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 投稿番号:101603 投稿日:2017年08月14日 15時00分27秒  パスワード
 お名前:三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族XCX(課題確認38)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101601_59.html
長上郡の服部氏族XCW(課題確認37)
スレッド94の続きです。


      自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
      最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


新しい情報が満載のスレッドでしたね。

中でも驚いたのが、
スレッド<30>に近江服部氏が出て来ました。
甲賀と伊賀はもともと1つの国の中だったとは聞いていましたが
甲賀の服部氏の存在には驚かされました。

1つの民族が国境線によって引き裂かれる悲劇はよくありますが
甲賀忍者と伊賀忍者の連携プレイは
服部一族が関わっていたからかも、でしょうか?


http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/koukahattori.htm
近江 服部城

お城のデータ
所在地: 滋賀県甲賀市甲南町新治字中出
遺 構: 曲輪、土塁、空堀
形 式: 丘城
築城者: 服部氏
築城年代: 室町時代

甲賀・伊賀の服部氏一族本貫の地。
服部城は、新宮神社の背後の丘陵に築かれている。 

城から南東約200mの所に新宮城と新宮支城があり、共に服部氏築城の城。
服部城と新宮2城での防衛を図ったと考えられる。


新宮城は、室町時代に服部氏によって築かれた。 


服部氏は、甲賀郡中惣を組織した甲賀五十三家の一つ、
荘内三家に数えられた有力土豪であった。 

伊賀服部氏とも一族になり、服部一族本貫の地でもある。


お城へのアクセス
鉄道: JR草津線甲南駅〜徒歩約20分
車 : 新名神甲南IC〜県道132号線


機会があれば三つ柏さんには是非甲賀の服部氏についてもお調べ頂きたいものです。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月14日 15時17分29秒 ) パスワード

甲賀の服部氏:以下コピペ4


http://www.kakeisi.com/survey/survey_siga.html

甲賀郡には伴氏の一族として甲賀、平松、大原、山岡があります。

甲賀といえば忍者ですが、甲賀衆と呼ばれる党を作っていました。


甲賀衆には次の名字があります。

頓宮(はやみ)、大河原、土山、佐治、大野、
神保、隠岐、高峯、和田、上野、
竹島、笹山、勝井、山岡、竹林、
瀧、飯田、池田、望月、

服部、

芥川、鵜飼、内記、山中、伴、
美濃部、中山、岩根、新城、八田、
宇田、儀峨、大原、上野、多喜、
池田、鳥居、大久保、大野、土山、
平子、鮎川、黒川、饗庭(あえば)、葛城、
山上、青木、宮島、針、夏見、
杉山、長野、多羅尾、倉地、杉谷、
三雲、牧村
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月14日 15時45分15秒 ) パスワード

実在した忍者
http://matome.naver.jp/odai/2142098701211884501
以下コピペ【画像参照】



「服部半蔵」とはそもそも「伊賀忍軍」歴代党首の名前であり個人を示すものではありません。
つまり「第二代服部半蔵正成」のように代々襲名していく名前です。

現在のイメージのような服部半蔵は初代のみで二代目以降は甲冑をきて足軽を率いていた武士である。



初代 服部半蔵保長
出典
服部保長 - Wikipedia

伊賀の忍者には服部氏族の子孫である「千賀地」「百地」「藤林」の三家があったが狭い土地において生活が逼迫したため、その中の一家である千賀地家の保長は旧姓である服部に戻して伊賀を出て室町幕府12代将軍・足利義晴に仕える事となる。だが当時は室町幕府の衰退期であり、保長は見切りをつけて三河に赴き松平清康に仕える事となる。歴代「服部半蔵」のうち忍者と呼べるのは初代だけである。



二代目 服部半蔵正成
出典
服部半蔵 - Wikipedia


世間一般で「服部半蔵」と言えばこの二代目の事を指すことが多いが彼は完全に武士である。
徳川家康に使え各地で戦功をあげる。小田原征伐では遠江に8000石を知行した。

家康の関東入国後、与力30騎および伊賀同心200人を付属され同心給とあわせて8,000石を領した。自身は武将であったが、父親が伊賀出身であった縁から徳川家に召し抱えられた伊賀忍者を統率する立場になったとされる。



風魔小太郎
出典
風魔小太郎 - Wikipedia

風魔一党の歴代党首の名前であり個人を示すものではありません。

北条家に仕えること100年の間で、最も有名な五代目風魔小太郎は、「身の丈七尺二寸(2m16cm)、筋骨荒々しくむらこぶあり、眼口ひろく逆け黒ひげ、牙四つ外に現れ、頭は福禄寿に似て鼻高し」という異様な姿だったという伝説も残っている。北条家が滅亡すると、小太郎と風魔一党は江戸近辺を荒らし回る盗賊に成り下がり、1603年に盗賊・高坂甚内(甲斐武田家に仕えた忍者)の密告により徳川家に捕縛され処刑され風魔一族は滅亡したと言われる。



加藤段蔵
出典
加藤段蔵 - Wikipedia

別名加当段蔵。忍者としての技術に優れるが故に仕える家々で、警戒され暗殺を謀られる。1569年厠に入っていたところを武田信玄の命令を受けた馬場信春(または土屋昌次)によって暗殺されたのである。享年67とされる。その優れた技術から、「飛び加藤」(鳶加藤とも)と称された。

段蔵は異名が示すように飛翔術にすぐれていた。身が軽く、どんなに高い塀や深く長い堀でも、軽々と飛び越えることができた。「幻術を使った」等エピソードには事欠かない忍者である。



百地 丹波(三太夫)
出典
百地丹波 - Wikipedia

表面上は伊賀一帯を仕切る土豪だったが、裏では伊賀忍者の上忍で、伊賀忍者を統括する3人組の一人であったといわれている。忍者の実力に脅威を覚えた信長は1581年に信長自ら5万の大軍を率い伊賀に侵攻を開始する。これに対して丹波は、柏原の砦に籠もって抵抗したが、衆寡敵せずに多くの一族と共に戦死した(天正伊賀の乱)。

石川五右衛門は丹波の弟子という説があるが、五右衛門に妻を奪われたうえ、その妻にそそのかされた五右衛門によって愛妾を殺害されるなど、散々な関係にあったといわれている。

国際的にも知名度が高く、国際スパイ博物館においても、スパイの祖としての忍者の代表的存在として扱われている。



藤林長門守
出典
藤林長門守 - Wikipedia

戦国時代の忍者。伊賀の上忍三家の一つ藤林氏の当主であり、伊賀北部で甲賀に境を接する湯舟郷を支配していた。甲賀側にも多くの配下がおり、伊賀甲賀双方に影響力を持っていたとされる。服部氏の服部半蔵、百地氏の百地丹波と並び伊賀の三大上忍と呼ばれる。

伊賀流の頭目という立場でありながら記録はほとんど残っておらず、その生涯は謎に包まれている。第二次天正伊賀の乱では甲賀の多羅尾氏ともに、織田氏の手引きをして生き残ったという説もあれば、織田の軍勢と最後まで戦い抜いた百地丹波と同一人物とする説もある。

長門守の子孫、藤林佐武次保武が今に忍者の姿を伝える貴重な資料と呼ばれる『万川集海』を著している。

「記録がほとんど残っておらず」というのは忍者が忍者たる所以であると言える。



高坂甚内
出典
高坂甚内 - Wikipedia

武田氏に仕えた甲州流透破の頭領。一説には高坂昌信の子とも孫とも言われる。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康から関東の治安回復の責任者に任命され、北条氏の滅亡後は盗賊に身を落していた風魔一党の隠れ家を密告し、風魔小太郎を捕縛処刑させた。その甚内も各地の盗賊を糾合し治安を脅かしかねない巨大な存在に成長したため、幕府から追われる立場となり、10年後の慶長18年(1613年)に捕縛され、市中引き回しの上浅草鳥越の刑場で磔にされた。

瘧(マラリア)を煩っていたといわれ、死に際に「瘧さえなければ捕まることはなかったのに。瘧に苦しむ者は我に念ぜば癒してやろう」ということを言い残したという。そのため、浅草にある甚内神社では瘧に利益のある神として祀っている。



伊賀崎道順
出典
伊賀崎道順 - Wikipedia

伊勢の北畠氏や近江の六角氏、後に徳川家康などに仕えたといわれている。
六角義賢に仕えていたころ、義賢の配下だった百々氏(どどし)が謀反を起こした。道順は百々氏の居城、沢山城(後に石田三成の居城となった佐和山城か?)に忍び込み、城に火をかけ、城内を大混乱させ、城を落とし、手柄を立てたといわれ、難攻不落の城も「伊賀崎入れば落ちにけるかな」と詠われたほど。また、鉄砲の名手ともいわれていて、織田信長の暗殺を企て狙撃した事もある。だが、信長に命中せず、隣にいた人物に命中してしまったという記録が残っている。



真田忍者

真田氏は忍者を多く採用していたと言われており、後の真田十勇士のモデルとなった何人もの忍者の名前が資料に残されている。



出浦盛清
出典
SAMURAI FESTIVAL

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。実名は昌相である。真田氏の家臣であり甲州透破の支配者。村上義清が越後に逃れると武田家に仕え、武田氏滅亡後は織田家臣の森長可に属した。本能寺の変の後、長可が海津城から美濃国へ撤退を図った際には、他の信濃国衆全員が長可を裏切る中、最後まで撤退に協力し、脇差を与えられた。その後、真田昌幸・真田信之父子に仕え、豊臣秀吉の小田原征伐では真田軍として忍城攻めでも活躍した。松代藩では忍者の頭領となり1623年に78歳で死去。非常に優秀な忍者として有名で真田十勇士の一人である霧隠才蔵のモデルとなった人物。横谷左近幸重とともに忍者集団棟梁の双璧と称された。



上月佐助
出典
日本の忍者まとめ - いろいろな「はてな」に触れるブログ

戦国時代の伊賀国下忍。下柘植ノ木猿(しもつげのきざる)ともいう。真田十勇士の猿飛佐助のモデルとなった人物といわれ、猿を使った特異な忍術を使ったといわれる。



横谷庄八郎
出典
日本の忍者まとめ - いろいろな「はてな」に触れるブログ

戦国時代の忍者。真田氏の配下横谷左近の弟で本名は横谷重氏。こちらも猿飛佐助のモデルと言われる。関ヶ原の合戦以降真田幸村に仕え、大阪夏の陣で討ち死にしている。



霧隠鹿右衛門
出典
日本の忍者まとめ - いろいろな「はてな」に触れるブログ

出浦盛清と同じく真田十勇士の霧隠才蔵のモデルとなった人物。霧隠鹿右衛門自体が江戸時代の軍記物『真田三代記』に登場するだけなので、そもそもが実在の人物かどうかも不明。



唐沢玄蕃
出典
日本の忍者まとめ - いろいろな「はてな」に触れるブログ

武田家、真田家に仕えた。その身軽さを 「飛び六法」と称され、助走なしで1.8mも飛び上がり、12mの高さから飛び降り音を立てずに着地したとされる。跳躍術に加え火薬術にも長けていたといわれている。敵城から金の馬鎧を馬ごと盗み出したという逸話も『加沢記』に記録されている。




禰津信政
出典
戦国浪漫・忍者/異能者編

真田幸隆・昌幸に仕えた忍者集団の頭領。元は鷹匠の家だった禰津家は甲陽流忍術の家元として知られ、後に女忍者集団「禰津流くの一」を輩出する。



割田重勝
出典
真田家 家臣団

妻七騎の一人。膂力に優れた忍びの達者という。天正十三年の沼田防衛で松田憲秀の乗馬を奪ったという逸話がある。のち盗みの罪で出浦守清に討たれた。




角田新右衛門
出典
真田家 家臣団

出浦守清に属し、真田幸隆、昌幸親子に仕えた。永禄六年、岩櫃城攻撃に間者として功があった。



壺谷又五郎
出典
戦国武将録: 真田昌幸家臣団辞典

真田昌幸が沼田城を攻略した際に、褒美として武田勝頼から「甲斐の国のどの領地が欲しいか」と言われたときに、真田昌幸が領地ではなく人をひとり欲しい、と願い出て譲りうけた。真田忍びである「草の者」を束ねる。



これだけの真田忍者が記録に残ってるからこそ「真田十勇士」が生まれたんですね。




石川五右衛門
出典
ja.wikipedia.org
blog.livedoor.jp

安土桃山時代の盗賊。伊賀流忍者の抜け忍で百地丹波の弟子ともいわれている。古典芸能から映画まで忍術使いとして描かれた作品が多数存在する。百地に対して不義理をはたらいたという悪しき言い伝えがある一方で、時の権力者であった豊臣秀吉を狙ったことから庶民のヒーロー的な扱いもされている。釜茹でで処刑された。



鹿折信濃
出典
日本の忍者まとめ - いろいろな「はてな」に触れるブログ

下鹿折時兼ともいい、戦国時代に伊達政宗が創設した忍者集団「黒脛巾組」に属したといわれる。清和源氏の末裔である及川三家の本家にあたる。葛西家臣であったが浜田広綱の乱で謀反をはたらいたことにより滅ぼされた。




竹永隼人兼次
出典
日本の忍者まとめ - いろいろな「はてな」に触れるブログ

戦国時代から江戸時代の武術家で「黒脛巾組」。「柳生心眼流」の開祖といわれ、時の将軍家指南役であった柳生宗矩から学んだ柳生新陰流や神眼流、首座流、神道流、戸田流がもとになっている。



鉢屋弥之三郎
出典
日本の忍者まとめ - いろいろな「はてな」に触れるブログ

戦国時代の忍者で鉢屋衆のひとり。尼子家に仕え、奇襲作戦による富田城奪回の功績者となった。



青山虎之助
出典
青山虎之助 - Wikipedia


甲賀流忍者。徳川家康に仕えた。
永禄7年(1564年)に起きた三河一向一揆鎮圧の際、家康の命により、一揆側の立て籠もる碧海郡佐々木の上宮寺へ同行した深津九八郎とともに放火して味方をひきいれるため忍び込んだが、発見され斬首になった。




