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 投稿番号:101604 投稿日:2017年09月07日 09時00分12秒  パスワード
 お名前:三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族XCY(課題確認39)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101603_64.html
長上郡の服部氏族XCX(課題確認38)
スレッド95の続きです。


      自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
      最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


宇佐神宮にいらっしゃった三つ柏さんが着目した古代日本の謎とは?
の続きです。


<レス61と63>より

宇佐神宮の謎解きのために、
蔵書より抽出した10冊程の本の中に、
韓国の学者さんの本が3冊入っておりました。

それらは――
@『日本語の正体 倭(ヤマト)の大王は百済語で話す』金容雲著
A『「日本=百済」説 原型史観でみる日本事始め』 金容雲著
B『日本語の正体』                     金容雲著

C『消された多氏古事記 まつろわぬ者の秘史』   朴 炳植(ピョングシク)著
D『日本語の悲劇』                  朴 炳植(ピョングシク)著

であります。

これらを読むと、宇佐神宮の背景の歴史はかなり明らかになりそうです。



金教授によれば、古代(百済や新羅の時代)、百済も新羅も方言程度の差しかなかった。
日本も半島からの渡来人が多く、百済や新羅と方言ミックス程度の違いで話ができたということであります。

このほぼルーツが同じ言語が、「白村江の戦い」を境に、
韓国は「新羅語」に収斂し、
日本は「百済語」に収斂して行ったということであります。

さらに韓国語は「ハングル」により表記上の変化を遂げ、
日本語は「50音」化により発声の単純化を成し遂げたということであります。

 

日本語のルーツはほぼ百済語であったということ、
言い変えれば言葉のルーツは国のルーツでもあり、
極論で言うと日本は百済であったということになります。



諸説紛々の中で、とりあえず金容雲教授の書かれた内容をスタンダードとしたいと思います。


以下、その具体的内容に入ります。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月07日 09時15分27秒 ) パスワード

>韓国の学者さんの本が***3冊***入っておりました。

5冊
でしたね。
失礼をば致しました。


日本語は本当に音がタンジュンで
    ハワイ語ほどは単純ではないけれど日本語も単純。

音を入力するにも単純化されてて
どこまで単純化していくのだろう
と心配になります。

    日本人はますます外国語を話せないし聴き取れなくなっていくのだろう
    と思います。
[2]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月07日 19時55分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッド、ありがとうございます。

 韓国の学者さんが書いた本についてですが、Bは@と重複のため、削除。
従って、次の通りの@からCになります。

@『日本語の正体 倭(ヤマト)の大王は百済語で話す』金容雲著
A『「日本=百済」説 原型史観でみる日本事始め』 金容雲著
B『消された多氏古事記 まつろわぬ者の秘史』  朴炳植(ピョングシク)著
C『日本語の悲劇』               朴炳植(ピョングシク)著

 さて、これらの本を通読し、おおよその歴史背景――といっても卑弥呼
から藤原不比等までというと2世紀から8世紀までの約700年、という
長い歴史であります。一言でまとめることは難しい……。
 何をどうまとめるかということですが、建国時のテーマ項目は、またと
てつもなくスケールが大きなものばかりですので、ここは思案のしどころ。
もう少し頭の中の渦がおさまり、論理が見えるようになるまで待ちたいと
思います。

 代わりに、隼人にまつわる「渦紋」について、広く情報を拾って書いて
みたいと思います――

 15年程前、銀座にて一杯飲んだことがございます。店の名前は「早蕨(
さわらび)」でした。この言葉を聞いて、すぐに万葉集の歌を思い浮かべま
した――
 「石(いわ)ばしる たるみの上のさわらびの 
     萌えいずる春に なりにけるかも」 
 鮮烈な春到来のイメージの歌であります。
 浜松にも「早蕨」という名前のレストランがあり、創作料理を食べたこと
がございました。

 「蕨」といえば、「蕨手刀(わらびてとう)」を思い浮かべます。取っ手の
端がくるりと渦巻状になった「蝦夷(えみし)」がよく使ったという刀であり
ます。

 正確に言えば、くるりと渦巻き状になったものは、実は「ゼンマイ」であ
り、「蕨」の場合は枝先が3つに分かれてらせん状の渦を巻きます。いずれ
にしても羊歯(しだ)には違いありませんので、渦巻き模様をワラビ紋とひと
くくりにして言っていると思います(間違っていたらごめんなさい)。

ゼンマイ様の渦巻き――実はある気功師と合った時、右巻きと左巻きの渦
の模様を紙に描き、これがパワーの集まるもの、これがパワーの出て行くも
のと、区別を教わったことがあります。家の本棚のどこかにそれらのメモが
残ったいると思います
 つまり、「渦巻き模様」(どちらか向きの)にはパワーが集まるということ
であります。実際、気功師はその渦巻き模様を利用して、重いものを持ち上
げてみせました!
 これが「この模様の実質・本質」なのと思います!


 この蕨紋、探求すればするほど深いものに行きあたります。続きは次回
に――
 
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月08日 14時37分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私の「蕨紋(渦巻き紋)」への直感は、オーストラリアの小形カンガルーの
「ワラビー」にも向いております。何で"ワラビ"なのか……それはアボリジ
ニの言葉に由来しているということですが、では、アボリジニ語ではそれは
どういった意味なのでしょう?
 ワラビーの動画を見てみましたが、歩く時や走る時、長い尻尾が持ち上が
り、先端部がゼンマイのようにクルッと輪(半円)を描きます。まさにこれは
「蕨」である!と感じました。

 ひょっとして、「ワラビ」は環太平洋文明、即ち「ムー帝国」に由来して
いるのでは……?

 そんなことで、さらに色々蔵書を調べてみました。
 蕨模様(渦巻き模様)は、想像以上に拾うことができました――
 @エジプト王の王冠の前頭部に、斜め前方に向かって伸びている「蕨様」
  のものが一本ありました。
 Aナスカ地上絵のお猿さんの尻尾が「蕨模様(渦巻き模様)」でありました。
  高橋良典氏によると、これは文字(トヨクニ文字)で「ワ」であるという。
 B沖縄で見つかったいわゆる"ロゼッタストーン"には、正に「右巻きの蕨
  模様(渦巻き模様)」と「左巻きの蕨模様」がありました。

 更に、国内関係に目を向けてみますと、九州に行き着きました――
 つまりそれは、九州の福岡県中南部と熊本県に集中している「装飾古墳」
の内部に、蕨模様(渦巻き模様)や円模様がありました。いくつかの例でいい
ますと――
 @福岡県吉井町にある「日の岡古墳」
 A福岡県浮羽町にある「塚花塚古墳」
 B福岡県桂川町にある「王塚古墳」
 C熊本市小島下町にある「千金甲一号古墳」
等々であります。

 蕨模様は正式には「蕨手模様」と表現されるのでしょうか……?
 いずれにしても、九州の古墳群について、一度調べてみる必要があると
思っています――

 
 
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月08日 15時07分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そして、極め付きは、インターネットサイト「ひもろぎ逍遥」でありま
した。(http://lunabura.exblog.jp )
ここには、驚くべき内容が書かれておりました!――

 「蕨手文様は伽耶出身王族のシンボル? 伽耶と倭の装飾古墳をつなぐ
 もの」

 韓国の釜山を中心として伽耶連合国があったということです。釜山へ行
った時、「伽耶山海印寺(ヘインサ)」というお寺に行きました。その当時は、
歴史には余り興味をもっていなかったのですが、参拝者のお経の中に「ジー
ゾーボーサー、ジーゾーボーサー……」という文言が聞こえ、これは「地蔵
菩薩」のことかと直感いたしました。信仰については、韓国も日本と近いな
と思った次第であります。
 もう一度韓国へ行き、伽耶の痕跡を調べてみたいと強く感じております。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月09日 15時00分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


       http://lunabura.exblog.jp

       次の宇治皇子は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)のことだ。
       応神天皇の子。
       変な経緯で異母弟の仁徳天皇の方が即位した。


ここに反応しました。

オットの医者の先祖の一族ですね。

実は今日受診の日でした。



韓国語のことは全く分からないです。


確かにテレビで韓国語チャンネルをかけてて遠くで聞いていると  まったく日本語のように  聞こえます。

でも同じように聞こえるのは  ピッチ =周波数=音程 と テンポ=速さ  が韓国語と日本語はかなり近いからかな?
全く分かりません。


それに古代日本語を実際に聞いたことも無いようなワタクシが
日本語は百済語に似てるとか新羅語に似てるとか言われても
    古代百済語とか古代新羅語を聞いたこと有るの?
って思ってしまうし。


    一応高校の時に古代日本語の音については習いましたよ
    それから世界史がらみで戦国時代の日本語のローマ字表記も勉強しました

だけど  音って   笑
例えば  ベートーベンなりシューベルトなりが五線紙に音符で記した音楽を
彼等の意図した通りに再現できる演奏家がこの世に存在したのだろうか
とか思うのです。


確かに謎解きは面白いです。
「かごめかごめ」の歌の意味だとか「 XX 」の歌の意味とか
いろいろ謎解きをする人がいて面白いとは思います。

だけど  その時代に生きてたわけじゃないし  その時代の発音を知ってるわけじゃないし
言葉は生きているから言葉は変わるし
なんせ今時の若者の日本語なんてワケ分からないし


川端康成が自分の作品のことを論評されて(そんなつもりで書いたわけじゃない)なんて言ってるのをどこかで読んで
そこに彼が自殺した理由が1つぐらいあったのかなと思いました。

    ノーベル賞作家に値する作品を書かなきゃいけないというプレッシャーに
    書けない!書けない!
    と苦しんで、死を選んだのかな、と。


ということで全く知らない言語については全く理解出来ないです。
ハングルで表記する韓国語は<<<合理的だ>>>というような比較言語学は齧りましたが
そのレベルです。何が≪≪≪合理的だ≫≫≫と説明してあったのか知らない言語なので記憶に無いです。


全く知らないことを、ちょこっと齧って「さも」という展開のハナシは書けないです。
世の中にはそういう人、いますよね。ワタシはそういうタイプじゃないです。

でもハナシとしては面白いですよね。
市河三喜先生の弟子の1人に「そういうハナシ」の好きな学者がいて
この学者が自分のことでイギリス人を煙に巻くんですが(笑)

つまり身分社会のイギリス人に自分の名前を言わせる時に「Sir Brow」って発音させるんです。
イギリス人の態度が手のひらを返したように変わるから。笑

逆に皇太子がイギリスで「自分はDENKAでコッチはDENKI」と言ってイギリス人に「DENKI」と呼ばれていたそうですけど。

こういうレベルのハナシは、ま、軽いやりとり、ということで笑って終わりますが
全く知らない件については土台も背景も無いので(へぇ〜)です。


ということで  すみません。


ま、半島の人が天皇家の姓は「高」というのは何十年も前に聞きました。
宮内庁が古墳の研究をさせないことも知ってるし。バレたくないからだろうなとコッチは邪推してしまいます。
だから天皇家には名字は無い、ということになってるのかな、とか。


      邪推のハナシを書いてもしょうがないし
      知らないことを針の先で突いたような小さな情報を基にアレコレ展開したくないし。


ということで  ごめんなさい   です。
[6]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月09日 16時05分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ひもろぎ逍遥の「蕨手文様は伽耶出身王族のシンボル?」のURAは――
   http://lunabura.exblog.jp/15020756/
でした。目次から行けると思ったのですが、なかったですね。

 いくつかわかったことがあります。
 用事のため、後で記します――
[7]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月09日 18時33分02秒 ) パスワード

269海のあを様

 わかったことというのは、「蕨手文様(渦巻き文様)」についてですが――

 @古代において、「蕨」というのは「ゼンマイ」であったということ。
 ( http://www2.odn.ne.jp/had26900/topics_&_items2/on_warabi.htm )

A「中心から左渦巻き文様」は「ア」、即ち「天」、「中心から右巻き
 文様」は「ワ」、即ち「地」、を表わす字であり、また言霊であると書
 かれておりました。(『秀真伝(ホツマツタエ)』の中に)

 B東北には蝦夷(エミシ)が使ったという「蕨手刀」がありましたが、そ
 れらを造った刀工集団は、頼朝が東北に義経・奥州藤原氏を討ちに行き、
 それを終えた後、優れた刀工達を連れて帰り、またあっちこっちへ連れ
 て行ったようであります。
  九州の菊池川の下流の辺りで、蝦夷のの刀工集団「川上部」の文字が
 刻まれた土器が見つかったり、その他いろいろな痕跡が残っているそう
 です。
  ( http://plaza.rakuten.co.jp/dazai/daiary/200710180000/ )

いずれにいたしましても、「蕨手文様」は「伽耶出身王族のシンボル」で
あったということがわかりました。「何で?」というところは依然謎に包ま
れてはおりますが、今後も沖縄のいわゆる"ロゼッタストーン"やムー帝国も
含めて探求して行きたいと思っております――
 
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月09日 18時42分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正@: 269海のあを様→空の青海のあを様 (失礼しました)

 訂正A:  http://plaza.rakuten.co.jp/dazai/daiary/200710180000/
       ↓
      https://plaza.rakuten.co.jp/dazai/daiary/200710180000/
[9]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月09日 18時48分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 正しいURLに訂正してアクセスしてみましたが、出ませんでした。
 タイトルでは、「明日から、熊本の多良木へ行って来ます。」でした。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月10日 15時50分28秒 ) パスワード

三つ柏さん

>蕨手刀



この画像から連想したのは中国のお金  刀貨  です。
似てるでしょ?


