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 投稿番号:101607 投稿日:2017年09月24日 08時57分33秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを
長上郡の服部氏族XCZ(課題確認40)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101604_49.html
長上郡の服部氏族XCY(課題確認39)

スレッド96の続きです。


      自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
      最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


三つ柏さんが鈴木氏について纏められ
そして
広範囲に動き回りました。


鈴木氏の家系:家祖の鈴木重善(矢並町→猿投)から、
四つの筋に分かれました。

@足助鈴木氏
A寺部鈴木氏
B酒呑鈴木氏(山吉田)  読みは「しゃちのみ鈴木氏」です。
C則定鈴木氏

広範囲に動き回って見えて来たのは
飯田から岡崎までは正に「南朝大動脈」だったと言うこと
その歴史の上に、松平・徳川政権があるということ。

   驚きの発見でしたね。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月24日 16時30分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今回の東三河への旅、いくつかの点(テーマ)が含まれます。それを全て
一つの文脈で結ぶのは止めにいたします。

 どう表現しようかと思案しましたが、クラシック音楽のようにキッチリ
と組み立るのではなく、ジャズの即興演奏のように感じるままに奏でよう
と思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
 
 では、まずは前回の猿投訪問後の話―猿投から松平郷に向かった―に逆
戻りさせます。
 以前より「松平郷」には興味は持っておりましたが、どういう訳かなか
なか足が向きませんでした。
 その理由をよく考えてみますと、家康とその先祖については、難しいも
のがあるというイメージを抱いておりました(藤原氏であったり、新田氏
であったり、賀茂氏であったり、あるいは家康=替え玉であったり)ので、
これらについては、余り深く突っ込みたくないという潜在意識が、私の頭
の中で働いていたのかも知れません。

 でも今回は、帰りの途上でありましたので、思い切って行ってみた訳で
あります。もっとも、土地勘というのを養うという目的も半分はありまし
た。
 今は東海環状自動車道という高速道路がありますおかげで、猿投ICか
ら、豊田松平ICまではアッという間であります。

 「豊田松平」という名前、あるいは「豊田」という地名は元々の名前で
はなく、もとは「拳母(ころも)」と「松平郷」であったかと思います。
 そして、「拳母」から「松平郷」の側を通って「新城」、そして「三ケ
日」まで行く道が「301号線(拳母街道)」であったのです。

 つまり、松平郷は、拳母(西三河)と新城(東三河)をつなぐ拳母街道の途上
にあったのです!

  
 一旦、ここで切ります――
[2]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月24日 19時03分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、「おんな城主直虎」でありますので、それに関しての武田信玄
の東三河でのエピソード、即ち、三方ヶ原の合戦後の翌月(年越えて)、
武田軍は三河に攻め込み、野田城を包囲しまする。が、ある夜のこと、城
から聞こえる篠笛の音に耳をそばだてていた信玄は鉄砲で狙われ、玉を胸
に受けてしまいます。そして退却となり、帰途途上で亡くなってしまった
という言い伝えが残されています。

 その信玄が鉄砲で撃たれた場所というのに、今回の東三河行きで、出く
わしました。その場所は、野田城(今は城跡)の南西麓にある「法性寺」の
境内の中にありました。二抱えもある広葉樹の側に「信玄が鉄砲で撃たれ
た場所」というコンクリート製の丸い看板が建っておりました。

 少し前に「浪合」を訪ねた帰り、根羽村(ねばむら 浪合の手前)にて、
「信玄塚」というものに出くわしておりましたが、正に信玄は野田で撃た
れ、甲斐に帰る途中の根羽村にて死亡した、ということになります。
 これで、点と点がうまくつながりました――
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月25日 03時04分20秒 ) パスワード

三つ柏さん


驚きの連続でした。
やはり「万里の道を往く」というのは大切ですね。
土地勘無くして「語る」のは無理がありますね。
実感しました。


>松平郷は、拳母(西三河)と新城(東三河)をつなぐ拳母街道の途上にあったのです!

松平郷は山の中の貧しい土地だと大久保彦左衛門は書いていますが
盲点があったのですねぇ。



>信玄は野田で撃たれ、甲斐に帰る途中の根羽村にて死亡した。

信玄の劇的な最期をピンポイントで捉えることが出来ましたね。



一般人が「ふぅ〜ん」で終わらせるようなこういう事がハッキリ掴めると歴史は楽しいですね。
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月25日 13時24分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松平郷についての、大久保彦左衛門の言及内容は、当っております。
 挙母街道の途上と申し上げましたが、20,000分の1の地図上ではほとんど
途上のように見えますが、実際は本道から分岐し、更に山の奥深くへ数キロ
入った所に、松平郷はありました。半分信じられず、何でこんな山の中に?
と疑問を抱いた次第であります。いわば、山の中の「隠れ里」でありました! 従って、徳川家康から想像していた松平郷のイメージは、はかなくも大きく
崩れ去った訳であります。
 でも、さすが天下人の祖先の聖地であります。整備はよくされておりまし
た。

 松平氏の祖先は、ひょっとしたら平家の落武者、という可能性もなきにし
もあらず?……松平の「平」は平氏の「平」とも読めますので。
 あるいは、地質等について調べなければなりませんが、山の中での生業と
いえば、鉱物資源等に関係していたのかも知れません。

 これらの点については、またゆっくりと調べて行きたいと考えます。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月25日 15時41分42秒 ) パスワード

三つ柏さん

>松平氏の祖先は、ひょっとしたら平家の落武者、という可能性もなきにしもあらず?
>……松平の「平」は平氏の「平」とも読めますので。

なるほど。

「松平 まつだいら」を松平定知は(照れから?)「まったいら」と自称してました。

ここに引き摺られていましたが
なるほど
すごい山の中の荒れ地に住んでたから「まっ平らな土地に憧れていた」というのもあったのかもですね。


   「太田」という姓は痩せた土地の人が「よく肥えた土地」への憧れから「太田」という願望を込めた名字にした、と読んだ記憶があります。

   「大田」の方はよく肥えた豊かな実りを約束する土地、の意味の名字と読みました。


松平家が平家系かどうかは全く分かりませんが
清盛の生母は賀茂家の娘
ということを賀茂家に関わる方から直接教えて頂きました。

そこから推量するに  松平家が平家に関わる家だった可能性は否定出来ないかも、ですね。


どっちにしろ日本人はいろいろな家と関係がありますから
父方母方で言うと
源氏であり平氏であり橘氏であり藤原氏でありその他の氏でもあるわけです。


南朝方時代に新田家と関係が出来て
新田関係者の血を本当に得ている可能性もあります。

ということで征夷大将軍になる為に細い糸をたぐって源氏の長者に上り詰めたということでしょう。
だから  合法  の源氏なわけです。


朝廷とか天皇にすれば  誰が源氏だろうと平氏だろうと  どーでも良いことです。

家康が朝廷に系図を提出して天皇が「源氏の長者に認定」してくれれば身分ロンダリング完成。
天皇には自分以外は全て  臣下  ですから。

      清和天皇の子孫として認められている源氏ですから
      そこの血筋
      ということで系図を御所に収めれば
      有職故実の菊の世界ですから誰も清和天皇を否定しないし
      当代一の実力者の家康に(あんなのニセモノ)とは申し立てられないし。

             260数年後?に薩長がやっと言い出した、ということで
             薩長の人間だって「詐称」とは証明出来なかったと思います。せいぜい噂を流すあたり。


                  「豊臣政権下で家康はすでに源氏の公称を許されていた」そうですから
                   征夷大将軍になるために替えたというわけではないようです。




            有職故実(ゆうそくこじつ)
            古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと。
            また、それらを研究すること。


                  朝廷は先例至上主義ですから「認められたもん勝ち」ですね。


                      わたくしも源氏であり平氏であり橘氏であり藤氏でありその他の氏の出身でもあります。
                      1万年ほど遡ったDNA分類では縄文人系になります。
                      もっとずっと前は  海に漂う孤独な細胞  だったようです。笑



最新情報ですが
紀元前1500年あたりのエジプト人の寿命は男性が34歳あたり、女性が30歳あたりだったそうです。
それでエジプト人はエイエンのイノチを望んだようです。

女性は子供を生んだら早々と死んでたのでしょうね。(石原慎太郎の願望みたいですね)

子供をいくつぐらいで生んだのでしょうね。
利家の妻のお松さんが12歳あたりで結婚してますからエジプト女性は中学生あたりで子持ちだったでしょうか?
生んだ子が中学生あたりになったら子育て終了ということで寿命が尽きたのかも。
                   回転が早い(汗)


信長は寿命を50歳なんて謡ってたそうですが
先祖のことをどう思ってたのでしょうね。

早々と逝った先祖のイノチ=血とか家とか=を自分が継いでご先祖さまが自分の中でエイエンに生きる=存続する=って思ってたのかな
などと今日は考えてしまいました。


エジプト人は子を生んで、子が孫を生んだら、もうそれで充分に幸せで、自分の生きて来た役割を果たした、と考えたのかな、とか。


このエジプト人の寿命の情報を知った直前に「直虎」を見てたので
信玄の最期のあっけ無さに
「人間って一体何なんだ?」と思ってしまいました。

すごい演出でした。
浅丘ルリ子の名に「 (回想) 」とは書かれていなかったので変だなと思ってましたが
ああいう出演の仕方だったとは。笑


これからイヨイヨ虎松が井伊を潰した近藤への憎しみをバクハツさせて行きますね。
近藤が大名になれなかった裏が見られるのでしょうか?
そして近藤家にしてみれば・・・

あと3カ月
再び面白くなって来ました。
[6]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月26日 08時58分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今回の新城方面行きにつきましては、目的は色々ありました。
 列挙しますと――
 @野田館に住したという「千秋氏」についての情報を探すこと。
 Aお寺廻りをして、「服部家」の墓がないか探すこと。
 B景行天皇やその腹違いの兄弟「鐸石別命(ぬてしわけ)」(地方官として
  稲木に来任)についての情報を探すこと。
Cその他、南朝関係の情報を探すこと。
 以上の目的を頭の中に置き、野田、稲木(いなぎ)、新城市中心部、一鍬田
(ひとくわだ)、そして帰りに「黄柳野(つげの)」方面を訪れ、それらの現地
にあるお寺(場合によっては神社)を中心に回ろうと考えた訳であります。
 でも、現地へ行けば、目的以外のものも拾える・出会うことが多々あり、
それも現地調査の妙(楽しみ、サプライズ)であります。

 野田の千郷神社、野田城跡の隣の法性寺(ほうしょうじ)を訪れた後、稲木
の「泉龍院」というお寺に行きました。今回はお寺について、事前にインタ
ーネットや本で調べてはおらず、30,000分の1の新城市地図に記されている
寺、及びその周辺で出くわした寺等を回るという方針でありました。
 この「泉龍寺」、立派なお寺でありました。境内には「菅沼定則の塚」が
あり、野田城主初代菅沼定則がこの寺の住職に帰依し、寺を加護したようで
あります。定則は田峰菅沼氏の庶流で菅沼定忠の三男であります。

 ここで、一旦切ります――
 
 

  
 
  
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月26日 11時35分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


千秋氏について調べて来ました:http://sengoku1.wixsite.com/aichi/-saigou1


新城市野田郷は稲木長者の領地でしたが、
千秋氏が長者を倒して熱田神宮領とし、                    源平時代よりもっと前のハナシ
野田館を建てました。

次に富永氏が領主となったのですが、                     足利尊氏の時代のハナシ
衰退し、
替わりに田峯菅沼氏が入って、野田菅沼氏を興しました。            土岐光兼の二男が三河国野田の城主富永信資に養われ、後、菅沼忠通の婿となり、菅沼を称したとされるハナシ


さらに検索しました:
http://www.suzukigroup.jp/groupblog/?p=4993

以下コピペ:

新城市西部地区は現在は千郷(ちさと)といいますが、住所には出てきません。

千郷村は昭和30年、新城町に合併吸収されて番地として残らなかったからです。千郷村も明治39年、千秋村と西郷村の合併による合成地名です。


鉄道以前の千秋郷は陸湊(りくのみなと)で海路の終点・陸路街道の始点でした。
風もよく帆掛け舟が飽海川(あくみがわ/豊川=渥美湾)から海倉渕まであがることができました。

交易に重要な土地として古来人が往来し、大化4年(648年)に稲置府(稲木)が置かれるなど時の中央とも繋がりがありました。


「千郷村史」は地名別にその成り立ち・住人・出来ごとを記したもので、
年代的に、和銅年間(708-715)から各令制国の国庁が編纂した風土記(ふどき)の調査資料が発端ではないかと考えます。

まあ、それ以前は文字がなかった訳で、どうしてもこの頃からになります。

和紙の束として寺社に伝わる資料を先人が何百年おきかにまとめて、現在は現代語訳・本にしてあります。
検地等の詳細資料は別にして、物語資料で纏めています。


これ以前の記録はありませんが、石器の出土、縄文遺跡や古墳群があります。
領主項の初めに紀州や信州の一族が土佐の一族と抗争やら協調やら長者をしていたらしい話があります。
交易にかかわる部族が渥美(あつみ)から長野の安曇(あずみ)まで移動する間の事のようです。



野田村主・賀茂郷司中村氏・野田郷司長谷部氏・諏訪部曲と続き、
寛治7年(1093年)海上交易の大勢力・熱田の尾張氏が稲木の依田長者を攻め退去させてこの土地を領有しました。
初代の藤原季兼はここを熱田の神領のごとく領有し四代目の千秋清季が安元元年(1175年)川近くに野田館を築城しました。

永正13年(1516年、起工1508年)菅沼定則が戦国の世に対するため上ノ山に野田城を築城するまで、海倉渕に隣接した野田館が代々の領主の居城でした。



せんじゅううじ【千秋氏】

藤原南家、熱田大宮司家の一流。
11世紀末,藤原季範(すえのり)が外祖父尾張員職より熱田大宮司職を譲与されて以後,
同職は尾張氏より藤原氏の世襲へと移行,
季範の子範忠,範信,範雅の子孫がこれを継承した。

このうち千秋氏は範信の子憲朝(本名有範,のち信綱と改名)が千秋を号したのに始まる。
その号は三河国設楽郡千秋の地名を以て名字としたと言われている。
(武家家伝より、うちの村史と若干違います)


尾張氏とは古事記にも登場する古代の一族で現在その名を冠する地方を支配していました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は草薙剣を尾張の宮簀媛命 (みやすひめのみこと)のもとに残したまま伊吹山の魔人退治に出かけ、
氷雨にあって病で命を落とします。

尊の魂は白い鳥となって媛命のもとを訪れた後、伊勢の方角に飛び立ったといいます。

媛命の一族は熱田の地に草薙剣を祀り神宮を創建して大宮司となりました。
その後裔、松御前が藤原南家の藤原季兼と婚姻して大宮司家は藤原姓になり、美濃尾張三河の三国を領有したといいます。


この藤原季兼こそ、寛治7年(1093年)に千秋郷を熱田の封建領土として領有した人物で、
松御前の孫娘(由良御前)の子が後に鎌倉幕府を開く源頼朝、
同じく孫(信綱)が千秋を号し、
その子が野田館を築城した千秋清季となります。


源頼朝が伊豆で平家の手より生きながらえることができたのも、熱田の後ろ盾によるものです。

気づかれたと思いますが、尾張と婚姻した藤原氏が「千秋」を名乗ったのは領地の名前からで、領主の名字から地名がついたのではないことです。


千秋とは漢詩から転じて終わり≠意味する言葉です。
お芝居の千秋楽はここからきます。


個人的に思いますに鎌倉時代・武士の時代の到来に藤原・尾張の名字は因習を引きずりすぎていたのではないでしょうか。
古代に学のある誰かが三河の辺鄙な地に航路の終点終わり≠ニ尾張≠かけて「千秋」と読み、
それを藤原信綱が熱田大宮司一族の号として採用したのではないかと密かに思っております。

コピペ終わり(せんしゅう  笑)
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月26日 11時42分14秒 ) パスワード

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tominaga.html

富永氏
木瓜紋/木瓜に二つ引両紋                            二つ引両紋は足利尊氏から拝領

(大伴氏裔伴善男後裔)


富永氏は、古代豪族として著名な大伴氏の裔で、『応天門の変』の首謀者として没落した伴善男の後裔とされている。

善男の子清平は平松太郎と称して甲賀富永氏の祖となり、
弟にあたる清助は三河幡豆郡司となってその子孫が三河富永氏となった。


資兼は設楽大夫と称し、後三年の役で源義家に従って清原武衡・家衡征伐に功を顕わしている。
保元の合戦には源義朝に属して、資兼の子親兼が出陣した。

この親兼が富永六郎大夫と称して、三河富永氏の祖となった。


孫にあたる資時・資隆兄弟はともに源頼朝に従い、奥州征伐に加わり、それぞれ功を挙げたことが知られている。
つづく承久の乱に際しては、嫡流の実幸・実乗兄弟をはじめとして、実時・資満・資俊ら富永一族が幕府軍にくわわって京を攻めている。


以後、富永氏は代々鎌倉幕府御家人として、一族は三河一帯に勢力を伸ばしていった。



建武年間、富永直郷は足利尊氏の命を受けて野田館に入り、設楽荘の荘司になったことから同荘は富永荘とも呼ばれるようになった。

富永荘は現在の新城市、南設楽郡の全域、北設楽郡の大半と宝飯郡の一部を含む広大な地域であったという。


南北朝期には足利氏に属していたことが種々の記録から知られている。


建武二年、直郷の弟資直は足利尊氏の九州落ちに従った。
尊氏と九州の南朝方菊池氏とが戦った「多々良浜の合戦」では、足利軍に数倍する大軍を擁した菊池軍に対して謀り事をめぐらし、
一族の高兼・兼弘・資家らを率い、菊池方の旗を用い敵方を欺くなどして奮戦、尊氏の勝利に大きく尽くした。

尊氏は資直の功に感じて「二つ引両」の紋を賜った。

これより富永氏は自家の紋「木瓜」と拝領した「二つ引両」を合わせて「木瓜に二つ引両」を家紋にしたという。


『見聞諸家紋』をみると、この「木瓜に二つ引両」が富永氏の紋として収録されている。


さらに、『太平記』には、康永四年(1345)、尊氏の天龍寺供養の随兵のひとりに富永四郎左衛門尉の名がみえ、
貞和五年(1349)には富永孫四郎なる者が高師直の軍に従ったと記されている。


直郷の子孫は代々野田館に住み、奥三河地方の豪族として栄えたが、永正三年(1506)、富永千若丸が夭折したため血筋が絶え、
嫡流としての富永氏は断絶した。



後北条氏麾下の富永氏

戦国期に後北条氏に属して名をあらわした土肥富永氏がある。

三河富永氏の一族とされるが、その出自には諸説があって、にわかに断定は難しい。
有力な説としては、近江佐々木氏の後裔とされるものがある。


土肥富永氏の初代となった実直(のちに政直)は実吉*の子といわれ、近江で生まれやがて西伊豆の土肥に移住したといわれている。
政直は西伊豆地方に散在した小海賊や水軍を支配下に収めて、急速に勢力を伸ばして土豪化し、その根拠地として土肥高谷城や丸山城を整備していった。

そして、延徳三年(1491)北条早雲に属し、明応二年(1493)興国寺城代に任じられている。

大永四年には、北条氏綱に従って江戸城を取ってその城代となった。


政直のあとを継いだ政辰は北条氏康に仕え、江戸城を預かり、西伊豆七ケ村のほか武蔵・相模にあわせて一千四百貫文の采地を持った。
弘治二年(1556)には、里見氏の水軍と相模三浦三崎沖で海戦している。
永禄七年正月の国府台の合戦で戦死した。

そのあとは政家がつぎ、氏政・氏直に仕える。

江戸城代のほか栗橋城代なども兼務し、北条五家老の一人となり、山城守の称号を与えられた。


天正十八年 (1584)、韮山城の援将となり同城を守ったが、北条氏滅亡、浪人となり慶長十二年に没した。

嫡子の直則は徳川家康に仕えて関ヶ原の合戦に従軍、子孫は徳川旗本として家を伝えた。

次男の勝安は家康の次男越前結城秀康に仕えた。


また、一族から徳川旗本として名をつらねたものも多い。

* 富永氏の甲賀流系図に実吉の名がみえるが、同系図の世系などに疑問が多く、にわかには同一人と断定はできない。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月26日 11時48分03秒 ) パスワード

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/suganuma.html
菅沼氏
六つ釘抜
(清和源氏土岐氏流)




 菅沼氏は室町時代のある時期に、美濃国より三河国額田郡菅沼郷に移り住したといわれる。土岐頼康三代の島田満貞の子木和田安逵の男土岐定直が、将軍足利義教の命によって、三河国の住人菅沼俊治を討ち、その諸領を与えられて菅沼を称したという。しかし、別説によると先の定直は資長といい、土岐光兼の二男とされる。すなわち、三河国野田の城主富永信資に養われ、後菅沼忠通の婿となり、菅沼を称したとされる。いずれにしてもその始まりは詳らかではない。
 菅沼氏から家康の部将となり大名となったのは定盈である。定盈の祖父定則(貞行?貞俊?)は、はじめ今川氏に仕えたが、亨禄二年、家康の祖父清康の三河国の宇利城攻めに従軍して軍功があり、吉田・宇利の二郡を与えられた。こののち、東三河の国衆は定則の胆いりで清康に属した。
 定盈は天文十一年(1542)野田に生まれ、家康と同年である。永禄四年家康に属し、本領の富田郷など二十一の郷村を安堵された。その領域は野田城を中心として、豊川流域から渥美湾口にわたっている。
 永禄十一年、家康の出陣にさいして同族の菅沼忠久、鈴木重時を誘致し、その功労により遠江国の本領、新地数ヵ所において千五百貫文を与えられた。元亀二年(1571)、武田信玄の攻勢にあって東三河の国衆は信玄に従属したが、定盈は家康から離反することなく、信玄の大軍に対し抗戦した。その奮戦ぶりは敵将の信玄を感心させたという。
 のち、高天神城攻め、小牧・長久手の戦いに軍功があり、関東入国後は上野国阿保で一万石を領した。子孫は四万石までになったが、改易となり、七千石を知行する旗本にとどまった。



 菅沼氏に関して、梶村氏から素晴らしい情報をいただきましたので、ほぼ原文のまま掲載させていただきます。本文よりも長くなりますが、ぜひ一読ください。

 家で古本を発見し、自分には新鮮な資料に感じられたので、報告させていただきます。古本とは、高柳光壽氏の『長篠の戦 新書戦国戦記6』(春秋社) です。「菅沼家譜」「寛政重修諸家譜」「寛永系図伝」などを資料に、長篠の決戦に至るまでの奥三河の小土豪の動静が割と多く書書かれております。


1.長篠菅沼氏   略

2.島田菅沼氏   略

3.野田菅沼氏

 系図は播磨屋さんの「幕臣菅沼氏家譜」のとおりです。
が、個人的には「系図綜覧」と掛け合わせた方が、なお良さそうに感じました。

清康時代から松平家に従ってたのですが、
今川家に属すことはあっても武田家になびかず、家康を支持し続けた家でした。

田峯家の大膳亮定広の弟・定則からというのは間違いなさそうです。
定則も定村も新八郎だったと思うのですが、確証が得られませんでした。

2代目定村は、奥平監物の今川離反により、今川軍先方を命じられたそうです。
弘治2年(1556)秋、奥平一族の修理貞良(定良)が領す雨山を仕方なく攻めた際、貞良の弟・五郎右衛門がその気も無いのに放った矢が、当たってしまい討死したそうです。