鵜飼孫六
出典
戦国浪漫・忍者/異能者編

甲賀忍者。甲賀五十三家鵜飼源八郎の一族か。松平元康(徳川家康)が今川方鵜殿長持の拠る三河上郷城攻めの際、戸田三郎四郎の要請に応じ甲賀忍者二百名を統率して城に忍び込み、城内を混乱させ落城させたという記録がある。



神戸小南
出典
戦国浪漫・忍者/異能者編

戦国期の伊賀国神戸郷の下忍。その忍びの技術は各国の忍者たちの間でも高く評価され、怖れられたという。



高山太郎次郎
出典
戦国浪漫・忍者/異能者編

姓は「甲山」とも書く。戦国期の伊賀国上野郷の下忍。その忍びの技術は各国の忍者たちの間でも高く評価され、怖れられたという。

高山太郎次郎の屋敷跡が現在、上野公園内の「伊賀忍者屋敷」として現存している。



篠山理兵衛
出典
戦国浪漫・忍者/異能者編

名は景春。甲賀五十三家の一つ大原氏の一族で、篠山監物の弟。徳川家康が上杉討伐に向けての帰国時に、豊臣家五奉行の長束正家が居城の近江水口(岡山)城下で家康暗殺を企てたが、いち早くこれを察知し家康は難を逃れた。関ヶ原の際に伏見城に籠もり、一族とともに討死した。



望月出雲守
出典
戦国浪漫・忍者/異能者編

甲賀五十三家中もっとも勢力があった上忍のうちの一つ、近江国甲賀郡竜法師郷に居を構える望月家の当主。出自は信濃国の名族・滋野三家のひとつである望月氏の流れといわれ、煙術を駆使した「甲賀三郎」の名で有名。

出典
www.tokotabi.net

望月氏の屋敷跡が現在「甲賀流忍術屋敷」として残っている。




柘植清広
出典
柘植清広 - Wikipedia

伊賀流忍者。鉄砲に秀で威風流砲術を開く。天正伊賀の乱に際し、徳川家康に接近する。本能寺の変発生時、堺にいた家康が伊賀越えを決行すると、信楽と伊勢国白子間を一族で警護した。後に幕府旗本となる1629年に90歳で死去した。



伴長信
出典
戦国浪漫・忍者/異能者編

通称太郎左衛門。姓は「とも」と読むこともある。甲賀五十三家中もっとも勢力があった上忍のひとつ伴家の当主で、六角義賢や織田信長の下で甲賀忍者たちを指揮した。本能寺の変の際に、信長の側にあって最後まで明智軍をくい止めて討死したと伝えられる。



山田八右衛門
出典
戦国浪漫・忍者/異能者編

戦国期の伊賀国山田郷のいわゆる下忍。仲間内からは「ハッチョモン」と呼ばれ、普段は伊賀一の宮敢国神社の世話人であったと伝えられる。双忍術など高度な変装術を使うことで知られたという。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月14日 15時53分23秒 ) パスワード

http://www.2nja.com/legend_2nja/
忍者マイスター


      面白かったですよ。

その他
http://www.google.com/search?q=%E7%94%B2%E8%B3%80%E5%BF%8D%E8%80%85%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E7%94%B2%E8%B3%80%E5%BF%8D%E8%80%85%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.3..0i4k1j0i4i30k1l2j0i8i4i30k1.2044.4942.0.5639.12.12.0.0.0.0.406.1368.0j3j2j0j1.6.0....0...1.1j4.64.psy-ab..9.3.733...0j0i7i4i30k1.hQruj0AG4uQ








甲賀流 - Wikipedia


https://ja.wikipedia.org/wiki/ 甲賀流






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伊賀流 - Wikipedia


https://ja.wikipedia.org/wiki/ 伊賀流






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koka.ninpou.jp/






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伊賀忍者と甲賀忍者の違いとは?日本人が知らない忍者の起源


spi-con.com › 精神・心理学



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甲賀忍者の歴史 | 甲賀流忍術屋敷(甲賀望月氏本家旧邸) | 今に残る本物 ...


www.kouka-ninjya.com/knowridge/rekisi_koga.html






Translate this page甲賀忍者がその存在を大きく認められたのは、何といっても長享元年(1487)、「鈎(まがり)の陣」の戦いである。 当時、幕府の命令に背いた佐々木六角氏の討伐に、足利九 ...








甲賀忍者は江戸時代にも暗躍していた!「忍術書」見つかり、存在が証明:J ...


https://www.j-cast.com/tv/2017/05/02297048.html



Translate this pageMay 2, 2017 - 忍者の里、滋賀県甲賀市で江戸時代初期に書かれたとみられる「忍術書」が発見された。伊賀と並んで名高い「甲賀忍者」だが、豊臣に追われて歴史の ...








【忍者】実在した忍者一覧【伝説】 - NAVER まとめ


https://matome.naver.jp/odai/2142098701211884501



Translate this pageApr 26, 2016 - 存在を証明できる記録は少ないが【忍者】は実在していた! .... 伊賀の上忍三家の一つ藤林氏の当主であり、伊賀北部で甲賀に境を接する湯舟郷を支配し ...



面白いのでついつい際限無く読んでしまいます。
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月15日 07時50分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様
 伊賀の柘植に隣接して甲賀がありますので、柘植との関係は特に深いので
はないかと推察しています。

 柘植といえば平宗清。三人の子供は、それぞれ柘植、福地、北村を名乗っ
 甲賀には近い内に行ってまいります。

たとされる。
 この柘植氏に服部の血が入ったものと推察しています。

 浪合に行った日、実はあと二カ所回るつもりでおりましたが、浪合に時間
をかけたため、行けなくなってしまいました。その二カ所というのは、恵那
の「蛭川」と可児市長森城跡でした。

 この「蛭川」という所、恵那の明智より北に約30q程に位置します。
 「浪合」からは、岩村経由で約70qの所であります。
 あを様のかかわった平熱「柘植氏研究HPのURLご紹介:平姓・源姓他」の
中で、柘植宗澄氏の『柘植姓の研究』の紹介があり、その中には柘植氏に
ついて次のような記述があり、改めて伊賀服部党とその一族と南朝との関係
の深さを感じました――
 「古来、東濃木曽川以北の地帯は、南朝遺臣の蟠踞居地として知られてい
 る恵那郡蛭川(ひるかわ)村は南朝の残党、平流川(ひるかわ)侍の隠棲地で、
 後醍醐天皇の皇子らの遺跡もあり、南朝神社も祭祀されているので、柘植
 氏の祖先は南朝の臣として各地を転戦の上、敗残の身を此処に避け、土農
 化したものではあるまいか。蛭川村は、南北朝時代、平流川村と称した。
 「平家の流れを汲む者の村」という意味であろう。
    〜中略〜
  また、当時、伊賀武士は宮門守護の役に任じた者が多く、宗清(桓武平
 家の一党、柘植一族の祖)の子家清から七代目清泰が、後醍醐天皇に奉属
 し、忠功を顕したという古記録と思い合わせて考えれば、これに結び付く
 ものがないとは言えない。してみれば、この蛭川村が美濃の柘植一族の
 発祥の地なのかも知れない。」

 つまりは、伊賀の服部党を中心に南朝に加わって、各地を転戦した。その
名残としての氏族が各地に見られるということであると思います。

 さて、「浪合」での肝心な部分の報告がまだですので、これからそれにつ
いて記したいと思います――
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月15日 15時27分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 浪合神社の直下の入り口より20段ほど階段を上がると、そこに荘厳な
空域が現れました。2つの塔が並んでいる。1つは、基台部分を入れると
4m位の高さがあろうか、どっしりとした四角柱の石の塔である。「尹良
親王御舊迹」と彫られている。
 もう一方は、高さ2.5m位の宝篋印塔で、「尹良親王慰霊塔」と彫られ
ていた。

 よく調べたところ、大きい方は大正2年、宝篋印塔は平成3年に建てら
れている。浪合村の史跡保存会が建立したものである。それ以前より存在
していたのかどうかは不詳であります。

 ここで、両塔に向かって般若心経を2巻唱え捧げました。

 そして、そのすぐ上に「浪合神社」はありました。向かい側には、「勅使
参向の碑」が建てられておりました。こちらは、規模は小さいながらも、
「井伊谷宮」と同じような拝殿・神殿でありました。

 そこから少し戻ると、更に高い所へ上る階段が20段程ありました。傍ら
に告知板(高札のようなもの)が建てられており、こう書かれておりました―
 「後醍醐天皇皇孫 尹良親王墓
  一、みだりに域内に入らぬこと
  一、魚鳥等を取らぬこと
  一、竹木等を切らぬこと 
                宮内庁」
 さて、階段の上には何が……石の柵と菊の御紋が2つ見える。行ってみる。
そこには石柱の柵で囲まれた円墳――塚と言った方がいいのか―がありまし
た。石柵は10m四方、塚の直径は7m程、塚の高さは1.5m位でありまし
た。
 つまり、これが「尹良親王」の墓でありました。

 あを様ご教示のとおり、尹良親王は浪合で土族に襲われ、伊那の「大河原」
まで逃げ延び、そこで自害されたということのようです。その首を浪合まで
運び、塚を造って埋葬したということになります。
 ここで、般若心経を2巻、唱え捧げました。

 尹良親王と共に戦った従士たちの墓について、次に述べますが、「浪合の
合戦」があったことを証明するようなリアリティーを感じました――
  
  
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月16日 05時17分31秒 ) パスワード

三つ柏さん AKECHIさん

>柘植といえば平宗清。三人の子供は、それぞれ柘植、福地、北村を名乗っています。

AKECHIさんのおっしゃる  柘植と北村(喜多村)の関係。
光秀の忘れ形見の北村(喜多村)氏のことかもですね。

他の情報も欲しいところですね。


前スレにコピペしますね。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月16日 05時44分09秒 ) パスワード

三つ柏さん


わたくしの分も般若心経をありがとうございました。

南朝方のご先祖さま達
すごいエネルギーですね。


    人間のオスは原始時代から武器を手に獲物を求めてひたすらに追い掛けていましたが
    人間にはそういう本能が脈々と流れているのでしょうね。


現代の人間も、どこまでも先祖達の足跡を辿って出掛け、確認しようとします。
平和な今はそれを「観光」と呼びますが
今の三つ柏さんは「本能」に突き動かされているのでしょうね。般若心経を詠める特技をお持ちでラッキーでした。


>「尹良親王慰霊塔」

整備されてて良かった。

今後は大河ドラマ効果で井伊家関係者やファンが来てくれるかもですね。
尹良親王、ビックリでしょうね。
良い子孫を持って、お幸せかも。
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月16日 07時49分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「おんな城主 直虎」には、宗良親王との関係・歴史背景はほとんど
出て来ません。テーマがそれるからか、ややこしくなるからか……。

 龍潭寺と井伊谷宮は表と裏の関係、裏に井伊谷宮があり、宮内庁管理
の宗良親王の墓・塚(御陵墓)がありますが、中に入れませんので見られ
ません。御手洗清氏の『歌人 宗良親王 ―井伊谷宮―』によりますと、
中には高さ1.78mの宝篋印塔が建てられているという。この塔は、
信州伊奈郡阿島城の城主、知久監物源頼久が建立したものである。宗良
親王が伊那の大河原にいた時、香坂高宗の妹との間に尹良親王をもうけ
られたが、その時の乳母となったのが、知久順久の祖先であったという
ことであります。

 この御手洗氏の本、あを様に送ります――
 
[9]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月16日 09時16分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 浪合神社・尹良親王墓を見た後、入り口の史跡案内に書かれていた
「青山神社」、そして案内地図に示されていた「陪塚い号」、「陪塚
ろ号」、「陪塚は号」を見に行くことにいたしました。

 青山神社については、案内板の説明書きに、こうありました――
 「尹良親王に殉じた青山蔵人師重を祀る。石造りの祠(村有形文化財)
 や室町時代の宝篋印塔(村有形文化財)がある。」

 青山氏といえば、服部正尚の母が青山氏であったことを思い浮かべ
ます。一体この「青山蔵人師重」とは青山氏族のどこに位置するので
あろうか?

 山の中の道であり、探すのに苦労(3qも探す)してしまいましたが、
やっとのことで、まず青山神社にたどり着きました。
 確かに鳥居があり、境内風の広場がある。鳥居の向こうには小さな祠と、
その後ろに大きな玉石と尖がり石が飾られていた。
 また、その左手に、宝篋印塔が建てられているのを見つけましたので、
そこで手を合わせ、般若心経を2巻唱え捧げました。

 神社として祀られる程の青山氏とは、どれほど偉い人だったのか……?

 次に訪れたのは、そこから150mほど下った「陪塚い号」でありまし
た。次回に記します――
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月16日 14時48分35秒 ) パスワード

三つ柏さん


>信州伊奈郡阿島城の城主、知久監物源頼久が建立したものである。
>宗良親王が伊那の大河原にいた時、香坂高宗の妹との間に尹良親王をもうけられたが、
>その時の乳母となったのが、知久順久の祖先であったということであります。


尹良親王が香坂高宗の妹の子、という説は初めて目にしました。
普通は  井伊の姫  が生んだ、ということになっていると思いますが

        では井伊の姫が産後の肥立ちが悪くて亡くなった後妻が高坂の娘だったか?
        または宗良親王が井伊から高坂に御動座なさって
        ここで宗良親王のお世話係が高坂に変わった時に尹良親王の世話係になったか?

        で、高坂家の世話になった時の実際の世話係が知久家だったのでしょうね。

            乳母というのは1家だけでなく
            何軒も協力して支えるので(そしてこの人達の一族が尹良親王の絶対的な家来になる)
      

                   そういうハナシが混乱しているのかしら?


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%B9%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
尹良親王
(ゆきよししんのう/これなが―/ただなが―、
正平19年/貞治3年(1364年)[1]? - 応永31年8月15日(1424年9月7日)?)

『浪合記』『信濃宮伝』などの軍記に見える南朝の皇族。それらの記すところによれば、後醍醐天皇の孫にして、中務卿宗良親王の王子であり、母は井伊道政の女[2]とされる。父親王の討幕の遺志を継いで東国各地を転戦したと伝えられるが、その内容の信憑性が極めて乏しいため、歴史学の立場からは実在を疑問視する意見が多い。源尹良とも。


          源尹良というのは後醍醐天皇から源姓を賜ったから。1368年でしたっけ?