ここを参照:
http://park1.aeonnet.ne.jp/~iida/kazuo/coin/pre_chin.html

斉明刀 戦国中期 斉

戦国時代の斉で使用された形式の刀貨です。
「明」と文字が表に記されているため斉明刀と呼ばれる刀貨です。

斉明刀は燕の明刀の模倣から始まり、また、燕との貿易通貨としての性格を持つために「明」と言う文字があるとか、
燕が斉の一部を占領したとき(紀元前284〜279年)にその地域での発行だとかいろいろな説があるようです。

これを買って、文献1、6の関係箇所を見ました。

燕の明刀が発行される前の時期の尖首刀が発行されていた時期から「明」の文字が入っていることが分かりました。

従って、「明」の文字が入ったのは斉明刀の方が明刀よりも早い時期と言うことになり、従来の認識を変えなければならないようです。




もう何十年も前に見たのですが
     その時に  日本の500円札を  100円ちょっとで買いました。
     笑


なので  「手刀」  も中国から入って来たのかな?と。


「蕨」については  ワタクシの感触では  インド の螺髪じゃないかな?と。
螺髪は「知恵」を意味している。ホトケさまの螺髪。

だいたい螺髪は右巻きだけど鎌倉の大仏は左巻きだとか。


ギリシャの影響が強かった西アジアのガンダーラでは、髪の毛は波状だったのだが、マトゥラーでは渦巻状になるようになった。


     つまり南系の西洋人は多くがウェーブがかかっているけど
     インド人は縮れている
     日本人とかの東アジア人は直毛。
     こういう差にも直毛の日本人には渦を巻いているというのに文化的な意味を持っていたかも。


最近ですが
1、どこやらの国には  カヤ  という地名があった  と読みました。
そして
2、人類学上の発掘サイトで  世界の珍しい古代人の骨の発掘現場で渦巻き模様の道具の画像を見ました。


蕨とか巻貝の話題が出るとは思っていなかったのでどこで見たのかしっかり記憶していないです。


アフリカの黒人の髪の毛
この渦巻き状
これは人類のご先祖さまということで
何か人類には  記憶がDNAに刷り込まれているのか?



渦巻きの右巻きはXXで左巻きは○○だ
などは後付けなのか?だれかがそう統一したのか?

鎌倉の大仏の螺髪が左巻きの理由は分かっていないそうです。


分っていないことを長々と書いてしまいました。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月10日 17時59分53秒 ) パスワード

友人より


ナガスネヒコと言う人物がいます。
初代天皇の神武は,当時,大和を支配していたニギハヤヒと言う王に取り入ります。

それで,ニギハヤヒの姫のイスズヨリヒメを皇后にして,ニギハヤヒ王朝を乗っ取ります。

                           明快!


これに対抗したのが,ナガスネヒコと言う人物です。
ナガスネヒコは,ニギハヤヒの叔父だったと言う説もありますけど,どうも,ニギハヤヒの親類が,ナガスネヒコのようです。


それで,ナガスネヒコは,ニギハヤヒ家を守るために,孤立無援で神武と戦います。
ナガスネヒコは,今の東大阪市日下あたりに本拠地があったようです。
当時の大阪は,今の大阪城周辺が半島として陸地であった以外は,河内湖と言う大きな湖がありました。
また,奈良盆地も,奈良湖と言う湖だったと言う説もあります。


それで,奈良に都を置けないので,明日香を都にしたと言う説があります。


河内湖は,この東大阪市日下まであったようです。


そこで,ナガスネヒコは,神武軍に痛打を与えます。
そこで,神武は紀伊半島を回り,熊野から十津川村周辺を通り,橿原で即位したことに日本書紀,古事記ではなっています。


ナガスネヒコですけど,この人物,石田三成の様な立場の人物だったと思います。
日本書紀と古事記では,神武に殺されたことになっていますが,
秋田を支配していた秋田氏の家伝書に,
東日本三郡誌(つがるさんぐんし)と言う文書があります
まあ,偽書とされていますけど

      日本書紀と古事記には記載がありませんが,

ナガスネヒコには,アッピヒコと言う兄がいて,この兄弟で神武東遷に抵抗しました。


そして,神武に負けた後,ナガスネヒコは太平洋側を,兄のアッピヒコは日本海側を北上して本拠地を探します。


そして,この兄弟が偶然に出会ったのが,会津です。
兄弟が出会った港で,会津です。

                       なるほどね!


その後,この兄弟は2人で北上します。
それで,落ち着いた先が十三湊とされています。


会津は縄文遺跡も良くあるところで,相当古くから人が住んでいたようです。
しかも,猪苗代湖の水運でも栄えていて,縄文時代の港だった遺跡もあるようです。



ナガスネヒコですけど,
奈良時代,大和に大抵抗したアテルイや安倍貞任も,
東日本三郡誌では,ナガスネヒコの子孫とされていて,
豪族では,安東氏や秋田氏,田村氏等もナガスネヒコの子孫とされています。


平泉の藤原氏も,清経がナガスネヒコの子孫を僭称した時期もあったようですけど,
藤原氏は,どうも大和から流れて来た豪族の様で,
東北地方を治めるために,ナガスネヒコの子孫を僭称したようです。
[12]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月11日 07時02分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 アッビヒコは、安日彦と書くのでしょうか。

 「ウエツフミとウガヤフキアエズ王朝の研究…大分に実在した古代国家」
  http://ugaya.jimdo.com/2013/07/19
このサイトは、文責者の名前も語っており、真摯なサイトであります。
 記紀とは別に、トヨクニ文字で書かれた上記(ウエツフミ)の記述に基づい
たリアルな歴史を語っておられます。上記の偽書というレッテルは、相手側
に都合の悪いこと(真実)が書かれていることの裏返しかも知れません。一読
の値打ちがあります。ナガスネヒコについてもリアルな情報が書かれていま
す。

 さて、以前、芭蕉を探求していた時、「古池や かわず飛び込む 水の音」
の中の「かわず」とは何ぞやということで、いろいろ調べました。その時に、
白石太一郎氏の『古墳の語る古代史』という本の中に、ヒキガエルのことが
書かれておりました。その例として、「福岡県吉井町珍敷塚古墳後室奥壁」
の壁画が表示されており、その中にヒキガエルが描かれており、ヒキガエル
は中国ではウサギと同じように月を象徴するということを知りました。
 今回、またその壁画の部分を改めて見たところ、ここに「蕨手文」が描か
れているのに気がつきました。以前見た時はヤシの葉かなと思っていたこと
を思い出しました―ワラビにしては大きな表現でありますので。
 この、「福岡県吉井町珍敷塚古墳後室奥壁」のこの蕨手文の描かれた壁画、
始めてみた時もエジプトの「ラーの舟」を思い浮かべましたが、確かにその
ようであります。
 ウェブサイトの中で、「たっちゃんの古代史とか」というサイトがござい
ました。ここには、まさにそれらについて驚くべきことが解説されていまし
たので、一度ご覧下さい――
 http://tacchan.hatenablog.com/archive
の2017-03-23のブログ「福岡県の珍敷塚古墳はエジプトからの民族移動を示
す大陸地図だった件」です! 珍敷塚は「めずらしづか」と読みます――
[13]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月11日 11時54分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 羊歯(ゼンマイ、蕨)については、他にも色々わかってきました。

  @3万年前の石器時代の人々は、ガマやシダの植物を粉(澱粉)にして、
   焼いて食べていたという。
  A5000年前のアイスマンのお腹の中からは蕨(ゼンマイか)の胞子が
   出てきたという。即ち、何らかの形で蕨が食物と関係していた。
  Bニュージーランドには、木性シダと呼ばれる木のように大きく育つ
   シダがあるという。背丈は2〜3mにもなるという。
  Cシダには薬効があり、薬として使われてきたという。

 シダに対する超古代の人々考え方が、まだはっきりとはわかりかねますが、
いずれにしてもただの雑草ではなさそうです。
 「石(いわ)ばしる 垂水の上の 早蕨の〜」の歌には、ひょっとすると古代
王族への想いも含まれているのかも知れません。

 これで、蕨については一旦終わりにしたいと思います――

 
[14]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月11日 12時28分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 余談ですが――
 一つ思い出しました。武田の金山について探究したことがありましたが、
金山衆が金を見つける方法の一つとして、植物の植生があり、シダの繁る
ところには金属の鉱脈がある確率が高いということでありました。
 蕨手文はひょっとしたら「黄金」にからんだ何かを象徴しているのかも
知れません――
[15]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月11日 13時41分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今回、九州の「宇佐八幡宮」を訪れてみて、こんなに日本の建国にかかわ
る歴史が詰まっている所は他にないと思いました。
 色々な本を読み直しましたが、テーマが大きすぎて諸説百花繚乱であり、
何が正解なのか詰めることができません。韓国系の学者さんの本も何冊か通
読いたしましたが、私のレベルで真実らしきものをまとめるということは、
やはりおこがましく、また恥知らずでもありますので、大上段に振りかぶる
ことは止めようと思います。
 小さな謎から追及して行くという方法で行きたいと思います。

 九州については、次回は「宗像大社」を訪れたいと思っています。「宇佐
八幡宮」の謎を補完するこれまた多くの謎が秘められていると思います。
 但し、11月には「厳島神社」に行く予定ですので、宗像大社へは来年に
なるかと思っています――

 ところで、「おんな城主直虎」、今回は第二のクライマックスと言っても
いいほどでありました。直虎が、男(繭)から女(蝶)になるという思い切った
変身の筋書きには、思わず度胆を抜かされました!
 そして直政の子役の演技力! 松下の存在感!
 いよいよ井伊家再興の最期のクライマックスに向けて、ドラマは突っ走っ
て行きそうです!
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月11日 14時07分56秒 ) パスワード

三つ柏さん

読んで来ました。


記憶に残った思わぬ事案は
      ナガスネヒコは物部氏とは無関係である
という説。


神代のお話は面白いのですが
この歳にもなると記憶に残らないのが残念です。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月11日 14時40分12秒 ) パスワード

三つ柏さん


>小さな謎から追及して行くという方法で行きたいと思います。

はい
それが良いと思います。
謙虚に謙虚に。



>宇佐神宮。

本当にこの神社は特別だと思います。
日本の建国時を知っていたのでしょうね。


残念ながら  読めば読むほど  最終的に  何が何やら  ヤッパリ分からない  ということになって行きます。

分かったような気にはなるけれど  自分の言葉で言い換えようとすると  あれ?何だっけ?誰だっけ?それで?  となってしまいます。

日本の神話は  余りにも情報量が膨大過ぎて  人間関係がややこしくて その前に登場人物のお名前が長過ぎ! アチコチ移動するしコッチは土地勘無いし  笑。



でも楽しいですよね。
大叙事詩の世界。

日本民族にもこういう世界観があったのかと誇らしいです。
古代日本人も「人間とは何だ?」と考えていたのだなと。
ギリシャ神話や旧約聖書にも劣らないと思っています。


ギリシャ神話や旧約聖書と日本の神代のお話の違いは
日本は  多角的に視てる  ということかも。
1つの事件を、それぞれ当事者目線で記録を残したのかな、と。

日本の神話はすごいミステリーなのかもですね。
元祖「藪の中」みたいな。


ナガスネヒコは神武東征途中、日本各地で征服された土蜘蛛達を象徴する人物なのかな?とか。


神社とは神代の時代の秘密を入れたカプセルなのかな?とか。

[18]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月11日 15時19分22秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「おんな城主直虎」

政次が死んだ後の2週分の回はワケ分からない展開だったりして
今回は久し振りに分かり易かったですね。
脚本家のドヤ顔が見えるようでした。笑


うまく井伊家の解散を描いてましたね。


だけど  「おとわ」が龍雲丸と夫婦になるとは100%予想していませんでした。

    おとわ(の)(を)愛した3人のそれぞれのオトコと愛の形の違いもクッキリ描いてましたね。

        直親:単純に好き:幼な心
        政次:屈折した高度の愛:友情からの憎しみが愛へと2転3転
        龍雲丸:男女間の恋愛:献身


南渓和尚は虎松をどうやって納得させたのでしょうね。
養子になってもいいしお寺の小僧になってもいいし百姓でもいいし商人になってもいい。ただし「井伊虎松」であることだけは許されないのだ、とでも?


