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 投稿番号:101601 投稿日:2017年07月25日 03時06分37秒  パスワード
 お名前:三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族XCW(課題確認37)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101599_59.html
長上郡の服部氏族XCV(課題確認36)
スレッド93の続きです。

      自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
      最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


スレッド<41>より

下柘植の「西光寺」。
松島家と藤沢家と服部家の墓群が、向かい合わせに一塊になっており、
しかも家紋が同じ「八角に並び切り竹」を全部の墓が付けておりました。

藤沢と松島家は信州伊那では同族であるのですが、
伊賀では服部氏とも同族となっている……

墓の古さでは、服部、松島、藤沢の順でありました。


不思議ですね。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月25日 09時33分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッド、ありがとうございます。

 頭の中にはあれやこれやと「点」とそれに関する課題が増えて行き、混沌
状況を呈しております。「点」を解明する努力と、それを「線」で結ぶ推理
力・総合力が欠けていることは間違いありません。
 暑さと睡眠不足と集中力・気力の低下……何とか克服すべく努力いたした
いと思っております。

 これから、「天正伊賀の乱」を題材にした映画を見に行ってまいります――
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月25日 14時05分30秒 ) パスワード

三つ柏さん

では映画のあらすじとか感想をよろしくお願いします。


「天正伊賀の乱」は結構ドラマになりますね。
戦国時代の縮小版というか
「人間」がしっかり出ますからね。
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月26日 11時08分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 奥山の新田氏(名倉氏)を検索していましたら、私の疑念を解決してくれ
そうなサイトを見つけました――それは、あの「龍雲丸」のことについて
述べられておりまして、私は、龍雲丸はドラマを面白くするために架空の
キャラクターを創作したのではないかと疑念を抱いておりましたので、こ
のサイトの内容を読み、ある程度歴史への忠実度が戻った(胡散臭さが薄ら
いだ)感じがしております。
 そのサイトは――

  http://bushoojapan.com/iinaotora/2017/07/09/101675
  BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
  「龍雲丸のモデルは新田友作か? 史実なら処刑される!?
   おんな城主直虎、最大の疑問に答える」
です。ぜひご覧になって下さい!
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月26日 14時27分44秒 ) パスワード

三つ柏さん

読んで来ました。
そして  南朝つながり  というのを感じました。
家康も一応自称借冒で南朝方子孫ですしね。


http://bushoojapan.com/iinaotora/2017/07/09/101675
本当に龍雲寺、というのがあるのですねぇ。
ワタシ的には龍雲丸は新田友作の子供だったのかな?と。
実は瀬戸方久とは遠縁だったのではないかな?と。
共に南朝方だったのではないかなと。



http://bushoojapan.com/iinaotora/2016/12/21/89744
傑山宗俊(市原隼人)

この人の名前から(あれ?ひょっとすると宗良親王の子孫?つまり井伊家と親戚?)と思いました。




http://bushoojapan.com/iinaotora/2017/02/08/94167
こちらは松下清景についてです。
こちらもなかなか面白かったです。

考えさせられました。
松下源太郎清景って松下連昌の長男だったのですねぇ。宇田源氏系源姓のようですね。
で、常慶が4男。

そんな立派な家に「しの」さんは嫁に行ったのですねぇ。
長男の家なら「しの」さんの格は落ちませんね。
松下家も「井伊」の当主の後家なら損はなかったでしょうし。

ただし  虎松が家康によって松下姓から井伊家再興になったのは  想定外だったでしょうね。
家が栄える、というのが当時は大事なことでしたでしょうから
井伊の土地や旧臣が松下の資産になるべきだったのに。


     松下清景常慶一族の松下家には(あれ?そうなっちゃうの?)だったでしょうね。



松下姓
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E8%B5%A4%E6%B4%A5

徳川家などを輩出した現愛知県東部である三河国碧海郡松下村が起源(ルーツ)である、宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)。

ほか古代氏族であり、美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)など様々な流派がみられる。

現在も静岡県や鹿児島県に多くみられる。




すっごく面白かったです。
ありがとうございました。
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月26日 16時06分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 近々、龍雲寺へ行って「新田友作」の墓を拝んでこようと思っています。
 それと、設楽町にある清水城跡(名倉・新田友作の父が城主)も見に行っ
てこようと思っております。

 昨日の映画は、原作が和田竜(りょう)氏の『忍びの国』でありました。
この本は、何年か前に読んでおり、家にありました。映画のストーリーは
原作に忠実でありました。ただ、忍者がスーパーマン的にオーバーに描か
れていて、いわゆるエンターテインメント作品となっておりました。
 主人公は「無門」という伊賀一の忍者ですが、子供の頃、買われて伊賀
に連れてこられたという設定になっていました。脇役に「日置(へき)大膳」
という強弓の武将がおり、原作では柘植の平宗清の末孫となっております。
 内容的には、第一次天正伊賀の乱(天正7年)を描いております。

 いずれにしましても、柘植の日置神社、そしてじっくり行ったことがな
い甲賀にも近い内に訪れてみようと思っております。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月27日 15時20分33秒 ) パスワード

三つ柏さん


龍雲寺
なかなか面白そうですね。
本当に龍雲なんて名前があったなんてね。

友作さんのお墓
ぜひ是非ぜひ参ってください。
きっと南朝方大将の新田がらみでしょうね。

>設楽町にある清水城跡(名倉・新田友作の父が城主)

設楽は南朝がらみというかもともと平家がらみだったのではないかなと思っています。


>『忍びの国』
>忍者がスーパーマン的にオーバーに描かれていて、いわゆるエンターテインメント作品となっておりました。

そうでしたか
ま、娯楽映画では、そんなもんでしょうね。
ワイヤー・アクションとか?
下品過ぎてワイヤー・アクションは好きじゃないです。

でもこちらのテレビで数年後に放送される時には見ます。



ぜひ是非伊賀や甲賀にはお出かけになったください。
[7]三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月28日 12時55分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

新田喜斎は、瀬戸方久、新田友作でもある。
 祖先は、源満仲――頼光の後裔の伊武が名倉に移り住み、名倉を名乗っ
た。嫡子がなく、新田義一を婿養子として名倉家を継がせた。
 その後裔が清水城主となり、新田姓に戻る。
 しかしながら、下条信氏に攻められ落城、新田友作は気賀に逃れた……。

 昨日、気賀の龍雲寺、そして257号線を北へ上り、稲武の手前の名倉
まで行って来ました。
 気賀には確かに名倉姓がかなり見られます。奥山にも少しあります。
 都田川が浜名湖に注ぎ込む所は、いわば気賀湾といってもいい形状であ
ります。その湾の東岸の付け根に龍雲寺はありました。

 龍雲寺の墓地に行ってみますと、まず驚いたのが、「加茂家」の墓がた
くさんあったということです。家紋は「三つ巴」。雄踏に多い姓でありま
す。中村姓もかなりありました。それらの中で、細長く他の墓より一段と
高い墓が目に入りました。横3m×縦2m×高さ50p位の基台の上に、
通常の形をした墓石と、細長い墓がセットで仲良く並んでいる。というこ
とは、この墓は身内のものであるはずだと推察いたしました。
 通常の墓の方には、こう書かれていました――
 「中村本家累代の墓」
 細長い方の墓には――
 「知足院殿歓屋宗喜居士
  俗名 新田四郎義一
  剃髪而謂喜斎    」
つまりは、中村本家の累代の墓と、新田喜斎の墓でありました。
 でも、何故中村家と一緒?……それは、親戚関係にあったと郷土史家の
石野修氏は言っておられます。具体的な関係については、今のところわか
っておりません――

[8]三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月28日 22時18分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一つ付け加えるのを忘れておりました。龍雲寺の墓地には、服部家の墓が
一基ありました。家紋は「丸に並び矢」でございました。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月29日 05時51分44秒 ) パスワード

三つ柏さん

>気賀には確かに名倉姓がかなり見られます。奥山にも少しあります。

ということは  奥山氏とも親戚関係にあったのでしょうね。



>「知足院殿歓屋宗喜居士   俗名 新田四郎義一    剃髪而謂喜斎」

すごいですね
知足院殿歓屋宗喜居士
殿様、の戒名ですね。 院殿!  なんて!!!

さらに
歓屋   宗喜居士  の「居士」が「大居士」でないのがちょっと不思議です。
院殿と来たら大居士と呼応するんじゃないの?と。


また  宗喜  というところが  宗良親王がらみじゃないのかな?と。



>つまりは、中村本家の累代の墓と、新田喜斎の墓でありました。
>でも、何故中村家と一緒?……それは、親戚関係にあったと郷土史家の石野修氏は言っておられます。

でしょうね。
わたくしも、親戚でしょ、と思います。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月29日 05時59分23秒 ) パスワード

>龍雲寺の墓地には、服部家の墓が一基ありました。家紋は「丸に並び矢」でございました。

これは  何で?  南朝方がらみ?  です。


平家時代にまでは遡って考えはしませんが
南朝時代  and/or 南朝時代以降
龍雲寺あたりに伊勢伊賀の服部氏も住んでた?新田系と服部氏は親しい関係だったろうと思います。


     なにかちょっとホロッと来ました。


やっぱり遠江国あたりは南朝方の末裔が多いのかな?と。
宗良親王を中心にした残党が井伊家の庇護を受けてたのかなと。
[11]三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月29日 17時06分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 龍雲寺をあとにして、次は257号線を北へ約50qの設楽町清崎にある
「多宝寺」へ向かいました。ここには「丸に三つ柏」紋が多く見られるとい
う。
 行って見て、ここが旧伊奈街道の宿場町であったことが案内看板でわかり
ました。
 多宝寺の墓地に行って見ると、「丸に三つ柏」紋が目に入りました。姓は
「七原」で、これが圧倒的に多い。七原という苗字は初めてで、一体どうい
う人達だったのかと思いながら、町中を探索すると、「門屋屋敷跡」という
看板が目に入りました――
 「南信州阿南町和合の豪士宮下左衛門が武田軍として長篠合戦に参戦する
 も、武士を捨ててこの地に移居し、七原の姓をもらった。門構えの屋敷に
 住み、門屋と呼ばれた。」
とありました。
 奥三河は南朝関係が多いと思っておりましたが、戦国時代に武田軍が攻め
てきた関係で、その残滓・痕跡が至る所に残っているようです。
 多宝寺について、家に帰ってから調べましたら、武田家臣下条信正の墓が
ここにあるということでした――
 

 

 
[12]三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月29日 17時28分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 下条氏の件ですが、新田友作が城主であった(?)名倉の清水城を攻め落と
したのは、「下条信氏・信正親子」であったようです。
 その清水城跡に次に行きました。次回はその話を――
[13]三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月31日 06時35分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、ツアーで知多半島の先にある日間賀島に行ってきました。副島
隆彦氏の『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』という
本の中に、こういう情報があったので、ひょっとして現地にその痕跡が残
っているかなと思ったからであります。その情報とは――
 「伊勢湾に入ったところにある知多半島の日間賀島(昔から忍者の島で、
 偽物ブランド品の製造の歴史があるという)や他の島々や吉良大浜(今の
 知立市、当時は池鯉鮒)を忍者たちが偵察活動でうごめいていた。だから
 これらの小港には、最先端の情報を伝える者たちの当時の高速船の連絡
 網があったのだ。」
ということでした。
 現地にて、観光案内書や寺の由緒書きを調べてみましたが、その情報の
かれらもない。ましてや地元の人に訊いてみましたが、一笑されただけに
終りました。でも、500年も前のこと、忍者は記録(証拠)は残さないの
が鉄則でありますので、この謎の追及は今後も続けて行きたいと考えてお
ります。
 もっとも忍者というと忍術にたけた者のイメージがありますが、情報・
工作の特殊部隊と考えれば、戦国時代では誰でもが忍者といえるかも知れ
ません……。
 また、高速船〜水軍の歴史はあったと思われますので、視点を変えて探求
してみようとも思っています――
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月31日 14時58分04秒 ) パスワード

三つ柏さん


本日の「直虎」は難しかったです。

水野が武田に通じて今川方によって首になった(今の雇い止めは昔の処刑からの派生なんだなぁ〜っと)シーンを見てて
ワタシは乱世に於いてはさっさと滅ぼされる方だな
と自分が情けなかったです。

今回のドラマは中盤が難しかったです。ついて行くのに精一杯でした。


やっぱり小野但馬守政次は井伊家と直虎を守るために死刑になっていくのかな
と思いました。
ドラマでは高橋一生は分かり難い性格の人物を演じていて
史実でも政次は誤解されるタイプだったのかなと想像しました。