3代目・定盈は新八郎でいいのですが、重要なのは定村の実子ではなさそうだとそれも確証が得られずに自信なさそうな書き方で高柳氏が記されている点です。

「菅沼家譜」「寛永系図伝」どれから得たのか分かりませんが、追求の価値があるように思えます。

定村の弟・次郎左衛門の子と書いてます。
事実なら「系図綜覧」で相当するのは新三左衛門でしょうか。
それと「系図綜覧」にあるもう1人の弟・三右衛門は、どうやら定円というそうです。
この三右衛門に関しては田峯の項でも出てきますが、
もう1人、伝十郎までは確認できませんでした。

4.田峯菅沼氏   長過ぎるので略
[10]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月27日 10時10分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 泉龍院という寺に行き、サプライズを得られたのは誠にラッキーであり
ました。
 それはどういうことかと申しますと、次の通りです――

 @「千秋塚」があったこと
  境内の入り口付近の一角に、案内看板が建てられており、その中に
 「千秋塚」の位置が示されていました。それは後の千秋大宮司家の祖と
 なる藤原季兼に嫁いだ熱田大宮司・尾張員職の娘・職子、即ち「松御前」
 の塚でありました。
  その塚は、泉龍院の裏山である城ケ峯山頂にありました。あいにく、
 山道には下草が生い茂り、マムシの危険性もありましたので、行くのは
 止めにしました(心残りではあります)。 

 A「野田城主」三代、及び「亀山城主」、併せて「野田菅沼家」四代の
 墓があったこと
  本堂左手の木々に囲まれた一画に、自然石で造られた三つの墓と、一
 つの仏塔が並んだおりました。それらはー―
  「・野田城主初代 菅沼新八郎定則
    天文十六未年二月十四日 大洞院泉龍寺にて卒

   ・野田城主第二代 菅沼新八郎定村
    弘治二丙辰年八月四日 雨山戦にて討死

   ・野田城主三代 菅沼新八郎定盈
    慶長九甲辰年七月十八日 勢州長島城にて卒

   ・丹波亀山城主 菅沼新八郎定芳
    寛永二十癸未年正月十七日 丹波亀山にて卒    」

と書かれておりました。
 ここで、私は般若心経を二巻唱え捧げました。

 ここで、一旦切ります。

 次には求めていたサプライズに出会います――



  
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月27日 10時28分26秒 ) パスワード

三つ柏さん


わたくしの分も般若心経をありがとうございました。


「千秋」という名字が三河の地名発だったというのが驚きですね。
       千秋という名字の人が来て土着して地名になったのかと思いがちなのに。


この千秋一族が養老にも勢力を伸ばして服部氏と結んでたという謎も解けると良いですね。

源義朝が野間に落ちて行く途中大垣の青墓というところで舟に乗って長田領に落ちて行きますが
青墓と養老はスグ近くと言えば言える距離なので、
義朝は妻の実家の一族が養老あたりにいるから青墓に出て野間に落ちて行ったのかな?
などと想像が膨らみます。


それにしてもマサカ般若心経が大昔の皆さんの魂を慰めることになるなんて、ね。
良い特技になりましたね。
皆さん、お喜びでしょうね。



>次には求めていたサプライズに出会います――

何だったのでしょう。
楽しみです。わくわく
[12]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月27日 12時33分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 この千秋大宮司家の新城(稲木、野田)での居住歴史は、9代、240年
にも及びます。その割には、詳しい資料が残っていないのはどうしてなの
でしょぅか?(ひょっとしたら、熱田神宮の資料室に集められているのか
も知れませんね……) 『千郷村史』という本、新城の図書館で探してみ
ます――

 この千秋大宮司家の分れに養老千秋家があり、江戸時代には「服部」を
名乗っていたということで、その証拠としての墓や文書が残されていると
いうことです。一度、養老に行って調べてみたいと思っています。

 さて、とっておきのサプライズとは……新城を訪れたのは、ちょうどお
彼岸のお中日の日の二十三日でありましたので、祖先の霊がそうさせたの
かも知れません……泉龍寺の墓地にて、服部家の墓群に出会ったのです!

 確か2年前、「長上郡の服部氏族LW」で、あを様が新城地域の千秋家、
春田家、服部家、浅井家等について言及されたことがありまして、ここの
服部家の家紋を知りたいと書いておられました。

 正に、その服部家の墓が、大きく分けて4つの分流の墓群が、泉龍寺の
墓地に存在しておりました! もちろんそれは今生きる当主達によって、
守られつながっておりますのは明らかでありました。
 新しい現代の墓が4基、それに付属する先祖たちの墓が、併せて30基
ほどありました。
 そして、その「家紋」は「丸に剣片喰」でありました。

 この「丸に剣片喰」紋、実は当方の長上郡羽鳥の2キロ南にある清心寺
にある「服部家」の墓(4基)と同じ家紋でありました。

 つまり、何を言いたいのかと申しますと、東三河新城(稲木〜大野)地区
の服部と、遠江長上郡羽鳥地区の服部とはつながっているのではないかと
いうことが濃厚になったということです!

 ここで一端切ります――


[13]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月27日 13時40分54秒 ) パスワード

三つ柏さん


>丸に剣片喰

ビックリ!
家紋の世界は深過ぎて


>東三河新城(稲木〜大野)地区の服部と、遠江長上郡羽鳥地区の服部とはつながっているのではないかと

ホント!
驚きの共通性ですね。
東三河と遠江は隣ですものね。
一族の可能性が大きいですよね。



平氏で(丸は無いのですが)剣方喰紋使用の家は  良文流保田家  だそうです。

この保田家は、一瞬、千賀地を継いだ保田家かと思いましたが、
伊勢伊賀の平氏(平家)服部系保田家と坂東平氏の良文流保田家では犬猿の関係でしょうから
違うか、と。


理由:この良文の子孫達は伊勢伊賀に引っ越した平家とは違って、頼朝に従って平家と戦った人々だから。その理由は下にあります。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%89%AF%E6%96%87

平将門が伯父の平国香(清盛のご先祖さまの平貞盛の父上)と争うと、
良文は将門に味方して染谷川で戦いを繰り広げた。

                        だってワルは将門が相続した土地を奪った平国香だもの。汗


この戦いで将門・良文の軍勢は苦戦し七騎のみとなり、
良文は自害する場を求めてさまよっていた。

そこに突然不思議な声が聞こえ、その声に誘われるままに後をついていくと寺院が現れた。

その寺院の寺僧によるとここは妙見寺という北斗七星の化身・妙見菩薩を祀る寺院であり、
良文が妙見菩薩に選ばれた者であるといい、七星剣を渡された。

また寺僧の言葉の通り、その証拠として良文の体には月と星の印が浮き出ていた。


この出来事以降、妙見菩薩の加護を受けた良文・将門軍は勝利を重ねて坂東八カ国を討ち据えたが、
良文はこの乱中に、北を目指して陸奥守、鎮守府将軍として陸奥国胆沢に赴任していった。


一方、将門は凶悪の心をかまえ神慮に憚らず帝威をも恐れなかったため、妙見菩薩は将門を離れ良文の元に渡ったとされる。

                       将門は新皇宣言をしたハナシ
です。
                       京都の朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。


良文には5人の子がおり(『二中歴』)、
長男の平忠輔は早世したが、
春姫(平将門の娘)を正室とした三男・平忠頼からは千葉氏、上総氏、秩父氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏などが、
五男・平忠光からは三浦氏、梶原氏、長江氏、鎌倉氏などが出て、さらにこれらの氏族から多くの氏族が分かれて「良文流平氏」を形成した。


後に、源頼朝による源平合戦(治承・寿永の乱)に従軍して鎌倉幕府の創立に協力し、鎌倉幕府で有力な御家人になった者の多くがこの良文流平氏に属する。

            『尊卑分脈』では、良正を良茂の子とし、三浦氏・鎌倉氏・長尾氏・大庭氏・梶原氏等の祖は、
             良文ではなく良正としている。



>>>東三河新城(稲木〜大野)地区の服部と、遠江長上郡羽鳥地区の服部とはつながっているのではないかと

良文系でも平家に仕えた可能性はあるし
ひょっとすると
先祖の敵の清盛憎しで遠江国蒲御厨で生まれ育った源範頼(義朝の6男。頼朝の異母弟)に仕えたかも知れないし。浜松ですものね。


いよいよ面白くなってきました。
ご先祖さまに近づいたのかもですね。
[14]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月28日 00時29分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 この泉龍寺の墓地には、「服部家」の他、「春田家」、「浅井家」の墓群
が存在感を示しておりました。

 「春田家」の家紋は、「丸に三つ柏」が多く、またいくつかは「丸に橘」
でありました。
 「浅井家」の家紋は、やはり「丸に剣片喰」でありました。

 その他には、中根家(丸に抱き茗荷)、山本家(丸に三つ柏)、水野家(丸に
立ち沢潟)、加藤家(丸に下り藤)、夏目(丸に剣片喰)、宮川家(丸に三つ柏)、
その他諸々がありました。

 『千郷村史』には、成務天皇(景行天皇の子)の時に、千郷村に「稲置府」
を置き、景行天皇とは腹違いの「鐸石別(ぬてしわけ)」の子「稲木壬生公」
に赴任させた。その時に「服部(機織部)」と「春田(墾田)」の一族を率い
て来たということであります。従って、ここの服部の先祖は、古代の服部氏
であると推察されます。同じく、春田氏も然りだと思います。

 ここで、服部家の墓を前にして、般若心経を二巻唱え捧げました――


[15]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月28日 02時25分23秒 ) パスワード

三つ柏さん


>『千郷村史』には、成務天皇(景行天皇の子)の時に、
>千郷村に「稲置府」を置き、
>景行天皇とは腹違いの「鐸石別(ぬてしわけ)」の子「稲木壬生公」に赴任させた。

>その時に「服部(機織部)」と「春田(墾田)」の一族を率いて来たということであります。
>従って、ここの服部の先祖は、古代の服部氏であると推察されます。


いよいよ調査の核心に近づいて来たような?