今日やっと「直久」とう男の子の正体が分かったような気がしました。
中野直之(ゆきの字)の息子でしょうね。


傑山さん(市原隼人)はやっぱり井伊家関係者だと思います。たぶん南渓和尚の子かなと。
今日はすごくそう思いました。


「家」ということもすごく考えさせられました。


高瀬を「弥吉の孫ということにする」と言ってましたが
家人の弥吉、という人はまだ分かっていません。笑


松下家に行った者と北条に行った者と近藤に仕えた者に大きく分かれたようですね。
こうして井伊家の関係者を分散しておけば将来の困った時の受け皿になりますものね。
なるほどなぁ、こうやって生き延びて来たのだなぁ、と考えさせられました。


        
とにかく今日の回は見てて本当に分かり易かったです。
前の2回がひど過ぎた。


あ、今川氏真が幕府の高家になっていくその理由が今日ハッキリ分かった気がしました。
妻の実家の北条家を追い出されたのですねぇ。
で、駆け込んだ、転がり込んだ先が家康のもと?ビックリしました。


そしてもっとビックリしたのが栗原小巻。
わたくしは栗原小巻という女優の名は知ってましたが、どういう顔をした人かは知らなかったのです。

浅丘ルリ子もそうですが  老婆の厚化粧  というのがみっともない  というのがやっと分かりました。

梅沢昌代のような化粧っ気の無い役は確かに身分が低く見えるけど
女優として  覚悟が大きいな・プロデューサーとして使い勝手が良いな  と思いました。笑


虎松役の寺田心という男の子は天才子役ですね。


今日、お大さまから家康に紹介のあった女中は誰のことでしょうね。
側室になる女性でしょうね。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月11日 15時27分31秒 ) パスワード

http://senjp.com/gentarou/

松下源太郎とは〜井伊直政の母が再嫁した松下清景と井伊家の関係


松下清景とは:以下コピペ

松下清景(松下源太郎、松下源太郎清景、松下源左衛門)は 松下之綱(松下加兵衛之綱)の兄とも、松下常慶の兄ともされ、徳川家康の家臣。

井伊直政の生母である奥山親朝の娘(奥山朝利の娘とも?)と結婚したことから、のちに井伊家の筆頭家老となった。


そして、中野直之(ゆきの字ですね)の次男・中野一定を養子に迎えている。   ←  これが「直久」の弟、ということでしょうね。
へぇ〜


1590年に井伊直政が上野の箕輪城主となった際にも従った。
この時、箕輪城では、家老として稲荷郭に屋敷を設けたようだ。

1597年5月29日、松下源太郎清景は上野にて没する。
法名は本光院心月不染居士で、墓は上州の箕輪・龍門寺にある。

跡は、井伊谷三人衆と関連ある中野直之の次男が、松下家の養子となって松下一定(松下志摩守一定)と称してが継いでおり、井伊家の家老職を担った。


井伊直政の長男・井伊直継(井伊直勝)が1615年2月に改易されて、彦根から安中藩3万石となると、中野直由の妻が上州・井徳山龍潭寺の建立を松下一定に願い出た為、松下一定は龍潭寺に鐘楼を寄進している。

なお、浜松には松下家の本拠とされる頭陀寺城(ずだじじょう)がある。別名は市場城、松下屋敷跡とも言う。


松下源太郎清景の松下家の本拠と言う事になるが、浜松にある頭陀寺城主だったのは松下之綱(まつした-ゆきつな)である模様で、同じ一族と推測は出来ても、松下源太郎清景の本貫は不明と言える。


江戸時代に旗本となっている松下家は、13家もあり、それだけ本家・分家とたくさん枝別れしているので、松下源太郎(松下清景)に関しては、わからないことが多い。


ちなみに、松下之綱はまだ若い豊臣秀吉が織田信長に仕官する前に、仕えていたとされる武将でもあり、松下之綱の娘・おりんは、柳生宗矩に嫁いでいる。


さて、松下屋敷跡(頭陀寺城)への行き方であるが、浜松城からだと車で10分ほどの場所となる。
公園の西側の道路が駐車禁止にはなっていなかったので、短時間止めさせて頂いた。


下記のGoogleオリジナルマップで場所も示しており、スマホで表示すればカーナビとしてご活用頂ける。

→井伊谷や直虎ゆかりの観光スポット・Googleオリジナル地図
→松下常慶とは〜謎の山伏も井伊家復興に大きく貢献する
→奥山親朝とは〜奥山朝利と娘・しの【井伊家一族】奥山六左衛門と奥山孫一郎も
→井伊直虎とは〜おんな城主になった訳と次郎法師のまとめ【2017年大河ドラマ】
→井伊直政の波乱な生涯はこちら
→飯尾連竜とお田鶴の方・椿姫【女城主】椿姫観音
→浜松城(引馬城、曳馬城、引間城)の観光攻略&訪問記・写真集
→井伊直虎ゆかりの地を観光するお勧めスポット【おんな城主・直虎】

[20]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月11日 15時38分05秒 ) パスワード

このレスの最後のコピペ部分に  中野直久は中野直之の弟と考えられるが  と書かれています。
次男かと思ってましたが弟かも知れないのですか。

     ムカシの日本は家を守る為に家の中でも養子になっり弟になったりしてるから、混乱しているのかも、ですね。


http://senjp.com/nakani-ii/

中野直由・中野三孝・中野直之・松下一定
【井伊家の一族で家老職を務めた中野家】

以下コピペ

井伊直平(井伊修理亮直平)の叔父が中野氏(中野家)を称した井伊一門で、
中野直村の子である中野直由(中野越後守直由、中野信濃守直由)が、NHKの大河ドラマ「おんな城主・直虎」にも登場する。(はずである)


この中野直由は、桶狭間の戦いにて討死した井伊直盛(井伊直虎の父)が、万が一の時には井伊谷を頼むと、井伊家存続のため後見役を託していたとされる。


要するに、幼い直政に代わり中野直由(中野越後守直由、中野信濃守直由)が井伊谷城代を務めた。


1564年9月15日、井伊家は今川氏真の命を受けて、井伊直政を保護していた新野親矩(新野左馬助)と共に中野直由は引馬城主・飯尾連竜を攻めたが、新野親矩と共に天間橋で討死した。(引馬城攻め)


中野直由の子・中野直之はそのまま井伊家の家臣になったようだ。
妻は奥山親朝の娘・清光院とある。


井伊直親の遺児である井伊直政が徳川家康に謁見する際、井伊直盛の妻・祐椿尼の命を受けて井伊直政に同行して浜松城に赴いた。

そして、井伊直政を支えた中野直之は彦根藩家老となり、1605年6月14日に死去。

その嫡男である中野三孝(中野三信)も、井伊家の家老として1500石になっている。

なお、中野直之の次男は、井伊直政の生母である奥山朝利の娘(奥山親朝の娘とは?)が再嫁した、松下清景の養子となって松下一定と改名し、同じく井伊直政の家老となった。


のち、井伊直政の長男・井伊直継(井伊直勝)が1615年2月に改易され、彦根から安中藩3万石として移ると、中野直由の妻が安中藩の菩提寺として井徳山・龍潭寺の建立を、家老・松下一定に願い出ているのが見受けられる。


なお、松下一定は1641年6月23日に没した。享年68歳で、法名は正覚院傑堂天英居士。


松下一定の子は松下高冬であったが、父が亡くなる前年の1640年4月9日に先に亡くなっていた。

なお、井伊谷・龍潭寺の井伊家墓所近くに、井伊家臣の墓として中野氏の墓もある。


中野氏の墓は、初代・中野直房、2代・中野直村、3代・中野直由、4代・中野直之と記されている。


中野直久は中野直之の弟と考えられるが、それ以上、詳しいこと不明で調査中につき、判明した場合には追記したいが、情報をご存知であれば、ぜひ、コメント欄よりお知らせ頂けるとありがたい。

→大河ドラマ「おんな城主 直虎」キャスト・出演者一覧リスト
→松下源太郎とは〜井伊直政の母が再嫁した松下清景と井伊家の関係
→奥山親朝とは〜奥山朝利と娘・しの【井伊家一族】奥山六左衛門と奥山孫一郎も
→井伊直盛とは
→井伊直虎についての詳細はこちら
→井伊直政に関してはこちら
→桶狭間の戦いとは〜桶狭間はこんなところだったよ
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月11日 16時16分12秒 ) パスワード

友人からの続編:


古代史関係の文書は,日本書紀,風土記,古事記だけではありません。このほかに,東日本三郡誌,宮下文書等があります。


東日本三郡誌は,出雲関係の史書です。
ニギハヤヒ王朝の史書です。
ニギハヤヒは,日本書紀,古事記では,大国主命です。

大国主命は,日本書紀,古事記では,地方によって読み方が違います。
大国主は,その名の通り,大国の主と言う意味でして,
神武王朝の前に,大国主王朝があり,これが日本全土を治めていたと言われます。



宮下文書は,富士王朝と言う古代の王朝の歴史を書いています。
因みに,地史的には,富士五湖は古代は,せの海(セの字は変換できません)と言う巨大な湖でした。
それが,平安時代の貞観年間に,富士山が大噴火を起こし,セの海が五等分されて,富士五湖になり,青木ヶ原樹海が出来ました。

最近,貞観の大噴火の火口は,青木ヶ原樹海だった証拠が出て来ました。
富士山は,有史以来山頂で噴火したこと一度もありません。
地学用語で,側方噴火,山腹噴火と言います。

青木ヶ原の噴火口ですけど,富士山の山頂の噴火口から,直線距離で20kmあります。
だから,今まで,縄文の大噴火の噴火口、分からなかったのですけど。


そのセの海の湖畔に,王朝を作ったのが,中国から来た徐福です。
徐福伝説は,室戸岬,紀伊半島,丹後半島,男鹿半島,富士山麓に移住伝説があります。

富士五湖が,時々六湖になりますけど,
これは,富士五湖が地下で繋がっていると言う説が強いのです。
元々,一つの大きな湖ですから。

それから,セの海から川が出ていたようです。
大田川だったと思いますけど,この川も貞観の大噴火で埋もれたと言われていますが,最近,地中レーダーで探ったら,富士五湖からの川が,どうも地下にありそうなことが分かりました。

それで,最近は,セの海は,そのままだと言う説もあります。


それと,富士山を一つの山と思っていらっしゃると思いますが,
富士山は,地下に4つの火山があります。

富士山の本体は,この4つの火山の溶岩の集合体です。
地学では,富士山でなく,富士連山と言う言い方をします。
富士山の噴火予知が難しいのは,毎回,噴火の形が変わります。
だから,大変予知しにくい山です。


その点,北海道の有珠山は,大変素直な山で噴火のパターンが一つしかありません。
去年だったか,有珠山の噴火予知が成功して,大噴火の割には,一人も死傷者が出ませんでした。

このような事は,有史以来初めてで,
火山の噴火予知は,ここまで来たかと,
日本の噴火予知技術が,世界で刮目されましたけど,
この有珠山ですけど,北海道大学の火山予知研究所が麓にあり,
20年間,有珠山の動きだけを注目してきた,地震学の教授がいました。

それで,2週間前に,地震予知を出して,有珠町は全町民を非難させました。
ですので,有珠山が大爆発した時,全町民は安全地帯にいたわけです。

でも,これは噴火のパターンが,ワンパターンの有珠山だから出来た芸当です。富士山の様な,毎回,噴火のパターンが変わる火山では不可能です。

布哇のキラウェア火山も,予知しやすい火山と言われています。
尤も,キラウェア火山は,爆発的噴火をしません。
溶岩が,ドロドロでなく,水のようにサラサラですから,溶岩が火口でとどまらずに,川の水のように流れていくからです。

それで,キラウェア火山は,世界一安全な火山と言われるわけです。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月12日 07時42分53秒 ) パスワード

メールを頂きました:


「かや」と「祝詞の元の現地」


加夜=栢=賀陽・・・全部「かや」と読みます。
伽耶の国の「かや」ですね。
加夜国造(備中国賀夜郡)なんて言うのも存在。

      今の岡山県総社市が本拠地で北部の有漢(うかん)までの領域。



栢寺(かやでら)廃寺跡・総社市南溝手・・
・・・服部駅の東300m位の場所、(服部廃寺も有りますよ)