父:宗良親王(1311-1385?)
母:井伊道政女[2]

兄弟姉妹:興良親王?、桜姫(大橋定省室)    ココ  ビックリ!  妹が津島神社に嫁に行ってた?!

室:世良田政義女                世良田なんて  家康のご先祖さま  ってハナシの人ですね  ヲイヲイって感じ
                                         ココも  ビックリ!

男子:源良王(尹重) - 子孫は大橋家を継承       我が服部家ホンヤさんが「よしたかのきみ」とお呼びしてる皇子さん

男子:氷室良新 - 津島神社社家氷室家の祖                       この人も津島神社に関係?!

女子:蜂須賀正秋室?                            この人は蜂須賀小六の曽祖父の兄の妻ということですね。

                                           で、小六のお父さんの後妻さんも大橋家から嫁に来てる
       小六は側室の子

                                       蜂須賀家は<尹良親王=大橋家>と何重にも婚姻を繰り返しているのですねぇ。



で、尹良親王の母上は井伊の姫の他に
異説として、
知久敦貞の女(『南山巡狩録』)や
香坂高宗の妹・紀伊后(大鹿村の伝承)とする。

また、この知久氏の女を親王の乳母とする系図もある。



要するにこういう家が宗良親王を保護した、ということで
井伊氏の姫とか香坂氏の姫とか知久氏の姫とかのお名前が出るのは身分ロンダリングで養女にしたり猶女にしたり
ということをムカシはしたからでしょうね。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月16日 15時04分00秒 ) パスワード

三つ柏さん

>青山神社
>尹良親王に殉じた青山蔵人師重を祀る。


>青山氏といえば、服部正尚の母が青山氏であったことを思い浮かべます。
>一体この「青山蔵人師重」とは青山氏族のどこに位置するのであろうか?


青山成重は服部正信の2男ということから調べました。
青山氏のご祖先のお名前は  青山師重   だそうです!下記に系図が出てます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E6%B0%8F

青山氏

祖先は上野国吾妻郡青山郷(現・群馬県吾妻郡中之条町青山)の出身で、
その後、三河国額田郡百々(どうどう)村(現愛知県岡崎市百々町)に土着し、
百々城を拠点として松平氏に仕えたとされる。

記録上の初見は松平広忠とその子元康(家康)に仕えた忠門であり、
その子忠成は秀忠の側近として近侍。
関ヶ原の戦い後、加増され大名に列した。

家紋は無字銭、葉菊。   服部氏の中にも  葉菊紋を使ってる家がありましたよね。


やっぱりハッキリ南朝がらみでしたね。


井伊家存亡に際して
家康に活路を見出した時には築山殿だけでなく
「南朝がらみ」
をキイワードに青山家や酒井家にも家康へのとりなしをお願いしたのでしょうね。


わたくしの分も般若心経をありがとうございました。
南朝時代の皆さまに良い御供養になったのを感じます。

三つ柏さんは良い御供養をなさいました。
[13]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月17日 15時44分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日、松島氏の関係で『浜北市史』を調べていましたら、こんな文面に
出会いました――
 「遠江守護今川範国に与えられた主たる任務は、南朝残党の掃討作戦で
 あった。さきに述べてように、宗良親王が三嶽城・大平城などに籠城し
 たことにも明らかであるが、遠江の特に天竜川以西の地域は、南朝勢力
 がかなり根強く残っていた地域であり、範国は、室町幕府に抵抗する南朝
 勢力、即ち「凶徒」の討伐に相当力を注いでいる。」

 つまりは、今川範国軍による南朝残党掃討作戦がこの地域で繰り広げら
れていたということがわかりました。今まで、今川範国や了俊には少し
親近感を抱いておりましたが、そのシンパシィは一瞬にして消えました。
同時に今川氏の侵略も行われたということであり、当時の状況がどんなも
のであったか、想像すると祖先達の苦悩が目に浮かびます。
そのおおもとは、足利尊氏であります。羽鳥庄貴平は尊氏によって府八幡
宮に寄進されています(1337年)。これがどういう意味をなすか……秋鹿氏
とは結び付くのですが――
 


 
[14]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月17日 16時04分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日、『歌人 宗良親王 ―井伊谷宮― 』を送りました。この本による
と、井伊道政の娘「重子」(駿河姫)と宗良親王との間に、興良親王と桜子女
王が生まれたとなっています――

 さて、陪塚い号・ろ号・は号の話をしたいと思います。
 浪合神社から南西に450m程山を下ったところに「い号」、そこから西
へ100m程行った所に「ろ号」、そこから北西に50m程向かった所に
「は号」がありました。
 「い号」は木で囲まれていて、入り口に宮内庁の告知板―陪塚い号―が
建っておりました。中に塚と2つの古ぼけた墓が並んでいました。その墓
に刻まれた名前は――
 @世良田政義
 A桃井貞綱
でありました。ここで般若心経を2巻唱え捧げました――
 
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月17日 16時18分20秒 ) パスワード

三つ柏さん


ご本を楽しみに待っていますね。
ありがとうございます。


井伊が今川に逆らえなかった歴史。
悲しくなりました。


>中に塚と2つの古ぼけた墓が並んでいました。その墓に刻まれた名前は――
   @世良田政義
   A桃井貞綱
でありました。
>ここで般若心経を2巻唱え捧げました――

わたくしの分まで、ありがとうございました。
世良田政義と桃井貞綱が喜んだ気がしました。

まさかそちらで菩提が弔われていたとは全く想像もしませんでした。

    本当に南北朝の戦いがあったのだなと  なんだか変な感慨が湧きました。
    うちのご先祖さまは生きて尾張に引っ越したのか、と。だから自分が存在しているのか、と。
    不思議ですね。
[16]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月18日 12時09分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「陪塚ろ号」は、道沿いに100m程西に行った左側にありました。
 やはり宮内庁の告知板があり、「陪塚ろ号」と書かれていました。
 ここには、特に塚は見られず、四角柱の墓とおにぎり型のお墓が建って
おりました。
 その文字を読む――
 「世良田義秋先霊(さきみたま)」
「念墓」
 つまりは、世良田義秋と慈念の墓でありました。
 そこで般若心経2巻……唱え捧げました。

 次の「陪塚は号」は、道沿い50m北西、まずは「慈念の長福寺跡」と
いう看板のある入り口を通って中に入って行きました。
 そこにはシイタケ栽培のための「ほだ木」が列をなして無数に並べられ
ており、さながら戦国の砦の柵のようにも思え、不思議な気分になりまし
た。

 更に奥まった所に「長福寺跡」の石碑が見え、その隣に「日本剣道の始
祖慈念和尚」の看板が出ていました。それには「慈念は相馬の生まれで、
父が新田義貞に仕え、云々」というような出だしで始まる説明文が書かれ
ておりました。

 そしてその奥の一段と高まった所に、宮内庁の告知板が建てられており、
そこにはやはり古ぼけた四角柱の2つの墓がありました――
 @桃井宗綱入道
 A羽河安芸守先霊
と彫られておりました。
 つまり、桃井宗綱と羽河景庸の墓であります。

 ここで、般若心経を2巻、唱え捧げました。それはしっとりとした空間
の中に、すうーっと染み込んで行くような感じてありました。

 これで、浪合における般若心経の旅はほぼ終わりました。ただ、宗良、
尹良、良王に仕えた家臣達についての探求が終わっておりませんので、
次回にはその関係について記したいと思います。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月18日 14時38分46秒 ) パスワード

三つ柏さん

わたくしの分も般若心経をありがとうございました。

浪合村の紹介サイト
http://starandsnow.com/tourism/spot/shiseki/
慈念和尚

>慈念は相馬の生まれで、父が新田義貞に仕え、云々

日本の剣道の創始者と知られている人物。京都や鎌倉、九州の寺を巡って剣術や兵法の修行をされています。慈念が伝授した剣術は「念流」と呼ばれ、剣道の諸流の源であるといわれています。晩年を浪合で過ごし、摩利支天を本尊とし、長福寺を建立しました。現在は、春秋にある尹良親王を弔う祭りにて村人が、慈念和尚を讃える湛える念流太鼓を奉納しています。


波合関所跡
戦国時代の天分23年(1554)に、伊那地方を支配下に置いた武田信玄は、東海地方への進出を画策し、伊那往還を軍用道路として整備していきました。その最中で、南信の豪族たちの動きを監視するために、6つの難所を置きました。その一つが波合関所でした。

〒395-0501 長野県下伊那郡阿智村浪合1118
駐車場:無し


中馬街道と波合宿
長野県は、五街道の中で一番長い中山道が、下諏訪〜木曾谷を通っていました。その脇街道として、一般の人々に利用されていた伊那往還(三州街道)が浪合を通っていました。伊那往還は「中馬街道」と呼ばれ物資輸送のお担い手であった中馬が、頻繁に往来していました。

ここ、浪合宿は寒原・治部坂の2つの大きな峠に挟まれた位置であり、行き交う人々が泊まったり休んだりする宿場・馬つぎ場として大変賑わっていたとされています。その昔、並合とも呼ばれていた浪合。それは家並が軒を重ねて合って賑わっていたことに由来するとも、中馬街道を通る人馬が並びあったからともいわれています。


              浪合村って?すっごい片田舎?
              と思ってましたが
              要衝だったのですねぇ。


近藤治部の碑
豊明史によると近藤治部重高は、元徳2年(1329)2月沓掛城で生まれ、興国6年(1345)宗良親王を信農より沓掛城に迎えて後、駿河に入り忠勤を尽くし、正平7年(1352)宗良親王に従って武蔵の国小手指原に戦った。弘和2年(1382)3月24日尹良親王を助けてこの地で戦死した。浪合の治部坂の地名は近藤治部の名をとどめたものという。

〒395-0501 長野県下伊那郡阿智村浪合1192
駐車場:有り



              「直虎」で先週政次を疑った近藤さんのご先祖でしょうね?

                  近藤康用(こんどう やすもち)
                  遠三国境の井伊谷に接している宇利を治める国衆。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E5%BA%B7%E7%94%A8
近藤 康用

三河国の徳川家康が遠江国を窺うようになると、その懐柔工作によって今川氏を離反。
永禄11年(1568年)末からの家康による遠州攻め入りでは、子の秀用を従軍させていた。
老齢であるうえ、長年の戦働きによる負傷で歩行困難となっていた理由も重なっていたのである。

天正16年(1588年)、閉居先の井伊谷で死去。72歳と伝わる。

http://folklore2017.com/206.htm
近藤氏の嫡流は三河国(愛知県)の近藤氏。三河国宇利城(愛知県新城市)を本拠とし、後に遠江国井伊谷(静岡県浜松市)に転じ、井伊氏に従った。江戸時代には旗本。

http://folklore2017.com/ke2/22010.htm
静岡県の近藤家: 旗本で藤原北家秀郷流。戦国時代には三河国八名郡宇利荘(愛知県新城市)の土豪。後に遠江国井伊谷(静岡県浜松市)に転じて井伊氏に従った。後に徳川家に仕え一時は井伊谷藩1万7千石の大名だったが、分知したため旗本になった。【出典:あなたの知らない東海地方の名字の秘密 森岡浩 洋泉社】

・ 藤原北家秀郷流で、もともと三河国宇利荘(愛知県新城市)を本拠としたが、遠江国に転じて井伊家に仕えた。【出典:日本の名字 武光誠 角川新書】


ということは   近藤さんも  バリバリの南朝方だったんですね。



近藤秀用(息子)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E7%A7%80%E7%94%A8

徳川四天王の一人である井伊直政が台頭してくると、家康の下命で寄騎として直政の片腕となった。しかし、直政の冷酷な性格に嫌気がさした秀用は、それまでの功績から家康に直臣として取り立ててくれるように嘆願したが、直政に徹底してそれを妨害された。遂には暗殺まで謀られたため、秀用は命の危険から逃れるために出奔して伊勢国に逃亡した。

この一件について小宮山敏和は、初期の井伊家の重臣の人事は家康が直接関与しており、当主・直政以下の井伊家側は家康の許可なく勝手な人事はできなかったが(家康は基盤の弱い井伊家を強化するために、直政寄騎の家臣を井伊家の家臣に編入する方針があったと考えられている)、秀用は家康の許可を得ずに井伊家を離れてしまったため、そのことが家康に対する反抗であるとみなされたと指摘している[1]。


慶長7年(1602年)、直政が死去すると、徳川秀忠に召し出され、上野国青柳に5,000石の所領を与えられた。

所領は子の季用、用可、用義たちに分け与えて細分化したため、井伊谷藩は秀用1代で終焉。その後の近藤氏は旗本として徳川氏に仕えた。



          近藤家にしてみれば自分の家より後に家康に従った直政の下に組み入れられたのは納得いかなかったのでしょうね。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月18日 15時03分06秒 ) パスワード

気賀の中村与太夫のことですが

http://www.hamamatsu-books.jp/category/detail/4d1d438bcef36.html
中村家住宅
浜松市西区雄踏町宇布見


中村家初代当主

中村家の初代中村正範は、源範頼の末裔の武士で、大和国広瀬郡中村郷に住んでいた。1481(文明13)年に14代正實(まさざね)が今川氏に招かれ、遠江国磐田郡大橋郷に領地を賜り、その後、敷知郡和田、平松、宇布見、山崎などが与えられ、1483(文明15)年に宇布見に屋敷を構えた。
16世紀の今川氏の時代には同氏の家臣で代官を務めた。



中村家と徳川氏

1568(永祿11)年に徳川家康が遠江に入国したとき、18代正吉(まさよし)は舟を出して迎えるなど徳川につかえ、今切軍船兵糧奉行や代官をつとめていた。
こうした関係から1574(天正2)年2月8日に徳川家康の側室のお万の方が家康の第2子である於義丸(おぎまる:後の結城秀康)をこの屋敷で出産することになった。その時の後産を埋めた「胞衣塚(えなづか)」が現存している。

1590(天正18)年徳川家康が関東へ移ったが、18代中村源左衛門正吉は宇布見村に残った。当時は庄屋を務めていたが、藩祖を結城秀康とする越前福井藩や津山藩からは士分格として扱われ、越前松平家一門や浜松藩主から、於義丸誕生の御殿や胞衣塚の修繕を目的として、金銀を与えられている。