で、嫌われているのかな、と。


政次が武田に内通したのは井伊家を今川家から守るためだったのでしょうけど
政次としては直親のことがあるから家康と手を組むことは考えられないことだったのかな
などと空想しました。


      いよいよ井伊家の危機が迫ってますね、どうなるのでしょうね。    
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月31日 15時11分07秒 ) パスワード

>知多半島の日間賀島(昔から忍者の島で、偽物ブランド品の製造の歴史があるという)や他の島々や吉良大浜(今の知立市、当時は池鯉鮒)を忍者たちが偵察活動でうごめいていた。

伊勢にも(海で)結ばれているし
三河にも近いし
遠江にも便利。

忍者の通行には都合が良かったかも知れないですね。



>多宝寺の墓地に行って見ると、「丸に三つ柏」紋が目に入りました。
>姓は「七原」で、これが圧倒的に多い。
>七原という苗字は初めてで、一体どういう人達だったのかと思いながら、町中を探索すると、「門屋屋敷跡」という看板が目に入りました
>「南信州阿南町和合の豪士宮下左衛門が武田軍として長篠合戦に参戦するも、武士を捨ててこの地に移居し、七原の姓をもらった。
>門構えの屋敷に住み、門屋と呼ばれた。」とありました。

この箇所
ヒバリさんの家を連想しました。
宮下姓ですから。


丸に三つ柏紋の服部氏がちょっと見えた?
[16]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月01日 10時15分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 猛暑が続きます。昔は30℃を越すことはそんなになかったような気が
します。今は33℃から35℃くらいは当たり前であります。昔は夕立が
ありましたが、今はほとんどなし。その代わり、土砂降りの豪雨が極地的
に発生する。台風も早くから発生し、遅くまで続く。二酸化炭素の影響が
大きいのでしょう。二酸化炭素を空気中から取り除く装置、あるいはシス
テムを開発することが急務。規制だけでは今より減ることはないでしょう。

 冷房が気持ちいいので睡眠中に冷房を利かせすぎ、喉をやられて声がか
すれてしまいました。
 歳のせいか、冷たい飲み物をガブガブ飲むということはなくなりました。
冷たい氷菓をガリガリ食べることもなりなりました。従って、胃腸の調子
は悪くはありません。これだけは有難いです。サウナにもよく行き汗をか
くせいか、「汗も」に悩まされることは減りました。
 でも、年々夏を迎えることが恐ろしくなって行きます――

 日間賀島から高速船で師崎へ帰り、バスでの帰途となりましたが、帰り
かけてすぐ「羽豆神社」という看板を見つけました。細江にも幡豆神社が
ありましたので、興味が湧き、帰宅後に調べてみますと、師崎の先端は、
羽豆岬と呼ばれ、伊勢湾と三河湾の喉元に位置し、古代より海上交通の要所
として見張り所が置かれた。それが羽豆崎城になったということであろう
か。水軍の基地でもあり、航海権の掌握により船舶より税を取り潤ったと
いうことであります。
 南北朝時代には、羽豆崎城は熱田神社の大宮司「千秋昌能」自ら南朝方
の拠点として守る。東海道筋を足利勢に押さえられた南朝方は、海上輸送
に頼らざるを得なかった。東国より吉野に入る中継地として利用された。
義良親王、宗良親王、脇屋義助もこの城に滞在したとのことであります。

 伊勢湾、三河湾を制すること、これは天下取りに直結することであった
と確信しました――
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月01日 14時12分38秒 ) パスワード

三つ柏さん

>氷菓をガリガリ食べる

子供の時はよく食べました。
毎日1個では足りないぐらいでした。


>南北朝時代には、羽豆崎城は熱田神社の大宮司「千秋昌能」自ら南朝方の拠点として守る。


これは100%知らなかったどころか想像もしていませんでした。

千秋氏と服部氏は婚姻関係もありましたし
先祖がここに寄ったのか
と思いますと感無量でございます。

思わぬ処に足跡を残していたのですねぇ。
しみじみ
[18]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月02日 23時20分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 南北朝あたりを勉強しています。南朝方と奥三河の関係についてはもう
少し深く探求してみたいと思っています。
 
 さて、名倉についてですが、稲武の南6km位の所に平地が広がっており
ます。名倉平ともいわれます。過去、何回も通っておりますが、いい所で
あります。牧場もあります。標高は650m程であります。

 清水城城址は、257号線と茶臼山高原へ行く道とが交差する場所に道
の駅がありますが、そこから東へ1q程行った山にあるということでした。
しかしながら、行って見て探しても探してもどこにあるのか見つかりませ
ん。グルグルと何回も回りながら、最後は民家に立ち寄って訊いてみるこ
とにいたしました。しかしながら、地元の人でもしかとはわからない。そ
もそも、清水城やその城主が、地元にとっては記憶に残るほどのものでは
なかったということか……と思いながら、示された鉄塔の近くまで行き、
またグルグル回り始めたところ、お地蔵様が並んでいるのが見えました。
たぶんこれだと思いながら近づくと、白い柱(案内用)と赤い鳥居が見えま
した。白い柱にはわずかに清水城址の文字が読めました。

 鳥居をくぐって、坂を20m位登ったでしょうか、そこにまた白い柱が建
てられていて、こう書かれていました――
 「町指定 (史跡) 清水城址 設楽町
  足助荘名倉郷といわれていた頃(南北朝時代)の城で、城主は代官の
  菜倉左近蔵人。本丸・二の丸址等が残る。
            」
 頂上あたりは平地になっていて、かつては城が建っていただろうという
ことが想像できました。ここで、大木に手を当て、城主菜倉(名倉)氏のこ
とを思いながら、般若心経を二巻、唱え捧げました。

 清水城と新田喜斎を結ぶ線……クリアではありませんが、つながりがあ
ることは間違いないと推察いたしております。名倉氏の系図が「武将ジャ
パン」に書かれておりましたが、もう少ししっかりしたものがないか、
新城の図書館あたりに行って一度調べたいと思っております。

 奥三河は新田氏と大いに関係があることがわかりました。次回はその点
について更に記したいと思います――


 

 
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月03日 01時58分11秒 ) パスワード

三つ柏さん

名倉氏の情報をありがとうございました。
背筋がゾクゾク
頬もゾクゾク痺れました。


やっぱり南朝絡みでしょうね。


設楽あたりの原さんは平家がらみだろうと思いますが
やはり東三河は南朝方の息吹の残る所なのでしょう。


なんだか、あぁ、先祖がワタシの血の中でDNAになって咽んでいる、というのを感じます。


傑山さんだって
もしかすると南渓和尚の実子かも知れないですしね。

     龍潭寺の住職に南渓和尚の跡を継いでいますし。


みんな実は身近な関係だったのじゃないかなと。
[20]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月03日 23時49分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、新城市へ行ってまいりました。その目的は――
 @新城市立図書館で、南朝関係の記述・資料を見つけること。
 A新田義貞の妻の墓が、新城市玖老勢(くろぜ 長篠から10q程北)に
ある周昌院という真言宗の寺にあるといわれているので、それを確認に行
くこと。

 @の結果については、図書館の郷土資料室に行きくまなく探すも、南朝
関係の記述・資料はほとんどありませんでした。戦国時代の武田軍の攻撃
の方がインパクトが強いらしく、長篠の戦い関係については、たくさんの
記述・資料がありました。
 南朝関係について、せっかく期待して行ったのに誠に残念でありました。

 Aについては、元長篠城址史跡保存館長丸山彭氏の書いた『戦国落穂ひ
ろい』の中に、こう書かれておりました――
 「新田夫人は、義貞戦死以後、伯父を頼って玖老勢に来た。当時の周昌
 院の住職は、新田義貞夫人の伯父であった。夫人は、鶴庵という庵を結
 んで、ここに住み着いた。夫人は、義貞の冥福を祈って、大般若経六百
 巻を書写し、寺に寄付した。」
ということでありました。
 新田義貞は、私にとってはずっと遠い存在でありましたが、この話を読
み、とても近くに感じるようになりました。

 さて、肝心の周昌院ですが、真言宗のとても大きなお寺でございました。
 入り口付近には「鯖大師」という鯖を胸の前で握っている弘法大師の像
が建てられておりました。これがどういう意味なのかは、まだ調べており
ません。
 「比丘尼塚」は、寺の真ん前の木の生えた一画にありました。住職が
整備組み直しして、比丘尼塚と掘られた杭を建てたようです。立派な宝篋
印塔が三基、並んでおりました。両脇の二基は家族なのか、家臣なのかは
わかりませんが、立派な方達だったのだと推察されました。
 ここで、私は般若心経を二巻、唱え捧げました。蝉の声も一緒に読経し
ているように聞こえました――
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月04日 13時50分23秒 ) パスワード

鯖大師

1)
http://kotobank.jp/word/%E9%AF%96%E5%A4%A7%E5%B8%AB-1325096

これは漁獲物の一部を舟子,網子たちが無償でもち帰るカンダラという風習と関連するとも思われる。 一方,古い街道筋の要所である坂や峠に僧がサバを手にもつ像を祭って〈鯖大師〉と呼び,弘法大師が旅僧の姿でサバ1匹を請うたのに,商人または馬子が荷物のサバを与えなかったために罰せられたという伝説を伝えている場合がある。徳島県海部郡海南町鯖瀬の八坂八浜の伝承は代表的であるが,これは坂や峠の神に食物の初穂を供える風習と,これを仏教で生飯(さば)と称したことが転訛(てんか)してこの伝説となったらしい。

【大師信仰】より


…また旅姿の大師をばかにしたので悪いことが起こったとする型の伝説も多い。その一つに鯖大師伝説がある。行商人に大師が鯖を1匹請うが,行商人は与えない。…



2)
http://www2a.biglobe.ne.jp/marusan/phsabadaishiinnoshima1.html

鯖大師の由来

弘法大師因島に御来島の秋島を一巡されるお姿はお袈裟朽ち衣破れる乞食相にも似たご修行姿であったという。

海岸をご巡鍚の途中頭に魚桶を乗せ行商する魚屋にお逢いになり魚の喜拾を求められた其の時魚屋は之は商売の品でありそして魚を乞とは全く呆れた生臭坊主乞食坊主と罵り去ったという。

しばらく行って魚屋がふと桶の中を見ると今朝獲ったばかりの鯖も鯛も全部腐っていたこれは唯人ならずと後を追いその修行僧に合掌懺悔して許しを乞う大師は魚屋を憐み桶の中から鯖や他の魚を取り出し御加持して海に放すと勢い良く内海へ泳ぎ去ったという信仰話が今に語りつがれている。

へぇ〜
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月04日 14時11分53秒 ) パスワード

三つ柏さん


    A新田義貞の妻の墓が、
     新城市玖老勢(くろぜ 長篠から10q程北)にある周昌院という真言宗の寺にあるといわれている

この人は新田義貞の現地妻でしょうか?

