
近々99をアップしますね。
[49] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月21日 07時26分15秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
それは大変ですね。"嵐"の通り過ぎるのを待ちましょう。
こちらは、本当の嵐―台風21号が明日・あさってにかけて接近、
あるいは上陸しそうです。巨大台風ということで、雨・風の被害が
予想されます。
おまけに明日は総選挙、自民党圧勝の予測が出ています。さてさて、
世の中どうなりますことやら……。
[50] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月21日 11時23分55秒 ) | パスワード |
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101610.html
スレッド99をご用意いたしました。
キリの良いところでどうぞ。
明日の総選挙
自民党に神風が吹きそうですか。
ホントに!世界的に!どの国の政治もワケ分からない動きになっていますね。
明日の結果が、日本人のホンネ、ということかもですね。
非常に興味深いです。
日本人は政治に何を求めていたのか?
日本人が求めているものとは?
今回は開票に付き合うかな。
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