遠江の服部部系神社の紋が分かると良いですね。
千秋村のハトリ部と浜松のハトリ部の関係も分かると良いですね。


一番基本の家紋:平家方の服部でしたら  「揚羽蝶」
そして
派生して替えた家紋としてはヤッパリ     「矢」系


何度も何度も先入観を打ち消しては組み立てて考えていかないとなかなか焦点を当てる方向が迷走しまくりますね。


家紋自体は平安時代あたりからでしょうから
家紋に見るのは平安時代以降のその家のアイデンティティでしょうね。

        家に伝わる出自とか
        当時の力関係で政治的に採用したとか
        家紋には秘密が籠められているのでしょうね。



>ここで、服部家の墓を前にして、般若心経を二巻唱え捧げました

ありがとうございました。

壮大なロマンに接して親近感と違和感、その両方を、見た思いです。
[16]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月28日 14時01分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 遠江旧羽鳥庄の常光町にある清心寺は、服織神社の隣にある源長院の末
寺であります。また、同じく旧羽鳥庄の我が善地にある東泉寺も、源長院
の末寺であります。源長院から見て「北の地平線に東泉寺」を、「南の地
平線に清心寺を建てた」とご住職より聞いております。また、源長院は松
島家が開基となっており、1500年代に創建されております。

 服織神社を中心にした場合も、南約2キロの所に清心寺、北約2キロの
所に東泉寺ということになります。

 そして、双方の寺に服部家の墓があります。墓の数はほぼ同じで、清心
寺のほうの服部家は「丸に剣片喰」が4基、水野系の「丸に立ち沢潟」が
4基。
 それに対して、東泉寺の服部家は「丸に三つ柏」の墓が8基。

 家紋だけでは出自は確定できないということが、この3年余の調査によ
りよくわかってまいりまして、婚姻やら、色々の事情で定紋を替えるとい
うことが、長い間の中ではあったということ。清心寺の服部家の「丸に
立ち沢潟」紋は水野家との婚姻によるものだと推測いたします。水野氏
の墓もこの地域にはありますので。

 一方、東泉寺の服部家の「丸に三つ柏」紋は、永井(長田)氏との婚姻に
よる可能性、また神主系家紋である可能性、更には状況証拠の積み重ね的
には服部中系である可能性もあると考えております。

 その結論が出るのは、もっともっと先と思っております。まずはこの東
三河の調査を徹底させ、「鈴木氏」、「中根氏」、「大橋氏」等について、
そしてもちろん「服部氏」について情報を収集したいと思っております。
 ちなみに、清心寺には、中根氏、大橋氏の墓がありました――
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月28日 14時51分13秒 ) パスワード

三つ柏さん

エンエンと書いてたら消してしまいました。

グレてやる!怒


http://trc-adeac.trc.co.jp/WJ1200/WJJS24U/2213005100/?Word=%e6%ba%90%e9%95%b7%e9%99%a2&Relation=AND&TypPttrn=BODY&SelectPage=1&BfrDispId=WJJS06U

浜松市立中央図書館 浜松市文化遺産デジタルアーカイブより源長院関係



1

嶋村重立五人農兵六拾壱人二、稽古所羽鳥村源長院松島忠兵衛小栗武右衛門山下佐次兵衛田中新

浜松市史 ニ



2

よると、笠井村定明寺・同村法永寺・羽鳥村源長院の三寺が同村の檀那百二十二人(内男七十人

浜松市史 ニ



3

おく)は浜松の人で俗姓不詳。安芸国広島の源長院の開山となっている。慶安元年(一六四八)

浜松市史 ニ



4

松木嶋西美薗東美薗可睡斎爪内高薗有玉上瀬源長院羽鳥雲岩寺恒武日蓮宗

                         ココは???

浜松市史 ニ



5

太夫開基)安養寺(宗安寺末)東漸寺大宝寺源長院学薗寺花学院竜秀院大応寺竜泉寺(雲岩寺)

浜松市史 ニ



6

町間宮邦一氏蔵)九二金原明善(浜松市豊町源長院提供)九五金原明善屋敷一〇〇天竜製材株式

浜松市史 三



7

十湖(大正十五年七月十日没、七十八歳、墓源長院)も天竜川の氾濫が生んだ報徳家であった。

浜松市史 三




8

・豊西町)の百人一句塚、松島十湖菩提寺の源長院(曹洞宗・豊町)、長泉寺(臨済宗方広寺派

浜松市史 五

以上コピペ終り

現物をお借りになって読んでみてください。


報徳ということで
小田原の大久保家の家老だった服部家を思い出しました。
十湖 and/or 松島家は二宮尊徳や大久保家やその家老だった服部家と関係があったのでしょうか?
[18]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月28日 16時11分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろありがとうございます。『浜松市史』はМ氏が2セット持って
いましたので、1セット譲ってもらい、通読はしております。

 市野氏の領地は、服部半蔵や服部中の領地と隣接しておりますし、松島
家とはもろに関係してきます。
 市野氏は袴田、寺田、浅井家と祖先がつながっているようで、東三河の
浅井氏とは関係があるのかどうか、探究してみたいと思っております。
 いずれにしても、市野の代官となった市野氏がキーマンであります。
 「南朝」という言葉もキーワードでありますので、南朝フィルターにか
けて探ってみたいと考えております。
 大きな目で見ても、いわゆる三遠南信地域は南朝色が強いということを
肌で感じております――
[19]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月28日 17時04分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 泉龍寺を後にして、長全寺、夷則寺、萬福寺、最勝院、桃牛寺、永住寺
と回りました。

 桃牛寺では、青山(二枚柏に十六菊家紋)、森田(丸に三枚銀杏)及び(丸に
一枚銀杏)の墓を見ました。

 永住寺では、中根(丸に木瓜)、山本(丸に三つ柏)、森田(丸に木瓜)、鈴木
(丸に剣片喰)等を見ました。

 意外にこの地域には、「森田」が多いことがわかりました。

 そして大善寺――ここで私は予期せぬものに出くわします。
 
 続きは次回に――
[20]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月29日 07時41分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 先日の九州訪問で一番興味を引かれたのは、「隼人(熊襲)」の存在であり
ました。それらに関する本を4〜5冊集めましたが、満足度はあまり高くあ
りません。
ところが、関裕二氏の著作(私は30冊程持っておりますが)の中で、2003年
発行の『天孫降臨』という本、ここには隼人に関するうがった事項がたくさん
書かれている上、天孫降臨の謎についても解説されていて、満足度は90%
近くまで行くのではないかと思います。関氏の著作の中では、最高の著作だと
思います。ちなみに、同氏の2012年の著作『伏見稲荷の暗号 秦氏の謎』も
優れ本だと思っています。
 いずれにしても、もう一度読み込んで、頭の中を整理したいと思っています。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月29日 14時42分41秒 ) パスワード

三つ柏さん


「天孫降臨」を読み直して
結局落伍しました。


      名前について行けない
      どうしても大昔に読んだイメージが払拭出来ない
      あれ?こんな話だっけ?

こんな感じで訳分からなくなりました。


      いろいろなハナシが渦巻いて、何が何やら、訳分からなくなりました。


今回記憶に残ったのは   尾張氏って思ってたより古かった  ということ。
この尾張氏が後世の藤原貴族と合体して  三河や遠江  にも?
このあたりにも藤原不比等の改竄があった?


やっぱりゴチャゴチャになって疲れました。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月29日 15時36分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


わたくしは南九州の天孫降臨話より  尾張氏と藤原不比等  の関係に興味が飛びました。

何故不比等が日本書紀を加筆改竄したのか?

当然藤原氏の正統性ですね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B8%8D%E6%AF%94%E7%AD%89
藤原不比等は、天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の子である。
文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。

不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。


このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖と解することもできる[1]。



神武東征とヤマト建国の謎: 日本誕生の主導権を握ったのは誰か?
By 関裕二

http://books.google.com/books?id=E91t3Is8ddoC&pg=PA166&lpg=PA166&dq=%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E6%B0%8F%E3%80%80%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B8%8D%E6%AF%94%E7%AD%89%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=htz-U7Lt-P&sig=WMNKKGlkRk93VF3z79HeVR2efM0&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiloaKG4snWAhUhh1QKHVSGA4UQ6AEIRjAD#v=onepage&q=%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E6%B0%8F%E3%80%80%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B8%8D%E6%AF%94%E7%AD%89%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


「尾張氏は2度歴史から抹殺された」
163ページから167ページあたりが面白かったです。


その次の「長髄彦の正体はヤマトタケル」も面白かったです。


どんどん外れたレスになっていきました。
ごめんなさい。
[23]三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月01日 00時25分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日も、新城方面(大野、野田、八名井)へ行ってきました。有意義な
一日になりました。
 頭の中が整理できますまで、しばらく時間を――
[24]三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月01日 09時45分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 先日の新城行きの最後の話が2つ残っておりますので、それを完了させた
いと思います。

 @新城市の街中では、5寺程回りましたが、最後の寺で予期せぬものに出
会いました。それは、あの家康と瀬名姫=築山御前の娘で松平信康の妹――
亀姫の墓でありました。案内看板にはこう書かれておりました――
 「大善寺と亀姫
  天正3年、長篠の戦いで大功のあった奥平貞昌は、織田信長から信の字
 を賜って信昌と改め、家康の長女亀姫を娶り、新城城を築き、入城しまし
 た。
  亀姫は、熱心な浄土宗の信者で、当地に大善寺を建立し、後年、母築山
 御前の法要、長篠の戦いの戦死者の供養を行いました。
  天正18年、信昌は上州(現在の群馬県)宮崎3万石、更に岐阜加納10
 万石に移封され、亀姫は加納御前と呼ばれ、寛永2年(1625)死去されまし
 た。
  亀姫の没後、その四男松平忠明は、母の供養のために五輪塔を大善寺に
 建立し、現在に至っております。
  大善寺が江戸時代から葵の紋の使用を許されているのは、亀姫の開基に
 よるからであります。
                         新城市観光協会 」

 その亀姫の五輪塔は、高さ1.5m位で、とても重量感のあるものでした。
 この五輪塔に向かって、般若心経を2巻、唱え捧げました。

 亀姫は、信康と1歳違いの妹、信康が自刃した時は16歳でありました。
その何ケ月か前には母の築山御前を殺されており、ダブルの悲劇にどんな
悲しみの淵にあっただろうと思うといたたまれません。

 この大善寺の墓地には、森田(丸に並び矢)、酒井(剣片喰)、牧野(丸に三
つ柏)、杉浦(丸に三つ柏)等の墓があり、さらに長田氏の墓が3か所で総計
13基、その家紋は「8本の源氏輪」でありました。

 次へ移ります――
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月01日 11時26分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 A最後に行った寺は、三ケ日との山境いをほぼ並行に走る81号線沿い
の冨賀寺でありました。この寺には行き当たりばったりでいったのですが、
随分と立派な真言宗のお寺でありました。いわゆる名刹でありました。

 ここには、やはり予期せぬ墓がありました。それは、「近藤家」の墓で
した。但し、気賀近藤家でなく、金指近藤家のもので、4つの五輪塔が並
んでおりました。
 説明看板によりますと、これらの石塔は、享和2年(1802)に、旗本で
あった金指近藤家の7代・寿用(ひさもち)が、先祖の由緒を尋ねたことを
契機として再建したものであるという。
 右端から、満用以前の祖先4人をまとめたもの、次は近藤家の中興の祖
満用、そしてその子である乗直、同じく忠用と続きます。
 満用は松平清康に仕え、「宇利城の戦い」で戦功をあげ、宇利城を賜り、
その後の近藤家の大きな転換点となったという。

 ここで、私は般若心経を2巻唱え捧げました――
 
[26]三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月01日 12時19分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 もう一つ、重要な情報があります――

 それは、「建部家」の墓であります。そこには、大きな御影石の板に、次
のような墓誌が刻まれており、読んでみてビックリの内容でした。
本日は「おんな城主 直虎」がありますので、近藤康用(その子秀用)の名誉
のために、その墓誌の説明部分を記しておきます――

 「古文書によると、十二代景行天皇の御子である倭健(ヤマトタケル)皇子
 が皇別により、「建部(タケベ)」姓を賜る。神孫建部伊賀麿は、伊賀伊勢
 三河へと、一族は近江建部大社を中心に広がり、朝廷守衛を任とした氏族
 である。
  奈良時代は、宇理庄建部宿祢とあり、鎌倉時代には宇理庄冨賀寺願主
 建部真道と、室町中期の宝徳二年の古鐘に大檀那建部為行入道と刻まれ、
 宇理に栄える。室町末期の満用の代には、松平今川氏より宇理城を賜る。
  乗直は松平清康に仕えるが、合戦による負傷で宇理に帰農し、一族を
 広げる。その弟忠用と子康用も徳川家康に仕える。その子建部朝臣近藤
 秀用は一万七千石の大名となる。
  五人の息子には、浜名方面に分地し、旗本五近藤として栄える。
  源氏・足利・今川配下時代には、本姓建部を、松平氏に従った時は、
 近藤姓を名乗り、戦国の世を乗り切り、今日まで繁栄している。  」

 驚きです!――
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月01日 16時33分02秒 ) パスワード

三つ柏さん


>驚きです!――

本当に3つのレスともに驚きでした。


特に
>源氏・足利・今川配下時代には、本姓建部を、
>松平氏に従った時は、近藤姓を名乗り、
>戦国の世を乗り切り、今日まで繁栄している。

驚きですね。

その源が
>十二代景行天皇の御子である倭健(ヤマトタケル)皇子が皇別により、「建部(タケベ)」姓を賜る。
>神孫建部伊賀麿は、伊賀伊勢三河へと、一族は近江建部大社を中心に広がり、朝廷守衛を任とした氏族