記録にある新田義貞の妻は  
小田真知女、

      『鑁阿寺新田・足利両氏系図』による。
      「小田真知」なる人物は常陸小田城城主で八田氏(下野国守護・宇都宮氏一門)の一族であったとされているが、
      この時期の同城城主は小田治久(初名は高知)であり、小田氏の系図にその名前自体が見られないことから、
      特に誤りがなければ真知は治久のことを指している可能性がある。


天野時宣女ほか
      天野氏は庶流の兵部少輔は南朝方として活躍したと書かれているので
      この系統かも知れないですね。
          http://www2.harimaya.com/sengoku/html/to_amano.html


その他

新田義貞の妻で有名どころは  勾当内侍  ですね。
彼女と別れるのが嫌でグズグズしてたとか。
それで新田義貞が敗北していくのは彼女のせいだなんて言われますね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%BE%E5%BD%93%E5%86%85%E4%BE%8D


鎌倉時代後期に後醍醐天皇の討幕運動に加わり、鎌倉陥落に功績のあった上野国の新田義貞の妻になったといわれ、建武の新政を開始した後醍醐天皇が義貞への恩賞として与えられたという。

建武3年(1336年)初頭、新田義貞は新政から離反した足利尊氏を楠木正成や北畠顕家らとともに京都で破り、足利尊氏らは九州へ逃れたが、2月から3月にかけて義貞は尊氏追撃を行わなかった。その理由として、『太平記』では新田義貞は京都において勾当内侍との別れを惜しみ、出兵する時期を逃したとし、勾当内侍が結果的に義貞の滅亡の遠因を作った女性であるとする描き方がされている。

その後、尊氏が上京して後醍醐天皇を追い、新田義貞は恒良親王らを奉じて北陸地方へ逃れた。『太平記』よると、琵琶湖畔の今堅田において別れ、京にて悲しみの日々を送っていた勾当内侍は新田義貞に招かれ北陸へ向かった。

しかし義貞は足利軍の攻勢により延元3年/建武5年(1338年)閏7月2日に越前国藤島で戦死した。この新田義貞が戦死した藤島近くの三国湊は、勾当内侍の収入源のひとつだったことも指摘されている。

勾当内侍は杣山(福井県南条町)においてその戦死を知り、京で獄門にかけられた新田義貞の首級を目にして落飾して比丘尼になったと描かれている。また、勾当内侍の父と伝わる行房も新田義貞に従い、北陸で戦死していると記されている。



墓所と伝承[編集]

『太平記』によると、義貞の死後、勾当内侍は京都の嵯峨にある往生院で、義貞の菩提を弔って余生を過ごしたという。その一方で、大津市堅田にある勾当内侍を祭神とする野上神社(野神神社)・菩提寺の泉福寺には、勾当内侍が琵琶湖琴ヶ浜に入水したという伝承があり、慰霊のための野上祭(野神祭)も行われている。

その後江戸時代に講釈として『太平記』が広まると、各地に勾当内侍の墓所が作られた。そのうちの一つは群馬県太田市阿久津町(旧新田郡尾島町阿久津)にある。

実在疑問説[編集]

勾当内侍と新田義貞との関係を記した史料としては『太平記』があるのみであることから、南北朝時代が専門の歴史学者で福岡大学教授の森茂暁は、年代的な推定などから創作ではないかと考察しているほか[2]、さらには勾当内侍そのもの実在すら疑わしいとする説[誰によって?]もある。

また『太平記』における義貞が勾当内侍と色恋沙汰に落ちていたという時期は、実際は義貞が瘧病(おこりびょう)という名のマラリア性の熱病[3]に伏せていた時期ではないかという説もあり、日本中世史と日本医学史が専門の歴史学者で日本医科大学名誉教授の奥富敬之や、日本中世史が専門の歴史学者で東京都立大学名誉教授の峰岸純夫らがこの説を支持している[4][5]。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月04日 14時26分45秒 ) パスワード

周昌院
画像を見て来ました。

わたくしの分も般若心経をありがとうございました。


デザイン的にまとまった中々品のある山門ですね。


http://www.geocities.jp/shiro20051212/Takayamashita-Jo.html

三河 高山下城
Takayamashita castle

高山下城跡【愛知県新城市玖老勢字高山下】
  周昌院【愛知県新城市玖老勢字高山下7】
山びこの丘【愛知県新城市玖老勢字新井9】

【立地】丘城
【別称】高山城

【歴史】標高150m、比高30mの丘陵端に在るが、伝承地であり、確証は無い。新田義貞、もしくは匂当内侍が居住したと云う。「山びこの丘」施設内に在り、山頂に2段の平坦地が在る。


             あらあら  匂当内侍  がいたとの噂?
             天野氏の娘がいたというなら納得ですが。
             


【所感】国道151号線を北上し、玖老勢北信号から左の脇道を入ります。海老川に架かる
左2本目の橋を渡り、400m程進むと、右手に「山びこの丘」の管理棟が在ります。施設内の「郷土文化保存伝承館」の北、宿泊棟の東の山が城跡伝承地になります。



http://www.geocities.jp/buntoyou/f-aichi01.html#inabu
東三河の城跡サイト
[24]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月04日 22時04分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 長篠城址史跡保存館元館長の丸山氏は、新田義貞夫人が、鳳来町玖老勢
(くろぜ)に住んでいた、ということを証明するものとして――
 @新田氏の没落で、奥平氏(祖先は児玉氏)は上州(群馬県)から三河作手
(つくで)へ移ったのだから、新田夫人が玖老勢へ移り住んでも不思議で
はない。
A明治二十年編集の『玖老勢村誌』には、周昌院の住職が伯父だったこ
 と、鶴庵の遺跡のこと、大般若経六百巻の寄付のことなどが記されてい
 る。
 B『南設楽郡史』には、周昌院境内に、新田義貞の室、及び家臣の墓が
 ある、と記されている。新田義貞の正室を、勾当内侍(こうとうないし)
という。

 丸山説が正しいかどうかの確証はありませんが、少なくとも奥平氏(先
祖は尹良親王を信濃にお連れした者達の内の一人の児玉氏)は三河作手に
移っているという事実があり、新田関係者が一緒に来ている可能性は高い
でしょう。
 何故三河(奥三河、東三河)にということですが、結局敵の足利氏とその
氏族の根拠地は三河であり、それを背後(三河の奥)から攻める体制を築こ
うと考えることは必然であったと推察されます。

 いずれにしても、南朝に属した人々の歴史を掘り下げたいと思っていま
す――
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月05日 15時16分03秒 ) パスワード

三つ柏さん


>いずれにしても、南朝に属した人々の歴史を掘り下げたいと思っています


はい
戦国時代を知るには
その前の大戦さだった南北朝の人間関係を知ることが必要でしょうね。


「直虎」でも「南朝方のお宝探し」なんて表現が出てましたね。
1.方久はひょっとすると南朝方のお宝をちょっとは手に入れて元手にして商売をしたか?
2.それともその南朝方のお宝は  おとわ自身  and/or  おとわを保護してもらった謝礼  の事なのか?


     こうして考えると
     南朝が負けたこと  と  方久が処刑されたこと  が人の宿命事だったのかな
     なんて想像が行ってしまいました。


         どう味付けるかは作家の裁量ですが
         方久の一生は小説になるな、と。
[26]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月05日 22時14分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は不思議な出会いがありました。それは夜会の後のタクシーの運転手
さんとの出会いでございました――
 その運転手さんの名前は「服部〇夫」さんで、出身は「渋川」であるとい
う。家紋は「並び矢」であるということで、伊賀系ということが推察されま
した。
 渋川というと、井伊直親(亀之丞)が、子供のころ信州に逃げる途中で立ち
寄ったところであります。そこは、東光院、井伊家祖先の墓所、そして直親
が身を隠したという磐座があったりで、井伊家とは大変ゆかりの深い場所で
あります。
 更に、菩提寺について訊いてみますと、浜松市内の小豆餅(あずきもち)に
あるという。以前、私が調査で泉町の法光寺に立ち寄った時に、「源氏輪
に並び矢」の家紋の服部家のお墓を数基見つけました。そのことを伝えた所、
そこだ、その寺だという。つまりは、三方ケ原台地の終わる所、浜松城の北
4q程の姫街道(257号線)沿いであります。
 偶然にも、そこの墓地に眠っている服部さんの子孫と出会った訳でありま
した。私が、あなたの祖先は服部半蔵家と関係があり、伊賀の出身でありま
すよと伝えると、うなづいて、祖先は織田信長にはずいぶん痛めつけられた、
家康を連れて彦根城まで逃げたと聞いているとの答が返ってきました。
 また、服部家は概して他の人々となじみにくく、簡単には迎合しないとい
う傾向があるとの話もしていました。つまりは武士か、位が高いか、少なく
とも百姓ではなかったということが推察されます……?

 何せ、500年も前のこと、正確な情報など無理な話、ある程度雰囲気が
出ていればそれでよしとしたいとも思いました。
 注目すべきは、信長に随分ひどい目に合わされたということを強調してい
た点であります。家康に仕え、信長にひどい目に合わされ、家康を連れて彦
根に逃げたことのある服部家……あを様、一体どの筋の服部家だと思います
か? ぜひご感想をお聞かせ下さい!
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月06日 05時30分23秒 ) パスワード

三つ柏さん


ヒトコトでハッキリ書くと  分かりません。



家康が(信長にひどい目に遭って)近江まで逃げ帰ったハナシで有名なところでしたら

            金ヶ崎の戦い

の事かしら?と思います。


でもそのタクシーの運転手さんのお話の「信長にひどい目に遭わされた」「彦根まで逃げた」という件が何を指してのことか

            ココは彼の家の服部家先祖と我々外野の服部家のアイデンティティの差  という事で全く分かりません。


わたくしの推測:

信長が浅井朝倉連合軍にやられて九死に一生を得た時
信長方の名だたる武将が信長を逃がすために獅子奮迅の働きを見せた:
   
    松永久秀は朝倉攻めで浅井の裏切りを嗅ぎ分け、朽木の領主に信長の背後を襲わないように交渉し成功

    光秀の鉄砲隊が大活躍した

    秀吉は殿=しんがり=のそのまた殿を勤め(この人はハナシを盛るクセがあるけど)
    これで信長の信頼を得た

    家康も殿を申し出た
 
                この時のことかもね。
                家康が危機を脱出するのに服部半蔵の一族が北近江から無事に落とさせた
                その件かもですね。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月06日 05時55分08秒 ) パスワード

朝倉は  越前国の殿様。
浅井は  近江の殿様。居城は小谷。ここを秀吉が貰って長浜に改名。その後、三成が佐和山に改名。その後井伊直政が彦根に改名。



確か  松永久秀のことを調べていた時に  服部城  なんて固有名詞が出てきましたよね。

それに  松永久秀の信貴山城は  伊賀  に近いし。


      信長は最愛の妹可愛さで目が曇って(お市さま)
      妹婿の浅井長政が自分を裏切るはずなど有り得ない
      と信じ込んでいた。

でも松永久秀は  アヤシイ  浅井長政アヤシイ!  絶対アヤシイ!  と信長に進言。
でも信長はなかなか浅井長政の裏切りを確信出来なかった。



松永久秀がなぜ  この上なく恐ろしい上様である織田信長に浅井長政は絶対に信用出来ない  と頑張って言えたのか?

            フツー
            信長さまの妹婿のことを(アイツ、裏切ってますぜ)なんて本当に知ってても言えないですよね
            信長が絶対的に長政を信じているんですから


松永久秀がそれでも頑張って「浅井長政は絶対にアヤシイ」と言えたのは
それは  それなりの情報を  松永久秀が持っていたからでしょう。


三重の伊賀と近江の甲賀は忍者で繋がりがあったから。


この線で家康も浅井長政はアヤシイという情報の一端を持っていたかもですね。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月06日 06時01分20秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%83%B6%E5%B4%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84


金ヶ崎の戦い

1570年
越前国敦賀郡金ヶ崎(まさに南北朝の戦いも金ケ崎で起きました)
織田徳川軍 vs 朝倉浅井軍


金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)

戦国時代の1570年(元亀元年)に起きた、織田信長と朝倉義景との戦闘のひとつ。
金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)または金ヶ崎崩れとも呼ばれ、戦国史上有名な織田信長の撤退戦である。



織田信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻撃したところ、同盟関係にあった妹婿の小谷城(琵琶湖東岸)の浅井家の裏切りにあい、挟撃の危機に瀕したため、木下藤吉郎(豊臣秀吉)と信長の同盟軍の徳川家康が後衛(家康の後衛に疑問をもつ向きもある)となって、信長本隊が信長勢力地まで帰還するのを援護した戦い。

敦賀口における金ヶ崎城(敦賀市)攻略自体はすでに成功していたが、浅井家離反の情報を受けて、おおよそこの地で信長軍の撤退が始まり、木下藤吉郎の殿軍は最初にこの地を拠点にして撤退戦を行った。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月06日 06時07分45秒 ) パスワード

http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/koukahattori.htm
近江 服部城



お城のデータ
所在地: 滋賀県甲賀市甲南町新治字中出
遺 構: 曲輪、土塁、空堀
形 式: 丘城
築城者: 服部氏
築城年代: 室町時代

甲賀・伊賀の服部氏一族本貫の地。


服部城は、新宮神社の背後の丘陵に築かれている。 
丘陵山一帯は新興住宅地となっているが、その北西隅にある小高い丘(もっとも一見雑木林と竹藪)が城跡。


周囲を土塁と空堀で取り囲んだ方形単郭の居館形式の縄張りだ。 
空堀と土塁などの遺構は良く残ってるが、雑木と竹に阻まれ遺構確認は結構手こずった。


城から南東約200mの所に新宮城と新宮支城があり、共に服部氏築城の城だ。服部城と新宮2城での防衛を図ったと考えられる。



歴史

新宮城は、室町時代に服部氏によって築かれた。 

服部氏は、甲賀郡中惣を組織した甲賀五十三家の一つ、荘内三家に数えられた有力土豪であった。 
伊賀服部氏とも一族になり、服部一族本貫の地でもある。


お城へのアクセス
鉄 道: JR草津線甲南駅〜徒歩約20分
 車 : 新名神甲南IC〜県道132号線
駐車場: なし。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月06日 06時11分47秒 ) パスワード

http://www.google.com/search?q=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%9F%8E%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%9F%8E%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.3...2913.5817.0.6560.14.13.0.0.0.0.313.1772.0j8j1j1.10.0....0...1.1j4.64.psy-ab..6.5.873...0i7i4i30k1j0i7i4i10i30k1j0i4k1.PolEyYJTw3I