総社平野のほぼ中央部、賀夜氏(かやし)で吉備氏族という有力な豪族の寺とも。

賀夜寺跡、南溝手廃寺、加夜廃寺、門満寺など様々な呼び名が有りました。



平清盛の従臣の妹尾=瀬尾=兼康(下道氏=吉備氏の末裔)が屋敷にしていたとも言われています。



7世紀前半において吉備の中枢部で蘇我氏関連の遺物をみいだせる。

出雲の流れですね。555年に設立された白猪の屯倉(旧の久世町)も蘇我氏関連です。



http://www.youtube.com/watch?v=v8trus4n6sM  

吉備王国の実体(後にかや、百済、新羅に分割?)古代吉備文化財センター

摂津国にあった百済郡(くだらのこおり)白村江の敗戦以降の設置




  (金容雲・キムヨンウン)の分析

熊本あたりを中心とするのは百済系の狗奴(くな)勢力
九州北部は加耶(かや)系が勢力圏を構築



出雲は主に新羅系の勢力圏を形成。後、百済(扶余)系のスサノオの征服

                        このあたりからこんがらがる。


さらにその後、加耶の高天原の勢力によるオオクニヌシの国譲りがあったと思われる。

                        もうゴチャゴチャ。




豊とは、神功皇后(息子が応神天皇)のことであり、武内宿禰の妻だった訳だが、
古事記の記述によれば武内宿禰は蘇我氏の先祖でもある。

神武は紀元前の話になりますね。

神武・崇神・応神の三回の東征が存在したようですね。




九州王朝説 (神道の祝詞の地名がすべて古代の遠賀川流域に集中する。)

西暦201年から270年というのは卑弥呼とトヨの活動時期であり、宇佐神宮の真ん中のご神体、ひめ大神は卑弥呼だという説もあったりトヨは豊で宇佐が根拠地だった。

北九州の遠賀川流域だが、壱岐·対馬からの侵攻とする限り適地は遠賀川流域の豊前とするほかない。

ニギハヤヒを祖神とし、石上神宮を氏神とする物部氏は、古代、北九州の遠賀川河口近く(筑紫:チクシ)から河内·大和へと移住してきた氏族らしい。

『和名類聚抄』などでは、 ... 澤田洋太郎氏は、この「豊王朝」を「蘇我王朝」と見ている。





「たっちゃんの古代史」から

「みま」を任那や百済や馬韓を「任、みま」・「百、もも」・「馬、うま」の様に解釈すると、
美作は「任、みま」が作った国になりますね。
国名の付け方不明なまま現在に至っています。



阿波徳島の中北部で吉野川の中流北岸にある,美馬市北西部の旧美馬町。は物部氏の本拠地の一つとも言われています。

                      あ、そうか・・・

これも、「任、みま」そのものではないでしょうかね。
古来、美馬が産出されていたと言われて居るが「任、みま」の方がぴったりくるのですがね。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月12日 08時38分49秒 ) パスワード

http://gyokuzan.typepad.jp/blog/2015/06/%E5%A6%B9%E5%B0%BE%E5%85%BC%E5%BA%B7.html


妹尾兼康:

岡山市南区妹尾の盛隆寺に「妹尾太郎兼康頌徳碑」がある。
石碑には「大険院殿平将邦助兼康大居士」という戒名が刻まれている。
本当の墓は岡山市北区吉備津に「伝妹尾(瀬尾)太郎兼康供養塔」がある。



南区妹尾は平家の大将の一人「妹尾(瀬尾とも言う)太郎兼康」の領地であったと伝えられている。

現在城趾と思われるところは、地元では「稲荷山」と呼んでおり、お稲荷様が祀られていた。
このあたりは広々とした平野が続き、穀倉地帯をなしているが、かっては「吉備の穴海」と言う干潟で漁業が盛んに行われていた。


兼康公の母は瀬尾兼門(せおかねかど)の妹保子である。

兼門は太治元年(一一二六)に滅んだが、
保子だけは鳥羽上皇の宮女として仕え、上皇の御子を宿していたため許されて、平忠盛(清盛の父)に預けられ、
上皇の御子を産んだと伝えられている。

これが妹尾太郎兼康公である。


兼康公は十六歳で妹尾に入り城を築き「洲浜城」と称していたと伝えられている。
兼康公は土木技術にも優れたものを持っており、高梁川を水源とした「湛井(たたい)十二ヶ郷用水」の整備は特に有名で、
地元では開発領主として名を残している。


驚いたことに、妹尾兼康は鳥羽上皇の御落胤だという。

平清盛も大河ドラマでは白河上皇の御落胤として描かれていた。


歴史上の人物の出生には謎が多いうえ、権威を高めるために物語が創作されることもある。
兼康の伝承も貴種流離譚の一つかもしれない。


兼康は平家方の有力武将として、『平家物語』では殿下乗合事件(平氏vs藤原氏)以来、何度も登場している。

巻第一「殿下乗合」には次のように紹介されている。

片田舎の侍どものこはらかにて、入道殿の仰(おおせ)より外は、又恐しき事なしと思ふ者ども、難波(なんば)妹尾(せのお)を始として…

    「いなか出身で荒々しく、清盛の言うこと以外は怖いものなしの者ども、難波、妹尾をはじめとして」
     と地方の荒くれ者に描かれている。

     おそらく史実はそんなところだろう。



クライマックスは巻第八「瀬尾最期」である。

寿永二年(1183)、木曽義仲が入京し平家を西国へ追い落とした。
しかし水島合戦で、義仲の派遣した源氏方が敗れ、その勢いが止まってしまう。これに危機感を持った義仲は一万騎で山陽道を下った。

義仲の軍勢には、北陸での戦いで生け捕りにされた妹尾兼康がいた。
兼康は次のように言って義仲勢を安心させた。

自今以後御戦候はゞ、木曾殿に命参せん。
兼康が知行仕り候し備中の瀬尾(せのお)は、馬の草飼(くさかひ)好い処で候。

      これから戦いがあれば、木曽殿に命を捧げましょう。
      私の領地であった妹尾は、馬の餌となる草が豊富です。

これは策略で、兼康は勝手知ったる備前国に入ると義仲勢を裏切り、笹ヶ瀬(岡山市北区津島笹が瀬)で義仲勢を待ち伏せた。
しかし、そこを突破され板倉川のほとり(岡山市北区吉備津)に退いたが、またも打ち破られる。

ついに、兼康、その子小太郎宗康、郎等の主従三人となってしまう。
子の宗康は肥満体で足を痛めて動けなくなってしまった。


この続きは、『平家物語』よりドラマティックな『源平盛衰記』巻第三十三「兼康板蔵城戦ひの事」で読んでみよう。

子の宗康は兼通、郎等は宗俊という名になっている。


敵近く攻め寄せければ、兼康又思ひ切り、深く山へ落ち入りけるが、
眼(まなこ)に霧雨(ふ)りて進まれず。
郎等宗俊を呼びて、「兼康は数千人の敵に向ひて戦ふにも、四方晴れて見ゆれども、小太郎を捨てて落ち行けば、涙にくれて道見えず、兼ては相構へて屋島に参りて、今一度君をも見奉り、木曾に仕へし事をも申さばやと思ひつれども、今は恩愛の中の悲しければ小太郎と一所にて討死せんと思ふは如何あるべき。」と云ふ。

宗俊、「尤(もっと)もさこそ侍るべけれ、弓矢の家に生まれぬれば、人毎に無き跡までも名を惜しむ習ひなり、明日は人の申さん様は、兼康殿こそいつまでも命をいきんとて、山中に子を捨て落ち行きぬれといはれん事も口惜(くちお)しき御事なるべし、主を見奉らんと覚(おぼ)すも子の末の代を思召(おぼしめ)す故なり、小太郎殿亡び給ひなんには、何事も何かはし給ふべき、只返し合はせて、三人同心に一軍(ひといくさ)して、死出(しで)の山をも離れず御伴(おんとも)仕らん。」と云ひければ、

兼康、「然るべし。」とて道より帰り、足病み居たる小太郎が許にゆき、前には柴垣(しばがき)を掻き、後には大木(たいぼく)を木楯(こだて)にして敵を待つ処に、木曾左馬頭、三百余騎にて跡見(あとみ)に附きて尋ねけるに、兼康爰(こゝ)に在りとて、幾程(いくほど)助かるべき事ならねど、小太郎を後(しりへ)に立てて、我が身は矢面(やおもて)にさし顕(あら)はれて、差詰(さしつ)め/\散々に射る。十三騎に手負せて馬九匹射殺し、矢種も又尽きければ、今はかくとて腹を掻き切りて失せにけり。小太郎兼通も引取り/\射けるが、父が自害を見て、同じ枕に腹切つて臥しにけり。

郎等宗俊も手の定まり戦うて、柴垣に上つて、「剛のものの死ぬる見よや。」とて、太刀の切鋒(きつさき)口に含み、逆(さかさま)に落ち貫かれてぞ死ににける。木曾は妹尾父子が頸を切り、備中国鷺森(さぎのもり)に懸りて引退(ひきしりぞ)く。


          敵が近くに攻め寄せてきたので、兼康は我が子の小太郎への思いを断ち切って、深い山に落ち延びていったが、
          目が涙でかすんで進めない。

          郎等の宗俊を呼んでこう言った。
          「わしゃあ数千人の敵と戦こうても、四方がよう見えたけえど、小太郎を見捨てて逃ぎょうたら、涙で道が見えんようになった。
          前から、よう気う付けて屋島へ行って、もっぺんお殿様にお会いして、木曾に仕えたことを話そうかと思うたけど、
          親子の別れがつろうて、小太郎といっしょに討死しょうかと思うんじゃけど、どうじゃろうか」


          宗俊はこう答えた。
         「もっともなことです。武士に生まれたら死んでも名誉を傷つけんもんです。
          このままだと、明日にゃあ、『兼康は命が惜しゅうて、山の中に子を捨てて、逃げてしもうたで』と言われるでしょう。
         そねえなことは、くやしすぎます。お殿様にお会いしたいと思うのも、ご子孫を思ってのことです。
         小太郎さまが亡うなっては、何ができましょうや。
         引き返して我ら三人で戦い、あの世でもご一緒しましょうぞ」


         兼康は
         「そうじゃな」
         と、道を戻って、足を痛めた小太郎のもとへ行き、周囲にバリケードを築いて敵を待った。

         そこへ木曾義仲が300騎余りで追いつくと、
         「兼康、ここにあり」
         と、もはや生き永らえることはできないながらも、小太郎をかばいつつ、敵の正面に向かって、矢を次々につがえて射まくった。

         13騎をやっつけ馬9頭を倒したところで、矢が尽きてしまった。
         そして
         「もはやこれまで」
         と腹をかき切って死んだ。

         小太郎も敵を引き寄せては次々と矢を射たが、父の自害を見て、同じく腹を切って死んだ。

         郎等の宗俊は覚悟して戦い、
         バリケードにのぼって「本物の武士の死にざまを見ろや」と刀の先を口に含んで、まっさかさまに飛び降り、刀に貫かれて死んだ。

         木曾義仲は妹尾親子の首を切って、備中国鷺森にさらして退却した。

                      今井兼平の最期にそっくりですね。
                      武門の家にはこういう美しい最期の迎え方の作法がああったのかもですね。



これが寿永二年(1183)閏10月14日のことである。
伝洲浜城趾の完成式が10月14日に行われたのは、兼康の命日だからである。


市立鯉山小学校には、かつて道勝寺があった。寺は廃寺になったが、安永八年(1779)11月に建てられた石碑が残っている。

      「当寺けい内に、せ乃太郎か禰や寸のは可志よあり」と刻まれている。


平成8年8月11日付けの山陽新聞が、この場所における大発見を報道した。
熟年男性の頭骨が出土し、それは妹尾兼康の可能性が高い、というのだ。

                        へぇ〜
                        ビックリ!