「一族は近江建部大社を中心に広がり」  真っ先に市野氏と関係があるのかな?と連想しました。
 である。



いやぁ〜、驚きました。
またもやヤマトタケルが出て来るとは。
それも近藤氏関係で。


ちょっと茫然自失状態です。


わたくしの分も般若心経をありがとうございます。


「直虎」のドラマの奥には描かれないドラマチックな背景があったのですねぇ。
人間って本当に「深い」です。

テレビドラマとしてサラッと見てしまうか
脇役でもその人の背景を掘り下げて行くかで全く違う歴史が見えて来ますね。
まさか!まさか、実は!ヤマトタケルの子孫だったとは。

ちょっと衝撃が激し過ぎました。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月02日 10時20分21秒 ) パスワード

「直虎」
見終わりました。

息もつけず
4回に分けて見ました。

丁々発止。
真剣勝負を見ているような気分でした。

松下源太郎さん
気の毒でした。
裏切られた気分ですよね。
血圧が一気に300ぐらいに上がったかも。
血管切れて、脳出血、ですね。


それにしても大人のオトコは意地悪ですね。


それにしても俳優陣の入れ替えで
どの人がどの役なのかサッパリ分からなくて
ちょっとついていけなかったんですが・・・

「米沢さん」も出てましたね。鷹匠役で。


直虎は  あの顔では垂れ髪は全然似合わないですね。
とても主役の顔に見えなかったです。

尼小僧の時はオードリー・ヘップバーンのようなイメージでした。
今はまるで小間使いの女って感じで精彩が消えてます。あ、今の言葉では  オーラが無い  ですね。
ま、そういう  井伊の再興を望んでない  張り合いが野菜作りになってますからね。


今日の段階では  亥之助万福小野朝之  の方がカシコイ判断が出来るみたい。


難しい時代ですね。
直政がそういう時代を泳ぎ切ったというのはヤッパリ賢い人だったんでしょうね。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月02日 10時24分31秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%B8%85%E6%99%AF

松下 清景(まつした きよかげ、? - 慶長2年(1597年))

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
徳川氏の家臣。
後に井伊氏の家老を務めた。
通称は源太郎。


概要[編集]

松下常慶は弟とされる。


天正2年(1574年)、井伊直政の母奥山氏と再婚し、直政の継父となる。
直政が徳川家臣として頭角を現し、箕輪城城主となるとそれにつき従い、慶長2年(1597年)に城下の屋敷で死去した。


中野直之の次男の松下一定を養子として跡を継がせており、

                         之の字の次男が跡取りになりましたか。

松下家は井伊兵部少輔家(与板藩)の重臣として続いた。

良かった!

[30]三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月03日 00時55分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 おとといの新城方面行きの目的は、次のようなものでありました――
 @大野城主鈴木喜三郎の墓を見に行くこと、および城址を見ること
 A大野地区(服部郷)の服部氏の痕跡を見つけること
 B熱田神宮大宮司員職(かずとも)の娘職子(松御前 藤原季兼の室となり
  千秋氏のおおもととなる) の墓を探しに行くこと
 Cその他
でありました。

 これらにつきましては、明朝の頭の中がペパーミントの状態の時に記した
いと思います――
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月03日 02時03分33秒 ) パスワード

三つ柏さん

>A大野地区(服部郷)の服部氏の痕跡を見つけること

へぇ〜

どんな家紋だったのでしょうね。


今から出掛けますので
レスを楽しみにしております。
[32]三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月03日 19時40分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「大野」は、ご存知のように「赤引きの糸」で有名であります。
「大野神社」の中に、今では「服部神社」が境内社として鎮座しており
ます。
 
 大野神社の参考サイト――
  www.net-plaza.org/KANKO/shinshiro/jinjya/oono/index.html

 赤引きの糸の参考サイト――
  www.asahi-net.or.jp/~ny9j-skri/sub6.html

 一旦ここで切ります――
[33]三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月04日 00時32分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大正15年に作成された『八名郡史』という本が手元にあり、1500頁
程のボリュームでありますが、主要な所を拾い読みいたしました。

 「大野」について理解するために、その大野が含まれている「八名郡」と
いうものについての説明部分を記します(要約)――

 「八名郡は、愛知県の東の端で、豊川に沿った東岸にある。静岡県の境に
 も沿って、東北から西南に伸び、その長さ約36q、幅約8qと細長い。

  東南の二面は山脈をもって静岡県の磐田・引佐・浜名の三郡及び県内渥
 美郡と背中合わせになり、西北の二面は豊橋市及び宝飯・南設楽・北設楽
 の三郡と、朝倉川と豊川・三輪川とを境として向かい合っている。

  町村の構成は一町十ケ村で、北から言うと@七郷村、A大野町、B山吉
 田村、C舟着村、D八名村、E金沢村、F賀茂村、G大和村、H三上村、
 I石巻村、J下川村である。」

  わかりやすく言いますと、北は湯谷温泉から南は吉田(豊橋)城までの
豊川の東岸ということになります。

 そして「服部郷」がどこにあったのかということでありますが――

 「服部郷の地域は、@七郷村、A大野町、B山吉田村、C舟着村の一町三
 ケ村である。」

  つまり、わかりやすく言いますと、八名郡の一番北の一帯ということに
なります。

 さて、服部郷には「服部」という姓の人達がたくさんいたのではないか
と推察されるのですが、それは本当でしょぅか。その反対に、もともと服部
郷には服部氏はほんのわずかしかいなかった―ということは考えられないで
しょぅか?
 なぜならば、この『八名郡史』の中に、大正12年における国勢調査の
ような調査結果が出ておりました。それに従って、八名郡全体の氏族(姓)
を戸数の多い順に並べますと―― 
 @鈴木(300戸以上)
A山本(200〜299戸)
 B加藤、松井、小林(100〜199戸)
 C中村、白井(80〜89戸)
 D菅沼、安形、原(70〜79戸)
 E豊田、田中、夏目、伊藤(60〜69戸)
F山口、内藤、星野、渡辺、野口、荻野、中西(50〜59戸)
ということでまだまだ続きますが、では「服部」はと申しますと――その
戸数は僅か「5戸」であります。しかもそれは「服部郷」でなく、石巻村
でありました。 
 つまり、「服部郷」に「服部氏」はいなかったといういことになります!
 あるいは、服部氏は消滅させられた、逃亡した、姓を変えた…つまりは、
服部氏であっては都合が悪い状況があったのか?
 この問題は、もう少し時間をかけて広くデータをとって行きたいと考え
ます。

 次回へ続く――
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月04日 07時04分16秒 ) パスワード

三つ柏さん


服部郷に服部さんは  いない?
だけど石巻村には5戸あった?

この5戸の服部さんの家紋が分かったらいいですね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%90%8D%E9%83%A1

7世紀後半の木簡が出土しないことから、大宝律令成立以後の8世紀に成立したと思われる。
豊橋市域だと、石巻(山、神社)、多米(トンネル)など。


郡の名前は古代の部民(べのたみ)である八名部が多く住んだことから名付けられたという説や、
簗が多く設けられたことから命名されたという説がある。



戦国時代、郡南部(現在の豊橋市西郷校区辺り)に2代征夷大将軍徳川秀忠生母西郷局(名は愛)を出した三河西郷氏(三河国守護代の西郷家の同族と言う)が本拠を置いていた。

                                     へぇ〜
                                     では服部正尚関連の服部さんも近所にいた?


具体的には、
月ヶ谷(わちがや)城(同市嵩山(すせ)町)を大永年間、
五本松城(同市石巻中山町、西郷校区)を西郷正勝が1561年(永禄4年)に築城、
天文年間に西郷清員が西川城(同市石巻西川町、西郷校区。後、三河吉田藩主小笠原長矩の弟小笠原長秋が2000石を受けここに陣屋を置いたという)を築城したとされる。


近世以降、八名郡は「やなぐん」と呼ばれた。


明治維新直前岡部藩主安部信発(安部氏、あんべ)が武蔵国岡部(埼玉県深谷市)から陣屋を半原村(現・新城市)に移して、半原藩が発足したが、すぐ版籍奉還を迎えた。




明治初期、広域から生徒を集めた八名高等小学校(富岡村)により、教育のメッカになったが、すぐ衰退し、第一次産業以外のさしたる産業のない地域になった。

その中で郡の北部の大野町(現・新城市大野)は、秋葉街道の宿場町から発展した経済の中心として栄え、八名郡で唯一町制を敷いた。

大野町に置かれた大野銀行は1945年(昭和20年)東海銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に合併されるまで、八名郡はもとより東三河全域の経済を支配する銀行として君臨した。


戦前には、1926年(大正15年)4月、下川村に愛知県立豊橋第二中学校(現・愛知県立豊橋東高等学校。現在は豊橋市向山町(旧渥美郡)に移転。
ナンバースクール)が置かれた(現・豊橋市牛川町字洗嶋)。
これは、豊橋市と誘致を争った八名郡大野町に配慮して八名郡内に設置されたと考慮される。
この旧制中学校の豊橋二中の跡地は新制中学校の豊橋市立青陵中学校になっている。

しかしながら、大正の郡制廃止後、八名郡役所の置かれた八名村は警察署以外の官公庁を失い、太平洋戦争直前の下川村、石巻村多米地区の豊橋市への合併や八名郡を管轄する八楽地方事務所の南設楽郡新城町への設置で、郡全体はいよいよ零細郡の色彩を強くし、南北設楽郡と併せて八楽(はちらく)地方と総称されることが多くなった。


戦後は、経済を支配していた大野銀行や八名郡全体を管轄した富岡警察署を合併で失い、町村合併促進法施行以後、豊橋市や豊川右岸の自治体との新設・編入合併が相次ぎ、1956年(昭和31年)9月30日の山吉田村の南設楽郡鳳来町へ編入を最後に、八名郡の名前は住居表示から消えることになった。


現在は、新城市南部の中学校名および小学校名に八名の名を止める[1]のみだが、小学校名は新城市市制施行後の命名である。

また、総称の八楽も地元タクシー会社やパン会社の社名にとどめるのみである。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月04日 07時29分28秒 ) パスワード

面白いかも。


http://base5.nijl.ac.jp/~archicol/eachpage/04/03/ac1982204/index.html

三河国八名郡乗本村菅沼家文書
(マイクロフィルム収集)


本マイクロフィルムは、当館所蔵「三河国八名郡乗本村菅沼家文書」を補完する目的で、豊橋市美術博物館および愛知大学総合郷土研究所所蔵の菅沼家文書の一部を収集したものである。菅沼家は、乗本村の名主・組頭を一時勤めるとともに、回漕業・地主経営を営んだ。



http://base5.nijl.ac.jp/~archicol/eachpage/04/03/ac1957005/index.html


三河国八名郡乗本村菅沼家文書




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 菅沼家は戦国期長篠城主菅沼氏の一族と伝わる。乗本村の名主、年番組頭、名主後見を一時つとめたことを除けば、村行政にはあまり携わらなかった。正保期に奥三河と吉田を結ぶ回漕業を開始し,以後,屋号「為屋」の名で商業活動を展開していく。また大規模な地主経営も行った。なお、本文書群には本家である菅沼八左衛門家の他、分家・親類の正兵衛家・耕兵衛家などの文書も含まれる。
 本文書群は菅沼本家(八左衛門家)に伝来した文書群と考えられるが,分家・親類の史料を大量に含んでいる。したがって、乗本村文書、菅沼家の家文書、分家・親類文書によって構成されると考えられる。分量・質ともに家文書が中心をなす。1683点。
[36]三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月04日 13時58分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 [26]の補足:建部=「タケベ」と読みを書きましたが、本来的には「タケ
ルべ」の読みから始まっていると思います。
        「タテベ」とも読みます。(『新編 姓氏家系辞書』より)
       倭武尊(ヤマトタケル 日本武尊)の功名を記録しようとして
       定められた(御)名代部。
       この直隷民部は、警備のため各地に配備されたということで
       ありますが、東海地方に限って言えば、伊勢、伊賀、美濃、
       尾張、遠江にその名や地名が残っています。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月04日 15時30分55秒 ) パスワード