松永久秀の築いた服部城:
www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/90-100/hattori.html

Translate this page又、服部城あり、松永久秀築く。当国には、服部連(諸国の織部を総領す)住す。又、後世、大阪 神戸などに服部氏多し。 □山城の服部 当国にもこの部民多かりしならん。


残念ながらワタクシのPCでは文字化けして読めません。

こんな感じ
ŒÃ‘ãE‹Æ•”‚Ì‹@D‚è•”–å‚ð’S‚Á‚½‹@D•”‚Ì•ž•”(hatoribe)‚É—R—ˆ‚·‚鐩ŽBuƒnƒ^ƒIƒŠvuƒnƒgƒŠƒxv‚©‚çuƒnƒgƒŠv‚»‚µ‚āuƒnƒbƒgƒŠv‚ƌĂԂ悤‚É‚È‚Á‚½BˆßHZ‚́uˆß•žv‚ÉŠÖŒW‚·‚éE”\•”‘°‚ɂ́uˆ»•”vu‹ÑD•”v‚âuˆß–D•”vuÔõ•”v‚È‚Ç‚ª‚ ‚èA‚»‚ꂼ‚ꐩŽ‚Æ‚µ‚Ä–¼Žc‚ð‚Æ‚Ç‚ß‚Ä‚¢‚邪A‚»‚Ì’†‚Å‚à•ž•”Ž‚ªˆê”Ô‘½‚¢B‚»‚Ì‹Z’n‚ª•ž•”‚Ì’n–¼‚É‚È‚Á‚½B
@•ž•”‚́A•¶–¾‚ª‚‚­lŒû‚Ì‘½‚¢‹E“à‚©‚çA‘S‘‚ÌŽå—v’n‚É”z’u‚³‚ê‚Ä‚¢‚Á‚½B‚»‚ê‚ç‚𒆉›‚Å“Š‚·‚锺‘¢‚ª•ž•”˜A‚Å‚ ‚Á‚½B‚±‚ÌŒn“‚Ì—L—Í‚È•ž•”Ž‚́AŽRéE‘å˜aEÛ’ÁE‰Í“àEˆÉ‰êEˆÉ¨EŽO‰ÍE•‘ ‚ȂǁA“–Žž‚Ì•¶‰»’nˆæ‚ɐio‚µ‚Ä‚¢‚Á‚½B
@‘ã•\‰Æ–ä‚́u–îŽÔv‚Ɓu–vB
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月06日 06時31分51秒 ) パスワード

久し振りに服部氏について復習:


三つ柏さんの服部氏は古代服部氏で長上郡の服職神社、榛原郡の服織田神社に奉齋してた。ということで氏子でしょうか?


伊賀の呉服明神の神職の服部貞信については後に山城国の宇治田原在住の服部氏だとコチラに出ています。
あらあら。

    やっぱりこの人はアヤシイ。



http://www.myouji.org/hattori.htm



苗字 :服部(ハトリベ・ハトリ・ハットリ) 


解説:職業部の一にして、機織りを職とせし品部なり。
元来ハトリは、ハタオリ(機織)の約にて、これをハットリと読むは後世なり。
古きは、ハトリ也。
服織、服取、羽鳥、羽取、八鳥、八取もハトリ、ハットリと読む。


山形県飽海郡遊佐町、
愛知県名古屋市中川区、(あら、そうなの?前田利家のご近所さん?)
鳥取県鳥取市、 倉吉市、
岡山県邑久郡長船町、吉備郡真備町、
高知県安芸郡安田町に服部の地名あり。

これらの地名を以って氏(名字)とする也。



1,大和の服部苗字 − − 和名抄 当国山辺郡に服部郷を収め、波止利と註し、東大寺要録に服部の荘を載せたり。又、延喜式 城上郡に服部神社あり、皆この部の在りし地なり。

       又、後世 高市郡の医師に服部時寿(子篤)あり、宗賢と号す。高取藩に仕う。名医なり。



2,摂津の服部 − − 和名抄 当国 島上郡に服部郷を収む。又、延喜式に服部神社、荘園目録に服部御領を載せたり。

       又、服部城あり、松永久秀築く。


       当国には、服部連(諸国の織部を総領す)住す。
       又、後世、大阪 神戸などに服部氏多し。



3,山城の服部 − − 当国にもこの部民多かりしならん。
       又、後世 伊賀服部氏の後の服部氏は、その系図に「大膳貞長−時貞−貞信(美濃別当、伊賀国呉服明神の神職、後に山城国宇治田原に住す、後 家康に属す)−
       貞富、家紋 車輪竪二本矢、七本矢、矢の字桔梗」と。

       又、京都の人に服部元喬あり、もと伊賀の服部より出づと云う。荻生徂徠門の俊才にして、南郭と号し、服 南郭と称す。宝暦卒。

       その長男惟良は夭折し、次男 惟恭、詩名ありしも、また早世す。よりて門人西村元雄を季女に配して家を継がしむ。

       又、国学者服部中庸は、元居門にして、水月と号す。

       又、服部敏夏あり、これも本居門にして、通称を中川屋五郎右衛門と称せり。

       又、剣客に服部藤次兵衛あり、神後伊豆守の門(新陰流)、皆 京都の人なり。


                                                    ココ

4,遠江の服部 − − 延喜式、当国 長上郡に服職神社、榛原郡に服織田神社あり、

       共に古代服部の奉齋せし、神社なるべし。
       而して、長上郡に服部氏の名族あり。



5,駿河の服部 − − 当国安倍郡に服職庄あり。而して、後世 服部氏多く、又、府中浅間社家に服部氏(名字)あり。



6,武蔵の服部 − − 和名抄 当国都筑郡に高幡郷、幡屋郷、また、男衾郡に幡々郷、また、久良郡に服田郷を収む。服部の部民の多かりしを知る。

       後世、久良岐郡の名族にこの氏あり。新編風土記に「服部氏(弘明寺村)。先祖を玄庵道甫と云う。村内 寶林寺の開基なり。相伝う、元は伊賀国の名張の城主なりしと云えど、正しき伝えはなし。後、故ありて跡をくらまし、当所に来て隠棲し遂に農民となれり。されど系図は無し、先祖より持ち伝えし物とて、甲冑二領、刀、短刀五振、文書四通を蔵せり」と。

       又、足立郡服部氏は、二本矢を家紋とす。



7,両総の服部 − − 和名抄、下総国埴生郡に酢取郷を収む。後世、羽鳥村の残るを見れば、羽鳥の誤りにて、この部のありし地ならん。

       後世、豊田郡下石毛村の人 服部謙蔵・波山は、画家として名あり。



8,常陸の服部 − − 真壁郡に羽鳥郷あり、この地より起りしもあらん。



9,近江の服部 − − 和名抄、野洲郡に服部郷を収め、八土利と註し、高山寺本には、波止利と訓ず。後に服部村あり。この地名を名乗りしもあらん。



10,美濃の服部 − − 和名抄、当国安八郡に服織郷あり。



11,奥州の服部 − − 磐城国標葉郡、岩代国会津郡などに羽鳥の地名あり。この部民のありし地か。この地名を名乗りしもあらん。

       田村家臣に服部氏あり。

       又、新編会津風土記に「耶麻郡猪苗代 進功霊社。社司服部安休尚由の社なり。安休は初め春庵とて、林道春の弟子にて、後、保科正之に仕え、侍臣となる。天和五年没す」と。



12,越前加賀の服部 − − 天平神護二年の越前国司解に「余戸郷戸主 服部子虫、鹿蒜郷戸主 服部否持」など見え、又、和名抄、今立郡に服部郷を収め、波止利と註す。

       又、神名式に「江沼郡服部神社」あり。



13,因幡の服部 − − 和名抄、法美郡に服部郷を収め波止利と註す。

       又、神名式、法美郡に服部神社を載せたり。後世、服部庄起こる。

       この地より起りしもあらん。

[33]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月06日 06時37分58秒 ) パスワード

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000093249

Q
甲賀市の服部城遺跡が掲載されている資料を知りたい。


A
調査資料に掲載されています。中世の城跡です。


NDC:日本史 (210 8版)


参考資料(Reference materials):

1
滋賀県中世城郭分布調査

2
甲賀の城 滋賀県教育委員会‖編 滋賀総合研究所‖編 滋賀県教育委員会 1984年 5B-5200-2
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月06日 06時51分12秒 ) パスワード

http://www.shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/21_kido.pdf


織豊期の甲賀


36ページの説明文と
37ページの地図
が興味深いかも。


甲賀では望月の隣に服部があります。そんなに近い関係だった?驚
歴史って思っていたより、もっと「近い」「驚き」で満ちているようです。



P43

<2>の終りに本能寺の変の時の話が出ています。

信忠のいた二条城での服部小藤太・服部六兵衛の討ち死にがちょっと出ています。
[35]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月06日 07時27分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 たくさんの貴重な情報ありがとうございます。読解し頭にインプットし
ます。甲賀の服部城の情報ありがとうございます。次回に訪れてみます。

 タクシー運転手の服部さん、祖先から口伝で何らかのメッセージが伝え
られているということは感じました。DNAのようなものでしょうか。そ
れが正しいかどうか、口伝ゆえ、Aという話がCとなってしまったという
こともあるでしょぅし、また逆に真実を伝えていて巷に出回っている情報
が操作された、あるいは間違った情報であるということもあり得るかも知
れません。家康にも偽者説があり、本当のところは分からない部分も多い。
運転手さんは家康というよりも「竹千代」という言葉を何回か使っており
ました。従って、祖先は竹千代に仕えたというよりも、その父広忠、祖父
清康の方に仕えたと解釈した方がいいのでしょぅか。その両者は暗殺され
てしまいますが、背後に織田がかかわっていたといわれております。

 いずれにしても、あを様よりいただいた情報を元に、勉強し直してみま
す。

 本日は、これから岐阜の岩村・明智の方へ行ってまいります――
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月06日 09時34分49秒 ) パスワード

三つ柏さん

お気を付けて行ってらっしゃ〜い。
お土産話を期待しています。


家康が彦根へ逃げたとの件
やっぱり分からないです。


信長は竹千代を可愛がっていましたから(というハナシになっている)
家康が竹千代という幼名の時に信長からヒドイ目に遭ってたような話は
全く知らないです。


     信長   1534年生まれ
     信行   1536年生まれ?(母に可愛がられた弟で後に信長が粛清)

     家康   1543年生まれ


家康は6歳で今川に人質に行く途中で渥美半島の田原の戸田康光=継母の父=によって織田家に売り飛ばされ
2年間、尾張国熱田神宮の近くの加藤順盛の家に預けられていて

信長のいた古渡城(名古屋市中区   我が家!のほぼ隣)と熱田神宮はすぐ近くなので

信長と家康はその時に知り合っていた、というのは事実だろうと思います。
その頃の信長は母に可愛がられる弟の信行を憎んでいたでしょうし。


その時には中川区荒子の前田犬千代利家などと一緒に遊んでいたと思います。

地図
http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=35.14137693&lon=136.85889217&ac=23110&az=6.1&z=16&id=&fa=pa&ei=utf8&p=%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%B8%82%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E5%8C%BA%E8%8D%92%E5%AD%901%E4%B8%81%E7%9B%AE


金山という場所のすぐ近くに古渡があります。(東別院あたり)
この真西に3−4kmで荒子があります。
金山から東南に2kmあたりが熱田神宮です。

                           方向音痴のワタシが書いて良いのか?謎


名古屋駅の西の中村公園という場所が秀吉の生まれた中村あたり。


東別院からずっと西に行くと  蟹江  という場所があって  302号線の北北西に  服部  という地名があります。

蟹江駅の北に七宝町というのがあって  ここが 利家の妻のマツ の生まれたところ。


このあたり一帯が  服部村  です。
服部村の一番の出世頭が
今の七宝町出身の  マツ  と  福島(鬼頭・尾頭)市松正則。母親が再婚して福島姓になった。福島さんはもともと南朝方。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月06日 15時17分43秒 ) パスワード

藤原千方って藤原千常のお兄さんですよね。
下記の記事からすると  藤原千方は伊賀と何らかの関係があった?