兼康の家臣、陶山道勝(すやまみちかつ)が屍を城跡(板倉城)に埋めて、供養のために寺を建てたという。
これが道勝寺であった。
陶山氏は笠岡を本拠とする平家一門である。


この地から発掘された兼康の頭骨には、刀傷や人為的な破損の痕跡が顕著に認められ、合戦で斬首されたとも考えられるという。


『平家物語』や『源平盛衰記』の叙述は、必ずしも脚色ではないのだ。
激しい戦乱のシーンが本当ならば、涙を誘う親子の情、主従の絆もまた真実を描いているはずだ。
我が子を置いたまま行くならば、そりゃあ、「涙にくれて道見えず」だろう。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%B9%E5%B0%BE%E5%85%BC%E5%BA%B7

妹尾 兼康(せのお かねやす、保安4年(1123年) - 寿永2年閏10月12日(1183年11月28日))

平安時代末期の平家方の武将。
瀬尾兼康とも呼ばれる。通称は太郎。


早くから平家に仕え、『保元物語』『平治物語』『平家物語』などに平家方の侍としてその名が記されている。

治承4年(1180年)には南都で蜂起した僧兵たちの鎮圧を任せられたが、本格的な武装を禁じられたため多くの死傷者を出した。

このことが後に平重衡らによる南都焼討へとつながっている。

その後寿永2年(1183年)の倶利伽羅峠の戦いに平家方で参戦するも、源義仲軍に敗れてその捕虜となる。

しかし、備前国で逃亡を図り、監視役の倉光次郎成氏を殺害し、2000人もの兵を集めて福隆寺縄手・笹の迫に立てこもって義仲に反旗を翻す。
成氏の兄・倉光三郎成澄を討ち取るなど奮戦したが、そこでも敗れて敗走。
その後、肥満の為自分で身体を動かす事ができない嫡子・妹尾宗康を助けるために引き返すが、
備中国板倉宿付近(現・岡山県岡山市北区)で討たれた。

源義仲をして、「あっぱれ剛の者かな。是をこそ一人當千(とうぜん)の兵(つわもの)ともいふべけれ」と言わしめたという
(福隆寺縄手の戦い)。

[24]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月12日 16時34分37秒 ) パスワード

友人から:

       平維盛が入水して死ぬハナシは、この友人からのハナシからの転用なのかなと。
       上記に書いた今井兼平と妹尾兼康の最期が似てるから。

       日本の文章の書き方って中国の古典からのコピペが多いから(笑)
       カッコいいと思ったハナシを流用するのかな、と。


以下友人のお話:

伊勢神宮について書きます。
正式には神宮と言われて,日本の神宮は伊勢神宮だけです。熱田神宮なんてのは潜り。(笑)

伊勢神宮は,最初から天照大神祭ってあったわけでありません。
最初は,イセツヒコと言う,伊勢の神様がいました。
10代の天皇で,古代史では,この天皇が最初の天皇と言う,崇神天皇が天照(以下そう書きます。)に祟られて,宮中に祭られた天照に祟られて,笠縫村というところに,天照を追い出したのが,伊勢神宮の初めです。

ただ,天照を追い出した,笠縫村の位置分かっていませんが,今の唐子鍵遺跡だと言う説もあります。
その後,11代の垂仁天皇が,天照を理由は分かりませんが,伊勢に持って行きます。

それで,垂仁が目を付けたのが,伊勢神宮です。
これも日本書紀には,理由を書いてありません。
そして,垂仁天皇が,イセツヒコに「天照おきたいので,どいてくれませんか?」と頼みます。
イセツヒコは「天照の方が,大事な神様だから,私は変わります。」と言って,伊勢湾から海に出て,行方不明になります。

                                         この部分のことです


それで,伊勢神宮の内宮に天照を置くわけです。
この時点で,外宮はありません。
ところが,数年後,天照が垂仁天皇の夢枕に立ち「ありがとう。でも,一人寝は寂しいので,丹波にいる豊受の神を呼んでおくれ。そうしたら,私は,あなたの治世が上手く行くように伊勢からあなたとあなたの子孫をも守り続ける。」と言います。

それで,垂仁天皇は,丹波から豊受の神を伊勢神宮の外宮に勧奨しました。

これが,外宮と内宮の出来た由来です。


豊受は,丹波の籠神社にいたと言う伝説があります。
籠神社は,浦島太郎の神社です。
豊受も,日本書紀にも古事記にも,故事来歴が書いてありません。
だから,豊受も正体不明の女神さまです。


台与=豊受と言う説も結構高いのですけど,
台与は,卑弥呼の宗女です。
宗女は,一族の女と言う意味で,養女も含みます。

それで,卑弥呼を殺して,邪馬台国の王女になったのが,台与だとも言います。


天照は,日本書紀では,皇祖ではありません。
崇神天皇に祟っているからです。

               そうなの?知らなかった

多分,皇祖は外宮の豊受だと思います。
だから,天皇も内宮の天照より先に,外宮の豊受から参るのだと思います。

ただ,天照と言われている,卑弥呼は相当偉大な女王だったので,日本書紀や古事記は消したかったけど,消せなかったので,
豊受を訳の分からない神様にして,
天照を皇祖にしたものと思われます。


               政治ですか。
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月13日 12時03分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古代史についての見方は、いくつかあると思います。
 それは――
 @「日本・史観」…「日本人の祖先は日本人」的な教科書的捉え方。
 A「天孫・史観」…「天皇」と「天孫降臨神話」等、「記紀」(特に日本
           書紀)に基づいた捉え方。 
 B「ユダヤ・史観」…渡来して建国した民を、「失われたイスラエル十
           支族」等、ヘブライの民と考える捉え方。
 C「シュメール・史観」…渡来して建国した民を、Bより更さかのぼって               メソポタミア「シュメール」等に求める考え方。
 D「考古学的・史観」…発掘された古墳等、現物証拠による捉え方。

 @とAは、程度の差はあれ、日本書紀の呪縛から脱却できていない史観で
あります。
 Bは、大陸のシルクロードを伝ってやって来たユダヤの民に重点を置いた
捉え方であります(高じると「日ユ同祖論」につながります)。
 Cは、ユダヤの民も含めて、メソポタミアという大きな「文明」レベルに
重きを置いた捉え方。海のシルクロードを重視。
 Dは古墳やその中から発掘された「物証」に基づいて歴史を推理して行く
捉え方。かなり解明は進んで来ているけれど、規制の壁により限界がありま
す。

 歴史の真実を数学を解くように解けないのは、やはり「日本書紀」に代表
されるような「天孫降臨」の一種のレガシィを壊したくないというベクトル
が働いているからだと思います。
 だから色々な推測ということになり、諸説紛々となり、人々は迷路の中で
たたずんでしまうことになります。
 歴史を「養蚕」に例えれば――
 @蚕(かいこ)の時期
 A繭(まゆ)の時期
 B絹(きぬ)の時期
に分けられるのではないでしょぅか。
 @の蚕は、リアルな事実のこと。他民族の渡来と諍いの現実。
 Aは、その後「日本書紀」等の繭によってカムフラージされた部分。
 Bは、その繭によりつむぎ出された絹織物のような華麗な歴史。
 だが、本当は、繭の中に「化石化」した「蛹(さなぎ)」が残っている――

 「蛹(さなぎ)」ということで、思い出したことが一つあります。

 それは、「銅鐸」であります。銅鐸の原型は「小鐸(さなぎ)」であります。
 豊田市には、「猿投(さなげ)山」と「狭投(さなぎ)神社」があります。
 この「猿投・狭投」の語源は「小鐸=銅鐸」であります。
 銅鐸は、ある時期(弥生時代の後期か)、一斉に土中に隠されたりして消え
て行きますが、その謎は、ひょっとして古代の歴史の「ヘソ」の部分の謎を
含んでいるのかも知れません。
 何となれば、今回九州にて知り得た「隼人」の「蕨手文」=「渦巻き文」
が銅鐸には描かれていたり、その本体の周りに飾られた耳(丸い張り出し部分
)は正に渦巻き文そのものだったりしているからであります。
 つまり、私の推論は、古代の歴史から消されたもの――それは、「蕨手文
・渦巻き文のレガシィを持った王国及びその文明」であった……?

 週末には「猿投」に行ってみたいと思います。あを様ご指摘の服部家に関
する探索も合わせて行ってきたいと考えております――
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月13日 14時59分37秒 ) パスワード

三つ柏さん


>古代の歴史から消されたもの――それは、「蕨手文・渦巻き文のレガシィを持った王国及びその文明」であった……?

全く分からないけれど
渦巻きの件についてですが   昔  仕事で精神疾患の人の描いた絵を見たことがあって
人物の   (家康公の銅像の)頭の上に  雲を描いて  渦巻き  が描いてありました。

今でも意味が分からないのですが  渦巻きも雲も  ひょっとすると人間の基本的な  いたずら書き  自然発生的な模様  なのかなと。

全く分からないのですが  <<<古代の歴史から消されたもの――それは、「蕨手文・渦巻き文のレガシィを持った王国及びその文明」>>> なのかなと。


三つ柏さんのこの部分に昔のことを思い出しました。


当時は渦巻きの絵を  太陽  なのかな?と思ってました。雲と一緒に描かれていたから。


確か雲からは雨が降っていたような?

今は台風シーズンなので  台風が生まれるシーン  =  水蒸気  + 風で渦を巻く  だったのかな?
などと色々考えて  
たいして何もそういう知識は取り立てて無いので。

古代人の自然発生的な絵に共通するのかな?なんて。


よく分からない  気持ち悪い話を書いて  ごめんなさい。



猿投
ぜひ行ってください。

何か戦国時代の服部半蔵家関連の情報が見つかりますように!
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月14日 02時53分42秒 ) パスワード

メールで頂きました:


「蕨手」と「渦巻き」について




北斗七星を中心とする渦巻き

板東平氏は妙見信仰と深く関わったと記憶していました。

                        はい


ムー大陸のジェームズ・チャーチワードも渦巻きについて論じていましたね。
アトランチスの場合も渦巻きが出て居ましたね。



確か、宇宙で北斗七星を中心とする渦巻きだったかな。
自然界や生物世界の渦巻きも同じ渦巻きの法則だったかな。


そこから、超古代から宇宙との交信・関わり・エネルギーを取り入れる等の思考だったと思います。


渦巻きから蛇の渦巻き=どくろ(とぐろ?)の生命の脱皮再生に繋がったと覚えて居ます。

「へび=ナーガ」のはずです。



以下はネット情報です。


日本の縄文時代1万年の歴史の中で知らないはずは無いですね。
今では、ヨーロッパの歴史学者さんが、
世界三大文明では無くて、縄文時代を入れて世界4大文明と言っているようです。

                       なるほど
                       日本が土器を最初に作ったという話ですからね




「北斗信仰」   天皇は道教の神?  神旅 仏旅 むすび旅

http://ameblo.jp/taishi6764/entry-11901491042.html  
2014年9月11日

北斗信仰の源流は紀元前数千年前、元々は現在のイラクやイランに栄えた古代アッシリアやバビロニアの砂漠の遊牧民が方角を確認するために北極星を神として信仰し、遊牧民を経て、中国に伝わりました。

太平洋の海洋民も北斗七星を利用し信仰し生活していましたね。



北斗七星を中心とする信仰が最終的には妙見信仰や天体の四神信仰(青龍・白虎・玄武・朱雀)ですね。



妙見信仰は武士団にひろまり、貴族から武家社会への転換の精神的原動力となる。
いわば奈良・平安から鎌倉への大変化は、「星」がもたらしたもの。


妙見信仰を最初に流行らせたのは修験道の役小角だという。
空海が、真言密教の仏に妙見大菩薩を迎えいれる。
日蓮で、天から明星のような大星がおりてきて梅の木にかかったという。
彼は北辰妙見菩薩の示現をうけ、法華経護持の誓いを得ている。



月星を家紋とした。
元祖は将門が妙見からさずかったとされる千九曜紋。
末流は諸星をもって家紋とした。




アクトランドのひみつ【第4回】北辰一刀流の免状
見返しの「七星の図像」について
http://actland.jp/contents/himitsu/04.html   

「破軍星」(はぐんしょう)とは古代の中国で
「その星に向かって戦えば必ず敗れ、その星を背に戦えば必ず勝つ」と伝えられた勝負の星である。
古い星座図にも破軍剣先の図像が描かれる。
平安時代後期から千葉氏(関東の武士団の雄)が信仰した妙見菩薩は北辰(北極星)の仏である。

この目録冒頭にあらわされたこの七星の図像




http://amanohitukukami.blog28.fc2.com/blog-entry-119.html    

大和神話では星神はほとんど語られない。
秘儀秘法として封印されたのではないかと。




蛇足ですが、 tokyoblog December 2016
三つ星といえばオリオン座の三つ星を思いおこすのだが、海人の三つ星は北極星を示す上台、中台、下台の「三台星」。
北斗七星の外側にある三つ星であり「三筒」と呼ばれる。
これが神社紋の三つ巴の本当の意味だそうです。

また、三つ巴は江南海人の三台星信仰に因むようである、
だそうです。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月14日 06時14分12秒 ) パスワード

猿投の服部屋敷を捜しているのですが
こんなのがヒットしました:

http://www.oshiromeguri.com/nagoya/088shouwa/08hatutori.html

『尾張志』によると、服部氏は伊賀国(現・三重県北部)の服部郷から尾張へやって来て、
佐久間氏に仕えた後、
福島正則に仕えて馬廻り役を務め、
この地に移住したそうです。

しかし現在の昭和区には戦国時代から服部氏が勢力を持っており、
枝分かれした服部氏なのか、それとも同じ服部氏なのかよく分かりません。


・所在地  昭和区御器所2丁目周辺
・立地  平城
・築城時期  ?
・築城者  服部氏

             御器所東城といわれる場所から近いので、
             佐久間氏を援けた御器所東城の服部氏と同じ一族なのか?