また徳川御三家、老中、大阪城代、京都所司代の諸大名たちや越前松平家一門の大名が東海道を通行するときには、中村家の歴代当主がお目見えをするのが恒例となっていた。

このように徳川氏との関係で格式の高い家柄であるため、一般の庄屋たちとは異なり、浜松城主と単独で拝謁できるほど、古くからの特異な庄屋として知られていた。



明治以降の中村家当主

明治維新時の28代貞則(さだのり)は、討幕軍を警護する遠州報国隊の結成に尽力し、郷社の神官を勤め、後に郵便局を開設した。

29代東海は神職となり当地方の精神的な支柱として住民の尊敬を集め、東海様とよばれた。

30代正輔(まさすけ)は服部、中村養鼈場を開いたほか、1902(明治35)年には郵便局長に就任。31代幸八は1949(昭和24)年から衆議院議員として長く政界で活躍した。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%AF%84%E9%A0%BC
源 範頼(みなもと の のりより)

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。

遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。

治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。

その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国修禅寺に幽閉され誅殺された。


ただし、誅殺を裏付ける史料が無いことや子孫が御家人として残っていることから異説あり。

       コピペ略


生母は『尊卑分脈』によれば、遠江国池田宿の遊女とされている。

池田宿は現在の静岡県磐田市(平成の大合併前は磐田郡豊田町)池田に比定され、範頼の生地とされる伊勢神宮内宮領・蒲御厨の東隣にあたる。現在では池田宿と蒲御厨は天竜川によって隔てられているが、平安時代には天竜川は池田宿の東側に流れており、池田宿は蒲御厨と地続きになっている天竜川西岸に設けられた東海道の宿場で京都と東国を結ぶ交通の要衝でもあった。


このため、「遊女」とは称していても実際には単なる芸能民ではなく池田宿の有力者(長者)の娘で、父・義朝が池田宿との関係構築を目的として婚姻を結んだのではないかとみる説もある[3]。

父・義朝が敗死した平治の乱では存在を確認されず、出生地の遠江国蒲御厨で密かに養われ、養父の藤原範季が東国の受領を歴任する応保元年(1161年)以降、範季の保護を受けたと考えられる。

治承4年(1180年)に挙兵した兄・頼朝の元にいつ参戦したかは明示した史料はないが、最初は頼朝ではなく、出身の遠江国を中心に甲斐源氏などと協力して活動して、遠江国を占拠した甲斐源氏安田義定と協力関係にあったと考えられる。

寿永2年(1183年)2月、常陸国の志田義広が三万余騎を率い鎌倉に進軍。その進軍に下野国の小山氏が迎撃し野木宮合戦となる。範頼は援軍として関東での活動が初めて史料(吾妻鏡)で確認される。小山氏の活躍により勝敗は決しており、残敵掃討戦参加のように考えられるが、甲斐源氏と頼朝との協力関係の中で、義定から派遣されたと見るべきである。


[19]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月19日 09時19分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 朝早くから書いていましたが、操作ミスで一瞬で消滅してしまいました。
気力が消失してしまい、茫然自失状態でありましたが、何とか気力が戻って
まいりました。
 もう一度、仕切り直しをするため…話題を少し変えます。

 「南朝現象」というものを解析したいと思います。

 人間が行動を起こすには、エモーションが必要です。
 その元となるものは――(ランダムに)
 @恨み・憎しみをはらす
 A大事なものを守る
 B正義・自由・愛・理想・理念のため
 C欲望―食・金・成功のため
 D献身―ひとのために尽くす
 E宗教
 F神
 G錦の御旗
 
 後醍醐天皇のムーブメントは、何の引きがねとなり、何をひきおこした
のでしょぅか?
 人は、その何に呼応し、何を求めて命をかけたのでしょぅか?

 それを知りたいです!

 昭和天皇は現人神にさせられましたが、後醍醐天皇はその当時、人から
どうみられたのでしょぅか?
 人を突き動かすもの、ゆるぎなく長く続くもの(南朝は60年、その後も
後南朝が続く)……それはもはや神や宗教の領域に入っているともいえるの
ではないでしょぅか?

 今、森茂暁氏の『南朝全史 大覚寺統から後南朝へ』と言う本に目を通
しております――
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月19日 13時19分47秒 ) パスワード

三つ柏さん


瞬殺されましたか。
泣けちゃいますね。

書き直して読ませてくださってありがとうございました。
ぺこり


真面目な三つ柏さんのGまでのご指摘に、逆に、消極的な面を考えてみました。


Hどーしょーもなかった

こういうのもあったのでは?とも思いました。

絶望してた。

行くアテも無いし
いずれ野垂れ死にか
と思うと、どこか自分の居場所死に場所生きた証それか大義名分
が欲しかった
なんて。


I別に深く考えたわけじゃないけど時代の流れや雰囲気に押し流されて

というのもあったかもですね。
これは今の言葉で表現すると「同調圧力」Peers Pressure
ですか。
「みんながそう言ってるから」「みんなが行くから」。


J親の期待に押されて

XX家の○○が後醍醐天皇のために蜂起したってよ
と親に言われて

というのもあったかもですね。


こういう感じは遠く離れたエリアでは多かったのかなと思います。
だから簡単に勝ちそうな側に寝返ったり。

こういう「敵」のカタチもあったのでしょうね。



お家再興のために寝返る手土産に裏切った輩もいましたしね。

    わたくしの母方は後南朝ゆかりの者ですから。

    兄が自天王(北山宮尊秀王)・弟が河野宮(忠義王)
        北山氏と河野氏は同族。

         http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%8D%97%E6%9C%9D
         1457年(長禄元年)に至って、1441年(嘉吉元年)の嘉吉の乱で取り潰された赤松氏の復興を願う
         赤松家遺臣の上月満吉、石見太郎、丹生屋帯刀らが、大和・紀伊国境付近の北山(奈良県吉野郡上北山村か)
         あるいは三之公(同郡川上村)に本拠を置いていた後南朝に、「臣従する」と偽って後南朝勢力を襲い、
         南朝の末裔という自天王(尊秀王)・忠義王兄弟を殺害して神璽を奪い返した(長禄の変)。


                尊秀王は後鳥羽上皇の末裔でもあるようです。
                河野家は後鳥羽上皇に味方したのが多くて大勢処分されて配流先で斬られています。
                とはいえ河野通信の妻は北条時政の娘だったので死罪を許されていますが。
                孫娘が後鳥羽上皇の寵愛を受けていました。


な〜んとなく「赤松」って名字が嫌いでした。(佐々木はもっと嫌いだけど)
「手土産だったのか」って。
こういう感情ってDNAに刷り込まれているんでしょうね。

後南朝の最後を知って  赤松系の武士のしたことについて、ああ、そういう事だったのか、と。
納得行きました。

納得入ったら、そういうカタチも「人間には有るのか」と。


人間にはいろいろな思いがあって、プラス面からマイナス面、実にいろいろな命の遣り取りがあるのだなと。


どんな思いで日本の武士達は南北朝や戦国時代を駆け回ったのでしょうね。
舞台も人間像のさまざまも規模が大きいだけに戦国時代の英雄達はドラマになりますね。

秀吉のように先祖が平家の荘園の片隅にいたり南北朝の戦いを弁当持って見物に行ってた人でも戦国時代には天下を取ってしまった。

秀吉のご先祖さまは南北朝の時に「自分も参加したいのに」って思ってたのかも知れませんね。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月19日 14時00分28秒 ) パスワード

エンエンと書いてたらムカシの事を思い出してしまいました。


     秀吉のご先祖さまは平家方について行ったのかな?とか
     南北朝の時は先祖が参加しなかったから  秀吉は  百姓出身の秀吉でぇ〜すっ  と自虐名乗りをしてたのかなとか。
     で、戦国時代には天下を取った。
     だから  自分の出自は尾張中村の百姓  で充分  って言えたのかな?
     でも実は平家の頭領の荘園に仕えてたと言いたかったのかなとか。
     戦国時代の秀吉の家は落ちぶれに落ちぶれていたから(なんとか出世したいよ)と思いつつ
     天下が取れちゃった。

          ヲイヲイ  取れちゃったよ天下!  おらが天下さまだよ。関白様だよ。蜂須賀も大橋も織田も越えちゃったよ。

     なんて  こんな夢みたいなハナシが本当に人間には可能なのかよ  と本人が1番信じられなかったかもね。

     だから天下を取ったら、その先をどうしていったら良いのか、分からなくなったのかな?目指してたのは「出世」だったのだから。

            今の時代でも偏差値レースに勝利して最高学府に入学して良い成績を修めキャリアになれた途端に何をして良いか分からなくなった無能な人っていますものね。
            って、ワタシが書いて良いのか?


わたくし自身、戦いに於ける人間像をたくさん読みまくって・・・知り尽くしたつもりでいたら
2つの相争うパワーに  どっちもどっち  ということで  ココはカシコク日和見で、ということでいたら
両方から敵と見做されました。アッチャ〜

で、最終的に  勝つ方に巻かれることにしました。バカ

で、そういうヤツの利用法は「最前線」に立たされるって事でした。



だから秀吉の気持ちも分かるし
家康の成功も分かる。家康は南朝方リーグを纏めることに成功。


秀吉にしたら  

こんなんだったら平家の荘園の御器所の片隅で汗水垂らしてた先祖を平忠盛さまの代官の一の家来の妻の実家  って言っとけば良かったな〜

とか

南北朝時代は津島神社の大橋家の神人か社人とでも言っときゃ良かったな〜

とか

身分ロンダリングに、どこか婿に入れないかな〜  とか、思ったかもね。

       で、結婚したのは浅野(旧姓杉原)ねねさん。


もっともっと遠い所に流れて、誰も尾張のことなんか知らない土地で身分ロンダリングしとけば良かったな〜

なんて思ったかもね。


ま、そういう計算をしないオトコだったということで秀吉は大衆の憧れになれたのでしょうね。

        やっぱり神格化や母の出自をロンダリングしようとしたけど。


ということは家康というのは南朝方リーグを最大限利用した成功者か、と。
うまいね。
苦労を活かす知恵を持ってたな、と。


とか
[22]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月19日 23時01分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様の御意見、確かにやむを得ず巻き込まれて行くといった流れ
の中で、それぞれの活路を見つけて行こうとしたのかも知れません。
 南朝関係をいろいろ調べていますが、局地戦の『浪合記』が一番わか
りやすいということは感じております。偽書との批判もあるようですが、
大方の部分で合っているのではないかと思われます。
 さらに、探求を続けてみます――
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月20日 15時36分01秒 ) パスワード

三つ柏さん


>偽書との批判

これは会社に於ける「報復人事」のようなものです。


特に有名なのが中国ですね。
王朝が変わると前の王朝の悪口をいっぱい書いた。



だから明治政府は徳川幕府を倒して徳川時代を否定するのに「浪合記」を偽書だとか悪口を言ったわけです。

戦国時代を太平の世にした徳川家は否定できないから
出自にいちゃもんをつけた訳です。
[24]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月20日 23時21分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、河口湖とその周辺へ行ってまいりました。特に歴史のかけらを
拾うという目的ではありませんでしたが、富士吉田市にある「忍野八海」
の「忍野」は、最近では「忍者」で売り出しております。
 「忍野」と「忍者」……強いて関係をしぼりだそうとすれば、北条氏の
「風魔」かも知れません……。

 忍者ということで、南朝と忍者について改めて考えてみました。忍者と
いうキーワードは南朝関係には浮上してきませんが、その境界線で色々な
ものとつながっていることがわかってきました。
 ずばり申し上げますと、その境界線の表側は「楠木正成」と「服部党」
であります! して、その裏側は? 

 これ以上のことは、これから徐々に申し上げたいと思います――
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月21日 10時58分51秒 ) パスワード

本日の「直虎」
嫌われ政次の一生
神回でしたね。


現代に存続する小野一族にとっても、幸せな回になりましたね。



       「白黒を つけむと君を  ひとり待つ  あまつたう日ぞ  楽しからずや」

へったくそな時世の句だと思ったけど、ものすごいラブレターでしたね。

碁を2人で打つ時が政次にとって直虎と二人きりになれる至福の時間
だったのですねぇ。

この時間を持てただけでも政次には充分幸せだったし
井伊のため=つまり=直虎のために自分の命を捧げることが出来て
これが彼の本懐だった

ものすごい愛でしたね。


直虎と政次の磔シーン

ああいう逆バージョンのカタチで(近藤には疑われないように)
必ず政次の遺言をカタチにする
と直虎は約束したのですね。


そして直虎が政次の命を終わらせることで直虎は政次の愛に応えたのですねぇ。


脚本家が時世の句をラブレターにしたその苦労
呻吟の思いが伝わりました。


あまつたう=天伝う=政次には直虎は天女だったのかな?=尼が来る=直虎が来てくれる

これは政次には天にも昇る心地、
羽が生えて、大空をはしゃぎながら飛び回るほどの幸せな気分、こんな楽しいことはなかったよ、おとわ、ありがとう。心からありがとう。


いつも冷静沈着で冷徹な心の持ち主のような男に見えたかも知れないけど
実は
直虎と一緒にいられる時が嬉しくて楽しくて
でも必死に顔や態度には出ないようにと隠してたんだよ


つくづくヘッタクソな句だと思うけど
愛の告白がとうとう出来たんだね。

やっぱり  政次は直虎に  コクっておきたかった  んだね。


直虎と政次の最後のシーンの遣り取りは  愛しながら罵倒し合う  若い男女の遣り取りみたいで微笑ましかった。

でもこういう傷つけ合うような言い回しでしか会話が出来ないシーンにカナシかったです。
近藤一味が監視してるものね。


あの磔シーンでワタシ的には充分でした。
あのラブレター(置き手紙)は必要なかったんじゃないかな〜

脚本家としては視聴者があの磔シーンを正しく理解するようにとダメ出しで?蛇足で?付けたのかな?
[27]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月21日 13時35分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日はいろいろ歩き回ったせいで、夕食後眠ってしまい、「おんな城主
直虎」は、うっかり見るのを忘れてしまいました。予告編では断片的なもの
は見てはおりましたので、おおよその所は想像がつきましたが、やはりメイ
クドラマ……ドラマには人間の心に訴えるものがなければ、人々の感動を呼
び起こすことができません……「人間的な余りに人間的な」部分は、「人間
であることの証明」でもあり、それはそれてよかったと、いつも安心・納得
いたします。

 再放送は、土曜日にあるそうなので、追って見ます。
 小野家の疑惑も晴れてとけたでしょうか、名誉のために歴史書の一行にう
たってあげてほしいものです! (涙の川を越えて)
 
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月21日 16時34分09秒 ) パスワード

三つ柏さん


あらあら
ご覧にならなかったのですか?