     もちろんご先祖の藤原秀郷と平家の先祖の平貞盛は同盟関係にあったのですから
     藤原千方が伊賀と関係があっても少しもおかしくないですが
     松島家譜に出て来る藤原千常からすると

     松島家は伊賀・平家とも元々関係のあった家なのでしょうか?

     ロマンですね。


http://www.yomiuri.co.jp/national/20170731-OYT1T50015.html?from=yartcl_outbrain1


こんな記事がありました:

将軍が首投げ入れた?…川に天然記念物の「穴」
2017年08月01日 18時25分



 三重県伊賀市高尾の床並川とこなみにある県指定天然記念物「逆柳さかやなぎの甌穴おうけつ」周辺で30日、「甌穴まつり」が開かれ、多くの家族連れらが川遊びを楽しんだ。


 「逆柳の甌穴」は「血首ちこべヶ井戸」とも呼ばれ、平安時代に将軍藤原千方ちかたが討ち取った敵の首を投げ入れたと伝えられる。この伝説と甌穴を知ってほしいと、住民らの「千方伝承会」が2008年からこのまつりを開いている。


 高尾床並集議所前に集合した参加者たちは、床並川沿いを約20分かけて歩いて逆柳の甌穴に到着。二つの甌穴のうち、「雄井戸」(深さ約4メートル、直径約1・5メートル)の底へ下りたり、川でニジマスのつかみ取りをしたりした。「千方将軍と従者の四鬼」役との記念撮影や、甌穴への厄よけ石の投げ込み、地元産野菜などの販売もあった。


 「ひんやりとして気持ちがよかった。岩肌はざらざらとしていた」と、初めて甌穴の底へ下りた名張市の市嘱託職員(61)。家族3人で訪れてニジマスのつかみ取りをした男児(10)は「水が冷たくて気持ちよかった。ニジマスもたくさん捕れたよ」と喜んでいた。

2017年08月01日 18時25分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
[38]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月07日 06時41分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 [20}の訂正:掘られた→彫られた

 明智にはかつて何回も近くを通りながらも、訪れたことはありませんで
した。それは、明智は遠山氏のイメージが強かったせいでありました。
 今回、明智を訪れようと思ったのは、新田喜斎の祖先の居住した名倉(稲武
の少し南)に行った時、地図上では稲武の北西約25q位の所に、明智の
文字を見たからでありました。稲武と明智を結び、南方面に二等辺三角形
を作ると、そこには足助がある。足助の西10キロ程の所には猿投があり
ます。そういったいろいろ興味を引く地域でありました。
 家から下道で125q位、時間にして2時間半位の行程でしょぅか。以
外と近いという感じを持ちました。岩村城のある岩村から10q位の所で
もあります――。

 松山英樹が世界ゴルフ選手権で優勝しました! (テレビを見ながら)

 
[39]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月07日 09時11分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明智光秀が岐阜県恵那市明智町で生まれ育ったか、はたまた岐阜県可児市
明智荘で生まれ育ったか――の問題については、歴史学者の小和田哲男氏は
可児市の方が家臣の存在により可能性は高いとかつて言っていた……。
 可児市には用事で一回訪れたことがありますが、地名からして不思議な名
だなあと思っておりました。、明智(別名長山)城址があるというは、それか
ら随分経ってからのことだったので、まだ訪れておりません。その内訪れて
みたいと思います。

 それにしても、明智光安が明智城に立て籠もって討死した時、明智光秀は
光春、光忠を連れて城を逃げ出しているという事実(?!)があり、この時の
明智城がどちらであったかは、攻めた側の斎藤義龍の動き等を調べれば白黒
つきそうなものである!

 いずれにしても、今回恵那市の明智と明智城址を訪れてみて、新鮮な感激
が得られたことを、あを様、そしてA.AKECHI様にこれからご報告させ
ていただきます――

 
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月07日 10時21分00秒 ) パスワード

三つ柏さん

お帰りなさい。



「直虎」を見終わりました。
そうか、潰れた井伊家の皆さんはひとまず南朝方ゆかりの「隠し田」に落ちて行ったのですか。

やっぱり有事の際には細い細い糸・遠い遠い縁を頼って落ちて行くものなのですねぇ。


「縁」を大切にするというのは当時の保険みたいなものだったのでしょうね。
それにはやっぱり血縁地縁がっちり婚姻で繋がっていたのでしょうね。
現代の男女の結びつきからは想像も出来ない「家」の存在がかかっていたのですねぇ。



>稲武と明智を結び、南方面に二等辺三角形を作ると、そこには足助がある。
>足助の西10キロ程の所には猿投があります。

まさに戦国時代の服部氏の宿場ですね。

猿投の服部家、やっぱり気になります。半蔵の小説で知りました。忍者系の情報網の拠点の1つだったのでしょうね。


>明智光秀が岐阜県恵那市明智町で生まれ育ったか、
>はたまた岐阜県可児市明智荘で生まれ育ったか――
>の問題については、歴史学者の小和田哲男氏は可児市の方が家臣の存在により可能性は高い

可児市、というのが有力のようですね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E6%B0%8F

明智氏

清和源氏土岐氏の支流氏族。
発祥地は現在の恵那市明智町であったが、
土岐宗家 5代頼遠の岐阜長森移転に伴い、明智宗家は明智庄(可児市)へ移転した。

            ここで出生地について2説出て来るわけですね。



今日、明智姓を名乗る一族はほとんどいないが、
沼田土岐家をはじめ荒深氏など、広い意味での明智氏は今日においても数多く存在する[要出典]。

光秀に限っていえば、娘・玉子(細川ガラシャ)が細川忠興に嫁しその血筋が現在まで続いている。

また、江戸町年寄を務めた喜多村弥平兵衛は光秀の末子ともいわれている[要出典]。

                                        この人が光秀と伊賀名張城主服部出羽守保章=(北村保光の娘とも言われる)伏屋姫の間に生まれた幼名・内治麻呂ですね。

このほか、庶子の系統で明智姓(または明田姓[要出典])を名乗る一族も存在する。


やっぱり猿投の服部家というのが知りたいです。
歴史の秘密を知っていそう。
[41]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月07日 15時19分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 二つの明智城があって、明智光秀が仕えていて落城した方が可児市の
明智城。では生まれて幼少時代を過ごした城も可児市の方か……?
 されば、恵那市の明智城で生まれ育った可能性はあるのかないのか?

 この問いに明白に答えられる証拠はないようですが、今回訪れた恵那市
の明智には、明智城址のふもとに立派なお寺がありました。
 そのお寺の名前は、「大明山龍護寺」(臨済宗妙心寺派)でありました。
 そして、そのお寺には何と「明智光秀公御霊廟」があり、その中に祠と
明智光秀公出生地という石碑が建っておりました!

 それを見つけた瞬間、私は感激し、時間はしばらく止まりました――
 ふっと我に返った私は、光秀公の祠に向かい、般若心経を三巻――即ち
それは、あを様と、私と、そしてA・AKECHI様の分――を、心を込
めて唱え捧げました。もちろん、その時には恵那市か可児市かの戸惑いは
どうでもよくなっておりました。
 光秀公霊廟の隣には、大きな看板が建てられていて、@寺の説明、A寺
の案内図、B「明智遠山氏、土岐明智氏系譜概要」が書かれておりました。

 次回はこのBの「明智遠山氏、土岐明智氏系譜概要」について考察して
みたいと思います――
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月08日 03時20分49秒 ) パスワード

三つ柏さん

         明智氏
         清和源氏土岐氏の支流氏族。
         発祥地は現在の恵那市明智町であったが、
         土岐宗家 5代頼遠の岐阜長森移転に伴い、(現在の岐阜県岐阜市)
         明智宗家は明智庄(可児市)へ移転した。


明智の本家が本拠地を可児に移したということで
一族の明智氏は
もともとが恵那の人だから

    日本では出産は ’里 ’でするとしたものなので
    母の里でもあった 恵那だったかも知れないですね。

    でも他人に言う時は ’可児 ’ と言う方が分かり易いから  可児  と言ってたかも知れないですね。

    現代の日本でもあるかも知れないですよね。

    アメリカは「出生地」を訊ねるけど日本は「本籍地」が大事ですよね。
    知り合いに神奈川県の人がいて、出生地は満州、本籍地は日本国内でした。笑


    光秀

清和源氏の土岐氏支流である明智氏に生まれ、
父は江戸時代の諸系図などでは明智光綱、明智光国、明智光隆、明智頼明などに分かれるが、
                                          昔の人は名前をコロコロ変えるから
      こういう差はしょうがないと思います。

      あの籠池夫妻でも夫婦で名前を変えてて
      それで訴訟が戸籍の名前と違ってたから受け付けて貰えなかった
      なんてハナシですね。

      
父親の名前も伝わらない低い身分の土岐支流とも言われている。

      この部分は光秀が父についてハッキリ言えなかった事情があったのでしょうね。

      分家の分家のそのまた分家で影の薄い明智出身だったかも知れないし
      父に至る血統のどこかで拝領妻だったかも知れないし
      父は生まれて都合が悪かったから養い親に育てられたのかも知れないし


      今でも「本社」のある所、「本店」のある所、なんてややこしいことがありますよね。
      本家だ、宗家だ、と争ってたりするし。


          今でも病院で「生まれた」のに「病院の住所」を「出生地」とは言わない。
          病院の所在地を言うとしたら、非常に軽いハナシの時、じゃないでしょうか?


      ということで母や父の在所の恵那で生まれても
      生活基盤のあった場所である可児を出生地
      と言ったのかも。


土岐氏は建武の新政から美濃国で200年余り守護を務め数十家の支族を輩出した。

生年は『明智軍記』『細川家文書』からは享禄元年(1528年)とされる[注釈 1]。

場所は岐阜県可児市明智の明智城が有力とされる[注釈 6]。

青年期の履歴は不明な点が多い。

光秀は美濃の守護・土岐氏の一族[注釈 7] [注釈 8]で、土岐氏にかわって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三・義龍父子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ一族が離散したとされる。

その後、越前国の朝倉義景を頼り10年間仕えた[注釈 7]。

    


光秀の生まれた場所は?


     「美濃国」土岐氏は5代目の時、   美濃国土岐郡  → 厚見郡長森城へ(現在の岐阜市)
     「可児」明智氏本家の引っ越し先
     「恵那」分家のそのまた分家のそのまた無名の明智光秀が実力を蓄えて可児に出るまでいた所?

ということで

実際には  恵那  生まれだが?  明智氏の中で出世をし  明智本家の支配する  可児の生まれ  という話になった?