・主な城主  愛知県中世城館跡調査報告によると服部源左衛門
・現状  住宅地
かつての服部屋敷といわれる場所は、昭和区御器所2丁目周辺との事です。

この地に宗円寺というお寺があって、その西側らしいのですが、現在では住宅地となって屋敷の遺構らしきものは残っていませんでした。

周辺には子孫でしょうか、服部さんが多いです。


地図;http://www.its-mo.com/map/top_z/126519540_492932880_15//#top
出るといいけど
#top
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月14日 06時41分55秒 ) パスワード

レス28の関連サイト:コピペしたらスゴイことなりました。一応整理してみました。


ワタクシ個人は名古屋市昭和区の服部さんって知らないのですが
下の方に  秀吉の母の大政所さまが住んでた屋敷というのが出てるので
平家がらみ以降、南朝方を通じ、戦国時代の関係各所の1つなのかな?と。


伊勝城
http://www.oshiromeguri.com/nagoya/088shouwa/01ikatu.html
佐久間玄蕃盛政の居城名古屋市昭和区の伊勝城に関する記事です。
城主は佐久間玄蕃盛政。

川名北城
http://www.oshiromeguri.com/nagoya/088shouwa/02kawanakita.html
川名村にあったといわれるお城名古屋市昭和区の川名北城についての記事です。城主は佐久間氏、もしくは服部氏と伝わります。

川名南城
http://www.oshiromeguri.com/nagoya/088shouwa/02kawanakita.html
川名村にあった佐久間氏のお城名古屋市昭和区の川名南城に関する記事です。
かつての川名村には2つのお城がありそのうちのひとつ。
城主は佐久間氏と伝わります。

御器所西城
http://www.oshiromeguri.com/nagoya/088shouwa/04gokisonishi.html
佐久間盛政生誕地といわれる佐久間氏の本城名古屋市昭和区の御器所西城についての記事です。
この地に勢力を持っていた佐久間氏の本城と伝わり、佐久間盛政もこのお城で生まれ、また後に城主となりました。



御器所東城
http://www.oshiromeguri.com/nagoya/088shouwa/05gokisohigashi.html
佐久間氏を援けた服部氏の居城名古屋市昭和区の御器所東城に関する記事です。
このお城は佐久間氏を援けた服部氏の居城と伝わります。


名古屋市昭和区の御器所東城(ごきそ ひがしじょう)は、南北朝時代に佐久間氏を頼ってこの地にやってきた服部氏が住んだといわれるお城です。

佐久間氏が川名の地に住み付いたのは、承久の乱(1221)の頃といわれ、その後、佐久間氏は御器所に移り住んだそうです。

そして南朝に仕えていた服部氏が佐久間氏を頼ってこの地にやってきて、川名、御器所周辺の開発を佐久間氏と共に進め、この地に勢力を持つようになりました。

かつての御器所東城の詳細はよくわかっていませんが、愛知県中世城館跡調査報告に明治時代の地籍図があり、
それを見てみると、御器所西城のあった字北市場の東南に、御器所東城が記されています。

現在の地図に照らし合わせてみると、昭和区御器所3丁目あたりで、
この場所を西側から歩いてみると、少しずつ高くなっている事に気が付きます。

・所在地  昭和区御器所3丁目付近
・立地  平城
・築城時期  ?
・築城者  服部将監                              この人、なんか記憶にある感じ
・主な城主  服部将監
・現状  住宅地
・地図   http://www.its-mo.com/map/top_z/126515150_492939060_15//#top



御所屋敷
http://www.oshiromeguri.com/nagoya/088shouwa/06goshoyashiki.html
秀吉の生母・大政所が住んでいたといわれる屋敷名古屋市昭和区の御所屋敷についての記事です。
豊臣秀吉の生母である大政所が住んでいたといわれる場所です。

秀吉の母は、尾張中村(現在の名古屋市中村区の中村公園)の足軽・弥右衛門と結婚し、
秀吉を含む数人の子供を生みましたが、弥右衛門がいくさ傷がもとで亡くなった後は、再婚しそのまま中村で暮らしました。

ところで秀吉の関白就任後、朝廷から従一位まで贈られていますが、その素性がはっきりしていません。

【尾張志】には、『大政所は、尾州愛知郡御器所村の人なり』と、記述があります。

秀吉のお母さんの在所だったと伝わる場所は、現在では区画整理され、屋敷の規模もわかりません。

しかし小さな空き地になっており、石碑や説明版が建てられています。


秀吉の母親の素性がハッキリしていないので、この地にあった屋敷もどの様な身分の人の屋敷なのか謎に包まれています。

ところで『御器所』(ごきそ)の地名は、一説によれば熱田神宮が祭礼の時に使用する土器を製作していた地という意味といわれ、
この地に土器を専門的に作る集団がいたともいわれています。

この事から秀吉の生母の親族は、この土器制作集団だったのではないかという説があります。


・所在地  昭和区御器所3丁目22
・立地  平城
・地図  http://www.its-mo.com/map/top_z/126517350_492941220_17//#top



吉野城
http://www.oshiromeguri.com/nagoya/088shouwa/07yoshino.html
城主の妻は熱田誓願寺の開祖・日秀妙光尼上人名古屋市昭和区の吉野城についての記事です。
城主は吉野右馬允という人で、妻は後に熱田誓願寺の開祖となる日秀妙光尼上人です。

名古屋市昭和区の吉野城は、豊臣秀吉の生母である大政所の在所だった御所屋敷の近くにあったお城です。

この人は、前津小林城(名古屋市中区)の家臣・山田藤蔵盛重の娘を妻にします。

         上前津なんかの地名が今でもあるけど
         名古屋の繁華街 栄 SKEですね(笑)
         その南でワタクシはさらにその南に住んでました



南分城
http://www.oshiromeguri.com/nagoya/088shouwa/09minamiwake.html
長久手合戦の時に落城した佐久間彦五郎の居城名古屋市昭和区の南分城についての記事です。
長久手合戦の時に落城した佐久間彦五郎の居城と伝わります。


若い時、この辺りをウロついてたのに、何も知らなかったです。
秀吉の母上はやっぱりただの百姓出身というわけではなかったのじゃないかな?
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月14日 07時00分58秒 ) パスワード

http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/17119/p121-133.pdf
昭和30年代の濃尾平野・周辺の中世城館

服部英雄

ちょっと面白いかも。




猿投って豊田市でしたね。
愛知県日進市のずっと東。
猿投神社というのがありますね。

土地勘無いのでなかなか場所が掴めないです。




そして  笑えるページもご紹介:愛知県東部のハナシ(まったく知らない事ばかり)

http://wiki.chakuriki.net/index.php/%E6%84%9B%E7%9F%A5/%E6%9D%B1%E5%B0%BE%E5%BC%B5
[32]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月15日 23時56分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、「新城」、「足助」経由で「猿投」まで行き、帰りに「松平郷」
へ寄ってきました。新城までは新東名高速道路を利用しましたので、結局
猿投までは片道2時間・110qの旅になりました。
 高速道路は時間が短縮できるし運転も楽という長所もありますが、費用
負担が大きい、景色は遠景しか見えないという欠点があります。一般道は
時間がかかりまた運転も大変ではありますが、費用はガソリン代だけ、そ
して景色は道路の左右全体を見渡せますので、その地域その地域の記憶が
頭に残ります。何か寄ってみたい所があればすぐに寄れるし、また偶然の
景勝地や史跡の発見が時にあります。

 まずは、足助で少し散策をいたしました。以前一度訪れて、足助屋敷とか
足助城址は見ていますので、今回は有名な寺を探してみました。

 この続きは明朝に――
 
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月16日 03時03分06秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございます。
楽しみに待っています。


110kmですか。
そうしますと普通の人は  3−4日  あたりで行った距離でしょうか?
急ぎでしたら1日半?2日は欲しいですね。

やはり途中に中継所が必要ですね。

昔の敗残者は後の世の連絡も兼ねて分散して土着したのかもですね。
(取り敢えず命を守りたいレベルでしたら山奥の誰も来ないような場所にヒッソリ?)
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月16日 13時44分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 足助の町は観光地だけあって街並みは整備されている。平日でも観光客
はそこそこそこあるようである。また駐車場は有料ばかりで、郊外に行か
ないと無料の駐車スペースはめったにない。
 足助陣屋址の閉ざされた門前が空いており。すぐ隣にお寺が見えたので、
しばし車を留めさせてもらうことにしました。

 お寺の名前は曹洞宗慶安寺。境内には、この地方では珍しい弥勒菩薩の
石像がありました。
 続いて本堂の裏側のお墓を見に行くと、見慣れた名前が目に入りました。
 ――加藤家、水野家、河合家、竹内家、朝倉家、成瀬家、中根家、山田
家、野田家、宇野家……中でも、加藤家の墓は、8畳間位の敷地面積で、
墓のてっ辺は3メートル位の高さでありました。

 庭師がいたので、この辺で一番有名なお寺はここですかと聞いてみた。
すると、香嵐渓に有名なお寺がありますよということで、香嵐渓に行って
みることにしました。確か、以前来た時に、香嵐渓の内部にお寺があった
ような記憶がありました。行って見る。

 香嵐渓の間を流れる巴川の西側に「足助屋敷」、東側に「香積寺(こう
じゃくじ)」がありました。裏は飯盛山であり、頂上には足助城跡があり
ます。

 案内看板には次のように書かれていました――
 「飯盛山 香積寺
  杉並木ともみじの香積寺は、曹洞宗の古刹である。応永34年(1427)、
 足助氏の居館跡に創建されたものである。
  開基は関白二条良基と成瀬三吉丸(尾張城主成瀬家の祖)、開山は白家
 祥瑞禅師である。
  かっては学林として栄え、特には100名もの雲水が参禅したという。
  もみじの開祖11世参栄禅師、画技にも卓越した25世風外禅師はあ
 まりにも有名で、風外禅師の絵を多数蔵している。」

 本堂の扉は明けられていて、真正面の参道から中のご本尊が見えていた。
 左手にはお稲荷様があり、さらに奥に進むと「足助一族の墓 4分」と
案内板に書かれていました。山を20メートル程登ると、そこに看板が現
れ、そこにはこう書かれていました――
 「鈴木五代の墓
  室町時代から戦国時代にわたり足助城に在城し、この地方を領有して
 いた鈴木氏5代の墓である。足助城興亡の歴史をたどってみると、
 ・大永5年(1525)
松平清康、二千余騎で攻め寄せる。城主鈴木重政は、清康の妹を嫡子
 越後守重直の妻に契約してその麾下に属する。
 ・天文4年(1535)
守山くずれで清康が殺されると、松平氏を離れて独立、重直の妻久子
 を岡崎に送りかえす。
 ・永禄3年(1560)
  桶狭間合戦後、家康が三河平定に乗り出すと、また松平氏に従属する。
 ・元亀2年(1571)
  武田信玄、二万三千の兵で伊奈口より三河に乱入し、足助城をはじめ
 とする付近の諸城は全て落城した。信玄は、足助城に下条伊豆守を城代
 として置く。
 ・天正元年(1573)
  家康の長子岡崎三郎信康は、足助城を攻略して、元城主鈴木氏に与え
 る。
 ・天正9年(1581)
高天神の戦いに、同族の加茂郡小原城主鈴木越中守重愛と共に奮戦。
  松平勢のあげた首級730余の内、138級をあげる。
 ・天正18年(1590)
  家康の関東入国に従い、足助城は廃城。鈴木氏は改易となる。
                    (足助町文化財保護委員会)」

 一旦ここで切ります。鈴木氏の系図を振り返ってみます――


[35]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月16日 15時59分45秒 ) パスワード

三つ柏さん


鈴木家もいろいろあったのですねぇ。下記のURLの中でも直政の死後、いろいろあったようです。


先週の「直虎」で父が戦死して、まだ年若い息子が出陣するシーンがありましたが
あの子は鈴木重時の子の重好だったような?