三つ柏さん


岡崎には  六名  という場所があります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%90%8D
六名(むつな)は愛知県岡崎市本庁地区の町丁。郵便番号は444-0856。

額田郡下六名村の一部を前身とする。
8世紀中頃に額田八郷の1つとして六名郷ができた


新城の八名みたいに
同じような経緯で名づけられたのかな
と気になります。



http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%BB%BA%E9%83%A8

【名字】建部
【読み】たてべ,たつべ,けんべ,けんぺ,たけべ,たけるべ
【全国順位】 3,312位
【全国人数】 およそ3,900人

建部君、建部臣、建部宿禰、建部朝臣などにもみられる。
林田藩主家は宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)佐々木氏流がある。


ということで日本武尊と熊襲なんかの関係ということで
http://books.google.com/books?id=XLkWUQ7YC0AC&pg=PA49&lpg=PA49&dq=%E5%BB%BA%E9%83%A8%E5%90%9B%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=hw7P-ceHZz&sig=5YgNWMw_wD8PJzaVntYLA1-Wmfw&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjeh5yyqdbWAhVEi1QKHXzkDmcQ6AEITDAE#v=onepage&q=%E5%BB%BA%E9%83%A8%E5%90%9B%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

熊本県立済々黌高等学校〜熊本大学あたりに建部一族がいたようです。

コピペ:
律令期には飽田郡の大領として「建部公貞雄」がおり、
一族として「肥後国史生、建部君足国」
畿内に移った一族に「飽田郡建部君虫麻呂」、「肥後国飽田郡人建部公弟益」
なんて書かれています。
[38]三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月04日 23時46分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 建部というと、昔、衆議院議員に一人おりましたが、改めて古代からの
深い流れを知り、見直しました。近藤氏も、ただの近藤氏ではなかったと
いうこと。小野氏もただの小野氏でなかったということ(小野妹子あたり
を祖としている)。「おんな城主 直虎」の監督は、説明こそしませんが、
そのへんをわっているのでしょう……。

 東三河の玉川に服部氏が5戸あったということ、以前この地にある「玉川
御所」というものを調べに行ったことがありますが、後醍醐天皇の孫の長慶
天皇が親王の時にここの玉川御所に一時おられたということであります。即
ち「南朝色」の特に濃いところに服部氏はいたことになります。
 近日中に再度、調査に行ってみます!

 南朝というば、足助鈴木氏、大野の城主をしておりました。その墓を見て
きたこと、次回に記します――
[39]三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月04日 23時49分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:わっている→わかっている (失礼しました)
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月05日 02時22分38秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%85%B6%E5%A4%A9%E7%9A%87


長慶天皇(ちょうけいてんのう)
南北朝時代の第98代天皇にして、南朝の第3代天皇(在位:正平23年/応安元年(1368年) 3月[注釈 1] - 弘和3年/永徳3年(1383年)冬)。
諱は寛成(ゆたなり)。

南朝関係史料の少なさから、
近世以来諸家の間で天皇の在位・非在位をめぐる議論があり、
明治44年(1911年)3月に明治天皇が南朝を正統とする勅裁を下した際も在位認定されないままであったが、
大正時代に入って、八代国治・武田祐吉の実証的研究が決定的な在位説として評価される。

これを受けて宮内省の調査が行われ、大正15年(1926年)10月21日に皇統加列についての詔書発布があり、
ここにようやく長慶天皇の在位の事実が公認されるに至った。



皇居
住吉行宮
吉野行宮
天野行宮
栄山寺行宮



正平23年/応安元年(1368年)3月 、
26歳にして摂津の住吉行宮(大阪市住吉区)で践祚し[注釈 4]、間もなく弟の熙成親王を東宮とした。


南朝は北畠親房らの重鎮を失って弱体化が著しく、天皇の事績に関しても明らかでないことが多い。
また、天皇は北朝に対して強硬派の人物であったと考えられ、
先代まで何度となく持ち上がった和睦交渉がこの代に入ってから全く途絶したことも、史料の少なさと無関係ではなかろう。


践祚後間もなく和平派の楠木正儀が北朝へ降ったため、
同年(1368年)12月吉野(奈良県吉野町)に後退し、
正平24年/応安2年(1369年)4月には河内天野の金剛寺(大阪府河内長野市)に移った。


しかし、文中2年/応安6年(1373年)8月に正儀らの先導で細川氏春・赤松光範の軍から総攻撃を受けて、
四条隆俊ら70人余りが討ち取られたため、再び吉野へ還幸することとなった[注釈 5]。


文中3年/応安7年(1374年)冬、伯父の宗良親王が信濃から吉野入りし、以後は歌合が盛んに催されている。

宗良親王との関係が出て来ました



天授5年/康暦元年(1379年)9月までには大和栄山寺(奈良県五條市)に移り、
弘和元年/永徳元年(1381年)10月に宗良親王の私撰和歌集を准勅撰集とした(『新葉和歌集』)。
また同年、『源氏物語』の注釈書である『仙源抄』を著している。



長慶天皇の御陵と称する墳墓は全国各地に点在しており、
青森県青森市・弘前市、岩手県二戸市、群馬県太田市、山梨県富士吉田市、富山県砺波市、富山県南砺市、奈良県川上村、和歌山県九度山町、鳥取県鳥取市、愛媛県東温市など、20箇所以上に及ぶとも言われている[3]。

                              これまた不思議。 そんなに敬愛されたお方?      

[41]三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月06日 00時11分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、久々の芝刈りの後、谷川健一氏の『白鳥伝説』に目を通し始め
たら、離れられなくなってしまい、深夜となってしまいました。
 東三河の話は明日といたします――
[42]三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月06日 11時30分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 話はちょっとそれますが、「物部」さんという苗字、現実的に存在して
いるということをこの目で確認いたしました。浜松では市の大霊園で「物部
家」と刻まれたお墓を一つ二つ見たことがありましたが、この度の東三河
大野では、旧大野銀行の建物の近くに家があるのを確認し、また、大野の
「淵龍寺」というお寺では、物部家の墓を数基見つけました。家紋は「丸に
蔓(つる)三つ柏」でございました。たぶん、昔は神職系であったのだろう
と推察しております。この物部家は、古代の「物部氏」の末裔と推察いたし
ますが、尾張、三河、遠江には、物部氏との関係が濃い時代がありました。
詳しくは、今後、別途に考察してみたいと思っております。
 「白鳥伝説」という本を読んで、白鳥伝説はヤマトタケルから発生した
ものでなく、本来的には「物部氏のトーテム」であったということを知り、
白鳥という地名や神社名について、「タケルか物部か」を見極める作業が
必要なのではないかと思いました。私の遠江旧長上郡羽鳥の隣にも、白鳥
(しらとり)という地名の村落がございますし、東三河にも白鳥神社があり
ます。これはほんの一部で、探せばいくらでも拾えると思っています……。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月06日 15時54分00秒 ) パスワード

三つ柏さん

知り合いが「物部」という所に住んでいます。

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%89%A9%E9%83%A8


【名字】物部
【読み】ものべ,もののべ,もちべ,ぶつべ
【全国順位】 5,477位
【全国人数】 およそ1,900人


饒速日命を祖として上古栄え、
領地も多くあったが、
物部一族が蘇我一族との抗争で敗れ、
無惨にも全国へ四散することになる。


物部とは職業姓のことで古来より軍事刑罰や兵器の管理・製造を氏族が中心に行っていた。


一説には武士を意味する「もののふ」とも関連があるという。


地名としても存在する。


名字の多くは岡山県高梁市に集中してる。
また京都府にも多く
福岡県にも多数、
島根にも少数みられる。


ということは結構今に続いているようですね。
ご本人達がどんな気持ちなのでしょうね。



>「白鳥伝説」という本を読んで、
>白鳥伝説はヤマトタケルから発生したものでなく、
>本来的には「物部氏のトーテム」であったということを知り、
>白鳥という地名や神社名について、「タケルか物部か」を見極める作業が必要なのではないかと思いました。

ヤマトタケルと物部氏の関係はどうなっているのでしょうね。

            ゴチャゴチャ書いてましたがやっぱりこんがらがりました。。。
[44]三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月07日 09時20分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大野行きの目的の一つが、「大野城跡」でありました。現地にて、地元
の人に訊ねてみると――
 「ああ、城山(じょぅやま)のことだね。登っても何にもないよ」
ということでした。
 しかしながら、せっかく来たからには、行ってみなければ気がおさまら
ない。
 山そまで行くと、説明看板が出ていました――
 「古き山城跡の残る城山
  南北朝時代の頃、南朝方の忠臣であった足助次郎重範の一族といわれ
 る鈴木喜三郎が、城山に山城を築き、その麓に居館を構え、この大野付近
 を支配していたのは、約600年程前のことであった。
  非常の時に立て籠もって戦う山城であった城山には、陣を構える平坦
 地が山頂にあり、その周りには空堀や井戸の跡が残り、町内で最も古い
 山城の姿を残している。」

 足助の鈴木氏が、ここ大野にいたということについては、新鮮な驚きを
感じておりました。また、喜三郎という名が、私の祖父と同じ名前であり、
曾祖父が羽鳥の鈴木家より服部家へ養子に入ったということで、鈴木の血
も引いており、妙に親近感を感じた次第であります。

 城山への道は、山を駆け上がるように続いておりましたが、行く人もな
いとみえて、草ぼうぼう…マムシのシーズンでもありますので、残念なが
ら断念しました――
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月07日 11時46分24秒 ) パスワード

三つ柏さん


>足助の鈴木氏が、ここ大野にいたということについては、新鮮な驚きを感じておりました。
>また、喜三郎という名が、私の祖父と同じ名前であり、
>曾祖父が羽鳥の鈴木家より服部家へ養子に入ったということで、
>鈴木の血も引いており、妙に親近感を感じた次第であります。

まるで引き寄せられたみたいですね。


>喜三郎という名

ひょっとすると  鈴木一族の中には喜三郎という名を代々称する家があるのかもですね。

鈴木三郎というのは現代においてものすごくいるようですよ。
戦前までは喜三郎という名が多かったかも。


足助の服部氏とか猿投の服部氏とかと鈴木氏は南朝以来の仲だったかもですね。


今の時期はまだ冬眠には早いでしょうね。
やっぱり木枯らし吹く頃まで待った方が良いでしょうね。
[46]三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月07日 12時57分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 鈴木喜三郎の喜三郎は屋号のようなもので、足助鈴木氏の同族に喜三郎
という名で二代出ておりますが、大野の喜三郎とは年代が合いません。
 言い伝えというものが、色々な要素がミックスされたものである可能性
が高いようです。しかしながら、足助の鈴木氏の一族には違いないと思わ
れます。
 いずれにしても、大野は遠江の井伊谷とは、山を挟んで表と裏の関係で
ありますので、南朝の戦略上の中継基地であったことは間違いありません。
 やはり、足助から井伊谷までが、いくつかのルートにより、太くつなが
っていたことを改めて感じます――
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月07日 13時33分13秒 ) パスワード

三つ柏さん


鈴木喜三郎という名を検索してみました:

「鈴木」の名字の由来
http://folklore2017.com/303.htm


鈴木氏の本姓は「穂積氏」で、
古代に勢力をもった物部氏の支流の石上氏の同族。

発祥の地は大和国山辺郡穂積郷(奈良県天理市)と言われる。

穂積氏は熊野速玉神社の神職として、穂積国興(くにおき)の子の基行(もとゆき)が鈴木氏を称した。

 稲穂を積み上げた紀州方言「すすき」が語源で、物部氏の末裔で紀州熊野に発祥とする。

 
穂積氏、藤原南家、桓武平氏、千葉氏流などにみられる。


代表家紋: 
稲紋(さすがに稲穂由来の名字だ)。
「抱き稲紋」
「違い弊紋」
「丸に二つ鈴紋」
「八つ水車紋」。


・ 鈴木大亮(元秋田・石川県知事、元男爵、宮城県出身、涌谷の伊達家の家臣): 「丸に日の丸扇紋」
・ 鈴木貫太郎元首相(千葉県出身): 「上がり藤に一文字紋」
・ 鈴木喜三郎元内務大臣(神奈川県の出身): 「丸に片喰紋」
・ 鈴木梅太郎(静岡県出身、生化学者、ビタミンB1の抽出): 「丸に違い鷹の羽紋」



熊野の神話によると、
第五代の孝昭天皇の時に、熊野権現が竜に乗って千穂(ちほ)の峰に降臨した。

その時に迎えに出た三兄弟のうちの、
長男の真俊は12本の榎を勧進したので榎本姓を、
次男は餅を供えたので丸小姓を、
三男の基行は稲を献上したので穂積姓を賜った。

     穂積とは稲穂のことで、熊野地方ではススキと呼んだことから鈴木姓を名乗った。


熊野の神職のうち、神聖な「すすき」にちなんで「鈴木」という名字を名乗った家があり、
その鈴木氏の一部が、後に紀伊国藤白(和歌山県海南市)に移り、王子社(熊野の御子神が祀られている場所に建てられた神社)の神官となった。

なんでも、王子社の一つの藤白神社(和歌山県海南市)では、鈴木姓のルーツとして有名で、「鈴木サミット」が行われているそうだ。

鈴木姓は熊野信仰の山伏により全国に拡がり、
信者に「鈴木」という名字を与えた事により、                  あら、そうだったの?へぇ〜
特に熊野信仰があつかった東日本に増えていった。

特に三河国の鈴木氏が有名で、
後に徳川家の家臣(旗本)のうち一番多い姓が鈴木と言われ、
徳川家康の江戸移封によって東京を中心とした関東地方に拡がった。

                                           なるほど。。。

鈴木姓は愛知県周辺に多いが、
徳川家康の関東移封で、徳川家と共に多くの家臣が一緒に関東に移り住んだ。
家臣には多くの鈴木家があった。


歴史的に有名なのは、戦国時代の鉄砲集団で有名な「雑賀衆(さいかしゅう)」の頭領の雑賀孫市の本名は「鈴木孫市重秀」。

特に熊野信仰の厚かった東日本に鈴木の名字が多い。
山形県南陽市宮内にも有名な熊野大社があり、日本三熊野の一つと言われています。


鈴木の名字が資料的に登場するのは、平治の乱(1159年)に活躍する鈴木重倫(しげのり)・重善(しげよし)兄弟。
                      鈴木「三郎」の語源(笑)じゃなかった本家本元が出ましたね。ワタクシの母方一族です。


鈴木 重倫(すずき しげのり/-しげつね[1])
平安時代末期の武将・豪族。穂積姓、藤白鈴木氏の当主。
刑部左衛門尉・鈴木重邦の子で、母は湯浅左近大夫・藤原宗永の娘。
通称、鈴木庄司、鈴木三郎、重國?

兄弟:季重、重善、重定

                                    重倫は源義朝に近仕し、保元の乱、平治の乱では一族と京に上って源氏方として戦った。
平治の乱中に敗走し、まだ幼かった息子の鈴木重家らを弟の鈴木重善に託し戦死したと云われる。


妻:越智親清の娘 で 男子:鈴木重家
生母不詳の男子:亀井重清
          『続風土記』の「藤白浦旧家、地士鈴木三郎」によると
           亀井重清は佐々木秀義の六子で、
           後に源義経の命で鈴木重家と義兄弟の契りを交わしたと云う。




鈴木 重善(すずき しげよし)                            この人が三河鈴木氏の祖ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E9%87%8D%E5%96%84

平安時代末期の武将。
穂積姓、藤白鈴木氏の一族で、三河鈴木氏の初代当主。
改名前:重時
別名:善阿弥、平内太夫、七郎

刑部左衛門尉・鈴木重邦の三男。  三男なのに七郎?笑
兄に鈴木重倫がいた。
官位は刑部左衞門尉。

藤白鈴木氏の支流の出である鈴木重善は、兄の鈴木重倫が平治の乱で戦死するとその子である鈴木重家らを託された。

源義経への志が深く、源平合戦(治承・寿永の乱)では自らが病持ちのため甥の重家、重清を義経に従わせ、源氏の勝利に貢献した。

源義経が源頼朝と対立して奥州に逃れた際、義経に従っていた鈴木重家、亀井重清の後を追い、叔父の鈴木重善も文治5年(1189年)に奥州に向かった。

しかし三河国の矢作まで来たとき足を痛め、数日逗留している間に義経をはじめ重家・重清も討死にしたと聞き、
奥州行きをあきらめこの地に土着したという。

続く
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月07日 13時48分09秒 ) パスワード


わたくしの母方のご先祖さまの名前が出て来てビックリしました。
まさかココで出て来るとは。
                なるほど  和歌山の湯浅氏  にワタクシが拘る訳だ。

和歌山には
父方母方ともに古くから関係があって
母方では江戸時代にも紀州家がらみで関わるので
不思議な感覚です。

なるほど、それで鈴木「三郎」「三郎」「三郎」ってシツコク書いてたのか。
謎が1つ解けました。
まさか自分の先祖の身内だったとは。
本当に日本人ってみんな繋がってしまいますね。



【戦国大名家辞典 森岡浩 東京堂出版】より

愛知県の鈴木氏: 
三河国東部の国人。
源義経に仕えた鈴木重家の叔父とも兄弟とも言われる鈴木重善は、奥州に逃れた義経を追って奥州に向かう途中、三河で脚を折って逗留。
義経が討ち死にしたため、善阿弥と称して熊野権現を勧請して住み着いた。
室町時代には国人として繁栄し58家の鈴木家があったという。             スゴイね。
永禄年間に足助の鈴木家が徳川家康に下り家臣となった。
1590年の徳川家康の関東入国に際して30家以上の鈴木家が関東に移り住み広がった。
江戸時代には旗本。


和歌山県の鈴木氏: 
紀伊国海部郡の国人。
雑賀荘(和歌山県和歌山市)を本拠とする雑賀党の中核。
戦国時代の雑賀孫一が有名。
豊臣秀長、豊臣秀吉に仕え関ヶ原の戦いでは西軍に属して浪人。
その後徳川家康に招かれ水戸家に属し、後に3千石の家老。


群馬県の鈴木氏: 
上野国吾妻郡の国人。
真田家の重臣で名胡桃城主。
北条氏に敗れた。



【東北地方の苗字おもしろこぼれ話】鈴木常夫著 本の森 より

東北では福島・宮城・山形の南東北に多い。
特に福島県では県南に多く、関東地方の影響を強く受けているせいだろうか?


福島県の白河城主だった結城氏は熊野信仰に熱心で、領民に「熊野詣」を推奨したので、この地に鈴木が多いとも言われる。


宮城県の北上川流域や牡鹿郡以北の沿岸部に多い「鈴木」姓は、紀伊国名草郡藤白(和歌山県海南市)から来たと言われる。



【新編日本姓氏辞典】千葉琢穂編著 展望社 より
穂積氏族。
穂積朝臣は神僥連日(かんにぎはやひの)命の五世の裔の伊香色雄(いかしこおの)命の後裔といい、
また穂積臣は伊香賀色雄(いかがしこお)の男の大水口宿禰の後なりという。



【日本人の苗字 30万姓の調査から見えたこと 丹羽基二 光文社新書】

「稲を積む=ほづみ」の中心に一本の棒をたてる。これが「スズキ」。
「スズキ」は稲魂(いなたま)を呼ぶ「依り代(よりしろ)」で、
棒を伝わってくる稲魂は積んである稲に入来する。
すると籾は活性化して、次なる豊饒(ほうじょう)に向け働き始める。


もともと「スズキ」という大和言葉があり、それを漢字で表現した典型的なもの。


鈴木の地名
・ 茨城県稲敷郡阿見町鈴木: 明治12年に山形県の士族の鈴木安武が開墾したことに由来する。

・ 東京都小平市、神奈川県川崎市に「鈴木町」がある。

・ 川崎市の鈴木町は企業名に由来する。味の素の前身の鈴木商店。

・ 小平市の鈴木町は開墾した名主の鈴木利左衛門に由来する。



# 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の子孫の千翁命(ちおきなのみこと)が神武天皇に千束の稲を献上したので、穂積の姓を賜った。
そして、この時、梛(なぎ)の木に鈴を付けて、神武天皇の軍を案内したので、「すずき」は「鈴木」と書かれるようになった。


千翁命(ちおきなのみこと)の子孫が物部氏になった。
物部→穂積→鈴木。



東京には鈴木家が多く、中でも著名なのが室町時代に品川で海運業を営んでいた鈴木家で、紀伊国熊野の出身。

また、武蔵国多摩郡貫井村(東京都小金井市)の鈴木家は、戦国時代には北条氏の家臣で、江戸時代は名主。
武蔵野を開墾して、鈴木新田を作った。現在の小平市鈴木町にその名を残す。


以上コピペ
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月07日 14時10分25秒 ) パスワード


いやぁ〜
もうビックリ!

母達が「うちは源氏」と言ってたこと
なるほど
納得!

ワタシは「仮冒」とばかり思ってたけど
頼朝や義経の時代のずっと前の時代から「うちは源氏」と言っても良かったのか。
「偽称」とばかり思ってた・・・ごめんなさい、ご先祖さま。号泣

                        来てる!ご先祖さまパワーが来てる!降りて来てる!


鈴木重時が戦死して子の重好が直虎にお経をお願いに来た時すごく印象に残ったのです。
井伊家と親戚回りになるのは母方でも遠い遠い親戚だったとは。

          鈴木重時         
          遠三国境の山吉田を治める国衆。
          姉は直親の母であり、
          妻は奥山家出身なので、
          井伊家とは姻戚関係にある。

          徳川からの調略の際の井伊家に対する謀略には消極的であるが参画し、
          政次処刑後に政次の辞世の書を直虎に渡して後に参陣した今川方の大沢攻めで戦死する。

      
                                      まさか!まさか!の驚きです。


http://ameblo.jp/aichioshiromeguri/entry-11180694395.html
大野城(おおのじょう)

南北朝時代(1336〜92)に、足助の鈴木喜三郎がこの地にやって来て築城したお城。鈴木喜三郎は大野を中心に南朝の遺臣活動をしていたそうです。以後、大野の地は鈴木氏が治める事になります。

戦国時代に入ると、田峯菅沼氏の領地となりました。



大野城は比高50m程の小山にありました。民家の横から山に向かう道があるので早速登ってみます。遺構は曲輪、堀が残っており、頂上には城山八幡が祭られています。



地図
http://www.its-mo.com/map/top_z/125815020_495408722_17//#top
[50]三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月07日 16時52分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 たくさんお調べいただきありがとうございます。まさか湯浅氏が出て
くるとは思いませんでした。5年位前に湯浅へ行きました。目的は、
湯浅醤油を買うことで、何種類かの醤油を買ってきました。名古屋あた
りだと、湯浅醤油を売っているマーケットがありますので、最近では訪
れた時に買うこともあります。