岐阜県地図
http://mapfan.com/pref/21

   方向音痴なので白川村が岐阜県内というのは知らなかった。富山県だと思ってた。
   飛騨市と高山市が別というのも知らなかった。だって「飛騨高山」って言うから。
   下呂は高山市内と思ってた。ゲロゲロ
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月08日 03時30分50秒 ) パスワード

長森城
http://www.geocities.jp/ikomaigifu/mino/nagamori.html


長森城
別名 切通陣屋
所在地 岐阜県岐阜市切通6丁目5−7
遺構等 碑、説明板
築城年 文治年間(1185)
築城者 渋谷金王丸                               ビックリ
歴代城主 土岐
形式 平城

切通観音

地図
http://www.its-mo.com/map/top_z/127423898_492479713_15//#top

名鉄各務原線「切通駅」を150m程南下すると広い通りに突き当たります。ここを左折して80m程東進した1つ目の路地を左に入ると正面に切通観音があります。ここが城跡です



「切通陣屋跡之碑」や切通陣屋の説明の他、「切通観音は長森城跡」と題して彫られた説明石もあります。



文治年間(1185)、渋谷金王丸が住んだといわれ説もある。14世紀前半、美濃国守護土岐頼貞の次男・頼遠が築城した。康永元年(興国3、1342)、頼遠は光厳上皇に不敬を働き誅殺された。その後、兄・頼清の子・頼康が守護となり、革手城を築城して長森城から移った。順康が革手へ移った後、守護康行の時、順康の弟である直氏の子・直詮が長森城主となった。



ウイキ情報
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%A3%AE%E5%9F%8E
[44]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月08日 17時34分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明智光秀の出身地の問題についてのあを様のご推察、なるほどと思いま
した。恵那の明智には、光秀の母・お牧の方の墓もありました。
 また、光秀の産湯の井戸もありました。
 残念ながら、これらは後で調べて知りましたので、見ずに終わっており
ます。

 「光秀公霊廟」の隣に建てられていた説明看板の中の系図には、恵那・
遠山家と可児・土岐(明智)家の関係の秘密の一端が示されておりました。
 それは、文章での説明書きはほとんどなかったですが、系図上に可児・
土岐(明智)家の中に、恵那・遠山家が合体していることが示されている。
落城した明智城主で光秀の叔父さんと言われる「光安」は、実は恵那・
遠山氏である。
 少し書かれている文章では――
 「(光秀の祖父が)恵那遠山を頼る」と読め、
また――
 「(遠山景行が)土岐明智家に潜り、景行=光安となり、丸に桔梗家紋使用」
と解釈できます。

 光秀の母が誰であったのか――「お牧の方」と恵那明智では言われてい
ます。文献で調べると、光秀の父光隆の妻は、若狭武田氏の妹であったと
いうことでありますが、果たして光秀の本当の母は武田氏であったのでし
ょうか……?
[45]A.AKECHIさんからのコメント(2017年08月08日 19時47分17秒 ) パスワード

 すみません。3、4日こちらに寄れませんで、コメントが遅れてしまいました。

三つ柏服部様
 〔41〕「般若心経」有難うございました。お気持ちは有難いのですが、如何せん我が家はガラシャ譲りの(嘘です。本当は先代から…)キリスト教徒なので、今後はお気持ちだけにして(唱えることはしないで)おいて下さいね。
 キリスト繋がりで、先日熊本の津々堂様が紹介して下さいました拙文がありますので↓ご参照下さい。 
 http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/31ef6e4a63fe0e71d955d19dd877306f

空の青海のあを様 
〔40〕史料に残るのは「内治麻呂=喜多村弥平兵衛」ですが、ある明智一族の方の説によれば、我が家の先祖が「内治麻呂」だそうです。
 一方、我が家の口伝では、山崎の戦の敗戦後、京方面から落ち延びた先祖が伊賀の湯舟に1年半隠棲した後伊賀の上野に移るまでの数年もしくは十数年の動静、所在が全く抜け落ちています。その抜けているところが母の里である柘植周辺だったのかも知れません。なお、服部出羽守が「伊賀名張城主」ということはないのではありませんか?柘植城主でしょう。
 もしも我が家の先祖が「内治麻呂」だとすれば、「明智の子」であると同時に「服部の子」でもあるわけで、そうすれば皆様の「服部」とは深い御縁があるわけですね。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月09日 02時49分01秒 ) パスワード

三つ柏さん


光秀は恵那生まれなのか可児生まれなのかに似た現代版のお話を見つけました。笑

http://news.searchina.net/id/1641355?page=1
中国発のヤマハのお話。


今の若者には  ヤマハ=バイク
ワタシの世代  ヤマハ=ピアノ
ヤマハの人は  うちは他にも世界に誇るトップクラスの製品をいろいろ作ってるんですがァ〜、で、元は「日本楽器製造」なんですけどォ〜

こんなものですよね。

創業者だって  山羽から山葉に変えてるし。

【名字】山羽
【読み】やまば,やまは
【全国順位】 9,983位
【全国人数】 およそ740人

宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)佐々木氏族、鴨方藩にみられる。
近年、愛知県や三重県に多数みられる。
「山」は山の地形を表す。



【名字】山葉
【読み】やまは
【全国順位】 52,968位
【全国人数】 およそ30人

          きっとヤマハ寅楠さんの御一族限定なんでしょうね。



>恵那の明智には、光秀の母・お牧の方の墓もありました。
>また、光秀の産湯の井戸もありました。

恵那に
母上のお墓があるということは
母の在所であり父の実家のあった所なのでしょうね。

もともとは恵那の明智が本貫地で主君が岐阜に引っ越したから可児に土地を貰って(通勤に便利な仮宅みたいなものですね)住んでた。
母上は産後の肥立ちが悪くてそのまま恵那で亡くなったのかも知れない。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%A5%E5%9F%8E

明知城
美濃国明知(現在の岐阜県恵那市明智町)にあった戦国時代の日本の城(山城)。
別名白鷹城(しらたかじょう)。

岐阜県指定史跡[1]。なお、美濃国には、可児郡明智荘にも明智城(長山城)が存在していたので、混同への注意が必要である。


築城主      遠山景重
築城年      宝治元年(1247年)
主な城主     明知遠山氏


明知城は、日本三大山城に数えられる岩村城から南西8kmに位置する遠山十八城のひとつ。

標高530mの山に築かれた天険の地形を巧みに利用した平山城で、土盛砦として保塁数大小23箇所あり、今でもその様子が原形のまま残っているのが日本でも数少ないとされ、県の指定文化財となっている。

重要な砦には石垣を積み上げ、中に陣屋として実践に備えた館5棟があった。


恵那郡明知は、
北は岩村・恵那、
東は信濃国伊那郡飯田、
西は土岐郡、
南は三河国賀茂郡足助・額田郡岡崎に街道が通じる、交通の要衝の地である。


遠山氏祖の遠山景朝の父親である、源頼朝の重臣の加藤景廉が明知を含む遠山荘の地頭に任ぜられ、それ以降、明知遠山氏累代の土地であった。

戦国時代の後期には、岩村・阿照・明知・串原・苗木・安木と並んで遠山七頭と呼ばれていた。

そのうち「岩村遠山家」と「苗木遠山家」そしてこの「明知遠山家」を「遠山三家」といい、美濃国東濃地方に威を張っていた。


明智光秀の生誕の城ともいわれているが、
足利尊氏の御家人の土岐氏の末裔とされ、
遠山氏の縁戚である可能性は、
明治時代の子孫の記録や、両氏の重臣である三宅氏の存在などから考慮はされるものの、
生誕地そのものである可能性は低い
(江戸時代の初期に著作された書物類から、可児市にある明智長山城である可能性が高いとされる。)[2]。


                       あらあら、そうなの?否定しちゃうの?


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%9F%8E_ (%E7%BE%8E%E6%BF%83%E5%9B%BD%E5%8F%AF%E5%85%90%E9%83%A1)

抜粋コピペ

岐阜県可児市瀬田長山。
康永元年(1342年)美濃源氏の流れをくむ土岐頼兼(下野守)が「明智」と改名してこの城を築き、
その後約200年の間明智氏代々の居城として栄えた[1]。
別名長山城または明智長山城と呼ばれている[1]。

『美濃国緒旧記』には「明智城は可児郡明智庄長山城のことである。明智城は土岐美濃守光衡により五代目にあたる頼清(民部大輔頼宗)の次男、明智次郎頼兼が康永元年三月、美濃国可児郡明智庄長山に初めて明智城を築城し、光秀の代まで居城した」とあり、光秀出生の地とされているが[1]、明智城は恵那市明智町城山とここ可児市瀬田長山にあり、どちらが明智光秀出生の城なのか、それを裏付ける資料はない[1]。


                       あらあら、こちらも肯定はしていないのね。


城址北麓にある天竜寺には 日本一大きな(184センチメートル)明智光秀の位牌と明智氏歴代の墓所があり、旧暦6月には光秀公御法要が営まれる。


                       ということは大柄な人だったのかしら?
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月09日 03時28分19秒 ) パスワード

A.AKECHIさん

>京方面から落ち延びた先祖が伊賀の湯舟に1年半隠棲した

湯舟はまさに藤林さんのいた所ですね。
一族だから匿ってもらったのでしょうね。


>服部出羽守が「伊賀名張城主」ということはないのではありませんか?柘植城主でしょう。

机の周りをいろいろ調べてみましたが
数年前に系図を1枚の紙に纏めた記録なので
元になった書付がどこにあるのか分からないです。


服部出羽守名張城主保章は正清の子で正尚の叔父。
こんなのが系図にまとめてあります。

正清と保長が兄弟です。保長が兄です。保長の息子が半蔵です。
[48]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月09日 22時57分13秒 ) パスワード

空のあを海のあを様

 本日は、気温が体温とほぼ同じになり、冷房なしでは熱中症になりそう
でありました。もちろん集中力はなく、冷房を効かせてひと眠りしてやっ
と今(夜10時前)、考える力が戻ってきました。
 
 さて、恵那市明智町と明智光秀の関係、確かに無縁ではない、何か関係
がある、ということはわかりました。
 もちろん、遠山氏との関係は当然で「明智城」の築城(1247)も遠山景重
でありましたし、麓の大明山龍護寺には、遠山氏累代の墓がありました。
 初代領主の父「景行」、初代「利景」二代「方景」、三代「長景」、四
代「伊次」、五代「伊清」、六代「景眤」、七代「景達」、八代「伊氐」、
九代「景祥」、十代「景珍」の墓が苔むしながらも整然と並んでおりまし
た。
 ひとつ驚いたのは、その墓所の奥の松林の一本の木に「八つ墓村」と書
かれた紙がビニールカバーに覆われてくくりつけてありました。一体これ
は何ッ? 映画のロケを行ったのであろうか?

 次に、龍護寺の墓地に向かいました。途中に「源頼朝の重臣 加藤太光員
一族の墓」の看板が出ておりました(探したけれどわからなかった)。
 墓地には、鈴木氏、加藤氏の墓が多かったです。家紋は、両者とも「下
り藤」で、親戚関係にあると推察されました。
 永井家の墓も一つあり、家紋は「一文字三星(一の下に三つ〇)」であり
ました。斎藤系の永井氏かなと推察いたしました。
 山の上の方にも古いお墓があり、そちらで「服部家」の墓を三つ程見つ
けました。家紋は「丸に蔦」でありました。ここで私は般若心経を二巻唱
え捧げました――
[49]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月10日 16時16分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明智光秀の妻(先妻)が、服部保章の娘であったと『柳営婦女伝系』に
書かれているということですが、名張城主か柘植城主かは別にして、何故
服部系が明智系と結びついたかという背景・理由であります。是非それを
知りたいと思っています。
 奥美濃は南朝系と縁があり、柘植氏もいます。そこら辺が北村系服部氏
とのつながりか?……探究したいと思います――
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月10日 16時30分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


台風5号(英語名は NOLU ノールー)は体温より高い気温と高い湿度を置き土産にして去ったそうですね。

ぐったりですよね。


>ひとつ驚いたのは、その墓所の奥の松林の一本の木に「八つ墓村」と書かれた紙がビニールカバーに覆われてくくりつけてありました。
>一体これは何ッ? 映画のロケを行ったのであろうか?

お墓がたくさんあるから誰かが  いたずら  したのかも、ですね。

「八墓村」は津山の事件で
撮影現場も西の方のようですから
映画のロケ現場ではないようですね。


http://www.google.com/search?q=%E5%85%AB%E3%81%A4%E5%A2%93%E6%9D%91%E3%80%80%E6%92%AE%E5%BD%B1%E5%A0%B4%E6%89%80%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E5%85%AB%E3%81%A4%E5%A2%93%E6%9D%91%E3%80%80%E6%92%AE%E5%BD%B1%E5%A0%B4%E6%89%80%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.12..33i21k1.2387.24665.0.27311.47.30.16.0.0.0.329.3442.0j19j2j1.22.0....0...1.1j4.64.psy-ab..10.10.820...0i4i30k1j35i39k1j0i4k1.jl1xo1KdLp0



>龍護寺の墓地に向かいました。途中に「源頼朝の重臣 加藤太光員一族の墓」の看板が出ておりました(探したけれどわからなかった)。
> 墓地には、鈴木氏、加藤氏の墓が多かったです。
>家紋は、両者とも「下り藤」で、親戚関係にあると推察されました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E5%B1%B1%E6%B0%8F

遠山氏の祖は藤原利仁の子孫加藤景廉である。

景廉は源頼朝の重臣として功績を残し、文治から建久(1185年 - 1198年)の頃に遠山荘(現在の岐阜県恵那市・中津川市・瑞浪市の一部)を与えられた。

ただし景廉本人は頼朝とともに鎌倉におり、実際に遠山荘に赴任はしなかった。


明知遠山氏家紋:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%A5%E9%81%A0%E5%B1%B1%E6%B0%8F


寛政重修諸家譜第七百八十七巻によると、景行家は以下と記載されている。
主紋:丸に二引き
替紋:丸に六本格子  補項として「寛永系図丸に九字に作る」と記載有り。

遠山九字直違(分家が使用)