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E9%87%8D%E5%A5%BD
鈴木 重好(すずき しげよし、? − 寛永12年9月25日(1635年11月4日))

戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。
三河鈴木氏酒呑系、鈴木重時の子。
子に鈴木重辰。
通称は平三郎、平兵衛。
石見守を称す。玄夢斎と号す。鳥居元忠の養女を室とする。


徳川氏の家臣・鈴木重時の子として誕生。
永禄12年(1569年)、父・重時が堀江城攻めにおいて戦死すると家督を継いだ。


元亀3年(1572年)に甲斐武田氏が遠江国へ侵攻した際に、信濃国から南下する別働隊の山県昌景によって三河国八名郡にあった居城・柿本城を攻められると、叔父・出雲守が守備する遠江井伊谷の小屋山城へ退く。しかし、ここも山県勢に陥落させられると徳川氏の本拠であった浜松城に退いた。


その後、徳川家臣・井伊直政が旧領を回復すると近藤秀用、菅沼忠久と同様に、井伊勢に付けられる。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは、一番槍を入れた直政の眼前で槍下の高名を挙げた。慶長7年(1602年)には、井伊氏の居城となる彦根城普請に勤しんだ。


井伊直政が死去し、幼い直継が彦根藩を継ぐと、木俣守勝とともに家老として政務を行うが、慶長10年(1605年)には彦根藩の家臣の中から、重好父子が藩の金銀や米を流用したり、自分に近いものを取り立てるなどの依怙贔屓を行ったりなどの不正を行っているとする全15か条からなる告発が出された。


その中心にいる椋原正直や西郷重員は元は重好と同じ付人(家康の命で徳川家の直臣から直政の家臣に転属になった者)であり、訴えは家康の下にも届けられた。

家康は表向きには訴えを取り上げられなかったものの、井伊家中の混乱を鎮めるために重好には嫡子・重辰に譲らせて隠居させた上で所領のある上野国に帰らせ、重辰と椋原らを和解させた。


この騒動の背景を家中の権力争いにあるとみた家康は、争いに敗れた格好になっていた重好を穏便な形で彦根藩から追放することで混乱を収めたのである[1]。


その後、閉居生活を送っていたが、元和4年(1618年)、徳川秀忠により水戸付きを命ぜられると、孫の長松丸(のちの鈴木重政)を伴って赴任、知行5千石を給され、水戸の家老となる。


寛永12年(1635年)、水戸にて死去した。戒名は慈照院殿華翁宗春居士。


なお、子の重辰は寛永11年(1634年)に急死したため、跡目は重辰の子である重政が継いだ。
[36]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月17日 15時51分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 鈴木氏の家系を整理するのに時間がかかりました。
 家祖の鈴木重善(矢並町→猿投)から、四つの筋に分かれました。
 @足助鈴木氏
 A寺部鈴木氏
 B酒呑鈴木氏(山吉田)
 C則定鈴木家

 この内の@とBの2家について、初代より5代まで記しますと――
 @足助鈴木氏 
        ・初代 忠親(南朝の忠臣足助氏の跡を継ぐ)
        ・2代 重政(松平清康に従属)
        ・3代 重直(今川方へ降りる)
        ・4代 信重(家康に降りる)
        ・5代 康重(関東移住後、浪人に)

 B酒呑鈴木氏(山吉田)
・初代 重勝(山吉田に住し、領主となる)
        ・2代 重時(山堀江吉田に住す。堀江城攻めにて討死)
        ・3代 重吉(井伊谷城に住す。堀江城攻めにて討死)
        ・4代 重好(山吉田に住す。家康に仕え、後水戸家従属)
        ・5代 重辰

 鈴木氏も大族であり、分流がいくつもあるのでややこしいです。
 酒呑鈴木氏の2代目の重時と3代目の重吉は、親子で堀江城攻めにて討死
してしまいますので、4代目が3代目となって家督を継いだものと推察され
ます。
 従って、血筋としての3代目重吉は、家督を継がず亡くなってしまうので、
一般的な歴史書には出て来ないのだと思われます。

 さて、足助の香嵐渓にある香積寺の裏山を20m程登った所に、足助鈴木
氏5代の墓がありました。仏塔が5つ並んでおりました。
 そこで、私はこれらの仏塔郡に向かい、般若心経を2巻唱え捧げました。

 さらに、その情報5m程の所に、「装束塚」と書かれた案内板がありまし
た――
 「装束塚
  二条関白良基は、約600年程前、京都の戦乱を避けて足助へ来ていた
 が、その時足助助次郎重範の娘滝野は、侍女として仕え、男子を出産した。
 幼名三吉丸、長じて成瀬基久を名乗った。犬山城主成瀬家の先祖である。
  良基は、戦乱のおさまった京都へ帰ったが、足助に残された滝野は、形
 見の装束を抱き、日夜慕い続けていたという。良基の死後、この装束を埋
 めて塚としたので、装束塚と呼ぶようになった。
  なお、この墓には、足助次郎重範、滝野、成瀬基久、基直(基久の子)が
 葬ってある。
                    (足助町文化財保護委員会) 」
 そこには、宝篋印塔が5基並んでおり、板で作られた名札版には微かに
名前―足助、成瀬、滝野……が見られました。
 ここで、また般若心経を2巻唱え捧げました。
  
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月17日 16時33分01秒 ) パスワード

三つ柏さん


わたくしの分も般若心経をありがとうございました。


>長じて成瀬基久を名乗った。犬山城主成瀬家の先祖である。

まさか、このような驚きに出会うとは思っていませんでした。


犬山城主の成瀬家は家康によって9男の尾張の殿様である義直の御付家老にされて
気の毒でしたが
まさか足助鈴木氏の出身とは全く知らなかったです。


>B酒呑鈴木氏(山吉田)

酒飲み、だったのかしら?

きっと何か笑えるようなエピソードがあるのかも、ですね?


体調はいかがでしょうか?
お疲れになってませんか?
いろいろ貴重な情報をありがとうございました。
わたくしの分も般若心経をありがとうございました。

鈴木氏の友人が結構いますので興味深いです。
[38]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月17日 18時44分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:情報→上方

 「酒呑」は「しゃちのみ」というそうです。現在は「幸海町」といい、
矢並の3q程南、豊田松平の4q程北東に位置しております。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月18日 02時01分01秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「酒呑」は「しゃちのみ」

「酒飲み」「大酒飲み」かと思ったら  鯱飲み  ですか。

土佐の山内容堂公が「鯨飲」と言われているので「鯨よりスゴイ鯱飲み」かと思いましたが
狂暴な鯱なら「酒乱系」?と連想しました。




で、検索しましたら
http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/seisan/sei045.htm
酒呑ジュリンナ遺跡(しゃちのみじゅりんないせき)  <時代>縄文時代  <地域>西三河
がヒットしました。

<所在地>
豊田市幸海町ジュリンナ (名鉄三河線豊田市駅から車で約25分)

<概要>
 酒呑(しゃちのみ)ジュリンナ遺跡は,豊田市域としては最古の縄文時代草創期(約9,000年前)の遺跡である。豊田市東部,矢作川支流の巴川に注ぐ白山川中流域,標高約120mの北側の段丘上に立地している。

 1959年(昭和34),宅地整地作業中に石器が出土し,1966年(昭和41)と1968年(昭和43)の2回にわたり名古屋大学考古学研究室が調査を行った。

 出土した石器には,木葉形尖頭器(せんとうき)・有茎尖頭器・掻器(そうき)・局部磨製石斧(ませいせきふ)・石鏃(せきぞく)・砥石(といし:矢柄研磨器)・たたき石などがある。土器では,隆起線文土器(りゅうきせんもんどき:口縁部に粘土紐を何条かめぐらせ,そこに爪形の模様を施した深鉢形の土器。

かつて縄文土器の中で最古のものと考えられていたもの)が出土している。

<参考資料>
 「豊田市史」 「酒呑ジュリンナ遺跡報告書」(豊田市郷土資料館) 「豊田の文化財」
<問い合わせ先>
 豊田市郷土資料館 0565-32-6561


山内家にしろ鈴木家にしろ、そのあたりの人は大酒飲みなんでしょうか?


名古屋は結構下戸が多いのですが
福島正則は大酒飲みの上に酒乱系だったそうなので
ま、「どこ」と断定はムリでしょうね。


[40]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月18日 10時26分38秒 ) パスワード

「直虎」見ました。
そういう経緯で三方が原の戦いになったのですか。

     政次が死んでからの流れにピンと来ません。


瀬戸方久があやめさんと結婚とは驚きでした。
新野の婿になりたいと言ってましたが(新田の婿になら分かったのですけど)。
それにしても  憎めない人ですが  余りにもゲンキン過ぎ。


でもあやめさんは方久から大切にされたでしょうね。
美人でなくても
賢くて性格が良くてその上にお金に替わる技術があるから
    (ドラマでは方久は最後のお金になる彼女の能力しか見てないようですが)
非常に現代的な男性だなと。

     ワタシの世代はお金を運んで来るのは夫ということになってたけど
     方久は現代的に  男女平等精神なんだなぁ〜  男と同程度に稼いで来い  ってタイプだなと。

         自由平等博愛のフランスは赤ん坊のオムツ1枚でも50−50で夫婦で払うそうですよ。
         今の日本の若者も生活費を50−50で出し合うと聞いて
         すごいね、今や、男女平等の日本になってるんだね、と驚きました。

            もうちょっと書くと、お金は平等に出すのに
            3K  =家事・子育て・(夫の親の)介護=  が
今でも妻の仕事と期待されてて
            これから益々日本は離婚が増えるだろう、と聞いています。


やっぱり瀬戸方久という人は時代を超えた人だったんだなと。
そして演じるムロツヨシの演技が秀逸。
この人自身がすっごく頭の良い人なんだろうなと。


それにしても高瀬って?
初めて井伊谷に来た時(武田の間者?)と思いましたが
今回も謎の行動がありました。
一体何者?


家康の混乱ぶりも面白かったです。
きっと  フツーの人  だった?
人に恵まれ、運に恵まれ、時に恵まれた人?
全然偉人っぽくないですよね。
フツーの人。


ワタシは今回も討ち死にです。
自分だったらどうするか?
全然考えつかなかったです。

     これまでに何回判断ミスで討ち死にしたことやら。
[41]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月18日 16時20分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「酒呑」は、酒飲みの私にとっては大変興味ある地名であります。また、
ジュリンナ遺跡の「ジュリンナ」にも興味を引かれます。一度、機会があれ
ば訪ねてみたいと思います。

 「鯨飲」ということば、土佐の人にはかなわないですが、若い頃はガブ
飲みしたものであります。今は魚(鯨は魚ではない?)で言えば、ワカサギ
程度の飲み方になってしまいました。25度の焼酎をおちょこで2〜3杯
なめる程度になってしまいました。

 さて、政次が亡くなってからの武田の動き、特に「三方ヶ原の戦い」と
その前哨戦などは、大変はしょってドラマは作られており、理解しがたい
ところが多々あります。
 また、徳川家康のパーソナリティをあのように描いたり、瀬戸方久を漫
画チックに描いたり、高瀬をミステリアスに描いたり、正にドラマとして
面白くさせるためのシカケであると思います。

 高瀬のミステリアスな所は、後に武田臣・川手主水良則と結ばれること
を暗示させているのか……シカケがわかりません……。
 ドラマを面白くさせるのは、いわゆる「どんでん返し」でありますので、
楽しみにしておきましょう。

 足助を後にして、猿投の交流センター図書館へ向かった訳でありますが、
「猿投」という所、「猿」というイメージが「山の中」というイメージを
喚起させましたが、足助よりも開けた地帯でありました。
 よく考えたら、実は私も名古屋から瀬戸へ何回も行きましたが、正に
「瀬戸」の近くで、同じ地質地帯、瀬戸文化圏と言ってもいい所でありま
した。

 一旦、切ります――

 
[42]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月19日 22時48分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 東三河〜西三河、そして奥三河〜東濃(恵那)あたりを何回か走り回って
みて、だいぶ土地勘が働くようになりました。

 ザクっと言って、飯田と名古屋、即ち東西を結ぶ道路が153号線であり、
その道路は通称「飯田街道(三州街道)」と呼ばれています。
 その道路上には、「飯田」から言いますと、「浪合」、「稲武」、「足助」、
「猿投」(の南)、「名古屋」と続きます。

 また、南北に貫く道路は248号線で、「岡崎」から言いますと、「豊田」、
「猿投」(の西)、「瀬戸」、「多治見」と続きます。

 つまり、「猿投」のあたりが、東西の交通の要所であったということにな
ります。

 さらに、大きな要素としては、「矢作川」があり、猿投の南側に流れて
おります。水運が大いに活用できたはずで、陸運とも合わせ、猿投は重要
なポイントであったと言えるでしょう。

 そして、もう一つの特徴は、この奥三河と東濃は、「南朝勢力」の根付い
た場所であり、至る所でその活動した痕跡を見い出すことができます。
 足助は言うまでもなく、猿投もやはりそうでありました。

 今回、猿投町の図書館(猿投北交流館図書館)へ真っ先に行った訳でありま
すが、そこは「加納町」という所で、猿投山麓にありますが、あの足助重範
の家臣である「加納孫朗」が住んだことによるといいます。