>昨日はいろいろ歩き回ったせいで、夕食後眠ってしまい、うっかり見るのを忘れてしまいました

精神的なものが若者のようですね。
張り切っていろいろ歩き回って夕食を食べたら眠気が襲って来たなんて
まるで高校生までの感じじゃないですか。

それだけ健康そのものということで、いいですね。


家康は近藤の仕掛けた罠だったと知ってましたね(でもそれは直虎には認められない。近藤に許したのは自分だし)
そして
直虎が処刑場という衆人の中で近藤の責任をアバカズ政次を徳川方の希望するように処刑したことで

1.
家康(借り)  直虎(貸し)  の関係が出来ましたね。

2.
直虎の政治力に家康は驚いたでしょうね。
直虎は政次のような政治力をつけて来ましたね。

3.
近藤が井伊家の下に組み入れられたと書いた <レス 17> 
あの近藤の罠が原因だったのでしょうね。

家康には  人間的に  近藤と直虎のどっちが上か  信用に足るのはどっちか  そういうのが分かったのでしょうね。


でも近藤家中の皆さんには  納得いかなかった  でしょうね。
井伊家の獅子身中の虫を退治してやったのは  ウチだ  
なのに何故自分たちが井伊の下に置かれるのだ?
という不満があったでしょうね。


昔ムカシのそのまた昔に近藤さんというプライドの高い一家がいて
あの近藤康用を彷彿とさせるような家だった
というのが今日の回で納得入ってしまいました。

      この回をあの近藤さんは見てたのだろうか?


小野一族には今回が先祖の名誉挽回になったでしょう。
でも、近藤さんには  ゲ〜  だったでしょうね。え〜?うちのご先祖さまってあんなだったの〜?って。あんな風に描かれたくなかったよ〜、って?


      大河ドラマに明治維新あたりのハナシは成功しないってのが分かりました。
      関係者が大勢存在していますものね。
      アソコのアイツ
      というのが  身近  ですものね。


                三河じゃ(近藤って・・・へぇ〜〜〜)になってしまったでしょうね。
                あれは冤罪事件だったのか、と。
                家康も近藤康用を糾弾できなかったし。

                     家康にすれば非力なリーダーはツライよだったから。


今回のエピソードで  脚色と演出って  コワイな  って思いました。
近藤さんの事、なるほどな、って思い出しちゃいましたもの。


戦国時代って  家を存続させるために  ものすごい思い  で頑張って頑張って頑張ったんだな  と思いました。涙
[29]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月23日 02時17分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 南朝について色々調べておりますが、時間がかかっております。
 キーパーソンは、後醍醐天皇はいうまでもなく、文観、伊賀兼光、そして
楠木正成であります。
 後醍醐天皇は朝廷側の話、楠木正成は民政側の話になります。
 後醍醐天皇もカリスマ性がありましたが、楠木正成にもカリスマ性があり
ました。
 この楠木氏を探求すれば、南朝に加担した臣下達の姿・顔が見えて来ると
確信しております。
 問題は、何故楠木正成が後醍醐天皇の呼びかけに呼応したかということと、
集った仲間たちはどういう関係者だったか、さらには大局を動かすフィクサ
ーがいたのかどうかということを知りたいと思っています――
 
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月23日 15時44分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


>何故楠木正成が後醍醐天皇の呼びかけに呼応したかということと、
>集った仲間たちはどういう関係者だったか


服部家は伊勢の奄芸郡あんきぐん・あんげぐんにいて
後醍醐天皇のお召しがあったから呼応した。

集まった仲間達もそんなところ。

楠木家と服部家は正成のシスターを介して服部と親戚。





>大局を動かすフィクサー

問題を起こしたのは後醍醐天皇がワルだったから。
「大局を動かしたフィクサー」は「誰」とは特定して語れないのでは?と思います。
ぐっちゃぐちゃになっていったから。




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_ (%E6%97%A5%E6%9C%AC)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)

日本の歴史区分の一つ。

建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。

鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝(のちには大和国賀名生・摂津国住吉・山城国男山八幡・河内国金剛寺などを転々とする)の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥ってしまった。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。

                               中略


明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。



以下URLへ。
[31]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月24日 00時25分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 南北朝については、もう少し情報をインプットして、全体と個々の歴史
の流れを把握したいと思っております。一つ一つの事象や一人一人の人物
に特異性があるので、理解するのに時間がかかります。

 これまで、これはと思ったことは――
 @僧「文観(もんかん)」は、「小野氏」を名乗ったということで、小野
 妹子系とひょっとしたら関係するのかも知れない……。
 A後醍醐天皇は、既成秩序の破壊を行ってパンドラの箱を開けてしまっ
 たけれど、後醍醐天皇自体もパンドラの箱のような感じがする。呪術的
 世界、闇の世界とつながっているよう……もちろん、僧文観も正にパン
 ドラの箱そのもの……なかなかうまく表現できませんが――
 B後醍醐天皇の生きざまと宗良親王の生きざまは、親子ではあるけれど
 別物のような気もします。分けて考えたいと思うようになりました――

 次回は、服部中保次と南朝との関係について少し記したいと思います。

 今週の日・月と九州の別府へ行きます。ツアーですので、歴史探求は余
りできませんが、宇佐八幡宮に行きますので、何か情報を拾ってまいりま
す。
 
 
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月24日 02時15分18秒 ) パスワード

三つ柏さん

@僧「文観(もんかん)」は、「小野氏」を名乗ったということで、
 小野妹子系とひょっとしたら関係するのかも知れない……。

まったく分かりません。
アヤシイというのは分かります。いくつかの意味でアヤシイです。

1.
http://jiyodan.exblog.jp/7936468/
文観弘真(もんかんこうしん)


鎌倉末期から建武親政期、室町初期にかけて、京都醍醐寺に文観弘真(もんかんこうしん)と言う僧侶がいた。

彼は先人で有る仁寛(にんかん)僧正を信奉し、その弟子が興した見蓮(もくれん)の真言密教立川流を継承していた。

勿論同じ醍醐寺に、文観弘真に対立する勢力もある。

後醍醐天皇(第九十六代)と文観弘真僧正が結び付けば、当然反対派もまた結び付くのが世の習いである。

文観は、僧侶にしては恐ろしく身軽で、何やら武術の心得もあり、得体の知れない所があったが、如何(どお)やら奈良西大寺の真言僧の若い頃に修験武術を会得しているらしかった。

実は出自不明と言われる文観弘真は、一説に拠ると、勘解由小路吉次の三男、伊勢(三郎)義盛の忘れ形見で、後に伊勢国(三重県亀山市 関町小野・旧鈴鹿郡関町小野)の国人武将となった小野(伊勢)義真の末裔・小野(伊勢)弘真だったので有る。

文観弘真僧正は、小野文観(おののもんかん)とも名乗っている。

伊勢の国(三重県)関町は戦国から江戸期にかけて火縄の産地として有名だった。

正式には定説は無く文観の出自は不明だが、過去が見えない事から勘解由小路党の草で有る事はどうやら間違いなさそうで有る。

【建武の新政(親政/けんむのしんせい)と南北朝並立】に飛ぶ。
【真言密教立川流と後醍醐天皇の子沢山】に飛ぶ。
【真言密教立川流の解説】に飛ぶ。

文観弘真僧正については第二巻の主要登場人物です。記載項目が多過ぎてブログでは書き切れません。詳しくは皇統と鵺の影人・本編の第二巻をお読み下さい。

参考リスト【正中(しょうちゅう)の変から室町幕府成立までの主な登場人物と主な出来事】<=クリックがお薦めです。

関連記事
【大覚寺統(だいかくじとう)】に飛ぶ。
【持明院統(じみょういんとう)】に飛ぶ。

【第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ】


        <<<伊勢(三郎)義盛の忘れ形見>>>
        この人自身がワタクシの嫌いな人物ですし。

               http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%BE%A9%E7%9B%9B
               義経の家来ですね。
               最期は斬首、梟首された人ですね。



文観はアヤシイということで
楠や服部などとパイプがあったのかも
ですね。


http://jiyodan.exblog.jp/7936468/
伊勢の小野氏は源義朝の家来だった平賀義信の子小野三郎朝信の流れ。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月24日 02時31分04秒 ) パスワード

三つ柏さん

>次回は、服部中保次と南朝との関係について少し記したいと思います。

楽しみにしています。



宇佐神宮は平家との関係の深い神宮なので楽しみです。
     大宮司・宇佐公通は平清盛の娘を妻としていた。


そして南朝方。
     元寇の際に活躍した宇佐公世(公通の玄孫)は、社領回復に成功して中興の祖と仰がれた。
     その子・宇佐(到津)公連は鎌倉幕府倒幕においても活躍して、後に懐良親王擁立に参加している。


          九州に於ける懐良親王は中部地方に於ける宗良親王のようなお立場ですね。


楽しみにしていますね。
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月25日 10時38分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、この地方でも36℃、ほぼ人の体温と同じ気温となり、夜も引き
続き暑く、脳が半熟になりそうでした。8月の終わりというのに……気象は
益々熱帯化して行きます……。

 さて、後醍醐天皇について、何か秘密・謎はないかと色々調べております
が、母が「五辻氏」ということをあを様に教えていただいておりました。

 「五辻」で思い出すのは、京都市上京区に「五辻の昆布」というキャッチ
フレーズで有名な乾物屋さんがあり、かつて昆布を買いに行ったことがあり
ました。ここは、五辻通と千本通の交差点から東に入った所であります。

 つまり、「五辻通」という通(とおり)があるということで、この名称は、
「五辻氏」と関係があるのかなと推察し、一度調べてみようかと思っており
ます。

 後醍醐天皇の母は「五辻忠子」。五辻家から「花山院師継」の養女となり、
後宇多天皇の後宮に入って、奨子内親王と尊治親王(のちの後醍醐天皇)を生
んでおります。

 さて、「花山院」といえば、「青山氏」のルーツであります。
 つまり、後醍醐天皇と青山氏は、「花山院」を通してつながっていたとい
うことができるのではと思いました。

 浪合にて、「青山神社」があり、なぜ青山氏が神として祀られているのか
の謎が解けたと感じました。青山家はもともと家格が高かった、そして南朝
の中枢に近かったということだと思いました。

 今後、探究のターゲットは「花山院」と、怪僧ラスプーチンならぬ「文観」
にしぼってみたいと思っております――
[35]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月26日 14時43分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日、『おんな城主直虎』の再放送を見ました。
 うまくストーリーを創ったものだと感心しています。小野但馬の死ぬ前に
吐いた「地獄の底から見届け(?)……」は、小野家の祖先の「小野篁」が
「地獄の閻魔大王の副官」であったという伝説を連想させました。たぶん、
文尾は――
 「見届け……」=「(閻魔様の隣で)見守っている」と解釈いたしました。

 それにしても、ドラマ創りは最も残酷な方法を選びました。でも、全体的
にドライさを感じるのは、ドラマの進展が早く断片的なのと、やはり直虎の
声の高音部の薄っぺらさも影響しているのでしょぅか。俳優は、「声」も
演技・表現ということ、つくづく感じます。

 ドラマとしてはクライマックスを迎えてしまったとも言えます。今後は
どのように第二のクライマックスに向けて展開して行くのでしょぅか、気に
なるところではあります。
 
 1568年という年、服部党も色々活躍をする一方で、長島では織田によ
り、服部友定に悲劇が起こっています。

 いろいろな戦国の動きがこの年に一斉にスタート、忘れる訳にはいかない
年であります!
[36]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月26日 15時17分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いよいよあしたは九州です。宇佐八幡宮だけでも、その歴史を探求できれ
ばよしとしようと思っております――

 さて、「花山院」を探求しておりましたが、後醍醐天皇よりも320年も
前の時代でありましたが、正に後醍醐天皇と同じような関係――天皇と裏で
活躍する宗教者――が見られました。
 即ち、それは、「花山院」vs.「安倍清明」でありました。
 後醍醐天皇は、「後醍醐天皇」vs.「文観」であります。

 更に不思議な一致点があり、それは「笠置山」でありました。
 京都の笠置山は南北朝時代に南朝の後醍醐天皇が挙兵した所でありますが、
東濃の恵那市の北部にも「笠置山」があったのです。そしてそこには、後醍
醐天皇の活躍する300年程前に、「花山天皇」が訪れ歌を詠んでいた――
 「眺めつつ、笠置の山と名付けしは、これも笠置くしるしなりけり」
つまり、そこの山の形が京都の笠置山に似ていたということで、その後笠置
山と言われるようになったということであります。

 京都の笠置山 vs. 恵那の笠置山

 前者は後醍醐天皇の挙兵の地であり、後者には、実は「尹良親王」の墓や
南朝の武士達の墓がある(中野方町)というのです。

 近い内に調べに行ってこようと、地図を開きますと、以前恵那に「柘植氏」
の居住する「蛭川」があると記しましたが、その「蛭川」は恵那笠置山の
東南の麓にあり、中野方町とは笠置山を半周してつながっておりました。

 300年前に名付けられた恵那の「笠置山」が、後醍醐天皇を象徴する地名
を思い起こさせ、南朝の人々を引き付けたのでしょぅか? 
 歴史の不思議さを感じます――
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月27日 15時41分41秒 ) パスワード

三つ柏さん

遠出ですね
体調を崩したりなさいませんように。


「直虎」のお話
いよいよ直政が主人公になっていきますね。


まさか政次の出演が先週まで続くとは思いませんでした。
あの脚本家  森下佳子(もりした よしこ  1971年1月24日生まれ ) ですって。

静岡の出身かと思っていたら大阪の高槻だそうです。
意外

作品:テレビドラマ

平成夫婦茶碗(2000年1月 - 3月、日本テレビ)
お前の諭吉が泣いている(2001年1月 - 3月、テレビ朝日)
続・平成夫婦茶碗(2002年1月 - 3月、日本テレビ)

東京庭付き一戸建て(2002年7月 - 9月、日本テレビ)
世界の中心で、愛をさけぶ(2004年7月 - 9月、TBS)
瑠璃の島(2005年4月 - 6月、日本テレビ)

白夜行(2006年1月 - 3月、TBS)
佐々木夫妻の仁義なき戦い(2008年1月 - 3月、TBS)
MR.BRAIN(2009年5月 - 7月、TBS)

JIN-仁-(2009年10月 - 12月、2011年4月 - 6月、TBS)
とんび(2013年1月 - 3月、TBS)
ごちそうさん(2013年9月 - 2014年3月、NHK)

天皇の料理番(2015年4月 - 6月、TBS)
経世済民の男 第二部『小林一三〜夢とそろばん〜』(2015年9月、NHK)
わたしを離さないで(2016年1月 - 3月、TBS)

おんな城主 直虎(2017年1月 - 12月、NHK)


なるほどね
スバラシイ作品のオンパレードですね。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月28日 10時58分22秒 ) パスワード

本日の「直虎」
難しかったです。


ま、事実はあんな風にゴチャゴチャだったのかも、ですね。
やっぱりワタシは戦乱時には最初にさっさと死んでたのだろうと思いました。


あの「政次の辞世の歌」って
「あの世でまってるぜぃ」「早く碁を打ちに来いよ」「楽しみだぜ」
って事だったの?