 鈴木喜三郎の墓は、大野の豊川沿いにある「淵龍寺」にありました。
そこにはこんな看板が建っておりました――
 「南北朝時代に、大野付近の支配者であった鈴木喜三郎隆友は、城山
 の麓に禅林寺を建てたが、二代目喜三郎玄喜の頃、この付近に大蛇が
 出没して村人を困らせたので、玄喜は一族中の名僧建闇悦翁に頼み、
 経文の力で大蛇を黒淵の底深く封じ込み、禅林寺をこの地に移し、
 淵龍寺と改め、悦翁を開祖として迎えた。
  悦翁は、その後奥山方広寺二代住職に迎えられて活躍し、後に孝明
 天皇から大円覚禅師の勅賜号を受けている。   」

ということで、大蛇の話は何かの比喩・暗示でしょうが、奥山方広寺と
いえば、宗良親王の弟が開いた寺で、正に南朝方であり、いかに南朝方
と強い絆で結ばれていたかがわかります――  
[51]三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月08日 06時01分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『八名郡史』によれば、足助系鈴木氏は元は穂積姓であり、また南朝の
遺臣であると断定しています。穂積朝臣姓鈴木系図というのもその中に示
されておりますが、饒速日(ニギハヤヒ)を祖としています。ということは、
物部氏であるということ。淵龍寺にあった数個の物部家の墓も、鈴木家と
は同根ということになります。この穂積姓鈴木氏の系図の中で、特筆すべ
きは、饒速日から十代孫に弟橘媛(おとたちばなひめ)がいて、この人は、
「日本武尊の妃」となっております。また「若建の母」でもあります。
 鈴木氏は祖先(日本武尊)の活躍した東国(尾張・三河・遠江〜)に熊野か
らやって来たということになり、違和感のない流れであったと言うことも
できます。

 鈴木喜三郎の墓碑は、基礎部分も入れて約2メートルの高さであり、榊
も飾ってありました。
 私は、心を込めて、般若心経を2巻唱え捧げました。

 次回は、そこで見た家紋について記します。

 本日は、これから「関の刃物市」に行ってきます――
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月08日 15時30分29秒 ) パスワード

三つ柏さん


レス50を拝見し
いろいろ検索して遊んでいました。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%85%83%E9%81%B8
無文元選禅師
(むもんげんせん、元亨3年2月15日(1323年3月22日) - 明徳元年/元中7年閏3月22日(1390年5月7日))
南北朝時代の臨済宗の僧。
父は後醍醐天皇。
勅諡号は聖鑑国師・円明大師。

http://www.houkouji.or.jp/about.html
1371年、無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)は、
当地を治めていた豪族奥山六郎次郎朝藤(おくやまろくろうじろうともふじ)の招きにより、
奥山家の治めていた所領のうちから60町歩の土地と建物を寄進され、ここに方広寺を開かれました。

無文元選禅師を御開山と称し、奥山六郎次郎朝藤を開基と称します。


元選禅師は、この地が、かつて訪れたことがある中国の天台山方広寺の風景に似ていることから、この寺を方広寺と名付けられました。



奥山氏はもともとが井伊氏の出ですから
ホントに日本人って何重にも血で結ばれているのですねぇ。

日本人はみんな関係があるとは何となく分かってはいたのですが
このスレッド97で井伊氏一族の皆さんとワタクシも何重にも繋がっていたと知って
三つ柏さんとも本当に父方母方で何重にも繋がっているのでしょうね。

鍵は  南朝方  ですね。

日本人の精神構造が何でこうなのだ?と思っていたことが  みんな血で繋がっているからこうなのだ!  と納得いきました。


鈴木喜三郎さんへの般若心経をありがとうございました。


現代日本人はここ70年ほどですっかり自分の出自が分からなくなっているけど
DNAの中に先祖の記憶はちゃんと受け継いでいるって
このスレッドで再確認しました。



[53]三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月08日 20時31分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 淵龍寺で見た家紋――

 鈴木家:@末に抱き稲
     A丸に剣片喰
     B丸に三つ柏
     C丸に三階菱松
     D丸に木瓜

 物部家:@丸に蔓三つ柏
     A下り藤
 
 加藤家:@下り藤
     A三つ柏

 柘植家:織田瓜

 中根毛:丸に木瓜

 白井家:丸に木瓜

 森田家:丸に木瓜

 松島家:丸に三階松

 その他諸々……
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月09日 02時01分03秒 ) パスワード

三つ柏さん

家紋の世界は複雑怪奇ですね。
一体どういう経緯でその紋を使うようになったのですか?
と訊きたい。

    そこに本家とは違うアイデンティティを分家は表明しているのだろうな

とは思うのですが
本当に何があったのですか?
誇らしい事だったら良いのですが
と言いたいです。


う〜む・・・
と唸るばかりです。
[55]三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月10日 00時16分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は旧石巻村を中心に10ケ寺程回って来ました。それは大正12年
の調査で、八名郡(豊川の東岸地域)には「服部家」が石巻村にのみ5戸存在
しているというデータがあり、それを何とか確認したいと思ったからであ
ります。
 結果としては、一基の服部家の墓を石巻に隣接する下条東町の金西寺に
おいて発見いたしました。家紋は、「丸に八つ矢車」でありました――

 車ではなかなか行けない細い道しかない寺や、駐車場のないような寺も
ありますので、今後も時間をかけて調べて行きたいと思っています。

 
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月10日 02時19分07秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「丸に八つ矢車」紋の服部氏

きっと伊賀系でしょうね。

南朝方ということは間違いないでしょうけど
何時から?となると

平家時代?
南朝方時代?
服部正尚系?
服部政信系?
服部仲系?

一体何者だったのでしょうね。


>車ではなかなか行けない細い道しかない寺や、駐車場のないような寺もありますので、
>今後も時間をかけて調べて行きたいと思っています。

地道にコツコツ
ライフワークで、
ですね。


島田の服部家もありますしね。
まだまだなかなかハッキリしそうにないですね。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月10日 02時50分38秒 ) パスワード

昨日の「直虎」は面白かったです。
この先のドラマ、万千代はヒトを使える器かどうかが試されるわけですね。

榊原康政が万千代の一番の理解者だったようですね。
意外でした。


しのさんが登場して久しぶりに「女心」が描かれていて面白かったです。笑
しのさんにとって松下源太郎は心から感謝する人だったでしょうね。

しのさんにとって万千代は井伊家再興より松下家の後継者になって欲しかったでしょうね。
だって顔がいいだけの直親なんか腹の立つ存在でしかなかったのだから。

       直虎が不倶戴天の恋仇かと思ってたら
       高瀬なんて娘が出現して「え?直虎さまも裏切られていたの?!」でしたものね。


去年の大河の三谷幸喜も良かったけど
森下佳子もスゴイ!脚色に「色」つけまくり。笑


先月1か月、政次が死んでからカッタルかったのが菅田将暉の登場でメリハリがバッチリ効いてます。


直虎演じる柴咲コウさんの現代的な顔が戦国時代の日本人の垂れ髪には全然合ってなくて
万千代がおとわを「百姓女」と言った時に(やっぱりね〜)と思いました。
オーラ消えてる。



ハワイの、火山のある1番大きな島「ハワイ島」のラヴァチューブと呼ばれる溶岩で出来たトンネルのある場所に
穴が空いてて
ここは太陽の光が差し込む所で
自分のオーラの色が見えるそうです。

今更自分のオーラの色なんか知ったってどうってことないから別にいいけど
李正子さまとか河合奈保子さんとか
ラヴァチューブに行かなくてもオーラが輝いてるのがハッキリ分かる人もいるのに
ワタシはくすんでいるんだろーなー。


柴咲コウさんはこの先、万千代が小姓になったら、またオーラが出て来るのかな?
不思議です。
今はオーラを消してるものね。
[58]三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月10日 13時20分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、最後に三ヶ日の平山にある延命寺というお寺に行きました。
初生衣神社にも近いので、ひょっとしたら神服部家の墓があるかもと思
いながら……いろいろ探してはいるのですが、なかなか見つからないも
のであります。

 
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月11日 02時02分52秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101609.html
スレッド98をご用意致しました。

キリの良いところでどうぞ。
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月12日 01時39分21秒 ) パスワード

柴田晴廣さん


申し訳ありません。

でも、どれなんでしょうか?
こんな感じで今日は出てますが。


http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/



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@‚±‚̍‘‚Å’†‰›WŒ §‚ªŠm—§‚·‚é‚Ì‚ª”ª¢‹I‰“ª‚Æ‚¢‚í‚ê‚éB

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[63]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月12日 01時51分28秒 ) パスワード

柴田さん


レス62にコピペした「穂の国」というの
そちらには文字化けしてません?文字化けしてますか?


私には  現在http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/ は  文字化けしてて  どのレスに書いたものか分からないので  
どのスレッドのどのレスに書いたものか教えていただけないでしょうか?

今春替えたプロバイダーが不安定で見られたり見えなかったり
    あ、このプロバイダーはうちの組合加入世帯が変更になったので
    何年も前のスレッドでしょうか?


恐れ入りますが
該当のスレッドとレス番号を教えていただけないでしょうか?
そうしましたら削除します。

よろしくお願いいたします。
ぺこり
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月12日 09時09分17秒 ) パスワード

分かりました!
>「相撲雑話」
これなら記憶にあります。

ほんの昨日あたりにコピペしたものですね。

すぐに削除します。
ありがとうございました。


「穂の国」=東三河のこと
というのを数年前に読んだことがあったので
その事(数年前のコピペ  恥)のことかと思いました。
[66]柴田晴廣さんからのコメント(2017年10月12日 09時20分33秒 ) パスワード
URL=http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/

空の青海のあをさん
 お手数をおかけしました。
 ありがとうござします。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月12日 09時50分47秒 ) パスワード

柴田晴廣さん

レス<59>の削除で良かったのでしょうか?

たぶんレス<59>のことだと思います。
「相撲」のハナシ?ということで「弓」がどうのこうのと出てた記憶なので
レス<59>かなと。

鵺を退治した時にはうまく行ったけど
次のは失敗したから
頼政の領地の岡本に来た
そういうハナシをコピペした記憶です。

だからレス<59>かなと。


レス<63>に書いたように

     恐れ入りますが
     該当のスレッドとレス番号を教えていただけないでしょうか?
     そうしましたら削除します。

     よろしくお願いいたします。
     ぺこり

とお願いしましたが、

どのレスのことかイマイチ分からないので再度お尋ねいたします。
よろしくお取り計らいください。
ぺこり


PS:
今は「コピーガード」とかいうのがあるようですよ。
[68]柴田晴廣さんからのコメント(2017年10月12日 12時56分21秒 ) パスワード
URL=http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/

空の青海のあをさん
『牛窪考増補改訂版の概要』(電子書籍版)、宅ふぁいる便で贈りました。
 ご笑納いただければ幸甚です。
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月12日 14時02分46秒 ) パスワード

柴田晴廣さん


重ね重ねのご配慮をありがとうございます。
ぺこり


ですが残念ながらメルアドを載せていないのです。

直近のプロバイダーの変更とも関係するのですが
数年ごとに組合がプロバイダーを変更するので、その度に関係各所にメルアド変更の連絡をする事に疲れ果てたこと
いわゆるウイルス源になったこと
(最近の)ランサムウエアの前身にもやられ
更に、某人のことを数回書いたせいか、時々チェックが入るので

     これについては谷内正太郎さんに個人ルートで相談したいなと思っている内に
     彼のポストは首相もアタマの上がらない人だということを最近知らされ遠慮中
     
回りに迷惑が及ばないようにと、色々、思案中です。


お隣りの国の友人と仲良くやってたらウイルスの嵐で大変だった時期がありましたしね。
日本の友人達の板も荒らされまくったし。


ということでメルアドにつきましては申し訳ありませんでした。重ね重ね・・・冷や汗3斗


三つ柏さんが「早速購入に動く」と次のスレッドでお書きです。
意外な方向に波及しました。

本当にお騒がせ致しました。
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