ここでアップ
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月10日 16時32分51秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%9D%91%E9%81%A0%E5%B1%B1%E6%B0%8F
岩村遠山氏
美濃遠山氏の宗家。

天正2年(1574年)、武田勝頼の東美濃侵攻で諸城をさらに落とされたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いで勝頼が敗れると、東美濃での形勢は逆転。信長の命を受けた織田信忠(信長の嫡男)らが反攻に転じて、岩村城を包囲。11月21日に岩村城は落城し、武田方に臣従させられていた岩村遠山氏の家臣や一族らは全員死亡した。(天正3年の岩村城の戦い)

これにより遠山七頭(七遠山)は苗木遠山氏と明知遠山氏の2系統を残して滅亡した。



家紋:丸に二引き  (足利氏と同じ?)4
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月10日 16時50分42秒 ) パスワード

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/tooyama1.htm


遠山氏は、江戸北町奉行遠山左衛門尉、いわゆる背中に桜吹雪の彫物をした遠山の金さんが有名ですが、
その遠山氏の発祥地は岐阜県恵那市および中津川市です。

むかしの言い方をすれば、美濃国(濃州)恵那郡遠山の庄にあたる。


                 へぇ〜
                 恵那と中津川ですか。


そもそも、その結びつきは、

鎌倉時代の初め(1185年)に源頼朝の重臣であった伊勢加藤氏の流れを汲む加藤次景廉(加藤次郎景廉)が当地方の地頭職を得たことが始まりです。

そして、景廉の息子の景朝がこの地に土着して、遠山氏を名のり始めたことが、遠山氏の由来です。

真偽は別として、ほぼ全国に散らばっている遠山さんはこの景廉の末裔とされている。


                 ココ

そして、遠山氏の家紋は、最初加藤氏の家紋である藤紋を使用していたようだが、
室町時代以降は足利幕府の奉公衆として活躍したことから足利氏の家紋である丸に二引き(両引き)紋に改め、現在に至っている。


                 なるほどね
                 この部分、面白いですね。




>墓地には、鈴木氏、加藤氏の墓が多かったです。
>家紋は、両者とも「下り藤」で、親戚関係にあると推察されました。

                 元々の家紋の「下り藤」なのかもですね。




>永井家の墓も一つあり、家紋は「一文字三星(一の下に三つ〇)」でありました。
>斎藤系の永井氏かなと推察いたしました。

                 でしょうね。


>「服部家」の墓を三つ程見つけました。家紋は「丸に蔦」でありました。

この「蔦紋使用の服部さん」は  源氏系  ですってよ。


                 へぇ〜
                 美濃の源氏系の服部氏は蔦紋ですか。
                 驚き


                 どういう経緯なのでしょうね。

                 源氏系ですとしたら、
                       (1)宗清関係で、頼朝に仕えて源氏に鞍替えしたのかしら?
                       (2)光秀関係の服部氏が伊賀との関係を断つために
                          姓を源氏に変え家紋を「蔦」に替えたのでしょうか?

                       (3)でも姓は勝手に変えてはいけないので南朝方=後醍醐源氏ということなのかしら?



>ここで私は般若心経を二巻唱え捧げました――

わたくしの分もありがとうございました。
戦国時代に生きた人々にエールを送りたい気分になっています。
[53]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月11日 23時59分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、芝刈りに行った疲れで集中力が戻りません。

 明日は、「浪合」に行ってみます!
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月12日 02時30分34秒 ) パスワード

三つ柏さん

浪合村
わたくしも期待しています。

南朝方の皆さんが討ち死にした所ですから
悲しくなります。

浪合神社(尹良親王墓)



この辺りに南朝方のご子孫がまだいらっしゃると良いですね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AA%E5%90%88%E6%9D%91

浪合村役場

所在地
〒395-0501
長野県下伊那郡浪合村1018番地


座標
北緯35度22分26.5秒
東経137度41分25.7秒


浪合宿
浪合村(なみあいむら)は、長野県下伊那郡の西南部に位置し、岐阜県に接した村。

2006年(平成18年)1月1日、阿智村に編入合併された。


地理[編集]

四方を1,000m級の山々に囲まれた谷間の村である。村内を三州街道(国道153号)が縦貫している交通の要衝で、江戸時代には関所が置かれていた。


村の南部、平谷村との村境にある治部坂峠(じぶざかとうげ)の周辺は古くから観光地化されており、中京圏からの観光客が多い。


山:大川入山、蛇峠山、横岳
河川:和知野川、大川入川、治部坂川、恩田川


隣接していた自治体[編集]
長野県 下伊那郡:阿南町、阿智村、下條村、平谷村
岐阜県 中津川市


歴史[編集]
天野源蔵の『浪合記』によると、
室町時代の元中2年/至徳2年12月朔日(1385年1月)[1]に、尹良親王(南北朝時代の後醍醐天皇の孫、宗良親王の皇子)が、
三河国を目指すために世良田政義・親季・義秋・政親(世良田氏一族)ら新田氏の残党とともにこの地で戦死したとする(浪合の合戦)[2]。


沿革[編集]
1934年(昭和9年)4月1日 - 波合村が分割され、大字浪合の区域をもって発足(残部の大字平谷には平谷村が発足)。
2006年(平成18年)1月1日 - 阿智村に編入。同日浪合村廃止。


交通[編集]

道路[編集]
一般国道 国道153号(三州街道)

都道府県道 長野県道243号深沢阿南線


名所・旧跡・観光スポット[編集]
治部坂峠
浪合関所跡
浪合神社(尹良親王墓)
あららぎ高原スキー場
治部坂高原スキー場
[55]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月13日 11時27分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 全米プロゴルフ選手権で、熾烈な優勝争い、松山英樹から目が離せま
せん。テレビ中継が、早朝3時から4日間連続というのがつらくも期待
の膨らむ毎日です。

 昨日は、盆のための帰省客が多く、高速でも一般道でも混み合いまし
た。事故も多く、私も帰りには一般道の事故渋滞に巻き込まれました。
 
 「浪合」になぜ今まで行かなかったのかというと、南朝関係にそれほ
ど興味がなかったこと、それは情報も少なくよくわからなかったことが
原因しておりました。しかしながら、源平時代と戦国時代を探求してい
くと、南北朝時代というものが、その間の「フィルター」、あるいは
「つなぎ」のようなものとなって横たわっていることがわかりました。
 少なくとも、戦国時代の徳川家康を理解するためには、特に「南朝」
を理解する必要があると強く思うようになりました。
 「おんな城主 直虎」の井伊家の背景も、後醍醐天皇・宗良親王とも
ろに関わっておりますし、家康の祖先も新田・世良田氏と関わっている。
 南朝という「つなぎ」で徳川方が形成された、あるいは「南朝」とい
う「切り札」を持っている者に、南朝系シンパシィによる求心力が働い
たと言っても過言ではないか……その点について、探究する必要がある
と思いました。

 浪合までは、家から約120q、時間(車使用)にして約2時間半。決
して遠い所ではない。ただ151号線やその他の下道はクネクネとカー
ブも多く、またすれ違いのできない山道もあるので、高速道路以上に疲
れる。

 今回は、三遠南信高速道(現在は無料)を通って155号線に出て北上
し、阿南町新野の千石平の「道の駅」で休憩、そこから418号線を通
って平谷まで行き、後は153号線一本で浪合に到達いたしました。

 この間の千石平からはずっと上りが続き、およそ標高600mから標高
1200mまで間断なく上り続けました。それはちょうど高野山に車で
上るのと同じような感覚でありました。浪合というのは、何と高い所に
あるのか!というのが、まず一番の印象でした。正確には治部坂あたり
から200m位は下りましたので、標高1000m位、の所に浪合はあ
りましたのでございます――

 
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月14日 02時45分22秒 ) パスワード

三つ柏さん

大変な道でしたね。
事故渋滞はとにかく疲れますね、無駄に。

すれ違えない山道は恐ろしいですね。
今後もお気を付けください。


    大河原に宗良親王の御在所があった記憶です。
    山のてっぺんの小さな小屋のようなところにお住まいだったような記憶です。
    機会があればこちらへもどうぞ。



浪合村
本当にすごい所だったのですねぇ。

でも南信濃・諏訪衆の案内で結構秘密の抜け道なんぞがあったのかもですね。
            土地勘無いので「南信濃・諏訪衆」とごまかしました。てへっ

                 やはり土地の者を味方に付けるというのは肝心要だったのでしょうね。



戦国時代には「南朝方」つながりが大きな味方パワーだったのでしょうね。
特に南朝方は負けた方ですから、敗者復活を賭けて。



尹良親王(いずよし・ゆきよし親王)は母上が井伊家の姫ですから
遠江の人にはまた思いが違うのでしょうね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E7%B9%94%E7%A5%9E%E7%A4%BE

服織神社(はたおりじんじゃ、はとりじんじゃ)

服織神社 (浜松市) - 静岡県浜松市にある神社

↕      この2つの神社は関係がありそうですね。
                                    
服織神社 (豊川市) - 愛知県豊川市にある神社
服織神社 - 愛知県一宮市にある真清田神社の摂社(服織神社 - 愛知県一宮市にある真清田神社の摂社・・・津島神社=大橋家の親戚の蜂須賀小六の妻の家)
服織神社 (鈴鹿市) - 三重県鈴鹿市にある神社(うちの家とつながりが深そうです)


この関係を見てますと
やはり南朝方つながり?
と想像します。


ということは  三つ柏さんのお家はもともとが古代の服織神社系で  南朝方にかんけいしてたのかもですね。

明らかな証拠が出て来ると良いですね。
まだまだ  想像のレベル  なのが残念です。

なかなか  検証  にはたどり着かないですね。
[57]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月14日 02時48分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『浪合記』は偽作であるといううわさがあり、『浪合記』を読んでも何か
半信半疑のところがありました。今回の浪合行きは、そんな疑念を払拭でき
るかどうかの検証でもありました。

 今回、事前に調べた見学地としては、「浪合神社・尹良親王墓」でありま
した。その他にも、阿智村浪合支所図書館にも行って、南朝関係の資料があ
るかどうか調べてみようと考えておりました。

 ナビには、「浪合神社」が入っておりましたので、一路まっすぐにそこへ
着くようセットいたしました。浪合に着いてから、細い道が多くなりました。
過去の経験から、山道の一車線道は、先がどうなっているのかわからないの
で気をつけろと自分に言い聞かせ、案内看板が出ていても、細い道には用心
して踏み込まず、まずは車の駐車スペースを探し、歩いて行く方針を貫きま
した。村の中を一周すると、浪合神社の正面入口があり、駐車スペースもあ
りましたので、そこに車を止めることにしました。
 大きな鳥居があり、階段が一直線に上に向かっておりました。
 脇に看板があり、そこにはこう書かれておりました――
 「浪合神社
  この正面約六百メートル上ったところに浪合神社があります。
  ご祭神は、後醍醐天皇の皇子宗良親王第二皇子尹良(ゆきよし)親王です。
 御母は井伊城(現静岡県引佐町)城主井伊介(いいのすけ)道政の娘です。
  親王は南北朝(1336〜1392)動乱の時代、南朝勢力の挽回に奔走されまし
 たが、応永三十一年(1424)八月上野(こうずけ)国(今の群馬県)から三河国
 に赴くためこの地にさしかかった時、北朝方の土賊に襲われ戦死したと伝
 えられています。
  神社手前左側の丘には、親王の御首を埋め奉ったといわれる宮内庁管轄
 の御墓があります。神社は今から約三百二十年前延宝年間に造営されたも
 のと推察されます。境内には老杉巨樹を擁して神殿拝殿をはじめ、明治天
 皇の勅使として派遣された藤原公業(きんなり)卿の勅使参向の碑などが、
 また付近には親王と共に戦死した新田一族を葬った陪塚(宮内庁管轄で三
 箇所)、日本剣道の始祖といわれる慈念の長福寺、墓(通称「念墓」)、公
 園があります。
  例祭は四月二十四日と十月二十四日春秋二回で応永甲辰囃、念流太鼓な
 どの伝統芸能が賑やかに繰り広げられ、村をあげての年中行事となってい
 ます。
                         平成四年三月
                         阿智村教育委員会」

 そして、私は五十メートルは続く登り階段を上り始めました――
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月14日 02時59分02秒 ) パスワード

>大河原に宗良親王の御在所(御所平)


http://sky.geocities.jp/hachan48/muneyoshiOgawara.htm

宗良の性格は護良とは対照的である。

元弘の変に際して幕府の役人に捕えられ、訊問のときに「涕泣」したとある。
しかし、戦陣にあって女々しさは消え、武人としての風格も備えていく。

宗良をして戦陣に向かわせたものはなんだったのだろうか。

おそらく父後醍醐の遺命と無関係ではあるまい。
後醍醐天皇の皇子達の多くは短命で、しかも志半ばで倒れているが宗良は80歳近くまで生きている。

後醍醐の遺命が宗良の行動を50年以上も規定し続けたことになる。

征夷大将軍まで務めた宗良親王の墓所が、はっきりしない。


最近では京都醍醐寺の「三宝院文書」から発見された「大草の宮の御歌」という文書に依拠して、信濃の国大河原とする説が有力となっている。

宮内庁が認めた墓所は、静岡県引佐郡引佐町の井伊谷宮が指定されている。


30年近くを過ごした大河原の住居は山の奥深く、現在でも訪れる人はまれである。


このような場所に皇族がいて時に鎌倉を制圧したことは驚きに値する。
そして、ひっそりと亡くなった。


昭和に入って長谷村に新たな墓所が発見されたが、こちらは村人の近づくことを禁じた禁忌の場所であった。

                           ということは、これが本当の墓所?