スバラシイ時世の句だ
なんてセリフもありましたが
え?そうなの?あれってスバラシイ句だったの?
です。



それより1つ分かった事がありました。

オープニングで椿の赤い花が矢に射られて花びらがバラバラになるシーンに
(いやだな)
(椿の花は武家には首が落とされるのに通じるから忌み嫌われるのに)

とずっと思っていましたが

あれは政次の死を表してて
その後の納豆の糸引きみたいなシーンが「再生」井伊家の「再興」を意味するのか、
と。


お〜
そーゆー意味だったのか、
とやっと分かりました。


今回思ったのは
井伊谷は近藤家にとっても南朝方だった先祖ゆかりの地であるのだから
近藤としては井伊谷の主人になりたかったのか
でした。

      近藤家にしてみれば井伊谷については思い入れのある地なのだろうと。
      それは外野にはどういう物かは分からないけど。


それにしても難しかったです。
分かったのは直虎のPTSDと政次を手にかけた事実を脳から一切消したいということ。
非常に現代的な作品でした。

      ワタシにはムズカシ過ぎた〜
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月28日 11時02分45秒 ) パスワード

ハッキリ分かったのは中村家と家康の関係ですね。

それで中村家がお万の方を預かることになったのか、と。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E7%A7%80%E5%BA%B7

秀康は宇布見村にて今川氏の時代より代官や浜名湖周辺の船・兵糧の奉行を務める源範頼の系譜である領主・中村正吉の屋敷で誕生した。現存する同屋敷の敷地(建築物は江戸初期)には、家康お手植えの松が植えられた「秀康の胞衣塚」が残る[4]。この縁により、のちの歴代福井藩主は参勤交代の際、中村家で供応を受ける慣例が続いた。



幼名を於義伊(於義丸/義伊丸/義伊松)と名づけられた秀康は、父・家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかった。その対面も、あまりの冷遇に異母弟を不憫に思った兄・信康による取りなしで実現したものであったという[9][10]。 冷遇の理由は、築山殿を憚ったためとも、双子で生まれてきたことにあるともされるが、

1634年に書かれた『中村家御由緒書』には
「本多作左衛門が家康に委細を言上に及んだところ、家康には何か考えることがあり、お取り上げが難しいということになり」とだけ書かれており、

研究者の小楠和正は武田勝頼との戦いに直面していたために家康は秀康を浜松城に引き取る機会も、対面する機会も持てなかったのではないかと推定している[11]。
[40]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月30日 01時11分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 宇佐八幡宮についてまとめようとしましたら、とてつもない深みにはま
ってしまいました。
 結論から言いますと、そこには大和建国の謎が秘められております。ま
た「秦氏」にかんする謎が秘められています。
 それらを必死で調べておりますが、ここで論及するまでには知識が至り
ません。

 ともかく、九州は遠いと思っておりましたが、新幹線で名古屋から3時
間ですので、アッと言う間に着いてしまうことがわかりました。今後は、
歴史の宝庫であります九州に、幾度か足を運びたいと思っています。

 宇佐八幡宮を訪れて、想定していなかった言葉に出会いました。それは、
「放生会」と「行幸会」でありました。
 これらについては、よく探求の上、記したいと思います。

 九州の南朝関係につきましては、「水軍」が重要な位置を占めていること
に考えが行きつきました。九州へ渡るのもそうでしょうし、各地での展開も
そうだったでしょう。この点についても、よく探求の上で記したいと思って
います――
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月30日 08時42分32秒 ) パスワード

三つ柏さん

お帰りなさい。

宇佐八幡宮
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE_ (%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF)
宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)
大分県宇佐市にある宇佐神宮の通称。八幡宮の総本社

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E7%A5%9E%E5%AE%AE

大分県宇佐市にある神社。
式内社(名神大社3社)、豊前国一宮、勅祭社。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。


全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。
石清水八幡宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つ。

古くは八幡宇佐宮または八幡大菩薩宇佐宮などと呼ばれた。

また神仏分離以前は神宮寺の弥勒寺(後述)と一体のものとして、正式には宇佐八幡宮弥勒寺と称していた[注 1]。

現在でも通称として宇佐八幡とも呼ばれる。


八幡宮の総本社であり古くから皇室からの崇敬を受けているほか、
称徳天皇時代の宇佐八幡宮神託事件でも知られる。               「道鏡が皇位に就くべし」との託宣の大疑獄事件でしたね
そしてここ最近10年ほどもゴタゴタやってますね。

       2017年(平成29年)5月
       大分県神社庁宇佐支部が、新宮司は高圧的・独善的で、関係修復をする心は皆無であるとして、
       宇佐神宮の祭典への協力や寄付要請を拒否することを決議するとともに、
       支部事務局を宇佐神宮内から宇佐市内の桜岡神社に移し、両者は絶縁状態になった[17][18]。


              17.^ 神社本庁「恐怖政治」の実態、地方の大神社で全面戦争も
                ダイヤモンド・オンライン、2017年7月5日


              18.^ 絶縁状態 宇佐神宮と県神社庁支部、宮司就任を機に 支部側「祭り協力しない」/神宮側、歩み寄る気配なし
                大分 毎日新聞、2016年6月7日



                    それだけ日本の国の始まりからの政治的な力が大きいからの利権争い?



参拝は一般と異なり、二拝四拍手一拝を作法としている。




主祭神は以下の3柱。
一之御殿:八幡大神 (はちまんおおかみ) - 誉田別尊(応神天皇)とする
二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ) - 宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)とする
三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう) - 別名として息長足姫命とも
[42]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月30日 19時40分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 南朝関係についての記述は後回しにして、まだ記憶が新鮮な内に、「宇佐
神宮」について思いつくままに記述いたします。ただ、私の性分としては、
歴史の謎を発掘すること、およびその謎解きをしたいというスタンスで臨み
たいと思います。

 「宇佐神宮」で気になった情報(文字)は、@「方生会」、A「行幸会」、
そしてB「和気清麻呂」、C「懐良親王の奉納した剣」、更に不思議な名前
だなと感じたのがD「黒男神社」でありました。

 宇佐神宮での与えられた時間は50分、以前に出雲大社に行った時も同じ
でした。観光ツアーゆえ致し方なしということではあります。その中で最大
限の情報を得るためには、現地で発行された歴史の資料を手に入れることで
あります。
 まず真っ先に向かったのは、「宇佐神宮宝物館」でありました。宝物館や
博物館には必ず頒布資料があるということ、まず間違いありません。
 そこにて手に入れた資料は――
  ア.『宇佐神宮由緒記』
  イ.『平成27年第257回勅祭記念 宇佐神宮』
  ウ.『絵で見る 和気清麻呂公一代記』
でありました。
 和気清麻呂公については、空海に協力した人ということで、以前よりシン
パシィを抱いておりましたので、何でここに?と興味を抱いた訳であります。

 これらの本やその他の資料に寄り、@からDについて、順に述べてみたい
と思います――
 まずは@「放生会」……イの資料をペラペラとめくると、「隼人の氾濫」
という文字が目に入りました。「隼人」には以前より興味を抱いていました
ので、どういうことか?と即座に感じました。
 
 次回へ――
[43]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月31日 02時37分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、気温34℃の炎天下にて約3時間、「草刈機による草刈り」をし
ました。別府の「温泉地獄」巡りをしましたが、草刈りも気候によっては、
正に地獄になりえることを確認いたしました。汗が滝のように出ましたので、
随分水分の補給もいたしました。疲れて早めに寝てしまいましたので、深夜
に目が覚めてしまいました。

 さて、宇佐八幡宮で気になったことで、E「二礼四拍手一拝」を追加させ
ていただきたいと思います。これは、出雲大社と同じであり、その秘密につ
いては@からDまでを終えた後、言及したいと思います。

 とりあえず、@「放生会」について――
 細かく書くと長くなりますので、簡略にまとめます。
 「720年に、大隅・日向の国で隼人の反乱があり、歌人としても有名な
 大伴旅人が大将軍に任命され、宇佐の八幡神も”我行きて降伏させん”と
 いう託宣を出して参戦し、隼人征伐をおこないました。
  その隼人の霊を慰めるための放生会が、毎年宇佐八幡宮で執り行われて
 いるということであります。
  ここで、隼人というのはどういう渡来人かは、第Fの謎であります。
  また、この方生会では、カワニナ(蜷貝)を採取し、それを海(河口)にて
 撒くという。一体どういう意味があるのか……ご存知カワニナはホタルの
 餌であります。カワニナはホタルの発生にはなくてはならないものです。
 カワニナを撒く……即ち、やがてホタルが生まれ、黄色い光を点滅させな
 がら夜空の彼方へ飛んでいく=これは、隼人の霊を送りかつ慰めることを
 意図したものであると推察いたしました――
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月31日 16時48分22秒 ) パスワード

三つ柏さん


宇佐神宮を語るとすると、それこそ大和朝廷誕生を語ることになるので
    神話や伝説
    熊襲・隼人の征服
    そして日本の歴史の各時代の背景
歴史が長過ぎ、スケールが大き過ぎ、
ですね。


宇佐神宮には修学旅行で行きましたが
豊前という国の豊かさが宇佐神宮を支えたのかな
とか
蛇の話を聞いたのですが、よく分からないまま、宇佐神宮=蛇というのがインプットされてて
(おお、蛇とは三つ柏さんのお好きなモチーフだ・・・)
と思い出していました。

人類にとって「蛇」とは何か?
また戻ってしまいました。

まぁ、とにかく宇佐神宮とはスゴイ神宮だ、あたりしか分からないです。
九州で「勝った」ところ
そんな感じ。

で、東へ行って大和朝廷になって行った、
そんな感じ。


さっぱりワケ分かりません。


カワニナのことは
日本の神道が征服した敵をも神として祀る
という儀式の始まりなのかな、
とか。


楽しみにしています。

[45]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月01日 17時24分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「隼人」に対する宇佐神宮側の供養は異様に感じられます。「隼人」は
「熊襲」のように見下した言葉ではないと思います。征伐した集団に対し
供養する……やはり、「隼人」には供養されるだけの地位や格が高かった
のではないかと推察いたします。家の蔵書で関連するような物を20冊位
見てみましたが、隼人は「扶余族」であったという説がありました。つま
りは天皇家と同族であったということでしょうか?
 今後も引き続き「隼人」を追跡調査してみたいと思っております。

 土地勘というか、頭の中に土地の地名と位置・方角がだいたい描けると
いうことは、歴史を探究する上で大事であると感じております。
 小倉から宇佐と湯布院と別府へ行ったわけですが、九州での土地勘の第
一歩にはなりました。英彦山(ひこさん)を見たかったのですが、今回のコ
ースでは見ることができませんでした。車窓から拝むだけでも良かったの
ですが、地図では高低差はほとんどわかりませんので、ひょっとして見れ
るかなと甘い期待をしておりました。が、実際は山、また山というふうに
山が多く、英彦山は見ることはできませんでした。秦氏と関係が深いとい
うことで、秦氏関連のどんな物があるのか非常に興味を抱いております。
 もちろん、宇佐神宮も秦氏との関連が深いわけではありますが……。

 話は変わりますが、別府にて国東半島の観光のPRがありましたので、
パンフレット等をいただきましたが、その中に「五辻不動尊」というもの
があり、「五辻」という言葉に引き付けられました。花山流の一族「五辻
氏」、あるいは後醍醐天皇の守良親王が「五辻宮」といわれています。
 後醍醐天皇は、「五辻宮」を九州に派遣したといわれておりますので、
ひょっとしてこの五辻不動尊は五辻宮と関係があるのかな?と思ったりも
しております……。いずれにしても、国東半島も一周してみたい所であり
ます――

 

[46]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月02日 06時56分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「隼人」から心が離れられなくなったので、さらに蔵書の中を探していた
ところ、先日購入した平林章仁氏の『蘇我氏と馬飼集団の謎』という祥伝社
新書が未読になっており、蘇我氏の時代が気になったので目を通してみまし
た。
 すると、何と「隼人」のことが書かれておりました。

 今、時間がありませんので、後でまとめますが、隼人は「早人」とも書き、
文字面のイメージからは「早い人」と印象づけられます。つまり、それは何
につながるかというと、「馬」でありました――
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月02日 16時02分20秒 ) パスワード

三つ柏さん


英彦山はスゴイ霊山だと聞いています。
学習院女子卒の元華族のおばさま達グループのお話からです。
佐賀の秀島さんからのご紹介で英彦山だけは宿坊に暫く泊まって「体験」してみて、と。

    記憶に残っているのは「お不動さんが・・・」の部分で
    でも肥前は竜造寺とか鍋島とかワタシとはそもそも相性が悪いのでちゃんと聞いてなかったのが残念。



            あ、身延山もスゴイ処で
            ここに「見える」人がいて(最近亡くなったようです)
            30年ほど前にわたくしが親友のご先祖さまのことをたまたま知った時
            このお坊さんがその頃、親友に、彼女のご先祖さまの話を彼女にしてて
            あまりの同時性・同事性にビックリしました。
            
                  それまで私は彼女は名古屋の人とばかり思ってました。

                  このお坊さんが彼女のご先祖さまの事を話し
                  ワタクシが彼女のご先祖さまの解説をするという不思議な展開に発展しました。

                  彼女は全くそのご先祖さまの事を知りませんでした。

                        他人のワタシは知ってたのに。
                        わたくしの先祖がらみで。


                      もっと驚いたのは彼女のご先祖さまに「手塚治虫」のご先祖さまが絡みました。笑


そういう場所ってあるのだと思います。
お時間ゆっくり取れることになりましたら英彦山の宿坊に暫くお泊りになってみてください。
是非「お不動さん」にお参りなさってください。



>隼人は「早人」とも書き


隼人には「勇敢ですばしっこい」というイメージはありました。
その体現化が薩摩示現流。
そんなイメージ。



http://kotobank.jp/word/%E8%96%A9%E6%91%A9%E9%9A%BC%E4%BA%BA-511246
以下コピペ:

【薩摩国】より

…《日本書紀》白雉4年(653)7月条に〈薩麻之曲竹島之間〉とみえ,
《続日本紀》大宝2年(702)8月条に薩摩・多褹(たね)を征討し,戸を校(かんが)え吏を置く,
10月条に唱更(はやひと)国司の言上で国内の要害に柵を建て兵を置くとあり,

その説明に唱更国とは今の薩摩国府なりとあることから,このころ薩摩国は日向国より分出設置されたと思われる。

和銅2年(709)6月条に薩摩・多褹両国司とみえ,10月条に薩摩隼人郡司已下188人入朝とある。

薩摩半島南部吾田(あた)の地名は薩摩以前の総称にも用いられ,
住人は阿多隼人(はやと)と呼ばれたが,
後には薩摩隼人,甑隼人の称が頻出し,
朝廷への上番の制も整えられた。…
.