 また、猿投山の南山麓で矢作川の近くに、「広瀬」という所がありますが、
ここには南朝の大忠臣「児島高徳」が、南朝再興のために城を築いたう所で
あるということです。

 つまり、飯田から岡崎までは正に南朝大動脈だったと言うことができます。

 その歴史の上に、松平・徳川政権があるということになります。

 服部党もこのルートを駆け巡ったはずであります。
 今回、服部党に関する情報は一つも拾えません出したが、今後も引き続き、
根気よく探索し続けたいと思っております。

 次回は、不思議な地「猿投」について述べてみたいと思います――


[43]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月20日 14時45分57秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございました。
目からウロコの書き込み2つでございました。


>高瀬のミステリアスな所は、後に武田臣・川手主水良則と結ばれることを暗示させているのか……シカケがわかりません……。

本当に仕掛けが想像もつきません。
どんなどんでん返しがあるのでしょう。


>ザクっと言って、飯田と名古屋、即ち東西を結ぶ道路が153号線であり、その道路は通称「飯田街道(三州街道)」と呼ばれています。
>その道路上には、「飯田」から言いますと、「浪合」、「稲武」、「足助」、「猿投」(の南)、「名古屋」と続きます。
>また、南北に貫く道路は248号線で、「岡崎」から言いますと、「豊田」、「猿投」(の西)、「瀬戸」、「多治見」と続きます。

土地勘が無いので  「南朝大動脈」  というのは全く空想も出来なかったです。
(だろうな)とは思ってましたが「南朝大動脈」というズバリの表現は全く思い当たりませんでした。


>服部党もこのルートを駆け巡ったはずであります。

要所要所に服部一族がいたはずですから  猿投  に服部氏もいたでしょうね。


>根気よく探索し続けたいと思っております。

よろしくお願いします。


>次回は、不思議な地「猿投」について述べてみたいと思います――

そうなんですか?楽しみにしていますね。
ワクワク
[44]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月20日 17時29分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「猿投」という名前については色々な説があります――
 @サナギ(銅鐸)から来た説
A猿を海に投げた説
 B山の姿が鐸に似ている説
 C鐸を木の枝に付けて祭祀を行った説
 D大碓命の死を悲しみ、真歎山(まなげきさん)が猿投山となった説
 E花崗岩の山で表層は風化した真砂(まさ)が覆っているため、表層崩れ
  を起こし易い。「狭(サ)・薙(ナギ)」=表層崩れという説。
 どれが本当なのか、確証は得られていない。

 ただ、猿投の「猿」という言葉は、「神」に通じている可能性が大いに
あることは推測できます。「猿女」、「猿楽」、「猿田彦」……。

 猿投山の麓にある猿投神社の主祭神は、「大碓命」であります。この人
の弟は「小碓」で、「日本武尊」のことであります。この両者の父は「景行
天皇」であります。景行天皇の妹が「倭姫命」。景行天皇の父が「垂仁天皇」
であります。
 猿投神社には、この主祭神の「大碓命」を見守るように、「景行天皇」と
「垂仁天皇」が祀られております。

 何でこの奥三河の地に、「大碓命」が? 先日行った九州の「宇佐八幡宮」
ともつながって来ます。

 この続きは次回――
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月21日 10時37分24秒 ) パスワード

三つ柏さん


>何でこの奥三河の地に、「大碓命」が? 先日行った九州の「宇佐八幡宮」ともつながって来ます。

ビックリです。


ということで検索してみました:
http://www.google.com/search?q=%E5%A4%A7%E7%A2%93%E5%91%BD%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E5%A4%A7%E7%A2%93%E5%91%BD%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.12..0i4i30k1.2398.2398.0.4271.1.1.0.0.0.0.131.131.0j1.1.0....0...1..64.psy-ab..0.1.131....0.xDhyv6PMBqc

面白そうなお話が沢山紹介されていますね。

ウイキより:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A2%93%E7%9A%87%E5%AD%90

大碓皇子(おおうすのみこ[1]/おほうすのみこ、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。

『日本書紀』では「大碓皇子」または「大碓命(おおうすのみこと)」、『古事記』では「大碓命」と表記される。

第12代景行天皇皇子で、ヤマトタケル(日本武尊/倭建命、小碓命)とは双子とされる。


                       双子説、というのは全く知らなかったです。


『日本書紀』によれば、第12代景行天皇と、皇后の播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ、稲日稚郎姫)との間に生まれた皇子である。同書では、同母兄弟として小碓尊(おうす<をうす>のみこと、日本童男/日本武尊)のみの名を挙げ、大碓命とは双子とする[2]。

『古事記』においても、景行天皇と、若建吉備津日子(吉備臣らの祖)の娘の針間之伊那毘能大郎女との間に生まれた皇子とする。ただし同書では、同母兄として櫛角別王、同母弟として小碓命(倭男具那命/倭建命、双子の記載はない)・倭根子命・神櫛王の名を挙げる[3]。

妻子について『古事記』では、大根王(おおねのみこ、三野国造の祖)の娘の兄比売(えひめ)・弟比売(おとひめ)を娶り、兄比売とは押黒之兄日子王を、弟比売とは押黒弟日子王を儲けたとする[3]。



日本書紀:

『日本書紀』によれば、
大碓命・小碓尊ら双子出生の際、天皇が怪しんで臼に向かって叫んだので、「碓(うす)」の名がついたという[2]。

次いで同書景行天皇4年2月是月条によれば、天皇が神骨(かむほね、美濃国造)の娘の兄遠子(えとおこ)・弟遠子(おととおこ)姉妹が美人であると聞き、大碓命がその視察に遣わされたが、大碓命は密通して復命せず、天皇から恨まれたという[2][1]。

また同書景行天皇40年7月16日条によれば、天皇が蝦夷平定の適任を群臣に問うと、西征を終えた日本武尊は大碓皇子に任せることを進上した。しかし大碓皇子は草むらに逃げ隠れたため、使者をして召還させられ、天皇から責められたのち、美濃国に封じられた。そして身毛津君・守君の祖になったという[2](結局東征は日本武尊が行なった)[1]。


古事記[編集]

『古事記』によれば、天皇が大根王(三野国造の祖)の娘の兄比売・弟比売姉妹が美人であると聞き、大碓命がその視察に遣わされた。しかし大碓命は密通し、天皇には偽って別の女性を献じた。そして大碓命は、兄比売とは押黒之兄日子王を、弟比売とは押黒弟日子王を儲け、押黒之兄日子王は三野之宇泥須和気の祖に、押黒弟日子王は牟宜都君らの祖になったという[3][1]。

またある時、大碓命が朝夕の食膳に出てこないので、天皇が小碓命に「ねぎし教えさとせ(ねんごろに教えよ)」と命じた。しかし5日経っても大碓命が出てこなかったので、小碓命にどう教えたのか問うと、大碓命が明け方に厠に入った時、捕まえてつかみつぶし、手足をもぎとって薦に包んで投げ捨てた、と言ったという(「ねぎし」の誤解による)[3]。

                          とんでもない弟だこと



                          http://ameblo.jp/reki-sanpo/entry-12180514165.html

                          「ねぎし教へさとせ」
                                                                    「教え込んだれ」と言われた小碓命は、
                                 自分流に解釈して「よお教えたった」わけです。




                          「ねぎ」ぼ原型は「ねぐ」で、「ねぐ」とは「ねぎらう」の語源で
                          「ねぎらう、慰労する」の意味があります。


                                これを小碓命は「ねぎり」と勘違いして「根切った」
                                つまり根本的に命を断ち切ったという解釈です。

                                      小碓命は力任せの脳筋だったという話です。
                           
                                     場面を想像すると残虐で、猟奇的な殺人事件でですが、
                                   「脳筋キャラのやっちゃった話」がもとになっているとも考えてよいのです。


                               以上部分コピペ


墓は、宮内庁により愛知県豊田市猿投町鷲取の猿投神社内にある大碓命墓(おおうすのみことのはか、位置)に治定されている[4][5]。公式形式は円丘。

上記の墓は猿投山の山中、猿投神社の西宮後方に所在する。この猿投神社では、大碓命は主祭神に祀られている。同社社伝によれば、大碓命は美濃に封じられてのち当地方の開拓に尽くしたが、景行天皇52年に猿投山に登る中途で蛇毒のため42歳で亡くなったという。

                          毒蛇に噛まれて亡くなった、というのは素直に「そうだったかもね」と思います。
                          蝮とかヤマカガシとかいそうだから。



大碓皇子について、『日本書紀』では身毛津君・守君の祖とし、『古事記』では守君・大田君・嶋田君・三野之宇泥須和気・牟宜都君らの祖とする[1]。

『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。


左京皇別 牟義公 ーーー 景行天皇皇子の大碓命の後。
左京皇別 守公 ーーーー 牟義公同氏。大碓命の後。
河内国皇別 大田宿禰 −大碓命の後。
河内国皇別 守公 ーーー 牟義公同祖。大碓命の後。
河内国皇別 阿礼首 ーー 守公同祖。大碓命の後。
和泉国皇別 池田首 ー  景行天皇皇子の大碓命の後。

[46]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月22日 14時29分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 何で西三河の奥の猿投神社に「大碓命」が祀られているのか……というこ
とで、その謎について、またもや古代史の旅に出かけることになりました。

 そういえば、小学生の頃、三船敏郎主演の確か「ヤマトタケル」という題
名の映画だったと思いますが、一番最後のシーンだけ鮮烈に覚えております。
 それは、タケルが白鳥になって飛んで行くというシーンであります。白鳥
は「はくちょう」で「鷺」ではありませんでした。白鳥の飛ぶ姿は、たとえ
鷺であっても「神々しい」ものであります。タケルの魂―汚れ亡き純白の魂
が帰るべき愛しき地へ向かって飛んで行く……子供心にも哀憐の情を感じた
わけであります。

 その日本武尊(ヤマトタケル)は、景行天皇の子、大碓命の弟の小碓である
ということであります。日本武尊の物語は、敢えて言う必要もない程有名で
あると思いますので省きますが、叔母である「倭姫」から草薙剣をもらって
おり、武尊の死後、熱田神宮に納められたと言われております。

 さて、三河の歴史を色々調べてみますと、想像以上のことがあり、点と線
でいうと、「点」がたくさんあるということを改めて感じました。

 もっとも、以前、三河の砥鹿神社や本宮山、権現山遺跡などを集中して調
べたことがありますので、三河の古代の歴史が「謎めいている」ということ
は既に知っておりました。本宮山も権現山も、出雲・大国主と関係するとい
うことがうっすらわかりかけておりました。
 但し、出雲、物部、尾張、大和との関係については、複雑で未だ理解しが
たく、浅薄な知識段階で終わっております。

 さて、「点」ということですが――
 @東三河八名郡一鍬田には、日本武尊の父である景行天皇の陵があるとい
  う伝承があるそうです。
 Aまた、日本武尊が白鳥となって飛来し、葬られたという伝承のある神社
  が、宝飯郡火防にあるという。その神社は「白鳥神社」(ここはかつて
  一度訪れたことがありました)であります。
 B景行天皇の腹違いの兄弟で、「鐸石別(ぬてしわけ)」という人物がおり、
  日本武尊の異母弟の成務天皇より、国造として、三河の稲木(野田付近)
に赴任したということであります。

 その他、色々な「点」がありますが、論理的につなげて文章化するまでに
は至っておりませんので、もう少し頭の中で熟成させます。

 いずれにしましても、景行天皇と日本武尊は、熊襲・隼人・蝦夷との戦い
に明け暮れたような感じはしております――

[47]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月22日 15時44分43秒 ) パスワード

三つ柏さん

>景行天皇と日本武尊は、熊襲・隼人・蝦夷との戦いに明け暮れたような感じはしております

日本が統一されていく上で  統一した功労者達が  日本武尊  という一人の英雄に集約されているのでしょうね。


最近朝日新聞の記事で
縄文時代に青森と沖縄が何らかの形で交流があった<らしい>
というのを読みました。


なので三河に神代の時代の痕跡があって当たり前なのでしょうね。
残念ながら今となっては  点  しか分からないけど
実は  繋がっている
それがどう繋がっているのか  藤原不比等などの改竄工作で  正しく伝えられていない。 


>タケルの魂―汚れ亡き純白の魂が帰るべき愛しき地へ向かって飛んで行く……子供心にも哀憐の情を感じたわけであります。

非常に日本的な美、日本人の琴線に触れる光景、ですね。
[48]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月23日 08時54分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:汚れ亡き→汚れなき 

本日は、「新城」の野田(野田城跡あり)、稲木、一鍬田方面へ行ってまい
ります――
[49]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月24日 07時20分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、新城市(今は広域)の「野田」、「稲木」、「新城市内」他へ行
って来ました。色々収穫がありました。やはり、現地には現地の紙上には
載ってこない「歴史のかけら」が落ちています!

 何から始めようかと思案しています……文脈を整理してみます――
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月24日 08時58分29秒 ) パスワード

新たにスレッドを立てました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101607.html
キリの良いところでどうぞ。
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