分杭峠という名は、その昔、高遠藩が領地の境に杭を打って境界を分けたことに由来する。
分杭峠のある国道152号線は、かつて秋葉街道と呼ばれ、秋葉神社へと通じ、多くの参拝客が通行していた。 


また、南北朝時代に、大鹿に身を寄せていた後醍醐天皇の皇子である南朝の宗良親王や息子の尹良親王も利用していた。

この峠の真下を中央構造線が通過しており、最近は気を発する特殊な場所として訪れる人も多い。    


                             パワースポットですか。


親王は越中の軍を率いること3年に及んだが、退勢を挽回することができず、興国4年の秋頃、越中から信濃に移り住んだと思われる。


南朝の有力武将である新田氏は、信濃と関係の深い北条時行、諏訪頼織などと諮って香坂高宗の支配する大河原に住むことを勧めたと思われる。

伊那谷は四方に険峻な山脈を持ち、その中央には肥沃な平らがあるので落ち武者が隠れるには最適の環境にある。   


この谷を川伝いに北へ行くと分杭峠を下り市ノ瀬・高遠を経て杖突・金沢・入笠の峠を経て諏訪に抜け、大門峠から佐久に至ることが出来る。


南は青木の谷を通って地蔵峠を越え、遠山谷を通って青くずれ峠より遠州に達する。
信濃に点在する南朝勢力を統括するのに大変都合のよい場所であった。

香坂氏は、建武の時代、小笠原、村上、高梨等と戦った滋野誌の分流で、大河原、鹿塩、大草等を領していた。

香坂高宗の居館であった大河原城は、小渋川の断崖絶壁に立つ城で、北には堀を巡らしていた。

昔のこのような山中、今でも立派な山中であるが、立派な邸宅など建てようもなく、さしあたってささやかな庵を作り親王の御在所とした。                
    
             かりのやと かこふばかりの 呉竹を ありしそのとや うぐいすのなく


親王にとって初めての寒村住まいであったが、その生活を楽しみ、歌の糧としていたようにも思われる。

               画像に見る花の数々が美しいですね。


それでなければ30年もの長きにわたり、配流先よりもまだ不便とも思われる場所に住み、たまに吉野を訪れることはあっても再び返り信濃や越中の軍を指揮することはなかったのではないだろうか。
香坂高宗の赤忠があったにしても・・・・・ 。                                    



釜沢にある宇佐八幡社は、応神天皇、尹良親王を主神として祭っている。

神社のすぐ下の寺屋敷は尹良親王の菩提所大龍寺の跡と伝えられその一隅にある釈迦堂内にはもと寺屋敷にあった長谷庵の本尊と伝える木造の仏像が安置してある。

八幡社西方の丘の上にある経塚は戦没者供養のために宗良親王がてづから1字1石を写して埋めたところだと伝えられている。     


宗良親王は最初大河原城のあたりに住んだようであるが、香坂高宗は万が一の場合に備え内の倉をご閑居の場所とした。

御所平から北に上ること12,3町、豊口山の麓を流れる寺沢側の崖上に親王が行法を行った長谷庵の跡、寺屋敷がある。

寺屋敷から越路を越えて北の谷に下りると鹿塩に出ることができる。御所平は山奥ではあるが、たいへん暖かい場所で大河原に降った雪も一番早く解けるという。


               美しいサイトでした。
               感謝
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月14日 03時08分36秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B


宗良親王(むねよししんのう、むねながしんのう、1311年(応長元年) - 1385年9月14日(元中2年/至徳2年8月10日)? )

鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。

後醍醐天皇の皇子。母は二条為子。一品中務卿。同母兄弟に尊良親王、異母兄弟に護良親王、懐良親王、義良親王(後村上天皇)など。

信濃の宮、大草の宮、幸坂の宮(庇護者となった香坂氏に由来)と呼ばれた。

法名は尊澄法親王。

名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。



1344年(興国5年/康永3年)に信濃国(長野県)伊那郡の豪族香坂高宗(滋野氏支流望月氏の一族)に招かれ、大河原(現・長野県大鹿村)に入った。

宗良はこの地を文中二年(1373年)までの約三十年間にわたり拠点とし、「信濃宮」と呼ばれるようになる。

その間に上野国や武蔵国(武蔵野合戦)にも出陣し、駿河国(静岡県)や甲斐国(山梨県)にも足を運んだことが『新葉和歌集』や私家集である『李花集』の内容から判明している。


拠点となった大河原は伊那谷に属し、南に下れば井伊谷(井伊氏)から東海地方へ、北上すると長谷(後述する終焉の地の一つ)を経由して諏訪(諏訪氏)や関東へと通じる位置にあり、別名「南朝の道」とも呼ばれる後の秋葉街道の中心に位置していた。そのため、劣勢が続く南朝方にとっては最重要拠点となり、各地で破れた南朝方の武士達(新田一門など)が逃げ込む事も多かった。



大河原の地でなおも信濃の宮方勢力再建を図ったと思われるが、1369年(応安2年/正平24年)には信濃守護を兼ねる関東管領上杉朝房の攻撃を受け、1374年(文中3年/応安7年)、ついに頽勢を挽回できぬまま36年ぶりに吉野に戻った。


この頃から南朝側歌人の和歌を集めた和歌集の編集を開始していたが、再び出家している。

宗良の編集していた和歌集は当初は私的なものであったが、長慶天皇は勅撰集に准ずるように命じた。
1381年(弘和元年/永徳元年)に完成した『新葉和歌集』である。


終焉場所については、

1550年(天文19年)に作成された京都醍醐寺所蔵の「大草の宮の御哥」と題された古文書の記述から、長らく拠点であった信濃国大河原で薨去したとする説が有力とされている(東京大学史料編纂所が醍醐寺文書から抜粋した「三宝院文書」)。


一方、「南山巡狩録」や「南朝紹運録」では、1385年(元中2年/至徳2年)に遠江国井伊城で薨去したと記されている。


また1940年(昭和15年)に長野県常福寺にある宗良親王尊像の胎内から発見された文書から、1385年に大河原から諏訪に向かう途中の峠道で討ち死したとする入野谷郷(旧長谷村)説がある。

入野谷では、明治の中頃に十六弁菊花の紋章と宗良親王の法名である尊澄法親王の文字が刻まれた無縫塔が発見されており、胎内文書はかつてこの地にあった天台宗の古刹大徳王寺の住職尊仁が江戸時代に書き残したものされている。


その他に浪合説(子の尹良親王終焉の地)、


河内山田説、


美濃国坂下(現・岐阜県中津川市)説、


さらには越後や


越中で薨去したとの諸説がある。


長野県大鹿村大河原釜沢にある宝篋印塔は宗良の墓と伝えられており、
静岡県の井伊谷宮も宗良親王を祀っており、墳墓が残されている。
また美濃国恵那郡高山(現・岐阜県中津川市)にも墓がある。



宗良親王の皇子としては興良親王と尹良親王がいたとされ、

興良親王は『新葉和歌集』でその夭折が詠まれているが、興良親王は護良親王の子で後醍醐天皇皇孫ともされており矛盾がある。


尹良親王についても歴史学の立場からは実在を疑問視する意見が多いが、南朝方として父の後を継いで各地を転戦、源氏姓を賜る(後醍醐源氏の祖)と共に征夷大将軍に任じられたと伝えられる。

その末裔を称する大橋氏が、北畠顕家を奉る霊山神社(社格:明治天皇選定による別格官幣社:建武中興十五社の1つ)の氏子総代となっている。


後醍醐源氏:
建武中興を成し遂げた後醍醐天皇の孫尹良親王が至徳3年(1386年)に源朝臣姓を賜るに始まる。


氷室氏:
尹良親王の孫が尾張国の津島で社家に入って神職として系を伝えたとしている。
大橋氏:女系で末裔を称す。


        大橋家の姫君が蜂須賀家に嫁入り。
        小六は側室の生んだ男子の子供。
        小六の妻が真清田神社系。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月14日 15時01分22秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101603.html
スレッド95をご用意致しました。

キリの良いところでどうぞ。
[61]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月14日 17時47分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 浪合神社の階段を300段位(推測)上った所に広場があり、その奥に又
鳥居が建っている。広場の中央あたりに「一心流 鎖鎌術発祥之聖地」と
彫られた大きな石碑(丸石)が建てられておりました。どういう訳であるか
は返ってから調べようと思いました。

 奥の鳥居の右側にも、後方の看板とほぼ同じ説明書きが記されておりま
した。左側にはこの辺の地図と史跡の案内が写真画像付きで示されており
ました。
 それによると――
 「浪合宮の原には、後醍醐天皇の孫で南朝の再興に尽くし、この地で戦
 死した尹良親王の伝説が残る。また、剣道諸流の祖である念流を編み出
 した慈念和尚の伝説も残る。それらに関連した史跡・文化財が点在して
 おり、宮の原一帯を”認定地域資源浪合宮の原歴史の里”とした。
  @浪合神社
  A浪合神社の参道並木
  B念流山
  C青山神社
  D長福寺址     」

 とりあえずは、浪合神社が直ぐ上でありましたので、そこを目指し、更
に階段を上りました――
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月15日 02時54分17秒 ) パスワード

三つ柏さん

階段が300段!
鳳来寺には負けるけど、すごい!

さらに階段がありましたか。


>C青山神社

これはどういう「青山」でしょうね?



>鎖鎌術

これから連想するのは伊賀国の宍戸梅軒夫婦ですね。関ケ原より後の時代ですが。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8D%E6%88%B8%E6%A2%85%E8%BB%92
コピペ


宍戸 梅軒(ししど ばいけん)

剣豪・宮本武蔵の伝記『二天記』に登場する伊賀国の鎖鎌の使い手「宍戸某」なる人物を元に、吉川英治が小説『宮本武蔵』において脚色・創作した登場人物である。

小説では「宍戸八重垣流」という流派を自ら編み出した鎖鎌の達人で、慶長10年(1605年)に宮本武蔵と決闘を演じた。


宍戸梅軒はいわゆる求道的「武芸者」としては描かれておらず、野武士集団の頭目であり、武芸というよりは殺傷術の一つとして自らの鎖鎌の技を鍛錬している。いまだ道としての「剣」に目覚めていない、荒くれ者の痕跡を残した小説前半の新免武蔵にとって、いわば「自らに近しい何者か」として現れる敵であり、その成長過程において乗り越えられるべき壁として描かれた、と言って良いだろう。


「宍戸梅軒」の名前については、福島県で活動した実在の俳人である宍戸梅軒から取ったと考えられる。大正の初め、本格的に作家活動を開始する以前の吉川と、この宍戸梅軒が山梨県の旅先で知り合い、意気投合して深夜まで語り合ったという逸話が伝わっている。
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月16日 05時22分39秒 ) パスワード

AKECHIさん

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101603_6.html
次のスレッドの<4>に三つ柏さんがお書きです。


>柘植といえば平宗清。三人の子供は、それぞれ柘植、福地、北村を名乗っています。

AKECHIさんのおっしゃる  柘植と北村(喜多村)の関係。
光秀の忘れ形見の北村(喜多村)氏のことかもですね。

この北村氏はひょっとすると  平知盛さまの次男の知忠の関係者が「北」姓あらため「北村・喜多村」を名乗ったのかも  知れないですね。
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