【隼人】より
…そのほか,古語に猛勇を〈はやし〉ということより起こるという説(本居宣長),
《新唐書》倭国伝にみえる〈波邪(はや)〉の地名によるという説(喜田貞吉),

暴風や8月の風を〈はやち〉と称することから,かかる疾風が夏季におそう地域を〈はや〉の地域といったという説(松岡静雄),

などがある。 


これらの隼人は,
日向隼人,大隅隼人,薩摩隼人,甑(こしき)隼人などとそれぞれ地名を冠して呼ばれるが,
彼らは地域的に割拠分散し互いに部族集団を結成して対立し,
統一的な政治権力を作り上げていなかった。

そのことが律令制下でもしばしば反乱を起こしながら鎮圧され,遂には大和政権の統治を許す最大の原因ともなった。…


以上

なるほど
それで大和朝廷に征服されたのか。
[48]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月03日 08時31分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は一日缶詰め、そして夜は酒が入り、帰宅後はキーボード向かう気力
と集中力はありませんでした。
 本朝は、やや頭が霞んでおりますが、何とか思考力を発揮できております。

 古代史は諸説紛々で、どれが真実なのか見極めができません。中世より前
の九州は、特に渡来系諸民族のスクランブル交差点であり、また歴史の重層
構造地帯で二重、三重、四重に重なったり変形したり融合したりしています
ので、とても一筋縄には理解は進みません……。

 九州は大陸や半島に近いだけあって、渡来系の気配が感じられます。地名
や姓氏においても、そんな感じがいたします。
 「宇佐八幡宮」や「宇佐氏」の「ウサ」は、「素戔男」の「スサ」や「伊
邪那岐・伊邪那美」の「イサ」と何か似ている感じがいたします。これらの「音」はどこの国の言葉につながっているのでしょうか?

 「隼人」の理解については、まだまだ納得のいけるレベルにありません。
アマゾンで調べましたら、『熊襲と隼人』(井上辰雄著)という本がありまし
たので、ただ今取り寄せ中。もうじき届くはずであります。他にも家の蔵書
を更に細かく調べてみましたら、10冊位の本の中に、隼人や熊襲等に関係
する項目がありましたので、ただ今理解に努めております――
 
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月03日 14時40分06秒 ) パスワード

http://web1.kcn.jp/tkia/mjf/mjf-51.html
宇佐八幡宮は新羅の神だった

    文字化けで読めません



http://ugaya.jimdo.com/2013/07/19/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB%E3%81%A7%E3%81%99/
宇佐神宮とウガヤ王朝との密接な関係

    大分に実在した古代国家


                     これは実にそう思っていました。

部分コピペ:

宇佐神宮には、もともと天照大神が祀られていた。
八幡神は、のちに大神氏が持ち込んだものだ。
だから、緒方惟栄も、大友宗麟も、怒って焼き討ちにした!
いまだに謎の多い宇佐神宮だが、『ウエツフミ』がこの謎を説明してくれている。


                     なかなか面白いです。
                     だろうな、って思います。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月03日 16時29分53秒 ) パスワード

書き直し


三つ柏さん


>「宇佐八幡宮」や「宇佐氏」の「ウサ」は、「素戔男」の「スサ」や「伊邪那岐・伊邪那美」の「イサ」と何か似ている感じがいたします。
>これらの「音」はどこの国の言葉につながっているのでしょうか?

ウサとかイサとかいう音は
中東あたりに多いように思います。

場所としては  メソポタミアやイスラエル。



宇佐氏については読めば読むほどワケ分からない・・・・土地の人なら分かるのでしょうけどヨソ者なのでサッパリです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E6%B0%8F
平安時代以降についてコピペ:

平安時代では、大神氏が大宮司、宇佐氏が少宮司と定められたが、
岩清水八幡宮の勧請の後に朝廷の力が薄れると、
宇佐氏が大神氏との抗争に勝利して大宮司となった[2]。


                  このあたりから  なるほど  と理解が進むような(笑)

平安時代末期には宇佐公則が現れ、平氏と結んでその社領は九州全域に及んだ[2]。

宇佐公道は清盛の娘を娶り平氏との繋がりが深かったので、壇ノ浦前に自宅を安徳帝の仮御所にして迎え入れた[2]。

鎌倉時代も宇佐氏による大宮司独占が続き、
南北朝時代には宇佐公敦、次いでその弟の宇佐公連が大宮司となったが、
公連は南朝に属して独立し、
南北朝の争いが宇佐八幡宮にも及んだ[2]。

                     あらあら内訌ですか


向野郷宮成山から宮成氏を称し、
公連は到津へ赴いて到津氏を称し[2]。
宮崎別府岩根氏を称し[2]。
安心院安心院氏を称した[2]。

それぞれ大宮司となり、宇佐一族間で激しく争った[2]。


のちは平氏から源氏に代わるなかで源氏と結びつきが強い宮成氏、到津氏が大宮司として残ることになる。


戦国時代は大内氏・大友氏などに仕えたものの、宇佐氏の武士としての活動は目立たない[2]。

また、同時代には奈多鑑基によって所領が蝕まれ、大友軍によって宇佐宮を焼き討ちされて一族が宇佐から避難する事件も起きている[2]。


黒田氏が豊前国へ入国してくると宮成公里の子・宮成公基は宮成公尚に大宮司を譲り、黒田長政に仕えて武士となった[2]。

公尚以降は宮成・到津両氏が続き、近代に至った[2]。


                  戦国時代には力が衰えて
                  日本のよくある神宮の1つへ収まった
                  ということですか。



>「隼人」の理解については、まだまだ納得のいけるレベルにありません。

わたくしなんぞ  隼人とは日向・大隅・薩摩にいた人々  ということで
あのあたりが分裂して「3つの国」になっていった?
と驚いています。
でもさすが日向は古くからあった国のようですね。


     ワタシは  隼人=薩摩人  と思ってた単純バカです。
     やはり土地勘のさっぱり無い場所の話は雲を掴むような手応えの無さです。



http://www.weblio.jp/content/%E9%9A%BC%E4%BA%BA

隼人(はやと)とは、
古代日本において、薩摩・大隅・日向(現在の鹿児島県・宮崎県)に居住した人々。

「はやひと(はやびと)」、「はいと」とも呼ばれ、
「ハヤブサのような人」の形容とも[1]
方位の象徴となる四神に関する言葉のなかから、南を示す「鳥隼」の「隼」の字によって名付けられたとも[2]

(あくまで隼人は大和側の呼称)。                 へぇ〜  そうすると大和からの蔑称だったということなのかな?


風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した。

やがてヤマト王権の支配下に組み込まれ、
律令制に基づく官職のひとつとなった。

                        ここで蔑称から昇格した、ということなのかな?

兵部省の被官、隼人司に属した。

                       隼人司(はやとし)
                        律令制において衛門府、後に兵部省に属した機関。
                        訓は  はやひとのつかさ  など。


                        隼人司は、朝貢・移住する隼人の管理や彼らへの歌舞の教習、
                        または隼人の竹笠といった竹製品製作などをつかさどった。

                        当初は九州の隼人についての業務もおこなっていたが、
                        後に畿内やその近辺の隼人のみに限るようになる。

                        移住した隼人は、大嘗祭などの儀式・行事への参加も行っていた。



                        大同3年(808年)にいったん廃止されてから、兵部省の管轄の下に入る。
                        この事はもともと、隼人が朝廷の軍事に従事していた伝統によるものと考えられている。



百官名のひとつとなり、
東百官には、隼人助(はやとのすけ)がある。


現在は、日本人男性の人名としても用いられる。
 
                       ということは  ものすごく昇格出来た  という成功例  になるのかな?



国の名前でも
それ自体が蔑称になるというのが
どの言語でも、今の時代でもあるから
気を付けないと POLITICALLY INCORRECT になってしまいますね。

うちのホンヤさんのことでも「土豪」なんて書いてた新聞記事がありましたが
あまりの失礼さに仰天しました。

ホンヤさんが「うちは土豪だった」とおっしゃるなら、それはケンソンだけど
新聞記者が  ホンヤさんを「土豪」と書いたのは
尾張の土地の歴史を知らないヨソモノだからだろうなと蔑称で書いておきます。



薩摩隼人というのは日本の国の中では尊称と思う。
それは彼らの大変な努力の結果。

      なるほどねぇ。
[52]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月04日 00時32分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「宇佐神宮」にまつわる謎解き、それは「パンドラの箱」を開けるよう
なものです。それは悪い意味で言っている訳ではなく、とてつもない歴史
の謎を含んでいるということであります。
 ただ、諸説紛々ある中で、何が真実かという見極めが必要なので、本当
の所、膨大なデータベースがほしいのですが、そこまでの時間も余裕もあ
りませんので、ただ素人的に色々なエッセンスを抽出し、並び替えたりく
っつけたりして推理してみたいと思います。

 「隼人」の霊を慰めるという宇佐神宮の「放生会」について、「カワニナ」
を海に撒く意味を、私はカワニナを食して育つホタルの光が隼人の霊をあ
の世に導くのだと勝手にロマンを抱いておりましたが、色々探求して行く
内に、カワニナは必ずしもカワニナでなくても、「巻貝―渦巻き模様を持
つ」であればそれでいいのではないのかと、考えが変わりました。

 千田稔氏の『海の古代史』の中に、「渦巻き模様」には「呪的意味」が
あったということが書かれておりました。古代において、特に縄文時代は
そうでありました。「渦巻き模様」が生活の隅々にまで使用されておりま
した。「呪的意味」とは「シャーマン的意味」と言い換えたほうがいいか
も知れません。この「渦巻模様」、面白いテーマですので、別途深く探求
したいと思っています。

 さて、「隼人」と「渦巻き模様」、実はこれがつながっていたのです。
平林章仁氏の『蘇我氏と馬飼集団の謎』を見ますと、隼人は「楯」に渦巻
き模様(S字模様)を描いていたと書かれておりました。
 隼人は、馬を飼育し、騎馬・騎射に巧みな集団であり、また名馬をたく
さん育てたという。その名馬(額田馬という)の額には渦巻き模様があり、
天皇はこれをたいへん喜ばれたということであります。

 平林氏は隼人について、更に――
 「隼人の楯の模様や額田馬の問題を解く際に参考になるのが、「肥人(く
 まひと)」の習慣である。古代日向には、隼人と親密な関係にあった肥人
 と称された人々がいた。
   〜中略〜
  肥人の資料は僅少ゆえ、実態は明瞭でない。「肥人は肥後国の球磨地方
 の人」、「隼人と文化的共通性を持つ、特に阿多隼人と親密であった海人
 的集団」などとみられている。
  おそらく、肥人は肥後国の球磨川上流、人吉盆地地域に盤踞した集団
 を指し、「熊襲」の「熊」にあてることができよう。彼らはある時期、
 大隅半島曽於地域に住む、のちの大隅隼人=「襲」とともに、日向の
 大豪族である諸県君氏の影響下にあって、南九州を代表する集団の一つ
 とみなされ、「熊襲」と一括的に称されることがあったと考えられる。」
これにより、隼人と肥人と熊襲との関係が少しわかりました――

 熊襲は隼人でもある……元々は同じ集団か、熊襲は字ずらから受ける「熊
が襲う」という恐ろしいイメージの人々ではなく、もっと高貴な集団であっ
たということがわかってきました。
 次回はそれについて記したいと思います――

  
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月04日 06時28分19秒 ) パスワード

三つ柏さん


おっしゃるように宇佐神宮のことは  パンドラの箱  かもですね。

わたくし的には
http://ugaya.jimdo.com/2013/07/19/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB%E3%81%A7%E3%81%99/
宇佐神宮とウガヤ王朝との密接な関係
が分かり易くて(謎)ロマンがあって実に面白かったです。


カワニナの件はカワニナとタニシの区別もつかないボンクラなので語ることは出来ないです。
    ウチの方はタニシは話題にのぼったけれどカワニナもいたのかな?です。
        子供の頃は蛍は飛んでました。
        近所に川や池があったから・・・?
    ということはカワニナもいたのかも。
        単純に、ウチの近所の人はタニシとカワニナの区別が出来なかった、ということかも。




渦巻・渦巻紋ですが
   A)水の渦巻き
   B)龍神の渦巻きまたは雷神の稲妻
この2つが代表イメージでしょうか?

使用家は平氏系の朝比奈氏、越智系河野氏。


ラーメン丼の渦巻き模様
http://www.ramen.jp/wonderland/tsu/4.html
ラーメン丼のトレードマークと言ってもいい四角い渦巻き模様は、
字の如く中国で自然界の驚異の象徴である雷をかたどった伝統の文様である。
古くは中国の殷や周の時代の青銅器に多くみられた。

      ということは  もの凄く古い模様  ということになりますね。  へぇ〜


http://www.tokyo-d-plex.com/~junkomakiguchi/mon_content/index.html

これは知らなかったのでコピペ:

稲妻紋
豊作を告げる電光の一閃であることから、豊作の兆しとして昔から崇められてきた。稲妻紋は、空の火花の鋭い光線を四角に折り畳んだような渦巻き模様が基本形。家紋としては比較的新しく、江戸時代の公家、山科家や武家の伊東氏等が使用している。


このサイトは残念ながらアラシにあったようでほとんどの紋の説明文が下記のように書き換えられていました。


            1950年代、航空自衛隊創設当時に主力戦闘機として導入されたF-86F「セイバー」の非公式愛称。
            当時の防衛庁により命名されたものであるが、実際にはこの名で呼ばれることはほとんどなく、
            現場の隊員やファンからは「ハチロク」と呼ばれることが多かった。
            なお、同じF-86でも迎撃戦闘機として導入されたD型には「月光」という別の愛称があった。



日本の名字の「熊なんとか」というのは本来は「隈」=すみっこ=を意味していたのが
後に勇猛獰猛な動物である「熊」に、漢字が置き換えられた
という番組を見ました。


ということで  熊襲  というのは  大和朝廷の人々から見て  片田舎のヤツラ  あたりの蔑称だったんじゃないかな?

とその番組を見てて思いました。


熊本は元は  隈本  と書いていたのを
上記のようなことから
加藤清正が  熊本  と  勇猛そうに見える漢字に変えた
とその番組で紹介してました。


ロス時代に  隈本さん  という人がいました。
九大を出たとか言ってました。
出身は福岡あたりだったかも。


そうそう佐賀の話をもう1回蒸し返すと
佐賀の友人から「江藤新平ちゃんの隣で手紙が届くよ」と言われ
手紙をそれで出したら本当に届きました。


他にも日本史上の有名人の家の近所に住んでいた人にそれで手紙を出したらちゃんと届きました。
佐久間象山の潜伏先の家の、とかね。

まだ若くておバカな時代のハナシです。
[55]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月04日 13時59分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今更ながら、宇佐神宮に50分しかいられなかったことは残念でありま
した。宝物館でいただいた「宇佐神宮・周辺マップを見ますと、宇佐神宮
上宮より西北西の方向に「西参道」、「呉橋(くればし)」、そして「勅使
街道」が続いており、呉橋より750m程行くと、@「百体神社」があり、
そのすぐ西側には、A「凶首塚古墳」があります。

 @は、奈良時代の南九州での反乱の際、宇佐八幡神が神軍を率いて鎮圧
した、大隅日向の隼人の御霊を祀る古社であります。

 Aは、6世紀末頃に造られた古墳の石室。8世紀に起きた放生会に関す
る伝承では、隼人の首を埋めた塚とされておりれます。

 そして、宇佐神宮から北に600m程北に、「大楽寺」があり、宗派は
高野山真言宗。宇佐宮大宮司の「到津(いとうづ)氏」が、1333年に
到津家の菩提寺と「後醍醐天皇」の勅願寺として創建。本堂には弥勒仏、
脇侍、・四天王の諸像が7体揃って安置されており、全てが国の重要文
化財となっております――
[56]^三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月04日 14時52分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ([54]のコメント削除は、空白のスペースが下部にたくさん入ってしまっ
たため、文章部分を[55]へコピペしました。格好悪いので、できれば跡形な
く消したいものです。)

 宇佐神宮も湯布院も、また別府も「韓国」の旅行者が多かったです。その
前に行った富士山麓の河口湖や忍野八海では、「中国人」の観光客が多かっ
たです。
 九州は韓国からは近く、船便もありますので韓国人が多いのは当然でしょ
う……逆に、私も九州に住んでいたら、慶州(新羅)や扶余(百済)へ頻繁に頻
繁に行くと思います。古代における「服部」の故郷(海外)は伽耶でしょぅか、
そしてその前は呉でしょぅか?知りたいものです。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月04日 15時34分32秒 ) パスワード

三つ柏さん


ホント!
50分じゃなくて、もっと長くいられたら良かったですね。


実に古代史って
ホントに面白いですね。

ハッキリしてないからこそ面白い。
いろいろ空想の余地があるからワクワクします。


>@「百体神社」
http://ameblo.jp/indiaindia-27/entry-12194511600.html
http://www.visit-oita.jp/spots/detail/5716
百体社(ひゃくたいしゃ)・凶首(きょうしゅ)塚古墳

    すごい命名ですね

    隼人を100人もやっつけたぞ!(わーい)
    で、
    100人の隼人の亡霊に悩まされてしまったよ(ガックシ)

    そんな感じ?


こういうスゴイ過去があって今の日本が出来上がった・・・

あれでしょうね
    縄文時代あたりは、いろいろな異なった人間が結構仲良く<一律に貧しく乏しかったから>みんな一緒ということで棲み分けてたのに
    弥生時代になって富が出来、支配者が出現し、格差社会が始まり、差別が始まった
    特に稲作社会の掟に従えず共には住めない異人種を根絶やしにする気風になった
かな?


その勝者が九州では  宇佐神宮系の人々  だったのかな?

日本の歴史は
     スサノオ vs アマテラス vs 大国主命   に始まって
もっと後が    神武東征
もっと後が    神功皇后
もっと後が    平家に味方
もっと後が    南北朝の戦い
もっと後が    戦国時代
もっと後が    幕末


それにしても 
  
    土蜘蛛   大和朝廷に敵対した古代の「まつろわぬ人々」への蔑称。
    狗奴    狗=小さい犬・犬っころ・取るに足らないヤツ

古代を読んでいると蔑称のオンパレードなことに驚きます。
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月04日 16時00分03秒 ) パスワード

三つ柏さん


大分へ行った25年ほど前?
すでに案内板に韓国語も書かれていて驚きました。
今はもっと氾濫してるのでしょうね。


>古代における「服部」の故郷(海外)は伽耶でしょぅか、
>そしてその前は呉でしょぅか?知りたいものです。


秦が滅びて   (紀元前778年 → 紀元前221年に中国を統一 → 紀元前206年に滅びる)

流れ流れて

一部は呉に行き
半島には500年ほどいたらしい
そして日本へ?
計算的には合ってるように思います。


ワタクシの基本DNAは縄文系です。
もともとが土着で、大陸や半島からの人間がちょこちょこ混じった感じです。
残念ながら白人系は無し。笑
なのに白人に多いパーキンソン病のケは無いわけじゃなくてアリです。
なんで?


自分でも縄文系というのは感じます。
「磐座」や「神奈備」には大いに反応しますから。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月04日 16時22分29秒 ) パスワード

そうそう
半島のもの(韓流ドラマとか韓国の歴史)には全く100%興味は無いのですが
大陸のもの(中国の歴史や漢字)には非常に興味があります。


確かに韓流ドラマは良く出来ていると思います。
日本の安っぽいTVドラマの制作には呆れています。
でも韓流ドラマについて、そこに使われた中国のもの(漢字の表現など)に、興味がある、ということです。


中国の歴史とか文化とか漢字については中国の人が「よく覚えてるねぇ」なんて言ってくれますが
中国語の音は全くダメです。時々中国語の音から漢字が分かるというのはありますけど。
つまり日本人として教養として知っておきたい中国の文化に興味がある、ということです。
中国の人と今夏は西遊記、紅楼夢、三国志、水滸伝の話を楽しみました。
金瓶梅も面白いよね、と言って笑われました。

去年だったか中国の人から「あんたは中国人の顔だ」なんて言われてビックリしました。

過去生に於いて中国文化を勉強したような気はあるけど自分が中国にいたという気は全く感じないです。

ひょっとすると、秦の滅亡時にひどい死に方でもして、思い出したくないのかも。
旧日本軍や旧日本兵による残虐行為について台湾の人や中国の人に指摘されると
(アンタ、知らないの?中国の歴史なんてさ、ものすごく残虐なことをやって来てるし、今もやってるんだよ)
と言いたくて仕方無いです。

まるで見て来たかのようにそう思うのです。
[60]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月05日 09時03分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様の中国への造詣の深さには感服いたします。

 中国にしろ、韓国にしろ、「政治」により国体が変わってしまい、民族
のルーツとシンパシィは、全体としてはないがしろにされてしまいます。
 国民個人のレベルにおいては、本当は中国人も韓国人も、親近感を感じ
合える関係にあるのですが……。

 旅行してみると、個人のレベルでは韓国でも中国でもすごく感激を受け
ております。台湾はなおさらであります。
 国と個人、これは本来は考え方も一致して当然だと思いますが、やはり
利害関係が最優先されてしまうということ、本当は利害を超えた人間性の
部分をよりどころとして超越していかなければいけない……こんな考えを
抱くのは、平和で豊かな国の田舎育ちの人間だからでしょぅか……?

 韓国でも中国でも、台湾でも、あるいはフィリピンでもタイでも、全く
日本人と変わらない、つまり家族の一員のような人を見かけます。民俗学
的なテーマとしておもしろいテーマであると思います……。

 用事にて中断します――
[61]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月05日 11時01分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 復帰します――

 韓国には10回程度行っておりますが、慶州あたりのガイドさんは日本の
歴史に詳しい。特に天皇の歴史について詳しい。こちらの知らないことを一
杯知っている……何でなのか? たぶん、日本では、天皇家の歴史に対して
は、宮内庁をはじめとする各種ガードが働いており、また国民の側にも天皇
家を敬う心のガードも働いているので、韓国におけるような自由闊達な歴史
の話には、潜在的に自然とブレーキがかかる傾向にあるのだと思います。

 さて、宇佐神宮の謎解きのために、蔵書より抽出した10冊程の本の中に、
韓国の学者さんの本が3冊入っておりました。それらは――
 @『日本語の正体 倭(ヤマト)の大王は百済語で話す』金容雲著
 A『「日本=百済」説 原型史観でみる日本事始め』 金容雲著
 B『消された多氏古事記 まつろわぬ者の秘史』   朴 炳植(ピョングシク)
であります。これらを読むと、宇佐神宮の背景の歴史はかなり明らかになり
そうです。
 これから図書館で涼しいところで集中して読み込んでまいります――
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月05日 15時25分12秒 ) パスワード

三つ柏さん


「百済語が日本語で、百済語を捨てたのが韓国語」とかいうのですか?

何語かは分かりませんでしたが
何十年も前に古代の日本をドラマ化したNHKの作品では
確かにヤマトの大王家レベルの人達は半島の言葉を話していました。
     ワタシにはまったく分からなかったのですが
        このグループは百済系で、こっちは新羅系か、
     それが分かったあたりでした。

        でもサッパリ理解出来ていません。
        日本語でも英語でもない全く知らない言葉と人名のドラマだったように感じました



呉に朝貢←百済←♡→狗奴国  (平家)    vs    新羅←♡→邪馬台国   (源氏) → 魏に朝貢  3世紀のこと  238年AD

対立が続く


その結果
1.半島の伽耶から九州南部に渡り瀬戸内海を渡って大和に入った神武東征があり
2.しかしその前に新羅系で饒速日命の子孫の物部氏が大和に入っていた
3.結局百済と仲の良い応神天皇が大和を支配へ  (伽耶を吸収征服) 日本国へと発展


よく分かりません。
[63]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月07日 01時25分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様のグリップ、おおよそ当たっていると思いました。

 朴炳植氏の本、もう一冊を付け加えさせていただきます。それは、『日本
語の悲劇』という題であります。
 この題のつまるところの意味は、現日本語は母音と子音をそれぞれ5音と
50音(48音)に減らしてしまったので、奈良時代に比べると50%近くの
発音を喪失してしまった……という点がもったいない、損失である、悲劇で
あると言っているのであります。

 もう一人の金容雲教授(壇国大学特別教授)も、『日本語の正体』という本
を書かれています。朴氏も金教授も「日本語」というものに耳からの感性を
働かせていると言ってもいい。つまり日本語に精通しておられて、韓国の言
語と比較して分析する能力をお持ちであるということです。

 金教授によれば、古代(百済や新羅の時代)、百済も新羅も方言程度の差し
かなかった。日本も半島からの渡来人が多く、百済や新羅と方言ミックス
程度の違いで話ができたということであります。

 このほぼルーツが同じ言語が、「白村江の戦い」を境に、韓国は「新羅語」
に収斂し、日本は「百済語」に収斂して行ったということであります。
 さらに韓国語は「ハングル」により表記上の変化を遂げ、日本語は「50
音」化により発声の単純化を成し遂げたということであります。

 日本語のルーツはほぼ百済語であったということ、言い変えれば言葉のル
ーツは国のルーツでもあり、極論で言うと日本は百済であったということに
なります。

 さて、20冊ほどの本の中で、宇佐神宮や日本建国当時の古代史に関わる
部分を読み直しましたが、結局諸説紛々で、何が真実なのか判断ができない。
真実は一つなのですが、日本の古代史は藤原不比等の『日本書紀』等による
歴史の改竄・創作が行われており、また古代の天皇の名前、実在年にもベー
ルがかけられている。
 日本の研究者より、呪縛のない韓国の研究者の方が、ストレートに真実に
近づけるのではないかと思います。

 そういう意味でも、金容雲氏の2冊の本、2009年の『日本語の正体
倭の大王は百済語で話す』と2011年の『「日本=百済」説』は、半島・
列島の歴史状況、王族・大王等についてもよく把握しており、また把握して
いるからことわかりやすく、納得できるものでありました。
 諸説紛々の中で、とりあえず金容雲教授の書かれた内容をスタンダードと
したいと思います。

 次回からは、その具体的内容に入ります――
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月07日 09時01分16秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101604.html
スレッド96を立てました。

どうぞ。
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